生前退位論議から天皇制廃止への道筋を考える

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3月2日に衆参両院の正副議長が各党派代表者の会議を開催し生前退位の合意をとりつけ、生前退位否定の選択肢がまず消えた。生前退位について有識者会議や政党間でも議論は三分されており、そもその生前退位を認めるべきではないという主張が極右派の立場で、共産党や社民党は、象徴天皇制の是非問題を棚上げにして天皇制存続を前提に皇室典範の改正で対処すべきだとの見解であり、与党の特別法対応はその中間に位置するといえる。(井田敦彦「天皇の退位をめぐる主な議論『調査と情報』943号、国立国会図書館、20172月)今後は、天皇の意向を汲み、生前退位を前提として、憲法、皇室典範などの法解釈問題も含めて、生前退位を合法化する法的な手続き論に焦点が絞られたということになる。

生前退位をめぐる議論は、天皇制の持続可能性を確保するための最適な統治機構の再設計問題でしかない。天皇制に反対する立場からすると、退位をめぐるこの間の問題は、メディアも議会もアカデミズムも法曹界も、そもそも天皇制の是非という課題を最初から問題設定の前提から排除することを自明の理として、天皇制ありきの議論に何らの疑問も抱いていない点に最大の問題がある。これは、将来の社会構想を大胆かつ想像/創造的に構築する意欲そのものの衰退をも意味しており、極めて深刻な思想的な枯渇状況にある。

戦争法反対運動のなかでしきりに口にされるようになった「立憲主義」の議論のなかでも、立憲主義が立憲君主制と両立するのかという根本問題には関心が寄せられていない。天皇廃位から廃止へという選択肢の不在を象徴しているのが、議会内左翼の生前退位問題への認識である。共産党は、210日に国会内で天皇退位問題について検討会を開催し、小池晃書記局長が「天皇の退位については、政治の責任で真剣な対応が必要だ。一人の人がどんなに高齢になっても仕事を続けなければならないという今のあり方を、個人の尊厳という憲法の根本精神に照らして見直すべきだ」と述べた(『赤旗』201734日)。また、社民党は215日に「見解」を発表し、その中で「人間が人間として有する天賦人権は、天皇『個人』に対しても、当然保障されるはずである。しかし、天皇という地位やその地位が世襲であるとされていることによって様々な人権が制約され、天皇『個人』に過度の負担が一生負わされているが、『退位の自由』がない限り、これを正当化することはできない。憲法の基本原則の制約は必要最小限にすべきであって、天皇の人権という観点から、退位を認めるべきである。」と述べている。いずれも戦後憲法の基本理念である個人としての人権に照らして退位への態度を表明したものだ。象徴天皇制が憲法の基本的人権の理念に抵触することを軽視し、象徴天皇制は旧憲法の天皇制に比べればまだマシで政治的な実権を担わない天皇にさしたる問題を見い出していないからではないか。

憲法前文と天皇条項の矛盾

憲法前文は「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くもの」と宣言するが、この人類普遍の原理からどのような論理で象徴天皇制が導き出されるのかを憲法は全く明示できていない。自民党改憲草案はこの齟齬を自覚し、前文を全面書き換えて天皇条項に整合性の軸を据えたといえる。

そもそも憲法には天皇とは何者なのかの定義すらなく、天皇を唐突に持ち出す論理構造上の亀裂があり、これは、天皇が日本においては自然法の実体と位置づけられているからだと解釈する以外にない。そうだとすれば、天皇条項は、前文の普遍原理(もうひとつの自然法)と両立することは絶対にありえないはずなのだ。しかも象徴が意味する具体的なことがらは国事行為とされるが、この国事行為が国民統合の意味内容を満たすものとはとうてい思えない。国民統合の意味内容に見合う役割を天皇に与えるとすると限りなく戦前の天皇に近い存在にならざるをえない。そうなれば、普遍的な人権原理とますます離反することになる。

この矛盾を抑え込む理屈として、憲法は、天皇の地位を前文の普遍原理ではなく「国民の総意」に根拠を持つという例外規定を設けてこれを正当化した。憲法には「総意」の定義がないこと、憲法制定時に裕仁の天皇としての地位について「国民の総意」によって確認されていないし明仁の場合も同様であることは、これまでも問題視されてきた。総意確認の手続きがとられないのは、「国民」であれば例外なく天皇の地位を認めるのは当然のことだという前提があるからだろう。この天皇当然視が天皇を自然法の枠に含める発想にもなるが、これは、憲法が国民の総意によって天皇の地位を確認すべきだということを要求しているという解釈とは真逆に、国民であるならば当然天皇制を承認すべきであるという「国民」への天皇制肯定を自明のこととして強制する根拠として用いられる危険性のある文言でもある。このことは、特に、外国籍の人たちが日本国籍をとり「国民」となることを選択するときに、天皇制を承認する「国民の総意」に含まれる一人となることを強要する根拠として転用されうるもので、自民党改憲草案などはこうした解釈を持ち込んでいるといえる。

世襲と「総意」の矛盾

「国民の総意」は、天皇の象徴としての「地位」に対するものであって、2条の世襲制との関係は明確ではない。むしろ世襲と「国民の総意」による根拠づけとの間には矛盾があって必ずしも両立するとはいえない。常識でいえば、天皇の地位についた者がその地位にふさわしいかどうかを「国民の総意」によってその都度確認することを憲法は求めていると解釈すべきだろう。そうでなければ、初代が国民の総意で即位したとして、そのあと自動的に世襲で継承され、永遠に「国民の総意」の確認は不要だということになる。これでは天皇の地位が「国民の総意」に基くことが確認されたとはとうて言えない。戦後の象徴天皇制は、国民の総意による確認を当初から怠ったままなので論外の違憲状態である。そもそも君主制だからといって世襲が必須なわけではなく、総意が得られなければ世襲されないうことになり、2条の世襲規定と反することになるが、2条は大統領制のように立候補による選挙という制度ではなく、皇位継承の候補者を世襲原則とするという規定だと解釈すべきで、このことも踏まえて、天皇の代替わりの都度国民の総意を確認する手続きをとるのが筋だ。

総意を確認する法制度を置くということは、逆に総意に基づく廃位の可能性を排除できないことも意味する。廃位の可能性が手続的に明確になるということは、天皇制の廃止、即ち1条から8条を削除する改憲を正当化する一つの道筋をつけることになる。天皇条項の廃止は、憲法前文の普遍原理には一切抵触しないので改憲の範囲内だ。護憲派は、退位問題が議論されるなかでも、皇位継承に関して憲法が要請している「国民の総意」による確認問題すら持ち出していない。これで「護憲」とはとうてい呼べないだろう。私たちが天皇制を廃止するという場合、この国に暮す人々(国籍は問わない)の総意として天皇制を選択しないということの合意をとるということであり、その具体的な道筋のひとつとして、「国民の総意」問題は議論されてよい問題だと思う。(注:廃位とは「強要して君主をその位から去らせること」『大辞泉』の意味で用いている)

「国民」概念と普遍的人権の理念との矛盾

象徴天皇制が憲法の人権規定と整合しないという議論はこれまでも繰り返されてきたが、大方の議論は、女性天皇論議に端的に示されているように、象徴天皇制の存続を前提として、いかにして人権条項と整合させられるかが中心の課題とみなされてきた。憲法の人権概念が素直に適用された統治機構であるならば、例外となる天皇のような存在を認めないとするのが筋が通っているハズだ。大方のリベラルな憲法学者も含めて、このことは承知の上で、現行憲法に規定されている天皇条項を憲法体系のなかで辻褄を合わせようとする。この無理が無理だとは思われなくなる思考が、合理的な思考を旨とすべきアカデミズムや立法府の政治家たちの無意識を支配するようになる。

この不合理性の問題は日本だけでなく立憲君主制を採用するどこの国にもあてはまる矛盾だという面からすると、問題の根は深く、近代国民国家そのものの統治体制の本質に、合理性を超越した統合の要素を要求せざるを得ないものが内在しているとみるべきかもしれない。近代国民国家は、「国民主権」と基本的人権を「人類普遍の原理」とすることによって、普遍的な価値を「国民」という限定された人間のカテゴリーにのみ認めるという差別と排除を正当化する構造をもっている。「国民」を英語版憲法に忠実に人民と訳したとしても国民あるいは人民の定義を国籍法に委ねるわけだから、国籍の有無によって普遍的な人権を享受できる者とそうでない者を峻別するということになる。天皇は聖別されて、ある種の特権を例外的に与えられるとすると、天皇以外の国籍を与えられない人たちは、この国に暮しながら「人類普遍の原理」の適用外として憲法の保障の埒外に置かれることになる。人類普遍の原理は人類であれば誰であれ平等に適用されるべきであるにもかかわらず国籍によって明確な差別が持ち込まれる。近代の「人類普遍の原理」は、同時に差別と排除に支えられてもいること、この意味である種の欺瞞を免れず、これがまた西欧近代への懐疑に基づく「日本固有の文化」というもうひとつの欺瞞を生み出してきた歴史にむしろ注目すべき時だろう。

こうした文脈のなかで、「国民」のカテゴリーから除される人たちの存在によって、国民国家の主体(主権者=国民)の側に自負心が生み出され、人類の普遍的な価値を享受することを許された者が共通して抱く感情が生成される。この感情がナショナリズムである。立憲君主制の場合、この「国民」に与えられた普遍的な価値が君主を媒介として一体性(統合)を獲得するような仕組みになっている。象徴天皇制が戦後憲法の理念と抵触する重大問題だという認識が定着しなかった理由も、この国民国家のレトリックの罠にあるのかもしれない。歴史的一体性のイデオロギー機能を天皇の象徴機能に見出すのは間違いだとする憲法解釈が通説となって、象徴の政治=文化的機能を軽視した楽観論が支配し、その結果、天皇制の根拠や是非を問わずに、そこに有ることそれ自体を「自然」な存在として前提する支配層の発想を許してしまった。このような、ぜ天皇制が必要なのかという根本問題を問わない思考方法が生前退位問題でも如実に現われたといえる。この意味で国民国家という枠組それ自体が、本質的に抱える問題性の特殊日本的な現われが天皇制なのだといえる。

人類普遍の原理が国の数だけあるということ自体が近代国民国家の普遍主義の矛盾である。にもかかわらず、逆に国民国家を普遍的な原理の体現者だという奇妙な感情を全ての国の「国民」がそれぞれ別々に抱き、これが作用して、至高の原理を標榜する国家が相互に殺戮を繰り返してきたのが近代の歴史だ。この意味で憲法そのものには深刻な非人間性が内在している。この意味で国民国家も憲法も統治の原理として肯定的に前提すべきではなく、統治の制度設計を土台から再構想する想像/創造力こそが問われている。すくなくとも日本の近代の歴史の教訓とはこのようなものであるべきだろうと思う。生前退位の議論を再度この水準で論じ直し天皇制廃止を国民国家の廃棄という卓袱台返しに繋げないと、新しい社会への希望は生み出せないと思う。(『反天皇制運動Alert』9号、2017年3月から一部修正の上転載)

4月8日(土)五輪災害と共謀罪

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オリンピック災害おことわリンク連続講座(第1回)

講師 小倉利丸さん

・4月8日(土)18:00〜21:00
・会場 文京区民センター2A
・資料代 500円

いったん廃案になった共謀罪が今国会成立の危機にあります。安倍首相は、共謀罪の成立なしにはオリンピックも開けないと強調し、共謀罪成立に異常な 意欲を表明しています。共謀罪は、話し合いを犯罪化し、会議や集会、通信などを監視して取り締まりを可能にする法律です。政府はテロ対策を口実に、共謀罪 をオリンピック反対などの運動の抑え込みに利用しようとしています。

私たちは、オリンピックを政治が人為的にもたらす災害であると捉えて、反対してきました。私たちのアクションだけでなく、沖縄の反基地運動、反原発 運動など様々な異議申し立ての運動は、憲法が権利としてわたしたちに与えている言論・表現の自由、思想信条の自由に基づいた運動です。共謀罪はこうした運 動を、思想信条のレベルで根こそぎにし、政府批判そのものを犯罪化する法案となる危険性があり、反対運動も急速に拡がりつつあります。

おことわりリンク第一回講座は、この現状を踏まえ、オリンピックと共謀罪をテーマに、講師に小倉利丸さんを招いて開催します。オリンピックの様々な問題とも関連させつつ、共謀罪の問題点を、オリンピックも共謀罪もいらないという視点から話をしていただきます。

◆ 今後の予定

第二回目は「神宮再開発の現場を歩いて考える」(5月27日13:00〜、案内人はアツミマサズミさん)です。事前にお申し込みください。

以降の講座は、障害者差別を助長するパラリンピック(北村小夜さん、7月上旬)、オリンピックはスポーツをダメにする!?(10月)、ナショナルイベントと東京五輪(12月)、3・11と東京五輪(3月)を予定しています。

◆ 東京オリンピックおことわリンク
http://www.2020okotowa.link/
info(a)2020okotowa.link

共謀罪と「道義刑法」の亡霊

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以前、述べたように、共謀罪は、現行刑法の基本的な枠組みを根底から覆し、自民党改憲草案に対応した国家による犯罪と刑罰の体制を構築する試みの一環として位置づけなければならないから、問題は、憲法を含むこの国の統治の基本を根底から覆す可能性をもつものだ。

戦後憲法は戦前の憲法と比べて基本的人権の保障を大幅に拡張したことが最大の特徴の一つだと言われてきた。憲法は前文で「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保」することを宣言し、第三章はまず個人の自由を権利として保障することをとりあけ強調した戦後憲法の理念は、国家権力が個人の自由に干渉・介入してはならないということを戦前の憲法との大きな差異として打ち出したことを意味した。戦後の憲法が大幅な人権保障を国家に命ずるものであるなら、同時に刑法の基本的な考え方も根本から改訂されなければならないように思う、現実にはそうはならなかった。

刑法は、戦前と戦後を通底するこの国の近代国民国家としての権力とイデオロギー、あるいは秩序と支配における一貫した国家観を読み取ることができる。明治期に成立した刑法は、現在まで、資本主義的な国民国家としての一貫性を保つために、明文をもっていかなる行為が「罪」であり、国家はどのような刑罰権を行使できるのかを示す機能を担い続けており、その基本的な枠組は、戦前と戦後の間で変更はない。共謀罪に限らず、刑法に関わる立法問題ではこの刑法の来歴を念頭に置く必要があるように思うので、以下はこの点についてのメモである。

●権利の剥奪としての刑罰

自由の権利は、民主主義を標榜する近代国民国家に共通する建前の権利として重視されてきた。したがって、国家による刑罰は、国家の強制力をもって個人の自由に例外的に干渉し抑圧することを合法とする異例の権力行使だということになる。人権は奪うことのできない人間の生得の権利ともされるが、犯罪者に対してはこの権利を奪ってもよいという意味においても例外的な措置である。犯罪と刑罰の権力を国家に付与するのは、人間としての扱いに区別を設けることを正当化する抜け道にもなっている。

一方で普遍的な人権を、他方で国家による権利剥奪を、ともに法の名の下に正当化するのは、憲法が抱える大きな矛盾だ。日本国憲法でいえば、10条から29条までの権利条項と「法律の定める手続」があれば権利は剥奪できるとする31条との間には本質的な矛盾がある。この矛盾を問題化することが必要であり、このことは刑事司法の制度、刑法と刑事訴訟法のそもそもの正統性を問い直すということである。言い換えれば、近代国民国家の体制は、その理念通りに、人権の普遍性を体現する統治機構なのだろうか。刑罰は人権を剥奪するに足るほどの普遍的な暴力なのだということはこれまで証明されたことがあっただろうか。

犯罪を新たに追加する立法は、どのような場合であれ、これまで犯罪とされていなかった行為を犯罪化する。共謀罪の場合は、彼/彼女の行為ではなく意思を新たに犯罪とし、この意思に対して刑罰が課され、自由を剥奪され苦痛を与えられることを意味する。共謀罪で有罪とされて投獄される場合、彼/彼女に与えられる刑罰の意味は何なのだろうか、いかなる効果を期待して刑罰を課すのだろうか。共謀を犯罪化するという問題は、共謀罪に対する刑罰とは何を意味するものなのかをも問うという問題であることを忘れてはならない。

●戦前を継受する戦後刑法思想?──小野清一郎の道義と刑法

現在の刑法は、大逆罪や不敬罪などいわゆる「皇室への罪」を除いて、基本的に戦前のままに残された。言い換えれば、戦後民主主義は、国家による刑事司法が基本的人権を侵害する危険性について、刑法に立ち返って検証することを怠った。いや怠るどころか、戦後の刑法改正の動きをみると、むしろ戦前回帰を意図した流れが一貫して大きな影響力を持ち続けてきた。それはなぜなのだろうか。

刑法が外形的な行為だけでなく内面の意思を犯罪化し、道徳と一体化する傾向を最もはっきりと示したのは戦時期だ。たとえば日本法理研究会で刑法に関わり道義的刑法を主唱した小野清一郎もその一人ではないか。彼は、戦時期に、基本的人権の国家による侵害を積極的に肯定し、その学問的な裏付けを与えようとした刑法学者たちのひとりである。小野は戦後、公職追放が解かれた後に、東京第一弁護士会会長、法務省の特別顧問などを歴任した。そして戦時中の「刑法改正仮案」を引き継ぐものとして構想された戦後の刑法改正において刑法改正準備会会長も務め、学界でも法曹界でも大きな影響力を持ち続けた人物である。彼が戦前戦中に書いた論文などは、ファナティックな国体思想に関する著述を除いて、戦後も基本的な学術文献として評価され再版されてきた。【注1】

小野は、戦時期の国体思想を前提とした刑法思想の再構築を積極的に主導したが、その主要な場となったのが日本法理研究会であり、彼はその創立当初からの中心メンバーだった。この研究会の綱領は以下の通り。

「一、国体の本紀に則り、日本法の伝統理念を探求すると共に近代法理念の醇化を図り、以て日本法理の闡明並びにおの具現に寄与せんことを期す。
二、皇国の国是を体し、国防国家体制の一環としての法律体制の確立を図り、以て大東亜秩序の建設を推進し、魅延いて世界法律文化の展開に貢献すんことを期す。
三、法の道義性を審にして、日本法の本領を発揚し、以て法道一如の実を挙げんことを期す。」(日本法理研究会日本法理叢書第16輯より引用。(以下の【注2】参照)

小野は、この日本法理研究会の叢書の一冊として『日本法学の樹立──日本法理の自覚を提唱す』を出す。この中で小野は、「従来の法学は、或はフランス法学、或はドイツ法学であり、其の日本への移植受容が主であった」【注2】と批判し、「日本国家、日本民族の歴史的発展の中に内在するところの道理」として、自然法思想を否定する「日本法理」を提唱する。法と道徳についてはこれを分離し「法というものには外部的強制的軌範として僅かに手段的価値しか認めないのが普通の考え方」とした上で、従来の主張にたいして、「法と道徳とは共に道義の実現形態である。法は国家に於て実現されるが、しかしその法は道義に基くものであり、法そのものが道義なのである。法は道に基き、道はやがて法と為る。道義の国家的実現が即ち法である」とした。日本では法と道徳を一体のものとする長い伝統があり、この考え方は聖徳太子の「憲法17条」にまで遡る点を強調し、明治に西洋の実証主義的な法の概念が入ったために、憲法17条を法ではなく道徳と考えるようになったとし、こうした西洋流の法から道徳を排除する考え方を弊害とみて、道徳と法の一体化の回復を主張した。日本法理は「生きた国家の事理である、民族の生活に即した道義である。この故に民族的に規定されてをると考えざるを得ない」「正しい、正しくないという道義の意識は、我が民族精神の中に自ら内含されて居るのであって、その自覚を明らかにすることが、やがて日本法理を自覚する所以なのである」【注3】というのである。

小野は、日本法理の根本には「国体」があるとし、穂積八束と筧克彦と上杉愼吉らの国体についての憲法の議論を紹介しながら、明治維新を国体の自覚とし、国体と政体を区別して政体の変化に対して国体の普遍性を主張し、政体としての憲法を論じるべきではないとして上杉、筧らの議論を支持して次のように述べた。

「上杉愼吉博士が、飽くまでも国体論的立場に於て憲法学を構想されたことは、周知の通りである。上杉博士は国体の淵源を論じ、また国体の精華を論じて「日本国家こそは最高の具体的本質であると規定し、日本は神ながら一心同体の国柄であると言われていることを指摘しなければならない。天皇の御統治は皇祖天照大神と一体不二の立場に於てい給うのえあり而してそれが肇国の事実に淵源し、肇国の事実と離れざるものであることを筧博士は特に強調してをられるのである。」【注4】

この観点から大審院が憲法を引用して、治安維持法裁判で示した「国体」の定義、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ル」は十分ではないとする。大審院の解釈は形式的に過ぎず「国体の本義に徹したとは言い難い」のであって、天皇統治が「神ながらの御統治であるということに、最も大切な意味がある」とし「「かくの如くして、日本民族が天皇の御統治の下に於て一体と為り、国家的生命を道義的に展開して行くところに国体法理がある。」【注5】

しかし、「神ながらの統治」とは何なのかは、「日本国体の真髄」「日本民族の純正なる宗教的体験に於て自覚した、絶対的なるもの」「皇祖天照大神の和魂(にぎみたま)を本とする御稜威」「大御心の現われ」などと言い換えられているに過ぎず具体性はなく、実際の刑法典がどのように根本的な変更を被ることになるのかも曖昧なままで、1944年に全面改訂されたという『刑法講義』では、西洋の刑法学説を概説した後で、こうした刑法体系の内在的な批判というよりも、とってつけたように道義的刑法と刑罰が論じられている。

「日本刑法は日本国家的道義を根本とするものであり、天皇の御稜威の下に国民生活の道義的・法律的秩序を完うし、億兆の和を実現するものであらねばならぬと考える。犯罪はその国家的道義秩序に対する忍ぶべからざる侵害であり、刑罰はかかる行為を否定し、抑制せんがための権威的・権力的行動である。其は応報として犯人に苦痛を与えるものであるが、しかしそれによって国民一般をして客観的道義観念を意識せしむると同時に、亦特に犯人をして道義の厳粛性を知らしむるものである。(中略)其れは単なる犯罪予防の功利的手段ではない。勿論其は人倫的文化秩序の最小限度の要請としての保安を無視すべきではない。応報と予防とは日本刑法において二律背反ではなく、和の協同体的道義において止揚せらるべきものである。」【注6】

●道義刑法と戦後

小野はが戦後も戦時期の道義的刑法の主張を撤回も反省もしていないという発言を繰り返している。中山研一は小野の戦後について「戦前の到達点が戦後どのような変化をうけたのか必ずしも明かではない」としつつ「刑法教科書の戦後新訂版にも日本法理の自覚がそのまま援用され、日本的な国家的道義とそれにもとづく日本的刑事政策の推進が主張されているところからみると、むしろ基本思想に目立った変化はなかったといってもよい」と述べた。【注7】また、中山は次のようにも指摘している。

「(小野は)敗戦によって、日本社会が思想的、世界観的に今までの国家主義、全体主義的なものの優越から民主主義、自由主義、結局個人主義的なものの優越へち推移しつつあるとし、新憲法の制定実施が法のあらゆる領域において深刻な変化を必然的ならしめていることは認められている。しかし同時に、それにもかかわらず、歴史にはどんな飛躍があってもやはり連続したものであり、明治以来の、遠くは大宝養老以来の法律文化の意義は失なわえれてはならないとし、歴史的、文化的な実体的論理は、新憲法という一つの立法によって決定されてしまうようなものではないと結論づけられているのである」【注8】

白羽祐三はもっと端的に小野の言葉を引きながら戦時期との連続性について言及している。白羽が引用した小野の発言は以下のようだ。

「私を『侵略的』国家主義者と断定した公職追放の辞令には甚しく不満であった。私は未だかつて『侵略』を主張したことはない。国家主義者──ナショナリストという意味で、──であっても、それは日本民族の生存と文化とを強調する『文化的』国家主義である」(「三十年前の八月十五日と私」『法学セミナー』242号、1975年。
「『法律時報』の昭和19年1月号‐4月号の巻頭論文として私の『大東亜法秩序の基本構造』という論文が掲載されている。これは紛れもない事実である。そして、それが敗戦直後、マッカーサー総司令官の命令に基づく公職追放審査委員会によって、私が一切の公職からの追放を決定される主要要因となったのである。この論文は、切迫した当時の状況の下において書いたものであり、日本をはじめ、中華民国、当時の満州、フィリピン、タイ、ビルマなどの諸国代表(インド代表の立会)によって調印された『大東亜共同宣言』を根拠とする法理論なのであるから、私は当時も今も、国内法上、また国際法上、方法的な理論の発表であったと確信している」(「人間は永遠に危機的存在である」』法律時報『50巻13号、1978年)【注9】

小野のこのファナティックとすらいえる道義的刑法は、その極端な天皇主義イデオロギーの露出がとりわけ批判の対象になってきた面もあるが、むしろこうした特殊な国家観を抽象して国家、犯罪、刑罰の相互関係と行為主体となる「人間」をどのような関係で捉えているのかという観点から読みなおすことが彼の戦前戦後の継続性認識を理解する上で重要なことのように思う。

彼の基本的な刑法認識は、犯罪構成要件を違法性の類型化と道義的責任の類型化の双方を含むとする独創的な見解にあると評価されてきたが、こうした主張は1920年代に遡る。【注10】1932年の『刑法講義』第三章「行為者の道義的責任」では、犯罪の成立には、構成要件を満たす事実と行為の違法性だけでは「充分ではない」として「更に其の行為に付き行為者に道義的責任ある場合に於いてのみ之を罰すべきである」と述べ、道義的責任とは「反道徳的なる行為に付き其の行為者に対し道義的社会倫理的非難を帰することを得べきことを謂う」【注11】とした。違法性の判断は行為に対するものだが、「道義的責任はの判断は違法なる行為を行為者の人格に関係せしめて行為者自体を批判するもの」だとし、刑法によってこの道義的責任を問うことが必須だとした。そして、これを以下の二点に整理している。

「一 行為者が一般に刑法の維持せんとする文化的規範を意識し、其の意識に従って行動を制するの精神的能力を有すること。換言すれば是非を弁別し及び其の弁別に従って行為するの能力を有すること。此は謂ゆる責任能力の問題である。
二 当該行為を為すに際し其の行為の違法性即ち反文化性又は反規範性を現に意識したるか又は少なくとも之を意識し得べきかりし、従ってまた其の意識に因り当該行為を為さざることを得べかりしものなること。此は責任形式としての故意及び過失の問題である。」【注12】

敗戦直前に刊行された全訂版では基本的な考え方は維持された上でより一層「道義的軌範」への強調がなされるように修正されている。ここで小野が想定している「反道徳的なる行為」「社会倫理」「文化的規範」などという文言によって保護すべきとされているのは、その時代の国家が体現する支配的な道徳、倫理、文化であるであろうことは想像に難くない。

●刑法と道徳の一体化

しかし他方で、この道義という概念を明示的に天皇主義イデオロギーに固定させることをしていないというところが、小野のような道義刑法が戦後もある種の刑法イデオロギーとして延命できた重要な要素である。道義という概念は、ある種の記号作用としてその時代に応じて意味内容を変容させつつ、刑法と道徳の一体性の構造的一貫性を維持してきた。しかも彼の道義的刑法の前提となる法=道徳一体性の議論は、一方で東洋的な法の伝統をふまえつつも、他方でモンテスキューの『法の精神』のキリスト教の神観念を前提とした自然法と実定法の構造と通底するところがあるように思う。だからこそ近代刑法のパラダイムからの切断の苦悩なしに、戦時期は天皇主義の国体思想に、戦後は戦後憲法と民主主義のイデオロギーに自在に横滑りすることが可能だったのかもしれない。

一般に、既存の国家秩序を支える理念を肯定した上で、犯罪をこの国家理念からの逸脱、違反であると位置づけて、刑罰は犯人を再度国家秩序の理念を受容し、この理念に沿って思考し行動する人間に改造することにその使命があるとみる。ここでいう国家が西洋の民主主義国家なのか、ナチス国家なのか、それとも国体の本義を掲げる戦前の天皇主義国家なのかといった個別具体的な国家形態を捨象して国家一般に還元された抽象的な法と刑罰の議論が、権威主義的で抑圧的な国家を正当化する理論としての役割を担ってしまう。これは日本の問題ではなく、近代の思想や学問が一般的に抱えてきた問題でもある。

小野にとって刑罰は、この目的を達成するための手段であり、その手段は厳罰による応報であってもよいし思想教育であってもよく、その手段は、国家秩序と国家理念を達成する上で最適な方法を選択すればよいというものだ。近代刑法の基本的なスタンスとの根本的な相違は、国家権力の行使を法によって抑制する法の支配を絶対的なものとはせず、国家は法制定と執行の主体となりうるだけの至高性を備えているものであるということが前提されているという点かもしれない。ここでいう国家は、具体的な刑事司法の現場であれば裁判官であり警察点・検察などの法執行機関ということになり、こうした諸機関に幅広く裁量権を与えることを肯定することになる。国家は疑うべき対象ではないから、国家に内面も含めて従属することが人々の自由と幸福であるということにもなる。権力者からすればこうした刑法の柔軟な解釈を容認して国家の権威を肯定する価値観を背景とした刑法学が有力な学説として、また実務の世界でも有力な勢力になることを歓迎しないはずはない。

戦後70年の経緯を見ると、国家権力の刑罰権に懐疑的な立場をとるリベラルな刑法学は徐々に排除され、ほぼ一貫して厳罰化の道を歩んできた。こうした厳罰化は米国の厳罰化の歴史などとは異なって、戦時期の刑法イデオロギーが戦後刑法においても地下水脈のように継受されて、とりわけ法務官僚や検察官僚などのイデオロギーの基盤を構築してきたのではないか。【注13】小野に限らず戦時期に国策に与した法学者の大半は、自らの刑法学説を当時の国家イデオロギー(国体イデオロギー)に適用することを意図したに過ぎず、彼らが文字通り、自らの生き方として国体イデオロギーを受容したわけではなかったのではないか。だから、戦後体制に大きな葛藤なしに自らの理論を適応させることができたともいえそうだ。

この観点かたみたとき、最大の問題は、こうした刑法学者の戦争責任、戦後責任の問題が理論史・思想史としても未解決なままであるというだけでなく、未解決となった原因のひとつに、理由や根拠は曖昧なままに、いかなる国家体制であれ「日本」という国家に帰依するかのように寄り添うことを当然とする感情が法学者や社会科学の研究者や実務家の意識を支配しつづけているということにある。これは、国家を疑うということ、その懐疑の帰結としての現にある国家の否定やオルタナティブの統治の可能性を構想するという想像/創造力を放棄してしまうというところに行きつく問題でもある。(この問題はこれ以上ここで言及する余裕はないので別の機会に譲りたい)

●国家の刑罰権を疑う視点

上に例示した戦前からの犯罪と刑罰の基本構造の継続性は、二つの意味をもっている。一つは、戦前の犯罪と刑罰についての価値観が戦後にもまた継続しうる戦前と戦後を繋ぐ共通の土台が成文法の形式によって保持されており、このことを暗黙のうちに学界も実務の世界も共有したということだ。とりわけ、刑事司法の現場がこうした価値観を維持していることによって、現実に国家の暴力によって刑罰を課されてきた人々がいるということが、観念や理論を越えた現実の問題である。共通の土台とは、権威主義的な国家観とナショナリズムである。戦前・戦中の権威主義的な国家主義は、戦後においては、あからさまな天皇主義という分りやすい目印が排除されて基本的人権の尊重が謳い文句となったために、軽視されたが、法の秩序とは、国家の秩序であり、これが自由──つまり支配的な文化やライフスタイルや思想信条からの逸脱の自由──を排除することへの抵抗を極端に弱体化させ、事あるごとに、戦後の(不十分極まりない)自由ですら、これを脆弱化させて権威主義的な「文化」(道義といってもいいが)への回帰を促す力として作用してきた。

もうひとつは、憲法の改正やGHQ主導の戦後改革(労働改革や土地制度の改革など)に刑法は含まれなかった理由に関わる。天皇主義のファナティックなイデオロギーの側面を別にすれば、従来の刑法の枠組は占領軍もまた受け入れ可能なものだったということを意味している。この枠組とは、犯罪と刑罰を行為当事者の個人の問題に還元してその責任を個人に対してのみ問い、個人を処罰することに収斂するものだ。既存の社会秩序がいかに問題の多いものであろうとも、処罰の制度が法的に適正な手続によって制定されたものでれば、この制度がもたらす諸矛盾が個人の生存権や基本的人権を損うものであったとしても、制度は保護され個人の逸脱行為を犯罪化する。既存の秩序を維持することがこの秩序から逸脱する行為よりも保護されるべきものとみなされる。これが公序良俗とか公共の福祉の意味である。

言い換えれば、1907年に制定された刑法は、近代民主主義国家に共通する犯罪と刑罰の枠組として通用するものだとされつつ、他方でこの国のナショナリズムの秩序を再生産する価値観を保護する手段として効果的であると見なされたから現在まで延命できたのである。個人主義であるか集団主義あるいは国家主義であるかに関りなく、西欧の支配的な犯罪と刑罰の枠組みは、資本主義社会と国民国家の統治機構を肯定するだけでなく、この社会が抱える社会的な矛盾が犯罪現象として表出するという考え方を否定する。また、現にある国家による刑罰権、あるいは犯罪に対して精神的肉体的な苦痛を与える行為とそのための制度としての監獄を肯定するという点では、民主主義国家であれ独裁国家であれ、共通する犯罪と刑罰への態度が見いだされる。

●オルタナティブ社会にとって犯罪と刑罰とは

実は、この問題は、更に、資本主義批判における主要な理論と思想でもあるマルクス主義に基づく法思想(とりわけソ連や正統派のマルクス主義法学)においても、資本主義批判に階級社会や搾取の観点を導入しながら、犯罪と刑罰についての国家による権利剥奪と苦痛としての刑罰の問題に無関心であるという点ではほぼ共通したスタンスをとってきた。【注14】経済理論における生産力主義に匹敵する法理論における国家の刑罰権と暴力行使の肯定という問題がここには浮び上る。旧ソ連東欧に広範に設置された強制収容所問題は軽視すべきではない。こうして日本では、既成左翼の法学者も含めて、監獄の廃止、あるいは国家による刑罰の廃止が社会運動としてほとんど重要な潮流をなすことのないまま現在に至っているとみるのは厳しすぎるだろうか。これは、人種差別、貧困層への差別と社会的排除、囚人労働の搾取、ジェンダーと暴力といった問題への強い関心を背景に、欧米諸国におけるラディカルな刑事司法批判が60年代の新左翼運動のなかから登場し、ラディカル犯罪学とか、批判的犯罪学などといった流れがアカデミズムや社会運動のなかで一定の力を持ってきたことと対照的ともいえるかもしれない。

共謀罪だけでなく刑法・刑事訴訟法の改悪問題一般に言えることとして、こうした法改正に対抗する私たちのオルタナティブの視点を持つことが不可欠だ。共謀罪は犯罪あるいはテロリズムの未然防止を口実に、行為以前の意思の犯罪化であるが、こうした発想を政府や法曹界や学会の一部が支持するのに対して、意思の犯罪化を否定し既遂処罰の原則を主張するだけでなく、現在の刑事司法の制度がなぜ意思の犯罪化すら構想しなければならなくなったのか、なぜテロリズムを有効に阻止する手段を欠き、グローバルな不安定が持続するのか。あるいは、越境組織犯罪防止条約が対象とする薬物、銃器や人身売買がなぜなくならないのか、といった現在の社会が抱えている構造的な問題に目を向ける必要がある。そして、同時に、こうした「犯罪」と呼ばれる行為が、刑罰の厳罰化や警察などの捜査権限の拡大(あるいはグローバル化)によってもなくならないとすれば、それはこうした刑事司法の手法だけでなく、この社会がもたらす貧困や武力紛争、あるいは敵意や憎悪といった構造的な要因の解決に目を向けなければならないだろう。

共謀罪は、ここ数ヶ月が勝負という目前の大問題である。共謀罪に反対することは、現状を肯定することを意味するのではなく、国家による意思の処罰の合法化を拒否することを通じて、そもそも国家による犯罪と刑罰そのものを問うことえなければならないと思う。だから、共謀罪の廃案で勝利なのではなく、共謀罪を産み落した現在の刑法そのものを根底から再検討するという課題が残される。共謀罪がなくとも憂鬱な今の体制が続く。共謀罪の問題を理解するための射程は、目前の課題に縛られて戦術的に効果のある批判に収斂してしまうと、共謀罪の背景をなすこの国が明治期から一貫して保持してきた犯罪と刑罰の権力構造そのものを覆す観点がないがしろにされてしまう。そうなってしまうと、オルタナティブの社会を目指すなかで、犯罪と刑罰の問題にどのように向き合うのかという問題が軽視されることになる。現状を肯定して共謀罪に反対する運動にどんな魅力があるというのだろうか?現状を肯定することはとうていできず、だから更に現状を悪化させる共謀罪にも反対するとすれば、どのような社会であるべきなのか、あるべき社会では、犯罪と刑罰はどうあるべきなのかが重要な課題になる。現状の監獄や刑罰の制度を廃止することはオルタナティブ社会の必須の前提だとわたしは考えるが、こうした合意は、暗黙の内にはあっても、「共謀罪はいらない」ということを踏まえつつ、権力が犯罪を処罰することの本質を問いなおす視点は忘れていはならないと思う。【注15】


注1 小野の主要著作は、有斐閣からオンデマンド出版で入手できる。戦時期刑法学者の学説と戦後の動向については、中山研一『刑法の基本思想』、増補版、成文堂、2003年、同『佐伯・小野博士の「日本法理」の研究』、成文堂、2011年、白羽祐三『「日本法理研究会」の分析──法と道徳の一体化』、日本比較法研究所、1998参照。戦前・戦後の刑法思想についての批判的な歴史分析については、内田博文『刑法学における歴史研究の意義と方法』、九州大学出版会、1997年、同『刑法と戦争』、みすず書房、2015年参照。

注2 小野清一郎『日本法学の樹立──日本法理の自覚を提唱す』日本法理叢書第16輯 日本法理研究会、1942年、2ページ。なお戦時期の小野の主要論文は『日本法理の自覚的展開』、有斐閣、1942年に収録されている。

注3 同上、20-21ページ。

注4 同上、33ページ。

注5 同上、36ページ。

注6 小野清一郎『全訂刑法講義』、有斐閣、18-19ページ。

注7 中山研一、前掲『増補版、刑法の基本思想』、57ページ。

注8 同上、59ページ。

注9 白羽祐三、前掲『「日本法理研究会」の分析──法と道徳の一体化』、1-2ページ。

注10 松宮孝明「構成要件論/構成要件要素論」、伊東研祐、松宮孝明編『リーディングス刑法』、法律文化社、2016年、参照。

注11 小野清一郎『刑法講義(全)』、有斐閣、1932年、125-6ページ。

注12 同上、130ページ。

注13 厳罰化がグローバルな現象であることから、その原因について国際的な刑事司法制度や世論の動向を比較調査する研究がある。たとえば、日本犯罪社会学会編(責任編集、浜井浩一責任編集)『グローバル化する厳罰化とポピュズム』、現代人文社、参照。本書が対象とする「刑罰のポピュリズム」論は、新自由主義と刑罰の問題にも関心をもつものとして興味深いが、本稿で取り上げたような日本の刑法が有する戦前戦中の国家主義イデオロギーが戦後の刑罰観や厳罰化に与えた影響という視点が刑罰ポピュリズム論には必ずしも充分ではないように思う。なお国家の刑罰権については、宮本弘典『国家刑罰権正統化の歴史と地平』、編集工房朔、2009年参照。

注14 欧米の新左翼運動や公民権運動などに由来するラディカル犯罪学や批判的犯罪学のなかのマルクス主義犯罪学はむしろ刑罰や監獄の廃止を主張してきたという点で東側や日本の正統派マルクス主義法学とはパラダイムが異なる。たとえば、Ian Taylor, Paul Walton and Jock Young, The New Criminology, 40th anniversary edition, Routledge, 2013のIntroduction to 40th anniversary edition を参照。

注15 犯罪と刑罰をめぐる法の問題をオルタナティブを構想する社会運動は十分な討議に付してこなかった。何を犯罪とするのか、刑罰とはどうあるべきか、という問題がオルタナティブの問題としても軽視された。世俗的な左翼にとって、犯罪とは何なのか、刑罰とは何なのかという問題は、悲劇的な粛清を繰り返した革命運動の経験を総括する上でも避けて通れない大問題である。また、宗教原理主義者たちによる「処刑」やテロリズムを肯定するイデオロギーに対して軍事的な報復ではない向きあい方を論じるということがなければ、テロ対策と不安感情を扇動する既存の支配システムへのラディカルな異議申し立ての思想へとは展開されていかないだろう。遠い将来を見据えて、オルタナティブの社会を構想するとして、資本主義的な刑法がそのまま継受されていいはずがなく、そうであれば、どのように切断し何をオルタナティブとして創造することが、実質としての自由と平等を保障することになるのか。国家の刑罰権をそもそも認めるのか。立法とはどのようであるべきなのか。このように考えると憲法による統治の限界も射程に入れた法のグランドデザインの再設計というおおきな宿題に向き合うことになる。共謀罪批判はこうしたところにまで射程距離を延ばせなければならないと思う。

第二回自由大学「あらゆるアートは共謀/狂暴である」

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反政府プロパガンダを共謀する!

国会で上程が予定されている共謀罪(政府は「テロ等準備罪」と言う)は、600以上の違法行為を対象に、相談や目配せだけで(実際にやろうとやるま いと)犯罪にするというとんでもない法案だ。この法案はアーティストにとってもかなりヤバい!共謀罪は文化弾圧でもあり、ストリートの自由を圧殺し、対抗 文化を根絶やしにする。だからこそ、今あえて、共謀罪に反対するアクションを共謀し、戦時極右政権の下での反政府プロパガンダを共謀しなければならないの ではないか!?

スピーカー:小倉利丸(『絶望のユートピア』著者) 共謀罪批判のアウトラインとアート・文化運動との関りについて話します。

日 時:2017年4月1日(土)19:00~21:00/18:30 Open
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3丁目8-12 フデノビル2F 奥の部屋
資料代:500円+投げ銭(ワンドリンクオーダー)

出典 自由藝術大学

共謀罪も越境組織犯罪防止条約もテロを防止できない

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共謀罪の閣議決定後の記者会見で、金田法相と岸田外相は次にように共謀罪の必要に言及した。

金田法務大臣の記者会見発言

「今回の改正は,近年における犯罪の国際化及び組織化の状況に鑑み,テロを含む組織犯罪を未然に防止し,これと戦うための国際協力を可能とする「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」,いわゆるTOC条約を締結するための法整備として行うものです。3年後に迫った東京オリンピック・パラリンピック競技大会の開催を控えた中,TOC条約の締結のための法整備は重要なものであり,急務であると考えています。」

岸田外務大臣の記者会見発言

「ご指摘のように,本日の閣議で国際組織犯罪防止条約の国内担保法が閣議決定されました。この条約は,既に187か国が締結をしています。こうした条約を我が国も締結し,テロを含む組織犯罪と闘うことは,2019年のラグビーワールドカップ,2020年の東京オリンピック・パラリンピックを控える我が国にとって,重要なことであると考えます。
この条約締結に必要な「テロ等準備罪」を創設することで,テロを含む組織犯罪を未然に防ぐことが可能になるほか,国際協力が促進され,深刻化するテロを含む国際的な組織犯罪に対する取組が強化されることになります。このことは大変大きな意義があると考えております。」

二人ともテロと闘うためには国際組織犯罪防止条約(以下、日弁連の呼称に倣って越境組織犯罪防止条約と呼ぶ)の締結が不可欠で、そのために共謀罪が必要であるという従来からの主張が繰り返されている。しかし、条約と共謀罪がテロ防止にとって不可欠という政府の主張を立証できる証拠はいったいどこにあるのだろうか?フランスはじめEU諸国で起きてきたテロは、条約と共謀罪があっても防げなかったのではないか?

政府の言い分では、「すべての重大な犯罪の共謀を犯罪とすること」を条件としているとされるこの条約を締結している国は187ヶ国にのぼる。 二人の大臣が言ったことを敷衍すれば、187ヶ国、つまり世界のほとんど全ての国では「すべての重大な犯罪の共謀を犯罪」としているということだから、世界中至る所で話し合うだけで犯罪者とされて逮捕され、その結果として、条約締結国、187ヶ国ではテロが防止されているはずだ。他方で、共謀罪のない日本は、世界でも最もテロの脅威に晒されている危険な国だといことになる。そうでなければ立法趣旨と理屈が合わないだろう。

しかし、世界の現実は政府の立法趣旨とは全く逆であることは誰もが認めるところで、テロ防止効果はみられないのではないか。現実の世界で起きていることを踏まえれば、共謀罪でテロ防止効果があると日本政府が本気で信じているとは思えない。このことからしても、政府が公式に発言している共謀罪の立法の趣旨は政府の本音ではないことは明らかだ。越境組織犯罪防止条約と共謀罪がテロを防止できると繰り返す政府の主張は、ある種のフェイクニュースの類いと言うしかない。

BBCは、ロンドンのウェストミンター国会議事堂付近で起きた自動車テロの報道にほとんど全ての時間を費やしてる。テレサ・メイ首相は英国議会は「民主主義、自由、人権、法の支配という我々の価値を代表している」として、テロがこうした英国の価値観への挑戦だと批判した。テロが起きるたびに欧米の(そして日本の)政府首脳らが繰り返すこの自己讃美の言説を、私は納得して聞いたことがない。むしろ非常に不愉快な気分になる。英国が誇る民主主義や自由はまた同時に、英国の植民地主義と表裏一体だったのではないか?イラク戦争以降の対テロ戦争は、英国の民主主義、自由、人権にもとづいて広汎なイスラーム圏を武力紛争という民主主義も自由も人権も奪うような環境に追いこんだのではないか。民主主義、自由、人権を口にしながら、実際にはそのいずれもが奪われる。どうしてこのような欺瞞を繰り返す「先進国」の価値観に、こうした欧米500年の欺瞞に心情的にも共感できるだろうか。米国もフランスも有志連合の諸国だけでなく全ての対テロ戦争に加担している自称「自由と民主主義」の国に共通する欺瞞の言説が、むしろ敵意と憎悪を再生産しているのではないか。

言うまでもなく、日本が戦前戦中に繰り返してきたこともこれと同質であったし、戦後もまた日本の侵略と戦争責任への反省がないという意味でいえば、欧米先進国と同罪である。欧米帝国主義批判と民族解放戦争としての大東亜戦争なる言説とは裏腹に、日本の行為は明かな侵略であり虐殺であった。一方に口当たりのよい普遍的な理念を掲げ、この普遍的な理念を口実に、他方で残虐の限りを尽しながらこの暴力を正当化してきた。それが近代という時代の精神の本質ではないか。

テロ対策に厳罰主義や警察による捜査権限の拡大が役にたたないのは、この欺瞞を正当化するための国家による暴力の行使でしかないからだ。今問われているのは、価値観を裏切ることを平然と繰り返す権力の偽善そのものである。主権者たちもまた、こうした政府の偽善と腐敗を民主主義という舞台装置によって下支えしているのではないか。

既遂処罰原則を揺がす共謀罪と監視社会に対抗する視点とは

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ついに共謀罪法案が閣議決定された。法案の条文についての逐条批判は私の役割ではないので、これまで書いてきた批判の流れのなかで、いくつか述べる。

私は悲観論者なので反対運動にとって元気になるようなことは書けない。むしろ危惧すべきことばかりを書いてしまうのだが、やはり率直に私が感じている危惧を書いておく必要があると思う。

共謀罪の反対世論はようやく徐々に拡がり始め、たぶん現状は賛否拮抗というところだろう。国会の動向は私には何ともいえないが(政局を論じるのは苦手だ)、不安材料がいくつかある。ひとつは、法律の専門家たちの動向だ。少なくとも共謀罪のような行為以前の意思を犯罪化するような発想を、少なからぬ刑事法の専門家たち、たとえば、法務省刑事局の立法担当者や国会の法曹資格をもつ与党議員たち、学界や法曹界の実務家が肯定しているのではないかという疑問だ。「暴力団」(これは警察用語なので中立的な用語ではない。当事者に即せば「やくざ組織」ということか)の被害者対策の弁護士らを中心に130名の弁護士が、越境組織犯罪防止条約の締結のために共謀罪成立の必要を提言したと報じられている。(弁護士ドットコム)他方で刑事法研究者中心に「共謀罪法案の提出に反対する刑事法研究者の声明」も出され、160名余りが署名していることがメディアでも報道され注目された。 160名という数は一見すると多いようにみえるが実はそうではない。日本刑法学会の会員は1200人であることを前提とすると、160名という数はかなり少ない。また立憲デモクラシーの会も反対声明を出しているが、刑法を中心とする専門家たちの反対の声はまだまだ非常に小さい。

もうひとつの危惧は、越境組織犯罪防止条約は共謀罪新設なしでも締結できるという反対の論拠が共謀罪を阻止する上で決定打にはなりえないのではないか、ということだ。以前私は、日弁連の主張とは違って、越境組織犯罪防止条約は必要ないと述べた。外務省によればすでに187ヶ国が締結しているから、これはむしろ締結しない方がおかしいと思いがちだが、この条約の目的である薬物、銃器、人身売買がこの条約によって目にみえて減少しているとはとうてい思えない。こうした問題の根源にあるのは貧困や武力紛争であり、単なる犯罪組織だけでなく、武器・軍事産業や多国籍資本あるいは国家の軍事安全保障政策もからんでおり、これらのアクターを念頭に置いた解決こそが必要であって、警察力や政府に委ねて解決できる問題ではないからだ。今この点はさて措くとして、条約締結は日弁連が主張するように、共謀罪新設なしで締結するという可能性があるということを政府が受け入れてしまったら共謀罪は成立しないのだろうか。条約の締結と共謀罪とを切り離して、共謀罪を成立させることも可能なのではないか、ということである。こうなったときに、既存の法律での条約への対応を口実に刑法の解釈が柔軟化してしまい、厳格性を欠くようになるという副作用もありうるのではないか。これは刑法の拡大解釈を許すことにならないか。この点を踏まえたら、越境組織犯罪防止条約の締結などは考えないことの方が好ましい。もうひとつの危惧は、条約締結の条件に拘泥せずに、対象犯罪も絞りこみ、テロ対策に特化して共謀罪を新設するということになったときに、現在反対を主張している専門家やメディアなどの対応はどうなるのか、である。テロ対策は不要だということを主張できる勇気あるメディアや学界などはどれほどあるか、かなり動揺するのではないか。

刑法は憲法が保障している例外的に人権を国家の暴力によって制約し国家に刑罰権を与える極めて毒性の強い法規範なのだということを再確認する必要がある。だからこそ既遂処罰の原則を再確認することが必須なのだ。日弁連も意見書 において「現行刑法は, 犯罪行為の結果発生に至った 「既遂」 の処罰を原則」としている点を第一の反対理由に挙げている点は非常に重要だが、刑法学者の声明ではこの点への言及が十分とはいえないところが気にかかる。刑法の原則がどこにあるのか、根本のところでもしかしたらかなり本質的な見解の相違もありそうに思う。

共謀罪をもたらす根底にある犯罪と刑罰の思想には、この原則を逸脱して「安全安心」の観点を肯定する発想があり、これが歯止めのない監視社会を生むのだという点を再確認する必要がある。共謀罪反対の世論を構築するためには、迂遠な話なのだが、大衆意識のなかにかなり根付いてしまった「安全安心」イデオロギーを覆すことが、共謀罪反対運動や反監視運動の最大の課題である。この観点から犯罪と刑罰の問題を再検証し、既存の刑法そのものも根本から再検討して刑法におけるオルタナティブとは何なのかをきちんと議論しなければならないとすれば、既存の刑法でいいなどとはとうてい言えない。

以前にも書いたように(これ とかあれ)、共謀罪は、一九〇七年に成立した現行刑法の基本的な枠組みを根底から覆し、自民党改憲草案に対応した国家による犯罪と刑罰の体制を構築する試みの一環である。問題の本質は、犯罪と刑罰の基本的な認識の変質にある。国家権力による強制的な自由剥奪と刑罰権を制定した刑法が一世紀以上も前に制定されたものを基本とし、戦後の憲法制定によっても全面改正されないまま現在に至っていること自体が、改憲に深い関心を寄せてきた運動のなかではさほど関心を呼ばすに見逃されてきたのかのか、その理由は別途問題にすべきだが、政権側は、戦後憲法の枠組を前提として解釈されてきた刑法の解釈枠組を変えるだけでは満足せず、その条文そのものをも根底から変更したがっている。戦前由来の刑法ですら今の自民党政権は納得しないということだ。

私は、刑法には、戦前と戦後を通底するこの国の近代国民国家としての権力とイデオロギー、あるいは秩序と支配における一貫した構造を読み取ることができると考えている。憲法を基準にすると戦前と戦後の切断が強調されるが、刑法の場合は逆にその連続性がはっきりする。言い換えれば、この国は、明治期から現在まで資本主義的な国民国家としての一貫性を保ち、この一貫性を安定的に維持するために、刑法は明文をもって何が「罪」であり、国家はどのような刑罰権を行使できるのかを示す機能を担い続けており、その基本的な理解の枠組に、戦前と戦後の間に本質的な変更はないということである。

刑法を旧憲法の枠組を前提に解釈する場合でも、実はかなり大きな振れ幅があったのではないか。大正デモクラシー期までの天皇機関説(天皇主権や天皇不可侵とは矛盾しない)を通説とする国家観に基づく犯罪と刑罰の法規範の時代から、治安維持法、国家総動員法と「国体の本義」を前提にした憲法「改釈」に基づいて刑法も「改釈」される時代へ、とりわけ法と道徳を区別する西欧流の理解から法=道徳とする日本個有の「法理」あるいは「道義的刑法」の主張が支配的となる時代へと大きな変化があったと思う。

いわゆる大正デモクラシーの時期までとそれ以降の間には、同じ刑法であっても大きな振れ幅があり、このことと総動員体制や治安維持法などの戦争立法と密接な関係があった。その上でなお、刑法は戦後憲法下でも生き残り、戦前の総括や反省は不十分なまま戦後憲法を前提として刑法解釈を再構築する横滑りを司法も学会も構築してきたように見える。だから、旧憲法時代の刑法の理念ともいえる総則解釈や条文解釈、あるいは実務上前例となる判例も、戦前のそれが戦後に全面的に否定されたわけではなく、その多くは戦後も継承されてきた。

憲法によって基本的人権の保障の幅は明らかに根本的な違いを見せたが、このことは刑法にどのように影響したのだろうか。旧憲法では「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」(20条)とあり、自由の権利は「法律ノ範囲内ニ於テ」しか認められなかったが、戦後憲法はこの「法律ノ範囲内ニ於テ」を削除して無条件に自由の権利を保障し、検閲も禁じた。この差は、何を犯罪とするのかだけでなく、刑罰のありかたにも本質的な影響を与えるはずのものであるにもかかわらず、犯罪や刑罰はどのような政治体制のもとであれ、どのような憲法の下であれ、基本的に同じ性質のものだという、先入観が大衆意識には根強いように思う。こうした大衆の犯罪と刑罰についての意識を専門家も共有しているとはいえないだろうか。本来ならば、自由の権利をはじめとする基本的人権保障の幅が拡がったということは、逆に、国家による人権制約の幅は抑制されなければならず、そのことが刑法において明示的に示されなければならないはずだ。これは単に刑法73条から76条の大逆罪、不敬罪を削除すれば満たされるという問題ではなく、一般的な刑事犯罪をどのように認識しどのように対処するのかという犯罪と刑罰全般の哲学に関わるハズのものだ。とりわけ反政府運動など政治活動の犯罪化については、戦前の制定法による出版の検閲や集会規制がない分、目に見えない検閲が横行しはじめている。(公共施設の集会規制、ビラ貼りや街頭情宣規制、資本と国益優先で労働基本権を形骸化させるなど)そうであれば共謀罪などとうてい想定外の更にその外の非常識極まりない発想だと考えられてもいいくらいのことではないか。

戦前から現在まで一世紀以上にわたって大きな振れ幅をもつ現行刑法ですら自民党は満足していないのは、明かに改憲を睨みながら、戦前でいえば道義的刑法と類似するような法と道徳の一体化を願望しているからだろう。共謀罪の深層にある権力の無意識には、戦後も清算されなかった国家の価値観に「国民」をその内面から一体化させたがる欲望があり、安倍政権はこうした欲望をある意味では露出させたに過ぎないともいえる。しかし、いつの時代であれ権力者は「国民」を百パーセント自らの意思に従わせたいと願望するものだとして、何がこうした発想を具体化しうると信じる力を与えることになっているのだろうか。

戦前の道義的刑法やあるいは意思を犯罪かしようとする傾向との相同性には注目すべきだが、単純な戦前回帰が共謀罪の本質なのではない。端的にいえば、これまで不可能と信じられてきた、人間の内面を規制し抑制する技術を前提とした思想信条や意思そのものの犯罪化が、可能になってきたということでもある。こうしたことが可能になったと権力者たちが信じるようになったのは、20世紀に急速に発達した、犯罪心理学や犯罪精神医学、コンピュータサイエンスによる生体情報レベルでの個人認証技術や行動や認知に関する科学、そして膨大なコミュニケーションの記録を保管し解析し予測のシミュレーションを行なう技術、時には個人情報を密かに収集することが技術的にも制度的にも可能になったといったことがあるだろうと思う。こうした情報処理技術に支えられて、刑事司法領域では科学捜査やプロファイリングが飛躍的に発達し、サイバーセキュリティとテロリスム対策が警察と軍の双方を融合させ、更には警察のグローバル化を促す領域となった。情報コミュニケーションテクノロジーが刑事政策だけでなく刑事手続から更には刑法そのものにも影響を及ぼし始めているということではないか。それが共謀罪を下支ええする背景にあるのではないか。こうした傾向にはある種の「神話」やありえない技術への都市伝説も含めて大衆文化の関心を誘い、こうしたことも含めて政策決定者や政治家たちは、人間の行動を予測可能なものとすることを前提として法を見直すことが可能であると考えはじめている。ICT産業もまた政府による監視や統制テクノロジーを重要なビジネスチャンスとみて、開発投資を促進させている。政治家も一般の人々の関心も、既遂の犯罪や社会的な「混乱」ではなく、将来予測に基づく予防に引きよせられている。これが端的な合言葉として「安全安心」で表現されていることだ。プログラムに合わせて人間の行動を外面的に制御するのではなくて、フィードバック機構を組み込みながら人間の心理や内面を予測して制御し、自発的にプログラムに適合的な行動をとるような人間を生み出すとともに、こうした適応が困難なパーソナリティを発見しあらかじめ予防措置をとろうとする。

予測の技術が制度化され法的な正当性を付与されるということは、国家が水晶玉の前に座って私たちの未来を予見する魔法使いになるということだ。「おまえは明日3丁目のコンビニに強盗に入るはずだ」といったことを宣言する権限を与えることを意味する。「そんなはずはない」と主張しても、彼らには膨大な私のプロファイリングデータがあり、そこから科学的に導かれた確率に基く予測こそが私の私自身の未来であって、私の自己認識などよりも一般的に信用性があるということになる。私がどのように抗弁しようと、私は明日のコンビニ強盗の犯人にされるというわけだ。共謀罪とはこうしたSFまがいの世界が大真面目に導入される世界を予兆するものだといっていい。

刑法は、国家の刑罰権と基本的人権を強制的に放棄させる力を国家に付与する。つまり、人間は生まれながらにして自由で平等な存在であるという近代の価値観を、国家に限って例外的に否定する力を与えることを正当化する巧妙な仕組みでもある。言い換えれば、国家が自由と平等を否定する独占的な枠組を人為的に構築し、制度として固定化することを正当なこととして認める仕組みである。

自由とは選択の自由のことだという通俗的な自由の定義を前提したとして、いわゆる近代民主主義国家では、この選択の自由の範囲と選択の判断を、当事者(私やあなた)の道徳や理性、あるいは当事者が帰属意識をもつ社会集団の慣習などに委ねずに、制定法に基づく司法の解釈にその是非の判断基準を委ねることになる。【注1】国家が制定法に基づいて、ある人間が選択しようと意思したある行為が「違法」であると判断すれば、その個人の行為の選択肢からこの行為は強制的に排除される。あえてこの行為を選択すれば、犯罪者とされて、身体の自由や財産を奪われ(懲役刑や罰金刑など)、刑罰という苦痛を強いられる。これは国家による人権の一部の合法的な侵害である。こうして、このように自由を剥奪される者は、そうではない者と平等に自由を享受できない。

刑法は、行為が明文による犯罪類型に該当しなければ犯罪とされないための枠組であって、内心を直接問題にするものではなかった。一般にリベラルな社会であれば(これが近代民主主義国家のモデルだろう)、内心の問題は、道徳や倫理の問題であるとされてきた。道徳として人を殺すことはあってはならないと考えようが、刑法で犯罪とされているから処罰の苦痛を受けたくないという理由から人殺しはしないと考えようが、社会としては殺人が起きなければよい、というのがこれまでの犯罪と刑罰の考え方だった。これは内面を客観的に判断し推測することができないかったからで、哲学的な意義はその後づけでしかないように思う。先に述べたように、共謀罪の発想は、内面や心理を予測する技術の発達とともに、国家が内面をコントロールすることに関心を持ちはじめたことを意味しており、こうした関心と現在の予測技術の水準を前提したとき、従来のような内面に関与せずに結果の違法性を問題にするか、あるいは既遂であればその行為を促した動機や意思といったレベルで内面を問題にするというレベルでは満足しななっているということでもある。【注2】共謀罪のように「話す」ことを共謀として犯罪化するということは、「話す」前提にある話し手の観念にある行為への意思や意欲そのものを権力が監視するということに繋がる。そのような意思を持たないように予防することが権力にとっては、「安全安心」の条件であり、そうした技術を構築しなければならないという要請があると感じるのだ。

本来、上で述べたような内心の問題は道徳の領域だった。道徳は意思に内面化されることによって、そもそもの選択肢の範囲を内在的に規定するから、国家による外在的な強制としての法とは同じことではない。その行為が違法であるかどうかの認識なしに、道徳によってそうした行為を自由な選択肢からあらかじめ排除することはありうる。これは、当事者の主観に即せば、自由意思に反するとはみなすことは難しいだろう。しかし他方で、道徳的には選択肢として妥当する行為が違法とされる場合はどうか。こうした行為の妥当性は、法治国家であれば国家の法が優先し、当該個人の道徳は行為の正当性を根拠づけることにはならない。しかし一般論として言えば、道徳による行為の選択の幅と法が合法あるいは適法とする行為の選択の幅が一致するものとみなすか、反道徳的であっても違法あるいは犯罪ではないとして、合法の範囲が道徳の範囲よりも広く設定されることで、自由をめぐる道徳と法の齟齬が深刻な対立を引き起こさずに解決されることになる。つまり不道徳であっても合法な領域を残すことが既存の秩序維持にとっては有効な選択なのである。これが、理屈の上では、法治国家の統治の安定性を支える構造をなす。だから、法による犯罪と刑罰の規定は、最小限度に留め、法的な強制によらない道徳的あるいは慣習的な内面的な行為規範の形成によって社会の秩序を維持することが望ましいということになる。

道徳としてここで述べたことは価値観とかイデオロギーあるいは信仰といった人々の行為選択における確信形成をなす場合として言い換えることができる。確信的な行為が合法の範囲を越える場合、これは国家が独占する犯罪と刑罰に対する確信犯の問題として、最もやっかいな問題になる。なぜなら如何なる苦痛や応報も矯正や教育も確信犯には効果がないからだ。そして、一般に、政治運動の犯罪化は、確信犯の問題となる。出来心や過失の犯罪ではないからだ。そして厳罰化の傾向が強化されればされるほど、こうした確信犯の問題を抱え込むことになり、犯罪の抑止効果が期待される刑罰が効果をもたないというジレンマに陥いる。厳罰化と確信犯の増加は、権力基盤が脆弱になっていることを端的に示すものともなる。つまり価値観や道徳的な自発的同調に失敗していることの表れだからである。共謀罪は、この観点からみると、既存の統治機構の正統性が見かけほど磐石ではないことを現わしていることになる。内面や意思を犯罪化しなければ秩序が保てないということはかなり深刻な支配の揺らぎなのである。

この正統性の危機と表裏一体となって、監視技術と行動予測や心理分析などの「高度化」によって、価値観や道徳といった内面に国家が介入・制御することが可能な世界が登場しているということだ。しかしそうだとすると、私たちにとっての問題は二つある。ひとつは、こうした国家による内面の制御に対抗するためには、私たちが自己の内面の自立性(オートノミー)を獲得するだけではなく、より積極的にこうした国家が欲する内面とは根本的に抵触あるいは切断する私たちに個有の内面世界をいかに構築するかという問題である。彼らが望まない私たちの内面における「もうひとつの世界」が具体的な現実の支配を覆す動機や意思として徴表されるような回路をも構築できなければならないということでもある。

もうひとつは、国家が私たちの内面により「科学的」に干渉して、消極的に犯罪を犯さないパーソナリティというだけでなく、積極的に国家利益に合致するような道徳や倫理規範を持ち込もうとするという場合、超越的に「オルタナティブ」を主張するだでななくて、この日本の国家イデオロギーを批判することが必要になる。このときの核心をなすのは、政治的なイデオロギーというよりも文化的なイデオロギーだろうと思う。刑法における文化的なイデオロギー問題は、法解釈の背景をなす一つの重大な問題であり(法と文化が最もよく議論された時代は、戦時期であったことを想起すべきだ)、この問題をぬきに共謀罪の深層を抉ることはできないだろうと思う。

今回はここまでにするが、最後に述べたオルタナティブへの課題は、法におけるオルタナティブの問題全体にも関わる。言い換えれば、憲法や人権のオルタナティブも含めて、法、道徳、統治規範のオルタナティブの議論は、経済のオルタナティブや文化のオルタナティブの議論に比べて反政府運動のなかでは十分ではない。この問題を疎かにすると、20世紀「社会主義」が自己正当化した暴力(粛清た弾圧)の問題にかぎらず、暴力をめぐる問題を看過しかねないとも思う。コミュニズムであれアナキズムであれ法の問題を真剣に考える上で共謀罪にどう対峙するかは重要な実践的かつ理論的な課題だと思う。

【注1】社会契約なき裸のままの人間集団が軋轢と対立のみしか生まない野蛮な状態であるという仮定は、歴史的にも根拠がないが、また、社会契約を国家による法制定権力の根拠とすることにも飛躍がある。社会契約が国家を要請するという発想は、国家を正当化するために社会契約をある種の口実として利用したに過ぎない

【注2】刑法の旧派と新派の対立とか、結果無価値論と行為無価値論の対立といった議論は19世紀から20世紀に至る犯罪と刑罰の関心が、徐々に行為者の行為からその意思へと展開していったことの表れのように思う。身体的な刑罰から、過酷な肉体刑が後退し、矯正や教育としての刑罰が台頭したこともこれに関連するだろう。このことを内面の監視へとつなげて関心をもったのがミシェル・フーコーだったことはよく知られているが、日本の場合、刑法の伝統が主にドイツ刑法であっこともあり、フーコーの議論が無条件に妥当するといえるかは留保も必要だと思う。

自民党改憲草案と共謀罪──反政府運動の非犯罪化のために

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前の投稿で改憲問題に簡単に言及したが、ここではやや詳しく私見を述べておきたい。

共謀罪法案の国会審議が本誌発行の時点でどのように進展しているのか、現在の執筆段階(三月一九日)からは見通しがたてにくい。二〇〇三年以降幾度となく上程‐廃案を繰り返してきたことからもわかるように、「共謀」の犯罪化は刑法の根底を覆す深刻な問題をはらんでおり、専門家の間ですら合意がとられていない。(注1)廃案を繰り返してきた法案を執拗に再上程する与党側の対応は尋常とはいえず、表向きの立法の必要性(越境組織犯罪防止条約の批准)に必要な前提となる国内法整備とは別の思惑がるのではないかと判断せざるをえない。誤解を恐れずに言えば、共謀罪への強いこだわりは、安倍政権がしきりに口にするようになったテロ対策ですらないと思う。それよりももっと根源的なところでの制度の転換が意図されているのではないか。それは一言で言えば、自民党が目論む改憲(二〇一二年「改憲草案」)を先取りした刑事法制全体の転換を意図したものではないかということである。自民党改憲草案(注2)では、憲法二一条の表現の自由条項「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する」に新たに次のような第二項を追加している。

「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」

現行憲法二一条を前提にすれば、犯罪組織(この意味は後述するが法案では「組織的犯罪集団」とされるようだが定義は不明)や「公序良俗」に反する組織であっても、集会、結社、言論、出版など「一切の表現の自由」が保障される。この条項と一三条の生命・自由・幸福追求の権利における「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政上で、最大の尊重を必要とする」という条項を合せて考慮したとき、現行憲法では、犯罪組織の場合であっても幸福追求等の権利はあり、「公共の福祉」に反する場合は、「最大限の尊重」は必要とはされないが、場合によっては立法その他の国政上でのある種の「尊重」の対象になる場合もあるということである。改憲草案の場合は、そもそも「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動」を目的とする結社は憲法上も存在を許されない。(注3)言い換えれば、改憲草案では「公益及び公の秩序」に反する結社を憲法によって禁じることになるので、下位の法律によってどのような組織が違憲なのかを具体的に定める必要がでてくる。共謀罪はこの結社禁止の重要な布石となりうる。

上で「犯罪組織」と述べたが、戦後憲法と刑法の枠組には、不敬罪や治安維持法などといった政治犯罪の条項がないから、政治犯であっても一般の刑法の犯罪が適用されて一般刑事犯として摘発される。しかし捜査機関側は、一般刑事事件と反政府運動に対する捜査を組織としては明確に区別し、後者をもっぱら対象とする警備公安警察を置き、既遂の犯罪を原則とする刑事警察とは異なって恒常的な監視と予防的な拘束を行なうし、起訴前の逮捕・取調べの処遇も、接見や釈放の条件では一般刑事犯とは著しい不利益差別がある。もちろん政治犯は正義の確信犯であると特権化して、一般刑事犯の人権をないがしろにすることはあってはならない。むしろ反政府運動にとっても、あるいは一般的に市民運動にあっても、一般刑事事件の犯罪や被疑者・犯人とされた人達の人権とどのように向き合うかは重要な課題である。上で言及した「犯罪組織」には、やくざの組織も反政府運動の組織もテロリスト集団も、あるいは路上で微罪を犯す非行や不良青少年グループ(かつて愚連隊という言い方もあった)なども、その集団の形態や趣旨を問わず刑法で犯罪と規定される行為に多かれ少なかれ関与すると警察などが判断するであろう組織全般が念頭に置かれている。

反政府運動は、その規模や目的の大小はあるにしても、現在の支配的な制度への異議申し立て運動である。これを権力者たちの側からみれば、法によって保護されるべき「公益」や「公の秩序」として解釈される既得権益(例えば、米軍基地の建設や大規模開発などから個々の企業による労働者の搾取の制度まで)を覆す行為や組織であって、それ自体を犯罪化し権力による人権の強制的な制限(侵害)を行なうことは、公序良俗であれ公益や公の秩序であれ、その言い回しは様々だが、正当だとみなされることになる。これは政治活動の犯罪化だが、現行憲法では、たとえ捜査機関や政府が「犯罪組織」のレッテルを貼ったとしても、憲法上の結社の自由によってその存在そのものは保障され(注4)、その自由追求の権利は最大限の尊重はされないとしても否定はされない。また、政治的な目的意識性をもたない刑事犯罪目的の組織や集団であるからといって、国家はその構成員に対して人権の剥奪を恣意的に行使することが許されるわけではない。

犯罪者にも人間としての権利があり、この権利を敢えて強制的に剥奪することを定めたのが刑法であるということは、刑法に関わる立法問題を論じる場合の大前提になる。しかも、人間のどのような行為を犯罪として刑罰の対象にしなければならないのかを人類史全体を通じて普遍的なものとして定義することはできない。時代によっても文化や価値観、世界観によってもその定義は異なる。また、この犯罪と刑罰の規定を国家が独占しなければならない理由についても普遍妥当なものだというわけではない。この意味で犯罪と刑罰の普遍的な定義はない。このことは、どのような社会歴史認識を持つのか、どのように既存の犯罪と刑罰の制度を評価しているのかという、私たちが暮す社会への私たち自身の評価と切り離すことのできない問題である。

現にある社会が抑圧的であって、憲法が宣言している自由や平等の権利にすら違反していると考えて、権利を獲得するために現にある制度を打破することが不可欠だと考え、行動を起すことを考えてみよう。行動の内容は、言論である場合もあれば、路上で意思表示する場合もあれば、既存の政治的な意思決定の仕組みを利用する(選挙や議会の立法機能)場合もあるだろう。表現は多様であって、「自由」なものとして実践される権利がある。言論・表現・結社の自由をほぼ無条件に保障する現行憲法は、政治的な行動や表現をもっぱら議会制民主主義の狭い枠に収めるべきではなく(そうならば選挙権と被選挙権の権利さえあればいいということになる)、議会に収斂しない思想と行動の自由こそが必須だという立場をとっている。このことは憲法それ自身を否定する行動や言論をも保障する。社会の変化は、既存の制度を前提とする改良である場合もあれば、根底から統治機構を再構築する革命となる場合もあるし、その地理的範囲も、既存の国家の領域に限定される場合もあれば、分離独立となる場合もあれば、複数の国家の領域にまたがる場合もある。憲法が抽象的に(あるいは理念として)保障しているこうした革命の権利は、抽象的な権利でしかなく、具体的には、既存の社会秩序や政治体制の安定を優先させるために、下位の法律によって犯罪化されるが、そうであっても常に、自由の権利の限界をめぐって争いがありうるし、争うことなしには自由の権利も獲得できないという、積極的な意味で自己矛盾をはらんでいるのが基本的人権を保障する法の枠組だ。だから、自由の権利に関わる場合は、特にどのような行為が犯罪化されるのかという範囲をあらかじめ決めることはできず、政治と司法をまきこむ合意と妥協と原則をめぐる行為の解釈=政治学の世界に関わる。(注5)

つまり、共謀罪がもたらすであろう効果が、自民党が構想する改憲後のこの国の憲法体制を踏まえたとき、越境組織犯罪防止条約やテロ対策などの範囲を大きく越えるだろうということは疑問の余地がないということだ。共謀罪反対運動が持たなければならない反対の射程は、改憲後の事態をどのくらい考慮に入れているのか、私には鮮明には見えてこない。日弁連の反対声明でもこの点には言及がない。安倍は共謀罪なしではオリンピックは開催できないと繰り返しているが、本音は共謀罪なしの改憲はありえない、ということではないだろうか。共謀罪も改憲草案もその起草の主体は同じ自民党であるから、この両方を睨んで、共謀罪を解釈することは、私たちの自由の権利、とりわけ反政府運動にとっての抵抗権の非犯罪化にとっては不可欠な観点だ。


(注1)法案は、二〇〇三年第一五六回通常国会で最初に審議入りし、その後二〇〇五年の第一六三回特別国会に再上程されるが継続審議の扱い、第一五九、一六四国会においても廃案、第一六五回臨時国会、第一七〇回臨時国会でも継続審議扱いとなる。二〇〇九年七月、衆議院解散で審議未了廃案。

(注2)https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf

(注3)この改憲草案の二一条は、現行憲法一三条で生命、自由、幸福追及の権利について「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政上で、最大の尊重を必要とする」とあったのを「公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政上で、最大限に尊重されなければならない」と平仄を合わせる形になっている。

(注4)例外として破壊活動防止法があり、その違憲性が議論の対象になってきた)

(注5)この国ではデモする場合に事前の届出が必要であり、車道の全車線を自由に利用する権利はほぼ認められないが、韓国ではソウル都心部の路上を全面占拠しての反政府運動があたりまえのようにして行なわれる。同じような光景は香港でも台湾でもみられるし、むしろ日本のような不自由は例外的に抑圧的だ。

共謀罪は改憲の先取りである

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共謀罪批判の議論で不十分なのは改憲との関わりだろうと思う。

現行刑法は明治刑法が維持され、その成立は1907年である。第一章の大逆罪や不敬罪などの「皇室ニ對スル罪」が削除され、治安維持法、国防保安法なども廃止されたが、刑法の基本的な発想はそのまま残っており、内乱罪など国家への犯罪が刑法冒頭を占める構造は、最大の犯罪行為を国家に対する犯罪とする発想を示している。

しかも、戦時期に刑法学者が果した戦争責任問題への追及は曖昧なままだ。天皇主義イデオロギーを前提とした戦前・戦中の刑法学者(国体の本義に基づく日本固有の法学の確立を目指した「日本法理研究会」がその代表格か)が戦後も有力者としてそのまま残った。たとえば、小野清一郎は、法に「日本の道義」を持ち込み、天皇主義的な国家主義法学を唱道して西欧由来の法制度を批判したが、彼は戦時中の立場を戦後も公然と肯定しつつ、東京第一弁護士会会長、法務省顧問、70年代の刑法改正の中心的な役割をも担った。刑法学者の戦争責任問題への批判は、中山研一や白羽祐三(民法学者だが)など少数に限られ、法曹界総体の反省のスタンスは曖昧なままではないか。だから、憲法と違って、刑法は戦前と戦後の連続性は強く、学説も判例も戦前・戦中の議論が継承される。明治刑法は実務でも今に生きているのだ。

だから、刑法は戦後憲法に制約されてはいるものの、事あるごとに戦前回帰が顔を出す。70年代の刑法改正は、戦時期に未完成だった「刑法改正仮案」を継承して保安処分や国家機密漏洩罪などを新設することを目論んだが、実現しなかった。そして盗聴法から医療観察法まで2000年前後の司法改革は、ともにこの傾向を顕著に示してきた。厳罰化と犯罪化の拡大、罪刑法定主義の形骸化、そして対テロ戦争のなかで「安全安心」があらゆる政策に浸透して、世論も予防として犯罪取締を肯定し、既存の秩序を維持する警察の捜査を歓迎する風潮、そして安倍政権になって露骨になってきた排外主義の感情がそのまま治安監視の体制を支えるようになってきた。

共謀罪はこうした傾向を踏まえてその問題を捉えなければいけない。そもそも共謀罪が登場したときに、改憲派の自民党は共謀罪を支える思想信条の犯罪化、戦時中の言い回しでいえば「道義的刑法」の構築という危険な傾向を内包させたと言える。共謀罪が改憲と結び付く回路を明確に理解する問題意識を持つことが大切だと思う。改憲にも共謀罪にも共通するのは、法の道徳化であり、国家に収斂する個人の位置づけ(近代西欧流の個人主義の否定)である。共謀罪は刑法という領域で展開されている改憲の具体的な先取りであることを見落してはならないと思う。

刑法をめぐる二つの危機(既遂処罰原則の危機と犯罪概念の危機)──日弁連の共謀罪反対意見書へのコメント

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日弁連が、2017年2月17日付で「いわゆる共謀罪を創設する法案を国会に上程することに反対する意見書」を公表した。

共謀罪についての政府側の最近の主張を踏まえた批判となっており、その内容の大筋については異論はない。内容もわかりやすく、法律の専門家ではない人たちにも理解できる内容になっていると思う。この日弁連の批判を踏まえた上で、日弁連の意見書では言及されていない論点について言及してみたい。

日弁連意見書は、批判の論点を「共謀罪法案は,現行刑法の体系を根底から変容させるものとなること 」「共謀罪法案においても,犯罪を共同して実行しようとする意思を処罰の対象とする基本的性格は変わらないと見るべきこと 」「罪名を「テロ等準備罪」と改めても,監視社会を招くおそれがあること 」に分けて展開している。これらの批判の論点に異論はなく、説得力のある批判だと思う。

現行刑法体系の原則とは以下のことだと説明されている。

「現行刑法は、犯罪行為の結果発生に至った「既遂」の処罰を原則としつつ、例外的に、犯罪の実行行為には着手されたが結果発生に至らなかった「未遂」について処罰する(刑法第44条)という体系から構成されている。」

既遂処罰の原則を共謀罪は大きく突き崩す危険性をもっている。法律の専門家の議論を別にして、政府であれマスコミであれ、あるいは地域社会であれ、「安心安全」や「予防」といった観点から犯罪だけでなく自然災害、病気、過失事故など様々な社会や個人が遭遇するかもしれない不利益や障害を未然に防止する対策を政府などが取ることを当然とする雰囲気がある。地震を予知することや病気の感染を予防することと犯罪を未然に防止することとを同じ平面で捉えることを当然とする思い込みが立法府の議員たちにもメディアにも存在するように思う。だから、交通事故を防ぐために警察が交通安全の啓発活動を行なうことや、流行しそうな伝染病を予防するためにワクチンを摂取する対策をとることと、犯罪が実際に実行される前に取り締まることとの間には、いずれの場合も、未然に被害を防止するという点では共通しているように見えてしまう。犯罪については、犯罪被害者を救済する最適な対策は、そもそもの犯罪を未然に防ぐことだという主張は、決して軽視してはならないそれなりの「説得力」のある主張だと考えないといけないだろう。この一見説得力のあるかに見える議論が欠落させているのは、「犯罪」という概念が社会的に規定されたものだという点だ。江戸時代であれ現代であれ地震は地震であるが、犯罪とされる行為は、法の定義によって与えられるものであって、時代や社会を超えて同じようには現象しない。犯罪を自然災害と同列に扱おうとするのは権力者の詐術であるということを認識することが何よりも大切なことだ。

犯罪をあたかも自然災害同様に未然に防止すべきとする一般的な犯罪についての理解が、共謀罪を容認しかねない世論の背景にあるから、最近の世論調査でも、共謀罪への危惧や批判は必ずしも大きいとはいえない数字になっているのではないか。調査によっては圧倒的に賛成が大きいというデータもある(時事:2017/02/17:賛成66.8%、反対15.6%、日テレ:賛成 33.9 %、反対 37.0 % 、朝日:賛成44%反対」25% など)こうしたデータは、振れ幅が大きいが(質問の方法でかなり回答が左右されることを示唆している)、日弁連に是非考えて欲しいのは、既遂処罰が原則だという刑法体系を共謀罪賛成と回答した人たちは果してきちんと認識していたのだろうか、あるいは反対という人たちもまた、既遂処罰の原則を念頭に反対したのだろうか、という点である。上に述べたように、むしろ既遂処罰の原則は、社会感覚としてもかなり揺らいでいるのではないか。この揺らぎは自然の成行きではなくて、政府が「安心安全」(警察は「安全安心」とも言うが)を繰返し政策の課題にして口に出すようになってきたことの効果ではないだろうか。とすれば、日弁連は、意見書の前提となる既遂処罰という基本的な刑法の原則を再度積極的に主張することが必要ではないかと思う。被害者が出るまで何もしないのか?という批判にきちんと反論できなければ、テロを未然に防ぐべきではないか?という主張にも反論できないだろう。このことはそもそも刑法とは何であり、処罰とは何を意味するのかを再度きちんと主張しておくことが必要だということである。

意見書は既遂処罰の原則を前提として共謀罪批判を展開している(これに私は賛成だ)ので、以下のような主張は重要だと思う。

「『未遂』の前段階である『予備』(犯罪の実行行為には至らない準備行為のこと)、さらにその前段階である「陰謀」(2人以上の者が犯罪の実行を合意すること)が処罰の対象とされる場合もあるが、れら『予備』や『陰謀』は各罪の中でごく例外的に処罰対象とされているにとどまる。この点は,現行刑法典だけでも、『既遂』が200余り規定されているのに対して、『未遂』は60余り、『予備』は10余り、『陰謀』はわずか数罪にとどまることからも明らかである」

共謀罪法案では、長期4年以上の刑が定められた犯罪が対象となるから、「未遂」「予備」にもならない段階で犯罪が一律成立してしまうことになり、既遂処罰の原則が根底から覆り、既遂処罰は刑法のなかの例外になってしまう。

日弁連が指摘していない論点がここにあるように思う。それは、そもそも「既遂」とは何か、という問題だ。犯罪が実行されたことをもって「既遂」というわけだから、未遂や準備、予備を独立の犯罪類型として認める場合、言葉のニュアンスとは別にそれ自体が犯罪だから未遂、準備、予備などと言われながらそれ自体が独立した犯罪となる。奇妙なことに、未遂といいながらそれ自体が犯罪であるという意味では既遂となり、既遂処罰の原則に符号するということになりはしないか。同じ理屈で、意見書で「犯罪行為の結果発生に至った『既遂』の処罰を原則」と述べているが、共謀罪が成立すると共謀=犯罪行為とされるわけだから、共謀の成立をもって既遂とされ処罰の対象となるということになる。こうなると共謀罪を前提とした刑法でも、既遂処罰の原則を維持しているという屁理屈が成り立ち、共謀罪ですら罪刑法定主義を逸脱していない、刑法の原則は堅持されていると言いくるめられかねない。既遂処罰の原則はもはや意味をなさない空文となる。日弁連の意見書が主張しなければならなかったことは、そもそもの「犯罪行為」とは何なのか、という点を明示的に示すことにあったのではないだろうか。実はこの犯罪とは何なのかが世間が抱く常識のなかで、道徳違反の行為や意識と区別がつかなくなってきているように思う。

こうした状況をみると、戦前、大正デモクラシーの時期に高揚した社会運動や反政府運動に手を焼いた政府が、その後、過激社会運動取締法案を出したり、思想犯保護観察法や治安維持法を成立させるなど治安立法攻勢を繰り返すなかで主張されたのが、刑法を「淳風美俗」や「美風良習」として捉える観点であったが、これが戦後完全に払拭されずに公序良俗論として延命した経緯を軽視すべきではないのではないかと思うのだ。司法や法学における戦前、戦中、戦後の連続性問題は別途検討すべき重大課題だろう。犯罪に対する大衆の社会感覚に、政府や司法が繰返し主張する「犯罪」や刑罰についての戦前から継承されてきた権力的な理解が影響を及ぼしてきていることの表れともいえる。戦前の感覚でいえば、共産主義やアナキズムはそれ自体が「犯罪」であった。こうした犯罪感覚は、大衆意識に支えられて容易に受容されたことを踏まえれば、どのような事柄を「犯罪」とみなすのかは、権力の意向に思いのほか左右されうるのであって(現在では、「テロ」なる曖昧模糊とした事柄がその格好の標的になっている)、自然災害などのように明確で客観的な範囲を確定できるものではないのだ。だからこそ、野放図に犯罪の定義が拡張されて道徳や思想信条の領域と区別がつかないことになりがちなのだ。刑法も司法もこのなしくずしに歯止めをかけられていない。

既遂処罰の原則が揺るぎをみせているという点は、日弁連の意見書にも反映している。意見書では「『予備』や『陰謀』は各罪の中でごく例外的に処罰対象とされているにとどまる。この点は、現行刑法典だけでも、『既遂』が200余り規定されているのに対して、『未遂』は60余り、『予備』は10余り,『陰謀』はわずか数罪にとどまる」と指摘する一方で、越境組織犯罪防止条約に関連して「我が国においては,主要な暴力犯罪について,『未遂』以前の『予備』、『陰謀』、『準備』段階の行為を処罰の対象とする規定が相当程度存在している。 」とも指摘しており、既遂処罰の原則が現行刑法でもかなり揺らいでいることを示唆している。問題は、予備、陰謀、準備など既存の刑法の規定を肯定する前提にたって越境組織犯罪防止条約の批准は可能だという論理を組み立ててしまうと既遂処罰原則と整合しない。むしろ既遂原則を徹底させるべきだという観点に立つとすれば、既存の刑法にある予備、陰謀、準備などの犯罪化あるいは処罰を見直すべきだという主張になるのではないか。しかし、そうなると越境組織犯罪防止条約は批准できないかもしれず、批准を肯定する日弁連の立場と矛盾する。問題はそもそも越境組織犯罪防止条約が必要なのかどうかというところに立ち戻らざるをえないのではないかと私は考える。(私は以前書いたように、条約が目的とする実際の効果が全くないなかで法執行機関のグローバル化を助長するだけの条約には反対だ)

こうしてみると、そもそも現行刑法が既遂処罰の原則を徐々に逸脱しはじめており、なしくずし的にこの原則を形骸化していることをも視野に入れ、こうした方向を下支えする世論や政府(執行機関)の犯罪と処罰への誤った理解を是正することに日弁連はもっと力を傾注する必要があるのではないだろうかと思う。

かつて、1970年代前半に刑法全面改正を法制審が提案して大問題になり頓挫したことがある。当時、日弁連は『自由と人権を守るために:刑法改正読本』(日本評論社、1975年)の冒頭で次のように述べていた。

「もともと、国家が国民を統治支配するさまざまな手段のなかでも、刑法は、最も強制力の強い最後の手段であり、刑法はそのあり方を定める基本法です。したがって、刑法が何をどのように処罰するのかは、国民の生活と権利に密着する大きな問題であり、その国の政治形態や民主主義のあり方に深く結びついているのです。」

この当たり前の観点を今再確認しておく必要がある。とりわけ「強制力の強い最後の手段」という位置づけは今ではほとんど忘れられているのではないか。刑法ほど「国民」(わたしは、刑法の問題でこの概念を用いるのは間違っていると思うが)に対して強い力をもつものはない。そしてその実際の力を握るのが警察であるということをも念頭に置く必要があるだろう。この点を踏まえると、意見書は、法案の条文解釈や政府の答弁についての解釈を超えて、司法や警察が法を恣意的に解釈して運用している実態に踏み込んだ批判にまで至っていないように思う。上に述べた既遂処罰原則が揺らぐように警察が「安全安心」を先取りする捜査や取り締まりを実施できること自体を問題として、警察権力を規制する具体的な立法や法改正をも同時に提言する必要がある。沖縄平和運動センター山城博治議長を4ヶ月以上も拘留するようなことが実際に可能になっており、これを警察だけでなく裁判所も最高裁すら容認したことは、警察の捜査、逮捕拘留の異常な手法に最高裁がお墨付きを与えたことになり、これは全国に拡がる危険性が高い。こうした現状を踏まえると、共謀罪が成立した以降に起きるであろう事態はより深刻であって、問題は共謀罪だけではなく、既遂処罰の原則と刑法の基本的な意義を逸脱しないように警察権力を抑制する法律の制定をも視野に入れなければ、恣意的な法の運用による民衆的自由への抑圧はますます強まってしまう。

冒頭に述べた通り、日弁連の意見書が共謀罪の上程を目前にしたこの時期に出たことの意義は非常に大きいと思うし、世論や国会での審議にも少からぬ影響力をもつことを期待したい。この期待を踏まえてなお、敢えて何点か私見を述べてみた。法律の専門家からすると雑駁で的はずれの議論や批判かもしれない。ご意見などあればお寄せいただきたい。

絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(4・終)

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絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(1)
1.今国会への共謀罪上程に際しての政府・自民党のスタンス
2.戦後体制はそもそも絵に描いた餅だったのかもしれない
絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(2)
3.共謀罪容疑での捜査に歯止めをかけることはできない
4.越境組織犯罪防止条約は批准する必要がない
絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(3)
5.共謀罪を支える操作された「不安」感情
6.テロリズムのレトリック
7.オリンピックと共謀罪(以上前回まで)


8.国会の審議は、法とその執行とは本質的に異なる次元の事柄だ

今回テロ対策を前面に据えていることから、共謀罪のターゲットが刑事犯罪一般を包摂しつつ、政治的な行為への取り締まりに重点を置くように、その対象が質的に拡大されたといえる。このことを踏まえて私が危惧するのは、これまでの警備公安警察の対応からもはっきりしていることだが、警察による恣意的な法解釈に対して、国会の議論は全く歯止めにはならないということだ。(だから審議をすることは無駄だと言いたいわけではない)議院内閣制をとり、憲法裁判所がなく、三権分立というよりも三権分業体制で国家意思に民衆を統合するような制度構造上の欠陥にその原因があるが、これは戦前も戦後も変るところはない。自らもその一翼を担う「国家」こそが権力の主体であり、民衆は権力の「客体」あるいは権力に従属すべき存在であるという意識を再生産するような構造が基本にあると言わざるをえない。戦後憲法の主権在民が現実の権力機構のなかで具体化されているとはいえないのだ。私たちはこの意味で、深い絶望をかかえながら国会の審議を注視しながら廃案を主張しつづけなければならない。

立法府の議論が、法の理念や条文がもつ普遍的な真理に関わるものであるかのように教科書は教えるが、このような議論は国会ではほとんど意味をなさない。学者や弁護士などの見解が公聴会などで聴取されることがあっても、それが国会の議論の実質を左右することはない。形式的な手続き以上のものではないが、やらないよりはマシだし、法案を廃案に追い込むための戦術として利用できるという意味はあるが、そこで議論された内容が法案審議を左右することはまずない。カール・シュミットが『現代議会主義の精神史的状況』で指摘していたように、議会は理念とは関わりのない政治的な打算と妥協のための取引きの場にしかならない。やっかいなのは、こうした議会のありかたが議会制民主主義の本質であるにもかかわらず、これを形骸化された姿だとして「真の」議会制 民主主義がありうるハズだという期待を政権に批判的な左派が抱いてしまうところにある。打算と妥協の議会政治は近代国民国家の構造的な欠陥であるから、どこの国でも、議会政治は腐敗の温床となり、既存の権力への異議申し立ては、議会政治に収斂せずに、大衆運動として議会外に登場する。言い換えれば、議会政治の外でしか、政治や統治における理念や理想の言説や行動は存在しえないと言ってもいい。多くの有権者は、国会はある種の茶番だとも感じているのではないか。投票率は下がり、センセーショナルな「劇場型」と呼ばれる無意味な熱狂を煽る政治家たちが人気をとる一方で、シリアスな政治への無関心が拡がる。政治に無関心な若者たちが暗に批判されたりするが、これは的はずれで、むしろ彼らの関心を逸らすような国会の茶番に加担しないような国会との関わりを反政府運動の側も工夫することが迫られているとはいえないだろうか。この茶番を通じて執行権力の正統性を支える法が成立し、人びとの権利は、この茶番を通じて抑圧されるという厳然たる事実は揺がない。

権力の恣意的な法解釈と適用の問題は、三権分立ならぬ三権分業の権力構造以外にも、もっとやっかいな問題がその背後にはある。そもそもの法律が抽象的な文章で成り立っているのに対して、法律が適用される対象は個別具体的な事柄だから、この両者の間に解釈の主体を立てなければ、法律は実効性をもたない。法律学の課題の中心にこの解釈という問題があるが、これは法律の問題というよりも、コミュニケーション一般が抱え込んでいる平等を阻害する問題にその根源がある。

やや迂遠な話をしたい。どのようなスポーツにもルールがある。スポーツの試合で、選手の行動を見て、その行動がルールブックにある違反にあたるかどうかを審判が判断するが、審判がやっていることは、実際のプレイヤーの行為を注視しながら、彼/彼女が解釈する抽象的一般的に記載されたルールを参照しつつ違反かどうかを判断する。一方に言葉によって説明される抽象的な世界があり、他方に言葉ではない具体的な行動の世界があり、この両者はどこまでいっても交わることのない二つの世界だ。解釈する者たちは、行為者と法の間に立つのである。プレイヤーもルールを「理解」しているが、違反の有無を決定する権限は持たない。ルール解釈の主体は審判であり、ルールを制定した者ではない。ルールに書かれた言葉の解釈は一つではないし、プレイヤーの行動の判断も一つではない。この言葉と現実の間の解釈をめぐる関係は、一般的にいえば無限に複雑で安定しない。しかし、安定させる(固定化させる)条件が、解釈の強制ともいえる力の存在、つまり唯一のルールと行為の関係についての判断を担う審判の存在である。ここでいう力は暴力の意味ではなく、人びとがその解釈を当然のこととして受け入れる解釈者=審判の権威である。プレイヤー相互の関係は平等である。しかし、ここに審判という存在を介入させると、当事者相互の関係は平等にはならず、ルールを現実の行為に適用する特権的な存在が登場する。ルールの策定者は、この全体のゲームをメタレベルで規定する存在でもある。ルールそのものを変更することができるのはルールの策定者である。既存のルールに納得できないとしてもプレイヤーにも審判にもルールを勝手に変更する権限はない。ルール変更の問題は、誰にルール策定の主導権があるか、という別のレベルの政治的な力の問題である。権力全体の構造でいえば、ルール策定の主導権をとるとともに、審判としてルールを解釈し適用する実際の力をも合わせて持つことによって、ゲーム全体を支配する力を獲得できるということになる。これが独裁と呼ばれる構造である。ルールが上記のような仕掛けを必ずもつということではない。多分近代スポーツのゲームのルールの構造は、近代の統治機構のルールの構造をどこかで模倣しているところがあるのかもしれない。いずれにせよ、この構造においては、その関係者相互の間には平等は存在しえない。

上の例を社会に置きかえると、ルールを策定するのは国会であり、プレイヤーは人びと(「国民」とは限らない)であり、審判は行政や警察などの法執行機関ということになる。このように考えればわかるように、国会の機能は、法律を適用する主体であり解釈者でもある執行者を規制できない。スポーツのルールと決定的に異なるのは、国家が 民主主義を標榜する場合、主権者は、立法者でもあると同時に、法律が適用される対象となる「国民」でもあるという仕掛けを通じて、あたかもルールの策定者と適用される対象が同一の社会集団であるかのような装いをとることで、ルールの正統性(自分たちで決めたルールだからルールを守るのは当然の義務である)を維持しようとする点にある。しかし、法律解釈という避けられないこの過程は、この装いに反して、解釈による支配という関係を挿入することになる。ここに「法による支配」の限界と抜け穴がある。圧倒な力をもって全てに優越するのが、執行機関ということになる。ある行為に対して「恐喝」という名前で呼ぶかどうかは、恐喝という言葉をどのように解釈し、これを当該の行為と結びつける妥当性を判断する解釈の当事者が担うことであって、立法者の立法意思に従属しない。他方で立法者は「恐喝」を法律に書きこむことによって言葉のレベルで違法性の定義を与えることができる。このことがあって初めて、法執行機関は、この法律に書き込まれた言葉を現実の行為に適用し解釈することが可能になる。

こうして、人びとが執行機関としての国家の権威を受け入れることを大前提として、法律の解釈をこの権威の担い手に委ねることによって、自らの主体的な解釈を放棄する。しかし、国家の権威が揺らぐとき、この強制的な法律解釈も揺らぎ、無限のカオスともいえる解釈の混沌が露呈する。これは法律の正統性の危機を意味する。反政府運動が、法案に反対するとき、その反対の言説や解釈が多くの人びとに受容されるということは、国家の法律解釈の権威が揺らぐということの具体的な表れである。権力は法律解釈の権威を維持するために、対立する解釈を排除しようとするか、人びとに解釈の妥当性を説得しなければならなくなる。この一連の解釈をめぐる対立は、民主主義という手続きを通じてある種の停戦協定を結ぶことになる。対立は宙吊りにされるが、国家の権威はその限りで維持され、民主主義はこの国家の権威の一端を担うことにもなる。しかし、これは本質的に法律が内包する欺瞞から人びとを解放することとは別の問題である。

実はもうひとつ別の意味での国家の権威の揺らぎもある。反政府運動の抵抗を前にして、あるいは、政治的な運動とは呼べないにしても、社会のなかのマージナルな集団が社会的に大きな力をもって政府の権威を拒否するとき、デュルケームが言うような「アノミー」の状態にあるとき、しかもそれらが深刻な状況にないにもかかわらず他方で戦争のような国民統合の必要があるとき、政府自らが国家の危機を演出することがある。国家の権威の揺らぎを偽装するわけだ。そのときに用いられる言説が、民族や文化的な価値といった擬制であるが、この危機の言説を梃子にして、仮想の「敵」を構築して、この「敵」をターゲットとして新たな法規範を構築しようとする。

9.冤罪、転向の強要、法の道徳化...

さて、このややこしい行為対象と言語で構成された法律と、これらを「解釈」する法執行の主体の関係が共謀罪の場合どのような問題を抱えこむだろうか。この法律と現実の間にある「解釈」という問題が、共謀罪のような具体的な実行行為ではないコミュニケーションに適用されるとどうなるのあろうか。コミュニケーションという「行為対象」は言葉で構成されているから、この言葉は物的な証拠によって確定されるのではなくて、言葉の解釈に依存する。物的証拠の解釈と言語の解釈は同じではない。自白は言葉による過去に行なわれたとされる行為についての告白だが、自白の信憑性を裏付けるためには物的な証拠が必須となるのは、言葉が真実の表明であるという必然性がないからだ。しかし共謀罪の場合、いかなる意味においても物証はない。あるのはコミュニケーションだけである。捜査機関によって共謀と解釈されるコミュニケーションがある種の「自白」に準ずることであるとしても、未だ実行行為には至らない以上、その「自白」の信憑性を証明する客観的な事実は存在しない。こうして共謀罪は、「言ったこと」は「やったこと」と同じこととみなすという前提をとることになる。「言った」以上は「やっていない」としても、共謀罪として立件できるというのは、このことを意味している。自白の偏重どころか自白のみで、その信憑性の証明も実行行為の有無も抜きにして犯罪として処罰できる。こうした共謀罪の本質が、既遂や未遂のこれまでの取調べや裁判の判断に逆作用する危険性があり、ますます自白偏重、疑わしきは被告人の不利益へと転換してしまうきっかけを与えてしまう。

以下、これまで述べてこなかった共謀罪をめぐる重要な論点を二つだけ取りあげる。

一つは、共謀罪における冤罪の問題である。共謀罪は、冤罪事件にも甚大な影響を及ぼすことになるだろう。そもそも共謀罪で有罪とされた場合、これを冤罪として再審に付すにはどうしたらいいのだろうか?相談も会合にも参加していないのに誤って検挙、起訴、有罪となった場合であればいざしらず、相談に参加し、議論のなかでは行動に賛成の意見を述べたが、考えを変えて、組織の方針を決定する無記名投票では反対票を投じ、その後も組織のメンバーではあり続けたが行動には参加しなかったような場合はどうだろうか。共謀罪は、会合での発言を証拠として、会議に参加したというだけで立件できてしまう。しかし、会議で行動に賛成しながら反対の投票をしたという主張を裏づける物証はない。検挙された本人は取調べで、「自分は反対に投票した」と主張した場合、捜査当局は、一方で会議での本人の発言のみを共謀罪容疑の証拠としてとりあげ、「行動には反対の票を投じた」という本人の取調べでの供述は退けるという恣意的な対応をとることになる。あるいは、会議での様々な意見にもかかわらず、最終的な議決によって採択された行動を理由に、会議に出席していた参加者全員を共謀罪で立件するということも可能かもしれない。こうしたケースは、決して例外とはいえないだろう。討議の過程で参加者の意見が変化するのはごく普通にあることであって、それこそが平場の民主主義だ。討議の結果としてなされた決定に全ての参加者が同意しているとはいえないのが民主主義的な組織の通常のありかただろう。コミュニケーションの内容の何をどのように解釈するのかを物証のない段階で確定することは恣意的にならざるを得ないのだ。参加することを犯罪とするのではなく共謀を犯罪とするとしながら、実際にはコミュニケーションの内容がどうであれ、会合に参加したこと自体を、あるいはある団体や集団に属していること自体を処罰の対象とすることになるのではないだろうか。

二つ目は、反政府運動など、確信犯としての政治犯の場合の刑罰とは何か、という問題である。戦後憲法の建前からすれば政治犯罪はありえない。統計上も日本には政治犯は存在しないことになる。すべての犯罪は一般刑事犯罪であるとされる。しかし実際には、政治的な権利行使を弾圧する手段として、その容疑者を一般刑事犯に偽装して処罰するというのが現状だ。一般に、刑罰は、見せしめを目的とする応報刑の観点であれ、社会への再統合を目的とする教育刑の立場をとる場合であれ、「犯罪」行為の阻止の手段とされる。この場合、刑罰の対象は、違法な行為の実行が主として問題とされるから、内面はどうあれ、実行行為を抑止する効果が期待される。では、思想信条の自由が憲法で明記されるなかで、政治的行為が犯罪として処罰されるという場合、どのように考えられるのだろうか。政治犯も一般刑事犯と同じように刑罰を課されるが、その目的もまた一般刑事犯と同様に、行為の動機や動機をもたらすことになった思想信条が「犯罪」の根拠であるとして、こうした思想信条の除去が図られることになりはしないだろうか。共謀罪は、実行行為が不在であり、存在するのはコミュニケーションだけだから、とりわけ対象になるのはコミュニケーションの内容になる。こうなると、思想信条自体が共謀罪という犯罪を生み出す原因になるとして、思想信条の放棄、つまり、転向を強要することになりはしないだろうか。

これは、法が道徳をまとって、道徳を強制する手段になるという問題だと言ってもいい。犯罪と呼ばれる行為を一般的に定義するとすれば法律に罪として明記された行為のこと、とでも言う以外にない。しかし、他方で、ある種の通念として、犯罪は道徳や社会的な慣習などに著しく反する行為を意味するようにも思われている。たとえば人を殺すことは道徳的に認められない行為なので、こうした反道徳的な行為を法律で犯罪として明記して処罰の対象にしているのだ、と理解されがちだ。一般に、道徳に反する行為を法律で処罰の対象とすることに多くの人びとは抵抗感を持たないからだ。

しかし他方で、道徳的には「悪」とされる場合であっても法が積極的に合法だと認める場合がある。刑法第三十五条 には「法令又は正当な業務による行為は、罰しない。」とある。だから第百九十九条で「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」とあっても、「 法令又は正当な業務による」殺人は罰せられないことになる。業務による殺人とは、死刑執行がその典型だ。警察官が拳銃を所持しているのも業務上の殺人の可能性を認めているからだろう。日本では今後議論されるだろうが、一般に軍隊の殺人が犯罪にならないのもこうした規定がどこの国にもあるからだ。道徳的にいえばいかなる殺人も例外なく「悪」とすべきだろうが、法はこうした意味での道徳とは一致しない。

したがって、何が犯罪かは、普遍的な「罪」(キリスト教でいう原罪のような観念)の定義から導くことはできない。法律で犯罪として掲げられるから犯罪になるのであり、法律に先立って犯罪行為があるわけではない。犯罪に対する刑罰は、理由の是非は別にして、社会が定めたルールに違反しないことを約束させるための懲罰あるいは「教育」や「訓練」、つまり社会への再統合のための措置である。「なぜ、それが違法なのか」という問いは意味をなさない。有無をいわせずルールを守ることを強いることになる。

このように、法律は死刑や戦争での人殺しのように道徳に反して人殺しをすることを合法とするという意味でいえば、道徳よりも国益に加担するものともいえる。刑罰が犯罪者を社会復帰させて、社会の秩序に統合することを意図するものだという面でいえば、違法行為者への刑罰は、行為に至った動機や意思に含まれる当該社会が道徳や倫理とみなす価値観に反する個人の内面への処罰を含まざるをえない。犯罪を犯したことを自覚して反省するということは、取調べから裁判の過程で常に被疑者に要求される。改悛の状を示すことが、拘留や量刑を左右する。これは、内面に対する権力のあからさまな干渉であるが、最小限、違法な実行行為を抑制する判断力さえ持てればそれで刑罰の役割は果たしたともいえる。こうしたことを前提にすると、共謀罪が、反体制運動や反政府運動などの政治活動に適用された場合、共謀罪という犯罪を犯した者に権力が要求する更生の内容や刑罰は、そもそも実行行為を処罰するわけではないのだから、思想を抱いたことを反省させ、そうした思想を棄てて転向することを強要することになりはしないか。二度と違法となるような意思や思想や信条を抱くことのないよう要求することになる。民進党のように、構成要件を厳格にすれば共謀罪はあってもいいなどというのは、刑法が違法性と刑罰に込めた社会への適応や更生の前提が思想信条の転向の強要に及ぶことになる共謀罪の本質を理解できていないと言うしかない。共謀罪が内面の自由を抑圧して、支配的な価値観への服従を要求せざるを得ないものである以上、これは廃案とする以外にないのだ。

10.おわりに

この長いエッセイでは、主として反政府運動が共謀罪によって被るであろう権利侵害を念頭に置いて書いてきた。これとは別に、一般刑事犯の問題や文化犯罪学が対象とするような文化的な表現の犯罪化が共謀罪の成立で被る深刻な問題は別途検討してみたいと思う。

やや総括めいたことを最後に書いておく。まず、私たちが自覚しなければならないのは、現在の日本が確実に対テロ戦争の一方の当事者として「戦時体制」のなかにあるということである。共謀罪は、この戦時体制が必然的に要求している法による民衆支配の枠組である。そして、テロを真正面に据えてきたことからもはっきりしているが、反政府運動を主要なターゲットにしているのであって、このことは、広範な市民運動や草の根の地域の運動を公然と監視対象にできることを意味してもいる。共謀の証拠を収集するためには何はともあれ監視の強化が図られることは間違いない。

この戦時体制を覆すことが文字通りの意味での法の支配を最低限実現する上では必須であるが、それは長期的な展望でいえば、近代国民国家が構築してきた権力の構造の限界と矛盾を解決するものではないから、その先を見据えることも必要になるだろう。

近代の民主主義と憲法の理想が掲げられたこの数世紀、あるいは20世紀以降の歴史は、より平和で平等な世界を実現する方向で展開してきただろうか?むしろ逆ではなかったか。共謀罪に体現されている問題の背景には、近代国民国家が建前としてきた法治国家の欺瞞が露出してきたということではないかと思う。日本に即していえば、1945年の断絶は支配者にとっては決定的ではなかったということ、刑法の分野でもそういえるのではないか。とすれば、支配者の本音は、行動の取り締まりではなく、思想信条の段階からの取り締まりを欲しているということになるのえはないか。戦後は、こうした思想信条の取り締まりを一般刑事事件の枠組を転用して遂行してきたが、憲法が弛緩するなかで、徐々に、思想そのものの犯罪化が前面に登場し、わたしたち民衆の自由は、今でこそ風前の灯にあるのに、権力の自由によってますます隅に追いやられるということになるのではないか。

こうしたなかで、いわゆる「民主主義」や「憲法」といった既成の法の枠組は、権力の自由な行使を正当化するような力として存在するようになってきたのではないか。そうだとすれば、民主主義や憲法あるいは法治国家という制度には、権力の独裁を正当化する欺瞞を生み出す根源もあるとはいえないか。もしそうだとすれば、わたしたちは、むしろこうした統治のメカニズムに内在している限界を越えることを意識的に目指すべきではないか。私たちはもっと大胆に、近代の国家や民主主義がもたらした悲劇に目を向け、これを覆すに足る想像/創造力を獲得しなければならないのではないか。とはいえ、この国の歴史は、近代西欧の価値の転覆といった言説を「近代の超克」=日本的な価値の再認識といったファナティックな愛国主義の言説に接合してきた経験をもっている。とりわけ転向したマルクス主義者が抑圧や搾取の理論を欧米帝国主義批判=アジア解放の盟主としての日本といった荒唐無稽な物語に改竄して応用するという歴史を持ってきたことを決して忘れてはならない。こうした転向は戦後も繰返し出現しており、この傾向は今後更に加速化するだろう。

反政府運動が基本的な理念として、「日本」とか国家といったつまらない言説にとらわれない想像/創造力をなぜ持てないのだろうか。人類200万年の歴史のなかで、ほんの数世紀の出来事でしかない近代の国家や法が人類の普遍的な価値を体現できる統治の仕組みだというのは、「神話」である。200万年の歴史の経験はもっと別の可能性を教えてくれるはずだ。この近代の価値の欺瞞に気付いた世界中の民衆が、その是非は別にして、そうではない価値を模索して試行錯誤しているのが現在の状況ではないか。16世紀以降の近代の時代は、戦争と侵略が近代国家と議会制民主主義の理念と表裏一体で登場した時代だということを忘れるべきではない。民主主義も憲法も国境を越えることはなく、国境の外に抑圧を生み出し、しかも憲法も民主主義も茶番と擬制の言説として形骸化の過程を辿ってきた。右翼ナショナリストも宗教的な原理主義もこのような近代の価値観の枠を越えることはできないだろうと思う。世俗的な左翼もまたこの罠に自ら陥いるのであれば墓穴を掘ることになるが、逆に、全くこれまでにない人間の集団性の規範を構想する開かれた可能性を持つことができさえすれば、その存在感を失うことはないだろう。私はまだその可能性は十分あると考えている。(おわり)