小さな抵抗を繋ぎながら、これまでになかった社会運動のあたらしい可能性を拓く

インターネット以前の新聞、ラジオ、テレビが支配的な情報環境の時代には、マスメディアの一方的な情報拡散が人々の政治や生活の傾向を大きく左右していた。一方的かつ画一的な大量の情報を散布するマスメディアに対して、労働運動も反政府活動も互角の情報発信力を持つことができなかった。社会運動は既存の印刷メディアや出版流通の制度に依存するのが精一杯で、電波のメディアは全く手の届かないメディアになって戦後の時代を過すことになった。放送免許制度は言論表現の自由を侵害する違憲の制度であるにもかかわらず、法廷の場で争われることもほとんどないまま、海賊放送の文化も根付かなかった。戦後日本の社会運動は、独自のメディア運動を構築できないままインターネットの時代を迎えた。

1990年代以降、インターネットに代表されるコミュニケーションは、個人が大企業や政府と同等の情報発信能力を可能にした。政府のウエッブと個人のウエッブは平等にネット上で誰もが同じようにアクセス可能な環境のなかで存在することになった。通信コストは印刷に比べて大幅に軽減された。多くの社会運動もメールやメーリングリストを駆使し、ウエッブを開設することで、人類史上初めて民衆が権力者と対等の言論・表現の発信力を獲得した。しかし、残念なことに、政府やマスメディアと互角の情報発信の力を支えたコンピュータ・コミュニケーションの技術を、政府や企業の独占に委ねることに抵抗して民衆の知識として共有・開発するハッカーの文化は日本の社会運動のなかには根付かなかった。

メールは自宅の郵便ポスト同様、不要で不快な広告を一方的に送り付けるための手段になった。ウエッブは、誰でも開設できるとはいえ、若干の技術的なハードルがあり、しかも世界中の無数のウエッブから自分のサイトを見付けてくれる確率は急速に低下してしまった。メールは不特定多数への発信には不向きで、ウエッブは誰かがアクセスしてくれるのを「待つ」しかない受け身の存在という欠点がある。しかもスマートフォンが普及するにつれて、パソコンの時代に開発されたメールもウエッブも扱いにくいものになつてしまった。誰もが手軽に、スマホで利用でき、不特定多数に対しても発信できる第三のメディアがTwitter(現在のX)やFacebook、Instagram、TikTok、Youtube、Lineなどの無料のSNSだった。

人々はSNSに殺到し、ネットの情報環境の主流となった。そしてSNSは社会運動にとっても重要な情報拡散の道具となった。デモ、集会の告知・拡散の必須の道具として、こぞって皆このメディアに頼るようになった。もちろん、私の大嫌いな極右や排外主義者たちも世界中のどの国・地域をみてもSNSを駆使してその暴力を急速に伸ばすようになった。同時に、Google、Amazon、Microsoftなどプラットフォーマーは、人々に無料で情報発信の手段を提供する一方で、人々が実感できない手法を用いて密かに世界規模で膨大なデータを収集・解析し、これをAI開発から兵器まで様々な用途に利用するようになった。

かつてのマスメディアの時代との大きな違いは、人々の発信行為を企業の収益に連動させる仕組みが開発されたことだ。この仕組みによって、一見自由にみえる人々の情報発信もプラットフォーマーの利益優先の仕組みのなかで操作可能になった。たとえば、企業利益や政府の思惑と連動してヘイトスピーチや偽情報の発信がシステム的に過剰生産されるようになる。その一方で、人々の発信の傾向や動静を詳細に把握・分析して、将来の行動予測に利用できるようになり、人々の消費行動、選挙の投票行動だけでなく、政府による検閲やプロパガンダの手段としても利用されるようになった。更にはガザ戦争のように、空爆の標的を特定するための必須の手段にもなり、今や戦争に欠かせない武器になった。実感としては自由な投稿と拡散のように思えても、実際には拡散が抑制されたり、逆に過剰な拡散が促されたりする巧妙な情報世界が生まれ、これが情報戦にも利用されるようになった。ここに生成AIのようなやっかいな問題が急浮上してきたので、今後の情報環境の激変もありうる先行きが不透明な状況にあるのが2026年冒頭の現状だ。

日本の状況に焦点を当ててみたとき、サイバースパイ・サイバー攻撃の体制構築に本格的に乗り出し、自衛隊もまたサイバー部隊の強化に乗り出している事態に、反戦平和運動や反監視運動がどのように対抗してゆくかが問われることになる。政府は民間を戦争に協力させる総力戦の体制をとりはじめている。国家安全保障の観点から政府組織が再編されるだけでなく、日本経済の基軸をなす情報通信関連の企業が国家予算に依存した経営へと大きく転換している。戦争は自衛隊だけがやるものではなく、官民一体となり、私たちのコミュニケーションの権利そのものでもあるサイバー領域を戦場として、日常生活を包摂するような体制で推進されようとしている。

こうしたなかで、現代の戦争では、実空間での武力行使問題だけでなく、いかにしてネット領域を政府とビッグテックから取り戻し、戦争に加担しない場所に転換していくかが、法案や政府の取り組への反対運動に加えて私たちの重要な課題になる。特に、政府やビッグテックがサイバー領域の監視と情報収集・操作に利用しているSNSや様々なサービスへの依存を減らし、戦争に加担せず戦争に対抗するオルタナティブの情報発信空間を創造できるかが、重要な闘いの場になる。この闘いは決して容易ではない。プラットフォーマーは、その情報拡散力とフォロアーの囲い込みを通じて、既存のSNSからの離脱を阻止しようとする。政府はネット監視に抵抗する技術や運動を犯罪化しようとする。膨大な情報収集や監視の仕組みは、人々の実感を伴わないために、多くの人々にとって危機感を持たれずに、戦争に動員されかねない。

他方で、戦争犯罪や政府の監視に加担するビッグテックをボイコットする運動は、運動の仲間とともに少数からでも始めることができる実践でもあり、ネットのライフスタイルを変える闘いでもある。こうした生活文化変革の闘いは、農と食のありかた、原発に頼らないエネルギー、効率性や便利さを価値とする地域開発の価値観と闘ってきた世代にとってはすでに経験済みのことでもあるはずだ。これをパソコンやスマホをめぐるサイバー領域のライフスタイルに持ち込むことが今必要になっている。2026年は、こうした小さな抵抗を繋ぎながら、これまでになかった社会運動のあたらしい可能性を拓く年にできると思っている。

意味と搾取(改訂版)第一章拡張される搾取

意味と搾取(改訂版)序章はこちら

Table of Contents

1. 拡張される搾取:土台と上部構造の融合

1.1. 機械と<労働力>:合理性の限界

1.1.1. 機械が支配した時代

本章では、本書の主題であるコンピュータが支配的なテクノロジーとなった時代の資本主義に対する批判の前提として、機械が支配した時代の資本主義を主に念頭に論じることになる。私がここで展開する歴史観は、資本主義に対する諸々の批判とその具体的な運動が資本主義の支配的な構造との間で展開されるある種の弁証法的な過程が歴史の経路を形成する、というものだ。資本主義批判に対して資本主義側はこの批判を吸収して対応したり、あるいは、逆に強圧的な弾圧で既存のシステムに固執する。どのような対応をとるのかを一義的にあらかじめ決定することはできない。しかし、資本主義への批判が運動化されて大きな潮流になればなるほど、この批判の矛先となる資本主義の側は、その矛盾点を調整して批判を吸収あるいは排除する。19世紀末の社会政策もナチス経済やニューディールも――国家の経済システムとしては本質的に変わらない――経済の計画化をシステムにとり入れるとともに、階級対立を国民的な統合に組み換えるイデオロギー装置の開発が進められるが、これは自然な歴史的発展ではなく、闘争の弁証法的な帰結である。

こうしたなかで、対立の構造は転換し、マルスクが分析した19世紀的な階級と経済的な搾取は、階級構造のなかに強固に維持されながらも、属人概念としての「階級」が解体されて「国民」とか「市民」という個人のアイデンティティが構築されるようになる。階級は属人概念では把握できなくなり、構造として再構築される。闘争の主体の側は、属人概念に基づく集団や組織として構成されるために、構造としての階級との闘争という観点を見出せない限り、階級闘争は反資本主義の中心を担えなくなる。これは資本主義的な闘争の弁証法が機能した典型的な事例だ。結果として、属人的な集団や組織が担う課題は、多様化し分散化しながら資本主義の矛盾との闘争が継続される一方で、これら多様で分散化した資本主義批判を全体として把握しうる批判的なグランドデオリーが存在しないために、反資本主義の運動は、旧態依然たる「社会主義」モドキの社会を掲げること以上の展望を提起できず、20世紀の社会主義はことごとく、解放への出口を見出せないまま、資本主義が準備した経済と政治の権力のアリーナに引きずりこまれてしまった。

こうした考え方を前提にして、マルクスが『資本論』で論じた一連の資本主義的な矛盾を、資本主義の側がコンピュータの時代になって解決可能なものにすることに成功したのかどうかを確認したい、というのが本章の狙いだ。主題となるのは、<労働力>と化した人間をめぐる管理、指揮、命令、制御、監視といった一連の問題である。

労働市場を通じて売買される労働可能な能力は定数ではなくあくまで変数であり、この変数は、労使間の権力関係や機械化による拘束、職場のストレスや私生活の状況など様々な要因によって変化する。市場で売買されるのはあくまで、労働可能態としてである。マルクスは労働と労働力を概念的に明確に区別することによって、資本の利潤の源泉となる剰余労働の存在を明らかにした。私も本書でこの観点を継承するが、マルクスが明らかにしたのは、搾取の量的な側面であって、搾取の全体ではない、というのが私の主張だ。<労働力>とカッコに括って表記する場合がある。これは、人間の労働能力そのものが可変であり、労働者による労働する意思に依存することを明示する変数としての労働力の性格を明示するための表現だ。労働者がどれだけの能力を発揮しようとするのかという問題は、労使関係のなかで重要な意味をもつ。たとえば、労働する能力を有しながら労働力の発揮をあえて抑制したり停止する(ストライキ)ことは労働者の重要な権利であり主体的な決断の側面である。<労働力>を変数であることを明示し、これをマルクスの定義する労働力の概念と区別して表現するのは、こうした労働者の抵抗の潜勢力を強調したいからでもある。

<労働力>が売買されるということを私たちは、会社に雇われて働くことであり、労働が契約によるルール化を受け入れ、このルールを遵守することは、労資双方約束だという建前を受け入れている。もちろん労働者は雇用主が狡猾にルールをかいくぐって酷使しようとしたり賃金をピンハネすることを警戒するし、雇用主もまた、労働者が従順に働くとは信じておらず、常時仕事ぶりを監視しないではいられないという不信感を抱くこともまれではない。一般商品の売買が前払いであるのに対して<労働力>だけは後払いだというところに、労資の力関係の不均衡と資本の不信感が端的に示されている。

雇用契約とか就業規則の明文化は、労働者の権利を守る上でも大切だとされているが、歴史を遡ると、こうした近代的な<労働力>売買の契約関係が定着するのには長い時間がかかっており、現代の世界全体の人口を視野に入れたとき、むしろ近代的な雇用契約の教科書的なモデルが実際に実現している場合の方が少ないだろう。植民地本国の更に少ない分野でしか、教科書的な労使関係は実現されてこなかった。だから、労働問題が国際的な人道・人権団体にとっての主要な課題でありつづけており、資本主義は建前ほど契約の平等と自由を重んじるような体制を自ずと実現できるようなシステムであるわけではない。

この点を踏まえて、工業化=機械化として出発した資本主義的な「経済発展」の経路をいまいちど<労働力>の観点から再構成しておく必要がある。機械化、工業化が始まった当時、労働者の日常がいかに機械のリズムに反し、従って資本家たちを苛立たせていたか。そして、機械の導入とは、この労働者の日常的なリズムの解体と服従の過程でもあったということを再度みていく。

1.1.2. 道具、機械、歴史認識

資本主義の中枢にあり産業革命と工業化が進展した地域では、19世紀に熟練の解体と機械への置き換えが急速に進展し、労働の様相が一変する。社会の人口の多くが農業などの伝統的な産業から引き離されて、都市の工場<労働力>へと短期間に転換できるのは、熟練労働の習得に必要な長年月の訓練が不要になり、短期で習得できる労働が支配的になってきたからだ。こうなると、かつての熟練労働者のように、容易に取り替えがきかない自分の熟練の技能を交渉の武器にして資本に譲歩を迫ることができなくなる。同時に、単純労働が支配的な労働市場は「流動化」しはじめ、資本は市場の需給動向に合せて<労働力>を排除したり入れ替えたり、追加で調達するなど、あたかも<労働力>が「モノ」ででもあるかのようにその数量を自由に調整可能な存在になるべきもの、という認識が資本を支配する。経済学も、労働者を賃金コストとみなして理論体系を構築するようになり、アダム・スミスやデイヴィッド・リカードの労働に関する学説を否定するようになる。労働者は、単純労働であればあるほど、取り替え可能な使い捨ての<労働力>としてのリスクに直面し、生存を維持するための雇用の維持が常に危機に晒されることになる。熟練労働者が主体となった労働運動から単純労働者による労働運動への転換は、労働をめぐる重要な質的切断を伴うものだった。

マルクスは『資本論』第一巻「機械と大工業」でかなりのページを割いて機械が資本主義に果す役割を論じている。1工業化=機械化に対するマルクスの評価はややトリッキーだ。ラダイトのような機械化への拒否を批判しつつ、機械化のもつ二面性に挟撃されながら、難問に強引な決着をつけようとしているところがある。

マルクスは、マニュファクチャから機械制大工業への展開のなかで、機械が膨大な数の熟練労働者の排除と単純労働化による低賃金化をまねくことを指摘する。資本主義的な労働市場に投げ込まれた無産労働者にとって、失業は貧困そのものであるが、同時に雇用されたとしても長時間の劣悪な労働と最低限の生活をかろうじて維持できる賃金しか保障されない人生にしか帰結しない。だから、とくに蒸気織機の利用に対して機械の大量破壊運動が起きるが、マルクスは、これが「[ヘンリー・アディントン・]シドマスや[ロバート・ステュアート・]カスルレーなどの反ジャコバン政府に最も反動的な強圧手段をとる口実を与えた」とその副作用の大きさをむしろ指摘して、「機械をその資本主義的充用から区別し、したがって攻撃の的を物質的生産手段そのものからその社会的利用形態に移すことを労働者がおぼえるまでには、時間と経験とが必要だったのである」2と述べている。機械の資本主義的利用が労働者の搾取と貧困を生み出しているのであって、機械そのもの生産手段としての機能を擁護した。

こうして、この単純労働化がもたらした労働の流動性は、かつての職人のように一生ひとつの仕事に縛られることなく、様々な産業分野を行き来できる労働者の新しいありかたを示すものであるとし、資本主義では実現しえない生産の社会化、つまり労働者が生産への主導権を取り戻すなかで、機械に体現される生産力を労働者の労働能力の全面的な開花として可能にするという楽観的な見通しが示唆される。この楽観論が後の正統派マルクス主義に継承され、資本主義が開発した技術の社会主義における横滑り的な転用を正当化する理屈として俗流化されて、20世紀の社会主義を標榜する体制が墓穴を掘ることになる。資本主義が開発した技術の設計思想は資本のイデオロギーの物質的な体現という側面をもつから、機械をその社会的利用から区別して擁護することはそもそも間違いだと私は思う。この間違いにマルクスが陥ったのは、後述するように、彼の商品論における使用価値批判の観点の希薄さが深く関連している。つまり、使用価値――生活手段であれ生産手段であれ――は、同時にイデオロギーの担い手でもあるという点への関心の欠如だ。工場の機械に関していえば、労働者を統制・制御しようとする意図がなければ、機械化は資本には受け入れられなかっただろう。

他方で、マルクスは機械制大工業に先だつマニュファクチュアに関して、非常に示唆的なことを指摘している。マニュファクチュアにおいて個々の労働者は全体の一部をなす部分労働者として適材適所で機械を操作する仕事をこなす。

彼は、この作業ではより多くの力を、別の作業ではより多くの熟練を、また第三の作業ではより多くの精神的注意力、等々を発揮しなければならないが、これらの属性は同じ個人が同じ程度にそなえているものではない。いろいろな作業が分離され、独立化され、分立化されてからは、労働者たちは彼らの比較的すぐれた属性にしたがって区分され、分類され、編成される。彼らの生来の特殊性が基礎となってその上に分業が接木されるとすれば、ひとたび導入されたマニュファクチュアは、生来ただ一面的な特殊機能にしか役だたないような労働力を発達させる。今では全体労働者がすべての生産的属性を同じ程度の巧妙さでそなえており、それらを同時に最も経済的に支出することになる。3

ここで「全体労働者」と呼ばれているのは、文字通りの意味での労働者ではなく、分業によって様々な作業工程を担う労働者組織が機械とともに構成する全体を「全体労働者」と呼んでいる。この全体に対して、実際の労働者は「部分労働者」として全体の秩序に従属する。「部分労働者の一面性が、そしてその不完全性さえもが、全体労働者の手足としては彼の完全性になる」わけだが、この全体労働者とは資本の組織そのものということになる。この全体労働者と部分労働者の構造は、事務・サービス労働が機械化される過程を理解する上で重要な観点でもある。

機械化が進んでいない時代の事務労働組織は、官僚制に典型的なように、人間の作業を法や規則によって規制し、労働者の能力を個人の適正によってある特定の作業に特化し、それらを相互に繋ぐことで組織全体=全体労働者としての機能を発揮させる。個々の労働者は全体に対する部分として器官化される。相互にどのように人々の作業を連結・統制するのかを規定するルールが必要になる。官僚的な事務組織全体を機制する人間によって理解可能なコードの体系が、法として整備される。この意味での法の機能がコンピュータ化された官僚・事務組織においては、コンピュータのコードとなる。19世紀の機械化の時代に、労働時間は労働者の生命を脅かすほどにまで延長されるようになる。啓蒙主義時代の「法の精神」で仮装して、資本は労働者を支配することになる。機械化が法にもたらした質的な転換を通じて、資本の生産過程において、機械(死んだ労働)が生きた労働を支配できたのは、資本が常に法の外にあり法を自らの搾取のメカニズムに従属させる権力を持つことができたからだ。

書類作成の過程にタイプライターが導入されると、この作業が単純労働化されて、書類のコンテンツ作成から切り離されて、純粋の文字入力作業となり、熟練の解体へと向う。文字を書く作業がこうして、直接的な文章作成に必要な知的な作業と、この作業の結果を印字して書類にするというアウトプットに切り分けられ、後者が機械化されるにつれて労働者は意味を剥奪された「タイピスト」という労働に特化される。ここで構築される書類の「意味」は資本によって制御される。労働者は資本の論理に沿って意味を文字として対象化する。ここでは、彼/彼女にとって意味のある労働とはならない。

後の議論を先取りしていえば、CTC(コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション)が支配的な時代の独自の機械=コンピュータは、多数の部分労働者を結合した全体労働者の位置を占める。労働過程の錯綜した作業工程に必要な様々な作業、たとえば、熟練、大量のルーチン作業、高速のデータ処理、高度な解析作業などがそれぞれに特化したアプリケーションに振り向けられ、労働者は、彼/彼女のスキルに応じてコンピュータ・プログラムによる処理を補助できるように労働組織が区分、分類、編成される。システムエンジニア、プログラマといった技術職からデータ入力やモニターの監視などの比較的単純な作業、処理されたデータに基づくコンピュータによる意思決定に対して人間の組織として最終的な確認を行なうことなど、労働者は個別化されつつコンピュータのシステムに沿って組織全体に、つまり資本に結合される。労働者は、コンピュータ・システムという「全体労働者」の機能=器官に転化することによって組織の規則性が維持される。古典的な工業化では、労働者は機械が果すことのできない判断や思考に直接間接関わる部分を担うように、次第に肉体的な行為の部分を徐々に機械に譲ってきたが、事務やサービス労働もまた、そのなかから計算機によって処理可能な労働を切り離して機械に委ねるようになる。20世紀の事務・サービス労働で起きてきた機械化の過程は、製造業がマニュファクチュアのなかで機械が徐々に導入されるなかで起きてきた労働者の排除と機械による置き換えの過程と、その資本の意図と構造はほぼ相似形である。ただし、今度は、人間の精神的心理的な側面に機械が深く関与するようになったという意味で、人間にとってはより侵襲的な過程になっている。そして、この精神的心理的な過程がコミュニケーション過程でもあることから、この問題は、狭義の資本の生産過程や流通過程を越えて<労働力>再生産過程、つまり私生活領域に接合されることになる。

機械への批判を、ラダイトのような機械の拒否でもなく、またその社会的利用形態だけを資本主義のそれから切り離してしまえば無毒化できるわけでもないとすれば、どうすべきなのか。いかにして資本主義的な技術開発から質的に切断されたテクノロジーを獲得するか、という方向で問題を立て直す必要がある。テクノロジーにおけるオルタナティブが真剣に議論されるようになるのは、核技術や公害、環境破壊が深刻になる一方で、マスメディアが人々の心の支配に深刻な影響を及ぼすようになってきたことへの批判が自覚的に提起される20世紀半ばをまたなければならない。またコンピュータの大衆化が到来した20世紀末に、ふたたびラダイトの影がコンピュータに向けられたこともまた忘れてはならない。4

1.1.3. 資本の秘技

資本の投資動機が最大限利潤の追求であることを踏まえれば、資本主義における機械は、「労働日のうち労働者が自分自身のために必要とする部分を短縮して、彼が資本家に無償で与える別の部分を延長するべきもの」つまり「剰余価値を生産するための手段」であるという基本線は、現在に至るまで一貫している。しかし、機械の普及についての資本の大衆向けの正当化の主張は、人類の普遍的な進歩の体現としての機械とその発明が結果として、資本に利潤というご褒美を与えるのだというある種の神話を構築することによって、資本の存在理由を文明の進歩の証しとして正当化しようとする。こうした主張が万国博覧会のようなメガイベントを通じて人々のなかに資本主義の「未来世界」を印象づけることになる。5 機械を人類の歴史的な社会の存在様式から切り離して普遍化あるいは進歩の宿命とみなす考え方とマルクスの理解との間には、資本主義をその唯一の実現可能な制度とするか否かという点を除けば、共通した認識に立っているところがある。未来という時間をも資本主義に囲い込もうが、その否定の上に成立つ社会を構想しようが、自然科学の応用としての技術の体系を共通のものとしたとき、果して労働者の労働が解放された人間の行為としての地位となりうるのか、私はこの点については極めて懐疑的だ。従って、こうした抽象的自然科学的唯物論に対して、私は、機械とは明確にその設計思想も含めて歴史的な過程の産物であり、資本主義という固有の社会がもたらした特殊歴史的な技術の具体的なありかたであって、未来社会にまでその遺産を継承すべきかどうかは改めて検証すべき課題だという点をはっきりさせる必要があると思う。

機械が人類史のなかで長い歴史をもつ「道具」とどのように本質的に異なる意義をもつのかという問題は、機械が登場した資本主義という時代と、この時代に機械が人間労働の客観的な環境として資本によって導入されることによって生じた労働者の「労働」そのものの変容の問題でもある。機械の導入のなかでの労働の変容を通じて、一方で資本にとっては有機的構成の高度化を通じた相対的剰余価値の生産という特異な資本主義的な経済成長を実現する。労働そのものの大きな変容は、全体的労働者から部分的労働者へ、労働者のコミュニティのなかで「秘技」として伝承されてきた熟練が機械に飜訳可能な知識として資本が収奪するという事態を招く。『資本論』には次のような記述がある。

ひとたび経験的に適当な形態が得られれば労働用具もまた骨化することは、それがしばしば千年にもわたって世代から世代へと伝えられて行くことが示しているとおりである。この点で特徴的なのは、18世紀になってもいろいろな特殊な職業がmysteries(myste’res[秘技])と呼ばれて、その秘密の世界には、経験的職業的に精通したものでなければはいれなかったということである。人間にたいして彼ら自身の社会的生産過程をおおい隠し、いろいろな自然発生的に分化した生産部門を互いに他にたいして謎にし、またそれぞれの部門の精通者にたいしてさえも謎にしたヴェールは、大工業によって引き裂かれた。

では大工業はどのようにしてこのヴェールをひきちぎったのだろうか。マルクスはこの秘技が近代工業化のなかで、機械化によって自然科学による意識的で計画的なもとのとなったことを評価する。

大工業の原理、すなわち、それぞれの生産過程を、それ自体として、さしあたり人間の手のことは少しも顧慮しないで、その構成要素に分解するという原理は、技術学というまったく近代的な科学をつくりだした。社会的生産過程の種々雑多な外観上は無関連な骨化した諸姿態は、自然科学の意識的に計画的な、それぞれ所期の有用効果に応じて体系的に特殊化された応用に分解された。また、技術学は、使用される用具はどんなに多様でも人体の生産的行動はすべて必ずそれによって行われるという少数の大きな基本的な運動形態を発見した(中略)近代工業は、一つの生産過程の現在の形態をけっして最終的なものとは見ないし、またそのようなものとしては取り扱わない。それだからこそ、近代工業の技術的基礎は革命的なのであるが、以前のすべての生産様式の技術的基礎は本質的に保守的だったのである。6

秘技としてしか伝承されなかった社会的な生産に不可欠な技術が科学的な知見によって、また機械を発明することになる過程を通じて、秘技から解放され不断の発達あるいは進歩を可能にしたとみる。「自然科学の意識的に計画的な、それぞれ所期の有用効果に応じて体系的に特殊化された応用に分解された」というときの「意識的」の主体は、資本主義では、先の述べたように「全体労働者」としての資本によって、資本の利潤追及というその特性によって、意識的計画的体系的に応用される。同時に、複雑な生産的行動が基本的な運動形態に還元可能だという場合もまた、それは資本にとっての「基本的な運動形態」認識だという制約がある。

秘技の問題は、単なる労働の熟練技能の問題なのではなく、労働者が労働の現場を自らの意思で支配することを可能にする固有の労働のリズムの問題でもあり、同時に、雇用契約が労働とその報酬(賃金)をリンクさせることによって、より勤勉に資本家に対して従順に働くことでより高い報酬が得られるという近代的な労働のエートスの罠が有効性を必ずしももたなかった長い資本主義初期の時代の労働者の生活世界のありかたとも密接に関わっている。E.P.トムスンが述べているように7、この機械化以前からラダイトの頃の機械化初期に至る時代のなかで、労働者たちにとっては、賃金のための勤勉な労働よりも、昨日と同じ今日の生活が確保できればよく、余計に働くよりは酒を呑むことを選び、また、工場に出稼ぎにきていた労働者達は田舎の農地の収穫期になれば工場の労働を放棄して収穫の作業のために帰省してしまう。どのようにどれだけ働くかは自分達の生活のリズムのなかで自分たちが決めることであって、資本家が口出しすべきことではなかった。こうした労働現場の自立性が労働の秘技として伝承されてきた実際の内容ではないか、とも思う。8

ここで問題になるのが、技術と資本の本源的蓄積過程との関連である。本源的蓄積とは資本主義にとって必須の前提条件となる<労働力>と土地の商品化の過程を意味し、歴史的にはイギリスの囲い込み運動がその典型とみなされるが、この過程は現在に至るまで繰り返し引き起される恒常的な現象でもある。商品化される<労働力>をめぐる問題は、工業化のなかで、もっぱらみずからの<労働力>を商品として売る以外に生存の手段をもたない無産者の社会的大量の出現によって、労働市場が形成され、資本はこの<労働力>を調達することによって生産過程を編成する、という一連の過程が生み出されることになる。ここで、この過程を理論的に論じるばあいに念頭に置かれてきたのは、労働者の日常生活とその文化を捨象して工場の肉体<労働力>の担い手としての単純労働者の存在だった。労働者が単純労働者として登場する回路は、そもそも熟練をもたない労働者たち(そのなかには、「秘技」から排除されていた農村から流入した労働者や子ども、女性が含まれた)と、機械化によって衰退した熟練労働者の単純労働者化がある。上の引用でマルクスが言及しているのは後者との関連である。労働者が「秘技」としての技能を奪われる過程は、マルクスが指摘するような自然科学の機械への応用といった過程をとったとみるとしても、社会の生産関係のなかでみれば、資本は熟練の技能を自然科学による応用が可能な「知識」に変換すると同時に、この知識を資本の所有として独占しようとする過程、労働者の部分労働者化、資本の「全体労働者」化でもあり、実際には容易な過程ではなかった。むしろこの容易ならざる過程の結果として、手に負えない労働者の頑固な生活様式に対抗する有効な手段として繰り返し新たな機械が発明され導入された。この経緯は、マルクスもアンドリュー・ユアの『マニュファクチュアの哲学』(全集版『資本論』の飜訳では『工場の哲学』と訳されている)やチャールズ・バベジを参照しながら論じていた。そして、近代化によって「秘技」から解放された技術は、資本による機械化のなかで、今度は特許という近代的「秘技」によって資本によって隠され、生産の社会的性格が私的所有によって制約される典型的な資本の利潤構造のなかに取り込まれることになる。

ところで、機械のリズムによって伝統的な労働者の生活様式を解体できたのかというとそうでもなさそうだ。ユアは機械化に果したアークライトの業績を賞賛しながらも、「システムが完璧に組織され、また労働が極度に軽減されている現在でさえ、農村出身であれ職人出身であれ、思春期を過ぎた年齢の人びとを役に立つ工場労働者に変えることは、じつのところ、ほとんど不可能である」と述べている。つまり、労働者の日常生活が資本主義的な規則に従属するようになった経緯を機械による労働の規則的な行為への転換という方法で実現するにはあきらかな限界があったのだ。単純労働者は容易に取り替えがきくから、解雇が容易であることは事実としても、逆に単純労働者もまた、熟練工の秘技による排除を回避して資本を渡り歩き、よりよい条件(賃金ではなく自由なリズムでの生活)が可能な職場を探しあるくことも可能にした。ユアは機械だけでなく、また力による抑圧だけでもなく、「道徳律」の重要性を強調する。

「どの工場所有者にとっても、比類ない関心事は、機械装置の場合と同じくらい強固な原理にもとづいて道徳装置編成することにある。そうしなければ工場所有者は、すぐれた生産物に欠かせない、確かな手の動きや、注意深いまなざしや、素早い協力などを支配できないのだから」9

この道徳律を労働者階級のなかに浸透させる上で重要な役割を果したのが、ジョン・ウェスレーの創設したキリスト教のメソジストだった。ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理』で主に着目したのが中産階級の職業倫理とキリスト教との関係だったのに対して、メソジストは労働者階級に大きな影響をもった点にトムスンは着目した。トムスンは労働規律としてのメソジスムの効用は明確であって「多くの労働者がこの心理的な搾取に屈服した」10と述べ、その経緯を子細に論じてもいる。メソジストの教義そのものは極めて厳格であって、子どものしつけは今でいえば虐待とみなされてもおかしくないほど厳格さを要求しており、19世紀末の研究者ですらメソジストの道徳律を「恐しい宗教的テロリズムの体制」11と述べているほどだが、むしろこの教義が実際のコミュニティのなかでは様々に変形されたり緩められたりしつつも、新興の教会が、閉塞した労働者の精神的な拠り所となる経緯は、米国の近代化における「反知性主義」12の伝統ともどこか重なりあうところがあり、また、現代のトランプ政権下での福音派やイスラム国など、多様な形で存在する宗教的な意識と共通するところが多い。機械と道徳が一体となった「装置」として人口を制御するシステムへの要請という課題は、労働者の階級意識と階級闘争、あるいは労働をめぐる倫理と拒否をめぐる反資本主義運動内部に今に至るまで持ち越されてきた課題である。こうした課題が19世紀の機械の時代にも見出せるというところに、この問題がいかに資本主義の本質と密接に関わる課題であるのかを示してもいる。だから本書の関心はコンピュータという機械が要求する道徳装置の編成という課題を通じて、創造的なラダイトの可能性をどこに見出せるのか、ということでもある。

民衆が近代資本主義のなかで労働者として再定義されるなかで、機械と市場の合理主義によって、その意識が一方的に規定されるというよりも、この経済的土台が要請する意識を道徳律によって補完する場合に、理性ではなくある種の宗教的な信仰に依存しながら、近代社会における封建制や前近代社会とは異なるコミュニティの人格依存的な紐帯の再構築がなされることになる。この過程で、労働者の労働に関わる知識は宙吊りにされて資本の側に囲い込まれることになる。この知識の資本による占有が、資本主義における私的所有がもたらしたあまり注目されてこなかった側面だが、それが情報資本主義からコンピュータによる資本主義のなかで中心的な役割を担うようになる。

1.2. 身体性の搾取をめぐるコンテクスト

1.2.1. 知識、技術、身体性の搾取

労働者の知識、あるいはより一般的にいって民衆の知識が近代資本主義では資本の「知識」として囲い込まれて私有化されるという問題は、身体の<労働力>化にともなう重要な局面だ。労働者は肉体労働を資本の機械に従属させられるだけでなく、労働=生産過程に必要な知識を細分化され、意味を剥奪されて資本に独占され、その知識の共有を阻まれる。

資本の生産=流通の全過程を生産手段と<労働力>の結合による生産物の生産と流通という観点から、この過程において資本と労働者の間で知識の流れがどのように構成されているのかをみると、労働者は一貫してその知識を機械と資本家による監督のなかで抑制されるか、資本家が与える知識の流れに自らの意識を同期させることを強いられていることがわかる。この過程は、一般に生産手段の私的所有に伴う特許や知的財産権としての側面と同様の効果を労働者の側に及ぼす特殊資本主義的な知識の占有過程でもある。機械をめぐる技術に関わる私的所有に対して、<労働力>商品化によって労働者が引き渡すことになるのは、彼の知的能力の資本による抑圧や囲い込み、つまり道徳律の貫徹の過程、トムスンのいう「心理的搾取」であった。これはいずれも、本来は労働者に帰属すべきものが資本家の技術あるいは知識として現象するものだ。こうした技術には、生産過程に関わるものだけでなく、資本の流通過程に関わる技術や会計、労務管理、商品の販売といった一連の技術として、市場と資本の組織に固有のものとして、資本主義的な意識の形成を伴う特殊歴史的な発展を遂げる。資本の生産過程において労働者の身体に内属する心身の能力は、細分化⇒機械化を通じて資本に転移する。生産過程の機械化とは、労働者が排除されると同時に労働の主体に内属している一連の知が資本に収奪されることでもあった。

同様に、20世紀における人を対象とする労働過程(流通や管理過程)は、この過程が労働者に委ねられている限り、指揮命令を資本が担うとしても、人を対象とする労働過程を通じて労働者が獲得する知の総体を資本は自らのものにはできない。人を対象とする労働――商品の販売、教育、様々なサービス労働など――とは、コミュニケーション労働であって、この労働の過程を通じて、労働者は膨大な対象者のデータを自らの経験知として獲得する。資本はこの経験知に依存しなければ労働対象としての人間を把握することができない。情報処理能力が限定されていた時代には、いつどこで商品がどれだけ販売できたか、といったデータを得るのがせいぜいであり、どのようにして商品の販売を実現できたのか、なぜ当該の客はその商品を購買することを決断したのか、その客はそもそも何者なのかを最もよく知っているのは、実際にその客と対応した販売に従事した労働者であって、資本はこの労働者に依存せざるを得ない。資本は、この労働者への依存のなかで、販売に関わる行為をデータ化しようとしてきた。しかし、工場のように労働の細分化と単純労働化から機械化へ、という経路をとることには限界がある。なぜならば、顧客とのコミュニケーション過程を細分化することはできないからだ。これは、資本内部の管理労働であっても同様だ。人を対象とする労働を、その労働の主体である労働者から切り離して、コミュニケーションという一連の過程をひとつの連続した流れのなかで資本が全面的に支配することはできない。この限界を突破したのが、コンピュータによる情報通信システムだ。コミュニケーション過程を全体としてデータとして収集し、これを当該の労働者とは切り離して資本が解析して利用できるシステムが構築されるようになる。この目的は、一方で、消費者の動静をより直接的に把握することであり、もうひとつは、労働者に依存することなく資本がコミュニケーション過程を総体として支配できるようにすること、である。物質的生産過程とは全く異なるプロセスを経ながら、その目的は労働者の排除であり、資本による直接的な支配である。

人間のコミュニケーション過程をコンピュータ・コミュニケーションに置き換える過程は、たとえば、これまでの消費者がこれまで人間を相手に売買の交渉をしたり、住民が役所で職員に話したり、学生が教員の授業を受けるといった過程に換えて、消費者も住民も学生も人間ではなくコッピュータを相手にコミュニケーションするということを意味する。この過程が、外形上人間と人間のコミュニケーションと極めて近似するような過程になるにつれて、人間はコミュニケーションの相手のコンピュータを人間であるかのようにみなすようになる。単なるアルゴリズムがここでは人間であるかのようにみなされることになる。これは、マルクスが貨幣の物神的性格として論じた単なる貴金属に一般的等価物という社会的性格が付与されることによって普遍的な交換力がそもそもの貴金属それ自体の本性であるかのようにみなされる、とした過程と非常によく似ている。私はこれをAIフェティシズムと呼びたいと思うが、この過程によって、人間のコミュニケーションは深刻な変容を被る可能性がある。外形上人間と遜色のない「言語」を語るコンピュータは、人間の言語獲得とは全く異質で共通性のない機械学習過程を通じて「言語」を獲得している。この「言語」獲得の異質性が意識されずに人間によって人間であるかのようにして受容されることが数十年にわたって繰り返されるにつれて、コンピュータの対人「言語」が人間の言語獲得のプロセスにも影響を与えるようになrうだろう。そうなれば、そこで人間の側にどのような問題が生じるのかは、注視すべき重要な問題だ。市場経済が貨幣を「自然」なものとして受容するなかで数世代にわたって形成されてきた人間の欲望や資本主義的な家父長制的な家族制度のなかで形成されてきた欲望の変容という前例があることを忘れてはならない。今私たちが経験しているのは、かつての変容とは次元が異なり、より包括的なコミュニケーション領域における支配的制度への人間の包摂である。

生産過程であれ流通過程であれ、あるいは管理過程であれ、労働者が被る資本と自らの行為との関係を、私は意味の剥奪と呼んできた。剥奪された意味の空白を埋める代替的な意味が、19世紀であればメソジストに象徴的にあらわれた宗教的な信条であったように、何らかの意味によって埋めあわせされる必要がある。この支配的な埋め合わせと階級意識、反資本主義の意識との対抗関係こそが、イデオロギーの領域における重要な闘争課題になる。したがって、心理的搾取をレトリックとみなすべきではなく、こうした搾取は剰余労働の搾取とともに資本主義における搾取の重要な側面であって、この意味での搾取からの解放もまた、コミュニズムの重要な主題となるべきものだ。

この知識の私的所有、あるいは心理的搾取は、資本の直接的な支配の領域を超えて人々の日常生活領域にも深い影響を及ぼすようになる。消費生活の水準が「向上」すればするほどその傾向が顕著になる。20世紀の資本主義は、文化産業あるいはメディア産業の成長に伴う知の商品化、あるいはコミュニケーションの市場経済への統合によってこの生活世界への浸透が進展する時代となる。大衆文化としての映画、ラジオ、テレビといったメディアのコンテンツが知的財産として資本の所有に帰されてきたという20世紀の歴史があったからこそ、コンピュータ化の歴史とプロプライエタリなソフトウェアによる不透明でブラックボックス化するコミュニケーション制御の技術の生活過程への浸透が可能になった。歴史的にみれば重商主義のイギリスが最初に導入したといわれる技術をめぐる特許制度、1624年の「専売条例」にまで遡れる過程と<労働力>の意識を一定の道徳律によって制御するために宗教的な信条を動員する非合理な世界が、21世紀のコンピュータ化による資本主義が不器用な手法でまがりなりにも「統一」しようとあがくことになる。かつて機械が労働者の日常生活のリズムをも制御することができず、結局は道徳律を宗教的な非合理に委ねざるをえなかったように、コンピュータのコードやプログラムもまたそれ自身の内在的な合理性によっては人間の非合理な行為を制御することはできず、やはり宗教的な非合理に委ねざるをえない事態が顕著にみえる。13

私が関心を持つのは、この労働の変容は、労働の主体である労働者としての役割を担う人間の生存様式そのものを変容させる一連の過程でもあり、これがもたらす全体的な心身変容である。つまり、資本による形式的包摂の段階から、単純労働化、知識の資本による囲い込みを経て、資本による実質的包摂へと労働者役割を担う人間の生存様式を変容させる一連の過程がもたらす全体的な心身変容である。労働者が総体として、剰余労働に限定されずに労働の総体が「搾取」される過程へと巻き込まれていくことを見逃してはならないと思う。これを私は身体性の搾取と呼んだが14、この搾取過程は、いわゆる経済的貧困の問題に限定されないのであって、意味の剥奪と資本による意味の再構築を伴う総体としての人間そのものの資本主義的な再構成である。これがコンピュータ化によるデータ化する人間の前提になる。同時に、この前提がコンピュータ化による資本主義的な人間の進化をもたらすことにもなる。だから、剰余価値の搾取からの解放は、解放の戦略の必要条件であっても十分条件ではない。人間が「労働者」となることによって、再構成される人間の意味が、膨大なデータにもとづく可変的な客体として処理される現代の「私」は、搾取の実態を経験的な実感として捉ええたと主観的に感じられたとしても、その実感を超えたところで、実感されない広大な領域に拡がる「私」の意味が搾取に晒されており、これを取り戻す闘いは、社会的平等に基づく自由の領域の創造においてのみ可能なのであって、現代に固有の資本主義的生産様式とイデオロギー構成の全く新しい地平での闘争の配置を必要とするだろう。

19世紀から20世紀にかけて、資本と支配者たちは、プロレタリアートに社会変革の主体の位置を与えないように主体の変容をもたらす生産様式と生活様式の再構築を目指してきた。資本が導入するテクノロジーもまた、この視点を通じて評価されることが必要になる。

1.2.2. 経済的価値をめぐる資本主義のパラレルワールド

19世紀の機械制大工業への転換の時代を目撃したマルクスによる資本主義批判の理論的パラダイムの根本にある労働価値説は、労働を社会的富の根拠とし、資本の利潤の源泉を労働者の労働に見出し、社会の豊かさは資本が生み出すのではなく労働者が生みだすものだから、資本が存在しなくても社会は存続可能であることを指摘した。こうすることによって、資本主義の歴史的な限界を理論的に明確化し、19世紀の労働運動の正当性を根拠づける重要な役割を担った。『資本論』の刊行当時、工業化の最先端にあったイギリスの機械制大工業の実態を工場監督官報告書や議会の委員会議事録、児童労働に関する報告などの公的な文書を駆使して論じたことについては好意的な評価が示されたにもかかわらず、彼の理論の核心にある労働価値説については厳しい拒絶にあう。労働が価値の源泉であるというマルスクの主張が必然的に導き出す資本家への道徳的な批判が、理論的な問題以上に支配階級の感情的な拒否を生み出したとホブズボームは指摘している。この意味で、労働価値説は、理論的な批判に加えてイデオロギー的な「批判の砲火」を浴びることになる。15

20世紀初頭にかけて、資本主義は、マルクスの資本主義批判と労働運動、社会主義、コミュニズム、アナキズムの運動に直面して次のステップへと展開していく。ひとつには、資本主義の正当性、とりわけ資本が社会の豊かさを担う主体であり、市場経済がその不可欠な機構であることを証明しようとする一連の資本主義擁護の学説が登場する。いわゆる限界革命とよばれる経済学説の台頭である。労働価値説を否定し労働者の労働と社会の富を結びつける一切の論理を否定する理論体系が構築される。労働価値説への批判は、すでに『資本論』第一巻刊行後に登場し、エンゲルスは、自身がマルクスの草稿を編纂して公刊した二巻、三巻の序文では労働価値説批判への反論に多くのページを割いた。労働価値説への批判は、労働運動や社会主義者のなかからもあらわれることになる。この労働価値説をめぐる議論は、「転形論争」などと呼ばれて以後1世紀以上にわたって続き、現在に至るまで決着しないままだ。労働と自然に社会的な富の源泉を求める考え方を否定して資本の存在意義を肯定する価値理論が、後に登場するケインズ理論とあいまって、現在の主流の経済学を構成することになる。

主流の経済理論は、社会を数学的なモデルによって分析可能であるとみなし、マルクスが採用した弁証法的で記述的な論理構成をとらない。マルクスは、様々な具体的な経済実態に関する資料を駆使しつつも、理論の枠組の構築では実証主義を退けて、経験的な事実によっては論証しえない資本主義の搾取の構造を論じようと試みた。主流の経済学は、統計データを「事実」とみなしてこのデータを解析することによって、経済システムの動向を把握・予測可能とし、これを理論にフィードバックさせる方法が科学的な方法とみなされることになる。ここには、私が歴史の方向性を規定する弁証法的な過程として先に指摘した社会内部にある敵対的な闘争のファクターは、入り込む余地がない。

こうした支配的経済学がとる方法と理論の前提に置かれる資本主義は、コンピュータ・テクノロジーが支配的な社会にあって、コンピュータのプログラムが前提する理論的な方法と共通する。つまり、支配的な経済学は、社会を構成する矛盾の弁証法だけでなく経験や実感では把握しえない歴史的な構造を把握する方法をもたず、与件とされたシステムは、究極の否定としての資本主義そのものの否定という結論をあらかじめ排除し、いかなる結論も既存のシステムを維持することを前提にしたものになる。

1.2.3. 資本による意識制御の技術

19世紀が肉体的な熟練を単純化して資本の下への労働者の従属を可能にする基盤が形成されたとすると、20世紀は、この過程がいわゆる「精神労働」の世界で繰り返される時代だったとみることができる。「精神労働」の展開は二つの局面をもっていた。

ひとつは、単純労働化した工場労働者をめぐる問題である。労働行為は、工場での物質的生産に関わる肉体労働だが、いかなる肉体労働であれ、人間の労働である限り、「頭=脳」の問題を抜きにすることはできない。労働者が資本の管理・支配を受け入れるかどうかは、労働者の意思に関わる。前述したように、トムスンが論じた道徳律の形成にメソジストが果したような役割の構造から、資本はより積極的に、みずからの資本の運動過程に意識を制御する仕組みを組み込むようになる。意思の問題を労働の単純化と機械への従属という客観的な環境を通じて強制する手法に加えて、労働者の意識そのものを資本に従属する意識へと変えるための技法の開発が20世紀資本主義が取り組んだ最大の課題だった。というのも、グラムシが述べていたように、労働者の労働が単純化したとしても、労働者の頭もまた単純化するわけではなく、単調な繰り返しの労働をこなしながら労働者たちは、頭を使って、資本の支配への抵抗のための作戦を練ることが可能であり、労働者の意識を資本が直接支配することは容易なことではなったからだ。そしてまた、マルクスもまた労働時間の短縮をめぐる闘争において、資本が長時間労働を希求するのは、単に、絶対的剰余価値の生産を求めようとする意図だけではなく、労働者に自由な時間を与えることのリスクを自覚していたからであり、逆に労働運動にとっては「労働時間の短縮は、精神的教養にあてるべきより多くの時間を労働者階級にあたえるためにも、絶対に必要」であり「彼らの究極の解放を達成するための第一歩」16だと主張していた。その後の資本主義の展開をみればわかるように、労働時間の短縮によって生じる自由時間を資本は娯楽の時間として資本の消費過程に包摂した。非労働時間をめぐるこの階級闘争は同時にイデオロギーの再生産をめぐる闘争であり、意味をめぐる争奪でもあるのだが、労働運動がもっぱら労働時間の短縮を労働過程の過酷な労働の問題としてしか理解しなかったために、みすみす自由時間と私生活を資本の支配に譲り渡すことになった。

20世紀の資本主義では、産業心理学が発達し、フォードは移民労働者の日常生活をアメリカ型のライフスタイルや英語教育などによって、生活をまるごと資本主義の価値観によって包摂しようとした。こうした流れが、その後、大衆消費社会や「豊かな社会」としての資本主義モデルとイデオロギーの形成へと繋っていく。この過程は階級意識の解体をめぐる闘争の歴史でもあり、20世紀には当たり前になる普通選挙権によって労働者もまた有権者としての政治的な権利を獲得した代償として、階級ではなく国民としての国家への統合、すなわちナショナリズムの浸透を伴うために、労働者の国際主義が解体し、これが20世紀型のファシズムや社会主義を標榜する権威主義国家の誕生を支えてしまう。

21世紀のCTCとしての機械=コンピュータは、上述した20世紀資本主義による意識生産の限界を克服するとともに、現代のメソジスト的な様相の登場とともに新たな機能をまとうことになる。CTCが支配的となった社会は、コンピュータをモノの生産から人々の意識の生産へ、意識の生産から感情の生産へと展開していく流れのなかの最後の段階、つまり感情を含む人間の「脳」の活動を代替しようとする方向へと向かった。その一方で、コンピュータは、19世紀の機械制大工業のなかで機械が工場労働者の肉体労働を支配したように、人々の日常生活の言動を支配するための装置になるような方向をもって開発が重ねられてきた。その現在の帰結が人工知能の産業への応用から日常生活への応用へという広がりということになる。こうなると、技術をめぐる問題領域は、一方で機械をめぐる問題でありながら、他方で、コンピュータが関与するほとんどあらゆる産業分野を横断する構造転換だけでなく、コンピュータが媒介する人間のコミュニーション領域をも包含するようになる。CTCが人間のコミュニケーションと融合する局面、つまり機械による(象徴的)言語や表現の領域と人間のそれとの関わりといった切り口を介して、人間の文化的な営為をまきこみ、経済的土台は上部構造と不可分一体のものとなる技術的な前提を獲得することになる。これは技術決定論を意味しているのではなく、技術の展開ベクトルは、人間の言動を予測と操作を通じてコントロールしようとする資本主義社会が抱いている支配欲望の実現に近づこうとしてきたシステムの自己維持機能の結果だということだ。資本主義にとっての最後のフロンティアは、人間の言動の未来領域を資本の領域のなかに確実に囲い込み、予測可能で操作可能な存在へと変えることによって切り開かれる領域であり、「無意識」の領域が戦場になる。この課題の実現のために、資本主義はCTCに賭けた、といってもいい。

1.2.4. 法の支配からコードの支配へ

ルイス・マンフォードは次のように述べている。

人間の単なる動物状態からの離脱に伴なう不幸は多かったが、その報酬は大きかった。人間が幻想や計画、欲望や意匠、抽象や観念を日常経験の平凡なことと混合させる傾向は、今も見られるように、限りない創造力の重要な源であった。非合理と超合理を分ける明確な線はない。そして、この対立した能力を扱うことは、つねに人間の主な問題であった。技術と科学にたいする今日の解釈が皮相的であることの理由の一つは、人間文化のこの面が、人間存在の他の部分ばかりでなく超越的な願望と悪魔的な強制をも受け入れやすいこと―そして、今日ほどそれらを受け入れやすく、外を受けやすいことがなかったこと―が見落されていることである。17

支配者が人々の言動の将来を把握し支配したいと考えることは、今にはじまったことではない。支配者が予言や占いを好むように、彼等は未来永劫の支配者としての安泰をなによりも願望する。人類史あるいは文明史のなかで、近代も含めて、この領域の大半を占め、最も大きな影響力を発揮してきたのは、宗教だった。近代は宗教を二番手に退かせ、科学がこれにとってかわるが、宗教的非合理は、科学には不可能な人々の心理と意識に対して深い情動を、しかも非合理性を前提としたそれを刻み込むことができるために、相変わらず維持されるか、文化のなかに伝統などとして姿を変えて人々の非合理な日常意識を支えることによって、権力の正統性を支えつづけている。18

実はコンピュータが日常のコミュニケーションの生活必需品になる過程は、この不合理で非科学的な大衆の日常生活行動と不可分一体のものとして人間側が受け入れることなしにはありえなかったし、今でもそうだ。ほとんどの人々はコンピュータがどのようなメカニズムで作動しているのかを知らされないし、コンピュータを動かしているプログラムは、それを理解する知識を習得することが必須とはみなされないどころか、むしろこの「秘技」から人々を遠ざけようとすらされてきた。このことは、識字と成文法と統治権力が密接に関わっている近代国家の権力の性質を踏まえたとき、無視できない問題を提起していると思う。近代国家が形式上法の支配を掲げ、人々が立法機関として議会を設置し、法を執行する権力組織として官僚制が整備される前提にあるのは、主権者としての人民が法をめぐる書かれた言葉を理解できることを前提としている。統治と執行のための権力は書かれた言葉を媒介として、その正統性が「理解」される。この意味で法や規則の文言は人間の行動を機制するコードとして機能してきた。話し言葉が発話者の恣意に影響されるのに対して、成文法は恣意性を排除して誰もが同じ文言を共有することを通じて、権利と義務を確認する。この意味で、権力は書かれた言葉としての法や規則によって制約されることになるために、法律の条文は難解な文体を戦略的に採用して人々の解釈を阻害しようとする。そして、権力者は、書かれた言葉の解釈の主導権をとることによって、権力の執行そのものの裁量を幅広く獲得し、この裁量の正統性を法の解釈によって確保することが可能になる。この成文法の拘束を克服して法を超越する足掛かりを獲得する。識字率が高まれば高まるほど権力者が独占する書かれた文書の意味や解釈が、書かれた文書そのものよりも重要になる。

コンピュータが権力組織のなかで、その執行に占める割合が拡大している現状は、法や規則の文書人間が理解・解釈して執行するという伝統的な権力行使のプロセスを根底から覆す可能性をもつものだ。ローレンス・レッシグが法に対してコンピュータのコードが果たす役割に注目して問題提起してきたことが、日本ではほとんど関心をもたれていない。19立法府が法案を審議しても、執行権力に組み込まれたコンピュータのコードを審議する権限を与えられていないために、現代の国家は、事実上執行権力の圧倒的な優位と事実上の独裁といっていい体制が可能になっている。法の支配はコードの領域を十分には支配できていないのだ。

コードの読み書きの能力は現代の統治権力がいかなる力を発揮しうるものなのかと密接に関わっている。コミュニケーションを成り立たせている技術がどのような仕組みなのかわからないまま、企業や政府の宣伝を鵜呑みにして圧倒的に多くの人々はコンピュータを日常のツールとして受け入れてきた。この事態は、法の支配に依拠してかろうじて民主主義の体裁をとることで近代世界の理念的優位性の証としてきた基盤が大きく揺らぐことを意味している。最大の問題は、この揺らぎにほとんどのリベラル派も左派も気づいていないし、対抗戦略を模索することすらできていない、というところにある。

1.2.5. 近代の基本構造

もし人々が、合理的で科学的な精神を持ち、コンミュニケーションの権利や基本的人権の憲法の理念を日常生活で具体的に実現することに関心があるとすれば、コンピュータのような複雑で理解することが困難なものは容易には受け入れないはずだ。この意味でコンピュータの普及は、実は人々の不合理な日常生活や情動、言動の世界と表裏一体だともいえる。この問題は、21世紀のフェイクニュースやヘイトスピーチのような不合理な表現行為を考える上で重要なことなのだ。

そもそも近代社会の支配的なシステムをなす「資本主義」とは、マルクスの定義を踏まえていえば、資本の経済支配と国家による統治権力の独占という二つの権力からなる歴史的な社会ということになる。資本と呼ばれる経済組織20が、社会を構成する人口の必要とするモノを供給し、同時に統治機構=国家は、法的な強制力と人口が必要とし資本が直接供給しえない物やサービスの供給を担う。資本主義とは、資本による市場経済が社会の経済を支配するようになって、人々の生存の基盤を根底から転換させた社会でもある。とりわけ<労働力>と土地が市場で売買される商品になることによって、国家権力の基盤となる領土と人口が市場に接合されることになる。これが資本主義を歴史的にそれ以前の社会から区別する根拠をなすことになる。この意味で、国家もまた近代に固有の統治機構であり、文明と呼ばれる古代社会以降の様々な社会の統治機構との共通性は、近代国家がその歴史的正統性を纏うために持ち出してきたイデオロギー的な歴史観でしかない。

コンピュータによって接合された社会関係に規定された人間関係を生み出す直接的な歴史的前提が機械制大工業であり、この両者に共通する社会統治のシステムが市場と国家であったとすれば、この全体を規定している構造こそが近代と呼ばれてきた社会の基本構造であり、私たちは、こうした社会から未だ脱することもできず、またその次を見通すこともできていない。資本主義は歴史的社会として一貫性をもっており、工業化の社会にも、脱工業化=情報化=CTCが支配的となった社会にも共通した構造があり、更には、20世紀のいわゆる社会主義と呼ばれた体制と資本主義の体制の間にも、見見かけ上の対立はあるにしても、その背後に共通した「近代」という時間と空間の限定を定義することができるものが存在する。わたしは、この核心にあるものを国民的な<労働力>としての人間という特異な人間類型にあると考えている。

<労働力>としての人間の誕生は、マルクスが本源的蓄積と呼んだ数世代にわたる身体性の再構築過程の結果であり、この過程は今に至るまで継続している。人間による機械の操作が資本の生産過程に組み込まれることをマルクスは死んだ労働による生きた労働の支配と呼んだが、この機械化を資本が好んだ理由は主に二つある。ひとつは、時間の効率性である。資本の回転速度が利潤率に影響することから、資本はスピードアップに異状な関心をもち、機械化を好んだ。機械によって資本がスピードをコントロールできるようになり、人間動作の速度の限界は資本にとっての決定的な限界とはならなくなった。もうひとつは、結果あるいは予測の確定性だ。設計図通りに作動する機械は産出する結果をあらかじめ予測することを可能にし、これもまた予測が不確定な人間の労働(明日もまた今日と同じように働かせることができるかどうかは不確定だ)の不確定性を排除して機械を好むことになる。機械に具体化されたテクノロジーの基本的な開発の方向性は、この二つの要因、スピードと予測可能性によって規定されてきた。特に予測=計画という側面には、20世紀の「社会主義」も注目した。計画経済がマルスクのコミュニズムのイデオロギーを右翼的に転用したこのイデオロギーは、市場の不確実性を超克する可能性を秘めているものとある時期までみられていた。資本がその組織内部での計画性(予測可能性)を昂進させながらも、市場そのものを計画的に調整しつつなおかつ「市場の自由」と両立させる方法は、資本による独占というナショナルな経済の一部でのみ実現可能な方法がせいぜいであったのに対して、「社会主義」は、ナショナルな経済全体を国家の計画経済として調整することを法的にも政治的にも正当化しうる枠組をもつことで優位にあるとみなさた時代があった。資本主義は資本による結果・予測の確定性を導入するなかで、人間の不確実な要素、つまり、自由を制御する技術の開発へと向う。

「社会主義」の主流もまた合理性の勝利の社会的な体現、あるいは合理性を経済の物質的な基礎において実現することこそが人類の進歩の証だと誤解した「進歩主義者」という側面では資本主義と進歩の観念を共有してしまった。これが、グローバルな標準としてのテクノロジーをもたらし、その結果として、私たちには文字通りの意味でのオルタナティブを奪われた。しかも社会主義は経済システムにおける計画に込められた結果・予測の確定性を達成するためには、人間の自由の領域を必然の領域へと切り替える必要に迫られた。そうしなければ計画は完遂できないからだが、社会主義があるべき資本主義には不可能な自由、つまり社会的な平等を基盤とした自由の領域を創造するという重要な目標を最初から放棄してしまった。こうして一見すると資本主義は自由において20世紀型の社会主義なるモデルよりもより許容度が大きいために、人々は、この資本主義の自由、つまり市場の自由に拘束された自由を真の自由だとするイデオロギーを受け容れるようになった。サッチャーが言った意味でのオルタナティブの不可能は新自由主義の専売特許なのではなく、おしなべて、現にある社会システムの淵源をなす20世紀の支配的なイデオロギーのいずれにおいても体現されていたものだ。私たちが挑戦しなければならないのは、こうしたイデオロギーの殻を破ることにある。

歴史が弁証法的な展開を遂げる典型的な例が、機械化として始まった資本主義をめぐる20世紀の歴史のなかに見出すことができる。机上の空論でしかなかった国家経済計画の「社会主義」モデルを実現可能と過信した20世紀の国家社会主義(ナチズムのことではなく、20世紀に存在した社会主義を標榜する国民国家群のことだが)に対して、資本主義は、市場の無政府性というやっかいな問題をかかえ込んできた。資本にとって予測の不確実性は、資本の価値増殖の深刻な制約条件をなしている。競争が資本蓄積に果す効果が不確実な予測によって常に足をひっぱられる。だから競争によって優位に立ち、競争相手の資本を淘汰して独占を指向するわけだ。しかし、これだけで不確実性の問題は終りではない。

市場経済が他の経済システムと決定的に異なるのは、買い手、つまりモノの受け取り手にモノの移動の決定権がある、という点だ。しかも、この決定権が、理念的なモデルでいえば、「個人」に帰属する。つまり、貨幣所有者でもある買い手が自分の欲望(ニーズ)に忠実に、欲しいモノを市場で購入する。買うかどうかの決定権は貨幣所有者が独占する。この買い手と売り手の非対称性は、売り手もまた、販売が実現して買い手となるときには、貨幣所有者としての売買契約の独占的な決定権を握ることで相殺される。

1.3. 土台と上部構造―構造のメタレベル

1.3.1. マルクスに即して

マルクスが資本主義に対する批判的分析の方法として、法的諸関係や国家緒形態、さらには人間精神は「物質的な諸生活関係」に根ざしており、その解明は経済学の領域にあるとした上で、これを定式化した端的な文言を『資本論』の前に書かれた『経済学批判』の序言で書いた。これが土台と上部構造という社会全体の見取り図を描いたものとして解釈され、マルクス主義の社会観、あるいは唯物史観(史的唯物論)の定式と呼ばれて資本主義批判の基本的な視点として、俗流化されたり教条的な解釈がまかりとおってきたり、グラムシからアルチュセールまで資本主義批判の議論にとって欠かせない入口となってきた。以下、私の議論は、これまでのマルクス主義の掟からするとやや異例の論点を提起することになるかもしれない。結論から述べてしまうと、先にも述べたように、マルクス主義による資本主義批判への対抗の歴史だとみることができ、ポスト・マルクスの時代の資本主義は、土台―上部構造というマルスクの定式の矛盾の体制内止揚の歴史だと私は考えている。資本は、法やイデオロギーなど統治機構を資本の価値増殖過程に組み込み、経済的土台それ自体が上部構造の機能を担うという土台の上部構造化をもたらした。言うまでもなく、コンピュータのコードがここでは重要な役割を担うことになる。この土台と上部構造の融合によって、マルクス主義の唯物史観のパラダイムに基づく資本主義の構造的矛盾、つまり資本主義内部の反資本主義の潜勢力をもつ様々な闘争を回避しようとしてきた。これがポスト・マルクス、つまり20世紀資本主義の弁証法の過程だった。この歴史的経緯を踏まえて、この資本主義の対応を脱線させるためには、マルクスの定式に対する大胆なバージョンアップが必要だというのが私の主張だ。このなかで重要なことは、コミュニケーション行為の労働化と資本による包摂にはじまり、文化やイデオロギーの領域が資本の投資対象となって市場に包摂され、イデオロギーそれ自体が資本の価値増殖の直接的な領域へと再編されてきたこの1世紀に及ぶ過程をふまえることが必要である。

資本が唯物史観の定式を出し抜こうとして展開してきた資本主義延命の戦略は、商品の使用価値が生活過程で果すイデオロギー作用を徹底して活用することによって、<労働力>の意識領域を資本が占領するという戦略をとった。資本の本源的蓄積は、16世紀以降の地理的な空間の囲い込みに始まり、20世紀に至って公共空間を市場化(いわゆる規制緩和と民営化)することを通じて、日常生活意識という心理的な空間の囲い込みにまで至った。そして、今、この上部構造に残された最後の領域ともいえる法と政治による統治の領域と日常生活空間とを資本はコンピュータ・テクノロジーのコードによって加重決定できるところにまで到達している。

そもそものマルクスの『経済学批判』の文章にまずこだわってみよう。いわゆる唯物史観の定式とは以下の箇所をいう。

人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造がそびえ立ち、そしてそれに一定の社会的諸意識形態が対応する。物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる。21

ここで私が注目したいのは、マルクスがなぜもっばら物質的生活に着目したのか、このことをどのように理解すべきなのか、である。物質的生活の生産様式こそが当時でいえば資本主義的生産様式の中核をなしており、市場経済もまたもっぱら物の生産の連鎖からなるものだった。植民地における工業原料の生産や必ずしも資本家的とは言い難い家族制生産様式を含む農業などを周辺に配置しつつ、物の生産が主に社会の人口の大半の生活過程への資本の介入の回路だった。この物の商品としての回路を産業資本や商業資本が支配することを通じてしか、人口の<労働力>としての再生産過程に介入する術はなかったともいえる。資本家にとってこのマルクスの定式ほど恐しく不安に駆られる規定はないだろう。資本は<労働力>を必須とする以上、労働者がその意識をその存在によって規定されざるをえないのであれば、労働者が資本家の立場を内面化する、つまり資本主義的な意識をもつことによって労働者でありながらその存在の本質=搾取される身体性としての生を資本家的に肯定するなどということはありえようがない、ということになるからだ。以降、労働者に対する資本の戦略22は、資本家的な意識が労働者の存在を規定するという逆立ちした関係の構築へと向う。つまり、ポスト・マルクスの資本主義は、労働者性を基盤の置く資本主義批判への応答として階級意識を回避する社会意識の意図的な形成を市場経済のなかにも統治機構のなかにも、そしてイデオロギーのありかたにも組み込むことになる。この資本による挑戦は、その制度を与件としては解くことのできない難問がもたらす矛盾と摩擦が資本主義の常態となる。先に指摘した資本主義の支配的な経済学とマルクスのそれとの決定的なパラダイムの違いをなす労働価値説の是非をめぐる論争は、この意味においても、まさにイデオロギーを背景とした闘争でもあった。この矛盾と摩擦が組織的な闘争になる場合もあれば、いわゆる社会的逸脱や社会病理とみなされる場合もあれば、私的な悲劇として片付けられてしまう場合もあるのだが、心理的な空間や生活空間を資本が支配する社会にあって、いかなる私的な事柄も社会的な矛盾の表出――personal is political――として解釈されなければならない。

1.3.2. 資本主義の支配的構造

資本は市場を離れては存在しえないし、資本の存在理由は不断の価値増殖であるから、資本がこの本性を維持しつつ社会的、政治的および精神的生活過程全般を制約する最も直接的な方法は、これらを市場に統合することだろう。あるいは、法律的および政治的上部構造を経済的土台に組み込むことだ。

他方で、政治的な権力にとっては、目的は経済的な利潤ではなく、政治的価値、つまり権力の不断の増殖にある。政治的な権力は社会領域へ、そして市場へとその力の拡張を図ることが権力的価値の増殖となる。伝統的な手法は政治権力が独占する法の制定権力と徴税権力を用いて、行為者の行動を規制・統制する方法になる。この法と税を入口として市場と生活世界を政治権力に接合できるのは、人間が法の言語を理解し、対価なしに所得の一部を支払手段23として政府に対して貨幣を拠出することを強制されるだけでなく、これをよしとする心理が時には内面化されるからだが、そのためには言語の能力とともに社会規範や国家観念の資本主義的な正統性を教育を通じて訓育することが不可欠の条件になる。更に、政治権力の側からすると、市場を政治的権力の領域に統合すること、市場の政治化こそが権力にとっての究極の目標となる。先に述べたように、土台が上部構造を呑み込もうとするだけでなく、上部構造もまた土台を呑み込もうとする。市場経済の政治化と政治過程と生活過程の市場化という二重の展開という資本主義的なウロボロスは、マルクスが指摘した生産力と生産諸関係との矛盾の資本主義制度内的な止揚という不可能な試みでもある。

存在が意識を規定するというマルクスの定式は、存在がますます直接的に意識そのものの生産過程となり、物質的な束縛から解き放たれて非物質的な存在へと拡張されることによって、資本主義的な完全性を実現しようとする。唯物論の立場だから「物質」だなどということではないことをマルクスははっきりと自覚していた。

生産的であるのは、ただ、資本家のために剰余価値を生産する労働者、すなわち資本の自己増殖に役だつ労働者だけである。物質的生産の部面の外から一例をあげることが許されるならば、学校教師が生産的労働者であるのは、彼がただ子供の頭に労働を加えるだけではなく企業家を富ませるための労働に自分自身をこき使う場合である。この企業家が自分の資本をソーセージ工場に投じないで教育工場に投じたということは、少しもこの関係を変えるものではない。生産的労働者の概念は(中略)労働者に資本の直接的増殖手段の極印を押す一つの独自に社会的な、歴史的に成立した生産関係をも包括するのである。それゆえ、生産的労働者だということは、少しも幸運ではなく、むしろひどい不運なのである。24

資本が支配する生産領域の狭い土台が資本主義的な支配の中核をした19世紀の資本主義では、この狭い土台を通じて、一方で労働者の生活過程を、他方で国家の統治機構を基礎づけるという限界があった。だから資本が労働者の生活に影響を及ぼす回路もまた「物質的」な生活手段に限定されざるをえなかった。マルクスによる生産における物質性の強調は、資本主義が工業化、機械化として発展してきた19世紀資本主義の特徴を踏まえて資本主義への批判の核心を資本によって担われる物質性の領域に絞ったことを意味している。マルクスの「教育工場」への言及は、当時であれば、ある種のたとえ話の域を出ないとしか理解されなかったかもしれないが、むしろこの「教育工場」こそが現代の資本主義の剰余価値生産の主要な現場になっている。資本の価値増殖は、とりわけ俗流マルクス主義が物質的生産にこだわる狭い労働者主義の罠にはまっているなかで、「物質的生産の部面の外」へとその支配地を拡げてきた。マルクス以後の資本主義が非物質労働領域に<労働力>を動員して剰余価値を生産してきた歴史的経緯を重視しなければならない。ただしマルクスの上記の文章のなかで、生産的労働者を「労働者に資本の直接的増殖手段の極印を押す」ものと限定している箇所は、更に踏み込んで、生産的労働者の領域、つまり剰余価値を形成する労働の領域には、直接的増殖手段の他に――この「直接的」という概念を借りれば――「間接的増殖手段」が存在するのだ、ということをも視野に入れておく必要がある。間接的増殖の最も重要な領域が、生活過程のなかに組み込まれた労働、つまり家事労働領域である。資本との雇用関係の外にあって、なおかつ賃金労働者の<労働力>の支出を可能にする<労働力>再生産過程を支える役割を担う家事労働もまた、価値増殖の担い手であるという観点をも視野にいれておく必要がある。この領域は、労働者の日常生活の価値観のなかに家父長制を組み込む上で不可欠であって、この家族と人間関係は、後に権威主義的なパーソナリティの形成をめぐる主要な戦場となる。

したがって、私たちがマルクスの土台=上部構造論を現代資本主義の文脈のなかで評価するばあい、中心に据えるべき観点は、その物質性ではなく、資本が生活手段として供給する商品の意識に対する作用であり、この作用を可能にする狭義の意味での資本の生産関係に還元できない意識の再生産構造である。マルクスにとって資本が供給する商品が非物質的な属性をもつものであるということを念頭に置くことは容易なことではなかったはずだ。それは20世紀半ば以降になってやっと資本が包摂するようになった領域だからだ。そうだからこそ、この資本主義の展開に含意されている反マルクスの具体化を見逃すことができないのだ。

さて、非物質的労働の生産的労働としての組み込みのもうひとつの重要な領域がある。それが、いわゆる「資本家的労働」としてマルクスが剰余価値を生まないとした資本の流通過程の労働(流通費用に関わる領域や商業資本のもとでの労働など)がある。

20世紀の資本主義は、機械化を通じて肉体労働を資本の下への実質的包摂として服従させる19世紀の一連のメカニズムを歴史的前提として継承しつつ、精神労働の実質的包摂が主題になった時代だといえる。これは、資本の規模の拡大に伴って、資本家的労働としてマルクスが分類した管理や資本の流通過程における労働(販売労働がその典型だろう)を労働者に分担させることが必要になった。資本家的労働はマルクスの分類では不生産的労働として剰余価値を生まないとされた。これは資本家本人が「労働」を担う場合を想定しての判断だが、こうした資本家的な活動が労働者に担われることによって、剰余労働がこの領域で新たに形成されることになる、という観点まではマルクスの時代には想定しがたかった。資本が担う「活動」は、モノの社会的な分配であり、生産ではないとみなされたわけだが、社会の維持には、社会の構成員が必要とするモノの分配が不可欠であり、同時に生産と流通を通じた分業関係は、モノの生産と流通だけでなく、これを担う人間相互の関係に必然的に伴うコミュニケーション行為の存在があり、こうしたコミュニケーションもまた様々な労働者によって担われるようになることによって、コミュニエーション領域もまた生産的労働となり、剰余価値を形成するような構造変容を遂げる。必要労働は、労働者が賃金を介して購入する生活手段の価値を意味している。資本家的労働が労働者に担われることによって生産的労働へと転換し、剰余労働を生み出す労働になる。資本家的労働にかぎらず、人間のどのような行為を労働とみなして、生産的労働へと組込み、剰余労働をそこから抽出するのかという問題は、あらかじめ決められているわけではない。むしろ市場経済と資本の投資行動のなかで、この生産的労働と剰余労働の形成の範囲が伸縮性をもって対応することになる。たとえば、家事労働は家族内にあって資本の間接的な支配しか受けていない段階では、その利潤への接合は、直接的な市場経済の計算構造のなかで剰余労働の利潤への転化の論理では説明できないが、家事労働領域が市場経済に組込まれて資本によって供給される商品として登場するとき、直接的な剰余価値形成の構造の内部の組み込まれることになる。国家の官僚組織が住民管理をデータ処理を資本に外注するとき、住民管理の労働は直接的な剰余価値形成の労働に転化する。

しかし、上述した剰余労働の拡張という問題は、資本によって搾取される労働者の労働の一面でしかない。必要労働-剰余労働という抽象的人間労働の量的な搾取の構造だけが搾取なのではない。必要-剰余の労働時間全体を資本の指揮・監督のもとで遂行する労働者は、具体的有用労働という労働のもうひとつの側面の全体を自らの主体的な意志で資本に従属させる。労働者は、商品化された<労働力>の消費としての具体的有用労働においては、自らの意志で自らの内発的な動機に基いて、あるいは労働者相互の協働でのなかで資本の意志なしに、遂行することができない。行為の意味を労働者は奪われた状態に置かれる。これはある種の疎外ではあるが、自己にとってよそよそしいこととしての疎外だとは定義できない。私はこの事態を身体性の搾取と呼んできた。この観点からみたとき、資本の収益に象徴される資本によって構成される資本主義的な市場経済の使用価値構成そのものが、一方で具体的有用労働の行為の意味の資本による収奪であり、他方で、この具体的有用労働からなる商品の使用価値が生活過程の構成要素となることを通じて<労働力>の質的再生産を資本の秩序に組み入れる。ここで問題になるのは、利潤の量的な大きさに対応する労働者の抽象的人間労働の量といった量の関係ではなく、資本が生産する商品の使用価値をめぐる意味の生産がもたらす意味の搾取とでもいうべき事態である。

こうして問題の観点は、資本によって市場化された領域によって供給される商品が社会的政治的精神的過程を規定するするということになる。そしてこの点が、コミュニケーション労働の問題を考える上で重要な論点になる。

1.3.3. 意思の制御

人間の意志の問題は、集合的には社会的諸意識形態として現れ、これが階級意識となる場合もあれば、ナショナリズムや宗教的な信仰として表出したり、これらが複合することもある。いかなる「意志」を諸個人が抱こうとも、資本主義の一定の生産諸関係のなかに組込まれるが、同時に、そこからの逸脱の可能性も排除できない。人間の「意志」の多様性は、社会的存在という枠を超えることはできないにもかかわらず、社会それ自体に内在する矛盾や軋轢、つまり社会を構成する制度や機構ばかりでなく、社会を構成する人々がその担い手ともなる矛盾や軋轢が、この「枠」それ自体の裂け目を形成し、この「枠」を越える潜勢力の主体となる可能性を示している。しかし、こうした意味での主体が、わたしたちが希求するようなコミュニズムを必然的に指向するなどという都合のよい事態を想定することはできない。多くの場合、現代が抱える問題への答えは、近代以前や伝統を参照することで克服しようとする力が作用するために、結果として矛盾や軋轢の解決は先延ばしにされてしまう。

資本にとってもまた、意識の問題はやっかいだ。資本家は資本の人格的な表現主体であるとした場合、資本家にとってもまた、社会的諸関係は資本家の意思から相対的に自立したものとして存在する。この意識諸関係は、それ自体自明のものではないから、心理学などの社会諸科学が社会意識を分析する独自の専門領域を構築するようになる。資本にとって、労働者は<労働力>の単なる担い手であることを期待されるが、実際にはそうはいかない。人間は労働者やましてや<労働力>に還元できる存在ではないからだ。先にユアを引用した際にも述べたように、<労働力>それ自体は、資本主義的な生産諸関係のなかに組み込まれた社会諸関係の客体の一部をなすが、労働者あるいはその役割を担う人間は、自らの意思によって文字通りの意味でも契約上であっても自由にはなりえない対象であって、資本にとってもまた自らの意志によって自由にならない労働者の存在への戦略的な対処の必要を自覚させるものでもある。

人間の意思や意識を制御するという資本の願望が20世紀資本主義の主要な課題をなしてきた。そしてこれを国家の側から捉えたとき、そこにナショナリズムの問題が表出する。しかし、こうした意識を監視のテクノロジーによって直接捉えるまでには長い時間がかかった。監視技術は工場においては機械体系による労働の組織化によって実現することができたが、国家という枠組のなかでは、産業組織に該当するような機械体系は存在しない。これに代わるものが、人口を管理するために導入された様々な統計と技術による「全体機械」である。次に、現代のコンピュータを基軸とする監視社会の原型ともいえる時代を対象に、人類史のなかでも未曾有の悲劇を可能にしたテクノロジーをみておくことにする。

Footnotes:

1

マルクスの機械についての基本的な考え方については、1868年7月28日に総評議会会議で行った発言が端的かつ分かり易い。「資本家による機械の使用の結果についてのマルクスの演説の記録」 全集16巻所収。

2

『資本論』第一巻、大月書店版マルクス・エンゲルス全集23a、p.560。

3

『資本論』第一巻、全集23a p.458

4

Chris Carlsson, “Processed World: A Political History,” 2019, https://notesfrombelow.org/article/processed-world. Bryan Appleyard,”The New Luddites: Why Former Digital Prophets Are Turning Against Tech” https://newrepublic.com/article/119347/neo-luddisms-tech-skepticism

5

「この博覧会は、現代大工業が、いたるところで集中された力をもって、民族的境界をちりのぞき、生産や社会関係やそれぞれの民族の性格における地方的特殊性をますます消し去っていることの適切な証明である。博覧会は、現代のブルジョア的関係がすでにすべての方面から掘りくずされているまさにその時にあたって、現代工業の生産力の送料を小さな空間に圧縮して観覧に供することによって、同時に、この土台からゆらいでいる状態のただなかで新社会の建設のためにつくりだされた材料、また日ごとにつくりだされつつある材料を展示するのである。」マルクス=エンゲルス「論評」、『全集』第7巻。p.441。「資本家階級は、人類社会がかつてもった富のなかで最も巨大な富のただなかにありながら貧困の運命をになわされている労働者の製作品を、凝視し嘆賞するために、富者と権勢者を万国博覧会に正体している。労働の解放と、賃金制度の廃止と、性別、国籍にかかわりなくだれしもが、共同労働によってつくりだされた富を享有する権利をもつ社会をに樹立とにつとめているわれわれ社会主義者―そのわれわれが、7月14日、パリにおいて会合しようと約するのは、この労働者となのである」1889年、パリ万博開催にぶつけて国際社会主義労働者大会がパリで開催された際のエンゲルスによる「招集の知らせ」(『全集』21巻.p.555)

6

『資本論』第一巻a p.633-634。

7

「小農や、まだ囲い込まれていない村落の農業労働者、また都市部の職人や徒弟でさえ、労働の報酬を貨幣収入だけで計算していたのではない。彼らは、毎週毎週規律に従って働くという考え方に反抗したのである。」E.P.トムスン『イングランド労働者階級の形成』、市橋秀夫、芳賀健一訳、青弓社、p.425。

8

本書ではとりあげる余裕がないが、戦前から戦後にかけて、日本には固有の技術論論争の歴史があり、現代のコンピュータ・テクノロジーが支配的になった時代からかつての技術論論争を総括することは重要な課題だ。

9

トムスン、前掲書、p.430から引用。

10

トムスン、前掲書、p.446。

11

トムスン、前掲書、p.445。

12

リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』、田村哲夫訳、みすず書房参照。

13

こうした技術に関わる知識はそれ自体は物質的な存在ではないが、あきらかに経済的土台の一部をなすが、この知識自体の背景をなすのは単なる自然科学だけではなく、自然科学を支えた世界観にまで視野を拡げなければ近代科学の技術との接点も明らかにならないだろう。この意味で、ルイス・マンフォードが文化や技術の象徴的な側面への着目をマルクスの技術論と和解させる観点が必要になるかもしれない。ルイス・マンフォード『機械の神話』樋口清訳、河出書房新社、参照。

14

小倉利丸『搾取される身体性』、青弓社、参照。

15

「おそらく、批判の砲火が、これらのもの[労働価値説、利潤と利子の理論]に集中されたのは、『労働は、あらゆる価値の源泉である』という語句にふくまれている道徳的非難が、資本主義の衰退と崩壊との予言以上に、資本主義の確固とした信奉者に影響をあたえた」(ホブズボーム『イギリス労働史研究』、鈴木幹久、永井義雄訳、ミネルヴァ書房、p.219。

16

マルクス「労働時間の短縮についてのマルクスの演説の記録」、全集16巻、p.553

17

マンフォード、『機械の神話』、樋口清訳、河出書房新社、p.55。

18

だから、「暦」はいまだに宗教暦に依存しており、日常用語には多くの不合理な言い回しが残り、人々は事実よりも「信じうること」を受け入れる。

19

ローレンス・レッシグ『CODE』、山形浩生訳、翔泳社。後に『CODE2.0』が出版される。山形浩生訳、翔泳社。

20

資本は日常語では投資のための資金などを指すが、マルクスは「自己増殖する価値の運動体」と定義している。この定義からすると、資本は資金、<労働力>、様々な設備、労働者と経営者からなる人間集団組織などが利潤を目的として一体となって「運動」する組織体そのものということになる。

21

『経済学批判』、全集13巻、p.6。

22

本来なら資本と国家の労働者に対する戦略とすべきか、あるいは資本と国家に人口に対する戦略、のようにより一般的に論じなければならない問題だが、定式を踏まえた議論としてあえて「資本」に絞った。また、こうした限定や一般化は、ジェンダーやエスニシティといった無視することそれ自体が理論の死活に関わる観点をも無視した議論になっている。ジェンダーとエスニシティを明確に論点の中核に据えた理論構築がなされるとすると、私が本書で論じたことの大半は、そのままでは通用しなくなる。しかし、今の私の能力ではこのような再構成を全面的に試みることができない。

23

支払手段とは、富の一方的な移転としての貨幣の使用を指す。商品の購入のための貨幣の支出は「購買手段」であり、日常用語ではほぼ同義で用いられるが、マルクスの定義に従って、ここでは区別している。

24

マルクス 『資本論』第一巻、全集23b p.660。

Author: toshi

Created: 2026-01-10 土 13:39

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ベネズエラについて

他のメーリスなどに投稿したものです。参考まで投稿します。

ベネズエラにつては、私はラテンアメリカの専門家ではないので、間違いがあるかもしれませんが、以下、私の方で把握している状況について書きます。日本語のデータの大半は機械翻訳のままで、まともな校正もしてないですが、参考にしてください。リンク先の日本語のデータの最後に出典元のサイトのURLが記載されています。

(1)米国の主要マスメディアは米軍の軍事行動とマドゥーロの拉致・逮捕をほぼ賞賛している。
(fair.org)社説欄がベネズエラにおけるトランプ主義を称賛。以下日本語機械翻訳
https://cryptpad.fr/pad/#/2/pad/view/FbMFwTDNq4aLQBRpjzNVhOswPn6ZsHdrTAVJe6Z9RsA/
Fairの記事は、ウォールストリートジャーナル、ワシントン・ポスト、ニューヨークタイムズ、CBSなどの社説を検証したもの。
国際法を無視してでも排除すべき人物という主張になるのでしょう。

(2)麻薬問題。ベネズエラは主要な輸出国ではない。実際、麻薬組織カルテル・デ・ロス・ソレスについては、検察がマドウロ拉致後に容疑を取り下げたことをニューヨークタイムズが報じてちょっと話題になりました。私は下記の記事で知りました。取り下げの理由はCIAのラテンアメリカ工作と絡んでいるらしい。
(substack.com)司法省はマドゥロに対する「カルテル・デ・ロス・ソレス」容疑を取り下げた。CIAの麻薬密輸を隠蔽するためだ。(機械翻訳)
https://cryptpad.fr/pad/#/2/pad/view/gquxlkFq4WpBldsacX6eKo+T7BQFPzX+S1NVSxGXz1A/
カルテル・デ・ロス・ソレスについては昨年秋ころから米国が標的にしていて、マドゥロ政権との争点になっていました。
(ロイター)ベネズエラ、麻薬犯罪組織の存在否定 米のテロ組織指定「ばかげている」
https://jp.reuters.com/world/us/JR56VFL4YBPZ3NCFHZASJLRR4U-2025-11-24/

(3)ラテンアメリカの人権団体の声明
ベネズエラのマドゥロ政権をどのように「評価」するのか、について見解が分かれるのが人権と経済の問題かもしれません。

以下は、ラテンアメリカに拠点を置く複数の人権団体の共同声明
(wola.org)共同声明 – ベネズエラ情勢 日本語機械翻訳
https://cryptpad.fr/pad/#/2/pad/view/9ambUlVIA7Sh+H59fIYwsfPxDpZCZBGkk5YU7xUcRnA/
署名団体はかなりの数で、ラテンアメリカ各国の団体が名前をつらねています。米国の軍事行動を厳しく批判する一方で、2024年7月の大統領選挙でマドゥロが敗北しながら権力の座についていることも厳しく批判し「同国で深刻化する制度的・正統性の危機は、ベネズエラの人々を苦しめる複雑な人道的緊急事態をさらに悪化させている。私たち参加団体は、ニコラス・マドゥロの事実上の政府による人権侵害と、こうした侵害を告発した組織・個人への迫害を繰り返し非難してきた。特に懸念されるのは、恣意的に拘束され、生命と身体の安全がリスクにさらされている人々である」と述べています。この大統領選挙について、声明は「マドゥロの事実上の政府」という表現で、その正統性を否定しています。この評価は、日本国内でも見解が分かれるかもしれない。なお大統領選挙の不正を主張しつつもマチャド派を支持する文言はありません。

このほかメキシコの複数の団体、個人による共同声明がでています。以下は、国際NGOArticle19のメキシコのサイトに掲載されたもの。賛同団体・個人も多数です。
(articulo19.org)国際法違反:メキシコの団体がベネズエラへの米国の軍事攻撃を非難(機械翻訳)
https://cryptpad.fr/pad/#/2/pad/view/ESu-4F0X+pFjySQVkS6GR-ApJZdljeL9ZLZJvdeNdvk/

(dejusticia.org)我々は、ベネズエラにおける米国の介入を非難し、多国間関係者に緊急の対応を求める。(機械翻訳)
https://cryptpad.fr/pad/#/2/pad/view/nxug6jA5R43zqLB31sb0F+iQRNsjcbphF0JPYanM80w/

(derechoshumanos.pe)ベネズエラにおける米国の軍事介入について ペルーの人権団体(機械翻訳)
https://cryptpad.fr/pad/#/2/pad/view/6cHVwja+PgNBFjn9iMyinVdXfCLLXhJJdHFcnB1D4v0/

(horadeobrar.org.ar)ベネズエラ:人権危機と国際秩序の崩壊 アルゼンチンの人権団体(機械翻訳)
https://cryptpad.fr/pad/#/2/pad/view/jiT7QFdcDBgB1yLM-BfyktkqIC1jPBDM162lxRFaM68/

(iser.org.br)主権の危機:ベネズエラ侵攻、権利、そしてラテンアメリカにおける生活の軍事化に関する声明 ブラジルの団体(機械翻訳)
https://cryptpad.fr/pad/#/2/pad/view/bhKtN030iXI6yeeEwjLGi0EIsirUZMdrHjVB52UrAUc/

いずれの声明にも共通しているのは、米国の軍事行動を厳しく批判し、ベネズエラの人権侵害を批判し、ベネズエラの人々の自治を強調するけれどもマチャドには言及していない点です。

一線を画すように思いますが、メキシコのサパティスタのサイトに掲載された非常に短い声明があります。この声明は米国を批判し、もっぱらベネズエラの人々の自治を強調しています。
(enlacezapatista.ezln.org.mx)ベネズエラの人々に連帯を。(機械翻訳)
https://cryptpad.fr/pad/#/2/pad/view/eOGeUklvNqHUCIeRULhKO3vpneHbCklLBHBFMN3PcnM/
これ以外に、各国の政府、左翼政党や各国の武装組織などの見解もあるはずですが、把握できていません。今ラテンアメリカは極右政権が次々誕生していてかなり深刻です。

(4)ベネズエラのマドゥロ政権による人権侵害について
私は下記の記事が参考になりました。

(APC)女性活動家にとって、ベネズエラは抑圧の実験室であると同時にレジスタンスの場でもある
https://jca.apc.org/?page_id=671


(amnesty.org)ベネズエラが「反NGO法」を可決、被害者支援や人権擁護活動を罰する(機械翻訳)
https://cryptpad.fr/pad/#/2/pad/view/G0i85Lyp+EPgMnNs9pY2gB5q2+HSvnFttMv4THYy-6c/


アムネスティの詳細なレポート(英文)
https://www.amnesty.org/en/documents/amr53/0222/2019/en/
(機械翻訳)
https://drive.proton.me/urls/E833KABQRW#e5BZUQrhRh5j


ベネズエラの石油などの資源に関わる経済に関心をもつ論評では、米国とラテンアメリカの歴史的な従属構造と経済搾取に関心を寄せて、チャベス政権が米国資本を追放して石油資源を取り戻すという経済システムの伝統的な社会主義政策が評価されることが多いように思います。だからといって、国内の超法規的な政権による殺害や言論表現の自由への厳しい弾圧を見過していい、ということにならないというのが私の意見です。

他方で、ノーベル平和賞をとったマチャドもまた人権問題に取り組んだことで受賞し、米国もこれを後押ししたので米国が人権に強い関心をもっているように誤解されてきました。しかし米国の一貫した外交戦略は、人道・人権問題を自国の国益に利用する道具としているだけで、普遍的な人権に関心はありません。人権問題では米国などの情報戦によるバイアスがかかっていて、ベネズエラには、本当は深刻な人権侵害などはないのでは、といった疑念もありえるかと思います。この点ではファクトチェックが重要になると思いますが、わたしはかなり深刻だと判断しています。また、私のような左翼にとって、自由を犠牲にする経済的平等という立場が20世紀の社会主義を権威主義に変質させ崩壊を招いたという歴史的な責任を自覚して、いかにして社会的平等に基く自由の権利を、資本主義的な自由によって横取りされず、これを凌駕するものとして獲得するか、が大きな宿題でもあると思っているので、ベネズエラの状況は他人事ではありません。

意味と搾取(改訂版)序章





意味と搾取(改訂版)

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意味と搾取(改訂版)

Table of Contents

1. 序章

1.1. 嘘と欺瞞

最初に退屈で凡庸な喩えから始めたい。

…朝、陽が昇り、一日が始まる。一日の労働や仕事を終え、陽も暮れて一日の終りを迎え、そして暦が一日進み、次の日が巡る。私たちをとりまくこの時間の流れは、太古の昔から決して変ることなく私たちの本源的な生の基盤をなしてきた。たとえ、それが工業化され、あるいはさらにデジタル化された仮想世界の拡がりのなかに私たちの人生が投げこまれようと、この時間の現実は確固として変ることなく存在している。…

こうした牧歌的な語り口のなかには、そもそも明らかな嘘と欺瞞がある。こうした語り口は、あたかも今ここにある現実を悠久の人類の歴史と未来永劫続く人類の歩みのなかに位置づけることが可能であって、今ここにある現実を悠久の歴史の正当な嫡子として暗黙のうちに正当化して肯定しようとする保守的で排他的な願望が含まれている。今ここにある現実以外には現実はありえない、という諦念。私たちが経験している時間をあたかも普遍的であるかのように装って受け入れさせようとする暗黙の力が、結果として、今ある現実以外の選択肢を模索しようとする努力を最初から断念させ、そのかわりに私たちがすべき努力とは、今ある現実を与件とした上で今可能な微調整に限定するということこそが分別ある行為だとみなされることによって、「現実的な」解決だけが唯一正しい解決であり、それことが可能な解決だという主張がまかり通ることになる。

とりわけ、数世代にわたって私たち日本に生まれ育った者の記憶には、民衆の力が権力を打ち倒すといった劇的な歴史はなく、もっぱら抗いがたいほどの力をもって支配者たちが連綿としてその力を保持してきた絶望的な風景しか思い起すことができない。たとえあの60年代まで遡ったとしても、そう言うしかないように思う。しかし、多くの革命があり敗北もあるなかで、資本主義近代が誇る自由と民主主義が教科書に書かれているように実現された国はどこにもなく、また、革命が期待された帰結をもたらすこともまた稀であるなかで、民衆が未だに到来しない世界に自らの夢を託すことを文字通り心の底から断念したこともまた一度たりともなかった。日本の資本主義近代という時間の幅は、南北アメリカ大陸の先住民が経験してきた時間の数分の一にしかならない。未だない社会への夢を断念させようとする今ここにある支配者たちの目論見を私たちは忘れていはならないと思う。そして、彼らの目論見が冒頭に掲げたようなありふれた日常感覚を人工的に構築しながらも、それを自然とするように仕組まれることで、私たちの実感が構成されていること、私たちの生きる世界についての意味が今ここにある世界しか感得しえないように構築されていながら、そのことの問題を気づかないままでいること、そのこと自体を本書では問題にしたい。

現実的な感覚とか科学的なデータに基づく「事実」を判断基準にすること自体のなかに、私たちの可能性を削ぐある種の抑圧が伏在している。私たちは、彼らのいう「現実的」とか「科学」をまず何よりも受け入れて、彼らの土俵の上で物事を論じなければならないのだろうか。むしろ、今ここで私たちが直面しているのは、現実と呼ばれるものは、数値化されたデータのように、先験的に与えられた誰にとっても同じ客観的な世界であるかのようにみなされている。実はあらかじめ与えられたアルゴリズムによって押しつけられたものであるにもかかわらず、これを押しつけられたと実感することもできず、むしろ自ら自発的に了解した事柄であるという転倒した意識を抱く。数学的な整合性が全ての世界では、データもまた現実そのものとみなしてよいものとされる。しかし実際には、物事はもっと厄介極まりないのであって、数値であれ「言葉」であれ、これら構築されたものは、現実を一定の方法――あるいは政治的思惑――に基いて所与のカテゴリーによって抽象化されたものでしかない。一定の理論的な枠組を前提したそれ自体としては整合性のある理論に基きながら、こうしたデータが事実ではない、ということを見抜くことができなくなっている。

いかなる抽象的な概念やカテゴリーも普遍的なものとしての地位を獲得したことはない。普遍的なものの地位は、限りなく具体的なもののなかにしか存在しえないからだ。現実を説明する絶対的な真理や正しさとしての「エビデンス」は普遍的なものとは何の関わりもない。日常生活の実感も、科学的と称するデータとその理解も、それらが構成されるに至った経緯のなかに、この世界のありとあらゆるいかがわしさが込められていることを忘れてはならない。これらはいずれも、それ自体に含まれている未だ見ぬ世界へと至る潜勢力を塞ごうとする罠である。このことに用心しながら、そのいずれからも絶対的に切断された立場をとることが不可能である以上、罠に落ることを覚悟しながら罠から這い上がる格闘を覚悟しなければならない。

本質にたちかえって(「本質」なるものの存在も懐疑的な時代であるにもかかわらず)、また、今ある現実を将来においても継続するにちがいない現実にしてはならないという明らかな価値観をともなう観点をとることによって、今ここにある現実に対する認識枠組をいかにして根底から覆すだけの力を獲得しうるかを模索することが大切になる。これなくして実践的な課題の革新はありえず、実践は書籍の役目を超えるのだが、とりあえずは、この役目のギリギリの境界に立つような試みをしてみたいと思う。

科学的な社会批判というアプローチも、逆に哲学的あるいは芸術的な社会批判というアプローチもいずれもうまくいったことはなかった。なぜならば、社会は科学的な知だけで構成されているわけではないし、哲学や芸術が指向する科学的なるものを超越した領域によって構成されているわけでもないからだ。権力の暴力的な契機をみれば一目瞭然なように、科学的な知見と情動的な支配の欲望の双方が、荒唐無稽としかいいようのない神とか神話とか民族とかといった集団妄想の類を引き連れて現実の世界に、血腥い殺戮をもたらす。私たちが解決しなければならないのは、この殺戮へと至る私たちの行為を支える意味の構造だ。冷徹な計算合理性が、対象となる人間や自然を数値化して抽象化した上で「処理」する一方で、この同じ自体を情動的な欲望の側は、必ずしも憎悪や死の欲動によってではなく、むしろ耽美的で崇高な世界への憧憬として「処理」する。情動的な欲望の世界にはありとあらゆるものが動員され、それが殺戮の肯定を形作る。この世界をわたしはうまく表現できない。メカニックで一から十まで全てが力学的なメカニズムによって実現される世界が、目を覆いたくなる惨劇となってあらわれるのが戦争でもある。もっと卑近な例でいえば、交通事故もそういっていい。そこには力学的に説明できないことなどなにひとつ存在しない。しかし、感情が動員され、力学的な説明を越える意味がそこには生成される。では、この意味はいったいどこからやってくるのだろうか。その答えを探したいとは思うし、この模索のひとつの試みが本書でもあるが、十分に答えられているわけではない。私がここで書くことよりも、むしろ、たとえば、J.G.バラードが『クラッシュ』で描いたことの方がずっと核心を衝いていると思わずにいられない。

近代以降、科学が現実の社会に応用され具体化されることによって、神学や伝説・伝承の類を押し退けて人々の世界理解の基盤となった。にもかかわらず、私たちの日常生活の経験は、天動説はおろか、相対性理論の世界を経験として受け止められるような感性(理論ではなく!)を伴うことはなかった。日常生活に伴う感覚や実感の非合理性は今に至るまで強固に日常生活のなかに定着し、科学的理性をもって仕事をこなす研究者や技術者であってすら、日常の非合理性は肯定されている。神を信仰するとか、人種的な偏見をもつとか、その実体も明らかとはいえない「国家」に忠誠を尽すとか、こうした一連の価値観や態度は人々の科学的認識と矛盾しつつも共存し、逆に、こうした非合理な存在を科学が正当化してしまうような反作用すらありうる、ということが近代の歴史が歩んできた道だった。日本の近代史でいえば、現人神としての天皇の存在を医学や生物学の観点から科学的に批判することすらなされないなかで、明治以降の日本は高度な資本主義の科学技術を率先して導入しようともしてきた。このあからさまな矛盾に科学者たちは異論を唱えるどころかむしろ率先して迎合してきた。他方で、諸々の天皇主義者たちもまた、高度国防国家の科学技術を礼賛することはあっても、それ自体に内在している西欧由来の技術イデオロギーを容認した。この両者の戸惑いが端的に示されたのが、戦前の「近代の超克」論争だったといってもいいだろう。こうした私たちが経験してきた歴史を踏まえたとき、いわゆる「偽科学」とかフェイクをめぐるあからさまな虚偽以上に、この非合理性と科学の無矛盾的な共存の社会意識の方がずっと厄介な存在だ。近代日本が西洋の近代科学を経済に応用し軍事力を誇示する一方で、非合理としかいいようのない現人神を国家の統治機構の中核に据えたということ、そしてこの両者の間にある世界理解の和解しようのない亀裂を、人々が咀嚼することもなく丸呑みできたのは、そもそも人々の日常生活そのものにこうした非合理性と合理性の間に折り合いをつけるある種の生活様式が形成されたからに他ならない。

今私たちが直面している厄介な世界は、科学的な正しさが私たちの日常生活や行動を変えうるだけの力を持つとは必ずしもいえないというところにある。問題解決を、科学的合理性に委ねる合理主義者たちのアプローチでは問題は解決しなかったということだ。世界観や価値観には非合理性が不可欠であり、無視できない影響力をもつ。日合理性は文化的な表象を通じてその正統性を維持する。文化を単なる上部構造としてしかみない経済決定論者や、上部構造にあってもより権力の磁場の中心にあるという自己評価をもつ政治学者や法学者は、文化的な要因を上部構造の更に周辺へと追いやろうとする。資本が文化を市場化している現代では、むしろ市場経済の資本の合理主義と文化的非合理が融合する事態を経験している。

19世紀が機械と合理主義、あるいは理性の時代であったとはいえ、同時に19世紀はロマン主義の時代でもあり、このロマン主義が20世紀になって大衆的な心情を捉えつつ、当時の時代状況に即していえば高度なテクノロジー指向の国家でもあったナチズムとファシズムをももたらした。日本の文脈でいえば高度国防国家であり、戦艦大和を賛美するような機械崇拝と現人神や戦争の美学(日本浪漫派であれエルンスト・ユンガーであれダヌンツィオであれ、戦後の三島由紀夫であれ)が大衆の心情のなかで棲み分けていた。ロマン主義は理性を破壊したというよりも理性を飼い馴らしたのだ、といった方がいいだろう。いかなる理性的合理的な知識人も伝統に回帰する非合理的な情念なしには危機を生きられないという脅迫観念にとらわれたのだろう。彼/彼女がコミュニズム/アナキズムの夢に賭けるという選択をしなかったのはなぜだろうか。合理主義者たちが主張する「合理性」が資本主義的な合理性に過ぎないという批判は主に左翼から提起されてきた長い歴史があるが、今私たちが直面している闘いの主戦場はそこにはない。そうではなくて、日常の非合理を政治的な支配のレベルにまで拡大して世界観そのものを過去に向って覆すものとの闘いだ。「フェイクニュース」や「陰謀論」はその分かり易い事例だが、実は、こうした「偽物」を批判するマスメディアの主流や良識あるリベラルもまた、実は、自らの「フェイク」や「陰謀」と無関係とはいえない。それは、権威あるメディアや知識人が自国のことや自国民の問題を論じる段になると、その言説のなかに意識されないナショナリズム、あるいはレイシズムなきレイシズムが容易に忍び込む。習俗とみなされる宗教的な信仰を伝統や文化として肯定する日本の風土のなかで暮す者たちが、米国の福音派の非合理を理解しがたい迷妄とみなしながら、天皇や皇室について語る場合は、その存在の「フェイク」を伝統とみなして肯定するのである。こうした分かり易い真実と虚偽の腑分けよりも、科学や学問あるいは文化や伝統の正統性によって裏付けを与えられた世界の基盤にある私たちからみれば明らかな虚偽の世界を人々が正しい世界とみなすある種の認識の転倒である。天動説を理論的に覆すことと、実感として地球が動いているという実感を獲得することとは別のことであるように、理論的な判断を超えた問題でありつつ、それが非合理なロマン主義とは真逆のベクトルをも兼ね備えた場の構築、それが課題になる。

「フェイク」の拡散のなかで私たちは、あらためて正しいことを論じたとしても多くの人々は納得してくれるわけではない、ということを確認させられた。では、プロパガンダの力が必要なのだろうか。たぶん半世紀前ならそういう議論が支配的になったかもしれない。しかし、そうではないと思う。むしろ、マスメディの時代とは違って、SNSのなかに浸透する心情は、個々人の内心の集合的な欲動の発露であって、倫理的あるいは理論的な正しさに還元できない人間の欲望を連鎖的に表出する回路が、インターネットの時代に開かれたことによるのだと思う。フェイクやヘイトはネットに原因があるのではなく、むしろネットは結果にすぎない。人々を表向き「正しい」とみなす学校文化風の秩序に押し込めることによって、社会の矛盾を強者に立ち向かうことで決着をつけるのではなく、むしろ一人一人が孤立しているにもかかわらず社会の支配者を装うことを可能にする擬制の集団性によって、様々な社会的マイノリティへの憎悪が増幅される。だから「言ってはいけない」という歯止めはもはや歯止めにはならなくなったのだが、これはそもそも多くの人々がこれまで何世代にもわたって密かに内面化してきた感情や価値観が表沙汰になったにすぎない。理性は、憲法から学校教育に至るまで統治機構の形式を支える根拠を与えたにずぎず、人々の内心にある理性をめぐる葛藤や相克に決着をつけずに、単に表出を抑圧することで片づけた積りになったにすぎない。真理が権力を握ったとみなされる時代に、この同じ真理の権力は大衆のなかに、真理とは言い難い神話や憶測、偏見と差別をしっかりと植えつけてきた。それなしに権力の収斂する国家理性なるものの正統性は成り立たない。だから解決されるべき問題は、もっと大きくやっかいなものだ。現代の世界が真理とか理論などとして正しいとみなしてきた世界についての説明が、実はそれ自体が総体としてフェイクの源泉である、といってもいいのだ、ということに気づいていない。

1.2. 支配的経済学のパラダイム

ここで私が強く意識しているのは、社会の構造をみる支配的な社会科学の理論――それ自体は科学であり疑いようのない正しい理論とされる――そのものの「虚偽性」である。「虚偽」といっても理論の論理構造それ自体に問題があるわけではない。むしろ理論の前提になる基盤と方法の問題だ。たとえば、資本主義の経済システムを説明する体系が用いる様々な概念、市場、価格、商品、貨幣、資本、利潤、利子、労働などと統計データの組み合わせによって、経済システムの説明体系が組み立てられ、この体系を前提として人々は経済事象を解釈し、行動の判断を下す。こうした概念とシステムを説明する体系は支配的な経済学の学説を基盤に組み立てられた強固なパラダイムである。私は、このパラダイムそのものを承認しない。だから市場、価格、商品、貨幣、資本、利潤、利子、労働といった概念についても支配的な経済学が与えた定義を受け入れない。全く異なる定義を与える。

私はマルクスの経済学批判のパラダイム主要に依拠しつつもそこからも逸脱するだが、このことは追い追い必要な限りで本書の後の箇所で言及することになる。ここでは必要な限りで若干述べるに留める。マルクスが明らかにした資本主義の搾取理論は、社会の富の源泉の一半は人々の労働に基づき、他の一半は自然に基くとし、資本はこの富の源泉を収奪する巧妙な仕掛けでしかないとした。資本を社会の富の源泉とはみないために、資本を廃棄した社会が可能であることを指摘したのだ。しかし、資本主義の社会は、このマルスクの搾取理論を否定し、擬制の経済理論を真理とみなす体系によって、自らの経済システムを解釈し、分析し、予測をたてる。間違った理解に基くシステムであっても社会システムは崩壊することはない。理論的に正しいかどうかは社会システムの存続とは関わらない。社会の存立は別の次元で成り立つものだ。マルスク主義の観点からすれば、資本主義システムを支える理論は壮大な擬制でしかないが、主流の経済学にとってはマルクス主義の資本主義批判こそが擬制であり非科学的なイデオロギーにすぎない、ということになる。しかもこれらはいずれも、それなりの合理性を備えており、多くの知的な活動によって支えられている。世間を賑わせているあれやこれやの陰謀論の類いへの批判は、支配的な理論や思想あるいは世界観の衝突そのものに内在する錯綜した「フェイク」の多面体を見逃し、ただひとつの評価軸で真偽を判断する間違いを犯している。長い伝統をもつ宗教的な世界観から現代の社会科学の支配的な理論まで、これらの多くは、既存のシステムを正当化するためのある種の陰謀論やフェイクとしての側面をもっていることを忘れがちだ。

人間は、そのひとりひとりがそれぞれの合理性と不合理性をあわせもつ社会的な存在である。社会もまた合理性と不合理性を相互に軋轢と調和を伴いながら共存させてきた。社会的な意識がその時代の支配的な制度によって深く規定されるとすれば、理性と科学を標榜する時代そのものに内在する非合理性との密かな共謀があり、社会の合理性の側面――科学的な解明が可能な側面――を批判することだけでは、社会批判としては不十分だ。後に述べるように、この錯綜した問題領域が資本によるコミュニケーション領域の浸透を通じて、いわば資本の価値増殖メカニズムに組み込まれたことによって、もはやマルクスのいう上部構造の範疇に収まらなくなり、それ自体が経済的土台をなすようになり、この多面的なプリズム世界が同時にビッグデータを構成して人々の合理的判断と感情を構成するフィードバックが市場化された。資本主義の20世紀から21世紀にかけてのポスト・マルクスの歴史は、マルクスが土台と上部構造として論じた社会構造批判への資本主義防衛の側からの応答の歴史である。このことを自覚した私たちの側からの反資本主義の新たな批判の構築が課題になる。わたしは、こうした資本主義の延命が土台の上部構造化、上部構造の土台化を招き、資本主義のシステム内部での土台と上部構造の融合を生み出している、と考えている。本書は、こうした新たな資本主義の構成において、人々のコミュニケーションが人と人だけでなく人と人工知能との間に成り立つ構造の背景をなす非知覚過程ががもたらす搾取を課題にする。

1.3. あえて罠に陥るべきか…

私たちが採用できる戦術は、納得を得られるように科学的な知の啓蒙の技法に磨きをかけることだろか。しかし、こうした方法で果して「陽が昇る」という実感を「正しい」実感に修正することができるだろうか。相対性理論に基づく私たちの日常感覚はどのように構成しうるのだろうか。あるいは、私たちもまた、私たちに敵対するフェイクを超えるフェイクを編み出すというフェイク戦争を仕掛けるという手法が――政治的プロパガンダとしては正しいとしても――社会の正義を実現(いったい何が正義なのかという問題も含めて)するという本来あるべき社会変革のための運動の課題からすれば、当然採るべき道ではない。フェイクをめぐる問題で厄介な事は、敵は決して彼らの主張をフェイクだとは考えおらず、私たちもまた、自分の主張をフェイクとは考えておらず、いずれもが真実だと信じているし、信ずるための何らかの合理的根拠や共有可能な心情を持っている、という救いようのない事態にある。しかし、更に厄介なことは、こうした厄介事があたかもSNSのような新しい双方向不特定多数を対象にしたほぼ誰でもが発信できるメディアのせいで蔓延したという批判に典型的に示されている、勘違いだ。多くの良識あるリベラルや既存のメディアを死守したいとつい考えてしまう一昔前の「マスメディア」は、フェイクを阻止する方法として、SNSの発信を検閲すべきだとかアカウントを停止すべきだというが、こうした口封じは口しか封じておらず、頭はそのままで、また、キーボードを叩く手の自由も奪えていない。SNSは、この抑圧に対する捌け口を提供することによって収益を上げる。これは、構造的な問題である。社会的に生み出される個人の感情に浸透する憎悪や偏見を資本の収益のための資源にする仕組みそのものがこの憎悪や偏見を人々の内面に形成させることになる。

マスメディアが情報発信を独占してきたこの1世紀の間、圧倒的多数の大衆は、口封じ同然の状況のなかで一方的に情報を受けとる側にいること強いられてきた。この20世紀のマスメディア時代を通じて形成されてきた諸個人のパーソナリティは、内心の声として、レイシズムやセクシズムなど諸々の差別の感情を発酵―腐敗というべきか―させていた。極めて私的な会話のなかで繰り返し語られてきたにちがいない差別的な人間観や荒唐無稽な世界観の根源にあるのは、支配的な社会そのものが構造的に有している差別や偏見、排外主義の制度の個人の意識への内面化だが、制度を不問に付して個人の言論だけを法の権力を動員して封殺するマスメディアの時代の手法は、制度の側に組み込まれた差別と偏見や他者への憎悪の再生産構造を不問に付してきた。SNSという手段を与えられたことによって不特定多数への呟きとして噴出する言説は、この資本主義社会そのものの矛盾の表出であるという視点を欠いてしまえば、本質的な解決に向うことはできない。わたしたちの究極の課題は、そもそものフェイクやヘイトという言論そのものが無意味であるという評価だけでなく、こうした言説が念頭に置かれることも、無意識のなかに抑圧されて延命することもない、そうした意味での言説そのものが不在であるような社会をめざすということだ。

こうした呟きの言説の質を長年培ってきたのは、実はマスメディアであったり言論を支配できる教育現場や、権威主義的な政治家たちの言説、そしてこれらを身近で増幅する信頼を寄せる友人や近隣の人々、家族などなわけだが、親密になればなるほど、そのコミュニケーションは政治的正しさのメッキが剥れた歯に衣を着せぬ率直な嫌悪や排除の感情の共有という一連のコミュニケーションの構造だったとは言えないだろうか。人間は社会的な存在であり社会的なコミュニケーションのなかで、出生から成人に至る十数年をかけてパーソナリティを形成し社会や人間への複雑な価値観を形成する。人々は、メディアや教師の政治的に正しいように見える言説が言外に語っている侮蔑や差別のメッセージを的確に受け取る。だから、ほぼどこの国でも合理的なリアリストの言説と非合理なナショナリズムが生成され、世俗の建前のなかで宗教的な非合理を社会の支配的な人口が信仰するなどという捻れに捻れた感情の政治がまかりとおることになる。

太陽は昇るわけではないが、この実感には抗いがたいところがあり、これは、真実ではないことを事実として肯定することがどうして可能なのかということでもあるが、こうした問題が私たちの社会のなかには無数に存在しており、それが些細な日常の事柄であるだけでなく、それが政治的な権力を支える権威の正統性や資本の行動を左右するような大きな問題にもなる。もうひとつのわかりやすい事象がナショナリズムや宗教的な信仰だろうが、わかりにくいが社会にとって重要な事象が、本書の守備範囲に関する限りでいえば、先に資本主義経済をめぐる主流派とマルクス派のパラダイムの違いで言及したように、市場経済の構造をめぐる「科学的」な理論の擬制――彼らの側に立ってみれば、私たちの側こそが「擬制」に囚われた蒙昧の輩ということになる――である。市場経済の物神性と呼んでもよいような擬制だがそれ自体の内的な論理は一貫している、というやっかいな存在である。経済政策の策定者から金融市場の売買に関与するコンピュータのプログラムまで、私からすれば――そしてたぶん、非主流の経済学者たちやマルクス経済学者たちにとっても――支配的が学説が現実の世界に及ぼす力の問題がある。市場は多くの人たちが見ているようなものではないのだが、そのことをやはり実感することが難しい。

さて、冒頭に掲げた例え話にはまだ「嘘」がある。時間の流れが太古の昔から変るはない、というふうには社会のなかの時間は流れない。社会は物理的な時間ではなく「暦」として時間を刻み、歴史を(主として)支配者の物語として記録する。残念なことに、「暦」には、重さや長さのような中立的な尺度がない。2025年は西暦であり、キリスト暦というれっきとしてキリスト教の背景をもった時間の尺度である。イスラム暦があり、日本には悪名高い元号がある。どの暦を用いてもとても客観的で中立な歴史の時間を表示することはできない。「暦」に関しては、いかなる科学主義の合理主義者であっても、時間の尺度を自分勝手に決めてもそれを他の人々と共有する合意を形成できなければ社会的な意味を獲得できない。私たちは、今ここに至ってなお、万人が納得できる時間の尺度を獲得できていない。つまり、歴史や記憶もまた、この限界を背負ったままなのだ。この意味で、時間には理性が未だ不在なままだ。

1.4. これから語られるであろうこと

わたしたちは、決して完璧な合理主義者として日常生活を過すことは不可能だ。しかし同時にまた、完璧に非合理にもなりきれない。理論的に合理的な推論によって構築される理論の体系は、同時に非合理な世界と共存できることは人類の歴史を振り返れば自明といってもいい。自然哲学が自然科学の知見からみて明らかに間違った前提にたっていても、そのことをもって自然哲学の意義が全て否定されるわけではない。問題は、科学的、合理的ではない、そうはなりえない人間の社会的な生活存在を前提にして、どのように社会が人々に対してふるう抑圧と闘う基礎を築くことが可能なのか、という問題である。

いま「科学的、合理的ではない、そうはなりえない人間の社会的な生活存在」と書いたが、現代の私たちが直面しているのは、徹頭徹尾理論的に組み立てられた生成AIの産物が次第に支配的になりつつあるコミュニケーション環境のなかで、人間でいることのそもそもの存在理由である。生成AIが最終的に私たちの目の前に示す表現物は、徹頭徹尾合理的なアルゴリズムの塊である。ビッグデータと機械学習のプロセス全体のどこにも、アルゴリズムを逸脱してそれ自身を自壊させる可能性をはらむような要素もない。コミュニケーションを通じて私たちは、意味を生成させるが、コンピュータを相手にするインタラクティブな意味の生成過程は、従来であれば、論理的な一連の手続きを越えることがなかったのに対して、生成AIは、露骨に意図的に、人間を偽装するように設計されている。その核心にあるのは、人間的な感情を装うことだ。生成AIが産出する言葉やイメージと人間が創出するものとの間に見た目以外に共通性はない。つまり、生成AIには決定的に意味の不在がありながら、私たちの側がその意味を生成してしまう。本書では意味の搾取あるいは意味の剥奪という言い回しをたびたび使うが、生成AIとのコミュニケーションは、ありもしない意味を生成させるように仕向ける。人間との対話では絶対にありえない相互作用にもかかわらず、その違いを実感することができない。これは、形而上学的な過程ではなく、すべてがアルゴリズムによって意図的に構築されたコミュニケーションの過程である。アルゴリズムの生成物であるにもかかわらず、あたかも人間そのものの生成物であるかのように立ち現れる。そして今では、人々は真剣に、自分が対峙しているモノがAIなのか人間なのかを気にになくなっている。どちらであれ、欲しい結果さえ得られればいい、ということになる。この欲しい結果には、情緒的な何かも含まれる。本書で後に述べるように、この過程には前史がある。ひとつは、人類にとって馴染深いフェティシズムの長い伝統だ。これに機械的なコミュニケーションの過程に人々の欲望を喚起させるような仕掛けを組み込むマスメディアの特異な市場メカニズム、とりわけパラマーケットが加わる。

現実の社会へと目を向けることで、社会を変革するための手掛かりを、合理主義的な資本主義批判でもなく、かといって非合理を梃子として情念の革命を構想するのでもない、捻れた世界へと出立できるような準備をすることを考えたい。

とりわけこうした議論が重要なのは、現代の資本主義が逢着している事態が、まさにそのメカニズムにおいては合理主義の徹底的な追求として、対象とする人間については非合理な人間の側面を最大限包摂しうるような枠組のなかで人間を再定義する方向で、資本主義の延命が図られていることがかなりはっりしてきてきるからだ。コンピューターが支配的な技術となり、ほぼ社会の全ての領域において、私的な領域であれ公的・国家的な領域であるかを問わずに、コンピューターによって処理されたデータとしての私が、新たな私の感情的な要素も含めた自己同一性形成にとっての不可欠な要件をなすようになってきたために、資本主義はますます人間の合理的とはいえない振舞いをいかにしてデータ化してコンピューターのアルゴリズムの世界に飜訳しうるかというところに追い込まれてしまっている、という問題である。1

なぜコンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)が「発達」することになったのか、その動因とともに、その発展の方向性、とりわけデータ処理の高速化(ビッグデータ)、ネットワークの高度化、予測と予防(AI)としてあわられている社会状況は、経済の相からみれば資本主義的な生産―消費様式の構造的な再編の問題であり、政治の相でみれば資本主義的な権力様式の構造的な再編の問題であり、軍事の相でいえば、武力攻撃と軍の配置における地政学の根本的な転換(サイバー戦争におけるスペース)の問題であり、イデオロギーの相でいえば文化様式の構造的な再編の問題である。これらが、いずれもCTCと不可分一体であるということに伴なう広がりは、ほぼ私たちが住む世界全体を覆うものになっている。最もミクロな領域でいえば、遺伝子や生物学上の諸現象が情報として捉えられ、工学との境界があいまいになっていること、マクロでいえば、気候変動のような地球規模の自然の変化を把握すための方法も解決の方法もまた情報としての人間と自然の把握を介するものになっており、情報科学抜きには世界の設計も人間への理解も成り立たなくなっている。そしてアナログとしての生身の人間もまたデジタルの膨大なデータの束として、その都度の必要に応じて必要な組み合わせが抽出・解析され、その都度「私」と呼ばれる存在の実体が一時的・再帰的に再構成される。「私」をとりまく空間もまた、地理的な空間がもっている絶対的な実在性に対して、地図が現実の空間をその目的に応じて抽象化するように――自然の地形、行政区画、車の運転に必要な道路情報、グルメ地図などなど――空間は必要に応じて必要な情報の組み合わせによって提示される可変的な情報の束となり、しかも、地理的空間の制約を超えて、カテゴリーで空間を再構成することも当たり前にできてしまう。

これは一見すると技術革新であり進歩であり、人工的な知能による新たな支配の可能性を今ここにある支配者たちに夢想させることになっているが、しかし、むしろ政治が合理的な側面と非合理で予測困難な行動の側面の弁証法として構築されており、その結果として、支配的構造の安定した軌道を維持できず、そこから脱線しつつあるということでもある。このことは近代の政治理念としての民主主義が果すべき統治の実効性が削がれているということだと言い換えてもいい。話がここで終るなら、ある種の資本主義の終焉のような(私たちにとってはハッピーエンドな)筋書きになるが、こうした高度なコンピューター的な合理性がもたらす矛盾から運動の欲動が備給されているのは左翼だけではなく、むしろ右翼や保守主義者もまた、左翼以上に、このコンピューターが支配的な社会の新しい合理主義にディストピアの未来を見出している。彼らのスタンスは、合理主義近代の裏面にへばりついている非合理で近代以前を諸々の形で想起させる(本当に近代以前のそうした形が存在していなくても構わない)表象や文化の領域を足掛かりにしながら、更に、伝統を過去へと遡りつつ、彼らにとっての社会の正当性の根拠を、高度なCTCの構造を基盤に再構成しようとする。この傾向は、表れは様々であっても、どの社会にも見出される反動のプロジェクトである。彼らは、コンピューターの合理主義がとりこぼしている人間の非合理な側面と、これに付随する感情を高度なコンピューターの世界に接合することによって、結果的に現状維持に加担する。あたかもスティームパンクのように、歴史の時系列を伝統や過去への眼差しに依拠しながら未来を観る、つまり未来を過去の伝統に則して、しかし技術のありかたとしては高度にコンピューター化されたデータ化された個人の存在を徹底して肯定することで、資本主義の将来をこじあけようというわけだ。多分、こうした世界では、人と人とのコミュニケーションに依存する民主主義は壊死し、意思決定はフェティシュなAIと人間の得体の知れない共同作業に委ねられた資本主義が生き残るということになる。コンピューター・テクロジー至上主義による独裁と民主主義の弁証法的統一、これが資本主義の次の時代を特徴づけるのであれば、私たちもまた、この構造を正面に据えた闘いを模索しなければならない。

しかし、左翼はこの戦略をとることが十分にはできないように見える。過去は未来を創造するための否定的な教訓の書庫であって決してそこに立ち返えるべき場所ではない。未来は、ある意味でいえば未だにありえない世界の一(はじめ)からの創造であり、とりわけ、その条件は、現にある資本と国家が構想できるようなものとは本質的に異なる。つまり彼らには到底理解することのできない世界を創出することでなければならない。この任務を今現在の世界と過去の記憶と記録からの総括という限られた駒を使って進まねばならない。

このときにやっかいなのは、資本主義が未来という時間を先回りして常に彼らの世界のなかに囲い込むことに長けているという点だ。市場経済と資本の投資行動の基本がこの将来=未来への投企であり、コンピューターもまた予測の技術として開発されてきたという経緯のなかに、私たちが描くべき夢が次々と市場の商品や国家の愛国心によって奪いとられてしまうメカニズムが存在している。このメカニズムそのものを解体する闘いを組むこと、運動が資本と国家にとって不可能な夢を見ることの必要、本書はそのための模索である。

本書が意図していることは以下の点にある。第一に、資本主義批判の核心となってきたマルクスの資本主義批判、とりわけ搾取をめぐる理論を拡張することである。剰余価値論として商品価値論から導出された搾取の理論に対して、本書は、マルクスが十分な検討を加えないままにした商品の使用価値を正面に据える。商品の使用価値は、その消費を通じて人々の生活を再構成して人口の日常的再生産と世代の再生産の具体的なあり様を規定する。ここで問題になるのは、労働の量ではなく、市場での使用価値の調達から消費に至る過程のなかで商品の使用価値をめぐって形成される「意味」が人々の意識に作用するあり方だ。この過程は、資本主義における意味の剥奪を通じた身体性の搾取であり、これを通じて資本主義において人々は<労働力>となる。言うまでもなく、この使用価値の過程にはAIが関与することによって、使用価値の意味が知覚しえない過程を通じて変容する。マルクスの搾取の理論に加えて、より包括的な搾取の構造がここにはある。こうした意味での使用価値を論じるには、狭義の意味での市場だけでなく市場を取り巻く情報環境、コミュニケーションのあり方を視野に入れなければならないが、現代資本主義はこの分野をコミュニケーションの労働化によって資本に包摂するようになる。これまで私がパラマーケット論として述べてきた議論のアップデートを試みることになる。第二に、資本主義の人間嫌いが機械化をもたらしてきた過去の経緯のなかで、人間をデータ化し管理しようとするなかで展開されてきたテクノロジー進歩を支えてきた思想、たとえば、行動主義からコンピューター科学へと至る人間を操作可能な対象とみなす道具主義的合理主義といった監視社会を支えるイデオロギーに対する批判を試みる。第三に、資本主義の基本的な構造を土台―上部構造として描いたマルクスの議論が、その後の資本主義によって脱構築される経緯こそが20世紀資本主義の生き残り戦略の基本にあることから、土台と上部構造が一体化する傾向をもっていることを指摘する。イデオロギーはもはや上部構造ではなく、これ自体が収益を上げることができるビジネスになり、経済的土台が担う領域になる。そして法もまたコンピューターのアルゴリズムやプログラムにとって代られることによって、資本のテクノロジーが優位を占める。第四に、こうした傾向を支えているコンピューター・コミュニケーションはこれまでのコミュニケーション分析では考慮されてこなかった機械化されフィードバックのメカニズムを内包させた非知覚過程に着目し、プライバシー空間の解体と人々の意識そのものの直接的な包摂を企図するものとしてビッグ・データからAIやBCI(脳コンピューター・インターフェース)に至るテクノロジーの問題を指摘する。ここでは、資本主義的な人間が機械に対して抱くフェティシズムがAIに対する同一化をもたらす点も指摘する。第五に、意識の資本と国家による実質的包摂の可能性に対して、私たちは、パラマーケットと非知覚過程を通じて、私たちの主体をも巻き込んで展開される意味世界がもたらす身体性搾取からの解放のためにとりうるとりあえずの対症療法について、いくつかの具体的な考え方を示す。 そして、真の解決は本書のなかには存在しないことを最後に読者の皆さんにお伝えして、本書は閉じられる。

Footnotes:

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コンピューター開発の歴史は、20世紀の歴史がいわゆる社会主義と資本主義という二つの体制が共存した70年間の時代を間に挟んでいること、そしてコンピューター開発にソ連を中心とする社会主義圏の科学技術の動向も関わりがあること、このことを前提にすると、コンピューターを支配的なテクノロジーとして選択した体制を資本主義に限定すること自体が果して正しい認識なのかどうか、という問いに私なりの答えを出しておかなければならないことになる。 さらに、この問いに加えてやっかいなこととして、ソ連をはじめとする20世紀の社会主義、そして冷戦崩壊後も社会主義として資本主義諸国から敵対視される諸国(中国、キューバ、朝鮮など)も含めて、これら諸国は資本主義とは本質的に異なるとともに、社会主義と彼ら自身が自称することをそのまま受け入れて社会主義として区別すべきなのかどうか、というもうひとつの問いである。このように問うということは、20世紀の冷戦の一方の当事者を社会主義とみなすことの是非という問題がここには含意されている。社会主義と呼ばれる体制が成立した当時から議論されてきた、社会主義を自称する諸国は社会主義の名に値するのかどうか、という問題は、簡単に解決できない反面、この問題に一定程度の答えを与えない限り、20世紀の資本主義にも自称社会主義にも共通するテクノロジーの問題への答えがうまく出せない。 もし、自称社会主義諸国を文字通りの社会主義あるいはその萌芽、過渡的形態とみなすにせよ、いずれにしても資本主義とは本質的に異なる統治機構と経済システムをもつ社会であるとすると、そうであってもなお資本主義と共通するテクノロジーの基盤を持っていたとすれば、テクノロジーへの問いを、資本主義とテクノロジーという枠組で論じることが妥当かどうかが問われることになる。この問題はコンピューター以前の工業化のテクノロジーにも共通する問題だ。

第1章はこちら

Author: toshi

Created: 2025-12-23 火 10:24

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(Popular Information)戦争犯罪省

(訳者前書き)米国のカリブ海での軍事行動が明かな国際法違反、戦争犯罪であることについて、日本の与党や米国との軍事同盟を支持している野党がどれほど危惧しているのかわからない。米国内ですら、米軍が麻薬密輸船を空爆し、ヘグセスが殺害命令を出したことについて、国際法だけでなく米国の交戦規則にも反するのではないかという批判がある。しかし、日本国内ではこうした声は大きくはないように思う。最近の米軍の動向や、米国との同盟関係にある国の軍事的な動きには今までにはない、例外事態の常態化があるように思う。

以下は、popular informationというサイトに掲載された論評を機械翻訳を借りて若干の修正をほどこしただけのもの。この記事では、ヘグセスが国際法を遵守する気が全くないばかりか、米国の従来の交戦規則についても、これに縛られるべきではなく、最大限の殺傷力を行使すべきだ、ということを公言してきた人物であることを指摘している。また、この記事では、こうした人物が国防総省を戦争省と改名した組織のトップについている、という米軍の現在のありかたに注目し、米国内の批判を紹介している。

国際法上における戦争についてのルールを私は国家による殺人を正当化するためのルールとして容認する立場にはないが、多くの国では、戦争という手段を認めており、このことを前提にして、「正しい殺し方」を国際法で規定した。ヘグセスは米国がこの国際法上の戦争の規範に縛られるべきではない、という。なぜなら、敵は縛られていないからだ。戦争の唯一の目的は武力による勝利であり、そのために最適な手段をとることが必要なのであり、国際法に縛られべきではない、というのがヘグセスの言い分だ。あるいは、「アメリカ・ファースト」の政策では、米国の戦争規範だけが米軍にとっての規範である、ということになる。しかも彼は従来の米国の戦争規範はあまりにも規制が厳しいと批判し、戦場の兵士により大きな決定権を与えるべきだともいう。

米国の「戦争省」トップはもはや国際法を遵守するつもりがないことははっきりしている。彼らは、戦争のルールは自分たちが決めることだといい、敵は、たとえ民間人であっても徹底的に殺してしまえ、という。このような軍隊と日本は同盟を結び、基地を提供し、軍事組織の統合を進めているのだ。政権与党や極右政党はヘグセスやトランプ政権による国際法のある種の極右DXを当然了解しており、このことを折り込み済で、新たな安保戦略などを改訂するつもりだろう。たぶん、現在の同盟関係を前提にすれば、日本もまた既存の国際法秩序を否定する以外になくなるのは必至だ。自衛隊もまたこの米軍の国際法違反の行動の共犯者になる。またもや戦争犯罪の加害国になる。

しかし、実は、ヘグセスはとても正直に戦争のあるべき姿を主張しただけなのではないか、とも思う。というのは戦争=暴力による紛争や対立の決着という方法は、結局のところ力の優劣に依存し、それ以外の様々な条件は暴力の従属変数にしかならないからだ。暴力行使にルールを定めることができるのは、敵と味方双方が同じ価値観の基盤の上にある場合だけであって(その典型が騎士道とか武士道などと呼ばれる暴力の規範かもしれない)、他者との間に成立したことはない。他者との間にある暴力は、常にジェノサイドを指向してきた。国際法は国連の枠組が世界性を国民国家の集合として包摂することが可能な範囲で形式的に正統性を得てきたが、これが今では破綻しつつある、ということでもある。欧米が基軸となって構築してきた戦後のルールがここ四半世紀に経済で破綻し、次第にルールメーカーの地位を中国など非西欧世界が獲得しつつあるなかで、同様のことが戦争のルールでも起きつつあることは、20世紀末以降の対テロ戦争のなかで実感されてきた。ヘグセスは、このことを率直に語ったにすぎないかもしれない。とすれば、既存の国際法を遵守せよ、とか国民国家の自衛権を認め、その限りで国家の武装を正当化することで戦争を一定の規範のなかに押し込めることが平和構築の基礎となる、といった考え方ではヘグセスや、確信犯的な戦後の戦争規範を否定しつつより高度で凄惨な戦争を勝ち抜こうという権力者たちには太刀打ちできないと思う。とるべきスタンスはこうした現実に対して、国民国家体制では破綻した暴力=戦争と軍隊による支配の廃棄という普遍的な生存の権利を、既存の統治機構にとらわれることなく、実現可能な未だない社会を構想することしか、この絶望的な暴力から逃れる道はない、と思う。どこの国の指導者もみな内心ヘグセスにような本音を隠し持ちつつ、平和主義の仮面を被っているに過ぎない。とりわけこの日本では、その傾向が強い。自衛隊を含めて軍隊の廃止を明言せず、日米同盟の廃棄も曖昧にする一切の平和主義者を私は信じない。

わたしはこの記事を読むまでヘグセスがトランプ政権の閣僚になる直前にthe War on Warriorsという本を出版していたことを知らなかった。以下の記事でもこの本からの引用があり、この本についてもあわてて序文だけ読んだが、露骨な差別主義者の言動に唖然とした。この本については別に論じるかもしれない。かつてナチズムに傾倒したカール・シュミットが『政治的なるものの概念』(未来社、岩波文庫など)で友・敵関係を軸に戦争を徹底した殺戮とみなして、それこそが国家権力の本質、あるいは政治的なるものの本質でもあるとして、国際法など全く眼中にない議論を展開していたことを思い出した。(としまる)


(Popular Information)戦争犯罪省

レベッカ・クロスビー

ノエル・シムズ

2025年12月2日

9月2日以降、国防総省(DOD)はドローンを使用して、カリブ海および太平洋東部を船で移動していた80人以上の人々を殺害した。政府は、この攻撃は米国に麻薬を密輸する「テロリスト」を標的にしたものだと主張している。

ニューヨーク・タイムズ紙の報道によれば、軍は殺害した人々それぞれの名前をすべて把握しているわけではない。それどころか軍は、「船上に麻薬カルテルと関係のある人物が乗っており、船上に麻薬が積まれていると確信できる場合」に、その船を攻撃している。公に証拠は提示されておらず、コロンビア政府は、少なくとも1回の攻撃で無実の漁師が死亡したと述べている。

たとえドローン攻撃で殺害された者が全員、実際に麻薬密売人であったとしても、国防総省が彼らを殺害する権限をどこから得ているのかは不明である。司法省は、カルテルが米国に対する「非国際的なnon-international武力紛争」の資金源のために麻薬取引を行っていると主張し、憲法第2条に基づき、議会が戦争の宣戦布告に署名する前であっても、行政機関が麻薬密売人を殺害する権限を有するとの見解を示している。しかし、米国への麻薬密輸が「戦争」の開始に該当するのかどうかについては、議員や法律専門家から疑問の声が上がっている。

最近、ピート・ヘグセス国防長官が少なくとも攻撃の1つを命じたことで戦争犯罪を犯したということにについて、これまでで最も強力な証拠となる新たな情報が明らかになった。

先週、ワシントン・ポスト紙は、9月2日にカリブ海で実施された、麻薬密輸船に対する国防総省による軍事作戦の最初の攻撃において、ヘグセスが生存者を残さないよう口頭で命令したと報じた。同紙によると、最初の攻撃から数分後、攻撃を指揮していた特殊作戦司令官は、ヘグセスの命令に従うため、燃え盛る船の残骸にしがみついている2人の男を殺害するよう、2回目の攻撃を命じた。

この報道は、ジュネーブ条約に違反している可能性が高い。同条約は、「武器を捨てた軍人、病気、負傷、拘束、その他の理由により『戦闘不能』となった者など、敵対行為に積極的に関与していない者は、いかなる状況においても人道的に扱われなければならない」と規定しており、「生命および身体に対する暴力、特にあらゆる種類の殺害」を具体的に禁止している。

正確な身元や麻薬取引における役割が不明な2人が、大海原の真ん中で難破船にしがみついている状況は、間違いなく「戦闘不能」―つまり闘うことができない状態―であり、彼らを殺害することは戦争犯罪にあたる。これは、ジュネーブ条約を米国法に組み込んだ1996 年の戦争犯罪法にも違反する。

ワシントン・ポスト紙の報道を受けて、民主党と共和党の両方がヘグセスの命令について深刻な懸念を表明している。ティム・ケイン上院議員(民主党、バージニア州)は CBS で、「これが事実であれば、これは戦争犯罪のレベルに達する」と述べた。マイク・ターナー下院議員(共和党、オハイオ州)は、「明らかに、そのようなことが起こったならば、それは非常に深刻な問題であり、それは違法行為であることに同意する」と述べた。下院と上院の軍事委員会は、この命令について調査中だと発表した。

月曜日、ホワイトハウスのキャロライン・リービット報道官は、9月2日の作戦における2回目の攻撃を擁護し、すべては軍の法的権限の範囲内だったと述べた。リービット報道官は、この主張を裏付ける詳細については何も明らかにしなかった。

ヘグセスが、戦争犯罪に該当する可能性のあるような命令を下すだろうということは驚くにあたらない。ヘグセスは、ジュネーブ条約や法的交戦規則を軽蔑する発言を長年にわたり繰り返してきた。

ヘグセスは、国際法に従うことは「片手を背中に縛って戦うようなもの」だと示唆した

2024年に出版された著書『The War on Warriors(戦士たちの戦争)』の中で、ヘグセスは、米軍がジュネーブ条約に従うべきかどうかについて疑問を投げかけた。ヘグセスは、ジュネーブ条約に従うことは「片手を背中に縛って戦うようなもの」だと主張した。

ジュネーブ条約に従うべきだろうか?敵が我々にしたように、我々も敵を扱ったらどうなるだろう?それは、敵側に彼らの野蛮な行為を再考させるきっかけになるのではないか?そうだろう?、アルカイダよ。降伏すれば、命は助かるかもしれない。降伏しなければ、腕を引きちぎって豚の餌にしてやる。

2024 年、勝利を望むならば、公然の紛争において人々を殺害する行為について、どうして普遍的なルールを策定できるのか、と私は疑問に思う。特に、あらゆる場面で人命を軽視し、野蛮人のように闘う敵に対してはなおさらだ。おそらく、その代わりに、我々は片手を背中に縛られた状態で戦闘しているだけなのである。そして敵はそれを知っている。

ヘグセスはさらに、米軍は「自国の規則」に従うべきであり、「国際法廷」は無視すべきだと提案した。

もし我々の戦士たちが、国際法廷の機嫌をとるために、恣意的なルールに従うことを強制され、より多くの命を犠牲にすることを求められるなら、我々自身のルールに従って戦争に勝つほうが良いのではないか?他国がどう思うかなど、気にすべきではない。我々自身が自問すべきは、戦いを強いられた場合、勝利のために戦うのか?それとも、左派を満足させるために闘うのか?つまり、勝利せず、永遠に戦い続けるのか?ということだ。

上院承認公聴会で、ヘグセスはジュネーブ条約の順守に関する質問を回避

ヘグセスの上院承認公聴会で、アンガス・キング上院議員(無所属、メイン州)は、ヘグセスがジュネーブ条約の順守を確信してかどうかについて質問した。ヘグセスは直接の回答を避けた

上院議員、私が…何度も述べたように、ジュネーブ条約は私たちの行動の基盤である…アメリカ第一主義の国家安全保障政策がやるつもりのないことは、戦場で我々の兵士たちがどのように決断を下すかについて国際機関に指図させるような特権を与えることである。アメリカ第一とは、我々が明確な使命と明確な目標のためにアメリカ人を派遣し、我々がその目標達成のために適切な装備を提供し、我々が必要なものはすべて与え、そして、アメリカの敵を打ち負かすために断固として闘うことを可能にする交戦規則で彼らを支援することだ。だからこそ、我々はこの議場で静かに、平和に腰を下ろしているのだ。

「われわれは規則に従うが、戦争に勝つことを不可能にするような煩わしい交戦規則は必要ない」 ヘグセスはそう述べた。

ヘグセスはまた、上院の承認公聴会でジャック・リード上院議員(民主党、ロードアイランド州選出)に対し、「最前線で戦う兵士たちが敵を破壊し、包囲する機会を確実に得られ、弁護士たちがその邪魔をしないように、合法性と殺傷力のバランスについて深く考えた」と語ったと、ABCニュースは報じている

ヘグセスは軍指導者に「愚かな交戦規則」を脇に置くよう指示

9月の演説で、ヘグセスは上級軍指導者のグループに、「愚かな交戦規則」を無視するよう指示した。彼はこの規則を「行き過ぎ」だと表現した。交戦規則とは武力行使に関する法的ガイドラインである。

我々敵に対して圧倒的かつ懲罰的な暴力を解き放つ。また、愚かな交戦規則で闘うこともない。 我々は、我が国の敵を威嚇し、士気をくじき、追い詰め、殺害する(hunt and kill)ために、戦闘員の手を縛らない。 政治的に正しい、横暴な交戦規則はもう必要ない。必要なのは、常識と、最大限の殺傷力、そして戦闘員への権限だ。

ヘグセスは「最大限の殺傷力」を求めた

9月、トランプ大統領は、国防総省(DOD)の名前を戦争省(Department of War)に変更する大統領令に署名した。署名する際に、ヘグセスは、同省は「生ぬるい合法性ではなく、最大限の殺傷力」に焦点を当てると述べた。

この名称変更は、単なる改名ではない。それは回復である。言葉は重要だ。それは、大統領が私たちに指導してくださったように、戦士精神の回復、最終目標としての勝利と明確さの回復、武力行使への意図性の回復である… 我々は防御だけでなく、攻撃も行う。生ぬるい合法性ではなく、最大限の殺傷力。政治的正しさではなく、暴力的な効果。防衛者だけでなく、戦士を育成する。

ヘグセス、戦争犯罪で起訴された者たちの恩赦をトランプに働きかける

ヘグセスは、トランプの最初の任期中に、「イラクおよびアフガニスタンで犯したとされる戦争犯罪」で有罪判決を受けた者、あるいは起訴された者たちの恩赦をトランプに働きかけた。トランプは結局、陸軍中尉のクリント・ロランスと陸軍少佐のマシュー・ゴルステインの両者を恩赦し、海軍特殊部隊(ネイビーシールズ)のエドワード・ギャラガーの「降格を取り消した」。

「彼らは、私たちを守る任務を帯びて地球上で最も危険な場所へ赴き、瞬時に厳しい判断を下した者たちだ」と、ヘグセスは2019年5月に述べた。ヘグセスは、彼らは「戦争犯罪者ではなく、戦士だ」と主張した。

2024年6月、CNNは、ヘグセスはポッドキャストで自身の立場を擁護した報じている

ドナルド・トランプは、彼の任期最後の数年間に私が擁護した者たちを赦免した。誰かの言うところによれば、彼らは正しい者たちを間違った方法で殺害したそうだ。その件は終わった。我々は敵に対して全面戦争を戦う必要がある。そして、確かに、意図的に民間人を殺害してはならないが、悪者を殺害することは必要だ。全員だ。死体を積み上げ、終わったら、事態が落ち着くのを待って、誰が優勢かを見極めるんだ。

2024年11月のポッドキャストのインタビューで、ヘグセスは交戦規則の無視を擁護した。AP通信によると、ヘグセスは2005年にバグダッドで軍の弁護士から交戦規則について説明を受けたと語った。ヘグセスは、ブリーフィングの後、小隊に「みんな、そんなことはやらない」と伝えたと述べた。

ヘグセスは、「ニューヨーク・タイムズ紙や左派、民主党員たちは… 1つの事件を取り上げて『戦争犯罪者だ』と叫んでるにすぎない」と主張した

https://popular.info/p/department-of-war-crimes

(noazureforapartheid.com)私たちはイスラエルのジェノサイド機械の歯車にはならない:労働者インティファーダの呼びかけ

(訳者まえがき)ここに訳出したのは、マイクロソフト社によるガザのジェノサイドへの共犯を内部告発してきたテック労働者や支援する労働者たちの運動No Azure for Apartheidのサイトに掲載された宣言文だ。日付けはないが、ジェノサイドから22ヶ月という文言があること、そしてここで「解放区」と呼ばれている場所が設置されたのが、2025年8月19日とVerge誌が報じている(日本語訳)ので、今年の8月頃に書かれたものだろう。大学キャンパスの野営キャンプに倣って設置された「解放区」だが、即座にマイクロスフフト社と警察による弾圧が始まる。8月19日、20日、8月26日と連日のように、抗議に参加したマイクロソフトの労働者たちが次々に解雇され、28日には、開放区の抗議行動に参加したユダヤ人労働者が解雇されている。同時に多くの逮捕者も出す。Arab DAily Newsは次のように報じている。「これらの一連の措置には、8月26日の座り込みに参加したアンナ・ハトルとリキ・ファメリの解雇、8月19日と20日の解放区キャンプに参加したニスリーン・ジャラダットとジュリアス・シャンの解雇が含まれる。ジョー・ロペスはMicrosoft Build 2025基調講演での抗議活動、イブティハル・アブサドヴァニヤ・アグラワルは4月4日のMicrosoft創立50周年記念イベントでの抗議活動、そしてホッサム・ナスルとアブド・モハメッドは昨年10月24日のパレスチナ殉教者追悼集会と募金活動が理由で解雇されている。」以下の声明は、まだこうした弾圧が始まる前に出されたものだろう。この声明はジェノサイド加担企業で働く労働者の共犯性を自問するとともに、労働者への呼びかけだけではなく、マイクロソフト社のサービスの消費者でもある私たち一人一人への厳しい問いかけでもある。マイクロソフト社のジェノサイド加担が、これほどまでに明白であるのに、それでもなお、マイクロソフトのソフトウェアを今まで通り使い続けることでいいのかどうか、とりわけ反戦平和運動が運動の文化のなかでマイクロソフトのサービスを許容する文化をそのままにしていいのか、という厳しい問いかけでもある。なお、この運動の8月の経緯については、Real Change News8月25日のGuy Oronの記事(英語)が詳しいと思う。(としまる)


私たちはイスラエルのジェノサイド機械の歯車にはならない:労働者インティファーダの呼びかけ

解放区より

私たちマイクロソフトの労働者、元労働者、良心あるコミュニティメンバーは、殉教したパレスチナの子どもたちの広場(旧Microsoft東キャンパス広場)の敷地内に解放区を設立する。パレスチナにおける22ヶ月に及ぶジェノサイドをマイクロソフトが積極的に支えていることに対し、この一歩を踏み出すことを選択した。解放区は絶望と極度の緊急性から生まれた。解放区は、嘆き悲しむパレスチナの母たちへの哀悼と、パレスチナのバラバラにされた赤ん坊を目の当たりにしたことから生まれた。解放区は、パレスチナの人々の豊かな人間性への徹底的な愛から生まれた。

今日、私たちはガザからの行動要請に応え、Microsoftのテクノロジーによって支えられたこのジェノサイドを終わらせるために、動員し、対峙し、エスカレートしてゆく。

今日、私たちは、パレスチナ人を非人間化し大量殺戮を可能にするシステムへの加担を拒否する。このジェノサイドへの共犯を拒否する。ジェノサイドを前にしていつもの日常を受け入れることを拒否する。

今日、私たちは反乱を選ぶ。立ち上がることを選ぶ。不服従を選ぶ。そしてパレスチナの全土が解放されるまで、インティファーダの火を掲げ続けることを選ぶ。

今日、私たちはその職と移民の身分と生計と肉体を危険に晒す。パレスチナ人の血の海を止めるには、まさにこの緊急な対処が必要だからだ。世界で最も多くの証拠が残されている初のAI支援によるジェノサイドを、私たちの労働が支えている以上、沈黙を続ける余裕など一秒たりともない。

私たちの労働は、政治的ではなくテクノロジーは中立だ、とよく言われる。しかしMicrosoftは1991年以来、自らのテクノロジーをイスラエル軍、刑務所システム、警察、大学、学校(違法占領下の入植地を含む)に組み込み、アパルトヘイト経済の一翼を担うという積極的な選択をしてきた。これは政治的に選びとられたものだ。現状において、Microsoftのテクノロジーはパレスチナ人が毎日行う何百万もの通話やテキストメッセージの記録を収集・保存する、イスラエルの大量監視兵器を支えている。これも政治的に選びとられたものだ。毎時間、Microsoftが支えるこの大量監視兵器は、パレスチナ人を脅迫し、拘束し、事後的に殺害するのを正当化する目的で私たちは使用する。これもまた政治的に選びとられたものだ。過去22か月間、毎日、Microsoftが支えるこの大量監視兵器は、ガザ地区のパレスチナ人に対する爆撃と虐殺を容易にするために私たちは使用する。これもまた政治的に選びとられたものだ。

端的に言えば、Microsoftとその幹部は、私たちの労働力を搾取し、数百万のパレスチナ人を脅かし、拉致し、虐殺し、傷つけるイスラエルのジェノサイド機械を支えるテクノロジー基盤として自らの地位を固めたのだ。その見返りとして、同じ幹部たちは、パレスチナ人の自己決定権と生存そのものを脅かし続けている、イスラエルの入植者による植民地化プロジェクト——ジェノサイド、アパルトヘイト、追放、民族浄化、戦争——を支え維持することで、数億ドルを稼いだ。

解放区を確立するにあたり、私たちは職場を解放し、労働を取り戻す。パレスチナにおけるジェノサイド及びその他の人類に対する犯罪に加担しうる一切の労働を拒否し、Microsoftに対し以下を要求する:

  1. イスラエルとの関係を断て
  2. ジェノサイドと強制飢餓の終結を要求せよ
  3. パレスチナ人への賠償金を支払え
  4. 労働者への差別を終わらせろ

解放区を確立するにあたり、私たちは学生インティファーダに啓発され、良心ある全ての労働者に労働者インティファーダへの参加を呼びかける。これはパレスチナ人へのジェノサイドを支えるために自らの労働力が搾取されることを拒否する労働者による革命的蜂起である。77年に及ぶ占領と、現代のホロコーストを22ヶ月以上も目の当たりにしてきた私たちは、もはや空虚な言葉に懇願するのをやめ、代わりに私たちが生活している機関や組織に対し、イスラエルの飢餓と爆撃によるジェノサイド作戦を支える役割を終えるよう強く要求する。

ガザよ、私たちはあなたたちの呼びかけに応える

ガザとパレスチナ全土の人々へ 私たちは、あなたたちのことを見守り、その声を聞き、共に悲しみ、あなたたちのために怒り、反乱を起こす。そして今なお続くイスラエルの飢餓・爆撃・追放というジェノサイド作戦に反対し、無条件の完全な連帯をもって立ち向かう。この世界で道を見失いがちな時代に、あなたたちは私たちに道徳的指針を与え、勇気を示してくれた。私たちはあなた方の家族、友人、愛する者たちの死を悼む。これからの日々、週、月、年、そして数十年にわたり、彼らの生を記憶し、その記憶を尊び、殉教者たちが尊厳と自由の中で今も生き続けられたであろう世界のために闘うために誓う。

「彼らは私を千回殺した

それでも私は生きてみずからの尊厳を創り出すために、何度でも生き延びる」

私は死なない、死なない、私はパレスチナの子どもだ」

タラ・アル・ダナフ(12歳、パレスチナ人詩人、ガザ地区アル・シャティ難民キャンプ出身)

解放区にある殉教したパレスチナの子どもの広場から、飢えと恐怖と苦痛の中で命を奪われたパレスチナの全ての子ども殉教者たちを悼み、称える。私たちヤキーン・ハマドを称える。11歳で殉教した援助活動家でありジャーナリストだ。私たちジャマル・カファルナを称える。飢えにより殺害され、わずか5ヶ月で殉教した。私たちマスク・アル・イフランジを称える。7歳で最年長の姉であり、才能ある芸術家だった。私たちカッサム・アル・ハッジを称える。サッカーに情熱を燃やし、医者を目指す優秀な学生だった。私たちはリタ・アル=ジャニーナを称える。水不足の中、家族にタヤムム(イスラム礼拝前の乾式浄め)を教え、10歳で殉教した。私たちはヒンド・ラジャブを称える。赤新月社に何時間も電話で懇願した後、5歳で335発の銃弾により殺害された。私たちは、10回も避難を強いられた末、7歳で家族と共に爆風に吹き飛ばされた悲劇の主人公シドラ・ハッスナを称える。私たちは、出生証明書すら発行される前に空爆で母親と共に殺害された生後三日の双子、アイセルとアッサー・アブ・アルクムサンを悼む。私たちは数えきれないほどのパレスチナの子ども殉教者たちを称える。Microsoftやその他のジェノサイドで利潤を上げる企業が提供する兵器や武器で殺害された者たちだ。アッラーが汝らの殉教を受け入れ、天国(ジャナト・アル・フィルドゥース)の最高位で美しい鳥として天を舞うことを願う。

私たちは、継続するジェノサイドに終止符を打ち、過去22ヶ月そして77年間にわたり違法かつ正当化不能な形で剥奪されてきた食糧・水・住居・医療・教育・自己決定権・正義へのあなたの権利を完全回復させるため、あなたたちの行動要請に応える。今日の私たちの努力が、即座にイスラエルの強制飢餓キャンペーンを終わらせたりガザ包囲を解除したりしないことは承知している。しかし私たちの行動が、マイクロソフトが製造したような米国製の物理的・テクノロジー兵器の流れを強制的に終わらせ、それらがあなた方を虐殺するために使われることを阻止することで、いかなる形であれ、あなた方の苦しみを和らげ、パレスチナの解放に貢献することを願っている。

解放区の必要性

この行動は、Microsoftが支えるジェノサイドに反対する22ヶ月にわたる闘いの結晶である。22ヶ月間、Microsoftはジェノサイドを可能にし、加速させ、利益を得ながら、その非道で違法なジェノサイド利得ビジネス慣行に異議を唱えた労働者を繰り返し黙らせ、報復してきた。証拠はもはや圧倒的であり、妨害は絶え間なく続いている。そして労働者の圧力は臨界点に達している。それでもMicrosoftとその幹部は労働者の要求に耳を貸そうとせず、必死のPR声明や見せかけの調査の陰に隠れ続けている。

私たちにとって以下のことは明らかである。Microsoftの「道徳的企業」という主張は見せかけに過ぎない。 なぜなら彼らは正しいことをしているからではなく、クラウドやAIという技術兵器を通じてアパルトヘイトを直接支援し、ジェノサイドを推進し、ガザにおける飢餓キャンペーンを助長するために、私たちの労働力を搾取し続けるために方針を変えないのだ。彼らが占領とジェノサイドの経済から撤退するという場合があるとすれば、それは、撤退しないことが自社の利益を損なう時だけである。

だからこそ今日、私たちパレスチナに連帯する労働者たちは、職場で物理的直接行動を起こし、継続するジェノサイドによる利潤の連鎖に終止符を打つという労働者の長い伝統に加わる。世界中の港湾労働者がイスラエル向け武器輸送を拒否し、学術関連の労働者が学生インティファーダに連帯して数週間にわたりストライキを続け、イスラエル虐殺軍に兵器を供給する工場を封鎖する行動を起こした労働者たちに、私たち勇気づけられている。解放区から、私たちは彼らの足跡を辿り、ガザのパレスチナの人々に対するイスラエルの違法なアパルトヘイト体制と継続的なジェノサイドに最も深く関与するテクノロジー企業に対し、行動をエスカレートさせてゆく。そうすることで、私たちは職場を解放し、Microsoftのジェノサイドによる利潤の爪から労働を取り戻す。そして、パレスチナの人々とその国家を消滅させるという目標に私企業がかかわる構造を打ち砕く革命的な労働者主導の勢力を生み出す。

イスラエルによるジェノサイド機械のテクノロジー基盤

34年間にわたり、Microsoftはイスラエル開発センター、イスラエルのサイバーセキュリティ・監視スタートアップ企業の買収、そしてイスラエル軍・刑務所・政府・兵器メーカーとの継続的な契約と深い提携を通じて、アパルトヘイトとジェノサイドの経済に深く根を下ろしてきた。この深い関係は、イスラエル軍へのクラウド技術とAIデジタル兵器の販売を通じて、Microsoftをイスラエルにおけるジェノサイド機械のテクノロジー上の基盤として確たるものにした。

現状において、Microsoftのテクノロジーはガザ地区とヨルダン川西岸地区のパレスチナ人が毎日行う何百万もの携帯電話通話とテキストメッセージの記録を収集・保存するイスラエルの大量監視兵器を支えている。端的に言えば、Microsoftは爆撃、拷問、飢餓を通じて何百万ものパレスチナ人を脅迫し、拉致し、虐殺し、傷つけることを可能にし加速させる兵器を構築したのだ。イスラエルの入植者植民地主義プロジェクトを支える企業機構の一員となる選択肢を前に、マイクロソフトとその幹部はパレスチナの人々とその権利を犠牲にして自らの懐を肥やす道を選んだのだ。

マイクロソフトの労働者よ、私たちの労働を取り戻そう

マイクロソフトの同僚たちへ、私たちこそがこのテクノロジーを構築し、この企業を動かしている者なのだ。ごく少数の経営陣が、私たちの労働力を戦争犯罪がもたらす利潤目的で搾取している。今この瞬間も、私たちの労働はアパルトヘイトを直接支え、クラウドやAIという技術兵器によるジェノサイドを推進し、ガザにおける飢餓作戦を助長している。利潤より人々を優先させるのは究極において、私たちの責任である。しかしそれを実現するには、声を上げてこの非道で違法な共犯関係を今すぐ拒絶し、労働の力[権力]を取り戻さねばならない。

経営陣は私たちをジェノサイドの共犯者に仕立て上げた。彼らは私たちの目の前で嘘をつき、危害はないと主張し、子どもを虐殺するために労働力を搾取した。経営陣は戦争犯罪者と握手を交わし、世界で最もよく知られた初のAI支援型ジェノサイドを可能にするテクノロジーを、それと知りながら提供し、その後も私たちを欺き続けた。彼らの厚かましい言い訳では、パレスチナの人々の名前すら口にできなかった。まさに彼らが虐殺と抹殺を助長している人々であるにもかかわらずだ。

虐殺という犯罪に加担することを受け入れる必要はない。このシステムの一部である必要はない。従う必要はない。ガザの行動要請に応えるために私たちと一緒に立ち上がろう。Microsoftが支えるジェノサイドの犠牲となった無数のパレスチナ人の命を称えるために私たちと共に行動しよう。私たちの労働が、爆撃・拷問・飢餓による数百万パレスチナ人の虐殺を助長することを拒むために、私たちと共に立ち上がろう。大量解雇で私たちの生活を不安定化させつつ巨額の利益を生み出し、AI用データセンター建設で環境破壊を加速させ、最終的にはイスラエル軍・米軍・ICE・パランティアといった組織に労働力を売り渡すことで私たちを搾取し続ける経営陣と対峙するために、私たちと共に闘おう。

  • レドモンド及びシアトル大都市圏の労働者よ、解放区で私たちと共に現場に立ち、日常業務を拒否し、職場をイスラエルのジェノサイド機械への組み込みから解放しよう.
  • 世界中の労働者よ、どこにいてもMicrosoftへの抵抗をエスカレートさせ、『労働者インティファーダ』の呼びかけに応えよう!声を上げ、職場を離れ、抗議し、ストライキを行い、パレスチナ人ジェノサイドを支える労働力の搾取を拒否することを明確に示そう。

声を上げた結果の代償を考える前に、声を上げないことによる代償を問おう。沈黙の代償を自問しよう。刻一刻と、Microsoftのテクノロジーを用いてイスラエルのジェノサイド機械は、ガザのパレスチナ人を飢えさせ爆撃している。 私たちが行動しないでいる毎秒ごとに、イスラエルは私たちの労働力を利用し、西岸地区でパレスチナ人を追放する民族浄化とアパルトヘイトの継続的キャンペーンを遂行している。この緊急の事態に対処しなければならない。今すぐ、Microsoftが支えるこのジェノサイドに終止符を打たせよう!

良心ある全ての人々よ、Microsoftの共犯関係を終わらせるために私たちと共に立ち上がれ

パレスチナと連帯する全ての人々へ、Microsoftのような共犯企業がイスラエルとの一切の関係を断つ時、パレスチナにおけるジェノサイドと占領は終焉を余儀なくされる。Microsoftは世界で2番目に価値のある企業であり、イスラエルの犯罪に最も深く関与するテクノロジー企業だ。Microsoftをシオニスト国家から切り離すことは、単なる一企業のイスラエルからの撤退をはるかに超える。それは民間企業がイスラエルのジェノサイド・占領・アパルトヘイト経済と絡み合う構造が崩壊するドミノの始まりを意味する。

私たちは、皆さんの声を私たちの声とひとつにし、マイクロソフトに対し直接圧力をかけ、イスラエルのジェノサイドとアパルトヘイトへの企業の共犯を終わらせるよう呼びかける。

レドモンドやシアトル近郊にお住まいの方は、解放区での現地行動に参加してほしい。労働者と地域住民が結束し、私たちが暮らすこの地で進行するマイクロソフトのジェノサイド利益追求型ビジネス慣行を終わらせるために。

もしマイクロソフト本社近くに居住していない場合でも、恐れることはない。マイクロソフトの拠点は世界中に広がり、私たちの革命運動も拡大している。地域社会を動員し、現地で対峙し、抗議行動をエスカレートさせ、行動を起こそう。

  • マイクロソフト本社近隣に居住していなくても心配はいらない。Microsoftの拠点は世界中に広がっており、私たちの革命的運動も拡大中だ。最寄りのMicrosoft拠点で、イスラエルのジェノサイド機械に対してMicrosoftが果たす積極的役割に抗議するため、地域社会を動員し、対峙し、エスカレートさせ、地元で行動を起こそう。
  • さらに、製品ボイコットや株式からの機関投資撤退を通じて企業の収益基盤を直接標的とし、マイクロソフトに圧力をかけよ う。

現地での動員から財務的撤退、法的追及に至るまで、私たちはマイクロソフトとその幹部への圧力を高めるためにあらゆる手段を用いなければならない。

良心ある労働者よ、労働者インティファーダに参加しよう

世界中の良心ある労働者へ、イスラエルの入植者植民地主義プロジェクトは、数多くのジェノサイドで利益を得る企業群によって支えられている。これらの企業は、違法な占領、アパルトヘイト、ジェノサイドというイスラエル経済から利益を得るために、私たちの労働力を搾取しているのだ。国連パレスチナ地域人権状況特別報告者の報じられている報告にあるように、「占領とアパルトヘイトが終結し賠償が行われるまで、イスラエルとの企業関係は停止されねばならない」。占領とジェノサイドのシステムに加担せずにイスラエル経済と関わる方法など存在しない。

これらの企業がジェノサイドを助長し利潤を得続ける限り、従来通りのビジネスや 通常の労働を容認してはならない。私たちは今この緊急の局面において、ジェノサイドから労働力を完全に切り離し、アパルトヘイトとジェノサイドの経済を助長し利益を得てきた全ての企業と対峙しなければならない。腐敗した経営陣は私たちの労働力を利潤のために搾取して利益を得てきたが、彼らこそが私たちと私たちの労働力に依存していることを忘れてはならない。

ガザは私たち全員に、このジェノサイドを終わらせるための行動を呼びかけている。今こそ全ての労働者がこの呼びかけに応える時だ。ジェノサイドを助長する行為を止めるために、私たちは自身が属する企業や組織に対して立ち上がり、「労働者インティファーダ」に参加しよう。

  • 職場に対し、イスラエルやMicrosoftとのあらゆる関係を含む、ジェノサイドに加担する全ての提携関係を断ち切り、投資を引き揚げるよう要求する運動に参加しよう。
  • 同僚や地域住民を動員し、日常業務を阻止し、ストライキや抗議行動を組織することで、行動をエスカレートさせよう。
  • パレスチナにおけるジェノサイドやその他の人類に対する犯罪に加担しうる業務を一切拒否しよう。

世界は長きにわたり、ガザにおけるジェノサイドの継続を許してきた。今こそ、あらゆる場所で労働者が立ち上がり、イスラエルの占領とジェノサイドの経済へのあらゆる関与を終わらせる時だ。

Microsoftの幹部たちよ、私たちは要求を満たすまでここに留まる

サティア・ナデラ、ブラッド・スミス、テレサ・ハットソン、ムスタファ・スレイマン、ジェイ・パリク、スコット・ガスリー、そして全Microsoftの幹部たちよ、何十万人ものパレスチナ人の血があなたたちの手に付いている。あなたたち自身の労働者2000人以上、良心ある人々数万人、そして最終的には何百万ものパレスチナ人の要求に応え、イスラエルとの非道徳的で違法な提携を解消し、ジェノサイドの経済における役割を終える時がとっくに到来している。

誤解すべきでない。Microsoftが占領とジェノサイドの経済に、いかなる形であれ関与し続ける限り、私たちは行動を続ける! 私たちは、殺人者であるシオニスト政権との取引を継続することについて、高い代償を払わせる。予告あり、なしを問わず、あらゆる場所で、あらゆる瞬間に、エスカレートし、対峙し、混乱を引き起こすために登場する。私たちの声が封じられても、無視できない方法で発言する道を見つける。私たちの運動は止まらない。休むこともない。圧力をかけ続け、エスカレートし続ける。要求が完全に満たされるまで、解放区に居座り続ける!

  1. イスラエルとの関係を断て:マイクロソフトに対し、占領・アパルトヘイト・ジェノサイドというイスラエル経済からの完全かつ恒久的な撤退を要求する。
    • 全てのイスラエル関連団体への販売・契約・取引・サービスを終了し、既存のマイクロソフト製品へのアクセス権を全て剥奪せよ。
    • Microsoftのイスラエル事務所とデータセンターを全て閉鎖し、イスラエル軍に従軍した者の雇用を終了せよ。
  2. ジェノサイドと強制飢餓の終結を求める。私たちはマイクロソフトが世界的な影響力を用いて以下を要求することを求める:
    • ガザへの支援に対するイスラエルの封鎖を解除し、この支援をUNRWA及びパレスチナ人コミュニティが支援しパレスチナ人が主導する配布団体が管理すること。
    • ガザにおけるジェノサイドの終結、及びイスラエル軍と民間人のガザ及び占領下パレスチナ全域からの撤退。
    • 他の企業や政府にも同様の要求を呼びかけること。
  3. パレスチナ人への賠償金の支払い。私たちはMicrosoftに対し、占領とジェノサイドへの積極的関与に対する賠償金をパレスチナの人々に支払うよう要求する。賠償金の形態はパレスチナ人が決定し、賠償金の計画と実施の全段階にパレスチナ人が関与しなければならない。マイクロソフトは、パレスチナの人々に与えた危害を認め、再発防止を保証しなければならない。
  4. 労働者への差別を終わらせよ。私たちはマイクロソフトが、パレスチナ人、アラブ人、ムスリム、そしてパレスチナ支持の労働者に対する差別を終わらせることを要求する:
    • 解放区を含むパレスチナ支援活動に関わった労働者への恩赦を与えること。
    • パレスチナ支援活動への報復として解雇された労働者に対する全ての懲戒処分を取り消し、復職させること。
    • パレスチナ政策提言活動に関わる全労働者を職場での危害や嫌がらせから保護すること。
    • UNRWA USAを従業員寄付ポータルに復帰させること。

撤退の準備が整ったなら、私たちも話し合う用意がある。解放区に交渉の席は用意されている。ジェノサイドとアパルトヘイトの経済におけるMicrosoftの役割に終止符を打つ覚悟ができた時は、negotiations@noazureforapartheid.comまで連絡を。

今こそ投資を撤退し、ジェノサイドとアパルトヘイトの経済への関与を断つ時だ。責任を問われる時が来れば、どんな言い訳もあなたを免罪することはない。国際刑事裁判所や各国の司法機関の前で、国際犯罪の実行やその犯罪収益の洗浄への関与を、偽りの調査で免れることはできない。

解決策はただ一つ:インティファーダ、革命

解放区の設立にあたり、私たちはその愛すべき殉教ジャーナリスト、アナス・アル・シャリフの遺言の最後の言葉を思い起こす。

「私は、あなた方にこうするよう求める。制約に沈黙させられるな、国境に足止めされるな。国と人々 の解放へと向かう架け橋となれ。そうすれば、尊厳と自由の光が、私たちの奪われた故郷に輝くのだ。」

今日、私たちは闘争への揺るぎない決意を再確認する。規制に沈黙させられることも、国境に足止めされることもない。パレスチナとその人々への解放へ向けた架け橋となるのだ!

今日、私たちはイスラエルのジェノサイド機械の歯車となることを拒否する。ガザの同胞に対するジェノサイドと強制的な飢餓を、自らの労働で可能にさせられることを拒否する。Microsoftのジェノサイド利潤に加担することを拒否する。

今日、私たち労働者は労働者インティファーダを呼びかける。民間企業がパレスチナの人々とその国家を抹殺する目的と結びついた構造を壊そうという闘いだ。

今日、私たちは世界中の良心ある全ての人々に呼びかける。労働者の声に連帯し、Microsoftに対し動員し、対峙し、闘いをエスカレートさせよう。イスラエルのジェノサイドとアパルトヘイトへの共犯を終わらせるために。

今日、私たちはマイクロソフトの同僚労働者及び良心ある全ての労働者に呼びかける。私たちと共にもう一度労働を取り戻し、職場を解放しよう。

解放区より、今日私たちが蒔いた革命の種が、私たちの生涯のうちに解放されたパレスチナをもたらすことを願う。

労働者インティファーダに参加しよう

解放区よ、永遠なれ

殉教者に栄光あれ

パレスチナ解放

https://noazureforapartheid.com/worker-intifada

(Drop Site News)ガザ市のパレスチナ人、行き場なくイスラエルの残忍な追放キャンペーンに直面

(訳者前書き)前回の投稿でガザ市に留まることを決意したジャーナリストの記事を紹介した。今回もガ北部に留まるジャーナリストの記事を紹介する。「留まる」と書いたが、正確には留まらざるをえない、ということだ。何度も南部に避難しては北部に戻ることを繰り返さざるをえない人々について報じている。日本のメディアは非常に安直に「避難」を報じている。しかし、この記事には、容易なことではない様々な事情について具体的に書かれている。避難するためには相当な資金が必要だ。移動の費用だけでなく南部の過密な場所を借りるためには法外な賃貸料が必要になる。そしてイスラエルによる攻撃も頻繁に起きる。この記事には北部で避難してテントで暮す人たちの最近の映像も掲載されている。(映像は、本文中にリンクのあるオリジナルのサイトでごらんください。)

この記事の著者アブデル・アデル・サバハは、ジャーナリストで映像作家。9月9日にもDrop Site Newsにラシャ・アブ・ジャラルとの共著で「The Frontline of Israel’s Ethnic Cleansing Campaign: Report from Gaza City」の記事を投稿している。こちらの記事はまだ私は訳していない。(どこかで誰かが訳しているかもしれない)

この記事が掲載されたDrop Site Newsは、公式サイトの説明では、ライアン・グリム、ジェレミー・スケイヒル、ナウシッカ・レンナーによって2024年に設立されたばかりの新興の調査報道を中心としたニュースサイトだ。スケイヒルの著書は翻訳がある。(『ブラックウォーター 世界最強の傭兵企業』、『アメリカの卑劣な戦争 無人機と特殊作戦部隊の暗躍』)(としまる)


ガザ市のパレスチナ人、行き場なくイスラエルの残忍な追放キャンペーンに直面

「ここは海のほとり、最後の避難場所だ。ここに留まることを許されるべきだ」

アブデル・カデル・サバハ

2025年9月12日

ガザ市沿岸部に追いやられたパレスチナ人家族。2025年9月8日。(アブデル・カデル・サバハ撮影動画のスクリーンショット)

ガザ市——かつて歴史的パレスチナ最大の都市であったガザ市のパレスチナ人たちは、イスラエル軍による民族浄化軍事行動の全面的な打撃に直面している。行き場はない。

水曜日、イスラエル軍はガザ市への攻撃強化を誇示し、報道官は数十機のイスラエル軍機が市内の高層ビルやインフラを含む360以上の目標を攻撃したと発表した。報道官は「第一波ではダラジ地区とトゥファ地区を重点的に攻撃した…第二波と第三波ではダラジ、トゥファ、フルカーン地区への大規模攻撃を実施した」とXに投稿した。「今後数日間、軍は攻撃のペースを速め…作戦の次の段階に備える」と述べた。住宅やインフラに加え、密集したテントキャンプも破壊された。

イスラエル軍が先月ガザ市制圧作戦を開始して以来、同地域の各地区に複数回の避難命令を発令し、月曜には約100万人のパレスチナ人が住む全市に対する大規模な退去命令に至った。

多くの人々は単純に避難できない。ガザ市の複数の避難民がDrop Site Newsに語ったところでは、南への逃避は高額な移動費(最大4000シェケル=約1200ドル)、南部過密地域の収容スペース不足、そしていわゆる「人道区域」を含むガザ全域でのイスラエル攻撃からの安全確保が不可能であるため不可能だという。

「イスラエル軍が家を破壊しました。私たちは行く先もどうしたらいいのかもわかりませんでした。一度は避難しましたが戻り、また避難しては戻って、今ここにいます。これまでに20回も移動しましたが、もう行き場がありません」と語るのは、ガザ市北東部のアルザルカ地区から海岸線へ避難したイッサだ。砂浜には彼の背後に、マットレスや鍋、その他の所持品を積んだロバの荷車が停まっていた。「ここが最終目的地です。海辺です。ここに留まることが許されるべきです。一体どこへ行けというのか?」と彼はDrop Siteに語り、続けて「南へ行くには3000シェケル(約9万円)が必要です」と付け加えた。「テントはどこで手に入れるんだ?テントなんてない…安全な場所なんてない——ここにも、どこにも…今は北部に避難しています。ここにも南部にも安全はありません」

(動画はオリジナルサイトでごらんください)ガザ市で避難生活を送るパレスチナ人。2025年9月8日。(アブデル・カデル・サバ撮影)

占領下のパレスチナ地域における国連人道支援チームは、ガザでは現在100万人近くが「安全かつ実行可能な選択肢を全く持たない」状態にあるとして、次のように述べた。

「私たちが目撃しているのはガザ市における危険な事態の悪化だ。イスラエル軍は作戦を強化し、全員に南への移動を命じている。これは同市及び周辺地域で飢饉が確認されてからわずか2週間後のことだ」と彼らは水曜日の声明で述べた。「イスラエル当局は南部の一地域を一方的に『人道的区域』と宣言したが、そこに強制移動させられた人々の安全を確保する実効的な措置は取られていない。提供されるサービスの規模も量も、既にそこにいる人々を支えるのに十分ではなく、ましてや新たに到着する人々を支えるには程遠い。ほぼ100万人が今や安全で実行可能な選択肢を全く持たない状態だ——北部も南部も安全を提供できていない。ガザ北部を離れるには、移動と安全な通行に法外な費用がかかる。ほとんどの家族には到底払えない金額だ。北部を離れるということは、通行困難な道路を進むことを意味する。野外か過密状態の避難所で寝る場所を探すことを意味する。食料・水・医療・住居を確保し、尊厳ある安全な衛生環境なく生きるための苦闘が続くことを意味する。ガザの生存者たちは疲れ果てている」[訳注1]

月曜日の避難命令には、ガザ北部全域の地図が添付されていた。そこには西を指す三本の矢印と、南を指す大きな矢印が描かれていた——イスラエルの民族浄化キャンペーンを視覚化したものだ。しかし海岸線と隣接する道路がテントや仮設シェルターの群れと化した今、家族たちはたとえ南へ避難したくても、そのための場所を全く見つけられない。

ガザ市全域及び周辺地域に対するイスラエル軍の避難命令。2025年9月10日。出典:X.

ガザ市の移動を追跡する人道支援団体連合「Site Management Cluster(サイト管理クラスター)[訳注2]」によれば、約5万人のパレスチナ人がガザ市内で避難を余儀なくされ、同数程度が南部に逃れている。一方、Times of Israelによれば、イスラエル軍はガザ市から避難した人数を20万人と、はるかに高い見積もりを出している。

ガザ市の避難民家族数組がDrop Siteに語ったところでは、彼らは確かに南部に逃れたものの、避難場所が見つからなかったり、テントを張るためのわずかな土地に家賃を払わされたりしたため、北部に戻らざるを得なかったという。

「南部に行っても場所がなかった。お金が必要だと言われ続けたが、私たちにはなかった。そこに行くだけでも3,000~4,000シェケル(約10万円~13万円)必要だ。土地も無料じゃなかった。1平方メートルあたり10シェケルだ。そんな金もなかった」とフェリヤル・アルダダは語った。「ハーン・ユーニスから追い出されました。場所がない、居場所がないと言われました」と彼女は付け加え、「5日間も日差しの中、食料も水もなく過ごしました。砂埃と暑さで息もできませんでした」と訴えた。

アル・ダダは海岸道路沿いの布製タープと木杭で組んだ仮設シェルター前に立っていた。「道路の近くに身を隠そうとしています。少しでもプライバシーを確保するために。娘は負傷していて、私と息子、夫の3人です。住むための小さな場所を私たちは作りました。全部道端で集めたものです」

フェリヤル・アル・ダダ(左)とマゼン・アル・ダマ(右)はともにガザ市沿岸部に避難した。2025年9月8日。(アブデル・カデル・サバフ撮影動画のスクリーンショット)

近くではマゼン・アル・ダマが、避難所とするための細い木枠に布を打ち付けていた。「私たちは南へ向かいました。私たちはアル・カララ[ハーン・ユーニス北部の町]に行きましたが、場所がなくて追い出され、ディール・アル・バラハに移動するよう再度指示されました。しかし、そこでは銃撃や砲撃があったため、とどまることはできませんでした」とアル・ダマはDrop Siteに語った。彼は北のアル・トゥッファ地区にある自宅に戻ったが、イスラエルが避難命令を出したため、先週再び避難を余儀なくされた。

「行き先もわからずに出るしかなかった」と彼は言う。「正直、南に行くのは誰にとっても良くない。金の無駄だ。自分の土地に留まる方がましだ」と付け加えた。「どこにいようと、ガザ全体が危険です。彼らが『安全』と言う地域も危険です。デイル・アルバラも危険です。ガザ全体が危険なのです。安全な地域なんてない。 彼らは3、4日前にビラを投下しました。 私たちが南へ向かったのはそのためですが、場所が見つからず、その代わりにここに来たのです。」

月曜日の動画声明で、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相はガザ市の全パレスチナ人に対し公然と脅迫した。「ガザの住民に告げる。この機会を利用して言う。よく聞け。おまえたちは警告を受けた。今すぐ立ち去れ」。この発言は、2023年10月、戦争開始からわずか1週間でイスラエルがガザ北部全域に発した集団避難命令後の発言を想起させる。当時もネタニヤフは「今すぐ立ち去れ」と宣言していた。

Amnesty International中東・北アフリカ地域ディレクター、ヘバ・モラエフは声明で次のように述べた。「イスラエル軍が月曜朝に発令したガザ市住民の集団避難命令は残酷で違法であり、イスラエルがパレスチナ人に強いているジェノサイドの状況をさらに悪化させるものだ」「ガザ市に住む数十万人のパレスチナ人は、ほぼ2年間にわたり、飢えに苦しみ、仮設キャンプに詰め込まれたり、過密状態の建物に避難したりしながら、容赦ない爆撃に耐えてきた。今回発令された命令は、2023年10月13日にガザ北部全域に対して発令された集団避難命令の、壊滅的で非人道的な再現である。」[訳注3]

家族と共にガザ市沿岸部に避難したパレスチナ人男性。2025年9月8日。(アブデル・カデル・サバフ撮影動画のスクリーンショット)

イスラエルの攻撃が続く中、ガザ市のパレスチナ人はますます狭い場所に追い詰められている。

名前を明かさなかったパレスチナ人男性がDrop Siteに次のように語った。「私たちは車に荷物を積み、南のハーン・ユーニスへ向かいました。移動費だけで2800~3000シェケルかかりました。ハーン・ユーニスのマワシに到着して滞在しましたが、激しい砲撃がありました。テントさえも砲撃されたのです。私たちはハーン・ユーニスから逃れ、デイル・アルバラへ向かいました。到着すると、そこも危険地帯——依然として恐ろしい場所だと分かりました」「たとえ(南部で)住む場所を公共用地であれ私有地であれ見つけたとしても、誰かが来てこう言うのです。『1平方メートルごとに料金を払え』と。料金は1平方メートルあたり10シェケルです。4メートル四方――16平方メートル――のテントを張るなら月200~300シェケルかかる」と彼は語った。「私たちは南部を離れ、ガザ市に戻るしかありませんでした。」

彼は更に次のように言う。「見ての通り、私たちは防水シートを張り、毛布を集めて引き裂き、それを使っています。カーテンや木材は路上で拾って生活しています」と彼は語った。その傍らでは、埃まみれの子どもたちが立っていた。「私たちは浜辺で暮らしています。 彼らは私たちがここ、浜辺にいることを知っています。 この子が何をしたというのか― 私たちは、この子が一度も見たこともないものを奪われているのです」

シャリフ・アブデル・クドゥースとジャワ・アフマドが本記事に協力した。

ゲスト投稿 アブデル・カデル・サバ ガザ北部在住のジャーナリスト兼映像作家

出典:https://www.dropsitenews.com/p/gaza-city-israeli-displacement-south-palestinians-nowhere-to-go-cost

[訳注1]UNOCHA “With no safe place left in Gaza, UN and NGOs demand ceasefire and protection from forced displacement” https://www.ochaopt.org/content/no-safe-place-left-gaza-un-and-ngos-demand-ceasefire-and-protection-forced-displacement

[訳注2]2025年9月3日付のレポートがここにある。https://www.cccmcluster.org/sites/default/files/2025-09/250903_statement_SMC_opt_en.pdf このレポートには以下の記載がある。

「8月7日に発表されたガザ市における軍事作戦の強化は、避難民キャンプにいる人々、特にガザ北部から以前に避難させられた多くの人々に、恐ろしい人道的影響をもたらしている。多くの世帯は、特に高齢者や障害者にとって、移動費用の高さや困難さ、そして移動先となる安全な場所の不足から、移動することができない。パレスチナ人はまた、戻れなくなる恐れや繰り返される避難による疲労から、移動をためらっている。
数十万人を南部に移動させる行為は、国際法上「強制移送」に該当する可能性がある。」

[訳注3] https://www.amnesty.org/en/latest/news/2025/09/israel-opt-israels-mass-displacement-order-for-the-entirety-of-gaza-city-is-unlawful-and-inhumane/

(+972magazine)私はガザ市にいる。荷物はまとめたが、家を出ることは拒否する。

(訳者まえがき)ガザにイスラエル軍の地上部隊が本格的に侵攻し、北部の住民を強制的に排除しはじめたことが報じられている。日々報道で映し出されるガザの光景から、私たちは、北部やガザ市に住みつづける人たちが今でも多くいることをつい忘れていまいがちだ。しかし。まだ住み続けている人たちが確実にいる。なぜなのか、安全な所などないとはいえ、まだ南部の方が相対的に安全ではないのか。以下に訳出したのは、+972magazineに掲載された記事で、筆者は今でも北部のガザ市に住む。この記事には、未だに住み続ける人たちの思いの深さが、そのコミュニティや家族、隣人たちやその場所への深い愛着――この愛着にはナクバの記憶が欠かせないものとして受け継がれている――とともに、読む者の胸に迫ってくる。生き延びてほしいと思う。ただそれだけの言葉しかかけらないとはいえ、生き延びてほしいと思う。ぜひお読みください。(としまる)


私はガザ市にいる。荷物はまとめたが、家を出ることは拒否する

イスラエルによる私の街への壊滅的な攻撃により、何千人もの人々が「安全」を求めて避難を余儀なくされている。しかし、そんな「安全」は存在しないことはわかっている。避難の代償として、私たちは永遠に家を失うことになる。

アーメド・アーメド 2025年9月9日

ガザ市から避難したパレスチナ人が、2025年9月8日にガザ中心部に到着。(アリ・ハッサン/Flash90)

イスラエルの安全保障閣僚会議が、ベンジャミン・ネタニヤフ首相のガザ市管理計画を承認してから1か月が経過した。この作戦は、後にイスラエル・カッツ国防相が「ギデオンの戦車II(Gideon’s Chariots II)と命名した。

イスラエルがまだ完全に破壊してはいない都市の一部に今でも住んでいる私たちは、この発表は恐怖で私たちを立ち退かせるための心理戦の一部に過ぎないと思った。イスラエルは、ガザ市の大部分をすでに瓦礫と化しているので、再びガザ市を侵略することはないだろうと思った。ハマースが停戦と人質解放の合意に達するために大きな譲歩をしたとの報道を受けて、ドナルド・トランプ米大統領がおそらく介入するだろうと思った。

その希望は、イスラエル軍が、ガザ地区南部のいわゆる「安全地帯」に避難するよう命じる避難指示書を投下し始めたことで打ち砕かれた。地上侵略はほぼ即座に始まった。まず、私が生まれ育ったアル・サブラ地区、そして次に、私の親戚や友人の多くが住む、近くのザイトゥーン地区で。今朝、イスラエル軍は、この都市の民間人に対する脅威をエスカレートさせ、残っている私たち全員に避難を要求した。

8月13日以降、イスラエル軍は私たちの街に壊滅的な空爆、砲撃、ドローン攻撃の波状攻撃を行なった。アル・サブラとザイトゥーンが最も大きな被害を受けた。街区全体が消滅した。数千人が避難した。さらに数千人が爆撃と頭上を絶え間なく飛び交うドローンの音に封じ込められ、身動きが取れない。遺体が路上に横たわり、救急隊も到着できない。

夜になると、イスラエル軍の爆発物搭載ロボットが街を徘徊し、毎日約300戸の住宅を破壊している。夜明け前に爆発が起き、その衝撃が私の周りの地面を揺らす。眠っていても恐怖で飛び起き、その後何時間も頭がズキズキする。

イスラエルが「テロリストの高層ビル」と呼ぶ高層住宅タワーへの爆撃は、イスラエルによる最新の民族浄化キャンペーンに新たな恐怖の次元を加えた。このキャンペーンの最初の標的の一つがムシュターハ・タワーだった。ガザ市西部にあり、仮設テントに囲まれた12階建ての住宅ビルだ。イスラエル軍は、避難命令が出されてから数時間後にこのビルを空爆し、ハマースが軍事目的でこのビルを利用していたと証拠もなく主張した。

2025年9月5日、イスラエル軍の空爆を受けたガザ市の西部のこの塔から煙が立ち上っている。(Ali Hassan/Flash90)

その後、さらにいくつかの高層ビルが破壊された。その中には、私のいる自宅の窓から見える15階建てのランドマークであるスーシ・タワーも含まれている。私は毎日、このビルの前を通っていた。その住民たちは、自宅が破壊される前に、わずか20分間で所持品を集めるよう指示された。

タワーが崩壊したとき、私たちのアパートは粉塵と瓦礫でいっぱいになった。家族と私たちは、愛する地域と、突然、家も食べ物も未来も失って路上に放り出された何十もの家族たちの死を悼み、泣きながら咳き込んだ。

これを書いている今、自宅からわずか数キロ離れたところで、イスラエル軍の戦車やブルドーザーの轟音が聞こえる。この地域では、これまでの侵略では避難を拒否していた多くの人々を含め、すでに何百もの家族が恐怖から逃げ出している。

このジェノサイドで既に殺された数十人の友人や親戚、隣人のことを思うと、これから何人失うのか、誰の顔を最後に見るのか、そして自分自身が生き延びられるのかと不安になる。これが最後になるかもしれないと知りつつ隣人が去っていくのを見送っている。彼らは道中で殺されるかもしれない。あるいは自分自身が殺されるかもしれない。

運良く、今のところ私は死傷を免れている。生存を維持するために適応することを学んだ。素早く移動し、壁に寄り添い、クアッドコプターに発見されないよう木陰を歩く。常に両手を空けて脅威ではないことを示すが、イスラエルの犠牲者の多くにとって、それすら十分ではなかった。来た道を引き返すことは決してしない。狙撃手の標的になりにくくするため、ジグザグに歩くことも多い。いつでも地面に伏せる準備をしている。

私の最大の恐怖は、ミサイルが私の体を粉々にして、誰にも見分けがつかないほどになること、あるいは、誰も私のところへ助けに来られず、私の体は野良動物に食われることになることだ。爆撃される建物の近くを通りかかるかもしれないという恐怖から、家を出ることを恐れている。たとえ病院にたどり着けたとしても、私を救うことができる医療制度はもはや残っていないことを私は知っている。

ガザ市から避難したパレスチナ人が、2025年9月8日にガザ中心部に到着。(Ali Hassan/Flash90)

それにもかかわらず、私は家族に、ここを離れないと伝えた。イスラエルの主張とは裏腹に、私たちにとって安全な場所などどこにもない。ガザ市全体を破壊したら、イスラエルは南へと進軍し、現在私たちに避難するよう指示している「人道支援ゾーン」そのものを攻撃するだろう。

断ち切ることのできない絆

アル・サブラとザイトゥーンは、ガザ市でも最も古く、最も人口が多い地区である。1948年のナクバ(大惨事)のずっと前から、家族たちが緊密なコミュニティを形成して暮らしてきた。多くの住民は、両親から家や小規模な事業を受け継いでいる。街角にあるパン屋、大工の工房、仕立て屋、そして漬物作りやオリーブの搾油といった伝統的な商売である。

戦争前、私は狭い路地を歩きながら、いつも細部に心を打たれた。家々がぎっしりと寄り添い、一つの塊のように見える様子。午後に玄関先に座り、お茶を手に、通りすがりの人に祈りと祝福を送る祖父母たち。路地に響き渡る子どもの笑い声。台所の窓から漂うムサッハンやマクルーバの香り。この地域の人々はもてなしの心で知られ、見知らぬ人にも温かく迎え入れ、時には通りすがりの短い会話の後で昼食に招くこともあった。

2023年11月、イスラエルが初めて我が家の地域を侵略すると脅かした時、家族は避難を拒んだ。ガザの他の家族と同じ疑問を抱いたのだ。どこへ逃げればいいのか?安全な場所などあるのか?

だが戦車が自宅から100メートルまで迫り、周囲を無差別に砲撃し始めた時、私たちは苦渋の決断を下した。三つの集団に分かれ、ガザ市の親戚宅へ散らばるのだ。もし何人かが殺されても、他の者が生き残れるかもしれないという望みを抱いて。私は父と共に、ガザ市東部アル・サハーバにある叔母の家へ向かった。約2キロ離れたその家で、私たちはほぼ一ヶ月を過ごした。

毎日、家を確認しに戻るリスクは危険だとお互いに警告した。それでも、強制的に避難させられた多くの人々と同じように、私たちは引き寄せられるように自宅へと近づいていった。イスラエル軍の狙撃兵やクアッドコプターに追い返される直前まで、可能な限り自宅に近づこうとしたのだ。

出かけるたびに、戻れないかもしれないと分かっていた。撃たれるかもしれない、死ぬかもしれない、あるいは血を流したまま路上で誰にも助けられずに放置されるかもしれない。それでも私は行った――家の中で一瞬でも過ごせる可能性、一杯のコーヒー、馴染み深い家具に触れること、あるいはベッドに横たわる一瞬のためだけに。

2025年9月1日、ガザ市北部シェイク・ラドワン地区で、テントと瓦礫の中に荷物を運ぶパレスチナ人。(オマル・エル・カッタ)

家路は悲しみの道となった。訪れるたびに記憶に新たな傷が刻まれた。かつてこの地区の特色だった建物の廃墟、木々が並んでいた木陰の路地は今や瓦礫そのものとなっていた。近所の人が殺された通りを自転車で走ると、地面にはまだ血痕が残っていた。子どもの笑い声は、ドローンの絶え間ない耳をつんざくような唸りや砲弾の轟音に取って代わられていた。かつて温もりと安らぎを与えてくれた見慣れた顔は、恐怖で青ざめていた。

ある日、自転車で近所を走っていると、突然後ろからクアッドコプターのプロペラ音が聞こえた。数秒間、私は凍りついた。地面に伏せるべきか?無防備な民間人だと示すために手を上げるべきか?すぐにその場から逃げ出すことに決めた。たとえ脅威がどれほど小さくとも、殺されない保証など決してないのだ。

路上に一人、私はペダルを漕いだ。ドローンの弾丸が颯爽と通り過ぎる中、必死にスピードを上げた。二度とこんなリスクは冒さないと心に誓った。その事件の後、私は体調を崩し二日間ベッドに伏した。だが三日目の朝、私は回復した。イスラエル軍がようやく私たちの地域から撤退し、私たちが無事に家に戻れた時、それは溺れた後に息を吸い込むような感覚だった。

パレスチナ人にとって、家との絆は壁や石だけじゃない。それは私たちの存在そのものなのだ。祖母シャリーファはよく話してくれた。1948年のナクバでヤッファから逃げざるを得なかったことを。祖父は家の鍵を持ち歩き、数日で戻れると信じていた。死ぬ前にその鍵を彼女に託した。

しかし、彼らは二度と家に戻ることはなかった。その家は永遠に失われたが、彼らはその事実を受け入れることができなかった。

今日のガザでは、私たちの多くが、祖父母の世代よりもさらに壊滅的な、新たなナクバを経験していると感じている。しかし、1948年とは異なり、今日のパレスチナ人は、「一時的な」避難と提示されたものが、ほとんどの場合、恒久的なものになることを理解している。だからこそ、私たちの多くは、自宅が砲撃にさらされているにもかかわらず、立ち去ることを拒否しているのだ。

ガザ市から逃亡したパレスチナ人が、2025年9月8日にガザ中心部に到着。(アリ・ハッサン/Flash90)

スプーン、プラスチックのコップ、空の皿

2024年4月、イスラエルがラファ境界検問所を閉鎖するわずか数週間前に、父は、栄養失調と必要な薬が手に入らないことで健康状態が悪化していた母とともに、エジプトへ避難することができた。それ以来、父は24時間体制でガザからのニュースを追い続け、私たちへの心配が身体的に深く表れている。

彼は、WhatsApp のビデオ通話(接続が許す限り)では恐怖を隠そうとするが、特にアル・サブラでの空爆の報道の後、私たちがまだ生きていることを確認するために電話をかけてくるたびに、その声の震えにその恐怖が明らかに表れている。先週末のビデオ通話で、父は「この 2 週間で 7 キロも体重が減った」と私に話した。

私は「絶対に逃げない」と言い張ったが、彼はいつでも逃げられる準備をしろと強く促した。走りやすいゆったりした服を着ること、寝床のすぐそばに靴を置くこと、誰かが起きていて他の者が休むこと。可能なら子ども――私の甥や姪たち――に食べきれないほどの食事を与えるよう言った。それが数日の間の最後の食事になるかもしれないからだ。

逃げる時はいくつかの集団に分かれ、距離を保ち、生存確率を高めるため別々の道を進むべきだと彼は言った。子どもを先に行かせ、負傷者がいれば大人が運ぶ。必要な物だけを持ち、何があっても走り続けること。

だが今回は違うと、私たちは分かっている。イスラエル軍がガザ市で行っている作戦は、これまで以上に暴力的で破壊的だ。もはや特定区域への爆撃ではなく、ラファジャバリア、ベイト・ハヌーンでそうだったように、何もかもを跡形もなく消し去ろうとしている。

姉たちと私たちは最小限の必需品を小さなバッグに詰めた。まだ夏の終わりだが、冬服と小さな毛布も入れた。これから何が手に入るか分からないからだ。私たちはスプーン、プラスチックのコップ、空の皿――失えば代えがたい品々を詰めた。身分証明書、パスポート、そして万一死傷した場合に備え、個人情報や連絡先を記した小さな紙片も詰めた。

2025年9月1日、ガザ市北部シェイク・ラドワン地区。テントと瓦礫の中で持ち物を運ぶパレスチナ人。(オマル・エル・カッタ)

家の中を見渡す。私を形づくってくれた本——ジョージ・オーウェルの『1984年』や『動物農場』——が並ぶ書斎、長年かけて選んだ服、勉強し今も書き続けている机。マットレス、ドア、床をちらりと見る。そして手にした小さなバッグを凝視する。このバッグに人生の全て、家ごと収められればと願う。

追放とは単なる移動ではない。それは地獄の一種だ。身体は一箇所に留まり、魂は別の場所に囚われる。

安全を求めて南へ避難した多くの人々を知っている。しかし彼らが見つけたのは、避難所も寝る場所も、イスラエルの攻撃から身を守る手段もなかった。だから彼らは、殺されるリスクが常に付きまとうにもかかわらず、北部の自宅に戻った。南部に住む者で何とか小さなワンルームを借りられる者も、その家賃は想像を絶するほど高く、時には支払える金額の数百倍にもなる。

イスラエル政府は南部には「安全地帯」と人道支援があると主張する。だが私たちを待っているのはさらなる屈辱と剥奪と破壊だけだ。北部と同様、目的は私たちの完全な殲滅にあるようだ。

祖母は1948年から死ぬまで家の鍵を所持していた。私には鍵はない、ただバッグがあるだけだ。そして思う――子どもたちは祖母が鍵を携えたように、このバッグを携えるのだろうか?

アフメド・アフメドはガザ市出身のジャーナリストの仮名である。報復を恐れ匿名を希望した。

出典:https://www.972mag.com/ガザ市-bombing-displacement-evacuation

(+972)「私たちのジェノサイド」:イスラエルの人権団体がガザに対する慎重姿勢を放棄

(訳者前書き)戦争を押し止める大きな力は、大国や国際機関をアクターとする外交にある、という暗黙の前提を私は受け入れない。むしろ、戦争を放棄する最も重要なアクターは、戦争当事国の人々の戦争に対する拒否の意思だと考えている。だから、これまでも、ロシアやウクライナにおける反戦運動に関心を寄せてきたし、イスラエル国内の兵役を拒否する若者たちや、イスラエル国内で活動するパレスチナ系の人権団体に注目してきた。以下に訳出したのは、イスラエル国内の二つの有力な人権団体がガザにおけるイスラエルの行動をジェノサイドであることを明確にした報告を出したことを報じる記事だ。わたしはガザにおけるイスラエルの行為はジェノサイドそのものであると理解するし、私の周囲にいる多くの人たちもそう理解していると思う。しかし、イスラエル国内の世論はそうではない。所謂国際世論とイスラエル国内世論の認識の落差は非常に大きい。これだけ情報のグローバルな拡散が進展しているなかで、なぜイスラエル国内があたかも情報の閉鎖的な空間のようになり、全く異なる認識を持ち続けてきたのか。実はこの異様と思ってしまう様相は決して異様でもなければ例外でもない。どこの国も自国の利害に直接関わり事態に対しては、客観的で冷静な自己批判的な理解をとれないし、外部からの批判も受け入れない。日本の政府が戦争責任に関わるアジアの人々の経験を受け入れてこなかったことを想起すれば、このことは容易に理解できると思う。イスラエルの国内世論はまさに日本の国内世論でもあるのだ。イスラエルの人権団体がジェノサイドを公言することについて、余りに遅きに失したのではないか、という批判はありうると思う。私はむしろ、そうであったとしても、圧倒的に多数のイスラエル国内世論からのバッシングに抗して自国のジェノサイドを公然と批判することが、さらにジェノサイドを終らせるイスラエル国内の政治の変化へと繋がると確信したい。日本の私たちもまた日本の政府に対して同様に態度をとることの責任を自覚することを忘れずに。(としまる)


数カ月にわたる躊躇の末、B’Tselem と Physicians for Human Rights-Israel は、この戦争はパレスチナ人の現在および将来の生活を抹殺することを目的としていると主張した。

シャタ・ヤイッシュ 2025年7月31日

2025年7月27日、エルサレムで、B’TselemとPHRIが、ガザで進行中のジェノサイドに関するそれぞれの報告書を発表する記者会見を開いた。(Flash90)

22カ月にわたる戦争、飢餓、組織的な破壊を経て、イスラエルの2つの主要人権団体は、イスラエルによるガザ地区での行動はジェノサイドに該当するとの結論に達した。

この結論は、月曜日に、Physicians for Human Rights-Israel(PHRI)と B’Tselem が別々に発表した報告書で公表され、イスラエルの市民社会に分裂をもたらした。これまで、パレスチナ人団体、イスラエルのジェノサイドおよびホロコースト研究者、そしてAmnesty InternationalHuman Rights Watch、Médecins Sans Frontières などの国際機関が数ヶ月前にこの用語を採用していたにもかかわらず、イスラエルの人権団体は「ジェノサイド」という用語の使用をほとんど控えていた。

2年近くにわたる調査文書を基に、両団体は、イスラエルによるガザでの行動は、1948年のジェノサイド条約で規定されているジェノサイドの定義に該当する、と主張している。

B’tselem の報告書「Our Genocide(私たちのジェノサイド)」は、イスラエルによる民間人への攻撃と、ガザにおけるパレスチナ社会の組織的な解体について取り上げている。PHRI の報告書は、イスラエルによるガザの医療システムの意図的な破壊について、医療の観点から法的分析を行っている。

+972 とのインタビューで、B’Tselem の事務局長であるユリ・ノヴァクは、ジェノサイドと認定する決定は、長く苦しい組織内の議論の末にもたらされた結果であると述べた。「ジェノサイドを行って いる社会の一員であることに気付くには、何の準備も無意味だ」と彼女は述べた。「これは私たちにとって、非常に辛い瞬間だ」

「私たちが目にしているのは、ガザのパレスチナ社会を破壊することを目的とした、意図的な行動、つまり組織的な行為だ。これはまさにジェノサイドの定義そのものだ。集団を破壊するために民間人を攻撃しているのだ」

2025年7月27日、エルサレムで開催された記者会見で、B’Tselem がガザで進行中のジェノサイドに関する報告書を発表。(Oren Ziv)

B’tselem の報告がどのような影響を及ぼすかについて尋ねられたノヴァクは、報告だけではジェノサイドを終わらせることはできないと認めた。「私たちが望んでいるのは、ここに住む人々、イスラエル人とパレスチナ人として、声を上げることだ」と彼女は説明する。「私たちは、この状況を深く理解する能力がある。それは、私たちの第一かつ最優先の道徳的義務である犠牲者の声を伝えるだけでなく、ジェノサイドのシステムがいかに機能しているかを分析して明らかにすることでもある。政治体制と闘うためには、その体制を理解しなければならない。

「人々が私たちの声を聞き、行動を起こすことを決め、これがイスラエル人とパレスチナ人の局所的な問題ではないことを理解してくれることを願っている」とノヴァクは続けた。「パレスチナ人が犠牲者であることは間違いない。しかし、人間性を抹殺することは、すべての人間にとって懸念すべき問題だ」

社会を破壊する

B’Tselem は、イスラエルのジェノサイドキャンペーンを 4 つの柱で分類している。大量殺戮暴力的な住民移送組織的な破壊、そしてあらゆるレベルでのパレスチナ社会の解体だ。

特に、この報告書は、こうした行動はガザだけに留まらないだろうと警告している。「このジェノサイド政権は、ガザのパレスチナ人だけでなく、西岸地区やイスラエル国内のパレスチナ人をも統制している」とノヴァクは言う。

これらの行為の一部は、規模はまったく異なるものの、同じ論理に基づいて、すでに西岸地区にも波及している。ガザで活動していた指揮官や部隊が、そのまま西岸地区に移動しているケースもある」

ノヴァクは、ジェノサイドは単なる法的分類ではなく、政治的・社会的暴力の一形態であると強調した。「ジェノサイドは、他の残虐行為とは根本的に異なる」と彼女は説明する。「それは、犠牲者の人間性を完全に抹殺することだ。それは、その人が何を考え、何をしたか、あるいはその人が誰であるかに関係なく、一人一人を個人としてではなく、標的とすることができる集団として認識してしまうことだ」と。

2025年7月27日、エルサレムで、ガザで進行中のジェノサイドに関する同団体の報告書を発表する記者会見で、B’Tselem の事務局長、ユリ・ノヴァクが発言している。(Oren Ziv)

その目的は、単に殺すことだけではない、と彼女は付け加えた。「それは、人々を飢えさせたり、医療援助を拒否したりするだけのことではなく、社会を崩壊させ、この集団が集団として将来存在できなくすることだ」

その社会破壊の一側面は、家族単位の崩壊だ。攻撃開始から2025年3月までに、約1万4000人の女性が未亡人となり、家族を一人で養わなければならない状況に陥り、約4万人の子どもたちが両親の片方または両方を失った。B’Tselem の報告書によると、これによりガザは「現代史上最大の孤児危機」に陥っている可能性がある。

ノヴァクが挙げたもう 1 つの例は、ガザの教育システムの意図的な破壊だ。「考えてみてください。ガザの学生たちは、2 年間にわたって学校高等教育機関に通うことができず、その上にトラウマも抱えているのです。これは、ガザの現在の生活を破壊するだけでなく、将来も破壊することになります」と彼女は言う。

B’Tselem は、これらの犯罪を犯している社会の中に自分たちがいることを踏まえ、これらの犯罪を明らかにする特別の責任があると感じている、と彼女は言う。「私たちは、ジェノサイドを行っている集団、つまり私たち自身も一部である社会を理解している。そのため、私たちができることは何でもし、この事実をイスラエル人にも伝え、彼らが見ることができない、あるいは見たくないものを彼らに見てもらうよう呼びかけなければならないと思う」と。

保健医療に対する戦争

B’Tselem の報告書は、ガザで解体されている広範な社会的・政治的構造に焦点を当てているのに対し、PHRI の報告書は、民間人の生活にとって重要な柱である保健医療制度に焦点を当てている。「生活条件の破壊:ガザのジェノサイドに関する保健医療分析」と題されたこの報告書は、イスラエルがガザの人々の生活を守る能力を徹底的に破壊してきたことを、詳細な分析とともに明らかにしている。

2025年6月19日、イスラエル空爆で負傷したパレスチナ人の子どもたちが、ガザ地区南部のハーン・ユーニスにあるナセル病院に到着。(Abed Rahim Khatib/Flash90)

PHRI は、病院への直接攻撃、医療避難および医療援助の妨害、医療従事者を標的とした攻撃などを通じて、イスラエルは、ジェノサイドの意図を構成する医療サービスの連鎖的な崩壊を引き起こしたと主張している。報告書は、「これらのポリシーの背後にある意図は、医療システムの破壊と切り離して理解すべきではない」と述べている。「各ポリシーは、それだけでも深刻な法的問題を引き起こす可能性がある。これらが組み合わさって、体系的な抹殺の計画とポリシーを形成している」と報告書は指摘している。

過去 22 ヶ月間に、イスラエルのキャンペーンは「計算され、組織的に」ガザの医療インフラを破壊してきた、と報告書は指摘している。「ガザ北部の病院への爆撃と強制避難から始まり、避難民が残り少ない施設に殺到し、その施設もさらに爆撃、包囲、資源の奪取にさらされ、崩壊は南部に拡大した。

その結果、報告書は、ガザの医療提供能力は完全に崩壊したと指摘している。「ガザの医療システムは組織的に解体され、病院は機能しなくなり、医療搬送は阻止され、外傷治療、手術、透析、妊産婦の健康管理などの重要なサービスは廃止された」と報告書は述べている。

PHRI は、これらの行動は戦争に伴う偶発的なものではなく、意図的かつ標的を絞ったものであると結論付けている。これらは、ジェノサイド条約が定める複数の基準、すなわち、集団の構成員を殺害すること、重大な身体的および精神的危害を加えること、集団の破壊をもたらすことを目的とした生活条件を課すこと、をすべて満たしている。

+972 との会話の中で、PHRI のパレスチナ占領地域担当ディレクター、アシール・アブ・ラスは、病院は理論的には再建可能(イスラエルが建築資材の搬入を許可した場合)であるものの、医療従事者の破壊は計り知れないほど大きいと強調した。

2025年7月30日、イスラエル側の国境から見た、ガザ地区北部でのイスラエル軍の攻撃により立ち上る煙。(Tsafrir Abayov/Flash90)

「ガザ保健省によると、ガザでは 1,500 人以上の医師や医療従事者が殺害され、300 人以上が拘束されている」と彼女は述べた。「医師を殺すことは、長年の専門知識と経験を殺すことと同じだ。彼らは、ガザの脆弱な医療システムのバックボーンだ」と彼女は述べた。

このように、彼女は、イスラエルが医療インフラを攻撃することは、現在の状況だけにとどまらず、長期的な復興の可能性、そしてガザにおけるパレスチナ人の未来そのものを抹殺することになると警告した。「これは、ガザの癒しと再建の能力を破壊することだ」と彼女は述べた。

アブ・ラス氏は、法的および医学的証拠に基づいて、ガザで起こっていることをジェノサイドとして記録することで、この報告書は国際社会および各国政府の関係者を議論から緊急介入へと動かすことを目指していると +972 に語った。

「ジェノサイドと名付けることは象徴的なことではない。国際法では、それは法的および道義的義務を伴う」と彼女は指摘する。「イスラエルとほとんどの国家が署名したジェノサイド条約によると、当事者はジェノサイドを防止し、処罰するだけでなく、ジェノサイドが発生する深刻なリスクがある場合には行動を起こす義務がある。

イスラエルでは、「ジェノサイド」という言葉は長い間タブーとされてきた」と彼女は続けた。「この報告書を発表することで、その沈黙に挑み、この用語の正確な使用を正常化したいと考えている。また、他の組織、機関、およびイスラエル市民にも、現地の現実と向き合い、ガザでの残虐な戦争をその実態通り、ジェノサイドと呼ぶよう促すことも目標としている」と述べた。

シャタ・ヤイッシュは、東エルサレムと西岸地区を取材するジャーナリスト。

https://www.972mag.com/btselem-phri-gaza-genocide

『サイバースパイ・サイバー攻撃法案批判』を出版しました

以下プレスリリースを転載します。

2025年3月19日

国会に上程されたいわゆるサイバー安全保障法案等の名称で呼ばれている法案について、その経緯のなかで議論されてきた事柄や現在の世界情勢なども視野に入れた廃案一択のための法案批判の書です。ぜひ法案反対の活動に活用してください。本書はPDFで提供しています。

https://dararevo.wordpress.com/

紙版は3月末に発行予定。紙版の注文は下記で受け付けています。書店での販売予定はありません。

https://cryptpad.fr/form/#/2/form/view/Zf9aZ6eVuNWFqAZsznqkBSJu+woSoeQqc309NlV42fc/

著者について

小倉利丸(おぐらとしまる) 30年ほど富山大学で政治経済学、現代資本主義論、情報資本主義論などを教えてきた。現在JCA-NET理事として月例のセミナーを主催している。著書に『絶望のユートピア』(桂書房) など。ブログ https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/ および https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/ SNS(mastodon) https://mastodon.social/@toshimaru

目次

1. (序文)日本政府のサイバースパイ・サイバー攻撃を合法化する法律はいらない 8

サイバースパイを取り締ることは必要ではないか? 8
1.1.政府に依存することの危険性 8
1.2.政府によるスパイ活動の最近の例(英国がアップル社に出した命令) 9

「増加するサイバー攻撃への対処には新法も必要ではないか?」という疑問の罠 10
2.1 警察や自衛隊に私たちのサイバーセキュリティを守らせてはいけない 10
2.2.官民連携によるスパイ事件を暴露したのは軍でも警察でもなかった 11
2.3..電子フロンティア財団の市民のための自衛マニュアル 12

2.立法事実への批判 14

立法事実の問題点 14
1.1. サイバー攻撃の深刻度のデータについて 14
1.2. 実際の被害件数とその原因 19
1.3. 民間と自治体の被害の具体例からわかること 22
1.4. 地政学的脅威について 24

立法事実は改変されたり意図的に誇張されており、現実問題としては立法事実は存在しないといっていい 26

3.サイバー領域におけるスパイ行為――サイバー安保法案批判として 28

はじめに 28

そもそもスパイとは 30
2.1.定義 30
2.2. スパイ行為の国際法上の位置付け 32
2.3. 米国防総省の戦争法マニュアル 32

法案におけるスパイ行為の合法化 33
3.1. 提言・法案の意図 33
3.2. 令状主義を否定するサイバー通信情報監理委員会の新設 35
3.3. 情報収集の対象が国外であることの意味 38
3.4.官民連携によるサイバースパイ――日本国内の場合 40

サイバースパイ合法化の背景 43
4.1. 参照されている諸外国の法制度は情報機関関連の法制度だ 43
4.2. 欧州のGDPRの歯止めがかからない領域 46
4.3. 法案の背景説明にある海外の「アクセス・無害化」事例について 47

サイバー領域におけるスパイ行為は武力行使全般への入口になる 49

サイバースパイ行為もまたサイバー攻撃である 50

最後に 52

4.「無害化」という名のサイバー攻撃批判 53

はじめに 53

「無害化」=サイバー攻撃についての法案の基本的な考え方 54
2.1. 現行法での違法行為 57
2.2. 日本政府が「無害化」を行なうことの意味 59

Volt Typhoonの場合 59
3.1. マイクロソフトの報告 60
3.2. 長期・広範囲の潜伏活動 61
3.3. 「無害化」措置 62
3.4. ファイブアイズとの連携 64
3.5. 日本もVolt Tyhoonのような攻撃手法をとるようになる 66
3.6. 「無害化」措置でVolt Typhoonは駆逐されたのか 67
3.7. アトリビューションと国家間の敵視政策の問題 68
3.8. 教訓 71

地政学的な国家間の紛争から、国境を越えて繋りあう私たちの権利を切り離すべきだ 73

5.サイバー領域を戦場にしないために――サイバー安全保障「提言」批判 75

はじめに 75

「提言」の盗聴あるいは情報収集について 77

憲法21条と「公共の福祉」 78

通信の秘密は国外に及ぶのだろうか 80

「サイバー戦争」の四つのケース 82
5.1. サイバー領域で完結する場合 82
5.2. 情報戦 85
5.3. 自衛隊の陸海空などの戦力と直接連動したサイバー領域 86
5.4. アクセス・無害化攻撃が実空間における武力行使のための露払いとなる場合 86

アクセス・無害化攻撃と攻撃元の特定問題 87

日本が攻撃元であることは秘匿されるに違いない――独立機関による事前承認などありえない 89

アクセス・無害化攻撃と民間の役割 90

日米同盟のなかでのサイバー攻撃への加担と責任 92

憲法9条と国際法――サイバー戦争の枠組そのものの脆さ 95

6.能動的サイバー防御批判(有識者会議資料に関して)その1 97

官民の情報共有、通信情報活用そしてサイバー攻撃の未然防御 97

対応能力向上の意味すること 99
2.1. (スライド1)国家安全保障戦略「サイバー安全保障分野での対応能力の向上」概要――政府の現状認識 99
2.2. (スライド2) サイバー攻撃の変遷――米軍のサイバー・コマンド 103
2.3. (スライド3) ウクライナに対する主なサイバー攻撃(報道ベース)――米国防総省の2023年のサイバー戦略 107
2.4. (スライド4) 最近のサイバー攻撃の動向(事前配置(pre-positioning)活動)――なぜVolt Typhoonなのか? 109

私たちが考えるべきことは何か 113

7.能動的サイバー防御批判(有識者会議資料に関して)その2(終) 117

(承前)サイバー安全保障分野での対応能力の向上に向けた有識者会議 117
1.1. (スライド5) 国家安全保障戦略(抄)――先制攻撃と民間企業 118
1.2. (スライド6) 内閣サイバーセキュリティセンター(NISC)の強化――経費の問題 122
1.3. (スライド7) 全体イメージ――「社会の安定性」と「無害化」攻撃 125
131
1.4. (スライド8) 主要国における官民連携等の主な取組――ゼロデイ攻撃と脅威ハンティング 131
1.5. (スライド9) 主要国における通信情報の活用の制度概要 134
1.6. (スライド10) 外国におけるアクセス・無害化に関する取組例――FBIによるハッキング捜査とVolt Typhoon 136
1.7. (スライド11) 現行制度上の課題――表現の自由、通信の秘密と公共の福祉 142

スライドの検討のまとめ 148

8.能動的サイバー防御批判(「国家安全保障戦略」における記述について) 152

はじめに 152

安防防衛三文書における記述 153
2.1. 巧妙な9条外し 153
2.2. 「武力攻撃に至らないものの、国、重要インフラ等に対する安全保障上の懸念を生じさせる重大なサイバー攻撃のおそれがある場合、これを未然に排除」とは、どのようなことか。 154
2.3. 軍事安全保障状況の客観的な判断の難しさ 158

能動的サイバー防御の登場 159

9.能動的サイバー防御批判(「国家防衛戦略」と「防衛力整備計画」を中心に) 163

はじめに 163

国家防衛戦略における現状認識 163

戦い方の変化 166

従来の重要インフラ防御とサイバーセキュリティ戦略から軍事突出へ 170

組織再編 172

防衛力整備計画 174
6.1. 境界型セキュリティからネットワーク総体の監視へ 175
6.2. 性悪説に立ち、誰もを疑うことを前提に組織を構築 177
6.3. 統合運用体制―組織再編 179

おわりに―サイバー領域の軍事化を突破口に統治機構の軍事化が進む 182

10.サイバー領域におけるNATOとの連携――能動的サイバー防御批判 187

はじめに 187

NATOの軍事演習、ロックド・シールズとは 189

ロックド・シールズの軍事演習への日本の正式参加 194

自衛隊以外からの軍事演習への参加 195
4.1. 政府および外郭団体 195
4.2. NTTなど情報通信インフラ企業 198

軍事の非軍事領域への浸透が意味するもの 200

武器・兵器の再定義 203

11.私たちはハイブリッド戦争の渦中にいる――防衛省の世論誘導から戦争放棄概念の拡張を考える 206

1.戦争に前のめりになる「世論」 206
2.防衛省の次年度概算要求にすでに盛り込まれている 207
3.法的規制は容易ではないかもしれない:反戦平和運動のサイバー領域での取り組みが必須と思う 208
4.これまでの防衛省のAIへの関わり:ヒューマン・デジタル・ツイン 209
5.海外でのAIの軍事利用批判 211
6.自民党「新たな国家安全保障戦略等の策定に向けた提言」は偽旗作戦もフェイクも否定しない 212
7.ハイブリッド戦争と戦争放棄 213

12.ガザのジェノサイド:ビッグテックとサイバー戦争 215

戦争の枠組が変ってきた 215

標的の生産とAI 216

ガザ攻撃に加担するビッグテック 217

情報戦とビッグテックの検閲と拡散 218

監視と情報戦には停戦はない 219

13.インターネットと戦争―自民党「新たな国家安全保障戦略等の策定に向けた提言」批判を中心に 221

1 はじめに 221
2 政府の「次期サイバーセキュリティ戦略」 221
3 自民党「新たな国家安全保障戦略等の策定に向けた提言」について 225
4 サイバー領域で先行する軍事連携 229
5 武力行使、武力による威嚇 231
6 「グレーゾーン」と「ハイブリッド」への関心の高まり 232
7 憲法9条が想定している「戦争」の枠を越えている 236
8 何をすべきなのか 238

14.法・民主主義を凌駕する監視の権力と闘うための私たちの原則 241

プライバシーの権利は100年の権利だ 241

「デジタル」をめぐる三つの原則 242
2.1. 原則その1、技術の公開性―技術情報へのアクセスの権利 243
2.2. 個人情報を提供しない権利―匿名の権利 244
2.3. 例外なき暗号化の権利―通信の秘密の権利 246

3原則を無視したデジタル社会はどうなるか 249
3.1. ビッグデータ選挙―個人情報の奪い合いで勝敗が決まる 249
3.2. プライバシー空間が消滅する―IoTとテレワークが生み出すアブノーマルなニューノーマル 251
3.3. 現状の環境では、政府と資本によるデジタル化は権利侵害にしかならない 253
3.4. 現行の民主主義の限界という問題 254

三つの原則を維持するための方法はまだある 255

日本政府のサイバースパイ・サイバー攻撃を合法化する法律はいらない

サイバースパイ・サイバー攻撃法案反対の団体署名が呼びかけられています。下記に共同声明の本文と賛同方法の説明があります。
(共同声明)サイバースパイ・サイバー攻撃法案(サイバー安全保障関連法案)の廃案を要求します―サイバー戦争ではなくサイバー領域の平和を
https://www.jca.apc.org/jca-net/ja/node/440

ぜひ団体賛同をよろしくお願いします。

サイバースパイ・サイバー攻撃法案という言い方は、この共同声明ではじめて登場していて、とくに合意がとれているわけではありません。能動的サイバー防御法案などさまざまな言い方がされています。サイバースパイ・サイバー攻撃法案という表現がわかりにくいという意見もいただいてます。これは「日本政府のサイバースパイ・サイバー攻撃を合法化する法案に反対」という意味です。

サイバースパイを取り締ることは必要ではないか?

サイバースパイを取り締まるなら必要ではないか。また、サイバー攻撃は実際の被害があるから取り締ることは必要ではないか、という疑問の声をいただいています。この点についての私の意見を以下いくつか書いておきます。

サイバースパイの取り締まりをやらせてはいけない理由は以下です。どうやってサイバースパイを取り締るのかを考えてみるとわかるのですが、国際法上もスパイとは身分を偽り見破られないように潜んで情報を収集すると定義されています。ですから、スパイの発見のためには、網羅的に多くの人たちを常時監視してスパイと思われる兆候を把握する、ということになります。しかも、政府にとってスパイとは、「敵国」のスパイだけではなく、政府の動静を調査するジャーナリストや反政府的な言動のアクターも含まれうる可能性があります。実空間で公安警察が集会やデモを監視していますが、これと同じことがネットで起きているに違いない、と思わないといけません。しかしネットでは監視されている実感が伴わないので油断するのです。スパイの取り締まりのためにネットの監視権限を政府に与えると、私たちの通信の秘密は確実に侵害されることになります。だから、この法案をサイバースパイ法案と呼びたいと思います。

政府によるスパイ活動の最近の例(英国がアップル社に出した命令)

昨年から今年にかけて、英国政府が調査権限法(今回の法案作成で日本政府がお手本のひとつにした法律)を用いてアップル社に対して、ユーザーに知られないようにして、iCloudの暗号化されたデータに捜査機関がアクセスして暗号を解読して読めるようにする「裏口」を設置することを命じた事件があります。この件は極秘の捜査でしたが、ワシントンポストにすっぱ抜かれて明みにでました。英国は、アップル社をまきこんで、つまり、官民連携して、スパイ行為をしようとしたわけです。iCloudは日本も含め世界中の人が利用しています。そのなかにはいわゆる英国の「敵国」のスパイが利用している場合もあれば英国に移住して自国政府に対して反政府活動をしている活動家もいるでしょう。誰のデータなら英国政府が裏口から密かにアクセスしてよく、誰のデータはダメなのか、などということをあらかじめ決めることはできません。スパイであればOKという風に仕訳を事前にやることなどできません。だから英国政府はiCloudでの暗号解読をアップル社に密かに命じて網羅的に監視が可能な条件を整えようとしたのだと思います。この英国のアップルに対する極秘命令にアップルは応じていない可能性があり、現在も揉めておりアップルは英国政府を提訴したとも報じられています。

どの国の政府も、スパイ摘発とかテロ対策などを口実に私たちの正当な通信の秘密を侵害します。上の英国政府の例でも、いったん裏口からデータを取得できるようにしてしまえば、いくらでも政府の都合にあわせてこの仕組みを使うことになりますし、こうした裏口は必ず英国が敵とみなす国のスパイも利用しようと画策するので、逆にセキュリティ上は脆弱になります。

増加するサイバー攻撃には新法も必要ではないか?

もうひとつのよくある疑問として、現状ではサイバー攻撃がますます深刻になっているので、新たな防止策は必要ではないか、というものです。私の考え方は、新規の立法も法改正も不要であり、自衛隊や警察に私たちのコミュニケーションのセキュリティを守る能力もその動機もない、というものです。本法案の狙いは別のところにあると思います。

私たちのコミュニケーションのセキュリティを守る能力は私たち自身が協力して確保すべきものです。権利は私たちの不断の努力なしには保障できないことを憲法も明記しています。私たちには通信の秘密を防御できる能力もあるし手段もあるのです。政府はこうしたことに私たちが気づくことを望んでいません。市民自らによる防御の手段を使わせたくないのです。実空間での「攻撃」「防衛」との類推で私たちを不安にさせて、私たちには何もできないと思い込ませて警察や自衛隊に委せるべきだ、という世論を作りたいのです。

なので、サイバー領域の攻防の焦点は、国家に依存しないで自分たちの通信を防衛するというところになります。これが実空間での安全保障とは大きく異なるところになります。

官民連携によるスパイ事件を暴露したのは軍でも警察でもなかった

例を二つ挙げます。世界規模で起きた大きなスパイ活動として、イスラエルの企業NSOが世界中の政府に売り込んだスパイ技術をめぐる事件があります。Wikipediaに「NSOグループ」の項目があり、以下のように書かれています。

「NSO Group Technologiesとは、スパイウェアのPegasusなどを開発している、イスラエルの企業である。複数の国の政府などが顧客であり、同社が開発したスパイウェアはジャーナリストや人権活動家、企業経営者の監視に使用されている。AppleやFacebookはユーザーを監視したなどとして同社に対して訴訟を起こしている。アメリカ政府は2021年に、国家安全保障と外交政策上の利益に反する行為をしたとしてNSOグループをエンティティリストに含め、米国企業によるNSOグループの製品供給を事実上禁止した」
https://ja.wikipedia.org/wiki/NSO_Group

NSOの事案は標的型と呼ばれるスパイウェアを用いたものです。スパイの対象となる人物のスマホにこの仕組みを密かにインストールします。スマホの通話、メール、マイク、カメラなどを自由にコントロールして情報を収集できてしまう。このNSOグループの存在が発見されたのは、アラブ首長国連邦の人権弁護士が自分のスマホにちょっとした異変を感じて、カナダのトロント大学が運営しているシチズンラボに問い合わせ、シチズンラボが他の民間機関と協力して独自に調査して、スパイウェアの身元を明かにしたことに始まります。この調査には政府も警察も全く関与していません。調査の結果、このスパイウェアがイスラエルのNSOグループの製品でありアラブ首長国連邦の政府が関与していることを突き止めました。これが公表されたのがきっかけで、世界中で知られるようになり、NSOが他にも複数の政府に同様のスパイウェアを提供していたことも暴露されました。この大規模なスパイ活動は、各国とも官民一体となった技術協力を通じて行なわれているところが特徴的でもあり重要な点です。米国でNSOの製品を禁じているのは本当かどうか不明ですが、禁止措置をとらざるをえなかったのは、NSOに対する批判の声が世界規模で高まったからです。法案のなかの官民連携にはNSOのような企業との連携もありうることをしっかりと自覚する必要があると思います。

日本では小笠原みどりさんが注目して記事を書いています。
「スパイウェアに狙われるジャーナリスト 不都合な真実の消去に協力する企業」https://globe.asahi.com/article/14142629
「スパイ活動は国家間のフェア・ゲームか? 被害に遭うのは個人」
https://globe.asahi.com/article/14219502

しかし、残念なことに日本国内の運動の側は関心をもちませんでした。私も十分には取り組めていませんでした。日本政府とNSOとの関係はいまのところ不明です。

シティズンラボのレポートの日本語訳(機械翻訳)は下記にあります。
https://cryptpad.fr/pad/#/2/pad/view/UjG+-uMYVQToAwKCuBslbtPskrYsQonX+koLrKneMwg/
このなかにこのスパイウェアへの対処方法も記載されています。(iOSを最新バージョンにするだけですが)

NSOについてはアムネスティの記事があります。(機械翻訳のままです)
https://cryptpad.fr/pad/#/2/pad/view/-2on9u929fNqAyg0gVQIx-orc7hiNeg540P-Z4VJbog/

電子フロンティア財団の市民のための自衛マニュアル

もうひとつの例として、米国の電子フロンティア財団(EFF)の例を紹介します。EFFは独自に市民による自衛マニュアルを作成しています。一部は以下に日本語にしてあります。
https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/category/eff_%e8%87%aa%e5%b7%b1%e9%98%b2%e8%a1%9b%e3%83%9e%e3%83%8b%e3%83%a5%e3%82%a2%e3%83%ab/
ここにはデモに参加する場合の注意からパスワードについての注意事項などまで、項目別に解説があります。米国の事例なので直ちに日本には適用できないところもありますが、参考になります。元のサイトが大幅な改訂をしているので改訳を進めています。翻訳に協力していただいている皆さんに感謝します。

実空間での安全保障での「防衛」となると、自衛のための武力行使の肯定といった薮蛇の手段をとるとか逃げるとかしかありませんが、サイバーでは自分たちでの防御がかなりのところまで可能です。私たちが防御の体制を構築することはどこの政府にとっても監視やスパイが困難になるので好みません。だからこそ彼らが好まないことをきちんと実践することが大切だと思います。とはいえ、苦手な人たちが多いのも事実で、これは私のようにネットで活動してきた者が十分説得力をもって民衆によるサイバーセキュリティの可能性を提起できてこなかったことによると反省しています。多くの国には有力な市民のためのサイバーセキュリティに取り組む団体がありますが、日本にはありません。これが私たちのネット環境を脆弱にしている一つの大きな原因だと思います。

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3・16シンポジウム案内
-インターネット監視・先制サイバー攻撃法案に反対する‐
■とき 3月16日(日)14時~16時(13時15分開場)
■会場 文京区民センター3A集会室
■パネラー 
●青木理さん(ジャーナリスト)
●小倉利丸さん(JCA‐NET理事)
●海渡雄一さん(秘密保護法対策弁護団)
■発言 市民団体
■参加費 500円
■呼びかけ団体(3月9日現在)
「秘密保護法」廃止へ!実行委員会、共謀罪NO!実行委員会、
許すな!憲法改悪・市民連絡会、経済安保法に異議ありキャン
ペーン、平和をつくり出す宗教者ネット、ふぇみん婦人民主ク
ラブ、ND配備反対ネットワークかわさき、秘密法と共謀罪に反
対する愛知の会、秘密保護法対策弁護団、東京地域ネットワーク
JCA-NET
※オンライン配信あります。→
https://youtube.com/live/1AQdiDt0u6U

サイバースパイ・サイバー攻撃法案における「無害化」という名のサイバー攻撃への批判

目次

1. はじめに

前々回のブログ記事でサイバースパイの問題をとりあげた。今回は、「アクセス・無害化」のなかの「無害化」に焦点を当てて検討してみたい。1

「無害化」措置をとるためには、標的のネットワークなどに不法に侵入する場合、つまりハッキング行為が含まれる。警察や自衛隊の部隊などがハッキングと「無害化」措置をとるとしても、こうした行為がこれまで日本では前例があるかどうか私は十分把握できていない。

法案のサイバースパイについては、その主要な標的が国外にあると想定されているので、外外通信や送受信の一方が国外にある場合を前提とした国外での情報収集だったが、サイバー攻撃については事情が異なる。サイバー攻撃においては、国外も国内もともに日本政府(警察や自衛隊)のサイバー攻撃の対象になる。なぜそうなのか。日本国内のコンピュータ関連のシステムが攻撃を受けた場合、攻撃する側の体制は、最終的に攻撃の責任を負うべき大元が国外にあったとしてもほぼ確実に国内に攻撃の拠点を構築する。従って、この攻撃に対して日本側が行なう「無害化」と呼ばれる攻撃は、国内の攻撃拠点への攻撃の場合もあれば、その拠点に対して指示や命令を行なう国外の拠点への攻撃になる場合もある。多分国内の拠点への日本側のサイバー攻撃は警察が担う可能性が高いが、在日米軍や自衛隊関連のシステムは自衛隊になるだろう。他方で、国外の場合は、自衛隊の役割が大きくなるとともに、事案によっては警察の国際的な協力関係が利用されるかもしれない。

サイバースパイとの関連でいうと、一般的な攻撃手法としては、国内にボットネットと呼ばれるような攻撃拠点を構築することになる。このような攻撃拠点を把握するには、国内での情報収集が必要になる。この情報収集のひとつの手段が民間の事業者からの情報提供である。これは隠密に行なわれることではないので、スパイ行為ではなく、法案のなかの官民連携に基づく情報提供・共有の枠組で可能になる。その他に、この枠組外で同意によらない通信情報の取得があると政府は認めており、場合によっては国内でのスパイ活動になりうる余地も残している。

2. 「無害化」=サイバー攻撃についての法案の基本的な考え方

「無害化」と呼ばれる措置は、法案では警職法の改正と、これに連動した自衛隊法の改正として提案されている。警職法の場合は、その第六条に以下のような条文を追加することが提案されている。

サイバー危害防止措置執行官は、サイバーセキュリティを害することその他情報技術を用いた不正な行為に用いられる電気通信若しくはその疑いがある電気通信又は情報技術利用不正行為に用いられる電磁的記録若しくはその疑いがある電磁的記録を認めた場合であつて、そのまま放置すれば人の生命、身体又は財産に対する重大な危害が発生するおそれがあるため緊急の必要があるときは、加害関係電気通信の送信元若しくは送信先である電子計算機又は加害関係電磁的記録が記録された電子計算機の管理者その他関係者に対し、加害関係電子計算機に記録されている加害関係電磁的記録の消去その他の危害防止のため通常必要と認められる措置であつて電気通信回線を介して行う加害関係電子計算機の動作に係るものをとることを命じ、又は自らその措置をとることができる。(文言の定義、参照条文などの括弧書きを省略)

いわゆる「無害化」とは、不正行為があり放置すると重大な危害が及ぶおそれがあれば、通信事業者などに危害防止の措置を命令するか警察官(サイバー危害防止措置執行官)自らがその措置をリモートで実行できる、というものだ。

自衛隊法は第八十一条に以下を追加する。

第八十一条の三 内閣総理大臣は、重要電子計算機に対する特定不正行為であつて、本邦外にある者による特に高度に組織的かつ計画的な行為と認められるものが行われた場合において、次の各号のいずれにも該当することにより自衛隊が対処を行う特別の必要があると認めるときは、部隊等に当該特定不正行為による当該重要電子計算機への被害を防止するために必要な電子計算機の動作に係る措置であつて電気通信回線を介して行うものをとるべき旨を命ずることができる。(文言の定義、参照条文などの括弧書きを省略)

上の引用にある「次の各号のいずれにも該当すること」とは以下を指す。

一 当該特定不正行為により重要電子計算機に特定重大支障(重要電子計算機の機能 の停止又は低下であつて、当該機能の停止又は低下が生じた場合に、当該重要電子 計算機に係る事務又は事業の安定的な遂行に容易に回復することができない支障が 生じ、これによつて国家及び国民の安全を著しく損なう事態が生ずるものをいう。 次号において同じ。)が生ずるおそれが大きいと認めること。
二 特定重大支障の発生を防止するために自衛隊が有する特別の技術又は情報が必要 不可欠であること。
三 国家公安委員会からの要請又はその同意があること。

自衛隊は「特定重大支障」であり「本邦外にある者による特に高度に組織的かつ計画的な行為」に対して対処する。警察は国内及びいわゆる国際的な犯罪に関連する事案に対処し、自衛隊は国外で国家安全保障に関連するような重大な事案に対処する、という分担をとりあえずは決めている。たぶん、自衛隊は日米同盟や最近のオーストラリアあるいはNATOなどとのサイバー軍事作戦関連で共同展開するような場合に関与することになることは確実だ。この軍事安全保障の分野については、安保防衛3文書との関連も含めて非常に重要な領域である。他方で、サイバー攻撃は国外と国内とを跨ぐ場合がほとんどなので、軍事領域以外のところでの自衛隊と警察の分担や両組織の調整が必要になるだろう。この調整は相互の縄張りや利権が絡みそうで、容易ではないかもしれない。

法案はかなり複雑な構成をとっているのでわかりづらいが、内閣官房が作成した説明資料には端的に次のように記載している。

法案が暗黙の前提にしているのは、法案の説明資料にある参考イラストに記載されているようなボットや不正プログラムを組み込まれた機器に対する「無害化」措置をひとつの典型とみなしているように思う。

「攻撃」全体は、攻撃元を秘匿して乗っ取ったコマンド&コントール(C&CまたはC2と表記される)コンピュータと呼ばれる指令用のコンピュータを通じて、標的の国などに仕掛けたマルウェアに感染させたコンピュータ(ゾンビコンピュータとも呼ぶ)を多数ネットワーク化したボットネットを制御する。身元を幾重にも秘匿する攻撃なので、誰に加害責任があるのか(アトリビューションという)を解明することが難問になると言われている。法案では、ボットネットを構成している不正プログラムなどを仕込まれたボットの「無害化」が中心になっている。これは後述するVolt Typhoonのケースとよく似ている。場合によってはC&Cコンピュータが国内にあるならば(大抵は国外だろう)、これも視野には入れているかもしれないが、これらに指示を与える更に大元の組織への侵入攻撃と「無害化」は想定していないように思う。

法案はこの「無害化」攻撃が、緊急を要するような印象を与えており、相手のシステムへの侵入から無害化措置まで短期間で実施されると想定し、裁判所の令状取得ですら時間的に間に合わないとして監理委員会制度を新設することを正当化しようとしているように思う。しかし、裁判所の令状によらない理由は説明資料では何らの言及がない。しかし令状は憲法が定めた基本的な手続きであり、この点への説明を欠いているのは重大な問題である。

他方で、「無害化」攻撃の実行に先立って、標的となる加害者側のボットネット全体の実態を把握するには相当の時間がかかる可能性がある。これは、サイバースパイ行為に分類することができるかもしれない。長期にわたるスパイ行為による情報収集を経て「無害化」攻撃を実施するとすれば、取り組みに要する期間はかなり長期になるかもしれない。

2.1. 現行法での違法行為

上記(1)で端的に記述されているように、日本側が相手のサーバーなどの「脆弱性を利用」して不正侵入することを通じて、無害化のための措置をとる。不正侵入する段階で、すでに、違法行為となる。サイバースパイ・サイバー攻撃法案は、こうした行為の実行犯となる警察や自衛隊の部隊などの侵入行為を法律上は適法とみなせるように法律を改正することを意図したものだ。

不正侵入行為は既存の日本のいくつかの法律に抵触する。

警察庁のウエッブでは、不正アクセス禁止法で禁止されている行為として以下を列挙している。

不正アクセス行為の禁止等に関する法律(不正アクセス禁止法)では、ネットワークを利用した

  • なりすまし(他人のID・パスワード等を不正に利用する)行為
  • セキュリティ・ホール(プログラムの不備等)を攻撃して侵入する行為

が禁止されています。

具体的には

  • オンラインゲーム上で、他人のIDとパスワードでログインし、他人のキャラクターの装備品やアイテムを自分のキャラクターに移し替える
  • SNSに他人のIDとパスワードでログインし、本人になりすまして書き込む
  • セキュリティ・ホールを攻撃し、企業のホームページを書き換える

などが挙げられます。

また、

  • 他人のID・パスワードを不正に取得する行為及び不正に保管する行為
  • 他人のID・パスワードを第三者に提供する行為(業務その他正当な理由による場合を除く)
  • 他人のID・パスワードの入力を不正に要求する行為(いわゆるフィッシング行為)

についても、禁止されています。

これに対して本法案では、標的となるサーバーに侵入して必要な無害化措置をとる上で有効な手段であれば上記のどれを使ってもよいことになる。

たとえば、標的となるサーバーに侵入するために、サーバーの管理者や組織の関係者のIDとパスワードを用いてなりすまして侵入する場合には、そもそも侵入行為以前に、IDとパスワードを何らかの不正な方法で入手する必要がある。上の警察庁の説明ではセキュリティ・ホール(プログラムの不備等)を攻撃して侵入する場合が例示されているが、法案の説明書には「脆弱性」という言葉が使われている。セキュリティ・ホールはプログラムのバグなどを指すが、脆弱性はより幅広くシステムの様々な弱点を指す。政府の説明書にいう脆弱性にはセキュリティ・ホールを含み、それ以外のあらゆるシステムに不正に侵入しうる可能性のある弱点全体を指しているのだと思う。

様々な弱点のなかには、標的となっている組織の構成員の弱味の把握(いわゆるソーシャル・エンジニアリング)とか、標的のサーバーだけでなく、このサーバーが接続されているネットワーク全体のなかに、プログラムは正常だがそれを間違った設定で利用するなどの多くの弱点になるポイントがある。これらを虱潰しにチェックして弱点を洗い出して標的のサーバーへの侵入手段を探すことになる。しかも、こうした行為を相手に察知されずに行なうことになる。

標的が規模の大きなシステムであり、セキュリティ対策が堅固であればあるほど脆弱性の発見には時間がかかる。もしかしたら発見できないかもしれない。あるいは発見できても、その侵入経路では標的のサーバーには到達できないかもしれない。

2.2. 日本政府が「無害化」を行なうことの意味

以上は、「無害化」が日本国内で行なわれた場合を想定したが、もしこれが国外で行なわれるとなるとどのような問題を引き起すだろうか。「無害化」措置は、実際には非常に複雑な作業を経た後に初めて実行可能になる場合が多く、サイバースパイ行為を必須の前提条件にしているとみていい。「無害化」に至る過程全体を鳥瞰したとき、日本政府の行動はどのような意味をもつことになるのだろうか。

第一に、相手のシステムについて可能な限り多くの情報を収集することが、脆弱性の発見にとって有利に働く。日本国内では日本の民間事業者を協力させる枠組が使えるが国外では使えないのでスパイ行為に頼ることになる。日本政府が窃取する通信情報は、当該サーバーに直接関係しないものも含む膨大な情報になり、この情報は、無害化措置によって所期の目的が達成されるまでは廃棄されない可能性が高い。

第二に、長期にわたる可能性が高い。標的が「敵国」であれば、脆弱性を発見して侵入して更に可能な限り情報を収集しようとするだろう。外国の政府機関が標的の場合、相手組織は膨大であり構成員もまた多数である。本法案はこうした対象を念頭に置いたものとはいいがたいが、将来的にはこうした方向を狙うことになりかねない。

3. Volt Typhoonの場合

サイバースパイ・サイバー攻撃法案の内閣官房サイバー安全保障体制整備準備室が作成した説明資料のなかで「無害化」の事例として米国を中心に近年実際に実施されたVolt Typhoonと呼ばれるハッカー集団によるマルウェアへの措置が挙げられている。これ以外にもVolt Typhoonが例示されるケースは比較的目にする機会が多い事例であり、情報も比較的多いケースである。2 以下Volt Typhoonの事例を取り上げながら、「無害化」措置について、どのような問題が生じうるのか、とりわけ、私たちの通信の秘密や言論・表現の自由などの基本的人権にどのような悪影響が考えられるのかについて、検討したい。

3.1. マイクロソフトの報告

Volt Typhoonとは何であり、どのような無害化が行なわれたのかをみてみよう。 早い段階でVolt Typhoonの活動を発見したマイクロソフト社は、2023年5月に公表した報告書3の冒頭で次のように述べている。

Microsoftは、米国の重要インフラ組織を標的とした、侵害後の認証情報へのアクセスとネットワークシステムの検出を目的とした、隠密かつ標的を絞った悪意のある活動を明らかにした。この攻撃は、中国を拠点とする国家支援の攻撃者「Volt Typhoon」によって行われており、通常、スパイ活動や情報収集に重点を置いている。

認証情報とは、IDとパスワードで本人であることを確認するなどのような場合に用いられる情報だ。ID/パスワードは認証情報のごく一部であって、もっと多岐にわたる。認証情報を収集することによって、ネットワークのなかの認証を必要とする様々な部署への侵入を可能にする準備作業を行なっていたのだろうと推測される。しかしこれらの窃取した情報を利用してマルウエアなどを仕込むというスパイ行為の範囲を越えた破壊工作までは実施されていなかったが、将来そうした可能性があるという判断がなされて「無害化」が実行されたものと思われる。4

マイクロソフト社は、ここで「中国を拠点とする国家支援の攻撃者」と明言し、中国政府を後ろ盾とした攻撃であると断定しているが、この報告書には中国政府を攻撃元と判断した根拠については示されていない。その理由を私なりに推測しているが、これについては後述する。上の引用箇所に続いて、更に次のように述べている。

Volt Typhoonは2021年半ばから活動しており、グアムやその他の米国の重要インフラ組織を標的にしている。この作戦では、被害を受けた組織は通信、製造、公益事業、運輸、建設、海運、政府、情報テクノロジー、教育などの分野にわたっている。観測された行動から、脅威の実行者はできるだけ長く気づかれないようにスパイ行為を行い、アクセスを維持しようとしていることがうかがえる。

Volt Typhoonが標的とした重要インフラは法案が念頭に置く日本の重要インフラのケースにそのまま当て嵌めてイメージしやすい。このことも法案の立法事実に関連するすでに起こされた事例として取り上げられた理由の一部かもしれない。

3.2. 長期・広範囲の潜伏活動

注目すべきなのは、Volt Typhoonの活動時期だ。上にあるように活動は2021年頃からだという。報告書が公表されたのは2023年春なので2年近くが経過している。そして更に実際にこのVolt Typhoonが用いたと呼ばれるボットネットに対する「無害化」措置は、米国司法省のプレスリリース5によれば23年12月に実施されたという。数年にわたり活動が維持されていただけでなく、マイクロソフトの報告から「無害化」までの時間経過をとっても半年が経過している。上の引用にもあるように、ルーターなどのエッジデバイスと呼ばれる機器のセキュリティサポートが終了している古いモデルが大規模に狙われたことから、まず最初にユーザーへの注意喚起を通じて対処が呼びかけられ、これによっても対処できないケースについて強制的な「無害化」のための侵入措置がとられたと思われる。

民間のサイバーセキュリティ企業Security Scorecardは次のように報じている。6

Volt Typhoonを含む脅威行為者がデータを秘密裏に転送するために使用しているボットネットを構成していると思われる侵害されたSOHOデバイスのグループが特定されている。ボットネットが使用する侵害されたデバイスには、Cisco や DrayTek のルーター、NETGEAR のファイアウォール、AxisのIP カメラが含まれる。

またこの報告書は次のようにも指摘した。

明らかになったのは、ヨーロッパ、北米、およびアジア太平洋地域で活動する秘密のインフラネットワークで、侵害されたルーターやその他のネットワークエッジデバイスで構成されていると思われる。(略)Volt Typhoonはこれらの侵害されたデバイスを使用して盗んだデータを転送したり、標的となる組織のネットワークに接続しようとしている可能性がある。

Security Scorecardは、C2ルーターノードへの接続数別に見た感染の可能性があるCisco RV325デバイスの地理的分布などのデータを示して、侵害された機器と同じ種類のものが世界中で利用されていたことから、侵害が米国以外にも拡散していた疑いを指摘している。いわゆるファイブアイズを中心とするJoint Cyber Securityが公表した報告書では、米国外への広がりについては重視していない。7 実際にはどうなのか、全体像はまだはっきりしていないと思う。米国がとった措置は、こうした国外への広がりの可能性があるとはいえ、国内においてマルウェアなどが仕込まれた機器を対象に「無害化」を実行したケースだけが公表され、国外での「無害化」については明言していない。

3.3. 「無害化」措置

Volt Typhoonは、インターネットに接続されているルーターなどの末端のデバイスのセキュリティホールや脆弱性を突いてKV Botnetと呼ばれるマルウェアを用いて活動してきたといわれ、数百、あるいは数千台のデバイスが被害を受けたとも報じらている。では、この侵害を受けたデバイスの「無害化」はどのようにして実施されたのだろうか。

司法省はこのVolt TyphoonによるマルウェアKV Botnetを破壊する措置について、「2023年12月に裁判所が承認した効力のある行為により、中華人民共和国(PRC)国家支援を受けたハッカー集団にハイジャックされた米国を拠点とする数百台の小規模オフィス/ホームオフィス(SOHO)ルーターのボットネットが破壊された。」8と述べた。司法省は、この脅威の除去のためにFBIと司法省は裁判所の令状を取得して措置にあたったと報じた。請求された令状には、FBIはマルウェアに感染している米国にあるルーターを特定しており、リモートでこれらのルーターを捜索し証拠を押収するとともに、マルウェアを感染したルーターから除去し、再感染を防止する措置をとるための裁判所の令状を請求した。9

令状では、この事案の原因と思われるものとして、背後に中国がいることをマイクロソフトとファイブアイズの報告書などで主張し、FBIが把握したこととして、令状申請書では以下のような説明をしている。

FBIの捜査で、KV Botnetと知られるマルウェアにSOHOネットワークのルーターが感染していることを確認している。ボットネットは、あるサイバーアクターが犯罪目的で制御し利用することができるインターネットと接続している感染したデバイスのネットワークである。KV Botnetのひとつの機能は感染したSOHOルーター間の暗号化されたトラフィックを、ハッカーが彼らの活動を匿名化することを許すように伝送することである(つまり、ハッカーがSOHOルーターからオペレートしているように見せかけるが、本当は彼らの実際のコンピュータは中国にある)。KV Botnetは感染したルーター(“ノード”)、親ノード、C2ノードからなる。この親ノードとC2ノードはボットネット内の他のノードにコマンドをリレーしたり発行するコンピュータである。

この引用のなかで「FBIの捜査で、KV Botnetと知られるマルウェアにSOHOネットワークのルーターが感染していることを確認している」と述べられているが、どのような方法で多数に及ぶ感染を確認したのかについては言及がない。このKV Botnetというマルウェアに感染するのはサポート期限が切れた古いルーターなどの機器である。セキュリティのパッチやソフトのアップデートアなどが提供されていないものだ。KV Botnetは再起動すると除去されるが、所有者や管理者は気づきにくく、長期にわたり再起動されずに利用されてきた。たとえルーターを再起動したとしても脆弱性はそのまま残され、再度の感染がありうる。FBIが行なったのは再度の感染を防ぐ措置も含めたものだった。

裁判所の令状が必要なのは、FBIの措置が、通信機器に対する侵害とプログラムの破壊を伴うかために、令状なしであれば、米国刑法の違法行為となると判断されたためだ。

3.4. ファイブアイズとの連携

他方で、このVolt Typhoonへの対処は、米国の捜査機関だけで取り組まれたものでもなければ、米国一国だけで取り組まれたものでもないようだ。10 いわゆるファイブ・アイズの関係機関などが共同報告書「中国の国家支援組織が米国の重要インフラを侵害し、持続的なアクセスを維持している」11 を出しており、そのなかでは次のように述べられている。

Volt Typhoonがグアムを含む米国本土および米国本土以外の領土にある複数の重要インフラ組織(主に通信、エネルギー、輸送システム、上下水道システム部門)のIT侵害したことを確認している。Volt Typhoonの標的の選択と行動パターンは、伝統的なサイバー諜報活動や情報収集作戦とは一致せず、米国報告作成機関は、Volt Typhoonのアクターは機能を混乱させるためにOT資産へのラテラル・ムーブメント(水平移動)を可能にするために、ITネットワーク上にあらかじめ配置されていると高い確信をもって評価している。(略)地政学的緊張や軍事衝突が起こりうる場合に、これらの行為ネットワークアクセスを破壊的効果のために使用する可能性を懸念している。

ここで指摘されている「伝統的なサイバー諜報活動や情報収集作戦とは一致せず」として、特に注目している。攻撃者の目的は、発見されずに移動・拡散し、情報を収集することにあるともいわれている。上の引用にある「ラテラル・ムーブメント」は、水平移動、あるいは水平展開などと訳されるが、これがひとつのキーワードになる。攻撃者は、セキュリティ・ホールや脆弱な箇所から侵入した後で、侵入に成功した機器を利用して、繋っているネットワークの他の部分へと展開していく。様々な手法を駆使してネットワーク内部を探索し情報を収集したり、当初の標的へと辿りつくことを試みたりする。12

「無害化」としての措置は、裁判所の令状を取得した上での、遠隔地からのリモートによる侵入措置であった。この限りでは米国内だけの取り組みになり、FBIが関与する枠組になるが、同時に攻撃者が中国であるという断定によって、問題は国境を越えた取り組みともなり、ここにファイブアイズに関係する情報機関などが関わることになるのだろう。

「無害化」措置をめぐる全体の構図を理解するためには、直接の「無害化」措置を担う機関だけに注目するのでは十分ではない、ということがわかる。問題が、国際的な戦争や武力紛争未満の平時のなかに潜り込んだようなサイバー領域における「攻撃」であるために、国際的な情報機関相互の連携が関与することになる。実空間の武力攻撃や威嚇と比べて、サイバー領域における攻撃は実感されにくいために、その利用のハードルは低く、スパイ行為が同時に容易に破壊工作へと転じることにもなりうるために、サイバー領域は実空間以上に国際的な緊張を高める要因になりやすい。結果として、私たちが日常生活で必須のコミュニケーション手段としているサイバー領域が、同時に「攻撃」の回路としても利用される結果として、私たちをより不安全なものにしかねないことがわかる。

ただし、Volt Typhoonに侵入されたかどうかのチェックをどのようにして行なったのかなど、「無害化」に先行する事前の調査なども含めると、かなりの時間を要したに違いないが、この点については、私自身が十分に調べきれていない。

サイバースパイ・サイバー攻撃法案の趣旨や説明資料などによる「無害化」のプロセスとVolt Typhoonにおける「無害化」とでは幾つかの点で違いがある。注目されるのは、Volt Typhoonでは令状を取得しての「無害化」であるのに対して法案は、監理委員会の承認としている点だ。この違いは、法案が前提にしている状況が「緊急の必要があるとき」(整備法案、警職法第六条の二の2)とされ、かなり切迫した状況を想定しているような印象を与える記述によって正当化しようとしている。警職法を転用しているのも令状なしの捜索と深く関わるだろう。

しかし米国の取り組み事例をみたとき、Volt Typhoonのような攻撃を受けた場合に、令状に基づく従来のような捜索で十分対処できるのではないか、なぜ令状主義をも否定するような法改正をあえて試みようとしたのか。

3.5. 日本もVolt Tyhoonのような攻撃手法をとるようになる

むしろ、私たちが最も真剣に検討すべきなのは、Volt Typhoonのような攻撃を受ける場合ではなく、逆に、同種の攻撃の主体に日本がなることを法案が正当化する可能性がある、という点だ。法案は、同意のない侵入行為を合法化している。法案説明資料では「攻撃に使⽤されているサーバー等が持つ脆弱性を利⽤するなどして、遠隔からログインを実施」と率直に記述している。日本が「敵国」視している国のサーバーは「攻撃に使用されているサーバー」という理由づけをすることはいくらでも可能だ。侵入してから情報を収集する期間は半年と定められているが延長が可能であるから事実上期限なし、とみていい。長期にわたるスパイ活動を合法化する基本的な枠組を法案は提供していると解釈することも可能だ。その後、いわゆる「無害化」へと展開するかどうかは、状況次第、ということになるかもしれない。「敵国」のサイバー領域における攻撃能力全体を無害化するということも無害化に含まれうる。こうした極端な解釈をとるかどうかは状況次第だろう。

3.6. 「無害化」措置でVolt Typhoonは駆逐されたのか

さて、このFBIによるVolt Typhoonへのサイバー攻撃は成功したのだろうか。確かに多くの感染したルーターからマルウェアは駆除され再感染しない措置はほどこされたようだ。

しかし、これで問題は解決しなかったようにもみえる。というのは、Volt Typhoonは、このFBIによる攻撃を察知して対抗措置をとるようになったといわれているからだ。Volt Typhoonが利用したのは世界中に存在するサポート期限が切れセキュリティのアップデートができない膨大な通信機器を利用したものであるため、感染した機器の「無害化」をほどこしても、ボットネットの再構築を通じてこれまで感染していなかった機器を狙うことが可能であるために、「旧式の Cisco および Netgear ルーターを標的とした KV-Botnet マルウェア・ボットネットの再構築に成功した」とすら報じられてしまった。13 FBIなどとの攻防戦は「無害化」措置をとりはじめた直後から顕著に示されてきたとも報じられている。14 実際のところについて私は確信をもった判断ができないが、サイバー攻撃に関連する「無害化」は、KV-Botnetのように、膨大な数の機器が世界中で長期にわたってセキュリティホールが放置されて利用されているケースに対しては十分な効果を挙げることができない、ということだ。もしこうしたセキュリティホールが全て完璧に塞がれたとすれば、攻撃は収束するだろうか。技術的にいえば収束するだろうが、同様の別のセキュリティホールが狙われる可能性は排除できない。

攻撃の標的となった米国の反撃の選択肢として、国内の感染した機器への対処だけではなく国外にあるC2コンピュータや、更には米国が想定する中国の攻撃元そのものを叩くことで、問題を解決することが可能だろうか。これはサイバー攻撃の大幅な拡大であり文字どおりのサイバー戦争を入口にしたリアルな戦争への道となる危険性が大きい。他方で、米国を攻撃してきた側にとっては、攻撃の手段はKV-Botnetだけではなく様々な別の手段もある。攻撃側に攻撃の動機が存在する限り攻撃は収束することはない。この構図は、米国がサイバー攻撃の主体となって、ボットネットを構築して中国などを攻撃する場合にも同様の事態を想定することができる。技術的なことでいえば、相手にできることはこちら側でも可能であるはずのことだ。

「無害化」と呼ばれるサイバー攻撃の教訓は、この手法はサイバー攻撃を解決する手段にはなりえない、ということである。むしろ攻撃の応酬を招くことになるのは、実空間における武力による応酬の場合と同様である。こうした攻撃の応酬はネットワーク全体の安全を高めるどころかむしろ弱体化させる原因を作り出していることになる。しかし、こうした攻撃の応酬は、攻撃という権力の力の主体をなす警察や自衛隊といった組織にとってはその存在感を増す格好の状況を提供することになり、逆に私たちのコミュニケーションの権利は益々脆弱なものになる。

3.7. アトリビューションと国家間の敵視政策の問題

このVolt Typhoonによる不正アクセスと、疑いとしての情報窃取について、その元凶が中国であるという断定は欧米の政府とメディアでは繰り返されてはいるものの、この行為の責任の帰属先が中国であるということを証明するようなデータが公開されてはいないように思う。マイクロソフトの報告でも米国政府のドキュメントでも中国を犯人と断定する言及はあるが、その根拠は示されていない。メディアもこの点について深く追求しているようにも思えない。他方で中国は自らの行為であることをはっきりと否定している。15 米国がアトリビューションで明確な証拠を示せてはいない一方で、中国側が説得力のある反論ができているかというとそうとも言いきれない。私の技術的な知識では判断しえない部分が多々あることを差し引いても、この事象を中国によるものと私は断定できない。アトリビューションの問題は未解決である、というのが私の判断だ。従って、中国に対してサイバー領域での対抗措置としての報復攻撃を現段階では正当化できるとも思わない。

西側のメディアの論調や米国の報告書などでは報復攻撃をも肯定しかねないような激しい断定が散見されるのだが、政府当局はサイバー領域における報復といっていいような目にみえる行動はとっていない。何もしていないのか、何かをしていても秘匿しているのか、それすらわからない。中国を名指しで犯人扱いしてはいるものの、実際にはアトリビューションとしての信頼に足る証拠がないために、実際は対抗措置をとっていないかもしれない。ちなみに、国際法上合意されたアトリビューションに必須とされる証拠の基準などは未だに未確立である。16

上で「無害化」措置でVolt Typhoonは駆逐されるどころかより厄介な拡大の危険に道を開いたのではないか、と述べた。同様に、アトリビューションの観点からみたときも、Volt Typhoonの「無害化」措置は、実は何ひとつ問題の解決には至っていないことに気づく必要がある。つまり、米国内で侵害されたデバイスからマルウェアなどの駆除と防護措置をほどこしただけであって、この侵害行為の責任を負うべき加害者そのものの攻撃システムを破壊したわけではないからだ。帰責を証明する客観的な証拠を公表できていないために、加害者に対して国際法上の要請も配慮してバランスのとれた手段によって報復するということも行なわれた形跡はない。中国を名指ししながらもアトリビューションの観点からすると、この名指しは言葉の上だけのものになっている。

これは、アトリビューションを装いながらのある種の情報戦になってしまっており、最も懸念するのは、この結果が米国や日本を含む同盟国のなかに暮す人々の間に差別や憎悪の感情を醸成するきっかけになることだ。政府と一人ひとりの個人とは別であるにもかかわらず、である。米国の思惑としては、国家安全保障の主敵の基軸を中国に合わせる観点からすれば、自国民の大半が中国を犯人として信じて敵意の感情を醸成することに繋がればナショナリズムの感情動員にとってマイナスになることはない、とみているようにもみえる。しかし、これは人々の冷静で合理的な判断を阻害しかねない。米国や同盟国がやったことは、一方でセキュリティ・ホールや脆弱性への対応をとりながら、他方で、サイバースパイ・サイバー攻撃の動機を形成する国家間の敵対関係を醸成したにすぎない。つまり攻撃の動機そのものに対処できていないのだ。これでは国家が果たすべき人々の安全な環境を保障することにはならない。

実は、これ以外にもアトリビューションに関連して考えておくべきことがある。それは、米国による根拠を示すことのない断固たる断定の背景には、証拠として示すことができない何らかの手段によって中国に帰責させるだけの根拠を把握していた可能性も否定できないという疑念だ。たとえばソーシャル・エンジニアリングやHUMINTなど伝統的なスパイ活動を通じて把握した表には出すことのできない証拠などがあるのかもしれない。

もうひとつは、Volt Typhoonのような手法を米国など他の国の諜報機関もまた実行していた場合には、アトリビューションの問題を根本的に解決するように証拠を公開することは、自国の同種の攻撃に関してもパブリック・アトリビューションに直面しかねず、直接の実害に関わる問題だけを技術的に排除することでよしとする判断もありうる。国内法上不正アクセスなどとして捜査機関が強制捜査の権限を行使する一方で、国際法上は国家のスパイ行為そのものは違法とはされていないことから、アトリビューションの問題は不問に付す、という選択だ。米国など他の国――ここには日本も含まれる――もまた同種のスパイ行為を行う主体でもあるというところから、こうした不条理な選択に合理性が与えられてしまうかもしれない。とはいえ、いつも中国やロシアなどのサイバー攻撃ばかりが注目され、欧米や日本などの同様の攻撃はあたかも存在しないかの報道が繰り返されてきていることには、一般のマスメディアもようやくその奇妙な非対称性に注目しはじめた。17

3.8. 教訓

Volt Typhoonに関しては、この事案を法案の説明文書で例示として挙げていることを念頭に置くと、以下のような教訓を導くことができると思う。

第一に、米国はVolt Typhoonの「無害化」措置において裁判所の令状を取得して対処した点だ。これはサイバースパイ・サイバ攻撃法案と決定的に異なる手続きである。令状主義は、憲法に明記された政府が守るべき義務である。令状なしの緊急逮捕のような前例を口実としたいのかもしれないが、米国ですら令状を請求して「無害化」に対処できており、政府の令状回避の主張は、政府自らが法案を正当化しようとして持ち出した事例によって否定されている。

第二に、もし日本がVolt Typhoonのような攻撃を受けたばあい、警察、自衛隊、その他の政府機関、重要インフラ民間事業者などがどのように連携し、対処することになりそうなのか、その結果として私たちの通信の秘密など基本的人権がどれほど侵害されることになるのかということを判断するための参考例になる。「無害化」措置は、その準備も含めて、私たちの通信の秘密が侵害されないで済むとはいえないことは明らかであり、だからこそ米国では裁判所の令状を必要としたのだ。とくに、捜査機関による侵入と無害化のためには、その前提として網羅的にデバイスの状況を調査するなどの監視が行なわれることを軽視してはならないだろう。メールやウエッブ経由でマルウェアなどを仕込むのであれば、監視の範囲は更に拡がる。

第三に、私たちのネットの環境に対する侵入者は、日本政府が想定しているような外国の政府を後ろ盾とした者や営利目的の犯罪者だけではない。これまでの歴史的な経験からすれば、こうした者を排除する意図をもちつつ、公共の福祉や犯罪や脅威の抑止といった大義名分を掲げながら、サイバースパイ・サイバー攻撃の手法を自国内の反政府運動などの政治・社会運動を監視するために転用・流用しようとする権力者の行動が繰り返されてきてもいることを忘れてはならないだろう。私たちのネットを監視する日本政府もまたサイバー攻撃の加害者になるために、法案を提出したことを忘れるべきではない。自国も含めて、いかなる国家であれ、またいかなるアクターであれ私たちのコミュニケーションの権利を侵害することは許されない。こうした人権侵害行為を排除するための唯一の方法は、私たち自身が少なくとも、自分と仲間のプライバシーやコミュニケーションの権利を防衛するために必要なセキュリティを安易に国家に委ねるのではなく、自ら確保できるような取り組みを確立することこそが重要になる。

第四に、法案の説明資料で無害化として挙げられている具体例にVolt Typhoonが選ばれていることの意味は軽視すべきではないと思う。日本政府もまたVolt Typhoonのように、長期にわたり「敵」のネットワークに潜伏して情報収集するという攻撃の手段をとる可能性を否定できない、ということだ。自国政府の加害行為への責任を私たちは自覚しなければならない。自国政府の加害を阻止できるのは日本にいる私たちだからだ。

最後に、サイバー攻撃には先制攻撃を含むサイバー攻撃で対処する、という考え方はうまくいかない、ということだ。多くの場合、「無害化」は相手の更なる巧妙な攻撃を招きかねず、こうした報復攻撃や先制攻撃は、サイバー領域における戦争を拡大するだけでなく、実空間での戦争へのきっかけにすらなる。

4. 地政学的な国家間の紛争から、国境を越えて繋りあう私たちの権利を切り離すべきだ

ボットネットを背後で操っている大元の「攻撃者」そのものを攻撃することもまた能動的サイバー防御の課題とされているのかどうか。Volt Typhoonの場合もFBIによる米国内の対処だけが公開されているに過ぎず、国外での軍や諜報機関が関係するであろう対処についてはどうなっているのかはわかっていない。しかし、先にも述べたように、もし実際にどこかの国のサイバー部隊を脅威の元凶とみなして攻撃することになれば、非常に深刻な武力紛争に発展する可能性がある。実際にどこまで脅威の根源にまで遡って対処するのかは、日本が関係する軍事安全保障の同盟の戦略なかで決まるといっていい問題になる。

最後に、前稿でも結論で述べた事を再度繰り返しておきたい。少なくとも現在の米国の国際政治における主要な敵は中国であり、中国への敵意の世論を繰り返し喚起することは米国の安全保障政策の重要な情報戦の一角をなしており18、日本の政府もメディアもこの基本的な敵と味方の国家関係のなかに私たちを囲い込もうとしているように思う。こうした国家間の対立関係が世論のレベルでは感情的な敵意の醸成となる。この国家対立と感情の動員の罠に嵌るべきではない。

だからこそ私たちは、この感情の政治に巻き込まれない工夫に迫られている。この感情的な雰囲気からいかにして身を引き剥がし、同時に、国家間の紛争圏から距離をとって国境を越えた人々のコミュニケーションと相互の議論や理解を構築できるかという問題が、サイバー領域の紛争と表裏一体として問われる。国家がサイバー領域を戦争に引き寄せれば寄せるほど、私たちはいかにして、この諍いの構図を拒否できるかが問われることになる。もし米国がVolt Typhoonへの報復として中国へのサイバー攻撃を実行していなかったのであれば、それは好ましい選択だと思う。他方で、Volt Typhoonへの対処として裁判所の令状を取得して強制的な侵入と「無害化」を実行したことは、それが被害の阻止として機能したとしても、手放しでは肯定できない。令状の内容や、無害化の実際の措置、当事者による解決に委ねられなかった事情の詳細などは慎重に見極めるべきであり、その副作用としていったいどれだけの通信の秘密やプライバシーの権利への侵害があったのかが明かでない以上、人権のリスクを軽視することはできないからだ。

Footnotes:

1

今国会に上程されているいわゆる能動的サイバー防御法案などと呼ばれている法案については、以下敢えて「サイバースパイ・サイバー攻撃法案」と呼びたいと思う。

2

もうひとつカナダの事例も挙げられているが、こちらについては私はまだ批判的に検討できるだけの材料を持ち合わせていない

3

https://www.microsoft.com/en-us/security/blog/2023/05/24/volt-typhoon-targets-us-critical-infrastructure-with-living-off-the-land-techniques/

4

根拠

5

2024年1月31日付司法省プレスリリース https://www.justice.gov/usao-sdtx/pr/us-government-disrupts-botnet-peoples-republic-china-used-conceal-hacking-critical

6

(securityscorecard.com)”Threat Intelligence Research: Volt Typhoon Compromises 30% of Cisco RV320/325 Devices in 37 Days,” https://securityscorecard.com/blog/threat-intelligence-research-volt-typhoon/

7

https://www.cisa.gov/sites/default/files/2024-03/aa24-038a_csa_prc_state_sponsored_actors_compromise_us_critical_infrastructure_3.pdf

8

https://www.justice.gov/archives/opa/pr/us-government-disrupts-botnet-peoples-republic-china-used-conceal-hacking-critical ここには裁判所の令状関連のドキュメントの写しも掲載されている。

9

2023年12月の令状 https://www.justice.gov/archives/opa/media/1336411/dl?inline 2024年1月の令状 https://www.justice.gov/archives/opa/media/1336421/dl?inline

10

米国の組織としては、The Cybersecurity and Infrastructure Security Agency (CISA)、National Security Agency (NSA)、そしてFederal Bureau of Investigation (FBI)といった捜査機関に加えて、U.S. Department of Energy (DOE)、U.S. Environmental Protection Agency (EPA)、U.S. Transportation Security Administration (TSA)といった軍事諜報機関以外の政府組織も名前を列ねている。この他に、米国以外の機関として、Australian Signals Directorate’s (ASD’s) Australian Cyber Security Centre (ACSC)、 カナダのthe Communications Security Establishment (CSE)の一部門であるCanadian Centre for Cyber Security (CCCS)、英国のNational Cyber Security Centre (NCSC-UK)、ニュージーランドのCyber Security Centre (NCSC-NZ)が揃って参加している。

11

PRC State-Sponsored Actors Compromise and Maintain Persistent Access to U.S. Critical Infrastructure https://www.cisa.gov/sites/default/files/2024-03/aa24-038a_csa_prc_state_sponsored_actors_compromise_us_critical_infrastructure_3.pdf

12

ラテラルムーブメントのついてはたとえば、下記を参照。Cloudflare 「ラテラルムーブメント(水平移動)とは?」https://www.cloudflare.com/ja-jp/learning/security/glossary/what-is-lateral-movement/

13

https://dailysecurityreview.com/security-spotlight/volt-typhoon-rebuilds-malware-botnet-after-fbi-disruption

14

https://blog.lumen.com/kv-botnet-dont-call-it-a-comeback/

15

中国側からの反論記事やレポートとして以下を参照。”US side ‘silent’ on report of Volt Typhoon falsehood; analysts urge US to refrain from arbitrarily fabricating evidence to frame China By GT staff reporters,” https://www.globaltimes.cn/page/202404/1310679.shtml ,”GT exclusive: Volt Typhoon false narrative a collusion among US politicians, intelligence community and companies to cheat funding, defame China,”report By Yuan Hong https://www.globaltimes.cn/page/202404/1310584.shtml, 中国のコンピュータ・ウィルス緊急対応センターは下記の三つの報告を出している。(IIの英語版は未見) Volt Typhoon:A Conspiratorial Swindling Campaign targets with U.S. Congress and Taxpayers conducted by U.S.Intelligence Community https://www.cverc.org.cn/head/zhaiyao/futetaifengEN.pdf “伏特台风II”——揭密美国政府机构针对美国国会和纳税人的虚假信息行动 https://www.cverc.org.cn/head/zhaiyao/news20240708-FTTFER.htm, Volt TyphoonIII https://www.chinadaily.com.cn/pdf/2024/20241014.pdf

16

たとえば以下を参照。Kristen Eichensehr、”The Law & Politics of Cyberattack Attribution、” 67 UCLA L. Rev. 520 (2020). UCLA School of Law, Public Law Research Paper No. 19-36 Posted: 23 Sep 2019 Last revised: 1 Oct 2020 https://papers.ssrn.com/sol3/papers.cfm?abstract_id=3453804%E3%80%81eremy K. Davis,”Developing Applicable Standards of Proof for Peacetime Cyber Attribution,” Tallinn Paper No. 13 2022 https://ccdcoe.org/uploads/2022/03/Jeremy-K.-Davis-Standards_of_Attribution.pdf

17

Joe Tidy,”Why is it so rare to hear about Western cyber-attacks?” 23 June 2023, https://www.bbc.com/news/technology-65977742

18

例えば以下を参照。”U.S. Can Respond Decisively to Cyber Threat Posed by China,” https://www.defense.gov/News/News-Stories/Article/Article/3663799/us-can-respond-decisively-to-cyber-threat-posed-by-china/

サイバースパイ・サーバー攻撃法案の立法事実への批判

2025年3月5日 不正確な記述を修正しました。まだ不十分な記述があり、改訂を予定しています。

目次

1. 立法事実の問題点

本稿では、今国会に上程されているサイバースパイ・サイバー攻撃法案1として新規の立法と既存の法律の改正を必要とする事態そのものについて、政府側が提出した資料などを基にして、データの呈示方法の(作為的とも思える)間違いや、事実認識の誤りを指摘し、立法事実に重大な誤りがあることを指摘する。

1.1. サイバー攻撃の深刻度のデータについて

法案について内閣官房サイバー安全保障体制整備準備室が作成した説明文書2のなかの「検討の背景」説明として、以下のスライドが掲載されている。3

この左の棒グラフは、「サイバー攻撃関連通信や被害の量」と題されており、国の情報通信研究機構サイバーセキュリティ研究所サイバーセキュリティネクサスNICTERが観測した「サイバー攻撃関連通信数の推移」という副題が付されている。数値は「年々増加」しており2023年には「各IPアドレスに約14秒1回の攻撃試み」という吹き出しの赤字の文字が目立つように配置されている。この棒グラフの縦軸には億パケットを単位として2023年には6197億パケット(パケットは通信データの単位)がサイバー攻撃関連通信であるという表示になっている。この説明資料は国会議員にも配布されており、また一般にも公開されている法案の政府による説明文書としては最もよく参照されるもののひとつだろうと推測される。

このグラフにはいくつか疑問がある。

第一に、「各IPアドレスに約14秒に1回の攻撃」という表現は、「サイバー攻撃」について専門的な知識のない議員や一般の市民からすると、あたかも14秒に1回ミサイル攻撃を受けているかのような誤った印象を与える巧妙な記述だ。23年のNICTER報告書では「2023 年は 1 IP アドレスあたりで約 226 万のパケットが観測されました」とあるが、法案説明文章のような各IPアドレスあたりで何秒に一回の攻撃があったのかを算出していない。単純に1IPアドレス当たり攻撃数などとすることはできないか、意味のある数値ではないからだろう。情報通信ネットワーク上にあるIPアドレスと接続されているコンピュータや通信機器(以下デバイスとも呼ぶ)の数は同じではなく、各デバイスが「14秒に1回」攻撃されているというようには単純に計算できないと思う。「14秒に1回」を強調した説明文書では、あえて日本国内にある通信デバイスの数とIPアドレス数などデータの基準を明示せずに、攻撃の頻度だけを強調した。私は、こうした記述は意図的に攻撃への不安感を煽りサイバー攻撃=ミサイル攻撃のような間違った印象を与えることをあえて意図した表現ではないか、と疑っている。

第二に、以下でみるように「攻撃」という言葉にもごまかしがある。 上の左グラフのタイトルはサイバー攻撃関連通信などと書かれているが、出典となっているNICTの報告書4では「年間総観測パケット数の統計」と記載されている。(下表は報告書の該当データのスクリーンショット)

この表と法案の説明文書の棒グラフとは数値が一致する。NICTERの表には「年間総観測パケット数の統計」とあり「サイバー攻撃」とは明記されていない。ここでいう調査は、NICTERによるダークネット観測に基づいて把握されたものである。説明文書にある棒グラフの数値、2023年では6316億パケットについては、その内訳が以下のように分けられるとの解説がある。

  • 既知組織の調査スキャン:大学や調査機関などの調査・研究目的 全体の29.6%5
  • 未知組織の調査スキャン: 上記以外のサイバー攻撃とは関係がないと思われるパケット 全体の30.6% 6

これら二つがサイバー攻撃とは関係ないパケットとみられるもので全体の60.2%を占める。つまり、ダークネットの年間総観測パケット数全体のうちサイバー攻撃に関係する可能性があるのは4割ほどになる。ところが、法案の説明文書はこのパケット数すべてを「サイバー攻撃関連通信」と呼んだ。

なぜこのような明らかに誤解を招くようなデータの読み替えをしたのだろうか。原因は二つあると思う。ひとつは、NICTがそもそもダークネットをサイバー攻撃に関連するデータ収集の場所として選んだ前提に、ダークネットがサイバー攻撃に利用されていることから、ダークネットにおける通信量の増加がサイバー攻撃の増加の指標になる、という仮定を置いていることによる。これが安直にダークネット=サイバー犯罪というような誤読を招いたのかもしれない。

もうひとつの推測できる理由は、この説明文書の棒グラフは、NICTのオリジナルの報告書から作成されたものではなく、総務省の「情報通信白書」からの孫引きで作成されたのではないか、ということだ。白書も棒グラフで表示されており表題も「NICTERにおけるサイバー攻撃関連の通信数の推移」7とある。

白書本文では「国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)が運用している大規模サイバー攻撃観測網(NICTER)のダークネット観測で確認された2023年の総観測」といった表現になっており、この白書がサイバー攻撃とダークネットをほぼ同じものと誤解している可能性がある。

ダークネット自身は、犯罪者のネットを意味するものではないが、名前がダークとあるために非合法の地下ネットのような印象で受けとられやすいかもしれない。また定義によって意味内容に若干の違いもありそうだ。8匿名性が高いので、プライバシーに配慮する人たちや政府によるネットへの規制や弾圧が世界的にも増える傾向にあることを考えれば犯罪目的以外で利用する人たちが増えるのは当然のことであり、この点への配慮を十分にすべきだ。敢えて言葉の正確な定義を与えずに、こうした印象を政府側は巧妙に世論操作の手段に使っていると批判されかねないものだ。9

もし私のこの解釈が正しければ説明文書のデータの表題をはじめとする一連の指摘は全て削除して正確に書き直す必要がある。このままでは著しい誤解を国会の審議に与えかねない。敢て「偽情報」の類とまでは言わないが、そう言いたくなる類いの悪意を感じてしまう。しかし、NICTERの報告書を読めば誰でもわかることなので、このようなデータの悪用はあまりに杜撰すぎるので、私の理解が間違っている可能性がある。他の方達にもぜひきちんと確認をしてもらえると有り難い。

1.2. 実際の被害件数とその原因

では、サイバー攻撃の実際の被害状況はどうなのか。14秒に1回のミサイル攻撃でもあるかのような不安感情に見合う実態があるのか。IPAの「コンピュータウイルス・不正アクセスの届出状況2024 年(1 月~12 月)」10の報告書によると以下のような実被害が報告されている。

  • ウィルス感染:2024年のデータでは、ウイルス届出 260 件の届出。ウイルス感染被害(実被害)15 件(ウイルス等検出数 215662)
  • 不正アクセス: 2024年の不正アクセス届出は、166 件。23年の243 件より 77 件(約 31.7%)少ない。実被害があった届出は 132 件(全体の約 79.5%)。

日本ネットワークセキュリティ協会「インシデント損害額調査レポート」 の別のデータ11でみても、サイバー攻撃として公表されている件数は2021年で328件(2022年は推計でこの倍以上と予測)となっている。億単位の攻撃という数字から受け取る印象とは非常に異なったものだ。(下図はレポートからのキャプチャ)

ただし、これらは届け出の件数であって、実際に感染したホスト数はこの数字よりもずっと多くなる。詳細はNICTERの報告書に詳しい。サイバー攻撃やその被害については、かなり複雑な事象であり、私は技術者ではないので、分析と判断には限界もあり、本稿ではその一部について、とくに法案の説明文書への疑問点という観点からのみ言及したものであり、サイバー攻撃の全体像を把握する上では十分なものではない。

法案の説明文書では、攻撃の数値だけが示されるので、あたかも攻撃=攻撃の成功=被害の発生というように推測されてしまう。しかし、法案説明文書で攻撃として数値化されているものは明示されていても、攻撃を防御したケースについての数値が示されていない。なぜ示さないのだろうか。法案の立法事実との関連でいえば、攻撃に対してほとんど防御ができておらず、現状では対処が極めて困難であることを説明できてはじめて立法措置の理由を説明したことになる。しかし、こうした防御のデータはまったくといっていいほど示されていない。

独立行政法人情報処理推進機構(IPA)による不正アクセスの原因別のデータは以下のようになっている。

原因の多くは、被害を受けた側が適切なセキュリティ対策の基本的な措置をとっていなかったために被害が現実のものになったケースが目立つ。当事者がシステムをきちんとバージョンアップする、修正プログラムを適用する、セキュリティの設定を正しく行なう、パスワード設定の基本を守る、などということができてれば防げるケースが多くあると思われる。この点について、法案の説明文書ではほとんど言及がない。

1.3. 民間と自治体の被害の具体例からわかること

JNSAの損害調査レポートでは実害にあった民間企業へのアンケート調査がある。このなかには以下のような感想が書かれている。(アルファベットの会社名は筆者が便宜上追加した)

(A社) 実はVPN機器の保守サービスを途中解約してしまったことに起因している。目先の利益に捉われ、セキュリティ対策にかけるコストを削った場合のリスクについて想定が十分でなかった。指揮官がいないのもそういうジャッジになった。

-—

(B社) 本件インシデント発生以降、専門組織が設置されるなど、セキュリティ対策の重要性を鑑みた対応が継続されているが、インシデント発生を契機とするものではなく、平常時においても経営者等が関心を持ったうえで各種対応が図られるような啓発活 動の必要性を実感。

-—

(C社) うちは大丈夫という思いが少なからずあった。しかし、被害に遭ってしまうと対応も大変で精神的な苦痛も大きいので、今後はセキュリティ対策のしっかりしたサービスへの変更ほか、サイバー保険も検討したい。 (対応完了後、セキュリティ対策 の強化を実施し、サイバー保険にも加入)

また、2024年に公表された民間のセキュリティ企業ACTの報告書「官公庁・自治体で実際に起きたサイバー攻撃・インシデント事例」12では以下の具体的な事例(サイトからキャプチャ)が示されている。

この表の概要をみても、インシデントの多くが、組織内の人的なミスなどに原因があるものであり、組織が警察や自衛隊などの助けを借りずにセキュリティ対策をとりことができるものばかりだ。

上記でみたように、不正アクセスやは当事者のセキュリティ対策によって防御できている。警察や自衛隊が、当事者になりかわって、たとえばバージョンアップをしたりパスワードを設定するなどの作業を代行することは技術的にもできないし、プライバシーや通信の秘密の観点からもすべきではない。本法案においてもそのような対処は想定されていない。

つまり、法案が成立しても、被害への対処はネットを利用する当事者が自ら行なうことに変わりはなく、警察も自衛隊も被害者に代わってセキュリティ対策の主体になることはできない。しかし、あたかも法案が成立すれば警察や自衛隊がサイバー攻撃の被害を解決してくれるかのような印象操作が行なわれているように感じる。

1.4. 地政学的脅威について

本法案では、警察と自衛隊が一体となって行動できる組織体制を構築すること、また脅威の大部分が国外に原因があるものとしていることなどから、いわゆる国家あるいは国家を後ろ盾としたアクターを主に念頭に置いている側面がある。立法事実としてこうした国家関連アクターはどれほど深刻といえるのか。

IPAが毎年公表している10大脅威のランキング13では、2025年に、はじめて「地政学的リスクに起因するサイバー攻撃」が7位にランキングされた。このランキングは客観的なデータに基くものではなく、「情報セキュリティ専門家を中心に構成する『10 大脅威選考会』の協力により、2024 年に発生したセキュリティ事故や攻撃の状況等から脅威を選出し、投票により順位付け」したものだ。主観的な評価であることもまたサイバー領域の現状を把握する上で重要である。以下はランキング表(画面キャプチャ)である。

とはいえこのランキングは、攻撃の動機に基づくもの、システムの脆弱性を原因とするもの、攻撃手法に基づくものなどが混在しており一貫性に欠けるように思う。この地政学的サイバー攻撃にはランサム攻撃やDDoD攻撃など他でランクインしている攻撃も含まれており、他のランキングと重複するようにもみえる。ランキングの組み立てそのものがわかりづらいが、このレポートに挙げられている「対応と対策」14は、そのほとんどが標的となった組織が対処可能なことがらであり、警察あるいは自衛隊が対処しなければならないような事態とはいえない。唯一可能性があるのはいわゆるLiving off the Landと呼ばれて発見が難しいとされるケース(Volt Typhonnが例示されることが多い)かもしれないが、これもまたサポート期間が終了したデバイスを使い続けた結果であって、セキュリティの基本をきちんと遵守していればほぼ防御可能ともいえる。15

2. 立法事実は改変されたり意図的に誇張されており、現実問題としては立法事実は存在しないといっていい

以上のように、政府の法案説明の文書に掲載されているサイバー攻撃の事実関係のデータについては、攻撃数そのものが水増しされており、あたかも14秒に1回は攻撃の被害を受けているような印象を与えているが、実際に攻撃の被害を受けた数は、これよりも極めて少ない数字である。

しかも、実害を受けたケースの大半は、常識とされているセキュリティ対策をほどこしていれば回避できたケースが極めて多い。

以上を総合的にみたばあい、本法案についての立法事実は極めて希薄であって、立法を必要とする切実な状況は存在しない。

むしろこの法案の目的は、国家安全保障上の要請として、防衛や治安維持という観点から警察や自衛隊のサイバー領域における行動範囲の拡大を狙うものであって、私たちのネットのセキュリティに寄与するものではない。

逆に、サイバー攻撃の現実は存在し、私たちもまた被害に遭遇もする。多くのサイバーセキュリティの専門家のアドバイスでは、私たち自身のセキュリティ対策にはすべきことができていないという極めて基本的な対応ミスが指摘される場合が多く、警察や自衛隊に委ねるべき事案はほとんどみあたらない。「攻撃」という恐しげな言葉に不安を煽られる以前に、セキュリティの基本をきちんと確保するような取り組みを市民や民間の企業、団体がみずから実践することが何よりも大切であり、唯一の解決策でもある。逆に、こうしたセキュリティを国家安全保障を口実に警察や自衛隊に委ねて(そうすればセキュリティの経費を節約できると勘違いする経営者もいそうだ)自分たちでできるはずのことまで自ら断念してしまうことによって、リスクを高めてしまう可能性がある。こうした権力頼みが文化になると、コミュニケーションの権利は自分たちで闘いとり守るのだ、という民衆のサイバーセキュリティへの関心すら希薄化させてしまう恐れがある。政府がすべきことは地政学的な脅威を煽るようなサイバー攻撃に前のめりになるサイバー安全保障から方針を転換することだ。これこそが、基本的人権の保障を基盤とする安全の保障につながる。

Footnotes:

1

重要電子計算機に対する不正な行為による被害の防止に関する法律案および重要電子計算機に対する不正な行為による被害の防止に関する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律案である。

この長い名前について、反対運動の側でも通称名の合意がない。ここでは「サイバースパイ・サイバー攻撃法案」(あるいはサイバースパイ・攻撃法案)と呼ぶ。理由は、本法案の目的が、サイバー領域における違法な侵入行為(サイバースパイ)を合法化すること、及び違法なコンピュータのプログラム等の破壊行為(サイバー攻撃)を国の機関に限って合法化することにあることによる。

2

https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/cyber_anzen_hosyo_torikumi/pdf/setsumei.pdf

3

法案提出理由は以下である。

 インターネットその他の高度情報通信ネットワークの整備、情報通信技術の活用の進展、国際情勢の複雑化等に伴い、そのサイバーセキュリティが害された場合に国家及び国民の安全を害し、又は国民生活若しくは経済活動に多大な影響を及ぼすおそれのある国等の重要な電子計算機のサイバーセキュリティを確保する重要性が増大していることに鑑み、重要電子計算機に対する不正な行為による被害の防止を図るため、重要電子計算機に対する特定不正行為による被害の防止のための基本的な方針の策定、特別社会基盤事業者による特定侵害事象等の報告の制度、重要電子計算機に対する国外通信特定不正行為による被害の防止のための通信情報の取得、当該通信情報の取扱いに関するサイバー通信情報監理委員会による審査及び検査、当該通信情報等を分析した結果の提供等について定める必要がある。これが、この法律案を提出する理由である。https://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_gian.nsf/html/gian/honbun/houan/g21709004.htm

4

file:///home/toshi/%E3%83%80%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%89/NICTER_report_2024.pdf

5

大量のパケットを送信する IP アドレスについては例年 通り,DNS の逆引き,Whois 情報,AS 情報等に加えて, GreyNoise [1] ,SANS Internet Storm Center [2] 等のセ キュリティ関連組織が公開する情報を参照しつつ,その 送信元の組織を調査しました.大学や調査機関等,調査 や研究を目的としてスキャンを行っていることが明らか で,スキャン元の IP アドレスが公開されている,あるい は,送信元 IP アドレスの逆引き等で送信元の組織を確認 できる場合に,この IP アドレスからのパケットを調査目 的のスキャン(以降「既知組織の調査スキャン」と呼ぶ) と判定しました.その結果,2024 年は 1.5 万の IP アド レスからの約 2,029 億パケットが既知組織の調査スキャ ンとして判定されました.これは 2024 年に観測された全 パケット数の約 29.6% にあたります.

6

送信元の組織を特定できないものの,調査目 的と思われるパケットが 2018 年以降多く観測されてい ます.これらのパケットは攻撃の傾向を分析する際のノ イズとなるため,昨年までと同様に一定の判定ルール*7を 設けて,送信元の組織を特定できない調査目的のスキャ ン(以降「未知組織の調査スキャン」と呼ぶ)の判定と除 去を行いました.その結果,4,570 の IP アドレスからの 約 2,102 億パケットが未知組織の調査スキャンとして判 定されました.これは 2024 年に観測された全パケット数 の約 30.6% にあたります.

7

情報通信白書2024年。https://www.soumu.go.jp/johotsusintokei/whitepaper/ja/r06/html/nd21a210.html

8

ダークネット:知られざるインターネットの深層 https://secure.stylemap.co.jp/network/darknet-unveiling-the-hidden-depths-of-the-internet/

9

ダークネットについては以下の記事を参照。Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88 Andreas Zaunseder,”The darknet is not a hellhole, it’s an answer to internet privacy,” https://theconversation.com/the-darknet-is-not-a-hellhole-its-an-answer-to-internet-privacy-101420

10

https://www.ipa.go.jp/security/todokede/crack-virus/ug65p9000000nnpa-att/2024-report.pdf

11

サイバー攻撃に関する被害の公表または報道等がなされた国内の約1,300組織の調査 https://www.jnsa.org/result/incidentdamage/data/2024-2.pdf

12

「官公庁・自治体で発生したサイバー攻撃/インシデント事例とその原因」 https://act1.co.jp/column/0095-2/

13

https://www.ipa.go.jp/security/10threats/10threats2025.html 報告本文 https://www.ipa.go.jp/security/10threats/eid2eo0000005231-att/kaisetsu_2025_soshiki.pdf

14

「対策と対応」として挙げられている項目は下記である。
組織(経営者層)
● 組織としての体制の確立 ・地政学的リスクにおける情報収集をする ・自社事業に関する地政学的リスクの影響調査 ・インシデント対応体制を整備する組織(システム管理者)

● DDoS への対策 「8 位 分散型サービス妨害攻撃(DDoS 攻撃)」の「対策と対応」を参照すること。

● 被害の予防および被害に備えた対策 ・インシデント対応体制を整備する ・多要素認証等の強い認証方式の利用 ・サーバーや PC、ネットワークに適切なセキュリティ対策を行う ・Web サイト停止時のマニュアル作成、代替サーバーの用意、および告知手段の整備 ・適切なバックアップを行う

●被害に遭った後の対応 ・適切な報告/連絡/相談を行う ・インシデント対応を行う ・Web サイトの停止および代替サーバーの稼働と告知 ・バックアップからのリストアを行う

組織(従業員)
● 被害の予防および被害に備えた対策 ・パスワードの適切な運用を実施する。 ・添付ファイルの開封やリンク・URL のクリックを安易にしない ・サーバーや PC、ネットワークに適切なセキュリティ対策を行う ・組織外で開発されたプログラムは、業務端末ではない仮想環境等で開く

● 被害の早期検知 ・不審なログイン履歴の確認

● 被害に遭った後の対策 ・適切な報告/連絡/相談を行う ・インシデント対応をする

15

内閣官房内閣サイバーセキュリティセンター「Living Off The Land 戦術等を含む最近のサイバー攻撃に関する注意喚起」https://www.nisc.go.jp/pdf/news/press/240625NISC_press.pdf ただしこの注意喚起には具体的な対策などの記述はなく、下記を参照するようにとの注記がある。JPCERT/CC「Operation Blotless攻撃キャンペーンに関する注意喚起」https://www.jpcert.or.jp/at/2024/at240013.html

サイバー領域におけるスパイ行為――サイバー安保法案批判として

2025年3月3日 「情報収集の対象が国外であることの意味」の節を追加しました。

Table of Contents

1. はじめに

一般にメディアなどでは能動的サイバー防御法案などと呼ばれることが多い今国会に提出された法案の正式名称は、「重要電子計算機に対する不正な行為による被害の防止に関する法律案 及び重要電子計算機に対する不正な行為による被害の防止に関する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律案」1と長い。以下、これをサイバー安保法案と呼ぶことにする。この法案には、新規の法案と、従来の法律に大幅な修正を加える「整備法」と呼ばれる部分に分けられる。

法案の前提になっているのは、2023年12月に閣議決定された「国家安全保障戦略」など安保3文書2と昨年11月に有識者会議がとりまとめた「サイバー安全保障分野での対応能力の向上に向けた提言」である。3 これらについては既に何度か批判的な言及をしてきている4ので、本稿では、これまでほとんど言及していないが、重要と思われる論点のひとつとして、今回の法案が日本によるスパイ活動の合法化につながるのではないか、という懸念に関連する問題を取り上げる。

法案の背景説明として政府は、以下の論点を挙げている。5

  • サイバー攻撃が巧妙・深刻化し、サイバー攻撃関連通信数点被害数が増加傾向にあることからサイバー攻撃の脅威は増⼤していること
  • 2024年中に観測されたサイバー関連攻撃の通信の99%以上が海外から発信
  • 欧米諸国(米国、英国、オーストラリア、EU、ドイツなど)が官民連携、通信情報の利用の法制度を有していること
  • アクセス無害化もすでに実行されている(米国、カナダ、英国、オーストラリア)

こうした背景から今回の法案の必要が主張されている。

今国会に提出されたサイバー安保法案6 については、すでに様々な論評が出されており、今後も法律の専門家などからの批判も相次ぐだろう。本稿では、この法案を念頭に置きながらもピンポイントにサイバースパイという論点に絞って「サイバー安保」の問題を考えてみたい。したがって、法案の4章と6章に該当する部分に焦点を当てることになる。7 法案では、日本へのサイバー攻撃の実態把握のために、国外および国内と国外を繋ぐ通信情報を利用・分析することができるとしているが、これには「無害化」などサイバー攻撃(能動的サイバー防御)を可能にするための前段階としてのサイバースパイ行為や、「無害化」とは関係しない可能性のある広範囲にわたる情報収集行為としてのサイバー領域におけるスパイ行為に該当するものが含まれる点に注目したい。

法案の第4章では「内閣総理大臣は、国外の攻撃インフラ等の実態把握のため必要があると認める場合には、独立機関の承認を受け、通信情報を取得」として、これを合法化する。これは、外国での通信、いわゆる「外外通信」に対して、従来であれば不正アクセスなどとして犯罪化されていた行為を自衛隊や警察およびこれらと協力する民間が行なう場合には合法化するものと解釈できる。第6章では「内閣総理大臣は、国内へのサイバー攻撃の実態把握のため、特定の外国設備との通信等を分析する必要があると認める場合には、独立機関の承認を受け、通信情報を取得」を合法化する。これはいわゆる国外と国内を繋ぐ通信、いわゆる「外内通信」および「内外通信」を標的にするものであり、これもまた不正アクセスの合法化である。

こうした政府機関などによる通信へのアクセスは、たとえ公共の福祉を理由とする場合であっても憲法21条違反であると私は理解している。しかし政府は、そうは理解していないと思う。メタデータであっても、その収集は通信の秘密の侵害だと私は考えるが、政府は公共の福祉を口実に、その収集を正当化するだろう。8通信のコンテンツについても同様だ。こうした議論は本稿では踏み込まない。

2. 提言・法案における情報収集の意図

法案の前提となった有識者会議の「提言」では、情報収集について次のように述べている。

今般実現されるべき通信情報の利用は、重大なサイバー攻撃による被害を未然に防ぐため、また、被害が生じようとしている場合に即時に対応するため、具体的な攻撃が顕在化する前、すなわち前提となる犯罪事実がない段階から行われる必要がある。

従って「これまで我が国では存在しない新たな制度による通信情報の利用が必要」だと強調し、これが今度の法案につながることになる。盗聴法(通信傍受法9)が対象としているのは、特定の既遂の犯罪を対象にして捜査機関が裁判所の令状を取得して行なう行為になる。本法案における情報収集は、一面では盗聴という行為そのものについては共通するところがあるが、本法案の最も重要な意図は、犯罪が行なわれる前であっても、通信を「盗聴」可能にすること、しかも、その対象犯罪を限定するのではなく、いわゆる重要インフラに対する脅威がありうるという漠然とした要件だけで通信の情報収集を可能にするという点にある。そして更に次のようにその必要性を強調している。

「先進主要国の状況を踏まえると、我が国でも、重大なサイバー攻撃への対策(以下「重大サイバー攻撃対策」という。)のため、一定の条件の下での通信情報の利用を検討することが必要である。また検討に当たっては、安全保障の観点から、海外に依存することなく日本独自の情報収集が必要と考えられることに留意すべきである。他方で国際的な観点からも、先進主要国と連携しながら通信情報を利用することで日本は大きな役割を果たせると考えられるものであり、日本が重大サイバー攻撃対策の能力を高めることは、国際的にも要請されていると言えると考えられる。」

上の引用にある「通信情報の利用」とは、これまでの日本の法律では違法とされるような通信の秘密に該当する通信情報を政府の関係機関(警察や自衛隊など)が利用できるようにすることを意味している。「日本独自の情報収集」には二つの意味がある。ひとつは、主に米国の諜報機関に依存した情報収集の限界を暗に示し、独自の情報収集能力を強化する必要である。もうひとつは、日本が独自の情報収集能力を持つことが同盟国などからの国際的な要請として期待されている、という点だ。たぶん、現状の法制度の枠組では、日本の自衛隊が実空間における戦力として同盟国と同等の立場をとることが憲法上の制約から難しいことが前提としてあるなかで、サイバー領域における情報収集活動と、これと連動したサイバー攻撃であれば憲法の縛りが回避できる領域でもあるという判断があるかもしれない。陸海空の現実空間で自衛隊が海外に派兵される場合であれば、大きな議論になり反対運動にも直面するが、サイバー領域での遠隔地からの行動であれば、日本であってもかなりの自由がありうる、という認識が外国にもあるのかもしれない。これが「日本は大きな役割を果たせる」とか「国際的にも要請されている」といった提言の文言に象徴的に示されているように思う。

しかし、サイバー空間における日本の軍事安全保障に関わる行動を軽視するべきではなく、むしろ反戦平和運動が十分に注目できてこなかったし実感することもできず、なおかつ、多くの活動家にとっては既存のノウハウを活用することも難しい領域であるところを政府は見透し、サイバー領域を日本の軍事安全保障再構築の突破口にできると見込んでいるようにも思う。しかも、実際には、平時と思われている状況のなかでネットワークを介しての攻撃が常態化しているために、これを立法事実として利用しやすい環境にあることは事実だ。これは日本側の政府やメディアの報道では、もっぱら中国やロシア、朝鮮などの行為として日本=被害者として報じられるが、米国なども、具体的にどのような行動をとっているかは秘匿されているが、同様のサイバー攻撃を行なっていることは米国自身も隠していない。

3. 令状主義を否定するサイバー通信情報監理委員会の新設

法案では、サイバー通信情報監理委員会が新たに設置されることになっている。なぜ裁判所の令状による制度を採用しないのか。「提言」は以下のように述べている。

今般実現されるべき通信情報の利用は、重大なサイバー攻撃による被害を未然に防ぐため、また、被害が生じようとしている場合に即時に対応するため、具体的な攻撃が顕在化する前、すなわち前提となる犯罪事実がない段階から行われる必要がある。したがって、通信情報を取得しようとする時点では、いかなる具体的態様でサイバー攻撃が発生するかを予測することはできず、あらかじめそのサイバー攻撃に関係する通信手段、内容等を特定することは通常は困難であるから、犯罪捜査とは異なる形で通信情報を取得し利用する必要があり、被害の防止と通信の秘密の保護という両方の目的を適切に果たすためには、これまで我が国では存在しない新たな制度による通信情報の利用が必要とされると考えられる。

強制捜査は、人権を一定程度例外的に抑制して、私たちの自由や財産権を制限することになるので、捜査機関は強制捜査を必要とするに足る証拠を裁判所に提出し、この証拠に基いて裁判所が令状を発付することになる。この一連の過程が、本法案が想定している事態では成立しない状況が想定されている。つまり、法案が対象としている通信情報の状況とは、

  • 犯罪事実がない
  • 具体的な攻撃が顕在化していない
  • 具体的にどのようなサイバー攻撃が発生するか予測できない
  • サイバー攻撃に関係する通信手段、内容等の特定が困難

である。こうした前提で、法案では、情報収集の強制捜査を行なう必要がある、という理屈になっている。

同時に、強調されているのは、「被害が生じようとしている場合に即時に対応するため」という文言にあるように、迅速性である。裁判所の令状発付では対処が遅くなる、ということが前提になっている。上記のような前提のなかでサイバー通信情報監理委員会が公正な判断を下せる余地はないと思う。

提言の主張を法案は、法制度の体裁を整えているので、より縛りが厳しいかのような文言になっているが、実際の運用は提言が目指した線になると思う。つまり、ほぼ制約なしに通信を常時大規模に監視する体制をとる、ということだ。この法案が成立すれば、法制度上は大規模監視は可能になる。どれほどの規模で可能になるのかは、警察や自衛隊の諜報に関する技術と民間通信事業者やセキュリティ企業などの協力にかかってくる。これが法案の官民連携に関する部分になる。そして本稿では十分に言及できないが、捜査機関等が取得する通信情報の暗号化の状況が重要な鍵を握ることにもなる。日本政府が米英などの政府とともに長年画策してきた暗号利用の弱体化が制度化される危険性にはもっと注目しておく必要がある。10

こうした前提のなかでサイバー通信情報監理委員会が強制捜査、つまりネットワークへの侵入行為の可否を判断するということになる。結果として監理委員会は、かなり幅広くネットワークへの侵入を許可することにならざるをえないだろう。令状主義11が形骸化していることはよく知られているが、それだけでなく、監理委員会制度は、警察などの強制捜査へのチェックを骨抜きしつつ対外的にはあたかも第三者(?)のチェックが働いているかのような体裁がつくろわれることになる。とりわけ外外通信は、日本の有権者にとって直接の利害がないかのようにみえるために、外国の通信なら――ましてや中国やロシアや朝鮮なら当然のこと――スパイしてもよいのではないか、外国の諜報機関でもやっていることだから、日本でできないのはおかしい、などという意見が出やすい。こうした意見が排外主義と憎悪を扇動する世論形成につながってゆく。

4. 情報収集の対象が国外であることの意味

法案そのものでは、情報収集についてどのように記載されているのだろうか。

法案では、情報収集活動については、新法4章と6章に記載がある。4章は送受信がともに国外であり、日本国内を経由する「外外通信送信目的措置」を規定して以下のような記述になっている。

第十七条 内閣総理大臣は、外外通信…であって、重要電子計算機に対する国外通信特定不正行為のうちその実行のために用いられる電子計算機、当該電子計算機に動作をさせるために用いられる指令情報その他の当該国外通信特定不正行為に関する実態が明らかでないために当該国外通信特定不正行為による重要電子計算機の被害を防止することが著しく困難であり、かつ、この項の規定による措置以外の方法によっては当該実態の把握が著しく困難であるものに関係するものが、特定の国外関係電気通信設備…を用いて提供される事業電気通信役務が媒介する国外関係通信に含まれると疑うに足りる場合において、必要と認めるときは、当該国外通信特定不正行為に関する第二十二条第二項に規定する選別の条件を定めるための基準…を定め、サイバー通信情報監理委員会の承認を受けて、当該国外関係通信により送受信が行われる媒介中通信情報…の一部…が複製され、内閣総理大臣の設置する設備…に送信されるようにするための措置…を講ずることができる。

上記では「実態の把握」が主目的とされており、これは情報収集行為になり、しかも、ここでは相手国のコンピュータ等への侵入については、当事国の国内法上の手続きを無視しており、同意によらない通信情報の収集である。これらは国際法上のスパイの定義に該当する行為になる。

興味深いのは、不正行為の実態が明かではないが不正行為がありうるという推測が可能な場合を想定している。この想定は、サイバー領域における技術的な手段だけで判断できる場合だけとは思われない。いわゆる地政学的な背景や国家安全保障の戦略的な要請から判断されるとみていいだろう。

送受信の一方が国内の場合は「外内通信」あるいは「内外通信」と呼ばれて、第32条、33条に規定がある。いずれも「外外通信」とほぼ同じ規定である。法案は「内内通信」は対象になっておらず、「国内通信特定不正行為」も対象ではない。純粋に国内を対象としたスパイ活動は、一般にどこの国にあっても原則認めていない。日本の場合、純粋に国内の通信を標的とした情報収集を行なうことになれば憲法の「通信の秘密」の侵害が甚大であり違憲であることは明白だから、法案に盛り込まなかったのだろうか。それとも盗聴法の拡充などで対処可能とみて今回は見送ったのだろうか。12

もうひとつの論点として、法案が定めている情報収集期間が半年と非常に長い点もスパイ活動を想定している理由になる。新法17条3項で「外外通信目的送信措置を講ずることができる期間…は、六月とする」としている。内外通信、外内通信の場合は3ヶ月である。いずれも延長が可能だ。これは、サイバー攻撃がかなり切迫した段階での情報収集とは考えられず、むしろ常時情報収集を行なうことを前提としているとみていい。この点からも情報収集に力点が置かれており、本法案がスパイ法案であることを裏づけるものだ。

5. 諸外国の法制度とは情報機関関連の法制度だ

法案の説明文書や提言などで繰り返し言及されている諸外国の制度について、簡単にみておこう。

日本政府が肯定的に参照している諸外国の法制度は、これまでも繰り返しその人権侵害的な制度であるとして批判されてきたものだ。たとえば、

  • 英国・調査権限法 JCA-NETも署名した国際声明「英国政府によるエンド・ツー・エンド暗号化を標的とした捜査権限法の使用に関する共同書簡」では、調査権限法によるAPPLEへのユーザー監視命令が大問題になった。13調査権限法は、EU司法裁判所からEU法違反と判決された。14また、プライバシー・インターナショナルからの批判15など人権団体からも批判されてきた。
  • 米国・外国情報監視法(FISA)16 国外にいる外国人のみを標的にして令状なしでの情報収集を認めたものだが、実際には米国人への監視ツールとして利用されてきた。人権団体が繰り返し違憲として提訴。17令状なしの情報収集を違憲とする判決もでている。バイデン政権は、FISAをはじめとする監視法制の改悪を繰り返してもいる。
  • ドイツ・連邦情報局法 米国のNSAに情報を提供していたことで批判される。2020年段階で以下のように指摘されている「BNDは、他のシークレットサービスと同様に、フランクフルト/マインにあるDe-Cixのようなインターネットノードで大量のトラフィックデータを迂回させることで、オンライントラフィックを監視している。BNDは1日に最大1兆2000億の接続を分岐させることができる。そしてBNDは、電子メールアドレスや電話番号、デバイス番号など、いわゆるセレクタの助けを借りて、得られたデータを検索する。」18 ドイツの最高裁判所はBNDがドイツ国外で外国人の通信を盗聴することを認める法律違憲と判決している。19

このように、法案が前提としている諸外国の法制度は、諜報機関に関連する法制度であって、到底私たちが納得できる枠組とはなっていない。特に注目すべきこととして、いずれの国においても、見た目の制度ではある程度プライバシーに配慮しているような文言で飾られていても、実際の運用は、法を容易に逸脱したものになっており、これを押し止めるには、この運用実体を突き止め証拠を集め裁判で勝利して、やっと司法の判断としての歯止めへの可能性が開かれ、そこから更に実際の法制度の修正へと向うことが可能になる。

もうひとつの注目点は、いずれの法制度も、自国民あるいは自国の領土内にいる人々と外国にいる人々などいくつもの区別を設けて、比較的広範囲に組織の裁量を大幅に認めた監視を合法とする枠組があることだ。多くの場合、自国民に対して自国の政府が憲法に保障されているプライバシーや通信の秘密を侵害するような法執行権力を行使することには批判が集中しやすく困難なために、もっぱら外国を標的とした情報収集を合法化する枠組を作ろうとする。そして、この枠組を巧妙に利用して自国民への監視にも転用しようとする。この意味で、ドイツ最高裁は外国にいる外国人対象の情報収集も違憲としたのは注目すべきことかもしれない。

日本の今回の法案も、通信を国境を越えるケースと日本国内で完結するケースに分けるなどで、あたかも日本国内の「国民」を標的にした通信の秘密への介入にはあたらないかの体裁を整えようと苦労している。今回は言及しないが、こうした区別はほどんど意味をもたないと思う。網羅的な情報収集は回避できないとみておく方がいい。

法案の背景説明で参照されている海外の法制度は、多かれ少なかれ国家の諜報機関に関わる制度である。諜報機関の活動は、例外的に、違法な情報収集を適法とする枠組を前提として活動する。日本には諸外国と同様の諜報機関が制度として明確にされておらず、国家による情報活動、つまりスパイ活動についても法的な枠組がないようにみえる。そのために、市民運動においても国会の議論においても、日本の政府による情報収集活動と法の枠組との関係が真剣に議論されてこなかったかもしれない。

6. 欧州のGDPRの歯止めがかからない領域

この問題の重要性は、国家安全保障に関する情報収集の場合は、一般の個人情報保護やプライバシーの権利の枠では対応できない領域に属する、ということがある。たとえば、日本でも評価が高い欧州の一般データ保護規則(GDPR)20ですら対処できていない領域になる。GDPR23条は、例外規定を定めている。

データの管理者若しくは処理者が服する EU 法又は加盟国の国内法は、その制限が基本的な権利及び自由の本質的部分を尊重するものであり、かつ、以下の対象を保護するために民主主義社会において必要かつ比例的な措置である場合、第 12 条から第 22 条に定める権利及び義務に対応するそれらの法律の条項範囲内で、立法措置によって、第 12 条から第 22 条及び第 34 条並びに第 5 条に定める義務及び権利の適用範囲を制限できる

個人情報の権利を制限することができる場合として、国家安全保障、防衛、公共の安全などを列挙しているのだが、「公共の安全への脅威からの保護及びその防止を含め、犯罪行為の防止、捜査、検知若しくは訴追又は刑罰の執行」も対象にされており、政府の政策によってはGDPRのこの例外条項が悪用される可能性があると思う。したがって、本法案が前提としている国家安全保障関連の事案という法の立て付けを前提にしたとき、EUのGDPRですら例外とせざるをえない領域になる。

民主主義を標榜するどこの国においても、国家安全保障は別枠とされて基本的人権や自由の権利を特別に規制し抑圧することを国家権力の正当な行使として認めている。国家安全保障と人権とは相反関係にあることを忘れてはならない。だから、今回の法案に関連して私たちが、立脚すべき観点は、

  • 国家安全保障を口実に人権保障を弱体化させるべきではない
  • 国民か国民ではない人か、あるいは領土内か外か、といった区別を否定し、人間としての普遍的な権利の平等を前提とする

という観点だろう。日本の野党も国家安全保障を否定するだけの度胸がない。しかし、私たち民衆の安全は国家によっては保障しえないことは、国家が引き起してきた紛争や戦争の経験から私たちはよく知っているはずのことだ。サイバーの領域も同様である。民衆のサイバーセキュリティを確立することこそが現在の「サイバー攻撃」の横行への唯一の回答になるべきものだと思う。

7. 法案の背景説明にある海外の「アクセス・無害化」事例について

法案の背景説明として、2024年中に観測されたサイバー関連攻撃の通信の99%以上が海外から発信である点が強調されている。21 つまり、攻撃元は海外にあり、この標的を日本側から「無害化」=攻撃する場合が中心になる。この場合、日本のどの組織がサイバー領域における海外での攻撃行為(無害化)の主体となりうるのかが問題になる。法案では、自衛隊と警察がおおむね並列されるようだが、いずれであれ、国外において、違法なアクセスとハッキング攻撃を行なうことなしには無害化はありえない。法案審議では、有権者を念頭において国内の「国民」のプライバシーなどに焦点があてられた議論になるかもしれないが、法が実際に目指しているのはむしろ国外の事例になる。そうなると「国外ならいいんじゃないの」という的外れなナショナリスト野党の声が聞こえてきそうだ。果してそうだろうか。

しかし法案説明の文書では、たった1行づつの記載だが、自国内での無害化のケースが例示されている。国内「無害化」の事例として、米国でのVolt Typhoon対策がとりがげられている。Volt Typhoonは最近起きた米国内の事件で、悪質なコードを組み込まれたルーターなどの機器が米国内に数千台の規模で存在したために、国内で無害化措置がとられた。22この措置にはFBIとNSA、つまり警察と国防総省の両方が関与している。Volt Typhoonは、「アメリカの民間重要インフラを標的にし、紛争が発生した場合にアメリカ市民や地域社会に実害をもたらすよう事前に準備」したものだと米国司法長官は判断している。23長期にわたり情報収集を目的に、ルーターなどの脆弱性を利用して潜伏していたプログラムとみられ、具体的な実害としてどのような攻撃があったかは不明だ。米国などはこれを中国によるものと判断しているが、中国側は否定している。24 法案の解説でこの事例が取り上げられているのは、FBIとNSAとの連携であること、実害はなくても無害化措置をとった事例であることなど、今回の法案が目指すシナリオにとってうってつけだったことがあるかもしれない。25

法案説明資料でこのケースが例示されている理由は、自国内でも実施できるということ、実害がなくても実行可能であること、警察と軍の諜報機関が連携しているなど、本法案が意図している場合に合致しているからだろう。しかし、不都合なことは説明文書には明記されていない。Volt Typhoonの無害化措置のために、裁判所の令状を取得して実行可能になったケースなのだ。この裁判所の許可には言及されていない。

もうひとつの事例として紹介されているのは、カナダのケースだ。こちらについては、「政府ネットワークからの情報窃取防⽌⽬的で、攻撃者の海外サーバに対する無害化措置」と紹介されている。このケースの詳細を私は把握できていない。カナダの通信セキュリティ局(Communications Security Establishment CSE)のウエッブでは「積極的サイバー作戦」として「カナダに対する外国の脅威の能力を混乱させるオンライン行動をとることができる」として、標的は、外国のテロリスト・グループ、外国のサイバー犯罪者、敵対的諜報機関、国家に支援されたハッカーであり、これらの集団のの通信デバイスを無効化することによって通信や攻撃計画を阻止することだとしている。26こうしたCSEの無害化措置を高く評価しているようにみえるが、実際には、CSEによる情報収集は長年にわたって秘密裡にしかも広範囲に行なわれてきており、その人権侵害が問題視されてきた側面は考慮されていない。27

8. サイバー領域におけるスパイ行為は武力行使全般への入口になる

政府側の法案の背景説明で参照されている海外の組織などから推測して、日本政府が海外の諜報機関の活動に特段の関心を寄せ、同種の活動を日本政府も実施可能な法制度を模索しているのではないかと私は推測している。

しかし、各国とも諜報活動の基盤には軍による活動があり、軍事安全保障との関連が制度化されていなければならないが、日本には軍法がないように、諸外国と同等の法的な基盤がない。にもかかわらず、強引にサイバースパイのための法制度を捩じ込む今回の法案は、日本の法体系と法の支配の下にある政府機関全体を大きく毀損することになる。

同時に、外国と日本国内の居住者との間の通信(外内通信、内外通信)のように一方が日本国内にある場合であっても情報収集の対象となることも問題だ。たぶん米国の愛国者法の制定にみられるように、対テロ戦争とグローバルなインターネットの仕組みを前提とした場合、もはや国内の住民と国外にいる敵対的なアクターとを区別すること自体が不可能になっており、結果として国内の人々への監視が正当化されてきた。今回の法案もこうした流れを受けて、内内通信のみをかろうじて対象にしていないような体裁をとっているが、実際にこの区別は意味をなさないと思われる。

諜報活動の法制度化、とりわけサイバー領域における諜報活動は、政府にとっては国家安全保障の軍事体制整備の突破口として格好の条件を備えている。諜報活動は、憲法9条の武力行使や武力の威嚇とはみなされないであろうということ、また日本の反戦平和運動が主要に関心を寄せている領域でもないだろう、ということがある。しかも、諜報活動の主要なターゲットは海外であり、多くの場合が外国の人々であるという口実によって、たとえ日本国内との通信であっても標的は外国であるかの体裁がとりやすく、「通信の秘密」侵害という批判をかわしやすい。こうして情報収集活動は、あたかも有権者の利害に直接関わらないという言い訳に騙されやすい。こうした状況から政府は、日本「国民」に対して憲法上の制約があるような通信の秘密やプライバシーに関しても、ある種の例外規定としてなら容認されやすいと踏んでいるのかもしれない。しかし、実際には、諸外国の例にあるように、いったん法整備が進めば、国籍とか居住地などとは無関係に、事案に応じて、すべての人々の全ての通信の秘密が侵害されるような仕組みが制度化される。このことは政府が参照している欧米諸国のいずれにおいても見られる問題として、どこの国でも、人権団体などが裁判も含めて強く批判してきた事柄である。

9. そもそもスパイとは

これまで定義もなくスパイという言葉を使ってきたが、定義をある程度確認しておこう。国際法上スパイを定義した最も古い条約がハーグ陸戦法規慣例条約(1910年発効)だとおもわれる。この条約にスパイ(間諜)について次のように規定されている。

第二章 間諜 第29条:交戦者の作戦地域内において、敵勢力に通諜する意志をもって、隠密に、または虚偽の申告の下に行動して、情報の蒐集をしようとする者を間諜とする。故に、変装せずに、軍人として情報収集の為、敵軍の作戦地域内に侵入した者は間諜と認めない。軍人であるか否かに係わらず、自軍または敵軍宛の通信を伝達する任務を公然と執行する者も間諜と認めない。 第30条:間諜の現行犯は裁判を経て罰しなければならない。 第31条:所属する軍勢に復帰後に捕らえられた間諜は、俘虜として取り扱い、復帰前の間諜行為を罪に問うことはできない。

スパイの要件は

  • 秘密または身元を偽って行動すること
  • 情報収集を目的とすること

である。この規定は非常に古いが、サイバー領域におけるスパイ活動についてもしばしば引用される。たとえば、NATOのTallin Manualのなかの「平時におけるサイバースパイ活動Cyber Espionage」におけるサイバースパイの定義は「サイバー能力を秘密裏に、または嘘の口実を使用して情報を収集する、または収集を試みる行為を指す」(ルール32)とあり、ハーグ陸戦慣例条約をそのまま踏襲している。

サイバースパイ行為をTallin Manualは三つの場面に分けている。

  • 物理層 製造過程でハードウェアにコードを挿入し、その後遠隔操作を可能にしたり、通信ケーブルを介して送信されるデータを傍受目的で特定の国にリダイレクトしたりする。
  • 論理層 脆弱性を利用する。通信を監視するように設計されたマルウェアによる悪用。
  • ソーシャル・エンジニアリング 人を騙してアクセスに必要な認証情報などを取得する。フィッシング、スピアフィッシング、およびホエーリングなど。

法案はこうした行為を具体的に特定しておらず、事実上どの手法を使うことも禁じていないともとれる。本法案との関連でいえば、本法案は

  • 外国において、秘密に、あるいは偽装して行動することを許すような規定があるか
  • 上記の条件のもとで秘密裡に情報収集を許す規定があるか

が鍵になる。たとえば、法案第四章「外外通信目的送信措置」で、国外にあるサーバーなどへの侵入による情報収集だろう。法案には、サーバーを設置している国への通知などの義務付けはないので秘密裡の行動ということになる。当然のこととして標的に感知されないようネットワークを管理しているシステムを何らかの方法で騙すことによって侵入を図ることになるが、これも禁じられていない。

例示されていたVolt Typhoonのような場合を念頭に置くとすると、日本国内においても警察などのハッキングや合法マルウェアなどスパイ活動を合法化する枠組が必要になるだろう。いわゆるおとり捜査の拡大傾向がすでにあるなかで、本法案はこの動きを加速化することになるかもしれない。

10. スパイ行為の国際法上の位置付け

他国において、その主権の範囲内で、その国の了解を得ることなく、事実上の違法行為を行なうことは、その国の法律に違反しているという意味では犯罪行為になる。しかし、だからといって国際法上も違法とはいえない、というのがスパイに関する国際法の主流の考え方のようだ。つまり、他国の領域内でのスパイ行為は国際法上禁じられていないという解釈が支配的だ。とはいえ、スパイ行為の手段によっては、国際法に違反する場合もありうるとしている。28

あるいは、ある国家の領域内のスパイが密かに標的とするコンピュータに物理的に接触してUSBを挿入してマルウェアなどをインストールする場合(いわゆる「接近型サイバー作戦」とも呼ばれる)が合法か違法かについても議論が分れるようだ。専門家の多数意見は、こうした場合は主権侵害とみなしてはいる。29

残念なことだが、スパイ行為に関する限り、国際法は味方にはなりえない可能性が高い。国際法が国家の自衛権を認めているために、9条を完全非武装の宣言として読むことの助けに国際法を持ち出せないのと似た状況がある。

11. 米国防総省の戦争法マニュアル

米国の国防総省の戦争法マニュアル30は、主に戦時を前提としたマニュアルだが、平時における諜報活動についての言及がある。31

平時における情報および防諜活動。国際法および長年にわたる国際規範は、サイバー空間における国家の行動にも適用可能であり、平時における情報および防諜活動の合法性に関する問題は、ケースバイケースで検討されなければならない。一般的に、サイバー作戦が、単に情報を取得する目的でのコンピュータ・ネットワークへの不正侵入といった、伝統的な諜報および防諜活動に類似する範囲においては、そのようなサイバー作戦は国際法の下でも同様に扱われる可能性が高い。米国はサイバー空間を通じてそのような活動を実施しており、そのような作戦は、それらの作戦が敵対行為と解釈される可能性も含め、長年にわたって確立された考慮事項によって管理されている。

ここに明言されているように、米国は「単に情報を取得する目的でのコンピュータ・ネットワークへの不正侵入」を実施してきたとしている。このことはスノーデンの暴露で誰もが知っていることでもある。もしそうであるなら、「同盟国」を標榜する日本が同種のネットワークへの不正侵入を行なおうとする動機がない方が不自然ではないだろうか。ここで問題になるのは、日本は、米国のような諜報活動の法整備がなされていない、という点だ。だからこそ日本政府は法整備を急いでいるといえる。

多くの国が軍隊を擁し、それと不可分一体のものとして諜報活動を展開する制度的な枠組をもっていたのに対して、日本の自衛隊は対外的な武力行使に焦点を宛てた組織という体裁をとることができてこなかった。しかし、自衛隊がますます他国との軍事同盟の一翼を担うようになってきてしまった現在、日本だけでなく共同して作戦に臨む同盟国の実力部隊の行動を支える情報収集は必須の条件になりつつある、というのが政府の認識なのだろう。

12. サイバースパイ行為もまたサイバー攻撃である

実空間におけるスパイ行為は、武力行使や威嚇とは一線を画すもので、いわゆる武力攻撃にはあたらない、というのが常識的な判断だろう。そして、この判断をそのままサイバー領域におけるスパイ行為にも当て嵌めてしまうために、サイバースパイがサイバー攻撃なのかどうかという重要な問題をきちんと問うことなく、サイバースパイはサイバー攻撃ではないと決めつけがちだ。しかし、現実はかなり複雑だ。本法案も、その前提になる「提言」においても、日本が行使する違法・不正なネットワークへの侵入やシステム破壊行為は「攻撃」と呼ばれていない。しかし、他方で、外部からは様々な「サイバー攻撃」が繰り返されていることもまた強調され、これが立法事実として重視されてもいる。同じ行為でも、「敵」がやれば「攻撃」であり、自分たちがやれば「アクセス・無害化」と呼ぶ、というのは欺瞞でしかない。

暗号とセキュリティの専門家のブルース・シュナイアーはアトランティック誌への寄稿32のなかで興味深い観点を示している。

中国がスパイ目的で米国のコンピューターネットワークに侵入しているという報道が最初に報じられたとき、私たちもかなり強い表現でそれを表現した。私たちは中国の行為を「サイバー・攻撃」と呼んだ。時には「サイバー戦争」という言葉さえ使ったし、サイバー攻撃は「戦争行為」であると宣言した。

エドワード・スノーデンが、NSAが中国とまったく同じことを世界のコンピューターネットワークに対して行っていることを暴露した際、私たちは米国の行動を表現するのに、スパイ行為、情報収集、スパイといった、より穏健な言葉を使用した。私たちは、これは平時に行われる活動であり、誰もがやっていることだと強調した。

同じことでも「敵」がやれば攻撃や戦争行為とみなし、味方がやれば、情報収集とかスパイ行為といった穏健な表現を選択する。シュナイアーはこうした言説のアンバランスを指摘した上で、では、スノーデンもやっていたであろうスパイ行為は「サイバー攻撃」なのかどうかと問う。シュナイアーによれば、米軍はコンピュータ・ネットワークへの侵入を意味するCNE(Computer Netwaork Exploit) とネットワークの無効化や破壊を意味するCNA(Computer Netwaork Attack)を区別しているという。これは、本法案でいう「アクセス・無害化」とちょうど対応する。アクセスとはCNEであり無害化とはCNAである。この区別はあくまでネットワークに侵入する側に即した分類であり、侵入される側からすれば、CNEであってもサイバー攻撃とみなすだろう。だから、日本のこれまでのサーバーセキュリティに関する様々な報告はCNEもCNAもともに「サイバー攻撃」として一括して統計に入れてきたのではないか。攻撃を受ける側は、攻撃者の意図はわからない場合が多い。つまり単なる情報収集なのか、この情報収集が将来の攻撃に結びつくものとして計画されているのかは、攻撃者側もその意図を隠すから受け手がわかるはずもなく、結局は、文字どおりの意味での攻撃でありうることとして理解する方が防護の観点からは安全だ、という考え方になるだろう。

つまり、防護する側からすれば、ネットワークをより安全なものに保つためには、CNAだけではなくCNEもまた防ぐ必要があるということになる。CNEもCNAもともにネットワークをリスクに晒すのであれば、そうした行為を政府が行うことは許されていいのだろうか。シュナイアーはサイバースパイ行為も明確にサイバー攻撃として国際法上の制約を課すべきだと指摘しているが、米国のスパイ行為を禁止すべきだとは主張していない。しかし私は、むしろどこの国であれスパイ行為を禁止することなしには、CNAを阻止することもできないと思う。問題は、すでに軍隊がありサイバー部隊を組織している多くの国の現実を与件としてしまえばスパイ行為の禁止は、単なる理想論として退けられてしまうだろう。不正アクセスによる情報収集が未だに国家の権利として制度化されていない日本には空論に終らせないかろうじての手掛かりがあるのだが、それが今失われようとしている。

13. 最後に

本法案が目指しているのは、日本政府が批判している外国政府による「サイバー攻撃」を日本もまたより高度な技術を駆使して実践できるような合法性の枠組を構築することである。

こうした日本政府の方向は、一見すると武力行使とは無縁にみえるサイバースパイ行為を通じて、より一層深刻な武力紛争に日本が加担することを選択している、ということを見抜く必要がある。私たちがとるべき唯一の方向は、これとは真逆でなければならない。国家のサイバースパイ行為は、その対象が外国であったとしても、必ず自国内部とも関わりをもつことになる。人と人との繋りが国境を越えているグローバルなネットワークの現実を軽視してはいけない。しかも、自国民の「通信の秘密」が守られるのであれば、自国による他国の人々への人権侵害を容認するというような立場はとるべきではない。とりわけ立法府の議員は有権者の「票」に影響されやすく、自国中心主義をとりがちだが、グローバルな人々の安全を脅かし、国境を越えて連帯と相互扶助によって紛争に立ち向かおうとする人々の努力に敵対することが、国籍のいかんにかかわらず全ての人々のサイバー領域におけるセキュリティの脅威になることを自覚すべきだ。国家安全保障や「サイバー攻撃」の脅威などの宣伝に惑わされることなく、サイバースパイ行為を一切させるような権限を国家に与えてはならない。サイバースパイの後ろに控えているのは、無害化などと微温い言葉遣いでごまかしているが、人々の言論表現の自由を支える通信への大量監視であり、これが選挙や世論を左右し、更にその後に控えているのは、深刻な武力行使にも相当しかねないサイバー攻撃である。サイバー安保法案は、自衛隊を含む国家安全保障に組み込まれた武力行使や威嚇を可能にするサイバーと実空間との軍事的に統合された構造を民間も含めて構築してゆく突破口である。こうした傾向全体を転換することが必要であり、この転換のためには、日米の軍事同盟やグローバルな監視社会のシステムを覆す闘いが必要になる。そのためにもサイバースパイを許すような法制度は一切認めるべきではない。

Footnotes:

1

https://www.cas.go.jp/jp/houan/217.html

2

内閣官房 https://www.cas.go.jp/jp/siryou/221216anzenhoshou.html

3

「サイバー対処能⼒強化法案及び同整備法案について」内閣官房サイバー安全保障体制整備準備室、2025/2 https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/cyber_anzen_hosyo_torikumi/pdf/setsumei.pdf

4

私のブログを参照。https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/

5

内閣官房サイバー安全保障体制整備準備室のウエッブに掲載されている「説明資料」 https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/cyber_anzen_hosyo_torikumi/pdf/setsumei.pdf

6

正式名称は「重要電子計算機に対する不正な行為による被害の防止に関する法律案」と「重要電子計算機に対する不正な行為による被害の防止に関する法律の施行に伴う関係法律の整備等に関する法律案」である。この二つを合わせて便宜上「サイバー安保法案」と呼ぶ。政府はこれらを「サイバー対処能力強化法案及び同整備法案」と呼んでいる。法案関連は内閣官房のウエッブに掲載されている。https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/cyber_anzen_hosyo_torikumi/index.html

7

第四章「外外通信目的送信措置」、第六章「で外内通信目的送信措置及び特定内外通信目的送信措置」

8

たとえば、総務省は通信の秘密の範囲について、「通信の秘密とは、①個別の通信に係る通信内容のほか、②個別の通信に係る通信の日時、場所、通信当 事者の氏名、住所、電話番号等の当事者の識別符号、通信回数等これらの事項を知られることによって 通信の存否や意味内容を推知されるような事項全てを含む。」と説明している。電気通信事業法及び通信(信書等を含む)の秘密 https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/tyousakai/kensho_hyoka_kikaku/2018/kaizoku/benkyoukai/siryou4.pdf

9

https://laws.e-gov.go.jp/law/411AC0000000137

10

英国でiPhoneユーザーはクラウドの暗号化機能が使えなくなることが大きな波紋を呼んでいる。もし現在上程されているサイバー安保法が成立した場合、同じことが日本でも起きる可能性がある。この件については、以下の声明を参照。「英国政府によるエンド・ツー・エンド暗号化を標的とした捜査権限法の使用に関する共同書簡」 https://www.jca.apc.org/jca-net/ja/node/436 今回の措置は、英国の捜査権限法に基くものだ。この捜査権限法は本法案においても政府が外国の法制度として参照しているもののひとつである。2020年に英国、日本、米国など7ヶ国が共同で「エンドツーエンド暗号化及び公共の安全に関するインターナショナル・ステートメント」を出し、暗号化の規制を求めた。外務省「エンドツーエンド暗号化及び公共の安全に関する インターナショナル・ステートメント」https://www.mofa.go.jp/mofaj/la_c/sa/co/page22_003432.html%E5%8F%82%E7%85%A7。 今回の英国の措置は、この線に沿ったものともいる。この7ヶ国声明に対しては当時、以下の抗議声明が出されている。「暗号規制に反対します―日本政府は「エンドツーエンド暗号化及び公共の安全に関するインターナショナル・ステートメント」から撤退を!!」https://www.jca.apc.org/jca-net/ja/node/104

11

憲法35条「第三十五条 何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第三十三条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。 (2)捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。 」https://laws.e-gov.go.jp/law/321CONSTITUTION/#Mp-Ch_3-At_35

12

「外内通信」については以下のように規定されている。

第三十二条 内閣総理大臣は、外内通信であって、重要電子計算機に対する国外通信特定不正行為に用いられていると疑うに足りる状況のある特定の国外設備を送信元とし、又は当該国外通信特定不正行為に用いられていると疑うに足りる状況のある特定の機械的情報…が含まれているもの…の分析をしなければ当該国外通信特定不正行為による重要電子計算機の被害を防止することが著しく困難であり、かつ、この項の規定による措置以外の方法…によっては当該特定外内通信の分析が著しく困難である場合において、必要と認めるときは、この項の規定による措置により取得通信情報を取得した場合における第三十五条第二項に規定する選別の条件を定めるための基準…を定め、サイバー通信情報監理委員会の承認を受けて、国外関係電気通信事業者の設置する特定の国外関係電気通信設備であって当該国外関係電気通信設備を用いて媒介される国外関係通信に当該特定外内通信が含まれると疑うに足りるものにより送受信が行われる国外関係通信媒介中通信情報が複製され、受信用設備に送信されるようにするための措置…を講ずることができる。

「内外通信」については以下のように規定されている。

第三十三条 内閣総理大臣は、内外通信…であって、重要電子計算機に対する国外通信特定不正行為に用いられていると疑うに足りる状況のある特定の国外設備を送信先とし、又は当該国外通信特定不正行為に用いられていると疑うに足りる状況のある特定の機械的情報が含まれているもの…の分析をしなければ当該国外通信特定不正行為による重要電子計算機の被害を防止することが著しく困難であり、かつ、この項の規定による措置以外の方法によっては当該特定内外通信の分析が著しく困難である場合において、必要と認めるときは、当該措置により取得通信情報を取得した場合における同条第二項に規定する選別の条件を定めるための基準…を定め、サイバー通信情報監理委員会の承認を受けて、国外関係電気通信事業者の設置する特定の国外関係電気通信設備であって当該国外関係電気通信設備を用いて媒介される国外関係通信に当該特定内外通信が含まれると疑うに足りるものにより送受信が行われる国外関係通信媒介中通信情報が複製され、受信用設備に送信されるようにするための措置…を講ずることができる。

13

https://www.jca.apc.org/jca-net/ja/node/436

14

CNN「英の調査権限法は「違法」、プライバシー侵害 欧州司法裁」 https://www.cnn.co.jp/world/35094148.html

15

https://privacyinternational.org/advocacy/5085/pis-submission-independent-review-investigatory-powers-act-2016

16

概要は https://crsreports.congress.gov/product/pdf/IF/IF11451 機械翻訳 https://cryptpad.fr/pad/#/2/pad/view/W+786RMzaTZpdGJRt1UI1Yf8uPHW5ohzmfCXmiWn3w0/

17

たとえば米国自由人権協会は数回にわたって提訴している。https://www.aclu.org/warrantless-surveillance-under-section-702-of-fisa 機械翻訳 https://cryptpad.fr/pad/#/2/pad/view/uvr22oiE7Abwjh7cxN6nrRFg2puLF88+AzgrqnADnHs/ また電子フロンティア財団は令状なしの情報収集を違憲とする判決を勝ち取っている。https://www.eff.org/deeplinks/2025/01/victory-federal-court-finally-rules-backdoor-searches-702-data-unconstitutional 機械翻訳 https://cryptpad.fr/pad/#/2/pad/view/LIx+5-2fxRpT1Yzg0FGGMqHf7pMVXlLnNCGzASUTUzU/

18

https://tuta.com/ja/blog/bnd-german-surveillance-unconstitutional

19

https://www.bbc.com/news/world-europe-52725972

20

日本語訳 https://www.ppc.go.jp/files/pdf/gdpr-provisions-ja.pdf

21

内閣官房 サイバー安全保障体制整備準備室 による説明スライド。https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/cyber_anzen_hosyo_torikumi/pdf/setsumei.pdf

22

https://www.cnn.com/2024/01/29/politics/fbi-doj-chinese-hacking-us-infrastructure/index.html https://www.washingtonpost.com/national-security/2024/01/31/china-volt-typhoon-hack-fbi/

23

https://www.justice.gov/usao-sdtx/pr/us-government-disrupts-botnet-peoples-republic-china-used-conceal-hacking-critical

24

https://www.globaltimes.cn/page/202404/1310584.shtml https://www.cverc.org.cn/head/zhaiyao/futetaifengEN.pdf

25

ちなみに、同様のケースが日本で生じた場合、裁判所の令状になるのか監理委員会の承認で済まされるのか、法案の組み立てをさらに検討する必要がある。

26

https://www.cse-cst.gc.ca/en/mission/cyber-operations

27

「CSEの任務は、シグナルインテリジェンスとサイバーセキュリティの2つに大別される。CSEは、国防大臣が発行する機密の「大臣権限」と「大臣指令」によってスパイ権限を与えられている。この認可は、CSEが通信、通信に関するメタデータ、その他の電子データを入手・保存するための広範な範囲を定めている。」https://bccla.org/2022/12/pulling-back-the-curtain-on-canadas-mass-surveillance-programs-part-one-a-decade-of-secret-spy-hearings/

28

Tallin Manyualは次の例を挙げている。「例えば、ある国家の機関がデータを抽出するために、機能停止を招くような形で他国のサイバーインフラに侵入した場合、専門家によれば、そのサイバースパイ活動は後者の国家の主権を侵害することになる。同様に、スパイ目的のサイバー作戦が国際的なプライバシーの権利(規則35)を侵害する場合、そのサイバースパイ活動は違法となる。」

29

Tallin Manyual ルール32、パラ5。

30

DoD, Law of War Manual https://media.defense.gov/2023/Jul/31/2003271432/-1/-1/0/DOD-LAW-OF-WAR-MANUAL-JUNE-2015-UPDATED-JULY%202023.PDF

31

DoD, Law of War Manual, p.1029

32

Date: 2025/2/22

Author: toshi

Created: 2025-03-03 月 12:06

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ガザのジェノサイド:ビッグテックとサイバー戦争



以下は、『市民の意見』No.207(2025年2月1日号)に寄稿したものです。

Table of Contents

1. 戦争の枠組が変ってきた

コンピュータ技術が情報通信のネットワークとビッグデータやAIと組み合わされて兵器のシステムと統合するようになったことで戦争の枠組は根底から覆されてきた。

その端的なあらわれのひとつが、ガザにおけるイスラエルのジェノサイドだろう。ガザで起きているジェノサイドの状況は比較的よく知られているとはいえ、ジェノサイドが「大量殺戮」と訳されることもあって、もっぱら人への大規模な殺傷行為だと誤解されている場合が多いのではないか。ジェノサイド条約が定めているジェノサイドの定義は、もっと幅広いものだ。条約の定義では「国民的、人種的、民族的又は宗教的集団を全部又は一部破壊する意図をもつて行われた」行為であり、具体的には、集団殺害の他に、重大な肉体的又は精神的な危害を加えること、肉体の破壊をもたらすために意図された生活条件を集団に対して故意に課すること、出生を防止することを意図する措置、集団の児童を他の集団に強制的に移すこと、もジェノサイドと定義している。国際司法裁判所も国際刑事裁判所も、こうしたジェノサイドの罪として挙げられている行為を対象にして審理が進められてきた。

イスラエルがジェノサイドを可能にしたのは、大規模な破壊を迅速効果的に行なえるだけの軍事インフラを構築できたことと、ジェノサイドの行為を隠蔽し、国内世論を戦争へと駆り立てる情報戦である。この二つに実は、米国のビッグテックが密接に関与してきた。

2. 標的の生産とAI

ガザの空爆は無差別空爆ではなく計算された破壊行為だ。爆弾ひとつひとつについて、その爆弾がどこに投下されるべきものなのかがあらかじめ把握された上で供給される爆弾の量にあわせて大量の標的に対して攻撃が行なわれてきた。

イスラエルのガザでの計画的な攻撃には二つの目的がある。ひとつは、自分たちを守ってくれないという批判感情を喚起させてハマースへの支持を切り崩すために、住宅、公共施設、インフラ、高層ビル群など、イスラエルが「パワーターゲット」と呼ぶ社会インフラを大規模に破壊することだ。1もうひとつは、ハマースの戦闘員や関係者を殺害するという名目での大量殺戮、である。

ガザへの空爆は、ガザ住民の基本的な人口データ、どこに誰が住んでいるのか、誰がハマースの戦闘員なのか、何の目的の建物なのかなど詳細なデータを前提にしている。ガザが天井のない刑務所と言われてきたように、長年にわたってイスラエルが把握してきた情報の蓄積による。他方で、日々変化する人の移動を把握する必要がある。これらのデータを元に、AIを駆使して爆撃の標的を決める。巻き添えとなる死傷者の数もあらかじめ想定されている。ハマースの上位の人物の殺害なら百人規模の巻き添えがあっても許容される。+972マガジンの報道2では、標的を生み出す「ラベンダー・システム」は、ハマースやパレスチナ・イスラム聖戦(PIJ)の戦闘員を爆撃対象としてマークするように設計されているという。10月7日時点で、空爆対象者を37,000人リストアップし戦争の最初の数週間の軍の行動はぼぼこのラベンダーに依存していたという。これに加えて、『Where’s Daddy?(パパはどこ?)』と呼ばれる標的となる個人の移動を追跡して家族の住居に入ったときに爆撃を実行するシステム、武装勢力の活動拠点とみなされる建物などをマークする「ゴスペル」というシステムがあり、これらが連携して爆撃が行なわれてきたという。

標的の数と規模の上限は利用できる弾薬によって決まるから、米国など西側諸国が武器を供給しつづけることで、この標的生産の上限が拡がり、犠牲が増え続けることになる。しかも、イスラエルの国会や政権、軍には、ガザからパレスチナ人を排除して完全に占領することを主張する極右の影響がある。彼らは、ガザのパレスチナ人は誰であれ、排除の対象とみなす。UNRWAはハマースの手先であり、ガザの保健省もハマースの組織であり、ハマースの関係者が負傷して病院にいれば病院が標的になる。ガザのジェノサイドを報じるジャーナリストはハマースのプロパガンダの手先とみなされる。あらゆる口実を用いて次々に標的が生産される。

3. ガザ攻撃に加担するビッグテック

今回のガザとの戦争に先立って、2021年、GoogleとAmazon Web Services(AWS)は、12億ドルでイスラエル政府とクラウド・コンピューティング・サービス、AI、機械学習機能の提供契約を結んだ。Project Nimbusとして知られるものだ。翌年、Googleはイスラエルにクラウドセンターを設立して顔検出、自動画像分類、物体追跡、写真や音声、テキストの感情分析などの高度なAI機能を提供することになる。3

他方でイスラエル軍は従来からMamramと呼ばれる独自の「軍事作戦クラウド」を保有していた。これは爆撃の標的の特定、ガザ上空の無人偵察機の映像データ解析、攻撃・指揮・管理システムなどが含まれている。しかし、10月7日以降大規模な軍事行動に必要な情報処理能力をまかなえなくなる。そこで、事実上無制限にいくらでもデータを蓄積でき高度なAI処理が可能なAmazonのクラウドサービスが利用されるようになる。4

他方Googleはイスラエル国防省に対して、データの安全な保存・処理、GoogleのAIサービスの使用が可能なクラウド・インフラへの特別なアクセス環境(ランディングゾーンと呼ぶ)を提供している。同社は2024年3月に国防省と新たな契約を締結し、「複数の部隊」がGoogleの自動化テクノロジーにアクセスできるようにもしている。5 世界有数の諜報機関と高度な監視技術を売り物にする民間企業を抱えているイスラエルですら、自国だけでは戦争に必要なデータ処理をまかなうことができなくなるくらい戦争の規模が拡大し、これを米国のビッグテックが下支えしているのだ。

このようなGoogleやAmazonのジェノサイドへの加担に対して、これらの企業やテック産業で働く労働者による内部からの告発や抗議の運動が続いてきた。2021年にProject Nimbusに対して「パレスチナ人に危害を加えるために使用されるテクノロジーをイスラエル軍や政府に供給するという雇用主の決定を支持することはできない」という抗議声明が出される。6ジェノサイドの批判がありながら、企業の経営側はパレスチナ人の異議申し立てを封殺する行動をとり続けている。労働者の抗議行動は、解雇者や逮捕者を出しながら現在も継続されている。

4. 情報戦とビッグテックの検閲と拡散

ビッグテックと今回のガザ戦争の関係で、SNSの情報発信環境de重要な役割を果たしたのがFacebookやX、Instagram、Youtubeといったプラットフォーマーだった。戦争ではSNSは検閲とプロパガンダの手段になる。

こうしたSNSは様々な手法で投稿や拡散を制御している。たとえば、規則違反と判断されたコンテンツの削除やアカウントの停止または削除は見えやすい措置だが、それ以外に、アカウントのフォローやタグ付けができなくされたり、一部の機能が使用制限されたり、通知なしに個人の投稿、ストーリー、アカウントが他のユーザーからはわかりにくくされ拡散しにくくされる「シャドーバンニング」と呼ばれる手法などがとられる。イスラエルではこうした規制が繰り返し行なわれて、パレスチナ人の言論を封殺すると同時に、イスラエルを支持する国際世論を形成するために、主に欧米諸国のSNSでの情報発信にも検閲や拡散のコントロールが加えられてきた。こうした傾向はヒューマンライツウォッチなどの国際的な人権団体からも繰り返し批判されてきたが、この傾向は続いている。7

イスラエル国内の支配的な言語はヘブライ語で、マイノリティのアラブ・パレスチナ人がアラビア語話者になる。戦争の状況はこの言語環境を背景として、イスラエル国内における検閲と戦争への大衆的な動員にビッグテックのSNSが重要な役割を果たす。よく知られているようにSNSには特有の拡散力がある。パレスチナ人をテロリストとレッテルを貼ったり、ヘブライ語によるジェノサイドを煽るようなメッセージに対してSNS企業は容認し、結果としてヘイトスピーチなどが一気に拡散される傾向が生み出される。他方で、アラビア語での情報発信においては、パレスチナへの支持、イスラエル政府や戦争批判の投稿への規制やアカウントの停止処分が繰り返されてきた。こうしたSNSの検閲や意図的な拡散が、戦争翼賛の世論をつくりだしてきた。

情報発信の仕組みそのものを制御する力をもつビッグテックが、政権の意向や意図を汲んだ行動をとることでビジネス上の収益に直結する構造が戦時体制では形成される。現在のビッグテック支配のSNS環境は、反政府的な言論やマイノリティの人々の言論に対して平等な情報発信の基盤にはなりえなくなっている。

5. 監視と情報戦には停戦はない

1月20日に暫定的な停戦が発効したが、これはサイバー領域には適用されないだろう。イスラエルによるガザに対する網羅的な監視は継続され、停戦が破られれば直ちに攻撃が可能な状況が作られるだろう。SNSの検閲と敵意の拡散もまた続くに違いない。これらにビッグテックが大きく寄与して莫大な利益を得ることになる。戦争のこうした局面に私たちはより強い関心をもつ必要がある。同時に、Facebook、Youtube、X、amazonnなどジェノサイドに加担する企業のサービスを利用する日本の反戦平和運動の活動家たちにも、これらのサービスを利用することの是非をどう考えるべきか、ぜひ議論を深めてほしいと思う。

付記:本稿脱稿の後で、トランプのガザ所有など一連の発言に接した。こうした発言や政権入りしたXのイーロン・マスク、そしてあからさまにトランプ支持を表明した主要な米国のビッグテックや日本のソフトバンクなどが、サイバー領域の戦争と無関係なビジネスを展開するとは考えにくい。トランプ政権下で米国の軍事安全保障がどのように展開されるのか、私は非常に危惧している。

Footnotes:

1

(+972Magazine)「大量殺戮工場」: イスラエルの計算されたガザ空爆の内幕 https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/972magazine_mass-assassination-factory-israel-calculated-bombing-gaza_jp/

2

(+972magazine)「ラベンダー」: イスラエル軍のガザ空爆を指揮するAIマシンhttps://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/972magazine_lavender-ai-israeli-army-gaza_jp/

3

(Accessnow)ビッグテックとジェノサイドのリスク:企業は何をしているのか?https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/accessnow_gaza-genocide-big-tech_jp/

4

(+972magazine、LocalCall)「Amazonからのオーダー」: ハイテク大手がイスラエルの戦争のために大量のデータをいかに保存しているか https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/972_localcall_cloud-israeli-army-gaza-amazon-google-microsoft-_jp/

5

(Time)独自:Google、イスラエル国防省と契約 https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/time_google-contract-israel-defense-ministry-gaza-war_jp/

6

(The Gurdian)私たちはGoogleとAmazonの労働者だ。Project Nimbusを非難する https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/the-gurdian_google-amazon-workers-condemn-project-nimbus-israeli-military-contract_jp/

7

(Human Rights Watch)Meta: パレスチナ・コンテンツへの組織的検閲 https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/human-rights-watch_meta-systemic-censorship-palestine-content_jp/

Author: 小倉利丸

Created: 2025-02-18 火 22:10

学術会議について

私には学術会議をめぐる非常に辛い思い出があります。

学術会議は2008年に文部科学省から、大学教育の分野別質保証の在り方について審議するように依頼を受け「すべての学生が身に付けることを目指すべき基本的な素養」を学問分野別に定めた「大学教育の分野別質保証のための教育課程編成上の参照基準」を作成しました。いわば大学版の学習指導要領のようなものです。下記にその一覧があります
https://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigakuhosyo/daigakuhosyo.html

経済学の参照基準は https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-h140829.pdf

私は経済学を教えていましたが、この参照基準の「経済学」の内容は、定義も含めて全く賛成できません。なぜなら、経済学の参照基準はいわゆる主流派の経済学を唯一のパラダイムとして採用しており、わたしのようなマルクス経済学を基礎に、更にそこからも異質な要素を加味したような経済(学)批判としての経済学などは全く考慮される余地のないものとして否定されているからです。これは、私ひとりのことではなく、多様な学説が並立していることを完全に無視した内容で、これを読んで当時唖然となった研究者は決して少くないはずです。実際、当時いくつかの経済学の学会が異論を表明しました(付記1参照)

もしこうした参照基準に基づいてカリキュラムが作成され教員人事が行なわれた場合、非主流派の経済学は大学の教育で正当なポストすら得られないことになります。マージナルな領域は完全に排除され多様性は奪われます。

この参照基準を私が受け入れるということは、私が30年間大学で行なってきた教育を自ら否定することになります。この参照基準を読んだとき、私の教育者としての存在理由を否定されたと感じましたし、危機感を強く持ちました。にもかかわらず、私は、この危機感をやりすごしてしまいました。その理由の一つに、私にとっての学術会議の存在意義がほとんど「ゼロ」に等しかったこと、少なくとも私が在職中には参照基準が公然と教育のカリキュラムや人事に影響するようなことにはならなかったことがあったといえそうですが、今このような文章を書いていることからしても、いずれも言い訳がましい理由でしかないでしょう。もっと何かできたのではないか、という反省と自己批判がありはするものの、では、今何か行動する積りになれるか、といえば、そうとも言えない。

参照基準の策定に関して学術会議は、意見聴取をしていますが、大学の教授会など教育を担う組織にたいして公式に意見聴取などの手続きをとったのかどうかも疑問です。また、様々な異論を受け入れて参照基準の内容を抜本的に修正することもなかったと思います。当時わたしは学部の管理職をしていましたが、学術会議から何らかの問い合わせなどは一度もなかったと記憶しています。(このあたりの事実関係の経緯は私の記憶違いがあるかもしれません)勿論、参照基準の内容を修正すればそれでよい、という問題ではありません。

この分野別参照基準は文科省からの審議依頼です。教育・学問研究の内容に関して、文科省が関与する手段に学術会議が加担したのは、憲法に定められた学問の自由に抵触する行為だと私は判断しますが、学術会議はこの文科省の審議依頼を受け入れたのです。(文科省は巧妙に学術会議法を利用しているともいえます。)繰り返しますが文科省の依頼の意図は「すべての学生が身に付けることを目指すべき基本的な素養」を分野別に示した基準を作成することです。このような参照基準を一部の研究者が決めることがあっていいはずがありませんし、このようなことは決して可能ではないはずです。学術会議はなぜこれを拒否しなかったのでしょうか。

こうした参照基準を文科省が「悪用」する余地はいくらでもあります。定員削減の嵐の時代でしたし、文科省による学部への介入が非常にシビアな時代でした。もし文科省が「参照基準に沿った採用と教育をするように」とでも言いはじめるのではないかととても不安におもったことを覚えています。文科省の思惑は、むしろ、学術会議に参照基準を作成させ、大学が自主規制の手段として、この参照基準に沿った教育と人事を行なうように仕向けることを通じて、批判的な学問としての非主流派の経済学を脇に追いやるか排除するような効果をもたらすことだろうと思います。経済学の分野は、こうした文科省の思惑と学術会議側の利害が一致してしまった分野ですが、そうではない分野もあったのだろうと思います。邪推とみられるかもしれませんが、こうした参照基準のような活動が任命拒否ともどこかで繋がっているようにも感じられてなりません。

参照基準と関連する質保証委員会は現在もあるようです。国の事実上の外郭団体のような体制がもっている極めて危ない側面だと思います。もちろん法人化後の大学を経験している者にとって、独立しても問題は変わらないことも承知しています。どちらの場合であれ、学術会議が学問研究の自由と自立の砦にはなりえることはないでしょう。

以上のようなことがあるため、学術会議問題に関心を寄せている多くの市民の皆さんに、学術会議が進めてきた分野別参照基準の問題にも目を向け。その撤回と大学教育の分野別質保証委員会を廃止の必要性にも関心をもっていただければと思います。(ただし、参照基準の撤回や質保証委員会廃止のために、私にできることは、今ここでこうした意見を表明することが精一杯のところです。)

付記1

参照基準の作成当時、経済学に関係する学会などが出した見解は現在でも読むことができます。

経済学分野の参照基準(原案)に対する意見表明
経済教育学会理事会
https://ecoedu.jp/sansyoukijun-jsee.pdf

経済学分野の教育参照基準第二次修正案についての意見書
経済理論学会幹事会
https://www.jspe.gr.jp/%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E5%A3%B0%E6%98%8E%E7%AD%89/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6%E5%88%86%E9%87%8E%E3%81%AE%E6%95%99%E8%82%B2%E5%8F%82%E7%85%A7%E5%9F%BA%E6%BA%96%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E6%A1%88%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%A6%8B%E6%9B%B8

基礎経済科学研究所常任理事会
基礎経済科学研究所
http://www.shokunoshigen.jp/docs/reference-standard/siryou6.pdf

日本フェミニスト経済学会2012-2013年度幹事会
https://jaffe.fem.jp/opinion

参照基準に反対の声多数 経済学教育の画一化を懸念(京都大学新聞)
2013.12.16
https://www.kyoto-up.org/archives/1956

私自身が個人として意見を提出したことはありません。これらの意見が汲み取られたとはおもえませんし、たとえ汲み取られたとしても、それで研究者、教育者個人の学問の自由が確保されるものとも思いません。そもそも文科省の下請けのような仕事を受けるべきではなく、参照基準そのものを撤回すべき、という私のような主張はあまりないかもしれません。なお、私はこれらの学会には所属していません。

付記2

私自身が経済学としてどのような講義を行なってきたのかについては、下記に講義ノートが掲載されているので参考にしてください。

https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/lecture_u-toyama/



サイバー安全保障「提言」批判

2025年1月26日 字句の訂正と一部加筆しました。

Table of Contents

1. はじめに

能動的サイバー防御を可能にする法整備が、2025年の通常国会で審議されることになる。能動的サイバー防御という言葉は、安保・防衛3文書1のなかで始めて登場する。この能動的サイバー防御は、官民一体で敵基地攻撃能力を合法化して先制攻撃を可能にする戦争体制のなかのサイバー領域における軍事行動の合法化を目指す枠組であり、すでに成立している経済安全保障の枠組とも連動することになる。また、より幅広い総動員体制を視野に入れれば、マイナンバー制度による人口監視との連動も将来的にはありうると考えてよいだろう。

本稿では、能動的サイバー防御を可能にする法整備のための有識者会議が昨年11月に出した「サイバー安全保障分野での対応能力の向上に向けた提言」(以下「提言」と略記)2を対象にして、その問題点を洗い出し、サイバー領域を戦場にしないことを、戦争放棄の観点から検討する。同時に、サイバー攻撃と呼ばれる事象に特徴的なこととして、この「攻撃」が軍事安全保障に限定されず、より広範にはサイバー犯罪として警察が取り締まりの対象にしてきた事案をも包摂することがいかなる深刻な問題を引き起すかについても検討する。このことは、従来の武力の行使と威嚇という意味での「戦争」という観点で「提言」を解釈することでは十分ではないことを意味している。刑事犯罪領域を「提言」は国家安全保障に繰り込む視点をとっており、結果として、警察の活動もまた軍事・国家安全保障の枠組に包摂されるものとされている。しかも、先制的な敵基地攻撃能力同様に、能動的サイバー防御も先制攻撃を想定しており、全体として、未だ具体的な紛争や抗争が生じていない段階で国家が暴力装置を発動すべき、という考え方をとることになっている。そのために、警察については、治安維持を目的とした予防的な強制力の行使を可能にするような制度の転換が図られることになる。この傾向は、テロ対策同様、警察と自衛隊を横断し、国内と国外をも跨る形で対処の枠組が国家体制全体を覆うような規模へと大きく舵を切るものだと考えている。こうした点を踏まえて、戦争という概念を、自衛隊や警察が組織的に「力forceの行使や威嚇」を行うものと幅広く定義しておきたい。3私は、サイバー領域における「戦争」は、刑事司法の領域をも包摂しつつ、その舞台が情報通信のネットワークという非常に理解しづらい技術的な場で展開されているものであるという点で、従来型の戦争の枠組を前提にイメージして論じたり批判するだけでは、その危険性や問題を十分には捉えきれない特異な性格をもっている、とも考えている。

「提言」の枠組は、安保・防衛3文書で述べられているサイバー領域の軍事安全保障の考え方を新たな法制化へ向けて整理したもので、今後国会に提出される法案の基本的な考え方を示すものだ。「提言」の位置づけは「サイバー安全保障分野での対応能力を欧米主要国と同等以上に向上させるための新たな取組の実現のために必要となる法制度の整備」としているから、憲法9条の規定は最初から無視されている。その上で、官民連携の強化、通信情報の利用、アクセス・無害化、という三つの課題を軸に法整備のための基本を呈示した。議論の争点は幾つもあるが、そのうち通信への網羅的な監視や情報収集、令状主義を形骸化して犯罪捜査よりも治安維持目的での警察力の監視活動を合法化する法整備に関する箇所は、メディアも注目し繰り返し批判的な記事や論評も出されているので、逐一の批判は省き、二点だけ私の考え方を述べるにとどめる。4

2. 「提言」の盗聴あるいは情報収集について

「提言」では、「アクセス・無害化を行うに当たっては、今まで以上に、サイバー攻撃に関する詳細で十分な量の観測・分析の積み重ねが必要」として、盗聴捜査に限らず情報通信への詳細で十分な情報収集を可能にすることを求めている。アクセス・無害化を念頭に置いているので、こうした取り組みは警察など盗聴法が盗聴を認めている捜査機関だけでなく、自衛隊などもその主体として想定されている。従来の通信への捜査機関などによる盗聴は、事件が起きた後で実施されるのに対して、提言が目指す通信情報の利用はこれとは本質的に異なるものだとして、以下のように書かれている。

今般実現されるべき通信情報の利用は、重大なサイバー攻撃による被害を未然に防ぐため、また、被害が生じようとしている場合に即時に対応するため、具体的な攻撃が顕在化する前、すなわち前提となる犯罪事実がない段階から行われる必要がある

従って、単に盗聴法の対象犯罪などを拡大するというだけでは済まされない。つまり

  • 事案の発生前から監視を網羅的に実施できるようにする
  • 警察だけでなく自衛隊もまたこうした権限を付与される

ということが必要要件となる。「提言」では、大胆にも「これまで我が国では存在しない新たな制度による通信情報の利用が必要」だと述べている。

「提言」では通信情報の分析は、問題を未然に防ぐ予防手段であるため、既遂の行為について証拠を収集し事実を解明することを目的とする犯罪捜査とは動機も目的も異なる。「提言」はこの点を次にように強調している。

通信情報を取得しようとする時点では、いかなる具体的態様でサイバー攻撃が発生するかを予測することはできず、あらかじめそのサイバー攻撃に関係する通信手段、内容等を特定することは通常は困難であるから、犯罪捜査とは異なる形で通信情報を取得し利用する必要があり、被害の防止と通信の秘密の保護という両方の目的を適切に果たすためには、これまで我が国では存在しない新たな制度による通信情報の利用が必要である。

上の立場はこれまで政府の見解を真っ向から否定するものでもある。これまで政府は、捜査機関の盗聴が憲法21条の「通信の秘密」に抵触しない理由を以下のように解説している。5

通信傍受は、捜索・差押えと同じように,具体的な犯罪行為が行われた場合に、これに関連する捜査として行うものです。何か犯罪が起きるかもしれないということで通信の傍受を行うことはできません。

また、特定の個人や団体がどのような活動をしているかを探るなど、いわゆる情報の収集のために行うものではありません。

盗聴捜査は「具体的な犯罪行為が行われた場合」であって「何か犯罪が起きるかもしれないということで通信の傍受を行うことはできません」と明言している。「提言」は逆に、「何か犯罪が起きるかもしれないということで通信の傍受を行うこと」が必須だ、としており、従来の政府見解が示していた通信傍受の合憲性の主張の前提を根底から否定するものだ。だから「これまで我が国では存在しない新たな制度」が必要だというのだ。しかもこのような立場は、自民党の改憲草案ですらとっておらず、自民党改憲草案をも越えている。

3. 憲法21条と「公共の福祉」

その上で憲法21条2項の通信の秘密条項については「通信の秘密であっても、法律により公共の福祉のために必要かつ合理的な制限を受けることが認められている」とし、公共の福祉を理由に予防的な通信傍受が可能だ主張している。公共の福祉を理由に通信の秘密の権利を制限するという政府の態度はこの間一貫している。

たしかに憲法12条には、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ」とあり、13条以下の条文はこの12条の「公共の福祉」という縛りを前提にしていると読むことが可能ではある。しかし、私はこの解釈をとらない。というのも、22条、29条では改めて「公共の福祉」が明記されており、明記されている条文と明記がない条文という違いが存在するのはなぜなのかに注目すべきだと考えるからだ。

私は、一般に言論表現の自由(通信、学問、宗教などの自由)に憲法では「公共の福祉」を明記していないのには理由があると考えている。もし自由の権利に「公共の福祉」という制約を課すことになると、「公共」の解釈いかんでは、国家や社会の支配的な価値観の優位性を認めることになりかねない。特に日本では「公共」を口実として国益を優先させて個人の自由を制約しようとする対応がある。こうした日本の現実をみたとき、また、政府が「公共の福祉」を理由にして行なってきたこれまでの前例を踏まえると、21条の通信の秘密に「公共の福祉」を読み込むと、実際の表現行為、通信内容、学問への国家の監視を正当化しかねない、と思う。例えば、最高裁は「公共の福祉」を理由に死刑制度を合憲としている。(最高裁1948年3月12日、昭和22(れ)119)この解釈の延長線上に、「公共の福祉」を理由に国家の殺人、戦争行為も憲法上正当化される、ということもありうる。あるいは親密な恋人同士がプライベートなやりとりのなかで、公然化されれば猥褻とみなされるようなデータのやりとりを通信することもありえるが、こうした通信を「公共の福祉」を口実に規制するために監視するといった権力によるプライバシーへの過剰な介入も予想できる。だから、各条文で「公共の福祉」を明示していないものについては、「公共の福祉」という制約を課すことのない権利として、つまり、時としては公共の福祉を逸脱しても構わないような表現や通信、学問、宗教が存在する余地があると解釈する必要があると考えている。6

「提言」の主張は、通信の秘密に「公共の福祉に反しない限り」という制約を課すことによって、サイバー領域における「戦争」に連動する情報通信の活動が行なわれていないかどうかを網羅的に監視できる法制度の導入を許すことになることから、通信の秘密全体を否定することになり、こうした解釈は絶対に認めてはならない。

言うまでもないが、「公共の福祉」という解釈の立場をとれば、未だ起きていない事案を事前に監視し取り締まるような権力行使が認められることにはならないことも付言しておく。

4. 通信の秘密は国外に及ぶのだろうか

「提言」が対象としているのは犯罪から戦争あるいは武力紛争に関するサイバー領域に至るまで広範囲にであり、全体の枠組は、国内向けの対応では警察が主体になり、対外的な武力行使関連対応では自衛隊が主体になる、という役割分担が考えられていると思われる。7 そして国内と国外を跨ぐ通信や国外相互の通信への監視には自衛隊が関与する可能性が高くなるかもしれない。この全体の枠組のなかで通信の秘密という私たちの権利を考えなければならないが、同時に情報通信の基盤がグローバルなインターネットによって支えられ、「私たち」という言葉には私たちが繋りあっている世界中の人々とのコミュニケーションが含まれることを自覚的に認識しておく必要がある。

このこと前提にして、憲法が私たちの権利として定めている通信の秘密は、日本国内の日本の「国民」にのみ適用される権利ではなく、それ以外の人々に対しても日本政府は通信の秘密を守る義務を負うものと解釈すべきである。つまり、日本は世界中の誰に対しても通信の秘密を侵害するような権力の行使を行うことは憲法で禁止している、ということだ。もし、通信の秘密が「日本国民」のみに与えられた権利であるとすると、外国の主権の問題はともかくとして、日本の政府機関が外国において盗聴活動を行なうことを日本の憲法は禁じていない、ということになる。従来であれば、国外での盗聴捜査は、警察などであれば捜査共助条約などを通じて相手国の捜査機関に依頼するなどになる。しかし、犯罪の実態がなく情報収集を目的に盗聴活動を行なう場合は、この仕組みも使えない。自衛隊の場合も同様に、国外での情報収集の権限の是非についての明文規定はない。しかし、「提言」の趣旨を制度化するとなると、外国の主権内にあるサイバー領域において、その主権を侵害しても日本の国益を優先させて情報収集活動を行うことも視野に入れた法制度になる可能性がある。つまり、スノーデンが日本でやっていたような諜報活動のようなことを日本がやれるようにしたい、ということが想定されている。自衛隊や他の政府機関がスノーデンのような活動を行うことができる法的制度的な枠組は現在では存在しない。今後の政府の方向は、自衛隊など軍事安全保障に関わる組織が国外で諜報活動を行うことを合法化する制度の整備へと向かう可能性がある。これが提言が強調する安全保障の力を「欧米主要国と同等以上に向上」させる、ということに含意されていることのひとつだろう。

以上の点を踏まえて、強調したいことは、通信情報の世界はシームレスに世界を繋いでおり、インターネットのシステムは世界でひとつの構造をもっているという状況で、情報が国境を越えて流通する中で、日本がサイバー攻撃を受け、あるいはサイバー攻撃の主体となるような事態のなかで、私たちは、自分たちの情報通信環境に関連する通信の秘密、言論表現の自由、結社の自由、思想信条の自由といった市民的自由の原則を守るためのより強固で断固とした闘いを組む必要がある、ということだ。市民的な自由の観点からみたとき、国境を越える通信は、日本国内だけでなく国外の人々と私たちの通信の秘密の防御は必須であり、同時に市民的な自由がグローバルな人々の権利の平等を前提とするならば、通信の秘密は差別なくすべての人々に保障されるべき権利である。従ってまた、国際法の原則も踏まえて8、日本政府が国外において、あるいは日本「国民」以外の人々にも通信の秘密の権利を保障するような基本的な姿勢をとることが憲法上の義務でもある、と考えるべきだろう。とりわけ戦争・武力紛争において、市民の運動としては、日本政府が敵国とみなす国の人々に対しても平等にその権利を保障すべき、という観点を明確にした取り組みをすることが重要なことだ。たとえば、外国にあっても、人々が自国政府からの通信への厳しい監視があるという場合、日本政府はこうした人々の通信の秘密の権利を保障する立場をとるべきであり、また、日本国内に暮す外国籍の人たちにも平等に保障されるべきである。

5. 「サイバー戦争」の四つのケース

サイバー領域の「戦争」は、実空間の戦争あるいは戦闘行為とはその範囲も国家、社会の諸制度の関わり方も大きく異なる。サイバー領域の戦争には大きく分けて四つのケースがある。

5.1. サイバー領域で完結する場合

サイバー領域が「戦場」を構成する場合で、その影響がサイバー領域に留まる場合もあれば、結果として実空間における施設や組織、あるいは人間に対して打撃となる場合もある。

この場合にも二つの主要なケースがある。ひとつは、情報通信ネットワーク上を監視して情報を収集し、将来の攻撃の準備をする場合。ネット上のスパイ活動である。もうひとつのケースは、ネットワークを介して重要な社会インフラの機能をマヒさせるなどの攻撃を行なう場合であるが、ハッキングであれ無害化であれ攻撃の手段はサイバー領域を通じたものになり、おおむねサイバー領域で攻撃が完結する場合だ。「提言」が主に対象としているのはこのケースだ。したがって民間の通信事業者などとの連携強化が強調されるとともに、政府の組織体制も明確に指揮命令系統を一本化するような再編が必要だとされている。情報通信のネットワークは国家の中枢から経済基盤や私生活まで、私たちの日常生活を覆うので、官民を巻き込む総力戦体制の構築になる。

「提言」では「アクセス・無害化」という表現を一貫して用いており、このサイバー攻撃には「アクセス」に関わるが「無害化」には至らないケースが含まれている。無害化の場合がかなり過激なシステムダウンなどの印象があるためにメディアなどの注目が集まりやすい反面、「アクセス」はそれに比べて見逃されがちだ。しかしアクセス攻撃は、より広範囲で、かつその行動も露呈されにくいものであって決して無視すべきではない。「提言」が想定している「アクセス」は、私たちがウエッブにアクアスして情報を取得する、といった合法的なアクセスではなく、むしろ、日本国内の現行法では違法とされるいわゆる不正アクセスを合法化し、同時に、国外にあるネットワークなどに対しても、相手国あるいは国際法上からも違法とされるアクセスを実施できるようにするということが想定されていると思われる。つまり、政府機関によるハッキング行為の合法化である。

「提言」では「アクセス」と呼ばれているハッキングには様々な動機がある。近い将来無害化攻撃をすることを前提に行なわれる場合もあるだろうが、網羅的に情報を収集すること自体を目的とする場合もありうる。ビッグデータをAIを駆使して迅速に解析できる現代の技術水準を前提とすると、後者のようなハッキングがより重視されるかもしれない。いわゆる一方的に情報を収集するだけで実空間の社会経済基盤を物理的に機能不全に陥れることに直接直ちにはつながらない場合であっても、こうした収集データが将来において実空間での物理的な破壊攻撃(キネティック攻撃9)の前提情報となりうるからだ。「アクセス・無害化」といっても、どのようにして情報を収集するのか、収集した情報を何を目的に利用するのかなどについては答えは一つにはならないのだ。

ちなみに、アクセス(ハッキング)の攻撃が開始されてから発覚するまでの平均日数は、日本の民間機関の2022年の調査では397日という結果もでている。10少し前、2015年にセキュリティ・インシデント対応企業Mandiantが発表したレポートでは侵害の最も早い兆候から侵害が発見されるまでの平均経過日数は205日、最長の経過日数2,982日とある。11 また2023年に発覚したボルト・タイフーンの場合は潜伏期間が5年にもなると報じられた。12不正侵入を感知するための対策とハッキング技術の高度化のいたちごっこの状態で、発覚までの時間は決して短くはなっていない。

日本が「アクセス」を試みるという場合も、上記の事例のような長期の潜伏が重要な「アクセス」の目的のひとつになることは間違いない。攻撃の事案が起きる前に行動することになるので、長期の侵入を意図することになる。たぶん、長期のハッキング=スパイ行為を様々なところで行いながら、情報収集と解析を繰り返しつつ無害化の標的が選ばれるのだろう。このように考えると、無害化よりも「アクセス」の方がより深刻な通信の秘密やプライバシーの権利への侵害行為になる可能性がある。

同時に、無害化の実行については「提言」では以下のように述べている。

権限の執行主体は、現に組織統制、教育制度等を備え、サイバー脅威への対処に関する権限執行や武力攻撃事態等への備えを行っている、警察や防衛省・自衛隊とし、その保有する能力・機能を十全に活用すべき(である)

自衛隊や警察が関与の中心を担うべきだとしているが、自衛隊には国内での法執行権限がないので、対外的な対応の主体となり、警察はその捜査権限を用いて国内におけるサイバー攻撃への対応を担う、という役割分担を考えているのだろう。言うまでもなく、主体が自衛隊なのか警察なのかはどうでもいい問題ではない。戦争や武力紛争に軍が関与するだけでなく警察が関与して敵のサイバー領域を攻撃するとなると、果して、これが現行法の「警察」活動の枠組に入れうるのだろうか。そもそも警察法2条の「警察の責務」は「犯罪」に関する事案であり戦争や武力紛争ではない。しかし、テロ対策の前例がある。テロが刑事事件のカテゴリーから米国の対テロ戦争をきっかけに、国家安全保障の主要課題に格上げされながらも警察は依然としてテロ対策を重要な活動の柱としてきた。こうして警察は刑事警察からより治安維持へと軸足を移すきっけをつかんだ。今回はより広範囲に戦争全体を網羅する形で警察が軍事安全保障に関与することになる。しかも「提言」では以下のように述べている。

新たな制度の目的が、被害の未然防止・拡大防止であることを踏まえると、インシデントが起こってから令状を取得し、捜査を行う刑事手続では十全な対処ができないと考えられ、新たな権限執行には、緊急性を意識し、事象や状況の変化に臨機応変に対処可能な制度とする必要がある

令状によらない強制捜査や事件の発生がない段階での予防的な治安維持のための警察権力の権限強化が確実に伴うことになる。令状主義の形骸化は、国連のサイバー犯罪条約においても強調されているから、今後、こうした方向は確実に強まると警戒する必要がある。「提言」では、更に、サイバー領域での法執行の権限について、警察官職務執行法のモデルを参照しつつ、これをサイバー領域に拡張し、かつ警察以外に自衛隊などでも利用しうるような法制度を構想している。この件については、本稿では踏み込まないが、別に論じる予定だ。

5.2. 情報戦

「提言」では情報戦についてのまとまった記述はない。安全保障戦略では「領域をめぐるグレーゾーン事態、民間の重要インフラ等への国境を越えたサイバー攻撃、偽情報の拡散等を通じた情報戦等が恒常的に生起し、有事と平時の境目はますます曖昧になってきている」とし「武力攻撃の前から偽情報の拡散等を通じた情報戦が展開されるなど、軍事目的遂行のために軍事的な手段と非軍事的な手段を組み合わせるハイブリッド戦が、今後更に洗練された形で実施される可能性が高い」としていた。そして「偽情報等の拡散を含め、認知領域における情報戦への対応能力を強化する」こと「外国による偽情報等に関する情報の集約・分析、対外発信の強化、政府外の機関との連携の強化等のための新たな体制を政府内に整備する」と明言していた。

「提言」には情報戦も偽情報も登場しない。たぶん、この課題は別途追求されることは間違いない。多分政府は、このプロパガンダや偽情報といった意味での情報戦領域は、あえて法整備が必要とはいえず現行法で対応可能なものだと判断しているのかもしれない。

一言強調しておきたいのだが、外国が偽情報の拡散を行うという認識は、これに対抗して日本もまた偽情報の拡散を行うであろう、ということも含意していることに私たちは注意する必要がある。しかし、日本政府が発信する偽情報について日本の現行法には何の規制も制約も課していない。むしろ政府による偽情報を規制する制度が必要だろう。

これに対して「提言」で言及されていない「サイバー戦争」の重要な領域があと二つある。

5.3. 自衛隊の陸海空などの戦力と直接連動したサイバー領域

兵器や装備を実際に使用するためには標的の把握などでコンピュータのネットワークやAIによる情報処理は必須の条件になる。実際の戦争のためには、標的の確認が必要になる。標的が人間の場合は、移動を把握しなければならない。相手国のデータは多ければ多いほどよく、この意味で情報収集は必然的に網羅的になる。この領域は自衛隊の組織内部で対応できる領域であり新たな法制化なしに――自衛隊の組織再編では何らかの法制度の対応が必要だろうが――対処できる領域だと判断し「提言」は言及していないのかもしれない。

このケースに該当する「戦争」として実際に行なわれてるものとしては、現在も進行中のイスラエルのガザ戦争がある。イスラエルはガザの住民に関する膨大な人口や住宅などの地理データを保有している。これらとリアルタイムでの人々の移動を通信やドローンなどで監視し、攻撃対象を特定して空爆などを実施している。こうしたシステムには、米国のGoogleやAmazonも技術やクラウド・サービスで協力している。13

5.4. アクセス・無害化攻撃が実空間における武力行使のための露払いとなる場合

ハッキングやサイバー攻撃といった「アクセス・無害化」が実空間における武力行使のための露払いとなる場合がある。たとえば、相手の軍事施設のネットワークや社会インフラを無害化した後で武力行使へ転ずる、といった使い方がありうる。しかし「提言」ではこの領域に関連する法整備には言及がない。

サイバー領域での長期にわたるスパイ活動や無害化攻撃を遂行した後に、自衛隊の実力部隊が実空間での武力による破壊攻撃活動を展開する、という流れは現在の戦争・武力紛争のひとつのタイプになりつつあるように思う。たとえば、安保戦略で議論になった敵基地攻撃に先行して、情報収集や敵の軍事関連のインフラなどへのサイバー攻撃を仕掛けて反撃能力を削いだ上で敵基地や重要インフラへの攻撃を実行する、という流れが考えられる。脅威圏の外から敵に対処する「スタンドオフ」という考え方が強調されていることからも、こうしたサイバー領域を効率的に活用して実空間での攻撃のリスクを最小化することが当然考えられる。

こうしたケースで日本が戦争に関与する場合、米国などのいわゆる同盟国との連携が重要になりそうだ。たとえば、サイバー領域における先制攻撃を日本が担い、実空間での攻撃を他の同盟国が担う、という役割分担は現在の日本の法制度からすると取り組みやすいかもしれない。現行法では外国の軍隊のようには自由に動員できない自衛隊の制約があり、政府は、改憲を通じて自衛隊が軍隊としての体制を整え、軍事組織関連の法整備が整うことが先決と考えているのかもしれない。事実NATOのサイバー演習「ロックドシールズ14」に日本から自衛隊だけでなく情報通信関連の省庁や民間企業も毎年参加して他のNATO加盟国などとタッグを組んでのサイバー攻撃への取り組みを行なっている。

6. アクセス・無害化攻撃と攻撃元の特定問題

ここでは、敵とみなされたシステムのアクセス・無害化を中心に「提言」の問題点を指摘したい。アクセス・無害化攻撃が必要とされる前提にある現状認識について「提言」は以下のように述べている。

近年、サイバー攻撃は巧妙化・高度化している。具体的には、サイバー攻撃は、複雑化するネットワークにおいて、国内外のサーバ等を多数・多段的に組み合わせ、サーバ等の相互関係・攻撃元を隠匿しつつ敢行されている。また、ゼロデイ脆弱性の活用等により、高度な侵入が行われるほか、侵入後も高度な潜伏能力により検知を回避するなど、高度化している。このため、サイバー攻撃の特徴としては、現実空間における危険とは質的に異なり、実際にある危険が潜在化し認知しにくいということが挙げられる。また、潜伏の高度化等により、攻撃者の意図次第でいつでもサイバー攻撃が実行可能であるとともに、ネットワーク化の進展により、一旦攻撃が行われれば、被害が瞬時かつ広範に及ぶおそれがある。

上の引用にあるように、サイバー攻撃は「サーバ等の相互関係・攻撃元を隠匿しつつ敢行されている」のが通常のありかたになる。一般に実空間での武力行使では、自軍の武力による優位を誇示して相手の劣位を自覚させることで相手の更なる攻撃を抑止しようとする動機があり、攻撃の主体であることを隠さない場合が一般的だろう。これに対してサイバー領域では、逆に、サイバー攻撃の事実があり被害もあるとしても、この攻撃の責任の帰属先が意図的に隠蔽され、また攻撃後も名乗り出ない、ということが少くない。

たとえば、サイバー攻撃の非常に早い時期の典型事例として挙げられるのが、米国のオバマ政権時代、2011年頃から開始されたイランの核濃縮施設への極秘のサイバー攻撃(コードネームOlympic Games)がある。この攻撃は米国とイスラエルが共同で開発したStuxnetと呼ばれるコンピュータプログラム(ワーム)を密かにイランの核施設に送り込みシステムを機能不全に陥らせた。15 このケースはニューヨークタイムズがすっぱ抜いたために明るみに出たが極秘の作戦であリ、現在も米国政府は自らの攻撃だとは認めていない。

攻撃元が誰なのかを特定して攻撃の責任の帰属を明確にすることは戦争における責任問題として重要である。この攻撃元の帰属を「アトリビューション」と呼ぶ。「攻撃者サーバ等へのアクセス・無害化」と「提言」は簡単に言うが、実際には誰に責任があるのかを証明するのは容易ではない難問であり、このアトリビューションの妥当性自体が国際的な紛争の主題にもなる。この点への「提言」の言及は十分とはいえない。しかも「提言」の目的は、武力攻撃事態に至らない状況において、某国の何らかのシステムが将来の攻撃者であると特定して先制攻撃を仕掛けることになる。アトリビューションを予断や陰謀ではなく、第三者にも納得できる証拠によって果して証明できるのだろうか。つまり、無害化攻撃の標的となる「攻撃者」に関するアトリビューションをどう考えるのかが「提言」ではあまりにも軽く扱かわれている。

アトリビューションが重要なのは、一般に、国際紛争を武力行使によって解決するという方法は禁じられており、例外が自衛権の行使になり、正当な自衛権行使であることを主張するためには、攻撃者を客観的な証拠に基いて特定し、第三者からもその証拠の妥当性が得られることを通じて自衛権行使であることを主張できることが重要になるからだ。攻撃された側が独断で「あいつが攻撃するに違いない」と攻撃元を名指しして先制攻撃したとしても国際的な理解が得られなければ孤立するかもしれない。未だに攻撃がない段階で先制的なサイバー攻撃を行使するとなると、このアトリビューション問題は飛躍的に難度が高くなるだろう。しかも、アトリビューションの根拠情報は、自国の機密に属するような諜報活動や、もしかすると違法とされるような情報収集活動あるいは同盟国からの秘密裡での情報提供など、いずれも公開しがたい情報である場合が多いとみてよく、透明性を欠くなかで、国会や世論が誤認する可能性が極めて高くなり、この誤認を修正する余地が極めて低くなる。

7. 日本が攻撃元であることは秘匿されるに違いない――独立機関による事前承認などありえない

サイバー攻撃は、平時においても採用できる軍事攻撃である。上記のアトリビューションの困難さも考慮したとき、日本が「アクセス・無害化」攻撃を名乗りを上げて行うだろうか?むしろ密かに、日本が攻撃元であることを秘匿して実行するはずだ。そして、実行元を秘匿する攻撃こそがサイバー攻撃の一般的な姿でもある。ところが『読売新聞』は、先制的なサイバー攻撃を実施する場合の手続きについて以下のように報じている。

撃元サーバーへの侵入・無害化措置は、通信情報の分析で重大なサイバー攻撃の恐れがあると判明すれば、警察・自衛隊が実施する。事前承認する独立機関は、公正取引委員会などと同様に独立性の高い「3条委員会」に位置づけ、内閣府の外局とする方向だ。16

攻撃事前承認が必要で、しかもこれを独立機関に担わせる、という。私は、攻撃は極秘であることが大前提になるから、このような手続きはありえないと思う。しかも、たとえ第三者委員会のようなものを設置してもアトリビューションの実質を確保できるだけの機密情報が開示されるはずもない。とりわけ同盟国などから提供された情報であればなおさらだろう。独立機関の設置は、立法過程で野党を黙らせる手段として提起されただけのものだ。しかも、更に悪いことには、独立機関は、一般世論に対して、日本の攻撃があたかも客観的で妥当なものであるこをが証明されたかのようなお墨付きを与える効果を生む。

従って、サイバー領域における日本の「アクセス・無害化」攻撃は隠蔽され、公式には公表されることはまずありえない、と考えるべきだ。このことは、日本の軍事・安全保障領域に極めて大きなブラックボックスが構築されることを意味している。法律が成立した後でも、敵国からのサイバー攻撃の報道は頻繁にあるだろうが、日本からのサイバー攻撃などの動きが迅速に報じられることは極めて少ないだろう。しかし実際には日本が水面下で長期戦を覚悟でサイバー攻撃を仕掛けているはずであって、私たちに知らされないなかで、戦争の危機が深化するという事態になる。

こうした事態を回避する唯一の方法は、独立委員会とか第三者委員会を設置して歯止めにするといった見当違いな対応ではなく、サイバー攻撃という手段をとることができないような制度的な枠組を構築し、同時に、サイバー領域を戦争に巻き込むあらゆる兆候を排除するということを徹底することにある。そのためには日本であれ諸外国であれ、攻撃の動機そのものをもたないような国際関係の構築を目指すことこそが最良の手段だろう。

8. アクセス・無害化攻撃と民間の役割

アクセス・無害化攻撃は警察や自衛隊が実施するとされているが、果してその準備から実行までの全過程を民間の通信事業者の協力なしで実施することができるだろうか。ネットワークの動向を現場で最初に把握できるのは、実際にサーバーやネットワークを運用している事業者だ。最近米国を中心に起こされたボルトタイフーンと呼ばれるサイバー攻撃の最初の発見者でありアトリビューションにも重要な貢献をしたのはマイクロソフト社だった。17

通信事業者が戦争に加担しない限りサイバー領域を巻き込んだ戦争は不可能である。こうなると、武力行使の主体は自衛隊や警察に限定されないことになる。そうなれば、当然相手国の反撃の対象も「民」を巻き込むことになる。それだけではなく、こうしたサイバー戦争の主体に一部に民間が関与した場合、当然民間であっても相手国は力の行使主体とみなして、攻撃の対象とすることも考えられる。もちろん日本が攻撃主体になるときも、同様に正当な攻撃の標的に相手国の民間の通信事業者が含まれることになる。

政府のサイバー攻撃を「民」が一部担うようなケースの場合について、NATOのサイバー戦争に関するルールブックともいえるタリン・マニュアル(バージョン2)18は以下のような解釈を示している。

国家機関の行為に加えて、国家機関として認められない個人または団体が、国内法(例えば、立法、行政行為、または国内法で規定されている場合は契約)によって政府当局の権限の一部を行使する権限を与えられている場合、 その行為は国家に帰属する。ただし、個人または団体が特定の事例においてその権限を行使している場合に限る。例としては、政府から他国に対する攻撃的サイバー作戦の実施を法的に認められた民間企業や、サイバー情報収集を法的に認められた民間団体が挙げられる。p.89

「提言」ではこうした民間企業による戦争への加担、時には戦争犯罪にすらなりうるリスクについて明示せず、関心をもっているとはいえない。しかもサイバー戦争への加担は、実空間での戦争とはちがって、リモートからパソコンなどを用いて容易に「参戦」することができる。事実ウクライナのIT軍は世界中からITの専門的な知識をもつ人材だけでなく、ほとんど専門の知識なしにインストールしたソフトウェアを使って攻撃に参加できる仕組みを作りあげてボランティアを募りサイバー攻撃の体制を構築している。19日本からの参戦は違法とされているにもかかわらず参加者がいることが報じられている。20

能動的サイバー防御に政府が前のめりになるということは、こうしたサイバー戦争に多くの民間人を巻き込むことを意味するだけでなく、参加の動機をもさせるようなサイバー戦争のためのプロパガンダもまた強化されることになる。サイバー攻撃が繰り返され日本国内に被害者感情による不安と怒りを煽るような情報環境が情報戦として展開されることにもなる。

9. 日米同盟のなかでのサイバー攻撃への加担と責任

「提言」で言及がないもう一つの重要な問題が、日米同盟などいわゆる同盟国とか友好国などとされる諸国との関係におけるサイバー領域の連携である。日本がアクセス・無害化攻撃を展開する場合に、日米同盟などとの連携がどのように行なわれることになり、その場合の日本の責任(アトリビューション)どのように判断されることになるのか、など国際紛争における重要な問題への基本的な認識が示されていない。

日米安全保障協議委員会(「2+2」)の協議において、サイバー領域が日米安全保障条約第5条の対象に含まれるということが確認されたという報道がなされている。2023年1月11日の2+2の会合の声明では以下のように述べられた。

閣僚は、同盟にとっての、サイバーセキュリティ及び情報保全の基盤的な重要性を強調した。閣僚は、2022年3月の自衛隊サイバー防衛隊の新編を歓迎し、更に高度化・常続化するサイバー脅威に対抗するため、協力を強化することで一致した。米国は、より広範な日米協力の基盤を提供することとなる、政府全体のサイバーセキュリティ政策を調整する新たな組織の設置及びリスク管理の枠組みの導入など、国家のサイバーセキュリティ態勢を強化する日本のイニシアティブを歓迎した。閣僚は、日本の防衛産業サイバーセキュリティ基準の策定に係る取組を含む、産業サイバーセキュリティ強化の進展を歓迎した。そして、閣僚は、情報保全に関する日米協議の下でのこれまでの重要な進展を強調した。

この文言をアクセス・無害化というサイバー先制攻撃を可能にしようとしている日本政府の方向性を見定めながら読む必要がある。また、2024年7月24日の2+2の声明では以下のように述べられている。

日米は、相互運用性の深化を実現するため、強固なサイバーセキュリティ及び情報保全並びに情報共有の重要性を認識するとともに、情報共有の機会の増加、サイバーセキュリティ、データセキュリティ及び情報保全の更なる向上並びに通信及び物理面でのセキュリティの強化を検討する。 (中略) 閣僚は、同盟にとって、また、同盟が未来志向の能力を開発し増大するサイバー脅威に先んじるために、サイバーセキュリティ及び情報保全が基盤的に重要であることを強調した。閣僚は、情報通信技術分野における強じん性強化のためのゼロ・トラスト・アーキテクチャの導入を通じたサイバーセキュリティ、情報保全に関する協力の深化にコミットした。閣僚は、重要インフラのサイバーセキュリティの強化の重要性について同意し、同盟の抑止力を更に強化するため、脅威に対処する防御的サイバー作戦における緊密な協力の促進について議論した。米国は、情報共有のためのより良いネットワーク防御の実現に資するリスク管理枠組みの着実な実施を含む、国家のサイバーセキュリティ態勢を強化する日本の取組を歓迎した。閣僚は、将来の演習にサイバー防御の概念を取り入れる機会を増やすことについて議論した。閣僚は、二国間のサイバーセキュリティ及び情報保全に関する協議を通じてなされた重要な進展を称賛した。

上にある「増大するサイバー脅威に先んじる」とか「脅威に対処する防御的サイバー作戦における緊密な協力の促進」といった文言に含意されている内容に、サイバー攻撃の意図が含まれていないと解釈することは難しい。安全保障関連の文書の「防衛」とか「防御」という文言は、文字どおりの意味ではなく力の行使や威嚇を自衛権行使として国際法上正当化するための言い換えであって、実際には攻撃という含意だと解釈すべきだろう。

サイバー領域での抑止力にはサイバー攻撃を未然に阻止することもまた抑止力として効果をもつという解釈がありうることも注意したい。相手の攻撃を抑止するための先制攻撃がサイバー領域で実行されることは、前述した米国のイランへのサイバー攻撃ですでに行なわれた実績がある。サイバー領域における攻撃は、実空間での力の行使を阻止するという口実で正当化されやすいし、その実行に対する世論の批判もかわしやすい。この意味でもサイバー攻撃はハードルの低い手段である。このことを踏まえて米軍との連携がサイバー領域で展開されるということは、力の行使や威嚇のハードルの低い領域で日本が参加しつつ、結果として実空間での武力紛争に関与する結果になる、という可能性が高い。21

いずれにせよ、「提言」の枠組では、日本の米軍基地は重要な役割を担うとともに米軍との一体化が進む自衛隊が巻き込まれるだけでなく積極的にその役割を担い、米国のビッグテックがサイバー戦争の担い手である以上日本側の通信事業者もまた積極的な関与が可能なように企業体制の見直しも進められるはずだ。これまでの戦争で日本が後方のロジスティクスなどを担うことがあったが、サイバー戦争ではむしろ日本が攻撃の主体を担う可能性がより大きい。ただし、上に述べたことの殆どは事前に公表されることはないだろうし、そもそも日本に攻撃が帰属するという痕跡すら残されないだろう。

10. 憲法9条と国際法――サイバー戦争の枠組そのものの脆さ

「アクセス・無害化」の先制攻撃という発想がでてくる背景には、自衛のための武力行使は国際法上も正当であり、かつ、憲法9条もまた自衛権としての戦力の保持を認めている、とい自衛戦争肯定論がある。自衛権の行使は相手の武力行使という事実があって、これへの正当な反撃としてなされるものだ、というのが従来の基本的な考え方だった。しかし現在ではむしろ、ロシアのウクライナ侵略のように、先制的な攻撃によって相手の武力行使を抑え込むことも自衛の手段とみなされるようになっていると思う。しかしこうした先制攻撃は相手の自衛権行使を正当化することにもなり、その後の武力行使の応酬と戦争の泥沼化に繋がる。

サイバー領域は、とくに、実空間での物理的な破壊のようなリアリティが乏しく「戦争」というイメージをもたれにくいために、サイバー攻撃の敷居は低い。しかも秘密裡の攻撃が常態となっていることから、戦争に関する法手続きや民主主義的な討議の余地も小さくなる。それだけではなく、情報戦を通じた世論の敵意醸成や偽情報の拡散などといったサイバー領域の敵対的な感情の扇動が行なわれる結果として、外交的な手段であるとか、政府とは別に、市民レベルでの相手国との交流や反戦運動などの可能性が著しい困難に直面する。こうした副作用も含めてサイバー領域での自衛戦争の弊害をきちんと理解する必要がある。この点を理解すれば、私たちがとるべき選択肢は一つしかないことがわかる。それは、「提言」が提起する情報通信領域の網羅的な監視に明確に反対し、グローバルな「通信の秘密」を断固として主張することであり、自衛の手段としての先制攻撃も、サイバー領域におけるスパイ活動やハッキングを含む一切の「アクセス・無害化」の権限も、政府に与えるべきではない、ということである。

「提言」が憲法9条に言及せず、戦争を禁止する国際法への配慮もないということは、無視できない重要な問題だ。憲法9条も国際法上の戦争法や関連する法規の基本的な枠組ができあがった時代には、インターネットもサイバー領域における力の行使や威嚇といった問題が存在していなかった。とはいえ、とりあえずインターネットなどグローバルなサイバー空間にも国家主権が及ぶとみなして、従来の国際法の枠組を無理矢理当て嵌めようという努力が行なわれてきた。しかし、従来の解釈をそのままサイバー領域に当て嵌めることが困難な場合が多くみられる。このために、サイバー領域における力の行使の何が国際法や戦争法に照らすて合法なのかの国際的な合意が存在するのかどうか極めて曖昧な状況にある。こうしたなかで、各国政府が自分に都合のよいように解釈し、その解釈を国際標準として認めさせようとする法の正当性を巡るヘゲモニー争いが起きているともいえる。

各国とも、自国の軍事力や安全保障政策にとって有利なルールを主張している状況は、事実上サイバー攻撃は何でもアリ、という危険な兆候を孕んでいるともいえる。だから日本政府は、この混乱に乗じてサイバー領域における戦争を自らに都合のよい枠組で正当化するための法整備に前のめりになっているのだろう。革新野党が、ここでもサイバー攻撃の不安感情にとらわれた世論や有権者の支持を失ないたくない一心で、サイバー攻撃に対する何らかの力の行使や威嚇の必要性を認めかねない、と私は危惧している。これに対して私たちは、明白な力の行使や威嚇を一切認めない立場をとることで、はっきりと対立点を提起してサイバー領域を明確に戦争から切り離す方向を提起すべきだ。この場合、その核心をなすのが、自衛権という名の力の行使や威嚇も明確に否定することにある。むしろ実空間とは違って、サイバー領域のセキュリティは力の行使や威嚇ではない別の手段で、国家に委ねることもなく、コミュニケーションの主体である私たち自身が自らの手で防衛できる領域でもある。コミュニケーションを国家や営利企業の支配から切り離すことは、同時に、サイバー領域の平和構築の基盤を構築することになるはずだ。

Footnotes:

1

https://www.cas.go.jp/jp/siryou/221216anzenhoshou.html

2

サイバー安全保障分野での対応能力の向上に向けた有識者会議、https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/cyber_anzen_hosyo/index.html。 提言は https://www.cas.go.jp/jp/seisaku/cyber_anzen_hosyo/koujou_teigen/teigen.pdf

3

ここでいう「力」とはforceを意味する。forceは「武力」とも訳すことができる。

4

朝日新聞社説:サイバー防衛 厳格な歯止めの議論を 2024年8月24日、https://www.asahi.com/articles/DA3S16017418.html 毎日新聞社説、能動的サイバー防御 国民の権利を侵さぬようhttps://mainichi.jp/articles/20240611/ddm/005/070/088000c、 信濃毎日新聞社説 サイバー防御 厳格な歯止めが不可欠だ https://www.shinmai.co.jp/news/article/CNTS2025011200013、 市民団体などの反対声明として下記がある。秘密保護法対策弁護団、【声明】通信の秘密を侵害する能動的サイバー防御制度の導入に反対する声明 https://nohimituho.exblog.jp/34227610/ (共同声明)能動的サイバー防御と関連する法改正に反対します―サイバー戦争ではなくサイバー領域の平和を https://www.jca.apc.org/jca-net/ja/node/296

5

https://www.moj.go.jp/houan1/houan_soshikiho_qanda_qanda.html 最高裁判例も参照。https://www.courts.go.jp/app/files/hanrei_jp/400/050400_hanrei.pdf

6

実は現行憲法で公共の福祉を明記していない条文について、自民党の改憲草案では、これを明記する方向での改正を提案している。 https://storage2.jimin.jp/pdf/news/policy/130250_1.pdf つまり自民党は現行憲法の「公共の福祉」が明記されていない条文については、公共の福祉を逸脱する場合も憲法が私たちの権利を保障していると解釈される余地があることを危惧している。私はヘイトスピーチのような言論を全く支持していない。ヘイトスピーチは差別を肯定する言論であり、社会的な平等に基づく人々の自由の権利と真っ向から対立する。これは公共の福祉の問題ではなく、構造的な差別の問題である。

7

傍受令状の請求可能なのは、検察官、司法警察員、麻薬取締官及び海上保安官だけである。犯罪捜査のための通信傍受に関する法律第4条。https://laws.e-gov.go.jp/law/411AC0000000137

8

「すべての者は、表現の自由についての権利を有する。この権利には、口頭、手書き若しくは印刷、芸術の形態又は自ら選択する他の方法により、国境とのかかわりなく、あらゆる種類の情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む。 」国連、市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)条約本文 https://www.nichibenren.or.jp/activity/international/library/human_rights/liberty_convention.html

9

「Kinetic warfareは、外交のような「ソフト」な力とは対照的に、軍事 戦闘やその他の直接破壊的な戦争形態を指す言葉。法律戦lawfare、制裁、サイバー戦、心理戦、情報戦その他のタイプの「ソフト」な力と対照的である。この用語は、2000年代に入ってから広く使われるようになる前に、軍事用語として登場した。」wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Kinetic_warfare

10

https://www.cscloud.co.jp/news/press/202402216761

11

https://cyberdefensereview.army.mil/CDR-Content/Articles/Article-View/Article/1135998/active-defense-security-operations-evolved

12

(Gigazine)中国政府系ハッカー集団「ボルト・タイフーン」が5年間以上もアメリカの主要インフラに潜伏していたことが判明、台湾侵攻の緊張が高まる https://gigazine.net/news/20240208-china-volt-typhoon-infrastructure-5-years/

13

たとえば以下を参照。(+972magazine)「ラベンダー」: イスラエル軍のガザ空爆を指揮するAIマシン https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/972magazine_lavender-ai-israeli-army-gaza_jp/ (+972Magazine)「大量殺戮工場」: イスラエルの計算されたガザ空爆の内幕 https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/972magazine_mass-assassination-factory-israel-calculated-bombing-gaza_jp/

14

防衛省「NATOサイバー防衛協力センターによるサイバー防衛演習「ロックド・シールズ2024」への参加について」https://www.mod.go.jp/j/press/news/2024/04/23c.html

15

https://www.nytimes.com/2012/06/01/world/middleeast/obama-ordered-wave-of-cyberattacks-against-iran.html

16

2025年1月15日。 https://www.yomiuri.co.jp/politics/20250114-OYT1T50191/

17

「Microsoft は、標的を絞った悪意あるステルス活動を発見しました。米国内のさまざまな重要インフラストラクチャ組織を狙い、侵害後に資格情報アクセスとネットワーク システム検出を実行することを目的とした攻撃です。」 https://www.microsoft.com/ja-jp/security/security-insider/emerging-threats/volt-typhoon-targets-us-critical-infrastructure-with-living-off-the-land-techniques ただし中国は攻撃元であることを否定し反論している。中国の反論は Volt Typhoon:A Conspiratorial Swindling Campaign targets with U.S. Congress and Taxpayers conducted by U.S. Intelligence Community https://www.cverc.org.cn/head/zhaiyao/futetaifengEN.pdf

18

https://www.cambridge.org/jp/universitypress/subjects/law/humanitarian-law/tallinn-manual-20-international-law-applicable-cyber-operations-2nd-edition?format=PB

19

2022年段階の記事によると、ウクライナの戦争では、ロシアが傭兵を積極的に投入していることが知らているが、ウクライナもまた52カ国から約4万人が義勇兵として申し出ており、ウクライナ領土防衛国際軍団に参加した。ウクライナのIT軍への参加呼びかけのツイートには、30万人が返信しているという。Ann Väljataga、”Cyber vigilantism in support of Ukraine: a legal analysis” March 2022 https://ccdcoe.org/uploads/2022/04/Cyber-vigilantism-in-support-of-Ukraine-a-legal-analysis.pdf

20

(NHK)“サイバー攻撃=犯罪だが…” ウクライナ「IT軍」の日本人 参戦の理由 https://www.nhk.jp/p/gendai/ts/R7Y6NGLJ6G/blog/bl/pkEldmVQ6R/bp/pM2ajWz5zZ/

21

抑止力という言葉が核兵器であれば、核の使用の絶対的な阻止を意味し、通常兵器であればその使用が一定程度あったとしても、ある規模以上の使用を断念させるだけの武力の行使という意味の抑止力が含まれるから抑止力=武力の不使用を意味しない。

Author: toshi

Created: 2025-01-22 水 08:58

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暴力をめぐる「生のあやうさ」と「葛藤」――ジュディス・バトラーの非暴力論

Table of Contents

1. はじめに

多くの人々が非暴力を口にしながらも、現実には暴力という手段によって目的を達成しようとする事例は事欠かず、個人レベルでも集団でも民主主義を標榜する法の支配に従属する国家に至るまで、ごくあたりまえに見い出される。この厄介な現実に対峙するためのひとつの切り口として、ここではジュディス・バトラーの非暴力論について考えてみることにする。1

バトラーは、911「同時多発テロ」や対テロ戦争、Black Lives Matter、中絶をめぐる論争や性暴力、そしてイスラエルの建国以来繰り返されるパレスチナへの戦争まで、状況に敏感に呼応して暴力と非暴力の問題に繰り返し言及してきた。彼女の基本的なスタンスは明確で、暴力という手段を否定し非暴力を選択するという立場だ。しかし、その主張はやや難解だ。議論の前提になっている精神分析(フロイトだけでなくとりわけメラニー・クライン)やエマニュアル・レヴィナスの哲学などは、活動家の間の共通理解にはなっていないだろう。非暴力抵抗運動の活動家がジーン・シャープの本を読んだりするような手軽さはないかもしれない。そもそも彼女の議論のスタイルは、運動のマニュアルにも綱領にもなりえるものではない。しかし、彼女の問題意識は、特に暴力(武力)を解放の手段としては選択しない様々な非暴力抵抗運動としての反戦平和運動のなかで議論されるべき重要な問題提起を含んでいると私は考えている。以下の私の議論も、こうした観点に引き寄せて論じている。

バトラーの議論の前提にあるのは、私たちの生存は権利としても現実のあり様としても、十分に保障されてはおらず、むしろ常に生を奪う暴力の危険をかいくぐるようにして生きている、という生存についての認識がある。これを「生のあやうさ」と呼んでいるのだが、このあやうさは人皆平等にそのリクスを負っているのではなく、極めて大きな不平等が存在している。生をあやういものにする暴力と不平等が現実の社会を構成しているなかで、非暴力を論じるのがバトラーの問題の枠組になる。バトラーの論は、暴力にまみれた世界のなかにあって、暴力の被害の当事者が自衛のために暴力を正当な選択とみなすことによって、ときには加害と被害がその立場が逆転されたり暴力の連鎖が再生産される事態を理解する上でも、また、ここから抜け出すために主体が抱え込まざるをえない暴力との危うい関係を直視する上でも、示唆的である。他方で、バトラーの議論では、具体的な事例に即した議論を敢えて避けて抽象度の高い議論を展開するために、彼女が想定している状況がDVのような親密な人間関係のなかでの暴力なのか、それともテロリズムなのか、あるいは国家間の戦争なのか、容易には判断しがたい場合があり、また、論じられている暴力が加害者の側からなのか被害者の側からなのかについても、明示的ではない場合がある。読む側が、どのような状況を念頭に置いて彼女の議論を解釈するのかで、その解釈にはかなりの違いが生まれるようにも思う。とはいえ、バトラーにとっての暴力には、ジェンダーの領域に関わる暴力、米国社会が内包している暴力とともに、彼女の出自でもあるユダヤ系知識人としてイスラエルがパレスチナに対して建国以来一貫して行使してきた暴力の問題が常に背景としてあることを念頭に置くことが必要だと思う。

2. 規範としての暴力

バトラー自身は非暴力の確信的な主張者だが、非暴力は容易な選択肢ではないこと、むしろ困難な選択であり、これをあえて選択するための思想的な根拠を明確にしようという問題意識がある。というのも現在の社会において非暴力は、規範を時には装いはするものの、国家の本質=統治の根源になりえていないからだ。家父長制的な親密空間から警察、軍隊に至るまで、暴力こそが規範になっているのが現在の社会のありかたであり、法は暴力を正当な行為として承認する枠組であり、この意味では法は暴力を規範とするとみていい。規範であるということは、その暴力は法的に承認されているか、あるいは道徳的に正当化されている、ということを意味している。このような暴力をめぐる規範の枠組を与件として、この規範に抵触しない範囲で非暴力を主張することは、暴力を規範として再生産する枠組そのものを暗黙のうちに肯定することになる。したがって、非暴力とは、暴力の規範を解体することを指向することでなければならないのだが、その道筋は以下で述べるように容易ではない。しかし、容易ではないからこそ、この規範として承認された暴力に屈することなく非暴力を指向するこを断念すべきではない、ということにもなる。

本稿では主にバトラーの「非暴力の要求」とい文章(『戦争の枠組』清水晶子訳、筑摩書房、第5章、以下引用のページは訳書による)を中心に考えてみたい。誰もが暴力の被害者にも加害者にもなりうると同時に、暴力という手段を選択しない立場をとる主体にもなりうる。いずれの場合にも、それなりの言い分がある。事柄は具体的な状況の文脈のなかでしか判断できないかもしれない。しかし、バトラーはより抽象度の高いところで議論を組み立てる。大前提として彼女は、非暴力とは原則的な立場ではない、ことを強調する。今現在、私たちが直面しているのは、非暴力が原則にはなりえず、暴力があらゆる局面で露出するような社会を前提として、なおかつ、その中で原則にはなりえない非暴力を選択する、という極めて困難な選択に挑む、という課題だ。2

バトラーは暴力が振われる状況において、この暴力に応答する主体もまた暴力を用いるであろうということ、この暴力の応酬もまたひとつの「規範」のなせるわざであると述べる。現代の社会においては、こうした暴力に対して対抗手段として暴力を選択することは、報復のレベルが当初の暴力的な加害との間でバランスがとれてさえいれば、あるいは自己の主権を防衛する正当な応答であると第三者が判断できるだけの客観的な根拠があることが示せさえすれば、こうした暴力は肯定され、非暴力の出る幕はない、ということになる。これが現実主義的な国際関係における暴力をめぐる規範の枠組だ。この枠組が規範になっている現在、人々は、こうした暴力を否定するのではなく、こうした規範に沿った行為である限りにおいて、暴力を積極的に肯定さえしていることになる。非暴力を論じる場合の出発点は、こうした規範化された暴力を批判することにある。

だから、非暴力を主張するということは、こうした暴力の規範によって正当化された暴力を否定するのでなければその意味をなさない。とりわけ国家が行使する暴力が、法の適正な手続きを経ており、かつ、主権者たちがその行使を支持している客観的な状況が存在するばあい、社会の多数は、こうした国家の暴力を肯定する。民主主義国家であれば、主権者としての「国民」の多数がこうした国家の暴力の正当性の根拠をなす。そのなかで、非暴力を主張するということは、この暴力を正当化する規範から逸脱する非暴力を主張するということだから、非暴力を主張する者たちは、規範化された暴力とこれを否定する非暴力との関係そのものを生きることを意味する。しかし、非暴力を主張する「わたし」もまた社会の一員であって、この暴力を正当化する規範を構成する枠組の部外者なわけではない。ある意味では、非暴力を主張する「わたし」にとっても、暴力の規範について、社会の多数がこの規範を承認する理由や感情を一面では理解しているはずなのだ。その上で、「わたし」は多数者が承認する暴力の規範をあえて否定する立場をとることになる。このような立場の選択は、容易には理解されないはずのものだ。非暴力は、国際関係が緊張状態を増し、国内の治安が悪化すればするほど、空論とみなされ、その評価が落ちる。しかし、こうした事態であるからこそ、容易ではない非暴力の主張に固執することに意味があると思う。

3. 暴力でかたちづくられる「わたし」

バトラーは「非暴力は単一の主体にとっての葛藤だ」と述べている。「主体に働きかける規範は社会的な性格を持つと言うことでもある。非暴力の実践に賭けられているのは社会的な絆なのだ」(p.200)というのだ。バトラーは、個人主義的な人間観を斥け個人を社会関係のなかで捉え、非暴力の実践は暴力の網の目のなかに組み込まれている私たちを結びつけている関係それ自体を組み換えることだという。だから社会が暴力の規範を承認するなかで、「わたし」が非暴力を主張するということは、必然的に「わたし」を構成している社会関係=絆もまた、暴力の規範と、これを否定する非暴力の主張という相反するベクトルのなかに投げ込まれざるをえないことになる。「わたし」は、「わたし」よりもその存在において圧倒的に巨大な社会の規範に対峙し、立ち向かうという困難な立場をあえてとること、そのような否定的な絆として社会と関係する、ということになる。

社会が規範化された暴力を承認し、そのなかで生きている「わたし」――この「わたし」は非暴力を主張するのだが――は、一面では、この暴力にまみれた社会的な存在のなかの「わたし」という観点からすれば、「わたし」のなかには不可避的に規範的な暴力を内面化する契機がある、ということになる。これはキャサリン・ミルズがバトラーへの批判として提起した観点だとバトラーが紹介している。これに対してバトラーは「わたしたちは少くとも部分的には暴力を通じてかたちづくられる」ことを認めるが、そうだとしても次のように主張することは可能なはずだ、と反論する。

わたしたちをかたちづくる暴力と、いったんかたちづくられた後のわたしたちがみずからふるう暴力との間に、何らかの決定的な破損が生じることはありうる、と。それどころか、人が暴力を通じてかたちづくられるというまさしくそれ故に、自らをかたちづくる暴力をくりかえさない責任が、それだけいっそう差し迫った重要性を持つのかもしれない。p.202

私も同様の観点を主張してきたので、この観点にほぼ同意する。暴力を宿命としてきた社会や個人の歴史から、この先の社会と個人の未来もまた暴力を宿命とすると予測する、こうした手法をバトラーは否定し、むしろ暴力を通じてかたちづくられた「わたし」の責任は、この暴力を繰り返さないことにあると断言する。暴力によってかたちづくられる「わたし」といっても、家父長制のなかで女性としての「わたし」と男性としての「わたし」とでは、全く正反対のかたちづくられ方となるだろう。その上で、これはひとりひとりの人間の私的な生育歴の場合であれ、社会が形成されてきた歴史的な経緯――建国の神話あるいは史実――であれ、これらをたしかに形成してきたにちがいない暴力を、歴史的事実としては否定することはできない。しかも厄介なことに、この社会の多くの人々が、こうした暴力には肯定されるべき側面があるとすら評価しているために、暴力は容易に再生産されてしまう。躾としての「愛の鞭」であれ、あの戦い(暴力)があったからこそ今のこの社会(国家)が生まれたのだ、という暴力への賞賛であれ、こうした言説を支える実感に対して、非暴力という主張が実感のレベルで納得を得られるのは容易なことではない。この困難を承知のうえでバトラーは、上に引用したように「自らをかたちづくる暴力をくりかえさない責任」を自らに課す。

ここでバトラーが念頭に置いている暴力をめぐる規範なるものは、法などで制度化された軍や警察による合法的な暴力装置に関するルールといった実定法的なものというよりも、むしろ、各個人が内面化している暴力についての閾値――正当なものとして容認しうる暴力とそうではない暴力を分かつ境界――についての慣習的な直感とでもいうべきものが関心の中心にあるように思う。バトラーが法や制度とは言わずに、より曖昧な「規範」という言葉で問題を提起するのは、暴力という行為の是認を人々の内面的な価値判断として問題にしたいからだろう。一世代前であれば、許容され肯定されていたかもしれない家庭内の大人による子どもに対する躾のための体罰――学校の教師の体罰でも同様だが――は、暴力をめぐる規範としては容認しうるものとみなされたが、現在では、容認しえない暴力として分類される。日本では戦後直後には、自衛力も含めて武力を保持することは国家の暴力規範としては是認できないが、米軍の駐留とその暴力の存在を是認しうるという暴力規範の閾値が支配的だった、ともいえる。その後この規範もまた変容して多くの人々が――「平和憲法」を擁護して改憲に反対する無視できない数の人々ですら――自衛のための戦力の保持を容認するようになる。暴力をめぐる規範は変容するが、いずれも暴力は一定の規範に沿う形で調整されて法(あるいは法解釈)として正当化される。だからこそ、既存の規範において容認される暴力を否定することが非暴力にとっての重要な立場となる。このことを踏まえた上で、暴力のなかで自己を形成してきた「わたし」が、自らをかたちづくる暴力を将来においていかにして繰り返さないという行為が、集団性を獲得することを通じて、この暴力規範の閾値をゆさぶる可能性があることにもなる。そして更に、そもそもの暴力それ自体を無化する方向へと社会を変える可能性もこうした責任を自覚した行為のなかから生み出されるだろう、ということでもある。

4. 暴力の背景

バトラーは暴力においてかたちづくられる「人」のなかには「国家的な敵意の構造を通してかたちづくられている」場合があり「敵意の構造は、市民的、そして私的な生活においてさまざまなかたちの支流をなしている」とも言う。その上で、次のように問う。

その形成の作用が人の生涯を通じて続くとき、形成史における暴力をどう生きるのか、暴力を反復するなかでいかにずらしや反転をひきおこすのか、についての倫理的な難局が生まれる。p.205

「倫理的」という意味は、道徳のような外部からの要求ではなく、自己自身の内面からの判断として非暴力という判断を選択することだ。自分自身が暴力の直接の加害あるいは被害の当事者ではないにしても、暴力を経験としてもちながら育ち、今現在の生活もあるということは、誰にでもありうる環境でもある。この現実から将来においても暴力を規範として繰り返されることを宿命とか必然とはみなすような決定論が生み出されるのだが、これをどのようにしたら回避できるのか。当事者でなくても「いかにずらしや反転をひきおこすのか」という極めて実践的な問いに直面せざるをえないことになる。暴力の現実があるなかで非暴力を選択するとはこういうことを意味している。バトラーは畳みかけるように問う。

わたしはみずからの形成の暴力をどのように生きるのか?その暴力はわたしの中でどう生きつづけているのか?その暴力はいかにわたしを、わたしの意志にかかわらず、前進させる(carry)のだろう、わたしがその暴力を保持している(carry)まさにその時にさえ?そして、どのような新しい価値の名において、わたしはその暴力を反転させそれに反対できるのだろう?そういう暴力の向きを変えることが可能だとして、それはどのような意味においてなのか?p.205

このような問いが投げかけられる背景は様々想定できる。バトラーは米国で、とくに、2001年9月11日のいわゆる「同時多発テロ」事件を経験しており、本書は2009年に書かれていて、『生のあやうさ』(2003年)の続編ともいえる位置にあるが、他方で、ジェンダーと暴力の問題に日常的に直面してきた経験もまた彼女の問題意識の背景にある。常に世界のどこかで戦争をし、国内では銃の所持が合法化されている米国は、国家レベルでも私生活のレベルでも暴力という経験のなかでしか人は成長できず、物事を考えることができない社会であり、社会とはそういうものなのだと誰もが自覚せざるをえない環境にある。だから暴力のなかでどのように生きるのか、同時に暴力は「わたし」のなかでどのように肯定され維持されてしまうのか、といった一連の問いが切実なものになる。

他方で日本の場合は、むしろ、暴力は可能な限り隠蔽される。あたかも国家権力は暴力を最小化した存在であるかのように自らを演出し、強制であっても自発的な同意であるかの装いをとろうとする。明確な武力行使の組織である自衛隊を軍隊とは理解せず、憲法上の戦争放棄の規定と矛盾しないとみなすレトリックを多くの人々が受け入れる。日本の米軍基地がアジアの戦争に加担しても、冷戦期の戦後復興がアジアを市場とする経済帝国主義であっても、国境を閉じて移民や難民を門前払いしても、これらの仕組みがおしなべて、他者に対する暴力であるという認識は共有されてこなかった。憲法が残虐な刑罰を禁じているにもかかわらず死刑制度を当然の刑罰とするが、その執行は極力目立たないように演出される。死刑廃止を支持する世論が少数派であることは、刑罰を見せしめや復讐とみなす価値観が根付いていることを示している。学校の体罰も家庭の親の暴力も教育や躾としてその行為に倫理的道徳的な価値すら認める価値観が長年肯定され、人権という観点はどこか「外来」の価値観でしかないような位置に置かれ続けてきた。自らのなかにある暴力を肯定する価値観に気づかない。だからこそ、そこに暴力が伏在しているということを認識しようという努力は払われなかったのではないか。

日本では、暴力の存在は隠蔽され、巧妙にその行為の意味を転換させられ、暴力のなかを生きてきたという「生のあやうさ」の現実が容易に消し去られてしてしまう。だから、なによりも私たちは、上のバトラーの問いに向き合う前に暴力に気づくことから始めなければならない。隠された暴力あるいは潜勢力にとどまる暴力に気づき、その上で暴力は宿命でもなければこれを将来にわたって自分の内面に抱えこむべき理由のないことを確認する方向へと向う必要がある。日本のばあい、こうした過程なしには内面化されて暴力とは気づかれないかたちで国家が行使する暴力が見逃されやすくなり、こうした隠された暴力を厳しく否定する立場そのものが成り立ちがたくなる。

5. 葛藤

暴力のなかで生きざるをえない「わたし」が非暴力を主張するということは、葛藤を抱えこむ覚悟をもつことでもあるとバトラーは述べている。

主体をつくり維持することにともなう暴力なくしては、倫理的な「要請」としての非暴力を理解することはできないだろう。そのような暴力なくしては、葛藤も、責務も、困難もないだろう。重要なのはみずからの産出の条件を根絶することではなく、ただ、そのような産出を決定する力に異議を唱えるように生きる責任を引き受けることなのだ。p.206

逆説的だがバトラーは「人が暴力にまみれているまさにそれゆえに、葛藤が存在し、非暴力の可能性があらわれるのだ」ともいう。非暴力をめぐる葛藤への注目は、私にとっては、重要な示唆与えるものだった。私はともすると、単刀直入に「いかなる場合であれ武器はとらない」と宣言したり、暴力は問題を解決できず先送りにするだけである、といった主張を、ある種の「理屈」としてのみ述べることで十分だと見做しがちであり、スローガンによる決意表明でもなければ理屈による暴力の否定でもない暴力の問題の核心を外してきた。たとえば、「もしミサイルが飛んできたらどうするのか」とか「敵が侵略してきても抵抗しないのか」とか「親兄弟子どもたちが殺されそうになっているときに見殺しにするのか」などといった様々なありがちな「想定問答」――これらはマスメディアや政府が繰り返し煽る不安感情でもあるが――に対して、容易には非暴力という答えを選択することはできない、という実感だ。こうした実感が、国家の自衛権としての武装を容認する感情的な基盤となってきた。バトラーは暴力を選択しかねない切実な状況に真正面から向きあっている。だから、非暴力を選択するということは葛藤を伴うことであり、この葛藤を直視して、そのなかから非暴力という答えを見出すという困難な道を選択する覚悟をもつべきだと言うのだ。3バトラーは非暴力は美徳ではないし、立場でもない、とも言う。暴力の現実に直面するなかで、人は非暴力という選択をめぐる葛藤のなかでみっともなくおたおたし、時には暴力の助けを借りるという誘惑に負けることもあるだろう。しかし、これで終りなのではなく、そこから挫折を反省し自らを責め苛むなかで、再度非暴力への道筋を手放さずに追求しようという葛藤の連続でしかない。

国家規模での暴力との関係がやっかいなのは、国家の側は私との関係を法や行政の強制力や私の側が有する権利などの様々な社会関係を通じて、あらかじめ私との「関係」を構造化している点にある。そのために、ここに生じる相互依存といってもいい関係は確実に不平等である。私の主体的な選択や意思に先立って、私には選択の余地のないものとして、国家がしつらえた国籍や「国民」、ジェンダー役割、エスニシティというアイデンティティが半ば押し付けられることになる。この枠組のなかで家族関係があり、生育環境が準備される。この所与としての逃れることが困難な関係として構成される枠組のなかに暴力が内在する。バトラーはこれを「必然的で相互依存的な関係」と呼ぶ。非暴力は、ここに割って入り、暴力への抵抗を構築しなければならない。バトラーは次のように言う。

意図せざる効果のすべてが「暴力的」ではないにせよ、その中には人を傷つけるような衝撃もあって、身体に力づくで作用し、憤怒をひきおこす。これが、非暴力という動的な拘束状態、あるいは「葛藤」を構成しているのだ。(中略)人が暴力にまみれているまさにそれゆえに、葛藤が存在し、非暴力の可能性があらわれるのだ。p.206

暴力に「まみれている」という言い回しは、暴力が必然であって回避不可能だということではない、ことを意味している。だから、ここに暴力を選択(容認)するのか、それとも非暴力を選択するのか、という葛藤が生まれ、この葛藤のなかで悪戦苦闘する先に非暴力を選択する可能性も生まれる。暴力にまみれているということ自体が皮肉にも非暴力への葛藤の条件であり、しかも葛藤の結果として非暴力ではなく暴力を選択してしまうという失敗もまたしばしば生じさえする。だからこそ葛藤なのだ、とも言う。そして次のように言う。

非暴力はまさしく美徳でもなければ立場でもなく、ましてや普遍的に適用されるべき一連の原則でもない。それは、傷つき、怒りくるい、暴力的な報復にむかいやすく、にもかかわらずそのような行動をするまいと葛藤する(そしてしばしばみずからに対する憤怒をつくりだす)ような、暴力にまみれ葛藤をかかえた主体の位置を示しているのだ。暴力に反対するたたかいは、暴力が自分自身の可能性だということを受け入れる。p.207

暴力と非暴力の葛藤があるなかで、暴力は、非暴力に対してみずからの正当性を主張する。しかも攻撃を受け傷つき報復感情が最大となるような状況――911「同時多発テロ」がバトラーの念頭にあったのだろうか――のなかでは、社会の多数が暴力に承認を与えるような局面となる。こうした報復感情は「性急かつ最大限の道徳的な確信をもって報復に向けた動き」が伴う。葛藤は、暴力と非暴力の選択の間にあると述べたが、単なる暴力というよりも、暴力の行使を要請する道徳的な立場と暴力を差し控えて別の手段をとるべきとする倫理的な立場との間に生じるものだ、といった方がいい側面がある。ここでは道徳的な要請が暴力の側に加担することになるわけだが、こうした意味での道徳を暴力を内包する国家が繰り返し人々に与えたがるものになる。

6. 憎悪と破壊

バトラーは、このやっかいな葛藤の構図に対して、レヴィナスの「顔」の議論を参照しながら「殺す欲望と、殺さないという倫理的必要」の葛藤に言及したり、メラニー・クラインの「喪失をこうむった主体にはのみこみつくすような攻撃性がそなわっている」といった道徳的サディズムあるいは暴力の道徳化を参照する。とくにクラインについては数ページにわたっての言及があり、他者と自己の間の暴力をめぐる錯綜した関係が一筋縄ではいかない構図をもつことが、自殺をも視野に入れて論じられている。憎悪や破壊の対象と自己との関係は、単純な敵・味方の二分法の構図には当て嵌らない。言い換えれば、憎悪の対象とみなされる対象は決して単純な憎悪の対象ではなく、「破壊性にさらかって対象を保護しようとする試み」が内包されている。自らが破壊した対象に対して悲しみを覚えるとも言う。

この指摘は、暴力の構図を非暴力の構図へと反転させるためには、敵対する双方の関係を非敵対的な別の関係へと転換させるプロセスを必要とするが、この転換は何を契機にして可能になるのか、という問題と関わっている。憎悪の感情を収束させるためのひとつの手掛かりとしてバトラーがここで関心をもつのは、暴力としてあらわれる可能性をもつ憎悪が暴力へと駆り立てられることなく、この一見すると制御不可能にすらみえる感情を抑制するメカニズムが自己の内部にありうることに気づくことだ。

これは、いわゆる人間の暴力性をめぐる長い論争へのバトラーなりのひとつの答えではある。4ある種の学説にとっては、人間の破壊性は本能であって人間の本質でもある、ということになるが、バトラーは、こうした議論に巧みなうっちゃりをかます。たとえ破壊性が人間の本性だとしても、この破壊性の方向づけは多様であってひとつではないと指摘し、さらにここには「他者を破壊性からまもろうとする責任の、基盤となりうる」ものが含まれ、この責任は「まさしく、道徳的サディズムに対する、暴力の否認からつくりあげられた純粋さの倫理に独善的にみずからの基礎をおく暴力に対する、代案である」という。暴力は、常に自己の生を守ることだけに執着するから、他者の生を守る倫理的責任を伴わない。そうでなければ暴力は行使できないからだ。こうした暴力が人間社会にとって必然だからこそ、この暴力から守ることもまた人間にとっての責任だということになる。破壊本能を自覚するからこその責任であり、非暴力なのだとバトラーは言いたいのだと思う。このように、バトラーがここで暴力を支える道徳的サディズムに対置しているのが「責任」という観点だ。

(前略)責任は、怒りに観ちた要請に対する非暴力的解決を見つけだすという倫理的命令のみならず、攻撃性をも、「自分のものと認める」。正式な法にしたがってこれをおこなうのではなく、まさしく、みずからの潜在的な破壊性から他者を守ろうとするために、そうするのだ。人は、他者のあやうい生を保持しるという名において、愛するものたちを守るような表出様式へと、攻撃性をつくりあげる。攻撃性はこうしてその暴力的な配列に制限をくわえ、他者のあやうい生を尊重しそれを守ろうとする愛の要求に、みずからを従属させるのだ。p.213

こうした観点は敵・味方の二項対立の図式からはでてこない。そもそも「わたし」に課せられた責任とは、攻撃性に加担しかねない葛藤を抱えた私であるというところを出発点としている。相手のあやうい生を認識できるということは、相手のこのあやうい生を脅かし破壊するのではなく、逆に何とかこれを支えるために攻撃性を差し控えるための最大限の努力を傾注するというところに自らの責任を置く。この観点は、国家は好戦的で戦争の準備をしているが、私たちはそうした国家とは無縁な平和を主張する者だ、という平和主義には回収できない観点だ。むしろ平和主義者であっても、その帰属する国家の暴力に責任が伴うだけでなく、葛藤と自己の内面に潜む破壊性に無自覚な平和主義はむしろ暴力を見逃しかねない危険性すらあることを示唆している。

7. 被害者と非暴力

そしてまたバトラーは、暴力によって毀損され迫害される主体という被害者の立場から非暴力を論じることにも否定的である。この点は、特に重要な観点だと思う。

特定の主体が、みずからを定義上傷つけられ、それどころか迫害された存在だと考えるならば、そのような主体がどのような暴力行為をふるうとしても、それは「危害を加える」ものとは理解されないだろう。そのような行為をおこなった主体は、定義上、害を被ることしかできないことになっているのだから。結果として、傷つけられたという地位にもとづいて主体を産出することは、主体自身の暴力を正当化する(そして否認する)恒久的な根拠をつくりだすことになる。p.215

ここでの特定の主体をイスラエルを指すものとして読むことができる。ユダヤ系で確信的な反シオニストでもあるバトラーは、この文章を確実にイスラエルを念頭に、パレスチナに対して繰り返される暴力の歴史を踏まえて書いていることは間違いない。私にとっては、この文章は同時に、戦後日本の欺瞞的な平和主義に潜む落とし穴をも的確に指摘するものになっていると思う。戦後の平和主義の主流は、国家の戦争に対する「国民」の被害者感情に依存し、加害責任の問題を可能な限り最小化するなかで、多くの日本人が犠牲となったという観点に立って、戦争を二度と繰り返すべきではない、というところに平和の起点を置いた。日本の侵略と加害には極力言及せずに、戦争で多大な犠牲を被り――そのわかりやすい例が原爆による被害だ――、その反省の上にたって平和憲法によって戦争を放棄してきた日本、という構図は、定義上戦争において害を被ることしかできない日本が行使するかもしれない暴力なるものは、被害者としての暴力として正当化される、といった理屈に陥る危うさがある。このことを上の文章は気づかさせてくれる。

8. 他者の生との関わり

では、こうしたなかで非暴力の契機とはどのようなものになるのだろうか。

ここに非暴力が出現する機会があるとすれば、それは、あらゆる国民の損傷可能性を承認すること(それがどれほど真実であるとしても)からはじまるのではなく、自分が結びつけられている他者の生とのかかわりにおいてみずから暴力的にふるまう可能性を理解することからはじまる。この他者には、わたしが選んだこともなければ知りもしない者たち、したがって、わたしとの関係が契約の約定に先立つ者たちも、含まれている。p.215

ここで「自分が結びつけられている他者の生とのかかわりにおいてみずから暴力的にふるまう可能性を理解する」と述べていることを、身近な人間関係のなかで捉えようと国家間の軍事安全保障の緊張関係のなかで捉えようと、どちらであれ、他者とは、「わたし」が暴力を行使したいという情動にかられかねないような関係にある他者であることは間違いない。こうした他者への加害の可能性を理解するなかで非暴力の選択が可能になる。

ただし、ここでバトラーが強調するもうひとつの条件がある。それは生のあやうさをめぐる不平等な現実だ。「生きうるもの、嘆かれうるものとみなされる生とそうでない生とに格差を設ける規範」あるいは「損傷可能性を不当にそして不公平に割りあてる」枠組に批判的な介入し疑義を呈することが必須だという。

バトラーの非暴力の主張には、暴力の契機は外から来るとは限らず、暴力を構造化した社会のなかで生まれ成長してきた人間として、「わたし」の内面にある暴力の情動を孕む潜勢力を自覚することの必要性がある。しかも、暴力をある種の規範として内包する社会を生きるということは、生のあやうさを生きることであるにもかかわらず、とくに国家権力がグローバルに優位な地位を占めている国に暮す者たちにとっては、暴力による破壊や毀損は相手=他者が被るものであって、自分が被るものではないはずだ、という前提を置きながら、この相手からの暴力の報復を被るのではないかという不安に常にさいなまれることになる。しかしいずれの側にあろうとも、生のあやうさを生み出す構造からは抜け出すことはできず、そうであるが故に、あやうい生をもっぱら相手に押し付け、自らの生を確たるものにしようという不可能な願望に捉えられる。この構図には非暴力の余地はない。むしろバトラーは、この世界の仕組みが人為的に構築した敵と味方の構図を切り裂いて、生のあやうさを他者に見出し、この他者の生のあやうさの責任を自らのものとして理解することを通じて、暴力の罠を回避する回路を見出そうとしていると思う。

9. おわりに――残された問い

バトラーの議論は決してわかりやすくはないし、彼女自身のある種の躊躇や逡巡が率直に語られつつも非暴力の選択を決して断念しない、という力づよさがある。問題意識は明確だ。非暴力はいかにして憎悪や差別の感情を消滅させることになるのか、あるいは特定の対象にのみ向けられる喪や哀悼の感情を、どのようにして敵とみなされてきた他者に対しても向けうるものとして再構成することが可能なのか。つまり、暴力を規範とする現在の社会のその先に、将来における和解や肯定的な絆の構築がどのようにして見出しうるのか。暴力を構造化し規範化する背景に「生のあやうさ」というキーワードを提起したバトラーの観点は、非暴力という課題が内包している極めて複雑な感情の政治学を提起するものといえた。非暴力をめぐる葛藤のなかで悪戦苦闘することを自覚的に選択することから、暴力を廃棄する社会変革へと至る道筋を見出すことは容易ではないが不可能でもない。しかし、葛藤することこそが非暴力への道であり、暴力の前に非暴力の無力さに挫けそうになる、やはりこの際は国家の武力に委ねることもやむをえないとして妥協してしまいそうになるところで、逆にいかに踏みとどまり非暴力へと至る可能性もに賭けるのか。

「生のあやうさ」や「葛藤」といった概念の枠組は、バトラー自身が過ごしてきた苦闘の経緯そのものであり、表現の抽象度とは裏腹に、実は極めて現実的で切実な経験に裏付けられたものだと思う。とすれば、バトラーの問題提起を非暴力の実践に媒介するために何が必要になるのだろうか。日本の現実に引き寄せて考えるとき、特に最低限の自衛のための戦力保持を肯定するような平和主義という立場がますます有力になりつつあるようにみえるなかで、再度明確に断固として非暴力をつまり自衛権の放棄を選択するということを、葛藤を抱え込みながら主張するということが今切実に必要になっている、ということだ。バトラーは非暴力を原則とすることに否定的だが、むしろ私は逆に、葛藤を自覚しつつも非暴力という原則を立て、この原則の困難性としてたちはだかる現実の社会と人々の心理的感情的な不安や敵意と向き合い、とりわけ自衛権としての暴力批判を説得力をもって提起することだと思っている。

他方で、バトラーの観点からは見えてこない暴力の問題があることも指摘しておきたい。それは、とりわけ国家の暴力や集団としての暴力の場合、暴力は憎悪の感情に代表されるような情動の構造だけで説明できるのかどうか、である。暴力を組織し、敵を破壊しよとする集団的な計画性や法や統治の制度などの枠組形成は、感情の領域だけでは完結せず、説明もつかない。暴力のこの側面はバトラーの方法論ではアプローチが難しいように思う。計画的な軍事としての暴力の対象になるのは「他者」というよりもむしろ単なる標的である。そして自らの側の組織された暴力を統制し管理する仕組みのなかで人間は兵士とされて人間としての本来の存在を与えられることはない。全てが数値化されデータ化され、勝敗の結果は殺傷された数に還元される。このことを了解して暴力の主体が構築される構造が人権や民主主義の近代が生み出してきた戦争の基本的な構図だ。なぜこのようなことが可能なのかを明かにするには、バトラーとは別のアプローチが必要になると思う。このことはバトラーのアプローチが無効だということではない。ある種の物象化された暴力の組織のレイヤーとバトラーが着目した生のあやうさのレイヤーは重層的な構造として暴力を規範化している、というべきだろう。

Footnotes:

1

バトラーは多くの著作で暴力批判を取り上げてきた。そのなかで本稿で対象にしているのは『戦争の枠組』(清水晶子訳、筑摩書房)第5章「非暴力の要求」だけである。バトラーの非暴力論としては、この他に、『生のあやうさ』、括弧自分自身を説明すること』、『非暴力の力』、『権力の心的な生、主体化=服従化に関する諸理論 』、『分かれ道、ユダヤ性とシオニズム批判』などがある。

2

バトラーは非暴力について次のような問いを立てる

  • どのような条件のもとで非暴力の要求に敏感に応答するのか
  • 非暴力の要求が届いたときそれを受け止めることを可能にするのは何か
  • そもそも非暴力の要求が届くにのに必要な準備をするのは何か

本稿では、これらの問いに直接応答できていない。

3

この文脈では、暴力が国家規模の大きな権力との関係で露出する場合と、身近な人間関係のなかで生じる場合とでは、非暴力の意味が全く違ってくるように思う。しかし以下で私は、主に国家による戦争を念頭に置いている。

4

暴力や攻撃を人間の本能とみなす主張に対する批判として、A.モンターギュ『暴力の起源、人間はどこまで攻撃的か』、尾本恵一、福井伸子訳、どうぶつ社、参照。攻撃本能説としては、コンラート・ロレンツやデスモンド・モリスがよく知られている。フロイトも死の欲動を主張することで事実上攻撃性を人間の本性に位置づけるようになる。クロポトキンの『相互扶助』は、攻撃本能批判として読むことができる。

Author: toshi

Created: 2025-01-16 木 16:55

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「戦争はなぜに」――アインシュタインとフロイト往復書簡への批判

目次

1. はじめに

ここでは、アインシュタインとフロイトの間で交わされた戦争をめぐる書簡をとりあげて、戦争を廃棄するための前提となる問題について考えてみたい。1

1932年7月30日、国際連盟の国際知的協力機関の提案を受けてアインシュタインは、戦争をテーマとした書簡をフロイトに送る。この書簡のなかでアインシュタインは、数世紀もの間、平和を希求する試みがありながら達成できていない背景として「人間の心自体に問題がある」のではないかと問い、心理学者のフロイトに次のように書いている。

なぜ少数の人たちがおびただしい数の国民を動かし、彼らを自分たちの欲望の道具にすることができるのか?戦争が起きれば一般の国民は苦しむだけなのに、なぜ彼らは少数の人間の欲望に手を貸すような真似をするのか? (中略) 国民の多くが学校やマスコミの手で煽り立てられ、自分の身を犠牲にしていく――このようなことがどうして起こり得るのだろうか? 答えは一つしか考えられません。人間には本能的な欲求が潜んでいる。憎悪に駆られ、相手を絶滅させようとする欲求が!2

アインシュタインは、人間の心の問題こそが戦争を考える上で重要なことであり「人間を戦争というくびきから解き放つことはできるのか?」と自問し、フロイトにこの問いへの答えを期待した。この書簡でアインシュタインは、フロイトが「この焦眉の問題に対してさまざまな答え(直接的な答えや間接的な答え)を呈示なさっているのは、十分に知っている」とも述べている。アインシュタインがフロイトのどの著作に接してこう述べたのかは具体的には語られていない。たしかにフロイトは第一次大戦以降、戦争の問題に関心を寄せて時評3を書き、「死の欲動」という新たな概念を提起してきたことが念頭にあったのかもしれない。

これに対して、フロイトは返信の冒頭でアインシュタインの問いを「心理学者の立場から考察するなら、戦争を防止するという問題はどのような様相を呈するかを述べるのが期待されている」4と要約している。しかし、書簡の内容は、自身の主観(あるいは戦争体験)と交錯する形で論じられている。5彼は、書簡執筆時点では平和主義者を自認するが、第一次大戦に反対したことはない。戦争を嫌悪する者という基本線をとりながらも、論旨は戦争をやむなく肯定せざるをえない場合があることも率直に認めるなど、相対立する観点や感情が交錯しながら展開されてゆく。つまり、かつての戦争に反対しなかったのにはそれなりの理由があり、同時に、だからといって賛成していたわけでもないのにもそれなりの理由がある、ということを、第一次大戦という言葉を避けながら、語っている。

フロイトの議論は、アインシュタインの問いを踏まえて、これまでの人類の歴史的な経緯と現在について、どうして戦争が防止できないのか、この点を個人と集団としての人間について、心理学者がとりうる観点というところから議論を試みるが、その背後に、彼自身が実際に戦争に対してどのような心理で向き合ったのか、という個人の経験や感情を払拭しきれていない。この個人的な経験と心理学者としてこれまで行なってきた研究とが交錯するような彼自身の複雑な心理状態が書簡に反映している。だから、戦争を防止するという問題を、心理学者として、こうすれば防止できると答えられているわけではない。もし答えられるのであれば、とっくにそのように発言しているはずだ。しかしまた、戦争を肯定し戦争が人類にとって宿命であり回避不可能だとも答えてはいない。このような惨劇が文明(フロイトのいう文化)の帰結であるとは認めがたいことだという実感を持ってはいる。だからこそ、戦争を防止することも必然とすることも、ともに可能な選択肢としてあると言う以外にない、というのがフロイトの答えである。その上で、彼は心理学者としての理論的帰結としてではなく、ひとりの人間の選択として、戦争を防止することこそが平和主義者としての自分のとる態度であるという決断を示す。

フロイトはこの書簡で何度かアインシュタインが想定するような都合によい戦争を防止するための心理学的な答えなどはありえないということを、時にはかなり悲観的に、あるいはあたかも戦争を必然とみなして肯定すらしているかのようにすらみえる表現で述べてもいる。アインシュタインの一般論としての戦争についての問いを、より具体的に、「フロイトさん、あなたは平和主義者であるということですが、なぜ第一次大戦に反対しなかったのですか?その理由を心理学者としてのあなたの専門に即してお答えいただくことは可能ですか?」とでも問えば、彼が戦時中戦争をどのようなものとして経験し、何を考え、なぜはっきりと反対の意思表示をしなかったのか、といった一連の事柄にもはっき答えたかもしれない。

この意味で、この往復書簡から、平和の理論的な根拠のようなものを期待することはできない。しかし、戦争へとひきずりこまれる個人と集団が陥りやすい罠がどのあたりに潜んでいるのかについては、いくつかの示唆を得ることができる。フロイトのこの書簡は短かいものであり、これだけでフロイトの戦争論――暴力論といった方がより妥当かもしれない――とでもいうべき議論全体が網羅されているわけではない。しかし、書簡での議論をひとつのきっかけにして、戦争を廃棄するという問題へのアプローチにとって、必須の課題が何なのかを知るための重要ないくつかの論点は得られるだろうと思う。

2. 法と動物――暴力の場所

アインシュタインが戦争を主題として取り上げたとき、彼の念頭には、紛争解決の司法と立法の権限が与えられうるようなある種の世界政府のような統治機構が創出されれば戦争を防止しうるかもしれない、という思いがありつつも、他方で、こうした権力を有する国際的な司法権の確立が困難だという悲観的な現状認識が述べられている。その上でアインシュタインは、だからこそ平和を阻害する人間の心の問題に関心をもち、フロイトの答えを期待した。

フロイトは、このアインシュタインの法と権力の問題の枠組みを受け入れつつ、権力と法を暴力と言い換えうるものと冒頭で断っている。つまり、法は暴力から生まれ、暴力も法から生まれる。両者は相対立する概念ではなく、相互依存、あるいは相互に相手を前提・根拠としている、という見方が示される。第一世界大戦が法治国家の枠組みのなかで法認された暴力として展開されたことを想起する必要があるだろう。

その上で、フロイトは、本来(つまり原始時代の、と言いかえられるような時代が想定されていると思われる)人間相互に利害の衝突があったときの問題解決の手段は「原理的に」暴力であったとし、「動物界全体でも同じで、人間は自分がこの一部であることを自覚すべき」であり、こうした光景が「もともとの状態」「暴力による支配」だという。いわばフロイト流の自然状態ということだろうか。人類は、このもともとの状態から変化してきたが、これが「暴力から法に通じる道」であり、「唯一これを措いてはほかにないそんな道」でもあるという。6法を暴力とみなしている観点を念頭に置くと、これは、暴力から暴力の潜勢力としての法へ、という過程でしかなく、暴力に抗する過程だというわけではない。法は常に暴力が顕在化する契機をはらむものであり、合法的な暴力としての軍隊や警察、あるいは監獄のような刑罰の制度は、戦争の前提をなすことはあっても戦争を廃棄する契機をはらむものとはいえない。この限りでフロイトは、利害の衝突を広義の意味での暴力以外の方法で解決するという具体的な選択肢は一切与えていない。7 この意味で、フロイトはアインシュタインのようなある種のコスモポリタンの理想主義者としての立場をとらない。

この書簡でフロイトは、暴力に属する殺害行為に格別な位置を与えているようにみえる。殺害によって「相手を永続的に除去するとき、すなわち殺してしまうときに」相手の異論や要求の排除が「最も徹底したかたちで達成される」のであり、これが見せしめとなって、他の者も殺害を恐れることになる。しかし、これは単なる実利的な振舞ではなく「ひとつの欲動的な傾向を満足させ」る行為でもあるとする。他方で、殺害ではなく生かしておく場合は、ここに服従の関係が生まれる。この服従関係は「敵に対する容赦の始まり」となるが、同時に「勝者はこれ以後、敗者の内に潜む復讐心を考慮に入れねばならなくなり、自分自身の安全の一部を放棄することになります」2と述べている。8

フロイトは、唯一絶対の強大な力を持つ者に対して、団結してこれに立ち向かう弱者の集団という対抗関係を経て、人類は、暴力が抑制される道を歩んできたという。「暴力は団結によって打破され、この団結した者たちの権力が、一転、個人の暴力に対抗して法となって現れるのです」と言う。だが、先に指摘したように、フロイトは権力や法という概念をあえて「暴力」と置き換えることを意図的に表明していた。だから法と暴力の関係は次のようになる。

法とはひとつの共同体の権力なのです。法はあくまで暴力であり、共同体に逆らう個人がでてくれば、いつでもそれに対抗する用意ができており、暴力と同じ手段を使い、同じ目的を追求します。実際のところ違いは、言い分を押し通すのが、個人の暴力ではなく、共同体の暴力であるという点に尽きます。9

剥き出しの暴力から法の外皮を纏った潜勢力としての暴力へという歴史的な展開が文字どおり史実であったかどうか、私は疑問に思うが、他方で、革命から革命後の安定した秩序構築へ、といった社会過程を念頭に置いてみた場合、暴力による秩序から法による秩序――潜勢力としての暴力の秩序――へと移行する過程をたどる歴史は近代史のなかでも珍しくないだろう。

3. 感情的な絆と暴力――なぜ戦争に熱狂するのか

フロイトの記述は法や暴力が個人とどのような関係にあるのか、という問題には曖昧さを残しているが、これは意図的だと思う。つまり、剥き出しの暴力を抑えこむ潜勢的な暴力としての法を確立するには、共同体を構成する多数者が団結堅固であることによって独裁的な個人による暴力を抑制する必要がある、というわけだが、どうして諸個人が「多数」となり、この潜勢的な暴力=法を承認することになるのか。

共同体は永続的に維持され、組織化されねばならず、懸念される反乱を予防するための規則を作成し、この規則――法律――の遵守を監視し法に則った暴力行為の執行を担当する機関を設置しなくてはいけません。このような利害の共同体を承認することによって、団結した人間集団の成員たちのあいだに互いを拘束しあう感情の絆、共同体感情が出来上がってきます。共同体の本来の力は、この感情によるものなのです。10

フロイトは権力の暴力自体は否定せず「暴力行為の執行を担当する機関」の必要性を認め、この承認を前提として、共同体を維持する多数者の「互いを拘束しあう」「感情の絆」ができるとみているところに注目したい。共同体の感情、よりわかりやすくいえば、近代国家であれば、ナショナリズムの感情がもたらす諸個人相互の絆は、フロイトによれば「拘束しあう感情の絆」であって、彼がいう肯定的な欲動、快原理に基くものではない。このフロイトの発想は、家族関係のなかでの暴力の位置に関するフロイトの枠組みを国家に横滑りさせているに過ぎないようにも思われる。つまり、家族のなかで夫であり父である男が暴力の潜勢力を独占する一方で、この暴力を前提として家族相互を束縛する感情の絆による家族感情が構築される。これに不可欠な要素として「愛」が絡みつく。確かに、この枠組みでは、暴力は顕在化せず、家族の「永続性」は維持されるが、これが平和の内実をもつものではないことを、私たちはよく知っている。近代家族のイデオロギーはこれをロマンチック・ラブのイデオロギーで正当化する。フロイトの上の議論は、この構図がそのまま国家とナショナリズムとして横滑りさせられている。フロイトにとって近代家族の暴力の潜勢力を説明することはできても、これを克服する道を与えることができていない。同じことは国家と戦争(暴力)についても言いうることだ。11

この感情の絆は共同体内部の治安には貢献するかもしれないが12、外部に対する暴力を否定するものではない。共同体の外部から共同体に対して振われる暴力の問題は、共同体の成員間で形成される感情の絆の外にある集団からの脅威であるから、感情の絆という条件は、戦争のような他者に対する暴力を回避する目的には寄与するとは限らず、むしろ感情の絆が戦争へと集団を駆り立てかねないという問題に着目すべきだった。

しかし、フロイトは「成員たちの感情の絆という拘束によって結束が保たれるひとつのより大きな統一体に権力を委譲することによって、暴力は克服されるのだ、ということです」と述べて、彼が言いたい「本質的なところはすべて出そろった」13と結論してしまう。人間から暴力あるいは戦争そのものを完全に排除することはできないが、剥き出しの暴力を法という暴力の潜勢力に置き換えることによって暴力を回避することは可能であるというだけでは、法によって正当化される戦争に関する問いには答えたことにはならない。事実、フロイトの書簡は、この後もかなり長く。

感情の絆は戦争への人々の感情的な動員にも寄与する。フロイトはアインシュタインへの返信のなかで次のように書いている。

あなたは人間を戦争に熱狂させることが実に容易であるのを不思議に思っていらっしゃる。そして、人間の内には、何か憎悪や殲滅への欲動といったものが作用しており、これがそのような扇動に迎合するのではないかと推測していらっしゃいます。ここでもまた、私は何の留保もつけずにご意見に賛同するほかありません。14

フロイトは人間の欲動には二種類しかない、と断言する。「維持し結合しようとする欲動群」あるいは「エロース的な欲動群、あるいは通俗的な性の概念を意識的に広げて性的欲動」と呼ばれるものと「破壊し殺害しようとする欲動群」である。フロイトの学説のなかでもその評価が分かれる「死の欲動」がここに関わる。15これらの二つの欲動は相互に連携しながら作用する。「これら二つの欲動のうちいずれもが必要不可欠なのです。両者が協働したり対抗しあったりする中から様々な生の現象が生じてきます」。16 だからこれらの欲動が単独で作動することはほとんどない、ということが前提にされている。そして、他方で、性的欲動と破壊欲動が相互に矛盾するわけではない点も指摘する。

たとえば自己保存欲動は、たしかにその本性がエロース的なものとはいえ、自らの意図を貫徹することになるなら、それ自身、攻撃性を備えている必要があるのです。同じように、対象に向けられた愛の欲動も、そもそも自らの対象を手に入れようというなら、征服欲動の援軍を必要とするのです。17

この指摘は重要な観点を提起している。性的欲動は自衛のためには相手を攻撃する性質を備えているという。攻撃=破壊欲動と性的欲動は一体となって、自己保存を確立することになる。他者の死と自己の生という関係がここでは肯定されることになる。言うまでもなく、この関係は相手にも言えることだから、結果として、自他の間には性的欲動にそそのかされた破壊欲動の衝突が避けられないことになる。

フロイトは欲動がエロースと破壊性の合成と捉えているから、人間の行為とは、そもそも、複数の動機が出会うことが必然であるという理解になる。だから、戦争へと向かう人間の欲動を、たとえそれが破壊欲動であったとしても、「快」の欲動に分類することができるものでもあり、戦争の動機は人それぞれであり、ひとつではない、ともいう。

攻撃と破壊に興じる快は、間違いなくそういった動機のひとつであり、歴史上の、あるいは日常の数えきれない残虐行為は、これらの動機が存在し、またいかに強力であるか裏付けています。この破壊追求が別の追求、たとえば性愛や理念の追求と混汞すると、当然、満足が得られやすくなります。18

攻撃や破壊に快を割当てるのはなぜなのか。なぜこうした行為を抑圧するように、つまり不快を割当てないのか。いや、実際には、ある人達には快を、別の人達には不快を割り当てるのであって、同じ共同体のなかでも、その反応は同一にはならない。なぜ、そうなのか。快によって促される残虐行為は、こうした行為を抑制する契機を見出せない、ということになるように思われるが、しかし、他方で、こうした残虐行為が、ある時点で反省され抑制へと転換することもよくみられるように思う。軍であれば、兵士の残虐行為を上官が抑制する、逆に上官の残虐行為命令を部下の兵士が拒否する、といった対立する判断が生まれることもある。なぜ、そうなのか。また、残虐行為の現場では、同時にレイプなどの性犯罪も随伴することがよく知られている。フロイトの上の指摘はまさに、この点を指摘しているのだが、残虐行為が快であり、快である以上性的欲動(エロース)を動員するだろうという筋道はその通りだとしても、そもそも残虐行為に快を割当てるメカニズムが不明なままだ。父の暴力が父にとっての性的欲動に基いていることは理解できるが、このことが、国家レベルの軍事組織の暴力を支え、更に「国民」としてのアイデンティティへの統合の背景にある、ということだとしても、このようにはフロイトは端的には表明していない。これ以外に別の答えがあるとは思えないが、なぜフロイトは端的な答えを避けたのか。あるいは、私が推測するこの答えはそもそも間違いなのか。この問題は、厄介な問題を提起する。戦争を廃棄し暴力の契機を排除するためには、人々の生育環境のなかで潜勢的な暴力を制度化する家父長制的な家族関係そのものの廃棄を伴う必要があり、このことは、フロイトが意図的に回避しようとした幼児期の性的暴力を構造化させてきた近代家族の抑圧という問題を蒸し返す必要がある。暴力の問題が、ここまで人々の生育環境と私的で親密な人間関係にまで降りてこない限り、自衛を含む暴力を肯定する心理に抗うことはできないのかもしれない。

なぜ戦争の残虐行為に性的欲動が動員され「快」が割り当てられるのかは、父-母-子のエディプス・コンプレクスのなかの暴力と抑圧の構造の延長線に――あるいは類推に――よっては理解しえない別の要因があると思う。この点は、アインシュタイン=フロイトの書簡を対象とする本稿の範囲を越えるので、一言だけ述べるにとどめたい。戦争の残虐行為を可能にするメカニズムに不可欠な条件は、端的にいえば人間の物象化である。他者を「物」あるいは「物」になぞらえうるシンボリックな存在にすることによって、殺傷行為はあたかも「物」の破壊であるかのような心理的処理を可能にする仕組みが存在する。とりわけ近代の戦争は、物象化の構造によって凄惨かつ大規模なものになり、そのための技術もまたこの線に沿って開発されてきた。人権や人道が普遍的な価値の位置を占めた近代世界が人類史上稀にみる大量殺戮の時代であるのは、他者を物とみなすことを可能にするようなメカニズムが作用しているからだ、とみる以外にない。「物」には人権はない。人間を物とみなすということは、当の人間に人権を認めないということでもある。ここには近代世界に特有の物象化と疎外のメカニズムがある。相手を人間でありながら人間ではないものとして扱かう特異な認識枠組がどのようなものなのか、それがどのようにして心的外傷を回避する作用をもたらすのかなど、様々な課題は別稿に譲ることになる。

自衛のための破壊欲動の正当化といっていい破壊欲動と性的欲動の共犯関係は、戦争を論じる場合のひとつの核心をなしている。日本のなかで、繰り返されてきた自衛のための戦力を肯定する主張が次第に多数派を形成し、平和憲法を擁護して9条改憲を否定する人達の中にすら、自衛のための殺傷行為を現行憲法9条の文言のなかに読み取ろうとする場合が少くない。9条を心情的には支持しても、戦争に伴なう被害者不安は拭い去ることができないからだ。だから国家による自衛権行使までは否定しがたい感情に囚われることになる。ここには、国家の自衛権行使の意図の見誤りがあるように思う。この問題を考える上で、個人の心理に焦点を当てたフロイトの破壊欲動とエロース的な自己保存欲動の不可分一体性という理解は示唆的だ。この議論は、個人の情動に根差した感情に関わる。個人の感情が個人を越えて集団的な心理として構成され、それが法や制度の構造と絡みあう。このように、私たちひとりひとりの心理は、ナショナリズムに収斂されるような集団的アイデンティティへと媒介される回路に組み込まれている。法制度や軍隊の問題と、この国に暮す人々ひとりひとりが、自分を「日本国民」と自認してアイデンティティを形成することが当然とされる枠組みのなかにあるという問題は、戦争を論じる場合の二つの極をなすものだ。この構図のなかで、人々は不安感情を煽られ、自己保存の欲動を私的な情動のなかで内面化する物語(フィクション)を作りだす。自分の国(この「の」が曲者だ)は正義を体現し、その周辺には虎視眈々とこの国を侵略しようと狙う不正義な国々がある――これはフロイトが第一次大戦初期に抱いたイギリスへの敵意にもみられる――かのような「物語」だ。これが、国家の物語としてではなく、私的な一個人の心情の物語として実感される。戦争が悲劇に終わろうともこの物語は容易には否定されない。フロイトですら悩まされたに違いない経験的実感は、理論的な客観視を獲得できても実感を記憶から消し去ることはできない。とりわけナショナリズムは戦争の勝敗に関わらず強固に人々の社会心理の核心を支配しつづける。

4. 理念・理性と破壊欲動

フロイトは、破壊欲動と性的欲動の共犯関係とは別に、歴史上の様々な蛮行への理念の共犯関係も指摘する。

私たちは、歴史上の蛮行を耳にするとき、理念的な動機は破壊的な情欲によって単に口実として利用されたにすぎないという印象を受けることがままあります。別の場合にはまた、たとえば異端審問における残虐行為では、もろもろの理念的な動機が意識の前面でわれ先にひしめく一方、破壊的な動機がそれらに無意識的に加勢していると思われたりもします。いずれもありえます。19

破壊的な情欲――欲動と言い換えてよいだろう――を正当化するために理念的な動機が持ち出される。逆に、理念に破壊欲動が加勢して、この理念的な動機の達成を促す。前者の場合、破壊欲動を誘引する事態が何かなければならない。その何らかの事態が破壊欲動をもたらすためには、この破壊欲動を抑制する反対の欲動が抑え込まれる必要がある。こうした欲動のベクトルの弁証法がどのようなメカニズムをもっているのかは、ここでは語られていない。異端審問のばあいは、理念的な動機が破壊欲動へと導かれる過程がこれまでの研究でも取り上げられてきた。こうした組織的な処刑の行為を遂行する教会などの組織がもつ破壊欲動は、いわゆる怒りや激情に根拠をもつものというよりも、理念が駆動力になっているのであって、理念が殺害の破壊欲動を導くことに寄与している。個人の破壊欲動が感情的な要素(怒りなど)を不可欠の条件にしているとすれば、軍や教会などの支配的な組織が破壊の主体になるときには感情的な要素は必ずしも必要条件ではない。しかし、こうした組織は、自らの行為を正当化するために、人々に対しては理念だけではなく憎悪の感情を煽る。実際の虐殺を組織化する当事者ではない傍観者たちは感情的な要素が支配的な破壊欲動の主体となることによって、加害に手を貸すことになる。異端審問であれ集団虐殺行為であれ、実際には、この両極のなかで展開されるような理念と情動の弁証法が機能しているに違いない。

5. 全ての戦争が否定されるべきものとはいえない

この書簡でフロイトは自衛のための戦争を肯定する。ここに、戦争の是非についての曖昧さがかなりはっきり示される。

共同体が個々人の生を処する権利を持つべきでないかどうかは疑問です。またあらゆる類いの戦争を一律に弾劾するわけにもいきません。折あらば容赦なく他を殲滅するつもりでいる帝国や国が存在する以上、他の国々としては戦争に備えて装備を整えておかなければなりません。

婉曲な言い回しだが、個人が生きるか死ぬかの決定を共同体に委ねることがありうると述べている。つまり野蛮で残酷な帝国の侵略のような場合には、個人が自らの生死を国家に委ねることを否定せず、自衛のための戦争の必要を肯定する。残虐な国家と、これに侵略される残虐ではない国家、このありがちな対比のモデルが前提されているが、自分が帰属する国家が果たして残虐な国家ではないということをどのようにして間違いなく判断できるのだろうか。多くの戦争は、敵を残虐とし自らを正義あるいはその被害者と位置づけることによって、自衛のための戦争行為を正当化する。こうした世界理解が虚偽であるか真実であるかは重要な問題であるとしても、破壊欲動を動員し諸個人をナショナルなアイデンティティに同一化させる枠組が功を奏するかどうかという点に関しては、真偽の問題は関係がない。世界理解は真実であれば人々の情動を動員することに成功する、ということはない。世界理解の枠組は真偽の二元論でもない。真とは言い難いが虚偽とも言い難い理解の領域があり、ここでは宗教や神話といった要素が人々の世界理解と欲動のベクトルに重要な役割を果す。また、それだけに留まらない。理念的な動機が破壊的な情欲によって口実として利用されうるのだから、理念や理性すら破壊欲動に加担する。暴力的な国家を構成する人々や権力者はなぜ破壊欲動を権力の具体的な制度として実体化するところにまで至ることが可能なのか、こうした問題にここでは応えていないが、その答えは、情念ではなく理念的な支えの存在だろう。それは哲学や美学であるかもしれないし、歴史学であるかもしれない。フロイトはこの点に気づいてはいても深追いをしていない。

浮世離れした理論家ではなく現実主義的な一個人としてフロイトは、自らの専門性をこうした現実にある権力の破壊欲動の根源にあるものを探ることも断念し、また、これを回避する上で必要な心的な構造の模索も断念している。フロイトが精神分析の専門家であって政治や社会を対象とする学者や活動家であるわけではないのだから、こうした問いをフロイトに投げかけるのは、御門違いだという批判がありうるかもしれない。しかし、フロイトは、社会のありようと自分の専門性との関係に無関心ではなかったし、むしろ社会と個人の心的な状況との関係こそが彼にとっての関心を支える背景に一貫してみられるものでもあった。ただ単に禁欲的な研究者であり分析家であったわけではない。だから、とくに第一次世界大戦を契機に「戦争神経症」について関心を寄せ、共同研究を残し、集団心理についても独自の考え方を示してきたのだと思う。

他方で、フロイトが社会(共同体)と個人の関係を理解するために利用可能な持駒には独特な偏りがあることも確かだ。それは、個人と社会(共同体)との繋がりを構成する枠組には、個人が家族関係を介して家族の外部にある、より大きな社会集団と繋がりをもつことを、個人の出生から成人に至る成長過程を視野に入れて自我形成を理解しようとする側面と、他方で、私からすると大きな飛躍があると感じるのだが、「原父」といった概念に示されているような太古の時代へと遡及するような半ば遺伝的な系譜を含んだ歴史的な時間のなかで個人のパーソナリティの宿命的な側面――これを「エス」と名付けるようになるが――があるのだが、この両者を媒介するより精緻な歴史と個人の関わりを架橋するような枠組みが欠如している。だから近代国民国家という歴史的な権力の構成のなかで戦争が組織化され、人々が動員されるという構造もまた不十分なままになる。

とはいえ、家族関係のなかでの生育環境がパーソナリティにもたらす影響――ここには個人が意識することのできない無意識の領域も含まれる――という微視的な個人の特性に焦点をあてることにおいては、フロイトの枠組は比類のない重要なパラダイムであることは間違いない。ここを出発点として、近代国民国家の歴史のなかで演じられてきた破壊欲動の構造化とでもいいうるような戦争と個人の関わりをめぐる多くの重要な業績がフロイト以後に生み出されることになった。だから、フロイト以後の戦争や暴力をめぐる議論が、家族と国家の歴史認識のミッシング・リンクを繋ぎあわせるための様々な試みとして展開されてきたことは当然の成行きともいえる。私がここで念頭に置いているのは、たとえば、エーリッヒ・フロム、ウィルヘルム・ライヒといった同時代といっていい人達から、ハーバート・マルクーゼ、(ライヒを踏まえた)ドゥルーズ=ガタリ、あるいは、スラヴォイ・ジジェクやジュディス・バトラーといった現代の理論家たちまで、フロイトと戦争や暴力の問題への関心は途切れることがない。

6. 破壊欲動と生物の宿命

フロイトの破壊欲動が戦争と関連づけられるとき、破壊欲動が人間に生来備わっている欲動であるということから、戦争を回避できないという理屈が生まれがちだ。いわゆる人間には破壊本能があるのだから戦争という破壊行為を避けることはできない、といった俗説的な戦争宿命論の類いだ。フロイトは次のように書いている。

[破壊]欲動が生あるものすべての内に働いており、さらに、その生体を崩壊に至らせ、生なき物質の状態に連れ戻そうという志向を備えているという見解に至ったのです。この欲動は、文字どおり死の欲動という名に値します。(略)死の欲動は、特別な器官の助けを借りて外部へ、対象へ向けられると、破壊欲動となります。生物はいわば異物を破壊することによって自分自身の生を維持します。しかし、死の欲動の一定部分は生物の内部に残存し働きつづけます。20

上の文脈では、「死の欲動」とは、生命体が死す運命にあるということの言い換えにすぎないものになっている。ここでは、自然死を受け入れさせるメカニズムが人間のなかには存在する、という以上のことを意味していない。その上で、フロイトは、この死の欲動が「特別な器官の助けを借りて外部へ」向かうことによって、破壊欲動になるという。私は、この議論には疑問がある。ここで「特別な器官」と呼んでいるのは、「生物はいわば異物を破壊することによって自分自身の生を維持」すると例示しているように、たとえば口を使って獲物を咀嚼して食う行為のような場合だろう。死の欲動がこの意味に限定されるなら、主題になっている戦争や残虐行為の説明からはかなり程遠く、この説明は、戦争という手段を選択する理由としては説得力に欠ける。戦争もまた自己保存の一つの現れ――いわゆる自衛のための暴力――だとしても、戦争は、生物としての生存を維持するための食糧の獲得、あるいは飢餓⇒死を予想しての自己保存の手段としての獲物の捕食行為に類するもの、とはいえない。この意味での死の欲動を戦争の文脈でもちだされてしまうと、戦争はなくても生きられる方策はいくらでもあるはずではないか、という素朴な疑問にすら答えられないことになる。

フロイトはこうした生物学的な観点に後段で再度言及し、「人間の中にある醜く危険な志向」としての破壊欲動を「なんとか打破できないものか」と自問しながらも、この破壊欲動が生物学的な根拠をもつ以上避けえない性向であることを認め、破壊欲動への志向「のほうが、それに対する私たちの抵抗よりも自然本性に近いというのは認めざるをえません」21とまで述べる。戦争もまた生物学的な宿命にその根拠があるかのようなこの言い回しによって、破壊欲動から派生する戦争へと向かう動きは、ある種の悲観論的な宿命論になってしまう。

そもそも戦争というものは自然の道理に適い、生物学的にも歴とした基礎を持ち、実際面ではほとんど避けられそうにありません。私の問題提起に驚かないでください。(略)右の問いに対する私の答えは次のようなものでしょう。いわく、なぜなら、人間は誰しも自分自身の生にこだわりそれを処する権利を持つからであり、また戦争は希望に満ちた人生を破滅させ、個々人をその尊厳を辱めるような状態に追いやり、彼らをして、望んだわけでもないのに他人を殺害するように無理強いし、人間の労働によってもたらされた成果である貴重な財貨を破壊するからだ。そればかりではない。たとえば、戦争も現代のような形態になると、昔の英雄的な理想を充足する機会を与えてくれないし、また招来の戦争は、破壊手段が完成し、敵対する陣営の一方だけではなく、もしかすると双方の側もろともの根絶を意味することになるだろう….。22

この悲劇的な結末が自明であるにもかかわらず破壊欲動を抑制できないでいることについてフロイトは「挙げて人類が一致して戦争遂行を棄却していないのを不思議に思うほかありません」と述べている。彼が持ちだした破壊欲動の仮説をもってしても戦争がなぜ存在しつづけるのかを説明できていない、ということを率直に認めた形だ。

この引用文に続けてフロイトが次のように述べているところに注目したい。

私たちは相当数の正常な現象や病的な現象をこの破壊欲動の内面化から導き出すことを試みました。良心の成立を、攻撃性が内部へ向けられることから説明するという異端に手を染めさえしました。 お察しのとおり、この現象があまりに大規模に行われると、まったく危なげないとは言えません。端的に不健全であります。23

破壊欲動の内面化と良心という問題は、性的欲動に含まれる近親相姦のような逸脱を抑制し自らに欲動断念を強いる超自我がもたらす社会規範への従属の問題でもある。破壊欲動の内面化は破壊欲動を抑え込むが、フロイトは、これが「危なげないとは言えません」とか「不健全」だと言うのは、これが精神的な疾患となることがありうるからだろう。しかし、破壊欲動の内面化は、別の道を見出して露出することがある。つまり、内面化は、暴力という手段を選択しなように人間の行動を規制することを意味するのではなくて、逆に、破壊欲動が自己の欲動の基本的な性質として自らの自我を乗っ取り支配し、破壊欲動が人格を支配してしまうような状態になる場合がありうるからだ。しかも良心は、ここでは暴力や破壊欲動を断念させるものではなく、逆に、破壊欲動を発動させることを禁欲しようとする傾向を断念させ、暴力へと差し向けようとすることに加担するようになる。多くの人々が国家のために戦場に赴き敵を殺害して歓声を上げ、自らの命も国家に委ねることこそが良心が命ずることなのだ、というふうに、超自我の構成も性的欲動も破壊欲動に加担することができるように転換することにもなる。フロイトがあえて「この現象があまりに大規模に行われる」場合に言及しているのは、個別に見いだされる破壊欲動の断念をめぐる個人の葛藤や良心に由来する強い抑圧とは逆に、大規模な集団的な現象になったときには、良心による歯止めは効かずに破壊欲動の内面化が容易に外部へと方向転換しうる事態がありうる、ということを示唆していると解釈したい。そう解釈したとして、なぜ大規模な現象においてはこうした事態が生ずるのか、その理由については述べられていない。

7. 物質的な充足と平等による攻撃性の消滅は錯覚である

貧困と不平等が社会的な摩擦の背景にあり、戦争もまたその現れである、という考え方はフロイトの時代にも根強くあった。これに対してフロイトは、平等で物質的に充足された社会こそが平和の到来の前提だするボルシェビキの主張には同意しない。フロイトは、平等と物質的充足によって「人間の攻撃性を消滅させることができる」というのは「錯覚」に過ぎず、この考え方ではせいぜいのところで「なるべく別の方向に誘導して、攻撃への傾向性が戦争で表現される必要がないようにすることぐらい」24だという。戦争が抑制されるだけでも重要な転換だと私は考えるが、フロイトはこれを重視せず、人間の攻撃性の消滅に繋がらないことを重視する。

フロイトは、戦争ではない状態が人間にとって文字どおりの意味での平和ではないと考えている。フロイトが重視するのは社会の平和ではなく個人の「平和」なのかもしれない。フロイトは「好んで戦争へと向かう態度が破壊欲動の発露ならば、この欲動に対抗するには、それに対立する存在たるエロースに声をかけるというのが当然、考えられるところです」25という。エロースとは戦争に抗う感情の絆のことだが、これには二種類ある。ひとつが「愛する対象へ向かうような関係」であり、もうひとつが「同一化による一体感」だという。しかしフロイトは、エロースは自己保存の欲動によって自衛のための暴力に加担する、と指摘していたのではなかったか。愛する対象に向かう場合であれば、この愛する対象の生存の危機に対して、この危機を招来する者への攻撃が動機づけられるだろう。同一化の場合も、同一化の対象の危機は自らの危機でもあるから、こうした危機を招来する者への攻撃をもたらすだろう。いずれも攻撃である以上破壊欲動に主導され、結果として破壊欲動に帰結してしまい、破壊欲動に対抗するという目的には寄与しない。

これに対してアインシュタインに示唆されて、フロイトは、「理想的な状況」と断わりながら「自らの欲動生活を理性の独裁に服従させた人間たちの共同体」26であれば「完全で抵抗力を持つ、人間の結束を呼び起こしうるもの」であって、感情の絆が断たれても、結束は揺がないのではないか、と指摘する。しかしこれは「九分九厘、ユートピア的な希望」に過ぎないとして自ら却下してしまう。

結局フロイトは紆余曲折を経つつ、自らの専門性からの回答を断念している。「浮世離れした理論家」という自らに向けたかのような皮肉まじりの言い回しをしつつ、「いま手許にある手段でもって、それぞれ個別に危機に対処するように努めるほうがいい」27という現実主義に軍配を上げてしまう。

同時に、更に「なぜ私たちは戦争に対してこれほどにも憤慨するのでしょうか」「なぜ私たちは人生の数ある辛い窮境の何かほかのひとつのように、戦争を堪え忍ばないのでしょうか」28とすら自問する。特別に憤慨すべきことではないかのような言い回しだ。ここにはフロイトのアンビヴァレントな感情が滲み出ている。彼は直感的に自らの率直な感慨として、戦争を否定しようという気持を抱いていることは間違いないが、こうした「平和主義者」の態度を最初から持っていたわけではなく、むしろ戦争に熱狂した自分をも経験している。この経験は、彼の心理学者としての専門家の知見に基いて選択されたものではない。フロイトは、この書簡の中で、なぜ自分は戦争を肯定しオーストリア人としてのアイデンティティに同一化したのか、なぜ自分は戦争への熱狂から覚めて冷静な判断を取り戻すことになったのか、という自らの経験の振れ幅のなかで揺れ動いている。

8. 神話と文化

フロイトはこの書簡の最後で、破壊欲動をある種の生物学的な必然の側に置きながら、人間には、これに抗う可能性があることを示唆する。この可能性とは、人間にしかない文化的な条件である。そして、自然本性ともみなされる破壊欲動に対して、これに抵抗する自己の存在が由来するものとして「神話」に言及するやや不可解な一節がある。

「 もしかするとあなた[アインシュタイン]は、私たちの理論が一種の神話だ、しかも神話であるにしてもいささかも悦ばしい神話ですらない、という印象をお持ちかもしれません。しかし、すべての自然科学は最終的にこのようなある種の神話に行きつくのではないでしょうか。今日、あなたがたの物理学では事情は異なるでしょうか。」29

こう述べた直後に「とりあえず人間の攻撃的な傾向を廃絶しようと望んでも見込みがないということを引き出しておきましょう」と書いている。これは、攻撃的な傾向を廃絶することは不可能な目標だが、これを抑圧することはできるという含意を残した言い回しである。フロイトがここで神話と呼んでいる意味内容をやや論旨から外れて飛躍的に解釈しておきたい。30ここで「神話」と呼んでいるのは、エディプス・コンプレクスのようなギリシア神話をモチーフにした暴力の物語が念頭にあってのことなのか、あるいはより一般的にフロイトがトーテミズムやその他の古代あるいは原始社会について抱いている事柄に関わるのか、それにしてはあまりに無限定な表現だ。しかも神話という概念は、フロイトにとってはかなり重要な位置を占めていることを念頭に入れると、ここで精神分析理論がある種の神話だ、という大胆な断言を含んでいるので余計謎が深くなる。31とはいえ、神話をもちだすことで生物由来の破壊欲動に抵抗する何らかの対抗的な立場が想定されていることは理解できる。

神話や儀礼にみられる象徴的な破壊行為やその表象は、現実の破壊行為を回避するものであり、暴力を内包しながらもこれを廃棄できないからこそ、これを抑圧する人間の心的な構造の発達として捉えることもできる。たとえば、家父長制的な家族制度のなかであれば、父の絶対的な権力を背景にして、暴力の実際の行使に至らない抑圧的な秩序の形成によって、子どもたちはエディプス・コンプレクスを内面化することで暴力は潜勢化し「平和」的な外観の均衡が確立される。しかし、この枠組みの外部には、この均衡に還元できない複雑な欲動のベクトルによって、結果的に暴力の実際の発動を促す力が出現する。家族関係の内部に潜在的に内包されている暴力を顕在化させない権威主義的な抑圧の構造は、その外部に対しては機能しない。私の疑問は、こうした象徴的な側面は何も「原父」を持ち出したり、古代や原始の神話を参照する必要はなく、むしろ近代世界が生み出した象徴的な権力の構造で十分説明できるし、説明しなければならない事柄だ、という点にある。むしろ近代の権力は、古代や原始に時代、あるいは神話的な物語を想起させることによって権力の歴史的な正統性を示す必要があることの現れなのではないか。

9. 文化の所産

これまで私は、破壊欲動に焦点を当て述べてきたために、破壊欲動が人間にとって支配的な欲動だというのがフロイトの主張の基調にあるという誤解を生みそうだが、もちろん、そうではない。フロイトに一貫しているのは、むしろ快原理こそが人間の欲動の基調をなすといってもいいものだとみなしている。だから戦争に憤慨することは当然の感情だということ、「私たちが平和主義者であるのは、もろもろの器質的な原因からしてそうあらざるをえない」32とも言うが、しかし、そうであっても破壊欲動は消し去ることができない。

フロイトは、戦争が常態化しないのは、快と不快とは不可分一体のものとして存在しながらも、この対立するベクトルから合成される現実の行為の方向性が、快を求め不快を回避する「平和主義者」の性向が支配的だからだ、考えている。しかし、重要な観点は、「平和主義者」であることが人間の基調にあるとしても、それが戦争を否定したり拒否すること、あるいは戦争を廃棄することを意味してはおらず、戦争を回避できる道筋には位置していない、という点なのだ。人間社会は、日常的な暴力を介して共同体を構成し、その構成員を支配しているわけではなく、暴力によらない統治――潜勢的な暴力による統治――が共同体の紐帯や支配の基本的な支えになりつつも、間欠的に顕在的な暴力の行使が不可避なものとして登場することが許される。フロイトの文脈でいえば、それが法によって定められた暴力だということになる。共同体そのものが外部の他者に対して、同じ人間としての尊厳を認めず、むしろ「物」であるかのようにみなして支配を当然とする価値観をもつばあいであれば、暴力はより頻繁に他者への支配の手段として行使されるだろう。

なぜ戦争を回避できないのか、という問いへのフロイトの答えは、ある意味で人間の生物学的な器質に根拠をもつ暴力へと立ち戻ってしまうために、宿命的であり回避不可能性が答えになってしまう。これが人類の将来にまで該当するものだと宿命論として前提されてしまえば、戦争を廃棄すること、あるいは暴力による権力支配を廃棄すること、という将来に向けた課題を設定すること自体を無意味なものにしてしまう。33

さて、フロイトのアインシュタイン宛の書簡に戻ろう。この書簡は「文化」の問題への言及で終えられている。ここに、快原理の衰退とも受けとれるような歴史の経緯についてのフロイトの理解が示されている。フロイトの快原理の基本にあるのは性愛であり、性的な欲望の充足がもたらす快への肯定的な価値観だ。性的欲動が戦争に加担し共犯関係をもつことは先に指摘した通りだが、今、この議論は脇に置いておこう。フロイトは、性的な快楽の枠組みが、一方で近親相姦へのタブーにみられるような社会的な禁忌による抑圧――近代家族はこれをエディプス・コンプレクス、つまり家父長制として制度化する――と同時に、社会的に容認あるいは推奨されるような性的快楽の充足のルール、社会的規範としての近親相姦のタブーに抵触しない性的な諸関係の構築によって形成されるとみている。性愛の快楽は、性器性交に収斂するかのようにみえるが、そうとは限らず、異性愛に限定されることもなく、人間には本来多様な性的嗜好が存在することをフロイトは肯定する。性道徳の社会的な規範は、こうした人間が本来もっている快原理を何らかの形で抑圧せざるをえない。従って、人間の性的嗜好や実際の性行動は、この規範とこれからの逸脱の弁証法的な構造をもつ。この規範がもたらす抑圧と自己の内面にある規範を逸脱する快への志向の間の摩擦こそが心的な疾患の根源にあるものだともいえる。

その上でフロイトは、この書簡の最後に、文化的な過程が「性的な機能をいくつかの点で損って」34いると指摘している。いわゆる文明化された社会になればなるほど出生率が下がる、という今現在でもよく指摘されるような傾向が当時からあり、このことをフロイトは指摘している。そしてこうした出生率の低下は「特定の動物種の家畜化に比べることができるかもしれません」「この過程には身体的変化が伴うのは疑いないところです」とまで指摘し、「文化の発展がこのような器質面での変化の過程」であり「この変化とは、欲動の目的の遷移」の進行であるとも書いている。こうした変化はフロイトにとっては「文化の発展に伴う心的な変化は顕著で、紛れもない事実」とすら言う。器質的変化が具体的に何を指すのかは明示されていないが、文脈上からすれば、性的な器質の変化だろう。性的な欲動が何か別の破壊的な欲動ではないものへと「遷移」しつつあるという判断だが、ここで二つの点が重要だという。つまり「欲動の活動を支配しはじめる知性が強まること」であり、もうひとつが「攻撃的な傾向性の内面化」35だという。そして後者は「有用な帰結も危険な帰結も多々伴います」と補足する。欲動を支配しはじめる知性とは、欲動を制御する超自我の言い換えだろう。アインシュタイン宛の書簡であることを踏まえれば、この知性とはある種の科学的な認識とでも括ることができる人間の知的な活動一般を指しているのかもしれない。欲動がもっぱら生物学的な器質に基づく人間の感情に属する領域を占め、これに対峙する超自我が道徳や倫理、あるいは宗教的な教義といった価値観に体現されるものとみなされがちななかにあって、人間の出生から成人に至る発達過程に占める親と子の関係のなかで構成される欲動の抑圧よりももう一段社会性をもって欲動を抑える要件として、知性が示唆されているのかもしれない。

文化の発展に伴なう器質変化過程が欲動の目的の遷移を伴うとして、それが戦争とは真逆の方向へと人類を導くことになる、というフロイトの考え方には納得しがたいものもある。というのも、人類史をある種の文化の発達――「発達」とは何なのかは今は問わない――の歴史であるとみるとして、この歴史が戦争を抑制する方向をとって進化してきたと判断する二つの方法がある。ひとつは、経験主義的に――あるいは帰納主義的に――事実の積み重ねから戦争の抑制傾向を証明できるとする方法。もうひとつは、快原理のように、何らかの人間の本性のなかには戦争や暴力を忌避する性向があり、これを実現する方向で歴史は進化するだろうと判断する方法だ。いずれにも難点がある。前者は、データのとりかたから戦争や暴力の定義と現実の事象との対応の手法まで、様々あり、恣意的になりやすい。後者もまた、人間の歴史的な進歩や発達についての一定の価値観なしには成り立たない。この問題は、人類史の長期的な趨勢を暴力が抑えられる方向で発展してきたと理解することができるかどうかにかかっている。36フロイトの観点に即してみると、たぶん、個人であれ集団であれ、自己の性的欲動を維持する手段として、自らを脅威に晒す他者に対する破壊欲動が強化され他者を駆逐するか従属させることを通じて自らの性的欲動を充足させる方向が、人類史のこれまでの歴史がとってきた方向ということになる。この方向は、同時に、文化的な要素のなかで知性や理性への比重が高くなればなるほど、性的欲動も抑圧されるが、より脆弱になった性的欲動を防御するためには、従来以上により強力な破壊欲動を他者に向ける必要がでてくる。この流れでは、戦争はますます蔓延し、破壊欲動を実現するための手段(兵器や武器など殺傷技術)はますます高度化することになる。そうでなければ脆弱な性欲動を防衛できない。そしてこの関係のなかで、破壊欲動の発動を正当化するための普遍的な言説を理性が担うことになる。たぶんフロイトの文脈のなかで、彼が見逃したのはこうした筋書きのなかで戦争が肯定され蔓延する方向がありうるという観点だったのではないだろうか。

フロイトは「文化の過程が私たちに強いる心理的な態度に真っ向から楯突くのが戦争です」37と述べているのだが、ここで言われている戦争と対立する文化の側につく心理的な態度の核心にあるのは、「知性」であり、また有用な帰結をもたらすような「攻撃的な傾向性の内面化」だ。つまり、戦争を抑止する傾向は、一方に「知性」として示されている理性的あるいは合理的な人間の判断や行為規範と、他方で人間の攻撃や破壊の欲動を抑制する知性や理性にはなしえない別の人間の側面、情動そのものの内部にある破壊や攻撃とは真逆のベクトルをもつものであり、快の欲動が攻撃的な傾向を抑圧する方向で抑え込む。攻撃欲動の自己制御の可能性が示されている。暴力を抑制する主体の確立の可能性が文化の発達や知性の傾向のなかから生み出されうるものとみているように思う。

しかし他方で、この同じ主体は、まさに主体的な選択として攻撃欲動を選びとる、ということにもなりかねない。この攻撃欲動には知性が関わるのであって、合理的な判断を背景として手段としての攻撃や破壊が選択される。欲動の蠢きは、ある意味では知性的な制御を受けつつも攻撃や破壊を回避する方向には向かわずに、むしろ自己保存と快の欲動を味方につけて、より一層強力な力を発揮することになりかねない。

フロイトの観点は常に相対立しあうベクトルの複雑な組み合わせの上に人間の感情や行動を捉え、矛盾した条件が並列して提示される。これは、論旨の破綻ではなく、固有の弁証法である。フロイトにとって、戦争とは不可避だが、同時に「憤慨せざるをえない」対象でもある。戦争は不可避であるが、同時に「戦争に耐えることなど、私たちにはもはやそもそもできなくなっています」とも書くように不可避であることに抗う傾向が必ず存在することに確信を持つ。そしてほぼ最後に近い箇所で次のようにも言う。

それ[戦争の拒否]は単に知的で情動的な拒否ではありません。それは私たち平和主義者にあっては、器質的な不寛容であって、ひとつの特異体質がいわば極端に肥大化したものなのです。また、残酷であるのに加えて、戦争が美的な観点からしてこき下されているのも、私たちが戦争に反発を覚える大きな理由のひとつではないかと思われます。38

平和主義者となることが特異体質の極端な肥大化だという言い回しは、平和主義者であることが社会のなかの異端であることの表明だが、しかし、他方で、「文化的な態度と、将来の戦争が及ぼす影響に対する当然の不安」が他の人々をも平和主義者につくりかえて「近いうちに戦争遂行に終止符が打たれるであろうというのは、ひょっとすれば単にユートピア的な希望ではないかもしれません」そして「文化の発展を促すものはすべて、戦争に立ち向かうことにもなるのだ」39とあえて楽観的な見通しを述べてはいるが、私はこの言葉を額面通りには受けとれない。

10. 落とし穴――死の欲動で戦争は理解できない

アインシュタインは人間の本能的な欲求のなかに憎悪に駆られる破壊衝動があり、これが多くの人々を戦争に抗うのではなく、むしろ自発的にすら動員される根源にあるのではないか、という深い絶望的な人間への不信ともいえる認識を示していた。だから、戦争を阻止するためにこうした破壊欲動を阻止する方法をフロイトに問い掛けた。フロイトの回答は上にみたように紆余曲折し、端的には答えていない。平和主義者を自称するフロイトは願望としての平和、嫌悪の対象としての戦争を語りはするが、社会はむしろ戦争を肯定し破壊欲動を正当化しようとする傾向があることも認める。人間は平和を選択することもあれば戦争を選択することもあり、この選択肢から戦争を除外することはできない、どちらに転ぶかは、誰にもわからない。

フロイトは死の欲動という新たな概念を戦後になって導入するが、これは戦争をめぐる人間の心理への答えにはなっていない。戦争が最も深刻な問題として人々の間で議論になるのは、戦争行為が人間による人間に対する目的意識的な殺傷行為だからだ。殺傷行為は死の欲動に根拠をもつと解釈することはできるが、死の欲動が必ず殺傷行為を伴うわけではない。殺すことと殺されることはともに殺傷行為であっても同じではない。死の欲動は、そのいずれにも関わるが、それが性的欲動のベクトルとの間で形成される情動のあり方は基本的に異なるように思う。フロイトは死の欲動を論じてはいても、どのようにしてこの欲動から殺傷行為が発動されるのか、その道筋を明かにはできていない。むしろフロイトは、死の欲動と殺傷行為を同じこととして扱ってしまったために、殺傷行為が人間の器質的なレベルにまで遡って不可避であるかのような印象を与えてしまうことがある。しかし、常に、こうした印象は打ち消されもするのだが、その打ち消しには説得力が欠けてしまう。俗な言い回しをすれば、本能vs文化あるいは野蛮vs文明といったつまらない二項対立の通俗的な歴史観にフロイトもまたどこか囚われている印象を拭えない。

私は、死の欲動を肯定するが、それは、生命体である以上避けられない「死」にかかわる心理的な機制であって、それが暴力と関わるかどうかは、一概には決められないものだと思う。逆に、性的欲動は、死と対極にあるのではなく、自らの性的欲動を発動あるいは防衛するために他者に向けた暴力を積極的に肯定する(サディズムとも関わりがあるとみてもいい)側面があり、この意味では性的欲動は死の欲動の担い手にもなる。殺傷行為がこうした欲動の構造とどのような関わりをもっているのかは、フロイトの議論だけでは理解できない。この短かい書簡だけでなく、他の彼の著作を通してみても、殺傷行為を、個人であれ共同体全体についてであれ、直接現代の戦争を対象にして論じたものはほとんどないのではないだろうか。むしろ殺傷行為に関わる議論は神話や人類学に関連する文献のなかで登場し、これが現代の社会や人間の心理を理解するための手引きとされるという迂回路を通っている。なぜだろうか。

もうひとつのフロイトの理解に関する問題は「文化」についての評価にある。彼は、この書簡の最後で、文化の発展が戦争に立ち向かう方向をとることにかなりの確信をもって断言している。全体として未開社会と比べて文化的に発達した社会の方が暴力への傾向が低減するとみている。この理解については、ひとつだけ反論を挙げておく。なぜ、近代以降、殺傷力の高い兵器が次々と開発されてきたのか、その根拠をフロイトの文化論の枠組みでは十分には答えられない。兵器の高度化は、とくに近代社会に入って目立っており、第一次大戦はその惨劇を典型的に示した。文明国が最も野蛮な大量破壊兵器を投入し続けた事態をフロイトは十分に知っている。そうであっても、文化の発達に期待したとすれば、それは何故なのだろうか。

フロイトに欠落していたのは社会に対する批判的な認識の枠組みであり、これが文化をめぐる評価を誤らせたと思う。同時に死の欲動をはじめとして、人間の心理を、太古の時代の原父のイメージへと還元しがちなところにも、家族関係(制度)とその外にあって家族制度とその成員のイデオロギーを構築している社会関係への心理学的な関心が十分ではなかった、ということにも繋っている。こうした課題は、後の世代に委ねられることになる。

11. 社会集団による目的意識的な殺傷行為

そもそもアインシュタインの書簡は、国家などの社会の統治機構が軍隊のような殺傷行為を目的とした組織を構築し、更に殺傷能力を高度化するような技術の開発が意図的に図られるような社会のありかたを的確に捉えていない。むしろ、彼は、こうした社会組織がもたらす暴力を個人の憎悪の感情に還元してしまっている。その結果、暴力の問題をある種の人間の本能由来のものではないかと捉え、戦争を廃棄する出口を自ら塞いでしまった。フロイトの応答の基本的な枠組みもほぼ同様だ。アインシュタインもフロイトも軍事組織という特異な集団が破壊欲動に支配されるメカニズムのなかに冷徹な理性的な判断が貫徹していることにほとんど関心をもっていない。関心は、組織ではなく、組織を構成する個人の心理に向けられており、個人の心理に潜む破壊欲動の問題を捉えさえすれば、その総和としての集団の心理も把握できるかのようですらある。軍を組織し、兵士を教育する体系は、憎悪によっては不可能だ。個人と社会を繋ぐ位置にフロイトは文化を置き、個人の破壊欲動の抑制機能を与えようとした。原父の物語を背景としたエディプス・コンプレクスによる家族の抑圧――父の権威=力の潜勢力による暴力の抑制メカニズム――は、それだけでは近代国家の軍事組織の発展も兵器技術の開発への動機も説明するにはかなりの媒介項を必要とする。

フロイトには集団心理について、しかも軍隊を事例にした著作があるので、安直な個人主義にはならないはずではある。40しかし、フロイトは、個人が集団に同一化するメカニズムの説明には苦慮しているようにみえる。集団それ自体が、一種の「主体」とみなしうる自律した心理を構成するかどうかは、フロイトの時代にあっても重要な争点だったとはいえ、フロイトは明確な答えを提起しているとは思えない。

戦争や暴力に関して引き合いに出される破壊(死)欲動に限らず、欲動という概念で括られる人間の情動は、理性的で合理的な冷静な判断、あるいは良心に代表されるような性向とは別のものとして分類されがちだ。こうした区分けをしてフロイトの理論を解釈することはフロイトの問題意識に反するだろう。実際にはこれらの様々な要因が同時に作用しているはずであって、このことは戦争行為にあってもいえることだ。戦場で敵と対峙する兵士は、破壊欲動だけに支配されているわけではない。正確に照準を合わせて最適の瞬間に引き金を引く行為は、客観的な状況判断がなければできないし、軍隊が厳格に守らせようとする指揮命令系統に従属する意志のなかには、組織に関する合理的な認識が前提になる。だが同時に、多くの兵士は、殺傷行為を忌避したいという感情も抱くし、逆に見境のない憎悪に駆られることもあるだろうし、絶望的な恐怖によって深刻な心的外傷を被ることもあるだろう。このように考えると、戦争や暴力が国家や社会の集団的な意志として発動される場合には、破壊欲動の役割は、実は小さいのかもしれない。むしろ大規模な殺傷行為が首尾よく具体化されるのは、破壊欲動によるのではなく性的欲動に淵源をもつ自己保存欲動の過剰な発動を軍という組織理性が巧妙に制御することによるのかもしれない。このとき、個体の自己保存欲動と社会集団の自己保存――これに「欲動」と呼びうるものがなければならないのだが――とを混同してはならないだろう。社会集団の自己保存メカニズムのなかに諸個人が自己同一化することによって、社会集団の自己保存メカニズムには自己保存欲動と呼んでもさしつかえないような集団心理が構成されるのだろう。しかもこの欲動は、合理的で客観的な判断や良心や道徳といった社会的な個人を縛る価値観を根拠にして構成される。理性的であることとは暴力的であることを意味するが、しかし、そうであるにもかかわらず、この暴力は理性の名において正当化される。

問われるべきなのは、社会集団が目的意識的に殺傷行為を目的とする組織を構成しないために必要なことは何なのか、ということである。これに対して人間の器質的な破壊欲動をもちだしてきて、こうした殺傷目的の社会集団の形成を回避することは不可能だ、と論ずるのは妥当とはいえない。殺傷を目的とする社会集団は個人の破壊欲動にのみ基づくものではないからだ。ましてや死の欲動とはますますベクトルが異なる。人間集団が社会性を帶びざるをえず、私たちが今直面している戦争が、近代世界に基盤を置くものであることを念頭に置くとすると、アインシュタインの問いもフロイトの返答も、問題の核心を突くことができないものだったと結論せざるをえない。

では、この往復書簡は全く無意味なものだったといえるかというとそうではない。戦争には、国家理性が動員される冷静な計算に基く殺傷の組織化がある一方で、個人のレベルに焦点を当てれば、あきらかに熱狂的な愛国主義による戦争を支持する感情なくして戦争を遂行することはできない。大衆の感情と支配層や統治機構の冷徹な計算理性との間には真逆のベクトルが作用している。フロイトの返答は、むしろこうした熱狂する個人の心理を明かにすることには何らかの寄与がありうると思う。なぜ、戦争を支持し、さらに、より積極的に戦争に加担しようとする個人心理がいかなるものであるのかを解明することは戦争批判の議論にとって重要である。とりわけ民主主義的な意思決定を経て軍事力の保持や戦争を国家の政策として承認するばあい、個人のなかにある破壊欲動と理性的な判断、プロパガンダや偽情報に煽られる感情の動揺、プロバガンダや偽情報を情報戦として冷静に組織化する集団心理、不合理な社会理解への集団的な同調など、様々な要因が個人を襲い、その経過のなかで、戦争に同意・加担する意志が形成されるとすれば、個人が直面する問題に焦点を当てて、戦争に抗う判断と情動を組織することもまた反戦運動にとって重要な課題になる。戦時体制にある国家の中で、戦争に抗う対抗的な下位の社会集団が形成できるかどうかは、戦争を阻止する上で重要な必須条件だ。そのためには、こうした集団に帰属意識をもつ対抗的な集団心理が生み出されなければならない。戦争に向うそれらを打ち消すように、欲動のあらゆるベクトルや合理的な判断を組織しれなければならない。これは社会運動の組織論であり政治過程だが、同時に、社会を構成する人々のなかに、対抗する社会心理の弁証法を打ち立てることでもある。

集団的な殺傷行為を人類の器質的な要因に還元して宿命とみなすことは、事実上戦争の不可避性を承認することでもある。しかし、私はこうした宿命論には多くの問題があり、戦争を廃棄する可能性を断念すべきではないと強く考えている。私たちには常に戦争以外の可能な選択肢が与えられていることを忘れてはならないと思う。

12. 書簡にみられる戦争と平和をめぐるフロイトの振れ幅の意味

この書簡では、フロイトが個人的な経験や現実主義的な観点に立って議論しようとしている場合と、心理学者としての専門家の知見から導かれた理論から現実を判断しようとする場合があり、その振れ幅が大きい。

たとえば、フロイトは戦争が繰り返されてきた歴史的な事例を簡単に振返りつつ、戦争によって、外部の敵に立ち向かうことを通じて共同体内部の対立や紛争が逆に収められる場合があることを次のように指摘する。

戦争は、強大な中央権力によって内部でのそれ以上の戦争が不可能となるような強大な統一体を創り出すことができるゆえに、人々の待望する「永遠の」平和を打ち立てるための手段として不適格ではないというのは認めなければなりません。41

これは現実主的な戦争観だろう。だが、すぐ続いて「戦争はやはり平和樹立の役には立ちません」と上の議論を打ち消し、戦争で得られた成果や共同体の統一は早晩瓦解するだろうともいう。その理由は「暴力的に統合された各部分を結束させることができなかったから」42だという。これは彼自身の主観的な経験に基く判断に影響されているのかもしれない。フロイトは第一次大戦の開戦当初、この戦争を熱狂的な肯定感をもってみていた。アーネスト・ジョーンズは、伝記のなかで、開戦当時「私の全リビドーはオーストリア・ハンガリアに与えられた」というフロイトの言葉を紹介している。ジョーンズは「彼は30年来はじめて自分がオーストリア人であるのを感じた」瞬間でもある、とも書いている。43 彼がドイツ・オーストリアのナショナリズムと戦争イデオロギーから脱却するには、それなりの時間を要している。その経緯をジョーンスは以下のように書いている。

戦争のはじめの二、三年は、フロイトはむろん完全に中欧諸国に同情していた。それは彼があれほどまでに密接に結びつき、彼の息子達がそのために戦っている国であった。彼は愛するイギリスを嫌うようにさえなった。イギリスは今は「偽善的」になったのだ。明らかに彼はドイツは、ドイツを亡ぼそうとたくらんでいる嫉妬深い隣人達に「包囲されて」いるのだというドイツ側の説明を受け入れていた。戦時中ずっと後になってはじめて、連合国の「宣伝」が戦争に関連する道義上の問題について彼に疑問を生ぜじめ、その結果、彼はその時に両方の言い分を共に疑う気持になり、論戦を抜けだしてそれより高いところに立ちうるようになった。 44

フロイトは、一般的なオーストリア人が抱いたであろう戦争のナショナリズムを自らの経験=実感として内面化していた時代があるが故に、戦争を肯定する観点を了解することができた。同時に、その後の彼の戦争否定の道をとらせた経緯を通じて、戦争が平和に至る道にはなりえないということもまた、自らの経験=実感としてきた。この戦争の不可避性と否定のアンヴィヴァレンツな感情の揺らぎは、彼自身の経験そのものであり、これがそのままこの書簡に反映されている。

13. おわりに

フロイトは、1915年には、戦争が自らの想定を大きく越えるものだということを自覚し、「こんな戦争があろうとは信じられないような戦争が、今や勃発した」45と書くことになる。アインシュタインとの書簡のやりとりは1932年なので、そのずっとと後のことだ。更にその後ナチスが政権をとって以降の時期に、アインシュタインがルーズベルト大統領に出した手紙では大量のウランによる核分裂反応が爆弾の製造につながることを指摘し、ドイツに対抗して米国へのウラン鉱石の供給確保を提言した。46 平和主義者ですらナチスドイツの振舞いに対しては暴力の――しかも原爆の――必要性を論じざるをえなかった。このルーズベルト宛の手紙がひとつのきっかけになって、その後米国のマンハッタン計画が具体化していったと言われている。凶暴な侵略者を前にして、平和主義を主張する者が屈っしたひとつのよく知られた例だ。しかし、アインシュタインはこのルーズベルト宛の書簡を後に後悔することになる。とすれば、ナチスの核開発を目前に控えていた時代に、どのような他の選択肢がありえたのか。この問いへの答えは、私のようにいかなる場合であれ武器はとらない、と主張する者が示さなければならないだろう。その答えは、フロイトが試行錯誤しつつ辿り着いた「誤り」の教訓に学びながら、他方で、実際に、米国にあってすら、ナチスにも加担せず米国の参戦にも加担することを頑に拒否した人たちの思想に学びながら、獲得しうると確信している。

Footnotes:

1

アインシュタインの書簡は下記による『ひとはなぜ戦争をするのか』浅見昇吾訳、講談社学術文庫。フロイトの返信は「戦争はなぜに」『フロイト全集』第20巻、岩波書店、による。

2

『ひとはなぜ戦争をするのか』、p.15。

3

「戦争と死についての時評」『フロイト全集』第14巻、岩波書店。

4

「戦争はなぜに」p.258。

5

こうした記述方法はフロイトに特有のもののように思う。彼は、いわゆる客観主義的な対象の分析ではなく、常に自分自身の主観と経験を介していることを自覚した独自の解釈を加える。ここにフロイトの理論のある種の強さがあると思う。

6

同上、p.258-9。

7

私はこうしたフロイトの人間にとって暴力による決着が元々の人間に備わっている動物と共通する行動パターンだ、という認識には賛成できない。暴力を回避する様々なメカニズムが人間共同体には存在してきたことをフロイトは十分承知しているが、こうした「文化」とフロイトが呼ぶような人間の共同体がとる摩擦や抑圧を調整するメカニズムに先立ってある種の裸の人間が存在していたというようには私は考えない。人間の動物的な側面に由来する本源的な行動が暴力であるということは、人間であれ動物であれ、種としての集団性の維持にとってありえない想定だ。

8

同上、p.258-9。

9

同上、p.260。

10

同上、p.260

11

一言付言するが、上であたかも近代家族関係の内部には潜勢的な暴力しか存在せず、顕在的な暴力の存在が軽視されているような言いまわしになっているが、これはフロイトが想定した家族と暴力の関係の基本的な枠組がそうなっている、ということであって、私はこの前提を肯定していない。むしろかなり広範囲に近代家族の制度の内部には暴力が顕在化していることが今ではよく知られている。家族内部の暴力(とりわけレイプ)が精神疾患の原因となっているケースがフロイトの時代にもあり、このことをフロイトは幼児期の性的体験を扱かった『ヒステリーの病因』で気づいていたが、その後意図的にこの問題を回避しようとしたのではないかと、ジュディス・ハーマンは批判している。ジュディス・ハーマン『心的外傷と回復』、増補新版、中井久夫他訳、第1章参照。

12

こうした共同体が法の遵守の下にあっても「法に則った暴力行為の執行を担当する機関」つまり、軍隊や警察は不可欠だ。共同体を構成する諸個人になかには必ず法を逸脱する者がおり、だから法はこうした逸脱した者への処罰のルールを制定することになる。警察による力(暴力)の行使の正当化だ。

13

「戦争はなぜに」、p.260。

14

同上、p.264-5。

15

以下では「死の欲動」と「破壊欲動」を同義で用いている。とくに区別はしていない。「死の欲動」を戦争の文脈で議論する場合について、一言私の考え方を補足しておく。他者への殺傷を意図した行為の背景にある欲動としての破壊欲動と、死の欲動に含まれるであろう欲動、いずれ死すべき存在としての自己の生の最後の到達地点に待ちうける「死」を受容しうるような欲動とは同じものとは思えない。自死であれば自己に向けられた破壊欲動とみなせるが、これを自然死にあてはめることは無理がある。言い換えれば、死の欲動、あるいは破壊欲動一般を論じただけでは戦争という集団的な殺傷行為の目的意識的な遂行を支える心理を説明したことにはならない、ということだ。

16

同上、p.265。

17

同上、p.265-266。

18

同上、p.266。

19

同上、p.267。

20

同上、p.267。

21

同上、p.268。

22

同上、p.271。

23

同上、p.267。

24

同上、p.269。

25

同上、p.269。

26

同上、p.270。

27

同上、p.270。

28

同上、p.270

29

同上、p.268。 「すべての自然科学は最終的にこのようなある種の神話に行きつく」とは何を意図しての発言なのか、興味深い。

30

単なるフィクションの言い換えではないだろうということは推測がつく。理論一般を念頭に置いてここで「神話」と呼んでいる事柄が何なのかを推測することは私にはできない。

31

しかも、言うまでもなくここで言われている神話と精神分析との関連はユングのそれとは相容れないものとして理解されていると思う。

32

同上、p.271。

33

こうした宿命論は、暴力が目的を達成するための手段としては合理性を欠くという私の観点からすると受け入れがたい結論になる。本稿の議論の枠組みを越える課題になるが、国家が民衆をひとつに束ねて戦争へと合意を形成するメカニズムには、合理的な暴力の正当化と不合理な暴力の正当化の絡み合いがある。この絡み合いを、合理的あるいは法合理性のような観点から批判しても、不合理な正当化の領域を見逃してしまうか軽視してしまう。

34

同上、p.272。

35

同上、p.272。

36

この点については、いわゆる万人の万人に対する闘争状態から理性と法の支配へという流れで歴史を解釈するような考え方は、今では共通の了解事項にはなっていないだろう。近代世界は、それ以前の世界と比較して、戦争あるいは暴力の低減を実現できたかどうかについては、相対立する考え方がある。フロイトの破壊欲動が人類史のなかで次第に抑制されてきたといえるかどうか。つまり、人類は戦争や暴力を低減する方向に歴史を刻んできたのか。この点についてフロイトは明言を避けている。私は、近代資本主義が工業化として確立された時代をそれ以前の時代と比較した場合、非西欧世界の植民地化と植民地争奪の戦争が工業化技術と連動するなかで、兵器生産と殺傷力――兵器の殺傷生産性――の高度化は必然であり、この意味で、近代世界は、人類史において稀にみる殺傷性の高い技術の開発を促した時代だと考えている。こうしたマクロな軍事技術と殺傷生産性が軍に動員される人々や軍を指導・指揮する者達の欲動にどのような影響をもたらしたのか、このことは大きな課題だ。

37

同上、p.272。

38

同上、p.272。

39

同上、p.273。

40

「集団心理学と自我分析」『フロイト全集第17巻』。

41

「戦争はなぜに」、p.262。

42

同上、p.262。

43

アーネスト・ジョーンズ『フロイトの生涯』竹友安彦、藤井治彦訳、紀伊国屋書店、p.336。

44

ジョーンズ、前掲書、p.335。

45

「戦争と死についての時評(I)」、フロイト全集14巻、p.137

46

https://www.atomicarchive.com/resources/documents/beginnings/einstein.html この書簡とその後の核開発については、”It was the one great mistake in my life’: The letter from Einstein that ushered in the age of the atomic bomb’, BBC, https://www.bbc.com/culture/article/20240801-it-was-the-one-great-mistake-in-my-life-the-letter-from-einstein-that-ushered-in-the-age-of-the-atomic-bomb 参照。

Author: toshi

Created: 2024-12-22 日 00:20

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「いくさ世」の非戦論 ウクライナ×パレスチナ×沖縄が交差する世界

インパクト出版会から表記のタイトルの論文集が刊行されました。このなかで「暴力の人類前史の終りと社会解放に向けて」を寄稿しています。

この拙論で書いたことは、ブログでも何度か書いてきたテーマ(これとかこれ)を敷衍したものになります。論文のタイトルは「暴力の人類前史の終りと社会解放に向けて」と大風呂敷を拡げてしまったのだけれど、到底ののタイトルに相応しい内容とまではいっていないだろうと思います。拙論では、主に暴力を論じるときに、繰り返し参照される定番の議論のなかで、フランツ・ファノンの暴力論とベンヤミンの暴力批判論をとりあげました。そして、シモーヌ・ヴェイユにも紙幅を割きました。ヴェイユはともかくとして(それならアーレントを取り上げるべきだろう、という意見もあるでしょう)、ファノンとベンヤミンへのアプローチは、将来の社会変革の手段から暴力――ここでは主に人に対する殺傷力のある暴力――という選択肢を排除する必要性を述べる上で、避けられない議論だと私が考えたこの二人について、考え方を述べましたが、とくにファノンについての私の見解には、異論がありうるかもしれないと思っています。

ファノンの暴力論――ここでは主に『地に呪われたる者』の冒頭の論文――は、サルトルの序文の影響もあって、暴力による解放闘争の必要を主張したものと理解されてきました。たしかに暴力論だけを取り上げれば、この解釈に異論の入る余地はないと思います。しかし、『地に呪われたる者』全体を鳥瞰してみたとき、とくに、最終章に置かれた「植民地戦争と精神障害」と結びつけて暴力の問題を考えたとき、ファノンが諸手を上げて暴力という手段を肯定していたわけではない、ということにもっと関心が持たれていいのではないか、というのが私の一つの解釈になります。しかも、暴力が必然的にもたらす精神障害(いわゆるPTSDの問題として後に繰り返し議論されるようになった問題)の深刻さをファノンは精神科医として実地に体験しており、その症例研究が「植民地戦争と精神障害」だったわけですが、解放戦争であれば、こうしたPTSDを回避できるわけではなく、また植民地から解放されれば、PTSDも治癒可能になるということでもないことを、理解していたと思います。他方で、ベンヤミンの暴力批判論は、思想や哲学を好む人達によって繰り返し論じられてきた難解なテキスト(特に最後の方で論じられる神話をめぐる議論)について、私の論文では、ベンヤミンが一言漏らしたに近い、何ひとつ難解なところのない言葉、つまり、国家を別にして、民衆が自分達の日常の諍いを解決するために使う常識的な解決法として、心の優しさ、情愛などという陳腐な言葉を並べた箇所を、このベンヤミンの暴力批判論の核心だと述べています。

暴力が問題の解決になることはなく、単に問題を先送りにするだけに過ぎない、ということはこのブログでも繰り返し指摘しており、この拙論でもこのことを別の角度から述べたに過ぎません。暴力という手段と解放の課題をめぐる問題は、暴力が問題を解決することはありえない、ということの先にあります。問題の解決とは無関係な手段によって、あたかも問題が解決できるかのように信じ込むことが、国家レベルで、あるいは極めて大きな人間集団の間で、共有され、支持されるようなことがなぜ起きるのか、という問題です。この問題への答えを出すことは、手段としての暴力を選択肢から排除する上で必須の前提になります。このことに拙論では全く言及していません。

他方で、ヴェイユを取り上げたのは、組織された解放のための暴力という問題を考えたかったからです。社会解放にとっての暴力は、組織化された集団としての暴力を前提とします。ヴェイユはかなり早い時期にスターリン主義のソ連に疑問を呈していました。その後スペイン戦争に志願兵として、これまた内戦初期にアナキストのグループに参加してますが、組織による暴力の問題で失望を経験しています。社会解放の民衆的な力を構想するとき、ここに暴力(殺傷の手段)が介入した場合に何が起きるのか、という問題を実は考えたかったのです。拙論ではこの点を十分に議論するところまではいきませんでした。ヴェイユは晩年になって、神や信仰について多く語るようになったと言われています。しかし、そうだからといって彼女が労働者大衆のなかに自らの思想の根を張ることを断念したとは思いません。むしろ、社会的な解放の理論や思想と、そこから導かれる実践の枠組みでは、彼女が抱えたであろう苦悩を解決できなかった、ということだと思います。この問題は、世俗的左翼でしかない私にとってはとても重要な問題です。というのは、ヴェイユが抱えた問題は、社会を総体として変革するための思想や理論を標榜するほとんどのものは――マルクス主義であれアナキズムであれ――それ自体では、人々ひとりひとりの心的な抑圧からの解放を実現できるとはいえない、という問題だからだと私は解釈しています。この問題は、解放の道筋を世俗的な回路ではなく、宗教的な回路を通じて達成しようとする現代の政治的宗教(たとえば、米国の福音主義やイスラームの様々な復興主義など)の影響力の強まりのなかにあって、世俗的であること、無神論であることがもつ力の相対的な衰弱という問題でもあります。超越的な存在や唯一の絶対者といった観念に自らの解放を委ねないためには、今一度、世俗的な主体の存在理由を根本から再構築することが求められていると思います。こうした思いを拙論では十分には表現できませんでした。

以下、『「いくさ世」の非戦論』の目次を紹介します。

佐藤幸男[編]

「いくさ世」の非戦論 ウクライナ×パレスチナ×沖縄が交差する世界
目次

第1章 ウクライナで燃えあがった戦火とその後
 板垣雄三

第2章 グローバル・サウスの潜勢力とグローバリゼィションの顚末
 佐藤幸男

第3章 暴力の人類前史の終りと社会解放に向けて
 小倉利丸

第4章 今日のガザは明日の沖縄
 豊下楢彦

第5章 まっとうな「狂気の声」
 親川裕子

第6章 「台湾有事」と沖縄の人びとの安全保障
 星野英一

第7章 東アジアにおける琉球独立
 松島泰勝

第8章 屋良朝陳の沖縄構想が示す価値の反転と「へこたれなさ」
 上地聡子

第9章 東アジア民際交流が切り結ぶ世界
 野口真広

第10章 沖縄県のアジアにおける地域外交戦略と平和
 小松寛

第11章 東アジアにおける平和連帯と地域協力の模索
 石珠熙

2,500円 +税

ISBN: 978-4-7554-0352-1        2024年10月30日発行