(訳者前書き)以下はWILPF(Women’s International League for Peace and Freedom)に掲載されたエッセイの翻訳です。WILPFは1915年に設立された長い歴史をもつ平和団体で日本にも支部がある国連NGOだ。WILPFのウクライナのコーディネーターでウクライナ東部で活動しているニーナ・ポタルスカへのインタビューをこのブログで既に紹介している。ポロビッチは「戦争が常態化し、死と破壊がロマンチックに語られる状況下で反戦活動家であることの意味」を考えたいと冒頭に述べている。国家は常に死を美化する言説によって、人々を戦場へと駆りたてようとする。すでに死と破壊はロマンチックに語られており、侵略者との闘いは武器によってのみ可能であるかのように、メディアには軍事評論家や戦争の専門家たちが連日戦況を講釈し、戦争のスペクタクル化が著しい。このエッセイでポロビッチは戦時下の反戦運動の困難さを指摘しながらも、「ひとたび戦争が始まれば、自らを守ることができない場合、それはほぼ確実な死を意味します。一方、武器を増やせば戦争はなくならず、死者が増えます」というジレンマを論じながら、戦争を許せば必ず次の戦争を招き寄せること、そして繰り返される戦争をもたらす背景をきちんと見すえてウクライナの戦争を越えた長期的な反戦運動がもつべき世界観を提示している。
「私の立場は、フェミニストや反戦活動家として、私たちの責任は抑圧された人々にあるということです。資本主義的な国民国家という概念に対しての責任はありません。私たちの義務は、国旗や国境、地政学的な物語の支持や再生産にあるのではありません。100年以上にわたるフェミニストの反資本主義、反戦闘争を通じて私たちの先祖から受け継いだ私たちの責任は、平和、連帯、平等、正義、そして家父長制権力と軍国主義の転覆に向けられているのです。私たちの責任は、民衆と私たちが平和のうちに尊厳ある生活を営む集団的な権利に向けられたものです。」
私たちは国家を背負って戦争などしないし、国家にまつわる物語を引き受けない、という明確な姿勢は、ウクライナへのロシアの侵略に武力による自衛が必要ではないか…という選択肢への誘惑をきっぱりと断ち切って戦争を考える上で重要な主張だ。(小倉利丸)
追記:ATTAC関西のブログにロシアのフェミニストによる声明などが掲載されています。
30もの言語で「ネバー・アゲイン」:なぜロシアのフェミニストは抗議行動をやめないのか?(ダリア・セレンコ)
フェミニスト反戦レジスタンス(ロシア)の声明 ロシアのフェミニストは、プーチンの戦争に抗議するために街頭に出ている
このブログのタイトルは不適切と思われるかもしれません。しかし、本当に考えてみると、この言葉はここでは最も不適切なものではありません。不謹慎なのは、私たちの住む世界なのです。
ネーラ・ポロビッチ
2022年3月7日
このスローガンは、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエボで反戦活動家の非公式グループが最近開催した、ウクライナの人々を支援する集会から拝借したものです。私たちはこのスローガンをスローガンのひとつに使い、すぐに最も人気のあるスローガンになりました。ボスニア・ヘルツェゴビナの戦後の復興と回復にきちんと織り込まれたこの世界秩序の結果を、他の無数の人々と同様に、自分たちが求めたわけでもなく、参加したくもない戦争を生き抜き、今も生きているボスニア人の人たちに評価されたからです。
私たちは、ロシア軍がウクライナの主権領域に侵入し、またもや帝国主義的な侵略を開始する映像に対する純粋な怒りとフラストレーションからこのスローガンを使用しました。なぜなら、ウクライナ、アフガニスタン、シリア、イエメン、イラク、パレスチナ、その他無数の国々で、グローバルパワーがこの世界秩序を維持するためにどれだけの人々が死ななければならないかという冷酷な計算が、不適切なのである。不謹慎なのは、帝国主義と破壊が、拡大、収奪、搾取、利潤を追求する終わりのない資本主義プロジェクトの正当な道具として使われる世界秩序なのです
この軍事化された世界秩序の維持に参加している人々のリストは長く、ロシア連邦をはるかに超えて広がっている。米国、中国、イスラエル、日本、パキスタン、インド、EUとその加盟国、NATO、などなどである。南スーダン、カメルーン、シリア、イエメン、アフガニスタン、ナゴルノ・カラバフ、パレスチナ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ラテンアメリカの多くのクーデターと同様、ウクライナ戦争でも、これらの国々の間に無実の傍観者は存在しません。
計算や政治的発言の先にあるもの
私たちは、なぜこのような混乱に陥ったのか、皆知っています。Ray Acheson、Tom Bramble、Almut Rochowanski、Volodymyr Ishchenkoなど、多くの素晴らしい分析があるので、繰り返す必要はありません。私が書きたいのは、平和のために立ち上がり、武器や軍国主義に反対するすべての勇敢な人々、そして戦争が常態化し、死と破壊がロマンチックに語られる状況下で反戦活動家であることの意味です。
冷酷な計算や政治的発言の向こう側には、死や破壊、家族の絆の崩壊、夢の破れなど、それぞれの物語を抱えた何千人もの人間がいます。その中には、大きな悲しみと恐怖の物語もあれば、強さ、思いやり、愛、そして生存の物語もあるのです。ウクライナの戦争に関するほとんど恍惚としたメディアの報道から表面を削り取れば、私たちは個人的、集団的、社会的トラウマを見つけ出すでしょう。それは、戦争責任者やその地政学的ゲームが次の戦争に移行した後も、生き残った人々の間に必然的に長く留まるものなのです。
抵抗の行為
私たちの反戦闘争の文脈はダイナミックであり、急速に変化しています。抑圧的な政権に対する平和的な蜂起があっという間に血なまぐさい戦争に変わるのを見たシリアの女性活動家や、尊厳と平等を求めて闘うために、これらの価値を高く掲げる人々から文字通り一夜にして見捨てられたアフガニスタンの女性たちほどそのことを知っている人はいないでしょう。ウクライナの女性たちは、マイダン以降、平和構築への女性の参加のための条件を整えるため、たゆまぬ努力を続けてきました。彼女たちは皆、反戦活動家であることが安全であるかと思えば、次の瞬間には命を危険にさらすことになるということを身をもって学んだのです。
今、ウクライナの人々にとって最大の抵抗行為は、ロシア政府の帝国主義戦争を生き延びることであり、殺される一人一人が戦争機械の勝利となるのだから。生き残る一人一人は、車輪の歯車なのです。しかし、もちろん、ウクライナの人々は生き延びるだけでなく、戦争に立ち向かっています。彼らはコミュニティーの中で助け合い、国内避難民にシェルターや食料を提供し、戦争犯罪や戦争・避難生活の経験を記録し、道路標識を変えたり戦車を取り囲むなど非暴力による抵抗を行い、身体を使って戦争機械に対抗しているのです。ウクライナ平和運動代表のユーリイ・シェリアジェンコは、『デモクラシー・ナウ』のインタビューで、ウクライナの平和運動が「無謀な軍事化は戦争につながると何年も前から警告」し、非暴力行動の準備をしていたことを語っています。
ウクライナ人の多くももちろん武器を手にしました。女性も男性も同じです。ある者は自発的に、ある者は選択肢を与えられなかったために。時には、人々は生き残るために自らを守ることを余儀なくされます。そのような状況に陥った人は、その選択が非常に困難であることを知っているでしょう。フェミニストとして、そして何よりも戦争を経験した者として、私は各人がその決断を下さなければならない状況を単純化しすぎないように気をつけています。 男性にとって、これは選択の問題ですらないことが多い。なぜなら、(徴兵制を通じて)守る義務を課され、武器を取らず、強制的な軍事化にノーと言う権利を否定されるからです。
軍事化された “連帯”
ウクライナを支援する国々は、ある種の軍事的な連帯を示すために、ウクライナに武器を供給することを急いでいる。これも反戦活動という観点からは難しい問題です。ひとたび戦争が始まれば、自らを守ることができない場合、それはほぼ確実な死を意味します。一方、武器を増やせば戦争はなくならず、死者が増えます。自衛権は必要なのか?もちろんです。その権利によって、彼らの命が救われ、未来が保証されるのでしょうか?私はそうは思いません。私が知っているボスニア・ヘルツェゴビナ出身のほとんどの人は、昔はボスニアを「守る」ことが重要だと認識していたと言うでしょう。今、彼らは、私たちは皆、多くのものを失ってしまったので、死ぬ価値のある国家や国はないと言います。一方、私たちの目の前で戦争を引き起こした世界秩序は残り、私たちをまた新たな紛争へと導いているのです。
私たちフェミニストの責任
しかし、確かにこれらの問題はどれも単純ではありません。私の立場は、常に、どこでも、戦争と軍国主義化に反対するというもので、それは私の生活体験に基づいていますが、同時にフェミニストの価値観に導かれたものでもあります。
私の立場は、フェミニストや反戦活動家として、私たちの責任は抑圧された人々にあるということです。資本主義的な国民国家という概念に対しての責任はありません。私たちの義務は、国旗や国境、地政学的な物語の支持や再生産にあるのではありません。100年以上にわたるフェミニストの反資本主義、反戦闘争を通じて私たちの先祖から受け継いだ私たちの責任は、平和、連帯、平等、正義、そして家父長制権力と軍国主義の転覆に向けられているのです。私たちの責任は、民衆と私たちが平和のうちに尊厳ある生活を営む集団的な権利に向けられたものです。
だからこそ私たちは、たとえ命が危険にさらされても、平和のために声を上げる人々を支援するためにできる限りのことをしなければならないのです。私たちは彼らにそれだけの借りがあります。彼らは危険を承知の上で命をかけています。そうすることで、平和はより良い明日を築くための私たちの集団的努力にしっかりと根ざしているのであって、あまりにも簡単に片付けられてしまうユートピア的な夢になってはならないのです。
平和のために立ち上がるすべての人たち
ウクライナの人々、そして戦争機械に立ち向かい、生き残ろうとする彼らの闘いを支援することは、必須です。その他、ロシアで最も強い反戦の声を上げているロシアのフェミニストたちの行動も重要であり、支持されなければなりません。ウクライナでの戦争に反対することは、プーチンの抑圧的な体制の下では危険であり、最大で15年の懲役になる可能性があります。 フェミニストはロシア各地で反戦デモに参加し、また最近、戦争に反対するマニフェストを発表し、「ロシアのフェミニスト団体と個人のフェミニストはフェミニスト反戦レジスタンスFeminist Anti-War Resistanceに参加し、力を合わせて戦争とそれを始めた政府に積極的に反対しよう」と呼びかけています。また、世界中のフェミニストに参加を呼びかけています。彼らは、プーチンのプロパガンダやフェイクニュースを超えて、フェミニストの立場にしっかりと立ち、いかなるフェミニストも侵略、軍事占領、帝国主義の試みを支持することはできないと知っています。
プーチンの帝国主義的戦争のなかで、ロシアやベラルーシで反戦運動に関わることは勇敢な振舞いです。ロシアの独立人権監視団体OVD-infoによると、ロシアでは2月24日から3月6日の間に、1万2702人の反戦デモ参加者が逮捕されています。その数は日々増え続けています。ウクライナでの戦争を止めるための請願書は、現在までに118万人以上の署名を集めています。ロシアの文化労働者、科学者、学生、教授、ソムリエやワイン商、出版社、編集者、書店員など、さまざまな立場の人々がロシアの侵略に反対する声を上げているのです。
これで、プーチンのウクライナでの戦争を止めることができるの でしょうか。そう願うしかありません。それは、私たち残りの者がどれだけこれらの声を動員し、支援し、拡大するかによるのです。私たちは皆、分極化し、ますます孤立した世界において(ソーシャルメディアのプラットフォームがあるにもかかわらず)、これが簡単な仕事ではないことを知っています。なぜなら、もし私たちが今、戦争に飢えた声や物語に反撃しなければ、すぐにそれが私たちの知る限りのことになってしまうからです。次の戦争が起こるたびに、戦争はより容易になり、一人一人の死はより受け入れやすくなり、私たちの社会と地球の破壊はより見えづらくなっていくでしょう。私たちはすでにそれを目の当たりにしています。
戦争がどこで起ころうとも、それに反対するフェミニストの責任
止められなかった戦争は、それぞれ新たな戦争の種を蒔くことになります。シリアの活動家は、シリアでプーチンを止められなかったことが、まさにこの瞬間に一役買ったことを私たちに思い起こさせます。彼らは、ウクライナでの戦争に反対する声を上げることの重要性を認識しています。なぜなら、フェミニストの国際連帯の観点からすれば、それぞれの戦争は、それがどこで行われようと、自国での戦争であるからです。
世界が米国のアフガニスタンとイラクへの侵攻を止められなかったとき、多くの国がいわゆる「世界テロ戦争」を受け入れたとき、彼らは国際法を守り、いわゆるグローバルパワーによる帝国主義のゲームを告発することに失敗したのです。こうした失敗や他の多くの失敗が、後に起こるあらゆる戦争への道を開いたのです。
ですから、ウクライナの人々に連帯しながらも、私たちの平和への呼びかけ、反戦運動は、それをはるかに超えるものでなければならないのです。なぜまた戦争が起こってしまったのか、そして戦争を止めるために何をしなければならないのか、私たちの分析は、軍国主義、家父長制、帝国主義、資本主義が、戦争を道具として利用し、繁栄する構造であることを理解した上で行わなければなりません。したがって、これらの構造を廃絶することに同時に取り組まなければ、ウクライナでも他の地域でも、持続可能な平和を築くことはできないのです。
一つ一つの声が重要です。一つ一つの反戦行動が重要です。戦争の影響を受けた人々の声が届くように支援すること、緊急の人道的ニーズを満たすこと、平和に暮らせるように引き裂かれた国を離れる人々を支援すること、集会を開くこと、戦争に対して声を上げること、これらすべてが重要なのです。
2016年、ボスニアの女性活動家は、ウクライナの女性たちとの連帯対話を主催しました。このブログの最後にふさわしいのは、ボスニアの平和活動家、ジャスミンカ・ドリノ・キルリッチが歓迎スピーチで述べた言葉かもしれません。
平和とは非暴力の行動であり、不正義に対する行動であり、平和とは私たちの人生の最も困難な部分について議論を開くことです。平和とは慎重さであり、平和とは解決策を見出す創造性である。平和とは、信頼を築き、私たちの間に連帯感を回復させることです。. . 私はピースメーカーなのです。そして、「それは何ですか?」と聞かれたことがあります。それは何かといえば、私たちに強制されていることを受け入れないこと、つまり、私が気高くラディカルであることです。気高くラディカルであるということは、あなたの意見に反対するときは、その都度あなたに伝えると同時に、あなたを敵とは見なさないということです。
このブログへの情報提供をしてくれたRay AchesonとGorana Mlinarevićに感謝します。
ネーラ・ポロビッチ
Nela Porobić IsakovićはWILPFのフェミニスト政治経済に関する活動を率いている。この仕事は、紛争と紛争後の復興と回復のための介入の政治経済の研究と分析、この分野におけるWILPFの活動の推進、ネットワーキングとアドボカシー、そしてフェミニストの知識の共有と対話への参加に携わるものです。