目次
2. ウクライナ戦争のなかで民衆の安全保障をどう提起できるか 3
3. 国家への向きあいかた―あるいはナショナリズムの問題 4
5. ロシアの反戦運動とウクライナの反戦運動それぞれにみられる固有の困難とは 10
1. 民衆の安全保障再考
1. 軍隊が民衆を守るという「神話」
ウクライナへのロシアによる侵略戦争があからさまな形で顕在化した今年の2月からの1ヶ月半の戦争反対の声の大半は、ロシアの侵略戦争に反対しつつ、侵略に抵抗するウクライナの民衆の武装抵抗をウクライナの軍であれ義勇軍であれ、いずれにせよ、もっと多くのもっと高性能の武器・兵器を提供して武装能力を高めることについては大いに支援するような雰囲気が一般的なように思う。だから別のところ(注)に書いたように、日本の平和運動や大衆運動のウクライナ戦争から得ている教訓は、日本を侵略から守るための自衛力は必要だということになり、そうであるなら、自衛隊をまともな軍隊として憲法上も認めることに前のめりになりつつあるように思う。もはや日本政府と革新野党の間にはほとんど戦争への向き合い方に差がない。
(注)ウクライナ経由ナショナリズムと愛国心をそれとなく煽るマスメディア
軍隊は、国家の「防衛」のために兵士としての民衆(敵であれ味方であれ)を犠牲にするか、国家に敵対する自国の民衆に銃口を向けることを通じて、国家権力の安全を確保しようとするものであって、民衆の安全を確保することは、その従属変数、あるいは行き掛かりの駄賃に過ぎない。ある時期までの日本の反戦平和運動は、自衛隊を違憲とし、一切の武力の保持を認めないことを平和の原則としてきた。しかし、1990年代以降、つまり冷戦終結以降、日本の平和運動は次第に、最低限の自衛力の保持を容認することに始まり、すでに存在する自衛隊と防衛省を合憲とみなすことが常識にすらなってしまった。憲法学者の自衛隊違憲論者は今では少数派だ。(注)
(注)吉川勇一「世論の動向に寄り添うのではなく、それを変えさせる努力が必要なのだ」ピープルズプラン研究所編『9条と民衆の安全保障』、2006年所収。
しかし、私は、むしろ、2000年に入って一時期活発に議論されていた「民衆の安全保障」の主張を今一度想起する必要があると考えている。沖縄の少女暴行事件をきっかけに沖縄で繰り広げられた基地反対運動の高揚のなかで、戦前・戦中・戦後、そして復帰以後の沖縄が経験してきた、自国の軍隊、敵の軍隊、外国の軍隊がもたらした暴力の経験から提起された国家安全保障とは真っ向から対立する民衆の安全保障の提起は、ウクライナの戦争への私たちのスタンスを再確認する上での重要な出発点を与えてくれる。(注)
(注)民衆の安全保障のコンセプトの構築と沖縄の反基地運動については、武藤一羊「民衆が動かなければ戦争はできない」前掲『9条と民衆の安全保障』所収、参照。
2000年7月に出された「<民衆の安全保障>沖縄国際フォーラム宣言」(以下、民衆の安全保障宣言と呼ぶ)(注)は、「国家の安全は民衆の安全と矛盾します。軍隊は民衆を守りません。軍隊は社会の安定を脅かします」として、軍事化された安全保障の問題点を三点にわたり指摘した。第一に、日本の安全保障なるものは「企業利益と、米国とその同盟国の経済的利益を擁護する以外の目的を持っていない」こと。第二に、「自国の軍隊が私たちの日常生活と自国の歴史とを支配し、影響を及ぼしてきた経験から、私たちは、軍隊組織というものが、民衆を保護するのではなく、軍隊自身を防衛し保護するだけであること」、第三に「軍事機構とそのイデオロギーが、しばしばもっとも残酷で暴力的な男性支配、性的な抑圧と搾取に基礎を置いているばかりか、それを永続させ、増殖させている」と指摘した。そして次のように、民衆の安全保障の主体における女性が果たしてきた重要な役割を強調した。
(注)<民衆の安全保障>沖縄国際フォーラムのウエッブが現在でも存在している。 宣言はここ。
「軍隊は、しばしば、いけにえとして、またその暴力と支配の対象として、女性、少女、子どもを求め、狙います。軍隊、軍事基地、軍国主義へのもっとも強力な批判が、女性と女性運動から起こっているのは驚くにあたりません。女性の闘いと平和への女性の努力の歴史、そしてとくに、戦争と軍事化のだなかで伝統的な境界を越え、国境を越える女性たちの連帯の成果は、民衆の安全保障のためのオルタナティブなシステムと構造を作り上げ、平和をかちとるよう、私たちを励まし、私たちに教訓を与えてくれます」
軍隊と戦争のなかで抑圧され安全を奪われた民衆自身による民衆の安全を創出する主体の構築こそが目指されるべきであり、そのための手段は非暴力に基くものでなければならないということを強調している。
「私たちは、人種、宗教、エスニシティ、性差、性的指向の差、地域差などを越えて、合流し、民衆の連合をつくり、その中で不平等を永続化し維持するさまざまな構造を変革することで、民衆の安全を創り出そうとつとめます。民衆自身、とくに社会的に抑圧され、安全を奪われている人々こそが、恐怖と不安なく暮らせる民衆の安全保障を創り出す主役です。民衆の安全保障は、人権、ジェンダーにおける正義、エコロジーにおける正義、そして社会的連帯にもとづくものです。民衆の安全保障は非軍事化を要求します。そしてそれを達成する手段は非暴力的なものです。」
そして6点にわたって民衆としての「私たち」が取り組むべき長期的な行動目標を定めている。そのなかには以下のような指摘がある。
「民衆間の争い、また過去の憎しみや猜疑心を、率直な話し合いと相互の働きかけを通じて乗り越えなければなりません。このような紛争は、しばしば軍事機構自身によってけしかけられています。」
「私たち自身の社会の紛争状況に取り組み、地域社会や民族や民衆集団の間に相互信頼と尊敬を築くために活動することが必要です。ある地域社会の安全が他の地域社会の安全を犠牲にすることがあってはなりません。」
2. ウクライナ戦争のなかで民衆の安全保障をどう提起できるか
ウクライナの戦争をどのように判断し、どのようなスタンスで戦争に反対するのかを見定めるためにも上に指摘されている論点は重要だ。ウクライナとロシアの間の国家間の戦争は、同時に、両国の民衆相互の敵意を醸成するだけでなく、それぞれの国内に暮す、相手国の住民たち、とりわけ、ウクライナ東部のロシア語系住民や、ロシア国内のウクライナ系の住民、そして、ロマなどもともと差別と迫害を被ってきたエスニックマイノリティの人々の存在をはっきりと視野に入れた「民衆」の相互理解を構築することが重要になる。
この民衆の安全保障宣言は2000年に出された。2001年9月のいわゆる「同時多発デロ」をきっかけに、その後世界は、終りのない対テロ戦争の時代に入り、日本もまた「参戦」してきた。こうした時代にあって、「地域社会や民族や民衆集団の間に相互信頼と尊敬を築くために活動すること」「ある地域社会の安全が他の地域社会の安全を犠牲にすることがあってはなりません」という上の提起が示している「地域」「民衆集団」は、国家の視点からみれば「敵」とみなされている民衆や地域との相互信頼と尊敬でなければならない。
この国の野党やいままで平和運動や護憲運動の中心を担ってきた人達にとって、この民衆の安全保障がどのくらい真剣に受け止められてきたのか、私には判断できない。しかし、たぶん、いわゆる「平和憲法」を擁護する人達のなかで軍隊こそが民衆の安全を脅かすのだ、ということを明確に自覚して、だから自衛を口実とした武力を一切容認しないという立場をとる人達は、政治の世界でもアカデミズムのなかでも、そして市民運動のなかでもますます数が減ってきている。実のところ、多くの平和運動の担い手たちは軍隊を積極的に肯定しているわけではなく、むしろ軍隊などない方がいいという思いは強い。だが、そうであっても、ウクライナの現実を見せられたとき、「もし日本が侵略されたらどうするのか、そうしたときに自衛隊はやはり必要なのではないか」という保守派や政権側の脅し文句に対して「国家の安全は民衆の安全と矛盾します。軍隊は民衆を守りません。軍隊は社会の安定を脅かします」では答えにはならないだろう。侵略されたときに、国家の安全が民衆の安全と重なりあう状況が生まれる。軍隊は国家の安全を守る上で民衆の安全を守る必要に迫られる。なぜならば、民衆の安全を国家が守るということを現実に証明してみせることこそが国家権力の正統性を支えるからだ。リスクは相対的なものだ。自国軍隊が民衆に対してもたらすかもしれないリスクよりも侵略者によるリスクが上回るとき、容易に自国軍隊のリスクは容認されてしまう。だからこそ、戦争状態を目の当たりにしてもなお、軍隊は私たちを守らないのだから、私たちは軍隊を認めない、と主張しうる思想的な根拠をきちんと議論しておく必要がある。
3. 国家への向きあいかた―あるいはナショナリズムの問題
民衆の安全保障宣言は正しい原則を提起したと思う。しかし、戦争状態や緊急事態(それがいかに欺瞞的であったとしても)のなかで、敵や侵略者の脅威を誇張し煽る自国政府は、必ず、自国軍隊がもたらすリスクを過小評価して民衆に甘受させようとする。いわゆる「敵」の脅威なるものによって人々の不安を煽り、不安に対する唯一の解決が国家による武力であるという軍備強化の古典的なプロパガンダの常套手段を、この宣言は突破しきれたといえるだろうか。正しい原則を提起したにもかかわらず、反戦平和運動のなかの共通理解を獲得することができなかったのはなぜなのだろうか。この問いは、現下のウクライナ戦争でいえば、ロシアがいかに侵略者としての暴力を振おうとも、ウクライナの民衆に軍隊は民衆を守らないという基本的な視点を提起することがどうしたら可能なのか、という問題でもある。この問いは対テロ戦争のなかで、実際に戦場となり戦火に見舞われた国や地域いずれに対してもあてはまる問い難き問いかもしれない。多分、民衆の安全保障を議論してきた人達の間で、こうした課題については様々議論されてきたのではないかとも思う。日本国内のウクライナ反戦のなかにみられる自衛のための戦争への肯定感はこれまでの次元を明らかに越えて、日本の武力行使を容認する合意形成へと向いはじめているように思う。自衛隊違憲論や非武装中立論はもはやマイナーなたわごとの類いにまでランクダウンしてしまったように感じる。これはウクライナで突然起きてきたことではなく、ポスト冷戦期に少しづつ自衛隊違憲論が切り崩され、同時に日米同盟や日米安保体制を疑問視する声もマイナーになってこれらを当然の前提とした上での「平和」の議論が主流を占めてきた過程の上に登場してきたものだ。
この民衆の安全保障宣言ではナショナリズムへの言及がない。宣言には「人種、宗教、エスにシティ、性差、性的指向の差、地域差などを越えて」民衆の連帯を構築すべきとする視点は明言されているが、「ネーション」としての人口集合を越えること、あるいは幅広い意味あいも含めてナショナリズムを越えることについては明示されていない。つまり民衆がネーションとどのように向き合うべきなのか、についての基本的な問題提起が上記の人種が地域差に含意されていると解釈しうるにすぎない。たぶん、このことがこの宣言の原理的な部分に関する大きな限界だったのではないかと思う。軍隊と戦争を論じる以上、ナショナリズムは避けられない課題だ。
国家の安全から区別される民衆の安全保障の創出にとって、そもそも国家とどのように向き合うべきなのか。軍隊は民衆を守らないとして、それでは、国家はどうなのか。国家は民衆を守るのか?国家が民主主義の統治体制をとり、まがりなりにも主権者が「国民」と呼ばれる狭い枠に限定されるとしても、「民衆」に基盤を置くことでその権力の正統性が支えられているのであれば、そうした国家に対して民衆は、軍隊は民衆を守らないが国家は守りうるものとして向き合うのか、それとも、国家もまた民衆を守らないものとして、向き合うのか。民衆の安全保障の考え方の背景には、国家もまた民衆を守らないという判断があったと思う。たとえば武藤一羊は、国連の「人間の安全保障」を批判して次のように書いている。
「私たちが人間の安全保障の最大の弱点だと感じたのは、日常生活における人々の安全が何より大事だと宣言されているのに、それを保障する基本的なパワーがどこにあるのかを語らず、国家が人間の安全を保障するのだと暗黙の内に前提にしていることだった。つまり、民衆自身が自身の安全を守るもっとも大事な行為者と考えられていないこと、「オブ・ザ・ピープル、フォー・ザ・ピープル」はあっても、「バイ・ザ・ピープル」が欠如していることだった」(注)
(注)前掲武藤論文
結局こうなると国家はテロ対策や治安維持から災害、感染症などに至る生活総体を国家国家安全保障に従属させその補完物にしてしまうことになる。この問題は単なる法や行政の制度の問題ではなく、民衆自身が国家をどのようなものと理解し、国家に対してどのように自らがアイデンティティを構築するのか、という国家との向き合い方が問われることになる。国家に依存しない「バイ・ザ・ピープル」を日常生活のなかから実践することは、同時に、民衆自身がネーションを相対化するような生活様式を獲得するということと同義だといってもいい。
この問題はナショナリズムと深く関わる。とりわけ敵対する国家間の摩擦のなかで、民衆が国境を越えて信頼関係を相互に構築するときに、このナショナリズムやネーションの枠組による自他の区別意識は障害になる。この障害をそれぞれの国家はそのイデオロギー装置によって構築しようとするから、こうした意味での国家に「主権者」として巻き込まれている私たちの国家との向き合い方は狭義のいみでの国家安全保障だけでなく、総体としてのこの国が統治する社会のありかた全体に関わる。宣言が「民衆の安全保障を、軍事、外交、政治などの領域ばかりでなく、家族関係、ジェンダー関係、社会運動、文化など日常生活の領域でも追求し、創造するため行動しなければなりません」と指摘していることの意義は、国家が仕切る日常生活領域を、軍事費を削って福祉に回せといった国家に私たちの日常生活領域を従属させかねない要求でいいのかどうか、という問いでもある。戦争する国家はケインズ主義のような国家による福祉と統制を一体化させた統治を展開する。そのなかで民衆の意識は国家による軍事的な庇護だけでなく日常生活上の庇護をも自らの権利だと勘違いしてしまう。実際には国家なしには日常生活すら営めない従属をもたらし、それが戦争への動員の構図をつくることになる。
2. 戦時に戦争を放棄する
1. 暴力と正義
戦争の問題は、必ず正義をめぐる問題を内包することになる。戦争とは国家あるいは集団による暴力だから、暴力と正義の問題と言い換えてもいい。戦争に限らず国家が行使する暴力が関与する場合に、正義は、暴力を正当化するために必ず持ち出される。ところが、国際関係のなかでは、この正当性の根拠としての正義はひとつではなく、国家の数だけ存在する。正義はこの意味において相対的な概念でしかない。にもかかわらず、国家の数だけある様々な正義は、お互い、みずからの正義のみを唯一絶対の不変的正義とし、それ以外を不正義あるいは偽物の正義としかみなさない。結局のところ、正義を主張する複数の主体相互の間に譲れない対立が生じたとき、暴力による解決という事態をまねくことになる。こうして暴力の強い側が、正義を主張する権利を獲得することを暗黙のルールとして戦争が遂行される。国際関係において、正義それ自体が構成される文脈のなかに、暴力を引き寄せ、暴力によってのみその正当性を証明するというルールがあらかじめ組み込まれている。現実には正義は暴力の従属変数でしかない。この現実に比べて、正義という言葉に込められた否定しがたい高邁さが、現実の正義が暴力に加担する悲劇を巧妙に隠蔽してしまう。この意味でいうと、正義とは実は不正義の別名だといってもいいくらいだ。
国家間の暴力と正義の関係をこのようにみてみると、暴力の強さが正義の強さと比例するという単純な構図によって暴力に固有の役割が与えられることになる。こうして軍事力の拡大は正義を主張しうる権利を獲得するための不可欠な前提をなす、ということになる。近代国家は、どこの国であれ、この暴力と正義をめぐる不条理を担うのだが、私たちはこのことに気づきにくい。
2. 日常の暴力と国家の暴力
しかし日常生活のなかでは、私たちは暴力と正義の不条理と常に直面していることに気づいている。女性に対する男性の暴力、親の子どもへの暴力、性的マイノリティに対する性的マジョリティの暴力、宗教的マイノリティに対する宗教的マジョリティの暴力、こうした事態は日常茶飯事といっていい暴力の光景だ。そして、こうした暴力が不条理であることを私たちは理解しており、加害者=暴力の強い側に正義があるとは考えないし、暴力によって正義を実現することにもなっていないことを理解している。いったんこの不条理に気づくと、暴力による問題解決を容認したり正当化する社会の価値観や伝統や文化それ自体の不条理に気付くことになる。
現代の世界体制では、暴力による勝者に正義を総取りさせてきた。暴力の強い者が正義であるということはいかなる学問においても証明されたことがない、奇妙な方程式だ。もっと奇妙なのは、誰にでも日常的な経験からは理解できる力を正義とみなす傲慢な振舞いが、なぜいつまでも国家や集団に対しては容認されたり肯定されるような発想ががどこから生まれ、どうしたらこの不条理をなくすことができるのか、という問題が正面から論じられることはあまりにも多くないことだ。少なくとも、日本の国会で防衛や警察の問題を議論するときに、暴力と正義の関係が議論になったことがどれほどあるだろうか。
近代国民国家は常備軍という暴力装置を持ち、国内的には警察と刑務所を持つことに疑いが持たれることはほとんどない。そしてまた、家庭内暴力、ジェンダー、エスニシティ、宗教をめぐる暴力と正義の構図は、ほとんどの国、地域を越えてグローバルに共通しているようにみえる。この意味で、私たちの日常生活意識のなかの暴力と正義をめぐる構造は、国や文化などの特異性を越えて、より一般的に見出せる構造的な要因に由来すると仮定してみる必要がある。これは、人類の超歴史的な生物学的とか本能的とかと言いあらわせそうな種の特性と結びつけられがちかもしれないが、そうではないだろう。家族やジェンダーといった暴力と正義を生成する関係は特殊歴史的な要因に強く規定されている。現在の状況でいえば、家父長制に基づく資本主義という近代社会がグローバルに普及させてきた国民国家の枠組を越えてグローバルに浸透している共通の構造が暴力と正義の方程式を規定している。日本における暴力の配置をみたとき、日常のなかにある暴力と(欺瞞としての)正義との相関関係に何か特に9条に象徴されるような特別な平和主義的な特徴がみいだせるわけではないことに9条の脆弱さがある。
国家の暴力という問題は、国家がその領域内にある人口に対して、暴力において絶対的に優位にあるか暴力を独占しているという事態そのものが、国家が正義を表象するイデオロギーを支えることになっている。人々の身体的な自由や思想信条の自由を制約したり、もっぱら警察官や自衛官だけが武器を携行でき、裁判によって人の自由や生命まで奪う権利を行使できるのは、国家が正義の体現者だと(建前でしかない場合も含めて)見なされている場合に限って、人々に受け入れられる。暴力の強さは正義を象徴すると単刀直入に言われることはあまりない。しかし国家が暴力を行使する背景には「正義」による暴力の妥当性をめぐる制度的な手続があることを言い訳にして、国家の暴力は正当化される。私生活における親の暴力や夫の暴力の正当化、コミュニティにおけるマイノリティへの暴力も人々の暴力と正義との相関心理という点でいえば、同じものだ。
私たちは、日常生活のなかの暴力の不条理にかなりのところまで気づき、正義の実現の手段として暴力を行使することには合理的な根拠がないことも理解してきた。今、私たちが直面しているのは、この正義と暴力の間の不条理な繋りを国家の暴力に関する限り断ち切ることができていない、という問題だ。人類が有する最も大きな暴力は、現代では国家による暴力である。暴力が正義とは何の関係もないことが明らかであるとすれば、正義の実現の手段として暴力を行使することは、全く見当外れのやりかただ。にもかかわらず、国家に関する限り、この暴力と正義の関係の結びつきは極めて強固だ。
この強固さは、まず、国家が国内統治において行使する暴力に体現されている。暴力を通じた正義の実現の典型は、法を犯した者に対して刑罰を科すという司法制度にある。死刑制度は、正義の名のもとに命を奪うことを国家の特権として認める。同じことは、軍隊による戦争行為にもいえることになる。正義の実現にとって障害となる対象を物理的に除去するわけだが、前述したように、そもそも前提に置かれている「正義」の普遍妥当性を証明することはできない。
3. 9条が絵に描いた餅である理由
暴力と正義をめぐる国家の存在、とりわけ、統治機構としての国家権力が暴力一般をどのように正義と関わらせているのか、という問題の軍事的な側面として憲法9条を理解することが必要だ。憲法9条の戦争放棄は、国家が暴力を放棄することを前提としては構築されていない。国家間の紛争を武力行使によって解決しないというに過ぎない。だから、多くの日本の有権者たちは、他国の軍事行動を羨望の眼差しでみながら、武力行使すべき事態に対して武力行使を禁じられていることに不満をもつ。こうした見方に陥ると、問題解決を武力を含む暴力によって解決するという手段と目的の間にある不条理それ自体を排除する方向で国家権力を再構築することができなくなる。戦後日本の「平和」の限界がここにある。このことが9条を孤立させ絵に描いた餅にしてしまったのだ。
もしそうだとすると、日常の暴力が正義を装うことの欺瞞に気づきながら、なぜ国家の暴力には寛容なのだろうか?国家が正義を体現しうる統治機構であるための様々な「装置」を近代国民国家は考案してきた。なかでも権力による意思決定における民主主義と人間の存在を平等と自由に基礎を置くべきものとする価値観は、権力に正義の装いを纏わせることになったが、だからといって、正義に暴力を委ねることが正当であるということにはならない。正義が暴力を振うことはどこまでいっても、論理的な道筋を与えることはできないのである。とすれば、それでもなお、国家が正義の名のもとに暴力を行使しようとする正当性はどのように人々の意識のなかで妥当なこととして理解されることになるのだろうか。
正義と暴力を繋ぐ理論的な回路がありえないとすれば、残るは、イデオロギー的な正当化しか道は残されていない。他方で、国家を政治的権力の装置とする観点からみたとき、権力は権力としての自己増殖をその本性とするから、国家権力の正義とは、自らの権力の正統性の支えそのものを意味する権力言説ということになる。権力にとって、自らを世界の中心に据えて構築される自己中心的な世界観は、権力の正統性をイデオロギー的に支える重要な柱になる。この柱は、合理的であるだけでは不十分であり、美的であるとともに、普遍性の証とみなしうるだけの歴史的な連続性に根拠をもつことが要求される。合理的であることは哲学に委ねられ、美的であることは文化に、そして歴史的根拠は神話に、それぞれその役割を振り分けつつ、イデオロギーが構成される。こうしたイデオロギーの構成をそのままにして、人々の意識や価値観から正義と暴力を繋ぐ擬制的な回路を断てないまま武力行使だけを放棄する憲法の戦争放棄条項は、逆に人々の意識に、暴力による裏付けのない正義は正義としては実現しえないものでしかない、という諦めの感情と強い暴力への羨望を醸成することになる。
戦争放棄を国家が実現できるかどうかは、近代国家それ自体の本質にかかわる問題なので、むしろ近代国家という統治の枠組そのものの根本的な組み換えなしには、実現できないだろうと思うが、しかし、同時に、国家における正義と暴力の不条理な「繋り」を断つ努力は重要な意味をもつ。警察が拳銃を持ち、裁判所が刑罰や死刑という暴力行使によって正義を体現するという制度そのものに内在する不条理を理解するとすれば、司法警察制度そのものの暴力を最小化することを通じて正義を最大化する、これまでにはない統治機構のありかたの模索には重要な意味があるだろう。権力の暴力の最小化こそが正義の最大化であるという回路が新しい統治の関係を想像しうるという予感は、DVを正当化しない家族関係が確実に家父長制それ自体の基盤をなしてきた男性性そのものに内在する「力」の存在を弱体化させ、家父長制それ自体を解体することはできないまでも相対化させうる契機をもたらす。この日常生活の経験を国家の権力装置に迫ることを通じて、国家という統治機構それ自体の歴史的な使命に終止符を打たせるきっかけを掴むことくらいはできるはずだ。
憲法9条を世界に誇れるものだとみなすためには、日本の国家が有している暴力と正義の関係構造そのものを断ち切ることだ。世界の人権水準にまで至っていない司法警察制度における暴力、たとえば、代用監獄、長期にわたる拘留(人質司法)、死刑制度、個人通報制度の不在などを少なくとも国際法の水準にまで引き上げることができなければ、9条は最悪の戦争正当化の条文に転用されることになるに違いない。たぶん、日本は、みずからのいかなる武力攻撃も、それは武力行使とは認めないだろう。それは「自衛力」の行使にすぎない、ということで正当化されるだろう。プーチンが侵略を「特殊軍事作戦」と呼んで戦争ではないと主張したり、NATOが空爆しても「人道的介入」と呼んで無差別殺戮とは認めないのと同じレトリックを日本は9条という格好のネタを使って実現できる。暴力と正義の欺瞞を見抜くことがなければ9条の戦争放棄条項は意味をなさない。
4. 戦争=暴力を越える拡がり
暴力を行使しないことが戦争に加担しないことを意味しないことは、容易に理解できるだろう。戦争の意思決定をする権力の中枢を握る支配者たちは、まず自らの手を汚すことはない。しかし、彼らは、戦場の兵士以上に戦争の加害者であり暴力の主体でもある。
軍隊を背後で支える兵站の担い手たち、武器を製造する軍事産業もまた、戦争の加担者だろう。更に、兵士たちを精神的に支え、士気を鼓舞するメディアや大衆の戦争賛美の声援もまた戦争への加担行為とみなければならない。自分では人を殺さないが「殺せ!」という掛け声がどのような結果をもたらすのかは、想像に難くない。
戦争を取り巻く環境は、戦場を中心にある種の同心円を描くようにして、戦争を支える構造を描くことができる。勝敗が決せられる戦場の周囲に兵站や補給が位置し、その外に兵員や装備などの供給を担う産業や動員の仕組みがあり、これら全体を経済システムが支えるとともに、法制度が戦争や緊急事態における権力行使を正当化する枠組を提供する。これらの全体がナショナリズムに収斂する感情の共同性に支えられる。権力は、この戦争をめぐる同心円のどこかに局在する実体なのではなく、この構造全体が生み出す「観念」だといった方がいいだろう。戦争への加担とは、突き詰めれば、この社会全体を覆う構造を通じる以上、私たち一人一人が、この加担への責任から逃れることはできない。
5. ロシアの反戦運動とウクライナの反戦運動それぞれにみられる固有の困難とは
ロシアはプーチン政権による強権的な反政府言論の弾圧によって、反戦運動の抑え込みが行なわれてきた。自国の「特別軍事作戦」が実際には侵略戦争であることを見抜いた人々は政治的マイノリティとして、その言論それじたいの犯罪化によって、弾圧・排除されている。言論の自由をめぐる古典的なアプローチが適用できるケースでもある。
ウクライナでも戦争反対は、プーチンの侵略戦争に反対することそれ自体は多数の共通した主張として受容されている。しかし、ゼレンスキー政権の自衛のための戦争に反対する声は少なくとも、ロシア語系住民が多く居住するドンバスを除くと聞こえてこない。侵略者を目の前にし、その暴力に晒されながら、それでもなお「自衛のための武力行使」を選択すべきではない、という主張はほとんど聞かれない。
私たちは、多くの非戦闘員が殺される状況のなかでも自衛のための武力行使は選択すべきではない、ということをどのように説得力をもって主張できるか。たぶん、この問いへの答えを私たちが持てるかどうかが今一番問われている。
この場合、ゼレンスキー政権やウクライナ軍に対して信頼に足る存在なのかどうかが評価基準の重要な要素となるだろう。この点に関しては、少なくとも2.24「開戦」以前、ゼレンスキー政権の成立以後のこの政権の政治と対露、対欧米との関係、そしてドンバス地域の「内戦」状態への関与などを通じて、その評価を出すとすれば、その信頼度は、現在のゼレンスキーへの諸手を挙げての賞賛には遠く及ばない評価にしかならないだろう。特に、ドンバス内戦の収束に深く関わるミンスク2合意へのゼレンスキーの態度や2021年の「内戦」への対応をみると、ドンバスのロシア語系住民への弾圧は人権侵害の疑いが濃厚であり、ゼレンスキーがそもそも戦争を本気で回避しようと考えていたのかどうかは、慎重に判断する必要がある。この問題は、NATOやCIA、そしてまた軍内部と周辺のいわゆるネオナチの勢力の影響力をどのように判断するのかにも関係する。しかしだからといってロシアの侵略は正当化することはできない。軍事侵略という選択肢しか残されていなかったとはとうていいえないからだ。
他方で、もし、ゼレンスキー政権が私たちからみて評価するに足りないという場合、このことを理由にゼレンスキー政権によるロシアの侵略に対する防衛戦争行為を否定できるだろうか。否定すればロシアの侵略行為を肯定しないまでも事実上容認することになりはしないか。
ウクライナの戦争を見るときに、私たちが忘れてならないのは下記の条件だ。
- 人々の大半は、ロシアの侵略を否定し容認しない立場をとっているとしても、だからといって武器をとって抵抗するという道は選択していない。むしろ多くの人々は、戦場から避難することを選択している。難民となり過酷な将来が運命づけられるとしても戦争に命をかけるという選択をしていない。ウクライナ政府は、成人男性の出国を認めていないために、止むを得ず国内に留まり、直接間接に自衛のための戦争に関与することを余儀なくされている多くの人々がいる。もし、出国停止措置がとられていなければ、もっと多くの男性たちもまた国外に避難することを選択したに違いない。私は戦争に背を向ける彼らの行動にポジティブな意味を見出すことが必要だと考えている。戦争放棄の具体的な行動の核心にあるのは、この戦場からの逃避行動だからだ。戦争放棄とは戦争から逃げることに積極的な意味を与えることにある。
- この戦争に対して、明らかに、国家や国家に準ずる武装勢力の組織的な暴力の前に、圧倒的に多くの人々は、物理的な力に関しては無力である。こうした暴力に関していえば無力な存在に、より肯定的な価値を見出すものとして、戦争放棄の思想を構築すべきだ。戦争放棄は国家の思想でもなければ国家の規範でもない。これは無力な一人ひとりの人間が暴力から逃れることを正当化するための規範なのだ。物理的な力における無力さは、思想的な無価値を意味しないし行動の無意味をも意味しない。社会が直面している問題の解決を暴力に委ねないということは、自らが暴力の主体にならないということなくしてはありえないだけでなく、自らに代って暴力を代行するようなこともあってはならないということが含まれていなければならない。日本が憲法9条の制約によって武力行使の制約があることから、この制約を解除するために、米軍に代行してもらうことによって、結果として暴力に加担するという戦後日本の欺瞞の平和主義の道を封じる立場を意識的に創り出すことが必要だ。
もし、ゼテンスキーが正真正銘の正義の政権であるとした場合はどうか。こうした間違った仮定を置いて議論することに意味がないように思われるかもしれないが、むしろ、今必要なのは、大半の西側の人々が政府やメディアによって、この間違った仮定を真実だと誤解していることを考えれば、この仮定についても考えておくことには意味がある。
悪の外来勢力が暴力的に正義の政権を制圧しようとしている場合、私たちは、それでも正義を防衛する暴力を否定すべきなのか。この問いへの答えは「暴力を否定すべきだ」である。悪によって正義が倒されることをよしとするということか。正義の政権を支えてきた正義を体現している人々が、この悪によって残虐に扱われ殺されることを私は許容しない。必要な選択肢は、この正義の人々が暴力を回避して生き延びることである。そのために、人々が暴力を駆使することには意味がない。むしろやはり、ここでも一人でも多くの人々が、この暴力の空間から避難することだ。暴力を行使する悪と闘うということは、暴力において圧倒的な劣位にある人々にとって、この悪の影響圏から逃れることそのものえある。避難することは闘わないことではなく、闘争の次元を転換することを意味している。人々が避難することによって、権力の空間構造が国境を越えて再編成される。理想的なことを言えば、悪の支配者たちが支配しようとする瞬間に、支配の対象となるべき人々がその手から逃がれて悪の支配空間には誰ひとりとしていなくなる、ということだ。悪の支配者は、当初の目論見である「支配」を実現することはできず、空間を囲い込んだとしても、そこは政治的にみて無意味で空虚な空間しか存在しないということになる。
空間が権力と政治を内包するためには、人口の条件が必要だが、この条件を可能な限りゼロにすることこそが、暴力に対抗する唯一の道だ。この空虚な場所で、八つ当たりの暴力を思う存分振うがいい。私たちは、彼らの力の及ばない「外野」から見物しようではないか。
6. 権力は敵前逃亡を許さない
実際の戦争状態にあるとき、上述したような展開は、空疎な絵空事でしかない。しかし、戦争によって人々が犬死にを選択しないためには、この絵空事を現実のものにしなければならない。どうすれば現実のものにすることができるかを考えるためには、なにがこの戦争放棄の実践を妨げる要因になっているのかを考えることでもある。
戦争を選択する人々がいるのはなぜなのか。権力者が戦争を選択するということと、一般の市民が自発的に戦争を選択することとは同じではない。市民があえて自らの命を捨てる覚悟をするのはなぜなのか、このことが説明できなければ、放棄を思想的な課題として捉えることもできない。この問題は、近代の戦争の典型でいえば、ナショナリズムや愛国心の問題として捉えられてきたが、ポスト冷戦の時代には、これに加えて、宗教的な信条をも念頭に置くことが必要だろう。他方で、権力者にとってナショナリズムは、権力の再生産に必要なイデオロギー的な要素であって、これは自らの内面に醸成すべきことではなく、社会を構成する人口が内面化できるようにイデオロギー装置を構築するという問題になる。権力者が戦争を選択するのはナショナリズムではなく権力それ自身の自己増殖作用による。
ナショナリズムの信条が集団心理として構築され、これがイデオロギー的な世界観によって正当化されるようなパラダイムのなかで社会の集団的な紐帯が構築されるとき、こうした集団は「国民ネーション」を構成することになる。この「国民」という枠組をまず解除することなしには、戦争放棄を具体的な実践的な構築物として具体化することは難しい。少なくとも「国民意識」を相対化すること、つまり、私の「国民」としてのアイデンティティは、普遍的なものでもなければ宿命でもなく、私の意思によっていつでも「捨てる」ことができるようなアイデンティティに過ぎないとみなすか、「国民」というアイデンティティは虚偽意識以外の何者でもないということを明確に理解して、情動の動員作用を忌避できるような意識をもつことが条件になる。