「記憶と美術館:彫刻とモニュメントをめぐって」についての幾つかの異論

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昨日(2017年5月16日)、東京芸大で美術家の白川昌生を招いて公開講義が行なわれた。テーマは「記憶と美術館:彫刻とモニュメントをめぐって」。司会を毛利嘉孝がつとめた。ウエッブの案内には以下のような趣旨が記載されている。

「今日、記憶はどのように継承されているのでしょうか。そもそも集合的記憶は誰のものであり、誰によってつくられ、誰によって維持されているのでしょうか。美術館や芸術作品は、しばしば集合的な記憶を継承する重要な装置として機能してきました。白川昌生氏がこの数年取り組んできた歴史的記念碑をモチーフとした巨大な「彫刻」作品のシリーズは、こうした問いに対して正面から取り組んだプロジェクトです。今回は、美術作家であると同時に美術批評家としても活躍している白川昌生氏をゲスト講師に迎え、彫刻とモニュメントの問題を中心に、記憶と美術館について議論します。」

言うまでもなく、群馬県立近代美術館で起きた白川作品撤去を踏まえての講義だ。趣旨にあるように、美術館が集合的記憶の装置であるとすれば、この装置が発動した検閲の意味は何であり、それに作家はどのような抗いが可能なのか、あるいは可能にすべきなのか、それが抽象的な意味での講義のテーマであり、具体的には、朝鮮人強制連行の記憶を美術館は集合的記憶の装置としてどのように受けとめることに失敗したのか、言い換えれば、権力の記憶の装置は強制連行の記憶をどのようにコントロールしようとしているのか、が講義のテーマとなるべきものだろう。

教室は超満員で、廊下まで聴講者があふれた。私は、これほど多くの聴衆が詰めかけるとは思っていなかったので、アート関係者の大きな関心に心強い思いを抱いたのだが、以下で述べるように、むしろ、この「講義」における白川の話には納得できない部分が残ったし、聴衆の反応や関心も私には違和感のあるものが多かった。

白川は、この「講義」で、この間一連のシリーズとして制作してきたモニュメントをモチーフとした彫刻の制作意図について話した上で、今回の群馬で展示しようとして拒否された作品についても説明した。私は、地元群馬で訴訟にまで発展した朝鮮人強制連行の慰霊碑のためにこれまで県立公園の土地が貸与されてきたが、土地貸与の更新にあたって、これを拒否するとう県の決定への彼なりの「異議申し立て」を意図した作品であると解釈した。彼は「異議申し立て」という強い表現はしなかったが、慰霊碑が歴史的な記憶の物質化であるとすれば、その事実上の撤去圧力は、この記憶を権力が意図的に消し去ろうとする記憶の抹殺であり書き換えでもある。この事態に、白川の作品はテンポラリーであるとはいえ、美術館という空間にもうひとつの慰霊碑を建立することによって、権力による記憶の抹殺に抗う表現だったといえる。

しかも、群馬の事件の背景にあるのは、地元県議会でも絶大な影響をもつ日本会議にも繋る自民党など保守系県議会議員らの歴史認識では、強制連行を事実としても認めず、虚偽として葬り去ろうという。歴史の隠蔽ではなく歴史の改竄がむしろ大手を振っているわで、問題は極めて深刻だ。こうした群馬県の動きは、「慰安婦」への軍や政府の関与はなかったとする最近の安倍政権のスタンスとも連動している。私かかつて暮した富山でも、不二越による朝鮮人強制連行や伏木海運の中国人強制連行、あるいは黒部ダム建設での朝鮮人労働者の徴用などが未だに地域の歴史の記憶として共有されていないように、日本中で起きている歴史の記憶を改竄と隠蔽によって修正しようとする大きな流れの一環だと思う。これは大袈裟に思われるかもしれないが、地方自治体の文化・教育行政が日の丸・君が代から「教育勅語」あるいは原発に関わる放射線教育に至るまで、中央政府の意向を汲む仕組みのなかに組み込まれており、文化行政としての美術館行政も、官僚の制度や保守的な議会による監視のなかでは、こうした全体の流れと無関係とはいえない。公立美術館は、地方の文化行政の目玉であるだけでなく、文化を通じたナショナリズムや愛国心の発揚のための装置であることを当然のこととして前提しているのではないか。素晴しい地元のアートや文化的な伝統という物語が日本の優れた伝統文化や現代美術に繋げられ、いずれにせよ「日本の」という形容詞が必須であって、この形容詞にそぐわない表現を排除する暗黙の力はかなりのものではないかと思う。

白川が作品撤去するまでの経緯がどのようであったかも説明があった。そもそもの作品のコンセプトについては、かなり前に美術館に提示し、担当の学芸員からも了解をとっていた。しかし、事件は開会前日に起きた。すでに、作品を設置し終えた開会前日に、複数の県の関係者が会場を訪れた。それが誰であるかは述べられなかったが、その場で、作品についてかなり厳しい批判がなされたようだ。(現場にいあわせた作品展示準備をしていた他の作家たちが目撃してるという)その後、前日夜に学芸員から「大変なことになった、作品の撤去となるだろうが、最終的には館長が決定する。館長を交じえた会議が夜開かれる。」との連絡があったという。館長は東京在住らしく、わざわざこの件のために夜群馬に来るという。そして、夜館長から電話があり、作品撤去ということになったので、撤去して欲しいとの要請があり、白川は、特に異論を言うこともなく撤去に応じたという。県が作品撤去を要請した表向きの理由は、慰霊碑については係争中なので、この問題を扱う作品を展示することはできない、ということだった。白川は、館長が作家を擁護しようとしないのだし、館長に決定権があるのだから、これ以上モメても仕方のないこと、と考えたようだ。こうして直前に撤去された。

白川は、この問題でモメるようなことになると、館長と自分の間に立つ学芸員に迷惑がかかるのではと危惧したとも述べている。学芸員の弱い立場については、司会の毛利も同意見で、学芸員の権利確立が必要だと強調していた。この件がマスコミに報じられたのは、白川さんが作品の写真も含めてメディアに提供したからで、これくらいのことはしても、学芸員などに迷惑はかからないだろうと思ったとのことだった。また、白川は、他でもいくらでも展示できるし、展示場所もあるので、群馬県立美術館で展示できなくてもさほど問題はないとも述べた。

とくに録音をとっているわけでもないので、自分の記憶で書いているので誤解や不正解なところがあるかもしれないし、他にも様々な話がされたが今は割愛する。この白川の「講義」を聴いて幾つか納得のできないことがあったので以下率直に書いておきたい。

一つは、なぜあっさり「仕方ない」として撤去要請を受けてしまったのか、だ。「講義」での話では、直接館長と会って話をしたということではないようだ。それで「納得」できるものだろうか?なぜ館長と会うこともしなかったのか。なぜ館長を説得して翻意を促さなかったのか。館長が元々作品の展示に否定的だったとは思えず、県の政治的な意図に同調したように思う。そうだとすれば、少なくとも一度はきちんと話し合うことが作家の権利行使としても重要な段取りだったのではないか。白川が館長と直接話し合うことは、間に入る学芸員の弱い立場を配慮するなら、学芸員を介さずに、館長との直接の話し合いは是非とも必要なことだったのではないか。白川は作品展示の権限は館長にあるから自分は何も言えないかのように説明していたが、私はそうは思わない。すでに展示についての契約がなさており、展示の権利は作家側にあるハズだからだ。にもかかわらず、かなりあっさりと、作家の権利行使をむしろ差し控えて、作品の撤去に応じているような印象があった。あえて「講義」では重たい話にしたくなかったのかもしれないが、「軽い」感じで何の葛藤もないような話しぶりだった。葛藤がなかったハズはないと思う。むしろその葛藤を語ってほしかった。しかし、もし、あっさりと作品撤去に応じるほどの「軽い」作品であるというのであるならば、そもそもこの作品のモチーフ──記憶の争点でもある──となっている朝鮮人強制連行の問題への彼の問題意識そのものも「軽い」ものでしかなかった、ということになりかねないのではないか。それは彼の本意ではないと思う。だからこそ館長に会うこともなく撤去に応じたその真意がわからない。言うまでもないことだが、館長の対応は、大問題で、なぜ作家に会うこともなく電話一本で作品撤去を伝えるといった暴挙ができたのだろうか。その程度の人なのだろう。学芸員経験がある美術の専門家でもあるにもかかわらず、である。

二つめは、白川は、作品撤去は、鑑賞者がこの作品に接することの意味や、作品のモチーフとなった朝鮮人強制連行の慰霊碑をめぐる裁判との関わりでは考えていないように思った。一般に、作家が作品を撤去せざるをえない事態になったとき、彼/彼女が考えなければならないのは、撤去の結果として、この作品を見ることができなくなる鑑賞者に対するある種の責任問題だ。責任というのはやや重い表現なので適切ではないかもしれないが、作品を制作するという行為が他者の目に触れることを前提とした行為である以上、他者の目を引き受けることが作品制作の前提にある。この問題を法的な文脈で表現すれば「検閲」の問題となる。撤去を作家個人の意思に還元することは、この作品をめぐる文脈を強引に切断して、作品を作家の「所有」に帰す発想ではないだろうか?こうなると鑑賞者はどうでもいい存在にしかならない。鑑賞者、美術館、作家の間にはある種のヒエラルキーがあり、だからこそ、偉い(?)作家と権威ある美術館をありがたがる単なる鑑賞者(啓蒙の対象、あるいは単なるビジネスチャンス)という構造ができてしまう。これに美術批評家という解釈装置を加えてもいい。もちろん鑑賞者と作家の間をメディアとしての美術館が媒介するが、美術館がこのメディアとしての立場を検閲の装置として機能しようとするとき、作家は鑑賞者との関係のなかで作品についての責任を問われることになるとはいえないだろうか。だから、作品撤去は、美術館にとっても作家にとっても、鑑賞者の鑑賞の権利問題を含む問題なのだ。もし図書館で同じことが起きたら図書館の利用者のアクセスの権利が真剣に議論されただろうが、なぜか美術館ではそうした議論が希薄だ。この点を含めて、作家の葛藤がありうると思う。

三つめとして、更に、より政治的な文脈でこの問題を考えたとき、表向きのストーリーは、白川が、美術館という県の施設に展示する予定だった朝鮮人強制連行の慰霊碑を自らの意思で撤去した、ということになるから、現在係争中の慰霊碑についても、白川の措置と同様に、慰霊碑を建立した団体は、自発的に県の敷地から慰霊碑を撤去するのが当然というふうに、県にとって都合のよいようにこの問題を利用される危険性がある。しかも、撤去の理由があいまいなままであるから、「朝鮮人強制連行はなかった」ことを事実上認めた結果だ、などというデマが流布することだってありえると思う。裁判で慰霊碑の継続(そのための公園借地の継続)を主張する市民たちにとって、白川さんの自発的な作品撤去はむしろマイナスの効果ではないか、県にとっては慰霊碑の自発的撤去という前例を獲得したというプラスの効果として働くことも危惧される。

四つめとして、「講義」の質疑や毛利さんの発言のなかでもあったことだが、作品を展示するための「方便」として、強制連行の慰霊碑であることを明記したタイトルや関連するデータなどをすべて撤去すれば、一般の鑑賞者には何をモチーフにした作品かわからない。こうした妥協案もありえたのではないか、といったことも言われた。白川もいくつか妥協案を提示したという。私は、いったいなぜそのような「妥協案」があたりまえのように発言として出てくるのか理解に苦しんだ。こうした妥協案は強制連行の事実を隠蔽することに加担することにならないだろうかと危惧するからだ。強制連行を歴史的な事実から抹殺しようとする県などの動きへのある種の異議申し立ての表現としてある以上、そのモチーフを曖昧にした展示にどのような意味があるというのだろうか。作品の「かたち」はそのモチーフよりも大切だという、作品の「見た目」とそのモチーフとを分離して捉えうるという悪しき美術主義がまだあるのだろう。モチーフを優先させると「主題によりかかっている」と批判されたりするが、このように批判されるのは、決って主題が政治や社会に関わる場合であって、花鳥風月なら問題にされないように、アートの政治嫌いが未だに日本のアートの世界には根強い。しかし、主題によりかからない作品などありはしない。問題は、日本では、政治や社会を主題とすることが、アートの世界ではそれ以外の表現に比べて極端に暗黙の検閲に晒されてきたという歴史があり──その背景には、戦後の象徴天皇制が文化天皇制でもあって、文化勲章などの褒章制度がこれを支えてきた──、この歴史と十分に闘うことのなかったこの国のアートと文化がアーティストの価値観をも支配してきたというだけのことだろう。

昨日の「講義」では、問題が朝鮮人強制連行という主題を担っているからこそ起きたことで、この近代日本の植民地主義と差別の問題を消し去ろうとする支配的な権力の意思にアーティストがどのように抗いうるのか、ということがもっと議論されるべきだったと思うが、実は、こうした主題に即した集合的な記憶と美術の問題には十分な関心を引き寄せることにはならず、むしろ、こうしたテーマは回避されてしまったようにすら思った。この主題こそが検閲を引き起した根源にあるのに、である。そのなかで、慰霊碑の裁判に何度も傍聴してきたという若い在日の大学院生の発言が、この問題を正面に据えた意見を述べていて印象深かった。

この問題は、群馬だけではなく各地、起きている問題がたまたま露出したに過ぎない。そもそも作家側が制作したいが自主規制してしまうかもしれない場合も含めて、水面下で起きている「検閲」とすら自覚されない忖度の連鎖がますます強固になっているようにおもう。こうした中で作家の孤軍奮闘は孤立と孤独に追いやるだけだから、上で白川の「講義」への異論を述べたとはいえ、それは、彼個人への批判というよりも、むしろ、彼が抱えたに違いない葛藤を「軽さ」や「笑い」でやりすごす以外にないような状況に私は強い苛立ちを覚える。私たちが、可能なところで可能な声を上げることが必要であって、作家を孤立させてはいけないという思いがあってのことでもある。その意味では昨日の「講義」は、その内容に私は必ずしも満足してはいないが、無意味だったとは思わない。(敬称略)

共通番号いらないネット 学習討論会 「共通番号制度はなぜ反監視の観点から語られないのか」

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いま国会では共謀罪が審議され、私たちも全力でその成立を阻止すべく様々な行動に参加しています。

安倍政権は戦後なしえなかった監視立法を成立させてきました。番号法、秘密保護法、盗聴法の拡大、そして共謀罪というラインナップです。2020年の東京五輪の年をテロ対策を大義名分にして市民監視体制の完成が目指されているのではないでしょうか。

しかし、反監視の観点からの取り組みを語る際に、多くの場合、番号法は抜け落ちます。なぜなのでしょうか?番号問題を語る際に利便性、効率性、プライバシー、などの多様な論点の中に反監視という論点が後景化してしまうからなのか。

今回は、反監視としての番号問題はなぜ秘密保護法や共謀罪
などと同等に脅威として論じられないのか、という問題について徹底
討論したいと思います。是非ともご参加ください。

日時:5月17日(水) 18:30~
会場:渋谷区立千駄ヶ谷区民会館 第1会議室
交通:JR 原宿駅 徒歩10分
東京メトロ千代田線・副都心線 明治神宮前駅 徒歩8分
東京メトロ副都心線 北参道駅 徒歩8分

問題提起者
小倉利丸(情報資本主義論)
原田富弘(共通番号いらないネット)
宮崎俊郎(共通番号いらないネット)

カンニングをなくすために「共謀罪」は役に立つか?──不正受験防止法の物語──

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個人情報保護条例を活かす会のニュースに書いた原稿を転載します。ちょっと奇妙な内容なのですが、執筆の場を与えてくださった会に感謝します。


共謀罪に私は反対ですが、賛成論では、自然災害での防災、感染症での予防と同様に、犯罪も防犯対策として共謀罪は必要では、という主張があります。以下では、このような共謀罪賛成論への反論として書きました。

犯罪のない社会はありません。もしあるとすれば、刑務所の独房でしょう
か。24時間監視され隔離された環境なら犯罪はないでしょう。しかし独房のような社会を望む人はいないでしょう。安全安心なのに。逆に、日常的に犯罪が頻発し、無視できない多くの人達が犯罪に手を染める社会の場合、犯罪を犯す個人の責任よりも、社会や政治に犯罪の原因があると考えるでしょう。

もう少し身近なたとえ話で考えてみましょう。学校ではカンニングは重大なルール違反です。カンニング防止のために、国の法律で不正受験防止法を制定したとします。カンニングの共謀も違法とし、違反者は退学処分だけでなく懲役刑を課します。警察官が試験監督を行ない、警察がカンニングの共謀を探るために、学生を常時監視する制度を導入するとします。これで、カンニングは防げたとしても、教育効果としては疑問で、ごく少数の不正行為を理由に、全学生を監視し刑罰まで与えるのは人権侵害で受け入れられない対策でしょう。

少数ではなく大多数がカンニングする場合はどうでしょうか。この場合、
カンニングは、学生個人の責任というよりも、試験や授業のあり方に問題があり、その結果として、真面目に勉強するよりもカンニングが横行すると考えるべきでしょう。問題の原因を、学生個人に押し付ける厳罰化では解決できない事態だといえます。

実は、カンニングに対して厳罰化することなく、完全にカンニングをなくす解決策が二つあります。ひとつは、カンニングを「合法化」して試験の解答について相談していいことにする、という解決策です。もうひとつは、試験制度そのものを廃止し、試験なしの教育を工夫するという解決策です。いずれも、教育とは何か、何のために学ぶのかなど本質的な問題を議論しないと具体化できないので、既存の制度に固執する人達は、理想論だとか即効性がないなどと反論して抵抗するでしょう。

上で述べたことは、共謀罪を念頭に一般論としてまとめると、以下のようになります。
・犯罪のない社会が幸福な社会で人権侵害のない社会だというわけではない。
・犯罪に対して厳罰で臨めばよいというわではない。
・犯罪の原因について、社会制度の問題を問わないのは正しくない。
・犯罪や刑罰とは何かという問題も含めて、根本に遡って再検討するととが必要だ。

相談することすら犯罪にする共謀罪という犯罪の厳罰化は、効果がないばかりか、「犯罪」への私たちの根本的な問いをも妨げます。カンニングはなぜ「犯罪」なのか、教育とは何なのかを考えるのと同じレベルで、共謀罪の問題についても私たちは考える必要がありす。

貧困のためにやむにやまれず犯罪を犯すなどの場合、貧困をなくすことが犯罪をなくす効果的な対策でしょう。耐え難い世の中を生きるために薬物に頼らざるをえないなら、苦痛な社会の仕組みを変えることが対策になるでしょう。権力や富のために汚職・腐敗に手を染める者がいるならば、権力や富が独占されずに平等に配分される社会を目指すことが対策になるはずです。DVや性犯罪も、加害者個人のパーソナリティに責任を負わせて刑罰を与えても効果は限られ、家父長制的な家族制度や企業制度を変えることが解決の唯一の方法です。逆に厳罰主義は、力に頼る問答無用の態度を正当化し、理屈よりも暴力が正義を支配することを意味します。社会矛盾に目を向けない解決は、社会を不安定にし、人々の信頼関係をぜい弱にするだけです。これは既存の権力者たちを利することになり、目先の「安全安心」のために独房の安全安心を求めるのと変わりありません。確かに深刻な犯罪がありますが、共謀罪は、警察や政府にはその解決能力がないということの表れなのです。

(初出:個人情報保護条例を活かす会、No16)

群馬県立近代美術館の検閲への抗議と要請

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抗議と要請

群馬県立近代美術館による白川昌生さんの作品「群馬朝鮮人強制連行追悼碑」を撤去させた措置は、憲法が禁じる検閲にあたり、認められません。強く抗議するとともに、作品の速やかな展示の復活を求めます。


抗議の理由を以下書く。

上毛新聞は以下のように報じている。

上毛新聞 4/23(日) 6:00配信(yahooニュースより)

群馬県立近代美術館(高崎市綿貫町)で22日始まった企画展「群馬の美術2017」で、県立公園群馬の森(同所)にある朝鮮人労働者の追悼碑を模した作品について、同館が開催直前に展示を取りやめたことが分かった。県は碑の設置許可の更新を巡って市民団体と係争中で、同館は「どちらか一方に偏るような展示は適当でないと判断した」と説明。作者で、県立女子大講師で美術家の白川昌生(よしお)さん(69)=前橋市=は「碑を巡る状況を問題提起したかった」としている。

以下、この報道などを基に、三点にわたってわたしの群馬県立近代美術館への批判と抗議の意図を述べる。(作品の写真はここにある)

(1)憲法が禁じている検閲であり、その主題が朝鮮人強制連行の追悼碑であることが問題の重大さを示している。

憲法21条は権力による検閲を無条件で禁じている。【注1】今回の美術館の決定はこの憲法に反することは言うまでもない。作家の同意を得たとしても、作家の自由意思によるものではなく、半ば強制であり、選択の余地のないなかで強いられたものだということは明らかだと思う。

今回の事件は、朝鮮人強制連行の追悼碑をモチーフとしたものであるが、追悼碑の設置許可をめぐる係争も含めて、県の態度が朝鮮人強制連行という主題への明かな忌避と、ある種の歴史修正主義への偏りがあることで生起した問題だという点が深刻だ。そもそもの追悼碑設置更新の不許可という係争問題も、政治的な思想信条の自由を認めない近年の行政全般に蔓延している検閲と共通した態度だ。【注2】このような県の態度は、安倍政権の歴史修正主義の流れを、地方議会の保守派議員の影響も含めて、地方の行政レベルで受けとめたものであって、事件は一地方で起きたものだが、問題の本質は日本全体が抱え込んでしまった狭歪で偏見に満ちたナショナリズムへの同調圧力と無関係ではない。あるいは、安倍政権が、韓国政府に対して要求する「慰安婦少女像」の撤去という韓国の国内法も表現の自由の権利をも蹂躙する未だに植民地宗主国の体質が抜けない傲慢な態度とも、その主題からみても、決して無関係とはいえない。私たちがこの国の戦前・戦中の権力犯罪(民間であれ政府や軍であれ)を直視して、その歴史を批判的に総括することを権力が強引に拒絶しようとしている、その具体的な表現が、この群馬の検閲にも示されたのだと思う。

憲法の表現の自由や検閲の禁止は、この国の支配的な価値観や為政者によるイデオロギーに対する異論や異議申し立てに対しては、とりわけその表現を十分に尊重すべきだという意味をもつものとして解釈されなければならない。(地方であれ中央であれ)政府の政策や価値観への異論の表現は、場合によっては、世論の多くの支持を得られれば、政権の危機に繋る可能性もあるわけで、そうであればこそ権力はこうした異論を封じ込めようとするが、憲法はこうした権力による異論封じを、検閲の禁止、表現の自由によって、あえて明確に禁じているのだ。こうした異論を最大限保障することなしには、民主主義も自由もありえず、政権の民主主義的な交代もありえないからだ。表現の自由とはこの意味で常に権力との緊張関係を内包するものだ。この緊張関係の上に美術という表現もまた成り立つ権利があり、作家はこうした緊張関係を表現の糧にすることを当然のこととする文化の担い手でもある。この意味でも作品は展示されるべきだ。

(2)「係争中」という県側の理由は、展示しない決定の根拠にはならない。

係争中を理由に行政が住民らに不誠実な対応をとることはよくあることだが、同時に、こうした対応が、住民らの要求を門前払いするための行政の口実に過ぎないことも皆了解している。今回もその手の不誠実の証しがこの「係争中」なる言い訳である。

そもそも「係争中」とされているのは県立公園群馬の森にある朝鮮人労働者の追悼碑をめぐるものであり、白川の今回の作品の展示の是非が係争の対象になっているわけではない。したがって、白川の作品が追悼碑を主題していることは、作品展示拒否の合理的な根拠にはならない。このような理屈が通用してしまうと、県の公共施設を借りて追悼碑に関する県の態度に反対する集会を開くことも「一方に偏るような」催しとして禁じてよいということになり、この問題を報じた新聞など図書館などで収蔵されている文献なども県の意向に沿う内容のものしか公開しないとか購入しないということにもつながる発想であって、絶対に容認できない。美術だけが特別に厳しく表現の規制がなされるべき理由はなく、他の表現物同様、作家の価値観や思想信条を最大限自由に表現すること、とりわけ県など公権力のイデオロギーに反するものであればあるだけ尊重されて作品を展示するのが筋だろう。

美術館の「どちらか一方に偏るような展示は適当でないと判断した」という対応は、この言葉とは裏腹に、明らかに追悼碑の設置許可の是非に関して県を擁護する立場による判断である。白川の作品は、この追悼碑問題を作品のモチーフとして選択した段階で、明らかに、追悼碑の設置更新を支持する立場をとったものであると私は解釈するからだ。他方で追悼碑を排除しようとする県の意図は、追悼碑の存在が朝鮮人強制連行の記憶の継承となることを嫌い、記憶から消し去り、この意味で歴史を巧妙に改竄しようとするものだ。だから、本来の追悼碑以外に、新たに白川が作品として「追悼碑」を想起させる作品を制作したことは、県による記憶抹殺への作家の表現としての抗議に他ならないと私は解釈する。そして、実は、県の作品解釈も私の解釈と、立場は真逆であるが、ほぼ同じだろうと思う。だからこそ、県は、排除の必要を感じたに違いないし、わたしはこれに抗議して展示すべきだと主張するのだ。

県の今回の決定は典型的な官僚の自己保身だともいえる。県は、一方で係争中の追悼碑については設置許可を更新しない、つまり追悼碑は認めないとしながら、他方で同じ県の施設である近代美術館では追悼碑を想起させる作品の展示を許可するとすれば、県の行政としての一貫性が問われるかもしれないという官僚にありがちな自己保身の対応をとったのかもしれない。

こうした対応から私たちは、美術館にとって、そもそも作家の作品とはいったい何のための、誰のものなのか、誰がその作品の意味や評価を下すのか、という美術や表現における本質的な問題と深く関わる問題を露出させている。美術館にとって、そこで展示される作品は、県のイデオロギーの許容範囲内にあるべきだ、あるいは県のイデオロギーを体現するべき作品であるか、県のイデオロギーを強化し鼓舞する作品であるべきだ、という立場をとっているということを如実に示したともいえる。多様性も少数の異論も群馬にはなく、あるのは県が公認した価値観のみである、ということを今回の措置は示している。だから、こうした価値観に作家は不本意でも同調を強いられることになる。そうでなければ、美術館は作家には開かれないからだ。私は敢えて「イデオロギー」などという大仰な言葉を使ったのは、地方の美術館や博物館などの文化施設が往々にしてローカルなナショナリズムを宣伝する機関になりさがっており、地域が抱えている問題や矛盾や争点を討議したり表現する場としては捉えられていないことが多いからだ。そうであるが故に、今回のような問題が起きたとき、これを地方の些細な出来事として見逃してはいけないのだ。

(3)作家の対応がどうあれ、作品がどうあれ、鑑賞者は抗議すべきだ

今回の美術館の作家への態度は権威主義的で、美術館が、作家にとって極めて貴重な作品を発表する場であり、作家や作品の選定なども含めて、表現における権力であるということへの自己認識がなく、むしろこの権力の上に胡座をかいていると思う。モダニズムの擬制とはいえ、作家の自立性などという建前すら美術館は顧慮していない。

逆に、こうした美術館の権力の前で、美術館はターゲットとなる作家を孤独の罠にはめる。作品と作家と美術館という関係のなかだけで問題を処理しようとする。こうして作家は一人で権力である美術館と対峙しなければならないような立場に追い詰められる。他方で、作家は地域で暮し、地域の人間関係や地域の美術関係者(そのなかには美術館の学芸員なども含まれるだろう)との良好な関係を築くなかで構築される地域の表現の場があってこそ自らの表現を可能にするしかない存在である。作家の社会的な存在とは地域社会の権力構造と無関係ではありえないのだ。にもかかわらず作家が作品を制作するとき、その行為は孤独であり誰かが彼/彼女を承認したり後ろ盾となってその判断を裏書きするような者がいるわけではない。作品の全ては、作家個人に帰責する。これは美術館を含む官僚制による意思決定がもつ責任の構造とは全く異なるものだ。だからこそ個人の思想信条の自由を最大限に保障するものとしての表現の自由は、それが美術館であれ図書館であれ公共施設であれ、具体的に表現として多くの人々と接点をもてる制度や空間が、こうした表現者一人一人の自由に責任を持ち、官僚制度が無責任に強いるであろう支配的なイデオロギーの強制に抗う自立した機関となることが、非常に重要な課題となるのだ。この課題に日本の美術館はおしなべて挑戦できてこなかったし、アカデミズムも法学もこうした美術や芸術や文化の自由と制度の問題に深い関心を寄せてはきていないように思う。図書館には「図書館の自由に関する宣言」(日本図書館協会)があるが、これに類するものすら美術館にはない。【注3】

往々にして、鑑賞者たちは、こうした検閲問題に対して、美術館と作家の間の問題であり、自分たちは当事者ではないと思い込みがちだ。これは間違っていると思う。私たちは、鑑賞の権利を侵害された明らかな当事者である。この当事者としての権利を行使するかどうか、鑑賞の権利を主張して声を上げるかどうかが鑑賞しようという意思をもつ一人一人が問われる問題でもある。

作品の責任は作家が負うが、このことと、作品を評価し、批評し、作品がいかにして美術館で扱われているのか(解釈されているのか)を問題にする権利は、作家に帰属するのではなく、私たち鑑賞者全てに帰属する権利である。鑑賞する権利は、作家ではなく鑑賞する私たち一人一人にある。今回の美術館の決定は明らかに私たちの鑑賞する権利を侵害している。だからこそ作家の当初の意思を尊重して展示すべきだと要求するのだ。

作家がどういう態度なのかとか作品の質がどうなのかとかということは、私たち、鑑賞者の権利侵害とは無関係なことだ。作家は自発的に作品を撤去したのではなく、撤去への合意を強制されたことは100パーセント明かなことだと私は確信している。この結果に作家がある種の諦めの気持ちを抱こうと断固として闘おうと、どちらも私にとっては、直接のかかわりのあることではない。私は当該作品の作家ではないからだ。しかし私の鑑賞者としての権利を侵害されたということだけは確実なことなのである。

この意味で、私は、ささやかながら上記のような抗議と要請の文章を美術館に送る。こんな文章のひとつやふたつ、美術館には痛くも痒くもないだろうが、しかし美術館で作品を見るということは、美術館の壁に並べられた作品を眺めながら、同時に、その壁の背後にある制度に関わるということであり、この美術館に展示されていない多くの作品の運命を思うことでもある。選別は差別や排除である、ということは、今回のような事件が起きることで明瞭に示されるのだが、このことを、美術館という制度によって構築された「美術」の擬制と虚構が露出したものだと鑑賞する私たちが得心することが、必要なのだと思う。

もし皆さんがほんの数分の時間を割く余裕があるなら、どのような表現でもよい、美術館の決定への抗議を声として出してほしいと思う。

群馬県立近代美術館:群馬県高崎市綿貫町992-1 群馬の森公園内
TEL:027-346-5560 / FAX:027-346-4064

【注1】第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。
第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

【注2】「碑は、戦時中に動員・徴用され、建設現場などで働いて死亡した朝鮮人らを追悼する目的で、市民団体が2004年、県立公園内に建立。県は14年、碑の前で開かれた追悼集会の発言が「政治的」で設置許可条件に違反したとして許可更新を不許可とした。市民団体が処分取り消しを求める行政訴訟を起こしている。」(朝日新聞デジタル 2017年04月23日 05時03分、ハフィントンポストから再引用)

【注3】福住廉「見る権利」、Artwords(アートワード)参照。

テロの脅威を煽る国連テロ対策委員会事務局上級法務官

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共謀罪賛成派の国連テロ対策委員会事務局上級法務官の高須司江の主張が毎日に掲載されていた。国連サイドの専門家の発言として、共謀罪審議でも与党側におおいに利用されるのではないかと思うので以下私の批判を書いておく。越境組織犯罪防止条約は共謀罪なしで批准できるという日弁連はどう反論するのか。反論はしないとだろう。今更批准反対とはいえないだろうが。

高須は、共謀罪の成立は越境組織犯罪防止条約締結の前提でもあり「条約は、各国が協力してテロを含めた組織犯罪を未然に防止するためのもので、ほとんどの国連加盟国(187の国・地域)が締結しており未締結は日本などごくわずかだ。」という。国連国連テロ対策委員会に所属しているという立場からの発言なので、それなりに影響力ももちそうな発言だ。

しかし、187ヶ国も締結していて、本当にテロに効果があるなら今頃世界中からテロはなくなっていないとおかしい。むしろテロ対策としての効果は証明されてないし、人身売買、銃器取引、薬物などをめぐる国際組織犯罪の防止にも役に立ったとはとうてい思えないことは前にも指摘した通りだ。フランスやイギリス、ドイツ、チュニジアなどで起きたテロをどう解釈するのだろうか。むしろ人身売買業者摘を口実に難民の受け入れ阻止に使われるなど非人道的な取締りの正当化になりかねないと思うので、私はこの条約には大いに疑問があり反対だ。

テロ対策で本当に必要なのは、植民地主義の歴史的な反省のなさも含め、欧米列強の国家によるテロが事態を悪化させているという問題だ。ブッシュやオバマはドローンによる暗殺指示を何度か出し、ロシアやトルコの国家テロは有名だ。フランスもアフリカでは非常に野蛮な行為を繰り返してきた。(注)こうした国家犯罪としてのテロを取り締ることへの関心がほとんどないことが大問題だと思う。私の偏見かもしれないが、そもそも共謀罪の専門家である刑法学者などの世界では、国家犯罪の専門家はごく少数ではないか。犯罪学の教科書に国家犯罪、権力犯罪という項目は目立たないようにも思う。こうした環境がテロリズム問題への関心を狭めてしまっているようにも思う。

(注)チョムスキーやナオミ・クラインの著書などはよく知られているが、それ以外に下記が参考になる。フランソワ=グザヴィエ・ヴェルシャヴ『フランサフリック』緑風出版、ジョン・パーキンス『エコノミック・ヒットマン』、東洋経済新報社とか参照

高須は国連のテロ対策専門家として、検事から国連に出向しているので身分は法務省にあるのだろう。日本政府は、国連側としても共謀罪の成立が条約締結の前提であるということを主張する上で、高須のような立場の人材は有益だと判断していると思う。条約の締結には共謀罪が必須だという見解を国連の専門家の肩書きで発言しているので、条約批准は共謀罪なしでも可能だと主張してきた日弁連は徹底して反論すべきだろう。

また、高須は「多くの国は共謀罪を持つ。法整備なしでは、他国での処罰を逃れてテロリストが日本に逃げ込んでくる可能性がある」とも主張している。現実を無視した信じられない発言だ。もし高須の言う通りなら、とっくにテロリストは日本に逃げ込んでいるハズだ。こうした不安を煽る風評を拡散するような人が国連のテロ対策部門にいて日本の国益を看板にしょっていると思うと非常に恐しい。こうした人と条約事務局のUNODCもそのお仲間だというのが私の主観的な判断だ。こうした条約の背景事情も含めて、条約締結に反対なのだが、率直に条約反対が言えない雰囲気が日弁連や学界にはありそうで、残念でならない。

また、テロを煽る高須の発言には、いくつかの権力効果がある。高須の発言はとくにユニークなものではなく政府見解そのままなので、以下のことは同時に政府与党のテロの脅威を煽る言説にもあてはまる。

高須はオリンピックについては以下のように発言している。

「日本にはテロ組織がほぼ存在していないとみられ、国民は危機感があまりないかもしれない。しかし、テロリストの目的は注目を浴びることであり、2020年の東京五輪・パラリンピックは格好の対象だ。これに対応するにはテロ等準備罪などを新設し、犯罪実行着手前の早い段階で検挙できるようにすることが重要だ。」

今現在の危険がなくても、テロの危険があるという煽りは、日本におけるテロの危険レベルを引き上げる効果を政府が率先して実行するということを側面から支えてしまう。つまり、テロが現実化するような危険レベルまで国際的な緊張関係を刺激するような外交・安全保障政策を打ち出すことを容易にする効果を持ってしまう。テロの危険を煽るのは、テロを挑発するような軍事安全保障政策をとるということを公言しているようなものだ、ということだ。安倍政権は朝鮮半島の危機を鎮静化するよりも煽っていること(これに韓国のリベラル派のメディアは非常に危惧している)、ますます米国に同伴して戦争に加担すればテロの危険度は上る。そうなればオリンピックが狙われる可能性も高まるかもしれないが、それは安倍政権の外交・安全保障政策に原因があっての結果だということを見過すことになる。歓喜のイベントとしてのオリンピックの影で、日本の安全保障政策も戦争に前のめりになって、テロを呼びこむようなレベルまで進んでいくのではと危惧する。

高須のような議論の場合、テロが起きたとしたら「予測していたようにテロの脅威が現実のものとなった」と評価し、テロがなければ「テロ対策の取締りの効果があった」と自慢することになり、どちらにしてもテロの脅威を煽ることで政権への支持を維持するということに、起きた(起きなかった)事態を利用することになる。

こうして国際関係の複雑な事情が無視されてしまう。テロの問題は、政治・経済・文化をめぐる大きな国際関係のなかで捉えるべきことで、軍事安全保障や刑事司法政策はほとんど効果を上げることができないのは、対テロ戦争の出口が見えないことからもはっきりしている。しかし、刑事司法の専門家は、自分の専門性のなかでしか解決を考えないから、厳罰主義の取締りや立法化のことしか念頭にない。今の日本の動向は、いずれ米国のようにテロリストに対する拷問(特殊尋問手法と呼んで拷問とは呼ばない)も合法化しかねない。自分たちの専門性の限界を客観的に見ることができないのは、原子力村の原子力工学などの専門家が原発廃止を主張できないのと同じ問題であり、結果として取り返しのつかない悲劇を招き寄せてしまう。

この記事の最後で高須は次のように言っている。

「プライバシー侵害や捜査機関による乱用に対する懸念の払拭(ふっしょく)は重要だが、テロが五輪会場で起きた場合、多数の人が被害に遭うこととのバランスの問題だ。」

非常に興味深い発言だ。オリンピックで「多数の人が被害に遭う」ことへの関心はなく、さらに野宿者や追い出しをくらう住民など少数の人達の被害には尚更関心はない。そして、共謀罪によるプライバシー侵害を防止するとか捜査機関による乱用を禁ずるといったことには一切言及せず、プライバシーの侵害や捜査機関の乱用があっても懸念されない仕組みを工夫すべきだということを主張している。高須の論理に従えば、共謀罪は必須の立法で、それが人権侵害となっても、オリンピックのテロ被害とのバランスでいえば受忍すべきだということだが、「受忍」といった我慢や苦痛の感情を「払拭」したいのだと思う。。従来ならば「プライバシーの侵害や捜査機関の乱用」とされた警察の行為をプライバシー侵害とは呼ばないとか捜査機関の乱用にはあたらないということで合法化することを意味しているのだろう。言い方はソフトだが、極めて保守的な異論排除型の典型的な権力者に同調する発想だと思う。高須には、共謀罪によって権利侵害は現実のものとなるが、このことへの危惧はなく、想定に過ぎないテロの脅威への不安を煽る姿勢は、それ自体がバランスを欠いている。

4月16日(日)揺れ動く世界をどうとらえるか

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戦争に協力しない!させない!練馬アクション講演会
日時 4月16日(日)
場所 練馬区役所  19階1902会議室 (〒176-8501 練馬区豊玉北六丁目12番1号  西武池袋線・西武有楽町線 練馬駅西口から徒歩5分; 都営地下鉄大江戸線 練馬駅から徒歩7分)
午後3時 記念講演会
揺れ動く世界をどうとらえるか
講師:小倉利丸さん

トランプ政権の誕生で、世界情勢が大きく動こうとしています。イギリスのEU離脱や排外主義の台頭。内戦が続くシリア、強権化が進むトルコなど、混迷が続く中東情勢。それらに加えてのトランプ政権の誕生で、今後、どのような世界が到来するのか、予断を許さない状況が生まれています。

 特に、トランプ政権の対中強硬姿勢は、東アジア世界を一気に不安定化させかねません。

 そうした中で、安倍政権は、あの手この手で改憲を進めようとしています。沖縄米軍新基地建設の強行に加え、宮古・石垣などに自衛隊配備しようとしています。首都圏でも、横田にオスプレイを伴った米空軍特殊部隊が配備されたり、木更津に米軍および自衛隊のオスプレイ整備拠点が置かれたりと、米軍・自衛隊の再編が進められようとしています。

 練馬でも、陸上自衛隊朝霞駐屯地に、現代版の陸軍参謀本部=総隊司令部が設置されようとしています。

 南スーダンPKO派兵部隊への駆け付け警護任務追加など、自衛官に殺し・殺される任務を強いる動きも着々と進められています。また安倍政権は、「東京オリンピック」を理由とした「テロ対処態勢」の構築を理由に、共謀罪を新設しようとしています。

 このような状況に向き合う反戦運動を、どのように作り出すのか。グローバル化がもたらした世界の矛盾、反グローバリゼーションの運動の両方に詳しく、監視社会化にも警鐘を鳴らしてこられた小倉利丸さんに記念講演をしていだき、大いに論議をしていきたいと思っています。是非、ご参加ください。

連絡先 090-5208-5803(池田)

転向の強要としての共謀罪に対する刑罰制度

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●治安維持法と思想犯保護観察法

刑法は、1907年に制定されたものが、一部改正されながら現在まで基本的な枠組をそのまま維持している。戦前・戦中の刑法がいまだに現役なのだ。治安維持法も戦時中の軍事関連の刑事法も現行刑法の土台の上に構築されてきたものだ。だから、戦前の治安立法を回顧するのは、今現在の刑法のありかたと直結していることを忘れるべきではないだろう。

かつて改正治安維持法の時代に、当時の有力な刑法学者でもあった牧野英一は、治安維持法を大正後期の社会運動の高揚がもたらした「思想的悪化」への対抗手段として必要な法律としながらも「その性質は専ら威嚇的のもの」であり「違反事件に対する捜査の手続は、刑事訴訟法というものの現に存しているかを疑わしめるものであったとさえされている」(『改正刑法仮案とナチス刑法』有斐閣、1941年)と特高警察などの捜査を批判した。また牧野は、治安維持法は「国家が自己の保全に焦燥を感ぜねばならぬ限り刑政は威嚇を出で得ないこと、これは刑法の沿革のすでに事を明かにしているところである」とも述べて、統治機構の脆弱化を示唆した。

しかし他方で牧野は、「威嚇主義にもかかはらず刑の執行猶予を除外しなかった」と評価もする。牧野は、起訴猶予や執行猶予によって収監されなかった者たちを対象とした思想犯保護観察法を評価するのである。威嚇的刑法としての治安維持法と更生・社会統合法制の思想犯保護観察法を表裏のもの、「厳父慈母」の如きものであり、刑罰は「国民を自己のものとして包容するの力」なのだと主張した。

この思想犯保護観察法は、未成年への保護観察制度を成年に拡大したものと位置付けられつつ、戦前の思想犯取締りの流れを受けた制度だ。威嚇的刑法としての治安維持法と対をなし、「新に保護観察制度を採用し、保護観察所を設け、保護観察審査会を置き、以て、思想犯人の更に罪を犯すの危険を防止する為めその思想及び行動を観察して、これを保護することによって共産主義運動を防遏し、延いては、曾ての思想犯人をして国家有用の材たらしめんとする」(森山武市郎『思想犯保護観察法解説』、松華堂、1943年)というものでだ。特に共産主義運動の活動家をターゲットにその転向を促すだけでなく、彼らをも国策のために人的資源へと転用できるようにするための制度・組織的な実施のための法的な枠組だった。

こうしてみると、戦時期の日本における反政府運動の壊滅的な状況をもたらしたのは、治安維持法だけではなく、むしろそれよりもより広範に適用されたであろう思想犯保護観察法のような統合と包摂の制度があったからでなないだろうか。監獄に収監する自由刑による苦痛という懲罰ではなく、社会生活を送らせながら、日常的な監視を通じて、地域社会や家族も動員して思想転向を促すもので、直接の効果は、治安維持法違反者に対するものだが、その影響範囲は、むしろこうした対象者だけでなく、社会全般を巻き込んで、転向を社会的に当然のこととする精神風土とでも言うしかない環境を生み出したのではないだろうか。この意味で思想犯保護観察法は、治安維持法とは別の意味で極めて問題の大きい法制度だ。最大の問題は、もし思想犯保護観察法による転向政策がなければ維持された思想信条を前提にしたとき、思想信条の自由とは、抽象的に本人が自発的に思想を放棄したといった個人の自由意思の問題に還元することはできず、個人の思想信条の自由は、彼/彼女が置かれている国家のイデオロギー装置を含む会的文化的な文脈のなかでしか評価できない、ということだ。つまり、諸個人の自由な意思によって選択された違法行為=犯罪のなかには、国家や社会の諸矛盾への異議や抵抗が含まれる場合があり、犯罪に対する処罰がこうした政治的な抵抗の意思の弾圧として作用するように制度化されているという側面があることを見逃すことはできない。

身体的な苦痛を与える自由刑ではないこうした更生保護の制度に含まれる思想信条の自由への抑圧に対する批判は、共謀罪を目前にしている現代における「自由」の問題を考える上で、重要な観点だろう。

共謀罪の問題は、厳罰主義の延長線にあるものだが、同時に上に述べたような刑罰と対応した更生の政策が思想の転向を組織的に展開する制度として要請されることになるだろうということをも念頭に置かなければならない。

犯罪と刑罰は表裏一体の関係にある。刑法では、罪の重さに応じて刑罰が定められている。では、共謀罪で有罪となった場合、その刑罰の意味はいったいどのようなことになるのだろうか。以下では、主に、反政府運動の活動家が共謀罪で有罪となり懲役や禁固となった場合や執行猶予となったり仮釈放とされた場合を想定して、こうした政治犯としての共謀罪犯の刑罰が、現行の行刑制度や更生保護制度を前提としても、転向の強要と思想信条の侵害とならざるをえないという点を明かにする。共謀罪に反対する理由として従来あまり注目されてこなかった論点かもしれないが、「話し合うことが罪になる」ということが「罪の償いは思想転向の強要である」ということをも十分に念頭に置いておく必要がある。

●政治的共謀犯にとっての「改善更生」とは何なのか?

共謀罪は意思を犯罪化するものだが、そうだとすると、共謀という罪に対して刑罰はいかなる効果を受刑者にもたらすことを国家は意図して行なうことになるのか。

受刑者などの処遇については「刑事収容施設及び被収容者等の処遇に関する法律」に定めがあり、その三十条で以下のように規定されている。

「改善更生の意欲の喚起及び社会生活に適応する能力の育成を図ることを旨として行うものとする」

共謀罪での受刑を前提としたとき、「自覚に訴え、改善更生の意欲の喚起及び社会生活に適応する能力の育成」とは何を意味するのだろうか。実行行為の既遂犯の場合は、行為に及ばないように改善更生することだが、共謀罪のように意思が犯罪化された場合は、「意思」の「改善更生」、あるいは社会生活への適応が求められることになる。社会運動や反政府運動のような基本的人権に基く抵抗の意思が共謀罪として犯罪化された場合、処罰の目的は、こうした政府に対する抵抗や異議申し立ての意思を放棄することが「改善更生」であり「社会生活に適応する能力」ということになる。これは、監獄での身体的な自由の剥奪に加えて、精神的な自由をも奪うことを目的として刑罰が課されるということになる。

禁固や懲役の刑であっても仮釈放によってとりあえずの「自由」を回復する場合もあるが、仮釈放は完全な自由を意味しない。刑法28条で「懲役又は禁錮に処せられた者に改悛の状があるときは、有期刑についてはその刑期の三分の一を、無期刑については十年を経過した後、行政官庁の処分によって仮に釈放することができる。 」とあり、仮釈放の条件については「犯罪をした者及び非行のある少年に対する社会内における処遇に関する規則」で次のように定められている。

28条「懲役又は禁錮の刑の執行のため刑事施設又は少年院に収容されている者について、悔悟の情及び改善更生の意欲があり、再び犯罪をするおそれがなく、かつ、保護観察に付することが改善更生のために相当であると認めるときにするものとする。ただし、社会の感情がこれを是認すると認められないときは、この限りでない。 」

ここでも「改悛の状」「悔悟の情」「改善更生の意欲」「再び犯罪をするおそれがな」といったことが仮釈放の条件であり、なおかつ「社会の感情」が仮釈放を是認しないと思われる場合は仮釈放は適用されないともしている。共謀罪の受刑者の場合は、その意思そのものが「罪」なのだから、この意思を棄てること、つまり、政治犯の場合であれば、思想信条の転向がなければ仮釈放はありえないということを意味することになる。つまり、仮釈放を「餌」に思想転向を強要するということだ。「テロリスト」というレッテルを貼られた受刑者は、たとえ転向したとしても「社会の感情」(いったい誰がこのような「感情」を客観的に判断できるのだろうか)を口実に仮釈放はありえないとされるのではないかと思われる。

●政治的共謀犯に対する更生保護法の効果とは?

更に、実刑ではなく執行猶予になった場合は更生保護法が適用される。(仮釈放者に対しても適用される)この法律の目的は以下のように定められている。

1条「この法律は、犯罪をした者及び非行のある少年に対し、社会内において適切な処遇を行うことにより、再び犯罪をすることを防ぎ、又はその非行をなくし、これらの者が善良な社会の一員として自立し、改善更生することを助けるとともに、恩赦の適正な運用を図るほか、犯罪予防の活動の促進等を行い、もって、社会を保護し、個人及び公共の福祉を増進することを目的とする。 」

ここでもまた再犯防止、改善更生と「社会を保護し、個人及び公共の福祉を増進することを目的」とするとある。対象者は保護観察官などの指導監督下に置かれる。

更生保護法の第50条には「保護観察対象者」の遵守すべき事項が以下のように細かく規定されている。

「第五十条  保護観察対象者は、次に掲げる事項(以下「一般遵守事項」という。)を遵守しなければならない。
一  再び犯罪をすることがないよう、又は非行をなくすよう健全な生活態度を保持すること。
二  次に掲げる事項を守り、保護観察官及び保護司による指導監督を誠実に受けること。
イ 保護観察官又は保護司の呼出し又は訪問を受けたときは、これに応じ、面接を受けること。
ロ 保護観察官又は保護司から、労働又は通学の状況、収入又は支出の状況、家庭環境、交友関係その他の生活の実態を示す事実であって指導監督を行うため把握すべきものを明らかにするよう求められたときは、これに応じ、その事実を申告し、又はこれに関する資料を提示すること。
三  保護観察に付されたときは、速やかに、住居を定め、その地を管轄する保護観察所の長にその届出をすること(第三十九条第三項(第四十二条において準用する場合を含む。次号において同じ。)又は第七十八条の二第一項の規定により住居を特定された場合及び次条第二項第五号の規定により宿泊すべき特定の場所を定められた場合を除く。)。
四  前号の届出に係る住居(第三十九条第三項又は第七十八条の二第一項の規定により住居を特定された場合には当該住居、次号の転居の許可を受けた場合には当該許可に係る住居)に居住すること(次条第二項第五号の規定により宿泊すべき特定の場所を定められた場合を除く。)。
五  転居又は七日以上の旅行をするときは、あらかじめ、保護観察所の長の許可を受けること。」

政治犯としての共謀罪によって執行猶予などになった場合、「健全な生活態度を保持すること」とは、彼/彼女が関ってきた運動や組織の集会・結社への参加だけでなく、同様の集会・結社への参加や関りそのものが「健全な生活態度」に反するとみなされ、思想信条の自由を制限されることになるのではないか。また、保護観察官らが「労働又は通学の状況、収入又は支出の状況、家庭環境、交友関係その他の生活の実態」を報告しなければならないという場合、こうした事項は明かにプライバシー権の侵害と思われるのだが、それだけでなく、こうした報告を通じて、執行猶予や仮釈放で出所した人々の行動を監視し、反政府運動の動向を把握する手段として利用されることになりはしないだろうか。

また、更生保護法第51条では「特別遵守事項」が次のように定められている。以下の遵守事項に反した場合は執行猶予の取消もありうる厳しいものだ。

「保護観察対象者は、一般遵守事項のほか、遵守すべき特別の事項(以下「特別遵守事項」という。)が定められたときは、これを遵守しなければならない。
2  特別遵守事項は、(略)次に掲げる事項について、保護観察対象者の改善更生のために特に必要と認められる範囲内において、具体的に定めるものとする。
一  犯罪性のある者との交際、いかがわしい場所への出入り、遊興による浪費、過度の飲酒その他の犯罪又は非行に結び付くおそれのある特定の行動をしてはならないこと。
二  労働に従事すること、通学することその他の再び犯罪をすることがなく又は非行のない健全な生活態度を保持するために必要と認められる特定の行動を実行し、又は継続すること。
三  七日未満の旅行、離職、身分関係の異動その他の指導監督を行うため事前に把握しておくことが特に重要と認められる生活上又は身分上の特定の事項について、緊急の場合を除き、あらかじめ、保護観察官又は保護司に申告すること。
四  医学、心理学、教育学、社会学その他の専門的知識に基づく特定の犯罪的傾向を改善するための体系化された手順による処遇として法務大臣が定めるものを受けること。
五  法務大臣が指定する施設、保護観察対象者を監護すべき者の居宅その他の改善更生のために適当と認められる特定の場所であって、宿泊の用に供されるものに一定の期間宿泊して指導監督を受けること。
六  善良な社会の一員としての意識の涵養及び規範意識の向上に資する地域社会の利益の増進に寄与する社会的活動を一定の時間行うこと。
七  その他指導監督を行うため特に必要な事項 」

こうした遵守事項を、政治活動で共謀罪に問われた場合を念頭にイメージするとどうなるだろうか。2項の一にある「犯罪性のある者との交際」とか「犯罪又は非行に結び付くおそれのある特定の行動」における「犯罪」には共謀という犯罪も含まれるから、共謀罪に問われたりその恐れがあると保護観察官らが主観的に判断した集団や団体での活動や行動も禁じられるから、集会やデモなどへの参加や関与が全体として禁じられることになるのではないか。

●転向強要メカニズムとしての監獄・更生保護制度

このように、共謀罪の成立によって従来の監獄関連の法律や更生保護法などは、その性質を一変させざるをえないだろう。とくに政治的社会的な運動への適用は、国家がその組織をあげて転向の促す制度として機能することになるのではないか。たとえ執行猶予や仮釈放となったとしても、保護観察官や保護司の監視のもとで、家族や地域、職場の人間関係を巻き込んで本人の転向を促す包囲網が構築されるだろう。共謀罪による転向の強要は、単に国家によるトップダウンによるだけでなく、下からの転向強要の制度が構築されることになるだろう。こうした構造はすでに、未成年の非行や犯罪、あるいは薬物犯罪などの対象者に対して行なわれてきた手法だが、こうした刑事事件の加害者の保護観察でも従来の親密な人間関係を、犯罪者仲間といったレッテル貼りで断ち切られて、精神的な苦痛を甘受しながら、不本意な人生を生きざるをえず、もっぱら犯罪の責任問題を加害者個人に還元して社会統合を強制するという問題があるが、こうした問題が思想信条の世界でも繰り返されることになる。反政府運動であれ政治活動や社会運動、労働運動であれ地域の住民や市民の運動であれ、既存の社会制度に問題や矛盾があるからこそ人々が異議申し立ての抗議の声を上げ、時には直接行動をも決意するのであって、犯罪をその個人の行為に還元することはできないが、共謀罪は、逆に全ての責任を個人の意思に還元して、その意思そのものを放棄させ、人間関係を絶つことを強いるものだ。受刑制度も保護観察制度もこうした社会的な文脈を無視し、民主主義社会が内包する制度変革のための民衆的権利を肯定することなく、逆にこれを既存の社会的な価値観に統合するように抑え込む。

共謀罪の成立によって、確信犯としての政治犯の「更生」や社会への再統合が具体的に問題になるとすれば、かつてオウム真理教の信者たちに対してなされたような棄教の強要と同様のことが、より広範囲にひとつの制度的な取り組みとして実施されるようになるのではないだろうか。

これは明らかに憲法の思想信条の自由に抵触するが、「改善更生」の法律や制度はこれを自発的な意思による転向として言いのがれることになると思う。こうした状況が一般化すると、そもそもの反政府運動そのものが窒息させられてしまう。共謀罪反対の論点としてこの点は、これまで余り重視されてこなかった論点かもしれない。

共謀罪反対運動のなかで、改めて戦前の治安維持法への注目が集ってきた。共謀罪は治安維持法の再来ではないかという危惧である。私もこうした危惧を共有するが、実は治安維持法にだけが問題なのではなく、思想犯保護観察法がその対をなす法制度としてあったことを視野に入れて、共謀罪の問題から、現在の監獄や更生保護の制度が基本的人権としての自由権を奪い、あるいは敢えて語義矛盾の表現を使えば、自発的転向の強要の制度として、その性格も一変させるのではないか。共謀罪がもたらす権利侵害の範囲は、想像を越えて大きなものだということを確認しつつ共謀罪断固廃案を主張したい。

特定秘密保護法のテロリズム定義と共謀罪

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共謀罪法案にはテロの定義はない。しかし、特定秘密保護法 12条2の一に定義があり、これがドローン規制法にも継承されている。これら先行する法律におけるテロリズムの定義には容認しがたい大問題がある。

●特定秘密取扱者とテロリスト調査

これらの法律ではテロリズムは以下のように定義されている。

「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう」

この定義は、特定秘密を扱う者の適正評価の対象となる者の身上調査に関する事項を定めた第12条2項のなかにあり、適正評価対象者の「テロリズムとの関係に関する事項」として「評価」すべきこととされている。つまり、この条文でいう「テロリズム」の活動そのものではなく、こうした活動との関係が調査対象となるので、当然のこととして「政治上その他の主義主張」それ自体にこの条文でいうテロリズムの傾向があるかどうかが調査の対象になると思われる。秘密保護法の審議当時も、取扱者の適正評価規定への強い反対はあったのだが、このテロリズムの定義そのものが秘密法反対運動のなかでもさほど注目されてこなかったようにも思う。

この秘密法でのテロリズムの定義では、「政治上その他の主義主張に基づき」と思想信条を差別して、行為ではなく内面の意思の犯罪化を正当化する傾向をはっきりと示している。この点は、憲法の19条から21条までの自由権が、無条件で──その内容が「暴力」や「テロリズム」と称される内容に及ぶとしても──言論、表現、集会、結社、通信の自由を保障していることからすると明かな逸脱である。ただし憲法12条、13条で権利行使は「公共の福祉に反しない限り」と釘をさされているから、19条から21条までの規定も公共の福祉や立法での制約がありうると解釈するのが政府側の言い分かもしれない。しかし、22条では「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する」とあり、「公共の福祉」を明記している条文であることとの対比でいえば、明文での「公共の福祉」という制約を定めていない19条から21条は、具体的な行為に至らない範囲での事柄については、「公共の福祉」という制約を課すべきものではなく、自由の権利が優先されると解釈すべきだ。実際にも、武力や暴力による既存の権力の転覆を主張する思想や信条を表明する言論活動の自由がある。出版であれ結社であれ、こうした主張に基くというだけで制限されたり禁止されることはない。これは、そもそも内心の自由が前提にあり、これを集団のレベルであっても犯罪化すべきではないという大前提に基いてのことだ。

しかし、特定秘密保護法のテロリズムの定義が特定秘密取扱者の身上調査として実際に適用されるという場合、職員や社員が政治上の主義主張として「テロリズム」の定義に該当するような考え方を持っていたり集団や団体に所属しているというだけで、実際の行動がなくとも、事実上テロリスト扱いされて差別され、不利益を被ることになる。採用人事や昇進人事で、将来の特定秘密取扱者となりうることを想定した身上調査として、こうした思想信条に介入することが正当化され、プライバシー権の侵害がまかり通ることにもなる。

● ほぼ全ての反政府運動の「テロリズム」扱いへ──他人に不安を与える目的で、物を破壊する活動だけでテロになる!?──

更に、特定秘密保護法の文言でいうテロリズムの定義を仔細に検討するともっと重要な論点が浮かび上がる。この定義は、「国家に自らの政治上の主義主張を強要して恐怖を与える目的で人を殺傷し重要な施設を破壊する活動」というレベルで解釈することもできるが、逆に、「政治上その他の主義主張に基づいて、他人に不安を与える目的で、物を破壊する活動」という風にも解釈できるのだ。後者のような場合は、かなり広範囲な活動が含まれてしまい、非暴力直接行動としてのピケティングや団体交渉、ストライキなど様々な行動が、可罰的とはいいがたい「違法行為」がテロリズムあるいはその恐れがあるというだけで微罪での検挙の口実を与え、基本的人権としての自由の権利をテロリズムの名のもとに制約することになる。実行行為でなくても、その恐れがあるというだけで、捜査対象にされるであろうし、場合によっては逮捕・拘留や強制捜査もありうるだろう。

すでに特定秘密保護法のテロリズムの定義にはこれだけの大問題があるのだが、これが文字通り意思の犯罪化である共謀罪法案のテロリズムの定義にも転用されたらいったいどうなるだろうか。とりわけ、上で述べたように、「政治上その他の主義主張に基づいて、他人に不安を与える目的で、物を破壊する活動」がテロリズムだと解釈された場合、共謀罪はこのような活動の前提となる意思を処罰することを念頭にその犯罪構成要件が構築されることになる。そうなれば、主義主張そのものの犯罪化を招く恐れが十分にあり、その結果として、憲法19条から21条に定められている自由の権利は、行為だけでなくその内面の思想や価値観にまで介入して犯罪化されることになる。

共謀罪にテロの定義が条文に盛り込まれなくても、実際の法の適用では、既存の法律の定義を転用される恐れは大いにあるのではないだろうか。たぶん政府は、テロリズムの定義が争点となれば確実に、思想信条の自由との関連が問われることを予見して、あえて定義を示さず、共謀罪が成立した場合には特定秘密保護法など先行する法律にある定義を準用して、「政治上その他の主義主張」をターゲットとした取り締まりへと向うつもりなのではないだろうか。

共謀罪は、盗聴法に続いて、あってはならない憲法の解釈改憲であり、自民党の改憲の先取りでもある。妥協や政治的な取引きは論外であり、廃案しかない。

生前退位論議から天皇制廃止への道筋を考える

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3月2日に衆参両院の正副議長が各党派代表者の会議を開催し生前退位の合意をとりつけ、生前退位否定の選択肢がまず消えた。生前退位について有識者会議や政党間でも議論は三分されており、そもその生前退位を認めるべきではないという主張が極右派の立場で、共産党や社民党は、象徴天皇制の是非問題を棚上げにして天皇制存続を前提に皇室典範の改正で対処すべきだとの見解であり、与党の特別法対応はその中間に位置するといえる。(井田敦彦「天皇の退位をめぐる主な議論『調査と情報』943号、国立国会図書館、20172月)今後は、天皇の意向を汲み、生前退位を前提として、憲法、皇室典範などの法解釈問題も含めて、生前退位を合法化する法的な手続き論に焦点が絞られたということになる。

生前退位をめぐる議論は、天皇制の持続可能性を確保するための最適な統治機構の再設計問題でしかない。天皇制に反対する立場からすると、退位をめぐるこの間の問題は、メディアも議会もアカデミズムも法曹界も、そもそも天皇制の是非という課題を最初から問題設定の前提から排除することを自明の理として、天皇制ありきの議論に何らの疑問も抱いていない点に最大の問題がある。これは、将来の社会構想を大胆かつ想像/創造的に構築する意欲そのものの衰退をも意味しており、極めて深刻な思想的な枯渇状況にある。

戦争法反対運動のなかでしきりに口にされるようになった「立憲主義」の議論のなかでも、立憲主義が立憲君主制と両立するのかという根本問題には関心が寄せられていない。天皇廃位から廃止へという選択肢の不在を象徴しているのが、議会内左翼の生前退位問題への認識である。共産党は、210日に国会内で天皇退位問題について検討会を開催し、小池晃書記局長が「天皇の退位については、政治の責任で真剣な対応が必要だ。一人の人がどんなに高齢になっても仕事を続けなければならないという今のあり方を、個人の尊厳という憲法の根本精神に照らして見直すべきだ」と述べた(『赤旗』201734日)。また、社民党は215日に「見解」を発表し、その中で「人間が人間として有する天賦人権は、天皇『個人』に対しても、当然保障されるはずである。しかし、天皇という地位やその地位が世襲であるとされていることによって様々な人権が制約され、天皇『個人』に過度の負担が一生負わされているが、『退位の自由』がない限り、これを正当化することはできない。憲法の基本原則の制約は必要最小限にすべきであって、天皇の人権という観点から、退位を認めるべきである。」と述べている。いずれも戦後憲法の基本理念である個人としての人権に照らして退位への態度を表明したものだ。象徴天皇制が憲法の基本的人権の理念に抵触することを軽視し、象徴天皇制は旧憲法の天皇制に比べればまだマシで政治的な実権を担わない天皇にさしたる問題を見い出していないからではないか。

憲法前文と天皇条項の矛盾

憲法前文は「国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くもの」と宣言するが、この人類普遍の原理からどのような論理で象徴天皇制が導き出されるのかを憲法は全く明示できていない。自民党改憲草案はこの齟齬を自覚し、前文を全面書き換えて天皇条項に整合性の軸を据えたといえる。

そもそも憲法には天皇とは何者なのかの定義すらなく、天皇を唐突に持ち出す論理構造上の亀裂があり、これは、天皇が日本においては自然法の実体と位置づけられているからだと解釈する以外にない。そうだとすれば、天皇条項は、前文の普遍原理(もうひとつの自然法)と両立することは絶対にありえないはずなのだ。しかも象徴が意味する具体的なことがらは国事行為とされるが、この国事行為が国民統合の意味内容を満たすものとはとうてい思えない。国民統合の意味内容に見合う役割を天皇に与えるとすると限りなく戦前の天皇に近い存在にならざるをえない。そうなれば、普遍的な人権原理とますます離反することになる。

この矛盾を抑え込む理屈として、憲法は、天皇の地位を前文の普遍原理ではなく「国民の総意」に根拠を持つという例外規定を設けてこれを正当化した。憲法には「総意」の定義がないこと、憲法制定時に裕仁の天皇としての地位について「国民の総意」によって確認されていないし明仁の場合も同様であることは、これまでも問題視されてきた。総意確認の手続きがとられないのは、「国民」であれば例外なく天皇の地位を認めるのは当然のことだという前提があるからだろう。この天皇当然視が天皇を自然法の枠に含める発想にもなるが、これは、憲法が国民の総意によって天皇の地位を確認すべきだということを要求しているという解釈とは真逆に、国民であるならば当然天皇制を承認すべきであるという「国民」への天皇制肯定を自明のこととして強制する根拠として用いられる危険性のある文言でもある。このことは、特に、外国籍の人たちが日本国籍をとり「国民」となることを選択するときに、天皇制を承認する「国民の総意」に含まれる一人となることを強要する根拠として転用されうるもので、自民党改憲草案などはこうした解釈を持ち込んでいるといえる。

世襲と「総意」の矛盾

「国民の総意」は、天皇の象徴としての「地位」に対するものであって、2条の世襲制との関係は明確ではない。むしろ世襲と「国民の総意」による根拠づけとの間には矛盾があって必ずしも両立するとはいえない。常識でいえば、天皇の地位についた者がその地位にふさわしいかどうかを「国民の総意」によってその都度確認することを憲法は求めていると解釈すべきだろう。そうでなければ、初代が国民の総意で即位したとして、そのあと自動的に世襲で継承され、永遠に「国民の総意」の確認は不要だということになる。これでは天皇の地位が「国民の総意」に基くことが確認されたとはとうて言えない。戦後の象徴天皇制は、国民の総意による確認を当初から怠ったままなので論外の違憲状態である。そもそも君主制だからといって世襲が必須なわけではなく、総意が得られなければ世襲されないうことになり、2条の世襲規定と反することになるが、2条は大統領制のように立候補による選挙という制度ではなく、皇位継承の候補者を世襲原則とするという規定だと解釈すべきで、このことも踏まえて、天皇の代替わりの都度国民の総意を確認する手続きをとるのが筋だ。

総意を確認する法制度を置くということは、逆に総意に基づく廃位の可能性を排除できないことも意味する。廃位の可能性が手続的に明確になるということは、天皇制の廃止、即ち1条から8条を削除する改憲を正当化する一つの道筋をつけることになる。天皇条項の廃止は、憲法前文の普遍原理には一切抵触しないので改憲の範囲内だ。護憲派は、退位問題が議論されるなかでも、皇位継承に関して憲法が要請している「国民の総意」による確認問題すら持ち出していない。これで「護憲」とはとうてい呼べないだろう。私たちが天皇制を廃止するという場合、この国に暮す人々(国籍は問わない)の総意として天皇制を選択しないということの合意をとるということであり、その具体的な道筋のひとつとして、「国民の総意」問題は議論されてよい問題だと思う。(注:廃位とは「強要して君主をその位から去らせること」『大辞泉』の意味で用いている)

「国民」概念と普遍的人権の理念との矛盾

象徴天皇制が憲法の人権規定と整合しないという議論はこれまでも繰り返されてきたが、大方の議論は、女性天皇論議に端的に示されているように、象徴天皇制の存続を前提として、いかにして人権条項と整合させられるかが中心の課題とみなされてきた。憲法の人権概念が素直に適用された統治機構であるならば、例外となる天皇のような存在を認めないとするのが筋が通っているハズだ。大方のリベラルな憲法学者も含めて、このことは承知の上で、現行憲法に規定されている天皇条項を憲法体系のなかで辻褄を合わせようとする。この無理が無理だとは思われなくなる思考が、合理的な思考を旨とすべきアカデミズムや立法府の政治家たちの無意識を支配するようになる。

この不合理性の問題は日本だけでなく立憲君主制を採用するどこの国にもあてはまる矛盾だという面からすると、問題の根は深く、近代国民国家そのものの統治体制の本質に、合理性を超越した統合の要素を要求せざるを得ないものが内在しているとみるべきかもしれない。近代国民国家は、「国民主権」と基本的人権を「人類普遍の原理」とすることによって、普遍的な価値を「国民」という限定された人間のカテゴリーにのみ認めるという差別と排除を正当化する構造をもっている。「国民」を英語版憲法に忠実に人民と訳したとしても国民あるいは人民の定義を国籍法に委ねるわけだから、国籍の有無によって普遍的な人権を享受できる者とそうでない者を峻別するということになる。天皇は聖別されて、ある種の特権を例外的に与えられるとすると、天皇以外の国籍を与えられない人たちは、この国に暮しながら「人類普遍の原理」の適用外として憲法の保障の埒外に置かれることになる。人類普遍の原理は人類であれば誰であれ平等に適用されるべきであるにもかかわらず国籍によって明確な差別が持ち込まれる。近代の「人類普遍の原理」は、同時に差別と排除に支えられてもいること、この意味である種の欺瞞を免れず、これがまた西欧近代への懐疑に基づく「日本固有の文化」というもうひとつの欺瞞を生み出してきた歴史にむしろ注目すべき時だろう。

こうした文脈のなかで、「国民」のカテゴリーから除される人たちの存在によって、国民国家の主体(主権者=国民)の側に自負心が生み出され、人類の普遍的な価値を享受することを許された者が共通して抱く感情が生成される。この感情がナショナリズムである。立憲君主制の場合、この「国民」に与えられた普遍的な価値が君主を媒介として一体性(統合)を獲得するような仕組みになっている。象徴天皇制が戦後憲法の理念と抵触する重大問題だという認識が定着しなかった理由も、この国民国家のレトリックの罠にあるのかもしれない。歴史的一体性のイデオロギー機能を天皇の象徴機能に見出すのは間違いだとする憲法解釈が通説となって、象徴の政治=文化的機能を軽視した楽観論が支配し、その結果、天皇制の根拠や是非を問わずに、そこに有ることそれ自体を「自然」な存在として前提する支配層の発想を許してしまった。このような、ぜ天皇制が必要なのかという根本問題を問わない思考方法が生前退位問題でも如実に現われたといえる。この意味で国民国家という枠組それ自体が、本質的に抱える問題性の特殊日本的な現われが天皇制なのだといえる。

人類普遍の原理が国の数だけあるということ自体が近代国民国家の普遍主義の矛盾である。にもかかわらず、逆に国民国家を普遍的な原理の体現者だという奇妙な感情を全ての国の「国民」がそれぞれ別々に抱き、これが作用して、至高の原理を標榜する国家が相互に殺戮を繰り返してきたのが近代の歴史だ。この意味で憲法そのものには深刻な非人間性が内在している。この意味で国民国家も憲法も統治の原理として肯定的に前提すべきではなく、統治の制度設計を土台から再構想する想像/創造力こそが問われている。すくなくとも日本の近代の歴史の教訓とはこのようなものであるべきだろうと思う。生前退位の議論を再度この水準で論じ直し天皇制廃止を国民国家の廃棄という卓袱台返しに繋げないと、新しい社会への希望は生み出せないと思う。(『反天皇制運動Alert』9号、2017年3月から一部修正の上転載)

4月8日(土)五輪災害と共謀罪

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オリンピック災害おことわリンク連続講座(第1回)

講師 小倉利丸さん

・4月8日(土)18:00〜21:00
・会場 文京区民センター2A
・資料代 500円

いったん廃案になった共謀罪が今国会成立の危機にあります。安倍首相は、共謀罪の成立なしにはオリンピックも開けないと強調し、共謀罪成立に異常な 意欲を表明しています。共謀罪は、話し合いを犯罪化し、会議や集会、通信などを監視して取り締まりを可能にする法律です。政府はテロ対策を口実に、共謀罪 をオリンピック反対などの運動の抑え込みに利用しようとしています。

私たちは、オリンピックを政治が人為的にもたらす災害であると捉えて、反対してきました。私たちのアクションだけでなく、沖縄の反基地運動、反原発 運動など様々な異議申し立ての運動は、憲法が権利としてわたしたちに与えている言論・表現の自由、思想信条の自由に基づいた運動です。共謀罪はこうした運 動を、思想信条のレベルで根こそぎにし、政府批判そのものを犯罪化する法案となる危険性があり、反対運動も急速に拡がりつつあります。

おことわりリンク第一回講座は、この現状を踏まえ、オリンピックと共謀罪をテーマに、講師に小倉利丸さんを招いて開催します。オリンピックの様々な問題とも関連させつつ、共謀罪の問題点を、オリンピックも共謀罪もいらないという視点から話をしていただきます。

◆ 今後の予定

第二回目は「神宮再開発の現場を歩いて考える」(5月27日13:00〜、案内人はアツミマサズミさん)です。事前にお申し込みください。

以降の講座は、障害者差別を助長するパラリンピック(北村小夜さん、7月上旬)、オリンピックはスポーツをダメにする!?(10月)、ナショナルイベントと東京五輪(12月)、3・11と東京五輪(3月)を予定しています。

◆ 東京オリンピックおことわリンク
http://www.2020okotowa.link/
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