プロプライエタリ社会をハックする ―暗号化とオープンソース

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プロプライエタリ社会をハックする ―暗号化とオープンソース

文学がソースコードで、絵画が暗号化された文学だとしたら、暗号について考えることは芸術を知ることなのかもしれません。

☆今回のセミナーは、ファイルの暗号化とオープンソースをテーマに行います。

●ファイルの暗号化
名簿や経理・会計などのデータ、あるいは人には見られたくない写真や文章や動画。パソコンやスマホはこうしたプライバシーデータの宝庫でもあります。こうしたデータを第三者に覗かれないための最も有効な方法は、データを暗号化してしまうことです。ファイルの暗号化は比較的簡単にできるので、暗号化ソフトの導入を実際にやってみます。やることは次の二つです。
– 自分のパソコンやスマホのファイルを暗号化する
– ProtonMailを使ったメールサーバの暗号化とその活用
暗号化されたデータをメールでやりとりするための公開鍵暗号PGP/GPGの導入はちょっとややこしいのですが、その考え方や思想は重要なので今回は概略だけ触れます。

●オープンソースについて――Linuxをちょっとだけ
自分が使っているソフトが本当に自分のプライバシーを保護してくれているのか、自分の意図しない振舞いをしていないか、政府や企業に密かに自分のデータを漏洩させていないか、こうしたことを確認する唯一の手立ては、プログラムのソースコードが公開され、コミュニティによって検証されていることです。オープンソースはこうしたソフトウェアの公開性の基本的な考え方で、プログラムを企業秘密にしたり著作権を設定して第三者に公開することを拒む考え方とは真逆のものです。このオープンソースの考え方と、この考え方に基いて開発されてきたLinux OSを紹介し、WindowsやMacからの乗り換え作戦の第一歩を参加者のみなさんと議論します。

日 時:2017年11月17日(金)19:00~21:00
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
サポーター:小倉利丸、上岡誠二

共謀罪と無差別監視社会

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<共謀罪と無差別監視社会>

自由なコミュニケーションを手放さないために、
ネット社会の通信の秘密はどうあるべきか?
私たちにできる対抗手段を考えよう!

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★お話と実践:小倉利丸さん(批評家)
★日時:2017年10月20日(金)18:30
★場所:かながわ県民センター1502号室 参加費:500円
★対抗手段、レクチャーします。
ノートパソコン、スマートフォンをお持ちください。
★主催:共謀罪と監視社会を考える会(090-6138-9593)

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共謀罪は6月15日に強行成立、7月11日には施行されました。
今後、私たちは共謀罪のある社会で暮らし、活動していかなけ
ればなりません。未遂以前の話し合うことを処罰する共謀罪を
立証するために、治安管理と称した個人や団体活動の情報収集
が行なわれるようになると思います。
スノーデンの暴露によってNSA(米国安全保障局)が情報監
視システム「エックスキースコア」を世界中に張り巡らし、メ
ールや通話の情報を大量に収集していたことが明らかになって
います。
私たちはSNS(ソーシャルネットワークサービス)を使って
メールやツイッター、フェイスブックで運動を広げてきました。
ネットや携帯電話を使ってのコミュニケーションは欠かせなく
なっています。これまで以上の市民監視が常態化することへの
不安はありますが、小倉利丸さんは「メゲてる場合ではない、
通信の秘密を侵害されないように一人ひとりができるセキュリ
ティ防衛手段はある。プライバシーを守り、自由を獲得するた
めに、ネット上で戦うハッカーたちの作り出したオープンソー
スのソフトウェアーやサービスを使うことを共に学び、私たち
のあたりまえの〈コミュニケーション〉を取り戻そう。」と言
います。 萎縮せず活動を続けていくために、私たちにできる対
抗手段を考えていきませんか。
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全てを疑ってみたいと思う

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1 選挙なのだが….

安倍だけが問題なのではなく、安倍政権を支持する「国民」が多数を占めているこの国の「世論」が問題だと思うのだが、こう言うと、投票率の低さからみて、安倍の支持率は過半数にいかないではないか、選挙区の区割りや定数格差などの事情を考慮するとますます安倍支持は少数ではないかという反論がありうる。そうかもしれないが、私は悲観論者なので、むしろこう言いたい。

そもそも、選挙に行かない層は、行く必要性を感じていないわけで、選挙に無関心である理由のなかで、考えられる理由いくつかありそうだ。一つは、現状の政治に特に異論を唱えなければならないほど切実な危機感や批判意識を抱く必然性を実感していないということではないか。この場合、同じような環境にありながら、ある人々は危機感や批判意識をもち、別の人々はむしろ権力に同調し、更に最も多数を占めるかもしれない人々は無関心であるというように、異なる考え方をもつのはなぜなのか、という問題に私たちなりに答えを探さなければならないだろう。

安倍政権が(あるいはより本質的には戦前戦後一貫してなぜ保守・右翼が政権を維持しつづけているのかという問いについての最も簡単で(ある意味では安直な)こたえは、権力の真実を隠蔽するまやかしに多くの人々が騙されているから、真実を暴けば人々は権力の正体に気付き、反旗を翻すはずだ、というものだ。騙される大衆と、この騙しに乗らないで真実を見抜く「私たち」という図式は、あきらかに傲慢だ。なぜ「私たち」は真実を見抜くような才能を身に付けられたのか?あるいは「私たち」の主張が真実であり、大衆の考え方が騙されたものだという根拠はどこにあるのか?人々はそれほどにも愚かであるという傲慢さに少なくとも私は不快な気分以外のものを感じない。

そもそも私たちは真実を体現するなどという大それた存在ではない。むしろ私たちが熟考しなければならないのは、彼らの「正しさ」と私たちの「正しさ」といった複数の正しさがあるということを前提とするか、あるいは、私たちの正しさが本当に正しいのかどうかを反省することだ。もちろんこの反省が、彼ら権力者の正しさへの屈服を意味するなら、それは思想的にも生き方としても敗北の宣言をして転向することを意味するが、そうではなく、彼らでも私たちのこれまでの思想でもない、未だ見出せていない「正しさ」を模索すること、という第三の道もありうるということである。

1.1 大海の一滴にすぎない「1票」のもつ意味

もう一つは、選挙で投票する票の効果は、何万という票のなかのたった1票にしかすぎないという諦めがあるかもしれない。この諦めは、理解しやすいようにもみえる。しかし、膨大な人口を選挙の母体とする近代国民国家の代議制は、その当初から、大規模な有権者のなかのたった1票しか割り当てられていない個人から成り立ってきた。自分の1票がほとんど体制に影響しないことは常識でもわかる。しかし、そうであっても多くの人々は選挙に出向いてきた。それがある種の「義務」の意識からくるものだとは思えない(棄権することにペナルティは課せられないからだ)。ではなぜ1票の無力さよりも1票に多かれ少なかれ期待を寄せる心情を抱くのか、ということの方が説明を要するだろう。

投票することが実際に政治を動かすだけの効果をもつと実感されるためには、自分の票が個人としての票ではなく、自分が帰属すると感じている社会集団の票と一体のものとして自覚できるかどうかにある。こうした集団的なアイデンティティは、伝統的な社会関係でいえば、一方での地域コミュニティへの帰属意識、他方で労働組合や企業への帰属意識など、いずれにせよ集団への帰属と「票」が密接に関わってきたようにみえる。これは今でも、選挙をめぐる投票行動の分析の基本条件をなすが、「無党派」と呼ばれたりする層は、こうした社会集団の政治的な機能とは直接の関係意識をもたないために、個人としての意識=わたしの1票のむなしさ、無力感がより強いかもしれない。

1.2 階級的アイデンティティ

もうすこし教科書的にいえば、「革新」を支えてきた投票行動の背景には、広義の意味での階級意識の存在があったということだ。労働運動だけではない多様な社会運動を背景としながら、自民党や保守との価値観の相違が理屈ではなく、ライフスタイルの一部として存在していた。だから、一方で労働者階級の政治意識が、他方で、資本家の政治意識が、相互に集団的な対立の構造の意識的な受け皿として個人レベルでも実感しうるものだったのではないか。この個人の実感を社会的な階級意識へ媒介するところに政治集団としての「党」が機能していた。党に帰属していないとしても、いわゆる「支持政党」と階級的な帰属意識との間に、安定した持続的な繋がりが自覚されてきたように思う。人々の集団的な意識は階級に還元されるわけではなく、家族、地域、友人から国家への帰属まで、様々なアイデンティティの集合であるが、そのなかで、階級意識と「国民」としての国家への帰属意識は人々が政治的な価値判断をもつときの最も影響力の大きな要因であったという時代が、多分、20世紀の半ばころまでは見られたように思う。社会制度の側面でいえば、労働運動や労働組合に集約され、これらを母体とする左翼政党と資本家階級の意識を体現する経営者組織に集約される保守政党であり、後者が主として国民国家の権力を握るという構図である。

2 「外部」あるいは「瑣末」な存在の重要性
2.1 核心としての「外部」

この構図は、便宜的に階級社会論などとして単純化されて論じられる場合の「骨組」のようなものだが、この構図が重要なのは、二大階級の図式に還元することのできない、その外部がこの階級社会の構造を常に不安定、不均衡な状態に置く主体として存在してきたという点にある。この外部というのは、実は言葉の便宜的な表現上の都合(私の表現力のなさに結果)でしかなく、実際には外部どころか、それ自体が社会の核心をなすといってもいい条件である。

社会システムが安定することのない不均衡を常態とするのは、社会システムと不可分であり不可避ですらある条件が社会システムの内部ではなく外部に存在するという奇妙な構造をもっているところにある。「社会とはこれこれの仕組みをもっている」という説明によって理路整然と社会が説明されるとき、社会が抱える本質的で避けがたい深刻な問題は、このような理路整然とした説明のなかでは瑣末な要因として軽視されて切り捨てられる。むしろこうした意味での切り捨てられた外部から社会が抱える矛盾が噴出する。「瑣末」というのは、こうした要素を軽視あるいは無視しうるとみなすことだが、社会である以上、この「瑣末」とみなされる要素を構成しているのは、これもまた人間集団である。そして、この人間集団もまた「瑣末」なもの、どうでもよいもの、社会にとって存在してもしなくてもよいものという位置付けのなかでほったらかしにされるわけだが、そのことが結果として、社会システムそのものを不安定にし、矛盾や危機を生み出すことになる。

2.2 「外部」の内部化

他方で、社会の支配的なシステムは、主要な(瑣末とはいえない)対抗的な社会集団を現にある社会システム(資本主義)の維持を前提として、その内部に取り込むことによって制度の安定性と支配の覇権を維持しようとする。有力な対抗的な社会集団による問題提起は、社会問題化されやすいから、これを制度内改革を通じて、制度の維持が可能な範囲に問題解決を抑えこむ。19世紀であれば、標準的な労働時間の法制化、児童労働の禁止などから男性の普通選挙制度の導入、19世紀末のいわゆる社会保障制度の導入などがこうした枠組によって説明できる。その結果として、労働運動の主流は、体制変革の運動(社会主義、共産主義、無政府主義の運動)ではなく、資本主義の制度を前提とした改良主義へと転換してゆく。こうした問題の枠組では、女性であること、有色人種であることなどの属性は重要な主題とはならない。皮肉なことだが、階級的な敵対関係を資本主義の内部に包摂する仕掛けは、階級闘争を通じて、この闘争を教訓として資本の自衛戦略として編み出されてくる。

同時に、こうした主流の運動の周辺に―つまり外部に―主流の運動に包摂しえない社会集団が登場する。改良を否定してあくまで資本主義を打倒しようとする運動ばかりではなく、そもそも運動の内部では十分な認識を獲得できていない課題をになう社会集団が、運動が事実上無視してきたことへの批判も含めて、運動<論>の再構築を要求するようになる。こうなったときに初めて、社会システムの「主流」をなすと自認してきた主流の社会諸集団の側が、この「瑣末」な社会集団の存在に気づいて、資本家と対決する上で利害を共有しうる存在として認知するか、あるいは逆に、敵対的な関係へと追いやってしまうかの選択を迫られることがある。1支配者達もまた、この「瑣末」な集団をどう扱うべきか、扱いかね、あるときは社会システムに影響を及ぼさないところにまで放逐しようとしたり、逆に自らの利害損得を計算しながら、自らの集団の内部に「下位集団」として組み込んで懐柔すようとする。こうして外部の「瑣末」な社会集団は、内部化されるか放逐されて、社会は再びある種の均衡や安定を実現したかにみえる。2また再び、今まで想定していなかったか薄々気付いていても「瑣末」な事として無視してきた社会集団がまたぞろ登場し、上で述べたことと同様の揺らぎをもたらすことになる。

2.3 外部の「瑣末」な社会集団とは実は内部の社会集団そのものなのだが

上で、便宜的に「外部」の「瑣末」な社会集団と述べたものは、実は、文字通りの意味での社会の外側にある何者かを意味するわけではない。それは、社会を構成している人々そのものである。人々は、複数の社会集団に所属し、複数のアイデンティティを持つ。労働者階級という概念があたかもある個人が、その存在の全てにおいて労働者階級に帰属する存在であるかのようにみなすが、実際には、家族のなかでは親族システムのなかの一定の位置付け(妻とか夫とか)に即した役割りを担うし、地域社会や友人関係、学歴もまた、それぞれに固有の人間関係を形成する。そして、誰もが国籍を付与されることによって、「国民」としての義務や権利、アイデンティティを持たざるをえないものとして教育される。ラディカルな労働運動の活動家が家族やジェンダーの価値観においては保守的な家父長制的な価値観をもっていたり、民族差別意識をもっていたりすることは決して矛盾ているわけではない。たとえ革命家であっても、ありとあらゆる側面において革命的なわけではない。支配的な変革の理論や思想が、「革命的」とかラディカルとする枠組においてそうなだけである。そして、こうした変革のための思想や理論が人々に提起する世界観や社会認識が、資本主義批判にとって主要な課題が何であるのかの指針を与えるから、こうした理論がまた、どのような事柄が「瑣末」なのかについてのお墨付きをも与えることになる。

しかし、「瑣末」な外部による、主流の社会関係への介入と異議申し立てを通じて、こうした存在を正当に再評価して、社会変革にとって重要な主題であることを再認識することによって、理論や思想が自己批判的な再構築を試みることができるかどうかによって、運動を担う人々が共有する社会批判の枠組にも影響をもたらすことになる。言い換えれば、理論や思想がいつまでたっても自己批判できず、理論が「瑣末」としてきた事柄の再評価を阻むのであれば、運動もそれを支える世界観も変らない。せいぜいのところ政策的な課題として表層的に(選挙の票目当ての公約のように)処理されるだけだろう。

上で述べた「瑣末」とか外部というのは、それぞれの個人が自分自身の中に持っている複数のアイデンティティのなかにありながら、社会認識の理論や思想によって、下位に位置づけられているアイデンティティである。

3 伝統的な社会批判の限界
3.1 例えばジェンダーという課題と階級闘争という課題はどこで交差するか

たとえば、伝統的な資本主義社会の批判的な分析では(マルクス主義の教科書的な理解をイメージしていただけばいいのだが)、社会集団は上で述べたように労働者階級と資本家階級という階級概念で括られるものとして理解された。この理解のなかで、資本主義の基本的な矛盾や問題が論じられることになる。支配者の側にあっても、経済であれ政治や法律であれ、資本主義を肯定することを前提とした社会理論の体系が構築され、実務的な政策が策定される。人間とか労働者とか資本家とか国民といった概念が繰り返し登場するが、これらが明示していない属性がいくつもある。例えば性別は明示されない。明示されないという意味は、性別という要素が「瑣末」であって、無視してよいからだ。社会問題の主要な課題ではない、ということの表明である。資本主義社会の問題を解決する上で中心に据えられるべきなのは、階級闘争であり、人々は労働者階級としての集団性によって代表することができるとみるわけだ。あるいは、階級闘争によって性差別の問題も解決可能であるとみなす。なぜなら、女性労働者もまた女性であるよりも労働者であることの方がより重要な社会的な属性であるとみなして、労働者階級に帰属するものであり、労働者階級の解放はそれ自体が人間の解放を意味するのだから、女性もまた人間である以上、人間として解放されれば女性に関する問題もまた解決されるハズであるということになる。

同様のことは、人種差別などその他の社会問題にも共通していえることだ、というのが階級社会一元論の観点である。しかし、こうした一元論は、ジェンダーの問題を解決できなかった。なぜならば、階級社会論には家族や世代的再生産、あるいはセクシュアリティの問題を捉える枠組がないからだ。もし、家族やセクシュアリティの問題を含めて、再度「社会」の枠組を捉えかえすということになった場合、ジェンダーの問題と階級の問題をどのような関係として、あるいは解決されるべき優先順位の問題として理解すべきかということへの答えが要求されることになる。

階級と民族、階級とエコロジーなど、19世紀以降階級闘争として構築されてきた社会運動の基本的な枠組を揺がす課題が、とりわけ20世紀後半から現代まで、一貫して増殖しつづけてきた。しかも、冷戦の終結と20世紀の社会主義(それがその名に相応しいものかどうかも含めて)の敗北によって、階級闘争の思想的理論的な正統性への信頼が大きく揺らいだ。その結果として、社会主義という選択肢が非現実的なものとみなされ、それが新自由主義のなかで、福祉国家やいわゆる混合経済体制すら選択肢ではないかのようにみなされるという閉塞状況が生まれた。他方で、これまで選択肢としてはありえようもない宗教的原理主義(イスラームだけでなくレイシズムを伴うキリスト教、天皇主義、ヒンズー教、仏教まで広範に拡がっている)というイデオロギーの新たな形態が無視できないものとして登場してきた。これは、近代資本主義が非世俗的資本主義というこれまで「瑣末」だとみられてきた資本主義の選択肢が無視できない力をもってきたことを示している。

資本主義を擁護するビジネスの理論もまた、企業の収益が最大化することが社会の幸福と同義であるとみなして、社員が企業組織の人的資源として最大限に活用しうる条件を論じるが、ここでもまたジェンダーや民族の問題は、「瑣末」なものとみなし、これらに関わる差別の問題も軽視する伝統が長く続いた。ビジンネスにとって、無視できない最大の障害は労働運動あるいは階級闘争や社会主義、共産主義のイデオロギーであったから、これらに対抗できる組織と思想を構築することに最大の関心を抱いてきた。

3.2 「外部」の闘争こそが社会を不安定化させる

こうした事情が20世紀の後半以降徐々に変化してきたことは、私たちが直接経験してきたことでもある。女性や性的マイノリティ、少数民族の社会的な差別の問題を放置できなくなった背景にあるのは、階級闘争の主流派の主体が、こうした問題を階級闘争として組み込んだからではなく、伝統的な闘争の枠組の外部に、新たな主体として階級に還元できないアイデンティティを前面に押し出す社会集団による闘争が登場したからだ。こうして、闘争の主体は、複数の社会集団として登場することになり、階級闘争の図式に還元できないより複雑な社会の不安定性が重要な課題となる。3

こうした集団性の解体が、よく言われるように、階級意識の解体を招いたが、これに代替する資本主義に対抗しうる社会的に多数を占める人々をまとめる集団性のアイデンティティは今に至るまで見出されていない。しかし、様々な異議申し立てのアイデンティティを基盤にした運動が錯綜しながら相乗効果をもたらす場合がある一方で、日本のように、相乗効果が発揮されるのではなく、人々が集団性を資本(企業と消費市場)と国家(ナショナリズム)と家族に収斂させる傾向が濃厚となる国もある。私たちの課題は、こうした制度の周囲に構築されてきた支配的な対抗軸の外に、新たな「外部」を構築することである。そしてその「外部」が資本主義の制度に内部化されることも排除されることも拒否することとはいったいどのようなことなのかを模索することを行動と思想の両面で実践することではないだろうか。

危機感も批判意識も、日常生活のなかの私的な会話や愚痴の類いではなく、より積極的に自らの心情の表明のレベルにまで達することがなければ、投票という些細な行動であっても、行動には結びつかない。こうした意識が促す現状維持を消極的あるいは受け身であれ否定することを含意するものだから、変化への期待や可能性を前提とする意識ということになる。危機感や批判意識の欠如は、断念、諦めによる現状甘受の心情でもある。この心情は容易に、外部の敵への感情的な憎悪によって、抑圧を解除しようとする。だから、棄権した有権者の大半は、安倍に対する潜在的な支持層である。なかには、投票したい候補者がいないとか選挙はそもそもナンセンスであるという人たちもいるだろうが、とりわけ、左翼やアナキストの信条から選挙を拒否するという人たちはごく少数に違いない。

だから、この国の多数は、安倍政権に肯定的だと推測することの方が合理的だと思う。このような理不尽な政権を肯定するなどということがどうしてありえようか?と批判的な私たちはつい考えてしまうのだが、ここで立ち止まって考えなければならないのは、私たちにとっての正しさがなぜ、多数の人々にとって受け入れうるものになっていないのか、である。

脚注:

1

例えば、普通選挙権を要求する運動は、無産者の選挙権を要求するという場合も、男女ともに選挙権を要求することが実現性の困難な場合に、男性無産者にまず選挙権を与える方向で運動の方針を立てると、女性の選挙権を要求する運動とは対立することになる。しかも、有産者の女性にまず選挙権を与え、既存の有産者男性の選挙権の制限を解除しようという女性の参政権運動は、労働運動や無産者運動からは階級的に敵対するものとみなされることになる。一般に、改良主義や漸進的な改革運動は、こうした相対立する選択肢に直面したとき、その世界観や価値観が問われることになる。

2

ここでは労働運動を例に出しているが、現代でいえば、正規の常用雇用の労働者に対して非正規の労働者の運動といった事例を挙げられるかもしれない。あるいは、戦後の世界でいえば、米国の公民権運動、植民地解放運動から移民の運動、いわゆる「68年」の運動、そして、現在欧米世界で最大の問題になっている難民の問題、あるいは、そのアイデンティティが軽視されてきたムスリームというアイデンティティ(冷戦期の左翼がイスラム世界を宗教的文化的なアイデンティティの問題として重視してきたことはほとんどない)などなど。いずれもかつて「瑣末」あるいは外部とされてきた社会集団がむしろ社会の主要な運動の主体となるというケースである。

3

階級闘争が主役を担っていた19世紀から20世紀にすでに女性解放運動はあったし、こうした運動が階級闘争との緊張関係をもってきたことは知られている。また、階級闘争の基本的な社会経済構造の前提が、都市の工場労働者と大資本との対立に置かれているとき、その外部に無視できない闘争の主体が登場する。農民や小規模自営の貧困層である。これらをプチブルとみなして資本家階級の下位集団と位置付けるのか、それとも労働者階級の同盟集団とみなすのかは、古典的な階級社会論では一義的な説明ができない。19世紀から20世紀にかけて、資本主義化が進む諸国では、この農業・農民問題が重要な課題となり、また、革命後のロシアにおいても社会主義建設の難問が農業問題であったのは、そもそもの資本主義批判の枠組に非工業セクターのなかでも重要な位置にあった農業部門をきちんと位置づけることができなかったからだ。同様に、性別の問題、とりわけ女性をめぐる問題は、労働現場に還元できない家族の問題を含み、家族の問題は世代的再生産の問題と不可分であるから、ここでもあまた階級という観点の外部が問題の核心をなしていた。家族の問題とはとりもなおさずプライベートな問題として公的な問題から排除され、伝統的な労働運動にとっては主題とはならなかった。しかし、このプライベートとされる問題が人口と<労働力>の再生産に関わるという意味でいえば最も「公的」な領域でもあるという逆説をともなうのだが、こうした家族の問題が政治的社会的な問題として自覚されるようになるのは階級闘争や労働運動ではなく、その外部にあったジェンダーの運動だった。

 

カタルーニア独立投票におけるスペイン政府のネットシャット ダウン

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スペイン警察による独立投票の弾圧について、投票所周辺への機動隊などによる暴力行為は日本のメディアも報じていますが、インターネットがシャットダウンされたことについてはあまり詳しく報じられていないかも
れません。きちんと訳す時間がないので、概要のみです。

今回特徴的だったのは、

(1)どこかのウエッブをシャットダウンするという方法ではなく、カタルーニアの独自ドメイン、.catを管理しているオフィスを差押え、シャットダウンした。このドメインは、referendum.catとかref1oct.catなど、投票に用いられていた。

(2)googleは投票所情報などを提供する投票用アプリの削除を求められた。

(3)有権者の確認に必要なコンピュータシステムがアマゾンによって投票日の最初の数時間閉鎖された。

(4)投票所でのインターネッアクセスができなくなった。

(5)カタルーニアの地域プロバイダから住民投票のサイトへのアクセスがブロックされた。これは9月末から投票日まで続いた。

(6).catだけでなく、住民投票のサイトが広範にブロックされた。このブロックに加担したのは、

– El Pais, スペイン最大のメディア業者はロシアのハッカーを使ってサイトの遮断に加担した。
– France Telecom Espanya (AS12479) とEuskaltel (AS12338) はDNS tampering(ドメインネームの改竄)
– Telefonica de Espanya (AS3352)はHTTP transparent proxiesを用いてアクセスを阻止した

などである。

出典 https://ooni.torproject.org/post/internet-censorship-catalonia-independence-referendum/

こうした状況は日本でも当然ありうることです。カタルーニアのネットの活動家たちはかなりがんばってサイトの閉鎖に対抗する措置をとるなどしていたと思います。

印象的なのは、アマゾンやグーグルなど大手やスペイン国内の通信事業者の対応がカタルーニアよりもスペイン政府に加担したということです。ネットの中立性なんていうものは、インフラには通用しないということです。今回の住民投票では、インターネットのウエッブだけでなく、スマホのアプリが重要な役割りを果したようですが、同時に、アプリを搭載できるかどうかは、スマホアプリを提供しているアップルとグーグルの判断に委ねられているという極めて異常な寡占構造に支配されており、これらの企業がアプリを提供しないとなれば、事実上アプリの利用を断念させられることになります。これまでも、中国でVPアプリが使えない措置がとられるなどがあり、政府がその気になれば企業の意思決定を支配できる状況がどこにでもあると思います。

とくに、今回私にとってある意味で衝撃だったのは、トップレベルドメインを管理している組織そのものを政府が強権的に閉鎖するということをやったり、一般に「ネット犯罪」として捜査機関や政府のセキュリティ対策機関が槍玉にあげているDNS tamperingといったサイバー攻撃を政府や民間大手の通信事業者がやったことです。そこまでやるのか、ということでもあります。

共謀罪が存在してしまった日本で、どうするか、カタルーニアの人たちへの連帯もふくめて議論すべきことはたくさんあると思います。分離独立という選択肢が日本の政治で主要な議題になったことはない反面、近代日本の歴史は領土の拡張や統合の歴史ばかり。近代国家は統合や併合は好んでも分離独立には異常に抵抗する。このことに近代国家の問題の本質が露呈しているようにも思います。カタルーニャだけでなく、スペインにはバスクもあり、またクルドをはじめとして、世界中で分離独立と地域の自立を選択したいという運動は多くあり、今回のスペイン政府の対応を特別なものとみるべきではないでしょう。

上で紹介した情報源のooniというサイトは、Tor projectが運営しているもので、インターネットのアクセスが不当に遮断されるなどしていないかを調べることができるツールなどをフリーで提供しています。
https://ooni.torproject.org/

カタルーニアのネット検閲の情報はXNETをぜひ参照してください。カタルーニアに拠点をおくネットアクティビストのサイトです。
https://xnet-x.net/en/digital-repression-and-resistance-catalan-referendum/

(いくつかのメーリングリストなどに投稿したものに加筆)

————————————
参考 .catドメイン
.catドメインができる以前は、スペインからフランス(一部はアンドラやイタリア領サルデーニャ島など)にまたがって住むカタルーニャ民族の機関や会社や個人は、やむなく.es、.fr、.it、.adなどそれぞれの住む国のドメインを使用していた。あるいは関係ない国のドメインを使ってドメインハックを行っていた。例えば、カタルーニャ州のジローナという都市は、ジローナという名にちなんで.giドメイン(”http://www.ajuntament.gi/" “ajuntament”とは、市役所の意)を使用している。このccTLDは、ジブラルタルのもので、スペインの都市がジブラタルドメインを使用することは、ジブラルタルをスペインでなくイギリスが統治する現状を認めることにも繋がりかねず、ジブラタルの主権を主張しているスペイン政府は困惑した。奇妙なことに、この登録はカタルーニャ地方の独立とジブラタルの主権を英国が持っていることに反対しているスペイン社会労働党の関係政党カタルーニャ社会主義者党の事務所によって行われていた。

この問題を解決し、インターネット上のカタルーニャ語圏の文化のコミュニティのニーズに応えるために、2005年9月.catドメインが承認された。このコミュニティは、彼らがオンラインコミュニティでカタルーニャ語を使用するために使ったり、他の文化を持つ人々にカタルーニャの文化を知ってもらうためなどに使うため立ち上げられた。最初の登録期間は、2006年2月13日から2006年4月21日。2006年4月23日から一般からの登録受付を開始した。
規制

.catドメインには対象地域の限定はなく、拠点のサイトがカタロニアにあるとはいえ、すべてのカタルーニャ語話者のコミュニティが対象である。その代わりにカタルーニャ文化に所属する個人や団体でなければならない。

こうした規制にもかかわらず、猫に関係するサイトや、「lolcat」や「Nyan Cat」など猫に関係するネット上の流行にまつわるサイトのためのドメインハックに.catは利用されている。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/.cat

プロプライエタリ社会をハックする(実践編:その3)

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プロプライエタリ社会をハックする(実践編:その3)

―人文、芸術系のコミュニケーションの自由

世界全体で一日200万人(2015)に利用されているTor(トーア)、ネットアクセスのプライバシー保護に対する人々の関心はまだ高いとは言えませんが、今後重要な技術になってくるでしょう。オープンソース・コミュニティーの人々が技術開発に取り組み、USBメモリーに入れてPCに差し込むだけで使える、インターネットブラウザもフリーで公開されています。また、暗号化により仮想的に専用線を構築するVPN(ヴァーチャル・プライベート・ネットワーク)の技術も確立され、すでに多くの企業/団体が利用しています。

今回のセミナーでは、Torによるプライバシーの保護、VPNによるセキュリティの向上、この2つの技術を同時に利用することで自由なコミュニケーションを獲得する、その方法を試みます。さらにプロプライエタリなSNSを利用せず、コミュニティ内でどのように自由なコミュニケーションをとっていけるかを、自由芸術大学のT.A.Z.サイトの使い方を学びながら考えます。

可能であれば、ご自身のノートパソコンお持ちください。
※スマートフォンでも出来ることはあります。

日 時:2017年10月14日(土)16:00~19:00
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
サポーター:小倉利丸、上岡誠二

小池都知事の朝鮮人虐殺犠牲者追悼メッセージ取りやめに抗議します

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以下、レイバーネットから転載します。


小池都知事の朝鮮人虐殺犠牲者追悼メッセージ取りやめに抗議します

・賛同人
小沢信男 (作家)
加藤直樹 (ノンフィクション作家)
香山リカ (精神科医)
斎藤美奈子 (文芸評論家)
坂手洋二 (劇作家・演出家)
島田虎之介 (漫画家)
島田雅彦 (作家)
鈴木 耕 (一般社団法人マガジン9代表理事)
田中正敬 (専修大学文学部教授、歴史学)
永井 愛 (劇作家・演出家)
中川五郎 (フォーク歌手)
中川 敬 (ミュージシャン/ソウル・フラワー・ユニオン)
中沢けい (作家)
中島京子 (作家)
平井 玄 (路地裏批評家)
平野啓一郎 (小説家)
平松洋子 (エッセイスト)
星野智幸 (作家)
森まゆみ (作家・編集者)
山本唯人 (東京大空襲・戦災資料センター主任研究員)
吉野 寿 (ミュージシャン/eastern youth)
(以上、アイウエオ順、敬称略)

私たちは、9月1日に行なわれた朝鮮人虐殺犠牲者追悼式典に対しての追悼メッセージ送付を取りやめた小池百合子都知事の決定に、抗議します。多民族都市・東京の多様性を豊かさとして育んでいく上で、関東大震災時の朝鮮人虐殺という「負の原点」を忘れず、民族差別によって非業の死を遂げた人々を悼むことは重要な意義をもっていると考えます。

1923年9月1日に発生した関東大震災では、都市火災の拡大によって10万5000人の人々が亡くなりました。その直後、「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れた」といった流言が広まり、関東一円で朝鮮人や、朝鮮人に間違えられた多くの人々が虐殺されました。

このとき、内務省や警察が流言を拡散してしまったことが事態を悪化させたこと、一部では軍人や警官自らが虐殺に手を染めたことは、内閣府中央防災会議がまとめた「1923関東大震災報告第2編」でも指摘されています。

東京に住む人々が隣人である朝鮮人たちの生命を奪い、それに行政が加担したのです。歴代の都知事が、横網町公園の朝鮮人犠牲者追悼碑の前で行われる虐殺犠牲者追悼式典に追悼のメッセージを送ってきたのは、「二度と繰り返さない」という東京都の決意を示すものでした。またそれは、1973年の追悼碑建立の際に当時の都知事はもとより東京都議会の各会派が賛同した経緯をふまえたものでもあったはずです。碑の建立と毎年の追悼式に参加してきた人びとの思いは決して軽くはありません。

ところが小池都知事は今年、メッセージ送付を取りやめました。私たちは、この誤った判断が、むしろ「逆のメッセージ」として機能することを恐れます。史実を隠ぺいし歪曲しようとする動きに、東京都がお墨付きを与えてしまうのではないか。それは追悼碑そのものの撤去まで進むのではないか。差別による暴力を容認することで、災害時の民族差別的流言の拡散に再びつながってしまうのではないか —。メッセージ取りやめが、そうした方向へのGOサインになってしまうことを、私たちは恐れています。

東京は、すべての国の人々に開かれた都市です。さまざまなルーツをもった人々が出会い、交わる街です。その出会いが、この街に次々と新しい魅力を生み出してきました。多様性は面倒や厄介ではなく豊かさだと、私たちは考えます。街を歩くたびに聴こえてくる様々な国の言葉は、東京の「恐ろしさ」を示すものではなく、豊かさの証拠であることを、私たちは知っています。

東京の多様性をさらに豊かさへと育てていくためには、民族をはじめとする差別が特定のマイノリティー集団に向けられる現実を克服していく必要があります。民族差別が暴力として爆発した94年前の朝鮮人虐殺を記憶し、追悼し、教訓を学ぶことは、そのための努力の重要な一部であると、私たちは考えます。それは、多民族都市・東京のいわば「負の原点」なのです。

私たちは小池都知事に訴えます。来年9月には虐殺犠牲者への追悼メッセージをあらためて発出してください。虐殺の史実を教育や展示から排除するような方向に、これ以上進まないでください。

そして、いま東京に生きている、あるいは東京に縁をもつ人々にも訴えます。94年前に不当に生命を奪われた隣人たちを悼み、それを繰り返さないという思いを手放さないでください。虐殺の史実を隠ぺいし捻じ曲げる動きを許さず、未来の世代に教訓として伝えていくべきだと、行政に、都議や区議に、声を届けてください。そのことが、多様性が豊かさとして発揮される東京をつくっていく上で重要な意義を持つと、私たちは考えます。

2017年9月15日
声明とりまとめ/加藤直樹
声明についての連絡先/seimei1923@gmail.com


【この声明のPDFファイル ダウンロード】

出典:レイバーネット

(転載)9.11経産省前歩道デモ逮捕抗議声明

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以下、経産省前テントひろばの抗議声明を転載します。

ブログ内の関連記事

麻生邸「リアリティツアー」弾圧国賠意見書


(転送します。重複送信をお許し願います。拡散を歓迎します。)

警視庁丸の内警察署長 殿
抗 議 声 明
2017年9月13日
経産省前テントひろば

1 私たち「経産省前テントひろば」は、2011年9月からテント設置6年が経過する9月11日夕刻、経産省本館前で抗議集会を開いた。私たちは集会に先立って、経産大臣に宛てた抗議声明を提出し、昨年8月の脱原発を求める3張りのテントの違法撤去に抗議し、政府の原発推進政策等に抗議を申し入れた。
この日の経産省本館前には300名以上の人びとが集まって午後6時から2時間半にわたって集会を続けた。その集会終了の直前に、経産省敷地外周歩道約1キロメートルを一周するウォーキング抗議が行われた。

2 上記ウォーキング抗議には集会参加者のうち約150名が参加し、他の人びとは本館前に残って集会が続行された。ウォーキングの参加者は、歩道上で口々に経産省への抗議の意思表示を行い、また経産省別館前では多くの人々が資源エネルギー庁のエネルギー政策に対する抗議の意思表明を行った後、再び経産省本館前へ戻る歩道を進んだ。
こうしたウォーキング抗議の参加者の一人だったF氏が、歩道を歩いている時に突然に5、6名の私服警察官に歩道上で包囲されて車道に押し出され、「無届けデモ」の指揮を行ったとの口実で、東京都公安条例違反の容疑で逮捕された。

3 しかし、そもそも上記のような歩道でのウォーキング抗議を「無届けデモ」と捉えること自体、民衆の歩道上での表現行為を不当に規制し弾圧するもので許されないことである。しかも今回、丸の内警察はF氏の身元を充分承知しつつ「無届けデモ」とか、その「指揮」者と事実を捏造して東京都公安条例違反容疑で逮捕し身柄拘束した。
このような捏造の事実を踏まえれば、今回の事件が丸の内警察によるF氏への不当な狙い撃ち逮捕だったことを十分に示している。
また、こうした丸の内警察による「事件」捏造は、経産省前テントひろばの6年を超す運動の持続を恐れ、いまだに原発推進政策にしがみつく政府・自民党の意向を忖度した警察権力の違法行為そのものにほかならない。

4 今回のF氏への弾圧事件は、全国各地に広がった脱原発集会への参加者による継続した抗議活動が歩道上での通行の妨害なしに合法的に行われはじめたことに対する違法な予防的な弾圧である。また、市民の自発的抗議活動及びその行動への参加者を「デモ」及び「指揮者」と決めつけてF氏を不当に逮捕した行為は、「警視庁が原発関連の集会・デモで参加者を逮捕したのは初めて」(東京新聞2017年9月12日夕刊【但し、この記事で「集会・デモ」と記述されていることは不正確である】)とされる程に、違法な弾圧と言わざるを得ない。

5 私たちは、今回の不当逮捕に東京都公安条例が適用されたことは、同条例の民衆の表現行為に対する不当制約性・弾圧法規性が明白に露呈されたものである。この悪法に強く抵抗し、同条例の廃絶を要求する。
私たち経産省前テントひろばは、今回の丸の内警察署の弾圧行為に断固抗議するとともに、F氏の身柄を即刻に解放することを強く求めるものである。
以 上

共謀罪とグローバル化する刑事司法──対テロ戦争と対峙する社会運動の課題──

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共謀罪とグローバル化する刑事司法
──対テロ戦争と対峙する社会運動の課題──

★お話し 小倉利丸さん(批評家)

★日時 2017年9月21日(木)午後6時半〜
★会場 文京区男女平等センター(本郷三丁目下車徒歩5分)

アクセス | 文京区男女平等センター
https://www.bunkyo-danjo.jp/access.aspx

★参加費 500円
★主催 ATTAC Japan(首都圏)

日本は米国の同盟国としてまぎれもなく対テロ戦争の当事国です。戦場は、ネット空間も含めて地理的な限定がなく、軍事諜報機関は国の内外を問わずをスパイし、警察は軍隊さながらの装備で国境を越えて活動し、軍隊は自国の民衆に銃口を向ける存在になっています。そして、IT産業は、グローバル資本主義の基幹産業であるとともに、こうした対テロ戦争を支える軍
事産業になっています。

共謀罪は治安維持法の再来と言われる一方で、このような全く新しい戦争の時代、グローバル資本主義の時代に人々のコミュニケーションを犯罪化するものとして導入されました。本集会では、この新たな戦争とグローバル化の時代に焦点をあてて、対テロ戦争と対峙する社会運動の課題を考えます。

小倉さんには10月から新著『絶望のユートピア』を使った連続講座をお願い
しています。
9月21日の集会は「絶望」から「ユートピア」に向けたスタートラインです。

誰が〈表現の自由〉を殺すのか ニコンサロン「慰安婦」写真展中止事件と裁判判決から考える

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ニコンサロン「慰安婦」写真展中止事件から5年。写真家・安世鴻さんが世界的カメラメーカーのニコンを訴えていた裁判で東京地方裁判所は、2015年12月、勝訴判決を言い渡しました。3年のわたる裁判闘争の過程では、ニコンが抗議を恐れて中止決定に至った具体的経過や、ネット上の抗議行動が「表現の自由」に与えた影響などが明らかになりました。
「慰安婦」問題、表現の自由、企業の社会的責任、「炎上」と「自粛」、排外主義……日本社会が直面するさまざまな課題について、この事件と裁判はきわめて大きな教訓を示しています。
事件・裁判の経過を記録し、判決の意義を多角的に論じた2冊の本『誰が〈表現の自由〉を殺しかのか』、『《自粛社会》をのりこえる』が同時に出版されることになりました。
この機会に、事件と裁判を振り返りながら、安倍第2次政権以降、増え続ける「表現の自由」への侵害、「自粛」にどう抗うのか、みなさんと一緒に考えたいと思います。ぜひご参加ください

2017年9月9日(土)14:30~17:30(開場14:00)
在日本韓国YMCA地下1階 スペースY
参加費:1,000円(学生・非正規500円)

<シンポジウム> 全体司会:岡本有佳(編集者)
◆コーディネーター:李春熙(弁護士)
◆パネラー:
東澤靖 (弁護士/明治学院大学教授)●「表現の自由」を実現する企業の責任
池田恵理子(女たちの戦争と平和資料館(wam)館長)●「慰安婦」の記憶を巡る闘い
小倉利丸(富山県立近代美術館検閲訴訟元原告)●検閲と沈黙に抗うために
◇特別発言:安世鴻(写真家/ニコン事件裁判元原告)
*目でみる<表現の不自由>スライド上映
◆ 問合せ:jjteninfo@gmail.com
○主催:教えてニコンさん! ニコン「慰安婦」写真展中止事件裁判支援の会&実行委員
○協賛:御茶の水書房

【近刊案内】——-当日会場では特別価格で販売します!
『誰が〈表現の自由〉を殺すのか
——ニコンサロン「慰安婦」写真展中止事件裁判の記録』
安世鴻、李春熙、岡本有佳 責任編集 2017年9月刊
A5判280頁予 カラー8頁 御茶の水書房

岩波ブックレット973
『《自粛社会》をのりこえる
——「慰安婦」写真展中止事件と「表現の自由」』
安世鴻・李春熙・岡本有佳編
A5判80頁 本体620円

ーーーー関連企画ーーーー
安世鴻 最新写真展開催決定!
======================
重重:消せない痕跡Ⅱ写真展
―アジアの日本軍性奴隷被害女性たち
======================
■9/30(土)〜10/9(月・祝)12:00〜19:00 会期中無休
■セッションハウス 2階ガーデン(東京・神楽坂)
■入場無料■平日:作家によるギャラリートーク(無料)
■9/31,10/7,8:トークイベント(有料)あり。
写真展賛同カンパのお願い:郵便振替00830-5-136108、
加入者名:重重プロジェクト
問合せ:ianfu@juju-project.net


当日配布のエッセイです。

検閲と沈黙に抗うために

小倉利丸

安世鴻の元「慰安婦」被害者たちのポートレイトが検閲され黙殺されたのは、日本の企業のギャラリーで、日本人が選考委員をつとめ、日本で開催されたという条件抜きには一切の説明ができない。だから問題は「日本」という検閲の装置なのだと思う。

写真史に必須の検閲の歴史

写真の歴史と検閲は切り離せない。にもかかわらず、日本の写真史が検閲の問題に注目して多くのページを割くことはあまりない。戦前戦中の写真検閲についても、どこかしら「仕方のないこと」とし、『FRONTO』や『NIPPON』などのグラフ誌のデザインの斬新さに関心を向け、写真家の戦争への加担や責任はあいまいにされる。伊奈信男、木村伊兵衛、土門拳など戦時中に戦争報道に深く関与した人々がそのまま戦後日本の写真界の中核を構成してきたことが果してどれほど批判的に検証されてきただろうか。しかも、日本統治下の台湾や朝鮮でどのような検閲がなされたのかに関心を寄せる写真史や回想録の類いは少ない。

このことに私は、崔仁辰『韓国写真史 1631─1945』を読んで気づかされた。崔は日帝統治下の韓国の写真検閲に多くのページを割き、検閲の背景や検閲に抵抗する写真家やジャーナリストにも言及する。崔が韓国についての述べたことが、台湾や旧「満州」など日本の植民地支配、軍事侵略の国・地域についても徹底した検証が必要だと思う。検閲を支えた日本の自民族中心主義とナショナリズムは、その相貌は変わりはしたものの、地続きで、今現在まで生きている。安世鴻の作品展中止の出来事はその端的な表れともいえる。

「日本民族の運命」と「抵抗のリアリズム」の間

戦後の写真表現のなかで、広島・長崎の被ばく体験や原爆被害の記録への写真界の関心に、戦後ヒューマニズムの原点と同時にその限界もまた端的に見い出せる。戦争の被害者としての日本人の視点から構築された平和の表象を表現する出発点に原爆体験があった。この被害への関心から表現者がどこに向うのか、何を自らの悲劇に見出すのか。戦争被害への関心から、日本の戦争責任、植民地支配、戦争犯罪など加害の問題へと視野を拡げ、表現者が戦後日本の支配的な歴史観、価値観を相対化するところに行きつくとは限らない。安世鴻の作品への検閲に、日本の写真界は沈黙することで黙認した。ここに戦後日本の平和意識の限界があると思う。

土門拳は戦後13年たって初めて広島に取材で出向く。これがきっかけで、彼の代表作であり、ドキュメンタリーの傑作ともいわれる『ヒロシマ』が生まれる。彼は、今もなお被爆者が生きることそれ自体と闘う現実に直面し、広島の風化を強い危機感をもって作品にした。

「しかしぼくは、広島へ行って、驚いた。これはいけない、と狼狽した。ぼくなどは「ヒロシマ」を忘れていたというよりは、実ははじめから何も知ってはいなかったのだ。13年後の今日もなお『ヒロシマ』は生きていた。焼夷弾で焼きはらわれた日本の都市という都市が復興したというのに、そして広島の市街も旧に立ちまさって復興したというのに、人間の肉体に刻印された魔性の爪跡は消えずに残っていた。」(『ヒロシマ』)

「広島・長崎の被爆者は、ぼくたち一般国民の、いわば不運な『身がわり』だったのである。ぼくたち一般国民こそ、今、この不幸な犠牲者に対して温かい理解といたわりを報いることによって『連帯感』を実証すべき責任があるはずである」(同上)

土門のこのヒューマニズムは、戦後のドキュメンタリー写真家たちにほぼ共通した理解の根幹をなしてきたものだろう。しかし、土門のヒューマニズムが果してどこまで普遍的な意識に支えられたものといえるのか。

194111月、総動員体制のなかで、写真界も組織の再編統合が進み、内閣情報局主導で「日本報道写真協会」が生まれる。土門は協会の常務理事に就任する。そして、128日の開戦後に開かれた総会で「カメラを銃としペンとする我々の職能に相共に挺身し、以て大東亜共栄圏確立の大理想達成に殉ぜん」という総会宣言を朗読した。(白山眞理『<報道写真>と戦争』から引用)土門は「カメラを持った憂国の志士」として「報道写真家としての技能を国家へ奉仕せしめんとする」(多川精一『焼け跡のグラフィズム 『FRONT』から『週刊サンニュース』へ』)と述べた。

『ヒロシマ』は土門が、戦後民主主義国家を前提とした「憂国の志士」として取り組んだ作品だったのではないかと思う。68年に「報道写真家としては、今日ただ今の社会的現実に取組むのも、奈良や京都の古典文化や伝統に取組むのも、日本民族の怒り、悲しみ、喜び、大きくいえば民族の運命にかかわる接点を追求する点で、ぼくには同じことに思える」(「デモ取材と古寺巡礼」)と述べたことにこれは端的に現われている。ヒロシマは彼にとって「民族の運命」を感じさせたのである。

彼は結局のところ、ヒロシマの被爆体験を日本人というナショナルな枠組のなかでの共通の被害体験として捉え、「不幸な犠牲者」への「連帯感」を感じる以上のところには行きつくことができなかった。戦争における加害を発見できなかった。それが「日本人」に共感をもって迎えられた原因だと思う。これは土門だけではなかった。大江健三郎もまた「土門拳の『ヒロシマ』が真に日本人の名において、現代日本人の名においてなされた1958年の日本の現実の記録であるとともに戦争の記録である」など「日本人」に繰返し言及しながら、同時に「生きて原爆と戦っている人間を描きだす」「徹底して人間的であり芸術の本質に正面からたちむかう」というように、「日本人」を「人間」に等置した。(大江健三郎「土門拳のヒロシマ』」私はこうした観点に強い違和感を感じざるをえない。

しかし同時に、土門は戦後まもなくの頃「戦争犠牲者から目をそむけている写真家」は「非人間的な背信行為者」(「フォトジェニックということ──或る傷兵の写真について──」)だと厳しく批判した。そして、「絶対非演出」としてのリアリズム写真は「現実をより正しい方向へ振り向けようという抵抗の写真的な発言としてある」(「リアリズム写真とサロン・ピクチュア」)とも語った。

ある意味では、安世鴻は土門の抵抗のリアリズムの正統な継承者であり、安世鴻の展示中止に関与したニコンサロンの関係者たちは、土門の「日本民族の運命」に加担することで非人間的な背信行為者となることを選んだのだ。

引用・参考文献(安世鴻関係の文献を除く)

伊奈信男『伊奈信男写真論集 写真に帰れ』、ニコンサロンブックス、2005

白山眞理 『<報道写真>と戦争19301960』吉川弘文館、2014

白山眞理、小原真史 『戦争と平和─<報道写真>が伝えたかった日本』、平凡社、2015

白山眞理、堀宣雄編『名取洋之介と日本工房』、展覧会図録、毎日新聞社、2006

多川精一『焼け跡のグラフィズム 『FRONT』から『週刊サンニュース』へ』 平凡社新書、2005

崔仁辰『韓国写真史 1631─1945』犬伏雄一監訳、青弓社、2015

土門拳『ヒロシマ』、研文社、1958、『土門拳全集第十巻 ヒロシマ』、小学館、1985

土門拳『写真作法』、ダヴィッド社、1976

土門拳「フォトジェニックということ──或る傷兵の写真について──」、『写真作法』所収。

土門拳「リアリズム写真とサロン・ピクチュア」、『写真作法』所収。

土門拳「デモ取材と古寺巡礼」、『死ぬことと生きること』、築地書館、1974

プロプライエタリ社会をハックする(実践編:その2)

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End to Endの暗号化がネット上の自由を守る!

――人文、芸術系のメール監視・検閲回避の実践法

プロプライエタリな社会は、プライバシーを侵害し、自由を奪う。いまやスマートフォンはジョージ・オーウェルの小説に出てくる監視装置「テレスクリーン」と化した。プライバシーを守り、自由を獲得するために、ネット上で戦うハッカーたちの作り出したオープンソースのソフトウェアーやサービスを使うことを共に学び、私たちのあたりまえの〈コミュニケーション〉を取り戻すための不定期連続セミナー。

実践編:その2では、メールの暗号化通信の実践を行います。
★はじめての暗号化メール (Thunderbird編)
暗号ソフトウェア―のPGP(プリティ・グッド・プライバシー)で暗号化したメールの送受信の実践。
★監視装置「Gmail」からの脱出(ProtonMail/Tutanotaへの移行)
メールの中身を覗くことを当然とする、大企業によるプロプライエタリなサービスを止め、オープンソースの暗号化ウェブメールサービスを使う。

実際に試してみたい方は、ノートパソコンをお持ちください。
※スマートフォンでも出来ることはあります。

日 時:2017年9月5日(火)19:30~21:00
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
サポーター:小倉利丸、上岡誠二