ブラックメタルの未来に爆弾を落とす。Black Metal Rainbowsをめぐる対話

(訳者前書き)ブラック・メタルはネオ・フォークやノイズとともに、極右、ネオファシストの傾向をもつ文化に侵食される傾向が大きいとみなされることが多いジャンルだが――もちろんこれらのジャンルそれ自体が右翼だということは意味しない――、こうした傾向にシーンの内部から異議申し立てし、反ファシズムの音楽表現としてのブラック・メタルを真正面にかかげた本とコンピレーション、Black Metal Rainbows(e-bookなら8ドル95セント)が登場したことは嬉しい。Rainbowsとあるように、本書は、単なる反ファシズム大衆文化の表明だけでなく、LGBTQ+への強い連帯意識をもって編集されている。

ネオナチや極右にとって、文化戦争は主戦場のひとつだ。とくに大衆音楽は若者をライブイベントや政治集会に動員するための格好の手段として利用されてもきたし、極右の政治傾向をもつアーティストたちがこうした動きと連携する動きがあった。日本のように大衆音楽が脱政治化されることによって保守的なイデオロギーを支える環境のなかで、往々にして、サブカルチャーのなかにある良識や道徳や建前の正しさを嫌悪する感情が極右サブカルへの脇の甘い同調や、ネオナチやレイシズム、セクシズムを深刻なサブカルチャにおける反動・反革命の政治的なモチーフだとは把えずに、表象のかっこよさ――文化表現では重要な要素だ――やファッションとして許容する傾向があるのではと危惧することがある。私はデスメタルやブラックメタルなどのジャンルに詳しいわけではないが、最近の東欧や北欧の極右の浸透とメタルのバンドやファンの動向を気にかけてきた者としては、本書はとても刺激的だ。翻訳がでることを切に願っている。

日本のようにサブカルチャの反支配的文化や反体制のスタイルだけを模倣することを可能にするような場所では想像しづらいが、音楽はそもそもが政治的な表現としても位置づけられてきた多くの国や地域では、音楽文化そもののが闘争領域であり、何を聴くのかは、それ自体が政治的な態度表明にもなる。

私がこの本について知ったのは一昨年ころだと思う。たまたまPMプレスのサイトで予告がでていて、これは買いたいと思って予約したが、刊行年がたぶん1年くらい遅くなったと思う。しかし、本書と同時に出されたコンピレーションは130曲も収録されていて、値段は自分で決める(Bandcampのサイトではよくある手法だ)。ともかくも、130ものバンドが反ファシズムのブラックメタルの企画に賛同して集まったことだけでも快挙だと思う。以下は、以前紹介したAnti Fascist Neo-Folkのサイトに掲載されていたこの本の編集者へのインタビューの翻訳です。(小倉利丸)

ブラックメタルの未来に爆弾を落とす。Black Metal Rainbowsをめぐる対話

Black Metal Rainbowsのことを初めて知ったのは、数年前、彼らが本の資金調達のためにKickstarterキャンペーンを行ったときでした。この本は、ブラックメタルに関する文章のアンソロジーで、ブラックメタルシーンについて、明らかに反ファシズム、反人種差別、ラディカル、そしておそらく最も重要なのは、クィアであるという主張をしている。ブラックメタルは、極右やネオナチのアーティストやファンによって、しばしば汚されてきたという事実にもかかわらず(ネオフォークと同じように)、大規模な反ファシズム運動が勃興し、このジャンルの中心である創造的爆発を左側に引き戻している。

この本はPM Pressから発売され、 Margaret KilljoyやKim Kellyのような人々の素晴らしい寄稿や、美的感覚を超えた過激なアートワークが掲載されている。Black Metal Rainbowsは、ある意味、私たちがやろうとしているプロジェクトのブラックメタル版であり、最も争いの多いジャンルを取り戻しつつある反体制的な声にスポットを当てたものだ。この本の編集者の一人であるDaniel Lukesに、この本の意図、どのようにまとまったか、そして Black Metal と極右の介入主義を経験したすべての「エクストリーム」ジャンルの未来のために闘うことについて話を聞いた。

1: この本のアイデアはどこから来て、何が書かれているのでしょうか?

Black Metal RainbowsProjectは、2002年にイギリスのバンドAkercockeがロンドンで開催した大晦日パーティーを基にした夢として始まりました。

ブラックメタルがパーティーだったらどうだろうというのが、そこから得たアイデアです。そのイベントから何年も経った頃、夢の中で、夕暮れの地中海の丘の上にブラックメタラーが集まっているイメージがあり、グローバルなコミュニティとしてのブラックメタルのイメージが私の中に残りました。その最初のイテレーションが、2015年にダブリンのギャラリーXで開催された「Black Metal Theory Symposium」Coloring The Blackで、ブラックメタル理論という「パラ学術」分野にクィアアップして色をつけることを目的としたものでした。このシンポジウムでは、Drew Daniel (of Matmos/The Soft Pink Truth)が論文「Putting the Fag Back in Sarcofago」をcorpsepaintで読むという印象的な投稿や、「Lord of the Logos」によるcolour-the-logoコンテストなどが行われました。RihannaのロゴをデザインしたばかりのChristophe Spazjdelや、ナチスからの反発(と殺害予告)をたくさん受けた私たち。つまり、いい時代だったのです。

一息ついたら、次はそのエネルギーを一冊の本にまとめようということになりました。2017年に始まり、2023年1月にようやく出版された私たちの本『Black Metal Rainbows』には、エッセイと暴言、マニフェストと告白、グリッターとゴア、アートワークとコミック、デザインと危険性が書かれています。それはブラックメタルへのラブレターであり、ブラックメタルナチスへのファックユーであり、シーンの門番やブラックメタルがどうあるべきかについての退屈で古臭い考えを支持することに従事している人たちに対する中指を立てたものです。ブラックメタルとは、喜び、爽快感、自由、コミュニティ、愛であり、ステレオタイプが信じさせるよりも、はるかに多くのものがあります。そしてBlack Metal Rainbowsは、ブラックメタルの他の次元を祝福するものです。

2: 人々がブラックメタルを誤解しているのはどうしてだと思いますか?

必ずしもいつも間違っているわけではないと思います。ブラックメタルは極端な芸術であるため、その最も極端な要素で知られています。それは、重苦しく凍えるようなシナリオを好むことであったり、悲しいことに、最近ではナチスとの関係であったりします。私たちや他の多くの人々は、ブラックメタルをファシストや保守的な芸術様式に変えようとすることによって、このジャンルを軽蔑し制限しようとする人々と闘い、奪い返すべきものだと考えています。1990年代に育った私は、John Majorと灰色の冴えないToriesが、私の好きなブラックメタルアーティストたちと同じ側にいるなんて、決して信じなかったでしょう。ブラックメタルは宇宙を旅するような大きな夢を描いているのに、その実践者たちの中には、深い偏狭さを露呈している人がいるのですから。ブラックメタル・レインボウは、ブラックメタルが多面性を持っていることを示す試みです。派手で華やかであることもあれば、抑圧や不幸に対するツールであることもあり、コミュニティやケアであることもあるのです。

3: ブラックメタルの新しい過激な世界が出現していますが、どう違うのでしょうか?また、どのようなバンドがその道をリードしているのでしょうか?

メタルのクィアネスは常にそこにあり、ブラックメタルも同様です。 とはいえ、トランス、クィア、左翼、反ファシストのアーティストによって明示的かつ公然と作られたエクストリーム・メタルやブラックメタルの新しい波があるのは確かです。Vile CreatureのKW Campolがこの本の紹介文で言っているように、「ブラックメタルは究極のアウトサイダー音楽ジャンルであり、私たちクィアや変人がその不毛の地に家を建てることは理にかなっている。Black Metal Rainbowsは、ブラックメタルが織り成す強力な反抑圧的バックボーンを記録した、必要なアンソロジーである。

今日のバンドが他と違うのは、今、利害関係があまりにも激しいので、多くのアーティストにとって、政治的なことに口を挟むという選択肢はない、という感覚だと思います。世界的にファシズムが台頭し、資本主義が地球を焼き尽くし、国家権力がトランスやクィアの人々を新たな方法で抑圧し、マイノリティや貧しい人々に対する警察の残虐行為が野放しにされ続けています:未来は暗く、激動に満ちていることでしょう。事態は良くなる前に確実に悪化しているのです。ブラック・サバスの「War Pigs」以降、メタルは常に政治的であり続けてきましたが、数十年間は竜や 妖精の後ろに少し隠れすぎていました。特にブラックメタルは、そのよく知られたナチス問題から、脱/再領土化のための肥沃な土地です。ファシストから取り戻す必要があり、その闘いに従事している多くの素晴らしく勇敢なアーティストがいます。

ブラックメタルやそれ以外のバンドで、今日私が好きなバンドをいくつか紹介します。Penance StareGelassenheitBiesyDivide and DissolveEntheosBackxwashBody Void

4: この本に掲載されている多様な文章について、どのような内容のものがあるのか、少し教えてください。

高度な学術論文から個人的なエッセイ、ジャーナリスティックなものまで、多くの種類の文章を求めました。中でも、Joseph Russoがテキサスについて書いた「Queer Rot」という奇妙で楽しい理論・フィクションは、ブラックメタルを聴くことで得られるトランス状態のような効果を反映した、あるいは模倣したような文章になっているのが特徴です。音楽における悪の性質に関するいくつかの作品(Langdon Hickmanの「The Dialectical Satan」やEugene S. Robinsonの「When Evil Comes A’Calling」など)、Jasmine Hazel Shadrackによる魔術の実践としてのブラックメタルに関するエッセイ(「Malefica」)があります。また、Margaret Killjoyによる “You Don’t Win a Culture War by Giving Up Ground “と題された熱烈なマニフェストも掲載されています。私たちにとって重要だったのは、さまざまな声をさまざまなスタイルで紹介することでした。アートは、ブラックメタルの特徴的なビジュアル要素であるコープスペイントに始まり、ブラックメタルのさまざまなビジュアルの顔を示しています。デザインも重要な要素で、暗闇から虹を浮かび上がらせ、またグリッチな未来的シナリオを先取りしています。私は1990年代のモダニズム・ブラックメタルの大ファンで、エレクトロニカやインダストリアルと多くの融合を行い、今、大きく復活しつつあります。この本には、誰もが楽しめるものがあることを願っています。

5: ブラックメタルのようなサブカルチャーは、極右との闘いや ラディカルな空間の構築において、どのような役割を果たすとお考えですか?

ブラックメタルは極右の過激化のための勧誘の場ですから、もちろんその領域で闘うことは必要です。特に東欧に強い極右や親ナチのブラックメタルシーンがあるだけでなく、問題を両論併記し、無政治を主張し、反ファとファシストを同じように呼ぶ中道派のエッジロードがたくさんいる。私たちはこれをデタラメと呼び、Black Metal Rainbowsは、反ファシストとクィアブラックメタルのシーン構築で行われている活動に光を当てる私たちの方法である。反ファシズムのエクストリーム・メタルの世界的なネットワークは拡大しており、Antifascist Black Metal Network彼らのYouTubeもチェック)やRABM Redditのようなコミュニティはその証拠である。

6: ラディカルなブラックメタルファンは、どのようにして他のコミュニティと橋渡しをすることができますか?

クィアやトランスの文化は、主流メディアでは、ふわふわした、安全な、ポップな(あるいは「テンダークィア」)ものとして認識されることがあります。しかし、表面下に潜るとすぐに、ホラー小説、視覚芸術、過激な音楽など、多くの暗いサブカルチャーにクィア、トランス、左派が大きく投資していることが分かります。グレッチェン・フェルカー=マーティンの『マンハント』は昨年大きな話題となり、クィアやトランスのホラー小説は増加傾向にある。David Cronenbergの『Crimes of the Future』は、そのボディホラーのクィアネスが広く評価されましたが、これは彼のキャリア全般を振り返ったときに見えてくるものです。私たちの小さな方法ではありますが、『Black Metal Rainbows』は、クィアと左翼の政治と美学を結びつける空間を作り、シスである白人男性が、忌まわしく、醜く、暴力的な芸術を作ることにヘゲモニーを持っていないという事実に光を当てようとするものなのです。Black Metal Rainbowsの資料がクィアなスペースに出現したという報告を聞くのは素晴らしいことです。しかし、メタルスペースがよりクィア、女性、マイノリティに優しくなることは、間違いなくこのプロジェクトが目指すものです。

メタルシーンを超えた橋渡しという点では、ファンは、自分が夢中になっているアーティストがサポートし、宣伝している団体をフォローアップし、つながることができます。例えば、非営利のレコードレーベルFood Desert Recordings、「匿名過激派音楽集団」Non Serviam、動物愛護支援レーベルFiadh Productions、左翼革命的レコードレーベルRed Nebulaなど、この旅で出会ったエクストリームメタル関連の左翼やアナキストのイニシアチブ、レーベル、プロジェクトはとても素晴らしいものがたくさんあります。Bill Peelの近刊『Tonight It’s A World We Bury: Black Metal, Red Politics』は、ブラックメタルが資本主義を破壊するための道具として使えるという素晴らしい主張をしています。ブラックメタルがプロテスト・ミュージックとして生まれ変わるなんて、誰が想像できただろう?だから、お気に入りのブラックメタルアーティストの曲をかけ、自分の闘いを見つけ、戦術と安全性について下調べをし、それを実行に移すのです!」。

7: この本と一緒に発売されるアルバムについて教えてください。何が入っていて、どんなメリットがあるのでしょうか?

Black Metal Rainbowsコンピレーションアルバムは2022年の夏にまとまりましたが、こんなに大きくなるとは思ってもいませんでした。130曲、11時間以上の音楽、100人以上のアンダーグラウンド、ブラックメタル、ノイズ、エレクトロニックアーティストがLGBTQの若者を支援するために集結した。リリースと同時にBandcampのベストセラー第2位(The Mountain Goatsに次ぐ!)を記録し、2023年1月にはLGBTQの若者を支援するチャリティーのために10Kドル以上の資金を集めました。Trevor Project、Mermaids、Minus 18、The International Lesbian, Gay, Bisexual, Transgender, Queer and Intersex (LGBTQI) Youth & Student Organisationなどです。ブラックメタルが中心ではありますが、このアルバムには、ブラック化したグラインドから壮大なブラックメタル、ブラックゲイズからダンジョンシンセ、ノイズからアヴァンギャルドまで、実にさまざまな音楽スタイルが収録されています。RABM(Red and Anarchist Black Metal)は基本的に黒化したグラインドコアだという先入観がありますが、このコンピレーションを作ることは、左翼BMや関連するジャンルの幅広い創造性を見るという意味で、大きな学びとなりました。アナーキスト・ポストブラック・メタル?コミュニストの鬱屈した自殺的ブラックメタル(DSBM)?社会主義的なダンジョンシンセ?探せばきっと見つかるはずです。

このコンピのハイライトは、Caïnaのトラック「Take Me Away From All This Death」のDepeche Mode風のリミックス、Darkthroneの「Transylvanian Hunger」のサーフロックのカバー、ジャパノイズの大家Merzbowのブラックメタル風のトラック、トロール、カボチャ、コウモリ、ヘビがいるゴブリン風の気味の悪いダンジョンシンセがたくさん入っています。また、モントリオール在住のアーティスト、Wesley Cunningham Clossによる素晴らしいカバーアートも特筆すべきもので、彼は屍体ペイント、虹、トップサージャリーの傷跡を組み合わせた見事で力強いイメージを作り上げています。


また、今週末からニューヨークで開催されるリリースコンサート(Imperial Triumphant、Couch Slutなどが出演)とオープニングブックイベントにぜひ参加してみてください!Black Metal Rainbowsのコンピレーションアルバムは、Bandcampから入手できます。

Black Metal Rainbows: A conversation with co-editors Stanimir Panayatov and Daniel Lukes (and Ravenna Hunt-Hendrix of Liturgy).

Center for Place, Culture and Politics, The Graduate Center

City University of New York

Room 6107

10 Feb, Friday, 4:30 PM

365 Fifth Ave New York, NYC 10016

Click Here to RSVP

Black Metal Rainbows: Book Launch and Panel Discussion

Housing Works Bookstore

11 Feb, Saturday, 5-7pm

126 Crosby St, NYC 10012

Click Here to RSVP

Black Metal Rainbows Book Release Show: Imperial Triumphant, Couch Slut, Sunrot, Diva Karr, Greyfleshtethered

St. Vitus Bar

12 Feb, Sunday, 7pm

1120 Manhattan Ave, Brooklyn, NYC 11222

Click Here for Tickets

出典:https://antifascistneofolk.com/2023/02/11/dropping-a-bomb-on-black-metals-future-a-conversation-on-black-metal-rainbows/

変ってしまうと困る「社会」とは何なのか――戸籍制度も天皇制もジェンダー平等の障害である

荒井勝喜・前首相秘書官発言に対して、岸田が早々に更迭を決めた背景には、ジェンダーの多様性を本気で認めるつもりのない岸田が、これ以上傷口を拡げないための措置だと思う。 ジェンダーはG7の議題のなかでも優先順位が高い課題だが、日本はこれを、リップサービスだけで乗り切る積りだったと思う。

同性婚を法的に認めていないG7の国は日本だけだということがメディアでも報じられるようになった。岸田が「社会が変わってしまう」と発言したことも注目されている。この発言は、ほぼ荒井のオフレコ発言と主張の基本線に変りはないため、荒井が答弁原稿を書いたのではとの憶測があったが、朝日は、これを否定して岸田のアドリブだと報じている。ここで岸田のいう「社会」とは、法制度のことではない。法制度に同性婚を組み込むと変わる「社会」のことだ。ではその社会とは何なのか、このことをメディアは議論していないし、野党も議論できない?

岸田のいう「社会」とは、日本に固有だと岸田が考える伝統的な社会、つまり家族観のことだと解釈しないと、荒井=岸田が同性婚や性的マイノリティに否定的なのかを理解できない。どこの国にも伝統的な家族観はあり、それを変えてきたが、日本は変えられないでいる。これは、LGCTQ+の運動が非力だとかではなく、逆に、性的マジョリティがマイノリティの権利を理解して平等な権利主体として認識して行動することができないというマジョリティ側の問題なのだ。では、なぜそれほどマジョリティがマイノリティへの理解や共感をもてないのか、これを私のようなマジョリティが考えないといけない重要な問題だ。 荒井が語ったのは、理屈ではなく好き嫌いの感情だったことも、ここでは重要な意味をもつ。

どこの国でも資本主義的な家父長制が支配的なことには変りない。しかし、日本に固有なのは、個人よりも家族を優先させる特異な制度上の縛りがあることと、大衆的な婚姻文化――結婚式が両性の合意ではなく両家の合意として演出される違憲状態が定着しているとか――、そして何よりも戸籍制度だ。そしてこの国の強固な家父長制とセクシズム+レイシズムは、象徴天皇制を後ろ盾にした日本的な近代家族観と「日本人」のアイデンティティとも密接な関りがあると思う。 他方で、G7を舞台に、性的マイノリティの権利についての提言を主張するかもしれないが、「市民社会」組織のスタンスから戸籍制度と天皇制をジェンダー不平等の根源にある制度として廃止を提言できるかどうか、私はこの点に注目している。

荒井は秘書官室全員が同性愛嫌いだと発言してもいて、岸田も価値観を共有していることは明らかで、この価値観が戦後生れであってもしっかりと保守層い定着していることは注目すべきことだ。そして、旧統一教会など保守・極右の宗教団体や圧力団体もまた同性婚やジェンダーの多様性を嫌悪してきたことと今回の差別発言とはシームレスに繋がっている。

近代日本が戦前から構築してきた家族観が戦後民法によって改革されたかのように論じる向きもあるが、それは紙に書かれた法律の世界の問題であって、庶民の家族観は戦前からの明確な切断を自覚していない。核家族かどうか、とか専業主婦か共働きか、といった女性差別を解消するかもしれないと期待されてきた家族の変化も、実は期待外れで、戦後生れの核家族の男たちがしっかりと伝統的な家父長制意識を内面化しており、そのことが企業の「風土」を作り、労働運動や革新・左翼の運動もまた主流になればなるほどこの「風土」を共有している。あえて「庶民」と書いたのは、男性の所得が比較的低く共働きを必要とする世帯においても、家父長制意識は再生産されているし、結婚=入籍という等式が常識を形成しているからだ。女性の「社会進出」は自分の人生のために働くのではなく、「家」の家計のために働くことの結果にすぎない。女性の「社会進出」は日本ではジェンダー平等に寄与しているとは思えない。だから日本のジェンダーギャップは、あの不愉快な資本家クラブ、世界経済フォーラムの統計でも世界の120位なのも、こうした日本の現実を象徴している。ある程度の制度的な保障がある女性の場合ですらこうした状況だから、ましてや、権利を大幅に奪われている性的マイノリティの人達の場合の困難は、物理的にも精神的にも更に深刻だ。

たぶん、戸籍制度をなくさないと、多様な性的アイデンティティを平等に権利として保障できない。制度的には戸籍制度がかなりネックになっていると思う。こんな制度があるのは日本だけで、韓国も廃止した。戸籍制度は本来個人を基盤に人権を定義している憲法とは真っ向から対立しているが、このことに自覚的なのはむしろ保守派で、憲法の個人主義を家族主義に従属させる意図をもっているのが自民党の改憲草案だ。だから、今回露呈した問題は、荒井とか岸田といった個人の問題ではなく、政権政党をはじめとする保守派総体も問題であり、それは、価値観だけではなく、この国が近代の統治機構を構築する際に、その根幹に据えた戸籍制度と天皇制という奇妙な装置に由来するものだとはっきりと自覚する必要があると思う。

『戸籍と天皇制』の著者、遠藤正敬は、次にように書いている

「結婚の時には夫婦が氏を同一にしなければならないという面倒事がありながら、みんながそうしているから自分たちもと"自然"に婚姻届を役所に出す。戸籍に登録され、血縁や氏に帰属することを尊重する風潮は、自我の突出を抑制して集団への恭順ないし同調を美徳とする精神を内包している。
 戸籍制度に対する日本人のこうした無抵抗な順応は一体、何に由来するのであろうか。そう考える時、天皇制に対する国民意識のなかに、これと酷似したものを見出さざるを得ない。」

世論調査で同性婚やLGBTQを容認する人達が多数であるという結果が報じられているが、これも私は疑問だ。遠藤の言い回しを借りれば「無抵抗な順応」のなかで無自覚でいられる場合と、そうではなく自分事として身にふりかかっている場合とでは、回答が変わるからだ。たぶん回答者の多くは電通の調査でも示されているように「他人事」なので、容認しているにすぎず、性的マイノリティが抱えている日常的な偏見や制度的な差別を理解しているわけではないと思う。だから、たとえば、自分自身の「家」に関わる問題として自覚されると、この容認の数は、減るだろう。つまり、同性との婚姻ですら「本人が誰を好きになろうと構わないが、結婚は別だ。籍をどうするんだ」といった議論が必ず家族の誰かが持ち出して、入籍できないなら、結婚はできない、みたいな議論がでてきて紛糾するに違いないからだ。このときに、戸籍制度があることで個人の性に関わる差別が制度化されているということに気づくよりも、逆に、戸籍制度を容認・前提して「仕方がないこと」として婚姻の自由を抑制する判断が支配的になるだろうことは容易に推測できる。

実は、私達の日常生活いおいて戸籍も天皇も必需品ではない。ほとんど意識することにない、存在であるが、にもかかわらず廃止を主張することへの抵抗は極めて大きい。これは、戸籍制度と近代天皇制は表裏一体で家族観や価値観に関わるからだ。人々の価値観が変って戸籍も天皇も制度としては不要であるという方向に向かうことを保守派は異常に危惧しているようにめいるが、私は社会的平等い基く個人の自由が何よりも重要な人権の基礎だと考えているので、戸籍も天皇制も廃止すること以外の選択肢はありえないと思っている。

ロシアの反戦運動2023年に入っても活発に展開されている(ビジュアル・プロテスト)

ロシアの反戦運動は、さまざまな不服従運動が小グループに分かれながら、したたかに繰り広げられている。以下は、「ビジブル・プロテスト」として、屋外や公共空間、店舗などで展開されている抗議の行動で、2023年になってhttps://t.me/nowarmetro に投稿されたものからいくつかを紹介します。こうした行動の担い手は、分散的だが、抗議に必要なノウハウ(ステッカーやグラフィティの方法、印刷の方法などから弾圧対策まで)についてはかなりしっかりとしたアンダーグラウンドの基盤があるように思います。これは、帝政からソ連時代、そして現在のロシアまで長い年月をつうじて受け継がれてきた民衆の「地下」活動の文化なしには成り立たないようにも思います。一人一人の行動のキャパシティが大きく、それを支える人的ネットワークや人権団体による弾圧への対処は日本よりずっと厚いと思います。日本は街頭の規制が極めて厳しく、ステッカーやグラフィティなどを政治目的で利用する文化がこの半世紀近く途絶えてしまった。戦争になったとき、私たちはこれだけの抗議を中央でも地方でも展開できるだろうか。

ベルゴロドやブリャンスクでも抗議!?

ボロネジ、プーチンと戦争に反対するキャンペーンを積極的に行っている

モスクワでは、反戦銀行券や緑のリボンが盛んに配布されている
エカテリンブルクの街には、反戦を訴えるグラフィティが随所に。
モスクワで。
クラスノヤルスクでも抗議は続いている!
サンクトペテルブルでも抗議は収まらない!
サンクトペテルブルクで
スィフティグカルでの抗議
サマラで反戦グラフィティが活発に
反戦モスクワ
サラトフは反戦グラフィティを精力的に展開している!
サンクトペテルブルクでは、リーフレットを配布し、独立系メディアへのリンクを共有

以下は https://t.me/nowarmetro/12869 から。

ビジブル・プロテストの10ヶ月間。私たちは、目に見えるアジテーションの統計を共有し、戦争と動員について情報を提供し続けることをお願いします。

今日は、私たちのストリートキャンペーンプロジェクト「Visible Protest」の新しい統計データを紹介することにしました。 (https://t.me/nowarmetro)本当に感動的!

戦争、動員、独裁政治に反対する声を上げている皆さんに感謝します。戦争や残忍な弾圧の時代にあっても、あなた方は本当に勇敢な人たちです。なぜなら、私たちの国に実際に何が起こっているのかについて、恐れずに抗議し、他の人たちに知らせることができているからです。

何千人ものロシア人がすでに戦争に反対する声を上げています。彼らと一緒に大衆的な反戦の姿勢を示そう! また、ビジュアルキャンペーンの配布は、最も効果的で安全な抗議の表現方法の一つです。

私たちのガイド(https://vesna.democrat/2022/03/18/kak-sdelat-protest-zametnee-polnyj-g/4)[日本語、ただし若干内容が違います]を読んで配布し、キャンペーンに参加し、あなたの家族や友人に、戦争、動員、当局の犯罪行為についての真実を伝えてください。そして、キャンペーンの方法をソーシャルネットワークで共有しましょう

選挙運動はしましたか?あなたの街を写した写真をボットに送信してください(完全に匿名で、写真のメタデータも消去されます)。@picket_against_war_bot

(Brandalism)トヨタの欧州全域のビルボードキャンペーンをハッキングし、誤解を招く広告と反温暖化ロビー活動で非難を浴びる

(訳者前書き) トヨタが気候変動の元凶としてのガソリン車メーカーだとしても、自動車メーカーであればどこであれどっちもどっちなんじゃないか、と軽くみているのが多分日本の大方の理解なのかもしれない。しかし、ヨーロッパでの理解は全く違う。ここに訳出したのはBrandalismというアートタクティビストのサイトの記事(体裁は記者発表)だが、この記事をみると、Toyotaは自動車メーカーで最低(最悪)の評価をもらっていることがわかる。ヨーロッパや国連ではガソリン車の広告規制すら議論されているというのに、日本ではこうした議論はほとんど聞かれない。

野外広告(ビルボード)のハッキング(勝手に書き変える)の歴史は長い。日本では、こうした行動への刑事罰が厳しいだけでなく、そもそもこうしたアクションの是非を論じる余地すらほとんどない。しかし、実は、公共空間を特定の私企業が営利目的で長期にわたって占有することは公共空間の公共性の趣旨と整合するのか、という議論があり、営利目的占有よりも公共性の高い政治的な表現が優位にたつ、という考え方もありうるのだ。実は、日本でも、憲法では公共の福祉とかの条件なしで「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」(21条)とあるのに、これを公共の福祉との兼ね合いで解釈しようとする。他方で財産権もまた29条で保護されている。では、公共空間において、表現の自由(トヨタの広告を書き変える)と企業の財産権(トヨタの広告)のどちらを優先させるべきなのかは、実は自明ではない。このことはグラフィティや路上のパフォーマンスからデモや集会まで、ストリートの表現全てに関わる問題だ。私は、今回のアクションは、広告そのものに内在する一方的な企業の主張への抗議の表現としてありえると思っている。金で空間を買える企業と、そうした余地のない庶民との間にある公共空間へのアクセスの不平等の問題が私たちの世界観や価値観に対して無意識のうちにある種の偏りをもたらしている、ということをこうした表現を通じて気づかされることも少くない。(小倉利丸)

2023年1月16日

  • Subvertisers’ International、Brandalism、Extinction Rebellionの活動家が、ヨーロッパ全土に400以上のパロディ広告看板を設置する。
  • この活動は、トヨタとBMWによる誤解を招く広告や気候政策に対する積極的なロビー活動をターゲットにしている。
  • 活動家たちは、国際的な機運が高まる中、大型SUV車など環境に有害な製品に対する「たばこ式」の広告禁止を導入するよう各国政府に呼びかけている。

ブリュッセルで開催される欧州自動車ショーが100周年を迎える今週末、ベルギー、フランス、ドイツ、イギリスの400以上の広告看板やバス停が気候変動活動家によって占拠され、トヨタとBMWに呼びかけが行われた。

ヨーロッパ各地で乗っ取られた看板は、トヨタとBMWが使用している誤解を招く広告や攻撃的なロビー活動戦術を強調している。2022年、トヨタは、InfluenceMapによって、反気候のロビー活動に関して、自動車メーカーとしては最悪のランキングである世界第10位に選ばれ、これに続いて、BMWが総合第16位にランクさ れた。[1]

トヨタとBMWの広告は電気自動車(EV)のラインナップを強調しているにもかかわらず、両メーカーは依然として汚染を引き起こす内燃機関自動車の販売に多大な投資をしている。[2] 2021年、トヨタが販売した車のうち、EVはわずか0.2%だった]。[3]

Subvertisers International、Brandalism、Extinction Rebellionの気候活動家によって設置されたビルボードは、ロンドン、ベルリン、シュトゥットガルト、パリ、ナント、ブリュッセル、ゲント、ブリストル、ダービー、グラスゴー、ノリッジ、ブライトン、エクセター、リーディングのバス停、広告板、地下鉄広告スペースなどに表示されている。活動家たちはこの行動を通じて、環境に危害を与える製品の広告を規制し、大規模な汚染者による誤解を招くようなグリーン・クレームを防止するため、政府に対してより強固な政策を要求している。

(c)SimonBeavis

化石燃料車やSUVなど、気候を破壊する製品について、タバコのような広告禁止令を導入しようという国際的な機運が高まる中、ヨーロッパ全域でこの行動が起こされている。市町村、さらには国全体が、環境への影響を理由に広告の禁止を導入している。一方で、国連のハイレベル専門家グループによる最近の報告書は、誤解を招く環境に関する主張を避け、ロビー活動を制限するために、企業がネットゼロを達成できるように、自発的措置ではなく規制要件を導入することを求めている[4]。

ヨーロッパ中に貼られたポスターは、Lindsay Grime, Michelle Tylicki, Merny Wernz, Fokawolf, Matt Bonner, Darren Cullenといったアーティストによってデザインされている。彼らは、トヨタ自動車のランドクルーザーやBMWのX5やX7など、高汚染車やBMWの車両を描いている。ある作品では、トヨタのランドクルーザーが、乳母車に乗った歩行者、子ども、自転車が殺到する都会の道路を走り抜ける様子が描かれている。また、最近ブリュッセル・ミディ駅で見かけたものでは、「Add Driving Pleasure」と書かれた本物のBMWの広告のパロディとして、「Add Climate Breakdown」と書かれた偽物のBMW広告もある。

ブリュッセル・ミディ駅で目撃されたBMWの広告(2022年12月)

Brandalismの広報担当者であるTona Merrimanは、次のように述べている。

「トヨタは “Beyond Zero” 持続可能性広告を押し進める一方で、世界中の政府に働きかけて大気保全計画を緩和させ、生存可能な気候よりも自分たちの利益を守るために法的措置を取ると脅しています。トヨタの広告はまやかしです」

英国では、2030年までにガソリン車とディーゼル車、2035年までにハイブリッド車の販売が禁止されるのを前に、キャンペーンに参加している活動家は、最も汚染度の高い車、特にSUVの広告を直ちに中止するよう求めている。Adfree Cities(英国)、Badvertising(英国)、Résistance à l’Agression Publicitaire(フランス)、Climáximo(ポルトガル)、Greenpeace International、その他35の団体からなるキャンペーン担当者は、高炭素製品の広告を廃止するためにタバコのような法律が必要であると訴えている。

また、Tona Merrimanは次のように述べている。

「トヨタとBMWは、巧みなマーケティングキャンペーンで、都市部の居住空間を塞ぐような大きすぎるSUVを宣伝しています。電気自動車のSUVは、ほとんどの駐車スペースには大きすぎるし、その高いバンパーサイズと過剰な重量は、歩行者、特に子どもたちが道路で事故に巻き込まれるリスクを高めています」
ブリュッセルに設置されたパロディBMWのサブヴァート、2023年1月

[1] https://influencemap.org/report/Corporate-Climate-Policy-Footprint-2022-20196

[2] トヨタの広告エージェンシーはThe&Partnership https://theandpartnership.com 、電通はBMWの広告エージェンシーの一つである https://www.dentsu.com/nl/en

[3] https://thedriven.io/2022/09/09/toyota-ranks-last-in-global-green-car-report-accused-of-anti-climate-lobbying/

[4] 国連、2022年、「Integrity Matters: 企業、金融機関、都市、地域によるネット・ゼロ・コミットメント」、「非国家主体によるネット・ゼロ・エミッションのコミットメントに関する国連ハイレベル専門家会合」、https://www.un.org/sites/un2.un.org/files/high-level_expert_group_n7b.pdf

Brandalismは、大企業とその広報広告の力に立ち向かうアーティストと活動家の国際的な集団である。彼らは「サブバーティシング」(広告を破壊する芸術)を用いて、大手汚染企業によるグリーンウォッシュ に対抗している。http://brandalism.ch/

Subvertisers’ International は、ヨーロッパ、米国、アルゼンチン、オーストラリ アの反広告グループのネットワークです。https://subvertisers-international.net/about/members/

Extinction Rebellion (XR) 非暴力直接行動を用いて、気候および生態系の緊急事態に 対して行動するよう政府を説得する国際的な運動です。https://www.extinctionrebellion.be/en

出典:http://brandalism.ch/projects/toyota-bmw-greenwash/

Twitterをめぐる政府と資本による情報操作――FAIRの記事を手掛かりに

本稿は、FAIRに掲載された「マスクの下で、Twitterは米国のプロパガンダ・ネットワークを推進し続ける」を中心に、SNSにおける国家による情報操作の問題について述べたものです。Interceptの記事「Twitterが国防総省の秘密オンラインプロパガンダキャンペーンを支援していたことが判明」も参照してください。(小倉利丸)

Table of Contents

1. FAIRとInterceptの記事で明らかになったTwitterと米国政府の「癒着」

SNSは個人が自由に情報発信可能なツールとしてとくに私たちのコミュニケーションの権利にとっては重要な位置を占めている。これまでSNSが問題になるときは、プラットフォーム企業がヘイトスピーチを見逃して差別や憎悪を助長しているという批判や、逆に、表現の自由の許容範囲内であるのに不当なアカウント停止措置への批判であったり、あるいはFacebookがケンブリッジ・アナリティカにユーザーのデータを提供して選挙に介入したり、サードパーティクッキーによるデータの搾取ともいえるビジネスモデルで収益を上げたり、といったことだった。これだけでも重大な問題ではあるが、今回訳出したFAIRの記事は、これらと関連しながらも、より密接に政府の安全保障と連携したプラットフォーム企業の技術的な仕様の問題を分析している点で、私にとっては重要な記事だと考えた。

戦争や危機の時代に情報操作は当たり前の状況になることは誰もが理解はしていても、実際にどのような情報操作が行なわれているのかを、実感をもって経験することは、ますます簡単ではなくなっている。

別に訳出して掲載したFAIRの記事 は、昨年暮にInterceptが報じたtwitterの内部文書に基くtwitterと米国政府との癒着の報道[日本語訳]を踏まえ、更にそれをより広範に調査したものになっている。この記事では、Twitterによる投稿の操作は、「米国の政策に反対する国家に関連するメディアの権威を失墜させること」であり、「もしある国家が米国の敵であると見なされるなら、そうした国家と連携するメディアは本質的に疑わしい」とみなしてユーザーの判断を誘導する仕組みを具体的に示している。twitterは、企業の方針として、米国のプロパガンダ活動を周到に隠蔽したり、米国の心理戦に従事しているアカウントを保護するなどを意図的にやってきたのだが、世界中のtwitterのユーザーは、このことに気づかないカ十分な関心を抱かないまま、公平なプラットフォームであると「信じて」投稿し、メッセージを受け取ってきた。しかし、こうしたSNSの情報の流れへの人為的な操作の結果として、ユーザーひとりひとりのTwitterでの経験や実感は、実際には、巧妙に歪められてしまっている。

ウクライナへのロシアによる侵略以後、ロシアによる「偽旗作戦」への注目が集まった。そして、日本でも、自民党は、「偽旗作戦」を含む偽情報の拡散による情報戦などを「新たな『戦い方』」と呼び、これへの対抗措置が必要だとしている。[注]いわゆるハイブリッド戦では「ンターネットやメディアを通じた偽情報の流布などによる世論や投票行動への影響工作を複合的に用いた手法」が用いられることから、非軍事領域を包含して「諸外国の経験・知見も取り入れながら、民間機関とも連携し、若年層も含めた国内外の人々にSNS等によって直接訴求できるように戦略的な対外発信機能を強化」が必要だとした。この提言は、いわゆる防衛3文書においてもほぼ踏襲されている。上の自民党提言や安保3文書がハイブリッド戦争に言及するとき、そこには「敵」に対する組織的な対抗的な偽情報の展開が含意されているとみるべきで、日本も遅れ馳せながら偽旗作戦に参戦しようというのだ。日本の戦争の歴史を振り返れば、まさに日本は偽旗作戦を通じて世論を戦争に誘導し、人々は、この偽情報を見抜くことができなかった経験がある。この意味でtwitterと米国政府機関との関係は、日本政府とプラットーム企業との関係を理解する上で重要な示唆を与えてくれる。

[注]新たな国家安全保障戦略等の策定に向けた提言(2022/4/26)

2. インターネット・SNSが支配的な言論空間における情報操作の特殊性

伝統的なマスメディア環境では、政府の世論操作は、少数のマスメディアへの工作によって大量の情報散布を一方的に実現することができた。政府だけでなく、企業もまた宣伝・広告の手段としてマスメディアを利用するのは、マスメディアの世論操作効果を期待するからだ。

しかしインターネットでは、ユーザーの一人一人が、政府や企業とほぼ互角の情報発信力をもつから、国家も資本も、この大量の発信をコントロールするというマスメディア時代にはなかった課題に直面した。ひとりひとりの発信者の口を封じたり、政府の意向に沿うような発言を強制させることはできないから、これはある種の難問とみなされたが、ここにインターネットが国家と資本から自立しうる可能性をみる――私もそうだった――こともできたのだ。

現実には、インターネットは、少数のプラットフォーム企業がこの膨大な情報の流れを事実上管理できる位置を獲得したことによって、事態は庶民の期待を裏切る方向へと突き進んでしまった。こうした民間資本が、アカウントの停止や投稿への検閲の力を獲得することによって、検閲や表現の自由の主戦場は政府とプラットーム企業の協調によって形成される権力構造を生み出した。政府の意図はマスメディアの時代も現代も、権力の意志への大衆の従属にある。そのためには、情報の流通を媒介する資本は寡占化されているか国家が管理できることが必要になる。現代のプラットフォーム企業はGAFAMで代表できるように少数である。これらの企業は、自身が扱う情報の流れを調整することによって、権力の意志をトップダウンではなくボトムアップで具現化させることができる。つまり、不都合な情報の流れを抑制し、国家にとって必要な情報を相対的に優位な位置に置き、更に積極的な情報発信によって、この人工的な情報の水路を拡張する。人びとは、この人工的な情報環境を自然なコミュニケーションだと誤認することによって、世論の自然な流れが現行権力を支持するものになっていると誤認してしまう。更にここにAIのアルゴリズムが関与することによって、事態は、単なる一人一人のユーザーの生の投稿の総和が情報の流れを構成する、といった単純な足し算やかけ算の話ではなくなる。twitterのAIアルゴリムズには社会的なバイアスがあることがすでに指摘されてきた。(「TwitterのAIバイアス発見コンテスト、アルゴリズムの偏りが明らかに」CNETJapan Sharing learnings about our image cropping algorithm )AIのアルゴリズムに影響された情報の流れに加えてSNSにはボットのような自動化された投稿もあり、こうした機械と人間による発信が不可分に融合して全体の情報の流れが構成される。ここがハイブリッド戦争の主戦場にもなることを忘れてはならない。

[注]検閲や表現領域のようなマルクスが「上部構造」とみなした領域が土台をなす資本の領域になっており、経済的土台と上部構造という二階建の構造は徐々に融合しはじめている。

3. ラベリングによる操作

FAIRの記事で問題にされているのは、政府の情報発信へのtwitterのポリシーが米国政府の軍事・外交政策を支える世論形成に寄与する方向で人びとのコミュニケーション空間を誘導している、という点にある。その方法は、大きく二つある。ひとつは、各国政府や政府と連携するアカウントに対する差別化と、コンテンツの選別機能でもある「トピック」の利用である。このラベルは2020年ころに導入された。日本語のサイトでは以下のように説明されている。

「Twitterにおける政府および国家当局関係メディアアカウントラベルについて

国家当局関係メディアアカウントについているラベルからは、特定の政府の公式代表者、国家当局関係報道機関、それらの機関と密接な関係のある個人によって管理されているアカウントについての背景情報がわかります。

このラベルは、関連するTwitterアカウントのプロフィールページと、それらのアカウントが投稿、共有したツイートに表示されます。ラベルには、アカウントとつながりのある国についてと、そのアカウントが政府代表者と国家当局関係報道機関のどちらによって運用されているかについての情報が含まれています。 」https://help.twitter.com/ja/rules-and-policies/state-affiliated

ラベリングが開始された2020年当時は、国連安全保障理事会の常任理事国を構成する5ヶ国(中国、フランス、ロシア、英国、米国)に関連するTwitterアカウントのなかから、地政学と外交に深くかかわっている政府アカウント、国家当局が管理する報道機関、国家当局が管理する報道機関と関連する個人(編集者や著名なジャーナリストなど) にラベルを貼ると表明していた。その後2022年になると中国、フランス、ロシア、英国、米国、カナダ、ドイツ、イタリア、日本、キューバ、エクアドル、エジプト、ホンジュラス、インドネシア、イラン、サウジアラビア、セルビア、スペイン、タイ、トルコ、アラブ首長国連邦が対象になり、2022年4月ころにはベラルーシとウクライナが追加される。こうした経緯をみると、当初と現在ではラベルに与えられた役割に変化があるのではないかと思われる。当初は国連安保理常任理事国の背景情報を提供することに主眼が置かれ、これが米国の国益にもかなうものとみなされていたのかもしれない。twitterをグローバルで中立的なプラットフォーマであることを念頭にその後のラベル対象国拡大の選択をみると、これが何を根拠に国を選択しいるのかがわかりづらいが、米国の地政学を前提にしてみると、米国との国際関係でセンシティブと推測できる国が意図的に選択されているともいえそうだ。他方でイスラエルやインドがラベルの対象から抜けているから、意図的にラベルから外すことにも一定の政治的な方針がありそうだ。(後述)そして、ロシアの侵略によって、このラベルが果す世論操作機能がよりはっきりしてくる。

ロシアへのラベリングは、ウクライナへの侵略の後に、一時期話題になった。(itmedia「Twitter、ロシア関連メディアへのリンクを含むツイートに注意喚起のラベル付け開始」)

上のラベルに関してtwitterは「武力紛争を背景に、特定の政府がインターネット上の情報へのアクセスを遮断する状況など、実害が及ぶ高いリスクが存在する限られた状況において、こうしたラベルが付いた特定の政府アカウントやそのツイートをTwitterが推奨したり拡散したりすることもありません。」と述べているのだが、他方で、「ウクライナ情勢に対するTwitterの取り組み」 では、これとは反するようなことを以下のように述べている。

「ツイートにより即座に危害が生じるリスクは低いが、文脈を明確にしなければ誤解が生じる恐れがある場合、当該ツイートをタイムラインに積極的に拡散せず、ツイートへのリーチを減らすことに注力します。コンテンツの拡散を防いで露出を減らし、ラベルを付与して重要な文脈を付け加えます。」

FAIRの報道には、実際の変化について言及があるので、さらに詳しい内容についてはFAIRの記事にゆずりたい。

4. トピック機能と恣意的な免責

ラベリングとともにFAIRが問題視したのがトピック機能だ。この機能についてもこれまでさほど深刻には把えられていなかったかもしれない。

FAIRは次のように書いている。

「Twitterのポリシーは、事実上、アメリカのプロパガンダ機関に隠れ蓑と手段を提供することになっている。しかし、このポリシーの効果は、全体から見ればまだまだだ。Twitterは様々なメカニズムを通じて、実際に米国が資金を提供するニュース編集室を後押しし、信頼できる情報源として宣伝しているのだ。

そのような仕組みのひとつが、「トピック」機能である。「信頼できる情報を盛り上げる」努力の一環として、Twitterはウクライナ戦争について独自のキュレーションフィードをフォローすることを推奨している。2022年9月現在、Twitterによると、このウクライナ戦争のフィードは、386億以上の “インプレッション “を獲得している。フィードをスクロールすると、このプラットフォームが米国の国家と連携したメディアを後押ししている例が多く、戦争行為に批判的な報道はほとんど、あるいは全く見られない。米国政府とのつながりが深いにもかかわらず、Kyiv IndependentとKyiv Postは、戦争に関する好ましい情報源として頻繁に提供されている。」

ここで「独自のキュレーションフィード」と記述されているが、日本語のTwitterのトピックでは、「キュレイーション」という文言はなく、主要な「ウクライナ情勢」の話題を集めたかのような印象が強い。Twitterは、ブログ記事「トピック:ツイートの裏側」 で「あるトピックを批判をしたり、風刺をしたり、意見が一致しなかったりするツイートは、健全な会話の自然な一部であり、採用される資格があります」とは書いているが、実際には批判と炎上、風刺と誹謗の判別など、困難な判断が多いのではないか。日本語での「ウクライナ情勢」のトピック では、日本国内の大手メディア、海外メディアで日本語でのツイート(BBC、CNN、AFP、ロイターなど)が大半のような印象がある。つまり、SNSがボトムアップによる多様な情報発信のプラットフォームでありながら、Twitter独自の健全性やフォローなどの要件を加味すると、この国では結果として伝統的なマスメディアがSNSの世界を占領するという後戻りが顕著になるといえそうそうだ。反戦運動や平和運動の投稿は目立たなくなる。情報操作の目的が権力を支える世論形成であるという点からみれば、SNSとプラットフォームが見事にこの役目を果しているということにもなり、言論が社会を変える力を獲得することに資本のプラットフォームはむしろ障害になっている。

しかも「トピック」は単純なものではなさそうだ。twitterによれば「トピック」機能は、会話におけるツイート数と健全性を基準に、一過性ではないものをトピックを選定するというが、次のようにも述べられている。

「機械学習を利用して、会話の中から関連するツイートを見つけています。ある話題が頻繁にツイートされたり、その話題について言及したツイートを巡って多くの会話が交わされたりすると、その話題がトピックに選ばれる場合があります。そこからさらにアルゴリズムやキーワード、その他のシグナルを利用して、ユーザーが強い興味関心を示すツイートを見つけます」

Twitterでは、「トピックに含まれる会話の健全性を保ち、また会話から攻撃的な行為を排除するため、数多くの保護対策を実施してい」るという。何が健全で何が攻撃的なのかの判断は容易ではない。しかし「これには、操作されていたり、スパム行為を伴ったりするエンゲージメントの場合、該当するツイートをトピックとして推奨しない取り組みなどが含まれます」 と述べられている部分はFAIRの記事を踏まえれば、文字通りのこととして受けとれるかどうか疑問だ。

トピックの選別をTwitterという一企業のキュレション担当者やAIに委ねることが、果して言論・表現の自由や人権にとってベストな選択なのだろうか。イーロン・マスクの独裁は、米国や西側先進国の民主主義では企業の意思決定に民主主義は何にひとつ有効な力を発揮できないという当たり前の大前提に、はじめて多くの人々が気づいた。Twitterにせよ他のSNSにせよ、伝統的なメディアの編集部のような「報道の自由」を確保するための組織的な仕組みがあるのあどうか、あるいはそもそもキュレイーションの担当者やAIに私たちの権利への関心があるのかどうかすら私たちはわかっていない。

もうひとつは、上で述べたラベリングと表裏一体の問題だが、本来であれば政府系のメディアとしてラベルを貼られるべきメディアが、あたかも政府からの影響を受けていない(つまり公正で中立とみなされかねない)メディアとして扱われている、という問題だ。FAIRは米軍、国家安全保障局、中央情報局のアカウント、イスラエル国防軍、国防省、首相のアカウントがラベリングされていないことを指摘している。

またFAIRが特に注目したのは、補助金など資金援助を通じて、特定のメッセージや情報の流れを強化することによる影響力強化だ。FAIRの記事で紹介されているメディアの大半は、米国の政府や関連する財団――たとえば全米民主主義基金(National Endowment for Democracy、USAID、米国グローバルメディア局――などからの資金援助なしには、そもそも情報発信の媒体としても維持しえないか、維持しえてもその規模は明かに小規模に留まらざるをえないことは明らかなケースだ。

5. 自分の直感や感性への懐疑は何をもたらすか

FAIRやInterceptの記事を読まない限り、twitterに流れる投稿が米国の国家安全保障の利害に影響されていることに気づくことは難しいし、たとえ投稿のフィードを読んだからといって、この流れを実感として把握することは難しい。フェイクニュースのように個々の記事やサイトのコンテンツの信憑性をファクトチェックで判断する場合と違って、ここで問題になっているのは、ひとつひとつの投稿には嘘はないが、グローバルな世論が、プラットフォーム企業が総体として流す膨大な投稿の水路や流量の調整によって形成される点にある。私たちは膨大な情報の大河のなかを泳ぎながら、自分をとりまく情報が自然なものなのか人工的なものなのか、いったいどこから来ているのか、情報全体の流れについての方向感覚をもてず、実感に頼って判断するしかない、という危うい状態に放り出される。このような状況のなかで、偏りを自覚的に発見して、これを回避することは非常に難しい。

こうしたTwitterの情報操作を前提としたとき、私たちは、ロシアやウクライナの国や人びとに対して抱く印象や戦争の印象に確信をもっていいのかどうか、という疑問を常にもつことは欠かせない。報道の体裁をとりながらも、理性的あるいは客観的な判断ではなく、好きか嫌いか、憎悪と同情の感情に訴えようとするのが戦争状態におけるメディアの大衆心理作用だ。ロシアへの過剰な憎悪とウクライナへの無条件の支持の心情を構成する客観的な出来事には、地球は平面だというような完璧な嘘があるわけではない。問題になるのは、出来事への評価や判断は、常に、出来事そのものと判断主体の価値観や世界観あるいは知識との関係のなかでしか生まれないということだ。私は、ロシアのウクライナへの侵略を全く肯定できないが、だからといって私の関心は、ウクライナであれロシアであれ、国家やステレオタイプなナショナリズムのアイデンティティや領土への執着よりも、この理不尽な戦争から背を向けようとする多様な人々が武器をとらない(殺さない)という選択のなかで生き延びようとする試みのなかにあるラディカリズムにあるのだが、このような国家にも「国民」にも収斂しないカテゴリーはプラットフォーム企業の関心からは排除され、支配的な戦争のイデオロギーを再生産する装置としてしか私には見えない。

国家に対する評価とその国の人びとへの評価とを区別するのに必要なそれなりの努力をないがしろにさせるのは、既存のマスメディアが得意とした世論操作だが、これがSNSに受け継がれると、SNSの多様な発信は総じて平板な国家の意志に収斂して把えられる傾向を生み出す。どの国にもある人びとの多様な価値観やライフスタイルやアイデンティティが国家が表象するものに単純化されて理解されてしまう。敵とされた国の人びとを殺すことができなければ戦争に勝利できないという憎悪を地下水脈のように形成しようとするのがハイブリッド戦争の特徴だが、これが日本の現在の国際関係をめぐる感情に転移する効果を発揮している。こうしたことが、一人一人の発信力が飛躍的に大きくなったはずのインターネットの環境を支配している。その原因は、寡占化したプラットフォーム企業が資本主義の上部構造を構成するイデイロギー資本として、政治的権力と融合しているからだ、とみなす必要がある。

6. それでもTwitterを選択すべきか

政府関連のツィートへのラベリングは、開始された当初に若干のニュースになったものの、その背景にTwitterと米国の安全保障政策との想定を越えた密接な連携があるということにまではほとんど議論が及んでいなかったのでは、と思う。さらにFAIRがイーロン・マスクのスペースXを軍事請け負い企業という観点から、その活動を指摘していることも見逃せない重要な観点だと思う。

情報操作のあり方は、独裁国家や権威主義国家の方がいわゆる民主主義や表現の自由を標榜する国よりも、素人でもわかりやすい見えすいた伝統的なプロパガンダや露骨な言論弾圧として表出する。ところが民主主義を標榜する国では、その情報操作手法はずっと洗練されており、より摩擦の少ない手法が用いられ、私たちがその重大性に気づくことが難しい。私たち自身による自主規制、政府が直接介入しない民間による「ガイドライン」、あるいは市場経済の価格メカニズムを用いた採算のとれない言論・表現の排除、さらには資源の希少性を口実にアクセスに過剰なハードルを課す(電波の利用)、文化の保護を名目としつつナショナリズムを喚起する公的資金の助成など、自由と金を巧妙に駆使した情報操作は、かつてのファシズムやマスメディアの時代と比較しても飛躍的に高度化した。そして今、情報操作の主戦場はマスメディアからプラットフォーム企業のサービスと技術が軍事技術の様相をとるような段階に移ってきた。

コミュニケーションの基本的な関係は、人と人との会話であり、他者の認識とは私の五感を通じた他者理解である、といった素朴なコミュニケーションは現在はほとんど存在しない。わたしは、あなたについて感じている印象や評価と私がSNSを通じて受けとるあなたについての様々な「情報」に組み込まれたコンピュータによって機械的に処理されたデータ化されたあなたを的確に判別することなどできない。しかし、コミュニケーションを可能な限り、資本や政府による恣意的な操作の環境から切り離すことを意識的に実践することは、私たちが世界に対して持つべき権利を偏向させたり歪曲させないために必要なことだ。そのためには、コンピュータ・コミュニケーションを極力排除するというライフスタイルが一方の極にあるとすると、もう一方の極には、資本の経済的土台と国家のイデオロギー的上部構造が融合している現代の支配構造から私たちのコミュニケーションを自立させうるようにコンピュータ・コミュニケーションを再構築するという戦略がありうる。この二つの極によって描かれる楕円の世界を既存の世界からいかにして切り離しつつ既存の世界を無力化しうるか、この課題は、たぶん武力による解放では実現できない課題だろう。

Author: toshi

Created: 2023-01-09 月 18:29

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(LaCroix)ロシアのキリスト教ナショナリズム

(訳者前書き)以下は、カトリック系のウエッブサイトLa Croix Internationalの記事の翻訳です。私はキリスト者ではなく、キリスト教一般いついての理解も十分とはいえないが、ロシアのウクライナ侵略の戦争をもっぱらプーチンの「狂気」や個人の独裁に求めがちな日本のメディア報道に対するセカンドオピニオンとして、ロシアの宗教性とナショナリズムに関心をもつことは重要な観点だと感じている。宗教とナショナリズムの問題は、ロシアだけではなく、グローバルな現象として、米国の福音派から英国の君主制、そして欧州に広範にみられる異教主義的なヨーロッパへの回帰と排外主義など、いずれも多かれ少なかれ宗教的な心性との関りがある。日本の場合であれば天皇制ナショナリズムもこの文脈で把える必要があると思う。ほとんどの日本人は、この概念に違和感をもつだろうが、主観的な理解とは相対的に別のものとしてのナショナリズムの意識されざる効果があることに着目すべきだろう。以下で述べられているように、プーチンの戦争に宗教的な世界観が深く関わりをみせているとすれば、戦争の終結が国際関係のリアリズムの文脈によっては解決できない側面をもつということにもなる。グローバルな宗教ナショナリズムに対して、宗教者えあれば、宗教インターナショナリズムに基くナショナリズムの相対化の可能性を模索するのかもしれない。私のような無神論者は、宗教的な世界観や信条をもつ政治指導者や国家権力に対して世俗主義による解決を主張するだけでは十分ではないだろう。戦争放棄にとって「神」とは何なのかという問題は、同時に戦争にとってこれまでの人類の歴史が刻みこんできた「神」の加担の歴史を、信仰しない者の観点からもきちんと理解する努力が非常に重要になっていると思う。(小倉利丸)


ロシアのキリスト教ナショナリズム
ジョン・アロンソ・ディック著|ベルギー

聖なる金曜日に、私はイエスの人生経験における権威主義的な支配者と堕落した宗教指導者の不吉な協力にあらためて衝撃を受けた。そして、今日の多くの国々で見られる、宗教と政治の不吉な協力関係について考え始めた。

私の当面の関心事は、もちろんウクライナの戦争である。現在のロシア・ウクライナには、絶対に見落としてはならないキリスト教的な側面がある。復活祭の翌月曜日(正教徒にとっては棕櫚の日曜日の翌月曜日)、政治学者でロシア下院議員のヴャチェスラフ・ニコノフ(1956年生)は、ロシアのウクライナ戦争を賞賛した。

「実際、私たち(ロシア人)は、現代世界における善の力を体現しています。私たちは絶対悪の勢力に対抗する善の側なのです」「これはまさに私たちが行っている聖戦であり、私たちはこれに勝たなければならない。他に選択肢はない。私たちの大義は正義であるだけではありません。 私たちの大義は正義である。そして勝利は必ず我々のものになる」

これがキリスト教ナショナリズムである。

キーウが東欧正教会の中心地となる

歴史は、現在のロシア・ウクライナの出来事を理解するのに役立つ。980年頃、現在のウクライナの政治指導者たちが、コンスタンティノープルから来た正教徒に改宗させられた。キーウ周辺は、東ヨーロッパにおける正教会の中心地となった。しかし、それから約500年後、状況は一変する。1448年、モスクワのロシア正教会がコンスタンティノープル総主教座から事実上独立し、その5年後、コンスタンティノープルはオスマントルコに征服された。537年に帝都コンスタンティノープルの総主教座聖堂として建てられたアヤソフィアは、モスクとなった。このとき、ロシア正教会とモスクワ公国は、モスクワをコンスタンティノープルの正統な後継者と見なすようになった。モスクワ総主教はロシア正教会のトップとなり、ウクライナのすべての正教会はモスクワ総主教座の教会の管轄下に置かれるようになった。

1917年の10月革命後、1922年に共産主義国家であるソビエト社会主義共和国連邦が成立した。ソ連は既存の宗教を排除し、国家的な無神論を確立することを重要な目的としていた。1988年から1991年にかけてのソ連邦の崩壊により、ロシア正教会はその宗教的、国家的アイデンティティを再検討するようになった。

ソビエト連邦崩壊後のロシアにおける宗教復興

レニングラード司教アレクシー(1929-2008)は、1990年にモスクワ総主教アレクシー2世となり、70年に及ぶ弾圧の後、驚くほど迅速にロシア社会に正教会を復活させることを主導した。2008年のアレクシー総主教の任期終了までに、約15,000の教会が再開され、再建された。ロシア正教会の大規模な回復と再建は、アレクシーの後継者であるウラジーミル・ミハイロヴィチ・グンディアエフ(1946年生)―今日ではキリル総主教の名で知られている―の下で続けられた。2016年までにキリルの下で、教会は174の教区、361人の司教、3万9800人の聖職者が奉仕する34,764の小教区を有するに至った。926の修道院と30の神学院があった。

ロシア正教会は、総主教キリルのもとで、共産主義の崩壊による社会的・思想的空白を埋めるために、国家の宗教的・政治的権力の強力な代理人となるべく活動してきた。キリル総主教の下で、ロシア正教会はクレムリンと密接な関係を築いている。プーチン大統領(1952年生まれ)はキリルを個人的に庇護している。2012年のプーチン大統領選を支持し、プーチンの大統領就任を「神の奇跡」と呼ぶ。現在、彼はプーチンのロシアは反キリストと戦っていることを強調している。しかし、2014年にロシアがクリミアに侵攻したとき、プーチンには思いもよらぬことが起こり、彼とキリル総主教には気に入らないことが起こった。ウクライナの正教会の大きなグループが、モスクワ総主教庁から完全に独立することを主張する「ウクライナ正教会(OCU)」を結成したのだ。このクリミア半島侵攻後の歴史は、プーチンがロシアのアイデンティティと世界的な役割をどのように構想しているのかを示すものとして重要である。

「母なるロシア」の栄光を取り戻す

プーチンは、「母なるロシア」の栄光と地勢を回復させたいと考えており、それが西洋の世俗的退廃に対する「キリスト教文明」の保護であると強く主張している。1981年から2000年にかけて、ロシア最後の皇族であるロマノフ家がロシア正教の聖人に列せられた。つまり、ニコライ2世とその妻アレクサンドラ、そして5人の子供たち、オルガ、タチアナ、マリア、アナスタシア、アレクセイである。プーチンは、ロシア正教会とのイデオロギー的な同盟は、自分の目標達成のために不可欠だと考えている。プーチン大統領は、かつてのロシア皇帝と同じように、モスクワをロシア正教会の祝福を受けた政治的・軍事的帝国の中心に据えたいと考えている。これは、彼のロシアキリスト教ナショナリズムの重要な要素である。そのためには、自分がコントロールできるウクライナの正教会が必要なのだ。プーチンとウクライナの戦争が始まったとき、総主教キリルは説教で、神から与えられたウクライナとロシアの統一性を強調した。「抑圧されたロシア人の解放よりも、はるかに多くのものが危機に瀕している。人類の救済である」と3月6日の説教で強調した。「人々は弱い者で、もはや神の律法に従わない。 神の言葉や福音を聞かなくなっている。 彼らはキリストの光に対して盲目なのです」と総主教は述べた。

悪の力に対する黙示録的な戦い

ロシアのテレビで毎週行われる説教で、キリルは定期的に、ウクライナの戦争を「神から与えられた神聖ロシアの統一」を破壊しようとする悪の力に対する終末的な戦いとして描写している。彼は先月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの人々が共通の精神的、国家的遺産を共有し、一つの民族として団結すべきは「神の真理」だと強調したが、これはプーチンの戦争擁護に直接呼応するものだ。キリルはしばしば、同性愛者の権利に対して怒りに満ちた暴言を吐きながら、これは神に対する大きな罪であり、「神とその真理の明確な否定」であるとし、人類の文明の未来そのものが危機に瀕していると語ってきた。ロシア政治において総主教は複雑な人物である。彼は頭が良く、カリスマ性があり、野心的な人物である。彼は旧ソビエト連邦の中心的な治安組織であるKGBと関係してきた。しかし、キリルは総主教に就任して数年後、3万ドルのブレゲの腕時計をしているところを写真に撮られ、ちょっとしたスキャンダルを引き起こしたことがある。その後、正教会の支持者によって、公式写真が都合よくフォトショップで修正された。彼とプーチンは長い間、緊密な同盟関係にある。プーチンは、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の司祭だったキリルの父親が、母親の希望で1952年に秘密裏に洗礼を授けてくれたと語っている。プーチンとキリルは頻繁に一緒に公の場に姿を現わしている。たとえば、復活祭の礼拝、修道院の訪問、巡礼地巡りなど、プーチンとキリルは頻繁に公の場に姿を現している。

プーチンの精神的宿命:モスクワを拠点としたキリスト教団の再構築

プーチンのキリスト教に対する真摯な姿勢は、大統領側近だったロシア正教徒のセルゲイ・プガチョフ(1963年生)によってはっきりと否定されてきた。しかし、近年、プーチンは自らの宗教性を強調するようになった。銀の十字架を首にかけ、イコンにキスし、テレビカメラの前で凍った湖に身を沈めたのは有名な話だ。この氷漬けの儀式は、男らしさの誇示であり、正教会の祭日である「聖霊降臨祭」の儀式でもある。プーチンは、モスクワを拠点とするキリスト教国の再建を自らの精神的宿命としている。「ウクライナは我々の歴史、文化、精神的空間の不可分の一部である」と彼は昨年2月の演説で述べた。ロシア正教は何世紀にもわたって、西欧のカトリックやプロテスタントとは対照的に、「真の信仰」の守護者として自らを提示してきた。モスクワは、第2位のコンスタンチノープル、第1位の帝政ローマに続く第3のローマであり、今日の真のキリスト教の中心地であるという。

ロシアの再軍国主義化に対する教会の祝福

確かに、ロシア正教会がロシアの軍国主義の台頭に大きな役割を果たし、ウラジーミル・プーチンのウクライナ侵攻に道を開いたことは、歴史が長く記憶することになるだろう。すでに2009年8月、キリルはセベロドビンスクのロシア造船所で、原子力潜水艦の乗組員に聖母マリアのイコンを贈呈している。ロシアの軍隊は「伝統的な正教会の価値観によって強化される必要がある…そうすれば、我々のミサイルで守るべきものを持つことになるだろう」とキリルは述べている。プーチンとキリルはナショナリストのイデオロギー的価値観を共有しており、彼らの目にはウクライナでの戦争は正当化されるように映る。彼らはキリスト教徒であると主張するが、キリスト教の価値観について語ることはない。キリスト教的倫理観と病院への爆撃、アパートや学校への爆撃、そしてウクライナの民間人への計算された虐待と虐殺については決して語らない。歴史に「このキリスト教徒たちは互いに愛し合っている」と記録されることはないだろう。国民の4分の3が正教徒であると自認するこの国において、プーチンとキリル総主教およびロシア正教会とのパートナーシップは、プーチンの権力と国民的支持を強化するものである。興味深いことに、2022年のロシアのウクライナ侵攻の際、ロシア国外のロシア正教会(ROCOR)の総主教ヒラリオン(カプラール)大司教は、「テレビの過剰視聴、新聞やインターネットのフォローを控え」、「マスメディアによって引き起こされる熱狂に心を閉ざす」よう信徒に求める声明を発表している。声明の中で、彼はウクライナという言葉ではなく、ウクライナの土地という言葉を使い、明らかにウクライナの独立を意図的に否定している。1948年にカナダで生まれたヒラリオンは、東部アメリカやニューヨークを管轄している。クレムリンと密接な関係にあり、ウラジーミル・プーチンとは友好的な関係である。

同性愛嫌悪や反フェミニズムなどの「伝統的価値観」を復活させる

キリル総主教率いる正教会は、プーチン大統領と協力し、「伝統的価値観」の復権に尽力してきた。その「伝統的価値」の中でも重要なものは、同性愛嫌悪と、女性を「産む者」として強く擁護する反フェミニズムである。プーチンが大統領になった1年後のインタビューで、キリルはフェミニズムはロシアを破壊しかねない「非常に危険な」現象であると述べた。ロシアの独立系通信社インタファクスによると、「フェミニズムという現象は非常に危険だと考えている。なぜなら、フェミニスト組織は、女性の疑似自由を宣言しており、それはそもそも、結婚や家族の外で実現されるべきものだからだ」と述べた。プーチンの支持者は、彼はキリスト教ナショナリストであり、自伝で明らかにされているように、1998年に亡くなった母親からの形見である正教会の洗礼十字架をシャツの下に身に着けていると言う。米国の「宗教右翼」の多くにとって、プーチンは世俗主義、特にイスラム教に対するキリスト教文明の権威主義的擁護者として今も賞賛されている。しかし、それは本当にキリスト教的なものなのだろうか。そして、それは本当に文明なのだろうか。ロシアのキリスト教ナショナリズムを象徴する現代的なモニュメントといえば、2020年にロシア国防省によって建設されたモスクワの勝利教会かもしれない。ロシアで3番目に大きな正教会で、クリミア占領後に計画された。ロシアの軍用武器メーカーであるカラシニコフ社が100万個のレンガを寄贈している。教会内のフレスコ画には、中世の戦争から現代の紛争に至るまで、ロシアの戦士たちの偉業が讃美されている。それは、軍事力の非常に粗野な賛美である。イエスの像でさえ、剣を振り回す戦士として描かれている。ステンドグラスのモザイクには、帝政ロシア軍出身の著名な軍事指導者の顔が描かれている。ロシアのキリスト教ナショナリズムは、歪んだキリスト教と乱暴な政治権力という不浄な同盟に支えられている。それは危険なだけでなく、悪である。

著者:歴史神学者、元ルーヴェン大学アメリカン・カレッジ学長、ルーヴェン大学およびゲント大学教授。最新作は『Jean Jadot; Paul’s Man in Washington』(アナザーボイス出版、2021年)。

出典:https://international.la-croix.com/news/religion/russian-christian-nationalism/15989

戦争とプロパガンダ

以下は、Realmediaに掲載された記事の翻訳です。

March 15, 2022

戦争では、真実が最初の犠牲となる。現代ではありがたいことに、YouTube、Twitter、Facebookなどの巨大企業は、たとえその真実が後に間違いであることが判明したとしても、私たちが受け取る情報が真実であることの保証を高めてきた。

私たちのテレビは、国家公認のロシア・トゥデイが見られないことを伝え、スプートニクとともに、Twitter、YouTube、Meta、その他のプラットフォームから削除されたことを伝えている。

YouTubeは、そのシステムが「人々を信頼できるニュースソースにつなぐ」と言うが、その中には国家公認のBBCも含まれている。BBCは、イラクが大量破壊兵器で西側を攻撃する可能性があると言い、アフガニスタンを侵略しなければならず、リビアがバイアグラで住民をレイプしようとしていると報じたことを覚えているだろうか。すべてが嘘だった。

企業の検閲の津波の中で、前例のない犠牲者がこの戦争で出ている。


長年問題なく過ごしてきたグローバル・ツリー・ピクチャーズGlobal Tree Picturesは、突然、オリバー・ストーンの映画「Ukraine On Fire」を「グラフィックコンテンツポリシーに違反したため」YouTubeから削除される事態に見舞われた。

これを受けて、イゴール・ロパトノクIgor Lopatonok監督は著作権者として、Vimeoのリンクから自由に映画をダウンロードする権利を与え、どこに投稿してもよいと発表したが、このリンクも検閲されたようで、現在は機能していない。この映画は、YouTubeのさまざまなアカウントで再投稿されて見ることができ、2014年のウクライナのクーデターに関するいくつかの隠された真実をタイムリーに思い出させてくれるものである。

YouTubeの親会社はGoogleで、その信頼と安全担当ディレクターは、ベン・レンダBen Rendaだが、NATOで戦略プランナーおよび情報マネージャーとして雇われていた人物だ。


アメリカ国民は、イラク国民が砲撃されたように、砲撃されたのです。それは私たちに対する戦争であり、嘘と偽情報と歴史の省略の戦争だった。湾岸戦争が向こうで行われている間に、そういう圧倒的で壊滅的な戦争がここアメリカで行われたのです。- ハワード・ジン

リー・キャンプ – 写真 Real Media


コメディアンで活動家のリー・キャンプ(2019年にReal Mediaがインタビュー)は、過去8年間、風刺番組「Redacted Tonight」を毎週発表し、反帝国主義のニュースをコメディータッチで満載して配信していた。RT Americaが米国の制裁で閉鎖されたとき、彼は巻き添えとでもいうべき形でそこでの仕事を失った。しかし、金曜日、8年間にわたる強烈なインデペンデントな風刺は削除され、彼のチャンネルはYouTubeによって警告なしに閉鎖された。

リー・キャンプの作品の一部は、今のところまだYouTubeで見ることができる。一見の価値ありだ。

キャンペーンを展開中の調査ジャーナリスト、アビー・マーティンAbby Martinは、2012年から2015年までRTアメリカで「Breaking The Set」番組を運営し、その間、ウクライナでのロシアの軍事行動を極めて公然と非難した。その後、彼女はインタビューとドキュメンタリー番組「The Empire Files」を立ち上げ、2018年にアメリカの制裁まで、ベネズエラを拠点とするTeleSurで放送されていた。次にこれは、YouTubeとVimeoでインデペンデントな支援者が資金を提供してシリーズ化された。

彼女のパワフルなドキュメンタリー『Gaza Fights For Freedom』は現在も配信されているが、土曜日に彼女は、キャンプのそれと同様、彼女の作品全体が万能のYouTubeによって予告なしに削除されたことを発表した。


ロイターは、欧米のハイテク検閲の背後にある別の議題を暴露し、Metaプラットフォームが独自のルールを中止し、数十億のFacebookとInstaのユーザーがウクライナのネオナチ・アゾフ大隊を賞賛し(通常は危険な個人と組織に関するポリシーに抵触するので禁止される)、ロシア軍、リーダー、そして市民に対する暴力的脅迫を「その文脈がロシアのウクライナ侵攻にあることが明らかな場合」には許可するという異例の措置を取ったことを明らかにした

Metaの社長であるNick Cleggは、言論の自由を守っているという理由で同社の立場を擁護しているが、これは例外的な状況であることを率直に認めている。明らかに、この言論の自由は、最近の禁止されたユーザーや投稿の嵐には適用されていない。

検閲とプロパガンダは常に戦争の一部であったが、最近の出来事は、一握りの超富裕層のエリートが、我々が見たり共有したりできる情報に口を出すことをより容易なものにしている巨大なハイテク企業の力を露骨に示している。


「現在を支配するものは過去を支配し、過去を支配するものは未来を支配する」 – ジョージ・オーウェル

活動家ラッパーのLowkeyによると、TikTokのヨーロッパ・中東・アフリカ担当ライブストリーム・ポリシー・マネージャーのGreg Andersonは、NATOの「心理作戦」に携わっていたとのことだが、この記事を出稿する時点でこれを独自に確認することはできていない。

調査ジャーナリスト、エイサ・ウィンスタンリーAsa Winstanleは先週、ウクライナのナチスに関するツイートを削除することに同意するまで、自身のツイッターアカウントを停止させられた。彼が投稿したナチスのシンボルをつけたウクライナの女性戦士の画像は、AIによるファクトチェック企業「Logically」によって異議が唱えられたようだが、特に国際女性デーにウクライナ政府のアカウント2つが同じ画像を投稿しているように、彼らは何等きちんとした調査を行なっていない。Logicallyは問い合わせに回答していない。Asaは、このような組織がネット上の自由な発言を阻止する力を持つべきかどうかと問うている。


欧米のメディアは、ウクライナへの侵攻をノンストップで報道し、破壊、難民の殺到、そして非常に多くの悲劇的な個々の人間の物語を紹介している。メディアは、これは私たちの戦争であり、私たちはウクライナと共に立ち向かわなければならないと報じている。

英国が支援するイエメンでのサウジの戦争(Amnestyによれば、約25万人が殺され、1600万人が飢餓に直面している)と比較対照してみてほしい。サウジアラビアに対する厳しい制裁と、いたるところでのメディア報道によって、何百万人もの人々が救われたかもしれないことを想像してほしい。

また、実際に我々の戦争であったアフガニスタンでの報道と比べてみてほしい。ここでも25万人が殺されている。人口の98%が十分な食料を持たず、飢餓に陥っており、300万人の罪のない子供たちが栄養失調に苦しんでいる。


安全保障条約を求めるロシアのこれまでの平和的アプローチを西側諸国が考慮することを拒否していることについて、どれほどの分析、言及があっただろうか。あるいは、ロシアの現在の要求がどのようなものであるのかさえも。ある時点で、私たちは世界大戦と核兵器による全滅の可能性へとエスカレートするか、さもなくば合意に達しなければならない。どうすればそれが実現できるのか、ある程度の見当をつけておくのが合理的ではないだろうか。

最後に、もし欧米のメディアがウクライナの報道のように気候変動に関する報道をしていたらと想像してみよう。相互確証破壊mutually-assured destructionを回避し、平和的解決に至る方法を見つけることができたとしても、我々は緊急かつ根本的に生活様式を再構築し、有限の惑星における無限の経済成長神話を終わらせ、化石燃料の燃焼を止める必要がある。さもなければ、ウクライナは、私たちの周りでほとんど無視されながら展開されている大災害に比べれば、脇役に終わりかねない。

今月初め、アントニオ・グテーレス(国連事務総長)が警告したように、「人類の半分は今、危険地帯に住んでいる」のである。

抗議声明(名古屋:わたしたちの表現の不自由展中止問題)

名古屋市栄の市民ギャラリーで起きた展覧会の中止事件は、2019年の愛知トリエンナーレで中止のきっかけをつくった出来事とよく似ている。問題全体の構造をみると、公的な展示施設や行政vs脅迫・攻撃者という構図は「見かけ」であり、イデオロギーの構図がかすると、公権力と脅迫者の側には心情的な共同性があり(下記の声明では心情的共謀と表現されている)、むしろ展覧会の主催者との対立がはっきりしている。公権力があからさまな違法行為による弾圧を行使することは稀で、たいていは、こうした権力の意向を汲む者たちがテロや暴力の担い手になる。更んにその背景には、いまだに根強い「日本人は正しい」と信じる「日本人」たちの自民族中心主義だ。植民地支配や戦争責任を明確にできていないだけでなく、これらについて議論することすらままならない事態が、学校でも世論を代弁するとされるメディアにおいてもますます強まっている。こうした背景と公権力のサポタージュによる事実上の検閲の行使とは密接に関係している。日本の状況は理性や道理が通用しないナショナリズムに支配されてきたが、それが、もう一段強化されているように思う。しかも、上からだけでなく、下からも。

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2021710

抗議声明

 202176日(火)から711日(日)までの会期で,名古屋市民ギャラリー栄において開催されていた展覧会「私たちの『表現の不自由展・その後』」は,「施設の安全管理のため」という理由で,78日(木)から711日(日)の間,市民ギャラリー栄が臨時休館となり中断させられている。

 その臨時休館の根拠は,市民ギャラリー栄の「職員が郵送された封筒を開けたところ,10回ほど爆竹のような破裂音がした」(東海テレビの報道より)という事態によるものと報じられているが,主催者側には何ら説明もなされていない。そもそも報道によると,問題の郵便物は,「施設職員が警察官立ち会いの下で開封した」(毎日新聞より)のであり,施設職員立会いの下で警察官が中身を検査したり,開封したりしたものではなく,当初より重大な危険性があるという認識ではなかったことがうかがえる。さらに,その後,ギャラリー栄と名古屋市中区役所があるビル全体は閉鎖されてもいない。このような子供だましの脅しに屈し,さらには,正当な理由も説明もなく展覧会を中止に追い込むことは,まさに,犯罪者の思うつぼであり,また,その犯罪行為に加担していることになるだろう。

 名古屋市は,2019年の表現の不自由展の中止の際と同様,行政が果すべき憲法上の責務を果さず,公権力によって十分に対処が可能な軽微な事案を展覧会中止の口実に利用した。今回も全く同様であり,公権力によるサボタージュであり,巧妙に攻撃者の行動を利用して,中止を正当化したものである。名古屋市の対処を客観的に判断するとすれば,攻撃者と名古屋市との間には心情的共謀関係があると判断せざるをえない。とりわけ名古屋市長河村は,いわゆる「従軍慰安婦」をめぐる歴史認識において容認しえない虚偽発言を繰り返し,大村県知事リコール運動の署名偽造についても,その道義的責任すら認めず,新型コロナ対策でも適切な対応をせずに犠牲を拡大するなど,そもそも憲法が義務づけている公権力の担い手としての責任を果していない。河村もまた,名古屋不自由展を中止に追いやりたいと願っている一人であることは間違いないだろう。だからこそ攻撃者と行政の間に心情的共謀がありえると私たちは解釈するのだ。

 直ちに,名古屋市は臨時休館を解除して,展覧会を再開すべきである。

 この展覧会は,あいちトリエンナーレ2019の企画であった「表現の不自由展・その後」が,今回と同様に,脅迫を主な根拠として中断させられたことを契機として企画されたものである。その展示作品の中には,民族差別的主張によって展覧会が中止させられたという経緯を持つものも含まれている。

 また,同時期に東京,大阪において開催予定だった「表現の不自由展」においても,これに反対する人々の大声や街宣車による抗議行動により,会場の使用が取り消され,延期に追い込まれているという状況である。つまり,安易に脅迫に屈するという判断・行動は,その脅迫や民族差別的主張こそが犯罪行為であるにもかかわらず,その実行者の思惑通りの結果を生み,公開することができない作品を作り上げてしまい,不当に公開を妨げる検閲的な行為となっている。このようなことは,絶対に止めなければならない。

 加えて,あいちトリエンナーレ2019における「表現の不自由展・その後」の中止に際しては,多くの平和的行動を取った市民による46000筆超の展示再開を求める署名が提出されているが,愛知県,名古屋市ともに,これらを全く無視してきた。その一方で,展覧会に反対する側のちゃちな脅しに屈して,次々と展覧会を中止に追い込むとは,いったい,どういう了見なのだ。

 これは,あいちトリエンナーレ2019における事態に続く「文化テロ」である。テロの脅しに絶対屈しないと主張したのは,日本政府ではなかったか。であるならば,「文化テロ」に屈しない姿を見せるためにも,名古屋市は,展示を再開すべきなのだ。

art4all

artinopposition

Artstrike

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art4all

art4allは,あいちトリエンナーレ2019における「表現の不自由展・その後」の検閲に際し,再開を求める運動を開始し,その後も表現の自由を求める活動を続けている。

artinopposition

artinoppositionは,歴史的・社会的にも忘却されてしまう状況に抗い,問題提起を促し,アートの表現とは何なのか,なぜ表現があるのかを・思考・する場である。

Artstrike

Artstrikeは,1986年の富山県立近代美術館における検閲事件を契機として始まった運動である。

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連絡先:jun@artstrike.info

Spotifyはスパイするな:180以上の音楽家と人権団体のグローバル連合が音声認識技術に反対の立場を表明

以下はAccessNowのウェッブに掲載された共同声明の訳です。コンピュータによる生体認証技術の高度化のなかで、アートや文化の世界でもAIへの関心が高まり、こうした技術が一方で深刻な監視や個人の識別と選別、あるいは収益源としてのデータ化への危険性がありながら、他方で、これを「面白い」技術とみなして遊ぶような安易な考え方も広がりかねないところにあると思う。監視を逆手にとったアート作品は最近も増えているが、こうした作品が果した監視資本主義を覆す力になっているのかといえばそうとはいえず、ギャラリー空間という人工的な安全な空間のなかで監視されるという不愉快な経験を参加型の表現行為に昇華させて文化的な快楽へと転移させてしまう。Apotifyが音楽でやろうとしていることはこうした文脈のなかでみる必要もあると思う。多くの音楽ファンがAIによる価値判断を肯定的に受け入れ、これを前提とした作品の制作や聴衆の選別を促すような音楽産業の商品生産によって、音楽文化そのものが既存の偏見を再生産する文化装置となる。こうしたことが音楽文化の周辺部である種のサブカルチャーとして登場しつつ次第にメインストリームにのしあがることで、支配的なイデオロギー装置の一翼を担うようになる。これまでのテクノロジーと文化がたどった途はこれだった。この途の初っ端で、まったをかける動きが登場したことがせめてもの救いだが、こうした動きに日本のアーティストがどのように呼応するだろうか。


Spotifyはスパイするな:180以上の音楽家と人権団体のグローバル連合が音声認識技術に反対の立場を表明
2021年5月4日|午前5時30分
Lea en español aquí.

本日、「アクセス・ナウ」、「ファイト・フォー・ザ・フューチャー」、「ユニオン・オブ・ミュージシャン・アンド・アライド・ワーカーズ」をはじめとする世界中の180以上の音楽家や人権団体の連合体は、スポティファイに対し、新しい音声認識特許技術を使用、ライセンス、販売、収益化しないことを公約するよう求める書簡を送った。

Spotifyは、この技術によって「感情の状態、性別、年齢、アクセント」などを検知し、音楽を推奨することができると主張している。この技術は危険であり、プライバシーやその他の人権を侵害するものであり、スポティファイやその他の企業が導入すべきものではない」と述べている。

2021年4月2日、Access NowはSpotifyに書簡を送り、同社に特許技術の放棄を求めた。2021年4月15日、SpotifyはAccess Nowの書簡に対し、同社が 「特許に記載された技術を当社の製品に実装したことはなく、その予定もない 」と回答した。

当連合体は、Spotifyが現在この技術を導入する予定がないと聞いて喜んでいるが、なぜSpotifyはこの技術の使用を検討していたのか、という疑問が生じる。仮にSpotifyがこの技術を使用しないとしても、他の企業がこの技術を導入すれば、Spotifyはこの監視ツールから利益を得ることができる。この技術を使用することは許されない。

Access Nowの米国アドボカシーマネージャーであるJennifer Brody (she/her)は、「Spotifyは、危険な侵襲的技術を導入する予定はないと主張しているが、それはほとんどごまかしにすぎない。」「同社が実際に人権保護へのコミットメントを示したいのであれば、有害なスパイウェアの使用、ライセンス供与、販売、または収益化しないことを公に宣言する必要がある」と述べている。

「手紙に署名したミュージシャンでFight for the FutureのディレクターであるEvan Greer (she/they)は、「訛りから音楽の趣味を推測したり、声の響きから性別を判別できると主張するのは、人種差別的でトランスフォビア的で、ただただ不気味だ」と述べていまる。「Spotifyは、今すぐにこの特許を使用する予定はないと言うだけでは不十分で、この計画を完全に中止することを約束する必要がある。彼らは、ディストピア的な監視技術を開発するのではなく、アーティストに公正かつ透明性のある報酬を支払うことに注力すべきだ」と述べている。

Rage Against the MachineのギタリストであるTom Morello (he/him)は、この手紙に署名し、「企業の監視下に置かれていては、ロックをプレイできない。Spotifyは今すぐこうしたことをやめて、ミュージシャン、音楽ファン、そしてすべての音楽関係者のために正しい行動をとるべきだ。」と述べた。

Speedy OrtizとSad13のメンバーであり、音楽家・関連労働者組合のメンバーであるSadie Dupuis (she/her)は、「不気味な監視ソフトウェアの開発に無駄なお金を使う代わりに、Spotifyはアーティストに1ストリームあたり1円を支払うことと、すでに収集している私たち全員のデータについてより透明性を高めることに注力すべきだ」と述べている。

「Spotifyは現在、この侵略的で恐ろしい技術を使用する予定はないという保証だけでは十分ではない。広告を提供し、プラットフォームをより中毒性のあるものにするために、彼らは特に性別、年齢、訛りなどで監視し、差別するための特許を申請した。Spotifyは、この技術の前提を完全に否定し、音声認識特許の使用、ライセンス供与、販売、収益化を絶対に行わないことを約束しなければならない」と、Fight for the Futureのキャンペーン・コミュニケーション・ディレクター、Lia Holland (she/they)は述べていまる。「私たちの世界的なアーティスト、パフォーマー、組織の連合体は、監視資本主義とそれが永続させる不正なビジネスモデルに嫌悪感と不安を抱いている。Spotifyは、音声認識のことは忘れ、その鍵を捨てなければならない」。

Access Now」と「Fight for the Future」が企画したこの書簡には、アムネスティ・インターナショナル、Color of Change、Mijente、Derechos Digitales、Electronic Privacy Information Center、Public Citizen、American-Arab Anti-Discrimination Committeeなどの人権団体が署名している。

署名したミュージシャンには、Tom Morello (Rage Against the Machine), Talib Kweli, Laura Jane Grace (Against Me!), of Montreal, Sadie Dupuis (Speedy Ortiz, Sad13), DIIV, Eve 6, Ted Leo, Anti-Flag, Atmosphere, Downtown Boys, Anjimile, illuminati hotties, Mirah Yom Tov Zeitlyn, The Blow, AJJ, Kimya Dawsonなど。


以下書簡の全文の訳です。

https://www.accessnow.org/cms/assets/uploads/2021/05/Coalition-Letter-to-Spotify_4-May-2021.pdf

2021年5月4日
Daniel Ek
共同創業者兼CEO、Spotify
Regeringsgatan 19
SE-111 53 ストックホルム
スウェーデン
親愛なるEk氏。
私たちは、最近承認されたSpotifyの音声認識特許に深く憂慮している世界中の音楽家や人権団体のグループとして、あなたに手紙を書きます。
スポティファイは、この技術により、特に「感情の状態、性別、年齢、アクセント」を検出して音楽を推薦できると主張しています。この推薦技術は危険であり、プライバシーやその他の人権を侵害するものであり、スポティファイやその他の企業が導入すべきものではありません。
この技術に関する私たちの主な懸念事項は以下の通りです。

感情の操作
感情の状態を監視し、それに基づいて推薦を行うことは、この技術を導入した企業が、ユーザーに対して危険な権力を持つことになります。

差別
トランスジェンダーやノンバイナリーなど、性別の固定観念にとらわれない人を差別せずに性別を推測することは不可能です。また、訛りから音楽の好みを推測することは、「普通」の話し方があると仮定したり、人種差別的な固定観念に陥ることなく行うことはできません。

プライバシーの侵害
このデバイスは、すべてを記録しています。監視し、音声データを処理し、個人情報を取り込む可能性があります。また、「環境メタデータ」も収集されます。これは、Spotifyが聞いていることを知らない他の人々が部屋にいることをSpotifyに知らせる可能性があり、彼らについての差別的推論に使用される可能性があります。

データセキュリティ
個人情報を取得することにより、この技術を導入した企業は、政府機関や悪意のあるハッカーの監視対象となる可能性があります。

音楽業界の不公平感の増大
人工知能や監視システムを使って音楽を推薦することは、音楽業界における既存の格差をさらに悪化させることになります。音楽は人と人とのつながりのために作られるべきであり、利益を最大化するアルゴリズムを喜ばせるために作られるべきではありません。

ご存知の通り、2021年4月2日、Access NowはSpotifyに書簡を送り、特許に含まれる技術はプライバシーやセキュリティに重大な懸念をもたらすため、放棄するよう求めました。
2021年4月15日、SpotifyはAccess Nowの書簡に対し、「特許に記載されている技術を当社の製品に実装したことはなく、その予定もありません」と回答しました。
Spotifyが現在この技術を導入する予定がないと聞いたことは喜ばしいことですが、なぜこの技術の使用を検討しているのかという疑問があります。私たちは、御社がレコメンデーション技術を使用、ライセンス、販売、収益化しないことを公に約束することを求めます。Spotifyが使用していなくても、他の企業がこの監視ツールを導入すれば、貴社は利益を得ることができます。この技術のいかなる使用も容認できません。
2021年5月18日までに、私たちの要求に公に回答していただくようお願いします。
敬具。

Artists: Abhishek Mishra The Ableist AGF Producktion OY AJJ Akka & BeepBeep And Also Too Andy Molholt (Speedy Ortiz, Laser Background, Coughy) Anjimile Anna Holmquist (Ester, Bad Songwriter Podcast) Anti-Flag Aram Sinnreich A.O. Gerber Ben Potrykus (Bent Shapes, Christians & Lions) The Blow Catherine Mehta Charmpit Coven Brothers Curt Oren Damon Krukowski Daniel H Levine DIIV Don’t do it, Neil Don’t Panic Records & Distro Downtown Boys Eamon Fogarty Elizabeth C ella williams Evan Greer Eve 6 Flobots Fureigh Generacion Suicida Get Better Records Gordon Moakes (ex-Bloc Party/Young Legionnaire) Gracie Malley Guerilla Toss Harry and the Potters Hatem Imam Heba Kadry Human Futility The Homobiles The Hotelier illuminati hotties Isabelle jackson itoldyouiwouldeatyou Izzy True Jacky Tran Jake Laundry Joanie Calem Johanna Warren Kal Marks Ken Vandermark Kevin Knight (Nevin Kight) Khyam Allami Kimya Dawson Kindness Kliph Scurlock (The Flaming Lips) La Neve Landlady Laura Jane Grace Leil Zahra Lemon Tree Records Liliane Chlela Liz Ryerson Locate S,1 Lyra Pramuk Making Movies Man Rei Maneka Marshall Moran Mason Feurer Mason Lynass – Twenty Ounce Records Mirah Yom Tov Zeitlyn of Montreal My Kali magazine Nate Donmoyer Nedret Sahin – Mad*Pow Nick Levine / Jodi Norjack not.fay OLVRA Paramind Records Pedro J S Vieira de Oliveira Phirany Pile Pujol Rayan Das Sadie Dupuis (Speedy Ortiz, Sad13) Sam Slick The Shondes Slug (Atmosphere) So Over It Sound Liberation Front Stella Zine Stevie Knipe (Adult Mom) STS9 Sukitoa o Namau Suzie True Taina Asili Talib Kweli Tamra Carhart Tara Transition Ted Leo Thom Dunn / The Roland High Life Tiffany, Okthanks Tom Morello Yoni Wolf

Organizations: 18 Million Rising AI Now Institute, NYU Access Now Advocacy for Principled Action in Government American-Arab Anti-Discrimination Committee (ADC) Amnesty International Article 19 Center for Digital Democracy Center for Human Rights and Privacy Citizen D / Državljan D Color of Change Conexo Creative Commons Uruguay Cyber Collective Damj, The Tunisian Association for Justice and Equality Datos Protegidos Demand Progress Education Fund Derechos Digitales Encode Justice Electronic Privacy Information Center (EPIC) Electronic Frontier Norway epicenter.works EveryLibrary Fight for the Future Fundación Acceso Fundación Huaira Fundación InternetBolivia.org Global Voices Gulf Centre for Human RIghts (GCHR) Heartland Initiative Hiperderecho Homo Digitalis Independent Jewish Voices INSMnetwork – Iraq Instituto Brasileiro de Defesa do Consumidor (IDEC). Instituto para la Sociedad de la Información y Cuarta Revolución Industrial (Peru) IPANDETEC Centroamérica ISUR, Centro de Internet y Sociedad de la Universidad del Rosario IT-Pol Denmark Japanese American Citizens League Kairos Masaar – Technology and Law Community Massachusetts Jobs with Justice Mawjoudin for Equality MediaJustice Mijente Mnemonic Mozilla Foundation National Black Justice Coalition National Center for Lesbian Rights National Center for Transgender Equality OpenMedia Open MIC (Open Media & Information Companies Initiative) PDX Privacy PEN America Presente.org Privacy Times Public Citizen R3D: Red en Defensa de los Derechos Digitales Ranking Digital Rights #SeguridadDigital Simply Secure Sursiendo, Comunicación y Cultura Digital SMEX Taraaz TEDIC Union of Musicians and Allied Workers Venezuela Inteligente X-Lab

Individuals: Caroline Sinders, Founder, Convocation Design + Research Gus Andrews, Digital Protection Editor at Front Line Defenders Jessica Huang, Fellow, Harvard Kennedy School Joseph Turow, University of Pennsylvania Professor and Author of The Voice Catchers Justin Flory, UNICEF Office of Innovation Michael Stumpf, Scholar, Systems biology Dr. Sasha Costanza-Chock, Researcher, Algorithmic Justice League Tonei Glavinic, Director of Operations, Dangerous Speech Project Valerie Lechene, Professor, University College London Victoria Barnett, Former Director of Ethics, Holocaust Museum

4/9より「黒く塗れ!」展開催!

以下、「黒く塗れ!」展からのお知らせを転載します。


★タイトル:
黒く塗れ! -名古屋市の技法による-

★期日:
2021年4月9日(金)~11日(日) 11時~17時(11日のみ12時開場)

★会場:
名古屋市市民ギャラリー栄
名古屋市中区栄四丁目1番8号 中区役所平和不動産共同ビル7階
TEL 052-265-0461 FAX 052-265-0449
アクセス https://www.bunka758.or.jp/scd18_access.html
地下鉄東山線・名城線「栄」下車 12番出口東へ徒歩1分
市バス「栄」下車 徒歩5分

★協力:
大浦信行・art4all・Art in Opposition

★詳細情報:
http://www.artstrike.info/

★問合せ:
jun@artstrike.info

【「黒く塗れ!」展について】
名古屋市は,あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」に関して,河村名古屋市長から大村愛知県知事に対して提示された公開質問状を,2019年9月20日に同市のウェブサイトで公開した(PDF形式)。

あいちトリエンナーレ2019にかかる愛知県知事への公開質問状について(名古屋市2019年9月20日)
https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/page/0000121114.html

この公開質問状は,大浦信行の作品「遠近を抱えて Part II」について,『昭和天皇の肖像写真を、意図的にバーナーで燃やした上で、その灰を靴で踏みつける動画作品』で,『天皇の肖像写真を明らかに冒とく・陵辱する暴力的なモチーフの作品』と説明した。そして,作品の具体的な場面について,当時,YouTubeで公開されていた動画から静止画を切り取り,その画像2点を掲載している(引用元の動画は,公開質問状にYouTubeの共有URLが示されているが,2021年の現時点では,著作権侵害の申し立てがあったという理由で削除されており確認できない)。

ただし,その2点の画像のうち,昭和天皇の肖像写真を含んだ印刷物が『バーナーで燃やされる』と注釈をつけた画像では,わざわざ天皇の姿が黒く上塗りされており,『(肖像部分黒塗り)』と説明がある。これは一体どういうことなのか。公開質問状は,天皇の肖像写真を燃やす行為について,強烈な嫌悪を示しているにもかかわらず,その同じ文書の中で,自ら,昭和天皇の肖像を黒く塗りつぶすという表現を行っている。焼却するのは冒とくだが,黒塗りはそうではないのか。

一方,私は,1994年に川崎市市民ミュージアムで開催された「ファミリー・オン・ネットワーク」展において,天皇と皇族の肖像に目線(目隠し線)をほどこした画像を制作して検閲にあったが,それでは,目だけではなく肖像全体を黒く塗りつぶしていたら,検閲を回避はできたというのか。

富士ゼロックス事件(artscape アートワード現代美術用語辞典 1.0 執筆者:暮沢剛巳)
https://artscape.jp/dictionary/modern/1198657_1637.html

にわかに理解不可能なこの表現形態について,実際に,昭和天皇の肖像を黒く塗りつぶす行為を実践することで,解き明かしてみようと思う。皆さんも一緒に,天皇の肖像を黒く塗って考えてほしい。

なお,公開質問状は,『公共施設で展示する「芸術」の範疇』を問うていることから,その主体である名古屋市の公共施設「市民ギャラリー栄」において,当の公開質問状の持つ意味について考える本展覧会を開催することにした。

大榎 淳

Facebook、Twitter、YouTubeへの公開書簡。中東・北アフリカの批判的な声を黙らせるのはやめなさい

以下の声明は、「アラブの春」10周年にあたり、複数の団体が、現在中東や北アフリカ地域で恒常化しているプラットーム企業(FacebookやTwitter、Youtubeなど)が反政府運動や人権活動家のSNSでの発信を規制したり排除する事態になっていることに対する憂慮として出されました。いくつかの事例が例示されていますが、これら氷山の一角といわれている出来事だけをとっても非常に深刻です。しかも声明で指摘されているように世界規模で権威主義的な政権が拡大をみせており、中東北アフリカで起きていることはこの地域の例外とはいえないでしょう。私たちがこうした問題を考えるときに大切なことは、プラットーム企業は日本でも多くのユーザを抱えており、またアクティビストにとっても必須ともいえるコミュニケーションのツールになっているという点です。その結果として、プラットーム企業への運動の依存が、プラットーム企業の権威的な価値を支えてしまうという側面があります。FacebookやTwitterで拡散することが確かに運動を多くの人々に知ってもらうための道具として便利であり、そうであるが故に、これらの企業が私たちから隠された場所で、密かに権威主義的な政府と密通して活動家やジャーナリストの自由を奪うことに加担しているという側面を、事実上黙認しがちです。私たちがSNSなどの道具とどのように向き合い、どのように彼らからそのコンテンツ・モデレーターとしての権力を奪い返すかが課題になるでしょう。こうした課題を(これまでの通例ではありがちですが)法に代表されるような公的な規制に服させるかという方向で模索することももはやできなくなりつつあります。なぜなら多くの国もまた権威主義的になっており、法の支配や民主主義は私たちの権利のためには機能しないようになりつつあるからです。SNSの時代に、グローバルなプラットーム企業と権威主義国家の二つの権力に対して私たちの社会的平等と自由を構想するためには、たぶん、これまでにはなかった権利をめぐるパラダイムが必要になると思います。(訳者:小倉利丸)


画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: Arab-spring-10-anniversary-platform-responsibility-post-header-1024x260.jpg Facebook、Twitter、YouTubeへの公開書簡。中東・北アフリカの批判的な声を黙らせるのはやめなさい。

2020年12月17日|午前10時00分

10年前の今日、チュニジアの26歳の露天商モハメド・ブウアジジは、不公平と国家によるマージナライゼーションに抗議しテ焼身自殺し、これがチュニジア、エジプトなど中東や北アフリカ諸国の大規模な反乱に火をつけました。

アラブの春の10周年を迎えるにあたり、私たち、署名した活動家、ジャーナリスト、人権団体は、プラットフォーム企業のポリシーやコンテンツのモデレーション手続きが、中東と北アフリカ全域で、疎外され、抑圧されたコミュニティの批判的な声を黙らせ、排除することにつながることがあまりにも多いことに対して、私たちは不満と落胆を表明するために結集しました。

アラブの春は多くの理由から歴史的な出来事であり、その傑出した遺産の一つは、活動家や市民がソーシャルメディアを使っていかにして政治的変化と社会正義を推し進め、デジタル時代における人権の不可欠な成功要因としてインターネットを確たるものにしたのかということにあります。

ソーシャルメディア企業は、人々をつなぐ役割を果たしていると自負しています。マーク・ザtッカーバーグが2012年に創業者の有名な書簡のなかでで「人々に共有する力を与えることで、人と人とを結びつける役割を果たす」として次のように書いています。

「人々に共有する力を与えることによって、歴史的に可能になったことは、様々な規模で人々の声を聞くことができるようになってきたということです。このような声は数も量も増えていくでしょう。無視することはできません。時間が経てば、政府は少数の人々によって支配されているメディアを介するのではなく、すべての人々によって直接提起された問題や懸念に対して、より一層応答するようになると予想されます」。

ザッカーバーグの予測は間違っていました。それどころか、世界中で権威主義を選択する政府が増え、プラットフォーム企業は、抑圧的な国家元首と取引をしたり独裁者に門戸を開いたり、主要な活動家やジャーナリスト、その他のチェンジメーカーを検閲したり、時には他の政府からの要請に応じて、彼らの抑圧に貢献してきました。たとえば、

チュニジア:2020年6月、Facebookはチュニジアの活動家、ジャーナリスト、音楽家の60以上のアカウントを、ほとんど確証が得られないという理由で永久的に無効化しました。市民社会団体の迅速な反応のおかげで、多くのアカウントは復活しましたが、チュニジアのアーティストやミュージシャンのアカウントはいまだに復活していません。私たちはこの問題についてFacebookに共同書簡を送りましたが、公的な反応は得られませんでした。 シリア:2020年初頭、シリアの活動家たちは、テロリストのコンテンツを削除することを口実に、2011年以降の戦争犯罪を記録した数千もの反アサドのアカウントやページを削除/無効化するというFacebookの決定を糾弾するキャンペーンを開始しました。訴えにもかかわらず、それらのアカウントの多くは停止されたままです。同様に、シリア人は、YouTubeが文字通り自分たちの歴史をいかに消し去っているのかを記録しています。 パレスチナ:パレスチナの活動家やソーシャルメディアのユーザーは、2016年からソーシャルメディア企業の検閲行為に対する注意喚起ののキャンペーンを行ってきました。2020年5月には、パレスチナの活動家やジャーナリストのFacebookアカウントが少なくとも52件停止され、その後もさらに多くのアカウントが制限されています。Twitterは、確認がとれているメディア機関Quds News Networkのアカウントを停止し、同機関がテロリストグループと関連している疑いがあると報じました。この問題を調査するようTwitterに要請しても、回答は得られていません。パレスチナのソーシャルメディアユーザーは、差別的なプラットフォームポリシーについて何度も懸念を表明しています。 エジプト:2019年10月初旬、Twitterはエジプトでのシーシー政権抗議デモの噴出を直接受けて、エジプトと国外にに住む離散エジプト人反体制派のアカウントを一斉に停止しました。Twitterは2017年12月に35万人以上のフォロワーを持つ1人の活動家のアカウントを一時停止し、そのアカウントはいまだに復活されていません。同じ活動家のフェイスブックのアカウントも2017年11月に停止され、国際的な介入を受けて初めて復活しました。YouTubeは2007年以前に彼のアカウントを削除しています。

このような例はあまりにも多く、これらのプラットフォームは彼らのことを気にかけておらず、懸念が提起されたときに人権活動家たちを保護できないことが多く、このことは、中東北アフリカ地域とグローバル・サウスの活動家やユーザーの間で広く共有されている認識となっています。

恣意的で透明性のないアカウントの停止や政治的言論や反対意見の言論を削除することは、非常に頻繁かつ組織的に行われるようになっており、これらは一回だけの事でもなければ自動化された意思決定のなかで生じる一過性のエラーだとは言い切れません。

FacebookやlTwitterは、(特に米国と欧州の)活動家や人権団体といった民間の人権擁護者の世論の反発に迅速に対応する一方で、ほとんどの場合、中東北アフリカ地域の人権擁護者への対応は十分とはいえません。エンドユーザーは、どのルールに違反したかを知らされていないことが多く、人間のモデレーターに訴える手段が提供されていません。

救済と改善は、権力にアクセスできる者や声を上げることができる者だけの特権であってはなりません。こうした現状を黙認することはできません。

中東北アフリカ地域は、表現の自由に関する世界で最悪の記録を保持しており、ソーシャルメディアは、人々が繋がり、組織化し、人権侵害や虐待を記録するのを支援する上で重要であり続けています。

私たちは、抑圧されたコミュニティでの語りや歴史への検閲や削除に加担しないよう強く求め、地域全体のユーザーが公平に扱われ、自由な自己表現ができるようにするために、以下の措置を実施するよう求めます。

・恣意的・不当な差別を行わないこと。地域の利用者、活動家、人権専門家、学者、中東北アフリカ地域の市民社会と積極的に関わり、異議申し立てへの検証を行うこと。政策、製品、サービスを実施、開発、改訂する際には、地域の政治的、社会的、文化的な複数の文脈やニュアンスを考慮しなければなりません。 ・中東・北アフリカ地域における人権の枠組みに沿った文脈に基づいたコンテンツのモデレーションの決定を開発し、実施するために、必要となる地域や地域の専門知識に投資すること。 最低限必要なのは、アラブ22カ国の多様な方言やアラビア語の話し方を理解しているコンテンツ・モデレーターを雇うことでしょう。これらのモデレーターには、安全かつ健全に、上級管理職を含む仲間と相談しながら仕事をするのに必要なサポートが提供されるべきです。 ・コンテンツの修正の決定が、疎外されたコミュニティを不当に標的にしないために、戦争や紛争地域から発生した事例に特別な注意を払うこと。例えば、人権の誤用や人権侵害の証拠となる文書は、テロリストや過激派のコンテンツを広めたり賛美したりすることとは異なる合法的な活動です。テロリズムに対抗するためのグローバル・インターネット・フォーラムへの最近の書簡で指摘されているように、テロリストや暴力的過激派(TVEC)のコンテンツの定義と節度については、より透明性が必要です。 ・Facebookが利用できないようにしている戦争・紛争地域で発生した事件に関連する制限付きコンテンツは、被害者および加害者に責任を問おうとする組織にとって証拠となる可能性があるため、保存されるべきです。このようなコンテンツが、国際司法当局や国内司法当局に不当に遅延させられることなく提供されるべきです。 ・技術的な誤りに対する公式の謝罪だけでは不十分であり、間違ったコンテンツのモデレーションが修正されなければなりません。企業は、より一層の透明性と告知を提供し、ユーザーに有意義でタイムリーなアピールを提供しなければなりません。Facebook、Twitter、YouTubeが2019年に支持した「コンテンツモデレーションにおける透明性と説明責任に関するサンタクララの原則」は、直ちに実施すべき基本的なガイドラインを示しています。

署名

Access Now

Arabic Network for Human Rights Information (ANHRI)

Article 19

Association for Progressive Communications (APC)

Association Tunisienne de Prévention Positive

Avaaz

Cairo Institute for Human Rights Studies (CIHRS)

The Computational Propaganda Project

Daaarb — News — website

Egyptian Initiative for Personal Rights

Electronic Frontier Foundation

Euro-Mediterranean Human Rights Monitor

Global Voices

Gulf Centre for Human Rights, GC4HR

Hossam el-Hamalawy, journalist and member of the Egyptian Revolutionary Socialists  Organization

Humena for Human Rights and Civic Engagement

IFEX

Ilam- Media Center For Arab Palestinians In Israel

ImpACT International for Human Rights Policies

Initiative Mawjoudin pour l’égalité

Iraqi Network for Social Media – INSMnetwork

I WATCH Organisation (Transparency International — Tunisia)

Khaled Elbalshy, Editor in Chief, Daaarb website

Mahmoud Ghazayel,  Independent

Marlena Wisniak, European Center for Not-for-Profit Law

Masaar — Technology and Law Community

Michael Karanicolas, Wikimedia/Yale Law School Initiative on Intermediaries and Information

Mohamed Suliman, Internet activist

My.Kali magazine — Middle East and North Africa

Palestine Digital Rights Coalition, PDRC

The Palestine Institute for Public Diplomacy

Pen Iraq

Quds News Network

Ranking Digital Rights

Dr. Rasha Abdulla, Professor, The American University in Cairo

Rima Sghaier, Independent

Sada Social Center

Skyline International for Human Rights

SMEX

Soheil Human, Vienna University of Economics and Business / Sustainable Computing Lab

The Sustainable Computing Lab

Syrian Center for Media and Freedom of Expression (SCM)

The Tahrir Institute for Middle East Policy (TIMEP)

Taraaz

Temi Lasade-Anderson, Digital Action

Vigilance Association for Democracy and the Civic State — Tunisia

WITNESS

7amleh — The Arab Center for the Advancement of Social Media

出典:https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/facebook-twitter-youtube-stop-silencing-critical-voices-mena_jp/ 英語原文:https://www.accessnow.org/facebook-twitter-youtube-stop-silencing-critical-voices-mena/

付記:下訳にhttps://www.deepl.com/translatorを使いました。

学術会議と憲法あるいは学問の自由について

以前このブログに書いた学術会議への批判に対して、いくつか批判をいただいた。批判のひとつひとつについて逐一答えるというよりも、前回のブログで書けなかったことを書くことで、たぶん私の答えになると思う。

(1)学術会議と憲法の学問の自由について

菅による学術会議のメンバー任命拒否が、憲法の学問の自由の侵害だという主張がある。しかし、まず学術会議という組織は憲法の学問の自由とどのような関係にあるのかをみるべきだろう。学術会議は、憲法の学問の自由の権利を擁護し、この自由の枠組みに対する政府による介入から学問の自由を防衛するような役割を担うものとなっているのだろうか。

そもそも学問の自由とは何か、について憲法では最小限のことしか語っていない。この最小限の規定しかされていないことが実は自由にとって本質的に重要な意味をもつ。学問の自由は憲法23条に独立した条文として掲げられている。

第23条 学問の自由は、これを保障する。

いわゆる「国民の権利」の諸条文、12条、13条、22条、29条はいずれも「公共の福祉に反しない限り」など「公共」の制約が明記されているが、23条は19条、20条、21条とともに、この限定がない。「国民の権利」に関する条文は、意図的に「公共」という制約を課した条文と、この制約を課していない条文とにはっきり分れている。

23条に「公共の福祉に反しない限り」といった制約がないということを積極的な意義としてとらえる必要がある。このシンプルな条文のシンプルさは非常に重要だ。憲法学者や政治学者の議論は別にして、この国の為政者たちが「公共」を国益と同義とする現実は特殊なことではなく資本主義社会の権力のあり方一般にみいだされる傾向である。この国益=「公共」の支配的な用法を前提にして言えば、学問の自由や21条の集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由が、「公共」という制約のない条文になっているという意味は、国益=「公共」に反することがあってもよい、ということが積極的に含意されているとみなければならないだろう。そうでなければ、そもそも「公共」という文言を意図的に外した意義が失なわれる。とすれば、問題は、どのように「公共」から逸脱すべきなのかということになるが、言うまでもなく、国家が規定する「公共」に反しつつも、そのほかの憲法が保障する自由の権利と抵触すべきではなく、より積極的に言えば、これら自由の権利を拡張するような性質のものとして、学問の自由は権利として保障されるべきだ、ということでなければならないだろう。ヘイトスピーチやレイシストが言論の自由などをもちだしたり、あるいは学問の自由を口実に軍事安全保障や自由を抑圧する監視技術の研究を行う自由の主張は、自由の本来の意味には含まれない。個人としての尊重と、人種、信条、性別、社会的身分又は門地、政治的、経済的又は社会的関係において、差別を肯定しない社会的平等としての自由のための学問の自由であって、だからこそ、自由と深く関わる領域で制度や組織を置くことは自由の防衛になるとは必ずしもいえないのであって、むしろ、個々の研究者が組織や制度に依存することなく、政府が支配的なイデオロギーとして掲げる「公共」に抗う権利を行使できることこそが学問の自由にとって重要な意味をもつものだと言わなければならない。

同時に、自由という概念と、憲法すらそのなかに含まれる統治の規範や制度は、どのようなものであれ自由を制約する、ということも忘れられがちだ。絶対自由というものがありうるとすれば、一切の制度や規範が存在しない状態でなければ可能とはいえないが、こうした意味での絶対自由は、人間が社会を構成せざるをえない以上、少なくとも私の想像できる範囲では、実現不可能だ。制度や規範は人間の集団にとって不可避である。しかし、そうだとして、自由との関係でいえることがあるとすると、最大限の自由を確保するためには、規範や制度は少い方がいい、ということになる。資本主義社会では、新自由主義を規制緩和だから規範や制度を削減する「自由主義」的な発想だと見なすが、これは間違っている。新自由主義は国家の制度を市場の制度に置き換える立場であって、制度や規範の縛りが「減る」わけではなく、国家の代りに市場が人々の自由を縛る、自由を縛る縛り方が変るだけのことだ。

さて学術会議だが、学術会議もひとつの制度であり、上の原則を当てはめれば、存在するより存在しない方が自由の幅は拡がる、ということになる。しかし、本当に存在しない方が自由の幅を拡げることになるのだろうか?このことを検証するためには、学術会議のルールと学術会議がやってきたことを検証しなければならないだろう。学術会議が権利として憲法が保障する自由の権利を拡げる役割を果してきたのだろうか。前に書いたように、少なくとも、私自身の利害に関することでいえば、学術会議は、私の教育と学問の自由とはあいいれない立場をとった「大学教育の分野別質保証のための 教育課程編成上の参照基準」(以下参照基準と書く)を文科省に提出したという点だけでも、私個人にとっては学問の自由を制約する組織だと言わざるをえない。

(2) 学術会議は学者の「国会」ではない

私が参照基準問題を重視するのは、単に、私個人の問題というわけではないことは前にも書いたが、そこに書かなかったことを補足したい。参照基準が決定されて文科省に提出されるプロセスそのものに問題があったと思うのだ。参照基準は全ての大学教育に利害関係のある人々に関わる問題である。にもかかわらず、私の知る限りでは、参照基準の決定にこうした利害関係者の合意をとるという手続きがとられたことはない。

大学教育の利害関係者とは、大学で教育を担当する常勤、非常勤を問わず、すべての教員、研究者、職員を意味するだけでなく、あえてネオリベラリスト風に言えば「教育サービス」の受益者でもある学生もまた重要な利害関係者であることは言うまでもない。大学教育のカリキュラムはこうした人々全てに関わる問題であるにも関わらず、圧倒的多数の教員と全ての学生がこの参照基準の議論に関与しておらず、合意形成の枠組のなかにもいなかった。

「朝日新聞」10月1日では

「日本学術会議は、人文・社会科学や生命科学、理工など国内約87万人の科学者を代表し、科学政策について政府に提言したり、科学の啓発活動をしたりするために1949年に設立された。「学者の国会」とも言われる。」

というふうに学術会議の性格を規定している。NHK10月2日の報道も「「学者の国会」日本学術会議 6人の任命求め総理宛に文書提出へ」という見出しだ。しかし、学術会議を国会にたとえることが妥当なような選考方法は、法律にも下位の規則などでにも規定されていない。朝日は87万人というが、このなかには誰が含まれているのか、どのようにして代表を民主的に選考していうのか、といったことを理解して書かれた記事なのか。後に再度言及するが、代表選考にふさわしい選出方法にはなっていないと思う。このように書くと、学術会議を政権の思いのままにしたい菅政権や学術会議批判を繰り返す右派メディアやネトウヨの思う壺だと思う人たちもいるだろうが、わたしはそうは思わない。彼らは文字通りの意味での利害関係者全体による合意形成の民主主義など欲していないからだ。しかし、他方で、文字通りの民主的な手続きをとれば政権に批判的で民主的な研究者が選ばれるとも思わない。大学全体が保守化して企業や政府とのパートナーシップを積極的に受けいれる体質が強くなっているなかで、むしろ逆になる可能性のほうが高いが、そうした政権や保守派に有利な状況であっても官僚のコントロールが難しい民主主義を政権は好まないと思う。こうした問題も含めて、学術会議が文字通りの意味で学問の自由、市民運動や左派の目指す社会の実現に寄与するような団体であるのかどうかという評価を棚上げにして、任命拒否の一点に焦点を絞る運動方針を市民運動の方針とはしてとってほしくないと思う。むしろ、産官学一体化に学術、研究を包摂するための装置となってきた学術会議への批判的な評価をきちんと出すべきだと思う。学術会議の一部には私にとっても共感できる研究もあることを承知している。しかし、こうした「リベラル」な研究が学術会議という枠組みのなかに位置づけられることによって、逆に学術会議がリベラルを装うイデオロギー装置(文化のヘゲモニー装置と言う方が妥当かもしれない)として機能してしまい、リベラルを巻き込みながら、保守的あるいは政権寄りの学術研究政策の正統性を支えてしまうことになっているとも思う。「リベラル」な研究が学術会議のなかになければ実現できないわけでもなく、市民向けの社会教育ができないわけでもない。

常勤の教員ですら、学術会議のガバナンスの民主主義的な関与が不明確と私は思うが、そうであれば非常勤の教員はますます学術会議への関与の回路は閉ざされている。そして学生については学術会議はおろか今に至るまで大学の教育に対して「教育サービス」の受益者としての権利(消費者の権利といってもいい)すら獲得しえていない。教育の基盤を支える職員なしに教育と研究ができるわけもない。大学教育の直接の利害関係者の参加ができていない反面、菅政権が学術会議を批判するときには、民間研究機関などの研究者の参加を促すことが主眼であって、ガバナンスの民主主義的な意思決定には後ろ向きだ。

上述したように、ガバナンスが民主的になろうが、政府からの独立性が担保されようが、自由の本質からすれば、学術会議という組織の存在は自由を狭めるものでしかない。どのように合意形成が民主的に制定されようと、独立の装いのもとで、実際には一人の研究者、教育者としての自由を制約するような活動をせざるをえない限りは、学術会議は自由を制約する組織でしかない、とみなさざるをえない。

(3) 学術会議の独立はどのような選択肢をとっても不可能であり、かつ個々の研究者にとっては不必要でしかない

学術会議法3条に「日本学術会議は、独立して左の職務を行う」とあり、これが学術会議の独立性を法的に定めたものとして、政府の介入を不当あるいは違法とする根拠とみなされているように思う。しかし、個々の研究者、教育者の独立性を権利として保障するものにはなっていない。4条では、政府の諮問、5条では政府への勧告が定められており、これらの条文が「独立」の意味を制約している。独立しつつも政府との関係のなかで仕事をする機関という位置づけになっているのだ。

実は、そもそも学術会議法の前文が問題である。前文は次のようになっている。

「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。」

いいことが書かれていると誤解されそうな文言だが、「科学が文化国家の基礎である」などという文言は受け入れがたい。私の研究も教育も「文化国家の基礎」としての科学という枠組みのなかにはないし、そうあるべきとも思わない。この前文では、科学は、もっぱら文化国家の正統性のために奉仕することが想定されており、このこと自体が、個々の教育者、研究者の自由を縛るものであり、民衆のための科学という観点が皆無だと思う。また、「わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献」するなどという文言は、歴史的にみても、口当たりのよい内実の伴わない文言だとは理解されずに国策に従属する研究者を排出するための口実につかわれてきた、と思う。資本主義の日本が平和復興や人類社会の福祉に貢献できる体制だという前提を置くこと自体に疑問を持つことが学問の自由の基本だと私は思う。前文のような口当たりよく聞こえがいいが国家を中心に据える文言が、個々の研究者、教育者の自由を縛り、国益に従属させるものになってきた思う。

「平和」を否定するのか、と言われそうだが、平和という言葉ほど平和から遠い言葉はないとつくづく思う。「平和維持軍」のような平和と軍がひとつの熟語のなかに共存していたり、核の平和利用としての原発の容認(これが学術会議の伝統的なスタンスだ)とか、人道的介入という名の武力行使とか、現実の戦争や軍事安全保障がいかに平和を乱用してきたか、ということは経験済みではないかと思うのだ。研究者がまず疑問に付すべきなのは、このような紋切り型の「平和」とか「文化」とか「国家」を科学によって正当化しうるかのような言説そのものである。国家が科学によって基礎づけられたことなどあったためしがない。同様に文化も科学によって基礎づけられることなどありえない。国家も文化も、そして「文化国家」なる奇妙な概念も、いずれもが多かれ少なかれイデオロギー装置なしにはその正統性を維持・再生産できないということを考えれば明らかなように、「科学」は不合理で科学的に説明しえない権力の正統性をあたかも論理的に説明しうるかのように偽装するために利用され、その結果として、研究者も教育も国策に利用されてきたし、今もそうだ。このような前文に学術会議がどれほど規定されているのかはまた別の問題であるにしても、こうした理念そのものが学問の自由を縛るものだと思う。

そして前文にある「科学者の総意の下に」という文言が、たぶん今回の任命騒動でも問題にされるべきことだと思う。「総意」の確認手続きがどのように担保されているのか、私には理解できない。参照基準のように教育の内容にまで踏み込むのであれば、その利害当事者をきちんと合意形成に含めるべきだろうし、総意というのであれば、内閣総理大臣の任命以前に科学者の総意を確認する手続きをとるようなルールが存在しなければならないと思う。市民運動は、「総意」に含意されている内実をきちんと原則に沿って確認することから政権の対応を批判してほしいと思う。「総意」問題は組織のガバナンスと民主主義にとっての死活問題で、このことは市民運動が組織の意思決定の民主主義をどれだけ重要な問題とみなしているかの試金石だと思う。ここで右翼や政権に足を掬われることを危惧して沈黙してはいけないと思う。

現行の学術会議が政府機関と位置づけられていることへの批判として、文字通りの独立機関にすべきだ、という意見がある。たとえば東京新聞12月4日は井上科学技術担当大臣の発言を報じている。

「井上信治科学技術担当相は4日の記者会見で、日本学術会議について国からの切り離しを求めたことについて「各国のナショナルアカデミーが独立した形をとっており参考にしてほしい」と述べ、海外の事例を参考に会議側に検討を要望したことを明かした。一方で「日本のナショナルアカデミーとしての機能を維持したい」との会議側の要請については「私も賛成だ」とし、その機能を維持した上で切り離しを模索するよう求めたとも話した。」

私はいかなる意味での独立、切り離し論にも反対だ。いわば民営化のような措置だが、学術会議が民間機関化すれば必ず、学術会議は映倫のような自主規制組織になり、なおかつ国の機関ではないために、人々の権利の及ばない組織になる。独立化によって、ますます一般市民であれ利害関係者であれ、民主主義的なコントロールの及ばないブラックボックスとなるから、容認できない。他方で、現状のような国の機関という位置付けであれば、政府の直接の影響を免れることはほぼ絶望的だと思う。いずれであっても、政府は、教育と研究を支配するための文化的なヘゲモニー装置として学術会議に対する権力作用を維持できるだろう。

自由のためには制度は少ない方がよく、代替の制度も不要だという自由の原則からすれば、学術会議はなくした方がよく、それ以外の選択肢は思いつかない。その結果として大方の研究者や学生が不便であったり自由を侵害されることにはならない。そもそも圧倒的多数の研究者や学生にとっては意思決定に参加できる回路が存在しないのだから。

(4) 学術会議の提言と現実の間の乖離

日本学術会議の意義として引き合いに出されるもののひとつに2017年に出された「軍事的安全保障研究に関する声明」がある。たった1ページの簡素なものだ。冒頭で

「日本学術会議が 1949 年に創設され、1950 年に「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を、また 1967 年には同じ文言を含む「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を発した背景には、科学者コミュニティの戦争協力への反省と、再び同様の事態が生じることへの懸念があった。近年、再び学術と軍事が接近しつつある中、われわれは、大学等の研究機関における軍事的安全保障研究、すなわち、軍事的な手段による国家の安全保障にかかわる研究が、学問の自由及び学術の健全な発展と緊張関係にあることをここに確認し、上記2つの声明を継承する。」

と宣言し、より具体的には防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」への危惧が表明されている。

「防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015 年度発足)では、将来の装備開発につなげるという明確な目的に沿って公募・審査が行われ、外部の専門家でなく同庁内部の職員が研究中の進捗管理を行うなど、政府による研究への介入が著しく、問題が多い。学術の健全な発展という見地から、むしろ必要なのは、科学者の研究の自主性・自律性、研究成果の公開性が尊重される民生分野の研究資金の一層の充実である。」

この学術会議の声明は実際には効果を発揮していないと思う。防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」に対しては今年度120件もの応募があり、21件が採択されている。この制度は「防衛技術にも応用可能な先進的な民生技術、いわゆるデュアル・ユース技術を積極的に活用することが重要」として設置されたものだ。研究の採択審査にも多くの研究者が参加しており、採択された研究がどのような軍事技術への転用が可能なのか部外者には非常にわかりにくい。

学術会議はこの宣言のフォローアップ報告『「軍事的安全保障研究に関する声明」への研究機関・学協会の対応と論点』を今年8月に公表するが、上述のように、実際に応募されているケースがあり、この防衛装備庁の採択審査に協力している研究者が多数いるにもかかわらず、こうした研究に応募した研究者、研究機関に対する有効な歯止めのアクションはとれていないように感じる。学術会議は、宣言の一定程度の効果を評価しているが、果してそういえるのか、120件もの応募が実際にあったことを過少評価していないだろうか。こうした学術会議の動向は学術会議の限界でもあると思う。

学術会議は、高邁な理想を提言に盛り込みつつ実際には、その理想を実現できないどころが実現する積りがあったんだろうか、というケースもある。以下は、もはや「時効」かもしれないような半世紀も昔の話だ。

学術会議には「勧告」という制度がある。ここ10年一度も勧告は出されていない。勧告とは「科学的な事柄について、政府に対して実現を強く勧めるものです」と説明されている。 提言などよりもより強い主張ということだろう。

1969年5月10日に「大学問題について(勧告)」が出される。そのなかに「学生の権利の確認について」という項目があり、「学生に対しては、憲法、教育基本法の保障された権利を認め、さらに大学における学生の地位にかんがみ、一定の方式で大学の運営に参加させるべきである」と明記されている。また「大学問題についての中間報告草案(抜すい)」では、更に踏み込んで「学生は、教職員とともにそれぞれ固有の権利と義務をもって大学を構成するものであり、大学の自治に参加すべきものであろう」と書かれている。学術会議は学生運動の暴力の表面的な現象に拘泥している面もあり、その背景をなしている教育の問題を捉えそこねているところもあるが、この勧告では学生を単なる受け身の存在とはみなさず学問、研究の主体の一翼を担うべきものとした。この点を学術会議もこの国の研究者たちもすっかり忘れてしまっている。そして私も今回、このような出来事がなければ把握できなかったことでもある。現代の大学がいかにおおきく後退してしまっているかを改めて実感させられる。学術会議はこうした勧告を出しながら、それをほぼ完全に反故にしたといえるのではないか。大学の教員の大半がこうした学生、職員の管理運営への参加に否定的だったということだろうし(私自身も学生の大学運営への参加を積極的に主張してこなかった)、このスタンスを学術会議もまた受け入れてきたとしか解釈のしようがない。市民運動が問題にすべきなのは、こうした大学をはじめとする高等教育と学者の「国会」を標榜する学術会議の実態が学問の自由をはじめとする自由の権利に値する制度なのかどうかでなければならないと思う。大学の管理運営問題では、教授会の自治への関心は強いのだが、非常勤の教員や学生、職員も含めた教育、研究に関わる全ての人々の平等な参加の可能性についての議論はほとんどされてきていない。国立大学では人事権は教授会から奪われ、大学経営に外部の理事が参加するが、地域社会の多様性はほとんど反映されず、もっぱら企業、財界の有力者ばかりが経営に影響力を行使できるような制度になってしまっている。半世紀前の問われた問題は、こうした文脈のなかで、社会的平等を基礎とした自由の問題として想起されてよいと思う。

他方で学術会議が着実に成果をあげ、積極的に取り組んでいるように思えるものもある。たとえば以前言及したように、安倍政権が目玉のひとつとして打ち出したSociety5.0には繰り返し肯定的な言及がなされている文書が複数あり、また、市民運動のなかでは重要な課題となっているマイナンバーなどのプライバシー侵害の技術についても批判よりも推進の立場が目立つ。原発についても容認の立場が目立つ。どのようにみても市民運動の方向性とは対立する政権や財界の路線を踏襲するスタンスの提言について、不問に付すべきではないと思う。それぞれの運動の課題との関連のなかで厳しく評価すべきだ。任命拒否反対、全員を任命せよという運動の方針では、とりあえず問題を棚上げにすることになってしまうのでは、と危惧する。本当にこれでいいのだろうか、と思う。

学術・研究の分野は、総じて保守的で政権を支える流れが支配的な存在になっていることを見落してはならない。学問・研究の自由は、こうした支配的な流れに抗して、右翼レイシストの自由の概念の簒奪に抗して、憲法が保障した基本的人権を実現するための自由の領域でなければならないが、こうした立場は明らかに少数になりつつあり、周辺に追いやられざるをえない存在だ。自由を希求するが故に、常勤のポストを得られない多くの研究者がいる。学生も院生も将来の就職を人質にとられて自由な研究ができないだけでなく、そもそもの基本的な意思決定の権利を大学や研究組織のなかで保障されていない。学術会議にこうした原則的な自由の擁護者を期待できない。たとえ全員が任命されようとこれまでの学術会議が果してきた文科省や政府の政策を補完する役割が覆されることなど到底ありえないと思う。

学術会議に市民運動は、それぞれの目指す運動の課題の実現との関連で期待することが本当にできるのか、あるいはそうすべきなのか。反戦運動や反基地運動などの平和運動、反原発運動、反監視運動などのスタンスの原則からきちんと批判しないといけないのではないか。批判することで市民運動が失うものなど何もないはずだ。市民運動は、教育や学問の問題でも原則を見失わないでほしいと切に願う。

日本学術会議は擁護すべき組織ではない、と思う。社会的不平等のなかでの自由は欺瞞である。

日本学術会議の会員選考で菅が任命拒否したことから、安倍政権に反対してきた市民運動や野党が105名全員の選任を求めて抗議運動が起こっている。菅が任命拒否の理由を言わず、その不透明さから、学問の自由を守れという主張もともなって、いつのまにかに日本学術会議が学問の自由の砦であるかのような間違った印象をもつ人たちが増えたと思う。以下に書くことは珍しく私の経験を踏まえた話になる。

学術会議による大学教育の品質保証制度づくり

私が日本学術会議を意識したのは、2008年に文科省高等教育局が学術会議に対して大学教育の分野別質保証の在り方について審議依頼し、学術会議はこれを受けてたぶん10年以上かけて質保証なるものを審議してきた頃だ。学術会議は大学教育の分野別質保証委員会を設置して、大学教育の科目別に教育の質を確保するためにどのような教育を行うべきかという「基準」作りを開始した。大学の教育もモノ同様、品質管理の対象になったわけだ。

その後、各分野ごとに「大学教育の分野別質保証のための 教育課程編成上の参照基準」なるものが作成される。私は経済学の教育に携わってきたから経済学の教育課程編成上の参照基準に注目せざるをえないかったが、この参照基準を読んで、絶望的な気分になったことを今でもよく覚えている。この参照基準に書かれている経済学の定義から教育内容まで、私が基本的に考えてきたことと一致するところはほぼない。私はかなり異質な「経済学」の教育者だったという自覚があるので、特殊私個人がこの参照基準から逸脱しているというのならまだしも、この参照基準は経済学の重要ないくつかの流れを排除していることは経済学の事情をある程度理解できている者にははっきりわかる。つまりマルスク経済学や諸々の批判的経済学の基本的な経済に対するスタンスはほぼ排除されている。この排除は偶然ではない。意図的に排除したと思う。なぜなら、経済学分野の専門家が文科省の意向を汲んで作成した基準だから、学説の動向を知らないことは絶対にありえないからだ。つまり、確信犯として資本主義に批判的なスタンスの学説を排除したというのが私の判断だった。学術会議とはこうしたことをやる組織なのだという確信をもった。

学術会議の参照基準は学問の自由を奪った―経済学の場合

参照基準がいかに間違っているか、ひとつだけ例を示す。参照基準の冒頭で経済学の定義が以下のように書かれている。

「経済学は、社会における経済活動の在り方を研究する学問であり、人々の幸福の達成に必要な物資(モノ)や労働(サービス)の利用及びその権利の配分における個人や社会の活動を分析するとともに、幸福の意味やそれを実現するための制度的仕組みを検討し、望ましい政策的対応の在り方を考える学問領域である。」

私は「物資(モノ)」とは書かない。商品と書く。「労働(サービス)」とも書かない。労働力あるいは<労働力>と書く。幸福実現の制度的枠組みなどということは、批判的な言及はしても、これを肯定的な課題とはしない。政策的対応も論じない。政治家ではないからだ。論じるとすれば政策対応なるものへの批判は論じるだろう。わたしたがネガティブなのは資本主義の経済システムでは幸福は実現できないという確信があり、政策対応で問題が片付くような問題が資本主義の経済の問題なのではない、からだ。上のような定義では学問なのか霞が関の官僚の仕事なのかさっぱりわからない。このような教育をわたしはしてきたことはないし、するつもりもない。

物資なのか商品なのか、労働なのか<労働力>なのか、これは単なる言葉の言い換えの問題ではなく、定義が異なるのだ。「物資」と「商品」は同じではない。労働と労働力も同じではなく、更に労働力と<労働力>も異なる概念だ。概念の違いは、社会認識の違いだけでなく、理論の内容の違いをもたらす。「物資」は市場経済(商品経済)という特殊な経済システムのなかでのみ商品という社会的性格を帯びる。商品も「物資」も見た目は同じだが、社会制度の前提が異なることによって、機能・性質が異なるのだ。この違いが非常に重要だ。というのは「物資」の価値と商品の価値は、同じ「価値」という言葉を使っても内容が異なることになるからだが、この本質的に重要な観点を、参照基準の定義はすべて無視した。物資と商品、この二つを同じものとみなすことは、市場経済とそれ以外の「物資」を商品としない経済との間の差異を無視するだけでなく、市場経済を唯一の経済、つまり人類はそこから逃れることのできない経済とみなす最初の一歩になる。資本主義を肯定するというイデオロギーに無自覚な経済学の主流の価値観をこの参照基準の定義はあからさまに示している。

労働と労働力の概念の違いについてはどうか。この二つの違いは、資本の利潤の根拠を説明する場合の基本をなすというのがマルクスの経済学批判としての経済学が主張した考え方だ。この考え方を否定する学派は、労働力と労働を区別しない。(なお<労働力>という括弧付きの労働力は、私のオリジナルなので、この概念を今あれこれ説明しない) 支配的経済学は、この二つの混同をそのままにすることによって、資本の利潤の根拠を企業家の努力とか市場価格の変動とか、いずれにせよ人々が資本の支配下で労働するという問題と切り離す理論を構築してきた。これが生存を二の次にする資本主義を正当化する経済学のスタンスであって、このスタンスを鵜呑みにするメディアが感染対策か経済か、という二者択一を当然のようにして持ち出すことを正当化してしまったのだ。批判的な経済学は、生存を犠牲にする経済をきちんと批判する観点を出すことが可能なのに、こうした経済などはそもそも想定外ということになる。

人々の幸福の達成が経済学の重要な意義であるという観点は、市場経済が人々の幸福を実現できるという前提を置いた議論だが、「幸福」が経済の目的になっているのが現代の市場経済、つまり資本主義なんだろうか。私は、資本主義経済(参照基準では、この歴史的なシステムとしての資本主義という用語ですらたった2回だけ、おずおずと仕方なしに用いているにすぎない)の基本を資本による最大限利潤を追求することに動機づけられたシステムとして位置付け、資本主義的な幸福を市場経済の商品と貨幣の物神性=イデオロギー作用とみなすので、幸福を真に受ける「定義」はとうてい受け入れがたい。つまり社会運動の活動家にとっては常識になっている利潤ありきの資本主義は経済学では幸福実現となるわけだ。

参照基準への異論は、様々な学会から出された。経済理論学会のサイトにあるだけでも12の学会が意見書や要望書を出し、シンポジウムも開催された。私はそもそも学会に所属していないので、こうした動きの外野にしかいなかったが、はっきりと自覚したことは、この参照基準が将来大学の教育カリキュラムを縛るある種の「学習指導要領」のような効果を発揮する危険性がありうるのではないか、ということと、大学の人事もまたこの参照基準を念頭に置くことになりかねず、多様で広範な研究分野や学説が排除される方向で作用するだろう、ということは現場で人事を担当することもあった身としては切実に実感した。経済学の参照基準に比べて歴史学の参照基準は相対的に「マシ」であるが、それでもひどい代物だと思う。日本史には近現代史がすっぽり抜けているから、植民地支配や戦争責任、「慰安婦」問題や強制連行などの歴史修正主義者たちとの争点になっている重要なテーマは何ひとつ言及されていない。これで「マシ」な方だと言わざるをえないわけだが、菅政権はそれですら満足していないということのメッセージが今回の任命拒否の「意味」だと思う。

身分制度と差別選別の教育・研究システムのどこにも自由はない

学術会議の任命拒否は、参照基準のような作業の先にある学術会議を利用した教育と研究への管理強化だろう。学習指導要領のようなものを文科省はトップダウンで作成するのではなく、国の組織でもある学術会議を使って作らせようというねらいがあことはほぼ間違いないと思う。

本来多様な教育をひとつの物差しで枠に嵌めようという参照基準=大学の学習指導要領は、結果として、大学や研究の自由を奪うことになると思う。そもそも参照基準など不要である。これを必要としているのは、教育の標準化によって管理しやすい研究教育環境を作りたいという文科省の利権だけであり、なぜ学術会議はこうしたすべきではない作業を引き受けたかというと、学術会議が法で定められた国の機関だからだ。学術会議はこうした大学の教育と研究の砦なのではなく、文科省の指示によって大学の画一的な教育管理の手先になっている、というのが私の学術会議理解だ。少なくとも学問研究の自由のために、このような組織は不要だ。学術会議は今回のこの騒動をきっかけに。将来必ずやより一層教育の統制のための組織となることは間違いなく、それは菅が任命拒否したからそうなったのではなく、参照基準を作成するなどという言語道断なことをやった今世紀に入って以降(少くとも私が経験した範囲では)そうなのだ。

たとえば「原子力総合シンポジウム」、これでも学術会議は擁護すべき?

学術会議は反動的な組織なのでもなければ左翼の手先でもないが、しかし、全体としていえば、政府の学術研究動向を反映しており、それは分野によってはかなりはっきりしている。一つだけ例を挙げる。たとえば原子力関連の学術研究では、この9月に公開シンポジウム「原子力総合シンポジウム2020」 を開催してた。その内容を報じた原子力産業新聞の記事 を読めば一目瞭然だが、原発推進派の学会と学術会議がタイアップを組んで温暖化と持続可能な社会を看板にして原発推進の陣形を構築しようとする学会の姿がよくわかる。反原発運動のなかでも学術会議任命問題で任命しろという主張があるようだが、果してそれでいいのか、と思う。むしろ 原子力関連学会がいまだに原子力を否定できていないこと、そして平和利用を口実に原発肯定だけでなく、原発否定の世論に関して「子供の頃から広島原爆の写真を見て、理屈なしに視覚情報で出てくるイメージが不安を巻き起こしていると思う」(前掲、原子力産業新聞記事)などという発言を平気でするような学者まで登場する。反原発運動にとっても学術会議はむしろ運動に敵対する存在でしかないのではないか、と思う。

平等のない教育・学術の世界に自由はない

学術会議のなかには、このように、学会や学術研究が国策と産業界の利権を媒介する有力な「装置」となっている側面があり、そうであるなら、今回の任命105名について、市民運動や社会運動の立場からみて本当に105名がふさわしいのかという評価があってもいいはずだが、なぜか、こうしたことには踏みこまない。学問研究の世界に市民が口出しせずに、専門家信仰が強くなっていることの表れではないか。市民運動の勉強会が相互の学びあいよりも、学者や研究者、弁護士などの専門家を呼んで勉強すという悪弊がはびこっているとはいえないだろうか。

学問の自由は制度に支えられてしか実現できない。だから制度が自由を保証するだけの実質を備えているかどうかが重要な要件になる。そもそも学術の世界がその基盤にしている資本主義の教育システムは、教育研究の自由とは何の関係もない差別と選別の制度だということを、市民運動や労働運動はかたときも忘れてはならないと思う。

教育の制度のなかで、成績評価を点数でつけることは当たり前であり、試験制度で選別することも当たり前、教員が絶大な権力をもって数値で生徒、学生を評価し、序列をつける。この選別と差別を前提に、労働市場に<労働力>として学生たちが投入される。学歴社会の再生産の構造だ。高等教育はこの差別と選別の制度の頂点にあって、さらに大学は助教、准教授、教授という身分制度を研究者としての業績などで正当化する仕組みになっている。公害を告発した宇井純や京大原子炉実験所の反原発4人組の人たちは優れた業績にもかかわらず助手(助教)のままだったように、プロモートと研究へのスタンスや問題意識は切り離すことのできない権力構造のなかにある。こうした身分制度は、研究費や研究環境にも影響する。日本の研究環境にとって科学研究費はその最大のアメとムチになっているが、研究費を有利に獲得しようと思えば国の政策の動向を無視できないという分野は自然系だけでなく人文社会系でもある傾向だろう。そして理系をはじめ多くの分野では、教員の任期制が導入されることによって、更に研究が国や企業から大学の方針によって左右しやすくなっている。深刻なのは、常勤の研究者・教員にはカウントされない非常勤の教員が膨大な数存在して大学の教育を支えていることだ。優れた研究をしながら、その分野や研究のスタンスによってポストを得ることがむずかしいところにいる人を何人も知っている。非常に狭い雇用の枠をめぐって競争を強いられるが、身分制度と学閥や人脈の構造が存在する以上、採用の基準が客観性をもつことは難しいから、志を曲げて研究分野を変更することもありうる。学閥や人脈といった旧態依然とした人間関係に依存した環境があるだけでなく、研究分野によって、あきらかな差別があると思う。これで学問の自由などありえるはずがない。

私も大学で仕事をしてきたので、自己批判なしには書けないことだが、私は試験の評価をせざるをえないことを30年間ずっと違和感をもつことしかできなかったが、だからといってこうした制度と正面から対決することもしてこなかった。入試で1点、2点の差で不合格になる受験生の存在がいることに辛い気持ちを感じても、この制度を問うこともしてこなかった。しかしこうした制度は明かに学問や研究の自由、つまり、自分が学びたい環境へのアクセスの権利を阻んでいるし、学ぶことや研究することについての学ぶ者自身による自己判断や、教える者との相互の平等な関係を一貫して阻害している。点数や単位といった数字のために教員は働くべきではないにもかかわらず、この数値が教育を支配するという転倒した構造が生まれている。学ぶことにとって本来であれば、試験も学位も不要であり、身分制度も不要だ。教える者と教えられる者という関係も常に入れ替え可能な平等な関係のかなでしか自由は存在しない。

学術会議問題とは、任命の是非の問題ではなく、学術会議に体現されているような学問の自由を看板に掲げた教育と研究の構造的な差別と選別、イデオロギーの構造を想起するきっかけにすべき問題なのだ。

学術会議の任命拒否問題で菅に反対するかつての68年世代と出会うことがよくある。そうした世代の人たちにぜひ思い出してほしい。あの時代、大学は解体の対象だったのではないか?大学解体は間違ったスローガンだっかのだろうか?大学に残った私のような(その意味では転向した者というしかないのだが)者ではない道を歩んだあの世代の市民たちが、あの時代に問われた大学と教育が何だったのかをもう一度思い出して欲しいと思う。社会的平等のないところに自由はない。社会的不平等のなかでの自由は欺瞞だということを。

ZOOMによる検閲(米国の大学で起きていること)

米国でZOOMからFB、Yotubeまで関与しての検閲が起きています。以下、訳しました。 日本では報じられていない?バズフィードの記事もありますが、日本語版にはないと思う。大学の学問の自由とかこの国でも話題ですが、検閲は政権からだけ来るのではなく、IT関連の民間企業からも来るということを如実に示した例といえます。ZOOMは大学に喰い込んでいますから、大学のイベントへの検閲を民間の企業が行なえてしまうという問題が米国では議論になっているということですけれども、これだけではなく、大学の外で、私たちが活動するときも、しっかりZOOMやプラットーム企業に監視されつつ、彼らのルールに反すればシャットダウンされ金を貢ぐか個人情報を渡しているという事態は今後ますます深刻になると思います。

以下タイトルのみ。本文はリンク先をごらんください。

https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/zoomfacebookyoutube20200923/

Zoom、サンフランシスコ州立大学でのパレスチナ人ハイジャック犯ライラ・ハーリドの講演をシャットダウン―FacebookやYouTubeも介入

By James Vincent 2020年9月24日午前6時01分EDT

https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/zoomcensorship20201023/

ズーム “検閲” 議論するイベントをズームが削除

ジェーン・リットビネンコ BuzzFeedニュースレポーター 投稿日:2020年10月24日 19時01分(米国東部標準時)

名古屋市文化振興事業団宛の抗議文

名古屋市文化振興事業団が日本第一党愛知県本部主催のイベント、あいちトリカエナハーレ2020「表現の自由展・その後」に会場を貸与した件で、以下のような抗議文を提出しました。


抗議文

名古屋市文化振興事業団

理事長 杉山勝 様

役員の皆様

評議員の皆様

事業運営委員会の皆様

(上記の皆様に回覧をお願いします。もし回覧できないようでしたらご一報ください)

小倉利丸

元表現の不自由展実行委員

2020921

2020926日と27日に、名古屋市民ギャラリー栄において『あいちトリカエナハーレ2020「表現の自由展・その後」』という催しが日本第一党愛知県本部主催で開催されることを知りました。私は、日本第一党が主催するこのイベントに、地方自治体が会場を貸与することは、人種差別主義を黙認(あるいは助長)し、歴史の偽造に加担することに他ならず容認できません。よって、抗議するものです。

私は、昨年、あいちトリエンナーレの招待作家として出展した「表現の不自由展・その後」の当時の実行委員のひとりとして、出品作家たちとともに、深刻なヘイトスピーチの嵐を被った当事者です。今回の催しの開催について、名古屋市民文化事業団の会場貸与の決定に失望せざるをえません。

特に危惧するのは、主催者が、移民と外国人の排斥を主張し、いわゆる「従軍慰安婦」問題をはじめとする日本の戦争犯罪・戦争責任を「自虐史観」として否定することを明確に政策に掲げる日本第一党だという点です。このイベントが結果として人種差別主義を助長することになるのは明らかと考えます。

日本第一党とその党首の桜井誠については、米国のヘイトスピーチに取り組む有力な人権団体のひとつ、Southern Poverty Law Centerがその活動を危惧しており、2019年に公表したレポートでは日本第一党を特集し、その米国の人種差別団体との連携に注視しています。言うまでもなく、米国の人種差別は深刻であり、これに日本第一党が加担する構図があるのです。() 日本第一党の人種差別主義の問題は、名古屋や日本だけではなく、国際的にもマイノリティの人権をめぐる問題となっているということでもあります。国外の人権団体からもヘイトスピーチ団体として認知されつつある日本第一党の行動を軽視すべきではありません。

()Southern Poverty Law Center(SPLC), Intelligence Report, lissue166, 2019 Sprng, p.27-30 https://www.splcenter.org/sites/default/files/intelligence_report_166.pdf 以下も参照。SPLC, White nationalist conference in Tennessee will feature old-school racists and a few new international guests https://www.splcenter.org/hatewatch/2018/06/14/white-nationalist-conference-tennessee-will-feature-old-school-racists-and-few-new

2016年に制定された「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(以下ヘイトスピーチ規制法と呼ぶ)は国の法律ですが、その第四条で「地方公共団体は、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組に関し、国との適切な役割分担を踏まえて、当該地域の実情に応じた施策を講ずるよう努めるものとする」、また第七条では「当該地域の実情に応じ、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消の必要性について、住民に周知し、その理解を深めることを目的とする広報その他の啓発活動を実施するとともに、そのために必要な取組を行うよう努める」として、自治体によるヘイトスピーチに対する取り組みを定めています。また、付帯決議(参議院)では、日本国憲法とともに人種差別撤廃条約を尊重し、ヘイトスピーチによって地域に「深刻な亀裂を生じさせている地方公共団体」に対しては特段に、その解消への努力のための「施策を着実に実施」することを求めています。

ヘイトスピーチ規制法が制定されたとき、名古屋市はホームページで「この法律は、不当な差別的言動、いわゆる『ヘイトスピーチ』は許されないことを宣言し、人権教育と人権啓発などを通じて、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、本邦外出身者を地域社会から排除することを扇動する不当な差別的言動の解消に向けた取組を推進することとしています。」(1)と紹介し、更に今年3月には「なごや人権施策基本方針」(2)を策定し、そのなかでヘイトスピーチは許されないこと、また「差別的な言動(ヘイトスピーチ)の解消に向けた教育・啓発活動に取り組むとともに、現状把握を継続的に行」うことを「施策の基本的方向」(3)として約束しています。

また「基本方針」に添付された世論調査においても、ヘイトスピーチは「許されないことで、絶対にやめるべき」と「よくないことだと思う」と回答した市民が合せて75%になります。また外国人の人権問題についてもヘイトスピーチを挙げた割合は項目全体でも第二位と高く、ヘイトスピーチの問題は、名古屋市においても、一般の市民感情からみてもかなり深刻なものと受けとめられているといえます。(4)地域における差別と偏見は最重要課題になっているといえるのではないでしょうか。

(1)http://www.city.nagoya.jp/sportsshimin/page/0000091086.html

(注2) http://www.city.nagoya.jp/sportsshimin/cmsfiles/contents/0000127/127395/zennbunn.pdf

(3)なごや人権施策基本方針 p.28

(4)同上、p.71以降参照。

繰り返しますが、日本第一党は、ヘイトスピーチを繰り返してきた桜井誠が党首の政治団体で、その主張、とくに移民や外国人政策は、移民や外国人の排斥を公然と主張するものであり、また日本の植民地侵略の歴史認識を「自虐史観」と蔑視しています。その主張や過去の経緯からすれば、日本第一党がヘイトスピーチ規制法の趣旨にも名古屋市の人権施策基本方針にも抵触する行動をとるであろうことは明らかです。国際的にも問題となっているレイシストたちの行動は、一般に、自分たちの主張に同調しない者たちに対してはヘイトスピーチや時には暴力によって威嚇し、他方で、あたかも正当な市民運動や政治活動であるかのような装いもとって人種差別主義を市民に根付かせようとすることが常套手段になっています。暴力的なヘイトスピーチと一見すると穏健に見える『あいちトリカエナハーレ2020「表現の自由展・その後」』のような活動とは表裏一体であること、このことを踏まえて、行政や文化施設は、不当な差別的言動の解消に向けた取組に積極的な行動をとるべきだと考えます。

ヘイトスピーチ規制法に関しては、集会やイべントの施設利用について、憲法が禁じている検閲との兼ね合いが常に議論されてきました。日本第一党などは、表現の自由を主張してイベント開催を正当化しようとしていますが、彼らを含むレイシストやヘイトスピーチに加担してきた者たちが私たちの「表現の不自由展・その後」に対して昨年やったことは、表現の自由を踏みにじる行為だったということを私は忘れることができません。主催者である日本第一党のこれまでの主張と行動からみて、『あいちトリカエナハーレ2020「表現の自由展・その後」』なるイベントが明らかにヘイトスピーチといえる効果をもたらし、結果として地域のマイノリティの人々への偏見を助長しかねないことになるのは容易に推測しうることだと考えます。つまり名古屋市自身がそのホームページで対処すべき事態しして明記した「本邦外出身者を地域社会から排除することを扇動する不当な差別的言動」となる可能性を秘めたものだということです。

憲法では、検閲を禁じると同時に、人権の尊重を最重要とも位置づけており、民族や出自などへの差別を偏見として認めていません。彼らの偏見に満ちた「表現の自由」には正当性はなく、地域で暮す多くのマイノリティの人権と自由が脅かされることになるのです。日本第一党のイベントは、マイノリティ当事者にとっては耐えがたいことであるということを、名古屋市と名古屋市文化振興事業団は自覚すべきです。私は名古屋市民ではありませんが、日本国籍をもつ者としても、このような人権侵害とヘイトスピーチに加担する名古屋市の決定を黙って見過すことはできません。

ヘイトスピーチには言論表現における威嚇、脅迫や罵詈雑言など暴力的な言葉だけではなく、事実を歪め、偏見を助長するような表現を通じて、人々が日本に住むマイノリティの人々の価値観や文化あるいはその存在そのものを否定したり、日本人のそれよりも劣るものとみなす言説もまたヘイトスピーチに含まれます。文化行政がこうした隠されたヘイトスピーチに対抗することなくして、多様な文化との共生を地域で実現することはできません。差別と偏見によって深刻な被害を被らないようにマイノリティの人権を確立し、人間としての平等を実現することもできません。もし、名古屋市が、『あいちトリカエナハーレ2020「表現の自由展・その後」』を容認するのであれば、その結果は、とりかえしのつかない差別と偏見、偽造された歴史認識の助長を招くことになるでしょう。これは、事実上、公権力による人権侵害の黙認であって、その責任は極めて重いと言わざるをえません。名古屋市及び名古屋市文化振興財団にとって今必要なことは、明確に排除と差別の言動を認めないためにとりうるできうる限りの行動をとることです。

CrimethInc:アナキズム関連をFacebookが禁止に―来るべきデジタル検閲

BLMが収束せず、大統領選挙が近づくなかトランプはますます横暴になっていますが、これにすりよるFacebookはもっと罪深いと思います。以下、CrimethIncの記事を訳しました。

アナキズム関連をFacebookが禁止に
来るべきデジタル検閲

Facebookは、アナキストおよび反ファシストのネット発信プロジェクト(原注)の中でも、彼らがcrimethinc.comおよびitsgoingdown.orgに関連すると考える(注)複数のFacebookページを削除した。
(原注)同じ口実で本日禁止された他のFacebookアカウントのなかには、ミュージシャンのMC Sole、Truthoutの作家Chris Steel、およびヨーロッパのニュースソースであるEnough is Enoughがある。

(注)https://twitter.com/nickmartin/status/1296175961260482560

彼らは、公式には「暴力を支持している」ことを口実にしている。この禁止措置は暴力を止めることとは無関係であり、社会運動とこれを報道するネット発信を抑えつけることがすべてだ。

(注)

ドナルド・トランプは、米国における警察の後をたたない暴力に対する全国規模の抗議の波に対して、一連のソーシャルメディアの投稿で、アナキストと反ファシストを非難し、数か月にわたって取り締まりを要求してきた。10年前、Facebookの代表は、エジプトでの民衆蜂起に果した彼らの役割を誇示していた。現在、積極的に社会運動を論じるネット発信を禁止する彼らの決定が示しているのは、ネットに登場を許される唯一の形態のアクティビスムとは、現在の当局に確実に利益をもたらす役割を果たすことが望まれているというこだ。

https://twitter.com/nickmartin/status/1296175961260482560
(訳注)8月20日、Nick Martinのツィッターのページ。(ここで、Facebookが禁止したサイトに言及されている)

暴力の定義は中立ではない。現在Facebookによる暴力の定義は、警察が年間1000人を殺害し数百万人を強制退去、誘拐、投獄することは合法だというものだ。攻撃者が政府を代表している限り、民間人を爆撃することは合法であり、白人至上主義者が群衆を襲撃するのを阻止したり、警察が撃った催涙ガス弾を警察に投げ返したりするのは「暴力」だとするものだ。体制や白人至上主義暴力からコミュニティを防衛しようとする人々の声を抑圧するのは、暴力を行使する者たちが制度的権力を保持している限り暴力行使を当然だとする意図的な決定だ。

現在の政権を明示的に支持する極右の民間武装勢力militiaとアナキストや反ファシストを一括りにするのは、問題を混乱させる戦略的な動きだ。これは、ウィリアム・バー(司法長官)が自称ファシストと反ファシストの両方を標的とする「反政府過激派」を標的にした司法省のタスクフォースを設置した際に行ったのと同じやり口だ。司法省の場合、極右の攻撃に対してコミュニティ防衛の最前線にいる人々を取り締まる人員や金を要求する口実として極右や民間武装勢力の攻撃を指摘しえた。バーと他のトランプ政権のメンバーは、ブラック・ライブズ・マターの活動家に対しても同様のことを行おうとし、BLMとネオナチスや白人ナショナリストを「人種的動機をもった過激派」として関連付けた。

シャーロッツビルでの「Unite the Right」の動員の最中に、自称ファシストがHeather Heyerを殺害(2017年8月)した後、ソーシャルメディアからファシストや白人至上主義者を排除せよという大きな草の根の圧力が発生した。現在、当時とは真逆にこの圧力は、抗議運動が国家の暴力と抑圧に関する全国的な対話を創出する上で不可欠な時期に、国家機構のトップから来ている。これは、シャーロッツビルのファシストに反対して結集した人々の見解を発表したWebサイトに対する権力からの反撃である。これが数週間の街頭闘争に直面してトランプが連邦の軍をオレゴン州ポートランドに動員した直後で、極右のスポークスパーソンが上院での証言で具体的にcrimethinc.comとitsgoingdown.orgに言及した数日後のことなのは偶然とはいえない。

極右のグループが引き続きFacebookを利用して組織し、COVID-19に関する危険な誤った情報を広めるなかで、Facebookはトランプ政権の合図を優先して反対意見を抑えている。間違いなく、これが問題にならないのであれば、将来はもっとひどいことになる。政府が社会運動を報道するネット発信を取り締まるノが当たり前になればなるほど、こうした検閲は社会のあらゆる部門に浸透し、政府が考え、想像するような事態を具体化するようになる。

この問題についてあなたが危惧するのであれば、このニュースを広く共有できるようあらゆる手段を駆使してほしい。Facebookがあなたに対して何が責任ある言論なのかを決定すべきではない。共に連帯するなかで、私たちは、より良い世界を作り出すことができる。こうした世界は、善意ある誰もが、ファシスト、政府、10億ドル規模の企業が脅したり沈黙させたりすることを恐れる必要のない世界だ。

「CrimethInc、それは、真に自由な社会の詩人や知識人たちだ。アナキストの発信に共通のテーマがあるとすれば、それは組織的暴力やシステムの暴力の脅威が存在せず、また、決してこのような状況が起き得ない社会を夢見ることだ。ここでは、棍棒、銃、爆弾を持つ男のグループが、他の人々を脅すようなことはない。これは正統性のある政治的立場というだけではなく、社会にとって必須であり、本質的かつ必要なものだ。私たちは平和で思いやりのある世界を夢見ることさえ禁じられている、と特に若者たちに語らざるをえないことほど、暴力的なことはない。」
-デビット・グレイバー、:ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス人類学教授、『債務』の著者、Facebook禁止のニュースに応答して。

反ファシストネオフォーク宣言

以下、転載します。

反ファシストネオフォーク宣言

解説:欧米のポピュラー音楽シーンが特に1980年代以降、極右、ネオナチなどによる若者のリクルートの重要な武器になってきたことが知られている。最も有名なのが、スキンヘッズによるOi!と呼ばれる音楽ジャンルだろうが、これに限らず、ロックからポップス、アバンギャルドに至る広範な音楽シーンに極右が介入してきた。なかでもネオフォークと呼ばれるジャンルは、極右の影響を非常に強く受けてきたジャンルとみなされている。実際に音楽の形式は、西欧の様々な非キリスト教的な伝統文化をも包摂しつつヨーロッパの白人文化の優位性をアグレッシブで暴力的なスキンヘッズなどとは逆にロマン主義的な傾向を強くもちながら感情を動員しており、嫌悪よりも情緒的な同調を得やすい音楽形式だ。私は、ヘイトが前面に出される音楽よりも、ネオフォークのような音楽の方が、人々をファシズムの心情に動員する上ではより効果的で厄介な存在だと感じてきた。ネオフォークのジャンルで活動するバンドやファンが皆極右だというわけではない。しかし、非政治的なネオフォークのバンドが無自覚に極右のネオフォークのバンドとコラボレーションしたりする状況や、極右が音楽シーンを主導することによって、若者たちの社会意識に白人至上主義が、非楽人への嫌悪ではなくて、白人ヨーロッパ文化の優位性というロマン主義によって醸成されうる可能性がある。ネオフォークのエンサイクロペディアのような本に、Andreas Diesel, Dieter Gerten, Looking for Eirope, The History of Neofolk, Index Verlag, 2013があるが、この本のなかでは、ネオフォークの源流には、単なる伝統主義的な復古主義があるのではなく、たとえばスロビング・グリッスルのようなノイズ・インダストリアルの源流でもあるバンドの影響もあることがわかかる。ネオフォークの政治的なイデオローグともいえるDeath In Juneは、まさにその典型的な位置を占めていたといえそうだ。Death In Juneとそのアルバムを多くリリースしているSoleilmoonは、米国の人種差別主義と闘うSouthern Poverty Law Centerから名指しで批判されてもきた。そもそもの出自はハイブリッドでありつつ、しかし事実上、白人至上主義という枠組が暗黙の共通項になってきたのがネオフォークの主流のように見なされがちだったかもしれない。ロックには左翼的な反体制の伝統がありつつ、極右ポピュリズムの台頭のなかでSkrewdriverのような極右バンドが登場したのとはわけが違う。ネオフォークにはそもそも左翼というスタンスを明確にしたシーンがほとんど目立たなかったように思う。フォークが60年代のベトナム反戦運動のなかで左翼の文化の一翼を担っていたのに、である。こうしたなかで、ネオフォークシーンから意識的に反ファシストネオフォークを掲げる運動が登場した。昨年のことだろうか。以下は、A BLAZE ANSUZ: ANTIFASCIST NEOFOLK: A BLOG RAISING UP ANTIFASCIST NEOFOLK BANDS FROM AROUND THE WORLD.に掲載された反ファシストネオフォーク宣言の訳である。シーンの状況がある程度わかると思う。しかし、以下の宣言には具体的な反ファシストネオークのバンドなどは登場しない。このサイトではバンドとのインタビューがかなり多く掲載されている。(daRarevo records)

https://antifascistneofolk.com/
またSpotifyで関連するバンドの音源が紹介されている。

https://open.spotify.com/user/blackcatfilmsltd/playlist/74snxst77irk3jahKNMupq?si=BMri_Nw7R-WeC2hQ_HkKQQ

反ファシストネオフォーク宣言

2019年7月29日

これは、反ファシストネオフォーク音楽コミュニティの人々と一緒に議論され、この新しい音楽トレンドが何なのか、その意図とビジョンを構築することを目的に、いくつかの点について書いたものだ。これは決して私個人の宣言でもなければ固定的なものでもない。この新たな地平に何があり得るかについての考え方だ。

1 ファシズムはネオフォークやその他の芸術形式を主張できるものではないし、このジャンルの発展の歴史は、ファシズムに当然の権利を与えもしない。ファシズムは、ロマン主義、ユートピア的理想主義、そして新しい世界を構築するための革命的精神への衝動を改竄するものだ。ファシズムはそれらのインパルスを保持するのではなく破壊するが、反ファシストネオフォークはこの精神を取り戻そうとするものだ。

2 ネオフォークは、複雑な過去を再考することに基づいて構築されたロマンチックな芸術形式だ。ファシストは、みずからのイデオロギーを、神秘的な過去の復古的なウルトラナショナリズムのビジョン、つまり、暴徒のナショナリズムの精神的情緒的モチベーションを創造してきたビジョンを物神化してこの音楽に埋め込んできた。反ファシストネオフォークは、異教、生態学的持続可能性、植民地の抑圧への抵抗をインスピレーションとして、芸術と文化の歴史を批判的に検討し、再考する。将来の私たちのビジョンを伝えることのできる記憶としてこうした考え方に立ち返りつつヒエラルキーと白人至上主義に反対する闘いを継続するために過去を見据える。美しい側面を維持しつつ、問題のある歴史を現実的に見て、抑圧の歴史を無視することを拒否し、代わりに、公正で公平な未来のビジョンに役立つ歴史的記憶を作りたいと考えている。

3 左翼は、それ自身の自覚的なロマンチックな芸術形式、つまり、正義、平等、自由に基づいて築かれた新たな世界の可能性を構想するに値するものだ。そのため、科学的あるいは法的思考だけでは革命運動を起こすことはできず、夢見る空間が必要だと考える。他の芸術運動と同様に、反ファシズムと革命的ネオフォークは、世界に変化をもたらし、白人至上主義に反対して団結して運動に情熱、ファンタジー、精神を注ぎ込こんで、意識的にこうした空間を構築する。

4 ネオフォークは、過去の世代の美学を現代の形に鋳直し、こうすることで、無数のフォークアートの形式から独特で現代的な感性を構築することを可能にする。フォークの伝統の継続は、キリスト教化と戦う異教の精神的音楽的伝統から、植民地の強制的な同化に対抗する先住民の言語を維持するための闘いや祖先の記憶を奪われた地域社会におけるアフリカの歴史の再生に至るまで、植民地主義に対する文化的闘争形態でもある。ネオフォークは、この闘争を、アイデンティティ主義のナショナリズムの反動的形態としてではなく、支配に抵抗し、その美しい多様性を維持する有機的な文化の上に展開する。

5 反ファシストネオフォークは、同時に国際的でコスモポリタンであり、文化的多様性の豊かさを維持するのにナショナリズムが必要だという考えを拒否する。ネオフォークはヨーロッパでのフォークミュージックの伝統の復活と見なされることが多いが、反ファシストネオフォークは必然的にこのヨーロッパ中心の視点を捨て、さまざまな伝統を利用する世界中のアーティストとつながりをもたらすることが必要だ。私たちは部族主義(トライバリズム)に反対し、これに替えて多様性、連帯、相互扶助を提起する。

6 反ファシストネオフォークは、政治的に動機付けられたネオフォークバンドのサブジャンルではなく、確立されつつある新たなスタンダードだ。ネオフォークには、ファシストのアーティストがこのシーンを政治組織化につながるメタポリティクスを構築する場として発展させてきた歴史があり、非政治的なバンドの間でも共犯の文化があった。反ファシストネオフォークのアーティストとファンは、許容できる新たな判断基準を確立しつつある。これは、この種の受動的なスタンスを許容せず、いかなる形であれ白人至上主義のプラットフォームを拒否する倫理的枠組みを実現してきている。

7 反ファシストネオフォークは組織化戦略であり、ファシストが意図的なサブカルチャーを構築しようとしている「闘争の場」として、ネオフォークを見ている。白人至上主義者とファシストはいかなる社会的文化的空間に対する正当な権利も持っていない。このことはネオフォークにもいえることである。このまま放置しておくと、新しい世界を切望している音楽ファンにファシストがネオドークを通じてアクセスできてしまい、ネオフォークがこうした若者をファシストにリクルートするための格好の道具にされてしまう。これに対して、私たちは、ネオフォークを闘争の場と見なす。反ファシストミュージシャンとファンは、この音楽のフレームワークを利用して、ファシストをこの音楽シーンから追い出し、彼らの存在を拒否する。音楽会場、レコードレーベル、出版物、そしてネオフォークが存在するすべてのエリアは、この闘争の場となり、音楽コミュニティの正当なメンバーである反ファシストネオフォークファンは、ファシストアーティストや運動とのいかなる共謀をも追い出す。まさにOi、ストリートパンク、ブラックメタル、その他の音楽のムーブメントで極右がこれらを囲い込もうとしたのと同様に、ネオフォークには闘うだけの価値があり、あらゆる機会に彼らを追い出すであろうと信じている。

8 反ファシストネオフォークは、ミュージシャンとレーベルの連合を構築し、極右のトレンドに逆行するシーンの構築に貢献する。反ファシストネオフォークのコミュニティを意識的に構築することで、ミュージシャンにとってポジティブな選択肢が生まれ、極右がネオフォークに押し付けようとしたイデオロギー上の覇権を破ることができる。(反ファシストネオフォークという)カウンターカルチャーが利用可能になる前は、極右はシーンの条件を設定して、バンドを強制的に適合させるか、活動できなくさせることができた。ネオフォークにおけるファシストの存在の現実を直視しつつ、オルタナティブは可能であり利用できることを示す対抗的なナラティブが今ここにはある。

9 私たちは反ファシストネオフォークのコミュニティの到来を信じている。反ファシストネオフォークのバンドは世界中に存在しているなかで、私たちは、これまで有機的に形成されてきたこのシーンを意図的に構築しつつある。ファンやミュージシャンとしてどのような音楽シーンを求めるのかを決定することで、そのビジョンを世界に投影する。私たちは反ファシズムと革命的なネオフォークシーンの存在を望み、それが自然に登場するのを待つのではなく、反ファシストネオフォークと名付けて構築することを開始した。

10 反ファシストネオフォークは、真の目標への途上に過ぎない。ネオフォークにおけるファシストの存在を排除し、平等主義と反人種差別に価値観を移すことだ。将来のネオフォークのビジョンでは、私たちの反ファシストネオフォークを他のネオフォークと区別する理由がなくなり、いつまでたってもネオフォークのなかのサブカルチャーであろうとは思っていない。私たちこそがネオフォークの全てを継承する者になるつもりだ。

出典:The Antifascist Neofolk Manifesto
https://antifascistneofolk.com/2019/07/29/the-antifascist-neofolk-manifesto/

パンデミックでも株式市場は最高値の米国―多国籍企業に儲けさせない文化闘争へ

メディアがいろいろ報じてるが、米国のS&P500が最高値をつけて注目されている。ニューヨークタイムスは米国の株式市場がbear market(弱気市場)からbull market(強気市場)へ転換しているかもとも報じている。

出典:https://www.nytimes.com/live/2020/08/18/business/stock-market-today-coronavirus#sp-500-hits-a-record-as-traders-look-past-economic-devastation

タイムス紙は、3月頃にはかなり落ち込んだがその後V字回復。連邦準備制度が3兆ドルを金融市場に投入していることや政府のコロナ対策支出が背景にあるとみている。アジアも株が上げている。まあ、日本も似たりよったりの政府の戦略なので、日本の株価も下らない。庶民は大打撃なのに。

この証券市場の動向でやはり注目したいのがハイテク株。いわゆるGAFAの株価。米国の巨大IT企業は、パンデミックでも一貫して株価上昇で、その上昇もこの1年でみると倍以上上げているところもあり、3月に一度落ち込んでもそのあとの回復が異常だ。あきらかにテレワークとオンラインへの依存のステージがワンランク上ったと思う。

GAFAであれIT企業の大半は私たちのコミュニケーションの権利のインフラを牛耳る企業。個人情報は、21世紀の石油といわれるように、こうした巨大企業の収益の基盤になっている。パソコンやスマホ、そしてネット環境はコミュニケーションの道具だが、この道具は同時にコミュニケーションの権利に不可欠な前提条件でもありつつ多国籍IT資本による個人情報=原油採掘場になっている。

資本主義グローバリゼーションの問題として論じられてきた第三世界の資源の問題、労働の問題、ポスト植民地支配の問題は、現在も重要な問題として存在しつづけているが、同時にこれに加えて、世界中の人口ひとりひとりがもっている個人情報が資本の利益を生む資源になっていること。この資源を採掘するメカニズムがコンピュータによるネットワークになる。わたしたちが日常的に使うパソコンやスマホ、スイカなどのカードから家にあるデジタル家電の類が収集する情報が、パンデミックや人々の失業と健康のリスクを格好のデータとして収集して利益に変えている。

この意味で、データ(個人情報)は、コミュニケーション領域を市場に統合した現代の資本主義にとってのフロンティアになっている。サイバーススペースにおける本源的蓄積といってもいい。この現代の大油田としての個人情報のなかから更にコロナパンデミックは新たな油田を開発するきっかけを与えた。これは上述したようなテレワークだけではない。感染予防、感染経路追跡などを口実とした政府による監視強化に伴う、政府全体の人々への監視インフラそのものがグレードアップしたということがある。

米国ではこれまで米国疾病対策センター(CDC)が管理していた個人情報追跡権限を保健社会福祉省が横取りして、HHSプロテクトなるものを立ち上げて新たな記録システムSORNを開始するようだ。SORNは心身の健康履歴、薬物およびアルコール使用、食事、雇用などの個人情報のほかに位置情報にあたるものも収集され、形式的には匿名であっても実質的には匿名化は不可能だとみられている。(注)日本でもHER-SYSが稼動しているが、こうした新たな情報インフラに政府の資金が投入されることになる。

(注)No to Expanded HHS Surveillance of COVID-19 Patients
https://www.eff.org/deeplinks/2020/08/no-expanded-hhs-surveillance-covid-19-patients

この文章の最後にGAFAとかの株価データにリンクを貼った。この大変な時期に、昨年の倍以上に株価高騰しているAmazonで買い物し、Googleで検索したりメールして会議して、Facebookで拡散する…これでいいはずはないと思うが、便利に屈している活動家たちが世界中にたくさんいる。どうしてもそうせざるをえないサービスもあるから絶対拒否はできないとしても、この生存の危機の時代に株価が高騰するような多国籍企業のサービスを見直すことが運動になっていない。しかし、できることはいろいろあるはずと思う。

GAFAをはじめとするグローバルなIT企業が個人情報という「富」で高収益を上げているのは、私たちひとりひとりが日常的に使うコミュニケーションのツールと、このコミュニケーションの環境を変えられない私たちのコミュニケーションの文化にもその責任がある。自戒を込めて、とりわけ左翼の活動家の責任は大きいと思う。このパンデミックのなかで、市民運動であれ労働運動であれ、敵は自分たちのコミュニケーションのツールそのもののなかにいる、というやっかいな事態を深刻に捉える必要がある。活動家がそのコミュニケーションの「武器」見直すことが、民衆のコミュニケーションの文化やライフスタイルを変えるきっかけになると思う。それ以外にライフスタイルにオルタナティブが生まれる余地はないと思う。この意味で、どのような手段で、どのようなネットのプラットームに依存して情報を提供するのかは、重要なコミュニケーション文化の闘いでもあると思う。

alphabet(Google)
https://stocks.finance.yahoo.co.jp/us/chart/GOOG?ct=z&t=1y
apple
https://stocks.finance.yahoo.co.jp/us/chart/AAPL?ct=z&t=1y
facebook
https://stocks.finance.yahoo.co.jp/us/chart/FB?ct=z&t=1y
amazon
https://stocks.finance.yahoo.co.jp/us/chart/AMZN?ct=z&t=1y
microsoft
https://stocks.finance.yahoo.co.jp/us/detail/MSFT?d=1y

Zoomが天安門関連集会を中国政府の要求で閉鎖

以下、いくつかのメーリングリストに投稿した文章を転載します。

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日本のメディアでどのくらい報道されているかわかりませんが、6月11日にZoomは以下にあるような声明を出しました。5月から6月にかけて開催された4つの天安門事件関連のZoom会議に対して、中国政府が開催の中止と主催者のアカウントの削除を要求し、これにZoomが応じたという問題についての声明です。私はこの声明に納得できません。

Zoomは、今後、各国の政府が集会を中止するよな要求を出した場合に、その国から参加することができないように設計変更することを約束しています。これはIPアドレスの国別割り当てなどで制御するのであれば比較的容易と思います。このIPアドレスの割り当てによる規制を回避するとすれば、たとえばTorブラウザなどを利用することになりますが、Torが利用しているIPも全て使用できないようにする、更にはVPNも使わせないといった処置に進展しかねないと思います。

国内法に即して参加の可否を判断するという措置をZoomは、各国の国内法を遵守するものであるとし、違法ではない国の参加者の参加を妨げるものではないということから、正当化しようとしています。しかし、今回の場合、中国本土、香港、そして各国の参加者が国境を越えて議論できる場になることが重要なのであって、中国本土から参加できないのであれば、他の国の参加者の参加の自由があっても、これを集会の自由とは言わないでしょう。ちなみに。私は今回の4つのZoom会議がどのような傾向をもって天安門の事件に取り組んでいるグループが主催しているのかは全く把握できていません。反中国親トランプの勢力かもしれないわけですが、このことは事柄の本質とは関係ないと思っています。米中の大国のいずれにも異議を申し立てる運動がこうした国境を越えた連帯が作れていないのなら、それは私たちの反省材料でしかないからです。

今後、中国に限らず、日本であれどこであれ、国内法に違反すると政府や警察など行政権力がZoomに申し立てした場合、Zoomはこれを受け入れるということです。会議を中止されたりアカウントを廃止された場合の異議申し立ての手続きについては以下の声明でも一切言及されていません。これまでも捜査当局の任意の捜査に協力することを当然としてきた日本のIT業界のありかたや、共謀罪のある日本では、Zoom日本法人がいったいどのような措置をとるのか、楽観できないと思います。

しかも、Zoomは、将来の訴訟に備えて、政府側の言い分に従って、会議を中止したり、アカウントを剥奪することが妥当であることを証明するために、会議参加者のアカウントやプロファイル、会議のコンテンツなど「証拠」になるものを収集する可能性もありえます。

Zoomがこうした対応をとらざるをえなくなったのは、会議室の内容や主催者のアカウントを管理しているからです。会議室の内容、参加者について一切の情報を取得しないか、暗号化されていて内容を把握できない環境をインフラを提供する側が構築していた場合、こうした権力の介入に対してはより強い立場をとることができます。この意味でJitsi-meetのような主催者も参加者も管理しないで暗号化する会議室のシステムは人権を守る上で重要になります。

Zoomのもうひとつの弱点は、Zoomが中国を無視できないグローバルビジネスモデルを基盤にしているからです。そしてAPは、Zoomの本社は米国だが研究開発の拠点は中国にあると報じている。
https://apnews.com/2ba80f30ecaf5aa37852164c3d149514

こうした言論弾圧が起きるたびに、日本の右翼や右派メディアは欣喜雀躍してレイシスト的な中国叩きをします。しかし、問題の本質は、どこの国であれ、国境を越えたオンライン会議が自国の国益に反することはないのか、誰が参加しているのかを監視しようとする動機を十分にもっており、対処の手段を権威主義的な手法をとるのか、より巧妙な民主主義や法の支配の仮面をかぶって実行するかの違いがあるにすぎません。

天安門事件については、中国の軍が関与した弁解の余地のない虐殺行為であって中国政府を擁護できる余地は一切ないと考えています。歴史上、ドイツもイタリアもファシズムの主張は「社会主義」を巧妙に転用してきた経緯があり、日本の戦前の植民地支配の正当化もまた欧米帝国主義からアジアを解放するという欺瞞に転向マルクス主義者が加担した歴史をもっています。私は左翼のはしくれですから、さまざまな反共主義者や右翼がこうした事件をひきあいに出してコミュニズムや反資本主義の考え方を否定しようとするスタンスとも一切の共通した理解をもっていません。だからこそ、左翼にとって自由と文化の問題は最大の課題だと思っています。経済的平等については多くの議論の蓄積がありますが、自由という課題はまだ十分な議論ができているとは思えません。ネットのコミュニケーションの権利と自由もまた同様に議論半ばと思います。

オンライン会議でZoomを使わざるをえない事情がありうることを理解はしますが、この会社が人々の言論表現の自由よりも当局の判断を優先させる会社だということを理解した上で、参加している国外に人たちのリスクも考慮して使うべきでしょう。しかし、可能であれば、Zoomのようなビジネスモデルに頼らない環境を作りたいと思います。

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6月11日Zoomの声明(前書きを除いた全文)

Improving Our Policies as We Continue to Enable Global Collaboration


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主な事実
5月から6月上旬にかけて、会議の詳細を含めてソーシャルメディアで公開された4つの6月4日を記念するZoomの集会について、中国政府から通知うを受けた。中国政府はこの活動が中国では違法であることを通知し、Zoom に会議とホストアカウントの停止を要求してきた。

われわれは、中国政府にユーザー情報や会議コンテンツを提供することはしていない。誰かがひそかに会議に参加できるようなバックドアもない。

中国当局は我々が会議中止の行動を起こすように要求した会議の1つについては、中国本土からの参加者がいなかったため、会議を邪魔するようなことはしない選択をした。

4つの会議のうち2つについては、米国に本拠を置くZoomチームが会議の進行中に会議のメタデータ(IPアドレスなど)を確認し、中国本土のかなりの数の参加者がいることをを確認した。

4番目の会議では、中国政府は6月4日の記念イベントを参照する会議へのソーシャルメディアの招待を示し、会議を中止するよう要求した。中国当局はまた、このアカウントに基づく以前の会議が違法であると見なしていることを私たちに通知した。米国を拠点とするZoomチームは、この以前の会議に中国本土からの参加者が出席していることを確認した。

現在、Zoomには、特定の参加者を会議から削除したり、特定の国の参加者を会議に参加させたりする機能はない。そのため、4つの会議のうち3つを中止し、3つの会議に関連するホストアカウントを一時停止または廃止することを決定した。

我々が期待に沿えなかった理由

我々は、現地の法律を遵守するのに必要な行動をとるよう努めている。我々の対応は、中国本土以外のユーザーに影響を与えてはならない。我々は2つの間違いをした:

我々は、香港特別行政区にあるアカウントをひとつ、米国にあるホストアカウント二つを一時停止または廃止にした。我々はこれら3つのホストアカウントを復活させた。

国ごとに参加者をブロックするのではなく、会議を閉鎖した。現在、国ごとに参加者をブロックする機能はない。この必要性は予想できたといえる。大きな反響があったかもしれないが、会議を継続させることもできた。

我々が取っている行動

今後、Zoomは中国政府からの要求が中国本土以外の人に影響を与えないようにする。

Zoomは、地理に基づいて参加者レベルで削除またはブロックできるようにする技術を今後数日間で開発する。これにより、我々のプラットフォームでの活動が国内で違法であると判断した場合に、地域の当局の要求に応じることができる。ただし、その活動が許されている国の参加者の議論を保護することも可能にする。

我々は、要求の種類に応じて、当社のグローバルポリシーを改善する。2020年6月30日までに公開される透明性レポートの一部として、このポリシーの概要を説明する。

ビジネス、教育、ヘルスケア、およびその他の専門的な取り組みのために人々をつなぐことに加えて、このグローバルなパンデミックにあって、Zoomは世界中の人々がつながるために選択されるプラットフォームになった。Zoomは、我々がグローバルに果たしている役割を誇りに思っており、コミュニティが集まり、組織し、共同作業し、祝うためにアイデアと会話をオープンに交換することを完全にサポートする。

「表現の不自由展・その後」を理由とした大村知事へのリコール運動反対!6.13街頭宣伝in栄

昨年の表現の不自由展への検閲問題はまだ解決からほど遠い。名古屋では、表現の不自由展・その後の企画を認め、いったん中止されたあと再開を決定した大村知事に対して右翼側からのリコール運動なるものが始まっている。これに対して、あいちトリエンナーレの会期中連日美術館前でスタンディングの抗議を担ってきた愛知の人たちが、この理不尽なリコールへの抗議のアクションをはじめている。
ミネアポリスで起きたジョージ・フロイドさん殺害をきっかけに、警察の暴力の歴史的な背景をなす植民地主義への批判的な関心が非常に高まっている。そうしたなかで、日本の右翼は、日本の植民地支配を正当化するだけでなく、露骨なレイシズムの主張を繰り返している。このリコール運動も、リコールの主張とともに、市民にレイシズムを拡散する手段としてこの運動を利用しようとしており、民主主義の制度を逆手にとって基本的人権を扼殺しようとするものだと言わざるをえない。
以下、「表現の不自由展・その後」をつなげる愛知の会からの呼びかけを転載します。
★★「表現の不自由展・その後」を理由とした大村知事へのリコール運動反対!6.13街頭宣伝in栄(6月13日(土)午前11時~12時@栄三越久屋大通り角) ★★
・「表現の不自由展・その後」を理由とした大村知事へのリコール運動反対!
・河村たかし名古屋市長はあいトリ2019分担金を支払え!
・私たちは歴史改ざん主義に反対します!
呼びかけ文
 6月2日高須克弥氏らは「表現の不自由展・その後」の開催と再開をおもな理由とした大村知事へのリコール運動を開始すると記者会見しました。私たちはこの大村知事へのリコール運動が、実際は「表現の自由」と「歴史の事実」に対する攻撃であると考えます。
 記者会見で高須克弥氏は「批判は自由」と言いつつ「表現の不自由展・その後」で展示された作品の存在そのものを「許せない」と批判しています。そして「公金を使っての展示が許せない」と主張しています。公金を使って展示することこそ、「表現の自由」を行政が遵守することになることを高須氏は否定しているのです。「表現の自由」の否定に他なりません。
 また、このリコール運動は河村たかし名古屋市長と密接に連携しながら進められています。高須克弥氏は以前、第二次世界大戦におけるユダヤ人大虐殺(いわゆるホロコースト)を否定し、未だ訂正も謝罪もしていません。河村たかし名古屋市長は南京大虐殺否定発言、旧日本軍性奴隷制度問題否定発言を行い、未だ訂正も謝罪もしていません。
 両者に共通しているのは歴史改ざん主義であり、この歴史改ざん主義がこの愛知の地で今、メディアの注目を浴びつつ大村知事へのリコール運動を契機に大々的に展開されようとしています。それはまさに昨年「表現の不自由展・その後」へ向けられた脅迫と圧力の本質だったと思います。あのような悲惨で恐ろしいことを再び許しては絶対にいけません。
 ぜひ 6.13街頭宣伝in栄にご参加ください。ともに声を挙げつながっていきましょう!
日時:6月13日(土)11時~12時
場所:栄三越久屋大通り角
主催:「表現の不自由展・その後」をつなげる愛知の会
連絡先:TEL080-2041-3968(専用) Email resumetheexhibition@gmail.com