民衆的自由の権利

(声明)インターネットの民営化とフェイスブック/ズッカーバーグによるinternet.orgの独占に反対する

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ちょうど私がfacebookに引導を渡したのと相前後して、米国のLaborNet.orgとMay First/People Linkから声明への賛同の呼び掛けが、APC(Association for Progressive Communications、主に第三世界のインターネットの権利運動を担ってきた組織で、日本ではJCA-NET、韓国ではjinbonetが加盟してます)に流れました。以下、大急ぎで訳したものです。日本語訳の後ろに原文をつけますが、原文の英語がちょっと乱れていて不明確なところもあります。タイトルにある「internet.orgの独占に反対する」の「独占」は直訳すると「捕獲capture」です。

internet.orgが何なのかは日本ではあまり知られていないと思います。これは、フェイスブック、サムスン、エリクソン、ノキアなどの企業などが設立した途上国向けのインターネットへのアクセスを推進する企業主導のインターネットの途上国へに拡大戦略の一環として最近話題になってきたものです。

数十億の人口がありながらネットアクセスの経済的な条件のない人たちが膨大に存在する。こうした貧困層をネットに囲い込むことから新たな途上国におけるビジネスの展開に繋げるという思惑をもったものといえます。.orgというドメインを使いながら実際は非営利とはいえないもの(本来なら.comでしょう)ということで、以下の声明では非営利の領域を民間企業が乗っ取りを画策しているということで「民営化privatization」という言い方をしているのだろうと思います。また下記で言及されている「課金ゼロ政策」とは、インターネットへのアクセスに課金しないことでアクセスユーザを増やす政策です。これは一見すると貧困や格差の時代にあっては歓迎されそうな政策ですが、これがネットユーザの囲い込みを促し、これをビジネスチャンスに繋げたり、ソーシャルメディアを利用するユーザの行動を監視する手段に使われることを警戒しています。こうして将来の企業の利益を見越して、非営利の民衆組織が太刀打ちできないような無料でのアクセスとかサービスの提供によって、ネットで文字通り「非営利」で活動しようとする運動体の活動の場が乗っ取られるということになります。貧困の現状を変えるのではなく、貧困層にタダでネットにアクセスさせることを「餌」にして搾取と監視の網に囲い込むという巧妙な罠ともいえます。日本語訳の間違いとか是非ご指摘ください。(以上簡単な説明)

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インターネットの民営化とフェイスブック/ズッカーバーグによるinternet.orgの独占に反対する

インターネットはグローバルなコミュニケーションのための活力ある歴史的な力である。インターネットにおける民主的な諸権利を守ることの重要性は、世界中の民衆と労働者にとっての基本的な課題である。ドットオルグ.orgのデザインの確立は、非営利、労働組合など企業ではない諸組織のためにドメインを確保することにある。インターネットの民営化の取り組みや、インターネットは私企業の利潤目的のためにあるなどの宣伝が、インターネットを危険に晒している。フェイスブックなどの企業によるインターネット支配を確立する課金ゼロ政策zero-ratingは、民主的なコミュニケーションと民主的な情報にとって弊害である。

こうした理由から世界中で、利潤を目的として、企業の利益のためにインターネット支配を目論む企業によるインターネット支配の構想を押しとどめる動きが徐々に登場してきている。

フェイスブックとそのオーナーのマーク・ズッカーバーグによるinternet.orgの独占は、インターネットの民営化からインターネットを防衛するという立場と対立し、インターネットを利潤目的に従属させるものだ。同時に、主要なソーシャルメディアとしてのフェースブックは、これまでも、ノルウェイ、トルコ、パレスチナ、インド、イスラエル、米国などの諸国の反体制派を検閲し、コントロールしようとしてきた。ソーシャルメディアの検閲は、実際に、抑圧的な政府がその国の住民やコミュニティによる政府の見解への異議申し立てを阻止することを画策するための道具になってきた。ソーシャルメィアによるコミュニケーションの基盤が十億人以上を含むようになって以来、ソーシャルメディアは、これを支配する企業経営者によるそのコンテンツの検閲者となった。

こうした私企業の所有者はまた、政府の政策に対してさまざまな異論を持つ人びとを把握するために、抑圧的な政府がソーシャルネットワークを利用するコトを許容てきた。こうした私企業のインターネット管理者にとっては、より多くの利潤を獲得することの方が、民主的なコミュニケーションやプライバシーの権利よりも明かに重要なのである。

我々は民間企業によるinternet.orgの独占を含めむインターネットの民営化に反対する。我々はまた、政府に反対する論争や政治的宗教的見解を妨げるソーシャルメディアによる検閲にも反対する。

我々は、一般大衆、労働者、労動組合、民衆組織、ネットワークのユーザたちに、インターネットの民営化に反対し、全ての人びとのインターネットにおける民主的な権利を防衛するために行動するようにことを呼びかける。

LaborNet.org
May First/People Link


Statement In Opposition To Privatization of Internet and Capture Of internet.org by Facebook/Zuckerber
The internet is a vital and historic  force for communication globally. The need to protect democratic rights on the internet is a fundamental issue for people and labor throughout the world. The establishment of the .org designation was to set aside a domain for non-profits, unions and other non-business organizations. The effort to privatize the internet and through fraudulent advertising to control what the internet is for the purpose of increasing profits of private companies is a threat to the internet. The effort of zero-rating to establish an internet controlled by companies such as Facebook and others is detrimental to democratic communication and information.
For this reasons countries around the world have more and more sought sought to prevent such schemes of control of the internet by companies whose purpose is to increase profits and control the internet for their profits.
The capture internet.org by the Facebook corporation and the owner Mark Zuckerberg is contrary to the interests of protecting the internet from privatization and control of the internet for profits. At the same time the major social media tool Facebook has been used to censor and control dissident points of view around the world from Norway, Turkey, Palestine, India, Israel, the US and many other countries of the world. The social media censors have become in fact tools for oppressive government which seek to prevent their residents from communities from dissenting from the governmental views. Since these platforms contain over a billion people they have become world censors of content by owners who control these social platforms.
These private owners have also allowed repressive government to use their social networks to capture people that have differences with the policies of these governments. The pursuit of profits have clearly been more important the democratic communication and privacy rights by these private internet operators.
We oppose the privatization of the internet including the capture of internet.org by private entities. We also oppose the use of censorhship by these social media networks to prevent debate and political or religious views which are in opposition to governments.
We urge the public, working people unions popular organization  and the users of these networks to demand an end to the privatization of the internet and to take action to defend our democratic rights on the internet for all human kind.

Signed
LaborNet.org
May First/People Link

民衆的自由の権利

facebookのアカウントを廃止した理由

投稿日:

facebookのアカウントを廃止した。ほとんど使ってはいなかったが、facebookで「いいね」してくださいとか、とりあえずお友達してくださいということで、おつきあいでアカウントだけ持っていたようなもので、最初で最後のfacebookへの投稿は、アカウントの廃止の告知だった。

反監視運動とかもやってきたし、最近のスノーデンやwikileaksなどが報じてきた米国のITやネット企業と政府・諜報機関の癒着は見過すことができないと思ってきた。多国籍資本の搾取に反対する活動家がMSやAppleのOSを「便利」だといって使うのはどうなんだろうかなあと思って、まったく何もわからないままオープンソースに移行してLinuxユーザーになったとか、まあやれるところで工夫はしてきたので、facebookについてもまだ依存症にはなっていない今のうちにおさらばすることに。tuitterはかなり依存しているのでそう簡単ではない。スノーデンも使ってるし、いいかなあとか、いろいろ言い訳を考えうことになるのだが。

「facebookのアカウントを閉鎖するよ」と言うと、多くの友人たちが、「そうできればいいけど、できない」という反応になる。彼らにとってfacebookは日常生活の必需品になってしまっている。私生活でも社会運動の道具としても、人間関係の繋りがSNSによって媒介されている。これは、ネットビジネスの思惑通りの筋書きでもある。生活に欠かせない道具になることによって、特定の企業のサービスに依存しないと友人関係や、非営利の活動すら維持できないことになる。人間は一人では生きられないから、通信やコミュニケーションが生存の必需品であることに不思議はない。しかし、コンピュータ・コミュニケーションは言語を用い始めて以降の人類のコミュニケーション経験を根底から変えてしまった。機械なしにはコミュニケーションができなくなった。そして、SNSを利用することによって、わたしたちの人と人との繋がりや、いつ誰とコミュニケーションしたのか、どのような写真を誰と撮り、誰がこうしたメッッセージに「いいね」をしたのか、こうした一連の人間関係が一私企業によって把握されて、この企業のプロファイリングのプログラムを通じて、人間関係の拡がりもまた影響を受け、制御される。こんなことは手紙の時代にも直接人と人がオーラルにコミュニケーションしてきた時代にもなかったことが起きている。問題は、こうした企業の介入を「便利」ということで、これに依存してしまい、コミュニケーションの基盤を企業の収益に結び付けるような構造に組み込まれてしまったということだ。他方で、企業の利益が見込めない環境では、逆に公権力が公共サービスとしてのSNSを展開したりするので、いずれにせよ、資本か政府の制御のなかで私たちの親密なコミュニケーションが成り立たせられるということになっている。

facebookはgoogleとともに、諜報機関の情報収集に企業としても協力してきたと言われているが、とりわけfacebookにわたしが怒りを感じたのは、イスラエル政府に協力して、パレスチナ連帯運動を公然と監視してきたことを知ったときだ。7月4日づけのロイターは「パレスチナの暴動に拍車を掛ける恐れのあるメッセージを阻止するのに、フェイスブックが協力的ではない」とイスラエル政府が批判していると報じ、この記事のなかで、facebookは「当社は、フェイスブックの安全な使い方を周知徹底するため、イスラエルを含めた世界の治安当局や政策当局と常に協力している。当社のプラットフォーム上では、暴力や直接的な脅迫、テロリスト、ヘイトスピーチを助長するようなコンテンツが介在する余地はない」というとんでもない弁解をしている。とんでもないというのは、「イスラエルを含めた世界の治安当局や政策当局と常に協力している」ということを公然と発言しているからだ。「世界のの治安当局や政策当局」には当然、日本も含まれているだろう。

とくに、イスラエルのパレスチナ政策をかつての南アのアパルトヘイトと同質のものとして、ボイコット運動を国際的に展開しているBDS(https://bdsmovement.net/)運動への干渉にfacebookが加担しただけでなく、facebookは、イスラエル政府のトップと会談し、イスラエル・オフィスは、ネタニエフ首相のドバイザーで元駐米スイラルエ大使館の主任スタッフを勤めたジョルダーナ・カトラーを雇用するという露骨な政権寄りのビジネスを展開するなどということをやったことで、ぼくは一線を越えたと判断した。facebookはこれまでも、イスラエル政府から反イスラエル運動への監視と検閲を要求されており、ある種の摩擦があった。DBSはこうした問題があってもfacebookのアカウントは閉鎖していないようだ。運動にとって重要なメディアのプラットフォームになってしまっているから、そう簡単には抜けられないということだろう。

SNSやネット企業はユーザーに対してはリベラルで物分りがよい顔を見せたりするが、他方で収益を目標とするれっきとしたビジネスでもある。ネット企業がいかに収益に敏感に反応しているかは、証券市場の動向がネット企業に与える影響を見ているとわかる。投資家は、ネット企業の市民的自由への貢献度には関心がなく、株価は、顧客をどれだけより多く獲得したか、広告収入など収益がどれだけ前の期と比べて「成長」したかといったことに敏感に反応する。資本主義の悪弊でもある成長第一主義と競争、大手資本による買収、アジアの新興市場での熾烈な市場獲得競争が繰り広げられる様子は、他の分野の多国籍企業と何ら変るところはない。しかも、ITインフラや公共投資の最大の投資家であり、かつ情報通信関連の法制度の権力者である政府(独裁政権であろうが軍事政権であろうがお構いなしだ)に背くことは、グローバルな成長と市場支配を目指すネット企業にとってマイナスでしかない。逆に、人びとの自由な言論を監視し制御したり、顧客の個人情報を含むプロファイリングは、広告主にも政府にも好都合で、こうして資本と政府の間に、ユーザーの民衆的な自由の権利を監視し売買するシステムが構築されることになる。この資本の論理に私たちのコミュニケーションの世界がますます統合され、ここから切断できない心理的な依存症状を多くの人たちがかかえるようになっている。こうした状況が、反体制運動や反政府運動あるいはネオリベラリズムに反対する運動のコミュニケーションをメタレベルで支配している。これは、コミュニケーションの権利にとってかなり深刻な事態だ。かくいう私も、ブログというネットに依存した手段に頼っているという意味でいえば、この構造の外にあるわけではない。

とりあえず、わたしは、facebookのように、露骨な検閲やアパルトヘイトを推進する政府との協調を公言するネット企業のアカウントを持つのは不快きわまりないので、付き合う義理はないし、付き合いを切ることの実害もないので、廃止ということにした。facebookが活動やコミュニケーションの必需品になっている場合はそう簡単ではないと思う。すくなくとも簡単にアカウントをゴミ箱に入れるなんてできないとしても、NSAやイスラエルに協力している企業の株価に貢献している気持ち悪さを忘れずにお使いいただければと思う。こうした多国籍企業のSNSとはちがう、オルタナティブのSNSがあればぜひご紹介くだい。

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P.S. ちなみに、日本の大手通信事業者には以前から警察などからの天下りがあり、これがかつての盗聴法反対運動でもちょっとだけ問題になったことがあります。ということでfacebookだけが特に極悪なのではありません。

民衆的自由の権利

戦争法(安保法制)下の共謀罪 -なぜ、いま、「テロ等組織犯罪準備罪」なのかー

投稿日:

以下は、10月30日に富山市で開催された集会に提出した講演資料に若干加筆したものです。

1.共謀罪の概要

朝日新聞の報道(このブログの最後に転載)をもとに、新共謀罪法案の要点をまとめると下記の5点になる。

(1)「組織的犯罪集団に係る実行準備行為を伴う犯罪遂行の計画罪」
条文にはテロという文言はないが通称として「テロ等組織犯罪準備罪」を用いる。

(2)対象となる犯罪は、「4年以上の懲役・禁錮の罪」。罪種は600を超える。

(3)対象は「組織的犯罪集団」。「組織的犯罪集団」の認定は捜査当局が個別に行う。

(4)犯罪の「遂行を2人以上で計画した者」を処罰。計画をした誰かが、「犯罪の実行のための資金又は物品の取得その他の準備行為が行われたとき」という要件が必要。

(5)法案提出の理由
・越境組織犯罪条約(国際組織犯罪条約)
「国境を越える犯罪を防ぐため、00年に国連総会で採択された「国際組織犯罪防止条約」がある。日本も署名し、国会は03年に承認したが、条約を締結するには共謀罪を含む国内法の整備が必要。」
・オリンピック警備
「 念頭にあるのは、4年後の東京五輪・パラリンピックだ。政権幹部の一人は「テロを防ぐためなら国民の理解を得られる。目の前に東京五輪を控えているのに、何もやらないわけにはいかない」とチャンスとみる。」

2.新共謀罪法案の問題点(日弁連)

上記のような新共謀罪について、日弁連は会長声明で以下のような批判を展開した。(声明はこのブログの最後に資料として掲載)

そもそもの大前提として、刑事法の基本は既、遂の行為を処罰するものであり、共謀罪はこの「刑事法体系の基本原則に矛盾し、基本的人権の保障と深刻な対立を引き起こすおそれが高い」とした。つまり、「話し合う」こと(実行そのものではなく、共謀や計画すること)は、言論・表現の自由という基本的人権によって保障されるものであって、これを実行行為と同等に扱って犯罪とするのは、基本的人権の侵害であると批判したのである。その上で、個々の論点について以下のように批判した。

対象となる犯罪がかつての共謀罪法案を大幅に上回るということ。2007年自由民主党小委員会案では、対象犯罪を約140から約200にまで絞り込んでいたが、提出予定新法案では、600以上の犯罪を対象に。また、民主党2006年修正案では、犯罪の予備行為だけでなく対象犯罪の越境性(国境を越えて実行される性格)を要件としたが、提出予定新法案は、越境性を要件としていない。

犯罪の「遂行を2人以上で計画した者」を処罰とし、旧共謀罪よりも要件を厳格にしているような印象を与えているが、「『計画』とはやはり『犯罪の合意』にほかならず、共謀を処罰するという法案の法的性質は何ら変わっていない。」ということ。また、「『組織的犯罪集団』を明確に定義することは困難」であり、「『準備行為』についても、例えばATMからの預金引き出しなど、予備罪・準備罪における予備・準備行為より前の段階の危険性の乏しい行為を幅広く含み得るものであり、その適用範囲が十分に限定されたと見ることはできない」と批判した。

越境組織犯罪条約(国際組織犯罪条約の批准にとって共謀罪は必須の国内法であるという旧共謀罪当時から政府が繰り返してきた主張について、日弁連は、条約は、経済的な組織犯罪を対象とするものであり、テロ対策とは本来無関係であると批判した。

こうした日弁連の批判は当然のことであり、私は特にこの批判につけ加えることはない。以下では、こうした法案の条文に即した共謀罪法案の批判とは視点を変えて、法執行の現状や司法の構造的な問題、そして民衆による抵抗権や民衆的な自由の観点から、法案がもたらすであろう問題に絞って、共謀罪の制定は絶対に許すべきではないことを述べておきたい。

3.捜査機関の捜査、逮捕・勾留の大幅な拡大

以下では日弁連の批判とは別の観点から、新共謀罪法案の問題について述べておく。

共謀罪が成立するとした場合、従来犯罪ではなかった多くの行為が犯罪とみなされることになる。とりわけ注目しなければならないのは、あらかじめ警察などが、実行行為がない段階から、複数人が刑法に抵触するかもしれない行為を相談していることを察知して監視するということができなければ、検挙に繋らないという点である。つまり警察などは、かなり早い段階から捜査(内偵)を実施することになるし、こうした活動を「共謀罪の疑い」とか「共謀罪犯罪を未然に防止するため」などとして公然と予算や人員の配置などの措置をとることができるようになる、ということである。たとえば、交通事故を未然に防ぐために安全運転のキャンペーンをやる。空き巣や盗難を防ぐための戸締りキャンペーンをやる。こうした「安全・安心」のキャンペーンに町内会などが動員される。現在でも「テロ犯罪を未然に防ぐため」と称したキャンペーンが展開されているが、こうしたことが共謀罪という従来は犯罪ではなかった行為(言論)を犯罪とすることで、どのようなことになるのだろうか。

原発反対運動で共謀罪が適用される?(ひとつの想定)
たとえば、原発の再稼動反対集会があったと仮定しよう。この集会で「再稼動を断固として阻止しょう!」という発言に皆が拍手喝采する。どうすれば再稼動を阻止できるか、可能な行動であれ「夢」のような不可能に近い話しであれ、あれこれの議論が自由になされるかもしれない。集会の最後に、「再稼動を阻止する闘いを貫く」という集会決議文が採択される。集会決議などは、実現可能かどうかは別にして、威勢のいい元気な内容になることもよくあることだ。

こうした「阻止」の主張を皆が集会で議論することは果して共謀だろうか?この集会を主催した団体は「組織的犯罪集団」だろうか?あるいは、この集会が「阻止」を決議したということは、この集会そのものが「犯罪の実行のための資金又は物品の取得その他の準備行為」といえるのだろうか。たぶん、この段階ではまだ「共謀」が成り立っているのかいないのか不明瞭に違いない。しかし、警察は、この集会で主張された原発再稼動「阻止」を文字通りその言葉通りに実行される可能性があり、これはれっきとした「テロ」だと判断したらどうなるだろうか?どのような行為が「テロ」なのかは警察が自由に判断できる。警察は、実際に「阻止」の行動をとるために計画を具体的に立て、必要な資金や物品などを調達するかもしれず、そうなれば共謀という立派はな犯罪になると考えて行動するだろう。共謀罪で検挙できるようなことになるかならないかを事前に判断するために、警察は捜査や監視の活動に着手することになるだろう。もし警察が、何らの具体的な行動もなされていない段階であっても、集会を監視し、将来実力で「再稼動阻止の行動に出る可能性がありうる」とみなし、この阻止行動の内容には、傷害罪とか逮捕・監禁罪とか建造物等損壊とか電子計算機損壊等業務妨害などいずれも懲役4年以上になりうる犯罪が含まれるかもしれないと判断するかもしれない。こうした可能性が少しでもあれば、警察は、実際に共謀罪での検挙を視野に入れて本格的に捜査することになるかもしれない。

こうして警察は、この集会の主催団体や参加者たちを監視して、共謀するかどうかを常時見張ることになる。「共謀」はコミュニケーションだから、会話や通信を見張り、共謀の「証拠」をつかまなければならない。共謀罪の捜査の基本は、人びとの行動を見張り、人間関係を把握し、相互の会話や通信の内容を把握して、検挙に必要な情報を収集するということだ。コミュニケーションを見張る有力な方法は盗聴捜査だろう。2裁判所に盗聴捜査の令状を請求することになるが、警察は例の集会の決議文を証拠として、共謀罪の容疑があるので盗聴捜査をしたいと裁判所に令状の発付を申請することになる。裁判所は、共謀罪を前提に、共謀罪がなかった時にはできなかった監視の捜査を認めることになるかもしれないし、本人の知らないうちに携帯のGPS機能を警察が利用する3、潜入捜査を行なうなどに着手するかもしれない。いずれにせよ、共謀罪で検挙するには、ターゲットになっている人びと(つまり私たちだが)に悟られてはならないから、秘密裡に監視することになる。

そして、ある日突然、この集会の主催者や集会参加者が何ひとつ具体的な実行行為もないのに、共謀罪で検挙されることになる。逮捕するためには逮捕状を裁判所に請求する必要がある。警察は私たちの通信の記録や会話の記録を提出して、共謀罪の「容疑がある」ということで逮捕状を請求できる。これまでは犯罪ではなかったから、単なる「相談」だけでは逮捕できなかったわけだが、共謀が犯罪となったために、裁判所は、共謀罪の容疑の可能性があれば逮捕状を発付する。マスコミは警察発表を鵜呑みにして、「原発テロ」などと報じるかもしれない。

逮捕された私たちは、話し合ったりメールでやりとりした記録を示されて、共謀の事実を白状するように迫られるかもしれない。原発のシステムをハッキングするとか、敷地に侵入して制御室を占拠するとか、所長を捕まえて吊るし上げようとか、….確かに話し合いはしたが、皆酒飲んで、Lineとか使って気炎を吐いていただけだと言っても、酒を飲んでの上でのヨタ話ということを証明するものは何もないし、実行するつもりはなかったということを証明できるものも何もない。唯一、話し合った威勢のいい内容だけが明確な「証拠」として残っている。

警察は23日私たちを勾留して取調べたが、その後、「起訴猶予」として釈放してしまう。裁判になれば、警察の捜査や逮捕が正当だったのかどうか、共謀罪の解釈や適用が妥当だったかどうかを裁判で争うこともできるのだが、起訴されることがなければ、警察の権力行使の妥当性はあいまいなままにされる。こうして、警察は、司法による判断を巧みに回避しながら、逮捕の特権をフルに利用して勾留と尋問を繰り返し、自らの裁量で法を解釈・適用し続けることが可能になる。

実は警察の思惑は、共謀罪の摘発そのものにあるのではなく、共謀罪を巧みに利用して、原発に反対する運動を弾圧しようとしたのかもしれない。共謀罪が成立したお陰で、警察はこれまでやれなかったような段階からターゲットを監視できるようになり、逮捕・勾留の権力とマスコミへの情報操作をフルに駆使して、運動を弾圧する道具として共謀罪を利用できるようになる。

あるいは、実際に実行行為のための作戦会議を行ない、そのための具体的な準備をしていたとしよう。こうした具体的な実行行為に必要な資材などの準備には加わらなかったとしても、この団体にカンパしたり、こうした実行行為のためにアイディアを提案したり、行動の意義づけを与えるような立場でアドバイスしたりした者たちもまた、共謀罪の容疑に問われる可能性がある。したがって、多かれ少なかれ「違法行為」を含むと疑われる何らかの具体的な行動を想起させるような発言したり、ネットで意見を述べるなどした者もまた、共謀罪の対象になりうる。どの範囲までを共謀罪の対象にするのかは、警察などの裁量ということになる。長期の勾留と過酷な取調べをし、マスコミが逮捕のキャンペーンを展開するが、裁判せずに「釈放」というこれまでの警察の弾圧手法が、共謀罪によってかなり広範囲に適用可能になる。

こうして、私たちは、どのような場合に共謀罪が適用されるかわからないから、逮捕・勾留を恐れて、カンパをしなくなり、発言や主張を抑制してしまうかもしれない。真面目な言論の自由だけでなく、冗談すら言えなくなり、活動を支える資金すら絶たれるかもしれない。

今のところ上に述べた共謀罪が成立した社会の物語はフィクションだが、警察が恣意的な法解釈によって正当な市民の運動や労動運動を弾圧する事例は今現在でも日常茶飯事で起きていることだ。この事態がより頻繁に容易に引き起されるようになる、これが共謀罪が成立した社会の姿だということである。

4.国会審議が全てではない

新共謀罪法案は通常国会に上程予定だという。法案反対運動は、戦術的にいえば国会の多数派でもある与党をどのように巻き込みつつ、法案の成立を断念させるかというところにあるが、現実の国会における与野党の駆け引きのなかで、廃案にすべき法案が、修正の上可決成立してしまう場合が少くない。共謀罪の危険性は、法の条文上の歯止めと思われる文言では阻止できない。法を実際に執行する警察などによる基本的人権侵害行為を合法的に許す手段になるところに最大の問題がある。廃案以外の選択肢はない法案である。しかし、こうした「法案」をめぐる国会での攻防では、上で述べたような法を巧妙に利用した警察などによる監視や捜査権限の合法的「濫用」がもたらす民衆的な自由の権利に対する深刻な抑圧と侵害を視野に入れた反対運動にはなりにくいという側面がある。というのも、法案の審議では、警察などの捜査機関は権力の濫用はしないという大前提を置いて議論されるからだ。未だ成立していない法律をどのように警察が行使するのかを議論するとしても、それは事実に沿った議論にはならず「想定問答」の域を出ないものにしかならない。

しかし、警察などが権力を最大限濫用しつつ反政府運動などを弾圧してきた(そして今もしている)事実は、運動の担い手たちによって繰返し指摘されてきた事実だが、この事実に切り込むことが国会の審議では極めて不十分である。したがって、反対運動にとって重要なことは、国会審議における法案の「条文」をめぐる解釈や「条文」の意味をめぐる議論を越えて、実際に、法を執行する権力(警察など)がとってきた権力の濫用そのものを問うことが必要であり、権力の濫用を完全に封じ込めるような根本的な警察や司法の制度変革の運動をどのように展開できるかが鍵となる。これは、戦前の治安立法が警察に与えた強大な権限への反省をふまえて、国会の議論ではなく、実際に民衆的な自由の行使としての様々な運動の場面で、自分達の言論・表現の自由を防衛するようなスタンスを、自分達の運動の現場で確立することだろうと思う。

5.最大の課題は、正義のためにやむをえず法を逸脱することをどのように考えるのか、にある。

法案反対運動のなかでは、往々にして、運動の側は常に憲法が保障する言論・表現の自由の権利に守られており、違法な行為は一切行なっていないのに、権力が法を濫用して不当な弾圧をしかけてくる、という前提がとられる。しかし、現在の状況は、こうした遵法精神を前提とするだけで運動が正当化されるという狭い世界に運動を閉じこめていいのかどうかが問われている。いやむしろ現実の運動は、警察や政府にとっては「違法」、わたしたちにとっては正当な権利行使、としてその判断・評価が別れる広範囲の「グレーゾーン」のなかで、民衆の抵抗権の確立のために戦ってきたのではないだろうか。

例えば、エドワード・スノーデンによる米国の国家機密の意図的な漏洩や、ジュリアン・アサンジやウィキリークスなどによる組織的な国家機密の開示運動は、いずれも違法行為である可能性が高い。彼らとその支援者の活動は、新共謀罪の適用もありうるような行為といえるかもしれない。彼らは敢て法を犯してでも、実現されるべき正義があると考えて行動し、この行動に賛同し支援する人びとが世界中にいるのだ。私たちは、彼らが違法な行為を行なったからという理由で、その行為を否定したり、法の範囲内で行動すべきだ、と主張すべきだろうか?私はそうは思わない。むしろ彼らの「違法」な行為によって、隠蔽されてきた国家の犯罪といってもいい行動が明かになったのではないだろうか。

例えば、2014年に台湾では、中国との間の自由貿易協定に反対して学生たちが国会を長期にわたって占拠するひまわり運動が起きた。ほぼ同じ頃、香港でも行政長官選挙などの民主化を要求して長期にわたって街頭を占拠する雨傘運動が起きた。それ以前に、米国の格差と金融資本の支配に反対して2011年にウォール街占拠運動が起きた。2010年から12年にかけて、チュニジア、エジプトなどからアラブに拡がった「アラブの春」と呼ばれる広場占拠と反政府デモが続発し、これらがギリシアにも波及してこれまでには全く想像できなかった左派「シリザ」が政権をとった。スペインでもウクライナでも反政府運動は、多かれ少なかれ「違法」な行為を内包しており、それが警察の介入を正当化してきたが、しかし、私は、こうした警察の介入を法と秩序を維持する上で正しく、法を逸脱した反政府運動が間違っているということにはならないと考えている。むしろ、法を執行する権力が、同時に合法・違法の判断を下す権限を独占し、法を口実に、民衆的な自由の権利を「犯罪化」しようとすることが世界中で起き、こうした法を隠れ蓑に民衆の権利を「犯罪化」するやりかたへの大きな抵抗運動が起きているということではないだろうか。

そして、日本も例外ではない。沖縄の辺野古や高江での米軍基地建設反対運動では多くの逮捕者を出している。阻止のための実力行使も行なわれている。私は、そのような行為を「言論」による闘いに限定すべきだとして否定すべきだとは思わない。あるいは、福島原発事故直後から5年にわたって経産省の敷地の一角を占拠してきた経産省テント広場は、政府や警察にすれば違法行為である。彼らの解釈によって違法とされたからといって、それを私たちもまた受け入れなければならないのだろうか?むしろ経産省前テントを強制的に撤去した政府の実力行使こそが言論・表現の自由を侵害する行為だと私は考える。

ここで想起したい古い事件が二つある。ひとつは、1930年代に起きたいわゆる「ゾルゲ・スパイ団事件」である。主犯格とされたリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実は、治安維持法、国防保安法などの罪に問われ、1941年に死刑判決を受けて処刑される。ゾルゲも尾崎も確信犯として「スパイ」を行なったことが明かになっており、権力のでっちあげ事件ではない。国家機密を敵に提供したのだから犯罪者として処罰されても仕方がないというべきなのか、それともたとえ犯罪とされることであっても、自らの思想や良心に沿って正義を貫くことが必要であって、彼らの行為にこそ正義があり、法には正義がない、と判断すべきなのか。私は後者の立場をとりたい。この観点からすると、スノーデンの事件はまさに現代のゾルゲ事件ともいえるものだ。ゾルゲグループはソ連に情報を提供したわけだが、スノーデンはどこか特定の国ではなく、グローバルな民衆の世界に情報を提供したという違いがあるだけで、ともに、国家による平和を毀損しようとする犯罪に立ち向かおうとしたことでは同じ質のものであったといえる。むしろ今の私たちにはゾルゲや尾崎、あるいはスノーデンに該当するような人物が不在であることの方が大きな痛手だとはいえないだろうか?

古い事件の二つ目は、1911年、明治天皇暗殺計画容疑で幸徳秋水ら12名が処刑された大逆事件である。この事件は、「明治天皇暗殺計画」であって、実行行為はない。幸徳はいわばイデオローグとして、暗殺に共謀したことが罪に問われたものだ。この事件は、現代の共謀罪が指し示す未来がどのようなことになるのかを示唆するものともいえる。まさに「話し合う」ことが罪になった典型的な事件である。幸徳の有名な『帝国主義論』では明治天皇を平和な君主として持ち上げたが、後に「日本政府が恐るるは、経済問題ではなく、非軍備、非君主主義に関する思想の伝播」であって、こうした思想は「自然に青年の頭脳を支配する」と考えるようになっていた。そして「爆弾のとぶと見てし初夢は 千代田の松の雪折れの首」というざれ歌も詠むが、これが警視庁のスパイによって察知されて「幸徳伝次郎不穏ノ作歌」として注視される。死刑判決を受けた後に獄中で書き続けて処刑後に出版された『基督抹殺論』では、キリストに仮託して天皇制の虚構を暴こうとしたと思われる議論を展開した。彼は実際には明治天皇暗殺計画には途中から関わりをもたなくなったにもかかわらず、弁明も転向もせずに処刑された。

歴史は繰り返さない。しかし、権力は過去の教訓や経験の蓄積から多くのことを学び、現状において利用可能な手法を再生したり復活させようとする。この権力の構造的な記憶装置をあなどることはできない。新共謀罪法案はこの典型的な例ではないかと思う。これに対して、反政府運動の側は、歴史の過ちを引き合いに出すだけでは十分ではないだろう。むしろ、歴史を踏まえつつ、民衆的自由を実現できる社会を新たに創造することを視野に入れた運動を生み出すことがなければならないと思う。


(参考資料)

(参考)憲法と特定秘密の保護に関する法律
(1)憲法
第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。(略)

第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

第二十三条  学問の自由は、これを保障する。

(2)特定秘密の保護に関する法律
第二十三条
特定秘密の取扱いの業務に従事する者がその業務により知得した特定秘密を漏らしたときは、十年以下の懲役に処し、又は情状により十年以下の懲役及び千万円以下の罰金に処する。特定秘密の取扱いの業務に従事しなくなった後においても、同様とする。

第二十四条
外国の利益若しくは自己の不正の利益を図り、又は我が国の安全若しくは国民の生命若しくは身体を害すべき用途に供する目的で、人を欺き、人に暴行を加え、若しくは人を脅迫する行為により、又は財物の窃取若しくは損壊、施設への侵入、有線電気通信の傍受、不正アクセス行為(不正アクセス行為の禁止等に関する法律(平成十一年法律第百二十八号)第二条第四項に規定する不正アクセス行為をいう。)その他の特定秘密を保有する者の管理を害する行為により、特定秘密を取得した者は、十年以下の懲役に処し、又は情状により十年以下の懲役及び千万円以下の罰金に処する。

第二十五条
第二十三条第一項又は前条第一項に規定する行為の遂行を共謀し、教唆し、又は煽動した者は、五年以下の懲役に処する。


尾崎秀実「上申書」より抜粋

近年の日本政治に対する私の中心の憤懣は、日本の政治指導者が世界の赴きつつある情勢にはっきりした認識を持たず、日本を駆って徒らに危険なる冒険政策に驀進せしめつつあるということでありました。満州事変以来は軍部がひたすら政治的指導権を握らんとしつつあるものと考え、政治家は無能にしてこの情勢を制御する識見と能力を欠くものと難じたのであります。軍部の目指すところは、対外政策においては、独逸との緊密なる提携であり、その当然の帰結として、ソ連、または英米との戦争を惹起せんとするものであると信じ、日本を駆って破局的世界戦争に投ずるものであると痛憤したのであります。

かくのごととくして私の国際主義は新らしい現実的基礎を得たのであります。すなわち、日本の現在の政策の帰結は悲しむべき破綻以外にはないであろう。しかしこの破局から日本を新たに立ち上がらしめるものは、日本のプロレタリアートがソ連および、支那のプロレタリアートとがっちり手を組むことであると、そのように考えたのであるました。(略)

私は左翼的実践活動い入ってから、すでに約十年に及んでおり、ことに近年は、私の行動が国家の緊急的態勢に照応するごとく、次々につくられた国防保安法以下の厳重なる諸法規に抵触するものであることを知っておりました。事件の発覚がいかに重大な結果を私一身、一家はもとより種々の関係者に及ぼすべきかについて常に考えぬではありませんでした。(略)ただ私自身の根本思想はかつて一貫して不変であり、かつ現実の世界状勢の推移は、ますます私たちの思想の正しさを証明するものだとの信念を強める一方であったため、以上のごとき不安、苦痛、恐怖に打克って勇気を鼓して私の左翼的実践活動の直接任務たる諜報活動に従事し続けたのでありました。
(岩波現代文庫版)


幸徳秋水 法廷陳述

たとえば、政府がひじょうな圧制をし、そのために多数の同志が、言論・集会・出版の自由を失なえるはもちろん、生活の方法すらもうばわれる、とか、あるいは富豪が横暴をきわめたる結果、窮民の飢凍・悲惨の状見るにしのびざるとか、いうがごときにさいして、しかも、とうてい合法・平和の手段をもって、これに処するの途なきのとき、もしくは途なきがごとく感ずるのときにおいて、感情熱烈なる青年が、暗殺や暴動に出るのです。これは彼らにとっては、ほとんど正当防衛ともいうべきです。(神崎清『実録 幸徳秋水』)


エドワード・スノーデン

国家相対主義を旨とすること、すなわち(私が暮らす)社会の問題から、私たちがいかなる権威も責任も持たぬ遠い海外の悪へと視線を転じることもできないのか、と私を中傷する向きも多いことでしょう。でも、市民権というのは他国を正さんとするまえに、まず自分たちの政府を監視する責務を帯びているものです。私たちは今ここで、そうした監視を限られた範囲でしか認めようとしないばかりか、罪を犯しても説明責任を果たそうとしない政府を放任しています。社会から爪弾きにされた若者が軽微な違反を犯し、世界最大の監獄制度の中で耐えがたい結果に苛まれようと、私たちは社会全体として見て見ぬふりを決め込んでいます。その一方で、巨万の富を有するわが国で最も強大な電気通信プロバイダー企業が故意に数千万件の重罪を犯そうと、議会はわが国の第一法を通してしまうのです。民事であれ、刑事であれ、どこまでもさかのぼれる免責特権を企業エリートたる友人たちに与える法律を。そうした犯罪は史上最長の刑に値するはずなのに。

こうした企業は、わが国でトップクラスの弁護士たちをスタッフとして抱えています。そして今なお自らが招いた結果に対する責任のかけらさえ問われていない。では、権力構造の最上層に位置する高官、具体的に例えれば副大統領が、こうした犯罪企業に自ら指示を出している疑いで捜査線上に浮んだらどうなるでしょうか。捜査は中止すべきだということになれば、その捜査結果はSTLW(ステラーウィンド)と呼ばれる”例外的制限情報”の区画に機密中の機密として分類されます。そして、権力を濫用するこうした人物の責任を問うのは国益に反する、われわれは”振り返ることなく、まえを向いて進まねばならない”という原則のもと、それ以上の捜査はいっさい不可能となるのです。(略)

私は自分の行動によって、自分が苦しみを味わわざるをえないことを理解しています。これらの情報を公開することが、私の人生の終焉を意味していることも。しかし、愛するこの世界を支配している国家の秘密法、不適切な看過、抗えないほど強力な行政権といったものが、たっった一瞬であれ白日の下にさらされるのであれば、それで満足です。あなたが賛同してくれるなら、オープンソースのコミュニティに参加し、マスメディアの自由闊達な精神の保持とインターネットの自由のために戦ってください。私は政府の最も暗い一角で働いてきました。彼らが恐れるのは光です。

(グレン・グリーンウォルド『暴露』)


いわゆる共謀罪法案の国会への提出に反対する会長声明

今般、政府は、2003年から2005年にかけて3回に渡り国会に提出し、当連合会や野党の強い反対で廃案となった共謀罪創設規定を含む法案について、「共謀罪」を「テロ等組織犯罪準備罪」と名称を改めて取りまとめ、今臨時国会に提出することを検討している旨報じられている。

政府が新たに提出する予定とされる法案(以下「提出予定新法案」という。)は、国連越境組織犯罪防止条約(以下「条約」という。)締結のための国内法整備として立案されたものであるが、その中では、「組織犯罪集団に係る実行準備行為を伴う犯罪遂行の計画罪」を新設し、その略称を「テロ等組織犯罪準備罪」とした。また、2003年の政府原案において、適用対象を単に「団体」としていたものを「組織的犯罪集団」とし、また、その定義について、「目的が4年以上の懲役・禁錮の罪を実行することにある団体」とした。さらに、犯罪の「遂行を2人以上で計画した者」を処罰することとし、その処罰に当たっては、計画をした誰かが、「犯罪の実行のための資金又は物品の取得その他の準備行為が行われたとき」という要件を付した。

しかし、「計画」とはやはり「犯罪の合意」にほかならず、共謀を処罰するという法案の法的性質は何ら変わっていない。また、「組織的犯罪集団」を明確に定義することは困難であり、「準備行為」についても、例えばATМからの預金引き出しなど、予備罪・準備罪における予備・準備行為より前の段階の危険性の乏しい行為を幅広く含み得るものであり、その適用範囲が十分に限定されたと見ることはできない。さらに、共謀罪の対象犯罪については、2007年にまとめられた自由民主党の小委員会案では、対象犯罪を約140から約200にまで絞り込んでいたが、提出予定新法案では、政府原案と同様に600以上の犯罪を対象に「テロ等組織犯罪準備罪」を作ることとしている。

他方で、民主党が2006年に提案し、一度は与党も了解した修正案では、犯罪の予備行為を要件としただけではなく、対象犯罪の越境性(国境を越えて実行される性格)を要件としていたところ、提出予定新法案は、越境性を要件としていない。条約上、越境性を要件とすることができるかどうかは当連合会と政府の間に意見の相違があるが、条約はそもそも越境組織犯罪を抑止することを目的としたものであり、共謀罪の対象犯罪を限定するためにも、越境性の要件を除外したものは認められるべきではない。

当連合会は、いわゆる第三次与党修正案について、我が国の刑事法体系の基本原則に矛盾し、基本的人権の保障と深刻な対立を引き起こすおそれが高く、共謀罪導入の根拠とされている、条約の締結のために、この導入は不可欠とは言えず、新たな立法を要するものではないことを明らかにした(2006年9月14日付け「共謀罪新設に関する意見書」)。また、条約は、経済的な組織犯罪を対象とするものであり、テロ対策とは本来無関係である。

そして、以上に見たとおり、提出予定新法案は、組織的犯罪集団の性格を定義し、準備行為を処罰の要件としたことによっても、処罰範囲は十分に限定されたものになっておらず、その他の問題点も是正されていない。

よって、当連合会は、提出予定新法案の国会への提出に反対する。

2016年(平成28年)8月31日

日本弁護士連合会
会長 中本 和洋


朝日新聞の報道

「共謀罪」新設案、問題点は 適用「組織的犯罪集団」に 当局の解釈で対象拡大も

2016年8月26日05時00分

安倍政権が捜査当局の悲願だった「共謀罪」について、大勝した参院選直後を狙って衣替えし、4度目の挑戦となる法案提出をめざすことになった。「組織犯罪」や「テロ」という名称を使うことで、東京五輪を控えたテロ対策のための法案であることを強調する構えだが、問題点は数多い。▼1面参照

「共謀罪というおどろおどろしい名前が悪いから、『概念がどんどん拡大する』『人権問題だ』と批判された。長い名前に変え、テロリストを捕まえるための法律であることを明確にする」

政権幹部は名称を「組織的犯罪集団に係る実行準備行為を伴う犯罪遂行の計画罪」(テロ等組織犯罪準備罪)に変える狙いを語る。適用範囲が限定されることを嫌い、条文には「テロ」という言葉を使わないが、通称名の冒頭に付けてアピールする方針だ。

テロ対策というイメージを強調する一方、法案の中身についても、共謀罪に関する過去の国会審議で浴びた批判をかわすよう修正した。

まず、適用対象を変えた。

共謀罪の条文案では「団体」とだけしか記されていなかった。このため野党は「健全な会社、労組、市民団体も対象になる」と批判。2006年の通常国会では、当時の民主党の主張を採り入れ、与党は「組織的な犯罪集団」と修正したが、廃案となった経緯がある。

今回は「4年以上の懲役・禁錮の罪を実行すること」を目的とする「組織的犯罪集団」とした。普通の会社員や労組は適用の対象にならないようになっ たと政権側は強調する。しかし、「組織的犯罪集団」の認定は捜査当局が個別に行うため、解釈によって対象が拡大する可能性は残る。

■要件に「準備行為」を追加 何が該当、基準は不明確

犯罪として成立する構成要件についても、今回の政府案は、犯罪を実行する「準備行為」が行われていることを付け加えた。

共謀罪では、犯罪の「遂行を共謀」しただけで罰せられる可能性があった。これに対して、「会社員が居酒屋で『上司を殺そう』と意気投合しただけで適用される」「目配せや相づちだけでも共謀と見なされる恐れがある」と批判が続出。与野党ともに犯罪の予備的な行為がなければ、罰するべきではないと訴えた。

今回の案では、この批判をかわすため、「犯罪の実行のための資金または物品の取得」という代表的な事例を条文に盛り込み、「準備行為」が行われていることを構成要件に加えた。これで、共謀、つまり話し合いや合意だけでは処罰されないようになったと政権は訴える構えだ。

暴力団組員らが振り込め詐欺を計画しても、すぐに翻意すれば処罰されない。一方で、テロ組織の構成員らが化学物質を使ったテロを計画して化学物質を調達したり、暴力団組員らが対立する組長を拳銃で射殺しようと拳銃の購入資金を用意したりしたケースは適用対象となる。

ただ、準備行為を定めた条文には「その他」という文言がある。事実上、何が該当するのか明確な基準はないも同然で、その解釈は捜査当局の判断に委ねられる。「準備行為」と、現行の刑法にある予備罪や準備罪の違いが分かりにくいとの指摘も出そうだ。

■対象の罪種、600超か

対象となる罪については、共謀罪の対象とした「4年以上の懲役・禁錮」を据え置き、罪種は600を超えるとみられる。

過去の国会審議で民主は、「5年を超える懲役・禁錮」で国際的な犯罪に限定して、約300に絞り込むよう主張。自民党法務部会の小委員会も07年、「対象犯罪の多さが国民に誤解や不安を与えている」として、「テロ」「薬物犯罪」など5類型に分け、計140前後に絞り込む修正案の骨子をまとめた。しかし今回の政府案は、いずれの案も盛り込まれていない。

■東京五輪のテロ対策、前面 過去3回、批判強く廃案

共謀罪を新設する議論が始まった背景には、国境を越える犯罪を防ぐため、00年に国連総会で採択された「国際組織犯罪防止条約」がある。日本も署名し、国会は03年に承認したが、条約を締結するには共謀罪を含む国内法の整備が必要。

小泉政権が03、04、05年と3回、共謀罪を新設する組織的犯罪処罰法改正案を国会に提出したが、批判が強く、いずれも衆院解散で廃案になり、条約は締結できていない。今年6月時点で、187カ国が締結。G8で締結していないのは日本だけだ。

ではなぜ今、安倍政権は名称を変え、中身も変えてまで、法案成立を狙うのか。

念頭にあるのは、4年後の東京五輪・パラリンピックだ。政権幹部の一人は「テロを防ぐためなら国民の理解を得られる。目の前に東京五輪を控えているのに、何もやらないわけにはいかない」とチャンスとみる。

過去に共謀罪法案が廃案となった時に比べ、現在は世界的にテロの脅威が格段に高まり、日本人も巻き込まれるケースが増えている。五輪を控え、テロへの不安が身近になるなかで、国民の理解を得られやすいとの思惑もあるようだ。

ただ、7月の参院選で自民党は公約で共謀罪には直接触れていない。「治安・テロ対策」として「国内の法制のあり方について検討を不断に進め」と記しているだけで、野党などからの批判は免れない。

衆参で単独過半数を確保し、内閣支持率が高水準を維持しているからこそ、「体力がある今のうちに一気に成立させるしかない」(自民党幹部)との算段が働いているのは間違いない。

9月に召集予定の臨時国会は、今年度の第2次補正予算案に加え、環太平洋経済連携協定(TPP)承認案、時間ではなく成果で賃金を払う労働基準法改正案など重要法案を多く抱えている。憲法改正や天皇陛下の生前退位をめぐる皇室典範改正論議も注目される。

このため国会の審議状況によっては、臨時国会で法案を継続審議とし、来年の通常国会以降で成立させるという見方もある。(久木良太)

■対象、制限的になるか疑問

日本弁護士連合会共謀罪法案対策本部副本部長の海渡雄一弁護士の話 共謀罪を新設する理由として、テロ対策のために国際組織犯罪防止条約を締結する必要があるとしているが、もともとこの条約はマフィアなどの犯罪集団の取り締まりが目的であり、テロ対策が目的ではない。条約締結は反対しないが、現在の日本の法制度を前提にすることでも対応は可能だ。

新たに提出される法案では適用対象の団体を限定するとされているが、本当に制限的な定義になるか疑問だ。また、組織犯罪とは関係のない罪も多く、600を超える罪が対象となる必要があるとは認めがたい。法案には反対だ。


内務事務官、緒方信一「防諜」、『警察協会雑誌』1940年6月号
「近代戦の特質は所謂国家総力戦たる点に在る。即ち戦の勝敗を終局的に決定するものは単に 武力でなく、国家の政治体制、経済的実力、又は国民思想の動向等国家総力の充実如何に存する。従って近代戦に於ては武力戦と並行し或は之に先行して外交戦、経済戦、思想戦が熾烈に展開されるのである。(略)斯る新しき形態の戦に於ては、諜報・謀略・宣伝等所謂秘密戦 の価値が極めて重要になって来るのである」

「諜報」の定義
「近代戦の特質は所謂国家総力戦たる点に在る。即ち戦の勝敗を終局的に決定するものは単に 武力でなく、国家の政治体制、経済的実力、又は国民思想の動向等国家総力の充実如何に存する。従って近代戦に於ては武力戦と並行し或は之に先行して外交戦、経済戦、思想戦が熾烈に展開されるのである。(略)斯る新しき形態の戦に於ては、諜報・謀略・宣伝等所謂秘密戦 の価値が極めて重要になって来るのである」

三つの「合法手段」
第一に、マスメディアの利用。「相手国に於て発行される新聞紙、雑誌其他の出版物を可及的多数蒐集して詳細熟読し、之を科学的組織的に分類又は集積して正確なる資料を得る方法」である。しかも、マスメディアのなかでも比較的検閲の目を逸れやすい地方紙誌の利用が諜報活動上有効だとみている。
第二に、観光、学術、観察等の名目で文書を照会したり合法的に調査する方法。「主として工場、港湾、交通、気象、各種資源、各種統計等に関する情報の収集に利用されることが多い」という。
第三に、「社交戦術」。「相手国の政界、財界の知名人士との接触面を広くし、努めて之等人士と会談の機会を作り、其の会談の間に種々のヒントを得て正確なる情報を掴まんとする」。
緒方は合法手段による諜報に対しては、「法令を適用して権力的に取締りを執行することは困難な場合が多く、又一面一般国民の側に於ては不知不識の間に之に利用せられ、乗ぜられる危険も少からず存する」と述べて、既存の防諜立法である軍機保護法、軍用資源秘密保護法等の軍事関連に限定された法令の不十分性を主張し、後に成立する国防保安法の必要性を強調した。
緒方はこの論文の最後に、警察組織や警察官はこうした「諜報」「防諜」活動にとって必ずしも有効な組織とはいえないと指摘している。警察は強制力を伴う取締りの組織でもあるために、「動もすると国民の側からすれば取締を受ける立場に立ち、之が為に正しい民情を警察官に対しては殊更に隠蔽することもなしとしない」と指摘し、従って「官にも非ず、民にも非ざる立場に立って深く民情の把握上通の任に当るべき者の必要」を強調することになる。ここに大政翼賛会、壮年団、翼賛政治会の意義があると緒方はみる。翼賛組織の構成員は彼らの職業や人間関係によってヨリ徴細な情報の提供者であると同時にまた、こうした「世間」の関係による〃偏り“もま た有するが故に、警察官吏はこの情報を「真に国家的の立場に立って判断し観察」「是正」するものと位置づけられている。


内閣情報局『週報』1941年5月14日号 国防保安法の制定をふまえた「防諜週間」へむけた防諜特集
「一般にスパイといえば、映画や小説に出て来るような、種々の方法で人を篭絡して秘密を盗み出す、或いは金庫をあけて重要書類を盗み出す影のような男、またはマタ・ハリのような女と思われているようである。こういうものもいるにはいるだろうが、しかし現在、日本はこういう諜者は余りいない。日本ではそんな危険なことをしなくても、白昼堂々と大手を振って仕事ができるからである」
「スパイの正体」とは「外国の合法的な組織の網」である。例えば外国系の銀行、会社、商店、教会、学校、社交団体などであり、「これらの中に恐るべきスパイの網があることを銘記すべき」だ。

「仮りにそれを非常に重要な秘密兵器の設計図としよう。これに『軍極秘』の判を捺して金庫の中に蔵っておけば、先づ誰にも盗めないわけだが、金庫の中に蔵って置くだけでは紙屑同様のものに過ぎない。全体の設計図は金庫の中にあっても、部分々々の図面は必要な方面に配布され、部分品は職工の手によって作られている筈である。すなわち軍極秘の書類の内容は、金庫の外に出ているわけである。金庫の中の物をとるのは難しいが、外へ出ているものを、ひとつつひとつは断片的なものでも、沢山集めれば金庫の中の本尊がわかるのである」

「この組織の網がいかに広く、いかに濃密に張りめぐらされているかは、例えば会社が全国に百ヶ所以上の支店、出張所などを持っているとする。一つの出張所から更に百の特約店を出しているとすると、全国に一万以上の第一段の網があるわけである。この特約店等に出入する人々を第二段の網とし、更にこれらの人に接触する人の数を考えてみると、とても想像できない程の多数に上り、これだけの網があれば全国のことは何でも集まるわけである。」

「例えばどこそこの誰が応召した、という話は、個々の事実としては大した価値はなさそうに見えるが、『どこの誰がどの師団に応召した』という話を日本全国からたくさん集めると、今日本ではどの師団とどの師団、計何ヶ師団を動員しているということが直ぐわかる。(略)即ちある土地での見聞では、局部的で大した価値のないことでも、広く日本全国に網を拡げている合法的な組織の網にひっかかり、そこで整理されると重大な情報となるのである。スパイは、何でもない話、断片的では決して法規にはひっかからない話を広い範囲から集め、整理して、重要な秘密事項を察知しているのだということを、国民はよく認識して、おしゃべりに注意していただきたい。でないと、スパイの片棒をかついだという結果になるのである。」

「次に防諜と法規の関係であるが、防諜は法律の禁止を守っただけでは、絶対に出来ないことを、明確に認識していただきたい。防諜に関する法律としては、軍機保護法、軍用資源秘密保護法、それに今度の国防保安法、その他要塞地帯法、軍港要港規則、陸軍輸送港域軍事取締法いろいろある。しかし法律というものは、最後の線だけを押えたものであって、法律でいけないということだけを守っていればいいかというと、それでは防諜は絶対に不可能である。
例えば軍機保護法で、東京横浜附近では、地上二十メートル以上の高所からは、許可なく写真をとってはならないことになっている。では二十メートル以下なら鉄橋をとろうと駅を撮ろうと差支えないことになるが、法律に触れていないというのでこんなものをどしどし出していると、とんでもないことになることは、前にあげた〔重慶の〕海鷲の鉄橋爆撃の例でおわかりのことと思う。従ってここに、官憲の行政指導が必要となってくる。法規にはなくても、防諜上必要と認める措置はどしどしとってゆかなくては、本当の防諜はできない」

監視社会

網羅的監視の構造

投稿日:

8月27日に、日本のジャーナリストとして初めてエドワード・スノーデンにインタビューした小笠原みどりの講演会が東京で開催された。会場は立ち見の出る盛況となり、丁度共謀罪の再上程報道があったばかりということもあって、参加者の関心は非常に高いものがあった。

小笠原のスノーデンへのインタビューについては既に、『サンデー毎日』に連載記事が掲載され、また、ネットでは『現代ビジネス』に「スノーデンの警告「僕は日本のみなさんを本気で心配しています」(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49507)が掲載され、インタビューの概要を知ることができる。

27日の集会での小笠原の講演で強調された論点は、私なりの関心に引き寄せて端的にまとめれば、日本におけるネット上の情報通信が網羅的に米国の諜報機関によって監視可能な環境に置かれていること、そして、こうした環境について日本の市民がもっと深刻に捉えて対処すべきだ、ということだ。とりわけ日本の政府もIT企業も、日本に住む人びとのプライバシーを米国から保護するどころか、むしろ構造的に日本の市民のコミュニケーションを監視する体制に加担している可能性を否定できないということが、事の重大性の核心にある。日本に住む多くの市民が「自分は悪いことをしていないから監視されるということはないだろう」あるいは「いくらなんでも日本の政府や企業が意図的に米国の諜報機関と共謀してこの国の住民のプライバシーを売り渡すなどということは被害妄想の類いではないか」と高を括っていることへの厳しい警告だったといっていいだろう。スノーデンの告発やwikileaksによる機密文書の暴露がドイツ、ブラジルなど諸外国でも国連でも大問題になり、多くの市民が抗議の声を上げてきているのに対して、小笠原は、日本のマスメディアや市民運動の動きの低調さへの危惧を率直に語ったと思う。

スノーデンがこれまでも繰返し警告してきたことは、小笠原の「現代ビジネス」の記述を借りれば、以下のようなことだろう。スノーデンは、小笠原のインタビューで、一般論として次のように述べている。

「多くの場合、最大手の通信会社が最も密接に政府に協力しています。それがその企業が最大手に成長した理由であり、法的な規制を回避して許認可を得る手段でもあるわけです。つまり通信領域や事業を拡大したい企業側に経済的インセンティブがはたらく。企業がNSAの目的を知らないはずはありません」

小笠原は「日本の通信会社がNSAに直接協力しているのか、それはスノーデンにも分からない。」と留保した上で、更に次のようにスノーデンの言葉を紹介している。

「もし、日本の企業が日本の諜報機関に協力していないとしたら驚きですね。というのは、世界中の諜報機関は同手法で得た情報を他国と交換する。まるで野球カードのように。手法は年々攻撃的になり、最初はテロ防止に限定されていたはずの目的も拡大している。交換されているのは、実は人々のいのちなのです」

「僕が日本で得た印象は、米政府は日本政府にこうしたトレードに参加するよう圧力をかけていたし、日本の諜報機関も参加したがっていた。が、慎重だった。それは法律の縛りがあったからではないでしょうか。その後、日本の監視法制が拡大していることを、僕は本気で心配しています」

上で指摘されている「法律の縛り」を一挙に解くことになったのが特定秘密保護法の制定であり、スノーデンは、「日本で近年成立した(特定)秘密保護法は、実はアメリカがデザインしたものです」とすら断言している。この法律があることによって米国と日本の政府の間での情報共有の実態を合法的に隠蔽することが可能になるからだ。米国の諜報機関の日本国内での活動は、日本政府や日本の企業の協力なしには不可能な領域が多く存在する。にもかかわらず、その実態は闇に包まれたままだ。企業にとっては権力犯罪に加担して自らの顧客の権利を侵害する方が企業の利益になるのであれば、顧客のプライバシーは容易に見捨てられる。マーケティングのためとあれば、顧客の行動をとことん監視する。そのための技術が急速に普及し、これが軍事や治安管理に転用されてきた。政府にしてみても、自国の市民の権利を抑制した方が国益に叶うということであれば躊躇なく権利侵害の力を行使するだろう。いずれも市民たちが、こうした実態を知りえないことが大前提になる。

便利なコミュニケーションツールとしてのネット環境、「平和」で娯楽に興じることができるアミューズメントパークのような都市環境のなかで、失業と貧困にあえぎながら高額の通信費を食費を削ってでも維持しようと必死になる姿は、監視されようがプライバシーが丸裸にされようが、それよりもこの電子的な蜘蛛の糸にすがることでかろうじて社会との繋がりを維持しなければ心と体の糧を失ないかねない不安があるからだ。快楽の装置に抵抗する一部の者たちが「テロリスト」とか「犯罪者」のレッテルを貼られて監視され排除され、あるいは社会的に抹殺されたとしても、それが権利なき祝祭を保障するのであれば、大多数の人びとには容易に受け入れられるということでもあるだろう。

小笠原も指摘しているように、こうした監視のシステムは、日本と米国を繋ぐ情報通信の海底ケーブルについては、千葉の新丸山陸揚局の名前が具体的に明かになっている。しかし奇妙なことに、日本のメディアはこの事実が明らかになって以降、一向にこの「新丸山」の実態に迫るような記事を書いていない。メディアには取材を自主規制する何かが働いているのだろうか。

米国に接続されている国際的な通信回線であれば情報の網羅的な収集は可能といえるが、それだからといって、このことだけで日本国内の情報通信が網羅的に米国諜報機関によって監視可能になるわけではない。新丸山は、韓国、台湾、中国沿岸部ともケーブルで接続されているから、日本とこれら地域との通信が米国によって監視しうる可能性はあるし、インターネットの世界規模の情報通信の経路の多くが米国を経由していることを念頭に置けば、日本と海外との情報通信を米国が監視する技術的な可能性は否定できない。しかし、以下のような回線の流れのうち、国外には出ない日本国内の情報通信については、陸揚局でデータを収集することはできないだろう。国内の情報通信を網羅的に監視するには別の鋳掛けが必要になる。つまり、受信側も発信側も日本国内にいる者の通信を強引に陸揚局を経由して米国に送るような仕掛けが必要だ。こうした仕掛けのためには、日本の企業や政府の協力が欠かぜない。

米国太平洋岸 → NSA

日本陸揚局

日本国内のインターネット回線網

たとえば、米国が関心を持つだろう日本国内の反基地運動や日米同盟に関わる動向、日本国内における中国や北朝鮮が絡む動きなど米国の安全保障に直接間接影響するような動向については、日本国内の情報通信を担う通信事業者や、日本に住む人びとの個人情報を管理している政府や民間企業のデータに何らかの形でアクセスできなければ網羅的な監視は完結しないだろう。これを可能にするには、政府と民間の情報通信関連企業が関与することが必要になるのではないだろうか。

通信の内容を全て地引き網のようにして収集するのではなく、メタデータやユーザの個人情報などを収集するというのであれば、決して難しくない。こうしたデータは通信事業者や政府のデータベースに既に存在しているからだ。小笠原は、NSAが関心を持つのは、必ずしも通信のコンテンツそのものよりもメタデータの方だ、とも指摘している。メタデータによって人間関係を把握することが相当程度可能であるからだ。この人間関係の把握を前提にしてターゲットを絞りこんで、その行動などをより詳細に監視する、ということになるだろう。こうした手法は、今後具体化されそうな共謀罪法案においても前提となる監視体制であり、改悪された盗聴法はそのための技術的なインフラを整備する口実として利用可能な条件を揃えているから、NSAの問題から見えてくるのは、米国の諜報機関に限った問題ではない、ということである。

小笠原の講演のなかでも、NSAに協力してきた企業として、マイクロソフト、google、facebook、youtube、appleといった末端の個々人のコミュニケーションに直接関与する企業の存在が指摘された。こうした企業の協力なしには網羅的な情報収集は不可能だと指摘されたし、スノーデンやウィキリークスが公開した機密文書でもこのことは明らかだ。とすれば、日本ではこの問題をどのように考えたらいいのだろうか。

私たちの個人情報や通信に関する情報を網羅的に収集するいくつかのポントがある。メタデータであれば先に述べたように私たちが契約している通信事業者が最大の情報保有者であるが、それだけでなく、私たちがインターネット上のウエッブにアクセスすれば、ウエッブサイト側はかなりの情報を獲得することができる。アクセスしているユーザーの個人名や住所などは特定できないとしても、端末やIPアドレス、サイト内の閲覧行動などはほぼ把握可能だ。こうしたネット上に残された足跡を、個々のユーザー一人一人について追跡してその情報をユーザー別に網羅的に把握することが文字通りの意味で可能であるためにはインターネット上に設置されているサーバーを全て監視することができなければならない。そのためには、大手のプロバイダーなどだけでなく、小規模なレンタルサーバー業者や個人による自主サーバー、海外に設置されているサーバーなどを網羅しなければならないだろう。こうした細部の問題を今脇に置かざるをえないとして、確実に私たちの情報が収集される可能性のある回路を考えておくことが最低限必要だろう。そうなると、契約している通信事業者がどのような情報を取得しているのかが多分最も確実な(政府や情報機関などに)提供可能な情報ということになる。

もうすこし具体的に考えてみよう。生活必需品になっている携帯電話やスマホを例にとると、通信事業者は次のような情報を保有する。

・端末がインターネットにアクセスする際のIPアドレス
・使用しているOSやソフトウェア
・契約者情報:契約したときに書類に記載する住所、名前、生年月日など。身分証明書類のコピーなど。支払いに必要な情報。
・通信のメタデータ(送受信の日時、相手の電話番号など)
・メールサーバーに保存されているメール(本文を含む)
更に、
・クラウドサービス(dropboxなど)を利用していれば、クラウドに保存されているデータ。
・gmailやyahooなどのメールサービスを利用していればこれらの企業のメールサーバーに蓄積されたデータ。
・ネットショピングをすれば購買履歴
・ウエッブで閲覧をすれば、閲覧履歴。(firefoxなどのブラウザーのプライベートブラウジング機能を利用した場合、手元のパソコンには表示したページ、Cookie、検索履歴などは残されないが、ネットワーク管理者やインターネットサービスプロバイダは、訪れたページを追跡できる。
・ネット上での買物は大抵クレジットカードが用いられるので、カード会社は購買履歴を保有する(最低でも請求書に記載されている購買履歴)
・携帯のGPS位置情報は通信事業者が保有できる。(appleは保有しないとしているが、NTTドコモは保有するとしている)
・多くの個人情報の取り扱い表示には、ユーザーの直接の契約相手の会社だけでなく、関連の会社への情報提供などがありうるとの記載がある場合が多い。
・信用情報(多重債務者でないかどうかなど)を紹介するために、個人情報は信用情報を専門に扱う会社が個々の通信事業者や金融機関を横断して集約している。

すでに、私たちは、これだけ多くの個人情報を自らのコントロールできない環境のなかに置かざるえをえない状況にある。これは、手紙や電話で通信をし、現金で取引きをしていた時代にはありえなかった状況である。それだけ私たちの自由は確実に狭められ脅かされている。

また、携帯の機能の高度化によってこれまで以上に多くの個人情報が携帯端末に保存されるようになってきた。その典型が生体認証だ。指紋によって待受画面からパスワードなしで起動できるなどの仕組みが便利だとされるが、このような生体情報に通信事業者がアクセスできるのかできないのかは、OSの仕様次第ではないだろうか。また、音声や動画などを扱うアプリがそのデータをどのように端末に保存しているのか、このデータに外部からアクセスできるのかどうかもアプリのプログラム次第だろう。

NSAの内部文書が暴露され、そこのアップルの名前があったことが、自由とプライバシーに敏感で、だからMSは使わないコアなアップルユーザーから厳しい批判に晒された。こうしたことがあってか、アップルはiPhoneにアクセスするためのパスコードをアップル自身でも解除できない仕様にした。こうすることで捜査当局からパスコードの解除での協力要請があっても対応できないとしたのだ。これに対して捜査当局は、テロリストの通信を監視できないなどアップルへの強い批判もあった。今ここでは詳しく述べないが、捜査当局はアップルの協力がなくてもパスコードは解除できるだろうというのが米国自由人権協会の専門家の見解なので、当事者の言い分を鵜呑みにするわけにはいかない。

私はアップルだけでなくどこのグローバル企業であれ、相手国の市場を獲得するには相手国の法や政府の政策を受け入れることが大前提になるだろうから、どこの国であれ米国並の市民的自由やプライバシーの権利をグローバルスタンダードにしているなどということはありえないと考えている。中国をはじめとする膨大なアジア市場をターゲットにする以上、政府の監視が不可能なような機器は米国など一部の国に限定されているに違いないと推測している。米国民はこれでプライバシーが保護されるかもしれないが、それ以外のユーザーは丸裸かもしれない。

この二重基準の可能性を私は強く疑わざるをえないのだが、このことは多国籍企業一般にいえる本質的な問題と関わっており、IT企業に固有のものではない。労動、環境、貿易、投資など各国が国内で活動する企業に課す固有の条件を前提として、たとえ欧米諸国では禁じられているような条件であっても、それがビジネスとして有利に展開できる(つまり、収益に結びつく)限りにおいて、個別の国の条件を最大限に利用しようとする。だから、多国籍企業による児童労働や人権侵害、環境破壊が 後を絶たないのだ。IT資本であれば、コミュニケーション・サービスを政府の意向や各国の法制度を前提として、時にはユーザーの権利を侵害することがあってもそれが有利なビジネスに結びつくのであれば受け入れるということだ。この意味で資本は、欧米の市民には市民的自由や言論表現の自由のプラットフォームを提供するリベラルな顔を作る一方で、独裁、権威主義的な国ではむしろ市民を監視する手先の役割を担う。こうした二重基準は、私たちからすれば肯定できない欺瞞であるが、資本にとっては、最大限利潤を獲得するためのビジネスモデルの構築という観点からすれば、完全に合理的な選択なのだ。資本主義の自由の本質は資本の自由であるということがIT資本では端的に示される。スノーデンたちが暴露したのはまさにこの資本の自由の欺瞞だったのだ。そして、日本もまた資本主義の国である以上、この欺瞞の世界にあることは否定できない。

アップルはウエッブ上に興味深い情報を提供している。それは、捜査機関向けに、アップルが取得した個人情報を捜査機関が取得する場合の手続きや条件を詳細に記載した「法的手続きのガイドライン:日本とAPACの法執行機関」という文書だ。やや長いが、このブログの最後に、その抜粋を掲げておいた。この文書が一般の「プライバシーポリシー」とは全くその性格が異なる。

この文書を読むと、アップルが保有する個人情報は日本にはないことがわかる。全て米国のデータセンターに暗号化されて保有されているということだ。アップルだけでなく、MSやNSAの強力している多くの米国系企業は、サーバを米国内あるいは個人情報やメタデータを監視・取得しやすい国に置いているのではないか。そうなると、かなりやっかいな技術的な手法やスパイ映画もどきの危ない橋をわたる必要もなくなる。合法的にあらゆるデータが国外のサーバに向けて送信されるからだ。

上でメタデータと書いたが、具体的に何が把握可能なのか。住所氏名など登録者情報の他に、アップルであればiCloudのメールログが取得可能で、ここには「日時、送信者のEメールアドレス、受信者のEメールアドレスなど、受信および送信の通信記録」が含まれるだけでなく「Eメールのコンテンツとその他のiCloudコンテンツ:フォトストリーム、書類、連絡先、カレンダー、ブックマーク」も含まれる。つまり、メタデータではなくデータそのものも取得可能だというのだ。クラウドサービスをやっている以上、これは当たり前のことではある。そして、多くのユーザが自分のパソコンにメールをダウンロードせずにクラウドやプロバイダーのサーバーに溜めてウエッブメールで閲覧するよおうになっている。しかも最近のパソコンはハードディスクを搭載せずクラウドを使用することを前提としたタイプのものが徐々に普及しつつある。

アップルの文書では、法執行機関側が必要なハードディスクなど記憶媒体を準備することなどをことこまかに指定している。この詳細な条件についての文言にまどわされがちだが、法的な手続き(緊急事態ではそれも省略可能だ)さえとれアップルは情報を提供すると言っている。これは現在の法制度の下では、避けられないことだといえる。アップルの文書は、わたしたちが知りえなかった、通信事業者と捜査機関との間の具体的な文書の構成について透明性を確保することによって、秘密裡に捜査当局に協力するようなことはしないと宣言しているに過ぎない。

アップルに限らず、米国系企業の場合、NSAによる網羅的な監視のうち、米国系企業が把握可能な個人情報については、それがたとえ日本国内の送受信者の間の通信であったとしても、米国内のサーバーから把握可能なものがかなりありそうだ、ということが推測できる。逆に、日本の捜査機関がこうした海外のサーバーにある個人情報などを取得するためには、日米捜査共助条約や同盟間のルートを通じて容易に情報の共有が可能に違いない。上記のアップルが提示しているような法執行機関向けの個人情報提供のガイドラインに沿うことが必要になるのかもしれないが、個人情報の取得が不可能ではない、ということでもある。

では、日本の通信事業者の場合はどうなのか。日本国内にデータセンターやサーバーを設置して個人情報を管理している場合は、NSAといえども自力で情報にアクセスすることは容易ではないように思われる。この場合にはやはり日本の通信事業者や政府などの協力が不可欠となるだろう。このようなケースが実は私たちにとっても最も不透明で解明が困難なところだろうと思われる。というのもこれまで、米国政府による違法ともいえる個人情報収集については、スノーデンやwikileaksなどや少からぬジャーナリスト、市民的自由の活動家たちが、多くの犠牲を払いながらも果敢に政府の隠蔽と闘い、その成果が公開されてきているが、日本についてはまだ氷山の一角の更にその隅っこほどしか情報が公開できていない。だから、日本国内における監視の実態はまだブラックボックスの中にある。

米国との通信回線として注目されるインターネットだが、これだけが米国と日本を結ぶ監視ネットワークの神経系だというわけではないと思う。インターネットとは全く別の世界規模のイントラネットがある。それが米軍の通信網だ。世界中の米軍基地と米国本国を結ぶネットワークが、セキュリティを強化したVPNのような仕組みでインターネットを共有しているとは思えないのだ。もし米軍が独自の回線網を持っているとすれば、それば日本国内の米軍や米国政府機関をネットワークするものであるだろうし、この通信網を介して米国に日本国内の情報が送られているとみることもできるかもしれない。この点で、日米同盟の問題は、狭義の意味での軍事安全保障だけでなく、広範囲にわたる私たちの日常生活の監視と統制を担うこの国の情報通信のインフラとも密接に関わっているといえる。

以上のような問題を考える上で、最低限考慮に入れるべきことは、私たちの個人情報をこれらの企業が入手できていなければ、そこから先、つまり諜報機関へと流れることはありえないだろうということ、逆に、これらの企業が取得している個人情報は、例外なく、諜報機関に提供される可能性が(法的には規制されている場合であっても)技術的には可能だということである。技術的に可能なことをやるかどうかは、企業と政府の意思決定に委ねられ、この意思決定は、政治に左右される。現在であればテロとか米軍基地問題とかかもしれないが、政治・社会状勢が変化すればターゲットが変わるにしても、どのようなターゲットに対しても対応できるような監視のインフラが既に存在している。

では、私たちはこの監視の包囲網と闘う術がないのだろうか。法は私たちの自由をそれ自体で守ってはくれない。この包囲網を破る闘いや運動は世界中で起きていることだから、この国の運動が(いかに政府の抑圧が厳しいとしても)やれないことではないだろうと思う。これは英雄的なハッカーを待望するということとは違って、むしろ私たちが、監視社会に加担するIT資本とどう向きあうか、という些細にみえる行動から始めることもできると思う。児童労働に加担するアパレル産業やパレスチナを弾圧しつづけるイスラエルの資本をボイコットする運動が一定の成果をあげてきたように、あるいは、原発再稼動を推進する電力会社を切って別の選択肢を捜すことができるように、監視社会に加担するIT資本をボイコットすることは不可能ではないと思う。社会運動の活動家たちがこうした問題にある程度の関心をもって、ちょっとした努力を惜まずに取り組めばいいだけのことだ。NSAに加担ししてきたマイクロソフトや、イスラエル政府の協力企業となったFacebook、網羅的な監視に利用されかねないgoogleを「便利」「皆が使っている」というだけの理由で運動の道具として選択するようなことをやめるだけでいい。かくいう私もまた完璧に監視に加担するIT資本に依存しないコミュニケーション環境を構築できているわけではない。それはまだ全く不十分ではあるが、コミュニケーションの権利、あるいは民衆的な自由にとってこのサービスやシステムを利用することは「あり」なのか、と一寸立ち止まって考えることから運動は始まると思う。


「法的手続きのガイドライン:日本とAPACの法執行機関」(抜粋)

「Appleは、法執行機関による法的に有効な要求を、Eメールによって受理します。ただし、Eメールの送信元が、当該法執行機関の認証されたEメールアドレスであることを条件とします。日本とAPACの法執行機関職員がAppleに法的要求を提出する際は、日本ではjapan_police_requests@apple.com 宛て、APACではapac_police_requests@apple.com 宛てに、認証された各法執行機関のEメールアドレスから直接送信してください。これらのEメールアドレスの使用は、法執行機関による要求の送信に限定されます。Appleは、法執行機関が発行する法的手続き文書を有効と見なします。これには協力要請書(Cooperation Letter)、証拠入手通知(Notice of Obtaining Evidence)、召喚状、裁判所命令、捜査および差し押さえ令状、1979年オーストラリア電気通信法(Telecommunications Act of 1979)にもとづく委任状、または各地でこれらの有効な法的要求に相当する文書が該当します。Appleが必要とする文書の種類は国によって異なる場合があり、要求される情報によって種類が決定されます。

データ保存要求

appleは、米国の自社データセンターにおいて暗号鍵を保持します。従って、米国外の法執行機関が当該コンテンツを要求する際は、米国司法省の担当局を通じて法的手続きを進める必要があります。米国と刑事共助条約(MLAT)を締結している米国以外の国は、当条約で規定された手続き、または米国司法省担当局とのその他の協調的取り組みを通じて、適切な法的手続きを進めることができます。

緊急対応要求

Appleは、以下の項目に対する深刻な脅威が真に差し迫っている状況に関連した要求を緊急対応要求と見なします。
1) 個人の生命または安全
2) 国家の安全
3) 極めて重要なインフラまたは施設に対する大規模な破壊行為

要求を行う法執行官が、上記の基準の1つ以上に該当する真の緊急事態に関する要求であることを十分に立証した場合、Appleはその要求を緊急に検討します。

Appleから入手可能な情報
A.デバイス登録
氏名、住所、Eメールアドレス、電話番号を含む基本的な登録情報
B.カスタマーサービス記録
デバイスまたはサービスについてカスタマーがAppleのカスタマーサービスとやり取りした記録
C. iTunes
登録者の氏名、住所、Eメールアドレス、電話番号などの基本情報が提供されます。さらに、iTunesで購入またはダウンロードした際の取引と接続の情報、iTunes登録者情報、IPアドレスの接続ログ
D. Apple Storeでの取引
Apple Storeで発生する店頭取引には、現金、クレジットカード、デビットカード、ギフトカードによる取引があります。特定の購入に関連したカードの種類、購入者の氏名、Eメールアドレス、取引日時、取引金額、店舗の場所に関する情報を入手するためには、法的に有効な要求が必要です。店頭取引記録に対する法的に有効な要求を提出する際は、使用されたクレジットカードまたはデビットカードの完全な番号と、取引日時、取引金額、購入商品などの追加情報を提供してください。さらに法執行機関は、レシートの写しを入手するために、購入に関連したレシート番号をAppleに提供できます。この情報は、要求者の国向けの適切な法的手続き文書を提出することによって入手できます。
E. Apple Online Storeでの購入
Appleは、氏名、配送先住所、電話番号、Eメールアドレス、購入した製品、購入金額、購入時のIPアドレスを含む、オンライン購入に関する情報を保持します。この情報を入手するためには、法的に有効な要求が必要です。
G. iCloud
iCloudコンテンツデータは、サーバの設置場所において暗号化されます。データの保存に外部業者を使用する場合、Appleがその鍵を業者に渡すことは一切ありません。Appleは、米国の自社データセンターにおいて暗号鍵を保持します。
Cloudから入手できる可能性がある情報は以下の通り
i.登録者情報
カスタマーがiCloudアカウントを設定すると、氏名、住所、Eメールアドレス、電話番号などの登録者の基本情報がAppleに提供されます。さらに、iCloudの機能への接続に関する情報も利用できる場合があります。iCloud登録者情報とIPアドレスの接続ログは、要求者の国向けの適切な法的手続き文書を提出することによって入手できます。接続ログは最大30日間保持されます。
ii.メールのログ
メールのログには、日時、送信者のEメールアドレス、受信者のEメールアドレスなど、受信および送信の通信記録が含まれます。執行官がメールのログを要求する場合は、その旨を法的要求に明記する必要があります。この情報は、要求者の国向けの適切な法的手続き文書を提出することによって入手できます。iCloudのメールログは最大60日間保持されます。
iii.Eメールのコンテンツとその他のiCloudコンテンツ:フォトストリーム、書類、連絡先、カレンダー、ブックマーク、iOSデバイスのバックアップ

appleは、米国の自社データセンターにおいて暗号鍵を保持します。米国外の法執行機関が当該コンテンツを要求する際は、米国司法省の担当局を通じて法的手続きを進める必要があります。米国と刑事共助条約(MLAT)を締結している米国以外の国は、当条約で規定された手続き、または米国司法省担当局とのその他の協調的取り組みを通じて、適切な法的手続きを進めることができます。Apple Inc.は、MLATの手続きに従って捜査令状が発行された場合にのみ、カスタマーのアカウントにあるカスタマーのコンテンツを提供します。

I.パスコードロックされたiOSデバイスからのデータ抽出
特定のデバイス上の特定のコンテンツにアクセスするための技術的なサポートを要求する場合は、刑事共助条約(MLAT)の手続きを通じてApple Inc.に連絡してください。米国外の法執行機関が当該コンテンツを要求する際は、米国司法省の担当局を通じて法的手続きを進める必要があります。米国とMLATを締結している米国以外の国は、当条約で規定された手続き、または米国司法省担当局とのその他の協調的取り組みを通じて、適切な法的手続きを進めることができます。

正常に動作するデバイスについては、カリフォルニア州クパチーノにあるApple Inc.本社でのみデータ抽出プロセスを行うことができます。Apple Inc.がこのプロセスをサポートするためには、後出の文言を捜査令状に記載することが必要です。また、捜査令状にはデバイスのシリアル番号またはIMEI番号を必ず入れてください。iOSデバイスのシリアル番号またはIMEI番号の場所の詳細については、
http://support.apple.com/kb/ht4061
を参照してください。
捜査令状に記載する裁判官の氏名は、書類に正しく記入できるように、はっきりと判読できる活字体で記載してください。
法執行機関は、この文言を含む捜査令状を取得した後、その令状をsubpoenas@apple.com 宛てのEメールによってApple Inc.に送達してください。データを抽出するiOSデバイスをApple Inc.に渡す方法には、面会と配送があります。法執行機関が配送を選択した場合は、配送を依頼するAppleからのEメールを執行官が受信するまでは、デバイスを発送しないでください。面会によって渡す場合、法執行機関職員は、iOSデバイスのメモリ容量の2倍以上にあたるストレージ容量があるFireWireハードドライブを持参してください。デバイスを配送する場合、法執行機関は、iOSデバイスのメモリ容量の2倍以上にあたるストレージ容量がある外部ハードドライブ、またはUSBサムドライブをAppleに提供してください。配送を依頼するEメールを受信するまでは、デバイスを発送しないでください。
データ抽出プロセスの完了後、デバイス上のユーザー生成コンテンツのコピーが提供されます。Apple Inc.は、このプロセスによって抽出されたユーザーデータのコピーを一切保持しません。従って、すべての証拠の保存は、法執行機関の責任のもとで行われるものとします。

捜査令状への記載が必要な文言:

「アクセス番号(電話番号)_________、シリアル番号3またはIMEI番号4_________、およびFCC ID番号_____________を持つ、_______ネットワーク上のモデル番号____________のApple製iOSデバイス1台(以下「デバイス」)の捜査において、デバイスが正常に動作し、パスコードロックによって保護されている場合、Apple Inc.が妥当な技術的支援の提供によって[法執行機関]を支援することを、この書面をもって命ずる。この妥当な技術的支援には、可能な範囲におけるデバイスのデータ抽出、デバイスから外部ハードドライブまたはその他のストレージメディアへのデータのコピー、および前述のストレージメディアの法執行機関への返却が含まれる。法執行機関はその後、提供されたストレージメディア上にあるデバイスのデータの捜査を実施できるものとする。
さらに、デバイス上のデータが暗号化されている場合、Appleは暗号化されたデータのコピーを法執行機関に提供できるが、その解読を試みることや、その他の方法で法執行機関が暗号化されたデータにアクセスできるように計らう義務はないものとする。
Appleは、デバイス上のデータの完全性を維持するために妥当な努力をする一方で、この書面により命じられた支援の結果としてユーザーデータのコピーを保持する義務は一切ないものとする。従って、証拠の保存は法執行機関の責任のもとで行われるものとする。」

Q.ロックされているiOSデバイスのパスコードをAppleに提供してもらうことはできますか?
A:いいえ。Appleはユーザーのパスコードにアクセスできません。ただし、このガイドラインで説明している通り、デバイスに搭載されたiOSのバージョンによっては、MLATの手続きに従って発行された有効な捜査令状があれば、ロックされたデバイスからデータを抽出できる場合があります。
Q.Appleは要求に応じて提供できるGPS情報を保存していますか?
A:いいえ。Appleはデバイスのジオロケーションを追跡しません。
Q.提供された情報を使って法執行機関が捜査または刑事事件に関する業務を完了した後、その情報はどのように処理すべきですか?
A:法執行機関のために抽出された、個人を特定できる情報を含むすべてのファイルと記録(すべてのコピーを含む)は、関連する捜査、犯罪事件に関する業務、すべての再審請求が完全に終了した後に必ず破棄してください。

「EMERGENCY Law Enforcement Information Request」フォームは、次のリンクから編集可能なPDFとして入手できます。
http://www.apple.com/legal/privacy/le-emergencyrequest.pdf

主宰者からのお知らせ

集会ご案内:(富山)戦争法(安保法制)下の共謀罪──なぜ、いま、「テロ等組織犯罪準備罪」なのか

投稿日:

下記の富山の集会で話します。


戦争法(安保法制)下の共謀罪──なぜ、いま、「テロ等組織犯罪準備罪」なのか──
▽ 日時:2016 年 10 月 30 日(日)午後1:30〜3:40
▽ 会場:自治労とやま会館 3階大会議室(富山市下新町 8‐16)

▽ 講演:小倉 利丸 さん(元富山大学教員)

一般 1000 円/学生 500 円/高校生以下無料(障がい者の介助者は無料)
「共謀罪」「テロ等組織犯罪準備罪」??
「安倍政権は、小泉政権が過去 3 回(2003 年~05年)にわたって国会に提出し、廃案となった『共謀罪』について、適用の対象を絞り、構成要件を加えるなどした新たな法改正案をまとめた」と、朝日新聞が 8 月26 日付で報じました。2020 年の東京五輪の警備やテロなどに対処するためとして、罪名を「テロ等組織犯罪準備罪」に変え、今秋臨時国会での提出を考えている、というのです。
▼いままで3度も廃案にされたのは、どこか問題があったの?
▼今度は、名前を変え、中身も変えて、出すのだから、問題ないのでは?
▼テロリストを取り締まるのだから、必要なのでは?
▼それって、私たちには関係あるの?

▽ 小倉さんのメッセージ
戦争法の成立は、従来から批判されてきた共謀罪法案の性格を、根本から変える危険性をもつものだと思います。この点を踏まえて、共謀罪の問題点についてお話しようと思います。
▽ プロフィール
2015 年 3 月まで富山大学経済学部教員
著書に
『抵抗の主体とその思想』(インパクト出版会)、
『危ないぞ 共謀罪』(共著、樹花舎)、
『アベノリスク—止めよう!市民監視五本の矢』(共著、樹花舎)、
『絶望のユートピア』(桂書房)など。

主催 :秘密法廃止市民ネットとやま
問合せ先
090-8704-5004(土井)
https://www.facebook.com/considersecrecylaw

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主宰者からのお知らせ

『絶望のユートピア』刊行のお知らせ

投稿日:

久し振りに本を出しました。タイトルは『絶望のユートピア』。タイトルにある「絶望」という言葉と「ユートピア」という言葉は、真逆のようでもありますが、「の」に込めた意味をどのように取るかで、そのニュアンスは変わるだろうと思っています。「私の本」のように所有や帰属を意味する場合、「海の青」というように、ある事柄の性質を意味する場合、「1917年のロシア革命」のように、ある時間や時代と事柄を繋ぐ場合、「机の上の本」のように、あるものとあるものとの関係を示す場合など、「の」には多様な意味、機能があります。本書のタイトルの「の」もまたそうした多様な「の」としての意味をもたせているつもりです。本は、これまでに私が書いてきた文章のなかから三分の一ほどを選んで掲載しました。配列は時系列でもカテゴリー別でもありません。一見すると混沌としていますが、それがこれまで私が書いてきたことのありのままであると思っています。

多くの皆さんに手にとっていただくには本書は定価5000円とかなり高価です。専門書などなら5000円は高くないという人もいますが、本代に1000円出すのも大変という人の方が圧倒的に多いはず。毎月ギリギリの収入で暮している人たちにも何とか本を手にとってもらう方法のひとつとして、一度に5000円は出せないけれども、毎月少しづつなら払えるという人たちにも手のとどく方法として分割払いを決断しました。

詳しくは下記をごらんください。
https://dararevo.wordpress.com/


前書きから(抜粋)
(注)以下の文章は本に収録した文章とは正確には一致しません。一部省略し、校正の時点での加筆は反映されていません。参考までにお読みください。

ネットの時代になって、紙の新聞のような読み方は廃れつつあるように思う。ネットで必要な情報を得るようになってから、私たちは、あらかじめ得たいと思う情報をキーワードで検索して、必要な情報を必要な限りにおいて得るという効率性の世界に慣れはじめている。カテゴリーへの拘束が著しく強められるような環境のなかに追い込まれてしまったともいえる。また、ブログやツイッターのように、タイムラインに沿って事柄が一つの時間軸のなかに配置されることも当たり前のようになってしまった。

本書は、そうした今ある情報環境を前提とした「知識」の構成を捨てて、もっとカオスに近いものへと押し返す目論見でもある。本当ならば、すべての文章を最初から最後まで、タイトルも小見出しも、いや、段落すらもない文章にしてしまいたかったし、読み始める入口も一つではないものにしたいくらいなのだが、それはあまりにも気を衒い過ぎたものにしかならないだろうから、とりあえず、個々の文章については、初出のスタイルを維持しつつも必要な加筆や修正はほどこした。

私は、大学の研究者、教育者として、あるいは社会運動の活動家として、たぶん、そのいずれにおいても極めて中途半端な存在であり続け、徹底した生き方ができないまま、必要に迫られて文章を書いてきた。こうして出来上がった文章の山は、その時間の経過からすれば、決して大きなものではないだけでなく、その山は、特定の分野についての深い洞察や徹底したこだわりがあるわけでもないし、該博な知識に裏付けられた百科全書のようなものでもない。外国語の能力を駆使してこの国に未だ紹介されていない海外の研究や思想を輸入するような能力にも長けているわけではない。いわば、計画性のない増改築を繰り返した挙句、ついに「完成」と呼ぶにはほどとおい芥屋敷の類いが本書である。だから、最近とみに多くなった大部の書籍とは外見が似ていても、その成り立ちと構成はほとんど似たところはないと思う。したがって、読者の皆さんとしては、どこから読んでいただいても構わない。

本書に収録した文章群はほぼ1980年代に本格的に文章を書き始めてから現在に至る四半世紀のテキストから、既に単行本としてまとめたものを除いたテキスト群から選別して編集したものである。その時々の状況のなかで書かれた時事的な内容もあれば、かなり理論的な内容のものもあり、また短文もあれば数十ページの長い文章もあり、それらがほぼアトランダムに収録されている。以下、若干の編集方針と注釈を述べて「前書き」にかえたいと思う。

テキストをどのように解釈するかは、読者の領分に属することだ。しかし、著者は勝手な解釈を歓迎するというよりも、いかにして著者の意図や趣旨を読者に「正確に」理解してもらうか、ということに執着して読者の解釈をコントロールしようとする。著者としての私もまた著者である限り、読者をコントロールしたいという欲求を持つが、他方で、読者としての私は、様々なテキストを「読む」場合には、いかにして著者の期待を裏切るような解釈ができるか、というややひねくれた意図をもって解釈の自由度を拡げたいという気持ちを抱くことも事実である。本書は、こうした著者と読者の間にあるテキストを、著者ではあっても、より自由な「読み」を読者の手に委ねようという意図をもって編集した。これは、読者に媚びたいのではなく、読者自身が意図していないテキスト相互の関係の網のなかに誘惑したいということである。

私が最初に出版した『支配の「経済学」』の読者は、二番目に出した『ネットワーク支配解体の戦略』にはかなり失望したように思う。最初の本を書いた後で、私は、より現在に近い現実の分析枠組を提示したいと思った。私は、「思想家」ではないし、最初の本も、現実の資本主義批判に必要な理論的な前提を、従来の私が縛られてきた前提を壊してスケッチしたいということだった。しかし、後者は、思想や理論ではなく現実の社会を対象にしたことによって、現実の世界への批判を知的な世界の批判によって代位する悪しき人文主義にとらわれた人たちには、つまらない本だったと思う。そして、『アシッドキャピタリズム』では、もはや『支配の「経済学」』の読者はほとんど見出せないように感じた。だから、この両方を読んでくださった数少い読者の方達には特に深い感謝の気持ちを感じている。

他方で『アシッドキャピタリズム』は、そのややキャッチーなタイトルの本だったために、文字通り「アシッド」な本だと誤解して買ってくれた若いアートや音楽が好きな読者にも受け入れられたことは嬉しいことだった。他方で、彼らの多くは、必ずしも私の『支配の「経済学」』の読者やその後に書いた社会批判に関わる本の読者になるということでもなかったようにも思う。その後私は、監視社会や情報資本主義の問題、グローバル資本主義と社会運動、天皇制と表現の自由の問題など、「雑多」な課題に首を突っ込み、何冊かの本を出してきた。それぞれの問題群ごとに、数少ない私の読者が別々のレイヤーを構成し、あまりその間を横断するような読者がいないように感じてきた。

たとえば、アントニオ・ネグリらがマルチュチュードという概念によって新たな変革の主体を再定義しようとしたとき、その前提となる世界にインターネットやサイバースペースがもららす可能性へのかなり楽観的な見通しがあったと私は感じた。私は、情報通信のガバナンスの問題(これが権力の問題であることは言うまでもない)を見ずに、ユーザーインターフェースのレイヤーだけでその「自由」を判断する皮相なネットアクティビズムにはどうしても同意できなかった。世界でたった一つしかない「インターネット」、殆どのパソコンのOSはマイクロソフトとアップルに独占されている情報環境のどこに「自由」の基盤があるというのだろうか?このような「自由」は幻影に違いないと疑うことはアクティビストにとっては難しいことではない筈だが、多国籍企業を批判してやまないアクティビストが、ウィンドウズPCやSNSに違和感や苦痛を感じているという場面に遭遇することは極めてマレだった。なぜこのような奇妙な日常が、「運動」の現場でも生じていしまうのかという疑問は、現代の社会が抱える問題を、既存のカテゴリーのレイヤーに沿って配置してしまった結果なのではないかと思うようになった。グローバルな反グローバリゼーション運動がインターネットを駆使して実現できたことは事実だとしても、そこにはかなり厄介な落とし穴があるということだ。こうした問題を情報資本主義と監視社会の問題として、マルクスの言う下向法の出発点に置いた私の問題意識は、監視社会に関心を持つ人たちにはある程度の関心をもってもらえたが、他方で、左翼人文主義の人たちにとっては関心の中心にはなってこなかったのではないかと思った。

右に述べたことはほんの一例であって、こうした既存のカテゴリーの溝によって生み出された超えがたい亀裂は随所にあり、支配の構造が巧妙に仕掛けたこの分断線を超えないところで、運動も批判的な知も自閉する状況が続いてきたように思う。私にできることは、私が書いてきたものをこのカテゴリーに従属させないということくらいなので、それをここで実行しようと思った。これが本書でカテゴリーによる編集を退けようと思った動機である。

私が独特な意味を込めて使用している概念については、もしかすると分りにくいかもしれない。ここで少しだけ注釈を加えておきたい。

たとえば、〈労働力〉というカッコ付きの労働力がよく登場する。幾つかの文章では簡単な注釈をつけておいたが、これは私にとってはかなり中心的な問題意識に関わる考え方に基づくので説明しておきたい。

〈労働力〉とは、変数としての労働能力を指している。実際に労働者が実行する労働の行為を支える労働能力ではない。可能態としての、あるいは潜勢力としての労働力といってもいいかもしれない。労働市場で売買されるのは、この意味での〈労働力〉である。本当は、このようなわずらわしいカッコを外したいのだが、マルクスを始めとして、一般に労働力として論じられている概念には、この可能態としての意味はほとんどない。労働市場で購入された労働力は、その能力を100%発揮するものだということを前提として理論が組み立てられている。しかし、私は、どのような強権的な資本の下にあっても、どれだけの労働を投下するかを最終的に決定するのは労働者の意思であり、労働する身体としての能力をどの程度発揮しようと思うのかは、労働者の意思に依存すると考えており、これが、労働と資本の重要な闘争の主題になってきたと考えている。この労働の発揮の水準は、賃金、労働時間、労働内容、労働組織の人間関係などでも決まるが、それだけではないし、これらの要因も単純ではない、勤勉と怠惰、従属と反抗、過剰な同調、自傷的な自己犠牲、これらの間で揺れながら、構造としての階級が一方で資本の搾取を、他方でこの搾取を阻害する労働者の個人的集団的あるいは文化的な態度の弁証法が成立する。言い換えれば、この労働をめぐる意思の問題を論じうる枠組を構築することなしに、資本主義批判を徹底させることはできない、ということでもある。

〈労働力〉と表記しているときには、この〈労働力〉の担い手がどのように自己の能力を労働として実現するかは不確定であるということを含意している。この不確定性が時には労使間の摩擦や対立をもたらすかもしれない。本書ではこうした〈労働力〉概念の再定義がもたらす全体としての資本主義批判については断片的にしか言及されていない。この問題については別途きちんと論じる機会を持ちたいと考えている。

もうひとつ、搾取という概念の再定義についてここで簡単に説明しておきたい。搾取は、資本主義批判の基本として、通俗的に用いられる場合もあればマルクス主義の理論的な枠組として厳密に論じられる場合もあるが、いずれの場合も、搾取が関係するのは労働者が資本のために必要労働を超えて労働する「剰余労働」であるという基本認識に基づいている。長時間労働や資本の飽くなき利潤追求が労働者の搾取を招くという場合、問題は、単に「剰余労働」に限定されるわけではない、というのが私の理解だ。搾取は、一般に、剰余労働の量的な概念に(経験的な世界でいえば賃金と利潤の量的な関係)関わるとされているために、行為の意味それ自体が資本によって剥奪されるという側面への関心は中心を占めなくなってしまった。

問題は、労働時間の長さだけでなく、そもそもの労働それ自体の意味にある。若いマルクスは、これを「疎外された労働」という感性的な概念で問題にしようとしたために、「物象化」された労働者の観念を問題にできなくなった。近代の人間が〈労働力〉を市場で売買するようになってから、労働と生活を繋ぐ内在的な意味の構造に深刻な亀裂が生まれた。この亀裂は、学校教育であれば、科目の配列相互の関係がどうあれ、最終的に学んだ内容が成績という「量」によって評価されて序列化されるところに表われている。こうした意味不明な教育のカリキュラムを不可解と感じることなく受け入れる心理が普通であり、これを理解できない子どもたちは問題のある子どもたちだとみなされる。同様に、労働の苦痛や意味を見い出せないことによって抱える悩みを直視しようとする人たちは、社会的な適応障害を抱えることになる。人間は象徴的な事柄の意味の関係性のなかで幻想的な首尾一貫性の観念を形成することによって、行為の意味を生成するが、ここには、論理を超越する日常生活それ自体の構造がある。

近代社会は、資本や国家という「大きな物語」の担い手がこの超越的な意味の織物を構成することによって、この社会に内在する剥奪された意味の世界にある種の「意味」を挿入する。私たちが、資本や国家が挿入するこの意味から離脱して、自立した意味の世界を生きようとすれば、それは、多分、この支配的な世界からすれば容認できないか理解しえない意味に捉えられた行為や主張だとしか思われない可能性がある。搾取とは、私たちが資本と国家から自立した意味を喪失せざるをえない意味の織物のなかに捉えられているという側面を含むものとして再定義が必要なのである。

この他、本書では、通説に反する考え方がいくつか登場する。たとえば、近代資本主義の家族制度を私は「一夫多妻制」として捉えているとか、階級という概念を人口構成など人の分類としてではなく、「構造」として捉えるといったことが前提として書かれた文章がある。一夫多妻制については本書に収録した二つの文章で、その内容についてやや詳細に論じたので、そちらを読んでいただいた方がいいだろう。また階級を「構造」概念として捉えるということについては、本書以外の私の著書で既に述べているので本書では、特にまとまった記述はないが、特にそのために理解が困難になることはないと思う。

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政府の監視に加担するソーシャルメディア

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米国の諜報機関、捜査当局のなりふり構わぬ監視活動が最近次々に明かになっている。ロイターは10月5日付の記事で「米ヤフー(YHOO.O)が昨年、米情報機関からの要請を受けてヤフーメールのユーザーのすべての受信メールをスキャンしていたことが、関係筋の話から明らかになった。」と報じた。対象になっているのは数億のメールアカウントで、メール本文も含まれるという。そして次のようにも報じている。

「情報機関はヤフーに対し特定の文字をサーチするよう要請していたが、どのような情報を求めていたのかは明らかになっていない。関係筋によると、メールもしくは添付ファイルに記載されたフレーズを求めていた可能性がある。」

スノーデンやウィキリークスによるNSAの内部文書暴露によって、上記のような網羅的な監視が行なわれているのでは、ということが指摘されてきた。そして、キーワードによって網羅的に収集したメールを取捨選択する仕組みもあるのでは、と言われてきたが、今回の報道は、こうしたこれまでも報じられてきた疑いを、内部関係者の証言だけだが裏付けるものになったといえる。

ヤフーは先頃、IT大手のヴェライゾンに買収されたばかりだが、ヴェライゾンはNSA協力企業として、極秘文書にもその名前があり、しかも、日本と米国を結ぶ通信回線の監視にも関与している疑いのある企業でもある。しかも、今回のヤフーによる諜報機関などへの協力が、企業トップのマリッサ・メイヤー最高経営責任者(CEO)の決定だちうから、企業ぐるみであり、かつ企業の経営方針でもあることがわかる。事実、これに反発して昨年6月に情報セキュリティ責任者アレックス・スタモスが辞任する。

さて、このような米国の監視が米国で起きているから国外のわたしたちは安心かといえば全くそんなことはない。報道にあったように、監視されているのは受信メールである。(インターネットの仕組みからみて送信メールを送信側のメールサーバで取得するのは受信メールを横取りするよりやっかいだと思う)だから、取得されるメールは、様々な国地域から様々なプロバイダーと契約しているユーザーであって、ヤフーのユーザに限定されない。しかも、日本のヤフーのアカウントを持っている場合は監視対象外になるかといえば、たぶんそうではない。メールサーバが米国内に設置されている可能性が高いからだ。数億というアカウントの数が報じられているが、この数は米国だけでなく全世界のヤフーのユーザの数ではないかと思われる。ヤフーは、「米国の法律を順守している」と声明しているというが、いったいどのような法律によればこうした網羅的にメールの内容まで監視・取得できるのだろうか。国家が法を越えた行為をすることが当たり前になっている米国では(ガンタナモしかり、ドローンによる越境爆撃しかり、NSAなどの諜報活動しかり)、法治国家の実体が事実上形骸化している。これは米国だけでなく世界的な傾向であり、こうした状況のなかで法律順守といった発言は、全く責任をともなうものとは言い難い。

もう一つの問題は、こうした米国ヤフーの行動について日本のヤフーはどのような対応をとるつもりなのかという点である。日本法人がこうした米国ヤフーの対応を黙認するのか、あるいは、もし、サーバが米国内にあって、日本のヤフーのユーザや、ヤフーのアカウントに送信した全てのメール送信者のプライバシーの権利が侵害されている可能性があるとすれば、その事実を公表しなければならないだろう。そして日本法人として、ユーザーのプライバシーを最優先に考えるのであれば、こうした網羅的な監視に協力しない技術的な(言葉ではなく)対応をとるべきだろう。

●IT企業の協力なんていらない?──FBIのハッキング捜査

すでに書いことだがここで繰り返しておきたい。電子フロンティア財団(EFF)が9月15日付でウエッブに「FBIによる前例のない違法なハッキング作戦」という記事を掲載した。この記事によると、2014年12月、外国捜査機関による児童ポルノサイト(ネット上の闇サイトでThe Playpenと呼ばれている)の情報提供をきっかけに、捜索令状を裁判所から得たFBIは、このサイトのサーバーをそのまま稼動させ監視を続けた。この間にFBIは、このポルノサイトにアクセスしたユーザーのコンピュータに侵入して個人情報を取得するウィルス(一般にマルウェアと呼ばれる)を仕込むハッキング捜査を実施した。裁判所の令状がハッキング捜査の令状ではなかったことで裁判で争点になっている。実は捜索令状でどこまで捜索が可能かは、サイバースペースでの捜索においては常に問題になる。リアルワールドであれば場所を特定することが令状主義のルールとされているが、サイバースペースの「場所」はバーチャルでありネットワークで接続されている全てをたった一通の令状で捜索することも可能だ、という拡大解釈をする動機が捜査機関側にはありうる。こうした権力の動機を規制する法制度も技術的な規制もほとんどない状態だ。

わたしたちがウエッブにアクセスした時の直感的な感覚としては、あたかもテレビを観ているかのような錯覚に陥いっているといえそうだ。しかし、最近のデジタル放送も同様だが、ウエッブの受信側と送信側の双方のコンピュータの間では、ユーザには実感できない様々なデータのやりとりが行なわれている。そのなかには、IPアドレスや自分のPCのOSの情報やブラウザの情報なども含まれ、このやりとりをするソフトウェアのセキュリティホールなどを利用してウィルスを仕込むことも可能になる。FBIはこの仕組みを利用してハッキングをしたわけだ。FBIはハッキングとは呼ばずに「Network Investigative Technique」、略称NITと呼んでいるらしいが、要は官製ハッキングであり、米国が蛇蝎のごとく嫌うロシアや中国などの政府によるハッキングと同類である。

このケースでわかるのは、サーバの管理者が捜査に協力しなくても、管理者に知られることなく捜査機関はサーバを利用するユーザの個人情報を取得できる技術をもっているということだ。Playpenのケースが児童ポルノであるために、捜査機関が用いた手法の問題性への関心が逸らされかねないのだが、ハッキング捜査はどのようなケースであっても可能な捜査技術だということである。今回たまたま児童ポルノサイトでのハッキング捜査が露呈したに過ぎず、他にも同様のケースがありうると考えるべき事案だろうと思う。とくに、サーバを民間のプロバイダなどに依存しないで自主運用していたり、捜査機関に安易に協力しないプロバイダーであったり、国外にサーバがあって容易にその管理者の協力を得られないといった場合に、こうしたハッキング捜査が行なわれる可能性が高い。日本は米国とは違うのでは、ということは成り立たないだろうと思うし、米国の捜査機関がやっていることは日本の捜査機関でも(少なくとも技術的には)やれるということでもある。

このハッキング捜査は、リアルワールドであればたぶん潜入捜査やおとり捜査に該当するものかもしれない。こうした潜入捜査が認められているのであれば、サイバースペースでの潜入捜査なども認められて当然という考え方が捜査当局にあってもおかしくない。こうした潜入捜査を規制する明確な法制度は、米国にも日本にもないように思う。ハッキング捜査は、盗聴捜査以上に密行性が高くなるだろう。こうした手法を支える技術は、どこの国でも、捜査機関だけでなく諜報機関など軍事組織でも使えるということでいえば、政府がいう「サイバー戦争」なるものの武器の一つでもある。警察も軍も銃を使うのと同様、どちらもコンピュータウィルスを使うということだ。

この事件の最大の教訓は、FBIには、サーバーの管理者やプロバイダーの協力なしに侵入し、ウィルスを仕掛ける技術があるというところにある。従来、ネット監視にどのようにIT企業などを協力させるか、あるいは現に協力しているのかが話題になることが多かったし、冒頭に述べたヤフーのケースもこの流れに該当するが、Playpenのケースは、捜査機関がネット事業者抜きでかなりのことまでやりおおせるということを示したものとして注目すべきことだ。捜査機関や諜報機関は、これまでも何とかしてこれら企業依存しない監視・情報収集体制を構築したがってきた。日本の改悪盗聴法でも、業者の立ち会いを排除し、更には業者の通信施設ではなく警察署などでも盗聴可能な態勢を構築する方向で法を緩めようとしてきたことに、権力が脱民間企業の方向をとろうとしていることが表われている。軍事組織になれば尚更だろう。

●フェイスブック:政府をビジネスパートナーにするソーシャルメディア資本

次はフェイスブックである。 フェィスブックによる検閲事件が相次いでいる。ベトナム戦争当時、ピューリッツァー賞を受賞した有名な写真に、米軍のナパーム弾から逃げる裸の少女の写真がある。この写真をノルウェー人作家のトム・エーゲランがフェイスブックに掲載したところ、フェイスブックはこれを児童ポルノだとして削除するという出来事が起きた(ハフィントンポスト9月10日)。この削除への批判が、ノルウェーはじめ国際的にも高まり、フェイスブックは削除措置を撤回したという。この事件を報じたハフィントンポストによると、写真の削除だけでなく、検閲を批判したエーゲランのフェイスブックのアカウントが一時停止されることまで起きた。「アフテンポステン」のイギル・ハンセン編集長はこの事件に対してフェイスブックのCEOマーク・ザッカーバーグに公開書翰を送り、その中で次のように述べた。

「マーク、子供たちが、たる爆弾や神経ガスなどの被害にあう今の戦争のことを考えてほしい」「お願いだから、偏狭な検閲方針を撤回してもらえないだろうか? 単に極めて少数の人たちが裸の子供を映した画像を見て不快感を感じる可能性があり得るとか、どこかの小児性愛者がその画像を児童ポルノと見なすかもしれないから、という理由をつけるのはやめてもらえないか?」

ハンセンは「マーク、あなたは世界で最も権力のある編集者なのだから」「権力を乱用していると思う。そして、あなたがよく考え抜いた結果こうなったとは、とても思えない」とも書いた。

この問題はハンセンが述べているように、マーク・ザッカーバーグのちょっとした権力濫用といったエピソードのたぐいなのかどうか。実は、フェイスブックには別の検閲事件も起きており、これらを総合すると、フェイスブックのそもそもの経営方針がネットの民権的自由(注)よりも後で述べるように、グローバルな資本の論理が作用しているなかで起きたことのように思われるのだ。

イスラエル政府は、ネット上で急速に影響力を拡げはじめたパレスチナ人たちによる国際的な反弾圧運動、BSD運動をターゲットに、その国際的な支援者たちを網羅的に監視するための法整備を実施し、こうした動きにフェィスブック側が協力していることが判明している。9月11日に、イスラエル政府の閣僚とフェイスブックのトップが会談し、協力協定を締結したことをフェイスブックは公式に発表した。具体的には、国外のBSD運動の支援者たちの監視にフェイスブックが協力するということになるという。BSDは、イスラエルをかつての南アのアパルトヘイト国家と同罪とみなして糾弾する国際的な非暴力運動だ。フェイスブックは、イスラエル政府のトップと会談し、イスラエル・オフィスは、ネタニエフ首相のドバイザーで元駐米スイラルエ大使館の主任スタッフを勤めたジョルダーナ・カトラーを雇用するという露骨な政権寄りのビジネスを展開している。イスラエルの公共安全・戦略問題・情報担当大臣のジラッド・エルダンは「フェイスブックは自身のプラットームを監視し、コンテンツを削除することに責任を自覚している。」と述べている。イスラエル政府はフェイスブックやソーシャルメディアを監視し、数千の投稿やアカウントなどの削除に成功し、イスラエル法務大臣によれば政府の要求の7割が実現できているとも報じられている。(Middle East Monitor 6月9日) また、その投稿内容を根拠に投稿者の逮捕者まで出ている。(Intercept  9月13日Guardian 9月12日

ソーシャルメディアが反政府運動や人権活動の手段として有効な時代は終ったのかもしれない。ソーシャルメディアもまた資本の論理でその経営を維持していることが忘れられがちで、なぜかソーシャルメディアは言論表現の自由の味方であるかの神話が確立されてしまったように思う。しかしネットビジネスは、ユーザーの権利よりも株式市場の株価の動向にずっと敏感だ。しかも株価は、ソーシャルメディアの顧客数や広告料などによる収益を基準に変動するのであって、人権や表現の自由度などは株価とは無関係だ。ヤフーが象徴しているように、競争他社に押されぎみの資本にとって政府は格好のビジネスパートナーとなる。かつての軍事産業が政府の予算を経営の基盤に据えたように、現代のIT産業の無視できない経営基盤に政府資金があることは間違いない。また、中国、インド、東南アジアのような巨大な人口をかかえた国はソーシャルメディアにとってはまたとないビジネスチャンスでもある。こうした国でのビジネスを円滑に進めるには政府とのパートナーシップが重要になるだろうし、そこでのビジネスの展開いかんによって株価に影響し、これが資本の業績を左右するという仕組みがある以上、各国の規制や政府の意向を受け入れることこそが利益最大化のポイントになるというのがソーシャルメディアを含むIT産業の基本的な姿勢だろう。民権的自由などというのは、こうした資本の論理からすると、それが圧倒的に多くのユーザーの関心にならない限り、後回しになることは必然ともいえる。

サイバースペースが欧米中心の言論表現の自由に大きな関心を寄せるユーザーが多くを占めた時代から、グーバルなネットユーザーの市場へと変貌するなかで、ユーザーの関心の軸が、民権的自由よりもショッピングやエンタテインメントに移行し、ヘイトスピーチや戦争の国策メディアへと変貌するなかで、各国政府の富国強兵政策の一環としてのIT産業へのテコ入れ、そして対テロ戦争の一環としての「サイバー戦争」の軍事産業としてのIT産業の変質という環境のなかで、もはやソーシャルメディア資本をかつての商業マスコミや国営放送と差別化して「自由」の守護神だと高を括る時代にはない。

私が危惧するのは、こうした深刻な状況にありながら、多くの活動家や運動は、やはりツイッター、フェイスブックなどの限られたソーシャルメディアに依存しているということだ。ソーシャルメディア業界がますます寡占化しているだけではない。PCのOSは、事実上マイクロソフトかアップルか、という二つの選択肢しかない。(私はLinuxユーザーだが、徐々に増えてはいても極端な少数派だ)インターネットに至ってはたったひとつしかないのだ!しかも資本と国家の論理から自由なメディアではない。資本も国家も大嫌いなアナキストですら、これらを大いに活用している奇妙な現実を奇妙でヤバいことだと真剣に青ざめなければならない。

19世紀に印刷技術が普及した時代には、執筆、印刷から配布までを国家や資本から自立したメディアとして構築することが可能だった。匿名の筆者、アクティビストの植字工、労働者が自主管理する印刷所、そして地下茎のような流通のネットワーク。これらが、どこの国でももうひとつの世界を構築できた。しかし、ネットにアクセスして情報を共有する仕組みのどこにアナログの世界が確立してきたもうひとつのメディアに匹敵する自由があるといえるのだろうか。インターネット草創期に「サイバースペース独立宣言」が出されたり、もうひとつのインターネットを!といった運動があったが、今やそうした運動が決定的に消滅してしまったかのようだ。ネットへの依存を絶たれる危険性のある時代にあって、サイバースペースをかつてのユートピアとして奪還することの必要性はますます高まっているが、同時に、現実の空間を越境できるメディアのアナロギズム(analog+ ism)の再構築も重要だと思う。難民たちが身体をもって越境し移動するように、現実の空間を移動できるメディアの回路の遺跡を発掘して再生する方途もまた模索すべき時代だろう。

(注)民権的自由:市民的自由と言われていることの言い換え。「市民」という概念に違和感がりながらこれまで使ってきたが、とりあえず民権と言い換えておく。しかし、これも「自由民権」という歴史的な概念を想起させるので、イマイチかもしれないが。

(参考サイト)

Amid Anti-BDS Pressure, Facebook Israel Appoints Long-Time Netanyahu Advisor To Policy Post

Amid Anti-BDS Pressure, Facebook Israel Appoints Long-Time Netanyahu Advisor To Policy Post

Facebook And Israel Officially Announce Collaboration To Censor Social Media Content

Facebook And Israel Officially Announce Collaboration To Censor Social Media Content

Islael Targeting Palestinian Posters on Facebook
Alex Kane:July 7 2016
https://theintercept.com/2016/07/07/israel-targeting-palestinian-protesters-on-facebook/

Under Israeli pressure, Facebook and Twitter delete large amounts of Palestinian content
https://www.middleeastmonitor.com/20160609-under-israeli-pressure-facebook-and-twitter-delete-large-amounts-of-palestinian-content/

監視社会

FBIはハッキング捜査の時代に——拡大する監視警察国家

投稿日:

9月15日付けの米国電子フロンティア財団のウエッブに「FBIにょる前例のない違法なハッキング作戦」という記事が掲載された。

記事の表題でわかるように、FBIは、ネットにおける犯罪捜査のためにハッキングを大規模に、しかも違法にやっているというのだ。記事によると、2014年12月に外国の捜査機関から、児童ポルノサイト「Playpen」のサーバーの情報があったことがきっかけとなって、前例のない大規模なハッキング捜査を行なったというのだ。捜査の結果、数百件の刑事訴追があり、現在連邦裁判所で審理中とのことだからかなり大規模な事件だったことがわかる。EFFは、この事件でほとんど注目されていないが、実は重大な問題として、捜査当局による違法捜査の問題を指摘した。この違法捜査というのがハッキング捜査である。

ハッキングの手口は、捜査対象となるサイトについての捜索令状を裁判所から得たFBIは、サイトのサーバーを差押えるかわりに、サーバーをそのまま稼動させた(つまり泳がせた)。その期間2週間あり、この間にも多くの児童ポルノがダウンロードされたがそれは見て見ぬフリをして監視を続けた。しかし、ただ監視しているだけでなく、FBIは、このポルノサイトにアクセスしたユーザーにマルウェア(文末の注参照)を仕込んだ。

一般に、ウエッブでサイトにアクセスすると、ユーザーが画面で見ている環境の裏側で、先方のサイトのコンピュータと自分の端末との間で多くの通信が行なわれる。この通信を利用して、ユーザーの端末に忍びこみユーザーの情報を盗むプログラムをFBIは仕掛けたのだ。ブラウザのセキュリティの穴を巧妙に利用したものという。マルウェアは定義上「悪意あるソフトウェア」を意味するので、FBIは「Network Investigative Technique」(ネットワーク捜査技術)略してNITと呼んでいるという。呼び名は変えてもマルウェアであることは変りないように思われがちだが、たぶん、公権力が私たちのパソコンに侵入するためのソフトは、実体は同じでも、こうした名称で正当化されるようになるに違いない。

NITのハッキングプログラムは、ユーザーの個人情報をコピーしてバージニア州のアレクサンドリアにあるFBIにこの個人情報を送るように仕組まれているという。たった1通の裁判所の令状で、サーバーにアクセスしマルウェアを仕込み、ネットワークの先にある令状では捜索の対象にはなっていないコンピュータに捜査員自身が入り込むのではなくて、マルウェアという悪意のウィルスを感染させる。これでは、1通の令状でンターネット上の数十億のコンピュータの情報に自由にアクセスできてしまうことになりかねない。令状主義は有名無実ということになる。結局、数百人が逮捕されたわけだが、弁護側はこうしたFBIの捜査手法の違法性を問題にしているという。

この記事によれば、米国では、捜査機関によるハッキングについての法がほとんど整備されていないという。言い換えれば、捜査機関の裁量でハッキングも許容されるということだろう。おとり捜査や潜入捜査などが許されるのであれば、ハッキングもまた許される捜査手法だということになりかねないというところが、EFFが危惧することだ。

言うまでもなく、この問題は、通信ネットワークに関していえば、盗聴法の問題の延長線上に位置づく問題だが、上で述べたように、それ以外の様々な捜査手法とも関連する。今回発覚した事案が、児童ポルノだったことは問題の本質ではない。どのような問題であっても同様の捜査手法が使えてしまうというところが問題なのである。盗聴捜査の議論でも、凶悪な犯罪とか社会の大半の人びとにとっては反道徳的であったり人権侵害が著しい事件については捜査機関の逸脱が許容されやすく、こうした傾向を捜査機関が利用して権限の拡大を実現しようとする。盗聴法改悪の国会論議でもこうした本質ではない問題の土俵にひきずりこまれて、結局は法の改悪を許してしまった。

いかなる捜査の技術や手法も、政治活動やマイノリティの市民的な自由を監視する手段として使うということは可能なことである。ほとんど全ての反政府運動(日本の市民運動にこういう名称を使うのは新鮮な感じがするのはなぜか?)は、刑事犯罪として立件されて政治犯としては扱われないからなおさらだ。捜査機関がいったん合法的に獲得した技術に、通信事業者やIT産業が協力するビジネスのメカニズムが恒常的に制度化されてしまえば、この技術をどのように用いるかは、法の問題領域から容易に逸脱可能になる。(法律で法定速度に制限があっても、実際の自動車の性能がこれを大幅に越えられる技術を持てば、法定速度を越えて走る自動車が 後を絶たなくなるのと同じだ)「逸脱」か「適法」を判断するのが裁判所だとしても、裁判所が警察の「逸脱」を「適法」としてお墨付きを与える可能性は、かなり高いのがこの国の腐敗した権力の現実だろう。これが法執行機関と技術の間にある重大な問題だということを、法の側は、立法府であれ法曹関係者であれ十分に考慮できているとは思えない。法は「条文」の問題ではなく、法を執行する現実の組織の行動の問題として捉えるべきのだと思う。今回のFBIの場合のように、マルウェアを仕込むということを捜査機関がやれてしまうと(将来は日本もそうなりかねない)、私たちのパソコンや携帯は丸裸同然だということである。スノーデンの警告に繋る問題がここにもあるということだ。

日本では、取調べの可視化という聞こえはいいがその実ほとんど可視化の実質などはないに等しい司法改革なるものを、警察は大袈裟に捜査機関の取調べに支障をきたすかのように主張して、捜査手法の多様化や令状主義の更なる形骸化(今でも形骸化しているが)や、捜査における裁量権の拡大にかなり熱心だ。テロ対策や2020年のオリンピックは警察にとってはまたとないビジネスチャンスと考えられている。しかも、昨年の戦争法成立によって、今後は関連する国内法の整備、要するに、戦時体制にみあう治安関連法の整備も射程にはいる可能性がある。誰がテロリストなのか、何をテロと呼ぶのかの定義はないから、私たちの誰もがテロリストとみなされる可能性がある。反政府運動の活動家たちだけでなく、多くの外国籍の人たちから人権団体の活動家まで、幅広く監視の対象になるのは、対テロ戦争で米国やその同盟国諸国やってきたことを見れば言うまでもないことだろう。こうした時代にあって、マルウェアが捜査機関によって野放しで利用可能な環境は非常に危惧すべきことだ。こうした動向のいずれもが、市民的自由やプライバシーの権利などというものは可能なかぎり抑えこむ方向で、つまり国家安全保障にとっての障害物として抑圧する方向で、世論の合意をとろうとするだろう。あるいは、警察に権力製マルウェアを売り込むITセキュリティ企業があってもおかしくなく、こうした傾向は、そのまま、いわゆる「サイバー戦争」という刑事司法や法執行機関の領分から軍事安全保障の領分へとスライドすることにもなる。警察の軍事化、軍隊の警察化、そしていIT産業の軍事産業化、監視産業化への警鐘が鳴らされて久しいが、この傾向を転換させるには、とくにこの国で脆弱な、ナショナリズムに足をすくわれず、資本と国益がリンクする構造とも対決できる市民的自由の権利運動が必要だと思う。

(注)マルウェアとは「マルウェアとは、「Malicious」(悪意のある) 「Software」を略したもので、さまざまな手法を用いて利用者のコンピュータに感染し、スパムの配信や情報窃取等の遠隔操作を自動的に実行するソフトウェア(コード)の総称です。」http://www.active.go.jp/faq/

書評、映画評、音楽評など

平井玄「真に畏怖すべきもの」をめぐって

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『季刊ピープルズ・プラン』73号(2016年8月10日)に掲載された平井の文章は、戦争法反対運動として高揚した国会前行動の「主役」を担ったSEALDsや総がかり行動などに対する苛立ちと怒りに近い思いに溢れたもので、近年めっきりお目にかかることが少なくなった熱い文章だ。

なによりも重要なことは、このエッセイが書かれたということだ。このエッセイは『季刊ピープルズ・プラン』の特集「対抗線をリセットする」に掲載されたのだが、実は、特集の枠外の位置けだ。ところが、枠外であるんもあかかわらず、リセットのために悪戦苦闘した文章は平井のものが唯一だといっていい。この奇妙な位置づけが逆にこのエッセイの性格を象徴している。

平井に会ったときに是非感想を聞かせてほしいと言われながら、すぐに私なりの意見を述べることもできずに今に至った。実は、私は彼ほどに熱心にあの国会行動に足を運んだわけではなく、むしろあの国会前の雰囲気と自分の居場所のなさとの落差、あるいは多くの人びとが運動に共感して同調する姿を見ながら自分の中にある違和感をいかんともしがたく、結局、出足の落ちるだろうから、雨が降ればとりあえず行こうと決めるのがやっとで、しかも行ったとしても1時間もいればいい方で、その場を離れたい気持ちに抗することができない自分がいた。本来であれば、こうした自分の違和感を表明することが物書きとしての重要な役目かもしれない。しかし、その意欲すら沸かなかった。政治状況からすれば戦争法はとんでもない悪法であるから、最も大きな運動のうねりに何はともあれ参加することの意義はあったに違いない。しかし、国会前に行くたびに感情が萎える自分と向きあわなければならなかった。私は「なぜそんなに民主主義に信頼を寄せることができるんだろうか?民主主義が戦争に正当性を与えているのではないか?欧米の民主主義国家が同時に戦争の主要な当事国だということをどう思ってるんだろうか?」(独裁も民主主義も私たちの選択すべき統治のシステムではないと思うからだ)であり、機動隊と警察車両に包囲されて威圧的な権力の干渉のなかの自由(動物園の檻のなかで育った動物たちが感じる「自分たちは自由だ」という感覚か)でしかない場所の窮屈さに耐えられなかった。しかしスピーカーからは「これが民主主義だ!」というシュプレヒコールが日本語とこともあろうに英語!で連呼される。「何故英語か!アジアの言語はどこにいった?運動までが英語帝国主義なのか?」と思うのだが、そんなへそ曲がりは通用しないだろうことも承知している。

平井の苛立ちは、私の違和感とどこかで共振するものをもっているだろうが、彼が運動に感じた疑問や問題と私のそれとが同じだというわけでもない、というのが彼の文章を読んでの率直な感想ではある。

共振するところ、それは、平井の文章の冒頭に書かれていることがそのまま私の感じたことと重なる。

「肝心なことはほとんど何も語られていないのである。選挙だけではない。これから幾度もこの疑念は回帰してくるだろう。少なからぬ人びとの中で、この一年間そういう思いがますます膨らんできたに違いないのである。

不信を抱いたのは、街頭行動のあり方や、呼びかけた側の警備当局に対する姿勢だけではない。場所を確保した「総がかり行動」やSEALDsが掲げた抗議の内容は「1960年以来の反安保闘争の再来」という運動側やマスコミが作り付けたイメージに明らかに反していた。その主張は、日米安保条約それ自体を問わず、武器を構えた自衛隊をそのまま抱き取り、「戦後」という時代に丸ごと迎合する惨憺たるものだった。それが「戦略」だと言おうと、大衆意識の表層にすり寄ろうとする疚しさが診てとれるのである。」

ここで平井が言っていることの大筋に私も同意できる。「戦後」への迎合として平井が語っているのは、まさにその通りだ。この間の運動が戦後民主主義を裏切ってきた自民党政権に対して、戦後民主主義のあるべき姿を国会前の行動が体現しているという主張を対置することで、自らの運動の立脚点を構築しようとしてきたと私も感じてきた。これではつまらない、退屈だとも思った。運動のなかに発見がないのだ。言葉であれ行動であれ、はっとさせられる瞬間が運動の可能性の条件だからだ。

60年の反安保闘争がラディカルであったのは、それが戦後保守政治だけでなく、この保守政治を補完してきた野党=革新に対しても異議を提起する「新左翼」(この時代まだ世界のどこにも既成の左翼から自立した左翼運動が大衆性を獲得したことはなかった)というパラダイムの転換を伴ったからだ。そしてのこパラダイムの転換は、60年代後半以降(日韓条約反対闘争以降といってもいいだろう)、再度のパラダイムの転換が起きる。この時代は、同時に、戦後民主主義に対する根底的な懐疑と訣別の闘いでもあった。運動が内包するスタイルと思想(いやむしろ情念を含む広範な世界の見え方とでもいうべきもの)の問題の両者がこれまでにない有様を示しながら、相互にぶつかりあい、現実の運動の力学を構成するものだった。大衆文化はことごとく運動の文脈のなかに転用され、やくざ映画、マンガ、そして平岡正明のようなジャズと犯罪を革命に翻訳する異例な批評家たち、これらが、やがてこの国の周縁に位置してきた存在を中心に据える世界観を模索するようになる。琉球、アイヌ、在日中国・朝鮮人、身体障碍者、精神障碍者、精神病者、寄せ場の労働者といった、これまでの主流の運動では不可視な存在とされた人びとが運動にとって重要な主体となり、こうした運動が、中産階級出身の学生たちを、政治的に下層へと引き込んだり、ライフスタイルの転換を迫った。これは、学生運動などの運動の担い手が、これまでの運動の世界理解(その核となってきたのがマルクス主義の階級社会論)の枠組が規定してきた視野に収まらない領域にあった運動を見出すことを通じて、運動の伝統を切断する力を獲得したということでもある。この時代に戦後民主主義は否定の対象でしかないというのが私が感じ、経験してきたことでもある。戦前でもなく戦後でもない第三の選択肢は必須だが、それが何なのかが見えないまま試行錯誤が繰り返され、未消化な言葉が氾濫した。平井が「自分の言葉」として述べたことは彼の経験としてそうだったのだと思う。

この意味で、私は運動の世代的継承を信じていない。むしろこれまでの運動が理解しえない不可解さこそが新しい運動の可能性を支えるものだと思う。既視感や長い活動家の経験を持つ者たちの流儀に抗うことこそが必要なことだと思う。多分平井は、こうした運動の切断による想像/創造力の獲得を否定しないだろうが、他方で、平井は、こうした切断の問い以前にある60年代後半の運動そのものが半ば意図的に、しかもこの60年代後半という時代を経験したはずの世代自身によって記憶から消し去られていることに、最も大きな憤りを感じているのではないか。この世代がほぼ総体として、運動の敗北の後に、70年代、80年代を経て、社会の支配層へと転向するなかで、新自由主義と21世紀の対テロ戦争に加担する主体となってきた。この世代の最後に位置する私がこうした転向と無縁だとは言えないが、この壮大な裏切りがどうして起きてきたのかは、真剣に検討すべき課題だろう。他方で、かろうじて運動に関ってきた人たちは、おせっかいな教育パパ、ママよろしく聞き分けのいい若い世代に同伴する。この気持ちの悪い擬似的親子関係を断つ可能性は若い世代のなかにしかない。それは、そもそも国会前などには顔を出さないが、しかし、支配的な秩序も文化も受け入れることが生理的にできないような人たちのなかにこそあるのではないか。

平井は「学生たちがファッションや音楽と共にある姿に驚く国会前の老人たちは、いったい1968年をどうやって生きたのか」と問う。この問いは、SEALDsらに同伴した68年を経験した大学教員や、それよりも若い世代の大学教員たちにも向けられたものだが、その一方で、国会前の「民主主義ってなんだ?これだ!」というコーラーの舌触りのよさを広告的政治、あるいは「広告の暴風」として手厳しく批判する。平井のこの苛立ちは、他方で、平井にとっての可能性あるいは運動の潜勢力を担う「大学教員」とか若い世代が全く不在だということではないだろうと思う。彼の文脈のなかで肯定されるものと否定されるものとの境界線がある。ここで抵抗線をリセットしようというわけだ。このことに言及されるのは、このエッセイの後半の「何が抹消されたのか?」以降においてである。ここで、国会前の運動が一切言及してこなかった運動として被ばく労働問題に特に注目する。この注目は、非正規労働者の運動への注目としてより一般的に論じうる視線だろう。ここで、国会前の運動に深くコミットしたとされている小熊英二を槍玉に挙げて次のように批判している。

「(小熊は)反原発運動を論じて被ばく労働者たちにいっさい触れない。物質的労働に従事する者とは違う認知的な仕事に関わる非正規労働者たちが登場した意義を大いに語って、しかしより下層のまったく「非認知的」な単純作業に従う者たちに眼を向けないのである。デモに参加する認知的プレカリアートを「アートないし知的な職業についている場合が多い」とする。だが、非認知的プレカリアートはその下請のまた下請で無意味な打ち込み作業に従うオペレーターか、メンテナンスや清掃などさまざまな補助的労働の徒労に長時間身を焦がすしかないのである。非正規労働者の中でも彼らこそがもっとも分厚い層を成しているはずだ。小熊は曖昧な記述ながら、その後に現われたSEALDsの学生たちに低賃金労働の世界に放り出される危険を診ているが、ならばなぜ、今ここにいるアンダークラスたちに一瞥もしないのか?」

平井は、2013年官邸前行動で被ばく労働問題を語ることが阻止されたり、抗議やデモで逮捕された者たちを救援するどころが誹謗中傷するような「主流派」の運動を手厳しく批判する。「少数の人びとがおそらく意識することなく掲げた旗幟こそ第一に排除されたのである」という。全体として議会政治の枠組に収斂させることのできない運動が排除された、ということだ。それは、逆に運動のナショナリズムこそが「主流派」の基本的なイデオロギーとなってしまっているのではないか、という鋭い直観でもある。この直観は多分正しいだろう。これは戦争の時代にあっては極めて深刻な問題だということでもある。

平井はこの事情を旧約聖書にあるアブラハムとイサクの物語に託して、「アブラハムにして、イサクであること」と述べた。自らの子、イサクを殺すことをエホバに指示される象徴的な話しだが、これは神への信仰の篤さが試された物語とされている。平井が言外に示唆しようとした現代のエホバが何(誰)かを明示していないが、それは共産党かもしれないし、68年世代の同伴者たちかもしれない。ということは、平井はこの物語の外に出る必要性を暗示しているといえるわけで、そうだとすれば、アブラハムはイサクを殺すべきであったのか。いやむしろ、アブラハムと召使との間に生まれたイシマエルにこそ、その可能性があるということだろう。神の意思を裏切ることだ。これは、対テロ戦争の現代において、なかなか含蓄のあることでもある。

運動の想像/創造力は、まさに運動の伝統と流儀の創造的破壊のなかにしかない。そして、このような作業をなしうるのは、これまでの運動を全く新しい視点で総括できる者達の手に委ねられることになるだろう。(中途半端な活動家でしかない若くない私には不可能なことだ)否定の対象になるのは、既成のあらゆる政治=社会運動であり、とりわけ平井が指摘する議会制民主主義、あるいは戦後民主主義であるだろうし、同時に60年代後半の運動が窒息しつつその中から生み出されたその後の支配層(転向活動家の層)のライフスタイルや価値観であるだろうが、それだけではない。たぶん、東京をはじめとした大都市そのものの存在をどのように新たな否定の対象に据えられるか、だろう。東京は、大卒が人口の過半数を占めるという。その結果、学歴のない層は、それ自体がマイノリティとなる。しかも、メディアは高学歴非正規雇用の悲劇を論じても、中卒や高校中退の若者たちの貧困は話題にすらならない。そもそもメディアの記者たちにはこうした下層が見えていないのだ。進学率の高い高校から大学へと進むこの国の教育は、すでに10代前半で、差別と選別のシステムを通じて、中間層や支配層の認識から下層は排除されている。その象徴が東京だと思う。その東京の中枢に毒の棘のようにして生息してきた平井には、この支配的な眼差しがあえて隠蔽しようとしてきた闇を視る力があると思っている。これは私には完全に欠けている資質でもある。近代資本主義日本の搾取の上に成り立ってきた東京を廃墟にできる想像/創造力が欲しいと思う。たぶん、この意味で、私たちがほぼその情報を得ることのできていない「場所」に可能性がある。

私は今のままの「田舎」であるなら住みたいとは思わないが、都市で安住できるとも感じない。シチュアシオニストや有象無象のサブカルチャーは魅力的ではある。しかし、それらが都市という概念を引きずる以上は、その限界もはっきりしている。毛沢東主義者のような農村革命や、ノマドのユートピアはこれまで見事に都市と近代化の流れに抗することができずに、むしろ自由を裏切る革命になる危険性を孕んだ。これまでの選択肢はいずれも選択に値いしないということだ。しかし、このことがわかっただけでも、可能性への道はわずかとはいえ開かれたということかもしれない。

平井のエッセイは、この可能性をどう論ずるのか、という点については未知数のままになっている。この点は今後に期待する。

オリンピック

資本主義的身体からの訣別のために—近代スポーツと身体搾取

投稿日:
 (8月26日に仮サイトに投稿したものです)

オリンピック否定論の根底に置くべき視点は、そもそも近代社会が「スポーツ」というカテゴリーによって構築した人間の身体のありようそのものが、資 本主義における身体搾取の現われであるというところに定められるべきだ、ということだ。資本主義的な搾取が否定されなければならないという問題の一つの系 論として、スポーツに表出される身体のありようへの批判が位置付けられるべきなのである。これは容易に理解されないことかもしれないが、私たちが、スポー ツというスペクタクルによって動員される自己の同調感情やある種の高揚した感情の根底にあるのは、近代社会が人びとの身体の根源に埋め込んだ身体の理想と 深く関ることであり、この理想の罠といかに闘うかが課題だといっていい。

近代社会においてスポーツは「娯楽」というカテゴリーのなかで、圧倒的な大多数を「観衆」の位置に置きながら、ごく一部の者たちがこの「観衆」の前 で演じる身体表現として成り立つものだ。これは、音楽が、演奏者と聴衆に、美術が美術家と鑑賞者に、文学や哲学などの学問が学者や作家と読者に分けられる ことによって成り立つ文化生産と消費の構造と同一のものといっていい。あるいは、近代西洋医学が、人びとの身体についての知識を奪い医者という特権的な専 門家を生み出したように、自己の身体性は、自己の統治の下にあるのではなく、これを様々な専門家に委ねることによって、生を支える根源的な力を奪われ、あ るいはこうした専門家に委ねることで支配と従属の関係に自ら身を委ねる。この構造そのものを土台として成り立つ身体性(肉体としての身体であれ、言語能力 であれ、非言語的な表現であれ)が同時に、資本主義社会が不可欠とする身体の見取り図あるいは規範的かつ理想的なモデルの提示でもあるということ、このこ とを踏まえるならば、こうした文化的な身体が生産する行為や「作品」がいかに感動的なものであったとしても、その感動を生起するわたしの感性そのものを疑 うことなくして、資本主義を深い懐疑の闇のなかに投げ入れることなどできようはずがない。

最大の困難は、こうした文化が生み出す感動や共感といった実感としては否定しようのない肯定的な感情を突き放し、ここに懐疑の楔を打ち込むという苦 痛な作業をあえて行わなければならないというところにある。感動を疑うこと、感動する自己の感情や心理がどのような社会的な条件に規定されて生成されるの かを冷静に突き止めることが必要なのだ。

近代スポーツ(近代以前には「スポーツ」と呼びうる身体の使用があったとは思えないが)の特徴は、身体をスピードと正確性によって評価する構造を基 本に据えているという点にある。これは、近代社会の労働する身体がスピードと正確性という価値判断によって構築されていることと無関係ではない。

より速く、より正確に、決められた時間内で結果を出すという枠組のなかで身体をめぐる競争(闘争)が組織されるのがスポーツの基本的な枠組である。 この枠組は、工業化社会を前提として成立した「資本」の行動原理が個々の人間の行動規範として内面化され、ある種の倫理となる。速度=効率性は資本の投資 —利潤の回転の基礎条件であり、正確性は機械化された職場で人間が機械の正確性に適応することを必須の身体的な条件とされ、市場を予測し売上げを確定させ ることが資本にとってのリスクとロスを最小化する手段となる。こうして古典的な文化や芸術の世界では、即興や一回性の表現は排除され、聴衆の前で、一定の ルールを前提とした繰返しを前提とした差異や特異性が争われるようになる。

近代化のなかで近代以前からある身体競技はその社会的な文脈も意味も変容し、そのスタイルを「伝統」として意味づけることによって、資本主義に固有 な身体の規範や文化的な価値があたかも普遍的なものであるかのように装われることになる。オリンピックが古代ギリシアにその起源をもつという神話はその典 型だろう。しかし、現代においては、むしろオリンピックが古代ギリシアにしかその起源を持つことができていないということが逆にオリンピックの世界性に疑 問を付すことになっている。非西欧世界の多様な文化が、ギリシアに起源をもつ身体の普遍的な「力」の誇示を競うゲームと接触する事態と、非西欧世界が近代 化=工業化の過程へと統合される事態との間にある相似形には根拠があるのだ。日本が1964年の東京オリンピックに過剰な意味を与えたように、北京オリン ピックもまた中国の資本主義化を象徴したものであったし、そしてまた今年のブラジル、リオのオリンピックもまたBRICSの一角を占めてラテンアメリカの 新興国としての国威発揚を担うものとして企図された。オリンピックはこの意味で、西洋中心主義の身体をめぐる価値を国民国家として総括するという近代世界 が前提としてきた世界システムの枠組の一翼を担っている。しかし、西洋の価値観が世界を支配することを正当化する露骨な西洋中心主義であることに皆が気づ かざるをえないのが現代という時代ではないか。イスラーム復興運動は、こうした西洋が僭称する普遍的な文化的価値に対してみずからのアイデンティティを対 置する。こうした事態が今日ほど広汎に、しかも政治的な摩擦や緊張を伴って登場した時代はない。たぶん、多文化主義というポストモダンな多様性の統合様式 の副作用として、世界中にある様々な「伝統的社会」のなかのある部分がイスラームほどには大きな影響力をもたないとはいえ、西洋中心主義のいかがわしさに 背を向けはじめると一方で、逆に自らのアイデンティティを放棄してでも西洋的な価値に統合されることを選択するポストモンダンな近代主義の部分も登場し、 その双方の摩擦がますますのっぴきならない状態へと陥るのがこの時代の危機の特徴になるのではないか。

オリンピックが可視化したいくつもの分断線がこの危機を端的に示している。健常者のスポーツと障害者のスポーツ、男性と女性、国家に帰属しえない人 びとの排除と「難民」チームによる包摂、そしてお定まりのサクセスストーリーがもたらす競技の勝敗の物語に暗示される社会的「敗者」への差別。スポーツが 持ち込む価値判断の基準は、健常者と障害者というカテゴリーを越える人間としての生をそれ自体として肯定することはできず、障害者は健常者と対等に競争で きないことを前提として二重基準を当然のようにして持ち出す。スポーツの速さや正確さという価値規範(労働の価値規範でもあるが)そのものが差別を構造化 しているということを疑うことができない。。同様のことは男性と女性についても言える。いずれの場合も、そのどちらともえいない境界の上に立つ多くの者達 がいるのだが、このボーダーの存在を強引にあちらとこちらに引き裂く。高齢者や子どもはもちろんこうしたスポーツの行為者の側には立ちえないものとして排 除される。スピードと正確性を基準とするスポーツは、こうして多くの差別と分断を内包させながら、排除された者達を「観衆」として位置付けて感情的な同一 化を生み出す仕掛けをもっている。この仕掛けの中心をなすのが、ナショナリズムだということになる。ナショナリズムの幻想がどのようにして近代社会で再生 産されるのかは別に議論すべきことだ。

スピードの優劣を百分の一秒のレベル争ったり、行為の優劣をポイント化して数量によって序列をつけるというスポーツの評価体系は、資本主義がもたら した数値化による競争と評価をそのまま持ち込んだものだ。これは、学校の成績から会社による査定まで、生活全般を覆う。数値化(成績であれ給料であれ) は、行為そのものの意味を問うことなく、意味を数値に還元することによって、行為の無意味さを隠蔽する。100メートルをいかに速く走るかにいったいどの ような意味があるのかとか、酷暑のなかを猛烈なスピードで40キロ以上も走りつづけることで何が得られうのか、といった行為の意味を問うことは、スポーツ においてはタブーに近い。しかし、意味の欠如は歴然としているのだが、だからこそ、一方で、薬物の使用による身体改造が常態化し、多方で、無意味なことに 文字通り命を賭ける人びとへに感動をもたらすという、よくよく考えてみればダークな世界がここにはある。ワーカホリックとなってドラッグや酒に依存しなが ら働き続け、あげくの果てに心身を病み、命を絶つことすらありうる労働世界の残酷さとスポーツの世界のそれとはやはり相似形だといわざるをえない。スポー ツの無意味さに多くの人びとが気づかないことと、多くに人びとが教育の成果をを成績(点数)で評価したり、労働の評価を報酬の多寡で評価することに疑問を 感じない日常感覚と密接に結びついている。この無意味さにもかかわらず、多くの人びとはこれらの行為に感情を動員し感動したりマゾヒスティックな快楽を感 じたりする。資本主義がどのようにしてこのような特異なアーソナリティを形成したのかを解明することは、資本主義と訣別するための重要な課題だ。

自然に依存する社会では、自然のリズムを変えることはできず、自然を完璧に予測して制御することもできなかった。こうしたアルカイックな社会に秒単 位の正確性とか、飽くなきスピードアップとかを競うような「競技」への関心は持ちえなかった。もちろんこうした社会には、この社会が与える固有の行為の 「意味」の体系があり、この「意味」の体系もまた、実は意味の喪失の表現でしかない、といことではあるのだ。「機械」の出現は、この前提を崩し、人間の理 想モデルは機械のようであることになった。つまり、より速く、より正確に、そして、反抗することなく指示に従うこと。近代のスポーツはこのような機械の時 代の人間を典型的に表象する仕掛けとなった。この近代的な身体をめぐる意味の喪失を過去や非近代的な社会によって回復しようとする試みに私は魅力を感じな い。意味と意味の喪失は表裏一体であって、この罠から抜け出るには、「意味」という問題の立て方それ自体を問題にいなければならない。つまり、言語や身体 の表現や、人と人、人と自然の関係そのものである。こうしたやっかいなテーマがオリンピックに象徴されるスポーツの問題の根源にあるということ、オリン ピックだけでなくスポーツを含む文化的な身体表現の社会的な構成そのものが資本主義の身体搾取を支えているということ、このことだけをここでは指摘するの が精一杯のところだ。

【参考文献】(思いつくままに)

渡辺裕 『聴衆の誕生』、春秋社。
アラン・コルバン『身体はどう変ってきたか——16世紀から現代まで』、小倉孝誠他訳、藤原書店。
小倉利丸『支配の「経済学」』、れんが書房新社。
小倉利丸『搾取される身体性』、青弓社。
ワロン『ワロン/身体・自我・社会』、浜田寿美男訳編、ミネルヴァ書房。
イヴァン・イリイチ『脱病院化の社会』、金子嗣郎訳、晶文社。
小笠原博毅・山本敦久編『反東京オリンピック』、航思社。