オリンピック

1月22日:オリンピック災害おことわり!− Read in Speak Out −

投稿日:

オリンピックはもういらないと思う。予算の透明性とかナショナリズムに利用されないようにとか、様々な「改革」の提言に、実はぼくはほとんど魅力を感じない。オリンピックを口実に、野宿者が排除され、住み慣れた住居を奪われた人たちがいる。そのことだけで、そうした行政や政府の意思と権力の行使のありかたを見るだけで、オリンピックはいらないと主張するのに十分な根拠となると思う。22日の集会は、文字通り「おことわり」をメインの主張に据えたガチな集会になると思う。


オリンピック災害おことわり!− Read in Speak Out −

「2020オリンピック災害」おことわり連絡会
(東京オリンピックおことわリンク)結成へ

日 時:1月22日(日)13:30〜16:30
場 所:千駄ヶ谷区民館 集会場
資料代:500円
交 通:明治神宮前駅・JR原宿駅から徒歩9分
地 図:http://www.j-theravada.net/tizu-sendagaya.html

※11:30からは神宮橋(原宿)で反五輪の会のデモもあるってよ!
詳細はこちら → http://hangorin.tumblr.com/

◆2020年に向けて運動がスタート!

2020年の東京オリンピック・パラリンピックは、スポーツや財政が抱える問題だけにとどまらず、日本社会の問題をほとんどすべて包括する社会問題のデパート。私たちはそれを「オリンピック災害」と呼ぶ。このオリンピック災害に立ち向かうネットワーク、「東京オリンピックおことわリンク」を立ち上げる。

◆スピーカー(順不同)

山本敦久(成城大学)
いちむらみさこ(Planetary No Olympics Network)
小川てつオ(反五輪の会)
池田五律(戦争に協力しない・させない練馬アクション)
谷口源太郎(スポーツジャーナリスト)
根津公子(「日の丸・君が代」被処分元教員)
井上森(立川自衛隊監視テント村)
友常勉(東京外国語大学)
なすび(被ばく労働を考えるネットワーク)
北村小夜(元教員)
脇義重(元・いらんばい!福岡オリンピックの会)
江沢正雄(オリンピックいらない人たちネットワーク)
金滿里(劇団態変)
アツミマサズミ(東京にオリンピックはいらないネット)

◆主催

「2020オリンピック災害」おことわり連絡会(東京オリンピックおことわリンク)
千代田区神田淡路町1-21-7静和ビル1階A(ATTAC首都圏気付)
Tel 080-50520270(宮崎)

オリンピック

Rio反オリンピック報告―オリンピックの開催都市に何が起きるか?

投稿日:

2016年12月21日(水)19時-

渋谷・隠田区民会館 集会室

東京都渋谷区神宮前6-31-5
※JR原宿 6分 東京メトロ千代田線明治神宮前駅 徒歩2分

8月5日、2016リオリンピックの開会式が華やかに開催されたと報道されました。しかし、現地リオでは、巨大なデモ・学校でのオキュパイ・地下鉄、空港の関税員たちや教員のストライキなどが起り、オリンピック反対とテメル副大統領退陣の声が響く中での開幕でした。

Planetary No Olympics、反五輪の会のいちむらみさこさんが、7月27日-8月10日までリオに滞在し、オリンピックがもたらす状況をリサーチし、オリンピックに対する抵抗アクション「Jogos da exculusao(排除のゲーム)」に参加しました。

これまでもオリンピック開催都市ではたくさんの反対運動があり、オリンピックについての問題意識は確実に広がっています。ハンブルグ、ボストンでは、住民投票で招致しないことを決め、ロシアでは新市長が辞退しています。

今年、リオオリンピック・パラリンピックは開催されましたが、リオの住人たちは黙っておらず開幕中も声を上げ、確実に押し返していました。

そのうねりを、わたしたちはどう引き継ぐか。

2017年1月22日(日)13時半から「2020オリンピック災害」おことわり連絡会による立ち上げ集会が開かれます。また同日正午から、多くの排除をもたらした新国立競技場建設予定地を回り、JSC(日本スポーツ振興センター)に抗議する反五輪の会によるデモが行われます。

それらに先駆けて、今回の報告会では、リオで何が起っていたのか、どのような抵抗があったのか、大手メディアでは報道されなかった写真や映像などを観ながら情報を共有し、次のわたしたち闘いに繋げていきたいと思います。

報告者:いちむらみさこ(Planetary No Olympics / 反五輪の会)

司会:首藤久美子(反五輪の会)

参加費:500円
主催:「オリンピック災害おことわり」準備会

書評、映画評、音楽評など

もうこれ以上我慢ならない!──理性を越える情念の革命の復権?

投稿日:

ロルドンの新著の邦訳は『私たちの”感情”と”欲望”は、いかに資本主義に偽造されているか』というものだが、「偽造」というよりもむしろ飼い馴らされた感情に耐え切れずに内破するマルチチュードの激情への熱い期待、とでもいった方がいいような内容であり、理性主義的な資本主義批判への徹底した疑義に貫かれた刺激的な本でもある。

ロルドンがとりわけ槍玉にあげるのが、合理的経済人を前提として組み立てられた支配的な経済学だが、それだけではなく、理性的な資本主義批判や善意にヒューマニズムに溢れる「一人でもできる社会を変えるための第一歩」的な身の回り革命ごっこ、あるいはヒッピー風ライフスタイルの革命への辛辣なダメ出しである。

「自由意志や自己決定といった主張を退けて──ことによって、自由主義思想の形而上学的土台を破壊する。他方、自由主義思想の反対者が自由主義に対して自由主義の(主観主義的)文法の枠内で異議を唱え続けているという実態をも自覚しなくてはならない。こうした反対者たちは、無意識のうちに自由主義の根本的前提を共有していて、それは予め敗北のリスクを犯していることを意味するのである」27(断らない限り、数字は邦訳書のページ)

つまり、「個人」という主体を疑いようのない自立した存在として前提する一切の立場に対して、彼は異議を唱える。多分左翼リバタリアンとか個人主義的なアナキストは大嫌いなんだろうと思う。(私はそれほど嫌いではない)だから集団性の復権が彼にとっては重要な課題であり、そう、あの60年代を彷彿とさせるような死語となったともいえる「情念の革命」といった言葉がとてもよく似合うのがこの本の魂の部分だろうと思う。私は、組織や集団性が苦手で、党派や政治集団に対してはシンパシーを感じたことは生れてこのかた一度もないが、しかし社会を転覆するという大事業が何らかの集団性をもった力を前提としなければならないことも十分理解するから、どのような集団性なら自分のような人見知りで人付き合いの苦手な人間でも解放の感情を喚起されうるのだろうかというのは、大きな課題でもある。本書でロルドンはこうした私の個人的な悩み事には一切答えてはくれていないが、しかし、別の意味で、集団性を支える情念とはどのようなことなのかを「理解」する上でかなり刺激的なきっかけは与えてくれたと思う。

ロルドンは、自由主義に反対していると称する者たちがよって立つ土台も、自由主義と共通する個人主義への確信にあるとして批判する。個人が自由主義によって自由になるのか、それとも抑圧されるのかの違いはあっても、主題は個人をめぐる幸福というフィクションの範囲を越えないから、社会を総体として転覆するといった野心を持つこともなく、従って権力の今ある構造にとっては手強い敵になることもない。ピケティのような新自由主義批判のスタンスは彼にとっては全く評価するに値しないものだということになる。(これに異論は全くない)

彼は、率直に、社会を変革するということは大事業であって、それなりの集団的な力の結集が不可欠であって、それなしには資本や国家の体制を覆すことはできないのだ、と主張するのだが、その場合、一方で、感情によって動く諸個人が存在し、他方に非人称的な社会構造が存在するということを強く念頭に置いて、この大事業の主体となる集団性を描こうとする。このことを本書の冒頭で次のように、スピノザを引きながら示唆している。

「スピノザ理論は、通常何よりも主体に固有のものと考えられている感情についての、ラディカルな反主観主義的理論なのである」「すなわち、感情と構造の二律背反を乗り越えるために、感情を保持しつつ主体を葬る(感情の作動する必然的な起点と見なされていた主体を厄介払いする)ということ」18

彼はスピノザの理論を「感情の構造主義」と呼び「感情によって動く個人と非人称的な社会構造」を相互に排他的なものではなく、この二つを一つのものとして把握する方法を、スピノザの、とりわけ『エチカ』の重要な概念のひとつであるコナトゥス(ラテン語で、企て、冒険、骨折り、努力、衝動などの意味をもつ)に求めた。感情は確かに個人の主観=主体に帰属するかのようにみなされるし、そのように実感されるが、こうした感情のよって立つ基盤を探ると、そこには個人の心的な作用には還元できない外部から個人にもたらされる作用があり、この「非人称的な社会構造」があってはじめて諸個人の感情が個々ばらばらな主観や実感ではなくて相互に共感したり共振して伝播するような広がりが持てる。この意味で、個人の感情は、個人の心理に還元することもできないし非人称的な社会構造(非人称の構造に感情があるわけではない)による一方的な規定性(通俗的な唯物論が論じるような、存在が意識を規定する、といった粗雑な規定)をも排して、感情と構造の両者の位相を異にするところに成り立つある種の弁証法をスピノザに託して現代社会に対する転覆的な理論のパラダイムとして提示しようとした。

社会構造は諸個人の総和ではない。だから、取り組むべき課題は、社会構造を破壊し新たな構造として創造するという事態を、諸個人の行為とどのように結びつけるか、にある。人々が行動しなければ何ひとつ社会を変える力は現実のものにはならない。しかし、それは個人の個別の営為ではなしえないことでもあると同時に、個人に体現されている行動を促す感情の高揚が、個人の主観を越えて集団的な感情と行動として共振しつつ社会的な力を体現することなしには何ごとも始まらない。こうした集合的な力は、どのようにして生じるのか。逆に、こうした転覆的な集団的な感情を抑制して、既存の権力再生産の限度内に感情という要素を収束させるコントロールのメカニズムはどのようにして発動するのか。本書の邦訳が”感情”と”欲望”の偽造と表現しているのは、この後者のような現にあるシステムを維持再生産することに加担する感情のありかたを指すものだといえる。

本書は、集団的な行動の重要性を指摘しつつも、かつての前衛党指導のもとでの大衆的な革命運動の称揚といった趣きと共通するところは全くない。なぜならば、党の理念を体現する「綱領」や「宣言」といったテクストが宿命的に負わされている思想や理論を彼は一切信用しないからだ。もっと言えば、そのような理論的な装いを凝らした文章で人々(マルチュードと表現される「大衆」)はみずからの感情を行動に跳躍させるようなことには至らないとの確信がある。体制を転覆させるに足る大衆的な力を支える感情、革命を指向しないではおかないような激情を喚起することは、いったいどのようにしたら可能なのか。彼の問題意識は、この一点をめぐって、人々を駆り立てずにはおかない感情の深部を探る冒険に赴く。だから、本書が具体的な事例として取り上げているのは、1960年代から70年代のフランスの労働者による工場占拠運動といったどちらかといえば、小規模だが既存の社会構造を別のそれに置き換える可能性を秘めた集合的な感情の具体的な運動としての表出に絞られており、国家権力を総体として転覆することが可能なような大規模な大衆運動ではない。ロルドンはスピノザからマルチチュードの概念を継承するが、同様にマルチチュードの概念を自身の理論に取り入れたアントニオ・ネグリとマイケル・ハートと比べると、ロルドンのマルチチュードには、新自由主義の時代のなかで社会変革の主体として登場してきたとネグリらが考える移民労働者や非物質労働者などはほとんど想定されていない。むしろ、ロルドンがイメージする労働者は、古典的な工場労働者であり、彼が例示するケースはことごとく1970年代までのもの、フォーディズムの危機の時代のものであって、新自由主義の時代にこうした労働者の集団的な社会転覆力が大きく削がれてしまったことへの危機感の方が大きいように見える。ロルドンの議論は一定の修正を加えれば移民たちの運動の評価にも用いることが可能な枠組だと思うが、彼がそうしなかった理由は何なのだろうか。本書を通じて私が感じた率直な疑問の一つはここにあった。(移民とマルチチュードの問題には本稿ではこれ以上言及しない)
(さらに…)

書評、映画評、音楽評など

越境するアンダークラス──映画『バンコクナイツ』

投稿日:

空族の新作『バンコクナイツ』は、今年観た映画のなかで最も印象に残り、わたしがうかつにも忘れかけていた1970年代のタイの熱い民衆の闘争を思い起させてくれた。とはいえ、決して「政治的に正しい」行儀のいい映画ではない。そこが空族の最大の魅力だ。(以下、ネタばれは最低限に抑えたつもりだが、予断なしに映画を観たい方は読むのを控えてください)

バンコクの歓楽街タニヤ、60年代から70年代にかけてラオスへの米軍空爆でできた巨大なクレーター、1976年タイ軍事クーデタで追われた反政府運動の活動家たちが逃げ込んだ漆黒の森。今回の空族の作品は、バンコクからタイ東北部、そしてラオスへと連なる現に存在する不可視の動線を移動する。セックスとドラッグにしか関心をもたない日本人が、東南アジアで「ビジネスマン」と称する無自覚な植民地主義者として、タイのアングラ経済を支える。しかし、その更に舞台裏で、越境するアンダークラスの逆賊たちの群れが蠢くことを予感させる物語、それがこの映画のある種の示唆するところでもあるように思う。

空族の映画の主人公は、たいていアンダークラスの能天気なノンポリとして登場する。彼らは、いつのまにやらぱっくりと口を空けた闇の世界の深い亀裂の中に彷徨いこむことになる。それでもなお彼らはそれが何なのかを明瞭には把握できないまま狼狽いする。物語のなかでそれが一体何なのかすら理解できないまま理不尽な世界(それも一つではない)に迷いこむ能天気な日本人たち。それを見る私たち(ここでは日本人を意味する、とりわけこの映画では男の日本人を)は、しかし、映画の登場人物のように能天気ではいられない。映画は観客に、「これが何を意味するのか、あなたは分っていなければならないのではないか?」とさりげなく問うのだ。

バンコクの世界有数の歓楽街は、ベトナム戦争における兵力を支えるセックス・ロジスティクスの一環として成長してきた。軍事用語のロジスティクスは食糧、燃料、武器・弾薬の補給を意味するという説明しかされないが、兵士の休息と娯楽もまた重要なロジスティクスの一環をなしてきた。これが今では、新自由主義経済戦争の〈労働力〉(ビジネスマン)を支える物流ならぬサービスロジスティクスとして日本の多国籍企業を支える存在になった。タニヤのセックスワーカーたちは、資本主義的な一夫多妻制の典型的な構造のなかにある。このことを映画はかなり端的に描いていると思う。この映画に登場する女性たちのしたたかさは、伝統的に職人労働者がもっていたしたたかさに通じるものがある。あるいは戦前のプロレタリア作家、宮島資夫が描いた「坑夫」のような、ど外れな存在に重なるかもしれない。翻弄されるバカ丸出しのビジネスマンたちが金と権力を握る理不尽さとの孤立した闘いが、ここタニヤには恒常的に存在する。たぶん、「バンコクナイツ」というタイトルとフライヤーの雰囲気についつられて映画を見に来た、ビジネスマンたちは、アテが外れて不快な思いをして映画館を出るに違いない。いいことだ。

脚本を担当した相澤虎之助は、上映後のトークで、富田監督や自身の東南アジアでの経験から、日本の旅行者というとドラッグ、セックス、ガンシューティングが目的ではないかと必ずといっていいほど質問されることから、この三つがいかに東南アジアの経済に大きな影響をもっているかに気づかされ、これがこれまでの映画制作のモチーフになってきたと述べていた。そして『バビロン花物語』はタイ北部のケシ栽培、『ビロン2』はベトナム戦争を主題としたが、ようやくこの『バンコクナイツ』で最後に残されたモチーフ、セックスを主題にした映画を制作できたと述べた。

わたしはこれに加えて、二つの重要なモチーフがあると思う。ひつとは、越境するアンダークラス。『サウダーヂ』は日本を舞台に、日系ブラジル人やタイ人の移民労働者の物語であり、移動する者たちが常に物語の中心に据えられている。闘う労働者ではなく、いつのまにかシステムを破壊する力をそれとは知らず発揮してしまうアナーキーな存在へと変貌する姿が描かれる。もうひとつは、「地方」である。今回のバンコクナイツの先行上映も空族の拠点である甲府で開催された。『国道20号線』も地方を走る国道が舞台だ。地方のアンダークラスという視点は、決定的に東京のようなグローバル都市の非正規労働者と同じようには語れない固有性がある。これはグローバル都市にはない地方のアンダークラスが潜在的に持っている豊穣な可能性に繋っている。私はこの映画を甲府という場所で観ることができて本当によかったと思う。

『バンコクナイツ』もバンコクの歓楽街からタイ東北部へと引き寄せられる。実は、タニヤで働く女性たちもまた、タイ東北部やラオス出身者であったり、あるいはタイ、ラオスから中国に拡がる地域に住むモン族の出身だったりする。こうなると「ゾミア」の世界になる。

最後に、ひとつやっかいな問題について書いておきたい。空族がセックスの問題を最後まで取り組まないできた理由のひとつは、これまでの映画もそうだが、主人公が男であるということとの関わりのなかで、セックスワーカーの世界を描くということの困難があったのではないかと思う。男の監督や脚本家が女を描くことができるのか?は、常に問われてきた問題でもある。このことは、映画を男の私が観るのと、女性が観るのとでは同じ感想にはならないかもしれない、ということでもある。ラオスのクレーターに集合するアジアの若者たち、ある種の梁山泊を想起させるファンタジーのようでもあるが、そこにはタニヤの女たちはいない。漆黒の森にもいない。この欠落がたぶんこの物語を次に引き継ぐ上での大きな鍵になるように思う。タニヤがゾミアに変貌する潜在的な可能性がすでに女たちが担っているのだから。

他方で、主人公が男であるという場合に、女は脇役なのだろうか?主体は他者なしには主体にはなりえないが、主体=主人公という位置を確たるものにするには、他者を他者のままに、主体の周辺に配置する以外にない。この映画では、女たちは、ことあるごとに、主人公の主体を揺さ振りつづける。すれ違うコミュニケーションがそれを象徴しているようにも思う。どこかでこの主客の転倒がありうるのでなければ、物語は、既定の路線を逸脱できない。どのような脱線と転倒が起きるか。そのための伏線はこの作品でほぼ出揃ったように思う。

(2016年11月13日、甲府桜座にて)

資本主義批判

米大統領選挙が露呈させた国民国家と民主主義のもはやこれまで!

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今回の米国大統領選挙ほどグローバルな資本主義のもとでの国民国家における民主主義が、明確にその限界を露呈したことはなかった。もともと国民国家は、階級構造が生成してきた搾取の構造を「国民」という普遍的価値を装って均質なアイデンティティを扮装することによって隠蔽する仕掛けでもあった。しかし、資本蓄積の構造(言い換えれば搾取の構造)が否応なく資本の出自を越えて(あるいは資本の出自を裏切って)展開しないではいられないほど成長=肥大化するなかで、自国とその外部という国民国家の境界に沿って、自国内の階級構造がもたらした失業や貧困の矛盾を、外部の「敵」に転嫁し、この「敵」と内通する自国内の既得権益に固執する特権層や、境界を密かに越境して「非合法」に自国の富や雇用を脅かす自国内部の他者にその責任を転嫁し、有権者である特権的な犠牲者の地位を白人労働者階級に付与するという構図が今回の大統領選挙を席巻した。トランプ陣営は白人労働者階級の一部が抱く人種的優越主義を刺激しながら「偉大なアメリカ」というイメージを構築するプロパガンダを展開した。トランプのプロパガンダは、伝統的な共和党のイデオロギーと相入れないだけでなく、これまで既成の政治を嫌ってきた下層の保守主義を代表すると言われてきたリバタリアニズムとも異なるスタンスをとった。とりわけリバタリアンが強調してきた小さな政府と自由競争資本主義への信仰(ハイエクやフリーッドマンなどだが)を否定した点は、それがサンダース支持者の取り込みという戦術の一環であったとしても、そのプロパガンダの方法も含めて、これまでの米国政権のなかで最もファシズムに近似する性格をもった主張であったという点に特徴があったといえるかもしれない。

国民国家の民主主義の限界は、グローバル資本主義がもたらした世界規模での貧困と紛争の根源にある米国の覇権国家としての責任という問題を正面に据えることができないという点に現われている。更に悪いことに、この問題が米国内の貧困問題に還元された上に、この原因をもっぱら外部の他者(中国であったり「不法移民」であったり、いずれにせよ有権者ではない国民国家にとっての他者)になすりつけて、愛国心を鼓舞するという方向でしか選挙のキャンペーンは展開されなかったということだ。国内の有権者のみを対象とする国政選挙という枠組は、米国ナショナリズムの神話=「偉大なアメリカ」のイデオロギーを再生産し、国民的な一体性や同質性を確認するための儀礼効果として、常に、外部の敵を再生産することに終始せざるをえない。これは国民国家の民主主義にとって解決困難な難問であって、米国に固有の問題ではない。これは近代国民国家と憲法が本質的にもっている敵対の構造に基づく自己保存の権力メカニズムであり、人びとの生存を脅かす根底をなすものの一つでもある。

米国大統領選挙でトランプは、失業と貧困から脱却できない主として白人労働者階級の票を獲得したのではないかと言われている。彼は、中国やメキシコに製造業が流出し、米国製造業を支えてきた錆びついた工業地帯(rust belt)と呼ばれる地域の白人労働者階級の職を取り戻すと主張して、TPPに反対し、安価な賃金で貿易で優位に立つメキシコや中国を非難してきた。ペンシルベニア、ウェストバージニア、オハイオ、イリノイ、アイオワ、ウィスコンシンといったかつて重工業で栄えた地域は、イリノイを除いて全てトランプが勝利した地域だ。一般論として、日本でもよく聞かれる主張として、新自由主義グローバリゼーションによって国内の産業が海外に移転することによって、職が奪われ格差と貧困がより深刻になる、だから自由貿易には反対だという議論の立て方がある。こうした主張は間違いではないが、正しいわけでもない。どこの国であれ、新自由主義の政権を批判する野党が、自国の有権者だけを念頭に陥いりがちな自覚されない排外主義のスタンスであり、格差と貧困に直面している有権者には実感をともなう主張だとして受け入れられやすいのだが、同時に、有権者の大衆意識としても、自分達の職を奪う「他者」像を構築してしまう。これは、自国内の移住労働者や近隣諸国の低賃金労働者への感情的な敵意を醸成しかねず、これが感情的なナショナリズムを支える基盤をなす危険性をもつことになる。

ナイジェリア出身で米国在住のアフリカ史の研究者モーゼス・E・オチョヌは、「新自由主義グローバリゼーション、白人労働者階級、アメリカ例外主義」(注)というエッセイで、米大統領選挙において、米国労働者階級がグローバリゼーションの被害者であるといことを強調する論調には、米国を特別視する価値観、言いかえれば、「米国の労働者階級だけがグローバル化における敗者となっており、それ以外の人びとは新自由主義の利益享受者だ」とする誤った見方が支配的であったと指摘した。こうした見方には「ナイジェリアのイルペジュ(Ilupeju)カドゥナ(Kaduna)、カノ(Kano)など、破壊された工業センターにおけるグローバリゼーションの被害者たちへの同情も連帯もみられない」と批判した。ナイジェリアでは、ここ15年の間に、グローバル化によるアジアからの安価な繊維製品の流入で国内産業が大きな打撃をこうむってきた。こうした事例は「南」の諸国で広範に見られる新自由主義グローバリゼーションがもたらした悲劇だ。

(注)Moses E. Ochonu, “Neoliberal globalization, the white working class and American exceptionalism”

しかし問題の構造はもっとやっかいで、中国やインドはアフリカとの関係ではアウトソーシングのハブとして機能しており、これら諸国との経済的な格差と資本投資による搾取の最底辺をなすのがアフリカ諸国になるグローバル資本主義の階層構造がある。この全体の構造を支配しているのは、言うまでもなく欧米の多国籍資本である。オチョヌはこうした構造を無視すべきではないとし、だからといって、中国の工場労働者がグローバル化の勝ち組の側にいるわけでもないことを強調する。だから、米大統領選挙で強調されたグローバル化によって職を奪われたという場合、アフリカ諸国は米国の職を奪える位置にはなく、むしろグローバル化の犠牲者でありつづけた。オチョヌは、アフリカの視点からすれば、米国労働者階級をもっぱらグローバル化の犠牲とみなす観点には同意できないとし、「 世界中で、多くの人びとは、米国の労働者階級同様、新自由主義的グローバリゼーションの収奪のなかで尊厳を維持しようと闘っている」ことを強調した。

当然のことながら、米国大統領選挙で主張された格差、貧困の問題ではこうしたグローバルサウスが被ってきた犠牲への関心はほとんどみられなかった。なぜなら、アフリカの人びとは有権者ではないからだ。しかし、米国の新自由主義グローバリゼーションの被害者であり利害当事者であることもまた明かだ。この排除を正当化しているのは、憲法の枠組であり、国民国家に基づく民主主義なのだということを軽視することはできない。ちなみに、ヒラリーよりずっとマシなバーニー・サンダースですら、自由貿易の問題は低賃金諸国が「アメリカの労働者」「わが国の労働者や中産階級」から職を奪うことだというスタンスが基本にある。(サンダースのTPP反対演説「TPPに反対する四つの理由」は議会演説としては優れていると思うが、国境を越える連帯の視点を持てない限界はいかんともしがたい。)

外交や安全保障から経済まで、閉鎖的な国民国家など存在しないにもかかわらず、絶対多数の利害関係者(米国の選挙権を持たない米国内外の人びと)を排除した上で行なわれる選挙のどこに正統性があるといえるのか。グローバル資本主義に対する米国の責任という観点から大統領選挙が争点化されることはまずありえない。これは米国に限らず一般論として言えることであり、国民国家によって分断されて選挙の権利がナショナルなアイデンティティを共有する人口に限られるなかで実施されることによって、民主主義はナショナリズムを正当化し、その結果として国民国家相互の摩擦や敵対を根本的に調整することが困難な条件を抱え込むという近代国民国家のリスクを体現するシステムだからだ。しかも、こうした利害の当事者の排除に基づくナショナリズムが正当化される一方で、資本は容易に国境を越えてグローバルな投資環境を構築しようとし、各国政府もまた、自国資本のグローバルな展開を相手国当事者を排除した民主主義的な合意形成によって正当化する。こうした国民国家の枠組に規定された民主主義選挙の争点から排除される論点は、一国内の有権者の利害に関わらないが世界の民衆にとっては死活となる課題である。あるいはグローバルな民衆の問題をあたかも一国内の特定の階層にのみ関わる問題であるかのように論点を歪曲した上で、これを正当化するレトリックの技術の横行である。民衆はどこの国であってもいったん「国民」として自己のアイデンティティが再定義されて内面化されると、相互に敵対関係の枠組の中で相手を見ること以外の眼差しを持つことが心理的にも困難になる。

直接間接に利害をもつ人びとが国境や国籍を越えて討議できる枠組がなくナショナルなアイデンティティに傾き、グローバルな公正性(といった近代コズモポリタニズムが掲げる理念)すら脇に追いやられる構造の根源に、皆が大切だと信じている憲法制度(立憲主義と呼んでもいい)の存在があると考えている。憲法は、普遍的な価値を国家の理念として立てる一方で、主権者を国籍によって排除・選別する。この枠組の境界線上に、移住労働者、難民、外国籍の人びととして、膨大な数で地球上に存在する。一国が有する他国との利害関係のなかには、主権者としての権利をもたない多くの人びとの利害もまた含まれる。現実の人口構成と憲法が規定する権力の正統性を支える民主主義の基盤をなす人口との間には無視できないズレと亀裂がある。トランプの「壁」発言は、この亀裂が民主主義の正統性の危機の域に逹っしていることを端的に示したものと解釈できるかもしれない。更に、分離独立を求める集団が存在する国が少なからずあり、こうした分離派にとっては憲法は、分離を妨げる最大の規範となる可能性がある。こうした状況と、憲法を後ろ盾とした資本や軍隊の越境性とを比較したとき、一体どこに民主主義の効用が、あるいは憲法の普遍性についての肯定的な価値があるというのだろうか。

今回の米国大統領選挙は、国民国家という枠の内部で競われる民主主義的な選挙が同時にナショナリズムを高揚させて、人種差別主義を正当化する危険性があることを端的に示した。トランプのように「偉大なアメリカ」を口に出して叫ぼうが、ヒラリーのように「偉大なアメリカ」を暗黙の前提としようが、彼らが競っているのは、どちらが「偉大なアメリカ」を将来において維持あるいは再現あるいは再興できるのかでしかない。彼らにとって、米国民(つまり有権者だが)の犠牲を最小化し、その利益を最大化するための政策を競っているのであって、この方程式の解が、他国の犠牲を最大化し、その利益を最小化することがあってもそれは問題の焦点にはならない。このことを端的に示したのがトランプによる米国白人労働者階級の貧困問題への言及だっただろう。彼にとって米国白人の貧困は特別に重要な解決されなければならない問題だということであり、この立場を支持する米国の有権者が少なからず存在したことがトランプの勝利を支えた。トランプだけでなく米国の有権者の多くも、米国の国民は例外的に繁栄を享受する権利があるかのように感じているのではないか。

一世紀近く前の古い話をしたい。カール・シュミットは『現代議会主義の精神史的地位』(稲葉素之訳、みすず書房)の第二版(1926年)まえがきで次のように述べている。

「あらゆる現実の民主主義は、平等のものが平等に取扱われるというだけではなく、その避くべからざる帰結として、平等ではいものは平等には取扱われないということに立脚している。すなわち、民主主義の本質をなすものは、第一に、同質性ということであり、第二に──必要な場合には──異質的なものの排除ないし絶滅ということである。このことを説明するためには、民主主義の二つの異った例について一言するだけで十分であろう。すなわち、一つは今日のトルコがギリシア人を徹底的に国外へ移住させることによって、その国土をトルコ化しようとしていること、他の一つはオーストラリアの_くに_(Gemeinwesen)が移民立法によって好ましくない移住者の流入を阻止し、他の自治領と同様に、_正しい種類の植民者_に合致する移住者のみを入国させていることである。すなわち、民主主義の政治的力は、他所者と異種の者、すなわち同質性を脅かすものを排除ないし隔離できる点に示されるのである」(14ページ)

上でシュミットが言う同質性とは「一定の国民への帰属性、すなわち国民的同質性」を意味するとともに「一般に民主制には、これまで常に奴隷または野蛮人、非文明人、無神論者、貴族あるいは反革命分子と呼ばれる何らかの形態で全部のまたは一部の権利を剥奪され、政治的権力の行使から除外されている人間が常に附きものになっていた」(15ページ)とも述べている。

シュミットにとって国民的同質性の核をなすものは、「民族的に同質な国家」であり、「大抵の国家は、それ自身の内部においては民族的同質性に基づいて民主主義を実現しようと努めているが、その他の点ではあらゆる人間を同権的な市民として取り扱っているわけではないのである」(17ページ)とも述べている。

シュミットは後にナチスの同伴者になるが、ワイマール時代に彼が論じた論点は今に至るまで繰返し議論の対象になってきた。ここで述べられている論点は、民主主義を擁護しようとする者たちにとっては実は聞きたくない考え方だろうと思う。しかし、民主主義が合意形成の手続きである以上、その前提として共通の価値規範を何か持たないことには成り立ちようがなく、そうであるとすると、価値観を共有しえない部分を排除するメカニズムを持つことによって民主主義的な合意形成を効果的に発動できるような制度設計が不可欠になる。国民国家は、これを「国民」としてのアイデンティティとして形成・再生産しようとするとともに、国家権力を制約する規範を「普遍的な価値」として構成することによって、理論上は何人も否定できない価値に基づく「同質性」を標榜することになる。これは多様性や異質なものの排除を意味するのではなく、これらを包含することを前提として形成される合意こそが普遍的な価値の体現であるとすることによって、同質性を異質なものの同質性として立てうることを示そうとしてきた。その結果、政治は言説のレベルにおける普遍的な価値の氾濫の一方で、現実には、普遍的な価値に名を借りた差別と排除が横行することになった。差別ではなく正当な競争の結果であるとか、排除ではなく普遍的な価値を実現するための秩序の実現であるなど、権力は政治の言説を討議に基く真理への過程としてではなく、既存の権力を正当化するためのレトリックと駆け引きのための詭弁として用いてきた。

憲法はこうしたレトリックの中枢をなす普遍的価値の擬制の体系なのだが、憲法が支えられているメタレベルでの権力の自己再生産構造を見ずに、憲法の条文が意味するであろう内容を「憲法学」的に解釈する立法府やアカデミズムの議論は、実は憲法が、普遍的な価値を纏うが故に逆説的に暗黙のうちに含んでいる排除の正当化の機能を見落している。シュミットはこの点を突いて、民主主義は排除と同質性の維持、とりわけそれを民族的同質性以外にはありえないと断定することによって、ワイマールとナチズムを同じ土俵の上で正当化してみせたのだと言うことができるかもしれない。ワイマールはよくてナチズムは悪いというふうには問題はたてられないのだ。同じことは、米国憲法にもいえる。トランプを生んだのは米国憲法であり、安倍を生んだのは日本国憲法なのだ、という事実から、憲法や国民国家という権力の構成を免罪できるか、という問いを私たちは自問しなければならないところに立っている。

米国大統領選挙から見えることは、日本の政治や国家の制度の問題とほぼ重なる。民主主義の欺瞞であれ、憲法のレトリックであれ、これらをシニカルに捉えて諦めるのではなく、だからこそこれまでにありえなかったような社会を構成する基本的な枠組を構想するという問題に挑戦しなけらばならないということではないのだろうか。「日本」やこの国のナショナリズムを廃棄するという課題は世代を越える大きな問題だが、この問題に答えを見出せないとすれば、国民国家が本質的に抱えもっている生存に対する危機を座して覚悟するという選択しか残されないと思う。それでいいはずはない。

ナショナリズム天皇制批判

書評:武藤一羊著『戦後レジームと憲法平和主義』れんが書房新社、2016

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刺激的な本に出会うということは、本の内容をそのまま受け入れるということよりも、本の内容に触発されて、著者がどう思うかとは別に、私自身の考え方に一歩でも新たな展開をもたらすようなことだと思う。武藤一羊の議論は、とくに私とは目のつけどころも方法論も違うけれども、現状への危機感は多くの点で共有できるという意味で、刺激的である。本書もまたそうであった。以下では主に、本書の理論的な枠組を提示している「総論」を中心に私の雑駁な感想を述べたい。

本書は、武藤がこの間提起してきた彼の戦後日本国家論を再度整理して、とりわけ安倍政権が目指す方向への根底的な否定の根拠を論じるものだといえる。武藤は、戦後日本国家の構成原理はアメリカの覇権原理、戦後憲法の平和・民主主義原理、そして帝国継承原理の三つからなるという基本認識を提起するが、これら三原則は「相互に矛盾する構成原理で成り立つ歴史的個性を備えた国家」であるというのが武藤の重要な方法論であると同時に、ここから安倍政権が目論む帝国継承原理一元論とでもいうべき改憲を通じた戦後レジームからの脱却戦略へのオルタナティブも導き出される。武藤は安倍の歴史認識をつぎのように要約している。

「安倍政権を構成する政治集団の基本的立場は、近代日本=大日本帝国の近隣アジアへの侵略・植民地化は正当であり、それを妨害しようとした欧米との戦争は正当な自衛戦争、そして欧米帝国主義からアジアを解放する戦争だったというものであう。誇るべき過去しかない。日本はこの歴史観を軸に組織しなおさなければならない。そのためには、帝国の過去を反省や贖罪の相でとらえる「自虐史観」を日本国民の間から一掃しなければならない。」(104ページ)

この安倍政権の歴史観は、戦後右翼が一貫して主張してきた歴史観そのものであり、安倍あるいは政権が固有の歴史認識を新たに構築してみせたわけではない。こうした右翼の一部の主張から戦後国家の権力の中核を担う正統化原理へと格上げを実現したところに極右政権たる所以もある。とはいえこの帝国継承原理が安倍政権になって登場したものではなく、戦後国家に一貫して伏在してきた基本原理の一角をなすものであって、その現われが顕在的であれ潜在的であれ、「帝国継承原理が戦後国家の中に現に生きている原理として継承されていたということにかんして、多くの有力な論者の中にはっきりした認識がなかったし、いまでもないかに見える」(57)と武藤は指摘している。

武藤が「戦後国家は、帝国継承原理を正統化原理の一つとして最初から組み込んで成立していた」(59)と言うとき、同時に、戦後国家の権力構成の基本に戦後憲法では天皇の政治的な大権も神格化も否定されたにもかかわらず帝国継承原理が組み込まれてきたとするなら、それは何を意味するのがが問題になる。武藤は、この点をおおよそ次のように説明する。アメリカの覇権原理との関わりでいえば、戦後の天皇制存続は米国の覇権構造への組み込みの一環として米国の国益と占領統治の便宜として米国の選択であったという意味で、「アメリカ製天皇制」であるということ。戦後憲法の平和・民主主義原理との関わりでいえば、天皇を不可侵の主権者とすることから「人間宣言」と象徴化へと転換することによって民主主義を保障することになったということ。帝国継承原理との関りでいえば、裕仁が戦後も天皇の座に座り続け、「万世一系」の神話も保持され、同時に戦後憲法も裕仁の名において公布されたということ、である。神格化を伴なう「日本」の「神代」からの継続性を一方で確保しつつ、他方で神格化を否定して人間宣言をする。「日本」という擬制の中核をなすものでありながらそれが「アメリカ製」である戦後天皇制。武藤はこれを戦後天皇制の「三元的自己矛盾の塊」と指摘し、安倍政権はこの自己矛盾を第三の正統性原理、つまり帝国の継承原理で一貫させようとしていると見ている。

本書では、正統性原理のなかの「戦後憲法の平和・民主主義原理」が、米国や日本の支配層の思惑を越えて、憲法9条に体現されている平和主義を民衆のなかに深く根付かせるとともに、そのことが60年安保闘争、ベトナム反戦運動から現在の沖縄反米軍基地闘争や戦争法反対闘争といった一連のアメリカの覇権原理に抗う流れを生み出してきたことを指摘し、この流れのなかに、安倍が目論む帝国継承原理を覆す可能性を見出そうとしている。

「原理としての平和主義によって、私たちは安倍政権を倒す。それによって戦後国家に作り付けだった他の二つの国家構成原理の排除に向かう。それは、醜悪な野合をとげている帝国継承原理おアメリカの覇権原理を癒着のまま処分し、平和主義原理によって日本列島を組織しなおすことに踏み出すことである」(94)

異論はとりあえずないが、では倒すべきは安倍政権であるとしても、武藤の立論をふまえれば、それに止まることはできない。倒すべきものは戦後を通底してきた米国覇権原理と帝国継承原理であり、したがって、倒すべきは安倍政権を越えて戦後自民党政権総体だということではないだろうか。またそうだとして、「平和主義」の核をなす憲法9条をどのように解釈すべきものとしてわたしたちが再定義できるかにもかかっている。憲法9条には共通の合意された解釈がないなかで、9条は壊死しているが、そうであっても9条は書かれた憲法として有効な手掛かりなのだという希望を持ちたいと思いつつも、9条は平和主義をささえる国家の統治原理になりえなかったという反省を踏まえて、更に先を見据える必要があると思う。言い換えれば、武藤の言う米国覇権原理と帝国継承原理が排除されたとき、そこには平和主義が自立した姿で見出せると言いうるのか?である。わたしはこの点で懐疑的だ。なぜなら、国民国家という統治機構をとる限り、常に平和主義は擬制においてしか成り立たない危険性をはらむのではないか、という疑問があるからだ。根源的な平和主義を構想するとき、どうしても問わなければならなくなるのは、抽象的な言い回しになるが、国民国家という近代に遍くはびこっている権力の基本的な構成原理そのものに内在する暴力ではないか、ということである。平和主義がこの水準にまで到達するとすれば、それは、近代の政治学や憲法学が前提としているパラダイムを越えることになる。そうならなければ多分、平和主義は運動としても思想としても再生できないと思う。

武藤は次のようにも述べている。

「戦後日本国家の著しい特徴は、日本国憲法が国家の完全な構成原理として働らかなかったことである。形式上は、戦後日本国家は日本国憲法によって構成されたことになっているにもかかわらず、現実には、これまで見たように、憲法原理はそれとは両立しがたいアメリカ覇権原理および帝国継承原理と並んで、それらの掣肘下に存在したので、原理として自己を貫徹することなかったし、できなかった」(69)

ここでいう「日本国憲法が国家の完全な構成原理として働らかなかった」の意味は憲法前文に明文化されている平和主義を念頭に置いている。言うまでもなく、この構成原理としての不十分性をもたらしたのは、他の二つの原理、米国覇権主義と帝国継承原理によって制約されているからに他ならない。実は同じことは帝国継承原理にも言えると武藤は言う。

「帝国継承原理は、国家の中枢に保持されていたが、それを公然とかかげることはできなかった。こうして、どの原理も排他的に自己を貫徹できなかったから、どれも原理としての本来の資格を大きく失い、その結果、戦後日本国家は明確な正統化原理を持たぬ国家、逆説的に言えば、オポチュニズムを原理とする国家となった。」(69)

戦後憲法の象徴天皇制は帝国継承原理と接合しており、9条もまた米国の安全保障政策と国益に接合して構築されたものであるという面でいえば、そもそも戦後憲法は、アメリカ覇権原理と帝国継承原理なしにはありえないものだともいえた。このような武藤の議論の前提を受け入れるとすると、この三つの原理のうち、帝国継承原理だけが他の二つの原理なしに存立可能な特異な正統性原理である、と言えそうだ。この意味で、安倍が帝国継承原理を前面に押し出したことの結果として戦後憲法の平和・民主主義原理を原理の地位から放逐することは、ある意味では矛盾を回避する論理的な帰結だともいえるかもしれない。

●戦後憲法の平和・民主主義原理とは何か?

武藤は、帝国継承原理に一元化しようと画策する安倍政権に対置して、「第二原理(憲法平和主義)の下で暮してきた日本国民」を米国の覇権原理と帝国継承原理を抑え込む民衆運動のよりどころとなりうるものとみているように思う。しかし、この憲法の平和・民主主義原理の論じ方は、安倍政権の帝国継承原理一元化の構想(その具体的な提案が自民党の改憲草案)の登場によって、戦後平和運動が論じてきた論じ方では対応できない状況が生み出されたとみる。

「右翼的勢力の改憲の最大の動機が、戦後期全体を通じて、合憲的合法的な軍隊を持ちたい、そのため憲法九条を変えたいということであったのは言うまでもありません。その状況の下で、日本国憲法の大原則の一つである『非武装平和主義』をどのように扱うかは、主として憲法九条の存廃をめぐる論争、対立として展開されてきました。それが誤りだというのではありません。しかし今回の自民党改憲草案が提起している『国防軍』の創設は、日本国の普遍的基準からの切断という文脈の中に据えられているので、国家は軍隊を持つべきか否か、といった抽象的・一般的議論のレベルだけでは扱えない歴史の中での具体性を備えているのです」(163)

武藤は非武装平和主義、つまり軍隊をもたないという立場によってはもはや対応できないほど具体的な軍隊の問題が「歴史の中での具体性を備えて」登場していることを強調する。これは、非武装平和主義を放棄するとか棚上げにするということを意図して述べられているわけではないが、非武装平和主義を普遍的な原理として前面に押し出して自民党の改憲草案と対峙するというスタンス、つまり。上の引用で「国家は軍隊を持つべきか否か、といった抽象的・一般的議論のレベルだけでは扱えない」に含意されている彼なりの問題意識がある。武藤は非武装平和主義を否定しているのではなく、それだけでは十分ではないと言うのだ。彼は次のようにも言う。

「日本国憲法の非武装条項は、戦後日本がアジアの諸国民に向けた誓約であるとはこれまでも指摘されてきたことですが、その通りです。敗戦日本が、反省もせず、負けたのはアメリカに物量でかなわなかったからだなどと開き直っただけだったら、戦後アジアとの関係は不可能であったでしょう。非武装憲法の誓約はかろうじて関係つくりの基礎の役割を果たしたのです。現実には戦後日本は、米国のアジア支配に便乗してこの基礎をないがしろにし、脱帝国・脱植民地の課題に直面せず、アジアとの間の過去を清算することを回避してきました。それでも、この憲法ん誓約は戦後日本がアジアとの関係を回復する際の前提として存在してきたのです。」(163)

この非武装条項は、憲法前文と対応するものだが、武藤は「自民党草案は、その前文において、戦後期冒頭に置かれたこの礎石[現憲法全文]を取り外し、投げ捨てました」と指摘する。こうしてアジアとの誓約も非武装平和主義も棄て去って、帝国継承原理に一元化しようとしているとみるわけだ。わたしは、武藤のこの指摘は大枠として正しいと思うから異論はない。とはいえ、問題は、現在の安倍政権あるいは自民党改憲草案と戦争法の時代に起源をもつ問題なのではない。武藤は安倍につらなる戦後日本国家の質的な転換を1990年代にみている。つまり、戦後の矛盾に満ちながらもかろうじて相互の調整を維持してきた三つの原理の均衡が崩れたのが90年代だいう。総評の消滅と社会党の衰退はその象徴的な出来事だという。(「始まったレジームチェンジ」プロセスの尋常でない性格」、本書所収)

この武藤の指摘に更に私は重要なもうひとつのファクターを強調したいと思う。それは大きく言えば戦後日本の「革新」の限界に関わる。その出発点は、言うまでもなく、裕仁の戦争責任問題、戦後憲法讃美によって後景に退いた沖縄の米軍統治問題という戦後の端緒に埋めこまれた戦後日本の平和主義の限界に関わるが、さらに私は、武藤の言う三つの原理の均衡が崩れた大きな要因をつくりだしたのは、自民党ではなく90年代の村山政権だったことを強調したい。村山政権が、日米安保と自衛隊合憲を打ち出し、原発をも容認したことは、「革新」側による憲法9条の再定義であって、その後の平和運動の基本理念を大きく損なう裏切り行為だったとはいえないだろうか。この結果として、その後の野党や反戦平和運動の流れのなかに、原則や理念を棚上げにして、目先の軍事・安全保障政策に対する反対として運動を展開するという理念なき政局運動がはびこるようになった。体制選択はおろか、原則的な外交・安全保障の基本政策を根底から否定する運動の思想的なラディカリズムは影をひそめ、その結果として、日米同盟解消や自衛隊廃止、非武装中立という方向性が平和運動の当然の共通認識とはならなくなってしまった(あるいは公然とは口に出されなくなった)ように思う。こうして、自衛のための武力行使を暗黙のうちに容認する価値観が徐々に平和運動のなかにも浸透してきたように思う。言い換えれば、自国軍隊を持つことを当然の前提とする諸外国の平和運動と同じ次元で反戦平和運動が再定義され、その結果として9条を重要な運動の柱としながらも、この9条が「革新」側によって自衛隊合憲、日米安保容認という再定義を前提とした立法府での議論の枠組が構築されていることの深刻な問題を棚上げにする一方で、「戦争放棄」や「9条守れ」というスローガンには漠然とした戦争放棄の理念がありうるハズだという期待を多くの反戦平和運動の担い手たちは抱きつつも、政治の現実の舞台があまりにもこの理念とかけはなれた土俵の上で展開されている欺瞞に疲れ果てる姿が日常化してきたとはいえないか。自衛隊解体、国家に軍隊はいらないを非武装平和主義の意味として共通の合意とする確認もなしに、具体性のないヌエ的なスローガンでお茶を濁す空気すら生み出されてきたのではないだろうか。この反戦平和運動のなかでの90年代の9条再定義は安倍政権につらなる現実政治への理想主義の敗北であったのではないだろうか。だから、左派の再構築は、こうした90年代以降の再定義を自己批判的に総括することを避けることはできないはずだ。その上で、武藤が言うように平和主義をその内実を伴なう意味のレベルで再定義し共有することが必須の課題だ。

「革新」による9条解釈の変質は、現行の自衛隊については違憲とは明言せず、集団的自衛権だけが違憲であるかのような奇妙なレトリックが支配的になってきた現在の流れの源流にあるものとはいえないだろうか。こうなってしまうと、安倍政権が打ち出した「積極的平和主義」や自衛隊合憲を前提とする議論の土俵に片足を乗せながら、集団的自衛権行使や海外派兵の条件だけを争点とするような論じ方になってしまう。こうした危惧を武藤は戦争法反対の論調のなかに見出して危惧を表明している。こうしてみると先に述べたように、村山政権が打ち出した日米安保容認、自衛隊合憲論がその後の運動にもたらした影響は非常に大きかったのではないかと思う。

●戦前・戦中・戦後を繋ぐ国家原理とは

政治学者や法学者は1945年の転換に大きな意義を与え、これこそが戦前・戦中と戦後の「平和主義」を分つ分水嶺だと強調するが、私はこの見解にこれまでも異論をさしはさんできた。1945年はさほど大きな亀裂を「日本」にもたらさなかったと考えてきたからだ。もちろん1945年は近代史においても特筆すべき切断面を示している。このことを軽視するつもりはないが、その反面、この切断面は近代「日本」の深層にまでは到達しえていないと考えるからだ。では、戦前・戦中・戦後の連続性とは何なのか。その答えは極めて単純な事実にある。それは、戦前・戦中・戦後に一貫して、「日本」は資本主義の構造を維持したこと、そしてまた、近代国民国家としての構造を維持したこと、この二点である。同時に、これらの構造が生成しているこの国で生活する民衆の大多数のアイデンティティもまた「日本人」としてのアイデンティティであったことである。(その周辺に植民地の人びとのアイデンティティが接合され、この他者のアイデンティティなしには「日本人」のアイデンティティも確立しない構造をもっている)「日本人」としてのアイデンティティと国民国家としての構造との間をつなぐ「日本」の近代の正統性あるいは自他の差異は、(不合理であれ何であれ)普遍的な装いをもって提示すべき国家イデオロギーとして構成されなければならず、これは、この国では天皇制以外にはありえなかった。しかし、これこそが脆弱であることもまたこの国が抱えてきた固有の問題でもある。

民衆の日常生活に即してみたとき、戦争体験や自由に対する抑圧が1945年を境に大きな転換を遂げたとしても、国民国家と資本主義の構造のなかで、〈労働力〉として組み込まれる構造は一貫したものがあり、これが国民としての〈労働力〉を再生産する構造として維持されつづけてきた。この一貫した構造がある限り、ある種の戦前・戦中への回帰(文字通りの意味での回帰はありえないのだが)を絶つことはできないというのが私の認識だ。たぶん武藤の三原理と私の認識の最大の違いはここにあるのではないかと思う。

その上で、武藤が危惧する帝国継承原理について私なりのコメントを書いておきたい。帝国継承原理として武藤が指摘している侵略の正当化の主張は、一般論としてその通りだと思うが、戦前・戦中の日本の侵略を正当化する歴史認識はひとつではなかったことが重要だと思う。一方で、蓑田胸喜や国体明徴運動といったファナティックとさえいえる皇国史観があり、他方では天皇機関説があり、後者が弾圧されたとはいえ、戦後憲法のなかで復活することになる。前者は、戦後天皇制の伏流として、右翼のイデオロギーとして生き残る。皇国史観や現人神としての天皇=主権説は、ある種の一神教だが、一神教は、普遍主義を体現できるだけの教義の普遍性と、この普遍性を支えるだけの主体の神性が遍く人びとに受容されうるような組織に支えられなければ維持できない。普遍宗教を標榜するキリスト教であれイスラームであれ数世紀をかけて教義としての体系を整え、これを普遍性の言説へと彫琢してきたことによってかろうじて世俗主義近代を生き延びてきた。天皇制にはこうした強靭な思想的な普遍性がなく、神話を現実に繋ぐ強靭な歴史形成力を持たない。だから1945年を境にあっという間に民衆は天皇=現人神の神話を自ら放棄することに同意したのだと思う。ほとんど誰も本気で信じていなかったということだ。

対外関係では、一方に昭和研究会を中心とする東亜協同体論(東亜新秩序論)があり、他方に大東亜共栄圏がある。多分、軍事的侵略と人殺しの狂気を支える精神性にとってはファナティックな皇国史観や大東亜共栄圏の妄想は役にたったかもしれないが、広範な知識層を含めて侵略を正当化する思想的理論的実証的あるいは政策的な枠組は、むしろ東亜協同体論に代表されるようなスタンスではなかったかと思う。しかも、戦前の日本による植民地化と侵略を正当化する思想の無視できない一角を占めたのが、転向マルクス主義者たちであったということは決して無視できない。マルクス・レーニン主義の資本主義批判や帝国主義批判を逆立ちさせた議論が、平野義太郎であれ三木清であれ、あるいはプロレタリア文学作家として重要な仕事をしながら転向した林房雄であれ、彼らの理論的枠組はマルクス主義的な知的伝統抜きにはありえないものといえた。この意味で帝国原理は転向マルクス主義を抱えこんだものでもある。(これは、戦後高度成長を支えたイデオローグもまた転向マルクス主義者たちであったことにも共通する問題だ)そしてこの左右の中間に膨大な沈黙する現状追認の知的世界が拡がっていたのではないか。西田幾太郎や京都学派はリベラルな追認派として、ほぼ無傷でそのまま戦後を生き延びる。

帝国継承原理として武藤は、これらの戦前・戦中の帝国原理の振れ幅のどこに焦点を当てているのかはいまひとつはっきりしない。もし皇国史観や国体明徴運動のイデオロギーと大東亜共栄圏の構想をもって帝国原理とするなら、確かにアジア諸国の合意は得られないだろうし、少なくとも今現在の日本国内においても安倍政権を支持する確信的な右翼は別にして多くの有権者の合意も難しいに違いない。いやむしろ安倍政権がイデオロギーとして戦後の価値を否定する場合に、何をオルタナティブとして構想するのかという選択肢として、従来は採用されなかったような戦前・戦中のイデオロギーの核となるものの幾つかを取り入れようとしているのかもしれない。その取捨選択は、あらかじめ決められてはいない。まさにオポチュニズムによって選択されるに違いない。

●米国の覇権主義

多分、戦後日本が70年にわたってほぼ一貫してそのスタンスを変えてこなかったものが、この米国覇権主義を組み込んだ国策の構造だろうと思う。この意味で武藤の指摘に根本的な異論はない。しかし、米国の覇権主義に基いて構築されてきた戦後世界秩序のデファクトスタンダードは、中国とロシアの台頭によって、大きく揺らぐ事態になっている。新興国は、もはや欧米がルールとして定めた「国際社会」の正統性を無条件では受け入れなくなってきた。中国やロシアがそれぞれの国益をグローバルスタンダードとして打ち出し、これが相当程度に具体的な外交や安全保障、経済の分野で効果を発揮しはじめているからだ。中国のインフラ投資銀行、ロシアのシリア介入やクリミア併合、そして、米国にとって軍事的な空白地帯になっているアフリカでは、中国が圧倒的な経済的なプレゼンスをもって台頭しつつあり、同様に中央アジアもまたロシアの影響力が強まりつつある。これは、世界最大の軍事大国米国が、アジア重視やリバランスを主張したとしても、もはや世界の動向を左右する覇権国家の覇権国家たる所以を具体的な行動で示さなければならない場所そのものが、米国を中心とする欧米のヘゲモニーの構造から相対的に自立しはじめているということだ。こうしたなかで日本が米国覇権主義を正統性原理として維持することについて、支配層内部でも異論がでてくる可能性は否定できないと思う。これは別の見方からすれば、非武装中立というかつての夢の再興の可能性を孕む客観情勢が顕在化しつつあるともいえるかもしれないのだが、平和主義の側にもはやその準備がないように見える。

米国覇権主義は実際にはそれほど磐石であったことはなかった。この意味である種の神話に近いものであったかもしれない。ベトナム戦争以降、明確に戦争での勝者になりえず、冷戦の勝利は軍事的な勝利ではなくむしろグローバル資本の圧力による社会主義圏の自壊ともいえるものであったし、アラブ中東であれ旧ユーゴであれ、一貫した外交理念を貫くことができずに、国益だけを指標に無定見な武力行使を繰り返す以外になかったのではないか。その米国が、911同時多発テロでうろたえた大国の姿を世界中にさらし、出口のない対テロ戦争に引きずりこまれて手をやいている。世界最大の軍事国家米国が勝てない戦争を続けており、この米国との同盟という負け組を選択する極右安倍政権のスタンスに、この国の愛国主義者も同調するという奇妙なナショナリスムもまた米国覇権主義と帝国継承原理の矛盾の産物なのだと言えるが、これは逆に戦後国家の正統性の一角を脆弱にしている要因ともいえる。

21世紀の世界がそれまでの世界秩序と本質的に異なるのは、近代の普遍的な理念がそのままでは通用しなくなっており、そのことは支配的な価値観の側でも、従来の反政府運動(左翼)の側でも起きているということではないかと思う。これまで世界政治の枠組のなかでは不可視な存在としてしか扱われてこなかった20数億のイスラーム人口が、これまで前提されてきた欧米近代の普遍主義ともキリスト教習俗とも異なる文化的な価値をもって可視化され、無視できない政治的社会的文化的な潜勢力を示しはじめていることに対して、こうした動きを既存のグローバルは覇権システムのなかに有効に包摂することができないままになっている。多文化主義、民主主義、自由と平等もまたその欺瞞が露呈することになった反面、諸々の差別主義と排外主義が公然と欧米の民主主義を逆手にとって権力の中枢に迫る。価値観としての自由も平等も欺瞞以外の何ものでもないことを民衆の大半は実感しており、それは日本が「平和国家」であると公言することに込めらている欺瞞と共通するレトリックの構造があり、これは近代社会を支えてきたイデオロギー構造そのものの限界と矛盾が露呈したものだといえる。だから、これは、米国の覇権主義原理の危機のあらわれでもあって、その危機は、グローバルなイデオロギーの危機でもある。

他方で、民衆運動の側はどうか。冷戦期の反戦平和運動は、ベトナム戦争反対運動であれ第三世界連帯運動であれ、反米闘争を闘う民衆の闘争への思想的な共感をともなうものでありえた。しかし、ポスト冷戦期の運動は、湾岸戦争からアフガン・イラク戦争そして対テロ戦争の現在に至るまで、米国とその同盟軍と闘うもう一方の主体に対して共感をもってこれに同調することで運動が成り立っていない。欧米に主導された軍事介入に反対するとはいえ、広範に(特にイスラーム圏で)どこからどこへ向う解放が民衆の解放の闘いとして、欧米や日本の反戦平和運動と世界観や将来社会像において共有できるものとして存在しているのか、この点が未だに不分明なままだ。世界社会フォーラムの「もうひとつの世界は可能だ」というスローガンも、もうひとつの世界を「像」として結ぶことができるような焦点を見出せないままである。ギリシア、スペイン、香港、台湾、あるいは英国労働党や米国民主党内部の左派の台頭は注目すべきだが、しかし、これらの運動は、資本と近代国民国家の枠を越える理想が希薄なようにも見える。多国籍資本のビジネスモデルを覆すだけの潜勢力がまだ見出せていない。この意味で。米国の覇権主義は、圧倒的な軍事的・イデオロギー的な優位に支えられているというよりも、次の選択肢が見出せない反体制運動の脆弱さによってかろうじて延命しているともいえる。米国覇権主義の危機はかなり明白であるが、それに代替するプログラムが見出せない。この意味で、危機は主体の側により深刻であり、この間隙を縫って、極右がその隙間を埋める運動として民衆的な力を獲得しつつあるように思う。この意味では、問題は奴等の側にではなく私たちの側に、私たちが提起すべき解放の想像/創造力の欠如にこそある。

●わたしたちにとっての最大の課題は何なのか?

資本主義にとって、戦前・戦中・戦後に一貫しているのは言うまでもなく、資本蓄積の構造である。独裁であれ民主主義であれ、何であれ資本を支える社会的な構造を資本は要求するのみである。国家にとっては、国民国家としての権力の正統性が何であれ、国家の統治機構の自己維持こそがその自己目的である。この一貫した構造のなかで、一人一人の個人あるいは身近な民衆の存在に定位したとき、そこにあるのは、国民的〈労働力〉としての再生産の構造である。一方で資本が、他方で家族が、そしてこれらを支える統合の基盤としての国家がある種の原理的な構造をなしている。武藤が三原理を相互に矛盾するものとして指摘したことは重要であるが、私はこの三つの原理の矛盾だけでなく、より多様な正統性の要件があると考えている。ここではそれを全体として論じることはできないが、近代の資本と国家のシステムはある種のモジュール構造をとって緩やかに相互に接合される。家族や親族の構造から重層的なコミュニティの構造、総体としての資本や国家の統治機構に至るまで、相互に矛盾と摩擦をはらみながら調整しうるようなモジュールであり、ときにはその一部が別の構造をもつモジュールと取り替えられることすらある。国民的〈労働力〉の再生産の時間的(歴史的)空間的(領土的)な配置のなかで、資本は蓄積を自己目的とし、国家は権力を自己目的とする構造を維持する。常に問題の中心をなすのは「人口」である。人間社会である以上この「人口」が問題であり主体でもあるからだ。資本と国家の自己維持メカニズムにとって、「人口」はその手段でいかない。武藤が述べているように、オポチュニズムがこうしたシステムの根底にはあって、実は最も重要な存立構造の核をなしているようにも思う。近代の普遍主義はこのオポチュニズムを正当化するための神話の装置だとも言える。

これを「日本」という文脈に引き寄せたときに、その固有性は何になるのかが問題になり、武藤はこの固有性の次元で「日本」の正統性原理を批判した。彼は過度な抽象化や理論化には大変慎重かつ批判的だと思うので、私のような抽象的な資本や国家という概念に「日本」の固有性を還元することには異論があると思うし、わたしには武藤が論じているような密度で、同じ抽象の水準で戦後日本の国家を論じる能力も準備もないのだが、だからこそ彼の安倍政権批判から近代日本の国家原理総体へと至る批判の具体性は、示唆に富み、かつ刺激的なのだ。問題は、今に至るまで、やはり、資本と国家の廃棄という課題である。この課題に連接する具体性の次元で語るべき言葉を本来なら持たなければならないのだが、まだ私にはその用意が十分にできていない。このことを武藤の議論を読みながら改めて実感させられた。

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12月17日:今日の反核反戦展2016 関連企画 ―ディスカッション:反核・反戦と表現の自由 『核×戦争のアートアクティヴィズム』

投稿日:
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チラシ

今日の反核反戦展2016 関連企画  ―ディスカッション:反核・反戦と表現の自由
『核×戦争のアートアクティヴィズム』

12月17日(土)13時~15時(12時30分 開場)
場所:原爆の図丸木美術館 小高文庫 ※参加者数により変更
〒355-0076  埼玉県東松山市下唐子 1401 TEL:0493-22-3266
参加費:500円 (資料・茶菓子代) ※美術館入場料別途要

■小倉利丸《批評家》
遊動と根拠地:アナログ・アートアクティビズムへ
■岡村幸宣《原爆の図丸木美術館 学芸員》
《原爆の図》の活動期――占領下、1980年代、そして現在
■狩野 愛《アートアクティヴィズム研究》
アートアクティヴィズムは国境を越える

《原爆の図》の全国巡回は、原爆被害の報道が禁じられていた占領期に始まり、1950〜53年の約4年間で、全国170カ所以上で開催されました。丸木位里・俊が、美術作家として反核・反戦の悲惨さを表現し、全国行脚して展示し、物語を伝えていく活動は、社会教育やジャーナリズムとも結びついた実践だといえます。ただ、現在の「自由に制作・発表出来ている」状況におけるアートの制作と展示と比べると、大分異なる活動のあり方かもしれません。しかし、アーティストと美術関係者が、積極的に原発や米軍基地の緊急の問題に関わり、解決に向けて一歩踏み出す方法を議論し、共有し、模索する機会を増やしていく意味はあるでしょう。
かつての丸木夫妻のアートアクティヴィズムの実践と、今日までの原爆の図丸木美術館の取り組みを省みると、社会の中で美術を機能させる意識を持つべきなのか、美術の中で社会を見出す契機を作っていくべきなのかという問いは、もはや無効であると言えるでしょう。むしろ、今回のトークイベントでメインに据えたいテーマは、アートを触媒にした対抗文化は、今日の社会制度、美術制度が敷かれた空間で、いかにラディカルさを確保し、力を発揮できるかということです。
世界的にもナショナリズムが求心力を持ち、政治状況が激しく揺れ動く一方、市民として反核・反戦を実現していくユートピアを、発表と参加者を交えたオープンディスカッションで描き、より広くアートアクティヴィズムの可能性を見出せればと思っております。皆さま、奮ってご参加ください。

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左派は国民国家の統治とは別な何かを創造できるか──『絶望のユートピア』出版に際して

投稿日:

以下は、『人民新聞』10月15日号に寄稿したものです。

私は、この30年ほどの時間のなかで、雑多な文章を書いてきた。この雑多な産物を雑多なままに、『絶望のユートピア』というタイトルを付して本にした。一二〇〇ページを越える大部だが、時系列にもカテゴリー別にも分類することを排した混沌とした本である。特定のテーマはない。現代資本主義批判もあれば現代美術の批評もある。原発への言及もあれば、天皇制や右翼言論への批判もある。サイバースペースや監視社会批判もある。しかし、これらをカテゴリーのなかに押し込んで相互に別々の課題とするようなことはしたくなかった。結果として、混沌が生まれた。

左派が、日本だけでなくどこにおいてもグローバルに直面しているのは、左派としてのアイデンティティの危機だと思う。この危機は、西欧近代が普遍的な価値としてきた自由、平等、人権、民主主義の擬制と虚構に左派もまた加担してきたしてきたところにある。もはやいかなる意味においてもこうした価値は、その一切の正統性を喪失してしまったと思う。底辺に生きる民衆たちは、こうした価値とは別な何か、国民国家の統治(憲法がそれを体現しているのだが)とは別な何かを直感的な欲望として抱きはじめている。左派に必要なことは、こうした普遍的価値からいかにして自らを切り離し、そうではない「何か」を思想的にも実践的にも創造できるかということだろう。こうした問題意識を具体化できる能力は私にはない。とりあえず自分にできることとして、この30年を混沌の坩堝に投げ入れる不細工な仕儀の産物が、本書なのかもしれないと感じている。

5000円という高額の本はそう手軽に買える値段ではない。そこで本書については、異例な販売方法をとることにした。分割後払いでの購入ができるようにした。文末に掲載した問い合わせ先にメールで注文すると、本と一緒に郵便振替口座など支払いの案内と振替用紙が同封されてくる。何回払いにするか、一回の支払い金額は買い手が自分で決めてよい。文庫本ですら1000円では買えないご時世だ。失業と非正規低賃金の労働者が圧倒的に多くなっているなかで、読みたい本が高くて買えないということは、そもそも知へのアクセスから貧困層を排除するということでもある。月々数百円とか1000円程度なら支払えるという皆さんに是非手にとってもらえたらと思う。全てを読む必要はないが、何か考えるヒントの一つでも得られるものでありたいとも思う。分割後払いは一般の書店では扱ってもらえないが、こうした販売に協力していただける方、団体、お店などがあればぜひ下記に連絡をいただければと思います。

分割後払いでの購入申し込み先
daRa revo
dararevo@alt-movements.org
詳しくはウエッブをご覧ください。
https://dararevo.wordpress.com/

『絶望のユートピア』桂書房、5000円

小倉利丸

監視社会

SNSは民衆的自由の基盤になりうるか

投稿日:

Facebookは昨年同期の1.5倍の収益を上げた。収益の半分は広告料収入だ。3ヶ月で70億ドル近くの広告料収入を得ている。

SNSの収益構造は、広告に依存しており、伝統的なマスメディア資本の収益システムとほとんど変りがない。つまり、広告で収入を稼ぐ一方で、ユーザーには無料でサービスを提供するという方式は、伝統的なマスメディアのビジネスモデルと変らないのだ。テレビなら無料で番組を提供するかわりに広告も流す。新聞なら広告料収入によって読者に採算以下の価格で新聞を売る。ネットの多くの無料サイトは多かれ少なかれこのマスメディアの収益システムと同種のことをインターネットで展開しているにすぎない。

情報は「物」とちがって、所有者を移転することは元の情報の所有者から情報が失なわれるわけではない。だから、情報の所有者は物とは違って情報の提供のハードルが低い。たとえば、親友にカンニングさせるということは、親友も自分もともに100点が取れるからであって、一方が100点をとったら他方は0点になるという「あいつか俺か」ではなく「あいつも俺も」になる。だから、この情報を市場経済にメカニズムに乗せるには、著作権を設定して使用の権利を規制したり、情報の共有にペナルティを課したり(カンニングしたくなるような退屈な授業しかできない教師は処罰されない)、「特定秘密」などという特殊なカテゴリーを構築して情報へのアクセスを犯罪化したり、あの手この手で情報をコントロールしようとする。

マスメディアの広告は、資本主義における資本のメカニズムのなかでは、ある意味で「コロンブスの卵」のようなものだ。資本の生産物(番組や記事)は、多額のコストをかけながら無料で配布(放送)してしまう。他方で、放送の時間枠や紙面の面積をスポンサーに売り、不特定多数に伝播されて流通する商品情報の回路を提供する。資本としてのマスメディアは番組のコンテンツを売っているのではない。彼らは、放送の一定に時間枠や紙面の一定のスペースを、視聴率や発行部数などのデータを基に、価格を設定して切り売りする時間やスペースの商品化業者だ。こうした無料あるいは市場経済のコストや資本の収益の論理では説明のつかない低価格で情報の受け手に情報を提供することによって、広告を流通させる。他方で、こうした情報の流通なくして市場で「モノ」を売ることもできないから、こうした情報の回路は市場にとって不可欠のメカニズムでもある。私は、この市場に付随する市場の論理とは区別されるが市場にとって不可分の情報の回路をパラマーケットと呼んでいる。

かつてのマスメディア同様、ユーザー数が広告料に比例すると思われるが、かつてのマスメディアと比べて、SNSビジネスは、ユーザーとの関係で本質的な変化があるが、必ずしも好ましい変化だというわけではない。

インターネットは双方向のメディアであって、マスメディアのように一方通行で大量に同質の情報を散布するのではなく、ユーザーが相互に情報を不特定多数に対して発信しあうことができる。この点がメリットと言われてきた。マスメィアは番組や記事を自前で生産し、このコンテンツがどれだけの視聴者(読者)を獲得できるかが広告収入とリンクしていたので、コンテンツの生産が重要な意味をもった。しかし、SNSでは、コンテンツはユーザーに完全に依存し、SNS資本はそのプラットフォームを提供するだけである。この意味でコンテンツの「生産」にかかるコストを完全に排除できる。コンテンツはユーザーが発信する情報そのものであって、ユーザーが自ら生産したコンテンツに寄生して収益を上げることになる。この意味でネットのメディアには新たなものを生み出すクリエイティビティは欠ける一方で、ユーザーがクリエイティビティの主体になりつつ、これを資本が自らの利潤のために「横取り」するという構造になる。

マスメディアは広告とマーケティングによって需要動向を間接的に調整し予測するための手段にすぎなかった。あくまで個々のユーザーは匿名の存在でしかなかった。これに対してSNSでは、登録したユーザーの個人情報(言語、居住地、年齢、性別、職業、人間関係など)や投稿内容を分析してこれらから解析された個々のユーザーの趣味や傾向に基づいて、SNSなどの画面に最適と思われる広告を掲載するような仕組みになっている。個人のプライバシーはマスメディアの場合に比べて格段に脆弱になっている。

このプロファイリングの仕組みをSNSなどは民間の企業に売り込み、広告を出す企業は自社の商品の売り込みにこれを用い、これがユーザーの購買行動とリンクする。特に途上国では、多国籍企業の商品の販路開拓に有効に機能する可能性があり、日本のような先進国でも、広告を打つことのできない地元の零細な自営業は駆逐され、ユーザーの視野(消費者の選択肢)から外れるような心理効果を生む。

こうしてSNSは、かつてのマスメディア以上にユーザーを包摂する効果が大きいと思う。マルクスの『資本論』の表現を借りれば、マスメディアは視聴者や読者の欲望を単に「形式的」に包摂していただけで、マスメディアの情報に接した受け手が、その情報をどのように理解し受け入れているかは未知数にままだったが、SNSは「実質的」にユーザーをメディア環境の内部に、あたかも「主体」であるかのように包摂しながら、その欲望を個々のユーザーの個性やライフスタイルに合わせて調整することを通じて、商品の購買行動へと誘導する。SNS資本の最大に目論見は、資本の収益であり、その基盤は広告収入であって、ユーザーの自由な言論空間を確保することは、それが広告収入の増収に繋がる限りで関心を持たれるに過ぎない。

この構造は、基本的に多様性とともに大量現象を生み出すことが収益を支える上で効果的になるので、マイノリティの言論の自由は、排除によるプラス効果がるとされれば容易に排除されるから、本質的に脆弱なものになる危険性がある。SNSに限らず情報通信関連の資本はプライバシーポリシーによって顧客の個人情報を保護することを誓約し、一定の法的な保護もあるとはいえ、これらが文字通りの意味で遵守されているかどうかを、自分の個人情報の管理や使用のされかたに即して知ることは不可能に近い。プロファイリングのプログラムがどのように個人情報を処理しているのかを知ることもできない。

インターネットが不特定多数の間で双方向で行なわれるコミュニケーションの技術的な環境を提供することによって、コミュニケーション環境は劇的に歴史的な変貌を遂げたことは事実だ。それが諸々の社会運動や反政府運動に与えた肯定的な影響は評価してもしきれないが、しかし、同時に、こうした自由なコミュニケーション環境が、極めて寡占的な営利を目的とした資本によって提供されており、これに代替するサービスないということが深刻な問題なのだ。他方で、非営利であってもそれが政府などの公的機関の直接・間接の助成などによって運営される場合は、個人情報やプロファイリングのデータが私企業による営利目的ではなく、何らかの政治的な意図によって利用・管理される危険性に直接晒されるということになる。

しかも、プライバシーポリシーであれ法制度であれ、それらは改変されうるものだ。人間の一生を70年として、個人の名前や性別、エスニシティ、国籍、生年月日などはほぼ不変のまま維持されるのに対して、制度が改悪される危険性は人生のなかで何度も起きる。そのときに、自分の個人情報を今以上にコントロールできない環境に置かれざるえないことになる。これまでの経験からすれば、コミュニケーションが高度な機械化に依存すればするほど個人の自由を押し拡げる方向で発展するよりもむしろ自由を制約する方向に進んできた。同時に、資本や国家に主体的に同調するような個人のパーソナリティを生成するための手段になる危険性もまた大きくなってきたのではないだろうか。

このように考えると、そしてまた、対テロ戦争の戦時下にあるという認識を前提としたとき、寡占化されたSNSがますます大きな収益を目指してビジネスモデルを開発しようとすれば、こうした資本の利害は国家の利害を体現するグローバルなプロパガンダ装置に変貌し、社会的排除の新たな道具になる危険性があるとはいえないか。この意味で、資本にも国家にも依存しない第三の選択肢が不可視な現在の状況は、民衆的自由にとってかなり深刻な危機だと思わざるをえない。

民衆的自由の権利

(声明)インターネットの民営化とフェイスブック/ズッカーバーグによるinternet.orgの独占に反対する

投稿日:

ちょうど私がfacebookに引導を渡したのと相前後して、米国のLaborNet.orgとMay First/People Linkから声明への賛同の呼び掛けが、APC(Association for Progressive Communications、主に第三世界のインターネットの権利運動を担ってきた組織で、日本ではJCA-NET、韓国ではjinbonetが加盟してます)に流れました。以下、大急ぎで訳したものです。日本語訳の後ろに原文をつけますが、原文の英語がちょっと乱れていて不明確なところもあります。タイトルにある「internet.orgの独占に反対する」の「独占」は直訳すると「捕獲capture」です。

internet.orgが何なのかは日本ではあまり知られていないと思います。これは、フェイスブック、サムスン、エリクソン、ノキアなどの企業などが設立した途上国向けのインターネットへのアクセスを推進する企業主導のインターネットの途上国へに拡大戦略の一環として最近話題になってきたものです。

数十億の人口がありながらネットアクセスの経済的な条件のない人たちが膨大に存在する。こうした貧困層をネットに囲い込むことから新たな途上国におけるビジネスの展開に繋げるという思惑をもったものといえます。.orgというドメインを使いながら実際は非営利とはいえないもの(本来なら.comでしょう)ということで、以下の声明では非営利の領域を民間企業が乗っ取りを画策しているということで「民営化privatization」という言い方をしているのだろうと思います。また下記で言及されている「課金ゼロ政策」とは、インターネットへのアクセスに課金しないことでアクセスユーザを増やす政策です。これは一見すると貧困や格差の時代にあっては歓迎されそうな政策ですが、これがネットユーザの囲い込みを促し、これをビジネスチャンスに繋げたり、ソーシャルメディアを利用するユーザの行動を監視する手段に使われることを警戒しています。こうして将来の企業の利益を見越して、非営利の民衆組織が太刀打ちできないような無料でのアクセスとかサービスの提供によって、ネットで文字通り「非営利」で活動しようとする運動体の活動の場が乗っ取られるということになります。貧困の現状を変えるのではなく、貧困層にタダでネットにアクセスさせることを「餌」にして搾取と監視の網に囲い込むという巧妙な罠ともいえます。日本語訳の間違いとか是非ご指摘ください。(以上簡単な説明)

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インターネットの民営化とフェイスブック/ズッカーバーグによるinternet.orgの独占に反対する

インターネットはグローバルなコミュニケーションのための活力ある歴史的な力である。インターネットにおける民主的な諸権利を守ることの重要性は、世界中の民衆と労働者にとっての基本的な課題である。ドットオルグ.orgのデザインの確立は、非営利、労働組合など企業ではない諸組織のためにドメインを確保することにある。インターネットの民営化の取り組みや、インターネットは私企業の利潤目的のためにあるなどの宣伝が、インターネットを危険に晒している。フェイスブックなどの企業によるインターネット支配を確立する課金ゼロ政策zero-ratingは、民主的なコミュニケーションと民主的な情報にとって弊害である。

こうした理由から世界中で、利潤を目的として、企業の利益のためにインターネット支配を目論む企業によるインターネット支配の構想を押しとどめる動きが徐々に登場してきている。

フェイスブックとそのオーナーのマーク・ズッカーバーグによるinternet.orgの独占は、インターネットの民営化からインターネットを防衛するという立場と対立し、インターネットを利潤目的に従属させるものだ。同時に、主要なソーシャルメディアとしてのフェースブックは、これまでも、ノルウェイ、トルコ、パレスチナ、インド、イスラエル、米国などの諸国の反体制派を検閲し、コントロールしようとしてきた。ソーシャルメディアの検閲は、実際に、抑圧的な政府がその国の住民やコミュニティによる政府の見解への異議申し立てを阻止することを画策するための道具になってきた。ソーシャルメィアによるコミュニケーションの基盤が十億人以上を含むようになって以来、ソーシャルメディアは、これを支配する企業経営者によるそのコンテンツの検閲者となった。

こうした私企業の所有者はまた、政府の政策に対してさまざまな異論を持つ人びとを把握するために、抑圧的な政府がソーシャルネットワークを利用するコトを許容てきた。こうした私企業のインターネット管理者にとっては、より多くの利潤を獲得することの方が、民主的なコミュニケーションやプライバシーの権利よりも明かに重要なのである。

我々は民間企業によるinternet.orgの独占を含めむインターネットの民営化に反対する。我々はまた、政府に反対する論争や政治的宗教的見解を妨げるソーシャルメディアによる検閲にも反対する。

我々は、一般大衆、労働者、労動組合、民衆組織、ネットワークのユーザたちに、インターネットの民営化に反対し、全ての人びとのインターネットにおける民主的な権利を防衛するために行動するようにことを呼びかける。

LaborNet.org
May First/People Link


Statement In Opposition To Privatization of Internet and Capture Of internet.org by Facebook/Zuckerber
The internet is a vital and historic  force for communication globally. The need to protect democratic rights on the internet is a fundamental issue for people and labor throughout the world. The establishment of the .org designation was to set aside a domain for non-profits, unions and other non-business organizations. The effort to privatize the internet and through fraudulent advertising to control what the internet is for the purpose of increasing profits of private companies is a threat to the internet. The effort of zero-rating to establish an internet controlled by companies such as Facebook and others is detrimental to democratic communication and information.
For this reasons countries around the world have more and more sought sought to prevent such schemes of control of the internet by companies whose purpose is to increase profits and control the internet for their profits.
The capture internet.org by the Facebook corporation and the owner Mark Zuckerberg is contrary to the interests of protecting the internet from privatization and control of the internet for profits. At the same time the major social media tool Facebook has been used to censor and control dissident points of view around the world from Norway, Turkey, Palestine, India, Israel, the US and many other countries of the world. The social media censors have become in fact tools for oppressive government which seek to prevent their residents from communities from dissenting from the governmental views. Since these platforms contain over a billion people they have become world censors of content by owners who control these social platforms.
These private owners have also allowed repressive government to use their social networks to capture people that have differences with the policies of these governments. The pursuit of profits have clearly been more important the democratic communication and privacy rights by these private internet operators.
We oppose the privatization of the internet including the capture of internet.org by private entities. We also oppose the use of censorhship by these social media networks to prevent debate and political or religious views which are in opposition to governments.
We urge the public, working people unions popular organization  and the users of these networks to demand an end to the privatization of the internet and to take action to defend our democratic rights on the internet for all human kind.

Signed
LaborNet.org
May First/People Link