政府やエコノミスト、財界から経済学者に至るまで、彼らが前提している「経済」の背景にある資本主義理解の基本的枠組みの問題を、浮き彫りにします。「経済」の言葉に込められた意味の罠に気付き、彼らのいう「経済」からの解放なくして、生存の権利も獲得できないということを、そもそもの支配的「経済学」のはじまりに立ち帰り、マルクスの資本主義批判の経済理解と比較しながらながら考えます。
■日時 10月6日(火) 19時から
■開催方法 オンライン 参加希望の方は rumatoshi@protonmail.com 宛に、 5日までに、メールのタイトルに「ATTAC講座希望」と書いたメールをください。
■参加費 500円(カンパも歓迎) 振込先(郵便振替) ATTAC Japan(首都圏) 00150-9-251494
■事前にレクチャーの音声データを公開します 講座の数日前には、話しの内容をネットに公開し、若干の文章を掲載します。(下記)
https://archive.org/details/@attac-japan-metropolis
あらかじめご自分の都合のよい時間に聞いていただけるようにします。6日には、その概要や補足の話をした上で、参加された皆さんからの質問や意見などの時間をなるべく多くとれるようにします。
(内容の説明)
自分たちが生きている世界の他にも世界がある….という「パラレルワールド」は、SFの物語の定番のひとつですが、実際に、私たちが暮しているこの社会そのものがパラレルワールドといっても過言ではないというと、まるで陰謀論のようないかがわしい匂いがしてしまいます。このいかがわしいパラレルワールドが今回の講座のテーマです。
ここでいうパラレルワールドとは「経済」と呼ばれる世界でのこと。ほぼ毎日、コロナ対策と経済とのバランスをどのようにとるのかがニュースになっていますが、政府やメディア、あるいは主要な経済学者たちが口にする「経済」の世界は、実は、私(たち)が生きている「経済」の世界とは同じではないのです。一方に、人類の未来を資本主義市場経済の繁栄として描くことが可能だとみなす経済の世界があります。そして、他方に、資本主義市場経済に人類の未来を委ねることはできないと考える経済の世界があり(私はこちらの世界に住んでいます)、この二つの世界は決して重なることのない世界でありながら、この二つがともに、今現在の「経済」の世界を形成しています。
後者の世界を体系的に提示した最初の人がカール・マルクスになります。 政府やエコノミスト、財界から経済学者の大半までが前提にしている資本主義経済理解の基本的な枠組みと、マルクスが描き出した資本主義経済に対する批判的な考え方との間には、和解しがたい理論的対立があります。この対立は、マルクスが『資本論』を書いた19世紀後半の時代から現在に至るまで、すっと続いているものです。マルクスも支配的経済学も市場、商品、貨幣、資本、労働、価値、価格、金融などなどの概念を用いて理論を構築します。しかし、これらの概念のどれひとつをとっても、その定義は全く異なるのです。商品の価格が決まるメカニズムの説明も最初から最後まで異なります。
たとえば、その典型的な例が、商品の価値(価格)決定メカニズムの説明でしょう。マルクスは労働価値説をとりますが、支配的経済学はこの考え方を根底から否定します。だから支配的経済学では、階級という観点は重視されませんし、資本の利潤の源泉は、労働に根拠があるとも考えません。こうした支配的な考え方を前提にして、政府の経済統計データや政策が策定され、財界の価値観が構築され、証券市場の売買行動があり、メディアの経済報道があるのです。 支配的経済学の理論には、労働に対するイデオロギー的な否定を科学的な装いで正当化しようとする無意識の傾向があります。労働者の労働の意義を認めてしまうと労働運動を正当化してしまい、資本の労働者への支配の正統性がゆらぐからです。やっかいなのは、支配的経済学が荒唐無稽なでフェイクなわけではなく、科学や学問の体裁をとって多くの人々がこれを信じて、なおかつ行動しているというところにあります。
数千年にわたり神という虚構を真実とみなしてきたように、あるいは人種や性などの偏見を正しい態度だとみなしてきたように、社会は、人々の間違った理解に基く行動を正すことなく受け入れることができてしまいます。これが自然科学の世界と異なるところです。そして、「経済」もまた、これらと同様に、科学や学問の体裁をとりながら、虚偽意識を正当化する世界を構築してきたのです。他方で、社会に批判的な人々は、支配的な世界が構築する虚構や虚偽意識とは別の理解をとり、別の理解に基づいて行動します。支配的な世界と、これとは相容れない世界の、この二つの世界のぶつかりあいのなかで社会が軋むことになります。(実は、ジェンダーやエスニシティという条件から生み出される世界のようにパラレルな世界はもっと他にもいくつもあり、世界の軋みはもっと複雑です)
今回の講座では、このパラレルワールドの一端をのぞいてみることにします。具体的な素材として、かの有名なノーベル経済学者で、元世銀副総裁、IMF批判でも知られるスティーグリッツの経済学の教科書の冒頭を紹介して、マルクスの考え方と何がどう違うのかを話します。支配的な経済学の考え方を知ることは、まさに敵を知ることであって、これなくして資本主義批判はありえないといえます。そして、この支配的な経済の世界の支配がもたらす憂慮すべき事態について考えます。
もうひとつは、実証主義の問題です。支配的な経済学は、統計データを使って、あたかも事実によって理論の正しさを証明できるかのように振る舞ったり、逆に、理論を現実の政策に応用してみせたりしながら、経済の世界を支配しています。理論の正しさがデータで実証されるという考え方が根強くあります。社会をありのままに理論として写しとることが可能であるという考え方は、分かり易い反面、間違ってもいます。社会の本質や社会がかかえる問題の本質がどのようなものかは、実証可能なデータの世界のなかにはありません。たとえば、マルクスの搾取の理論は実証主義では証明することは不可能な仕組みをとっています。搾取理論の基本をなすマルクスの労働概念、たとえば抽象的人間労働とか剰余労働といった概念は、実証とは別の次元で構築されています。マルクスは意識的に実証主義的ではない方法で資本主義を批判したのです。この19世紀後半の時代は、同時に、写実主義とは真逆な表現が芸術の世界に登場したり、フロイトのように、実証しえない「無意識」(今にいたるまで「無意識」が人間の脳のどこから生み出されるのかは実証されていない。だからこれを認めない精神医学が支配的でもある)を見出したり、という時代でもあり、これ以降、社会に対する批判的な理論が果すべき課題は、現実を忠実に表現することとは別の次元で、現実の本質を明かにする行為となったのです。
では、マルクスの考え方で十分なのかどうか。私はそうは思っていません。とくに、資本が生み出す「欲望」や将来の理想を資本主義のなかに抑え込む仕掛けや労働者をナショナリズムの価値観に縛って階級意識を剥奪するイデオロギーのメカニズムとかは体系的には分析されていません。ジェンダーとか家事労働、エスニシティや環境の問題もそうです。資本主義における「搾取」という課題をこうした領域に拡げることなしに、資本主義を否定した次の社会が基本的に実現すべき枠組みも十分とはいえないだろうと考えています。このことを最後にお話します。