旗と暴力

滑稽新聞図版鷲と日の丸

図版『滑稽新聞』57号 1903年9月20日1
目次

1. 沖縄 「日の丸焼き捨て」から考える
2. 儀礼的な力と本末転倒の構造
3. 学術研究の分野について。
4. システム全体が本末転倒になっている
5. 国旗の物神性
6. 「学習指導要領」の日の丸・君が代
7. 象徴的暴力
7.1. ブルデュー『再生産』から
7.2. ブルデュー『パスカル的省察』から
8. まとめにかえて
9. 付記:大学版学習指導要領?

本稿は2026年4月29日に,アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)のセミナーのために書かれた資料に加筆修正したものです。発言の機会を与えていただいたwamに感謝します2

1. 沖縄 「日の丸焼き捨て」から考える

この有名な事件を改めて振り返ってみることから始めたい。

1987年10月沖縄国体ソフトボール大会

  • 10/22 弘瀬日本ソフトボール協会会長の「開始式に国旗掲揚しなければ会場を変更する」との日の丸強要。 
  • (開始の4日前) 10/23 山内村長の日の丸掲揚の決定。 
  • 10/24 県(新垣副知事)、県国体事務局長、県体協会長、日ソ弘瀬会長及び読谷村長の五者で日の丸掲揚を確認。(読谷村では復帰後15年で初めての日の丸掲揚)  
  • 10/25 日ソ協選手団のチビチリガマ参拝と、弘瀬会長に対する遺族の参拝拒否と知花昌一さんの抗議。 
  • 10/26 読谷村平和の森球場に掲揚された日の丸の知花昌一さんによる焼き捨て。知花盛康さんのデッチ上げ逮捕。昌一さんの出頭。 
  • 10/29 読谷村長名(代理人は照屋寛徳弁護士)による知花昌一さんの告訴。事件直後から連日右翼による脅しやいやがらせが、知花昌一さんの自宅やスーパー、村長の自宅、村役場などにやられた後、スーパーへの放火・襲撃がかけられた。 
  • 11/8 チビチリガマ世代を結ぶ平和の像が右翼によって破壊される。 

以上 上地哲「知花裁判支援へ向けて」『インパクション』53(1988)に若干加筆。『インパクション』53号は「「日の丸」はなぜ焼き捨てられたか」の特集号。

この事態全体を下嶋哲郎は以下のように書いている。

日の丸を一枚火の丸にすると、放火され、襲撃され、平和の像まで破壊され果ては起訴される。さらに脅迫電話は数えきれず、脅迫状もあきもせず舞いこむ。何と旗メイワクな。しかしこれが日の丸の実像なのだ。(『沖縄「旗めいわく』裁判記、社会評論社)

とても分りやすい日の丸=国旗と暴力の関係がここには記されている。ここからわかることは、国旗損壊罪への批判は、損壊罪の法案の条文から導かれるであろう法解釈と法の体系という枠組を越えた批判でなければならない、ということだ。問題は、国旗の損壊という行為ではなく、その行為に対する非対称的で過剰な暴力の連鎖にある。こうした暴力は、日の丸をめぐる歴史的な背景からみえる文脈全体を踏まえたものでないと、日の丸という旗に伏在する暴力はみえてこない、ということをこの日の丸焼き捨て事件(闘い)は教えてくれている。

『インパクション』のこの号に再録されている裁判の冒頭陳述で、当事者の知花昌一は、「どんな行為にもそれをそうさせるに充分すぎるほどの原因があります。その原因を明らかにせずして、行為のみを評価することはあまりにも軽薄であります」と述べている。焼き捨てに至る経緯を理解するだけでなく、その後の非対称な暴力の連鎖を理解するためには、沖縄のヤマトや米国との歴史的な背景と「国旗」に象徴される権力の国家観と暴力の関わりが重要な意味をもつ。この点については、上記『インパクション』だけでなく、この日の丸焼き捨て裁判について、当事者や支援者が繰り返し強調してきたことだ。

つまり、日の丸焼き捨てだけが暴力(=器物損壊)だったのではなく、この直接の経緯の文脈をみたとき、そこには幾重にも暴力が折り重ねられていたことを見落してはならない、ということだ。直接の経緯のなかだけでも

  • 日の丸掲揚を強制したソフトボール協会の圧力  
  • この圧力を背景に、村長ら村の行政による掲揚の力の行使  
  • 日の丸の焼き捨て  
  • 村長らによる知花への告訴  
  • 右翼による一連の脅迫と物理的な暴力(とくに平和の像の破壊)  

という暴力の連鎖をみることができる。このなかで物理的な暴力は知花による日の丸の焼き捨てと、知花のスーパーへの襲撃、右翼の平和の像の破壊である。しかし、より時間軸を拡げてみると、この事件の年、1987年に先立つ数年、自民党と文部省は繰り返し各都道府県に対して学校現場での「国旗掲揚及び国家斉唱」実施状況調査で恫喝を行ない、実施率の低い沖縄が標的にされてきた。沖縄県教育委員会は1985年11月に「学校行事における国旗及び国歌の取り扱いについて」という通知を発出して実施を指示した。沖教組はこれに抗議する。ソフトボール大会での日の丸掲揚の強要がなぜ起きたのか、日の丸焼き捨てという抗議について知花が「そうさせるに充分すぎるほどの原因」と述べてる「原因」のなかには、こうした経緯が含まれていることは間違いない。

国旗損壊罪に反対する人々であれば誰もが理解しているように、暴力は、物理的な物の破壊だけを指すわけではなく、全体の経緯と文脈を踏まえてみたとき、日の丸の掲揚を強制する「力」そのものが、たとえその「力」が物理的な行為を伴わないとしても「力」としての効果を発揮しており、これら全体が暴力というべきものだ、ということである。ここには、また公権力の暴力だけでなく、これを補完するかのようにして行使される右翼の有形無形の暴力も含まれる。これらの暴力に対峙する形で知花の様々な読谷村での運動が位置し、日の丸焼き捨ては、その文脈のなかのひとつのエピソードにすぎない。

同時に、見落してはならないのは、知花の「暴力」は日の丸が存在しなければありえなかった暴力だが、同時に、知花のような抗議者が存在しなければ、日の丸は「暴力」に関わることなく掲揚された…のだろうか。たぶん、そうにちがいない。だが、私たちは、この事態を暴力のない平穏な事態であるとみなす「常識」に違和感を抱き、ここにも暴力が潜在していることを感じとっている。この感じ方は、日の丸掲揚を肯定する者と否定する者とではそもそも実感それ自体に大きな違いがあるだろう。掲揚を肯定する者にとっては、そこには暴力のない平和な環境があると実感する。しかし、掲揚を否定する者は、この環境が否応のない目にみえない「力」によって支配された事態であることを直感的に理解している。

実は私たちが今、考えるべきことは、知花の暴力ではなく、知花のような暴力が不在の状況のなかで、日の丸が掲揚されてきた無数のこの日本全土で行なわれてきた「国旗掲揚」と称されてきた出来事の力の方だ。上述の一連の流れのなかで、暴力とは言うまでもなく物理的な力の側面をもつものであるが、同時に暴力とはそれ以上の存在である、ということを強調したい。日の丸という旗、ソフトボール協会の「力」、村長の「力」、司法の「力」などは、知花の「暴力」とは無関係に、それ自体として存在する「力」である。この「力」はいったい何なのだろうか。もし、これらの力が存在しなかったとき、それでも日の丸は掲揚されたのかといえば、読谷村では、決して掲揚はされなかっただろう。そしてまた、日本全国の様々なイベントでこれほどまで多くの日の丸が掲揚されることもなかったはずだと私は確信している。(証明できないのでそう「信じている」ということになる)これは、何なのか、このことの方が日の丸の掲揚という問題を考える上で重要なことだと思う。確かに物理的な暴力は行使されてはいないが、そこには明らかに、人の行動を、その人の意思とは無関係に制御する力が作用している。これは、日の丸を掲揚しないといった行為を選択したときにだけ、物理的な力として目に見える形をとり、掲揚するという行為に対しては、この物理的な力は潜在し目に見えず、そこにあることすら証明することができないようなものとして、つまり、確実に存在はするがその存在を証明できない、そのようなものとして暴力が存在してつづけている、ということである。同調圧力という言葉がすぐ思い浮ぶが、これは、掲揚を否定する者が強いられるところには当て嵌るが、むしろ、圧倒的に多くの人々は、この同調圧力という「力」がなくても、「日の丸」を受け入れており、このことの方が問題としては大きい。こうして「日の丸」を受け入れた人たちは、「日の丸」を忌避し否定する人たちに対して、ある種の「力」として機能する。ニンジンが嫌いだからといって社会的制裁が加えられることがないのに、「日の丸」についてはそうはいかない。可視化は難しいが、しかし確実にここには、集団による物理的「暴力」として発現する可能性を秘めた「力」、物理的な暴力としては発現していないが、やはりそこには、人々の意思を抑圧するような「力」(これを潜勢力としての暴力と呼ぶ)があり、更にまた、この「力」それ自体が日常生活の習慣によって実感されないものとして潜在化する。

2. 儀礼的な力と本末転倒の構造

一般にスポーツイベントでの国旗や国歌は、主催者にとって、たぶん、一連の式典の儀礼として必須なだけでなく、スポーツそれ自体とも一体のものとして理解され、それがスポーツ競技の「意味」と不可分なものとして制度化されているのだろう。言い換えれば、スポーツ競技は、そのルールブックや選手のプレーに還元できない多くのそれ以外の――先の見方からすればスポーツそのものとは何の関係もない諸々の――事柄としてこのスポーツがある、という風に考える方がいい。

たしかに、競技それ自体は日の丸とは何の関係もない。日の丸にこだらなければならない理由は、スポーツ競技それ自体からは説明できない。しかし、この日の丸へのこだわりは、説明されねばならない問題である。とすれば、スポーツそれ自体とは関わらないがスポーツそれ自体の「意味」の不可分な一部を構成するという厄介な組み立てを成り立たせているのは何なのだろうか。先述した日の丸焼き捨て事件では、ソフトボール協会は開始のたった4日前になって、ソフトボールの団体が、試合を人質にとってまで日の丸の掲揚を要求する、というこだわりは尋常ではない。掲揚しなければ競技自体をやらない、というのだから、競技が場合によっては中止や変更になっても、日の丸の方が大切である、というソフトボール協会は、本当にソフトボールの団体なのだろうか。これは本末転倒である。この本末転倒はどのスポーツ競技にもみられる一般的な現象ではないかと思う。

日の丸をめぐる本末転倒(日の丸掲揚しないならソフトボール大会はやらない)を村が受け入れるわけだから、行政権力にとっても否定しがたい力が作用したともいえるし、自らの権力作用のなかでこの力を受け止め、これを村民にも強制したのであって、単に押し付けられた、という言い方で済ますことはできない。単に押し付けられただけでなく、これを押し付ける、という一連の権力の連鎖が存在する。しかし、「押し付け」という言葉がかならずしも妥当とはいえないような日の丸掲揚を儀礼の常識として受容する日常感覚によって「押し付け」という「力」なしにでも物事が「自然」に進行するようになる、といったことが起きてきる、とも思う。しかもそれだけではない、公権力とは別に、右翼もまたこの暴力の連鎖の一部に入り込む。本末転倒の末起きたこの暴力の連鎖は、時に顕在化する潜勢力としての暴力がもつ広がりをも示している。日の丸を焼き捨てるのは、この暴力の連鎖の存在を白日のもとに晒すと同時に、この暴力の連鎖を切断する行為でもあったということを意味している。

こうした本末転倒は、実は、多くのスポーツや文化イベントに日の丸が登場することによって、おしなべて生じる現象でもある。抽象的な言い回しで誤魔化していうとすれば、ソフトボールというスポーツの象徴的な性格、あるいはもっと率直に言えばソフトボールという競技の象徴的暴力としての性格である。そして、この言い回しを、スポーツ一般に拡げて、野球とかサッカーとか相撲とか、あるいはオリンピックとかといった競技大会全体に共通して、スポーツそれ自体がもつ象徴的暴力(これを暴力の潜勢力3と言い換えていいかも)として捉えるべきことだ、と大風呂敷を拡げておきたい。

スポーツ競技において、日の丸がいかなる意味で重要なのか、合理的な説明などつくものではない。しかし、にもかかわらず、「日の丸」掲揚の是非について選手たちから「日の丸など試合と関係ないのだから掲揚しなくてもいいでしょう」などと文句をつけた人がいるのかどうか。たぶんいないとすれば、この日の丸の問題は選手にとっても、掲揚することが競技にとって納得のいくありかただという認識をもっていた(掲揚しなくてもいいかもしれないが、組織がそう言うのだからあえて異論を言うほどのことではない)、という肯定の感情があるということかもしれないが、もっと事情は厄介だと思う。オリンピックなどの国際試合をみれば歴然としているが、選手たちもまた「日の丸を背負う」とか競技後に日の丸を誇示するとか、日本を代表することの誇りとかを口にするのが当たり前の風景になっている。こうなると、本末転倒が浸透した結果として、日の丸を掲揚するために(国際試合で優勝する)ことが競技をすることの最大の意味である、というようになる。本末転倒がもはや本末転倒にすらならない正常な事柄のあり方になってしまう。こうしてスポーツは日の丸に収斂し、日の丸が象徴する「日本」とか「日本人」の優秀さに収斂し、選手個人もまた個人ではなく「日本人」とか「日本」の選手(「の」は所有格の「の」である)ということによってその意味を与えられるようになり、本人もそう信じ、そこにモチベーションの核を置く。「日本」とか「日本人」という集団の観念=ナショナリズムによるスポーツの意味の乗っ取りが「日の丸」という旗によって効率的かつ直感的視覚的に受容しやすい形で人々の日常生活のなかの大衆文化の価値観を作りだす。この一連の流れに対する抵抗として今でも記憶されているのは、1936年ベルリン・オリンピックのマラソンで優勝した孫基禎選手を報じた『東亜日報』が、孫基禎選手の胸の日の丸を削除して掲載したことに対して総督府の検閲官が『東亜日報』の配布を中止させた事件かもしれない。4

スポーツイベントに日の丸が登場する文脈はひとつではない。国家行事の開会式などで掲揚される日の丸と、サッカーの国際試合でファンが大きな日の丸を振る行為を同列に扱うことはできない。だが、いずれもが、言うまでもなくナショナリズムのわかりやすい表現である。ナショナリズムの象徴としての日の丸は、人々を一定の儀礼的な行為のなかで型にはめることだけではなく、サッカーの試合のファンの統制作用の一部を担う。そのナショナルな感情の内実も、イベントのありかたや個人によってかなり違うのではないかと思う。しかし、どのように多様で違いがあるとしても、日の丸は、「日本」に収斂する何らかの意味を指し示す記号=象徴として用いられている。ただし、ここで「何らかの意味」という曖昧な言い方をしたのは、ここでいう「意味」を正確に説明できないからだ。ナショナリズムに収斂するものであるとはいえても、そのナショナリズムとは何なのかは説明が困難であり、だからこそ学問の対象になる。なぜなら、そもそも論理的に筋道をたてての説明は不要だと強弁することがナショナリズムの根本にあるからだ。もちろん政府はそれなりの説明をするが、その説明が日の丸を打ち振る人々全てを束ねる共通理解にはなっていないし、そうなる必要もない。とすれば、「意味」も不要なように思えるが、そうではない。その意味は、必要に応じで説明されるべきものとして用意されてはいる。「学習指導要領」(本稿の最後の方に掲載してある)の「入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」とした解説を読めばよくわかるように、説明にならない説明なのだが、圧倒的に多くの学校の教職員はこれを受け入れている。意味とは、文章として表記された何らかのテキストであり、そうである以上文字や文章に付随する意味がそこにはあるが、同時に、そこには「意味」という概念が想定しているような「意味」は存在しない。テキストが与えられることそれ自体が「意味」であるが、同時にそこには「意味」が不在であるのだが、そうであっても、そこに「意味」を見出して受容する圧倒的に多くの人々がおり、この無意味なテキストを振りかざして「日の丸」を強制する暴力として利用する。ここには合理的な判断や理解とは別の意味をめぐる理解の枠組が作用している。

3. 学術研究の分野について。

スポーツばかり槍玉に挙げるのは不公平なので、学術研究なるものを取り上げておく。学術会議50周年の記念式典では、日の丸が掲げられ、天皇が臨席した。5学術会議とはこのような組織である、ということを端的に示したものであり、学問とか研究について、いつも「日本の」という形容詞をつけて、その優秀さを誇示したい人たちの存在を端的に示すものだと言うことだ。

ここでは、せっかくだから、学術会議をめぐるもうひとつの日本の象徴(的暴力)、天皇と学術研究についても触れておきたい。こちらの象徴は学問にも造詣が深いと信じられており、単なる布切れの赤丸印ではない。「原子核物理学国際会議INPC2007」(主催  日本物理学会、内閣府日本学術会議、国際純粋応用物理学連合(IUPAP))のウエッブの記事に次のような学会報告記事が掲載されている。これは2007年のことだ。

本国際会議において、参加者を最も印象づけ、また、参加者に最も感動を与えたのは、天皇皇后のご臨席と天皇陛下の開会式におけるスピーチであった。
 陛下は、戦後の荒廃した時期に湯川秀樹氏のノーベル賞受賞に国民がいかに喜び勇気づけられたか、また、理研で作られたサイクロトロンが東京湾に投げ込まれた時、仁科博士の思いは、いかばかりだったかを話された。さらに、この分野が生み出した成果の明暗、特に核兵器によってもたらされた悲劇にも触れられ、本分野の研究成果が、世界の平和と人類の幸せに役立っていくことを切に祈るというメッセージで挨拶を締めくくられた。このご挨拶は、英訳も電光表示され、内外の参加者の多くが深く感激し、会議終了まで会場のあちこちで感激や感想が語られた。https://www.scj.go.jp/ja/int/kaisai/070603.html

核の平和利用の正当化に天皇を利用しようとする思惑(あるいは天皇自身の主体的な同意の意思があるとも思う)が透けて見える。それだけでなく、この報告に私が驚いたのは、学術研究発表の場で、研究発表をさしおいて「参加者に最も感動を与えたのは、天皇皇后のご臨席と天皇陛下の開会式におけるスピーチ」などということを主催者が堂々と発言していることだ。ここでもソフトボール同様、組織の本来の目的よりも国家の象徴が優越した地位を得てしまうという本末転倒がはっきりと見てとれる。いったいこの学会は何なのだろうか。たぶん、この国際会議で発表された学術研究はよっぼど感動に値しない駄作揃いだった、ということを言いたかったが、それでは角が立つので婉曲に、天皇を持ち出したにちがいない。とはいえ、本末転倒であることには違いない。本当にこの学会での学術研究は駄作ではなかったのか。ファクトチェックを経ていないで憶測で書いていることをお断りしておく。

上の例はどうも例外ではないかもしれない。以下のような学会報告もある。

開会式では天皇皇后両陛下の御臨席を賜り、本大会の大きなハイライトとなった。特に、天皇陛下より英語でお言葉を賜り、自動制御の発展が社会持続性の向上に大きな役割を果たしている旨述べていただいたことは大会参加者に感銘を与えた。また、ご自身のライフワークである水システムと自動制御の接点について述べられた点も興味深く受け止められた。(第 22 回国際自動制御連盟世界大会開催結果報告)https://www.scj.go.jp/ja/int/kaisai/pdf/2307080714.pdf

この学会でも天皇の「お言葉」がハイライトであり参加者に「感銘を与えた」とある。他に感銘を与えるような学会報告がここでもなかったようだ。

世界水産学会(2008年)にも天皇が出席し、その模様が学術会議のウエッブで報告されている。ここでも

本国際会議において、出席者を最も印象づけ、感激させたのは、天皇皇后両陛下の御臨席と天皇陛下の記念式典でのお言葉である。陛下は「水産学が研究対象とする海は世界をつなげています。その海の環境を守り、水産生物を持続的に利用していくためには、世界の水産学者の国境を越えた協力が重要と思います。」と述べられた。https://www.scj.go.jp/ja/int/kaisai/081020.html

天皇のスピーチについて、「最も印象づけ、感激させた」というから、ここでもまた学会で発表された学術研究でこれに勝る印象や感激をもたらしたものはなかった、ということなのか。どうもこれほどあちこちの学会で、最大の感激を招いたのが天皇のスピーチだと言われるのを読むと、むしろ天皇のスピーチを凌駕するほどの印象や感激を与えた研究があったとしても、それは天皇を越える印象・感動となり、それ自体が不敬だとでも忖度する雰囲気が、ある種の学会の(ひいては学術会議の)関係者のなかに存在しているのではないか、とすら疑ってしまう。

この位で、こんな引用はもうやめようと思ったが、もうひとつどうしても引用したい学会報告を見つけてしまった。国際微生物学連合2011会議の報告である。この報告の「4 日本学術会議との共同主催の意義・成果」の冒頭に以下のようなくだりがある。

日本学術会議との共同主催で日本が国を挙げてこの会議を支援して頂いていることが世界中に周知された。(中略)更に、天皇陛下のご臨席を頂くにあたっても申請から、実際の記念式典の運営などあらゆる面で学術会議からご支援をいただけたことで、この会議が如何に重要なものであるかを世界に向けて発信できた。

なぜ天皇が国際学会に出席するのか、その舞台裏がここに記されている。学術会議が天皇の出席を申請し、その段取り役を担っていると書かれている。第 13 回世界核医学会にも天皇が出席しており、この報告でも「日本学術会議との共同主催により、開会式において天皇陛下よりお言葉を賜れたことは、会を成功裏に進められた大きな要因となった。このことは、大会が国にサポートされていることを国内外関係者に強く印象付けるものであり、関係者の鼓舞に繋がったと考える。」https://www.scj.go.jp/ja/int/kaisai/pdf/2209070911.pdf と書かれているから、学術会議は天皇を学会に出席させる上での既定のルートになっていることを示している。

先のソフトボール同様、天皇の学会出席によって、本来学術団体が果たすべき学問研究についての客観的な評価などはどこかに吹っ飛び、天皇の出席によって学会の箔がつくこと、権威づけとなること、あるいは日本の政府に評価されたことの証しとみなして(金が絡むんだろうか)、それこそが学会の最大の成果であるかのような本末転倒が起きている。言い換えれば、天皇さえ出席すれば、あとは添え物でしかない、そんな研究の体制がつくられている、と言い換えてもいい。

このように、学術会議が主催、共催している国際会議には天皇や皇族が来賓として祝辞を述べるといった「儀礼」がかなり頻繁に見受けられる。これが学術研究と何の関係もないことは、ソフトボールと日の丸が無関係なことと同様、誰の目にも明かだが、同時に、実はこうした無関係にみえる象徴的な儀礼こそがスポーツの本質を構成していたように、学術研究の場においても、この象徴的な振舞いは学術会議を構成する学会にとっては、それ自体が学問の本質を構成していると理解すべきだろう。学術会議と学会の主催者が率先して皇室の参加を働きかけるなどをすることが常態化するなかで、学術会議50周年には天皇と日の丸が揃い踏みするということが起きているわけだろう。学術会議の名誉のために付言するが、学術会議の国際会議などで日の丸の掲揚はあまりみかけないように感じる。(ネットの画像検索からの推測にすぎないが)

こうした学術団体の象徴的な力との関係は深刻だ。日の丸もそうだが天皇という存在それ自体が学問研究の対象でもあり、学術的な観点からの批判の対象でもあるわけだが、天皇本人がこのような形で関与するような組織が学問の中立性などを口にするのは、嘘ついているだけのことだ。あれは理系のことでしょ、われわれ人文社会系は違う、という声が聞こえてきそうだが、いかなる学術の分野においても、あきらかな本末転倒が罷り通っていると私はあえて言っておきたい。学術の現場がそうであれば、当然のことながら、学術や学問の裾野をなす教育の現場が本末転倒であることは当然のようにして受容され、異論を唱える者たちが少数になるのも当然の結果といえる。

4. システム全体が本末転倒になっている

学術会議ばかりを悪者にするのは気がひけるから、そもそも教育や学問の世界が本末転倒である、ということで、悪者を学問研究の制度全体に拡げてしまいたい。私は長年大学の教員として教育の世界にいたので、大学の本末転倒について書いておく。

大学の教育システムの基本的な構造は、入学に際して課される入試にはじまり、基本的に試験の点数による評価で構成されている。合否判定は点数による順位づけに基き、入学後の教育も、その容よりも、試験で数値化し、これを「単位」と称して積み上げ、一定のルールに基づいて卒業という資格証明書(選挙の立候補の際には超重要な書類になる)の取得に繋げていく構造が基本になっている。従って全体は数値に支配されており、教育の内容は実は二の次であるという本末転倒が基本の構造をなしている。なぜ数値化が必要なのか、数値化が教育とか知の習得とかということとどう関係するのか、などということは問題にされない。数値化のばあい、60点を合格ラインとすると残りの間違った40点については放置されたままでよい、という極めて効率的な仕組みになっており、まちがった40点が正解するまで、最後まで一生面倒をみようなどという気はまったくない。この数値化全体の構造を支える権力構造が、教員が独占している単位認定権である。数値による評価に還元するのは、学問とは何の関係もない。本来学問なるものは量化できないはずのものである。ぶ厚く高価な教科書1冊がなぜ「4」とかという単位(数字)に化けるのか、誰も合理的な説明をした者はいない。(教科書が古本屋で4円の値札がつくのは理解できるが) 大学という権力は、数値によって学生を序列化する。これは学問を学ぶとか研究する上で、全く無意味なシステムである。だからこそこの数値化のシステムが学生にとっては潜勢力としての暴力となり、この暴力に振りまわされて勉強を強いられる。ここでいう暴力は物理的な体罰ではない。学生と教員のヒエラルキーと単位認定の権力構造のなかで振われる心理的な力であり、内面化されて自らに対する自らの暴力としてあらわれることにもなる。数値化による序列は、それ自体が恣意的な優劣を意味する。学生を差別・選別するためのアルゴリズムだ。これが暴力だというのは、暴力というのは、合理的な判断を通じて導かれた結論としてそれを受け入れさせる理性的な判断を伴わずに、「力」によってその結果を強制的に受け入れさせるものだからだ。学問の内容を量化して評価することには何らの合理的な理由がない。だから大学という教育制度は潜勢的な暴力の制度なのだ。この暴力は、学問とは無関係の権力のシステムとしての大学が、自らの権力の再生産にとって、合理的には説明のつかない学問の数値化というシステムを強制する。この単位認定権に基づく権力の構造が教員の権威を再生産し、どのようなことがあっても教員と学生の関係は逆転しえない絶対的な上下関係にあることを、可視化することで成り立っている。

同様に、教員と書いたが、教員には明確なヒエラルキーがあり、教授、准教授、助教といったランクがあり、かつ常勤・非常勤の区別(差別)があり、更に事務職員との給与や社会的な権威の歴然とした格差が構造化されている。ここには、自由も平等も存在しない。(つまり、学問なるものには自由も平等も存在しないということでもある)このあまりにも明確な身分制度が教育や学問を支配し、この身分の制度こそが教育・研究を支配するという本末転倒が、ここでも構造化する。

この大学で、入学式や卒業式に「日の丸」が掲げられるとすれば、この日の丸はこうした大学という権力の潜勢的な暴力の制度を、その入口と出口で象徴的に表わすと同時に、これを「日本」の教育として、ナショナリズムの下で正当化する制度の「力」の表現を担っているといえそうだ。日の丸は、大学というアカデミズムの普遍的な知が、オリンピック同様、ナショナリズムに回収されるものであることを、可視化し、これを暗黙のうちに受容させるものになっている。

たとえば、大学などの正規の教育システムではない市民が自由に学べるようなシステムでは、一般的に、入試とか習得レベルの数値化といったシステムは導入されていない。なぜなのだろうか?なぜ正規の教育システムにだけ数値化が必須なのか。数値化は序列のシステムでそれ自体が差別と選別のメカニズムである、といったことは半世紀も昔に、学生たちが問い糺した問題であるが、この問題は今に至るまで解決も答えも出されずに、強固に維持されてきた「本末転倒」である。たぶん、リベラルであったり反体制を標榜する(私のような者も含めて)、大学の教員は、この単位認定権という権力と数値化のシステムを受け容れてきた。このことに全く何の反省もなく数値化は当然の教員の権利だとすら確信している(リベラルな)人たちもいるのではないかと思ってしまう。私もまた、日常の業務として試験をして、点数をつけるという作業を30年間もやってきたわけだから、この権力のシステムを受け容れ、容認し、更にはこれを下支えすらしてきた。大学は、小中高に比べて教員の自由度は大きいにもかかわらず、日の丸・君が代をめぐる拒否の闘いはどれほどあるのだろうか。私は自分の大学で、君が代こそなかったが、入学式などの儀礼の場の日の丸を許容してしまった自分がいる、日の丸と闘わなかった自分がいるということをここに書くけれども、それで…黙認してきた自分にどう落とし前をつけられるか、という自問はできるが…

こうした本末転倒の構造は、人々の行動や判断を、根本的な「問い」へと遡らせることなく、ある段階で、思考を停止させ、恣意的で理屈にあわないある種の判断やシステムのありかたを、そのまま受け入れることをよしとするように作られている。市民の自発的な学習会では数値化=序列化も単位の認定も不要であるなら、大学でも不要ではないか?という当然あってしかるべき問いは、まず発せられない。学問の自由とか人間は皆生まれながらにして平等だとか言いながら、なぜ教授とか助教とか、常勤とか非常勤とか、ヒエラルキーの網の目が歴然として存在しているのか、この二重基準こそが学問とか教育と呼ばれているシステムが担う表向きとは全く異なる裏の顔の存在なのではないか。学校教育では数値化=序列化が、当然のこと、常識であり、疑う必要のないこととして、人々の日常の価値観を構成してしまっている。この数値化は差別と選別のメカニズムであることの深刻さは当事者にも理解されず、むしろこの数値が当人の能力の客観的な評価であると、ここでも本末転倒な理解が、日常生活の常識として支配する。この日常の当たり前に疑問を投げかけることは、そもそもこのことに気づきえないが故に、難しい。と同時に、日常の当たり前のことがらに問題を見出さない(見出すつもりのない)人々にとっては、余計な問いでしかない。面倒な話、ということになる。この亀裂を説得力をもって埋めること、つまり日常の当たり前を覆すことが、まず重要な課題になる。

こうした構造は、小学校から大学まで一貫しており、更に、「社会人」になってからは、数値化が給与水準として、労働能力=人間の能力として常識を構成するようになる。こうして数値による差別と選別の構造が人々の人生全体を覆うことになる。(仕事をリタイアした人たちが支配されるのは諸々の健康診断データが吐き出す数値だが、これはまた別に考えたい)

知花昌一のソフトボール大会での日の丸焼き捨てから始めて日の丸そのものからかなり脱線してしまった。

日の丸は、学校の入学式や卒業式などのイベントに欠かせないものとなっているのは、学校という権力の秩序を権威あるものとして、その力(振われるとは限らないが、いつでも振うことができる暴力)が恣意的で本末転倒であっても、それを受け入れることを可視化する機能を担っている。こうした行事全体が担う学校の秩序を強いる機能を果しているからだ。日の丸にこのような機能を担わせるのは、学校だ。学校は日の丸という象徴に学校というシステムがもつ「意味」を集約させる。

5. 国旗の物神性

国家と呼ばれるものが、実際の生活世界のなかで表現される場面は様々ある。国家的な建造物(国会議事堂とか皇居とか)、文化財、国家イベント(オリンピックや万博など)などだ。憲法ですら、国家の全てを代表できない。これらは国家のある側面を代表するが、その全てを代表できるものではない。国家的個別価値とでもいうべきものだ。たとえ憲法上「国民統合の象徴」とされる天皇ですら、個別的価値を越えて、国家を総体として象徴することはできない。人々はそこに人としての「意味」を読んでしまうからだ。

ところが国旗は、国家的価値を普遍的に指し示す「記号」となりうる。つまり、国家と呼ばれる「事柄」がもつ「価値」なるものをいかなる場面にあっても――スポーツ、学校、外交、国会、NHKの一日の番組終了時、スマホ・パソコンアプリの国や言語のアイコンなどなど――代表することが可能な特異な位置を社会から与えられる。これは、どの国家でも同様である。このようなことが可能なのは、国旗それ自体には、個別的な機能が存在せず、単なる「記号」としての表徴に過ぎないからだ。言い換えれば、それじたいを「もの」としてみれば、白地の布に赤い丸が染められただけの幾何学模様であり、特別に有用なものではなく、むしろそのものとしてはほとんど役に立たない。この役立たずであることが普遍的な価値の表象としての役割を担う上で、重要な条件になる。あらゆる場面であらゆる事柄がもつ個別の意味を、この国旗を媒介として、国家の価値へと収斂させるように紐づけることができる。これは、その国家を構成する人々がある種の共同作業として歴史的な経緯のなかで行い、相互に承認することで成り立つ。

国旗に対して人々が抱く意味は、人それぞれでありながら、いかなる意味を与えようとも、その意味は「国旗」を媒介にナショナリズムへと収斂するようになる。結果として、国旗それ自体にあたかもナショナルなもののすべてが象徴的に体現されているかのように観念され、国旗そのものがナショナルなものそのもの、つまり国家の神聖性そのものであるかのようにみなされる、といった事態が生じる。こうして神聖性が成立することによって、国旗はその神聖性故に、特別に保護される権利を獲得し、この神聖性を媒介にして国家の神聖性もまた再生産される。国旗は、国家という抽象的であいまいな統治の構造を非常にシンプルかつ効率的に表現できるために、あらゆる権力主体は、国旗あるいは「旗」を用いることを通じて、人間集団を効率的に統合する。ここにはある種の象徴的な暴力が伏在している。

ほんらい白地に赤の模様には、ナショナルな価値などは存在しない。社会を構成する人々が、この模様にナショナルな意味を付与することで、そのものの物質性にはない特別な性質を社会が与えることになる。これを「物神性(フェティシズム)」と呼ぶ。このフェテイシュな意味には合理的な根拠はないが、この模様がナショナルな意味をもつことで神聖性が付与されると、国家の神聖性を端的に体現する存在になる。国家というあいまいで掴みどころのない統治機構が国旗として象徴化されるとき、この国旗に神聖性を付与することを通じて国家という観念に神聖性を付与するという意味の連鎖を生むことになる。国家はそれ自体として相変らず曖昧模糊としたままでかつ暴力性を内包する存在だが、国旗は端的に神聖性とその背後にある象徴的暴力あるいは暴力の潜勢力の表象になる。こうして「国旗」は、様々な個別的なナショナリズムの要因を収斂させる象徴的な記号としての地位を与えられることによって、同時に暴力の潜勢力をも纏い、単なる白地の赤丸以上の意味を付与される。この布地は、国家を象徴する意味を与えられることによって、ある種の権威や神聖性を付与され、結果として、特別に配慮されるべきものとしての意味を与えられる。

暴力の契機がここに伏在するのは、そのいずれもが、ナショナリズムへと収斂させられるところに無理があり、合理的な説明がつかないからだ。暴力が顕在化するのは、この合理的な説明がつかない局面で露出するが、潜在的なままであるときには、この不合理な関係を人々がそのまま受け入れる場合だ。

※以上の議論はマルクスの価値形態論と貨幣の議論を借用したにすぎない。国旗とは政治的価値における貨幣のような役割をもつものということになる。

6. 学習指導要領」の日の丸・君が代

「国旗損壊罪」なるものがどのような法案として出てくるかわからないが、「小学校学習指導要領(平成 29 年告示)解説」には以下の記述がある。

入学式や卒業式などにおいては、その意義を踏まえ、国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする。国際化の進展に伴い、日本人としての自覚を養い、国を愛する心を育てるとともに、児童が将来、国際社会において尊敬され、信頼される日本人として成長していくためには、国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせ、それらを尊重する態度を育てることは重要なことである。学校において行われる行事には、様々なものがあるが、この中で、入学式や卒業式は、学校生活に有意義な変化や折り目を付け、厳粛かつ清新な雰囲気の中で、新しい生活の展開への動機付けを行い、学校、社会、国家など集団への所属感を深める上でよい機会となるものである。6

ここでは子どもたちを一人の個人として尊重することよりも「日本人としての自覚」をもたせることに主眼が置かれている。このこと自体が学校に通う様々な国籍の子どもたちへの考慮が皆無なのだが、更になぜ「国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせ、それらを尊重する態度」が「尊敬され、信頼される日本人として成長していく」ことに繋がるのか、論理的な繋りがないところに日の丸・君が代の物神性そのものが表われている。日の丸・君が代は、多様性も個人としての自立も否定されて「日本人」であることを、丸呑みさせる仕掛けだということがこのようなところに露呈している。この論理性のなさは、逆に子どもたちも学校現場も、本当なら疑問をもってもいいのだが、必ずしもそうはなっておらず、むしろ疑問を投げかる者は少数にとどまる。この不合理性を当たり前のこととして受容させる「力」、あるいは疑問を公然と口に出すことを抑制させる力こそが日の丸・君が代の力だといっていい。こうした「力」は、多様性を削ぐ「力」に共通するものだ。だから、この日の丸・君が代の強制と学校現場の裁量を可能な限り狭めて画一的な教育内容で統制するような体制とは不可分一体のものであり、構造的なものといえる。

7. 象徴的暴力

今回ここで論じた内容は、ピエール・ブルデューの象徴的暴力という考え方に触発されてのことでもあるので、最後に、ごく簡単にブルデューの議論に触れておく。私の記述はブルデューの議論を忠実に解釈して論じたものではなく、私の独断による解釈なので、以下ブルデューの象徴的暴力に関するいくつかの記述を引用しておく。

7.1. ブルデュー『再生産』から

象徴的暴力という概念はブルデューの議論のなかで度々登場するものだが、決して分かり易いわけではない。彼の言及のなかで、わたしにとって旗と暴力を考える上で参考になった箇所として『再生産』の冒頭の説明があるので、これを引用しておく。

およそ象徴的暴力を行使する力、すなわちさまざまな意味を押しつけ、しかも自らの根底にある力関係をおおい隠すことで、それらの意味を正統であるとして押しつけるにいたる力は、そうした力関係のうえに、それ固有の力、すなわち固有に象徴的な力を付けくわえる。

注解には以下の注釈がある。

象徴的関係の力関係にたいする自律性と依存性とを同時に述べているこの公理を否定したりすれば、社会学的な科学の成り立つ可能性を否定することになってしまおう。7

象徴的関係と力関係は相互に異なるものだが、相互に依存する。

象徴的暴力とは

  • •意味の押しつけ  
  • •押しつける力の関係が覆い隠される  
  • •結果として意味は正統性のあるものとして受け入れられる  

こうした力を「固有に象徴的な力」だという。 「意味」の押し付けであるが、しかし押し付ける力関係それ自体が隠されるために、押し付けられているという実感が持たれないばかりか、むしろこの「意味」が正当なものであるとすら受け取られる、ということだ。ここには暴力という概念に含まれる心身への抑圧すら顕在化されないが、だからといってそこには権力の力が作用していないとはいえない、という観点が示されている。まさに、国旗を掲揚することをめぐる日本の日常にもあてはまるではないかと私は考えている。

7.2. ブルデュー『パスカル的省察』から

もうひとつブルデューのパスカルについての著書から引用しておく。

象徴的暴力の典型は、ハーバーマスとフーコーの儀礼的対立を越えたところで、合理的コミュニケーションの回路をとおして行使される権力である。すなわち、理性をまとった諸力(たとえば学校制度の宣告をとおして、あるいは経済専門家のご託宣をとおして作用する諸力)が支配する秩序が生み出した被支配者であるがために、合理化された力の恣意性にみずから合意することしかできない人々の帰依をえて行使される暴力である。8

合理的コミュニケーションは、非合理的コミュニケーションと対をなす。暴力は非合理的であると思われているが、そうではないのだとブルデューは言う。むしろ合理性を伴うものだ。これは重要な観点だ。暴力が行使される状況の典型的なケースとして人は、激情に駆られて殴るといった場面を想像しやすい。こうした暴力が日常のなかに多数みられることは事実だし、むしろ日常生活のなかでは、こうした暴力を経験するが故に、暴力とは理不尽なものである、と思われる。

しかし、暴力がこうした日常の経験や実感の世界を離れて、国家とか資本といった大きな組織が関与し、軍隊や学校といった集団のなかで人間が組織的に力を行使するようなレベルになると、暴力は非合理な世界から合理的な世界に支えられたものになる。たとえば軍隊は憎悪にかられて見境なく人を殺しまくるのではなく、軍の組織は冷静で合理的な戦略と戦術に基いて戦場での殺戮を実行する。理性なくして戦争はありえないのだ。ブルデューが関心をもつのは、こうした「理的コミュニケーションの回路をとおして行使される権力」の世界であり、その典型としてしばしば学校をとりあげている。

せっかくだから中学生でも知っているパスカルの『パンセ』からブルデューも参照している下記の箇所を引用しておく。

自然法というものがあるのは確かだ。しかしあの腐敗した結構な理性が、すべてを腐敗させてしまった。「もはやわれわれのものは何一つとしてない。われわれのものと言っても、人為の産物にすぎない。」「元老院決議と民会決議の名において犯される犯罪がある。」「かつてわれわれを苦しめたのは悪徳だったが、今は法律だ」

このような混乱の行きつくところ、ある意見によれば、正義の本質は立法者の権威、別の意見では、君主の便宜、さらに別の意見では、現行の慣習ということになる。そしてこの最後のものが最も確実だ。ただ理性だけに従って言えば、それ自体で正しいものは何もない。すべては時に応じて変化する。正義の総体を作り出すのは慣習であるが、それはひたすら、慣習が現に受容されているという理由による。これこそ正義に権威を与える神秘的な基礎だ。正義は、その根源に立ち戻って考察しようとすれば、台無しになる。間違いを正す法律ほど、間違ったものはない。それが正しいから従うと言う人がいれば、彼が従っているのは想像上の正義であり、法の本質ではない。本質はそっくりそのまま自分の中に閉じこもっている。法は法であり、それ以上の何ものでもない。その根拠を吟味しようとすれば、それがどれほど薄弱で軽薄であるかが見えてしまう。それで、人間の想像力の生み出す脅威に見慣れていなければ、一世紀の間に法律がこれほどの威容と尊敬を勝ちえたことを目の当たりにして驚嘆することになるだろう。国家に反逆し、それを転覆する秘訣は、既存の慣習の成り立ちを探って源泉にまでさのぼり、それが権威と正義を欠いていることを示して、慣習に揺さぶりをかけることである。9

国旗損壊罪という「法」の問題以前に、私達は、日の丸をめぐる「慣習」こそを問題にしなければならない、という教訓をここから引きだすことができるだろう。国家に反逆することのなかのごく一部にすぎないとはいえ、日の丸の慣習それ自体に揺さ振りをかけることの意義がここにははっきりと示されている。もちろん、慣習である以上その力は法以上にわたしたちにとっては難敵である。 もちろん法は問題なのだが、法案に焦点をあてて慣習を見逃してはならない、ということでもある。慣習は法よりやっかいであり、法の解釈も適用も、実は無限に具体的な事柄からなる生活慣習に作用するのだ、ということを忘れてはならないだろう。

8. まとめにかえて

本稿を書き終えてウエッブに掲載しようとしていた矢先に自民党が国旗損壊罪の法案を公表したという報道に出会した。法案の批判はここではしない。すでのここに書いた以上のことはないからだ。

国旗損壊罪をめぐる問題は、まさに暴力の問題である。その暴力とは損壊する側ではなく、損壊を力づくで抑圧する側の暴力の問題だ。しかも、この暴力は、物理的な力以上の広がりをもち、国家と右翼双方からの攻撃を正当化する法の暴力の問題である。しかし、それだけにとどまらず、むしろ日の丸を掲げることを慣習とする多くの人々が、スポーツ、教育、文化などの場面で「当たり前」として掲げ、更には個人の家や店舗でも掲げるような事態のなかで、この多数者が、日の丸を拒否する少数者に対してとる言動のなかに見出せる不寛容として表われる象徴的暴力である。この風景が「当たり前」となることを通じて、国旗をはじめとする旗の暴力を拒む者たちが被る息苦しさとでもいうしかない日常の暴力である。

本稿の冒頭に掲げた『滑稽新聞』のイラストのような表現もまた国旗損壊になりうるだろうか。鳥に象徴された敵国に糞を落とされる日の丸という構図を現代の検閲官はどう読むのだろうか。たぶんこうした表現すら、萎縮や自主規制によって目にすることが少くなり、結果として、「損壊されない国旗」がはびこり、「国旗」とは損壊されざる存在であることが「当たり前」になり、こうして国旗損壊罪はまんまと慣習のなかに根を下すことに成功してしまうかもしれない。そうなるか、そうならないかは、立法の問題であるだけでなく、立法を越える問題であり、まさにパスカルが上で述べたことである。あらためてここに引用して、この散漫なエッセイを締め括ることにする。

国家に反逆し、それを転覆する秘訣は、既存の慣習の成り立ちを探って源泉にまでさのぼり、それが権威と正義を欠いていることを示して、慣習に揺さぶりをかけることである

9. 付記:大学版学習指導要領?

大学には、小中高のような日の丸・君が代を強制する文科省の統一した教育指針はない。しかし、学習指導要領のようなガイドラインがあるので、一言この件についても言及しておきたい。大学について文科省は学術会議を通じて「大学教育の分野別質保証のための教育課程編成上の参照基準」を作成している。10この基準の作成主体は学術会議なので文科省の直接的な統制になっていないところが巧妙だ。学術会議は、ウエッブで「平成20年に文部科学省から、大学教育の分野別質保証の在り方について審議する依頼を受けたことを契機として、分野別(学問分野別)の参照基準の作成を開始し、現在までに約 30 の分野の参照基準を作成」したと述べている。11ここでは分野別に「すべての学生が身に付けることを目指すべき基本的な素養」を定めるとある。文科省が後ろ盾となって学術会議が、教員が学生になにをどのように教えるのかについて、画一的な基準を定めるものだ。これは大学版学習指導要領といってもよいものあって、私は絶対に認めることができない。なぜなら、私が教育者として30年大学で教えてきた「経済学」をこの参照基準なるものは全否定しているからだ。言い換えれば、学術会議の参照基準を受け入れるということは、私のこれまでの全ての仕事を自ら間違いだったと認めるようなものだ。たぶん、小中の学習指導要領をめぐって教員たちは、彼らが感じたであろう自分の教育を否定しようとする権力の力に対して対峙しようとする悪戦苦闘があったが、大学ではほとんどこうした動きはみられず、今に至るまで容認されていると思う。問題は、自分の学説と異なる考え方が参照基準にされたことが問題なのではなく、ただ一つの基準に統一すべきだ、という教育のありかたがそもそもまちがいだ、ということだ。12

教育を標準化=数値化する全体の権力構造は、それ自体を可視化することは難しい。しかしこの権力構造ががめざしているのは、ナショナリズムに収斂するような学問の制度的な枠組だ。大学の日の丸・君が代への批判が希薄にみえるのと同様、この大学版学習指導要領への批判も極めて目立たないということのなかに、大学という潜勢的な暴力の現在が自ずと表明されているように思わざるをえない。なので、なぜこんな学術会議が市民たちに支持されているのか、私からすると、とても辛い。

1日露の緊張が高まっていた日露戦争前年に宮武外骨が発行していた『滑稽新聞』に掲載された。鷲はロシアの象徴として描かれている。滑稽新聞は幸徳秋水らの平民新聞のような反戦の主張を真正面から打ち出してはないが、随所に、戦争への皮肉まじりの記事が掲載されていた。このイラストは国旗損壊罪にあたるのかどうかは、『滑稽新聞』全体の記事の文脈抜きには判断できないし、判断したとしても正しい解釈はひとつにはならないだろう。なおこのイラストは当時検閲されていない。イラストは筑摩書房版『滑稽新聞』復刻版から引用。

2https://wam-peace.org/news/10564

3このような潜勢力としての暴力は、物理的な暴力として発現しない。この潜勢力としての暴力は、力の物理的な行使とは別の形で、人々を一定の秩序のなかに強制・統制しようとする。この意味で心理的な作用であり、心理的な暴力として実際に傷を負わせうるものになる。(そうなったときは、心的外傷となる) 心的外傷にすらなりうるこの暴力は、儀礼的な行為をひとつの入口とした制度の枠組を伴う。行動の統制であり、そのなかには、「国旗」掲揚や「国歌」斉唱に伴う「態度」の強制がある。儀礼的な行為は、自由を儀礼の名の下に奪うことで成り立っている。自分の自由と儀礼が強いる強制(同調)との間に折り合いをつけられずに、逸脱した振る舞いをすれば、制裁が課される。

4詳しくは、崔仁辰『韓国写真史』犬伏雅一監訳、青弓社、第10章7「日章旗抹消事件』参照。

5読売 2022/06/28 「[時代の証言者]物言う科学者 黒川清<22>提言する学術会議へ」に添えらた写真参照。 https://www.yomiuri.co.jp/serial/jidai/20220627-OYT8T50158/

6 https://www.mext.go.jp/content/20221213-mxt_kyoiku02- 100002607_014.pdf

7ピエール・ブルデュー&パスロン、『再生産』、宮島喬訳、藤原書店。

8ピエール・ブルデュー『パスカル』、加藤晴久訳、藤原書店。

9パスカル『パンセ』塩川徹也訳、岩波文庫、上巻。

10この参照基準をめぐる問題については、下記のわたしの文章を参照。「日本学術会議は擁護すべき組織ではない、と思う。社会的不平等のなかでの自由は欺瞞である。」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/blog/2020/11/21/gakujtukaigi-hiham/ 「学術会議と憲法あるいは学問の自由について https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/blog/2020/12/05/gakujutukaigi_kenpo_jiyu/ 「学術会議について」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/blog/2025/02/14/gakujutukaigi/

11大学教育の分野別質保証委員会 https://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigakuhosyo/index.html

12私が大学で教えていた経済学の分野は、マルクス経済学(マルクス主義経済学と呼ぶ者もいる)、近代経済学(あるいは主流派経済学)、制度学派など、様々な学派が並立し、パラダイムの共通性がない。にもかかわらず参照基準は主流派の観点だけを教育に必要とした。この観点に幾つかの学会は批判の声明などを出したのは、参照基準問題では異例かもしれない。わたしはマルクス経済学に基くとはいえかなり異例なプログラムを組むので、どの学派ともいえない。

学術会議について

私には学術会議をめぐる非常に辛い思い出があります。

学術会議は2008年に文部科学省から、大学教育の分野別質保証の在り方について審議するように依頼を受け「すべての学生が身に付けることを目指すべき基本的な素養」を学問分野別に定めた「大学教育の分野別質保証のための教育課程編成上の参照基準」を作成しました。いわば大学版の学習指導要領のようなものです。下記にその一覧があります
https://www.scj.go.jp/ja/member/iinkai/daigakuhosyo/daigakuhosyo.html

経済学の参照基準は https://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-22-h140829.pdf

私は経済学を教えていましたが、この参照基準の「経済学」の内容は、定義も含めて全く賛成できません。なぜなら、経済学の参照基準はいわゆる主流派の経済学を唯一のパラダイムとして採用しており、わたしのようなマルクス経済学を基礎に、更にそこからも異質な要素を加味したような経済(学)批判としての経済学などは全く考慮される余地のないものとして否定されているからです。これは、私ひとりのことではなく、多様な学説が並立していることを完全に無視した内容で、これを読んで当時唖然となった研究者は決して少くないはずです。実際、当時いくつかの経済学の学会が異論を表明しました(付記1参照)

もしこうした参照基準に基づいてカリキュラムが作成され教員人事が行なわれた場合、非主流派の経済学は大学の教育で正当なポストすら得られないことになります。マージナルな領域は完全に排除され多様性は奪われます。

この参照基準を私が受け入れるということは、私が30年間大学で行なってきた教育を自ら否定することになります。この参照基準を読んだとき、私の教育者としての存在理由を否定されたと感じましたし、危機感を強く持ちました。にもかかわらず、私は、この危機感をやりすごしてしまいました。その理由の一つに、私にとっての学術会議の存在意義がほとんど「ゼロ」に等しかったこと、少なくとも私が在職中には参照基準が公然と教育のカリキュラムや人事に影響するようなことにはならなかったことがあったといえそうですが、今このような文章を書いていることからしても、いずれも言い訳がましい理由でしかないでしょう。もっと何かできたのではないか、という反省と自己批判がありはするものの、では、今何か行動する積りになれるか、といえば、そうとも言えない。

参照基準の策定に関して学術会議は、意見聴取をしていますが、大学の教授会など教育を担う組織にたいして公式に意見聴取などの手続きをとったのかどうかも疑問です。また、様々な異論を受け入れて参照基準の内容を抜本的に修正することもなかったと思います。当時わたしは学部の管理職をしていましたが、学術会議から何らかの問い合わせなどは一度もなかったと記憶しています。(このあたりの事実関係の経緯は私の記憶違いがあるかもしれません)勿論、参照基準の内容を修正すればそれでよい、という問題ではありません。

この分野別参照基準は文科省からの審議依頼です。教育・学問研究の内容に関して、文科省が関与する手段に学術会議が加担したのは、憲法に定められた学問の自由に抵触する行為だと私は判断しますが、学術会議はこの文科省の審議依頼を受け入れたのです。(文科省は巧妙に学術会議法を利用しているともいえます。)繰り返しますが文科省の依頼の意図は「すべての学生が身に付けることを目指すべき基本的な素養」を分野別に示した基準を作成することです。このような参照基準を一部の研究者が決めることがあっていいはずがありませんし、このようなことは決して可能ではないはずです。学術会議はなぜこれを拒否しなかったのでしょうか。

こうした参照基準を文科省が「悪用」する余地はいくらでもあります。定員削減の嵐の時代でしたし、文科省による学部への介入が非常にシビアな時代でした。もし文科省が「参照基準に沿った採用と教育をするように」とでも言いはじめるのではないかととても不安におもったことを覚えています。文科省の思惑は、むしろ、学術会議に参照基準を作成させ、大学が自主規制の手段として、この参照基準に沿った教育と人事を行なうように仕向けることを通じて、批判的な学問としての非主流派の経済学を脇に追いやるか排除するような効果をもたらすことだろうと思います。経済学の分野は、こうした文科省の思惑と学術会議側の利害が一致してしまった分野ですが、そうではない分野もあったのだろうと思います。邪推とみられるかもしれませんが、こうした参照基準のような活動が任命拒否ともどこかで繋がっているようにも感じられてなりません。

参照基準と関連する質保証委員会は現在もあるようです。国の事実上の外郭団体のような体制がもっている極めて危ない側面だと思います。もちろん法人化後の大学を経験している者にとって、独立しても問題は変わらないことも承知しています。どちらの場合であれ、学術会議が学問研究の自由と自立の砦にはなりえることはないでしょう。

以上のようなことがあるため、学術会議問題に関心を寄せている多くの市民の皆さんに、学術会議が進めてきた分野別参照基準の問題にも目を向け。その撤回と大学教育の分野別質保証委員会を廃止の必要性にも関心をもっていただければと思います。(ただし、参照基準の撤回や質保証委員会廃止のために、私にできることは、今ここでこうした意見を表明することが精一杯のところです。)

付記1

参照基準の作成当時、経済学に関係する学会などが出した見解は現在でも読むことができます。

経済学分野の参照基準(原案)に対する意見表明
経済教育学会理事会
https://ecoedu.jp/sansyoukijun-jsee.pdf

経済学分野の教育参照基準第二次修正案についての意見書
経済理論学会幹事会
https://www.jspe.gr.jp/%E5%AD%A6%E4%BC%9A%E5%A3%B0%E6%98%8E%E7%AD%89/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6%E5%88%86%E9%87%8E%E3%81%AE%E6%95%99%E8%82%B2%E5%8F%82%E7%85%A7%E5%9F%BA%E6%BA%96%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%BF%AE%E6%AD%A3%E6%A1%88%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E6%84%8F%E8%A6%8B%E6%9B%B8

基礎経済科学研究所常任理事会
基礎経済科学研究所
http://www.shokunoshigen.jp/docs/reference-standard/siryou6.pdf

日本フェミニスト経済学会2012-2013年度幹事会
https://jaffe.fem.jp/opinion

参照基準に反対の声多数 経済学教育の画一化を懸念(京都大学新聞)
2013.12.16
https://www.kyoto-up.org/archives/1956

私自身が個人として意見を提出したことはありません。これらの意見が汲み取られたとはおもえませんし、たとえ汲み取られたとしても、それで研究者、教育者個人の学問の自由が確保されるものとも思いません。そもそも文科省の下請けのような仕事を受けるべきではなく、参照基準そのものを撤回すべき、という私のような主張はあまりないかもしれません。なお、私はこれらの学会には所属していません。

付記2

私自身が経済学としてどのような講義を行なってきたのかについては、下記に講義ノートが掲載されているので参考にしてください。

https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/lecture_u-toyama/



Twitterをめぐる政府と資本による情報操作――FAIRの記事を手掛かりに

本稿は、FAIRに掲載された「マスクの下で、Twitterは米国のプロパガンダ・ネットワークを推進し続ける」を中心に、SNSにおける国家による情報操作の問題について述べたものです。Interceptの記事「Twitterが国防総省の秘密オンラインプロパガンダキャンペーンを支援していたことが判明」も参照してください。(小倉利丸)

Table of Contents

1. FAIRとInterceptの記事で明らかになったTwitterと米国政府の「癒着」

SNSは個人が自由に情報発信可能なツールとしてとくに私たちのコミュニケーションの権利にとっては重要な位置を占めている。これまでSNSが問題になるときは、プラットフォーム企業がヘイトスピーチを見逃して差別や憎悪を助長しているという批判や、逆に、表現の自由の許容範囲内であるのに不当なアカウント停止措置への批判であったり、あるいはFacebookがケンブリッジ・アナリティカにユーザーのデータを提供して選挙に介入したり、サードパーティクッキーによるデータの搾取ともいえるビジネスモデルで収益を上げたり、といったことだった。これだけでも重大な問題ではあるが、今回訳出したFAIRの記事は、これらと関連しながらも、より密接に政府の安全保障と連携したプラットフォーム企業の技術的な仕様の問題を分析している点で、私にとっては重要な記事だと考えた。

戦争や危機の時代に情報操作は当たり前の状況になることは誰もが理解はしていても、実際にどのような情報操作が行なわれているのかを、実感をもって経験することは、ますます簡単ではなくなっている。

別に訳出して掲載したFAIRの記事 は、昨年暮にInterceptが報じたtwitterの内部文書に基くtwitterと米国政府との癒着の報道[日本語訳]を踏まえ、更にそれをより広範に調査したものになっている。この記事では、Twitterによる投稿の操作は、「米国の政策に反対する国家に関連するメディアの権威を失墜させること」であり、「もしある国家が米国の敵であると見なされるなら、そうした国家と連携するメディアは本質的に疑わしい」とみなしてユーザーの判断を誘導する仕組みを具体的に示している。twitterは、企業の方針として、米国のプロパガンダ活動を周到に隠蔽したり、米国の心理戦に従事しているアカウントを保護するなどを意図的にやってきたのだが、世界中のtwitterのユーザーは、このことに気づかないカ十分な関心を抱かないまま、公平なプラットフォームであると「信じて」投稿し、メッセージを受け取ってきた。しかし、こうしたSNSの情報の流れへの人為的な操作の結果として、ユーザーひとりひとりのTwitterでの経験や実感は、実際には、巧妙に歪められてしまっている。

ウクライナへのロシアによる侵略以後、ロシアによる「偽旗作戦」への注目が集まった。そして、日本でも、自民党は、「偽旗作戦」を含む偽情報の拡散による情報戦などを「新たな『戦い方』」と呼び、これへの対抗措置が必要だとしている。[注]いわゆるハイブリッド戦では「ンターネットやメディアを通じた偽情報の流布などによる世論や投票行動への影響工作を複合的に用いた手法」が用いられることから、非軍事領域を包含して「諸外国の経験・知見も取り入れながら、民間機関とも連携し、若年層も含めた国内外の人々にSNS等によって直接訴求できるように戦略的な対外発信機能を強化」が必要だとした。この提言は、いわゆる防衛3文書においてもほぼ踏襲されている。上の自民党提言や安保3文書がハイブリッド戦争に言及するとき、そこには「敵」に対する組織的な対抗的な偽情報の展開が含意されているとみるべきで、日本も遅れ馳せながら偽旗作戦に参戦しようというのだ。日本の戦争の歴史を振り返れば、まさに日本は偽旗作戦を通じて世論を戦争に誘導し、人々は、この偽情報を見抜くことができなかった経験がある。この意味でtwitterと米国政府機関との関係は、日本政府とプラットーム企業との関係を理解する上で重要な示唆を与えてくれる。

[注]新たな国家安全保障戦略等の策定に向けた提言(2022/4/26)

2. インターネット・SNSが支配的な言論空間における情報操作の特殊性

伝統的なマスメディア環境では、政府の世論操作は、少数のマスメディアへの工作によって大量の情報散布を一方的に実現することができた。政府だけでなく、企業もまた宣伝・広告の手段としてマスメディアを利用するのは、マスメディアの世論操作効果を期待するからだ。

しかしインターネットでは、ユーザーの一人一人が、政府や企業とほぼ互角の情報発信力をもつから、国家も資本も、この大量の発信をコントロールするというマスメディア時代にはなかった課題に直面した。ひとりひとりの発信者の口を封じたり、政府の意向に沿うような発言を強制させることはできないから、これはある種の難問とみなされたが、ここにインターネットが国家と資本から自立しうる可能性をみる――私もそうだった――こともできたのだ。

現実には、インターネットは、少数のプラットフォーム企業がこの膨大な情報の流れを事実上管理できる位置を獲得したことによって、事態は庶民の期待を裏切る方向へと突き進んでしまった。こうした民間資本が、アカウントの停止や投稿への検閲の力を獲得することによって、検閲や表現の自由の主戦場は政府とプラットーム企業の協調によって形成される権力構造を生み出した。政府の意図はマスメディアの時代も現代も、権力の意志への大衆の従属にある。そのためには、情報の流通を媒介する資本は寡占化されているか国家が管理できることが必要になる。現代のプラットフォーム企業はGAFAMで代表できるように少数である。これらの企業は、自身が扱う情報の流れを調整することによって、権力の意志をトップダウンではなくボトムアップで具現化させることができる。つまり、不都合な情報の流れを抑制し、国家にとって必要な情報を相対的に優位な位置に置き、更に積極的な情報発信によって、この人工的な情報の水路を拡張する。人びとは、この人工的な情報環境を自然なコミュニケーションだと誤認することによって、世論の自然な流れが現行権力を支持するものになっていると誤認してしまう。更にここにAIのアルゴリズムが関与することによって、事態は、単なる一人一人のユーザーの生の投稿の総和が情報の流れを構成する、といった単純な足し算やかけ算の話ではなくなる。twitterのAIアルゴリムズには社会的なバイアスがあることがすでに指摘されてきた。(「TwitterのAIバイアス発見コンテスト、アルゴリズムの偏りが明らかに」CNETJapan Sharing learnings about our image cropping algorithm )AIのアルゴリズムに影響された情報の流れに加えてSNSにはボットのような自動化された投稿もあり、こうした機械と人間による発信が不可分に融合して全体の情報の流れが構成される。ここがハイブリッド戦争の主戦場にもなることを忘れてはならない。

[注]検閲や表現領域のようなマルクスが「上部構造」とみなした領域が土台をなす資本の領域になっており、経済的土台と上部構造という二階建の構造は徐々に融合しはじめている。

3. ラベリングによる操作

FAIRの記事で問題にされているのは、政府の情報発信へのtwitterのポリシーが米国政府の軍事・外交政策を支える世論形成に寄与する方向で人びとのコミュニケーション空間を誘導している、という点にある。その方法は、大きく二つある。ひとつは、各国政府や政府と連携するアカウントに対する差別化と、コンテンツの選別機能でもある「トピック」の利用である。このラベルは2020年ころに導入された。日本語のサイトでは以下のように説明されている。

「Twitterにおける政府および国家当局関係メディアアカウントラベルについて

国家当局関係メディアアカウントについているラベルからは、特定の政府の公式代表者、国家当局関係報道機関、それらの機関と密接な関係のある個人によって管理されているアカウントについての背景情報がわかります。

このラベルは、関連するTwitterアカウントのプロフィールページと、それらのアカウントが投稿、共有したツイートに表示されます。ラベルには、アカウントとつながりのある国についてと、そのアカウントが政府代表者と国家当局関係報道機関のどちらによって運用されているかについての情報が含まれています。 」https://help.twitter.com/ja/rules-and-policies/state-affiliated

ラベリングが開始された2020年当時は、国連安全保障理事会の常任理事国を構成する5ヶ国(中国、フランス、ロシア、英国、米国)に関連するTwitterアカウントのなかから、地政学と外交に深くかかわっている政府アカウント、国家当局が管理する報道機関、国家当局が管理する報道機関と関連する個人(編集者や著名なジャーナリストなど) にラベルを貼ると表明していた。その後2022年になると中国、フランス、ロシア、英国、米国、カナダ、ドイツ、イタリア、日本、キューバ、エクアドル、エジプト、ホンジュラス、インドネシア、イラン、サウジアラビア、セルビア、スペイン、タイ、トルコ、アラブ首長国連邦が対象になり、2022年4月ころにはベラルーシとウクライナが追加される。こうした経緯をみると、当初と現在ではラベルに与えられた役割に変化があるのではないかと思われる。当初は国連安保理常任理事国の背景情報を提供することに主眼が置かれ、これが米国の国益にもかなうものとみなされていたのかもしれない。twitterをグローバルで中立的なプラットフォーマであることを念頭にその後のラベル対象国拡大の選択をみると、これが何を根拠に国を選択しいるのかがわかりづらいが、米国の地政学を前提にしてみると、米国との国際関係でセンシティブと推測できる国が意図的に選択されているともいえそうだ。他方でイスラエルやインドがラベルの対象から抜けているから、意図的にラベルから外すことにも一定の政治的な方針がありそうだ。(後述)そして、ロシアの侵略によって、このラベルが果す世論操作機能がよりはっきりしてくる。

ロシアへのラベリングは、ウクライナへの侵略の後に、一時期話題になった。(itmedia「Twitter、ロシア関連メディアへのリンクを含むツイートに注意喚起のラベル付け開始」)

上のラベルに関してtwitterは「武力紛争を背景に、特定の政府がインターネット上の情報へのアクセスを遮断する状況など、実害が及ぶ高いリスクが存在する限られた状況において、こうしたラベルが付いた特定の政府アカウントやそのツイートをTwitterが推奨したり拡散したりすることもありません。」と述べているのだが、他方で、「ウクライナ情勢に対するTwitterの取り組み」 では、これとは反するようなことを以下のように述べている。

「ツイートにより即座に危害が生じるリスクは低いが、文脈を明確にしなければ誤解が生じる恐れがある場合、当該ツイートをタイムラインに積極的に拡散せず、ツイートへのリーチを減らすことに注力します。コンテンツの拡散を防いで露出を減らし、ラベルを付与して重要な文脈を付け加えます。」

FAIRの報道には、実際の変化について言及があるので、さらに詳しい内容についてはFAIRの記事にゆずりたい。

4. トピック機能と恣意的な免責

ラベリングとともにFAIRが問題視したのがトピック機能だ。この機能についてもこれまでさほど深刻には把えられていなかったかもしれない。

FAIRは次のように書いている。

「Twitterのポリシーは、事実上、アメリカのプロパガンダ機関に隠れ蓑と手段を提供することになっている。しかし、このポリシーの効果は、全体から見ればまだまだだ。Twitterは様々なメカニズムを通じて、実際に米国が資金を提供するニュース編集室を後押しし、信頼できる情報源として宣伝しているのだ。

そのような仕組みのひとつが、「トピック」機能である。「信頼できる情報を盛り上げる」努力の一環として、Twitterはウクライナ戦争について独自のキュレーションフィードをフォローすることを推奨している。2022年9月現在、Twitterによると、このウクライナ戦争のフィードは、386億以上の “インプレッション “を獲得している。フィードをスクロールすると、このプラットフォームが米国の国家と連携したメディアを後押ししている例が多く、戦争行為に批判的な報道はほとんど、あるいは全く見られない。米国政府とのつながりが深いにもかかわらず、Kyiv IndependentとKyiv Postは、戦争に関する好ましい情報源として頻繁に提供されている。」

ここで「独自のキュレーションフィード」と記述されているが、日本語のTwitterのトピックでは、「キュレイーション」という文言はなく、主要な「ウクライナ情勢」の話題を集めたかのような印象が強い。Twitterは、ブログ記事「トピック:ツイートの裏側」 で「あるトピックを批判をしたり、風刺をしたり、意見が一致しなかったりするツイートは、健全な会話の自然な一部であり、採用される資格があります」とは書いているが、実際には批判と炎上、風刺と誹謗の判別など、困難な判断が多いのではないか。日本語での「ウクライナ情勢」のトピック では、日本国内の大手メディア、海外メディアで日本語でのツイート(BBC、CNN、AFP、ロイターなど)が大半のような印象がある。つまり、SNSがボトムアップによる多様な情報発信のプラットフォームでありながら、Twitter独自の健全性やフォローなどの要件を加味すると、この国では結果として伝統的なマスメディアがSNSの世界を占領するという後戻りが顕著になるといえそうそうだ。反戦運動や平和運動の投稿は目立たなくなる。情報操作の目的が権力を支える世論形成であるという点からみれば、SNSとプラットフォームが見事にこの役目を果しているということにもなり、言論が社会を変える力を獲得することに資本のプラットフォームはむしろ障害になっている。

しかも「トピック」は単純なものではなさそうだ。twitterによれば「トピック」機能は、会話におけるツイート数と健全性を基準に、一過性ではないものをトピックを選定するというが、次のようにも述べられている。

「機械学習を利用して、会話の中から関連するツイートを見つけています。ある話題が頻繁にツイートされたり、その話題について言及したツイートを巡って多くの会話が交わされたりすると、その話題がトピックに選ばれる場合があります。そこからさらにアルゴリズムやキーワード、その他のシグナルを利用して、ユーザーが強い興味関心を示すツイートを見つけます」

Twitterでは、「トピックに含まれる会話の健全性を保ち、また会話から攻撃的な行為を排除するため、数多くの保護対策を実施してい」るという。何が健全で何が攻撃的なのかの判断は容易ではない。しかし「これには、操作されていたり、スパム行為を伴ったりするエンゲージメントの場合、該当するツイートをトピックとして推奨しない取り組みなどが含まれます」 と述べられている部分はFAIRの記事を踏まえれば、文字通りのこととして受けとれるかどうか疑問だ。

トピックの選別をTwitterという一企業のキュレション担当者やAIに委ねることが、果して言論・表現の自由や人権にとってベストな選択なのだろうか。イーロン・マスクの独裁は、米国や西側先進国の民主主義では企業の意思決定に民主主義は何にひとつ有効な力を発揮できないという当たり前の大前提に、はじめて多くの人々が気づいた。Twitterにせよ他のSNSにせよ、伝統的なメディアの編集部のような「報道の自由」を確保するための組織的な仕組みがあるのあどうか、あるいはそもそもキュレイーションの担当者やAIに私たちの権利への関心があるのかどうかすら私たちはわかっていない。

もうひとつは、上で述べたラベリングと表裏一体の問題だが、本来であれば政府系のメディアとしてラベルを貼られるべきメディアが、あたかも政府からの影響を受けていない(つまり公正で中立とみなされかねない)メディアとして扱われている、という問題だ。FAIRは米軍、国家安全保障局、中央情報局のアカウント、イスラエル国防軍、国防省、首相のアカウントがラベリングされていないことを指摘している。

またFAIRが特に注目したのは、補助金など資金援助を通じて、特定のメッセージや情報の流れを強化することによる影響力強化だ。FAIRの記事で紹介されているメディアの大半は、米国の政府や関連する財団――たとえば全米民主主義基金(National Endowment for Democracy、USAID、米国グローバルメディア局――などからの資金援助なしには、そもそも情報発信の媒体としても維持しえないか、維持しえてもその規模は明かに小規模に留まらざるをえないことは明らかなケースだ。

5. 自分の直感や感性への懐疑は何をもたらすか

FAIRやInterceptの記事を読まない限り、twitterに流れる投稿が米国の国家安全保障の利害に影響されていることに気づくことは難しいし、たとえ投稿のフィードを読んだからといって、この流れを実感として把握することは難しい。フェイクニュースのように個々の記事やサイトのコンテンツの信憑性をファクトチェックで判断する場合と違って、ここで問題になっているのは、ひとつひとつの投稿には嘘はないが、グローバルな世論が、プラットフォーム企業が総体として流す膨大な投稿の水路や流量の調整によって形成される点にある。私たちは膨大な情報の大河のなかを泳ぎながら、自分をとりまく情報が自然なものなのか人工的なものなのか、いったいどこから来ているのか、情報全体の流れについての方向感覚をもてず、実感に頼って判断するしかない、という危うい状態に放り出される。このような状況のなかで、偏りを自覚的に発見して、これを回避することは非常に難しい。

こうしたTwitterの情報操作を前提としたとき、私たちは、ロシアやウクライナの国や人びとに対して抱く印象や戦争の印象に確信をもっていいのかどうか、という疑問を常にもつことは欠かせない。報道の体裁をとりながらも、理性的あるいは客観的な判断ではなく、好きか嫌いか、憎悪と同情の感情に訴えようとするのが戦争状態におけるメディアの大衆心理作用だ。ロシアへの過剰な憎悪とウクライナへの無条件の支持の心情を構成する客観的な出来事には、地球は平面だというような完璧な嘘があるわけではない。問題になるのは、出来事への評価や判断は、常に、出来事そのものと判断主体の価値観や世界観あるいは知識との関係のなかでしか生まれないということだ。私は、ロシアのウクライナへの侵略を全く肯定できないが、だからといって私の関心は、ウクライナであれロシアであれ、国家やステレオタイプなナショナリズムのアイデンティティや領土への執着よりも、この理不尽な戦争から背を向けようとする多様な人々が武器をとらない(殺さない)という選択のなかで生き延びようとする試みのなかにあるラディカリズムにあるのだが、このような国家にも「国民」にも収斂しないカテゴリーはプラットフォーム企業の関心からは排除され、支配的な戦争のイデオロギーを再生産する装置としてしか私には見えない。

国家に対する評価とその国の人びとへの評価とを区別するのに必要なそれなりの努力をないがしろにさせるのは、既存のマスメディアが得意とした世論操作だが、これがSNSに受け継がれると、SNSの多様な発信は総じて平板な国家の意志に収斂して把えられる傾向を生み出す。どの国にもある人びとの多様な価値観やライフスタイルやアイデンティティが国家が表象するものに単純化されて理解されてしまう。敵とされた国の人びとを殺すことができなければ戦争に勝利できないという憎悪を地下水脈のように形成しようとするのがハイブリッド戦争の特徴だが、これが日本の現在の国際関係をめぐる感情に転移する効果を発揮している。こうしたことが、一人一人の発信力が飛躍的に大きくなったはずのインターネットの環境を支配している。その原因は、寡占化したプラットフォーム企業が資本主義の上部構造を構成するイデイロギー資本として、政治的権力と融合しているからだ、とみなす必要がある。

6. それでもTwitterを選択すべきか

政府関連のツィートへのラベリングは、開始された当初に若干のニュースになったものの、その背景にTwitterと米国の安全保障政策との想定を越えた密接な連携があるということにまではほとんど議論が及んでいなかったのでは、と思う。さらにFAIRがイーロン・マスクのスペースXを軍事請け負い企業という観点から、その活動を指摘していることも見逃せない重要な観点だと思う。

情報操作のあり方は、独裁国家や権威主義国家の方がいわゆる民主主義や表現の自由を標榜する国よりも、素人でもわかりやすい見えすいた伝統的なプロパガンダや露骨な言論弾圧として表出する。ところが民主主義を標榜する国では、その情報操作手法はずっと洗練されており、より摩擦の少ない手法が用いられ、私たちがその重大性に気づくことが難しい。私たち自身による自主規制、政府が直接介入しない民間による「ガイドライン」、あるいは市場経済の価格メカニズムを用いた採算のとれない言論・表現の排除、さらには資源の希少性を口実にアクセスに過剰なハードルを課す(電波の利用)、文化の保護を名目としつつナショナリズムを喚起する公的資金の助成など、自由と金を巧妙に駆使した情報操作は、かつてのファシズムやマスメディアの時代と比較しても飛躍的に高度化した。そして今、情報操作の主戦場はマスメディアからプラットフォーム企業のサービスと技術が軍事技術の様相をとるような段階に移ってきた。

コミュニケーションの基本的な関係は、人と人との会話であり、他者の認識とは私の五感を通じた他者理解である、といった素朴なコミュニケーションは現在はほとんど存在しない。わたしは、あなたについて感じている印象や評価と私がSNSを通じて受けとるあなたについての様々な「情報」に組み込まれたコンピュータによって機械的に処理されたデータ化されたあなたを的確に判別することなどできない。しかし、コミュニケーションを可能な限り、資本や政府による恣意的な操作の環境から切り離すことを意識的に実践することは、私たちが世界に対して持つべき権利を偏向させたり歪曲させないために必要なことだ。そのためには、コンピュータ・コミュニケーションを極力排除するというライフスタイルが一方の極にあるとすると、もう一方の極には、資本の経済的土台と国家のイデオロギー的上部構造が融合している現代の支配構造から私たちのコミュニケーションを自立させうるようにコンピュータ・コミュニケーションを再構築するという戦略がありうる。この二つの極によって描かれる楕円の世界を既存の世界からいかにして切り離しつつ既存の世界を無力化しうるか、この課題は、たぶん武力による解放では実現できない課題だろう。

Author: toshi

Created: 2023-01-09 月 18:29

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戦争とプロパガンダ

以下は、Realmediaに掲載された記事の翻訳です。

March 15, 2022

戦争では、真実が最初の犠牲となる。現代ではありがたいことに、YouTube、Twitter、Facebookなどの巨大企業は、たとえその真実が後に間違いであることが判明したとしても、私たちが受け取る情報が真実であることの保証を高めてきた。

私たちのテレビは、国家公認のロシア・トゥデイが見られないことを伝え、スプートニクとともに、Twitter、YouTube、Meta、その他のプラットフォームから削除されたことを伝えている。

YouTubeは、そのシステムが「人々を信頼できるニュースソースにつなぐ」と言うが、その中には国家公認のBBCも含まれている。BBCは、イラクが大量破壊兵器で西側を攻撃する可能性があると言い、アフガニスタンを侵略しなければならず、リビアがバイアグラで住民をレイプしようとしていると報じたことを覚えているだろうか。すべてが嘘だった。

企業の検閲の津波の中で、前例のない犠牲者がこの戦争で出ている。


長年問題なく過ごしてきたグローバル・ツリー・ピクチャーズGlobal Tree Picturesは、突然、オリバー・ストーンの映画「Ukraine On Fire」を「グラフィックコンテンツポリシーに違反したため」YouTubeから削除される事態に見舞われた。

これを受けて、イゴール・ロパトノクIgor Lopatonok監督は著作権者として、Vimeoのリンクから自由に映画をダウンロードする権利を与え、どこに投稿してもよいと発表したが、このリンクも検閲されたようで、現在は機能していない。この映画は、YouTubeのさまざまなアカウントで再投稿されて見ることができ、2014年のウクライナのクーデターに関するいくつかの隠された真実をタイムリーに思い出させてくれるものである。

YouTubeの親会社はGoogleで、その信頼と安全担当ディレクターは、ベン・レンダBen Rendaだが、NATOで戦略プランナーおよび情報マネージャーとして雇われていた人物だ。


アメリカ国民は、イラク国民が砲撃されたように、砲撃されたのです。それは私たちに対する戦争であり、嘘と偽情報と歴史の省略の戦争だった。湾岸戦争が向こうで行われている間に、そういう圧倒的で壊滅的な戦争がここアメリカで行われたのです。- ハワード・ジン

リー・キャンプ – 写真 Real Media


コメディアンで活動家のリー・キャンプ(2019年にReal Mediaがインタビュー)は、過去8年間、風刺番組「Redacted Tonight」を毎週発表し、反帝国主義のニュースをコメディータッチで満載して配信していた。RT Americaが米国の制裁で閉鎖されたとき、彼は巻き添えとでもいうべき形でそこでの仕事を失った。しかし、金曜日、8年間にわたる強烈なインデペンデントな風刺は削除され、彼のチャンネルはYouTubeによって警告なしに閉鎖された。

リー・キャンプの作品の一部は、今のところまだYouTubeで見ることができる。一見の価値ありだ。

キャンペーンを展開中の調査ジャーナリスト、アビー・マーティンAbby Martinは、2012年から2015年までRTアメリカで「Breaking The Set」番組を運営し、その間、ウクライナでのロシアの軍事行動を極めて公然と非難した。その後、彼女はインタビューとドキュメンタリー番組「The Empire Files」を立ち上げ、2018年にアメリカの制裁まで、ベネズエラを拠点とするTeleSurで放送されていた。次にこれは、YouTubeとVimeoでインデペンデントな支援者が資金を提供してシリーズ化された。

彼女のパワフルなドキュメンタリー『Gaza Fights For Freedom』は現在も配信されているが、土曜日に彼女は、キャンプのそれと同様、彼女の作品全体が万能のYouTubeによって予告なしに削除されたことを発表した。


ロイターは、欧米のハイテク検閲の背後にある別の議題を暴露し、Metaプラットフォームが独自のルールを中止し、数十億のFacebookとInstaのユーザーがウクライナのネオナチ・アゾフ大隊を賞賛し(通常は危険な個人と組織に関するポリシーに抵触するので禁止される)、ロシア軍、リーダー、そして市民に対する暴力的脅迫を「その文脈がロシアのウクライナ侵攻にあることが明らかな場合」には許可するという異例の措置を取ったことを明らかにした

Metaの社長であるNick Cleggは、言論の自由を守っているという理由で同社の立場を擁護しているが、これは例外的な状況であることを率直に認めている。明らかに、この言論の自由は、最近の禁止されたユーザーや投稿の嵐には適用されていない。

検閲とプロパガンダは常に戦争の一部であったが、最近の出来事は、一握りの超富裕層のエリートが、我々が見たり共有したりできる情報に口を出すことをより容易なものにしている巨大なハイテク企業の力を露骨に示している。


「現在を支配するものは過去を支配し、過去を支配するものは未来を支配する」 – ジョージ・オーウェル

活動家ラッパーのLowkeyによると、TikTokのヨーロッパ・中東・アフリカ担当ライブストリーム・ポリシー・マネージャーのGreg Andersonは、NATOの「心理作戦」に携わっていたとのことだが、この記事を出稿する時点でこれを独自に確認することはできていない。

調査ジャーナリスト、エイサ・ウィンスタンリーAsa Winstanleは先週、ウクライナのナチスに関するツイートを削除することに同意するまで、自身のツイッターアカウントを停止させられた。彼が投稿したナチスのシンボルをつけたウクライナの女性戦士の画像は、AIによるファクトチェック企業「Logically」によって異議が唱えられたようだが、特に国際女性デーにウクライナ政府のアカウント2つが同じ画像を投稿しているように、彼らは何等きちんとした調査を行なっていない。Logicallyは問い合わせに回答していない。Asaは、このような組織がネット上の自由な発言を阻止する力を持つべきかどうかと問うている。


欧米のメディアは、ウクライナへの侵攻をノンストップで報道し、破壊、難民の殺到、そして非常に多くの悲劇的な個々の人間の物語を紹介している。メディアは、これは私たちの戦争であり、私たちはウクライナと共に立ち向かわなければならないと報じている。

英国が支援するイエメンでのサウジの戦争(Amnestyによれば、約25万人が殺され、1600万人が飢餓に直面している)と比較対照してみてほしい。サウジアラビアに対する厳しい制裁と、いたるところでのメディア報道によって、何百万人もの人々が救われたかもしれないことを想像してほしい。

また、実際に我々の戦争であったアフガニスタンでの報道と比べてみてほしい。ここでも25万人が殺されている。人口の98%が十分な食料を持たず、飢餓に陥っており、300万人の罪のない子供たちが栄養失調に苦しんでいる。


安全保障条約を求めるロシアのこれまでの平和的アプローチを西側諸国が考慮することを拒否していることについて、どれほどの分析、言及があっただろうか。あるいは、ロシアの現在の要求がどのようなものであるのかさえも。ある時点で、私たちは世界大戦と核兵器による全滅の可能性へとエスカレートするか、さもなくば合意に達しなければならない。どうすればそれが実現できるのか、ある程度の見当をつけておくのが合理的ではないだろうか。

最後に、もし欧米のメディアがウクライナの報道のように気候変動に関する報道をしていたらと想像してみよう。相互確証破壊mutually-assured destructionを回避し、平和的解決に至る方法を見つけることができたとしても、我々は緊急かつ根本的に生活様式を再構築し、有限の惑星における無限の経済成長神話を終わらせ、化石燃料の燃焼を止める必要がある。さもなければ、ウクライナは、私たちの周りでほとんど無視されながら展開されている大災害に比べれば、脇役に終わりかねない。

今月初め、アントニオ・グテーレス(国連事務総長)が警告したように、「人類の半分は今、危険地帯に住んでいる」のである。

抗議声明(名古屋:わたしたちの表現の不自由展中止問題)

名古屋市栄の市民ギャラリーで起きた展覧会の中止事件は、2019年の愛知トリエンナーレで中止のきっかけをつくった出来事とよく似ている。問題全体の構造をみると、公的な展示施設や行政vs脅迫・攻撃者という構図は「見かけ」であり、イデオロギーの構図がかすると、公権力と脅迫者の側には心情的な共同性があり(下記の声明では心情的共謀と表現されている)、むしろ展覧会の主催者との対立がはっきりしている。公権力があからさまな違法行為による弾圧を行使することは稀で、たいていは、こうした権力の意向を汲む者たちがテロや暴力の担い手になる。更んにその背景には、いまだに根強い「日本人は正しい」と信じる「日本人」たちの自民族中心主義だ。植民地支配や戦争責任を明確にできていないだけでなく、これらについて議論することすらままならない事態が、学校でも世論を代弁するとされるメディアにおいてもますます強まっている。こうした背景と公権力のサポタージュによる事実上の検閲の行使とは密接に関係している。日本の状況は理性や道理が通用しないナショナリズムに支配されてきたが、それが、もう一段強化されているように思う。しかも、上からだけでなく、下からも。

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2021710

抗議声明

 202176日(火)から711日(日)までの会期で,名古屋市民ギャラリー栄において開催されていた展覧会「私たちの『表現の不自由展・その後』」は,「施設の安全管理のため」という理由で,78日(木)から711日(日)の間,市民ギャラリー栄が臨時休館となり中断させられている。

 その臨時休館の根拠は,市民ギャラリー栄の「職員が郵送された封筒を開けたところ,10回ほど爆竹のような破裂音がした」(東海テレビの報道より)という事態によるものと報じられているが,主催者側には何ら説明もなされていない。そもそも報道によると,問題の郵便物は,「施設職員が警察官立ち会いの下で開封した」(毎日新聞より)のであり,施設職員立会いの下で警察官が中身を検査したり,開封したりしたものではなく,当初より重大な危険性があるという認識ではなかったことがうかがえる。さらに,その後,ギャラリー栄と名古屋市中区役所があるビル全体は閉鎖されてもいない。このような子供だましの脅しに屈し,さらには,正当な理由も説明もなく展覧会を中止に追い込むことは,まさに,犯罪者の思うつぼであり,また,その犯罪行為に加担していることになるだろう。

 名古屋市は,2019年の表現の不自由展の中止の際と同様,行政が果すべき憲法上の責務を果さず,公権力によって十分に対処が可能な軽微な事案を展覧会中止の口実に利用した。今回も全く同様であり,公権力によるサボタージュであり,巧妙に攻撃者の行動を利用して,中止を正当化したものである。名古屋市の対処を客観的に判断するとすれば,攻撃者と名古屋市との間には心情的共謀関係があると判断せざるをえない。とりわけ名古屋市長河村は,いわゆる「従軍慰安婦」をめぐる歴史認識において容認しえない虚偽発言を繰り返し,大村県知事リコール運動の署名偽造についても,その道義的責任すら認めず,新型コロナ対策でも適切な対応をせずに犠牲を拡大するなど,そもそも憲法が義務づけている公権力の担い手としての責任を果していない。河村もまた,名古屋不自由展を中止に追いやりたいと願っている一人であることは間違いないだろう。だからこそ攻撃者と行政の間に心情的共謀がありえると私たちは解釈するのだ。

 直ちに,名古屋市は臨時休館を解除して,展覧会を再開すべきである。

 この展覧会は,あいちトリエンナーレ2019の企画であった「表現の不自由展・その後」が,今回と同様に,脅迫を主な根拠として中断させられたことを契機として企画されたものである。その展示作品の中には,民族差別的主張によって展覧会が中止させられたという経緯を持つものも含まれている。

 また,同時期に東京,大阪において開催予定だった「表現の不自由展」においても,これに反対する人々の大声や街宣車による抗議行動により,会場の使用が取り消され,延期に追い込まれているという状況である。つまり,安易に脅迫に屈するという判断・行動は,その脅迫や民族差別的主張こそが犯罪行為であるにもかかわらず,その実行者の思惑通りの結果を生み,公開することができない作品を作り上げてしまい,不当に公開を妨げる検閲的な行為となっている。このようなことは,絶対に止めなければならない。

 加えて,あいちトリエンナーレ2019における「表現の不自由展・その後」の中止に際しては,多くの平和的行動を取った市民による46000筆超の展示再開を求める署名が提出されているが,愛知県,名古屋市ともに,これらを全く無視してきた。その一方で,展覧会に反対する側のちゃちな脅しに屈して,次々と展覧会を中止に追い込むとは,いったい,どういう了見なのだ。

 これは,あいちトリエンナーレ2019における事態に続く「文化テロ」である。テロの脅しに絶対屈しないと主張したのは,日本政府ではなかったか。であるならば,「文化テロ」に屈しない姿を見せるためにも,名古屋市は,展示を再開すべきなのだ。

art4all

artinopposition

Artstrike

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art4all

art4allは,あいちトリエンナーレ2019における「表現の不自由展・その後」の検閲に際し,再開を求める運動を開始し,その後も表現の自由を求める活動を続けている。

artinopposition

artinoppositionは,歴史的・社会的にも忘却されてしまう状況に抗い,問題提起を促し,アートの表現とは何なのか,なぜ表現があるのかを・思考・する場である。

Artstrike

Artstrikeは,1986年の富山県立近代美術館における検閲事件を契機として始まった運動である。

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連絡先:jun@artstrike.info

4/9より「黒く塗れ!」展開催!

以下、「黒く塗れ!」展からのお知らせを転載します。


★タイトル:
黒く塗れ! -名古屋市の技法による-

★期日:
2021年4月9日(金)~11日(日) 11時~17時(11日のみ12時開場)

★会場:
名古屋市市民ギャラリー栄
名古屋市中区栄四丁目1番8号 中区役所平和不動産共同ビル7階
TEL 052-265-0461 FAX 052-265-0449
アクセス https://www.bunka758.or.jp/scd18_access.html
地下鉄東山線・名城線「栄」下車 12番出口東へ徒歩1分
市バス「栄」下車 徒歩5分

★協力:
大浦信行・art4all・Art in Opposition

★詳細情報:
http://www.artstrike.info/

★問合せ:
jun@artstrike.info

【「黒く塗れ!」展について】
名古屋市は,あいちトリエンナーレ2019の「表現の不自由展・その後」に関して,河村名古屋市長から大村愛知県知事に対して提示された公開質問状を,2019年9月20日に同市のウェブサイトで公開した(PDF形式)。

あいちトリエンナーレ2019にかかる愛知県知事への公開質問状について(名古屋市2019年9月20日)
https://www.city.nagoya.jp/kankobunkakoryu/page/0000121114.html

この公開質問状は,大浦信行の作品「遠近を抱えて Part II」について,『昭和天皇の肖像写真を、意図的にバーナーで燃やした上で、その灰を靴で踏みつける動画作品』で,『天皇の肖像写真を明らかに冒とく・陵辱する暴力的なモチーフの作品』と説明した。そして,作品の具体的な場面について,当時,YouTubeで公開されていた動画から静止画を切り取り,その画像2点を掲載している(引用元の動画は,公開質問状にYouTubeの共有URLが示されているが,2021年の現時点では,著作権侵害の申し立てがあったという理由で削除されており確認できない)。

ただし,その2点の画像のうち,昭和天皇の肖像写真を含んだ印刷物が『バーナーで燃やされる』と注釈をつけた画像では,わざわざ天皇の姿が黒く上塗りされており,『(肖像部分黒塗り)』と説明がある。これは一体どういうことなのか。公開質問状は,天皇の肖像写真を燃やす行為について,強烈な嫌悪を示しているにもかかわらず,その同じ文書の中で,自ら,昭和天皇の肖像を黒く塗りつぶすという表現を行っている。焼却するのは冒とくだが,黒塗りはそうではないのか。

一方,私は,1994年に川崎市市民ミュージアムで開催された「ファミリー・オン・ネットワーク」展において,天皇と皇族の肖像に目線(目隠し線)をほどこした画像を制作して検閲にあったが,それでは,目だけではなく肖像全体を黒く塗りつぶしていたら,検閲を回避はできたというのか。

富士ゼロックス事件(artscape アートワード現代美術用語辞典 1.0 執筆者:暮沢剛巳)
https://artscape.jp/dictionary/modern/1198657_1637.html

にわかに理解不可能なこの表現形態について,実際に,昭和天皇の肖像を黒く塗りつぶす行為を実践することで,解き明かしてみようと思う。皆さんも一緒に,天皇の肖像を黒く塗って考えてほしい。

なお,公開質問状は,『公共施設で展示する「芸術」の範疇』を問うていることから,その主体である名古屋市の公共施設「市民ギャラリー栄」において,当の公開質問状の持つ意味について考える本展覧会を開催することにした。

大榎 淳

Facebook、Twitter、YouTubeへの公開書簡。中東・北アフリカの批判的な声を黙らせるのはやめなさい

以下の声明は、「アラブの春」10周年にあたり、複数の団体が、現在中東や北アフリカ地域で恒常化しているプラットーム企業(FacebookやTwitter、Youtubeなど)が反政府運動や人権活動家のSNSでの発信を規制したり排除する事態になっていることに対する憂慮として出されました。いくつかの事例が例示されていますが、これら氷山の一角といわれている出来事だけをとっても非常に深刻です。しかも声明で指摘されているように世界規模で権威主義的な政権が拡大をみせており、中東北アフリカで起きていることはこの地域の例外とはいえないでしょう。私たちがこうした問題を考えるときに大切なことは、プラットーム企業は日本でも多くのユーザを抱えており、またアクティビストにとっても必須ともいえるコミュニケーションのツールになっているという点です。その結果として、プラットーム企業への運動の依存が、プラットーム企業の権威的な価値を支えてしまうという側面があります。FacebookやTwitterで拡散することが確かに運動を多くの人々に知ってもらうための道具として便利であり、そうであるが故に、これらの企業が私たちから隠された場所で、密かに権威主義的な政府と密通して活動家やジャーナリストの自由を奪うことに加担しているという側面を、事実上黙認しがちです。私たちがSNSなどの道具とどのように向き合い、どのように彼らからそのコンテンツ・モデレーターとしての権力を奪い返すかが課題になるでしょう。こうした課題を(これまでの通例ではありがちですが)法に代表されるような公的な規制に服させるかという方向で模索することももはやできなくなりつつあります。なぜなら多くの国もまた権威主義的になっており、法の支配や民主主義は私たちの権利のためには機能しないようになりつつあるからです。SNSの時代に、グローバルなプラットーム企業と権威主義国家の二つの権力に対して私たちの社会的平等と自由を構想するためには、たぶん、これまでにはなかった権利をめぐるパラダイムが必要になると思います。(訳者:小倉利丸)


画像に alt 属性が指定されていません。ファイル名: Arab-spring-10-anniversary-platform-responsibility-post-header-1024x260.jpg Facebook、Twitter、YouTubeへの公開書簡。中東・北アフリカの批判的な声を黙らせるのはやめなさい。

2020年12月17日|午前10時00分

10年前の今日、チュニジアの26歳の露天商モハメド・ブウアジジは、不公平と国家によるマージナライゼーションに抗議しテ焼身自殺し、これがチュニジア、エジプトなど中東や北アフリカ諸国の大規模な反乱に火をつけました。

アラブの春の10周年を迎えるにあたり、私たち、署名した活動家、ジャーナリスト、人権団体は、プラットフォーム企業のポリシーやコンテンツのモデレーション手続きが、中東と北アフリカ全域で、疎外され、抑圧されたコミュニティの批判的な声を黙らせ、排除することにつながることがあまりにも多いことに対して、私たちは不満と落胆を表明するために結集しました。

アラブの春は多くの理由から歴史的な出来事であり、その傑出した遺産の一つは、活動家や市民がソーシャルメディアを使っていかにして政治的変化と社会正義を推し進め、デジタル時代における人権の不可欠な成功要因としてインターネットを確たるものにしたのかということにあります。

ソーシャルメディア企業は、人々をつなぐ役割を果たしていると自負しています。マーク・ザtッカーバーグが2012年に創業者の有名な書簡のなかでで「人々に共有する力を与えることで、人と人とを結びつける役割を果たす」として次のように書いています。

「人々に共有する力を与えることによって、歴史的に可能になったことは、様々な規模で人々の声を聞くことができるようになってきたということです。このような声は数も量も増えていくでしょう。無視することはできません。時間が経てば、政府は少数の人々によって支配されているメディアを介するのではなく、すべての人々によって直接提起された問題や懸念に対して、より一層応答するようになると予想されます」。

ザッカーバーグの予測は間違っていました。それどころか、世界中で権威主義を選択する政府が増え、プラットフォーム企業は、抑圧的な国家元首と取引をしたり独裁者に門戸を開いたり、主要な活動家やジャーナリスト、その他のチェンジメーカーを検閲したり、時には他の政府からの要請に応じて、彼らの抑圧に貢献してきました。たとえば、

チュニジア:2020年6月、Facebookはチュニジアの活動家、ジャーナリスト、音楽家の60以上のアカウントを、ほとんど確証が得られないという理由で永久的に無効化しました。市民社会団体の迅速な反応のおかげで、多くのアカウントは復活しましたが、チュニジアのアーティストやミュージシャンのアカウントはいまだに復活していません。私たちはこの問題についてFacebookに共同書簡を送りましたが、公的な反応は得られませんでした。 シリア:2020年初頭、シリアの活動家たちは、テロリストのコンテンツを削除することを口実に、2011年以降の戦争犯罪を記録した数千もの反アサドのアカウントやページを削除/無効化するというFacebookの決定を糾弾するキャンペーンを開始しました。訴えにもかかわらず、それらのアカウントの多くは停止されたままです。同様に、シリア人は、YouTubeが文字通り自分たちの歴史をいかに消し去っているのかを記録しています。 パレスチナ:パレスチナの活動家やソーシャルメディアのユーザーは、2016年からソーシャルメディア企業の検閲行為に対する注意喚起ののキャンペーンを行ってきました。2020年5月には、パレスチナの活動家やジャーナリストのFacebookアカウントが少なくとも52件停止され、その後もさらに多くのアカウントが制限されています。Twitterは、確認がとれているメディア機関Quds News Networkのアカウントを停止し、同機関がテロリストグループと関連している疑いがあると報じました。この問題を調査するようTwitterに要請しても、回答は得られていません。パレスチナのソーシャルメディアユーザーは、差別的なプラットフォームポリシーについて何度も懸念を表明しています。 エジプト:2019年10月初旬、Twitterはエジプトでのシーシー政権抗議デモの噴出を直接受けて、エジプトと国外にに住む離散エジプト人反体制派のアカウントを一斉に停止しました。Twitterは2017年12月に35万人以上のフォロワーを持つ1人の活動家のアカウントを一時停止し、そのアカウントはいまだに復活されていません。同じ活動家のフェイスブックのアカウントも2017年11月に停止され、国際的な介入を受けて初めて復活しました。YouTubeは2007年以前に彼のアカウントを削除しています。

このような例はあまりにも多く、これらのプラットフォームは彼らのことを気にかけておらず、懸念が提起されたときに人権活動家たちを保護できないことが多く、このことは、中東北アフリカ地域とグローバル・サウスの活動家やユーザーの間で広く共有されている認識となっています。

恣意的で透明性のないアカウントの停止や政治的言論や反対意見の言論を削除することは、非常に頻繁かつ組織的に行われるようになっており、これらは一回だけの事でもなければ自動化された意思決定のなかで生じる一過性のエラーだとは言い切れません。

FacebookやlTwitterは、(特に米国と欧州の)活動家や人権団体といった民間の人権擁護者の世論の反発に迅速に対応する一方で、ほとんどの場合、中東北アフリカ地域の人権擁護者への対応は十分とはいえません。エンドユーザーは、どのルールに違反したかを知らされていないことが多く、人間のモデレーターに訴える手段が提供されていません。

救済と改善は、権力にアクセスできる者や声を上げることができる者だけの特権であってはなりません。こうした現状を黙認することはできません。

中東北アフリカ地域は、表現の自由に関する世界で最悪の記録を保持しており、ソーシャルメディアは、人々が繋がり、組織化し、人権侵害や虐待を記録するのを支援する上で重要であり続けています。

私たちは、抑圧されたコミュニティでの語りや歴史への検閲や削除に加担しないよう強く求め、地域全体のユーザーが公平に扱われ、自由な自己表現ができるようにするために、以下の措置を実施するよう求めます。

・恣意的・不当な差別を行わないこと。地域の利用者、活動家、人権専門家、学者、中東北アフリカ地域の市民社会と積極的に関わり、異議申し立てへの検証を行うこと。政策、製品、サービスを実施、開発、改訂する際には、地域の政治的、社会的、文化的な複数の文脈やニュアンスを考慮しなければなりません。 ・中東・北アフリカ地域における人権の枠組みに沿った文脈に基づいたコンテンツのモデレーションの決定を開発し、実施するために、必要となる地域や地域の専門知識に投資すること。 最低限必要なのは、アラブ22カ国の多様な方言やアラビア語の話し方を理解しているコンテンツ・モデレーターを雇うことでしょう。これらのモデレーターには、安全かつ健全に、上級管理職を含む仲間と相談しながら仕事をするのに必要なサポートが提供されるべきです。 ・コンテンツの修正の決定が、疎外されたコミュニティを不当に標的にしないために、戦争や紛争地域から発生した事例に特別な注意を払うこと。例えば、人権の誤用や人権侵害の証拠となる文書は、テロリストや過激派のコンテンツを広めたり賛美したりすることとは異なる合法的な活動です。テロリズムに対抗するためのグローバル・インターネット・フォーラムへの最近の書簡で指摘されているように、テロリストや暴力的過激派(TVEC)のコンテンツの定義と節度については、より透明性が必要です。 ・Facebookが利用できないようにしている戦争・紛争地域で発生した事件に関連する制限付きコンテンツは、被害者および加害者に責任を問おうとする組織にとって証拠となる可能性があるため、保存されるべきです。このようなコンテンツが、国際司法当局や国内司法当局に不当に遅延させられることなく提供されるべきです。 ・技術的な誤りに対する公式の謝罪だけでは不十分であり、間違ったコンテンツのモデレーションが修正されなければなりません。企業は、より一層の透明性と告知を提供し、ユーザーに有意義でタイムリーなアピールを提供しなければなりません。Facebook、Twitter、YouTubeが2019年に支持した「コンテンツモデレーションにおける透明性と説明責任に関するサンタクララの原則」は、直ちに実施すべき基本的なガイドラインを示しています。

署名

Access Now

Arabic Network for Human Rights Information (ANHRI)

Article 19

Association for Progressive Communications (APC)

Association Tunisienne de Prévention Positive

Avaaz

Cairo Institute for Human Rights Studies (CIHRS)

The Computational Propaganda Project

Daaarb — News — website

Egyptian Initiative for Personal Rights

Electronic Frontier Foundation

Euro-Mediterranean Human Rights Monitor

Global Voices

Gulf Centre for Human Rights, GC4HR

Hossam el-Hamalawy, journalist and member of the Egyptian Revolutionary Socialists  Organization

Humena for Human Rights and Civic Engagement

IFEX

Ilam- Media Center For Arab Palestinians In Israel

ImpACT International for Human Rights Policies

Initiative Mawjoudin pour l’égalité

Iraqi Network for Social Media – INSMnetwork

I WATCH Organisation (Transparency International — Tunisia)

Khaled Elbalshy, Editor in Chief, Daaarb website

Mahmoud Ghazayel,  Independent

Marlena Wisniak, European Center for Not-for-Profit Law

Masaar — Technology and Law Community

Michael Karanicolas, Wikimedia/Yale Law School Initiative on Intermediaries and Information

Mohamed Suliman, Internet activist

My.Kali magazine — Middle East and North Africa

Palestine Digital Rights Coalition, PDRC

The Palestine Institute for Public Diplomacy

Pen Iraq

Quds News Network

Ranking Digital Rights

Dr. Rasha Abdulla, Professor, The American University in Cairo

Rima Sghaier, Independent

Sada Social Center

Skyline International for Human Rights

SMEX

Soheil Human, Vienna University of Economics and Business / Sustainable Computing Lab

The Sustainable Computing Lab

Syrian Center for Media and Freedom of Expression (SCM)

The Tahrir Institute for Middle East Policy (TIMEP)

Taraaz

Temi Lasade-Anderson, Digital Action

Vigilance Association for Democracy and the Civic State — Tunisia

WITNESS

7amleh — The Arab Center for the Advancement of Social Media

出典:https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/facebook-twitter-youtube-stop-silencing-critical-voices-mena_jp/ 英語原文:https://www.accessnow.org/facebook-twitter-youtube-stop-silencing-critical-voices-mena/

付記:下訳にhttps://www.deepl.com/translatorを使いました。

学術会議と憲法あるいは学問の自由について

以前このブログに書いた学術会議への批判に対して、いくつか批判をいただいた。批判のひとつひとつについて逐一答えるというよりも、前回のブログで書けなかったことを書くことで、たぶん私の答えになると思う。

(1)学術会議と憲法の学問の自由について

菅による学術会議のメンバー任命拒否が、憲法の学問の自由の侵害だという主張がある。しかし、まず学術会議という組織は憲法の学問の自由とどのような関係にあるのかをみるべきだろう。学術会議は、憲法の学問の自由の権利を擁護し、この自由の枠組みに対する政府による介入から学問の自由を防衛するような役割を担うものとなっているのだろうか。

そもそも学問の自由とは何か、について憲法では最小限のことしか語っていない。この最小限の規定しかされていないことが実は自由にとって本質的に重要な意味をもつ。学問の自由は憲法23条に独立した条文として掲げられている。

第23条 学問の自由は、これを保障する。

いわゆる「国民の権利」の諸条文、12条、13条、22条、29条はいずれも「公共の福祉に反しない限り」など「公共」の制約が明記されているが、23条は19条、20条、21条とともに、この限定がない。「国民の権利」に関する条文は、意図的に「公共」という制約を課した条文と、この制約を課していない条文とにはっきり分れている。

23条に「公共の福祉に反しない限り」といった制約がないということを積極的な意義としてとらえる必要がある。このシンプルな条文のシンプルさは非常に重要だ。憲法学者や政治学者の議論は別にして、この国の為政者たちが「公共」を国益と同義とする現実は特殊なことではなく資本主義社会の権力のあり方一般にみいだされる傾向である。この国益=「公共」の支配的な用法を前提にして言えば、学問の自由や21条の集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由が、「公共」という制約のない条文になっているという意味は、国益=「公共」に反することがあってもよい、ということが積極的に含意されているとみなければならないだろう。そうでなければ、そもそも「公共」という文言を意図的に外した意義が失なわれる。とすれば、問題は、どのように「公共」から逸脱すべきなのかということになるが、言うまでもなく、国家が規定する「公共」に反しつつも、そのほかの憲法が保障する自由の権利と抵触すべきではなく、より積極的に言えば、これら自由の権利を拡張するような性質のものとして、学問の自由は権利として保障されるべきだ、ということでなければならないだろう。ヘイトスピーチやレイシストが言論の自由などをもちだしたり、あるいは学問の自由を口実に軍事安全保障や自由を抑圧する監視技術の研究を行う自由の主張は、自由の本来の意味には含まれない。個人としての尊重と、人種、信条、性別、社会的身分又は門地、政治的、経済的又は社会的関係において、差別を肯定しない社会的平等としての自由のための学問の自由であって、だからこそ、自由と深く関わる領域で制度や組織を置くことは自由の防衛になるとは必ずしもいえないのであって、むしろ、個々の研究者が組織や制度に依存することなく、政府が支配的なイデオロギーとして掲げる「公共」に抗う権利を行使できることこそが学問の自由にとって重要な意味をもつものだと言わなければならない。

同時に、自由という概念と、憲法すらそのなかに含まれる統治の規範や制度は、どのようなものであれ自由を制約する、ということも忘れられがちだ。絶対自由というものがありうるとすれば、一切の制度や規範が存在しない状態でなければ可能とはいえないが、こうした意味での絶対自由は、人間が社会を構成せざるをえない以上、少なくとも私の想像できる範囲では、実現不可能だ。制度や規範は人間の集団にとって不可避である。しかし、そうだとして、自由との関係でいえることがあるとすると、最大限の自由を確保するためには、規範や制度は少い方がいい、ということになる。資本主義社会では、新自由主義を規制緩和だから規範や制度を削減する「自由主義」的な発想だと見なすが、これは間違っている。新自由主義は国家の制度を市場の制度に置き換える立場であって、制度や規範の縛りが「減る」わけではなく、国家の代りに市場が人々の自由を縛る、自由を縛る縛り方が変るだけのことだ。

さて学術会議だが、学術会議もひとつの制度であり、上の原則を当てはめれば、存在するより存在しない方が自由の幅は拡がる、ということになる。しかし、本当に存在しない方が自由の幅を拡げることになるのだろうか?このことを検証するためには、学術会議のルールと学術会議がやってきたことを検証しなければならないだろう。学術会議が権利として憲法が保障する自由の権利を拡げる役割を果してきたのだろうか。前に書いたように、少なくとも、私自身の利害に関することでいえば、学術会議は、私の教育と学問の自由とはあいいれない立場をとった「大学教育の分野別質保証のための 教育課程編成上の参照基準」(以下参照基準と書く)を文科省に提出したという点だけでも、私個人にとっては学問の自由を制約する組織だと言わざるをえない。

(2) 学術会議は学者の「国会」ではない

私が参照基準問題を重視するのは、単に、私個人の問題というわけではないことは前にも書いたが、そこに書かなかったことを補足したい。参照基準が決定されて文科省に提出されるプロセスそのものに問題があったと思うのだ。参照基準は全ての大学教育に利害関係のある人々に関わる問題である。にもかかわらず、私の知る限りでは、参照基準の決定にこうした利害関係者の合意をとるという手続きがとられたことはない。

大学教育の利害関係者とは、大学で教育を担当する常勤、非常勤を問わず、すべての教員、研究者、職員を意味するだけでなく、あえてネオリベラリスト風に言えば「教育サービス」の受益者でもある学生もまた重要な利害関係者であることは言うまでもない。大学教育のカリキュラムはこうした人々全てに関わる問題であるにも関わらず、圧倒的多数の教員と全ての学生がこの参照基準の議論に関与しておらず、合意形成の枠組のなかにもいなかった。

「朝日新聞」10月1日では

「日本学術会議は、人文・社会科学や生命科学、理工など国内約87万人の科学者を代表し、科学政策について政府に提言したり、科学の啓発活動をしたりするために1949年に設立された。「学者の国会」とも言われる。」

というふうに学術会議の性格を規定している。NHK10月2日の報道も「「学者の国会」日本学術会議 6人の任命求め総理宛に文書提出へ」という見出しだ。しかし、学術会議を国会にたとえることが妥当なような選考方法は、法律にも下位の規則などでにも規定されていない。朝日は87万人というが、このなかには誰が含まれているのか、どのようにして代表を民主的に選考していうのか、といったことを理解して書かれた記事なのか。後に再度言及するが、代表選考にふさわしい選出方法にはなっていないと思う。このように書くと、学術会議を政権の思いのままにしたい菅政権や学術会議批判を繰り返す右派メディアやネトウヨの思う壺だと思う人たちもいるだろうが、わたしはそうは思わない。彼らは文字通りの意味での利害関係者全体による合意形成の民主主義など欲していないからだ。しかし、他方で、文字通りの民主的な手続きをとれば政権に批判的で民主的な研究者が選ばれるとも思わない。大学全体が保守化して企業や政府とのパートナーシップを積極的に受けいれる体質が強くなっているなかで、むしろ逆になる可能性のほうが高いが、そうした政権や保守派に有利な状況であっても官僚のコントロールが難しい民主主義を政権は好まないと思う。こうした問題も含めて、学術会議が文字通りの意味で学問の自由、市民運動や左派の目指す社会の実現に寄与するような団体であるのかどうかという評価を棚上げにして、任命拒否の一点に焦点を絞る運動方針を市民運動の方針とはしてとってほしくないと思う。むしろ、産官学一体化に学術、研究を包摂するための装置となってきた学術会議への批判的な評価をきちんと出すべきだと思う。学術会議の一部には私にとっても共感できる研究もあることを承知している。しかし、こうした「リベラル」な研究が学術会議という枠組みのなかに位置づけられることによって、逆に学術会議がリベラルを装うイデオロギー装置(文化のヘゲモニー装置と言う方が妥当かもしれない)として機能してしまい、リベラルを巻き込みながら、保守的あるいは政権寄りの学術研究政策の正統性を支えてしまうことになっているとも思う。「リベラル」な研究が学術会議のなかになければ実現できないわけでもなく、市民向けの社会教育ができないわけでもない。

常勤の教員ですら、学術会議のガバナンスの民主主義的な関与が不明確と私は思うが、そうであれば非常勤の教員はますます学術会議への関与の回路は閉ざされている。そして学生については学術会議はおろか今に至るまで大学の教育に対して「教育サービス」の受益者としての権利(消費者の権利といってもいい)すら獲得しえていない。教育の基盤を支える職員なしに教育と研究ができるわけもない。大学教育の直接の利害関係者の参加ができていない反面、菅政権が学術会議を批判するときには、民間研究機関などの研究者の参加を促すことが主眼であって、ガバナンスの民主主義的な意思決定には後ろ向きだ。

上述したように、ガバナンスが民主的になろうが、政府からの独立性が担保されようが、自由の本質からすれば、学術会議という組織の存在は自由を狭めるものでしかない。どのように合意形成が民主的に制定されようと、独立の装いのもとで、実際には一人の研究者、教育者としての自由を制約するような活動をせざるをえない限りは、学術会議は自由を制約する組織でしかない、とみなさざるをえない。

(3) 学術会議の独立はどのような選択肢をとっても不可能であり、かつ個々の研究者にとっては不必要でしかない

学術会議法3条に「日本学術会議は、独立して左の職務を行う」とあり、これが学術会議の独立性を法的に定めたものとして、政府の介入を不当あるいは違法とする根拠とみなされているように思う。しかし、個々の研究者、教育者の独立性を権利として保障するものにはなっていない。4条では、政府の諮問、5条では政府への勧告が定められており、これらの条文が「独立」の意味を制約している。独立しつつも政府との関係のなかで仕事をする機関という位置づけになっているのだ。

実は、そもそも学術会議法の前文が問題である。前文は次のようになっている。

「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。」

いいことが書かれていると誤解されそうな文言だが、「科学が文化国家の基礎である」などという文言は受け入れがたい。私の研究も教育も「文化国家の基礎」としての科学という枠組みのなかにはないし、そうあるべきとも思わない。この前文では、科学は、もっぱら文化国家の正統性のために奉仕することが想定されており、このこと自体が、個々の教育者、研究者の自由を縛るものであり、民衆のための科学という観点が皆無だと思う。また、「わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献」するなどという文言は、歴史的にみても、口当たりのよい内実の伴わない文言だとは理解されずに国策に従属する研究者を排出するための口実につかわれてきた、と思う。資本主義の日本が平和復興や人類社会の福祉に貢献できる体制だという前提を置くこと自体に疑問を持つことが学問の自由の基本だと私は思う。前文のような口当たりよく聞こえがいいが国家を中心に据える文言が、個々の研究者、教育者の自由を縛り、国益に従属させるものになってきた思う。

「平和」を否定するのか、と言われそうだが、平和という言葉ほど平和から遠い言葉はないとつくづく思う。「平和維持軍」のような平和と軍がひとつの熟語のなかに共存していたり、核の平和利用としての原発の容認(これが学術会議の伝統的なスタンスだ)とか、人道的介入という名の武力行使とか、現実の戦争や軍事安全保障がいかに平和を乱用してきたか、ということは経験済みではないかと思うのだ。研究者がまず疑問に付すべきなのは、このような紋切り型の「平和」とか「文化」とか「国家」を科学によって正当化しうるかのような言説そのものである。国家が科学によって基礎づけられたことなどあったためしがない。同様に文化も科学によって基礎づけられることなどありえない。国家も文化も、そして「文化国家」なる奇妙な概念も、いずれもが多かれ少なかれイデオロギー装置なしにはその正統性を維持・再生産できないということを考えれば明らかなように、「科学」は不合理で科学的に説明しえない権力の正統性をあたかも論理的に説明しうるかのように偽装するために利用され、その結果として、研究者も教育も国策に利用されてきたし、今もそうだ。このような前文に学術会議がどれほど規定されているのかはまた別の問題であるにしても、こうした理念そのものが学問の自由を縛るものだと思う。

そして前文にある「科学者の総意の下に」という文言が、たぶん今回の任命騒動でも問題にされるべきことだと思う。「総意」の確認手続きがどのように担保されているのか、私には理解できない。参照基準のように教育の内容にまで踏み込むのであれば、その利害当事者をきちんと合意形成に含めるべきだろうし、総意というのであれば、内閣総理大臣の任命以前に科学者の総意を確認する手続きをとるようなルールが存在しなければならないと思う。市民運動は、「総意」に含意されている内実をきちんと原則に沿って確認することから政権の対応を批判してほしいと思う。「総意」問題は組織のガバナンスと民主主義にとっての死活問題で、このことは市民運動が組織の意思決定の民主主義をどれだけ重要な問題とみなしているかの試金石だと思う。ここで右翼や政権に足を掬われることを危惧して沈黙してはいけないと思う。

現行の学術会議が政府機関と位置づけられていることへの批判として、文字通りの独立機関にすべきだ、という意見がある。たとえば東京新聞12月4日は井上科学技術担当大臣の発言を報じている。

「井上信治科学技術担当相は4日の記者会見で、日本学術会議について国からの切り離しを求めたことについて「各国のナショナルアカデミーが独立した形をとっており参考にしてほしい」と述べ、海外の事例を参考に会議側に検討を要望したことを明かした。一方で「日本のナショナルアカデミーとしての機能を維持したい」との会議側の要請については「私も賛成だ」とし、その機能を維持した上で切り離しを模索するよう求めたとも話した。」

私はいかなる意味での独立、切り離し論にも反対だ。いわば民営化のような措置だが、学術会議が民間機関化すれば必ず、学術会議は映倫のような自主規制組織になり、なおかつ国の機関ではないために、人々の権利の及ばない組織になる。独立化によって、ますます一般市民であれ利害関係者であれ、民主主義的なコントロールの及ばないブラックボックスとなるから、容認できない。他方で、現状のような国の機関という位置付けであれば、政府の直接の影響を免れることはほぼ絶望的だと思う。いずれであっても、政府は、教育と研究を支配するための文化的なヘゲモニー装置として学術会議に対する権力作用を維持できるだろう。

自由のためには制度は少ない方がよく、代替の制度も不要だという自由の原則からすれば、学術会議はなくした方がよく、それ以外の選択肢は思いつかない。その結果として大方の研究者や学生が不便であったり自由を侵害されることにはならない。そもそも圧倒的多数の研究者や学生にとっては意思決定に参加できる回路が存在しないのだから。

(4) 学術会議の提言と現実の間の乖離

日本学術会議の意義として引き合いに出されるもののひとつに2017年に出された「軍事的安全保障研究に関する声明」がある。たった1ページの簡素なものだ。冒頭で

「日本学術会議が 1949 年に創設され、1950 年に「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を、また 1967 年には同じ文言を含む「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を発した背景には、科学者コミュニティの戦争協力への反省と、再び同様の事態が生じることへの懸念があった。近年、再び学術と軍事が接近しつつある中、われわれは、大学等の研究機関における軍事的安全保障研究、すなわち、軍事的な手段による国家の安全保障にかかわる研究が、学問の自由及び学術の健全な発展と緊張関係にあることをここに確認し、上記2つの声明を継承する。」

と宣言し、より具体的には防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」への危惧が表明されている。

「防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015 年度発足)では、将来の装備開発につなげるという明確な目的に沿って公募・審査が行われ、外部の専門家でなく同庁内部の職員が研究中の進捗管理を行うなど、政府による研究への介入が著しく、問題が多い。学術の健全な発展という見地から、むしろ必要なのは、科学者の研究の自主性・自律性、研究成果の公開性が尊重される民生分野の研究資金の一層の充実である。」

この学術会議の声明は実際には効果を発揮していないと思う。防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」に対しては今年度120件もの応募があり、21件が採択されている。この制度は「防衛技術にも応用可能な先進的な民生技術、いわゆるデュアル・ユース技術を積極的に活用することが重要」として設置されたものだ。研究の採択審査にも多くの研究者が参加しており、採択された研究がどのような軍事技術への転用が可能なのか部外者には非常にわかりにくい。

学術会議はこの宣言のフォローアップ報告『「軍事的安全保障研究に関する声明」への研究機関・学協会の対応と論点』を今年8月に公表するが、上述のように、実際に応募されているケースがあり、この防衛装備庁の採択審査に協力している研究者が多数いるにもかかわらず、こうした研究に応募した研究者、研究機関に対する有効な歯止めのアクションはとれていないように感じる。学術会議は、宣言の一定程度の効果を評価しているが、果してそういえるのか、120件もの応募が実際にあったことを過少評価していないだろうか。こうした学術会議の動向は学術会議の限界でもあると思う。

学術会議は、高邁な理想を提言に盛り込みつつ実際には、その理想を実現できないどころが実現する積りがあったんだろうか、というケースもある。以下は、もはや「時効」かもしれないような半世紀も昔の話だ。

学術会議には「勧告」という制度がある。ここ10年一度も勧告は出されていない。勧告とは「科学的な事柄について、政府に対して実現を強く勧めるものです」と説明されている。 提言などよりもより強い主張ということだろう。

1969年5月10日に「大学問題について(勧告)」が出される。そのなかに「学生の権利の確認について」という項目があり、「学生に対しては、憲法、教育基本法の保障された権利を認め、さらに大学における学生の地位にかんがみ、一定の方式で大学の運営に参加させるべきである」と明記されている。また「大学問題についての中間報告草案(抜すい)」では、更に踏み込んで「学生は、教職員とともにそれぞれ固有の権利と義務をもって大学を構成するものであり、大学の自治に参加すべきものであろう」と書かれている。学術会議は学生運動の暴力の表面的な現象に拘泥している面もあり、その背景をなしている教育の問題を捉えそこねているところもあるが、この勧告では学生を単なる受け身の存在とはみなさず学問、研究の主体の一翼を担うべきものとした。この点を学術会議もこの国の研究者たちもすっかり忘れてしまっている。そして私も今回、このような出来事がなければ把握できなかったことでもある。現代の大学がいかにおおきく後退してしまっているかを改めて実感させられる。学術会議はこうした勧告を出しながら、それをほぼ完全に反故にしたといえるのではないか。大学の教員の大半がこうした学生、職員の管理運営への参加に否定的だったということだろうし(私自身も学生の大学運営への参加を積極的に主張してこなかった)、このスタンスを学術会議もまた受け入れてきたとしか解釈のしようがない。市民運動が問題にすべきなのは、こうした大学をはじめとする高等教育と学者の「国会」を標榜する学術会議の実態が学問の自由をはじめとする自由の権利に値する制度なのかどうかでなければならないと思う。大学の管理運営問題では、教授会の自治への関心は強いのだが、非常勤の教員や学生、職員も含めた教育、研究に関わる全ての人々の平等な参加の可能性についての議論はほとんどされてきていない。国立大学では人事権は教授会から奪われ、大学経営に外部の理事が参加するが、地域社会の多様性はほとんど反映されず、もっぱら企業、財界の有力者ばかりが経営に影響力を行使できるような制度になってしまっている。半世紀前の問われた問題は、こうした文脈のなかで、社会的平等を基礎とした自由の問題として想起されてよいと思う。

他方で学術会議が着実に成果をあげ、積極的に取り組んでいるように思えるものもある。たとえば以前言及したように、安倍政権が目玉のひとつとして打ち出したSociety5.0には繰り返し肯定的な言及がなされている文書が複数あり、また、市民運動のなかでは重要な課題となっているマイナンバーなどのプライバシー侵害の技術についても批判よりも推進の立場が目立つ。原発についても容認の立場が目立つ。どのようにみても市民運動の方向性とは対立する政権や財界の路線を踏襲するスタンスの提言について、不問に付すべきではないと思う。それぞれの運動の課題との関連のなかで厳しく評価すべきだ。任命拒否反対、全員を任命せよという運動の方針では、とりあえず問題を棚上げにすることになってしまうのでは、と危惧する。本当にこれでいいのだろうか、と思う。

学術・研究の分野は、総じて保守的で政権を支える流れが支配的な存在になっていることを見落してはならない。学問・研究の自由は、こうした支配的な流れに抗して、右翼レイシストの自由の概念の簒奪に抗して、憲法が保障した基本的人権を実現するための自由の領域でなければならないが、こうした立場は明らかに少数になりつつあり、周辺に追いやられざるをえない存在だ。自由を希求するが故に、常勤のポストを得られない多くの研究者がいる。学生も院生も将来の就職を人質にとられて自由な研究ができないだけでなく、そもそもの基本的な意思決定の権利を大学や研究組織のなかで保障されていない。学術会議にこうした原則的な自由の擁護者を期待できない。たとえ全員が任命されようとこれまでの学術会議が果してきた文科省や政府の政策を補完する役割が覆されることなど到底ありえないと思う。

学術会議に市民運動は、それぞれの目指す運動の課題の実現との関連で期待することが本当にできるのか、あるいはそうすべきなのか。反戦運動や反基地運動などの平和運動、反原発運動、反監視運動などのスタンスの原則からきちんと批判しないといけないのではないか。批判することで市民運動が失うものなど何もないはずだ。市民運動は、教育や学問の問題でも原則を見失わないでほしいと切に願う。

日本学術会議は擁護すべき組織ではない、と思う。社会的不平等のなかでの自由は欺瞞である。

日本学術会議の会員選考で菅が任命拒否したことから、安倍政権に反対してきた市民運動や野党が105名全員の選任を求めて抗議運動が起こっている。菅が任命拒否の理由を言わず、その不透明さから、学問の自由を守れという主張もともなって、いつのまにかに日本学術会議が学問の自由の砦であるかのような間違った印象をもつ人たちが増えたと思う。以下に書くことは珍しく私の経験を踏まえた話になる。

学術会議による大学教育の品質保証制度づくり

私が日本学術会議を意識したのは、2008年に文科省高等教育局が学術会議に対して大学教育の分野別質保証の在り方について審議依頼し、学術会議はこれを受けてたぶん10年以上かけて質保証なるものを審議してきた頃だ。学術会議は大学教育の分野別質保証委員会を設置して、大学教育の科目別に教育の質を確保するためにどのような教育を行うべきかという「基準」作りを開始した。大学の教育もモノ同様、品質管理の対象になったわけだ。

その後、各分野ごとに「大学教育の分野別質保証のための 教育課程編成上の参照基準」なるものが作成される。私は経済学の教育に携わってきたから経済学の教育課程編成上の参照基準に注目せざるをえないかったが、この参照基準を読んで、絶望的な気分になったことを今でもよく覚えている。この参照基準に書かれている経済学の定義から教育内容まで、私が基本的に考えてきたことと一致するところはほぼない。私はかなり異質な「経済学」の教育者だったという自覚があるので、特殊私個人がこの参照基準から逸脱しているというのならまだしも、この参照基準は経済学の重要ないくつかの流れを排除していることは経済学の事情をある程度理解できている者にははっきりわかる。つまりマルスク経済学や諸々の批判的経済学の基本的な経済に対するスタンスはほぼ排除されている。この排除は偶然ではない。意図的に排除したと思う。なぜなら、経済学分野の専門家が文科省の意向を汲んで作成した基準だから、学説の動向を知らないことは絶対にありえないからだ。つまり、確信犯として資本主義に批判的なスタンスの学説を排除したというのが私の判断だった。学術会議とはこうしたことをやる組織なのだという確信をもった。

学術会議の参照基準は学問の自由を奪った―経済学の場合

参照基準がいかに間違っているか、ひとつだけ例を示す。参照基準の冒頭で経済学の定義が以下のように書かれている。

「経済学は、社会における経済活動の在り方を研究する学問であり、人々の幸福の達成に必要な物資(モノ)や労働(サービス)の利用及びその権利の配分における個人や社会の活動を分析するとともに、幸福の意味やそれを実現するための制度的仕組みを検討し、望ましい政策的対応の在り方を考える学問領域である。」

私は「物資(モノ)」とは書かない。商品と書く。「労働(サービス)」とも書かない。労働力あるいは<労働力>と書く。幸福実現の制度的枠組みなどということは、批判的な言及はしても、これを肯定的な課題とはしない。政策的対応も論じない。政治家ではないからだ。論じるとすれば政策対応なるものへの批判は論じるだろう。わたしたがネガティブなのは資本主義の経済システムでは幸福は実現できないという確信があり、政策対応で問題が片付くような問題が資本主義の経済の問題なのではない、からだ。上のような定義では学問なのか霞が関の官僚の仕事なのかさっぱりわからない。このような教育をわたしはしてきたことはないし、するつもりもない。

物資なのか商品なのか、労働なのか<労働力>なのか、これは単なる言葉の言い換えの問題ではなく、定義が異なるのだ。「物資」と「商品」は同じではない。労働と労働力も同じではなく、更に労働力と<労働力>も異なる概念だ。概念の違いは、社会認識の違いだけでなく、理論の内容の違いをもたらす。「物資」は市場経済(商品経済)という特殊な経済システムのなかでのみ商品という社会的性格を帯びる。商品も「物資」も見た目は同じだが、社会制度の前提が異なることによって、機能・性質が異なるのだ。この違いが非常に重要だ。というのは「物資」の価値と商品の価値は、同じ「価値」という言葉を使っても内容が異なることになるからだが、この本質的に重要な観点を、参照基準の定義はすべて無視した。物資と商品、この二つを同じものとみなすことは、市場経済とそれ以外の「物資」を商品としない経済との間の差異を無視するだけでなく、市場経済を唯一の経済、つまり人類はそこから逃れることのできない経済とみなす最初の一歩になる。資本主義を肯定するというイデオロギーに無自覚な経済学の主流の価値観をこの参照基準の定義はあからさまに示している。

労働と労働力の概念の違いについてはどうか。この二つの違いは、資本の利潤の根拠を説明する場合の基本をなすというのがマルクスの経済学批判としての経済学が主張した考え方だ。この考え方を否定する学派は、労働力と労働を区別しない。(なお<労働力>という括弧付きの労働力は、私のオリジナルなので、この概念を今あれこれ説明しない) 支配的経済学は、この二つの混同をそのままにすることによって、資本の利潤の根拠を企業家の努力とか市場価格の変動とか、いずれにせよ人々が資本の支配下で労働するという問題と切り離す理論を構築してきた。これが生存を二の次にする資本主義を正当化する経済学のスタンスであって、このスタンスを鵜呑みにするメディアが感染対策か経済か、という二者択一を当然のようにして持ち出すことを正当化してしまったのだ。批判的な経済学は、生存を犠牲にする経済をきちんと批判する観点を出すことが可能なのに、こうした経済などはそもそも想定外ということになる。(わたしの政治経済学の授業で受講生に配布したプリントがここで公開されている。2025年5月14日付記)

人々の幸福の達成が経済学の重要な意義であるという観点は、市場経済が人々の幸福を実現できるという前提を置いた議論だが、「幸福」が経済の目的になっているのが現代の市場経済、つまり資本主義なんだろうか。私は、資本主義経済(参照基準では、この歴史的なシステムとしての資本主義という用語ですらたった2回だけ、おずおずと仕方なしに用いているにすぎない)の基本を資本による最大限利潤を追求することに動機づけられたシステムとして位置付け、資本主義的な幸福を市場経済の商品と貨幣の物神性=イデオロギー作用とみなすので、幸福を真に受ける「定義」はとうてい受け入れがたい。つまり社会運動の活動家にとっては常識になっている利潤ありきの資本主義は経済学では幸福実現となるわけだ。

参照基準への異論は、様々な学会から出された。経済理論学会のサイトにあるだけでも12の学会が意見書や要望書を出し、シンポジウムも開催された。私はそもそも学会に所属していないので、こうした動きの外野にしかいなかったが、はっきりと自覚したことは、この参照基準が将来大学の教育カリキュラムを縛るある種の「学習指導要領」のような効果を発揮する危険性がありうるのではないか、ということと、大学の人事もまたこの参照基準を念頭に置くことになりかねず、多様で広範な研究分野や学説が排除される方向で作用するだろう、ということは現場で人事を担当することもあった身としては切実に実感した。経済学の参照基準に比べて歴史学の参照基準は相対的に「マシ」であるが、それでもひどい代物だと思う。日本史には近現代史がすっぽり抜けているから、植民地支配や戦争責任、「慰安婦」問題や強制連行などの歴史修正主義者たちとの争点になっている重要なテーマは何ひとつ言及されていない。これで「マシ」な方だと言わざるをえないわけだが、菅政権はそれですら満足していないということのメッセージが今回の任命拒否の「意味」だと思う。

身分制度と差別選別の教育・研究システムのどこにも自由はない

学術会議の任命拒否は、参照基準のような作業の先にある学術会議を利用した教育と研究への管理強化だろう。学習指導要領のようなものを文科省はトップダウンで作成するのではなく、国の組織でもある学術会議を使って作らせようというねらいがあことはほぼ間違いないと思う。

本来多様な教育をひとつの物差しで枠に嵌めようという参照基準=大学の学習指導要領は、結果として、大学や研究の自由を奪うことになると思う。そもそも参照基準など不要である。これを必要としているのは、教育の標準化によって管理しやすい研究教育環境を作りたいという文科省の利権だけであり、なぜ学術会議はこうしたすべきではない作業を引き受けたかというと、学術会議が法で定められた国の機関だからだ。学術会議はこうした大学の教育と研究の砦なのではなく、文科省の指示によって大学の画一的な教育管理の手先になっている、というのが私の学術会議理解だ。少なくとも学問研究の自由のために、このような組織は不要だ。学術会議は今回のこの騒動をきっかけに。将来必ずやより一層教育の統制のための組織となることは間違いなく、それは菅が任命拒否したからそうなったのではなく、参照基準を作成するなどという言語道断なことをやった今世紀に入って以降(少くとも私が経験した範囲では)そうなのだ。

たとえば「原子力総合シンポジウム」、これでも学術会議は擁護すべき?

学術会議は反動的な組織なのでもなければ左翼の手先でもないが、しかし、全体としていえば、政府の学術研究動向を反映しており、それは分野によってはかなりはっきりしている。一つだけ例を挙げる。たとえば原子力関連の学術研究では、この9月に公開シンポジウム「原子力総合シンポジウム2020」 を開催してた。その内容を報じた原子力産業新聞の記事 を読めば一目瞭然だが、原発推進派の学会と学術会議がタイアップを組んで温暖化と持続可能な社会を看板にして原発推進の陣形を構築しようとする学会の姿がよくわかる。反原発運動のなかでも学術会議任命問題で任命しろという主張があるようだが、果してそれでいいのか、と思う。むしろ 原子力関連学会がいまだに原子力を否定できていないこと、そして平和利用を口実に原発肯定だけでなく、原発否定の世論に関して「子供の頃から広島原爆の写真を見て、理屈なしに視覚情報で出てくるイメージが不安を巻き起こしていると思う」(前掲、原子力産業新聞記事)などという発言を平気でするような学者まで登場する。反原発運動にとっても学術会議はむしろ運動に敵対する存在でしかないのではないか、と思う。

平等のない教育・学術の世界に自由はない

学術会議のなかには、このように、学会や学術研究が国策と産業界の利権を媒介する有力な「装置」となっている側面があり、そうであるなら、今回の任命105名について、市民運動や社会運動の立場からみて本当に105名がふさわしいのかという評価があってもいいはずだが、なぜか、こうしたことには踏みこまない。学問研究の世界に市民が口出しせずに、専門家信仰が強くなっていることの表れではないか。市民運動の勉強会が相互の学びあいよりも、学者や研究者、弁護士などの専門家を呼んで勉強すという悪弊がはびこっているとはいえないだろうか。

学問の自由は制度に支えられてしか実現できない。だから制度が自由を保証するだけの実質を備えているかどうかが重要な要件になる。そもそも学術の世界がその基盤にしている資本主義の教育システムは、教育研究の自由とは何の関係もない差別と選別の制度だということを、市民運動や労働運動はかたときも忘れてはならないと思う。

教育の制度のなかで、成績評価を点数でつけることは当たり前であり、試験制度で選別することも当たり前、教員が絶大な権力をもって数値で生徒、学生を評価し、序列をつける。この選別と差別を前提に、労働市場に<労働力>として学生たちが投入される。学歴社会の再生産の構造だ。高等教育はこの差別と選別の制度の頂点にあって、さらに大学は助教、准教授、教授という身分制度を研究者としての業績などで正当化する仕組みになっている。公害を告発した宇井純や京大原子炉実験所の反原発4人組の人たちは優れた業績にもかかわらず助手(助教)のままだったように、プロモートと研究へのスタンスや問題意識は切り離すことのできない権力構造のなかにある。こうした身分制度は、研究費や研究環境にも影響する。日本の研究環境にとって科学研究費はその最大のアメとムチになっているが、研究費を有利に獲得しようと思えば国の政策の動向を無視できないという分野は自然系だけでなく人文社会系でもある傾向だろう。そして理系をはじめ多くの分野では、教員の任期制が導入されることによって、更に研究が国や企業から大学の方針によって左右しやすくなっている。深刻なのは、常勤の研究者・教員にはカウントされない非常勤の教員が膨大な数存在して大学の教育を支えていることだ。優れた研究をしながら、その分野や研究のスタンスによってポストを得ることがむずかしいところにいる人を何人も知っている。非常に狭い雇用の枠をめぐって競争を強いられるが、身分制度と学閥や人脈の構造が存在する以上、採用の基準が客観性をもつことは難しいから、志を曲げて研究分野を変更することもありうる。学閥や人脈といった旧態依然とした人間関係に依存した環境があるだけでなく、研究分野によって、あきらかな差別があると思う。これで学問の自由などありえるはずがない。

私も大学で仕事をしてきたので、自己批判なしには書けないことだが、私は試験の評価をせざるをえないことを30年間ずっと違和感をもつことしかできなかったが、だからといってこうした制度と正面から対決することもしてこなかった。入試で1点、2点の差で不合格になる受験生の存在がいることに辛い気持ちを感じても、この制度を問うこともしてこなかった。しかしこうした制度は明かに学問や研究の自由、つまり、自分が学びたい環境へのアクセスの権利を阻んでいるし、学ぶことや研究することについての学ぶ者自身による自己判断や、教える者との相互の平等な関係を一貫して阻害している。点数や単位といった数字のために教員は働くべきではないにもかかわらず、この数値が教育を支配するという転倒した構造が生まれている。学ぶことにとって本来であれば、試験も学位も不要であり、身分制度も不要だ。教える者と教えられる者という関係も常に入れ替え可能な平等な関係のかなでしか自由は存在しない。

学術会議問題とは、任命の是非の問題ではなく、学術会議に体現されているような学問の自由を看板に掲げた教育と研究の構造的な差別と選別、イデオロギーの構造を想起するきっかけにすべき問題なのだ。

学術会議の任命拒否問題で菅に反対するかつての68年世代と出会うことがよくある。そうした世代の人たちにぜひ思い出してほしい。あの時代、大学は解体の対象だったのではないか?大学解体は間違ったスローガンだっかのだろうか?大学に残った私のような(その意味では転向した者というしかないのだが)者ではない道を歩んだあの世代の市民たちが、あの時代に問われた大学と教育が何だったのかをもう一度思い出して欲しいと思う。社会的平等のないところに自由はない。社会的不平等のなかでの自由は欺瞞だということを。

ZOOMによる検閲(米国の大学で起きていること)

米国でZOOMからFB、Yotubeまで関与しての検閲が起きています。以下、訳しました。 日本では報じられていない?バズフィードの記事もありますが、日本語版にはないと思う。大学の学問の自由とかこの国でも話題ですが、検閲は政権からだけ来るのではなく、IT関連の民間企業からも来るということを如実に示した例といえます。ZOOMは大学に喰い込んでいますから、大学のイベントへの検閲を民間の企業が行なえてしまうという問題が米国では議論になっているということですけれども、これだけではなく、大学の外で、私たちが活動するときも、しっかりZOOMやプラットーム企業に監視されつつ、彼らのルールに反すればシャットダウンされ金を貢ぐか個人情報を渡しているという事態は今後ますます深刻になると思います。

以下タイトルのみ。本文はリンク先をごらんください。

https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/zoomfacebookyoutube20200923/

Zoom、サンフランシスコ州立大学でのパレスチナ人ハイジャック犯ライラ・ハーリドの講演をシャットダウン―FacebookやYouTubeも介入

By James Vincent 2020年9月24日午前6時01分EDT

https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/zoomcensorship20201023/

ズーム “検閲” 議論するイベントをズームが削除

ジェーン・リットビネンコ BuzzFeedニュースレポーター 投稿日:2020年10月24日 19時01分(米国東部標準時)

名古屋市文化振興事業団宛の抗議文

名古屋市文化振興事業団が日本第一党愛知県本部主催のイベント、あいちトリカエナハーレ2020「表現の自由展・その後」に会場を貸与した件で、以下のような抗議文を提出しました。


抗議文

名古屋市文化振興事業団

理事長 杉山勝 様

役員の皆様

評議員の皆様

事業運営委員会の皆様

(上記の皆様に回覧をお願いします。もし回覧できないようでしたらご一報ください)

小倉利丸

元表現の不自由展実行委員

2020921

2020926日と27日に、名古屋市民ギャラリー栄において『あいちトリカエナハーレ2020「表現の自由展・その後」』という催しが日本第一党愛知県本部主催で開催されることを知りました。私は、日本第一党が主催するこのイベントに、地方自治体が会場を貸与することは、人種差別主義を黙認(あるいは助長)し、歴史の偽造に加担することに他ならず容認できません。よって、抗議するものです。

私は、昨年、あいちトリエンナーレの招待作家として出展した「表現の不自由展・その後」の当時の実行委員のひとりとして、出品作家たちとともに、深刻なヘイトスピーチの嵐を被った当事者です。今回の催しの開催について、名古屋市民文化事業団の会場貸与の決定に失望せざるをえません。

特に危惧するのは、主催者が、移民と外国人の排斥を主張し、いわゆる「従軍慰安婦」問題をはじめとする日本の戦争犯罪・戦争責任を「自虐史観」として否定することを明確に政策に掲げる日本第一党だという点です。このイベントが結果として人種差別主義を助長することになるのは明らかと考えます。

日本第一党とその党首の桜井誠については、米国のヘイトスピーチに取り組む有力な人権団体のひとつ、Southern Poverty Law Centerがその活動を危惧しており、2019年に公表したレポートでは日本第一党を特集し、その米国の人種差別団体との連携に注視しています。言うまでもなく、米国の人種差別は深刻であり、これに日本第一党が加担する構図があるのです。() 日本第一党の人種差別主義の問題は、名古屋や日本だけではなく、国際的にもマイノリティの人権をめぐる問題となっているということでもあります。国外の人権団体からもヘイトスピーチ団体として認知されつつある日本第一党の行動を軽視すべきではありません。

()Southern Poverty Law Center(SPLC), Intelligence Report, lissue166, 2019 Sprng, p.27-30 https://www.splcenter.org/sites/default/files/intelligence_report_166.pdf 以下も参照。SPLC, White nationalist conference in Tennessee will feature old-school racists and a few new international guests https://www.splcenter.org/hatewatch/2018/06/14/white-nationalist-conference-tennessee-will-feature-old-school-racists-and-few-new

2016年に制定された「本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組の推進に関する法律」(以下ヘイトスピーチ規制法と呼ぶ)は国の法律ですが、その第四条で「地方公共団体は、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消に向けた取組に関し、国との適切な役割分担を踏まえて、当該地域の実情に応じた施策を講ずるよう努めるものとする」、また第七条では「当該地域の実情に応じ、本邦外出身者に対する不当な差別的言動の解消の必要性について、住民に周知し、その理解を深めることを目的とする広報その他の啓発活動を実施するとともに、そのために必要な取組を行うよう努める」として、自治体によるヘイトスピーチに対する取り組みを定めています。また、付帯決議(参議院)では、日本国憲法とともに人種差別撤廃条約を尊重し、ヘイトスピーチによって地域に「深刻な亀裂を生じさせている地方公共団体」に対しては特段に、その解消への努力のための「施策を着実に実施」することを求めています。

ヘイトスピーチ規制法が制定されたとき、名古屋市はホームページで「この法律は、不当な差別的言動、いわゆる『ヘイトスピーチ』は許されないことを宣言し、人権教育と人権啓発などを通じて、本邦の域外にある国又は地域の出身であることを理由として、本邦外出身者を地域社会から排除することを扇動する不当な差別的言動の解消に向けた取組を推進することとしています。」(1)と紹介し、更に今年3月には「なごや人権施策基本方針」(2)を策定し、そのなかでヘイトスピーチは許されないこと、また「差別的な言動(ヘイトスピーチ)の解消に向けた教育・啓発活動に取り組むとともに、現状把握を継続的に行」うことを「施策の基本的方向」(3)として約束しています。

また「基本方針」に添付された世論調査においても、ヘイトスピーチは「許されないことで、絶対にやめるべき」と「よくないことだと思う」と回答した市民が合せて75%になります。また外国人の人権問題についてもヘイトスピーチを挙げた割合は項目全体でも第二位と高く、ヘイトスピーチの問題は、名古屋市においても、一般の市民感情からみてもかなり深刻なものと受けとめられているといえます。(4)地域における差別と偏見は最重要課題になっているといえるのではないでしょうか。

(1)http://www.city.nagoya.jp/sportsshimin/page/0000091086.html

(注2) http://www.city.nagoya.jp/sportsshimin/cmsfiles/contents/0000127/127395/zennbunn.pdf

(3)なごや人権施策基本方針 p.28

(4)同上、p.71以降参照。

繰り返しますが、日本第一党は、ヘイトスピーチを繰り返してきた桜井誠が党首の政治団体で、その主張、とくに移民や外国人政策は、移民や外国人の排斥を公然と主張するものであり、また日本の植民地侵略の歴史認識を「自虐史観」と蔑視しています。その主張や過去の経緯からすれば、日本第一党がヘイトスピーチ規制法の趣旨にも名古屋市の人権施策基本方針にも抵触する行動をとるであろうことは明らかです。国際的にも問題となっているレイシストたちの行動は、一般に、自分たちの主張に同調しない者たちに対してはヘイトスピーチや時には暴力によって威嚇し、他方で、あたかも正当な市民運動や政治活動であるかのような装いもとって人種差別主義を市民に根付かせようとすることが常套手段になっています。暴力的なヘイトスピーチと一見すると穏健に見える『あいちトリカエナハーレ2020「表現の自由展・その後」』のような活動とは表裏一体であること、このことを踏まえて、行政や文化施設は、不当な差別的言動の解消に向けた取組に積極的な行動をとるべきだと考えます。

ヘイトスピーチ規制法に関しては、集会やイべントの施設利用について、憲法が禁じている検閲との兼ね合いが常に議論されてきました。日本第一党などは、表現の自由を主張してイベント開催を正当化しようとしていますが、彼らを含むレイシストやヘイトスピーチに加担してきた者たちが私たちの「表現の不自由展・その後」に対して昨年やったことは、表現の自由を踏みにじる行為だったということを私は忘れることができません。主催者である日本第一党のこれまでの主張と行動からみて、『あいちトリカエナハーレ2020「表現の自由展・その後」』なるイベントが明らかにヘイトスピーチといえる効果をもたらし、結果として地域のマイノリティの人々への偏見を助長しかねないことになるのは容易に推測しうることだと考えます。つまり名古屋市自身がそのホームページで対処すべき事態しして明記した「本邦外出身者を地域社会から排除することを扇動する不当な差別的言動」となる可能性を秘めたものだということです。

憲法では、検閲を禁じると同時に、人権の尊重を最重要とも位置づけており、民族や出自などへの差別を偏見として認めていません。彼らの偏見に満ちた「表現の自由」には正当性はなく、地域で暮す多くのマイノリティの人権と自由が脅かされることになるのです。日本第一党のイベントは、マイノリティ当事者にとっては耐えがたいことであるということを、名古屋市と名古屋市文化振興事業団は自覚すべきです。私は名古屋市民ではありませんが、日本国籍をもつ者としても、このような人権侵害とヘイトスピーチに加担する名古屋市の決定を黙って見過すことはできません。

ヘイトスピーチには言論表現における威嚇、脅迫や罵詈雑言など暴力的な言葉だけではなく、事実を歪め、偏見を助長するような表現を通じて、人々が日本に住むマイノリティの人々の価値観や文化あるいはその存在そのものを否定したり、日本人のそれよりも劣るものとみなす言説もまたヘイトスピーチに含まれます。文化行政がこうした隠されたヘイトスピーチに対抗することなくして、多様な文化との共生を地域で実現することはできません。差別と偏見によって深刻な被害を被らないようにマイノリティの人権を確立し、人間としての平等を実現することもできません。もし、名古屋市が、『あいちトリカエナハーレ2020「表現の自由展・その後」』を容認するのであれば、その結果は、とりかえしのつかない差別と偏見、偽造された歴史認識の助長を招くことになるでしょう。これは、事実上、公権力による人権侵害の黙認であって、その責任は極めて重いと言わざるをえません。名古屋市及び名古屋市文化振興財団にとって今必要なことは、明確に排除と差別の言動を認めないためにとりうるできうる限りの行動をとることです。

CrimethInc:アナキズム関連をFacebookが禁止に―来るべきデジタル検閲

BLMが収束せず、大統領選挙が近づくなかトランプはますます横暴になっていますが、これにすりよるFacebookはもっと罪深いと思います。以下、CrimethIncの記事を訳しました。

アナキズム関連をFacebookが禁止に
来るべきデジタル検閲

Facebookは、アナキストおよび反ファシストのネット発信プロジェクト(原注)の中でも、彼らがcrimethinc.comおよびitsgoingdown.orgに関連すると考える(注)複数のFacebookページを削除した。
(原注)同じ口実で本日禁止された他のFacebookアカウントのなかには、ミュージシャンのMC Sole、Truthoutの作家Chris Steel、およびヨーロッパのニュースソースであるEnough is Enoughがある。

(注)https://twitter.com/nickmartin/status/1296175961260482560

彼らは、公式には「暴力を支持している」ことを口実にしている。この禁止措置は暴力を止めることとは無関係であり、社会運動とこれを報道するネット発信を抑えつけることがすべてだ。

(注)

ドナルド・トランプは、米国における警察の後をたたない暴力に対する全国規模の抗議の波に対して、一連のソーシャルメディアの投稿で、アナキストと反ファシストを非難し、数か月にわたって取り締まりを要求してきた。10年前、Facebookの代表は、エジプトでの民衆蜂起に果した彼らの役割を誇示していた。現在、積極的に社会運動を論じるネット発信を禁止する彼らの決定が示しているのは、ネットに登場を許される唯一の形態のアクティビスムとは、現在の当局に確実に利益をもたらす役割を果たすことが望まれているというこだ。

https://twitter.com/nickmartin/status/1296175961260482560
(訳注)8月20日、Nick Martinのツィッターのページ。(ここで、Facebookが禁止したサイトに言及されている)

暴力の定義は中立ではない。現在Facebookによる暴力の定義は、警察が年間1000人を殺害し数百万人を強制退去、誘拐、投獄することは合法だというものだ。攻撃者が政府を代表している限り、民間人を爆撃することは合法であり、白人至上主義者が群衆を襲撃するのを阻止したり、警察が撃った催涙ガス弾を警察に投げ返したりするのは「暴力」だとするものだ。体制や白人至上主義暴力からコミュニティを防衛しようとする人々の声を抑圧するのは、暴力を行使する者たちが制度的権力を保持している限り暴力行使を当然だとする意図的な決定だ。

現在の政権を明示的に支持する極右の民間武装勢力militiaとアナキストや反ファシストを一括りにするのは、問題を混乱させる戦略的な動きだ。これは、ウィリアム・バー(司法長官)が自称ファシストと反ファシストの両方を標的とする「反政府過激派」を標的にした司法省のタスクフォースを設置した際に行ったのと同じやり口だ。司法省の場合、極右の攻撃に対してコミュニティ防衛の最前線にいる人々を取り締まる人員や金を要求する口実として極右や民間武装勢力の攻撃を指摘しえた。バーと他のトランプ政権のメンバーは、ブラック・ライブズ・マターの活動家に対しても同様のことを行おうとし、BLMとネオナチスや白人ナショナリストを「人種的動機をもった過激派」として関連付けた。

シャーロッツビルでの「Unite the Right」の動員の最中に、自称ファシストがHeather Heyerを殺害(2017年8月)した後、ソーシャルメディアからファシストや白人至上主義者を排除せよという大きな草の根の圧力が発生した。現在、当時とは真逆にこの圧力は、抗議運動が国家の暴力と抑圧に関する全国的な対話を創出する上で不可欠な時期に、国家機構のトップから来ている。これは、シャーロッツビルのファシストに反対して結集した人々の見解を発表したWebサイトに対する権力からの反撃である。これが数週間の街頭闘争に直面してトランプが連邦の軍をオレゴン州ポートランドに動員した直後で、極右のスポークスパーソンが上院での証言で具体的にcrimethinc.comとitsgoingdown.orgに言及した数日後のことなのは偶然とはいえない。

極右のグループが引き続きFacebookを利用して組織し、COVID-19に関する危険な誤った情報を広めるなかで、Facebookはトランプ政権の合図を優先して反対意見を抑えている。間違いなく、これが問題にならないのであれば、将来はもっとひどいことになる。政府が社会運動を報道するネット発信を取り締まるノが当たり前になればなるほど、こうした検閲は社会のあらゆる部門に浸透し、政府が考え、想像するような事態を具体化するようになる。

この問題についてあなたが危惧するのであれば、このニュースを広く共有できるようあらゆる手段を駆使してほしい。Facebookがあなたに対して何が責任ある言論なのかを決定すべきではない。共に連帯するなかで、私たちは、より良い世界を作り出すことができる。こうした世界は、善意ある誰もが、ファシスト、政府、10億ドル規模の企業が脅したり沈黙させたりすることを恐れる必要のない世界だ。

「CrimethInc、それは、真に自由な社会の詩人や知識人たちだ。アナキストの発信に共通のテーマがあるとすれば、それは組織的暴力やシステムの暴力の脅威が存在せず、また、決してこのような状況が起き得ない社会を夢見ることだ。ここでは、棍棒、銃、爆弾を持つ男のグループが、他の人々を脅すようなことはない。これは正統性のある政治的立場というだけではなく、社会にとって必須であり、本質的かつ必要なものだ。私たちは平和で思いやりのある世界を夢見ることさえ禁じられている、と特に若者たちに語らざるをえないことほど、暴力的なことはない。」
-デビット・グレイバー、:ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス人類学教授、『債務』の著者、Facebook禁止のニュースに応答して。

Zoomが天安門関連集会を中国政府の要求で閉鎖

以下、いくつかのメーリングリストに投稿した文章を転載します。

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日本のメディアでどのくらい報道されているかわかりませんが、6月11日にZoomは以下にあるような声明を出しました。5月から6月にかけて開催された4つの天安門事件関連のZoom会議に対して、中国政府が開催の中止と主催者のアカウントの削除を要求し、これにZoomが応じたという問題についての声明です。私はこの声明に納得できません。

Zoomは、今後、各国の政府が集会を中止するよな要求を出した場合に、その国から参加することができないように設計変更することを約束しています。これはIPアドレスの国別割り当てなどで制御するのであれば比較的容易と思います。このIPアドレスの割り当てによる規制を回避するとすれば、たとえばTorブラウザなどを利用することになりますが、Torが利用しているIPも全て使用できないようにする、更にはVPNも使わせないといった処置に進展しかねないと思います。

国内法に即して参加の可否を判断するという措置をZoomは、各国の国内法を遵守するものであるとし、違法ではない国の参加者の参加を妨げるものではないということから、正当化しようとしています。しかし、今回の場合、中国本土、香港、そして各国の参加者が国境を越えて議論できる場になることが重要なのであって、中国本土から参加できないのであれば、他の国の参加者の参加の自由があっても、これを集会の自由とは言わないでしょう。ちなみに。私は今回の4つのZoom会議がどのような傾向をもって天安門の事件に取り組んでいるグループが主催しているのかは全く把握できていません。反中国親トランプの勢力かもしれないわけですが、このことは事柄の本質とは関係ないと思っています。米中の大国のいずれにも異議を申し立てる運動がこうした国境を越えた連帯が作れていないのなら、それは私たちの反省材料でしかないからです。

今後、中国に限らず、日本であれどこであれ、国内法に違反すると政府や警察など行政権力がZoomに申し立てした場合、Zoomはこれを受け入れるということです。会議を中止されたりアカウントを廃止された場合の異議申し立ての手続きについては以下の声明でも一切言及されていません。これまでも捜査当局の任意の捜査に協力することを当然としてきた日本のIT業界のありかたや、共謀罪のある日本では、Zoom日本法人がいったいどのような措置をとるのか、楽観できないと思います。

しかも、Zoomは、将来の訴訟に備えて、政府側の言い分に従って、会議を中止したり、アカウントを剥奪することが妥当であることを証明するために、会議参加者のアカウントやプロファイル、会議のコンテンツなど「証拠」になるものを収集する可能性もありえます。

Zoomがこうした対応をとらざるをえなくなったのは、会議室の内容や主催者のアカウントを管理しているからです。会議室の内容、参加者について一切の情報を取得しないか、暗号化されていて内容を把握できない環境をインフラを提供する側が構築していた場合、こうした権力の介入に対してはより強い立場をとることができます。この意味でJitsi-meetのような主催者も参加者も管理しないで暗号化する会議室のシステムは人権を守る上で重要になります。

Zoomのもうひとつの弱点は、Zoomが中国を無視できないグローバルビジネスモデルを基盤にしているからです。そしてAPは、Zoomの本社は米国だが研究開発の拠点は中国にあると報じている。
https://apnews.com/2ba80f30ecaf5aa37852164c3d149514

こうした言論弾圧が起きるたびに、日本の右翼や右派メディアは欣喜雀躍してレイシスト的な中国叩きをします。しかし、問題の本質は、どこの国であれ、国境を越えたオンライン会議が自国の国益に反することはないのか、誰が参加しているのかを監視しようとする動機を十分にもっており、対処の手段を権威主義的な手法をとるのか、より巧妙な民主主義や法の支配の仮面をかぶって実行するかの違いがあるにすぎません。

天安門事件については、中国の軍が関与した弁解の余地のない虐殺行為であって中国政府を擁護できる余地は一切ないと考えています。歴史上、ドイツもイタリアもファシズムの主張は「社会主義」を巧妙に転用してきた経緯があり、日本の戦前の植民地支配の正当化もまた欧米帝国主義からアジアを解放するという欺瞞に転向マルクス主義者が加担した歴史をもっています。私は左翼のはしくれですから、さまざまな反共主義者や右翼がこうした事件をひきあいに出してコミュニズムや反資本主義の考え方を否定しようとするスタンスとも一切の共通した理解をもっていません。だからこそ、左翼にとって自由と文化の問題は最大の課題だと思っています。経済的平等については多くの議論の蓄積がありますが、自由という課題はまだ十分な議論ができているとは思えません。ネットのコミュニケーションの権利と自由もまた同様に議論半ばと思います。

オンライン会議でZoomを使わざるをえない事情がありうることを理解はしますが、この会社が人々の言論表現の自由よりも当局の判断を優先させる会社だということを理解した上で、参加している国外に人たちのリスクも考慮して使うべきでしょう。しかし、可能であれば、Zoomのようなビジネスモデルに頼らない環境を作りたいと思います。

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6月11日Zoomの声明(前書きを除いた全文)

Improving Our Policies as We Continue to Enable Global Collaboration


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主な事実
5月から6月上旬にかけて、会議の詳細を含めてソーシャルメディアで公開された4つの6月4日を記念するZoomの集会について、中国政府から通知うを受けた。中国政府はこの活動が中国では違法であることを通知し、Zoom に会議とホストアカウントの停止を要求してきた。

われわれは、中国政府にユーザー情報や会議コンテンツを提供することはしていない。誰かがひそかに会議に参加できるようなバックドアもない。

中国当局は我々が会議中止の行動を起こすように要求した会議の1つについては、中国本土からの参加者がいなかったため、会議を邪魔するようなことはしない選択をした。

4つの会議のうち2つについては、米国に本拠を置くZoomチームが会議の進行中に会議のメタデータ(IPアドレスなど)を確認し、中国本土のかなりの数の参加者がいることをを確認した。

4番目の会議では、中国政府は6月4日の記念イベントを参照する会議へのソーシャルメディアの招待を示し、会議を中止するよう要求した。中国当局はまた、このアカウントに基づく以前の会議が違法であると見なしていることを私たちに通知した。米国を拠点とするZoomチームは、この以前の会議に中国本土からの参加者が出席していることを確認した。

現在、Zoomには、特定の参加者を会議から削除したり、特定の国の参加者を会議に参加させたりする機能はない。そのため、4つの会議のうち3つを中止し、3つの会議に関連するホストアカウントを一時停止または廃止することを決定した。

我々が期待に沿えなかった理由

我々は、現地の法律を遵守するのに必要な行動をとるよう努めている。我々の対応は、中国本土以外のユーザーに影響を与えてはならない。我々は2つの間違いをした:

我々は、香港特別行政区にあるアカウントをひとつ、米国にあるホストアカウント二つを一時停止または廃止にした。我々はこれら3つのホストアカウントを復活させた。

国ごとに参加者をブロックするのではなく、会議を閉鎖した。現在、国ごとに参加者をブロックする機能はない。この必要性は予想できたといえる。大きな反響があったかもしれないが、会議を継続させることもできた。

我々が取っている行動

今後、Zoomは中国政府からの要求が中国本土以外の人に影響を与えないようにする。

Zoomは、地理に基づいて参加者レベルで削除またはブロックできるようにする技術を今後数日間で開発する。これにより、我々のプラットフォームでの活動が国内で違法であると判断した場合に、地域の当局の要求に応じることができる。ただし、その活動が許されている国の参加者の議論を保護することも可能にする。

我々は、要求の種類に応じて、当社のグローバルポリシーを改善する。2020年6月30日までに公開される透明性レポートの一部として、このポリシーの概要を説明する。

ビジネス、教育、ヘルスケア、およびその他の専門的な取り組みのために人々をつなぐことに加えて、このグローバルなパンデミックにあって、Zoomは世界中の人々がつながるために選択されるプラットフォームになった。Zoomは、我々がグローバルに果たしている役割を誇りに思っており、コミュニティが集まり、組織し、共同作業し、祝うためにアイデアと会話をオープンに交換することを完全にサポートする。

「表現の不自由展・その後」を理由とした大村知事へのリコール運動反対!6.13街頭宣伝in栄

昨年の表現の不自由展への検閲問題はまだ解決からほど遠い。名古屋では、表現の不自由展・その後の企画を認め、いったん中止されたあと再開を決定した大村知事に対して右翼側からのリコール運動なるものが始まっている。これに対して、あいちトリエンナーレの会期中連日美術館前でスタンディングの抗議を担ってきた愛知の人たちが、この理不尽なリコールへの抗議のアクションをはじめている。
ミネアポリスで起きたジョージ・フロイドさん殺害をきっかけに、警察の暴力の歴史的な背景をなす植民地主義への批判的な関心が非常に高まっている。そうしたなかで、日本の右翼は、日本の植民地支配を正当化するだけでなく、露骨なレイシズムの主張を繰り返している。このリコール運動も、リコールの主張とともに、市民にレイシズムを拡散する手段としてこの運動を利用しようとしており、民主主義の制度を逆手にとって基本的人権を扼殺しようとするものだと言わざるをえない。
以下、「表現の不自由展・その後」をつなげる愛知の会からの呼びかけを転載します。
★★「表現の不自由展・その後」を理由とした大村知事へのリコール運動反対!6.13街頭宣伝in栄(6月13日(土)午前11時~12時@栄三越久屋大通り角) ★★
・「表現の不自由展・その後」を理由とした大村知事へのリコール運動反対!
・河村たかし名古屋市長はあいトリ2019分担金を支払え!
・私たちは歴史改ざん主義に反対します!
呼びかけ文
 6月2日高須克弥氏らは「表現の不自由展・その後」の開催と再開をおもな理由とした大村知事へのリコール運動を開始すると記者会見しました。私たちはこの大村知事へのリコール運動が、実際は「表現の自由」と「歴史の事実」に対する攻撃であると考えます。
 記者会見で高須克弥氏は「批判は自由」と言いつつ「表現の不自由展・その後」で展示された作品の存在そのものを「許せない」と批判しています。そして「公金を使っての展示が許せない」と主張しています。公金を使って展示することこそ、「表現の自由」を行政が遵守することになることを高須氏は否定しているのです。「表現の自由」の否定に他なりません。
 また、このリコール運動は河村たかし名古屋市長と密接に連携しながら進められています。高須克弥氏は以前、第二次世界大戦におけるユダヤ人大虐殺(いわゆるホロコースト)を否定し、未だ訂正も謝罪もしていません。河村たかし名古屋市長は南京大虐殺否定発言、旧日本軍性奴隷制度問題否定発言を行い、未だ訂正も謝罪もしていません。
 両者に共通しているのは歴史改ざん主義であり、この歴史改ざん主義がこの愛知の地で今、メディアの注目を浴びつつ大村知事へのリコール運動を契機に大々的に展開されようとしています。それはまさに昨年「表現の不自由展・その後」へ向けられた脅迫と圧力の本質だったと思います。あのような悲惨で恐ろしいことを再び許しては絶対にいけません。
 ぜひ 6.13街頭宣伝in栄にご参加ください。ともに声を挙げつながっていきましょう!
日時:6月13日(土)11時~12時
場所:栄三越久屋大通り角
主催:「表現の不自由展・その後」をつなげる愛知の会
連絡先:TEL080-2041-3968(専用) Email resumetheexhibition@gmail.com