第二回自由大学「あらゆるアートは共謀/狂暴である」

反政府プロパガンダを共謀する!

国会で上程が予定されている共謀罪(政府は「テロ等準備罪」と言う)は、600以上の違法行為を対象に、相談や目配せだけで(実際にやろうとやるま いと)犯罪にするというとんでもない法案だ。この法案はアーティストにとってもかなりヤバい!共謀罪は文化弾圧でもあり、ストリートの自由を圧殺し、対抗 文化を根絶やしにする。だからこそ、今あえて、共謀罪に反対するアクションを共謀し、戦時極右政権の下での反政府プロパガンダを共謀しなければならないの ではないか!?

スピーカー:小倉利丸(『絶望のユートピア』著者) 共謀罪批判のアウトラインとアート・文化運動との関りについて話します。

日 時:2017年4月1日(土)19:00~21:00/18:30 Open
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3丁目8-12 フデノビル2F 奥の部屋
資料代:500円+投げ銭(ワンドリンクオーダー)

出典 自由藝術大学

共謀罪も越境組織犯罪防止条約もテロを防止できない

共謀罪の閣議決定後の記者会見で、金田法相と岸田外相は次にように共謀罪の必要に言及した。

金田法務大臣の記者会見発言

「今回の改正は,近年における犯罪の国際化及び組織化の状況に鑑み,テロを含む組織犯罪を未然に防止し,これと戦うための国際協力を可能とする「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約」,いわゆるTOC条約を締結するための法整備として行うものです。3年後に迫った東京オリンピック・パラリンピック競技大会の開催を控えた中,TOC条約の締結のための法整備は重要なものであり,急務であると考えています。」

岸田外務大臣の記者会見発言

「ご指摘のように,本日の閣議で国際組織犯罪防止条約の国内担保法が閣議決定されました。この条約は,既に187か国が締結をしています。こうした条約を我が国も締結し,テロを含む組織犯罪と闘うことは,2019年のラグビーワールドカップ,2020年の東京オリンピック・パラリンピックを控える我が国にとって,重要なことであると考えます。
この条約締結に必要な「テロ等準備罪」を創設することで,テロを含む組織犯罪を未然に防ぐことが可能になるほか,国際協力が促進され,深刻化するテロを含む国際的な組織犯罪に対する取組が強化されることになります。このことは大変大きな意義があると考えております。」

二人ともテロと闘うためには国際組織犯罪防止条約(以下、日弁連の呼称に倣って越境組織犯罪防止条約と呼ぶ)の締結が不可欠で、そのために共謀罪が必要であるという従来からの主張が繰り返されている。しかし、条約と共謀罪がテロ防止にとって不可欠という政府の主張を立証できる証拠はいったいどこにあるのだろうか?フランスはじめEU諸国で起きてきたテロは、条約と共謀罪があっても防げなかったのではないか?

政府の言い分では、「すべての重大な犯罪の共謀を犯罪とすること」を条件としているとされるこの条約を締結している国は187ヶ国にのぼる。 二人の大臣が言ったことを敷衍すれば、187ヶ国、つまり世界のほとんど全ての国では「すべての重大な犯罪の共謀を犯罪」としているということだから、世界中至る所で話し合うだけで犯罪者とされて逮捕され、その結果として、条約締結国、187ヶ国ではテロが防止されているはずだ。他方で、共謀罪のない日本は、世界でも最もテロの脅威に晒されている危険な国だといことになる。そうでなければ立法趣旨と理屈が合わないだろう。

しかし、世界の現実は政府の立法趣旨とは全く逆であることは誰もが認めるところで、テロ防止効果はみられないのではないか。現実の世界で起きていることを踏まえれば、共謀罪でテロ防止効果があると日本政府が本気で信じているとは思えない。このことからしても、政府が公式に発言している共謀罪の立法の趣旨は政府の本音ではないことは明らかだ。越境組織犯罪防止条約と共謀罪がテロを防止できると繰り返す政府の主張は、ある種のフェイクニュースの類いと言うしかない。

BBCは、ロンドンのウェストミンター国会議事堂付近で起きた自動車テロの報道にほとんど全ての時間を費やしてる。テレサ・メイ首相は英国議会は「民主主義、自由、人権、法の支配という我々の価値を代表している」として、テロがこうした英国の価値観への挑戦だと批判した。テロが起きるたびに欧米の(そして日本の)政府首脳らが繰り返すこの自己讃美の言説を、私は納得して聞いたことがない。むしろ非常に不愉快な気分になる。英国が誇る民主主義や自由はまた同時に、英国の植民地主義と表裏一体だったのではないか?イラク戦争以降の対テロ戦争は、英国の民主主義、自由、人権にもとづいて広汎なイスラーム圏を武力紛争という民主主義も自由も人権も奪うような環境に追いこんだのではないか。民主主義、自由、人権を口にしながら、実際にはそのいずれもが奪われる。どうしてこのような欺瞞を繰り返す「先進国」の価値観に、こうした欧米500年の欺瞞に心情的にも共感できるだろうか。米国もフランスも有志連合の諸国だけでなく全ての対テロ戦争に加担している自称「自由と民主主義」の国に共通する欺瞞の言説が、むしろ敵意と憎悪を再生産しているのではないか。

言うまでもなく、日本が戦前戦中に繰り返してきたこともこれと同質であったし、戦後もまた日本の侵略と戦争責任への反省がないという意味でいえば、欧米先進国と同罪である。欧米帝国主義批判と民族解放戦争としての大東亜戦争なる言説とは裏腹に、日本の行為は明かな侵略であり虐殺であった。一方に口当たりのよい普遍的な理念を掲げ、この普遍的な理念を口実に、他方で残虐の限りを尽しながらこの暴力を正当化してきた。それが近代という時代の精神の本質ではないか。

テロ対策に厳罰主義や警察による捜査権限の拡大が役にたたないのは、この欺瞞を正当化するための国家による暴力の行使でしかないからだ。今問われているのは、価値観を裏切ることを平然と繰り返す権力の偽善そのものである。主権者たちもまた、こうした政府の偽善と腐敗を民主主義という舞台装置によって下支えしているのではないか。

既遂処罰原則を揺がす共謀罪と監視社会に対抗する視点とは

ついに共謀罪法案が閣議決定された。法案の条文についての逐条批判は私の役割ではないので、これまで書いてきた批判の流れのなかで、いくつか述べる。

私は悲観論者なので反対運動にとって元気になるようなことは書けない。むしろ危惧すべきことばかりを書いてしまうのだが、やはり率直に私が感じている危惧を書いておく必要があると思う。

共謀罪の反対世論はようやく徐々に拡がり始め、たぶん現状は賛否拮抗というところだろう。国会の動向は私には何ともいえないが(政局を論じるのは苦手だ)、不安材料がいくつかある。ひとつは、法律の専門家たちの動向だ。少なくとも共謀罪のような行為以前の意思を犯罪化するような発想を、少なからぬ刑事法の専門家たち、たとえば、法務省刑事局の立法担当者や国会の法曹資格をもつ与党議員たち、学界や法曹界の実務家が肯定しているのではないかという疑問だ。「暴力団」(これは警察用語なので中立的な用語ではない。当事者に即せば「やくざ組織」ということか)の被害者対策の弁護士らを中心に130名の弁護士が、越境組織犯罪防止条約の締結のために共謀罪成立の必要を提言したと報じられている。(弁護士ドットコム)他方で刑事法研究者中心に「共謀罪法案の提出に反対する刑事法研究者の声明」も出され、160名余りが署名していることがメディアでも報道され注目された。 160名という数は一見すると多いようにみえるが実はそうではない。日本刑法学会の会員は1200人であることを前提とすると、160名という数はかなり少ない。また立憲デモクラシーの会も反対声明を出しているが、刑法を中心とする専門家たちの反対の声はまだまだ非常に小さい。

もうひとつの危惧は、越境組織犯罪防止条約は共謀罪新設なしでも締結できるという反対の論拠が共謀罪を阻止する上で決定打にはなりえないのではないか、ということだ。以前私は、日弁連の主張とは違って、越境組織犯罪防止条約は必要ないと述べた。外務省によればすでに187ヶ国が締結しているから、これはむしろ締結しない方がおかしいと思いがちだが、この条約の目的である薬物、銃器、人身売買がこの条約によって目にみえて減少しているとはとうてい思えない。こうした問題の根源にあるのは貧困や武力紛争であり、単なる犯罪組織だけでなく、武器・軍事産業や多国籍資本あるいは国家の軍事安全保障政策もからんでおり、これらのアクターを念頭に置いた解決こそが必要であって、警察力や政府に委ねて解決できる問題ではないからだ。今この点はさて措くとして、条約締結は日弁連が主張するように、共謀罪新設なしで締結するという可能性があるということを政府が受け入れてしまったら共謀罪は成立しないのだろうか。条約の締結と共謀罪とを切り離して、共謀罪を成立させることも可能なのではないか、ということである。こうなったときに、既存の法律での条約への対応を口実に刑法の解釈が柔軟化してしまい、厳格性を欠くようになるという副作用もありうるのではないか。これは刑法の拡大解釈を許すことにならないか。この点を踏まえたら、越境組織犯罪防止条約の締結などは考えないことの方が好ましい。もうひとつの危惧は、条約締結の条件に拘泥せずに、対象犯罪も絞りこみ、テロ対策に特化して共謀罪を新設するということになったときに、現在反対を主張している専門家やメディアなどの対応はどうなるのか、である。テロ対策は不要だということを主張できる勇気あるメディアや学界などはどれほどあるか、かなり動揺するのではないか。

刑法は憲法が保障している例外的に人権を国家の暴力によって制約し国家に刑罰権を与える極めて毒性の強い法規範なのだということを再確認する必要がある。だからこそ既遂処罰の原則を再確認することが必須なのだ。日弁連も意見書 において「現行刑法は, 犯罪行為の結果発生に至った 「既遂」 の処罰を原則」としている点を第一の反対理由に挙げている点は非常に重要だが、刑法学者の声明ではこの点への言及が十分とはいえないところが気にかかる。刑法の原則がどこにあるのか、根本のところでもしかしたらかなり本質的な見解の相違もありそうに思う。

共謀罪をもたらす根底にある犯罪と刑罰の思想には、この原則を逸脱して「安全安心」の観点を肯定する発想があり、これが歯止めのない監視社会を生むのだという点を再確認する必要がある。共謀罪反対の世論を構築するためには、迂遠な話なのだが、大衆意識のなかにかなり根付いてしまった「安全安心」イデオロギーを覆すことが、共謀罪反対運動や反監視運動の最大の課題である。この観点から犯罪と刑罰の問題を再検証し、既存の刑法そのものも根本から再検討して刑法におけるオルタナティブとは何なのかをきちんと議論しなければならないとすれば、既存の刑法でいいなどとはとうてい言えない。

以前にも書いたように(これ とかあれ)、共謀罪は、一九〇七年に成立した現行刑法の基本的な枠組みを根底から覆し、自民党改憲草案に対応した国家による犯罪と刑罰の体制を構築する試みの一環である。問題の本質は、犯罪と刑罰の基本的な認識の変質にある。国家権力による強制的な自由剥奪と刑罰権を制定した刑法が一世紀以上も前に制定されたものを基本とし、戦後の憲法制定によっても全面改正されないまま現在に至っていること自体が、改憲に深い関心を寄せてきた運動のなかではさほど関心を呼ばすに見逃されてきたのかのか、その理由は別途問題にすべきだが、政権側は、戦後憲法の枠組を前提として解釈されてきた刑法の解釈枠組を変えるだけでは満足せず、その条文そのものをも根底から変更したがっている。戦前由来の刑法ですら今の自民党政権は納得しないということだ。

私は、刑法には、戦前と戦後を通底するこの国の近代国民国家としての権力とイデオロギー、あるいは秩序と支配における一貫した構造を読み取ることができると考えている。憲法を基準にすると戦前と戦後の切断が強調されるが、刑法の場合は逆にその連続性がはっきりする。言い換えれば、この国は、明治期から現在まで資本主義的な国民国家としての一貫性を保ち、この一貫性を安定的に維持するために、刑法は明文をもって何が「罪」であり、国家はどのような刑罰権を行使できるのかを示す機能を担い続けており、その基本的な理解の枠組に、戦前と戦後の間に本質的な変更はないということである。

刑法を旧憲法の枠組を前提に解釈する場合でも、実はかなり大きな振れ幅があったのではないか。大正デモクラシー期までの天皇機関説(天皇主権や天皇不可侵とは矛盾しない)を通説とする国家観に基づく犯罪と刑罰の法規範の時代から、治安維持法、国家総動員法と「国体の本義」を前提にした憲法「改釈」に基づいて刑法も「改釈」される時代へ、とりわけ法と道徳を区別する西欧流の理解から法=道徳とする日本個有の「法理」あるいは「道義的刑法」の主張が支配的となる時代へと大きな変化があったと思う。

いわゆる大正デモクラシーの時期までとそれ以降の間には、同じ刑法であっても大きな振れ幅があり、このことと総動員体制や治安維持法などの戦争立法と密接な関係があった。その上でなお、刑法は戦後憲法下でも生き残り、戦前の総括や反省は不十分なまま戦後憲法を前提として刑法解釈を再構築する横滑りを司法も学会も構築してきたように見える。だから、旧憲法時代の刑法の理念ともいえる総則解釈や条文解釈、あるいは実務上前例となる判例も、戦前のそれが戦後に全面的に否定されたわけではなく、その多くは戦後も継承されてきた。

憲法によって基本的人権の保障の幅は明らかに根本的な違いを見せたが、このことは刑法にどのように影響したのだろうか。旧憲法では「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」(20条)とあり、自由の権利は「法律ノ範囲内ニ於テ」しか認められなかったが、戦後憲法はこの「法律ノ範囲内ニ於テ」を削除して無条件に自由の権利を保障し、検閲も禁じた。この差は、何を犯罪とするのかだけでなく、刑罰のありかたにも本質的な影響を与えるはずのものであるにもかかわらず、犯罪や刑罰はどのような政治体制のもとであれ、どのような憲法の下であれ、基本的に同じ性質のものだという、先入観が大衆意識には根強いように思う。こうした大衆の犯罪と刑罰についての意識を専門家も共有しているとはいえないだろうか。本来ならば、自由の権利をはじめとする基本的人権保障の幅が拡がったということは、逆に、国家による人権制約の幅は抑制されなければならず、そのことが刑法において明示的に示されなければならないはずだ。これは単に刑法73条から76条の大逆罪、不敬罪を削除すれば満たされるという問題ではなく、一般的な刑事犯罪をどのように認識しどのように対処するのかという犯罪と刑罰全般の哲学に関わるハズのものだ。とりわけ反政府運動など政治活動の犯罪化については、戦前の制定法による出版の検閲や集会規制がない分、目に見えない検閲が横行しはじめている。(公共施設の集会規制、ビラ貼りや街頭情宣規制、資本と国益優先で労働基本権を形骸化させるなど)そうであれば共謀罪などとうてい想定外の更にその外の非常識極まりない発想だと考えられてもいいくらいのことではないか。

戦前から現在まで一世紀以上にわたって大きな振れ幅をもつ現行刑法ですら自民党は満足していないのは、明かに改憲を睨みながら、戦前でいえば道義的刑法と類似するような法と道徳の一体化を願望しているからだろう。共謀罪の深層にある権力の無意識には、戦後も清算されなかった国家の価値観に「国民」をその内面から一体化させたがる欲望があり、安倍政権はこうした欲望をある意味では露出させたに過ぎないともいえる。しかし、いつの時代であれ権力者は「国民」を百パーセント自らの意思に従わせたいと願望するものだとして、何がこうした発想を具体化しうると信じる力を与えることになっているのだろうか。

戦前の道義的刑法やあるいは意思を犯罪かしようとする傾向との相同性には注目すべきだが、単純な戦前回帰が共謀罪の本質なのではない。端的にいえば、これまで不可能と信じられてきた、人間の内面を規制し抑制する技術を前提とした思想信条や意思そのものの犯罪化が、可能になってきたということでもある。こうしたことが可能になったと権力者たちが信じるようになったのは、20世紀に急速に発達した、犯罪心理学や犯罪精神医学、コンピュータサイエンスによる生体情報レベルでの個人認証技術や行動や認知に関する科学、そして膨大なコミュニケーションの記録を保管し解析し予測のシミュレーションを行なう技術、時には個人情報を密かに収集することが技術的にも制度的にも可能になったといったことがあるだろうと思う。こうした情報処理技術に支えられて、刑事司法領域では科学捜査やプロファイリングが飛躍的に発達し、サイバーセキュリティとテロリスム対策が警察と軍の双方を融合させ、更には警察のグローバル化を促す領域となった。情報コミュニケーションテクノロジーが刑事政策だけでなく刑事手続から更には刑法そのものにも影響を及ぼし始めているということではないか。それが共謀罪を下支ええする背景にあるのではないか。こうした傾向にはある種の「神話」やありえない技術への都市伝説も含めて大衆文化の関心を誘い、こうしたことも含めて政策決定者や政治家たちは、人間の行動を予測可能なものとすることを前提として法を見直すことが可能であると考えはじめている。ICT産業もまた政府による監視や統制テクノロジーを重要なビジネスチャンスとみて、開発投資を促進させている。政治家も一般の人々の関心も、既遂の犯罪や社会的な「混乱」ではなく、将来予測に基づく予防に引きよせられている。これが端的な合言葉として「安全安心」で表現されていることだ。プログラムに合わせて人間の行動を外面的に制御するのではなくて、フィードバック機構を組み込みながら人間の心理や内面を予測して制御し、自発的にプログラムに適合的な行動をとるような人間を生み出すとともに、こうした適応が困難なパーソナリティを発見しあらかじめ予防措置をとろうとする。

予測の技術が制度化され法的な正当性を付与されるということは、国家が水晶玉の前に座って私たちの未来を予見する魔法使いになるということだ。「おまえは明日3丁目のコンビニに強盗に入るはずだ」といったことを宣言する権限を与えることを意味する。「そんなはずはない」と主張しても、彼らには膨大な私のプロファイリングデータがあり、そこから科学的に導かれた確率に基く予測こそが私の私自身の未来であって、私の自己認識などよりも一般的に信用性があるということになる。私がどのように抗弁しようと、私は明日のコンビニ強盗の犯人にされるというわけだ。共謀罪とはこうしたSFまがいの世界が大真面目に導入される世界を予兆するものだといっていい。

刑法は、国家の刑罰権と基本的人権を強制的に放棄させる力を国家に付与する。つまり、人間は生まれながらにして自由で平等な存在であるという近代の価値観を、国家に限って例外的に否定する力を与えることを正当化する巧妙な仕組みでもある。言い換えれば、国家が自由と平等を否定する独占的な枠組を人為的に構築し、制度として固定化することを正当なこととして認める仕組みである。

自由とは選択の自由のことだという通俗的な自由の定義を前提したとして、いわゆる近代民主主義国家では、この選択の自由の範囲と選択の判断を、当事者(私やあなた)の道徳や理性、あるいは当事者が帰属意識をもつ社会集団の慣習などに委ねずに、制定法に基づく司法の解釈にその是非の判断基準を委ねることになる。【注1】国家が制定法に基づいて、ある人間が選択しようと意思したある行為が「違法」であると判断すれば、その個人の行為の選択肢からこの行為は強制的に排除される。あえてこの行為を選択すれば、犯罪者とされて、身体の自由や財産を奪われ(懲役刑や罰金刑など)、刑罰という苦痛を強いられる。これは国家による人権の一部の合法的な侵害である。こうして、このように自由を剥奪される者は、そうではない者と平等に自由を享受できない。

刑法は、行為が明文による犯罪類型に該当しなければ犯罪とされないための枠組であって、内心を直接問題にするものではなかった。一般にリベラルな社会であれば(これが近代民主主義国家のモデルだろう)、内心の問題は、道徳や倫理の問題であるとされてきた。道徳として人を殺すことはあってはならないと考えようが、刑法で犯罪とされているから処罰の苦痛を受けたくないという理由から人殺しはしないと考えようが、社会としては殺人が起きなければよい、というのがこれまでの犯罪と刑罰の考え方だった。これは内面を客観的に判断し推測することができないかったからで、哲学的な意義はその後づけでしかないように思う。先に述べたように、共謀罪の発想は、内面や心理を予測する技術の発達とともに、国家が内面をコントロールすることに関心を持ちはじめたことを意味しており、こうした関心と現在の予測技術の水準を前提したとき、従来のような内面に関与せずに結果の違法性を問題にするか、あるいは既遂であればその行為を促した動機や意思といったレベルで内面を問題にするというレベルでは満足しななっているということでもある。【注2】共謀罪のように「話す」ことを共謀として犯罪化するということは、「話す」前提にある話し手の観念にある行為への意思や意欲そのものを権力が監視するということに繋がる。そのような意思を持たないように予防することが権力にとっては、「安全安心」の条件であり、そうした技術を構築しなければならないという要請があると感じるのだ。

本来、上で述べたような内心の問題は道徳の領域だった。道徳は意思に内面化されることによって、そもそもの選択肢の範囲を内在的に規定するから、国家による外在的な強制としての法とは同じことではない。その行為が違法であるかどうかの認識なしに、道徳によってそうした行為を自由な選択肢からあらかじめ排除することはありうる。これは、当事者の主観に即せば、自由意思に反するとはみなすことは難しいだろう。しかし他方で、道徳的には選択肢として妥当する行為が違法とされる場合はどうか。こうした行為の妥当性は、法治国家であれば国家の法が優先し、当該個人の道徳は行為の正当性を根拠づけることにはならない。しかし一般論として言えば、道徳による行為の選択の幅と法が合法あるいは適法とする行為の選択の幅が一致するものとみなすか、反道徳的であっても違法あるいは犯罪ではないとして、合法の範囲が道徳の範囲よりも広く設定されることで、自由をめぐる道徳と法の齟齬が深刻な対立を引き起こさずに解決されることになる。つまり不道徳であっても合法な領域を残すことが既存の秩序維持にとっては有効な選択なのである。これが、理屈の上では、法治国家の統治の安定性を支える構造をなす。だから、法による犯罪と刑罰の規定は、最小限度に留め、法的な強制によらない道徳的あるいは慣習的な内面的な行為規範の形成によって社会の秩序を維持することが望ましいということになる。

道徳としてここで述べたことは価値観とかイデオロギーあるいは信仰といった人々の行為選択における確信形成をなす場合として言い換えることができる。確信的な行為が合法の範囲を越える場合、これは国家が独占する犯罪と刑罰に対する確信犯の問題として、最もやっかいな問題になる。なぜなら如何なる苦痛や応報も矯正や教育も確信犯には効果がないからだ。そして、一般に、政治運動の犯罪化は、確信犯の問題となる。出来心や過失の犯罪ではないからだ。そして厳罰化の傾向が強化されればされるほど、こうした確信犯の問題を抱え込むことになり、犯罪の抑止効果が期待される刑罰が効果をもたないというジレンマに陥いる。厳罰化と確信犯の増加は、権力基盤が脆弱になっていることを端的に示すものともなる。つまり価値観や道徳的な自発的同調に失敗していることの表れだからである。共謀罪は、この観点からみると、既存の統治機構の正統性が見かけほど磐石ではないことを現わしていることになる。内面や意思を犯罪化しなければ秩序が保てないということはかなり深刻な支配の揺らぎなのである。

この正統性の危機と表裏一体となって、監視技術と行動予測や心理分析などの「高度化」によって、価値観や道徳といった内面に国家が介入・制御することが可能な世界が登場しているということだ。しかしそうだとすると、私たちにとっての問題は二つある。ひとつは、こうした国家による内面の制御に対抗するためには、私たちが自己の内面の自立性(オートノミー)を獲得するだけではなく、より積極的にこうした国家が欲する内面とは根本的に抵触あるいは切断する私たちに個有の内面世界をいかに構築するかという問題である。彼らが望まない私たちの内面における「もうひとつの世界」が具体的な現実の支配を覆す動機や意思として徴表されるような回路をも構築できなければならないということでもある。

もうひとつは、国家が私たちの内面により「科学的」に干渉して、消極的に犯罪を犯さないパーソナリティというだけでなく、積極的に国家利益に合致するような道徳や倫理規範を持ち込もうとするという場合、超越的に「オルタナティブ」を主張するだでななくて、この日本の国家イデオロギーを批判することが必要になる。このときの核心をなすのは、政治的なイデオロギーというよりも文化的なイデオロギーだろうと思う。刑法における文化的なイデオロギー問題は、法解釈の背景をなす一つの重大な問題であり(法と文化が最もよく議論された時代は、戦時期であったことを想起すべきだ)、この問題をぬきに共謀罪の深層を抉ることはできないだろうと思う。

今回はここまでにするが、最後に述べたオルタナティブへの課題は、法におけるオルタナティブの問題全体にも関わる。言い換えれば、憲法や人権のオルタナティブも含めて、法、道徳、統治規範のオルタナティブの議論は、経済のオルタナティブや文化のオルタナティブの議論に比べて反政府運動のなかでは十分ではない。この問題を疎かにすると、20世紀「社会主義」が自己正当化した暴力(粛清た弾圧)の問題にかぎらず、暴力をめぐる問題を看過しかねないとも思う。コミュニズムであれアナキズムであれ法の問題を真剣に考える上で共謀罪にどう対峙するかは重要な実践的かつ理論的な課題だと思う。

【注1】社会契約なき裸のままの人間集団が軋轢と対立のみしか生まない野蛮な状態であるという仮定は、歴史的にも根拠がないが、また、社会契約を国家による法制定権力の根拠とすることにも飛躍がある。社会契約が国家を要請するという発想は、国家を正当化するために社会契約をある種の口実として利用したに過ぎない

【注2】刑法の旧派と新派の対立とか、結果無価値論と行為無価値論の対立といった議論は19世紀から20世紀に至る犯罪と刑罰の関心が、徐々に行為者の行為からその意思へと展開していったことの表れのように思う。身体的な刑罰から、過酷な肉体刑が後退し、矯正や教育としての刑罰が台頭したこともこれに関連するだろう。このことを内面の監視へとつなげて関心をもったのがミシェル・フーコーだったことはよく知られているが、日本の場合、刑法の伝統が主にドイツ刑法であっこともあり、フーコーの議論が無条件に妥当するといえるかは留保も必要だと思う。

自民党改憲草案と共謀罪──反政府運動の非犯罪化のために

前の投稿で改憲問題に簡単に言及したが、ここではやや詳しく私見を述べておきたい。

共謀罪法案の国会審議が本誌発行の時点でどのように進展しているのか、現在の執筆段階(三月一九日)からは見通しがたてにくい。二〇〇三年以降幾度となく上程‐廃案を繰り返してきたことからもわかるように、「共謀」の犯罪化は刑法の根底を覆す深刻な問題をはらんでおり、専門家の間ですら合意がとられていない。(注1)廃案を繰り返してきた法案を執拗に再上程する与党側の対応は尋常とはいえず、表向きの立法の必要性(越境組織犯罪防止条約の批准)に必要な前提となる国内法整備とは別の思惑がるのではないかと判断せざるをえない。誤解を恐れずに言えば、共謀罪への強いこだわりは、安倍政権がしきりに口にするようになったテロ対策ですらないと思う。それよりももっと根源的なところでの制度の転換が意図されているのではないか。それは一言で言えば、自民党が目論む改憲(二〇一二年「改憲草案」)を先取りした刑事法制全体の転換を意図したものではないかということである。自民党改憲草案(注2)では、憲法二一条の表現の自由条項「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、保障する」に新たに次のような第二項を追加している。

「前項の規定にかかわらず、公益及び公の秩序を害することを目的とした活動を行い、並びにそれを目的として結社をすることは、認められない」

現行憲法二一条を前提にすれば、犯罪組織(この意味は後述するが法案では「組織的犯罪集団」とされるようだが定義は不明)や「公序良俗」に反する組織であっても、集会、結社、言論、出版など「一切の表現の自由」が保障される。この条項と一三条の生命・自由・幸福追求の権利における「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政上で、最大の尊重を必要とする」という条項を合せて考慮したとき、現行憲法では、犯罪組織の場合であっても幸福追求等の権利はあり、「公共の福祉」に反する場合は、「最大限の尊重」は必要とはされないが、場合によっては立法その他の国政上でのある種の「尊重」の対象になる場合もあるということである。改憲草案の場合は、そもそも「公益及び公の秩序を害することを目的とした活動」を目的とする結社は憲法上も存在を許されない。(注3)言い換えれば、改憲草案では「公益及び公の秩序」に反する結社を憲法によって禁じることになるので、下位の法律によってどのような組織が違憲なのかを具体的に定める必要がでてくる。共謀罪はこの結社禁止の重要な布石となりうる。

上で「犯罪組織」と述べたが、戦後憲法と刑法の枠組には、不敬罪や治安維持法などといった政治犯罪の条項がないから、政治犯であっても一般の刑法の犯罪が適用されて一般刑事犯として摘発される。しかし捜査機関側は、一般刑事事件と反政府運動に対する捜査を組織としては明確に区別し、後者をもっぱら対象とする警備公安警察を置き、既遂の犯罪を原則とする刑事警察とは異なって恒常的な監視と予防的な拘束を行なうし、起訴前の逮捕・取調べの処遇も、接見や釈放の条件では一般刑事犯とは著しい不利益差別がある。もちろん政治犯は正義の確信犯であると特権化して、一般刑事犯の人権をないがしろにすることはあってはならない。むしろ反政府運動にとっても、あるいは一般的に市民運動にあっても、一般刑事事件の犯罪や被疑者・犯人とされた人達の人権とどのように向き合うかは重要な課題である。上で言及した「犯罪組織」には、やくざの組織も反政府運動の組織もテロリスト集団も、あるいは路上で微罪を犯す非行や不良青少年グループ(かつて愚連隊という言い方もあった)なども、その集団の形態や趣旨を問わず刑法で犯罪と規定される行為に多かれ少なかれ関与すると警察などが判断するであろう組織全般が念頭に置かれている。

反政府運動は、その規模や目的の大小はあるにしても、現在の支配的な制度への異議申し立て運動である。これを権力者たちの側からみれば、法によって保護されるべき「公益」や「公の秩序」として解釈される既得権益(例えば、米軍基地の建設や大規模開発などから個々の企業による労働者の搾取の制度まで)を覆す行為や組織であって、それ自体を犯罪化し権力による人権の強制的な制限(侵害)を行なうことは、公序良俗であれ公益や公の秩序であれ、その言い回しは様々だが、正当だとみなされることになる。これは政治活動の犯罪化だが、現行憲法では、たとえ捜査機関や政府が「犯罪組織」のレッテルを貼ったとしても、憲法上の結社の自由によってその存在そのものは保障され(注4)、その自由追求の権利は最大限の尊重はされないとしても否定はされない。また、政治的な目的意識性をもたない刑事犯罪目的の組織や集団であるからといって、国家はその構成員に対して人権の剥奪を恣意的に行使することが許されるわけではない。

犯罪者にも人間としての権利があり、この権利を敢えて強制的に剥奪することを定めたのが刑法であるということは、刑法に関わる立法問題を論じる場合の大前提になる。しかも、人間のどのような行為を犯罪として刑罰の対象にしなければならないのかを人類史全体を通じて普遍的なものとして定義することはできない。時代によっても文化や価値観、世界観によってもその定義は異なる。また、この犯罪と刑罰の規定を国家が独占しなければならない理由についても普遍妥当なものだというわけではない。この意味で犯罪と刑罰の普遍的な定義はない。このことは、どのような社会歴史認識を持つのか、どのように既存の犯罪と刑罰の制度を評価しているのかという、私たちが暮す社会への私たち自身の評価と切り離すことのできない問題である。

現にある社会が抑圧的であって、憲法が宣言している自由や平等の権利にすら違反していると考えて、権利を獲得するために現にある制度を打破することが不可欠だと考え、行動を起すことを考えてみよう。行動の内容は、言論である場合もあれば、路上で意思表示する場合もあれば、既存の政治的な意思決定の仕組みを利用する(選挙や議会の立法機能)場合もあるだろう。表現は多様であって、「自由」なものとして実践される権利がある。言論・表現・結社の自由をほぼ無条件に保障する現行憲法は、政治的な行動や表現をもっぱら議会制民主主義の狭い枠に収めるべきではなく(そうならば選挙権と被選挙権の権利さえあればいいということになる)、議会に収斂しない思想と行動の自由こそが必須だという立場をとっている。このことは憲法それ自身を否定する行動や言論をも保障する。社会の変化は、既存の制度を前提とする改良である場合もあれば、根底から統治機構を再構築する革命となる場合もあるし、その地理的範囲も、既存の国家の領域に限定される場合もあれば、分離独立となる場合もあれば、複数の国家の領域にまたがる場合もある。憲法が抽象的に(あるいは理念として)保障しているこうした革命の権利は、抽象的な権利でしかなく、具体的には、既存の社会秩序や政治体制の安定を優先させるために、下位の法律によって犯罪化されるが、そうであっても常に、自由の権利の限界をめぐって争いがありうるし、争うことなしには自由の権利も獲得できないという、積極的な意味で自己矛盾をはらんでいるのが基本的人権を保障する法の枠組だ。だから、自由の権利に関わる場合は、特にどのような行為が犯罪化されるのかという範囲をあらかじめ決めることはできず、政治と司法をまきこむ合意と妥協と原則をめぐる行為の解釈=政治学の世界に関わる。(注5)

つまり、共謀罪がもたらすであろう効果が、自民党が構想する改憲後のこの国の憲法体制を踏まえたとき、越境組織犯罪防止条約やテロ対策などの範囲を大きく越えるだろうということは疑問の余地がないということだ。共謀罪反対運動が持たなければならない反対の射程は、改憲後の事態をどのくらい考慮に入れているのか、私には鮮明には見えてこない。日弁連の反対声明でもこの点には言及がない。安倍は共謀罪なしではオリンピックは開催できないと繰り返しているが、本音は共謀罪なしの改憲はありえない、ということではないだろうか。共謀罪も改憲草案もその起草の主体は同じ自民党であるから、この両方を睨んで、共謀罪を解釈することは、私たちの自由の権利、とりわけ反政府運動にとっての抵抗権の非犯罪化にとっては不可欠な観点だ。


(注1)法案は、二〇〇三年第一五六回通常国会で最初に審議入りし、その後二〇〇五年の第一六三回特別国会に再上程されるが継続審議の扱い、第一五九、一六四国会においても廃案、第一六五回臨時国会、第一七〇回臨時国会でも継続審議扱いとなる。二〇〇九年七月、衆議院解散で審議未了廃案。

(注2)https://jimin.ncss.nifty.com/pdf/news/policy/130250_1.pdf

(注3)この改憲草案の二一条は、現行憲法一三条で生命、自由、幸福追及の権利について「公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政上で、最大の尊重を必要とする」とあったのを「公益及び公の秩序に反しない限り、立法その他の国政上で、最大限に尊重されなければならない」と平仄を合わせる形になっている。

(注4)例外として破壊活動防止法があり、その違憲性が議論の対象になってきた)

(注5)この国ではデモする場合に事前の届出が必要であり、車道の全車線を自由に利用する権利はほぼ認められないが、韓国ではソウル都心部の路上を全面占拠しての反政府運動があたりまえのようにして行なわれる。同じような光景は香港でも台湾でもみられるし、むしろ日本のような不自由は例外的に抑圧的だ。

共謀罪は改憲の先取りである

共謀罪批判の議論で不十分なのは改憲との関わりだろうと思う。

現行刑法は明治刑法が維持され、その成立は1907年である。第一章の大逆罪や不敬罪などの「皇室ニ對スル罪」が削除され、治安維持法、国防保安法なども廃止されたが、刑法の基本的な発想はそのまま残っており、内乱罪など国家への犯罪が刑法冒頭を占める構造は、最大の犯罪行為を国家に対する犯罪とする発想を示している。

しかも、戦時期に刑法学者が果した戦争責任問題への追及は曖昧なままだ。天皇主義イデオロギーを前提とした戦前・戦中の刑法学者(国体の本義に基づく日本固有の法学の確立を目指した「日本法理研究会」がその代表格か)が戦後も有力者としてそのまま残った。たとえば、小野清一郎は、法に「日本の道義」を持ち込み、天皇主義的な国家主義法学を唱道して西欧由来の法制度を批判したが、彼は戦時中の立場を戦後も公然と肯定しつつ、東京第一弁護士会会長、法務省顧問、70年代の刑法改正の中心的な役割をも担った。刑法学者の戦争責任問題への批判は、中山研一や白羽祐三(民法学者だが)など少数に限られ、法曹界総体の反省のスタンスは曖昧なままではないか。だから、憲法と違って、刑法は戦前と戦後の連続性は強く、学説も判例も戦前・戦中の議論が継承される。明治刑法は実務でも今に生きているのだ。

だから、刑法は戦後憲法に制約されてはいるものの、事あるごとに戦前回帰が顔を出す。70年代の刑法改正は、戦時期に未完成だった「刑法改正仮案」を継承して保安処分や国家機密漏洩罪などを新設することを目論んだが、実現しなかった。そして盗聴法から医療観察法まで2000年前後の司法改革は、ともにこの傾向を顕著に示してきた。厳罰化と犯罪化の拡大、罪刑法定主義の形骸化、そして対テロ戦争のなかで「安全安心」があらゆる政策に浸透して、世論も予防として犯罪取締を肯定し、既存の秩序を維持する警察の捜査を歓迎する風潮、そして安倍政権になって露骨になってきた排外主義の感情がそのまま治安監視の体制を支えるようになってきた。

共謀罪はこうした傾向を踏まえてその問題を捉えなければいけない。そもそも共謀罪が登場したときに、改憲派の自民党は共謀罪を支える思想信条の犯罪化、戦時中の言い回しでいえば「道義的刑法」の構築という危険な傾向を内包させたと言える。共謀罪が改憲と結び付く回路を明確に理解する問題意識を持つことが大切だと思う。改憲にも共謀罪にも共通するのは、法の道徳化であり、国家に収斂する個人の位置づけ(近代西欧流の個人主義の否定)である。共謀罪は刑法という領域で展開されている改憲の具体的な先取りであることを見落してはならないと思う。

刑法をめぐる二つの危機(既遂処罰原則の危機と犯罪概念の危機)──日弁連の共謀罪反対意見書へのコメント

日弁連が、2017年2月17日付で「いわゆる共謀罪を創設する法案を国会に上程することに反対する意見書」を公表した。

共謀罪についての政府側の最近の主張を踏まえた批判となっており、その内容の大筋については異論はない。内容もわかりやすく、法律の専門家ではない人たちにも理解できる内容になっていると思う。この日弁連の批判を踏まえた上で、日弁連の意見書では言及されていない論点について言及してみたい。

日弁連意見書は、批判の論点を「共謀罪法案は,現行刑法の体系を根底から変容させるものとなること 」「共謀罪法案においても,犯罪を共同して実行しようとする意思を処罰の対象とする基本的性格は変わらないと見るべきこと 」「罪名を「テロ等準備罪」と改めても,監視社会を招くおそれがあること 」に分けて展開している。これらの批判の論点に異論はなく、説得力のある批判だと思う。

現行刑法体系の原則とは以下のことだと説明されている。

「現行刑法は、犯罪行為の結果発生に至った「既遂」の処罰を原則としつつ、例外的に、犯罪の実行行為には着手されたが結果発生に至らなかった「未遂」について処罰する(刑法第44条)という体系から構成されている。」

既遂処罰の原則を共謀罪は大きく突き崩す危険性をもっている。法律の専門家の議論を別にして、政府であれマスコミであれ、あるいは地域社会であれ、「安心安全」や「予防」といった観点から犯罪だけでなく自然災害、病気、過失事故など様々な社会や個人が遭遇するかもしれない不利益や障害を未然に防止する対策を政府などが取ることを当然とする雰囲気がある。地震を予知することや病気の感染を予防することと犯罪を未然に防止することとを同じ平面で捉えることを当然とする思い込みが立法府の議員たちにもメディアにも存在するように思う。だから、交通事故を防ぐために警察が交通安全の啓発活動を行なうことや、流行しそうな伝染病を予防するためにワクチンを摂取する対策をとることと、犯罪が実際に実行される前に取り締まることとの間には、いずれの場合も、未然に被害を防止するという点では共通しているように見えてしまう。犯罪については、犯罪被害者を救済する最適な対策は、そもそもの犯罪を未然に防ぐことだという主張は、決して軽視してはならないそれなりの「説得力」のある主張だと考えないといけないだろう。この一見説得力のあるかに見える議論が欠落させているのは、「犯罪」という概念が社会的に規定されたものだという点だ。江戸時代であれ現代であれ地震は地震であるが、犯罪とされる行為は、法の定義によって与えられるものであって、時代や社会を超えて同じようには現象しない。犯罪を自然災害と同列に扱おうとするのは権力者の詐術であるということを認識することが何よりも大切なことだ。

犯罪をあたかも自然災害同様に未然に防止すべきとする一般的な犯罪についての理解が、共謀罪を容認しかねない世論の背景にあるから、最近の世論調査でも、共謀罪への危惧や批判は必ずしも大きいとはいえない数字になっているのではないか。調査によっては圧倒的に賛成が大きいというデータもある(時事:2017/02/17:賛成66.8%、反対15.6%、日テレ:賛成 33.9 %、反対 37.0 % 、朝日:賛成44%反対」25% など)こうしたデータは、振れ幅が大きいが(質問の方法でかなり回答が左右されることを示唆している)、日弁連に是非考えて欲しいのは、既遂処罰が原則だという刑法体系を共謀罪賛成と回答した人たちは果してきちんと認識していたのだろうか、あるいは反対という人たちもまた、既遂処罰の原則を念頭に反対したのだろうか、という点である。上に述べたように、むしろ既遂処罰の原則は、社会感覚としてもかなり揺らいでいるのではないか。この揺らぎは自然の成行きではなくて、政府が「安心安全」(警察は「安全安心」とも言うが)を繰返し政策の課題にして口に出すようになってきたことの効果ではないだろうか。とすれば、日弁連は、意見書の前提となる既遂処罰という基本的な刑法の原則を再度積極的に主張することが必要ではないかと思う。被害者が出るまで何もしないのか?という批判にきちんと反論できなければ、テロを未然に防ぐべきではないか?という主張にも反論できないだろう。このことはそもそも刑法とは何であり、処罰とは何を意味するのかを再度きちんと主張しておくことが必要だということである。

意見書は既遂処罰の原則を前提として共謀罪批判を展開している(これに私は賛成だ)ので、以下のような主張は重要だと思う。

「『未遂』の前段階である『予備』(犯罪の実行行為には至らない準備行為のこと)、さらにその前段階である「陰謀」(2人以上の者が犯罪の実行を合意すること)が処罰の対象とされる場合もあるが、れら『予備』や『陰謀』は各罪の中でごく例外的に処罰対象とされているにとどまる。この点は,現行刑法典だけでも、『既遂』が200余り規定されているのに対して、『未遂』は60余り、『予備』は10余り、『陰謀』はわずか数罪にとどまることからも明らかである」

共謀罪法案では、長期4年以上の刑が定められた犯罪が対象となるから、「未遂」「予備」にもならない段階で犯罪が一律成立してしまうことになり、既遂処罰の原則が根底から覆り、既遂処罰は刑法のなかの例外になってしまう。

日弁連が指摘していない論点がここにあるように思う。それは、そもそも「既遂」とは何か、という問題だ。犯罪が実行されたことをもって「既遂」というわけだから、未遂や準備、予備を独立の犯罪類型として認める場合、言葉のニュアンスとは別にそれ自体が犯罪だから未遂、準備、予備などと言われながらそれ自体が独立した犯罪となる。奇妙なことに、未遂といいながらそれ自体が犯罪であるという意味では既遂となり、既遂処罰の原則に符号するということになりはしないか。同じ理屈で、意見書で「犯罪行為の結果発生に至った『既遂』の処罰を原則」と述べているが、共謀罪が成立すると共謀=犯罪行為とされるわけだから、共謀の成立をもって既遂とされ処罰の対象となるということになる。こうなると共謀罪を前提とした刑法でも、既遂処罰の原則を維持しているという屁理屈が成り立ち、共謀罪ですら罪刑法定主義を逸脱していない、刑法の原則は堅持されていると言いくるめられかねない。既遂処罰の原則はもはや意味をなさない空文となる。日弁連の意見書が主張しなければならなかったことは、そもそもの「犯罪行為」とは何なのか、という点を明示的に示すことにあったのではないだろうか。実はこの犯罪とは何なのかが世間が抱く常識のなかで、道徳違反の行為や意識と区別がつかなくなってきているように思う。

こうした状況をみると、戦前、大正デモクラシーの時期に高揚した社会運動や反政府運動に手を焼いた政府が、その後、過激社会運動取締法案を出したり、思想犯保護観察法や治安維持法を成立させるなど治安立法攻勢を繰り返すなかで主張されたのが、刑法を「淳風美俗」や「美風良習」として捉える観点であったが、これが戦後完全に払拭されずに公序良俗論として延命した経緯を軽視すべきではないのではないかと思うのだ。司法や法学における戦前、戦中、戦後の連続性問題は別途検討すべき重大課題だろう。犯罪に対する大衆の社会感覚に、政府や司法が繰返し主張する「犯罪」や刑罰についての戦前から継承されてきた権力的な理解が影響を及ぼしてきていることの表れともいえる。戦前の感覚でいえば、共産主義やアナキズムはそれ自体が「犯罪」であった。こうした犯罪感覚は、大衆意識に支えられて容易に受容されたことを踏まえれば、どのような事柄を「犯罪」とみなすのかは、権力の意向に思いのほか左右されうるのであって(現在では、「テロ」なる曖昧模糊とした事柄がその格好の標的になっている)、自然災害などのように明確で客観的な範囲を確定できるものではないのだ。だからこそ、野放図に犯罪の定義が拡張されて道徳や思想信条の領域と区別がつかないことになりがちなのだ。刑法も司法もこのなしくずしに歯止めをかけられていない。

既遂処罰の原則が揺るぎをみせているという点は、日弁連の意見書にも反映している。意見書では「『予備』や『陰謀』は各罪の中でごく例外的に処罰対象とされているにとどまる。この点は、現行刑法典だけでも、『既遂』が200余り規定されているのに対して、『未遂』は60余り、『予備』は10余り,『陰謀』はわずか数罪にとどまる」と指摘する一方で、越境組織犯罪防止条約に関連して「我が国においては,主要な暴力犯罪について,『未遂』以前の『予備』、『陰謀』、『準備』段階の行為を処罰の対象とする規定が相当程度存在している。 」とも指摘しており、既遂処罰の原則が現行刑法でもかなり揺らいでいることを示唆している。問題は、予備、陰謀、準備など既存の刑法の規定を肯定する前提にたって越境組織犯罪防止条約の批准は可能だという論理を組み立ててしまうと既遂処罰原則と整合しない。むしろ既遂原則を徹底させるべきだという観点に立つとすれば、既存の刑法にある予備、陰謀、準備などの犯罪化あるいは処罰を見直すべきだという主張になるのではないか。しかし、そうなると越境組織犯罪防止条約は批准できないかもしれず、批准を肯定する日弁連の立場と矛盾する。問題はそもそも越境組織犯罪防止条約が必要なのかどうかというところに立ち戻らざるをえないのではないかと私は考える。(私は以前書いたように、条約が目的とする実際の効果が全くないなかで法執行機関のグローバル化を助長するだけの条約には反対だ)

こうしてみると、そもそも現行刑法が既遂処罰の原則を徐々に逸脱しはじめており、なしくずし的にこの原則を形骸化していることをも視野に入れ、こうした方向を下支えする世論や政府(執行機関)の犯罪と処罰への誤った理解を是正することに日弁連はもっと力を傾注する必要があるのではないだろうかと思う。

かつて、1970年代前半に刑法全面改正を法制審が提案して大問題になり頓挫したことがある。当時、日弁連は『自由と人権を守るために:刑法改正読本』(日本評論社、1975年)の冒頭で次のように述べていた。

「もともと、国家が国民を統治支配するさまざまな手段のなかでも、刑法は、最も強制力の強い最後の手段であり、刑法はそのあり方を定める基本法です。したがって、刑法が何をどのように処罰するのかは、国民の生活と権利に密着する大きな問題であり、その国の政治形態や民主主義のあり方に深く結びついているのです。」

この当たり前の観点を今再確認しておく必要がある。とりわけ「強制力の強い最後の手段」という位置づけは今ではほとんど忘れられているのではないか。刑法ほど「国民」(わたしは、刑法の問題でこの概念を用いるのは間違っていると思うが)に対して強い力をもつものはない。そしてその実際の力を握るのが警察であるということをも念頭に置く必要があるだろう。この点を踏まえると、意見書は、法案の条文解釈や政府の答弁についての解釈を超えて、司法や警察が法を恣意的に解釈して運用している実態に踏み込んだ批判にまで至っていないように思う。上に述べた既遂処罰原則が揺らぐように警察が「安全安心」を先取りする捜査や取り締まりを実施できること自体を問題として、警察権力を規制する具体的な立法や法改正をも同時に提言する必要がある。沖縄平和運動センター山城博治議長を4ヶ月以上も拘留するようなことが実際に可能になっており、これを警察だけでなく裁判所も最高裁すら容認したことは、警察の捜査、逮捕拘留の異常な手法に最高裁がお墨付きを与えたことになり、これは全国に拡がる危険性が高い。こうした現状を踏まえると、共謀罪が成立した以降に起きるであろう事態はより深刻であって、問題は共謀罪だけではなく、既遂処罰の原則と刑法の基本的な意義を逸脱しないように警察権力を抑制する法律の制定をも視野に入れなければ、恣意的な法の運用による民衆的自由への抑圧はますます強まってしまう。

冒頭に述べた通り、日弁連の意見書が共謀罪の上程を目前にしたこの時期に出たことの意義は非常に大きいと思うし、世論や国会での審議にも少からぬ影響力をもつことを期待したい。この期待を踏まえてなお、敢えて何点か私見を述べてみた。法律の専門家からすると雑駁で的はずれの議論や批判かもしれない。ご意見などあればお寄せいただきたい。

絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(4・終)

絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(1)
1.今国会への共謀罪上程に際しての政府・自民党のスタンス
2.戦後体制はそもそも絵に描いた餅だったのかもしれない
絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(2)
3.共謀罪容疑での捜査に歯止めをかけることはできない
4.越境組織犯罪防止条約は批准する必要がない
絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(3)
5.共謀罪を支える操作された「不安」感情
6.テロリズムのレトリック
7.オリンピックと共謀罪(以上前回まで)


8.国会の審議は、法とその執行とは本質的に異なる次元の事柄だ

今回テロ対策を前面に据えていることから、共謀罪のターゲットが刑事犯罪一般を包摂しつつ、政治的な行為への取り締まりに重点を置くように、その対象が質的に拡大されたといえる。このことを踏まえて私が危惧するのは、これまでの警備公安警察の対応からもはっきりしていることだが、警察による恣意的な法解釈に対して、国会の議論は全く歯止めにはならないということだ。(だから審議をすることは無駄だと言いたいわけではない)議院内閣制をとり、憲法裁判所がなく、三権分立というよりも三権分業体制で国家意思に民衆を統合するような制度構造上の欠陥にその原因があるが、これは戦前も戦後も変るところはない。自らもその一翼を担う「国家」こそが権力の主体であり、民衆は権力の「客体」あるいは権力に従属すべき存在であるという意識を再生産するような構造が基本にあると言わざるをえない。戦後憲法の主権在民が現実の権力機構のなかで具体化されているとはいえないのだ。私たちはこの意味で、深い絶望をかかえながら国会の審議を注視しながら廃案を主張しつづけなければならない。

立法府の議論が、法の理念や条文がもつ普遍的な真理に関わるものであるかのように教科書は教えるが、このような議論は国会ではほとんど意味をなさない。学者や弁護士などの見解が公聴会などで聴取されることがあっても、それが国会の議論の実質を左右することはない。形式的な手続き以上のものではないが、やらないよりはマシだし、法案を廃案に追い込むための戦術として利用できるという意味はあるが、そこで議論された内容が法案審議を左右することはまずない。カール・シュミットが『現代議会主義の精神史的状況』で指摘していたように、議会は理念とは関わりのない政治的な打算と妥協のための取引きの場にしかならない。やっかいなのは、こうした議会のありかたが議会制民主主義の本質であるにもかかわらず、これを形骸化された姿だとして「真の」議会制 民主主義がありうるハズだという期待を政権に批判的な左派が抱いてしまうところにある。打算と妥協の議会政治は近代国民国家の構造的な欠陥であるから、どこの国でも、議会政治は腐敗の温床となり、既存の権力への異議申し立ては、議会政治に収斂せずに、大衆運動として議会外に登場する。言い換えれば、議会政治の外でしか、政治や統治における理念や理想の言説や行動は存在しえないと言ってもいい。多くの有権者は、国会はある種の茶番だとも感じているのではないか。投票率は下がり、センセーショナルな「劇場型」と呼ばれる無意味な熱狂を煽る政治家たちが人気をとる一方で、シリアスな政治への無関心が拡がる。政治に無関心な若者たちが暗に批判されたりするが、これは的はずれで、むしろ彼らの関心を逸らすような国会の茶番に加担しないような国会との関わりを反政府運動の側も工夫することが迫られているとはいえないだろうか。この茶番を通じて執行権力の正統性を支える法が成立し、人びとの権利は、この茶番を通じて抑圧されるという厳然たる事実は揺がない。

権力の恣意的な法解釈と適用の問題は、三権分立ならぬ三権分業の権力構造以外にも、もっとやっかいな問題がその背後にはある。そもそもの法律が抽象的な文章で成り立っているのに対して、法律が適用される対象は個別具体的な事柄だから、この両者の間に解釈の主体を立てなければ、法律は実効性をもたない。法律学の課題の中心にこの解釈という問題があるが、これは法律の問題というよりも、コミュニケーション一般が抱え込んでいる平等を阻害する問題にその根源がある。

やや迂遠な話をしたい。どのようなスポーツにもルールがある。スポーツの試合で、選手の行動を見て、その行動がルールブックにある違反にあたるかどうかを審判が判断するが、審判がやっていることは、実際のプレイヤーの行為を注視しながら、彼/彼女が解釈する抽象的一般的に記載されたルールを参照しつつ違反かどうかを判断する。一方に言葉によって説明される抽象的な世界があり、他方に言葉ではない具体的な行動の世界があり、この両者はどこまでいっても交わることのない二つの世界だ。解釈する者たちは、行為者と法の間に立つのである。プレイヤーもルールを「理解」しているが、違反の有無を決定する権限は持たない。ルール解釈の主体は審判であり、ルールを制定した者ではない。ルールに書かれた言葉の解釈は一つではないし、プレイヤーの行動の判断も一つではない。この言葉と現実の間の解釈をめぐる関係は、一般的にいえば無限に複雑で安定しない。しかし、安定させる(固定化させる)条件が、解釈の強制ともいえる力の存在、つまり唯一のルールと行為の関係についての判断を担う審判の存在である。ここでいう力は暴力の意味ではなく、人びとがその解釈を当然のこととして受け入れる解釈者=審判の権威である。プレイヤー相互の関係は平等である。しかし、ここに審判という存在を介入させると、当事者相互の関係は平等にはならず、ルールを現実の行為に適用する特権的な存在が登場する。ルールの策定者は、この全体のゲームをメタレベルで規定する存在でもある。ルールそのものを変更することができるのはルールの策定者である。既存のルールに納得できないとしてもプレイヤーにも審判にもルールを勝手に変更する権限はない。ルール変更の問題は、誰にルール策定の主導権があるか、という別のレベルの政治的な力の問題である。権力全体の構造でいえば、ルール策定の主導権をとるとともに、審判としてルールを解釈し適用する実際の力をも合わせて持つことによって、ゲーム全体を支配する力を獲得できるということになる。これが独裁と呼ばれる構造である。ルールが上記のような仕掛けを必ずもつということではない。多分近代スポーツのゲームのルールの構造は、近代の統治機構のルールの構造をどこかで模倣しているところがあるのかもしれない。いずれにせよ、この構造においては、その関係者相互の間には平等は存在しえない。

上の例を社会に置きかえると、ルールを策定するのは国会であり、プレイヤーは人びと(「国民」とは限らない)であり、審判は行政や警察などの法執行機関ということになる。このように考えればわかるように、国会の機能は、法律を適用する主体であり解釈者でもある執行者を規制できない。スポーツのルールと決定的に異なるのは、国家が 民主主義を標榜する場合、主権者は、立法者でもあると同時に、法律が適用される対象となる「国民」でもあるという仕掛けを通じて、あたかもルールの策定者と適用される対象が同一の社会集団であるかのような装いをとることで、ルールの正統性(自分たちで決めたルールだからルールを守るのは当然の義務である)を維持しようとする点にある。しかし、法律解釈という避けられないこの過程は、この装いに反して、解釈による支配という関係を挿入することになる。ここに「法による支配」の限界と抜け穴がある。圧倒な力をもって全てに優越するのが、執行機関ということになる。ある行為に対して「恐喝」という名前で呼ぶかどうかは、恐喝という言葉をどのように解釈し、これを当該の行為と結びつける妥当性を判断する解釈の当事者が担うことであって、立法者の立法意思に従属しない。他方で立法者は「恐喝」を法律に書きこむことによって言葉のレベルで違法性の定義を与えることができる。このことがあって初めて、法執行機関は、この法律に書き込まれた言葉を現実の行為に適用し解釈することが可能になる。

こうして、人びとが執行機関としての国家の権威を受け入れることを大前提として、法律の解釈をこの権威の担い手に委ねることによって、自らの主体的な解釈を放棄する。しかし、国家の権威が揺らぐとき、この強制的な法律解釈も揺らぎ、無限のカオスともいえる解釈の混沌が露呈する。これは法律の正統性の危機を意味する。反政府運動が、法案に反対するとき、その反対の言説や解釈が多くの人びとに受容されるということは、国家の法律解釈の権威が揺らぐということの具体的な表れである。権力は法律解釈の権威を維持するために、対立する解釈を排除しようとするか、人びとに解釈の妥当性を説得しなければならなくなる。この一連の解釈をめぐる対立は、民主主義という手続きを通じてある種の停戦協定を結ぶことになる。対立は宙吊りにされるが、国家の権威はその限りで維持され、民主主義はこの国家の権威の一端を担うことにもなる。しかし、これは本質的に法律が内包する欺瞞から人びとを解放することとは別の問題である。

実はもうひとつ別の意味での国家の権威の揺らぎもある。反政府運動の抵抗を前にして、あるいは、政治的な運動とは呼べないにしても、社会のなかのマージナルな集団が社会的に大きな力をもって政府の権威を拒否するとき、デュルケームが言うような「アノミー」の状態にあるとき、しかもそれらが深刻な状況にないにもかかわらず他方で戦争のような国民統合の必要があるとき、政府自らが国家の危機を演出することがある。国家の権威の揺らぎを偽装するわけだ。そのときに用いられる言説が、民族や文化的な価値といった擬制であるが、この危機の言説を梃子にして、仮想の「敵」を構築して、この「敵」をターゲットとして新たな法規範を構築しようとする。

9.冤罪、転向の強要、法の道徳化...

さて、このややこしい行為対象と言語で構成された法律と、これらを「解釈」する法執行の主体の関係が共謀罪の場合どのような問題を抱えこむだろうか。この法律と現実の間にある「解釈」という問題が、共謀罪のような具体的な実行行為ではないコミュニケーションに適用されるとどうなるのあろうか。コミュニケーションという「行為対象」は言葉で構成されているから、この言葉は物的な証拠によって確定されるのではなくて、言葉の解釈に依存する。物的証拠の解釈と言語の解釈は同じではない。自白は言葉による過去に行なわれたとされる行為についての告白だが、自白の信憑性を裏付けるためには物的な証拠が必須となるのは、言葉が真実の表明であるという必然性がないからだ。しかし共謀罪の場合、いかなる意味においても物証はない。あるのはコミュニケーションだけである。捜査機関によって共謀と解釈されるコミュニケーションがある種の「自白」に準ずることであるとしても、未だ実行行為には至らない以上、その「自白」の信憑性を証明する客観的な事実は存在しない。こうして共謀罪は、「言ったこと」は「やったこと」と同じこととみなすという前提をとることになる。「言った」以上は「やっていない」としても、共謀罪として立件できるというのは、このことを意味している。自白の偏重どころか自白のみで、その信憑性の証明も実行行為の有無も抜きにして犯罪として処罰できる。こうした共謀罪の本質が、既遂や未遂のこれまでの取調べや裁判の判断に逆作用する危険性があり、ますます自白偏重、疑わしきは被告人の不利益へと転換してしまうきっかけを与えてしまう。

以下、これまで述べてこなかった共謀罪をめぐる重要な論点を二つだけ取りあげる。

一つは、共謀罪における冤罪の問題である。共謀罪は、冤罪事件にも甚大な影響を及ぼすことになるだろう。そもそも共謀罪で有罪とされた場合、これを冤罪として再審に付すにはどうしたらいいのだろうか?相談も会合にも参加していないのに誤って検挙、起訴、有罪となった場合であればいざしらず、相談に参加し、議論のなかでは行動に賛成の意見を述べたが、考えを変えて、組織の方針を決定する無記名投票では反対票を投じ、その後も組織のメンバーではあり続けたが行動には参加しなかったような場合はどうだろうか。共謀罪は、会合での発言を証拠として、会議に参加したというだけで立件できてしまう。しかし、会議で行動に賛成しながら反対の投票をしたという主張を裏づける物証はない。検挙された本人は取調べで、「自分は反対に投票した」と主張した場合、捜査当局は、一方で会議での本人の発言のみを共謀罪容疑の証拠としてとりあげ、「行動には反対の票を投じた」という本人の取調べでの供述は退けるという恣意的な対応をとることになる。あるいは、会議での様々な意見にもかかわらず、最終的な議決によって採択された行動を理由に、会議に出席していた参加者全員を共謀罪で立件するということも可能かもしれない。こうしたケースは、決して例外とはいえないだろう。討議の過程で参加者の意見が変化するのはごく普通にあることであって、それこそが平場の民主主義だ。討議の結果としてなされた決定に全ての参加者が同意しているとはいえないのが民主主義的な組織の通常のありかただろう。コミュニケーションの内容の何をどのように解釈するのかを物証のない段階で確定することは恣意的にならざるを得ないのだ。参加することを犯罪とするのではなく共謀を犯罪とするとしながら、実際にはコミュニケーションの内容がどうであれ、会合に参加したこと自体を、あるいはある団体や集団に属していること自体を処罰の対象とすることになるのではないだろうか。

二つ目は、反政府運動など、確信犯としての政治犯の場合の刑罰とは何か、という問題である。戦後憲法の建前からすれば政治犯罪はありえない。統計上も日本には政治犯は存在しないことになる。すべての犯罪は一般刑事犯罪であるとされる。しかし実際には、政治的な権利行使を弾圧する手段として、その容疑者を一般刑事犯に偽装して処罰するというのが現状だ。一般に、刑罰は、見せしめを目的とする応報刑の観点であれ、社会への再統合を目的とする教育刑の立場をとる場合であれ、「犯罪」行為の阻止の手段とされる。この場合、刑罰の対象は、違法な行為の実行が主として問題とされるから、内面はどうあれ、実行行為を抑止する効果が期待される。では、思想信条の自由が憲法で明記されるなかで、政治的行為が犯罪として処罰されるという場合、どのように考えられるのだろうか。政治犯も一般刑事犯と同じように刑罰を課されるが、その目的もまた一般刑事犯と同様に、行為の動機や動機をもたらすことになった思想信条が「犯罪」の根拠であるとして、こうした思想信条の除去が図られることになりはしないだろうか。共謀罪は、実行行為が不在であり、存在するのはコミュニケーションだけだから、とりわけ対象になるのはコミュニケーションの内容になる。こうなると、思想信条自体が共謀罪という犯罪を生み出す原因になるとして、思想信条の放棄、つまり、転向を強要することになりはしないだろうか。

これは、法が道徳をまとって、道徳を強制する手段になるという問題だと言ってもいい。犯罪と呼ばれる行為を一般的に定義するとすれば法律に罪として明記された行為のこと、とでも言う以外にない。しかし、他方で、ある種の通念として、犯罪は道徳や社会的な慣習などに著しく反する行為を意味するようにも思われている。たとえば人を殺すことは道徳的に認められない行為なので、こうした反道徳的な行為を法律で犯罪として明記して処罰の対象にしているのだ、と理解されがちだ。一般に、道徳に反する行為を法律で処罰の対象とすることに多くの人びとは抵抗感を持たないからだ。

しかし他方で、道徳的には「悪」とされる場合であっても法が積極的に合法だと認める場合がある。刑法第三十五条 には「法令又は正当な業務による行為は、罰しない。」とある。だから第百九十九条で「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する。」とあっても、「 法令又は正当な業務による」殺人は罰せられないことになる。業務による殺人とは、死刑執行がその典型だ。警察官が拳銃を所持しているのも業務上の殺人の可能性を認めているからだろう。日本では今後議論されるだろうが、一般に軍隊の殺人が犯罪にならないのもこうした規定がどこの国にもあるからだ。道徳的にいえばいかなる殺人も例外なく「悪」とすべきだろうが、法はこうした意味での道徳とは一致しない。

したがって、何が犯罪かは、普遍的な「罪」(キリスト教でいう原罪のような観念)の定義から導くことはできない。法律で犯罪として掲げられるから犯罪になるのであり、法律に先立って犯罪行為があるわけではない。犯罪に対する刑罰は、理由の是非は別にして、社会が定めたルールに違反しないことを約束させるための懲罰あるいは「教育」や「訓練」、つまり社会への再統合のための措置である。「なぜ、それが違法なのか」という問いは意味をなさない。有無をいわせずルールを守ることを強いることになる。

このように、法律は死刑や戦争での人殺しのように道徳に反して人殺しをすることを合法とするという意味でいえば、道徳よりも国益に加担するものともいえる。刑罰が犯罪者を社会復帰させて、社会の秩序に統合することを意図するものだという面でいえば、違法行為者への刑罰は、行為に至った動機や意思に含まれる当該社会が道徳や倫理とみなす価値観に反する個人の内面への処罰を含まざるをえない。犯罪を犯したことを自覚して反省するということは、取調べから裁判の過程で常に被疑者に要求される。改悛の状を示すことが、拘留や量刑を左右する。これは、内面に対する権力のあからさまな干渉であるが、最小限、違法な実行行為を抑制する判断力さえ持てればそれで刑罰の役割は果たしたともいえる。こうしたことを前提にすると、共謀罪が、反体制運動や反政府運動などの政治活動に適用された場合、共謀罪という犯罪を犯した者に権力が要求する更生の内容や刑罰は、そもそも実行行為を処罰するわけではないのだから、思想を抱いたことを反省させ、そうした思想を棄てて転向することを強要することになりはしないか。二度と違法となるような意思や思想や信条を抱くことのないよう要求することになる。民進党のように、構成要件を厳格にすれば共謀罪はあってもいいなどというのは、刑法が違法性と刑罰に込めた社会への適応や更生の前提が思想信条の転向の強要に及ぶことになる共謀罪の本質を理解できていないと言うしかない。共謀罪が内面の自由を抑圧して、支配的な価値観への服従を要求せざるを得ないものである以上、これは廃案とする以外にないのだ。

10.おわりに

この長いエッセイでは、主として反政府運動が共謀罪によって被るであろう権利侵害を念頭に置いて書いてきた。これとは別に、一般刑事犯の問題や文化犯罪学が対象とするような文化的な表現の犯罪化が共謀罪の成立で被る深刻な問題は別途検討してみたいと思う。

やや総括めいたことを最後に書いておく。まず、私たちが自覚しなければならないのは、現在の日本が確実に対テロ戦争の一方の当事者として「戦時体制」のなかにあるということである。共謀罪は、この戦時体制が必然的に要求している法による民衆支配の枠組である。そして、テロを真正面に据えてきたことからもはっきりしているが、反政府運動を主要なターゲットにしているのであって、このことは、広範な市民運動や草の根の地域の運動を公然と監視対象にできることを意味してもいる。共謀の証拠を収集するためには何はともあれ監視の強化が図られることは間違いない。

この戦時体制を覆すことが文字通りの意味での法の支配を最低限実現する上では必須であるが、それは長期的な展望でいえば、近代国民国家が構築してきた権力の構造の限界と矛盾を解決するものではないから、その先を見据えることも必要になるだろう。

近代の民主主義と憲法の理想が掲げられたこの数世紀、あるいは20世紀以降の歴史は、より平和で平等な世界を実現する方向で展開してきただろうか?むしろ逆ではなかったか。共謀罪に体現されている問題の背景には、近代国民国家が建前としてきた法治国家の欺瞞が露出してきたということではないかと思う。日本に即していえば、1945年の断絶は支配者にとっては決定的ではなかったということ、刑法の分野でもそういえるのではないか。とすれば、支配者の本音は、行動の取り締まりではなく、思想信条の段階からの取り締まりを欲しているということになるのえはないか。戦後は、こうした思想信条の取り締まりを一般刑事事件の枠組を転用して遂行してきたが、憲法が弛緩するなかで、徐々に、思想そのものの犯罪化が前面に登場し、わたしたち民衆の自由は、今でこそ風前の灯にあるのに、権力の自由によってますます隅に追いやられるということになるのではないか。

こうしたなかで、いわゆる「民主主義」や「憲法」といった既成の法の枠組は、権力の自由な行使を正当化するような力として存在するようになってきたのではないか。そうだとすれば、民主主義や憲法あるいは法治国家という制度には、権力の独裁を正当化する欺瞞を生み出す根源もあるとはいえないか。もしそうだとすれば、わたしたちは、むしろこうした統治のメカニズムに内在している限界を越えることを意識的に目指すべきではないか。私たちはもっと大胆に、近代の国家や民主主義がもたらした悲劇に目を向け、これを覆すに足る想像/創造力を獲得しなければならないのではないか。とはいえ、この国の歴史は、近代西欧の価値の転覆といった言説を「近代の超克」=日本的な価値の再認識といったファナティックな愛国主義の言説に接合してきた経験をもっている。とりわけ転向したマルクス主義者が抑圧や搾取の理論を欧米帝国主義批判=アジア解放の盟主としての日本といった荒唐無稽な物語に改竄して応用するという歴史を持ってきたことを決して忘れてはならない。こうした転向は戦後も繰返し出現しており、この傾向は今後更に加速化するだろう。

反政府運動が基本的な理念として、「日本」とか国家といったつまらない言説にとらわれない想像/創造力をなぜ持てないのだろうか。人類200万年の歴史のなかで、ほんの数世紀の出来事でしかない近代の国家や法が人類の普遍的な価値を体現できる統治の仕組みだというのは、「神話」である。200万年の歴史の経験はもっと別の可能性を教えてくれるはずだ。この近代の価値の欺瞞に気付いた世界中の民衆が、その是非は別にして、そうではない価値を模索して試行錯誤しているのが現在の状況ではないか。16世紀以降の近代の時代は、戦争と侵略が近代国家と議会制民主主義の理念と表裏一体で登場した時代だということを忘れるべきではない。民主主義も憲法も国境を越えることはなく、国境の外に抑圧を生み出し、しかも憲法も民主主義も茶番と擬制の言説として形骸化の過程を辿ってきた。右翼ナショナリストも宗教的な原理主義もこのような近代の価値観の枠を越えることはできないだろうと思う。世俗的な左翼もまたこの罠に自ら陥いるのであれば墓穴を掘ることになるが、逆に、全くこれまでにない人間の集団性の規範を構想する開かれた可能性を持つことができさえすれば、その存在感を失うことはないだろう。私はまだその可能性は十分あると考えている。(おわり)

絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(3)

絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(1)

1.今国会への共謀罪上程に際しての政府・自民党のスタンス
2.戦後体制はそもそも絵に描いた餅だったのかもしれない
絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(2)
3.共謀罪容疑での捜査に歯止めをかけることはできない
4.越境組織犯罪防止条約は批准する必要がない(以上前回まで)


5.共謀罪を支える操作された「不安」感情

かつての共謀罪では、越境組織犯罪防止条約でいう文字通りの意味での組織犯罪(薬物、銃器、人身売買などを念頭に置いた条約である)を主要なターゲットとするものとされたが、その対象犯罪や処罰の内容から、深刻な副作用として、社会運動や市民運動あるいは政治活動などへの弾圧の手段として共謀罪が用いられるであろうという危惧がもたれた。しかし今回は、条約を根拠にしながらテロ対策を前面に打ち出した。このことが、反政府運動にとっては、深刻な副作用どころか、自らの運動が主要なターゲットとされて共謀罪が登場したということを意味している。こうなると共謀罪を活用するのも、刑事警察よりも警備公安警察になる危険性が高くなる。これが治安維持法の再来ではないかと言われる所以でもある。

人びとの行動を新たな立法で取り締まるために政府が用いる手法は、人びとの不安を煽るという方法である。(不安という感情をめぐる問題については拙著『絶望のユートピア』参照)不安感情は、自分ではどうすることもできない未だ到来していない脅威と感じる何ものかを想起することによって喚起される。明確にその存在が実感できる脅威には恐怖や怒りの感情が対応するが、不安は、あいまいで漠然とした将来自らの身にふりかかるかもしれない具体的に指し示すことのできない出来事への畏怖の感情である。テロリズムは恐怖(terror)の感情を喚起するものであるとすると、この感情とは本質的に異なる。不安の解消は、このような未だ存在しない事柄そのものを排除する力によって与えられる。共謀罪がテロリズムを前提とした立法であると言われながら、もっぱら政府が強調するのは恐怖ではなく不安感情の喚起である。感情のレベルで共謀罪を正当化するために、なぜ恐怖ではなく不安感情が煽られるのかといえば、共謀罪を必要とするような具体的で目前にある恐怖がそもそも不在であるからだが、それだけでなく、不安感情そのものが権力が自らの統治の自由(逆に、人びとの自由の抑制)への人びとの同意を獲得する上で欠かせないものだからだ。

共謀罪賛成の議論は、犯罪が起きてから対処するのでは被害者が出ることを防げないではないか、という不安感情に訴える議論を展開し、被害を出さないためには、犯罪の実行行為に至る前に取り締まりをすることが不可欠だと主張する。こうした言説は、誰もが犯罪は起きるよりは起きない方がいいと考えるから、犯罪への不安感情を当然の感情とみなして、実行行為よりもずっと手前のコミュニケーション(実行行為の是非をめぐる意見交換やデイスカッションなどから実行行為を想定したとみなされうる議論などまで)に遡って、犯罪抑止のための捜査や取り締まりを実行することが「安全・安心」を確保する最善の方法であるとして、共謀罪を正当化するなかなか手強い主張である。

しかし、そもそもこうした不安感情という主観的な実感の構造を当然の感情として前提していいのだろうか。不安を喚起する感情の構造は、哲学や心理学が想定するような個人の内的な精神状態(キェルケゴールであれハイデガーであれ、精神分析であれ)ではなく、人間の社会的な関係に深く影響を受ける操作的な感情である。権力は人びとの不安感情を操作することを通じて、自己の権力基盤を強化しようとするという点を見落してはなるまい。不安感情は実感として個々人が感じとるので、この実感を否定することは難しいが、不安の根源にある事態が、この感情を惹起するに値いするだけの根拠をもっているかどうかについては、権力の意思をかなりの程度反映している。例えば、政府は、原発による放射能汚染や被ばくのリスクに対しては、人びとの不安感情を風評被害などと称して否定する。米軍基地やオスプレイのリスクへの住民の不安感情も政府は否定し、反対運動が不安感情を煽ると批判する。その一方で、アベノミクスがもたらす雇用不安や貧困の不安を「成長」の夢物語や金融市場の価格操作で帳消しにしようとする。政治の言説では、不安は常に「敵」によって喚起されるものとして物語が構築されるから、不安の解決とは「敵」の排除にある、ということになるから、不安の排除=安全・安心=予防的な措置による「敵」の除去あるいは排除という等式が当然のように持ち出される。例えば、さし迫った脅威もないなかでオリンピックへのテロや朝鮮民主主義人民共和国への不安が煽れる。つまり人々の不安感情の構造は、個人の内面から説明することはできず、人間の社会関係によってしか説明できず、ここには権力の自己維持機能と不可分なメカニズムが組み込まれているということである。

テロの言説は、本来は恐怖の言説であるが、差し迫った恐怖が不在なときにこの言説は不安の言説に転化する。あるいは権力者はこうした語の効果を計算に入れて、不安を煽る目的でテロリズムを口にする。権力者にとっては、自らの権力に敵対する存在は、権力にとっての脅威であり、具体的な誰が、という特定ができない大衆的な敵対(反政府運動の集団性)こそが、それがいかに少数であっても、その背後に不可視の大衆的敵意の影を感じる権力は、不安をかきたてられる。権力は、この不安を人びとの感情に転移させて権力の不安をあたかも人びとの不安であるかのように生成する。その具体的な転移のメカニズムが立法による反政府運動の犯罪化であったり、マスメディアなどを利用した世論操作であったりする。権力に敵対する大衆と権力の不安を内面化した大衆という二つの大衆的な感情の摩擦が生み出される。反政府運動のデモや集会は、既存の社会秩序への正当な異議申し立ての権利であり、民主主義を標榜する国家であれば当然存在する多様な価値観の表明だから、こうした対立は社会の正常な姿である。しかし、権力の正統性が揺らいでくると、こうした対立を調整する力を喪失する。あらゆる反政府運動をテロと連動するかのような物語をつくりだして、秩序を乱す犯罪行為に分類しようとする。反政府運動は権利の運動ではなく、人々を不安に陥れる不穏な活動であるという印象を植えつけようとし、権力にとって、うさんくさいもの、自分たちの存在を脅かすかもしれない不安なものを、大衆の心理に転移させようとする。大衆のなかに、それがたとえ自分の思想信条とは異なっていても民衆的権利の行使であると冷静に理解することが不安感情によって妨げられるようになる。こうした不安感情が大衆意識として醸成されることによって、思想信条やライフスタイルにおけるマイノリティは社会的排除の対象となる。権力は、民主主義や自由の権利を掲げながらも、支配的な思想信条と相容れない思想信条への不安を巧みに扇動し続けることによって、現政権の支配的な思想信条を正当化し、敵対する価値観に基づく運動を犯罪化して排除しようとする。欧米諸国であれば、イスラム教が、逆にムスリームの諸国ではキリスト教が不安をもたらすかのような雰囲気が醸成されてきた。あるいは、西欧資本主義諸国では、一貫して共産主義、アナキズム、無神論が不安をもたらすものとして「法律」によって犯罪化されさえした。社会主義の諸国でも資本主義やアナキズム、宗教的信条が犯罪化された。近代国家日本は、戦前から現在まで一貫して、この「不安」を、共産主義者やアナキストあるいは新興宗教といった思想信条をもつ者たちと、周辺諸国の人びと(「日本」へのアイデンティティを持つ必要のない人びと)に向けてきた。

こうして、この不安に対処するためには、未だ起きていないし起きることが確定しているわけでもない出来事を除去することがその対処方法だとみなされがちであるから、政府は、こうした不安感情を政権にとって有利なように操作する一方で、政府こそが不安を解決できる力をもつこと、この不安を解決するには、不安の元凶である「敵」を予防的に排除すること、そして政府にはこうした予防措置をとる力があることを誇示して不安感情を解決できる唯一の存在であることを印象づけようとする。政府は、既存の社会システムの矛盾を棚上げにして、不安の原因をもっぱら「犯罪」や反政府運動の当事者に転嫁する。

従って、不安感情は、既存の支配システムへの依存感情を生み出し、この感情を政治的に操作するなかで構築されるものだということを理解することが必要だと思う。犯罪は、こうした不安を醸成する最も一般的な行為とみなされる。この観点から見た場合、法律は、不安というあいまいな感情生成の政治社会構造に支えられて、あらかじめ不安を除去する権力の行動を正当化する一方で、人びとが自らの自由を権力に譲渡し、権力の自由な行使に委ねるための規範メカニズムだとみることができる。

6.テロリズムのレトリック

テロリズムは、反政府運動を不安の感情のなかに絡めとることを通じて、権利の犯罪化を正当化するためのレトリックの言葉となる。だからテロリズムの定義は、法律の条文でどのように規定されようと、語の意味内容を指し示すことはない。この語の本質は、権力がみずからにとっての不安や脅威となるであろう存在を排除する力の行使を正当化するための概念として権力によって与えられるあいまいさをその本質としている、とでも言うしかないものだ。つまり国会でいかに重箱の隅まで突っ突いて条文解釈の厳格さを担保するような議論をしたとしても、条文の恣意的な解釈と現実への適用を国会が制約することなどできないということだ。

今回の法案上程の趣旨は、条約を盾にとってテロ対策をメインにもってくることによって、むしろ社会運動、市民運動や政治活動を主要なターゲットとするものとなったわけだが、このことを条文に即して述べておく。

法律でテロリズムの定義が示されたのは2013年の不特定秘密保護法が最初かもしれない

「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう」

この定義は、2016年に成立したドローン飛行の規制法(国会議事堂、内閣総理大臣官邸その他の国の重要な施設等、外国公館等及び原子力事業所の周辺地域の上空における小型無人機等の飛行の禁止に関する法律)にもそのまま継承されている。しかし、ここで定義されているテロと称される犯罪が、対テロ戦争以降起きたことはない。この意味では、立法事実を欠いた政治的な意図をもった法律だといえる。

また、一般に「テロ資金規制法」などと呼ばれる法律(正式には「公衆等脅迫目的の犯罪行為のための資金等の提供等の処罰に関する法律」)では、条文にテロリズムの文言はないが、対象犯罪を「公衆等脅迫目的の犯罪行為」として、第一条で次のように定義しており、テロリズムの定義とみなしうる内容といえる。しかしこれもまた、この定義に該当するような事件が起きたことはない。

「第一条  この法律において「公衆等脅迫目的の犯罪行為」とは、公衆又は国若しくは地方公共団体若しくは外国政府等(外国の政府若しくは地方公共団体又は条約その他の国際約束により設立された国際機関をいう。)を脅迫する目的をもって行われる犯罪行為であって、次の各号のいずれかに該当するものをいう。」(以下略)

秘密保護法などにある「殺傷」「破壊」という文言は、かなり強烈な印象を与えるが、反政府運動の検挙の口実で用いられるほとんど言い掛かりといってもいいような容疑、たとえば公務執行妨害や建造物損壊などの容疑のこれまでの例をふまえると、条文が警備公安警察によって恣意的に拡大解釈されて転用され、それを裁判所が令状発付で追認する危険性は確実にある。国会の法案審議では、こうした警備公安警察の恣意的な法の運用の常態化の現実を抑制する実効性を担保できない。むしろ政府与党はこの立法府の限界を十分承知した上で、「テロリズム」の対象を広範に解釈して反政府運動全体を視野に入れるだろう。

例えば、テロ資金規制法では「脅迫する目的をもって行われる犯罪行為」とあるが、脅迫なのか正当な抗議の意思表示なのかを判断して捜査、取り締まりに着手するのは警察である。(第一条には上記引用のあとに犯罪類型が列挙されている)デモであれストライキであれ、ピケッティングであれ、団交であれ、抗議声明であれ、人びとが権力に抵抗して示す行動や意思表示は、権力側からは「脅迫」とみなして摘発の対象にしようとする動機を持つことは容易に想定できる。

人びとの権利の防衛あるいは拡大、あるいは自由は、他方で権力の権利の抑制、権力の自由の制限になる。この権利のゼロサムゲームのなかで、法律解釈の力を権力側が握る。日本の議院内閣制では、政府与党が執行権力と癒着することが正当化されるように制度設計がなされ、右翼改憲派である自民党が一貫して政権を担い議会の多数を占めてきたことから、違憲立法が常態化し、この立法を根拠に、更にその恣意的な法解釈によって行政権力こそが法であるという政権と官僚の法意識が大衆の権利なき法感覚を定着させてきた。だから、共謀罪でテロの定義が明示されようとされまいと、反政府運動がそのターゲットとなることに変りはない。この構造は、人びとの抵抗を無化し、人びとの権利を抑制・制限する方向で法を利用しようとする権力の意思を支える。権利のための闘争とは、こうした既存の権力を支える構造を覆すことによる人びとの権利と自由の獲得を意味する。

7.オリンピックと共謀罪

共謀罪の必要性について、政府の言い分で新たな必要性の理由づけの中心に据えられたのが、2020年東京オンピック・パラリンピックの開催に伴うテロ対策に必要な立法措置だという主張だ。しかも安倍は、共謀罪が成立しなければオリンピックは開けないとまで言う始末だ。(1月23日テレ朝東京新聞)安倍政権にとってオリンピックとはスポーツイベントではなく治安維持とナショナリズムのための総動員体制とこれを実現するための社会的排除、反政府運動の犯罪化が主要な目的となっているのであって、スポーツそのものに関心があるわけではない。もともとオリンピックという国際イベントは、その当初から、国家が莫大な予算と絶大な関心を抱く権力の政治的な思惑と切り離せないものであって、スポーツはそのための格好の手段、ナショナリズム高揚の舞台装置であった。

今回の共謀罪上程に際して、安倍政権がオリンピックを前面に持ち出した理由は、幾つか考えられる。

(1)これまでオリンピックがいわゆる「テロリズム」の標的になったケースが確かにある。有名なのは、1972年のミュンヘンオリンピックだろう。現在のいわゆるイスラーム原理主義者たちの動向から国際イベントがテロの脅威に晒されることを危惧するスタンスは世論に受け入れられやすい。しかし政府や警察が直接念頭に置いているのは、リオ五輪で生じた広範な反対運動ではないか。テロは不安を喚起するためのレトリックであり、実際の取り締まりのターゲットはオリンピック反対運動になる。オリンピック反対運動はテロリストの運動だというフレームアップによって、民衆の生存権の闘争を犯罪化する方向に向うのではないか。特にポスト冷戦期のオリンピック反対運動は、どこの国でも、都市の貧困層の居住の権利や都市再開発反対の運動と連動したり、反グローバル化運動とも重なりあう潮流でもある。(小笠原博毅、山本 敦久編『反オリンピック宣言』、航思社参照)共謀罪はこうした運動を弾圧する道具として用いることが想定されていることはまず間違いない。

(2)オリンピックに反対する国会の野党勢力は皆無である。与野党こぞって賛成するオリンピックという国家行事がテロの脅威にさらされる可能性があるとすれば、これを未然に防止するための法的措置をとるという政府の理屈に、国会内で反対する勢力はいないだろうと政府は見ているのではないか。これは戦争法とは全く異なる政治状況である。オリンピックについては、中道・左派野党のかなりの部分が容認、あるいは条件付賛成、あるいは反対はしない、という立場であり、オリンピック反対を明確に主張する政党はない。オリンピックのようなスポーツイベントの政治的な本質を理解できずに、有権者の支持を失なうことを危惧して政権政党のプロパガンダの本質を批判する言語を持てていない弱さがある。

(3)議会外の市民運動などでも、オリンピック反対は極めて少数であり、かつ国会内にほとんど影響力をもっていない。戦争に反対する論理の蓄積は運動にはあるが、オリンピックをはじめとする文化イベントや国家事業に反対する論理が運動の側の共通認識として確立されていない。政府は、戦争法反対運動のような広範な反対勢力は登場しないと見ているのではないか。国会内野党であれ議会外の市民運動であれ、ナチスのベルリン・オリンピックをスポーツの祭典だからという理由で、ナチスの政治と切り離して肯定するような共通理解はないと思う。むしろナチスに利用された政治イベントとしてのオリンピックだと理解されているのではないか。文化イベントの政治性、とりわけ国別で競われるイベントがナショナリズムを喚起し、それが戦争や国際的な対立の感情的な基盤を形成するということへの危惧を持つことがこの対テロ戦争の時代には重要なことであるはずだ。オリンピックは形を変えた「戦争」の一環でもあるのだ。だから、2020年東京オリンピックを安倍極右政権による政治イベントだという認識を持つ必要がある。安倍政権に反対する諸々の運動の最大の問題は、ナチスのオリンピックと自民党のオリンピックを本質において同質のものと理解することに失敗している点にある。

まず共謀罪ありきであって、この法案のためにオリンピックが必要とされているのだ。この共謀罪の成立にはどのような戦術をとれば世論や国会の合意を形成できるかが計算され、世論に受け入れられやすい(あるいは否定しがたい)シナリオが何なのかを念頭に置いて、そこにオリンピックを位置づけ、共謀罪をこのシナリオに沿って正当化する手法をとっている。

なぜそうまでして共謀罪を必要としているのか。既存の法律の恣意的な運用や拡大解釈ではなぜダメだと政府は考えているのだろうか。ありうるとすれば、拡大解釈や恣意的な運用の範囲を越えた領域に網を拡げたいということだろう。そうなると、想定できるのは、政府が人びとの内心を監視し、干渉し、思想信条のレベルでの統制や摘発をしたがっていることではないか。本来、政治は、様々な対立する主張や意見を前提として、討議を通じて合意を形成し、これを法として成文化し、この法を基準として権力の行使を行なう。多様性を一つの「法」に収斂させる力を権力が持てなくなると、多様性を排除しようとする動機が生まれる。現在の日本の権力機構になかで起きているのはこうした事態ではないか。そうだとすると、外見上は権力基盤は磐石にみえるが、実態としては合意を形成することができない脆弱性を内包させているともいえる。(続く)

絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(2)

絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(1)

1.今国会への共謀罪上程に際しての政府・自民党のスタンス

2.戦後体制はそもそも絵に描いた餅だったのかもしれない (前回まで)


3.共謀罪容疑での捜査に歯止めをかけることはできない

政府が共謀罪から「テロ等準備罪」に名称変更したこと、そしてテロ対策を前面に押し出してきたことは、前述したように、共謀罪の本質が維持されただけでなく、政治活動や思想信条への監視・取り締まりにシフトすることになったことを意味している。また、「共謀」と呼ばずに「準備」と呼ぶことによって、準備罪の定義が共謀を含むものに拡張されることになった。安倍政権は、治安立法としての共謀罪という性格を公然と打ち出しても世論の批判は少数に留まるという強気の判断をしているのだろうと思う。

「準備罪」という名称をどう考えたらよいだろうか。これは共謀罪という評判の悪い名称を隠蔽するずる賢い手口であるだけでなく、従来からある「準備罪」の概念を共謀まで含むものに拡大してしまう恐れをもつのではないだろうか。また、犯罪を実行する目的で行なわれる準備行為を「予備罪」と呼ぶが、その明確な定義があるわけではないから、この予備罪もまた共謀を含む概念として恣意的に解釈される可能性がでてくる。

これまでの既遂以外の犯罪類型には、未遂、準備、予備、陰謀などがあり、概念そのものが混乱している。実行行為の前段階の「行為」を客観的に区分けできるような定義がいかに困難であるかを法律概念の混乱そのものが如実に示している。言い換えれば、既遂以外の行為を客観的に定義することは論理的には不可能であって、常に捜査機関の主観的・恣意的な法律解釈なしには成り立たないのだ。既遂の事件であれば、行為を特定し、その行為の物証となる物を特定できるが、実行行為以前の事柄を事件と結びつけようとすると、この「結びつけ」それ自体に捜査機関の解釈が介入せざるを得ず、客観性は維持できないからだ。定義があいまいなまま様々なカテゴリーに行為を分類すると、更にまたこのあいまいさの隙間を埋める必要からカテゴリーの細分化が進行する一方で、それが法律による縛りにはならずに、逆に、法執行当局に恣意的な解釈を委ねるような法律の適用を横行させることになる。共謀罪は、既遂の行動が捜査の着手点にするのとは異なり、時には様々な矛盾をはらんだコミュニケーションを含む広義の意味での「行為」全般を捜査の出発点に据えることを合法化してしまう。その対象犯罪の数がどうあれ、既遂の犯罪を処罰する刑法の基本(と私たちが考えている性質)を根底から転換させるものだ。

対象犯罪に関して政府案は「懲役4年以上」としており、600以上の犯罪が対象になることが争点となっている。絞り込みを前提として共謀罪を容認するという対応を公明党は取りはじめており、毎日も社説で「テロ等準備罪 犯罪の対象が広すぎる」ことに懸念を示すというスタンスをとっているために、数を絞り込めば共謀罪もアリであるかのような印象が拡がりつつある。これは共謀罪の本質をあいまいにする議論でしかない。

共謀罪の本質は、共謀という行為を犯罪化できるという枠組が確立するという点にある。行為そのものではなく、コミュニケーションや思想信条を含む「共謀」行為を犯罪の概念として確立させるということが今回の法案の最大の問題点なのであって、その罪数や対象の集団の性質は問題の本質ではない。この点は一歩も譲ってはならない大問題である。いったんこのような犯罪の枠組が定められてしまえば、当初の法律がいかに対象犯罪が絞られようと、いかに対象の集団が「組織的犯罪集団」とかテロ集団などとして定義的に限定されようと、近い将来、対象犯罪が拡大され、対象の集団の範囲も拡大されるような改悪に容易に道を開くことになる。治安維持法であれ盗聴法であれこうした道をとってきた。

この点を踏まえた上で、対象犯罪についての政府側の主張にみられるある種の情報操作を指摘しておきたい。窃盗(刑法235条)、詐欺(刑法246条)や恐喝罪(刑法249条)などは「10年以下の懲役に処する。」と定められているから、共謀罪の対象犯罪になる。しかし、刑罰の下限は規定がない。軽微であり到底懲役4年にもなるとは思えないような事案であっても、懲役4年以上の刑罰規定があるので共謀罪が適用され、共謀罪容疑の捜査や逮捕・拘留が可能になる。この問題が深刻に議論されてきていない。

たとえば、捜査機関は、争議の実績のある労働組合や非暴力直接行動をとる市民団体などを「組織的犯罪集団」と恣意的に分類することができるし、どのような団体を組織的犯罪集団とみなしているのか、そのリストは公表されない。労働組合が会社に、市民団体が行政に団体交渉することを「恐喝」の可能性を疑いうると解釈して、そうであるなら共謀罪適用が可能との口実をもうけて、捜査に着手するかもしれない。当該団体が「共謀」しているかどうかの証拠を収集しなければならないから、会話や通信を傍受したりメンバーの動静を追跡・監視するといった行動が正当化されてしまう。あるいは共謀罪容疑で逮捕・拘留や強制捜査を行なうということ自体によって、起訴しないとしても運動への弾圧効果をもたらそうとするかもしれない。

また、共謀罪容疑での捜査や取調べで得られた情報を、起訴されなかったからといって廃棄する義務はなく、こうした情報を別の捜査目的で利用することを違法とする法律もない。共謀罪の成立は、反政府運動の監視と取り締まりにこれまでは警備公安警察が公然とは介入できなかった領域に、予算と人員を割り当て、足を踏み入れて干渉する権利を与えることになる。

共謀罪の対象犯罪での立件とは別に共謀罪単独でも立件できるので、逮捕拘留の更なる長期化が可能になる。たとえば、恐喝の共謀容疑で逮捕拘留して23日拘留し、拘留期限が切れるときに容疑を恐喝に切り替えて再逮捕、拘留延長ができる。3週間以上の裁判なしの拘留が可能な現状にあっても、警察はこの権限を最大限に活用して、外部との接見を制限し、本人に対する心理的な拷問を加える手段に用いられる。3週間も逮捕されると仕事を失う可能性も大きく、しかも警察の記者クラブを利用して警察にとって都合のよい情報をメディアに流し、逮捕=犯人という印象をメディアは与える一方で、メディアは被疑者への取材を後回しにし、警察は被疑者本人のメディアのアクセスを阻止する。共謀罪はこうした傾向に拍車をかけることになる。

共謀罪の萎縮効果はこれにとどまらない。実行犯でなくても共謀に加わっただけで共謀罪で検挙される。議論に参加したが、実行行為には参加しなかった場合であっても、共謀罪に問われる。したがって、自らの思想信条を表明することだけでも犯罪とされる可能性をもつ。どのような関わり方が犯罪とみなされるのかは捜査機関の裁量に委ねられ、国会での法案解釈論議は拘束力をもたない。行動に参加しなくても行動を支持するような考え方を述べることが、共謀の疑いとして少なくとも監視の対象になることから、こうした息苦しい環境のなかで、犯罪とみなされる可能性のある反社会的あるいは反道徳的な価値観や考え、あるいはこれらを表現することそれ自体が違法ではないかとの危惧が抱かれて、作者だけでなく、メディアや出版社などの自主規制を招く危険性がある。一般論として言えば、小説、映画、ゲームなどのフィクションのなかですら、自主規制がなされる危険性がある。少なくとも反政府的な言説は、フィクションはもちろんのこと、諷刺などで反道徳的と政権がみなすかもしれない内容が含まれていても幅広く認められなければならないにもかかわらず、こうした雰囲気としての自主規制の範囲が拡がる危険性がある。

これまでも警備公安警察は、反政府運動の活動を取り締まるために上で例示したような犯罪類型を恣意的に適用することは珍しくなく、しかもかなり強引かつ社会常識からみても適法の範囲内の行為であっても、検挙される場合がある。逮捕や強制捜査の令状も裁判所はほぼ捜査機関の言いなりで発付するという癒着が常態化している。捜査機関には対象となる行為が懲役4年以上になるかどうかを判断する権限はないことを逆手にとって、共謀罪対象犯罪としてリストアップされた犯罪については、いかに軽微な犯罪であっても共謀罪での捜査に着手することができるようになる。政府は意図的と思われるが、懲役4年以上という文言だけを強調するので、懲役6ヶ月などという場合には適用されないかのような誤解を与えようとしている。

上に述べたように、共謀罪があるかないかでは、捜査機関の初動捜査のタイミングや範囲・規模、人員や装備などの予算措置が大きく異なることになる。共謀罪が適用される集団構成員の範囲を特定するためには、集会参加者、デモ参加者、カンパや機関紙誌購読者などを網羅的に監視するという方向に進むだろう。機関紙誌の定期購読者や集会の参加者を集団の構成メンバーとみなすことができるかどうかは、捜査機関の裁量による。実際には警察は情報収集活動を行ない、メンバーを特定し、一人一人の集団との関わりを捜査することなしに集団の構成員かどうかの判断を下すことはできない。ネットの情報環境を前提すれば、ウエッブへのアクセス、FacebookやtwitterなどSNSの利用者の言論内容や行動、相互の繋がりなどから広範に人間関係を特定することが重要な捜査活動になるだろう。盗聴捜査や通信事業者との協力関係がこれまで以上に促進されるだろう。そしてこうした全ての活動が適法なものとして予算措置が公然ととられることになる。

このように、共謀罪が反政府運動に対して利用される最も危惧すべき事態のひとつは、こうした事実上の監視のための利用である。こうした利用を明示的に法律の条文で禁ずることはできない。禁じてしまえばそもそもの犯罪としての共謀罪の捜査は不可能になるからだ。言い換えれば、共謀罪を認めるということは、歯止めなく人びとの自由に干渉あるいは介入する権利を公権力に与えるということにならざるを得ないということである。国会質疑では、こうした恣意的な運用や監視のための手段としての共謀罪の運用を政府は否定するだろうが、共謀罪反対の野党側は、この政府の否定のごまかしに有効に反撃できる論理を立法府という限定された土俵の上で構築することはほぼ不可能だろう。押し問答の末、付帯決議などという形式的な歯止めの約束に対して、現実の執行機関は一切拘束されない。だから国会審議は、悲しいことに茶番劇でしかない。この茶番の挙句に、国会で成立した法律は具体的な物理的強制力をもって私たちの自由を奪うことができるのだ。メディアもまた国会で政府が「確約」したことが法に反映して執行機関を抑制できるかのような印象を与えかねない報道しかできない。現場の執行機関が法を解釈し、運用するのであって立法府の立法意思は何らの効果も持たないということがメディアでは報じられない。このような立法府の限界と法執行機関の歯止めなき権力行使が、いかに人びとの権利を侵害する深刻な温床となり、国家権力にフリーハンドの権利濫用を認めることになっているのか、このことを制度の根源に遡って批判的に検証すること自体が運動化されることが必要だ。

4.越境組織犯罪防止条約は批准する必要がない

共謀罪の前提として越境(国際)組織犯罪防止条約を必要とする政府の主張を一部マスメディアも支持している。サンケイは1月11日の社説「テロ準備罪、国際連携に成立欠かせぬ」で「国連は2000年、国際社会でテロと対峙(たいじ)するため「国際組織犯罪防止条約」を採択した。各国に共謀罪を設けることを求めて批准の条件とし、すでに180カ国以上が締結しているが、共謀罪を持たない日本は先進7カ国(G7)で唯一、締結に至っていない。」と述べ、読売も22日付社説で「テロ対策などでの国際協力を定めた国際組織犯罪防止条約の加入に必要なものだ」と述べている。あたかもテロ対策の条約であるかのようなこの説明は明かに間違っている。

越境組織犯罪防止条約は、1990年代に、米国の覇権主義が勝利したかにみえる冷戦後の世界秩序にとっての最大の脅威はもはや社会主義・共産主義ではなく、薬物、銃器、人身売買といった国際的な犯罪であるという理解を背景に制定されたものだ。つまりポスト冷戦時代の不安の中心にこうした越境的な組織犯罪を置いたのだ。2001年以降の対テロ戦争以前の世界の枠組でのことだ。

越境組織犯罪防止条約については、共謀罪反対運動のなかでも、日弁連の主張にあるように、条約そのものの意義を肯定する主張が多数派だろう。しかし、わたしはこの条約には問題が多いと考えている。一言その問題点を述べておきたい。現在の世界の現状を見ればわかるように、この条約を180ヶ国以上が締結しているにもかかわらず、薬物、銃器、人身売買のいずれについても国連の思惑通りには効果を上げていない。理由は簡単だ。いずれも組織犯罪を摘発して解決できる問題ではなく、政府や企業がときには関与する構造的な問題だからだ。

例えば、薬物は、社会の貧困の問題と密接に関わる一方で、薬物に関するどのような行為を「犯罪」とするのかは国や文化で大きく異なる。薬物は、所持や自己使用を個人の自由に委ねるが売買は禁止するという国がある一方で、日本のようにいずれも違法とする厳罰の国もある。また大麻のように国際的には合法化の動きが活発な対象もある。貧困問題を置き去りにした薬物対策は貧困層への差別と社会的排除という治安維持の手段にしかならない。また薬物の問題は、犯罪行為に関連する薬物と、医療で用いられる薬物、軍が用いる向精神薬、スポーツにおけるドーピング対象となる薬物、町のアスレチックジムに通う人たちが用いるサプリメントといった合法・違法の境界を越えて社会に蔓延する「薬」と製薬産業と国策としての健康スポーツの全体を視野に入れないとその本質は理解できない。銃器は言うまでもなく、武力紛争と多国籍兵器資本を頂点とし末端の武器商人に至る構造のなかで流通しているという意味でいえば、武力紛争や武器輸出の元凶となっている兵器産業大国の構造的な問題の解決なしには問題の解決は不可能だ。人身売買もまた固有の困難な問題を抱えており、正当な移住労働者がセックスワークを職業として選択する労働者としての権利の問題も含めて、労働市場のいかなる取引きが「人身売買」であり、いかなる取引きが「雇用契約」なのか、その境界は決して明確ではないのだ。この点からすれば、人身売買の問題の根源は、〈労働力〉を商品として売買するという労働市場の存在そのものの問題を問わざるをえないところに結びつく。また米国は、人身売買に寛容な国かどうかといったランキングを行なって、外交の手段に利用してきた。人権や人道を外交のかけひきの手段とし、人道を口実とした武力介入すら正当化する一方で、問題の本質にある資本のグローバル化や国民国家がもたらす貧困と紛争を解決する意思をもたない先進諸国にとって越境組織犯罪防止条約は、ポスト冷戦の対テロ戦争に本格突入する前の時代を背景として、西欧的な人権の欺瞞を第三世界に押し付けるイデオロギー色の強い条約だったといえる。そしてまた、国際組織犯罪の捜査を口実とした捜査機関のグローバル化(先進諸国の警察のグローバル化)を正当化する条約でもあるといえた。越境組織犯罪防止条約を締結しても薬物、銃器、人身売買の防止に寄与することは何もないばかりか、逆に、これらの「犯罪」に関与したとされる末端の「被疑者」たちへのみせしめ的な懲罰を課すことで社会の構造的な矛盾の問題には一向に目を向けることにはならないに違いない。多くの論調が、共謀罪はいらないが、越境組織犯罪防止条約は批准できるし必要だろうと主張するが、わたしは、越境組織犯罪防止条約は人権条約とはいえないからむしろこの条約自体もいらないと考えている。

このように越境組織犯罪防止条約は、その趣旨からみてテロ対策とは全く関係がない。しかし、条約の経緯などを無視して政権が条約を自らの都合に合わせて改釈しようとするところが国会の争点にはなるだろう。これまでの安倍政権の法改釈は、法を政権のために改釈することを当然のようにやってきたし、それを実現してきた。この手法が今回も用いられるに違いない。たぶん法治国家としては末期症状といえるが、そのなかで権力が更に暴走する加速器として共謀罪が治安立法としてその効力を発揮することになるのではないか。(続く)

絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(1)

テロ対策を共謀罪法案の軸に据えてきた今回の安倍政権の戦術を念頭に置いて以下の文章を書いている。長いので分載とする。

共謀罪は、一般の刑事犯罪などにも適用されるし、反政府運動——日本ではこの表現はほとんど使われないが、あえてこの表現を復活させたい——などの政治活動にも適用される。この二つは、刑法上区別はできないが、捜査機関の捜査体制は全く異なる対応をとる。政治活動では、主として警備公安警察が共謀罪を捜査活動の道具として利用するが、その利用の手法も動機も一般刑事事件の捜査とは異なるであろうことは、多言を要さないだろう。しかし、国会における法案審議では、もっぱら一般刑事事件を念頭に置いた議論になり、警備公安警察による捜査の手法や逮捕・拘留、取調べについて、それ自身の固有の問題としては審議されることはマレではないのか。一般刑事事件における共謀罪の問題は、極めて深刻である。だから一般刑事事件を前提にして共謀罪の問題を検討し、廃案を主張することは十分可能であるし必要な主張である。その上で、あえて共謀罪が反政府運動に与える問題について別途検討することは必要なことだと思う。このことは政治犯罪を一般刑事犯罪から区別して特権化しようというのではない。広範な反政府運動が犯罪化されている現状があるにもかかわらずこれが刑事事件として隠蔽される一方で、一般刑事事件をもっぱら個人の責任に帰して社会の諸制度が有する諸問題を棚上げにしようとする近代刑法と処罰の基本的な構造への政治社会運動の側からのより一層の関わり、言い換えれば、一般刑事事件に対する法と処罰のメカニズムそのものへの批判を展開することは、反政府運動にとっても不可欠な視点だ。

政治的な動機を持たない一般刑事事件も含めて「犯罪」とはそもそも何なのか、刑罰とは何なのかを考えるとき、その社会的な背景を重視することが必要だ。米国でいえば、黒人やヒスパニックの貧困層の犯罪率が高いことを、彼らの人種的な特性とみなして、人種差別を正当化する主張がある。あるいは、日本の場合も、学校の秩序からドロップアウトする若者たちや、ときには「母子家庭」や「生活保護家庭」を犯罪と結びつける感情や、エスニックマイノリティ(特に非欧米出身者の労働者階級)への偏見は、こうした人びと個々人のパーソナリティそのものに犯罪を犯す「体質」とでもいうべき性格があるとみなす捜査機関や大衆の偏見は未だに根強い。社会的矛盾や抑圧と排除の構造を棚上げして、更にはこうした既存の社会への強制的な統合を意図して刑罰が与えられるとき(応報刑であれ教育刑であれ同じだが)、政治犯への処罰は何を意味するのだろうか。「犯罪者」個人にその行為の責任を負わせて、彼らが社会的な排除の構造のなかで疎外された位置に追いやられることによって生み出されてきた行為として犯罪を捉えるとすれば、刑罰の政治性にこそ注目する必要があるだろう。死刑廃止運動や受刑者の人権問題の運動は、こうした問題に取り組んできたと思う。この点を前置きとしながら、主として以下では、警備公安警察が対象とするであろう反政府運動が共謀罪によって被るであろう問題を念頭に述べる。

1.今国会への共謀罪上程に際しての政府・自民党のスタンス

共謀罪の上程は確実視されているが未だに法案は示されていない。しかし、報道などから、政府・自民党は共謀罪を以下のように位置付けているようだ。

(1)共謀罪とは呼ばずに「テロ等準備罪」と呼ぶ。
政府が共謀罪と呼ばないことで、マスメディアも「テロ等準備罪」と報じることが多くなった。反対運動のなかでは「テロ等準備罪」という名称を使うべきではないという意見が多数かもしれない。私もそう思う。その上でふたつの問題を指摘したい。ひとつは、「テロ等準備罪」という名称は通称であって、法律には正式には盛り込まれないだろうから、これは国会向けの戦術的名称に過ぎないということ。名称のいかんを問わず、立法化されれば共謀罪としての効果を発揮するだろう。二つめは、通称を共謀罪からテロ等準備罪へと変更することによって、たとえ法案の条文が全く同じであったとしても、かつての共謀罪と同じ意味内容をもつ法律といえるかどうかだ。後に述べるように、同じ条文なら、その意味も同じだとはいえない。名称の違いをどのように考えるかが重要なのはこの点である。これは、一般に、法律の文言とその解釈、そして法律が適用される対象(犯罪行為)との関係をどのように考えるか、という問題に関わるかなりやっかいな内容を含んでいる。

(2)対象犯罪は600だが削減もあり。
削減をめぐる議論が日々報じられているように、法案の争点が、削減の是非あるいは、削減の数をめぐる与野党の攻防になる可能性があり、すでに政府は公明党に配慮して対象犯罪の絞り込みを容認するとも報じられている。対象犯罪が絞り込まれればとりあえずよしとしよう、という発想は公明党や一部野党にもある。後述するように、共謀罪の問題は数ではないし、対象犯罪の問題でもない。本質的な問題は、共謀の犯罪化を広範に認めることは、憲法を逸脱し、刑法に想定されている基本的な前提を根底から転換させることになる点にある。「共謀」の犯罪化が法の規範に反しないという法意識をもつ権力の態度・動機が問題なのである。このような根本的な転換それ自体が問題にされずに、法案の条文のあれこれを議論するという態度や、そもそも国会で法案として提起されるような状況自体が問題なのだ。

(3)越境組織犯罪防止条約の批准の前提となる法案。
与党が一貫して共謀罪の必要性の中心に据えてきたのが越境組織犯罪防止条約の批准に必須の前提が共謀罪だというものだ。今回は、この条約の目的があたかもテロ対策にあるかのように条約解釈を根底から変えてきた。これに対して、条約の批准に共謀罪は不要であるというのが反対運動に共通する合意になっている。また、条約とテロ対策とは結びつかないということも反対運動の共通認識だろう。しかし、条約そのものは必要なのかどうかでは運動のなかでも意見が分かれる。

(4)2020年のオリンピックを念頭においたテロ対策に不可欠。
今回の法案上程で持ち出されてきた奇矯な立法事実らしきものが2020年オリンピックへのテロの脅威である。テロ対策を前面に打ち出したために、メディアの注目も、治安維持法など戦前の治安立法との共通性に注目があつまってきた。国会内でオリンピック反対の政党はおらず、オリンピックのためのテロ対策を持ち出す政府を効果的に批判できていない。

(5)「早期成立」を目指す。
会期末の混乱と強行採決を回避したいという公明党が主張し、多分現状では早期の審議入りの可能性が高い。しかし、逆に会期の早い時期に審議入りすると、審議を尽したなどという口実を与えることになる。国会審議のディスクールは、理念的な議会主義のありかたとは裏腹に、現状では茶番でしかない、最大の悲劇は、茶番の帰結が権力に法執行のフリーハンドを事実上与えるという点にある。

共謀罪の前提となる幾つかの社会・政治的な背景として、念頭に置いておくべき論点がある、

(1)戦争法制や秘密保護法の成立。日本は「戦時」である、という認識が必要である。政府は戦時の挙国一致の体制を構築しようとしており、共謀罪はその一環を担うだろう。政府に対する異論や批判を、社会的な秩序を乱す行為として取り締ろうとする傾向を強めるだろう。

(2)泥沼化する対テロ戦争(欧米中心部へ、中東からアフリカへ)。ISなどのイスラーム復興運動との戦争状態が拡散する傾向にある。テロと難民をリンクさせる排外主義。つまり、極右ナショナリズムの台頭を背景に欧米各国で起きている移民、難民の排除と不寛容な態度を当然とする空気は、日本のナショナリズムにも影響を及ぼすだろう。

(3)新たな戦争=サイバー戦争。一方でハッカーアクティビストとの「戦争」があり、国家機密が、内部通報者やWikileaksなどを通じて公開される状況に対する政府の取り締まりがある一方で、政府情報機関によるハッキングが「情報戦」として展開されている。ハッキングはテロリズムの一類型へと組み入れられはじめた。通常兵器が通信ネットワークと連携されることによって、米国のドローン攻撃に典型的にみられるような国家によるテロリズムがネットワークの技術を取り込んで展開されている。サイバースペースと現実空間の境界をまたぐ戦争状態がある。こうした意味での戦争状態の転換に9条を根拠とする日本の反戦運動は十分に追いついていない。

(4)米国のグローバルな覇権主義の危機(ロシア、中国の台頭)。トランプの排外主義 (右からの反グローバリゼーション)は、資本主義的グローバリゼーションのなかで、米国の覇権主義が相対的に後退していることを示している。世界の覇権構造の基軸が、欧米から中国、ロシアなどにシフトしつつあることを示している。これは、欧米が構築してきた戦後西側のルール(安倍政権のいう「国際社会」なる概念はこの意味で用いられているのであって文字通りの「国際」ではない)が危機にあり、日米同盟も危機を免れず、その変質は必至だろう。

(5)「法の支配」を否定する権力者たち。民主主義を後ろ盾にする独裁者たちが次々に登場している。法を超越する独断的な指導者がもてはやされ、国家の官僚制度も法規範を逸脱することを当然のこととする腐敗が進行する。彼らを支持する民衆にとっても法の支配への信頼が希薄になりつつある。これまでも、一方で欧米の価値観を掲げ、自国内では自由と民主主義を保障しながら、その価値観を防衛するという名目で、外国では軍事力を含む戦争や抑圧を繰り返すのが欧米の戦後のやり口だった。(ベトナム戦争、ラテンアメリカの独裁支援、中東やアフリカで繰り返される軍事介入などなど)「テロとの戦争」は、国内においても自由と民主主義を抑制せざるをえない状況を生み出した。(米国の愛国者法、フランスの戒厳令の長期化など)その結果として、自由と民主主義が虚構の神話であることが露呈し、極右の価値観が国内政治で無視できない勢力として台頭するようになった。

(6)以上は、日本だけでなく、欧米諸国に共通するが、日本では、親米極右政権の欺瞞的なイデオロギーの危機が進行している。安倍政権は、国内極右ナショナリズムと「親米」路線の矛盾をかかえる一方で、中国が日本を追い抜き世界第二位の経済大国となったことなど戦後日本のナショナリズムを支えた経済的豊かさが破綻に瀕しているために、戦後ナショナリズムの再構築に迫られているが、その解答を戦前回帰以外に見出せていない。

(7)安倍政権にとっての「敵」は誰か。政権にとっての「国益」とは何か。国内最大の「敵」は、欧米諸国が言うような意味でのテロリズムではない。沖縄反基地運動、反原発運動、反戦争法運動は、政権にとっては「一般市民」ではないから、これらの反政府運動がテロリズムとしてフレームアップされる可能性がある。これらの反政府運動に対する抑え込みが共謀罪のターゲットになることは間違いない。政権を危機に追い込むほどの力をもっていない運動であるにもかかわらず、政権は、こうした運動に対する世論の「不安」感情を扇動するだろう。対外的な「敵」としての朝鮮民主主義人民共和国、中国、韓国(領土問題、「慰安婦」問題から経済的な脅威まで)との関係は、国内の移住労働者や「在日」への監視と偏見・差別を助長することになる。

こうしてみると、日本をとりまく世界の状況は、大きな構造的な地殻変動の渦中にあるといえそうだ。従来の戦後民主主義の枠組がこの国でまだ機能しているという前提にたって、この国の政治や国会の動向を理解することは、今この国で起きている事態の深刻さを軽く見ることになるのではないだろうか。

2.戦後体制はそもそも絵に描いた餅だったのかもしれない

私たちがまず問わなければならないのは、戦後の憲法と刑法の規範を「公理」としながら、なぜ共謀罪のような「法」が登場できるのか、国会でこうした法案を審議することがなぜ可能なのか、である。なぜ「論外」とはならないのか。なぜ「荒唐無稽」だとみなされないのか。

戦争法案が議論された当時、あたかも戦争法の前と後との間に大きな質的な転換があるかのようにみなして、戦争法のない状態を維持することが9条を守る重要なポイントであるかのようにみなされたことがあったように思う。しかし、戦争法がなかった時代はどのような時代であったかといえば、その時代もまた9条に違反する自衛隊が存在し、海外派兵されていた時代であり、そもそも自衛隊あるいは自衛のための武力をもつこと自体が違憲であるという原則を主張すること自体がきわめて少数の理想主義的な(非現実的な)主張であるかのように見なされていた時代ではなかっただろうか。(とくに1990年代後半の村山政権の時代に、自衛隊合憲、安保体制支持をうちだした時代以降)

法案をめぐる反対運動のなかでは、法の問題を議論する枠組は、現行憲法の体制が旧憲法とは本質的に異なる好ましい体制であることが前提されるのが一般的かもしれない。しかし、現実の日本の法制度も政治や統治の体制も、とうてい書かれた憲法の理念(として私たちが解釈する内容)を体現するものとは言えないばかりか、ますますその理念から遠ざかるような立法が繰り返されてきた。こうした欺瞞的な事態は、憲法制定当時から存在していた。その典型が、日米安保体制と米軍基地の存在である。いったいなぜ、外国の軍隊を領土内に有するような違憲状態が常態化する事態が半世紀以上も続いてきたのだろうか。根本にあるのは、政権政党がこうした事態を法制化してきたにもかかわらず、憲法がそもそも違憲立法を排除する実質的な力を持てないように制度設計されていたからである。どのような違憲立法も国会で成立すれは法としての効果をもつという制度の欠陥を政権は利用してきた。

戦前と戦後を分ける敗戦の年、1945年は、決定的な転換点ではない。戦前も戦後も日本は、近代国民国家であり資本主義体制であった。官僚制は維持され、統治機構を支える人的な構成も維持された。天皇は「象徴」機能をもつという点で戦前から継承された。この政治と経済、ナショナリズムのイデオロギーの連続性は、憲法の断絶よりも強固である。(憲法を除く下位の主要な法律は戦前から継承されている。1907(M40)制定の刑法が現行刑法。1896年(M29)制定の民法、1988年の商法(M32)など。)

また、戦前から戦後にかけて、権力者たちの法意識が根底から変ったという明確な証拠はない。自民党は、一貫して改憲派であるから、戦後憲法や戦後民主主義はかれらの理念ではないし、憲法を国家に対する命令とは解釈せず、国家による国民への命令だと解釈する旧憲法の認識を継承している。彼らにとって法は支配者による民衆支配の規範でしかない。こうした政党が政権を担い続けてきたのだから、自民党政権が「法の支配」を受け入れているとみなすのは根拠のないことだ。政権の独断を抑制してきたのは、戦後の様々な反政府運動の存在である。

憲法は統治権力を抑制する現実的な力を持ちえているとはいえない。上に述べたように、憲法に反する立法は可能であり、法としての効果をもつ。「法の支配」は理念でしかなく、現実には、自主憲法制定派の自民党が、法の執行者(集団:行政府や警察など)として法を解釈し適用し、人の自由を奪う裁量権を持ってきた。権力者が法の支配を遵守する意思を持たないばあい、憲法も法も紙に書かれてはいても、それが文字通りに実在することにはならない。「絵に描いた餅」の憲法に定められた基本的人権や自由権は、極めて脆弱で実在しないと言っても過言ではない。実在しているのは、民衆的な権利を制約するためのルールを優先させ、政府・政権の自由を優先し、その残余を人びとに「自由」とか人権として割り当てているにすぎないのである。(法が認める限りでの自由しかない)この不在を招いたのは、戦後民主主義を過信し、主権者である「国民」が自らの権利のために十分に闘わなかったからだというしかない。一貫して戦後憲法を否定する自民党を政権の座につかせてきたその結果が、現在の日本の状況ではないだろうか。(以下続く)

1月26日民権com.講演会:支配階級に逆らう者には人権がない!―「共謀罪」が狙うもの―

民権com.講演会
支配階級に逆らう者には人権がない!
―「共謀罪」が狙うもの―

2017年1月26日(木)pm6:30~
会場 ベルブ永山(永山公民館)
集会室
講師 小倉利丸さん
富山大学名誉教授・(元ピープルズプラン
研究所、元「インパクション」編集員、著書「絶望のユートピア」「抵抗
の主体とその思想」など多数)

〈オスプレイ墜落は沖縄辺野古―高江基地建設反対運動の正義を証明した〉
「支配階級に逆らう者には人権がない!」 この言葉は、現在の沖縄が
見舞われている情況、新基地建設に抵抗する人々を襲う弾圧を直視すると
き、身につまされる。私たちは、この言葉の転覆を、沖縄連帯の先に見と
うしていきたい。

〈「共謀罪」は民衆の声を圧殺する「治安維持法」の再来です〉
戦争法強行成立から1年がたち、安倍自民党政権はいまや自衛隊の海外
での武力行使に踏み出そうとしています。その背景には戦争のできる国と
して、世界市場の覇権の一翼を担おうとする日本の支配階級―安倍自民党
政権の野望があります。こうした支配階級の暴走に立ちふさがる民衆の声
を圧殺するために、沖縄反基地闘争やアンチヘイトグループへの警察―機
動隊の暴力的な弾圧、排除が行われ、改憲、盗聴法、そして事前治安弾圧
を可能にする「治安維持法」の再来として「共謀罪」法制化を押しすめよ
うとしています。

〈「テロ等組織犯罪準備罪」=「共謀罪」国会上程を阻止しよう〉
「共謀罪」は第1に行為ではなく、思想・団結を罰する予防刑法です。
「話し合っただけで罪になる。」法律は予備罪以前の段階を対象としたも
のであり、行為処罰原理の近代刑法の原則の大きな変更です。第2に対象
犯罪が懲役・禁固4年以上の400以上の犯罪であり、民衆運動を全面監
視し、恒常的に予防弾圧を可能にしていきます。第3に司法取引、刑事免
責とセットとして、密告やスパイを生み出し相互監視や団結破壊をもくろ
む治安弾圧法に他なりません。第4に「テロ等組織犯罪準備罪」と特徴づ
けることによって、「テロリスト・過激派に人権はない。」というテロと
の戦争の事前治安弾圧に適用し、人々の反対闘争を圧殺する武器にしよう
としています。「共謀罪」を安倍自民党政府は4度目の国会上程をなそう
としています。

こうした現状と私たちの戦いについて、一貫して危機感をもって問題提
起をしている小倉利丸さんをお招きして講演報告集会を行います。ぜひ多
くの皆さんのご参加をお願いいたします。

<民権com.>は反権力・反差別・反貧困を基調として、自由な議論を行っ
ている市民グループです。[主催・連絡先]民権com.(自由と平和、民権
をすすめる多摩市民懇談会)

090-2331-7602
[共催] アジア・ヒストリー    参加費500円

1月22日:オリンピック災害おことわり!− Read in Speak Out −

オリンピックはもういらないと思う。予算の透明性とかナショナリズムに利用されないようにとか、様々な「改革」の提言に、実はぼくはほとんど魅力を感じない。オリンピックを口実に、野宿者が排除され、住み慣れた住居を奪われた人たちがいる。そのことだけで、そうした行政や政府の意思と権力の行使のありかたを見るだけで、オリンピックはいらないと主張するのに十分な根拠となると思う。22日の集会は、文字通り「おことわり」をメインの主張に据えたガチな集会になると思う。


オリンピック災害おことわり!− Read in Speak Out −

「2020オリンピック災害」おことわり連絡会
(東京オリンピックおことわリンク)結成へ

日 時:1月22日(日)13:30〜16:30
場 所:千駄ヶ谷区民館 集会場
資料代:500円
交 通:明治神宮前駅・JR原宿駅から徒歩9分
地 図:http://www.j-theravada.net/tizu-sendagaya.html

※11:30からは神宮橋(原宿)で反五輪の会のデモもあるってよ!
詳細はこちら → http://hangorin.tumblr.com/

◆2020年に向けて運動がスタート!

2020年の東京オリンピック・パラリンピックは、スポーツや財政が抱える問題だけにとどまらず、日本社会の問題をほとんどすべて包括する社会問題のデパート。私たちはそれを「オリンピック災害」と呼ぶ。このオリンピック災害に立ち向かうネットワーク、「東京オリンピックおことわリンク」を立ち上げる。

◆スピーカー(順不同)

山本敦久(成城大学)
いちむらみさこ(Planetary No Olympics Network)
小川てつオ(反五輪の会)
池田五律(戦争に協力しない・させない練馬アクション)
谷口源太郎(スポーツジャーナリスト)
根津公子(「日の丸・君が代」被処分元教員)
井上森(立川自衛隊監視テント村)
友常勉(東京外国語大学)
なすび(被ばく労働を考えるネットワーク)
北村小夜(元教員)
脇義重(元・いらんばい!福岡オリンピックの会)
江沢正雄(オリンピックいらない人たちネットワーク)
金滿里(劇団態変)
アツミマサズミ(東京にオリンピックはいらないネット)

◆主催

「2020オリンピック災害」おことわり連絡会(東京オリンピックおことわリンク)
千代田区神田淡路町1-21-7静和ビル1階A(ATTAC首都圏気付)
Tel 080-50520270(宮崎)

Rio反オリンピック報告―オリンピックの開催都市に何が起きるか?

2016年12月21日(水)19時-

渋谷・隠田区民会館 集会室

東京都渋谷区神宮前6-31-5
※JR原宿 6分 東京メトロ千代田線明治神宮前駅 徒歩2分

8月5日、2016リオリンピックの開会式が華やかに開催されたと報道されました。しかし、現地リオでは、巨大なデモ・学校でのオキュパイ・地下鉄、空港の関税員たちや教員のストライキなどが起り、オリンピック反対とテメル副大統領退陣の声が響く中での開幕でした。

Planetary No Olympics、反五輪の会のいちむらみさこさんが、7月27日-8月10日までリオに滞在し、オリンピックがもたらす状況をリサーチし、オリンピックに対する抵抗アクション「Jogos da exculusao(排除のゲーム)」に参加しました。

これまでもオリンピック開催都市ではたくさんの反対運動があり、オリンピックについての問題意識は確実に広がっています。ハンブルグ、ボストンでは、住民投票で招致しないことを決め、ロシアでは新市長が辞退しています。

今年、リオオリンピック・パラリンピックは開催されましたが、リオの住人たちは黙っておらず開幕中も声を上げ、確実に押し返していました。

そのうねりを、わたしたちはどう引き継ぐか。

2017年1月22日(日)13時半から「2020オリンピック災害」おことわり連絡会による立ち上げ集会が開かれます。また同日正午から、多くの排除をもたらした新国立競技場建設予定地を回り、JSC(日本スポーツ振興センター)に抗議する反五輪の会によるデモが行われます。

それらに先駆けて、今回の報告会では、リオで何が起っていたのか、どのような抵抗があったのか、大手メディアでは報道されなかった写真や映像などを観ながら情報を共有し、次のわたしたち闘いに繋げていきたいと思います。

報告者:いちむらみさこ(Planetary No Olympics / 反五輪の会)

司会:首藤久美子(反五輪の会)

参加費:500円
主催:「オリンピック災害おことわり」準備会

もうこれ以上我慢ならない!──理性を越える情念の革命の復権?

ロルドンの新著の邦訳は『私たちの”感情”と”欲望”は、いかに資本主義に偽造されているか』というものだが、「偽造」というよりもむしろ飼い馴らされた感情に耐え切れずに内破するマルチチュードの激情への熱い期待、とでもいった方がいいような内容であり、理性主義的な資本主義批判への徹底した疑義に貫かれた刺激的な本でもある。

ロルドンがとりわけ槍玉にあげるのが、合理的経済人を前提として組み立てられた支配的な経済学だが、それだけではなく、理性的な資本主義批判や善意にヒューマニズムに溢れる「一人でもできる社会を変えるための第一歩」的な身の回り革命ごっこ、あるいはヒッピー風ライフスタイルの革命への辛辣なダメ出しである。

「自由意志や自己決定といった主張を退けて──ことによって、自由主義思想の形而上学的土台を破壊する。他方、自由主義思想の反対者が自由主義に対して自由主義の(主観主義的)文法の枠内で異議を唱え続けているという実態をも自覚しなくてはならない。こうした反対者たちは、無意識のうちに自由主義の根本的前提を共有していて、それは予め敗北のリスクを犯していることを意味するのである」27(断らない限り、数字は邦訳書のページ)

つまり、「個人」という主体を疑いようのない自立した存在として前提する一切の立場に対して、彼は異議を唱える。多分左翼リバタリアンとか個人主義的なアナキストは大嫌いなんだろうと思う。(私はそれほど嫌いではない)だから集団性の復権が彼にとっては重要な課題であり、そう、あの60年代を彷彿とさせるような死語となったともいえる「情念の革命」といった言葉がとてもよく似合うのがこの本の魂の部分だろうと思う。私は、組織や集団性が苦手で、党派や政治集団に対してはシンパシーを感じたことは生れてこのかた一度もないが、しかし社会を転覆するという大事業が何らかの集団性をもった力を前提としなければならないことも十分理解するから、どのような集団性なら自分のような人見知りで人付き合いの苦手な人間でも解放の感情を喚起されうるのだろうかというのは、大きな課題でもある。本書でロルドンはこうした私の個人的な悩み事には一切答えてはくれていないが、しかし、別の意味で、集団性を支える情念とはどのようなことなのかを「理解」する上でかなり刺激的なきっかけは与えてくれたと思う。

ロルドンは、自由主義に反対していると称する者たちがよって立つ土台も、自由主義と共通する個人主義への確信にあるとして批判する。個人が自由主義によって自由になるのか、それとも抑圧されるのかの違いはあっても、主題は個人をめぐる幸福というフィクションの範囲を越えないから、社会を総体として転覆するといった野心を持つこともなく、従って権力の今ある構造にとっては手強い敵になることもない。ピケティのような新自由主義批判のスタンスは彼にとっては全く評価するに値しないものだということになる。(これに異論は全くない)

彼は、率直に、社会を変革するということは大事業であって、それなりの集団的な力の結集が不可欠であって、それなしには資本や国家の体制を覆すことはできないのだ、と主張するのだが、その場合、一方で、感情によって動く諸個人が存在し、他方に非人称的な社会構造が存在するということを強く念頭に置いて、この大事業の主体となる集団性を描こうとする。このことを本書の冒頭で次のように、スピノザを引きながら示唆している。

「スピノザ理論は、通常何よりも主体に固有のものと考えられている感情についての、ラディカルな反主観主義的理論なのである」「すなわち、感情と構造の二律背反を乗り越えるために、感情を保持しつつ主体を葬る(感情の作動する必然的な起点と見なされていた主体を厄介払いする)ということ」18

彼はスピノザの理論を「感情の構造主義」と呼び「感情によって動く個人と非人称的な社会構造」を相互に排他的なものではなく、この二つを一つのものとして把握する方法を、スピノザの、とりわけ『エチカ』の重要な概念のひとつであるコナトゥス(ラテン語で、企て、冒険、骨折り、努力、衝動などの意味をもつ)に求めた。感情は確かに個人の主観=主体に帰属するかのようにみなされるし、そのように実感されるが、こうした感情のよって立つ基盤を探ると、そこには個人の心的な作用には還元できない外部から個人にもたらされる作用があり、この「非人称的な社会構造」があってはじめて諸個人の感情が個々ばらばらな主観や実感ではなくて相互に共感したり共振して伝播するような広がりが持てる。この意味で、個人の感情は、個人の心理に還元することもできないし非人称的な社会構造(非人称の構造に感情があるわけではない)による一方的な規定性(通俗的な唯物論が論じるような、存在が意識を規定する、といった粗雑な規定)をも排して、感情と構造の両者の位相を異にするところに成り立つある種の弁証法をスピノザに託して現代社会に対する転覆的な理論のパラダイムとして提示しようとした。

社会構造は諸個人の総和ではない。だから、取り組むべき課題は、社会構造を破壊し新たな構造として創造するという事態を、諸個人の行為とどのように結びつけるか、にある。人々が行動しなければ何ひとつ社会を変える力は現実のものにはならない。しかし、それは個人の個別の営為ではなしえないことでもあると同時に、個人に体現されている行動を促す感情の高揚が、個人の主観を越えて集団的な感情と行動として共振しつつ社会的な力を体現することなしには何ごとも始まらない。こうした集合的な力は、どのようにして生じるのか。逆に、こうした転覆的な集団的な感情を抑制して、既存の権力再生産の限度内に感情という要素を収束させるコントロールのメカニズムはどのようにして発動するのか。本書の邦訳が”感情”と”欲望”の偽造と表現しているのは、この後者のような現にあるシステムを維持再生産することに加担する感情のありかたを指すものだといえる。

本書は、集団的な行動の重要性を指摘しつつも、かつての前衛党指導のもとでの大衆的な革命運動の称揚といった趣きと共通するところは全くない。なぜならば、党の理念を体現する「綱領」や「宣言」といったテクストが宿命的に負わされている思想や理論を彼は一切信用しないからだ。もっと言えば、そのような理論的な装いを凝らした文章で人々(マルチュードと表現される「大衆」)はみずからの感情を行動に跳躍させるようなことには至らないとの確信がある。体制を転覆させるに足る大衆的な力を支える感情、革命を指向しないではおかないような激情を喚起することは、いったいどのようにしたら可能なのか。彼の問題意識は、この一点をめぐって、人々を駆り立てずにはおかない感情の深部を探る冒険に赴く。だから、本書が具体的な事例として取り上げているのは、1960年代から70年代のフランスの労働者による工場占拠運動といったどちらかといえば、小規模だが既存の社会構造を別のそれに置き換える可能性を秘めた集合的な感情の具体的な運動としての表出に絞られており、国家権力を総体として転覆することが可能なような大規模な大衆運動ではない。ロルドンはスピノザからマルチチュードの概念を継承するが、同様にマルチチュードの概念を自身の理論に取り入れたアントニオ・ネグリとマイケル・ハートと比べると、ロルドンのマルチチュードには、新自由主義の時代のなかで社会変革の主体として登場してきたとネグリらが考える移民労働者や非物質労働者などはほとんど想定されていない。むしろ、ロルドンがイメージする労働者は、古典的な工場労働者であり、彼が例示するケースはことごとく1970年代までのもの、フォーディズムの危機の時代のものであって、新自由主義の時代にこうした労働者の集団的な社会転覆力が大きく削がれてしまったことへの危機感の方が大きいように見える。ロルドンの議論は一定の修正を加えれば移民たちの運動の評価にも用いることが可能な枠組だと思うが、彼がそうしなかった理由は何なのだろうか。本書を通じて私が感じた率直な疑問の一つはここにあった。(移民とマルチチュードの問題には本稿ではこれ以上言及しない)
(さらに…)

越境するアンダークラス──映画『バンコクナイツ』

空族の新作『バンコクナイツ』は、今年観た映画のなかで最も印象に残り、わたしがうかつにも忘れかけていた1970年代のタイの熱い民衆の闘争を思い起させてくれた。とはいえ、決して「政治的に正しい」行儀のいい映画ではない。そこが空族の最大の魅力だ。(以下、ネタばれは最低限に抑えたつもりだが、予断なしに映画を観たい方は読むのを控えてください)

バンコクの歓楽街タニヤ、60年代から70年代にかけてラオスへの米軍空爆でできた巨大なクレーター、1976年タイ軍事クーデタで追われた反政府運動の活動家たちが逃げ込んだ漆黒の森。今回の空族の作品は、バンコクからタイ東北部、そしてラオスへと連なる現に存在する不可視の動線を移動する。セックスとドラッグにしか関心をもたない日本人が、東南アジアで「ビジネスマン」と称する無自覚な植民地主義者として、タイのアングラ経済を支える。しかし、その更に舞台裏で、越境するアンダークラスの逆賊たちの群れが蠢くことを予感させる物語、それがこの映画のある種の示唆するところでもあるように思う。

空族の映画の主人公は、たいていアンダークラスの能天気なノンポリとして登場する。彼らは、いつのまにやらぱっくりと口を空けた闇の世界の深い亀裂の中に彷徨いこむことになる。それでもなお彼らはそれが何なのかを明瞭には把握できないまま狼狽いする。物語のなかでそれが一体何なのかすら理解できないまま理不尽な世界(それも一つではない)に迷いこむ能天気な日本人たち。それを見る私たち(ここでは日本人を意味する、とりわけこの映画では男の日本人を)は、しかし、映画の登場人物のように能天気ではいられない。映画は観客に、「これが何を意味するのか、あなたは分っていなければならないのではないか?」とさりげなく問うのだ。

バンコクの世界有数の歓楽街は、ベトナム戦争における兵力を支えるセックス・ロジスティクスの一環として成長してきた。軍事用語のロジスティクスは食糧、燃料、武器・弾薬の補給を意味するという説明しかされないが、兵士の休息と娯楽もまた重要なロジスティクスの一環をなしてきた。これが今では、新自由主義経済戦争の〈労働力〉(ビジネスマン)を支える物流ならぬサービスロジスティクスとして日本の多国籍企業を支える存在になった。タニヤのセックスワーカーたちは、資本主義的な一夫多妻制の典型的な構造のなかにある。このことを映画はかなり端的に描いていると思う。この映画に登場する女性たちのしたたかさは、伝統的に職人労働者がもっていたしたたかさに通じるものがある。あるいは戦前のプロレタリア作家、宮島資夫が描いた「坑夫」のような、ど外れな存在に重なるかもしれない。翻弄されるバカ丸出しのビジネスマンたちが金と権力を握る理不尽さとの孤立した闘いが、ここタニヤには恒常的に存在する。たぶん、「バンコクナイツ」というタイトルとフライヤーの雰囲気についつられて映画を見に来た、ビジネスマンたちは、アテが外れて不快な思いをして映画館を出るに違いない。いいことだ。

脚本を担当した相澤虎之助は、上映後のトークで、富田監督や自身の東南アジアでの経験から、日本の旅行者というとドラッグ、セックス、ガンシューティングが目的ではないかと必ずといっていいほど質問されることから、この三つがいかに東南アジアの経済に大きな影響をもっているかに気づかされ、これがこれまでの映画制作のモチーフになってきたと述べていた。そして『バビロン花物語』はタイ北部のケシ栽培、『ビロン2』はベトナム戦争を主題としたが、ようやくこの『バンコクナイツ』で最後に残されたモチーフ、セックスを主題にした映画を制作できたと述べた。

わたしはこれに加えて、二つの重要なモチーフがあると思う。ひつとは、越境するアンダークラス。『サウダーヂ』は日本を舞台に、日系ブラジル人やタイ人の移民労働者の物語であり、移動する者たちが常に物語の中心に据えられている。闘う労働者ではなく、いつのまにかシステムを破壊する力をそれとは知らず発揮してしまうアナーキーな存在へと変貌する姿が描かれる。もうひとつは、「地方」である。今回のバンコクナイツの先行上映も空族の拠点である甲府で開催された。『国道20号線』も地方を走る国道が舞台だ。地方のアンダークラスという視点は、決定的に東京のようなグローバル都市の非正規労働者と同じようには語れない固有性がある。これはグローバル都市にはない地方のアンダークラスが潜在的に持っている豊穣な可能性に繋っている。私はこの映画を甲府という場所で観ることができて本当によかったと思う。

『バンコクナイツ』もバンコクの歓楽街からタイ東北部へと引き寄せられる。実は、タニヤで働く女性たちもまた、タイ東北部やラオス出身者であったり、あるいはタイ、ラオスから中国に拡がる地域に住むモン族の出身だったりする。こうなると「ゾミア」の世界になる。

最後に、ひとつやっかいな問題について書いておきたい。空族がセックスの問題を最後まで取り組まないできた理由のひとつは、これまでの映画もそうだが、主人公が男であるということとの関わりのなかで、セックスワーカーの世界を描くということの困難があったのではないかと思う。男の監督や脚本家が女を描くことができるのか?は、常に問われてきた問題でもある。このことは、映画を男の私が観るのと、女性が観るのとでは同じ感想にはならないかもしれない、ということでもある。ラオスのクレーターに集合するアジアの若者たち、ある種の梁山泊を想起させるファンタジーのようでもあるが、そこにはタニヤの女たちはいない。漆黒の森にもいない。この欠落がたぶんこの物語を次に引き継ぐ上での大きな鍵になるように思う。タニヤがゾミアに変貌する潜在的な可能性がすでに女たちが担っているのだから。

他方で、主人公が男であるという場合に、女は脇役なのだろうか?主体は他者なしには主体にはなりえないが、主体=主人公という位置を確たるものにするには、他者を他者のままに、主体の周辺に配置する以外にない。この映画では、女たちは、ことあるごとに、主人公の主体を揺さ振りつづける。すれ違うコミュニケーションがそれを象徴しているようにも思う。どこかでこの主客の転倒がありうるのでなければ、物語は、既定の路線を逸脱できない。どのような脱線と転倒が起きるか。そのための伏線はこの作品でほぼ出揃ったように思う。

(2016年11月13日、甲府桜座にて)

米大統領選挙が露呈させた国民国家と民主主義のもはやこれまで!

今回の米国大統領選挙ほどグローバルな資本主義のもとでの国民国家における民主主義が、明確にその限界を露呈したことはなかった。もともと国民国家は、階級構造が生成してきた搾取の構造を「国民」という普遍的価値を装って均質なアイデンティティを扮装することによって隠蔽する仕掛けでもあった。しかし、資本蓄積の構造(言い換えれば搾取の構造)が否応なく資本の出自を越えて(あるいは資本の出自を裏切って)展開しないではいられないほど成長=肥大化するなかで、自国とその外部という国民国家の境界に沿って、自国内の階級構造がもたらした失業や貧困の矛盾を、外部の「敵」に転嫁し、この「敵」と内通する自国内の既得権益に固執する特権層や、境界を密かに越境して「非合法」に自国の富や雇用を脅かす自国内部の他者にその責任を転嫁し、有権者である特権的な犠牲者の地位を白人労働者階級に付与するという構図が今回の大統領選挙を席巻した。トランプ陣営は白人労働者階級の一部が抱く人種的優越主義を刺激しながら「偉大なアメリカ」というイメージを構築するプロパガンダを展開した。トランプのプロパガンダは、伝統的な共和党のイデオロギーと相入れないだけでなく、これまで既成の政治を嫌ってきた下層の保守主義を代表すると言われてきたリバタリアニズムとも異なるスタンスをとった。とりわけリバタリアンが強調してきた小さな政府と自由競争資本主義への信仰(ハイエクやフリーッドマンなどだが)を否定した点は、それがサンダース支持者の取り込みという戦術の一環であったとしても、そのプロパガンダの方法も含めて、これまでの米国政権のなかで最もファシズムに近似する性格をもった主張であったという点に特徴があったといえるかもしれない。

国民国家の民主主義の限界は、グローバル資本主義がもたらした世界規模での貧困と紛争の根源にある米国の覇権国家としての責任という問題を正面に据えることができないという点に現われている。更に悪いことに、この問題が米国内の貧困問題に還元された上に、この原因をもっぱら外部の他者(中国であったり「不法移民」であったり、いずれにせよ有権者ではない国民国家にとっての他者)になすりつけて、愛国心を鼓舞するという方向でしか選挙のキャンペーンは展開されなかったということだ。国内の有権者のみを対象とする国政選挙という枠組は、米国ナショナリズムの神話=「偉大なアメリカ」のイデオロギーを再生産し、国民的な一体性や同質性を確認するための儀礼効果として、常に、外部の敵を再生産することに終始せざるをえない。これは国民国家の民主主義にとって解決困難な難問であって、米国に固有の問題ではない。これは近代国民国家と憲法が本質的にもっている敵対の構造に基づく自己保存の権力メカニズムであり、人びとの生存を脅かす根底をなすものの一つでもある。

米国大統領選挙でトランプは、失業と貧困から脱却できない主として白人労働者階級の票を獲得したのではないかと言われている。彼は、中国やメキシコに製造業が流出し、米国製造業を支えてきた錆びついた工業地帯(rust belt)と呼ばれる地域の白人労働者階級の職を取り戻すと主張して、TPPに反対し、安価な賃金で貿易で優位に立つメキシコや中国を非難してきた。ペンシルベニア、ウェストバージニア、オハイオ、イリノイ、アイオワ、ウィスコンシンといったかつて重工業で栄えた地域は、イリノイを除いて全てトランプが勝利した地域だ。一般論として、日本でもよく聞かれる主張として、新自由主義グローバリゼーションによって国内の産業が海外に移転することによって、職が奪われ格差と貧困がより深刻になる、だから自由貿易には反対だという議論の立て方がある。こうした主張は間違いではないが、正しいわけでもない。どこの国であれ、新自由主義の政権を批判する野党が、自国の有権者だけを念頭に陥いりがちな自覚されない排外主義のスタンスであり、格差と貧困に直面している有権者には実感をともなう主張だとして受け入れられやすいのだが、同時に、有権者の大衆意識としても、自分達の職を奪う「他者」像を構築してしまう。これは、自国内の移住労働者や近隣諸国の低賃金労働者への感情的な敵意を醸成しかねず、これが感情的なナショナリズムを支える基盤をなす危険性をもつことになる。

ナイジェリア出身で米国在住のアフリカ史の研究者モーゼス・E・オチョヌは、「新自由主義グローバリゼーション、白人労働者階級、アメリカ例外主義」(注)というエッセイで、米大統領選挙において、米国労働者階級がグローバリゼーションの被害者であるといことを強調する論調には、米国を特別視する価値観、言いかえれば、「米国の労働者階級だけがグローバル化における敗者となっており、それ以外の人びとは新自由主義の利益享受者だ」とする誤った見方が支配的であったと指摘した。こうした見方には「ナイジェリアのイルペジュ(Ilupeju)カドゥナ(Kaduna)、カノ(Kano)など、破壊された工業センターにおけるグローバリゼーションの被害者たちへの同情も連帯もみられない」と批判した。ナイジェリアでは、ここ15年の間に、グローバル化によるアジアからの安価な繊維製品の流入で国内産業が大きな打撃をこうむってきた。こうした事例は「南」の諸国で広範に見られる新自由主義グローバリゼーションがもたらした悲劇だ。

(注)Moses E. Ochonu, “Neoliberal globalization, the white working class and American exceptionalism”

しかし問題の構造はもっとやっかいで、中国やインドはアフリカとの関係ではアウトソーシングのハブとして機能しており、これら諸国との経済的な格差と資本投資による搾取の最底辺をなすのがアフリカ諸国になるグローバル資本主義の階層構造がある。この全体の構造を支配しているのは、言うまでもなく欧米の多国籍資本である。オチョヌはこうした構造を無視すべきではないとし、だからといって、中国の工場労働者がグローバル化の勝ち組の側にいるわけでもないことを強調する。だから、米大統領選挙で強調されたグローバル化によって職を奪われたという場合、アフリカ諸国は米国の職を奪える位置にはなく、むしろグローバル化の犠牲者でありつづけた。オチョヌは、アフリカの視点からすれば、米国労働者階級をもっぱらグローバル化の犠牲とみなす観点には同意できないとし、「 世界中で、多くの人びとは、米国の労働者階級同様、新自由主義的グローバリゼーションの収奪のなかで尊厳を維持しようと闘っている」ことを強調した。

当然のことながら、米国大統領選挙で主張された格差、貧困の問題ではこうしたグローバルサウスが被ってきた犠牲への関心はほとんどみられなかった。なぜなら、アフリカの人びとは有権者ではないからだ。しかし、米国の新自由主義グローバリゼーションの被害者であり利害当事者であることもまた明かだ。この排除を正当化しているのは、憲法の枠組であり、国民国家に基づく民主主義なのだということを軽視することはできない。ちなみに、ヒラリーよりずっとマシなバーニー・サンダースですら、自由貿易の問題は低賃金諸国が「アメリカの労働者」「わが国の労働者や中産階級」から職を奪うことだというスタンスが基本にある。(サンダースのTPP反対演説「TPPに反対する四つの理由」は議会演説としては優れていると思うが、国境を越える連帯の視点を持てない限界はいかんともしがたい。)

外交や安全保障から経済まで、閉鎖的な国民国家など存在しないにもかかわらず、絶対多数の利害関係者(米国の選挙権を持たない米国内外の人びと)を排除した上で行なわれる選挙のどこに正統性があるといえるのか。グローバル資本主義に対する米国の責任という観点から大統領選挙が争点化されることはまずありえない。これは米国に限らず一般論として言えることであり、国民国家によって分断されて選挙の権利がナショナルなアイデンティティを共有する人口に限られるなかで実施されることによって、民主主義はナショナリズムを正当化し、その結果として国民国家相互の摩擦や敵対を根本的に調整することが困難な条件を抱え込むという近代国民国家のリスクを体現するシステムだからだ。しかも、こうした利害の当事者の排除に基づくナショナリズムが正当化される一方で、資本は容易に国境を越えてグローバルな投資環境を構築しようとし、各国政府もまた、自国資本のグローバルな展開を相手国当事者を排除した民主主義的な合意形成によって正当化する。こうした国民国家の枠組に規定された民主主義選挙の争点から排除される論点は、一国内の有権者の利害に関わらないが世界の民衆にとっては死活となる課題である。あるいはグローバルな民衆の問題をあたかも一国内の特定の階層にのみ関わる問題であるかのように論点を歪曲した上で、これを正当化するレトリックの技術の横行である。民衆はどこの国であってもいったん「国民」として自己のアイデンティティが再定義されて内面化されると、相互に敵対関係の枠組の中で相手を見ること以外の眼差しを持つことが心理的にも困難になる。

直接間接に利害をもつ人びとが国境や国籍を越えて討議できる枠組がなくナショナルなアイデンティティに傾き、グローバルな公正性(といった近代コズモポリタニズムが掲げる理念)すら脇に追いやられる構造の根源に、皆が大切だと信じている憲法制度(立憲主義と呼んでもいい)の存在があると考えている。憲法は、普遍的な価値を国家の理念として立てる一方で、主権者を国籍によって排除・選別する。この枠組の境界線上に、移住労働者、難民、外国籍の人びととして、膨大な数で地球上に存在する。一国が有する他国との利害関係のなかには、主権者としての権利をもたない多くの人びとの利害もまた含まれる。現実の人口構成と憲法が規定する権力の正統性を支える民主主義の基盤をなす人口との間には無視できないズレと亀裂がある。トランプの「壁」発言は、この亀裂が民主主義の正統性の危機の域に逹っしていることを端的に示したものと解釈できるかもしれない。更に、分離独立を求める集団が存在する国が少なからずあり、こうした分離派にとっては憲法は、分離を妨げる最大の規範となる可能性がある。こうした状況と、憲法を後ろ盾とした資本や軍隊の越境性とを比較したとき、一体どこに民主主義の効用が、あるいは憲法の普遍性についての肯定的な価値があるというのだろうか。

今回の米国大統領選挙は、国民国家という枠の内部で競われる民主主義的な選挙が同時にナショナリズムを高揚させて、人種差別主義を正当化する危険性があることを端的に示した。トランプのように「偉大なアメリカ」を口に出して叫ぼうが、ヒラリーのように「偉大なアメリカ」を暗黙の前提としようが、彼らが競っているのは、どちらが「偉大なアメリカ」を将来において維持あるいは再現あるいは再興できるのかでしかない。彼らにとって、米国民(つまり有権者だが)の犠牲を最小化し、その利益を最大化するための政策を競っているのであって、この方程式の解が、他国の犠牲を最大化し、その利益を最小化することがあってもそれは問題の焦点にはならない。このことを端的に示したのがトランプによる米国白人労働者階級の貧困問題への言及だっただろう。彼にとって米国白人の貧困は特別に重要な解決されなければならない問題だということであり、この立場を支持する米国の有権者が少なからず存在したことがトランプの勝利を支えた。トランプだけでなく米国の有権者の多くも、米国の国民は例外的に繁栄を享受する権利があるかのように感じているのではないか。

一世紀近く前の古い話をしたい。カール・シュミットは『現代議会主義の精神史的地位』(稲葉素之訳、みすず書房)の第二版(1926年)まえがきで次のように述べている。

「あらゆる現実の民主主義は、平等のものが平等に取扱われるというだけではなく、その避くべからざる帰結として、平等ではいものは平等には取扱われないということに立脚している。すなわち、民主主義の本質をなすものは、第一に、同質性ということであり、第二に──必要な場合には──異質的なものの排除ないし絶滅ということである。このことを説明するためには、民主主義の二つの異った例について一言するだけで十分であろう。すなわち、一つは今日のトルコがギリシア人を徹底的に国外へ移住させることによって、その国土をトルコ化しようとしていること、他の一つはオーストラリアの_くに_(Gemeinwesen)が移民立法によって好ましくない移住者の流入を阻止し、他の自治領と同様に、_正しい種類の植民者_に合致する移住者のみを入国させていることである。すなわち、民主主義の政治的力は、他所者と異種の者、すなわち同質性を脅かすものを排除ないし隔離できる点に示されるのである」(14ページ)

上でシュミットが言う同質性とは「一定の国民への帰属性、すなわち国民的同質性」を意味するとともに「一般に民主制には、これまで常に奴隷または野蛮人、非文明人、無神論者、貴族あるいは反革命分子と呼ばれる何らかの形態で全部のまたは一部の権利を剥奪され、政治的権力の行使から除外されている人間が常に附きものになっていた」(15ページ)とも述べている。

シュミットにとって国民的同質性の核をなすものは、「民族的に同質な国家」であり、「大抵の国家は、それ自身の内部においては民族的同質性に基づいて民主主義を実現しようと努めているが、その他の点ではあらゆる人間を同権的な市民として取り扱っているわけではないのである」(17ページ)とも述べている。

シュミットは後にナチスの同伴者になるが、ワイマール時代に彼が論じた論点は今に至るまで繰返し議論の対象になってきた。ここで述べられている論点は、民主主義を擁護しようとする者たちにとっては実は聞きたくない考え方だろうと思う。しかし、民主主義が合意形成の手続きである以上、その前提として共通の価値規範を何か持たないことには成り立ちようがなく、そうであるとすると、価値観を共有しえない部分を排除するメカニズムを持つことによって民主主義的な合意形成を効果的に発動できるような制度設計が不可欠になる。国民国家は、これを「国民」としてのアイデンティティとして形成・再生産しようとするとともに、国家権力を制約する規範を「普遍的な価値」として構成することによって、理論上は何人も否定できない価値に基づく「同質性」を標榜することになる。これは多様性や異質なものの排除を意味するのではなく、これらを包含することを前提として形成される合意こそが普遍的な価値の体現であるとすることによって、同質性を異質なものの同質性として立てうることを示そうとしてきた。その結果、政治は言説のレベルにおける普遍的な価値の氾濫の一方で、現実には、普遍的な価値に名を借りた差別と排除が横行することになった。差別ではなく正当な競争の結果であるとか、排除ではなく普遍的な価値を実現するための秩序の実現であるなど、権力は政治の言説を討議に基く真理への過程としてではなく、既存の権力を正当化するためのレトリックと駆け引きのための詭弁として用いてきた。

憲法はこうしたレトリックの中枢をなす普遍的価値の擬制の体系なのだが、憲法が支えられているメタレベルでの権力の自己再生産構造を見ずに、憲法の条文が意味するであろう内容を「憲法学」的に解釈する立法府やアカデミズムの議論は、実は憲法が、普遍的な価値を纏うが故に逆説的に暗黙のうちに含んでいる排除の正当化の機能を見落している。シュミットはこの点を突いて、民主主義は排除と同質性の維持、とりわけそれを民族的同質性以外にはありえないと断定することによって、ワイマールとナチズムを同じ土俵の上で正当化してみせたのだと言うことができるかもしれない。ワイマールはよくてナチズムは悪いというふうには問題はたてられないのだ。同じことは、米国憲法にもいえる。トランプを生んだのは米国憲法であり、安倍を生んだのは日本国憲法なのだ、という事実から、憲法や国民国家という権力の構成を免罪できるか、という問いを私たちは自問しなければならないところに立っている。

米国大統領選挙から見えることは、日本の政治や国家の制度の問題とほぼ重なる。民主主義の欺瞞であれ、憲法のレトリックであれ、これらをシニカルに捉えて諦めるのではなく、だからこそこれまでにありえなかったような社会を構成する基本的な枠組を構想するという問題に挑戦しなけらばならないということではないのだろうか。「日本」やこの国のナショナリズムを廃棄するという課題は世代を越える大きな問題だが、この問題に答えを見出せないとすれば、国民国家が本質的に抱えもっている生存に対する危機を座して覚悟するという選択しか残されないと思う。それでいいはずはない。

書評:武藤一羊著『戦後レジームと憲法平和主義』れんが書房新社、2016

刺激的な本に出会うということは、本の内容をそのまま受け入れるということよりも、本の内容に触発されて、著者がどう思うかとは別に、私自身の考え方に一歩でも新たな展開をもたらすようなことだと思う。武藤一羊の議論は、とくに私とは目のつけどころも方法論も違うけれども、現状への危機感は多くの点で共有できるという意味で、刺激的である。本書もまたそうであった。以下では主に、本書の理論的な枠組を提示している「総論」を中心に私の雑駁な感想を述べたい。

本書は、武藤がこの間提起してきた彼の戦後日本国家論を再度整理して、とりわけ安倍政権が目指す方向への根底的な否定の根拠を論じるものだといえる。武藤は、戦後日本国家の構成原理はアメリカの覇権原理、戦後憲法の平和・民主主義原理、そして帝国継承原理の三つからなるという基本認識を提起するが、これら三原則は「相互に矛盾する構成原理で成り立つ歴史的個性を備えた国家」であるというのが武藤の重要な方法論であると同時に、ここから安倍政権が目論む帝国継承原理一元論とでもいうべき改憲を通じた戦後レジームからの脱却戦略へのオルタナティブも導き出される。武藤は安倍の歴史認識をつぎのように要約している。

「安倍政権を構成する政治集団の基本的立場は、近代日本=大日本帝国の近隣アジアへの侵略・植民地化は正当であり、それを妨害しようとした欧米との戦争は正当な自衛戦争、そして欧米帝国主義からアジアを解放する戦争だったというものであう。誇るべき過去しかない。日本はこの歴史観を軸に組織しなおさなければならない。そのためには、帝国の過去を反省や贖罪の相でとらえる「自虐史観」を日本国民の間から一掃しなければならない。」(104ページ)

この安倍政権の歴史観は、戦後右翼が一貫して主張してきた歴史観そのものであり、安倍あるいは政権が固有の歴史認識を新たに構築してみせたわけではない。こうした右翼の一部の主張から戦後国家の権力の中核を担う正統化原理へと格上げを実現したところに極右政権たる所以もある。とはいえこの帝国継承原理が安倍政権になって登場したものではなく、戦後国家に一貫して伏在してきた基本原理の一角をなすものであって、その現われが顕在的であれ潜在的であれ、「帝国継承原理が戦後国家の中に現に生きている原理として継承されていたということにかんして、多くの有力な論者の中にはっきりした認識がなかったし、いまでもないかに見える」(57)と武藤は指摘している。

武藤が「戦後国家は、帝国継承原理を正統化原理の一つとして最初から組み込んで成立していた」(59)と言うとき、同時に、戦後国家の権力構成の基本に戦後憲法では天皇の政治的な大権も神格化も否定されたにもかかわらず帝国継承原理が組み込まれてきたとするなら、それは何を意味するのがが問題になる。武藤は、この点をおおよそ次のように説明する。アメリカの覇権原理との関わりでいえば、戦後の天皇制存続は米国の覇権構造への組み込みの一環として米国の国益と占領統治の便宜として米国の選択であったという意味で、「アメリカ製天皇制」であるということ。戦後憲法の平和・民主主義原理との関わりでいえば、天皇を不可侵の主権者とすることから「人間宣言」と象徴化へと転換することによって民主主義を保障することになったということ。帝国継承原理との関りでいえば、裕仁が戦後も天皇の座に座り続け、「万世一系」の神話も保持され、同時に戦後憲法も裕仁の名において公布されたということ、である。神格化を伴なう「日本」の「神代」からの継続性を一方で確保しつつ、他方で神格化を否定して人間宣言をする。「日本」という擬制の中核をなすものでありながらそれが「アメリカ製」である戦後天皇制。武藤はこれを戦後天皇制の「三元的自己矛盾の塊」と指摘し、安倍政権はこの自己矛盾を第三の正統性原理、つまり帝国の継承原理で一貫させようとしていると見ている。

本書では、正統性原理のなかの「戦後憲法の平和・民主主義原理」が、米国や日本の支配層の思惑を越えて、憲法9条に体現されている平和主義を民衆のなかに深く根付かせるとともに、そのことが60年安保闘争、ベトナム反戦運動から現在の沖縄反米軍基地闘争や戦争法反対闘争といった一連のアメリカの覇権原理に抗う流れを生み出してきたことを指摘し、この流れのなかに、安倍が目論む帝国継承原理を覆す可能性を見出そうとしている。

「原理としての平和主義によって、私たちは安倍政権を倒す。それによって戦後国家に作り付けだった他の二つの国家構成原理の排除に向かう。それは、醜悪な野合をとげている帝国継承原理おアメリカの覇権原理を癒着のまま処分し、平和主義原理によって日本列島を組織しなおすことに踏み出すことである」(94)

異論はとりあえずないが、では倒すべきは安倍政権であるとしても、武藤の立論をふまえれば、それに止まることはできない。倒すべきものは戦後を通底してきた米国覇権原理と帝国継承原理であり、したがって、倒すべきは安倍政権を越えて戦後自民党政権総体だということではないだろうか。またそうだとして、「平和主義」の核をなす憲法9条をどのように解釈すべきものとしてわたしたちが再定義できるかにもかかっている。憲法9条には共通の合意された解釈がないなかで、9条は壊死しているが、そうであっても9条は書かれた憲法として有効な手掛かりなのだという希望を持ちたいと思いつつも、9条は平和主義をささえる国家の統治原理になりえなかったという反省を踏まえて、更に先を見据える必要があると思う。言い換えれば、武藤の言う米国覇権原理と帝国継承原理が排除されたとき、そこには平和主義が自立した姿で見出せると言いうるのか?である。わたしはこの点で懐疑的だ。なぜなら、国民国家という統治機構をとる限り、常に平和主義は擬制においてしか成り立たない危険性をはらむのではないか、という疑問があるからだ。根源的な平和主義を構想するとき、どうしても問わなければならなくなるのは、抽象的な言い回しになるが、国民国家という近代に遍くはびこっている権力の基本的な構成原理そのものに内在する暴力ではないか、ということである。平和主義がこの水準にまで到達するとすれば、それは、近代の政治学や憲法学が前提としているパラダイムを越えることになる。そうならなければ多分、平和主義は運動としても思想としても再生できないと思う。

武藤は次のようにも述べている。

「戦後日本国家の著しい特徴は、日本国憲法が国家の完全な構成原理として働らかなかったことである。形式上は、戦後日本国家は日本国憲法によって構成されたことになっているにもかかわらず、現実には、これまで見たように、憲法原理はそれとは両立しがたいアメリカ覇権原理および帝国継承原理と並んで、それらの掣肘下に存在したので、原理として自己を貫徹することなかったし、できなかった」(69)

ここでいう「日本国憲法が国家の完全な構成原理として働らかなかった」の意味は憲法前文に明文化されている平和主義を念頭に置いている。言うまでもなく、この構成原理としての不十分性をもたらしたのは、他の二つの原理、米国覇権主義と帝国継承原理によって制約されているからに他ならない。実は同じことは帝国継承原理にも言えると武藤は言う。

「帝国継承原理は、国家の中枢に保持されていたが、それを公然とかかげることはできなかった。こうして、どの原理も排他的に自己を貫徹できなかったから、どれも原理としての本来の資格を大きく失い、その結果、戦後日本国家は明確な正統化原理を持たぬ国家、逆説的に言えば、オポチュニズムを原理とする国家となった。」(69)

戦後憲法の象徴天皇制は帝国継承原理と接合しており、9条もまた米国の安全保障政策と国益に接合して構築されたものであるという面でいえば、そもそも戦後憲法は、アメリカ覇権原理と帝国継承原理なしにはありえないものだともいえた。このような武藤の議論の前提を受け入れるとすると、この三つの原理のうち、帝国継承原理だけが他の二つの原理なしに存立可能な特異な正統性原理である、と言えそうだ。この意味で、安倍が帝国継承原理を前面に押し出したことの結果として戦後憲法の平和・民主主義原理を原理の地位から放逐することは、ある意味では矛盾を回避する論理的な帰結だともいえるかもしれない。

●戦後憲法の平和・民主主義原理とは何か?

武藤は、帝国継承原理に一元化しようと画策する安倍政権に対置して、「第二原理(憲法平和主義)の下で暮してきた日本国民」を米国の覇権原理と帝国継承原理を抑え込む民衆運動のよりどころとなりうるものとみているように思う。しかし、この憲法の平和・民主主義原理の論じ方は、安倍政権の帝国継承原理一元化の構想(その具体的な提案が自民党の改憲草案)の登場によって、戦後平和運動が論じてきた論じ方では対応できない状況が生み出されたとみる。

「右翼的勢力の改憲の最大の動機が、戦後期全体を通じて、合憲的合法的な軍隊を持ちたい、そのため憲法九条を変えたいということであったのは言うまでもありません。その状況の下で、日本国憲法の大原則の一つである『非武装平和主義』をどのように扱うかは、主として憲法九条の存廃をめぐる論争、対立として展開されてきました。それが誤りだというのではありません。しかし今回の自民党改憲草案が提起している『国防軍』の創設は、日本国の普遍的基準からの切断という文脈の中に据えられているので、国家は軍隊を持つべきか否か、といった抽象的・一般的議論のレベルだけでは扱えない歴史の中での具体性を備えているのです」(163)

武藤は非武装平和主義、つまり軍隊をもたないという立場によってはもはや対応できないほど具体的な軍隊の問題が「歴史の中での具体性を備えて」登場していることを強調する。これは、非武装平和主義を放棄するとか棚上げにするということを意図して述べられているわけではないが、非武装平和主義を普遍的な原理として前面に押し出して自民党の改憲草案と対峙するというスタンス、つまり。上の引用で「国家は軍隊を持つべきか否か、といった抽象的・一般的議論のレベルだけでは扱えない」に含意されている彼なりの問題意識がある。武藤は非武装平和主義を否定しているのではなく、それだけでは十分ではないと言うのだ。彼は次のようにも言う。

「日本国憲法の非武装条項は、戦後日本がアジアの諸国民に向けた誓約であるとはこれまでも指摘されてきたことですが、その通りです。敗戦日本が、反省もせず、負けたのはアメリカに物量でかなわなかったからだなどと開き直っただけだったら、戦後アジアとの関係は不可能であったでしょう。非武装憲法の誓約はかろうじて関係つくりの基礎の役割を果たしたのです。現実には戦後日本は、米国のアジア支配に便乗してこの基礎をないがしろにし、脱帝国・脱植民地の課題に直面せず、アジアとの間の過去を清算することを回避してきました。それでも、この憲法ん誓約は戦後日本がアジアとの関係を回復する際の前提として存在してきたのです。」(163)

この非武装条項は、憲法前文と対応するものだが、武藤は「自民党草案は、その前文において、戦後期冒頭に置かれたこの礎石[現憲法全文]を取り外し、投げ捨てました」と指摘する。こうしてアジアとの誓約も非武装平和主義も棄て去って、帝国継承原理に一元化しようとしているとみるわけだ。わたしは、武藤のこの指摘は大枠として正しいと思うから異論はない。とはいえ、問題は、現在の安倍政権あるいは自民党改憲草案と戦争法の時代に起源をもつ問題なのではない。武藤は安倍につらなる戦後日本国家の質的な転換を1990年代にみている。つまり、戦後の矛盾に満ちながらもかろうじて相互の調整を維持してきた三つの原理の均衡が崩れたのが90年代だいう。総評の消滅と社会党の衰退はその象徴的な出来事だという。(「始まったレジームチェンジ」プロセスの尋常でない性格」、本書所収)

この武藤の指摘に更に私は重要なもうひとつのファクターを強調したいと思う。それは大きく言えば戦後日本の「革新」の限界に関わる。その出発点は、言うまでもなく、裕仁の戦争責任問題、戦後憲法讃美によって後景に退いた沖縄の米軍統治問題という戦後の端緒に埋めこまれた戦後日本の平和主義の限界に関わるが、さらに私は、武藤の言う三つの原理の均衡が崩れた大きな要因をつくりだしたのは、自民党ではなく90年代の村山政権だったことを強調したい。村山政権が、日米安保と自衛隊合憲を打ち出し、原発をも容認したことは、「革新」側による憲法9条の再定義であって、その後の平和運動の基本理念を大きく損なう裏切り行為だったとはいえないだろうか。この結果として、その後の野党や反戦平和運動の流れのなかに、原則や理念を棚上げにして、目先の軍事・安全保障政策に対する反対として運動を展開するという理念なき政局運動がはびこるようになった。体制選択はおろか、原則的な外交・安全保障の基本政策を根底から否定する運動の思想的なラディカリズムは影をひそめ、その結果として、日米同盟解消や自衛隊廃止、非武装中立という方向性が平和運動の当然の共通認識とはならなくなってしまった(あるいは公然とは口に出されなくなった)ように思う。こうして、自衛のための武力行使を暗黙のうちに容認する価値観が徐々に平和運動のなかにも浸透してきたように思う。言い換えれば、自国軍隊を持つことを当然の前提とする諸外国の平和運動と同じ次元で反戦平和運動が再定義され、その結果として9条を重要な運動の柱としながらも、この9条が「革新」側によって自衛隊合憲、日米安保容認という再定義を前提とした立法府での議論の枠組が構築されていることの深刻な問題を棚上げにする一方で、「戦争放棄」や「9条守れ」というスローガンには漠然とした戦争放棄の理念がありうるハズだという期待を多くの反戦平和運動の担い手たちは抱きつつも、政治の現実の舞台があまりにもこの理念とかけはなれた土俵の上で展開されている欺瞞に疲れ果てる姿が日常化してきたとはいえないか。自衛隊解体、国家に軍隊はいらないを非武装平和主義の意味として共通の合意とする確認もなしに、具体性のないヌエ的なスローガンでお茶を濁す空気すら生み出されてきたのではないだろうか。この反戦平和運動のなかでの90年代の9条再定義は安倍政権につらなる現実政治への理想主義の敗北であったのではないだろうか。だから、左派の再構築は、こうした90年代以降の再定義を自己批判的に総括することを避けることはできないはずだ。その上で、武藤が言うように平和主義をその内実を伴なう意味のレベルで再定義し共有することが必須の課題だ。

「革新」による9条解釈の変質は、現行の自衛隊については違憲とは明言せず、集団的自衛権だけが違憲であるかのような奇妙なレトリックが支配的になってきた現在の流れの源流にあるものとはいえないだろうか。こうなってしまうと、安倍政権が打ち出した「積極的平和主義」や自衛隊合憲を前提とする議論の土俵に片足を乗せながら、集団的自衛権行使や海外派兵の条件だけを争点とするような論じ方になってしまう。こうした危惧を武藤は戦争法反対の論調のなかに見出して危惧を表明している。こうしてみると先に述べたように、村山政権が打ち出した日米安保容認、自衛隊合憲論がその後の運動にもたらした影響は非常に大きかったのではないかと思う。

●戦前・戦中・戦後を繋ぐ国家原理とは

政治学者や法学者は1945年の転換に大きな意義を与え、これこそが戦前・戦中と戦後の「平和主義」を分つ分水嶺だと強調するが、私はこの見解にこれまでも異論をさしはさんできた。1945年はさほど大きな亀裂を「日本」にもたらさなかったと考えてきたからだ。もちろん1945年は近代史においても特筆すべき切断面を示している。このことを軽視するつもりはないが、その反面、この切断面は近代「日本」の深層にまでは到達しえていないと考えるからだ。では、戦前・戦中・戦後の連続性とは何なのか。その答えは極めて単純な事実にある。それは、戦前・戦中・戦後に一貫して、「日本」は資本主義の構造を維持したこと、そしてまた、近代国民国家としての構造を維持したこと、この二点である。同時に、これらの構造が生成しているこの国で生活する民衆の大多数のアイデンティティもまた「日本人」としてのアイデンティティであったことである。(その周辺に植民地の人びとのアイデンティティが接合され、この他者のアイデンティティなしには「日本人」のアイデンティティも確立しない構造をもっている)「日本人」としてのアイデンティティと国民国家としての構造との間をつなぐ「日本」の近代の正統性あるいは自他の差異は、(不合理であれ何であれ)普遍的な装いをもって提示すべき国家イデオロギーとして構成されなければならず、これは、この国では天皇制以外にはありえなかった。しかし、これこそが脆弱であることもまたこの国が抱えてきた固有の問題でもある。

民衆の日常生活に即してみたとき、戦争体験や自由に対する抑圧が1945年を境に大きな転換を遂げたとしても、国民国家と資本主義の構造のなかで、〈労働力〉として組み込まれる構造は一貫したものがあり、これが国民としての〈労働力〉を再生産する構造として維持されつづけてきた。この一貫した構造がある限り、ある種の戦前・戦中への回帰(文字通りの意味での回帰はありえないのだが)を絶つことはできないというのが私の認識だ。たぶん武藤の三原理と私の認識の最大の違いはここにあるのではないかと思う。

その上で、武藤が危惧する帝国継承原理について私なりのコメントを書いておきたい。帝国継承原理として武藤が指摘している侵略の正当化の主張は、一般論としてその通りだと思うが、戦前・戦中の日本の侵略を正当化する歴史認識はひとつではなかったことが重要だと思う。一方で、蓑田胸喜や国体明徴運動といったファナティックとさえいえる皇国史観があり、他方では天皇機関説があり、後者が弾圧されたとはいえ、戦後憲法のなかで復活することになる。前者は、戦後天皇制の伏流として、右翼のイデオロギーとして生き残る。皇国史観や現人神としての天皇=主権説は、ある種の一神教だが、一神教は、普遍主義を体現できるだけの教義の普遍性と、この普遍性を支えるだけの主体の神性が遍く人びとに受容されうるような組織に支えられなければ維持できない。普遍宗教を標榜するキリスト教であれイスラームであれ数世紀をかけて教義としての体系を整え、これを普遍性の言説へと彫琢してきたことによってかろうじて世俗主義近代を生き延びてきた。天皇制にはこうした強靭な思想的な普遍性がなく、神話を現実に繋ぐ強靭な歴史形成力を持たない。だから1945年を境にあっという間に民衆は天皇=現人神の神話を自ら放棄することに同意したのだと思う。ほとんど誰も本気で信じていなかったということだ。

対外関係では、一方に昭和研究会を中心とする東亜協同体論(東亜新秩序論)があり、他方に大東亜共栄圏がある。多分、軍事的侵略と人殺しの狂気を支える精神性にとってはファナティックな皇国史観や大東亜共栄圏の妄想は役にたったかもしれないが、広範な知識層を含めて侵略を正当化する思想的理論的実証的あるいは政策的な枠組は、むしろ東亜協同体論に代表されるようなスタンスではなかったかと思う。しかも、戦前の日本による植民地化と侵略を正当化する思想の無視できない一角を占めたのが、転向マルクス主義者たちであったということは決して無視できない。マルクス・レーニン主義の資本主義批判や帝国主義批判を逆立ちさせた議論が、平野義太郎であれ三木清であれ、あるいはプロレタリア文学作家として重要な仕事をしながら転向した林房雄であれ、彼らの理論的枠組はマルクス主義的な知的伝統抜きにはありえないものといえた。この意味で帝国原理は転向マルクス主義を抱えこんだものでもある。(これは、戦後高度成長を支えたイデオローグもまた転向マルクス主義者たちであったことにも共通する問題だ)そしてこの左右の中間に膨大な沈黙する現状追認の知的世界が拡がっていたのではないか。西田幾太郎や京都学派はリベラルな追認派として、ほぼ無傷でそのまま戦後を生き延びる。

帝国継承原理として武藤は、これらの戦前・戦中の帝国原理の振れ幅のどこに焦点を当てているのかはいまひとつはっきりしない。もし皇国史観や国体明徴運動のイデオロギーと大東亜共栄圏の構想をもって帝国原理とするなら、確かにアジア諸国の合意は得られないだろうし、少なくとも今現在の日本国内においても安倍政権を支持する確信的な右翼は別にして多くの有権者の合意も難しいに違いない。いやむしろ安倍政権がイデオロギーとして戦後の価値を否定する場合に、何をオルタナティブとして構想するのかという選択肢として、従来は採用されなかったような戦前・戦中のイデオロギーの核となるものの幾つかを取り入れようとしているのかもしれない。その取捨選択は、あらかじめ決められてはいない。まさにオポチュニズムによって選択されるに違いない。

●米国の覇権主義

多分、戦後日本が70年にわたってほぼ一貫してそのスタンスを変えてこなかったものが、この米国覇権主義を組み込んだ国策の構造だろうと思う。この意味で武藤の指摘に根本的な異論はない。しかし、米国の覇権主義に基いて構築されてきた戦後世界秩序のデファクトスタンダードは、中国とロシアの台頭によって、大きく揺らぐ事態になっている。新興国は、もはや欧米がルールとして定めた「国際社会」の正統性を無条件では受け入れなくなってきた。中国やロシアがそれぞれの国益をグローバルスタンダードとして打ち出し、これが相当程度に具体的な外交や安全保障、経済の分野で効果を発揮しはじめているからだ。中国のインフラ投資銀行、ロシアのシリア介入やクリミア併合、そして、米国にとって軍事的な空白地帯になっているアフリカでは、中国が圧倒的な経済的なプレゼンスをもって台頭しつつあり、同様に中央アジアもまたロシアの影響力が強まりつつある。これは、世界最大の軍事大国米国が、アジア重視やリバランスを主張したとしても、もはや世界の動向を左右する覇権国家の覇権国家たる所以を具体的な行動で示さなければならない場所そのものが、米国を中心とする欧米のヘゲモニーの構造から相対的に自立しはじめているということだ。こうしたなかで日本が米国覇権主義を正統性原理として維持することについて、支配層内部でも異論がでてくる可能性は否定できないと思う。これは別の見方からすれば、非武装中立というかつての夢の再興の可能性を孕む客観情勢が顕在化しつつあるともいえるかもしれないのだが、平和主義の側にもはやその準備がないように見える。

米国覇権主義は実際にはそれほど磐石であったことはなかった。この意味である種の神話に近いものであったかもしれない。ベトナム戦争以降、明確に戦争での勝者になりえず、冷戦の勝利は軍事的な勝利ではなくむしろグローバル資本の圧力による社会主義圏の自壊ともいえるものであったし、アラブ中東であれ旧ユーゴであれ、一貫した外交理念を貫くことができずに、国益だけを指標に無定見な武力行使を繰り返す以外になかったのではないか。その米国が、911同時多発テロでうろたえた大国の姿を世界中にさらし、出口のない対テロ戦争に引きずりこまれて手をやいている。世界最大の軍事国家米国が勝てない戦争を続けており、この米国との同盟という負け組を選択する極右安倍政権のスタンスに、この国の愛国主義者も同調するという奇妙なナショナリスムもまた米国覇権主義と帝国継承原理の矛盾の産物なのだと言えるが、これは逆に戦後国家の正統性の一角を脆弱にしている要因ともいえる。

21世紀の世界がそれまでの世界秩序と本質的に異なるのは、近代の普遍的な理念がそのままでは通用しなくなっており、そのことは支配的な価値観の側でも、従来の反政府運動(左翼)の側でも起きているということではないかと思う。これまで世界政治の枠組のなかでは不可視な存在としてしか扱われてこなかった20数億のイスラーム人口が、これまで前提されてきた欧米近代の普遍主義ともキリスト教習俗とも異なる文化的な価値をもって可視化され、無視できない政治的社会的文化的な潜勢力を示しはじめていることに対して、こうした動きを既存のグローバルは覇権システムのなかに有効に包摂することができないままになっている。多文化主義、民主主義、自由と平等もまたその欺瞞が露呈することになった反面、諸々の差別主義と排外主義が公然と欧米の民主主義を逆手にとって権力の中枢に迫る。価値観としての自由も平等も欺瞞以外の何ものでもないことを民衆の大半は実感しており、それは日本が「平和国家」であると公言することに込めらている欺瞞と共通するレトリックの構造があり、これは近代社会を支えてきたイデオロギー構造そのものの限界と矛盾が露呈したものだといえる。だから、これは、米国の覇権主義原理の危機のあらわれでもあって、その危機は、グローバルなイデオロギーの危機でもある。

他方で、民衆運動の側はどうか。冷戦期の反戦平和運動は、ベトナム戦争反対運動であれ第三世界連帯運動であれ、反米闘争を闘う民衆の闘争への思想的な共感をともなうものでありえた。しかし、ポスト冷戦期の運動は、湾岸戦争からアフガン・イラク戦争そして対テロ戦争の現在に至るまで、米国とその同盟軍と闘うもう一方の主体に対して共感をもってこれに同調することで運動が成り立っていない。欧米に主導された軍事介入に反対するとはいえ、広範に(特にイスラーム圏で)どこからどこへ向う解放が民衆の解放の闘いとして、欧米や日本の反戦平和運動と世界観や将来社会像において共有できるものとして存在しているのか、この点が未だに不分明なままだ。世界社会フォーラムの「もうひとつの世界は可能だ」というスローガンも、もうひとつの世界を「像」として結ぶことができるような焦点を見出せないままである。ギリシア、スペイン、香港、台湾、あるいは英国労働党や米国民主党内部の左派の台頭は注目すべきだが、しかし、これらの運動は、資本と近代国民国家の枠を越える理想が希薄なようにも見える。多国籍資本のビジネスモデルを覆すだけの潜勢力がまだ見出せていない。この意味で。米国の覇権主義は、圧倒的な軍事的・イデオロギー的な優位に支えられているというよりも、次の選択肢が見出せない反体制運動の脆弱さによってかろうじて延命しているともいえる。米国覇権主義の危機はかなり明白であるが、それに代替するプログラムが見出せない。この意味で、危機は主体の側により深刻であり、この間隙を縫って、極右がその隙間を埋める運動として民衆的な力を獲得しつつあるように思う。この意味では、問題は奴等の側にではなく私たちの側に、私たちが提起すべき解放の想像/創造力の欠如にこそある。

●わたしたちにとっての最大の課題は何なのか?

資本主義にとって、戦前・戦中・戦後に一貫しているのは言うまでもなく、資本蓄積の構造である。独裁であれ民主主義であれ、何であれ資本を支える社会的な構造を資本は要求するのみである。国家にとっては、国民国家としての権力の正統性が何であれ、国家の統治機構の自己維持こそがその自己目的である。この一貫した構造のなかで、一人一人の個人あるいは身近な民衆の存在に定位したとき、そこにあるのは、国民的〈労働力〉としての再生産の構造である。一方で資本が、他方で家族が、そしてこれらを支える統合の基盤としての国家がある種の原理的な構造をなしている。武藤が三原理を相互に矛盾するものとして指摘したことは重要であるが、私はこの三つの原理の矛盾だけでなく、より多様な正統性の要件があると考えている。ここではそれを全体として論じることはできないが、近代の資本と国家のシステムはある種のモジュール構造をとって緩やかに相互に接合される。家族や親族の構造から重層的なコミュニティの構造、総体としての資本や国家の統治機構に至るまで、相互に矛盾と摩擦をはらみながら調整しうるようなモジュールであり、ときにはその一部が別の構造をもつモジュールと取り替えられることすらある。国民的〈労働力〉の再生産の時間的(歴史的)空間的(領土的)な配置のなかで、資本は蓄積を自己目的とし、国家は権力を自己目的とする構造を維持する。常に問題の中心をなすのは「人口」である。人間社会である以上この「人口」が問題であり主体でもあるからだ。資本と国家の自己維持メカニズムにとって、「人口」はその手段でいかない。武藤が述べているように、オポチュニズムがこうしたシステムの根底にはあって、実は最も重要な存立構造の核をなしているようにも思う。近代の普遍主義はこのオポチュニズムを正当化するための神話の装置だとも言える。

これを「日本」という文脈に引き寄せたときに、その固有性は何になるのかが問題になり、武藤はこの固有性の次元で「日本」の正統性原理を批判した。彼は過度な抽象化や理論化には大変慎重かつ批判的だと思うので、私のような抽象的な資本や国家という概念に「日本」の固有性を還元することには異論があると思うし、わたしには武藤が論じているような密度で、同じ抽象の水準で戦後日本の国家を論じる能力も準備もないのだが、だからこそ彼の安倍政権批判から近代日本の国家原理総体へと至る批判の具体性は、示唆に富み、かつ刺激的なのだ。問題は、今に至るまで、やはり、資本と国家の廃棄という課題である。この課題に連接する具体性の次元で語るべき言葉を本来なら持たなければならないのだが、まだ私にはその用意が十分にできていない。このことを武藤の議論を読みながら改めて実感させられた。

12月17日:今日の反核反戦展2016 関連企画 ―ディスカッション:反核・反戦と表現の自由 『核×戦争のアートアクティヴィズム』

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チラシ

今日の反核反戦展2016 関連企画  ―ディスカッション:反核・反戦と表現の自由
『核×戦争のアートアクティヴィズム』

12月17日(土)13時~15時(12時30分 開場)
場所:原爆の図丸木美術館 小高文庫 ※参加者数により変更
〒355-0076  埼玉県東松山市下唐子 1401 TEL:0493-22-3266
参加費:500円 (資料・茶菓子代) ※美術館入場料別途要

■小倉利丸《批評家》
遊動と根拠地:アナログ・アートアクティビズムへ
■岡村幸宣《原爆の図丸木美術館 学芸員》
《原爆の図》の活動期――占領下、1980年代、そして現在
■狩野 愛《アートアクティヴィズム研究》
アートアクティヴィズムは国境を越える

《原爆の図》の全国巡回は、原爆被害の報道が禁じられていた占領期に始まり、1950〜53年の約4年間で、全国170カ所以上で開催されました。丸木位里・俊が、美術作家として反核・反戦の悲惨さを表現し、全国行脚して展示し、物語を伝えていく活動は、社会教育やジャーナリズムとも結びついた実践だといえます。ただ、現在の「自由に制作・発表出来ている」状況におけるアートの制作と展示と比べると、大分異なる活動のあり方かもしれません。しかし、アーティストと美術関係者が、積極的に原発や米軍基地の緊急の問題に関わり、解決に向けて一歩踏み出す方法を議論し、共有し、模索する機会を増やしていく意味はあるでしょう。
かつての丸木夫妻のアートアクティヴィズムの実践と、今日までの原爆の図丸木美術館の取り組みを省みると、社会の中で美術を機能させる意識を持つべきなのか、美術の中で社会を見出す契機を作っていくべきなのかという問いは、もはや無効であると言えるでしょう。むしろ、今回のトークイベントでメインに据えたいテーマは、アートを触媒にした対抗文化は、今日の社会制度、美術制度が敷かれた空間で、いかにラディカルさを確保し、力を発揮できるかということです。
世界的にもナショナリズムが求心力を持ち、政治状況が激しく揺れ動く一方、市民として反核・反戦を実現していくユートピアを、発表と参加者を交えたオープンディスカッションで描き、より広くアートアクティヴィズムの可能性を見出せればと思っております。皆さま、奮ってご参加ください。

左派は国民国家の統治とは別な何かを創造できるか──『絶望のユートピア』出版に際して

以下は、『人民新聞』10月15日号に寄稿したものです。

私は、この30年ほどの時間のなかで、雑多な文章を書いてきた。この雑多な産物を雑多なままに、『絶望のユートピア』というタイトルを付して本にした。一二〇〇ページを越える大部だが、時系列にもカテゴリー別にも分類することを排した混沌とした本である。特定のテーマはない。現代資本主義批判もあれば現代美術の批評もある。原発への言及もあれば、天皇制や右翼言論への批判もある。サイバースペースや監視社会批判もある。しかし、これらをカテゴリーのなかに押し込んで相互に別々の課題とするようなことはしたくなかった。結果として、混沌が生まれた。

左派が、日本だけでなくどこにおいてもグローバルに直面しているのは、左派としてのアイデンティティの危機だと思う。この危機は、西欧近代が普遍的な価値としてきた自由、平等、人権、民主主義の擬制と虚構に左派もまた加担してきたしてきたところにある。もはやいかなる意味においてもこうした価値は、その一切の正統性を喪失してしまったと思う。底辺に生きる民衆たちは、こうした価値とは別な何か、国民国家の統治(憲法がそれを体現しているのだが)とは別な何かを直感的な欲望として抱きはじめている。左派に必要なことは、こうした普遍的価値からいかにして自らを切り離し、そうではない「何か」を思想的にも実践的にも創造できるかということだろう。こうした問題意識を具体化できる能力は私にはない。とりあえず自分にできることとして、この30年を混沌の坩堝に投げ入れる不細工な仕儀の産物が、本書なのかもしれないと感じている。

5000円という高額の本はそう手軽に買える値段ではない。そこで本書については、異例な販売方法をとることにした。分割後払いでの購入ができるようにした。文末に掲載した問い合わせ先にメールで注文すると、本と一緒に郵便振替口座など支払いの案内と振替用紙が同封されてくる。何回払いにするか、一回の支払い金額は買い手が自分で決めてよい。文庫本ですら1000円では買えないご時世だ。失業と非正規低賃金の労働者が圧倒的に多くなっているなかで、読みたい本が高くて買えないということは、そもそも知へのアクセスから貧困層を排除するということでもある。月々数百円とか1000円程度なら支払えるという皆さんに是非手にとってもらえたらと思う。全てを読む必要はないが、何か考えるヒントの一つでも得られるものでありたいとも思う。分割後払いは一般の書店では扱ってもらえないが、こうした販売に協力していただける方、団体、お店などがあればぜひ下記に連絡をいただければと思います。

分割後払いでの購入申し込み先
daRa revo
dararevo@alt-movements.org
詳しくはウエッブをご覧ください。
https://dararevo.wordpress.com/

『絶望のユートピア』桂書房、5000円

小倉利丸