ついに共謀罪法案が閣議決定された。法案の条文についての逐条批判は私の役割ではないので、これまで書いてきた批判の流れのなかで、いくつか述べる。
私は悲観論者なので反対運動にとって元気になるようなことは書けない。むしろ危惧すべきことばかりを書いてしまうのだが、やはり率直に私が感じている危惧を書いておく必要があると思う。
共謀罪の反対世論はようやく徐々に拡がり始め、たぶん現状は賛否拮抗というところだろう。国会の動向は私には何ともいえないが(政局を論じるのは苦手だ)、不安材料がいくつかある。ひとつは、法律の専門家たちの動向だ。少なくとも共謀罪のような行為以前の意思を犯罪化するような発想を、少なからぬ刑事法の専門家たち、たとえば、法務省刑事局の立法担当者や国会の法曹資格をもつ与党議員たち、学界や法曹界の実務家が肯定しているのではないかという疑問だ。「暴力団」(これは警察用語なので中立的な用語ではない。当事者に即せば「やくざ組織」ということか)の被害者対策の弁護士らを中心に130名の弁護士が、越境組織犯罪防止条約の締結のために共謀罪成立の必要を提言したと報じられている。(弁護士ドットコム)他方で刑事法研究者中心に「共謀罪法案の提出に反対する刑事法研究者の声明」も出され、160名余りが署名していることがメディアでも報道され注目された。 160名という数は一見すると多いようにみえるが実はそうではない。日本刑法学会の会員は1200人であることを前提とすると、160名という数はかなり少ない。また立憲デモクラシーの会も反対声明を出しているが、刑法を中心とする専門家たちの反対の声はまだまだ非常に小さい。
もうひとつの危惧は、越境組織犯罪防止条約は共謀罪新設なしでも締結できるという反対の論拠が共謀罪を阻止する上で決定打にはなりえないのではないか、ということだ。以前私は、日弁連の主張とは違って、越境組織犯罪防止条約は必要ないと述べた。外務省によればすでに187ヶ国が締結しているから、これはむしろ締結しない方がおかしいと思いがちだが、この条約の目的である薬物、銃器、人身売買がこの条約によって目にみえて減少しているとはとうてい思えない。こうした問題の根源にあるのは貧困や武力紛争であり、単なる犯罪組織だけでなく、武器・軍事産業や多国籍資本あるいは国家の軍事安全保障政策もからんでおり、これらのアクターを念頭に置いた解決こそが必要であって、警察力や政府に委ねて解決できる問題ではないからだ。今この点はさて措くとして、条約締結は日弁連が主張するように、共謀罪新設なしで締結するという可能性があるということを政府が受け入れてしまったら共謀罪は成立しないのだろうか。条約の締結と共謀罪とを切り離して、共謀罪を成立させることも可能なのではないか、ということである。こうなったときに、既存の法律での条約への対応を口実に刑法の解釈が柔軟化してしまい、厳格性を欠くようになるという副作用もありうるのではないか。これは刑法の拡大解釈を許すことにならないか。この点を踏まえたら、越境組織犯罪防止条約の締結などは考えないことの方が好ましい。もうひとつの危惧は、条約締結の条件に拘泥せずに、対象犯罪も絞りこみ、テロ対策に特化して共謀罪を新設するということになったときに、現在反対を主張している専門家やメディアなどの対応はどうなるのか、である。テロ対策は不要だということを主張できる勇気あるメディアや学界などはどれほどあるか、かなり動揺するのではないか。
刑法は憲法が保障している例外的に人権を国家の暴力によって制約し国家に刑罰権を与える極めて毒性の強い法規範なのだということを再確認する必要がある。だからこそ既遂処罰の原則を再確認することが必須なのだ。日弁連も意見書 において「現行刑法は, 犯罪行為の結果発生に至った 「既遂」 の処罰を原則」としている点を第一の反対理由に挙げている点は非常に重要だが、刑法学者の声明ではこの点への言及が十分とはいえないところが気にかかる。刑法の原則がどこにあるのか、根本のところでもしかしたらかなり本質的な見解の相違もありそうに思う。
共謀罪をもたらす根底にある犯罪と刑罰の思想には、この原則を逸脱して「安全安心」の観点を肯定する発想があり、これが歯止めのない監視社会を生むのだという点を再確認する必要がある。共謀罪反対の世論を構築するためには、迂遠な話なのだが、大衆意識のなかにかなり根付いてしまった「安全安心」イデオロギーを覆すことが、共謀罪反対運動や反監視運動の最大の課題である。この観点から犯罪と刑罰の問題を再検証し、既存の刑法そのものも根本から再検討して刑法におけるオルタナティブとは何なのかをきちんと議論しなければならないとすれば、既存の刑法でいいなどとはとうてい言えない。
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以前にも書いたように(これ とかあれ)、共謀罪は、一九〇七年に成立した現行刑法の基本的な枠組みを根底から覆し、自民党改憲草案に対応した国家による犯罪と刑罰の体制を構築する試みの一環である。問題の本質は、犯罪と刑罰の基本的な認識の変質にある。国家権力による強制的な自由剥奪と刑罰権を制定した刑法が一世紀以上も前に制定されたものを基本とし、戦後の憲法制定によっても全面改正されないまま現在に至っていること自体が、改憲に深い関心を寄せてきた運動のなかではさほど関心を呼ばすに見逃されてきたのかのか、その理由は別途問題にすべきだが、政権側は、戦後憲法の枠組を前提として解釈されてきた刑法の解釈枠組を変えるだけでは満足せず、その条文そのものをも根底から変更したがっている。戦前由来の刑法ですら今の自民党政権は納得しないということだ。
私は、刑法には、戦前と戦後を通底するこの国の近代国民国家としての権力とイデオロギー、あるいは秩序と支配における一貫した構造を読み取ることができると考えている。憲法を基準にすると戦前と戦後の切断が強調されるが、刑法の場合は逆にその連続性がはっきりする。言い換えれば、この国は、明治期から現在まで資本主義的な国民国家としての一貫性を保ち、この一貫性を安定的に維持するために、刑法は明文をもって何が「罪」であり、国家はどのような刑罰権を行使できるのかを示す機能を担い続けており、その基本的な理解の枠組に、戦前と戦後の間に本質的な変更はないということである。
刑法を旧憲法の枠組を前提に解釈する場合でも、実はかなり大きな振れ幅があったのではないか。大正デモクラシー期までの天皇機関説(天皇主権や天皇不可侵とは矛盾しない)を通説とする国家観に基づく犯罪と刑罰の法規範の時代から、治安維持法、国家総動員法と「国体の本義」を前提にした憲法「改釈」に基づいて刑法も「改釈」される時代へ、とりわけ法と道徳を区別する西欧流の理解から法=道徳とする日本個有の「法理」あるいは「道義的刑法」の主張が支配的となる時代へと大きな変化があったと思う。
いわゆる大正デモクラシーの時期までとそれ以降の間には、同じ刑法であっても大きな振れ幅があり、このことと総動員体制や治安維持法などの戦争立法と密接な関係があった。その上でなお、刑法は戦後憲法下でも生き残り、戦前の総括や反省は不十分なまま戦後憲法を前提として刑法解釈を再構築する横滑りを司法も学会も構築してきたように見える。だから、旧憲法時代の刑法の理念ともいえる総則解釈や条文解釈、あるいは実務上前例となる判例も、戦前のそれが戦後に全面的に否定されたわけではなく、その多くは戦後も継承されてきた。
憲法によって基本的人権の保障の幅は明らかに根本的な違いを見せたが、このことは刑法にどのように影響したのだろうか。旧憲法では「日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス」(20条)とあり、自由の権利は「法律ノ範囲内ニ於テ」しか認められなかったが、戦後憲法はこの「法律ノ範囲内ニ於テ」を削除して無条件に自由の権利を保障し、検閲も禁じた。この差は、何を犯罪とするのかだけでなく、刑罰のありかたにも本質的な影響を与えるはずのものであるにもかかわらず、犯罪や刑罰はどのような政治体制のもとであれ、どのような憲法の下であれ、基本的に同じ性質のものだという、先入観が大衆意識には根強いように思う。こうした大衆の犯罪と刑罰についての意識を専門家も共有しているとはいえないだろうか。本来ならば、自由の権利をはじめとする基本的人権保障の幅が拡がったということは、逆に、国家による人権制約の幅は抑制されなければならず、そのことが刑法において明示的に示されなければならないはずだ。これは単に刑法73条から76条の大逆罪、不敬罪を削除すれば満たされるという問題ではなく、一般的な刑事犯罪をどのように認識しどのように対処するのかという犯罪と刑罰全般の哲学に関わるハズのものだ。とりわけ反政府運動など政治活動の犯罪化については、戦前の制定法による出版の検閲や集会規制がない分、目に見えない検閲が横行しはじめている。(公共施設の集会規制、ビラ貼りや街頭情宣規制、資本と国益優先で労働基本権を形骸化させるなど)そうであれば共謀罪などとうてい想定外の更にその外の非常識極まりない発想だと考えられてもいいくらいのことではないか。
戦前から現在まで一世紀以上にわたって大きな振れ幅をもつ現行刑法ですら自民党は満足していないのは、明かに改憲を睨みながら、戦前でいえば道義的刑法と類似するような法と道徳の一体化を願望しているからだろう。共謀罪の深層にある権力の無意識には、戦後も清算されなかった国家の価値観に「国民」をその内面から一体化させたがる欲望があり、安倍政権はこうした欲望をある意味では露出させたに過ぎないともいえる。しかし、いつの時代であれ権力者は「国民」を百パーセント自らの意思に従わせたいと願望するものだとして、何がこうした発想を具体化しうると信じる力を与えることになっているのだろうか。
戦前の道義的刑法やあるいは意思を犯罪かしようとする傾向との相同性には注目すべきだが、単純な戦前回帰が共謀罪の本質なのではない。端的にいえば、これまで不可能と信じられてきた、人間の内面を規制し抑制する技術を前提とした思想信条や意思そのものの犯罪化が、可能になってきたということでもある。こうしたことが可能になったと権力者たちが信じるようになったのは、20世紀に急速に発達した、犯罪心理学や犯罪精神医学、コンピュータサイエンスによる生体情報レベルでの個人認証技術や行動や認知に関する科学、そして膨大なコミュニケーションの記録を保管し解析し予測のシミュレーションを行なう技術、時には個人情報を密かに収集することが技術的にも制度的にも可能になったといったことがあるだろうと思う。こうした情報処理技術に支えられて、刑事司法領域では科学捜査やプロファイリングが飛躍的に発達し、サイバーセキュリティとテロリスム対策が警察と軍の双方を融合させ、更には警察のグローバル化を促す領域となった。情報コミュニケーションテクノロジーが刑事政策だけでなく刑事手続から更には刑法そのものにも影響を及ぼし始めているということではないか。それが共謀罪を下支ええする背景にあるのではないか。こうした傾向にはある種の「神話」やありえない技術への都市伝説も含めて大衆文化の関心を誘い、こうしたことも含めて政策決定者や政治家たちは、人間の行動を予測可能なものとすることを前提として法を見直すことが可能であると考えはじめている。ICT産業もまた政府による監視や統制テクノロジーを重要なビジネスチャンスとみて、開発投資を促進させている。政治家も一般の人々の関心も、既遂の犯罪や社会的な「混乱」ではなく、将来予測に基づく予防に引きよせられている。これが端的な合言葉として「安全安心」で表現されていることだ。プログラムに合わせて人間の行動を外面的に制御するのではなくて、フィードバック機構を組み込みながら人間の心理や内面を予測して制御し、自発的にプログラムに適合的な行動をとるような人間を生み出すとともに、こうした適応が困難なパーソナリティを発見しあらかじめ予防措置をとろうとする。
予測の技術が制度化され法的な正当性を付与されるということは、国家が水晶玉の前に座って私たちの未来を予見する魔法使いになるということだ。「おまえは明日3丁目のコンビニに強盗に入るはずだ」といったことを宣言する権限を与えることを意味する。「そんなはずはない」と主張しても、彼らには膨大な私のプロファイリングデータがあり、そこから科学的に導かれた確率に基く予測こそが私の私自身の未来であって、私の自己認識などよりも一般的に信用性があるということになる。私がどのように抗弁しようと、私は明日のコンビニ強盗の犯人にされるというわけだ。共謀罪とはこうしたSFまがいの世界が大真面目に導入される世界を予兆するものだといっていい。
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刑法は、国家の刑罰権と基本的人権を強制的に放棄させる力を国家に付与する。つまり、人間は生まれながらにして自由で平等な存在であるという近代の価値観を、国家に限って例外的に否定する力を与えることを正当化する巧妙な仕組みでもある。言い換えれば、国家が自由と平等を否定する独占的な枠組を人為的に構築し、制度として固定化することを正当なこととして認める仕組みである。
自由とは選択の自由のことだという通俗的な自由の定義を前提したとして、いわゆる近代民主主義国家では、この選択の自由の範囲と選択の判断を、当事者(私やあなた)の道徳や理性、あるいは当事者が帰属意識をもつ社会集団の慣習などに委ねずに、制定法に基づく司法の解釈にその是非の判断基準を委ねることになる。【注1】国家が制定法に基づいて、ある人間が選択しようと意思したある行為が「違法」であると判断すれば、その個人の行為の選択肢からこの行為は強制的に排除される。あえてこの行為を選択すれば、犯罪者とされて、身体の自由や財産を奪われ(懲役刑や罰金刑など)、刑罰という苦痛を強いられる。これは国家による人権の一部の合法的な侵害である。こうして、このように自由を剥奪される者は、そうではない者と平等に自由を享受できない。
刑法は、行為が明文による犯罪類型に該当しなければ犯罪とされないための枠組であって、内心を直接問題にするものではなかった。一般にリベラルな社会であれば(これが近代民主主義国家のモデルだろう)、内心の問題は、道徳や倫理の問題であるとされてきた。道徳として人を殺すことはあってはならないと考えようが、刑法で犯罪とされているから処罰の苦痛を受けたくないという理由から人殺しはしないと考えようが、社会としては殺人が起きなければよい、というのがこれまでの犯罪と刑罰の考え方だった。これは内面を客観的に判断し推測することができないかったからで、哲学的な意義はその後づけでしかないように思う。先に述べたように、共謀罪の発想は、内面や心理を予測する技術の発達とともに、国家が内面をコントロールすることに関心を持ちはじめたことを意味しており、こうした関心と現在の予測技術の水準を前提したとき、従来のような内面に関与せずに結果の違法性を問題にするか、あるいは既遂であればその行為を促した動機や意思といったレベルで内面を問題にするというレベルでは満足しななっているということでもある。【注2】共謀罪のように「話す」ことを共謀として犯罪化するということは、「話す」前提にある話し手の観念にある行為への意思や意欲そのものを権力が監視するということに繋がる。そのような意思を持たないように予防することが権力にとっては、「安全安心」の条件であり、そうした技術を構築しなければならないという要請があると感じるのだ。
本来、上で述べたような内心の問題は道徳の領域だった。道徳は意思に内面化されることによって、そもそもの選択肢の範囲を内在的に規定するから、国家による外在的な強制としての法とは同じことではない。その行為が違法であるかどうかの認識なしに、道徳によってそうした行為を自由な選択肢からあらかじめ排除することはありうる。これは、当事者の主観に即せば、自由意思に反するとはみなすことは難しいだろう。しかし他方で、道徳的には選択肢として妥当する行為が違法とされる場合はどうか。こうした行為の妥当性は、法治国家であれば国家の法が優先し、当該個人の道徳は行為の正当性を根拠づけることにはならない。しかし一般論として言えば、道徳による行為の選択の幅と法が合法あるいは適法とする行為の選択の幅が一致するものとみなすか、反道徳的であっても違法あるいは犯罪ではないとして、合法の範囲が道徳の範囲よりも広く設定されることで、自由をめぐる道徳と法の齟齬が深刻な対立を引き起こさずに解決されることになる。つまり不道徳であっても合法な領域を残すことが既存の秩序維持にとっては有効な選択なのである。これが、理屈の上では、法治国家の統治の安定性を支える構造をなす。だから、法による犯罪と刑罰の規定は、最小限度に留め、法的な強制によらない道徳的あるいは慣習的な内面的な行為規範の形成によって社会の秩序を維持することが望ましいということになる。
道徳としてここで述べたことは価値観とかイデオロギーあるいは信仰といった人々の行為選択における確信形成をなす場合として言い換えることができる。確信的な行為が合法の範囲を越える場合、これは国家が独占する犯罪と刑罰に対する確信犯の問題として、最もやっかいな問題になる。なぜなら如何なる苦痛や応報も矯正や教育も確信犯には効果がないからだ。そして、一般に、政治運動の犯罪化は、確信犯の問題となる。出来心や過失の犯罪ではないからだ。そして厳罰化の傾向が強化されればされるほど、こうした確信犯の問題を抱え込むことになり、犯罪の抑止効果が期待される刑罰が効果をもたないというジレンマに陥いる。厳罰化と確信犯の増加は、権力基盤が脆弱になっていることを端的に示すものともなる。つまり価値観や道徳的な自発的同調に失敗していることの表れだからである。共謀罪は、この観点からみると、既存の統治機構の正統性が見かけほど磐石ではないことを現わしていることになる。内面や意思を犯罪化しなければ秩序が保てないということはかなり深刻な支配の揺らぎなのである。
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この正統性の危機と表裏一体となって、監視技術と行動予測や心理分析などの「高度化」によって、価値観や道徳といった内面に国家が介入・制御することが可能な世界が登場しているということだ。しかしそうだとすると、私たちにとっての問題は二つある。ひとつは、こうした国家による内面の制御に対抗するためには、私たちが自己の内面の自立性(オートノミー)を獲得するだけではなく、より積極的にこうした国家が欲する内面とは根本的に抵触あるいは切断する私たちに個有の内面世界をいかに構築するかという問題である。彼らが望まない私たちの内面における「もうひとつの世界」が具体的な現実の支配を覆す動機や意思として徴表されるような回路をも構築できなければならないということでもある。
もうひとつは、国家が私たちの内面により「科学的」に干渉して、消極的に犯罪を犯さないパーソナリティというだけでなく、積極的に国家利益に合致するような道徳や倫理規範を持ち込もうとするという場合、超越的に「オルタナティブ」を主張するだでななくて、この日本の国家イデオロギーを批判することが必要になる。このときの核心をなすのは、政治的なイデオロギーというよりも文化的なイデオロギーだろうと思う。刑法における文化的なイデオロギー問題は、法解釈の背景をなす一つの重大な問題であり(法と文化が最もよく議論された時代は、戦時期であったことを想起すべきだ)、この問題をぬきに共謀罪の深層を抉ることはできないだろうと思う。
今回はここまでにするが、最後に述べたオルタナティブへの課題は、法におけるオルタナティブの問題全体にも関わる。言い換えれば、憲法や人権のオルタナティブも含めて、法、道徳、統治規範のオルタナティブの議論は、経済のオルタナティブや文化のオルタナティブの議論に比べて反政府運動のなかでは十分ではない。この問題を疎かにすると、20世紀「社会主義」が自己正当化した暴力(粛清た弾圧)の問題にかぎらず、暴力をめぐる問題を看過しかねないとも思う。コミュニズムであれアナキズムであれ法の問題を真剣に考える上で共謀罪にどう対峙するかは重要な実践的かつ理論的な課題だと思う。
【注1】社会契約なき裸のままの人間集団が軋轢と対立のみしか生まない野蛮な状態であるという仮定は、歴史的にも根拠がないが、また、社会契約を国家による法制定権力の根拠とすることにも飛躍がある。社会契約が国家を要請するという発想は、国家を正当化するために社会契約をある種の口実として利用したに過ぎない
【注2】刑法の旧派と新派の対立とか、結果無価値論と行為無価値論の対立といった議論は19世紀から20世紀に至る犯罪と刑罰の関心が、徐々に行為者の行為からその意思へと展開していったことの表れのように思う。身体的な刑罰から、過酷な肉体刑が後退し、矯正や教育としての刑罰が台頭したこともこれに関連するだろう。このことを内面の監視へとつなげて関心をもったのがミシェル・フーコーだったことはよく知られているが、日本の場合、刑法の伝統が主にドイツ刑法であっこともあり、フーコーの議論が無条件に妥当するといえるかは留保も必要だと思う。