違憲の天皇「代替わり」儀式に NO の声を! 即位・大嘗祭違憲訴訟原告になって下さい 裁判を支えて下さい

下記のような裁判が提訴されます。私もこの裁判の呼びかけ人として裁判に参加します。


違憲の天皇「代替わり」儀式に NO の声を!

即位・大嘗祭違憲訴訟原告になって下さい
裁判を支えて下さい

❖ 来年、2019 年 4 月 30 日に天皇が生前退位し、5 月 1 日に皇太子が新天皇として即位することになっています。この日、「三種の神器」などの受け渡しの儀式がなされ、新天皇が「三権の長」に対して即位を宣言する儀式が行なわれます。また秋には、10 月 22 日に「高御座」に立って内外に即位を宣言する儀式とパレードと宴会が行なわれます。また、11 月 14 日から 15 日にかけて、天皇の「霊」を受け継ぐ「皇室祭祀の儀式「大嘗祭」が行なわれます。これらはすべて「国事行為」または「皇室行事」として、国の予算を投じておこなわれるものです。

❖ 天皇の「代替わり儀式」は、これに付随してたくさんなされますが、私たちは、一連の儀式が、憲法の「政教分離原則」「主権在民原則」からみて、多くの問題をはらんでおり、これに対する税金の支出は明らかな違憲の行為であると考え、国を相手どり、一連の儀式に対する税金の支出に対する差し止め請求と、違憲確認を求める訴訟を、東京地裁にたいしておこすことを決意しました。

❖ 私たちは、全国の皆さんに、ぜひこの裁判に、原告として、あるいは支援者として加わって下さるよう、呼びかけます。

★ここからダウンロードできます→委任状のダウンロード

原告になるには

❖ この訴訟は、日本全国どこにお住まいの方でも原告になれます。被告は、「国」です。原告になるには、この用紙についている代理人弁護士への委任状を、提出する必要があります。

❖ 委任状については、以下の点にご注意下さい。
・委任状に、日付・住所・お名前をご記入ください。
・押印場所はお名前の後ろと欄外捨て印(「印」とある場所)の 2 か所です。捨て印がないと無効になります。また、シャチハタ印は不可です。
・本訴訟は「納税者訴訟」です。原告が納税者であることの証明が必要です。納税を証明する書類を、委任状の裏の枠内に、必ず貼付して下さい。なおこの書類は、源泉徴収票などに限らず、買い物の際に発行されるような、消費税額が明記されたレシート類で構いません。

❖ 以上記載したものを、下記の住所までお送り下さい。
第1次締め切りは、2018年11月30日(金)です。

〒 105-0003
東京都港区西新橋 1-9-8 南佐久間ビル 2F
むさん法律事務所気付
即大違憲訴訟の会(準備会)

❖ 原告になっていただける方は、訴訟費用として、年間会費として 3,000 円(1 口)をご入金下さい。(支援会員も会費同額で募集します)
郵便振替口座 00120-3-293255 即位・大嘗祭違憲訴訟の会

即位・大嘗祭違憲訴訟の会(準備会) e-mail:sokudai@mail.zhizhi.net

(即位大嘗祭違憲訴訟のウェッブから)

11月13日:第三回『絶望のユートピア』 (桂書房) を枕に 社会を変える夢を見るための連続講座 (第2期) テーマ:「社会主義にとってフェミニズムとは何であったのか 」

第三回『絶望のユートピア』 (桂書房) を枕に 社会を変える夢を見るための連続講座 (第2期)
テーマ:「社会主義にとってフェミニズムとは何であったのか 」

日時:11月13日、19時から

会場:ATTAC Japan (首都圏)
千代田区神田淡路町 1-21-7 静和ビル 1 階 A

地下鉄「小川町」B3出口。連合会館の裏手です。

地図

参加費:500円。テキストや本をお持ちでなくても構いません。連続講座ですが、1回完結なので初めての方でも参加できます。

 


戦間期のファシズムの時代を経験していない戦後生れの世代が、日本であれ欧米であれナショナリズムの熱気を帯びて、差別と排外主義を肯定する価値観に大きく傾きつつあります。同じことは、20世紀後半に、植民地からの解放や独裁から民主化への闘いを経験してきた第三世界でも同様の流れが急速に拡がりをみせているように見えます。他方で、民衆の運動が暗黙の前提として、自由と平等を実現する社会として社会主義の理念を掲げることは、必ずしも当然の共通理解にはならなくなりました。資本主義批判の常識とされてきた階級や搾取といった概念そのものも、社会運動の日常言語として語られることが少なくなったように思われます。他方で、ジェンダーやエスニシティあるいは環境といった課題が、社会問題にとって必須になり、資本主義が抱える矛盾への理解が労働者階級の解放という枠組みを越えてより幅広いものになってきたことも事実です。しかし、だからといって、資本主義批判を支える基本的な社会認識が大きく革新されたり、社会主義の理念に新たな可能性が開けてきたということでもありません。むしろ問題が多様になり、解決されるべき課題が錯綜するなかで、個別の課題に個別に取り組むことで精一杯という状況が続いているようにもみえます。

今回の講座では、初心に帰って、まだ社会主義が思想としても成熟していなかった時代も含めて、社会主義者たちが直面していると考えた課題を再度洗い出し、どのような「答え」を模索しようとしてきたのかを考えてみようと思います。そのための手掛かりとして、「性と家族」というテーマを関心の中心に据えてみます。マルスクに先だつ社会主義の思想は、労働者階級(あるいはプロレタリアート)の搾取からの解放にあると同時に、その初期の時代から人々の労働だけでなく家族や性の問題、とりわけ女性への抑圧に関心が寄せられていました。社会主義者の多くは、男性でしたから、女性が直面している問題の当事者ではありません。このことも含めて、社会主義の思想が限界をもっていたに違いありません。このことも含めて、社会主義が構想する自由と平等とはどのようなものであるべきなのか、それはどのような意味で、資本主義では不可能なことなのかを、考えてみたいと思います。ジェンダーに基づく差別(それだけでなく様々な差別と排除にも通じますが)がたとえ民主主義を標榜し人権を普遍的な価値とみなす社会にあっても、なぜ現在世界中でみられるような後退現象を生み出しているのか、なぜ差別を正当化するような不合理な宗教的な信条が廃れるどころかむしろ若者も含めて復活する傾向にあるのか、こうした現在私たちが抱えている問題に答えを出せるような社会主義の可能性への道を探ることも議論してみたいと思います。

テキストには『絶望のユートピア』所収の「社会主義にとってフェミニズムとは何であったのか」を用います。さらに、当日は、この論文では言及していない女性で労働運動にも深く関わったフローラ・トリスタンを紹介します。彼女が書いた『ロンドン散策――イギリスの貴族階級とプロレタリア』(1840)はエンゲルスの『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845)に先立つ著作です。この二人の著作を比較することで、プロレタリアあるいは労働者階級への視点の差異から何を学ぶべきかを考えてみたいと思います。

テキスト(PDFでもダウンロードできます)

社会主義にとってフェミニズムとは何であったのか

書評 アライ=ヒロユキ『検閲という空気――自由を奪うNG社会』(社会評論社)

書評 アライ=ヒロユキ『検閲という空気――自由を奪うNG社会』(社会評論社)

本書は、その副題に「自由を奪うNG社会」とあるように、「NG」を連発するようになっている日本の現状を具体的な事例で紹介しつつ、その底流にある不寛容がいったい何に由来しているのか、そしてこれに対して、私たちの側からどのような対抗が可能なのかを論じており、挑戦的な仕事だ。本書で取り上げられた事例は非常に広範囲で、地域社会の日常生活、美術などの文化表現、マスメディアなど表現される場所も多様だ。「NG」が出される対象も、保育所の騒音問題、原発事故と放射能汚染の実態の隠蔽、侵略戦争の歴史認識の封殺、日の丸・君が代の強制、横行する右翼のヘイトスピーチやフェイクニュース、大学の学問の自由の危機、アニメやマンガなどのオタク文化まで事例も多岐にわたっている。

著者は検閲という言葉も使うが、むしろ「NG」というややあいまいだが、日常用語として使われるダメ出しがもたらす、自由を抑え込む雰囲気の蔓延に着目する。私のこの書評では、最後の数章で論じられている理論的な総括を中心に、私なりの問題意識に引き寄せて書いてみたい。

「NG」社会と60年代世代

本論に入る前に一言。ビートルズ世代とか全共闘世代とかベトナム反戦運動世代とか68年世代とか団塊の世代とか様々な呼び名で呼ばれる、60年代に「自由」を謳歌したと自慢する世代が、大学解体を叫びつつもその大半が大学を卒業し、大手企業や官僚となって日本の政治と経済を担う(牛耳る)世代となり、あの、いまいましい80年代の反動の時代を準備し、90年代以降のポスト冷戦時代からダラダラと続く数々の戦争に加担しつつ、今現在の不自由な時代を生み出してきた張本人たちとなった。「自由」を謳歌した世代が、世代のエートスとしての「自由」を恐れ、「自由」を抑え込む世代として、その後の日本を作ってきた。彼らの子どもの世代は、親の世代が敷いたレールを更に右へ右へと継承した。

戦後日本が抱えた問題を世代論に還元したくはないし、還元することは間違っているとも思うが、60年代の世代がなぜ、自分たちが体験したであろう自由をその後自らの手で扼殺し続けてきたのか、という世代の共通感覚の問題は軽くはないと思う。なにも大袈裟なことを言っているわけではない。新宿駅西口が広場から通路になり、未だに広場として奪還されていないとか、街頭でステッカーを貼る自由が奪われたままだとかといった、ちょっとした不自由に苛立っていると言いたいだけだ。

自由への検閲=NG:事実の真偽問題とアーティストの想像力

「表現の自由」の問題の根源にはそもそも自由とは何なのか、という私の手に負えないやっかいな問いがある。アライが挙げている事例を私なりに大別させてもらうと、二つに分けられるように思う。

ひとつは、出来事の事実を表現することをめぐる「NG」、たとえば、「慰安婦」について、強制連行や日本軍の関与が否定されたり、福島原発事故に伴う放射能汚染被害の事実が風評と呼ばれてあたかも虚偽であるかのように批判されるなど、事実を根拠として批判する言論や表現が規制される傾向が強まっている。これは、客観的な事実を表明する自由に対する抑圧といえる。いわゆる右派の意図的なフェイクニュースや歴史修正主義(アウシュビッツや南京の虐殺はなかったという類の主張)は、彼らのいう別の「客観的な事実」とか「科学的な知見」などを対置して、事実による立証の有効性を相殺しようとする。こうして事実についての客観的な証拠が相対化されて、行政などを判断停止状態に追いこみ、なおかつ恫喝や脅迫ともいえる圧力を加えることによって、会場利用の許可を出させないような状態が作られてきた。

アライが示した多くの事例を読むと、憲法で思想信条や信教の自由が明文で権利とされているにもかかわらず、むしろこれらの分野への公共施設側の締め付けが厳しい。思想信条や宗教的な信仰は元来多様であり、お互いに時には対立する場合があるのは当然である。しかし、こうした対立を混乱とか迷惑としてしか捉えず、多様性がもたらす摩擦を尊重した公共施設の表現の場を設定する観点がないのだ。むしろ、「NG」の空気は、多様性や差異を「日本」や「日本人」をめぐる有無を言わせない肯定的な価値観のなかに収斂させる環境を下から作り出し、公的な場が画一的な一色になることこそが好ましい秩序だとされている。

「NG」を支える空気は、国家や民族の犯罪を隠蔽するだけではなく、こうした行為を正当化しようとする考え方や運動が非常に根深い。たぶん、科学や客観的な事実、あるいは理性的合理的な理論は、このような欺瞞に立ち向かう武器としては十分ではない。人間は、たとえ科学者であってさえも、非合理な世界を生きているからだ。この非合理性は、文化であり、その表現であり、また、人々の日常生活の細部を規定するモノと人の関係を形づくる観念そのものだ。合理的な世界が、数式によって解明されるような物理的な自然に収斂するとすれば、文化的な世界は、そうはならない。多様な形式へと拡散し、ひとつにはならずに併存する。こうした非合理性を科学者もまた受け入れなければ一日たりとも生きられない。歴史修正主義者たちは、彼らの主張するオルタナティブな事実といった「客観性」を、この非合理性が支配する領域によってあらかじめ規定された土台の上に打ち立てようとする。崇高な日本民族が理由もなく虐殺などするはずがない、という大前提から全てが再解釈される。

もうひとつは、事実の客観的な表現ではなくて、事がらそれ自体は現実世界の諸問題(憲法9条とか原発とか天皇制とか)だが、それをアーティストの想像力を介して固有の表現とする場合だ。ほとんどのアートや文学などの表現がこれにあたる。その表現の手法とその主題選択や主題について、アーティストが描く「非合理」的でもあり現実には実在しない世界が争点になる場合だ。客観的事実そのものよりも、アーティスト自身の世界観や価値観が「公序良俗」「猥褻」などといった評価基準によって判断されて排除されるという問題である。学術研究としての天皇制批判は許容されても、それが文学(たとえば深沢七郎の「風流夢譚」とか)や美術(たとえば大浦信行の「遠近を抱えて」)となると、規制の力が厳しくなるのはなぜなのか、という問題でもある。言い換えれば、事実をめぐる是非よりも、アーティストが主観的な心情を交えて構築している彼/彼女の世界に、より敏感に反応して検閲の力が働くのはなぜなのか、という問題である。検閲する側は、事実や真実を学術のような体裁で真面目に論じるよりも、虚構や想像力に基づくが、同時に「真実」についての表現となっているアートの方がより人々の感情に訴えかけ、価値観や世界観に影響しやすいことを知っているのだと思う。上述したような非合理性と合理的あるいは理性的な現実認識との関わりという問題が、ここでもまた、重要な課題になると思う。

「NG」は事実とフィクションを相互に巧妙に絡ませる。問題は、客観的な真実をめぐる是非にとどまらず、真実を否定するパッションを生み出す虚構の力(伝統とか神話とか文化的な美の観念とか)をいかにして削ぐか、そしてまた、虚構の力が逆に、真実や事実に味方する場合もあり、後者のような非合理性の自由を確保し、それをさらに狭義の意味でのアートのカテゴリーから解放していかにして世界の創造へと繋げるか、にある。

このような「自由」を抑制する「NG」の枠組について、これらを批判して、その抑制(検閲)の解除を実現することは、自由の権利を回復する上で必要なことだ。しかし、問題はかなりやっかいで、戦後主流だったリベラルな自由が社会の多数によって支持されている時代ではない、ということを前提にしなければならない。右翼のヘイトスピーチが横行し、フェイクが容易に流布し、官製フェイクが世界中であたりまえになり、かつては極右とかと表現されて極端な側にあったものが、気がつけば世の中のメインストリームに陣取り、もはや彼らは極端な存在ではなく、むしろ普通の存在になってしまった。これは世界的な現象だ。トランプ現象はその一部であり、欧州の極右の台頭、ロシア、トルコ、インド、フィリピン、中国など権威主義的な政権が有力国を席巻している。その結果として、極右はもはや極右ではなくメインストリームになった、ということが反ファシズム運動でも繰り返し危惧をもって指摘されてきた。むしろナショナリズムを批判したり、いわゆるリベラルであったりする方が極端な側に追いやられてしまっている事態を前提にして、「自由」の復権という問題を考えなければならない。

他者と被害者を装うマジョリティ

アライが取り上げている「NG」のなかの一つの典型的なケースが、人種差別主義や排外主義の問題だ。この問題の核心にあるのは、支配者や多数派が「被害者」を装うという欺瞞が正統性を獲得してしまっているというところにあると思う。

社会のなかの多数派や、時には政府すらもが、自らをあたかも被害者であるかのような立場を演じる場面は、欧米諸国などで、主流の地位にのぼりつめつつある極右現象にも共通している。一見民主的で平等にすらみえる西欧の政治・社会制度も、実際には、長年にわたる移民・難民やLGBTなど様々なマイノリティを不平等と差別の構造に押しこめる歴史のなかで構築されてきた。しかし、徐々にマイノリティの権利を保障する制度改革が進むにつれて、既得権を削りとられるマジョリティたちが権利侵害の感情に囚われ、こうした実感に基いて逆襲する流れが、現在の潮流を形成しているように見える。こうした権利の平等化(多文化主義などとも呼ばれたが)の時期は、新自由主義グローバリゼーションの時代と重なる。新興国の急速な経済的追い上げもあって、欧米資本主義を支えてきた伝統的な工業が駆逐され、白人労働者階級の失業と貧困の原因が移民に転嫁されて敵意の対象となり、白人至上主義やレイシズムが勢いを回復した。彼らは既存の保守政党が新自由主義を支持していること、労働組合も既成左翼また無力であることを体験してきたから、既存の政治全般に敵意をもち、おのずと極右に同調する傾向が強くなる。欧州のヘイトスピーチに対する法的規制は近年ほとんど効果をあげられなくなっている。人種差別が露骨な移民・難民排斥を政権自体が積極的に政策として打ち出している国が軒並であるから、もはやヘイトスピーチではなくヘイトポリシーが正統性を獲得してしまったようにすら見える。

このような平等に向けた権利の再配分過程の軋轢は、日本の場合、国内の問題としては在日をターゲットにしたマイノリティに対して発動され、そしてそれは、同じ構図をとりながら、対外的には周辺諸国、韓国、北朝鮮、中国への敵意として表われている。もともと日本の場合は、入管政策が極端な移民・難民排除の自民族中心主義をとり、歴代政府は率先してヘイトポリシーを実践してきた。こうした体制が人種差別主義だとはほとんどの人々は考えていない。観光客へは「おもてなし」の体裁を取り繕うが、移民・難民は「おもてなし」の対象にはならないという線引きに、レイシズムが隠されていることの自覚はもちろんない。

アライも指摘しているが、レイシズムの背景には、上の述べたように、経済的な構造変動がある。日本に即して戦後を視野に入れてみた場合、どうなっているのだろか。戦後の敗戦から復興して高度成長を遂げ――朝鮮戦争とベトナム戦争を儲けのチャンスにしたのだが――アジア唯一の先進国とか米国に次ぐ世界第二の経済大国だとかで愛国心を満たしてきた時代が70年代に入って終る。バブル以降の長い停滞が今に続くが、この間に、中国に追い抜かれ、韓国などアジアの新興諸国とほとんど優劣のつかない位置にまでランクダウンする。経済帝国主義による愛国心が満たされなくなった長い停滞の時代と、ヘイトスピーチの登場とはほぼ時期が重なる。競争力をつけてきた周辺諸国へのルサンチマンは、日本人が不当に差別されているかのような被害感情を煽り、民族的な敵意の感情を生み、これを冷静にクールダウンさせる歴史認識や社会観を政府が率先して否定するなかで、敵意が日本国内に住む在日朝鮮人や中国人など、主に非白人系の人々に向けらてきた。自分達は朝鮮人や中国人たちが不当に特権を享受し、自分たちがこの国の正当な権利を享受できていないとする被害者意識を背景に、「在日特権」といった虚構が作り出されて敵意の観念が再生産されてきた。そして、更に、領土・領海問題にみられるように、東アジア諸国に対して、経済で負けた分を今度は警察力や軍事力の誇示でカバーしようとする最悪の感情が支配的になってきた。個々の表現の自由を抑圧しようとする行政や地域住民の心理と行動の背景にある構造をこのように説明できるとすれば、こうした構造は、その現れ方は様々であっても、ほぼ欧米諸国にも共通した傾向をもっている。白人至上主義者たちが移民やユダヤ人(「セム族」は白人ではないという観念がある)などに抱くルサンチマンの心理とほぼ共通しており、私たちが直面している問題は、日本の固有性に還元できない現代世界が抱えている一般的な大問題でもある。

再定義される「自由」

「自由」の意味内容は、いつの時代であっても、権力者によって定義されてきた。その定義が、時代の推移のなかで、権力者にとって都合のよいように再定義され始めているのが現在の状況のように思える。誰のための自由なのか、という問いに、「万人のための自由」という答えは正解にはならなくなっている。こうした答えでは、表現の場を支配する力を持つ者たちの不寛容、差別、特権、歴史の事実に嘘や神話を持ち込むことなど、こうした事がらの自由を保障し、レイシズムに正当性の根拠を与える一方で、私たちはその残り滓のような不自由を無理矢理「自由」の名の下に甘受させるダブルスピークの罠に嵌ることになるからだ。リベラルな憲法学者や人権活動家たちなどが定義する「自由」が主役の座を追われて、自由民主党という党名に象徴されるような「自由」が自由の定義の主導権を握りはじめていると言えるかもしれない。

排除の自由、ヘイトの自由が横行するなかで、嘘やデマはいけないことだ、という倫理観がある種の転倒した状態で、私たちに襲いかかってきている。アライが指摘しているように、トランプ米大統領の発言の7割近くはウソといわれ、こうした事態が「ポスト真実」とか「オルタナ・ファクト」と呼ばれる。しかしこうした嘘吐きたちの側からすれば、私たちこそが嘘吐きでありフェイクニュースを流す連中だということになる。日本の文脈のなかでいえば、福島原発事故による放射能汚染の被害を訴えることを風評被害と呼んで押さえ込む「空気」が支配的になっているのは、その端的な現われだろう。伝統的なマスメディアとSNSなどのネットの情報の間にかなりの乖離があるとき、人々は錯綜した情報の洪水に戸惑うが、そんなときに、影響力を発揮するのは、顔見知りの人達の間のクチコミということになる。ところがSNS自身がクチコミの道具だから、SNSの発信力の強い身近な人達の言動に人々が左右されやすくもなる。マスメディアは私たちにとっても、決して公正とはいえない営利企業か国策メディアといったところなのだが、それすらも右翼は左翼というレッテルを貼って攻撃する。このようにして、極右がメインストリームになり、時には権力の座すら獲得してしまう今、彼らが「自由」の定義を規定する主導権を握ろうとしている。

こうした時代をアライは「ポスト真実」の時代と呼ぶわけだが、アライが引用しているオックスフォード辞典によれば、ポスト真実とは「世論形成において、感情や個人的信条のほうが客観的事実より影響力のあるような状況」(212ページ)と定義されるという。確かに一面ではこのようにすっきりと主観と客観の間に線引きが可能な場合もあるだろう。しかしまた、感情や個人的心情が客観的事実と常に対立するとは限らず、逆に事実を裏付ける場合もあり。この定義のように単純ではない。

当事者の人々の感情のこもった体験に基く証言もまた客観的事実だ。「慰安婦」の女性たちや戦争の被害者体験も重要な客観的事実を構成する。逆に、客観的事実が嘘に加担することもある。事実は解釈を必要とし、この解釈如何によって、同じ事実が真逆の意味を担うことがいくらでも可能だからだ。「慰安婦」の強制性や南京大虐殺、ナチのホロコーストなどを否定するひとたちは、事実あるいはデータらしきものとこれらを解釈する自分たちに都合のよい学説や科学的知見を動員して、ある種の体系を構築し、ここから別の「事実」を導き出そうとする。客観的事実であれ主観的な感情であれ、何が真実の位置を占めるのかを決定するメカニズムと力学のなかで、常に支配的な権力が事実についての解釈の主導権を握って、真実を構築してきた。イラクの大量破壊兵器や福島原発事故が「アンダーコントール」であるということが真実となるのは、支配者たちが、感情も客観的な事実も都合のよいかたちで動員して嘘を真実として通用させる力を持つからだ。

更にやっかいな問題は、意図的に嘘を流布することは不正義あるいは倫理に反する振る舞いだという道徳律が、権力者たちにも、いわゆるネトウヨと呼ばれるような人達にも通用しないという点だ。彼らにとって、嘘か本当かは二の次であって、彼らの関心は、彼らが心情的に自らを同一化させようとする「日本人」といったある種のナショナリズムを崇高なもの、不可謬なものとしてロマンチックに称揚することに唯一無二の価値を置くことにあるように見える。この想像上の「日本人」や「日本」を現実あるいは事実そのものとして受けとめて、ここから歴史を再解釈し、これを毀損するものは、一切容認しないという態度だ。

多分こうした態度には二つのベクトルがあり、ひとつは、敵意による防衛であって、在特会や右翼などによるヘイトスピーチがその典型だろう。この流れのなかに、露骨な様々な「NG」が含まれる。もうひとつは、そして最もやっかいで重要なのは、文化や芸術を味方につけて、決して敵を攻撃することなく日本の文化や伝統を美や崇高、神話や自然といった事がらと結びつけてひたすら肯定しまくる態度だ。美の観念がここでは重要な鍵を握る。こうした美と崇高の観念を「日本」という想像上の観念の根拠に据えて、歴史を超越した永遠性の証しとすること、これは、近代日本が戦前であれ現代であれ、公然と称揚してきたナショナリズムや愛国心を支える感情ではなかっただろうか。こうした虚構――肯定すべき固有の価値を体現する「日本文化」――に基く自己肯定や自民族への共感をヘイトスピーチと呼んだり人種差別主義と呼ぶことには困難が伴なう。だから野放しになり、こうした感情がレイシズムや「NG」を正当化する集団的な感情を生み出す。

ヘイトスピーチ批判や人種差別主義批判の限界がここにある。しかし、他方で、伝統や自民族中心主義の文化がレイシズムと切り離せないとしても、その破壊が自由の回復を意味するとは限らない。破壊が向う方向はひとつではないからだ。イタリアの未来派が先鋭的な伝統破壊の運動であり、また同時に、暴力の行使も厭わない過激なファシズムの同伴者でもあったことを忘れてはならない。

/不快あるいは感覚的判断

ポスト真実の時代にあって、私たちは、感情か客観的な事実か、という二者択一ではなくて、嘘が真実になり、真実を語る者たちの言葉が嘘としてしか受け取られなくなるという逆転のなかにいる。だから、彼らの嘘を覆すための新たな依って立つべき方法と戦略を練り直さなければならないのだが、これは私にとっては未踏の課題だ。

アライは、「理性的なものは失なわれ、感覚的な判断が強く占めるようにな」り、また「判断の指標に快/不快が重要な位置を占めてくる」ような時代になると、容易に、「日本軍の罪悪は不快を、日本軍の大義は快をもたらす」(214ページ)といった感情が支配的になると指摘している。なぜ理性的なものが失なわれてしまったのか、という根本問題はさておくとして、この快/不快というい判断基準をめぐる問題は、私自身にとっても、30年前に富山県立近代美術館における「遠近を抱えて」(大浦信行作)の非公開・売却処分問題の核心にある問題でもあった。アライが本書で指摘する多くの事例をみると、その大半が多かれ少かれ「不快」といった感情に依拠した判断が背後にあって、それが別のよりクールな制度言語(条例や法など)に翻訳されているケースのように思う。「日本軍の罪悪は不快を、日本軍の大義は快をもたらす」という価値判断が公共空間を捻れさせるというアライの指摘は、日本軍を日本とか日本人に入れ替えればより一般的な構図にもあてはまり、更に、どこの国であっても、自国のナショナリズムをめぐる快/不快の構図が内包する共通の問題でもある。

多くの検閲事件や右翼などによる攻撃に対して反撃する側の基本的なスタンスは、真偽を客観的に争うことや憲法などの法が保障する表現の自由といった理性的合理的な規範に依拠することにほぼ限定されており、こうした合理性の言説が機能しない感情的な同調と排除の心理を軽視するきらいがある。アライが感情あるいは「感覚的判断」に踏み込んだことは、検閲や表現の自由を議論する上で、重要な観点であって、この分野を法合理性で仕切ろうとする従来の議論に一石を投じる試みだと思う。

彼がここで下敷にしているのはカントの判断力批判の議論、とりわけ感情的判断と趣味判断の区別である。カントの美学論についての議論(そしてまたハンナ・アレントの解釈)から、他者の視点を内在させる趣味判断とは異なって感情的判断は「感覚という個人にの根ざす思考過程」であるために、他者の眼差しを受け入れないことを指摘する。こうした感情的判断が美学だけでなく時事問題、社会的事件の理解をも支配するようになり、「趣味判断」のような他者の視点がないために、異なることは当り前でなくなり、不快を覚えるようになる。不快は理性で本来抑えられるが、感覚的判断が優勢の場合は、排除、差別、別紙に結びつきやすい」(215216ページ)と述べている。

感覚的判断は私的領域に留めておくべきなのに、これが異なる他者たちと共有する公共空間をも侵食することによって、「個人の枠に止まる感情、それに根ざした思考は伝達可能性を持たず、社会の公共性はよく機能しなくなる」(216ページ)。他方で、人間は関係の産物でもあるという観点からすると、感覚的判断を私的な領域に留めることが果してどのようにして可能なのか、という問題は避けられないようにみえる。そもそも感覚的判断と趣味判断は当事者の人間によって自覚しうる区別とはいいがたいであろう。しかも、美は果してポスト真実の時代に抗して事実や客観性に味方するといえるのかどうかも問われることになると思う。カントもヘーゲルも美の哲学的な理論化に執着したのは、そもそも美的な感情が近代の哲学にとって難問だったからだろう。その難問の原因は、たぶん、シラーを借りれば「美は対象の論理的性格を克服したときに。まさにその最高の輝きをもって現われる」(「カリアス書簡」、シラー『美学論集』、石原達二訳、冨山房)というように、論理を、したがって理性をも超越するからではないだろうか。こうした美を道徳と関わらせるべきかどうかが次に問われることになる。美を一切の理性による拘束から解放して自らの味方につけてきたのがロマン派だとすれば、そして、そのロマン派の政治的な体現がナチスの美学であったり、日本浪漫派による戦争の美学化であったりしたとすれば、感覚的判断が趣味判断に浸透し、趣味判断を乗っ取るという事態を想定する必要がありそうだ。

アライは感覚的判断が公共空間を侵食すると、快/不快の満足度といった数値による判断が優勢になって、「多数派の満足度は施策を行う上での大義名分になり、少数派を圧迫する傾向を生みかねない」(216ページ)と述べているのは、支配的な集団の感覚的判断が趣味判断に侵食したことを意味しているのではないか。またアライは、平和を理解する理性と他者を攻撃する感情の乖離や、世界への真剣な問いを回避して衝動に支配されて複数性を失う大衆への深い危惧を表明している。アライは、一人一人の差異は、諍いを生むよりは違いに基づく共有する部分を分け合う知恵を働かせるが、画一性が逆に不和と諍いをもたらし、違いは憎しみになると言う。こうした傾向に抗って、「画一性を前提とする愛国心や絆とは本質的に異なる共約を深め、あるいは広げること。ここに公共性の本来の意義がある」(218ページ)と言う。しかし本書の最後の箇所で、「地域社会の発展に重宝がられるソーシャルの活動も欠陥がある」「ソーシャルなるものはしばしば政治性という間違いにもとづく形相を伸長に省いて実施される」(251ページ)とも指摘している。つまりコミュニティにおける公共性それ自体が、ポスト真実を標榜する人々によって主導権を握られつつあり、だからこそ自由をめぐる重要な闘争の場になっているということだろう。

こうした現状の困難を認識しつつも、アライが期待を寄せるのは、コミュニティの活動に根を下した形で、お互いの意見を交流しあう対話が、自由で開かれたものとして保障されるとき、人々は、相互の学びあいから自己変容を可能にする営みを生みだすという点だ。地域の活動の拠点となるような公民館の活動に、その可能性をみているのかもしれない。しかし同時に、私は、公的機関や制度に依存せず、また営利目的の民間資本にも依拠しない、文字通りの自立的な場所の創造もまた自由の具体的な場の実践として注目してもいいとも思う。スクウォッターのような運動が野宿者運動以外にはほとんど見出せない日本では、その可能性は多くないのが現実だが、なぜ協同組合運動や労働運動がこうした自由な場所づくりに無関心なのだろうかとも思う。

有害と自由

アライは、事実と客観性を肯定し、不合理な感情に異論を呈するという、どちらかといえば生真面目な態度を基調としている印象が強いのだが、いい意味でこれを裏切るような含蓄のある言い回しで本書を締め括っている。

「NGの駆逐のために必要なこと。それは、数々の不正や不条理に対し、勇気をもって有害なものを投げつけること。言葉や表現、あるいは行動が含む有害なものを許容すること。そこから冷静に対話のための手段を探り、向き合うこと。

社会に自由という複数性の条件をもたらすにはどうしたらいいか。まずは言葉と表現という有害なものの尊重から始まる」(251ページ)

アニメやサブカルチャーに深い関心を寄せてきたアライが、あえて「有害」という言葉をここで登場させた含蓄は深い。ここで彼が「有害」と呼ぶものは、社会の支配的な価値観や権力者の観点からみて「有害」なものであり、「有害」なものに正義と条理を担わせようとしていることは明かだ。ここで彼が正義や真理、あるいは事実や客観性といった言葉を選ばなかったことは大切な問題を提起していると思う。「有害」という概念に含まれるいささか、不道徳な内容や表現形式こそが真理や事実が表出する上で欠くことのできない表現のスタイルだ、ということを示唆しているからだ。しかし「有害」という文言についてアライは立ち入った議論を本書ではしていない。今後是非この点が展開されるのを期待したいと思う。

このアライの一節を読んだとき、活動家でありジャーナリストでもあった青年時代のマルクスが、検閲と闘って書いた最初期の論文のひとつ「プロイセンの最新の検閲訓令にたいする見解」(1842年、以下翻訳は大月書店版『マルクス=エンゲルス全集』第一巻による)を思い出した。マルクスは徹底した検閲反対論者であり、自由の擁護者だった。

当時のプロイセンの検閲訓令のなかに「文筆活動にたいするすべての不当な強制を明白に否認し、公正で健全な言論発表の価値と必要をみとめ」るという文言がある。「公正で健全な言論」は検閲の対象外とするというこの文言に、マルクスは猛然と噛みついた。「検閲によって妨げられるべきではない真理の研究は、まじめで謙譲なものにかぎると詳細に性格づけられて」おり、「内容の外部にある何ものかについての限定」が「研究を真理から離れさせ、未知の第三者にたいして気をつかうよう命じる」(56ページ)のは何ごとか、と批判した。要するに、「公正で健全な言論」では真理を語れない、というのだ。

「もし謙譲であることが研究の性格を形づくるとするなら、それは、非真理よりも真理のほうを恐れはばかる証拠である。こうした謙譲は、われわれが前進する一歩ごとにわれわれの意気を粗相させる鎮静剤である。それは研究の結果を見いだすのを恐れる不安であり、真理に対する予防薬である」(6ページ)

感情に任せて怒りをぶちまけるような表現を鎮静させて真理から遠ざける効果を発揮するのが真面目な研究なるものだという。彼は、真理を不真面目やユーモアと結びつけ、他方で、画一的なスタイルにもとづく「自由」を自由の敵対者として否定する。こうしてマルクスは、不真面目極まりない小説『トリストラム・シャンディ』(ローレンス・スターン作、岩波文庫に邦訳あり)を味方につける。(残念なことに、その後現在に至るまで、多くの真面目なマルクス主義者たちはこの文章を無視するという不真面目な態度を貫いてきた。)

「さらにまた、真面目さとは心の貧困をかくすためにする肉体の欺瞞動作であるとトリストラム・シャンディは定義したが、君たちのいう真面目さがその意味ではなく、即物的な真面目を意味するとすれば、その全命令は無効となる。なぜなら、笑うべきものを笑うべく取扱うときには、私の取扱い方は真面目なのであり、精神のもっとも真面目な無遠慮さは、無遠慮さにたいして謙譲であることだからである」(7ページ、引用に際して一部表記を変更した)

真面目さは心の貧困を隠蔽する欺瞞だという。検閲が強いる公序良俗は、まさにこの欺瞞そのものであって、笑いものにして当然の対象を笑うべきものとして不真面目に表現するという真面目な態度を排除するものであって、ここには自由はありえないというのだ。マルクスはトリストラム・シャンディの「まじめ」の定義こそが正しい定義だとしたのだが、確かにシャンディの定義は、私たちの日常生活において、私たちが真面目を装うときの心理を的確に表現している。

アライが「有害」と呼ぶものは、マルクスが公序良俗の範疇を拒否して、不真面目の側に立つことこそが自由なのだと主張したこととほぼ重なるのではないかと思う。

さてそうだとすれば、私たちは、中立を装ったり、右でも左でもないといった真面目な態度をとることはできない。明確な思想的な立場をとることがなければ、誰に嘲笑の笑いを投げつけてやったらいいのかを判断できないだろう。

ではどのような立場が有害、あるいは不条理に抗う不真面目な表現なのだろうか。多分、言いうることは、ひとつ。私たちは、権力者たちへの有害で不真面目極まりない言論や表現の権利を一歩たりとも譲らないが、いかなる表現であれマイノリティや権力によって虐げられている権力なき人々に対して有害で不真面目な表現を投げつけることは許さない、というある種の道徳律である。誤解を恐れずに言えば、私たちは、ヘイトスピーチ一般を否定しない。権力者たちに対する私たちのヘイトスピーチ、彼らの有害な振舞いにみあう有害な言説を投げつける権利は留保する。笑うべき権力者に対して笑いをぶつける権利は留保する。権力者たちにとって有害とみなされる表現は、彼らにとって公序良俗を逸脱した表現であることは間違いない。この意味での公序良俗に与する理由はない。

正しい言論や表現、あるいは正義や真理に基く言論や表現は、道徳にかなう品行方正な様式を伴うに違いないという発想では、権力の公序良俗を口実とした検閲には立ち向かえない。学術的な天皇制批判は許容されながら、「朕はたらふく食っている、汝臣民らは飢えて死ね」という戦後直後のメーデープラカードから60年代の「風流夢譚」のような滑稽小説への弾圧やテロまで、戦後早い時期の検閲や右翼の暴力を支えた真面目を強いる風潮は、今なお続いている。不道徳で下品で、支配的な倫理・道徳からすれば「有害」な表現が真理や理性にとって最も的確な表現の様式、つまり政治的に正しい表現であるということはいくらでもありうる。本書にその多くの示唆に富む試みの記録がある。


付記

本書で扱われている検閲(NG)の対象となった事例は、私も知らない事件もあり非常に参考になっただけでなく、公共空間にここまで浸透してきているのか思わざるをえないほど事例の多様性に驚くばかりだ。とはいえ、ここで扱われていないものの私にとっては重要だと思われるものもある。一つは、20115月福岡で行なわれたサウンドデモへの警察の介入事件。これはその後本人訴訟で提訴されサウンドデモ側が勝訴した事件があった。もうひとつは、風営法によるクラブ規制問題。これも大阪のクラブ・オーナーが提訴して勝訴したが、その後も警察によるクラブ摘発が続いている。そして、現在裁判が続いているタトゥーの彫師を医師法違反で摘発した事件がある。アーティストの表現の自由を医師法で縛ることの是非が問われ一審で彫師側が敗訴し、現在控訴審というかなり大変な裁判が進行中だ。アライの事例取材は、当事者へのインタビューも数多く含まれる重要な仕事だ。こうした仕事をする美術ジャーナリストが少ない日本では貴重な存在だ。同時に、日本中ではびこっている様々な隠されたNGを掘り起こす作業もまた集団の作業として必要だと思う。

 *アライ=ヒロユキ『検閲という空気―自由を奪うNG社会』,

          四六判262ページ,社会表論社,¥2,200➕

初出:『あいだ』242号

映画『山谷 やられたら やりかえせ』10月27日 plan-B 定期上映会

「山谷」制作上映委員会のウエッブから転載します。

10月27日 plan-B 定期上映会yama_top

天皇制ナショナリズムとグローバル化する極右=排外主義〉と抗うために!
講演 / 小倉利丸(現代資本主義論)

この映画が作られてから30数年。資本と国家はどう変わっただろうか?
使い捨て自由な〈労働力市場〉として形成されてきた釜ヶ崎や山谷などの《寄せ場》は、「支配権」をめぐる闘いから、生存を維持する闘いを経て、ジェントリフィケーション(都市「再開発」)攻撃の下で「なきもの」にされようとしている。もともと 《寄せ場》は「なきもの」とされてきており、必要なのは〈労働力〉であって〈人間〉ではなかった。その存在が社会的に「認知」されたのは唯一《暴動》によってで あった。それも治安問題と差別の対象としてで、そこで多くの労働者が「野たれ死に」していることは隠されてきた。なぜか? その存在そのものが資本主義の矛盾の集積場であるからだ。そしてそこでの《反乱》は資本主義批判そのものであったからに他ならない。
「そもそも今の社会の仕組みを批判すること自体が非現実的であり、現にあるシステムを受け入れざるを得ないのではないか」という、現にある社会への消極的肯定、あるいは 未来を展望できない閉塞感を利用して、安倍政権は、2020年 をメルクマールとして「歴史の転換をはかる」と「維新」を気取っている。改憲策動、天皇交換からオリンピックへと、ナショナリズムを煽って「総動員体制」をはかり、再度の「国民統合」の強化を狙っている。その後に来るものは何か? 近年の欧米をみても「トランプ現象」が起き、「移民排斥」勢力が勢いを増し、〈右からの現状打破〉が跋扈してきている。
こうした状況をどう読み解くのか、そのイデオロギー的背景は何かーーこれらについて小倉利丸さんをお招きし、提起していただく中から、共に《カウンター》を模索していきたい。是非ご参加を! 《絶望のユートピア》を語り合いましょう!

●映画『山谷 やられたら やりかえせ』
ドキュメンタリー/16㎜/カラー/1時間50分

上映後19時頃から<ミニトーク>

2018年10月27日(土) 4:30pm 開場 5:00pm 上映
予約 ●1000円 当日●1200円

会場 plan-B 中野区弥生町4-26-20-B1 (入り口は中野通り沿い) 地下鉄・丸ノ内線 中野富士見町 徒歩5分

予約・問い合わせ 「山谷」制作上映委員会  044-422-8079 090-3530-6113
サイト内「予約・お問合せ」


映画について(「山谷」制作上映委員会のウエッブより)

映画では腹は膨れないが敵への憎悪をかきたてることはできる    -佐藤満夫
  カメラは常に民衆の前で解体されていく   これが本当のドキュメントだと思う   -山岡強一

この映画の冒頭では、次のような字幕が、山谷地区の遠景を背景にして映し出されます。
「1983年11月3日 日本国粋会金町一家西戸組が日の丸を掲げ山谷争議団に対し 武装襲撃をかけた。 以来、一年余に及び闘いが繰り広げられた」

日雇労働者の街山谷の労働者を、日の丸の下で一元的に支配・管理しようとする右翼暴力団の試みでした。「山谷越冬闘争を支援する有志の会」に所属してい た佐藤満夫監督は、1984年12月に文字通り山谷のど真中にカメラを据えて、山谷労働者の姿を正面から撮影するドキュメンタリー映画制作の作業に取りかかります。ところが、映画がクランクインしてまだ1か月もたたない1984年12月22日早朝、佐藤満夫監督は、日本国粋会金町一家西戸組組員の凶刃に斃 れます。冒頭の字幕に続いて、映画に登場するのが、山谷の路上に倒れた、微かにまだ息のある佐藤満夫監督自身の姿でした。映画の物語を組み立てる当の監督が映画の冒頭から倒れている。これは、通例、物語の終了を意味します。しかし、この映画では、むしろ物語の始まりとなっています。

佐藤満夫監督の断ち切られたフィルムが残されました。翌年1985年2月3日におこなわれた『佐藤満夫さん虐殺弾劾! 右翼テロ一掃! 山谷と全国を結ぶ人民葬』で、佐藤満夫監督が殺されてから一年の間に映画を完成することが、参集した人々の前で約束されました。ここに断ち切られたフィルムを繋れまし た。「カメラは常に民衆の前で解体されていく-これが本当のドキュメントだと思う」とは、山岡強一監督が、この映画の上映運動に託した言葉です。山岡強一 監督は、山谷で始まって山谷で終わる強固な円環を打ち破る中味は何かという問いかけを上映運動に託し、この試みは現在なお継続しています。

ナショナリズム、天皇制、オリンピック――「歓待」のレイシズム


●ナショナリズムと文化

オリンピックと代替り、この二つの国策としてのメガイベントの共通項として、ナショナリズムと文化の二つを抽出できると思う。ナショナリズムとは、国民主義、民族主義、国家主義という三つの要素が絡みあったものとして日本語に訳しにくいものだ。しかし、同時にこれら三つの側面を含むナショナリズムであるからこそ、この言葉が近代国民国家の問題を的確に論じる上で有効な概念にもなるのだと思う。1

他方で、文化とは、合理的な説明を超越して、人々の感情や価値観、世界観などに意味を与えるものを指している。科学や理屈とは異なる人々が当然のこととして前提して理解したり感じたりする枠組である。人々が漠然とイメージしている「日本の伝統」とか「日本人」とかといった観念を具体的に支えている個々の事がらや出来事は、文化の重要な側面である。以下で述べるような祝祭イベントとの関係でいえば、文化のなかでも「美学」的な要素、「美」的な感情の問題が重要になる。

●ネガティブな出来事とポジティブな出来事

異例で大規模な「国家的」と呼ぶことができる出来事には二つの真逆なベクトルをもったものがある。一つは、戦争や大災害のようなネガティブな出来事である。多くの人々にとって、これらは「死」の直接の経験であったり、不安や恐怖をリアルに感じることのできる出来事で、「悲劇」と呼べるものだ。政府は、悲劇を「国民的」な団結を通じて克服することを目指し、もしこれに失敗すれば、政府自体の正統性の危機、あるいは権力の解体につながる可能性のある出来事でもある。2
もう一つは、今回の代替りやオリンピックのようなポジティブな出来事だ。祝祭と呼べるものだ。祝祭イベントを通じて、国家の明い未来への想像力を喚起して、今ある国家の正統性を更に強固なものとする出来事になる。3祝祭イベントで動員される感情のなかで最も強い感情が「歓喜」である。この歓喜の感情を通じて、人々が一体となっていることを実感できる雰囲気が社会の様々なレベルで醸成され、歓喜を実現した今ここにある世界を肯定する感情を生み出し、それが最終的に国家へと収斂する。

オリンピックや代替りは大多数の人々にとっては悲劇よりは祝祭であることが期待されているものといえる。少なくとも、政府や資本は、これらを祝祭のイベントとして演出することを前提とした計画をたてている。悲劇と祝祭がともに国家的なイベントであったとしても、その性格は異なり、私たちのアプローチも同じにはならないと思う。

私たちにとって、オリンピックも代替りもむしろ悲劇でしかないし、大災害でしかない。だからといって、戦争に反対したり大災害への政府の対応を批判するといった、悲劇的な出来事に対する私たちの運動がとる戦略や状況分析が、ポジティブなメガイベントに通用するわけではない。

戦争や大災害で、人々の多くは不安や恐怖の感情に囚われ、いちはやくこうした事態が「解決」されることを望み、そのためにできることに協力しようとする気持ちを通じて、人々の間の団結や政府への態度が決まる。この場合には、私たちは、こうした悲劇の原因がどこにあるのか、どのように行動することが不安や恐怖から自由になることなのかを提起し、政府への批判を展開することによって、多くの人々の理解や共感を獲得できるかもしれない。同時に、私たちもまた、多くの人々の経験や経験に根差した主張から多くのことを学ぶ必要がある。一見すると主観的で個別的とみえる様々な体験も、この個別的な体験を人々の共有可能な共通体験へと集約することによって、悲劇を克服するために民衆が共有する世界観や理念が生まれる。悲劇からの克服を既存の権力は、戦争に勝利すること、その結果として悲劇はポジティブなメガイベントへと転化し、人々を歓喜の感情によって統合し、権力の正統性を維持しようとする。大災害の場合、復興を人々の努力のたまものであり、それを国家が全面的に支援してきたといった物語を作りあげることによって、復興とはほど遠い「現実」を隠蔽し、救済されない被害者たちを不可視な存在へと追いやる。他方で、反政府運動の側、社会変革の運動は、その当初から、出来事の悲劇を大衆的な感情において共有しうる条件が与えられている。既存の権力こそが悲劇の元凶にあることを説得する可能性が与えられている。

ポジティブなメガイベントに対して反対する運動が抱えるそもそもの問題は、多くの人々と私たちの間で、共感や感情のレベルでの共通項がないという点にある。ほとんどの人々は、生前退位と即位、オリンピックに関して、これらが自分たちの生死に関わる悲劇だとは考えておらず、むしろ祝祭への期待をもって、肯定的な感情を抱く傾向にある。私たちが人々にこうした感情の根拠や理由に対して疑問を投げ、論理的あるいは学術的なスタイルで代替りやオリンピックの悲劇を主張しても、彼らの多くは多分、こうした正論には耳を貸さないかもしれない。祝祭への期待を挫くという課題は、権力者の祝祭を越える祝祭を私たちが準備できるならいざ知らず4悲劇のなかで権力への異議申し立てを組織することにはない難問がある。
祝祭イベントのもうひとつの側面は悲劇の祝祭化である。戦争をめぐるプロパガンダや軍事パレード、戦争をめぐる慰霊の儀礼などが典型だろう。今回のオリンピックでいえば、福島の隠蔽効果であり、代替りでいえば、天皇の戦争責任、植民地支配の責任の隠蔽効果である。これらはいずれも、悲劇を「美的(あるいは崇高)」な事がらに置き換えて人々の感性を操作する効果がある。5

●グローバリゼーションとナショナリズム

2020オリンピックが64年のオリンピックと大きく違うの背景には、世界規模での時代状況の違いがある。60年代は、冷戦を背景とした国民国家の時代であり、国民国家が国際関係における主権を代表した。国民国家を超越する主体はなく、国際機関は国民国家の代表から構成される時代だった。国民国家としての主権を獲得することが、植民地解放闘争の当然の目標であり、国民国家としての自立が世界規模で、主に第三世界における最重要課題だった。こうした時代のなかで、オリンピックは、一方で都市を主催者としつつも、事実上国民国家によるナショナリズムの祭典となった。

64年を回顧して、その時代にオリンピックが果した役割を想起しながらナショナリズムや動員の問題を再考する場合、この植民地からの解放と国民国家の形成という時代背景を抜きにすることはできない。戦時期やナチスのオリンピックにはなかった時代の特徴がここにある。2020年のオリンピックにはこうした意味での国民国家への熱い肯定はない。6

オリンピックは20世紀を通じて、西側近代化を象徴するイベントとして、その開催が国家威信を体現し、1960年代までは植民地主義との摩擦のなかで先進国の国際イベントとして第三世界からは批判的にみられてきた。その後、第三世界での開催は、その国が一流の先進国の仲間入りを果した証しであると主催国は宣伝し、国民もこの評価共有するようになる。国民国家とナショナリズムのためのメガインベントという地位づけが70年代に確立したともいえるかもしれない。しかし、80年代以降、グローバリゼーションの進展のなかで、ネオリベラリズムと西欧型のライフスタイルのグローバルスタンダード化が、逆に、反グローバリゼーション運動によって逆襲されるなかで、西側近代化への魅力が相対的に低下する。ポスト冷戦以降、長い対テロ戦争のなかで西欧モデルの国民国家への魅力は明かに低下し、それに伴ってオリンピックの国家イベントとしての価値も低下してきた。

他方で、オリンピックがメガイベントとしての魅力を維持するために、益々スペクタクル化への要求が高まり、サーカスの様相を呈するようになる。多国籍企業の影響力が増大し、オリンピックは、ますますスポンサー企業の影響を受け、スポンサー企業がIOCや主催国の意思決定に介入するようになった。国家と資本の妥協なしにはメガイベントは開催できなくなった。このイベントで人々が「熱く」なるのは、国別競技による勝敗のゲームというところにあって、これは資本には真似のできない人々の感情動員の要素ということになる。大衆的な一体性を「国民」というアイデンティティ集団に収斂させるグローバルなナショナルイベントのナショナリズムの演出は、その核心に「国家」の象徴作用を必須の条件とし、これは資本の機能を越える。しかも、いかなる資本もこうしたナショナルイベント以上の規模で人々を動員できるようなビジネスモデルとしての近代資本主義の祝祭モデルはまだ開発されていない。

しかし、こうした「国民」的な歓喜の集合は、徐々にほころびもみせている。それは、ひとつには、国民的なアイデンティティから逸脱する人々が増えてきこと。様々な分離独立志向、移民や難民などだ。もうひとつは、そもそもオリンピックが当初から本質的にもってきた男女のカテゴリーや、健常者と障害者のカテゴリーそのものが、多様性への関心のなかで、揺らいできたことだ。第三に、費用対効果が疑わしくなったことだ。とりわけ、オリンピックによるナショナリズムの祝祭効果は低下を続けてきたようにみえる。ナショナリズムの再生産にとって必要なもっと安上りな手法がでてきた。例えば、インターネットを通じた、感情の動員である。SNSをビジネスにする多国籍企業がこのナショナリズムの動員を支えている。

グローバリゼーションとマスメディアの終焉=インターネットの主流化という環境のなかで、都市空間に依存する莫大な資金を要するメガイベントがどのような変容を遂げるのか、あるいは消滅するのかはまだわからない。しかしオリンピックを支えてきた20世紀の枠組、国民国家を基盤とするナショナリズムのメガイベントという前提が、グローバリゼーション、長びく戦争、国民国家や西欧的な価値の相対的な機能不全とメディア環境の劇的な変化という外的な環境と適応できなくなっているということは明かなようにみえる。

●グローバルな文化と国民国家の特異性の文化

近代資本主義は、一方で、グローバルな競争を可能にするグローバルなルールを構築することによって国際関係の秩序を形成してきたが、他方で、国民国家としての特異性を構築することによって他との差異のなかで、「国民」としてのアイデンティティを再生産してきた。オリンピックと代替りは、この二つの側面を端的に象徴する出来事である。

オリンピックはグローバルなルールを前提にして競争するから、グローバルな文化、人々が他者や他の社会を評価する価値判断の基準、価値観の基準が共通のものとして形成されているという側面を最も端的に示すイベントである。その基準を支える価値観の基本は、スピードと正確性であり、これらは、機械化=工業化によって社会の進歩を判断してきた近代資本主義が人々を評価する「普遍的」なものと一致する。このスピードと正確性を極端に、超人的なレベルにまで鍛えるという異常な身体訓練を競うのが、オリンピックをはじめとするスポーツ競技である。

もうひとつのグローバルな価値判断は、「力」、つまり暴力の優劣である。価値観や文化の優劣を力の優劣に置き換えて評価する近代世界の価値観が、格闘技スポーツに反映されている。スピード、正確性、力といった要素を身体の優位性として抽出し、これをその個人の人格的人間的な優秀性だけでなく、こうしたアスリートを排出した「国民」あるいは「人種」や「民族」の優秀性を象徴するものとみなす。こうした価値観に合理的な根拠があるわけではなく、またこれを人間の能力の普遍的な判断基準とすることに特段の合理性があるわけでもない。だからこそ「スポーツ文化」ハ、いでおろぎー装置として、こうした身体のありかたに価値を付与して、共通の価値観として人々の集合的な共感の構造を再生産する。

こうしたスポーツ文化を支えるグローバルなアスリートを再生産するには、そのトレーニングから最終的にエンターテインメントとして大くの集客と歓喜の感情を形成するためのインフラが必要になる。国家と資本の投資は、こうしたアスリートをナショナリズムと利潤の枠組のなかに回収する。

代替りは、こうしたグローバルなルールに基く文化とは逆に、他国と共通性のない国民国家「日本」に固有のスタイルとして演出される。どのような国民国家も、一方で近代国民国家としての建国の理念を持ちながら、他方で近代以前の時代に淵源する文化や価値観の正当な継承者であることによって、近代という特定の時代を超越して存在しうる(つまり永遠性)を獲得しようとする。こうした役割をキリスト教やイスラム教といった宗教的な伝統が引き受ける。7

近代日本は、近代国民国家としての「世界性」と「特異性」を表裏一体のものとしてきた。このいずれを欠いても近代国民国家としての一体性は維持できない。しかし、普遍的な構造と特異な構造という二重構造は常に矛盾を抱えこむことになる。その矛盾は、国家の歴史と神話(創生の神話か歴史の事実か)と、工業化が基盤とする科学と超越的な存在(検証可能性と神の存在)をめぐって、常に妥協の弁証法に苦しめられることになる。天皇制は、神話や非科学的な神観念を土台とした国民国家としての固有性に依存する。神話を科学や歴史的な史実を根拠に否定することは容易だが、人々が神話を明確に記憶から消しさることはなく、むしろ習俗として日常生活のなかに定着しているのは何故なのかを説明したことにはならない。神の存在は証明されたことはないが、多くの科学者たちは、この根拠のはっきりしない存在を信仰しているという事実があり、こうした近代的な個人はむしろ普通にどこにでもいる人々である。

問題は二つある。ひとつは、近代天皇制への人々の不合理な肯定は、天皇制への合理的科学的な批判では覆せないということである。神話や神話に基く儀礼的な行為が体現する象徴作用を否定するとはどのようなことなのか、である。8

天皇制を支える儀礼は、オカルトといっていい性質をもち、外部の人達にとって、この日本の儀礼は奇怪なbizarreな文化でしかないと思う。この世界を「日本人」というアイデンティティを直感的にもつ人々が共有している。天皇制は日本ではカルトとはみなされていない。そのことがむしろ問われるべき問題だろう。

●私たちの課題――ナショナリズムを否定するとは?

戦争や災害といったネガティブな出来事を否定することは、さほど難しくない。最低限でも原状への復帰を構想できるからだ。しかしポジテイィブな出来事の否定はそうはいかない。オリンピックや代替りの背景をなすナショナリズムや文化を否定することなしに、これらのオジティブとみなされている出来事がもたらす問題は解決しない。

では、ナショナリズム(国民、民族、国家という虚構によって構成される価値観や情動)を否定するとはどのようなことか。日本人であることを否定することとはどのようにすれば可能であり、それはどのような状態を人間関係や社会関係において必要とすることになるのか。この問いは多分一歩一歩の試行錯誤の積み重ねでしか、答えはでないかもしれないが、答えがありうるということの確証を得ることが必要なことだ。実践的な課題とは別に、思想的理論的な見通しとして、日本人を否定することの根源をなす条件は明確にすることが必要だろう。多分、国民国家としての「日本」や「日本国民」の解体だろうが、それがどのような新たな統治機構を構築することに結びつくのかが重要であって、もうひとつの国民国家しか構想できないのであれば、ナショナリズムを払拭することにはならない。

しかし、同時に、ナショナリズムの民族的な側面は単に国民国家の否定では対処できないものでもある。擬制であったとしても「日本人」という民族性への多くの人々の確信を覆すこと、これが虚構でしかないことを、学問や科学の世界のことではなくて、日常生活のレベルで実現することとはどのようなことなのだろうか。民族の廃絶という課題は、支配的な民族にも少数民族にも同じように当て嵌めて論じることができるのか。「無民族」世界を目指すという課題は、ほとんど真剣に議論されてきていないが、天皇制を否定することと擬制としての日本人という民族性の否定をひとつの主題として運動化するとすれば、この課題は避けて通ることはできないだろう。

これは明かに「文化革命」の課題である。しかし、どのような文化の革命が自由や解放をもたらすことになるのだろうか。文化の革命を政治革命とともに、ある一つの理想に基く普遍的な理念によって導くのであれば、画一性しか生まれず、人々が有する多様性や特異性は入り込む余地はなくなるかもしれない。多様性や特異性に基づきながらも、集団としての共通した価値観も持ち、しかもこの多様性と共通性をレトリックで総合するような誤魔化し――これは多分にファシズムを引き寄せやすい――ではない、世界はありうるのか。こうした課題に答えることなしに「文化革命」はありえない。

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●参考1

オリンピック、独立国以外の参加地域(国)

https://www.joc.or.jp/games/olympic/code/index.html

プエルトリコ(米国)

米領サモア

バージン諸島(西側 米国)

バージン諸島(東側 イギリス)

アルーバ(オランダ)

バミューダ(英国)

ケイマン諸島(英国)

クック諸島(ニュージランドと連合制)

香港(JOCのリストにはない)

マカオ(パラリンピックのみ)

キプロス キプロス共和国と北キプロス・トルコ共和国で「分断」

台湾(チャイニーズタイペイとして参加)

旧英国植民地で現在英連邦加盟国のなかには、国家元首を英国王とする立憲君主制国家がいくつもある。

ミクロネシア連邦

ツバル

セントビンセント・グレナディーン

アンティグア・バーブーダ

ベリーズ

セントクリストファー・ネイビス

セントルシア

パプアニューギニア

ソロモン諸島

——————————————-

●参考2

事例:プエルトリコの場合

1543年のスペインによる植民地化以降現在まで「独立」を果していない。

1898年から1900年まで自治政府樹立。

1900年に米国領に。

1917年に米国市民権が付与される。オリンピックの独自選手団は禁じられた。

近年は財政破綻が深刻。

2017年、ハリケーン・マリアで大被害。連邦議会や大統領選挙権がないため、トランプが冷淡な対応をしてきた。

1958年にIOC承認

1900年以降、プエルトリコは米国との関係で二重のアイデンティティを構築してきた。一方で、米国の市民としての意識があり、他方で文化や政治における自治意識がある。1900年当時のプエルトリコのリベラル派はスペインの植民地主義からの解放を求めつつも、完全な独立ではなく地域自治を追求した。これが1898から1900までの自治政府の動きを支えた。プエルトリコは多くの米軍基地を抱えてきた。ルーズベルトロード海軍基地は海外の米軍基地として最大規模のものだが、2003年に閉鎖。それ以前に反基地運動によってビスケス島基地も閉鎖された。

1948年。USオリンピック委員会はプエルトリコを米国のオリンピック組織に統合することを提案するが、これを拒否。この時期、ハワイとアラスカはこの提案を受けいれて組織が統合される。IOCで独立したポジションを獲得することを、他のラテンアメリカ諸国やIOCも支持する。

プエルトリコは、米国の文化的な価値の一部を受け入れてきた。消費文化、スポーツ、キリスト教(プロテスタント)などであり、「Army and Navy YMCA」(陸軍、海軍、YMCA)と俗に呼ばれるように、軍隊の進駐と同時にキリスト教文化の進出による文化的アイデンティティの解体が問題とされてきた。しかし他方で、言語はスペイン語系であり、ラテンアメリカとの共通性が大きい。この意味で、米国による文化的な統合はうまくいっていない。

プエルトリコの独立とその象徴としてのオリンピックへの独立代表を送り出すという問題は、プエルトリコの選手が星条旗のもとで米国選手団として参加するのか、オリンピックで掲げたり、選手が身につける「旗」が星条旗なのかプエルトリコの旗なのかという問題に象徴された。これは1960年代の植民地独立運動のなかで重要な意味をもった問題でもある。

プエルトリコは米国のスポーツにとって重要な「資源」でもある。野球やバスケットなどで有力な選手を排出する地域でもあったからだ。この意味でスポーツを通じての米国の文化帝国主義にとって重要な位置を占めていた。

Antonio Sotomayor、The Sovereign Colony: Olympic Sport, National Identity, and International Politics in Puerto Rico、Univ of Nebraska Pr、2018

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●参考3

北京オリンピックと香港

2008年、5月、聖火が香港を通過する。

6時間かけて25キロ、120人がリレーして香港文化センター、ビクトリア港などを通る。有名な観光地、ビジネスの中心街、中国返還を象徴する政治的な施設などを通る。香港からマカオへ。

2008年3月 チベットでの暴動(1959年のチベット暴動の49周年)とその弾圧

2008年4月 四川大地震。

北京オリンピックは中国にとって西側近代化のステージに到達したことの証明とみなされた。聖火は、このような確認を世界規模で各国に納得させる道具でもあった。2008年の聖火は、130日をかけて6大陸を横断する大規模なもので、オリンピック史上最長のリレーでもあった。国内のリレーは国内の調和を印象づける作用を世界に示す機能を期待された。台湾はこのリレーを拒否した。香港とマカオは、これらの地域が中国に統合され、この統合が植民地統治時代よりもうまくいっていることを世界に示す効果を期待されて、聖火リレーの最初の場所として選ばれた。

聖火は5月4日から中国本土に入った。1919年の54運動(抗日運動)の記念日の89周年である。1世紀前には失敗した西欧近代化を今成し遂げつつあることの象徴として。

香港の中国返還は1997年7月。一国二制度の開始。

5月2日、香港のChief Executive Mr. Donald Tsangは北京オリンピックのスローガン「一つの世界、一つの夢」を繰り返した。

聖火ランナーのリストにすいて、北京の組織委員会は120人のうち12人をノミネートした。これに地元のthe Sports Federation and Hong Kong Olympic Committeeの影響も加えると影響はさらに大きくなる。

聖火の行進は、香港の開発状況を反映した。これはMr. Timothy Fok, the Sports Federation and Hong Kong Olympic Committee Presidentが決定した。聖火ランナーはこの社会の縮図が示されている。120名のうち前現アスリートは42名のみ。残りはビジネス、政治家やNGO、エンターテインメント業界のメンバーなど。ビジネス界では、開発業者大手のShun Tak Holdings、Cheung Kong, Sun Hung Kei and Hendersonなどだ。こうしてアスリートは後景に退いた。聖火ランナーからは貧困層の人々も排除された。(サンフランシスコでは、78名のうちエッセイの入選者32名が選ばれた。)社会が分断されていることを隠蔽するセレモニーとなった。リレーの最初と最後に香港のメダリストが走った。誰が走るのかという選考をめぐる、北京との確執がある。

Wing-Shing Tang, “The 2008 Olympic Torch Relay in Hong Kong: A Clash of Governmentalities,” Human Geography 2018/1/1

1アダム・スミスの有名なWealth of Nationsは「諸国民の富」とも「国富論」とも訳されるように、nationは国民とも国家ともとれる言葉である。

2悲劇あるいはネガティブな出来事とは、ナオミ・クラインの災害資本主義から借りてきたものだが、内容は同じではない。

3祝祭イベントという表現は、ボイコフの「祝賀イベント」から借りたものであるが、内容は同じではない。一般に、権力の脆弱な「場所」は、「境界」にあるといわれている。国境は地理的な空間のなかで権力の及ぶ範囲が終点となる場所として、その外部と接するわけだが、王位継承であれ次期の政権を選択する選挙であれ、権力が時間的な終点に至り、次の権力への移行となる時間は、権力の空白時間となる。天皇は、戦後憲法では、伝統的な政治学でいえば国家権力の象徴でしかなく、権力の主体ではないということになるが、天皇は「日本」という国家を象徴する政治的な機能を担っており、明らかに統治機構の不可欠な一部をなす。天皇の死=象徴の死は、それ自体が、国家を象徴する存在の終わりを意味し、象徴の不在となる。死に続く即位は、象徴の終りと再生の一連の儀式を通じて、新たな象徴とそれが体現する国家がそれまでの国家からの正当な後継者であることを表明するための手続きになる。代替りには、「死」が関わるために、ある種の悲劇であり、「悲しみ」を排除することができない。これに対して、生前退位は、この「悲しみ」という要素が悲劇的なニュアンスを帯びることなく抑制され、即位に関わる「歓喜」の感情が支配的となる。

4こうした毒をもって毒を制する類いになりかねない作戦は、ファシスト的な「革命」の誘惑に引きよせられる危険性がある。

5小倉「憎悪の美学」『季刊ピープルズプラン』81号参照。

6この時代の参考事例として、プエルトリコのケースを参照。また、長野オリンピックが1998年、札幌が1972年である。これらの冬季オリンピックとの時代背景の比較も重要である。札幌は、ベトナム反戦運動やいわゆる68年の反乱とのかかわりで注目すべきだろう。長野オリンピックはバブル崩壊後の停滞期に追い討ちをかけたアジア通貨危機という20世紀最後の経済危機のなかで行なわれた。

7ただし、キリスト教もまた、近代を生み出した直接的な条件とみなされる場合がある。とりわけユダヤ教との結び付きを否定して、キリスト教以前の異教の時代やギリシア文明といった紀元前の時代にヨーロッパ社会の正統性を求める考え方が極右にはある。こうした考え方が、純粋な白人中心主義を正当化する主張には色濃い。

8やや安直なたとえでいえば、「陽が昇る」とか「陽が沈む」といった地動説的な表現や実感をどのようにしたら科学的な理解に合わせて表現し、なおかつそれを「実感」できるようになるか、という問題と似ている。


ピープルズプラン研究所主催の連続講座〈「平成」代替りの政治を問う〉第7回 「 東京オリンピックと「生前退位」―ナショナリズム大イベントがねらうもの」の発言資料として配布したものです。

10月2日:第二回『絶望のユートピア』 (桂書房) を枕に 社会を変える夢を見るための連続講座 (第2期)

ATTAC首都圏主催の連続講座の二期目第二回の案内です。わたしの『絶望のユートピア』からいくつかテキストを選んで参加者のみなさんと議論します。以下案内を転載します。

会場は

ATTAC Japan (首都圏)
千代田区神田淡路町 1-21-7 静和ビル 1 階 A

地下鉄「小川町」B3出口。連合会館の裏手です。

地図

第2回 10月2日 (火) 19 時~

「ナショナリズムの終焉へ向けて」 (PDFはこちら)
右翼の歴史認識の源流ともいえる林房雄の『大東亜戦争肯定論』批判の文章。世界規模で跋扈する極右やネオナチの「保守革命」にも通じる世界観について考えてみます。

当日配布資料から(PDF)

第3回 11月13日 (火) 19 時~

「社会主義にとってフェミニズムとは何であったのか 」
資本主義の搾取の廃絶によって性差別も人種差別も解消できるほどジェンダーの問題は簡単なものではありません。階級と性の問題を、フーリエやエドワード・カーペンターなど
19 世紀の時代の社会主義の思想と運動に立ち返って考えます。

第4回 12月11日 (火)19 時~

「グローバル資本主義の金融危機と<労働力>支配 」
資本主義の基本的な問題でもある<労働力>の商品化と搾取は金融危機あるいは金融システムとどのように関連するのか。資本による<労働力>支配の一環としての金融について考えます。

第5回 2019 年1月15日 (火) 19 時~

「労働概念の再検討」なぜ人々は働くことを強いられて自殺するまでに追いつめられるのだろうか。労働を美徳とする倫理観がどうして成り立ってしまうのか、本当に「働く」ことの無意味さを生きざるをえない資本主義の問題を考えます。

◆参加を希望される方へ◆ 会場は attac 事務所です。事前に読んでくる必要はありません。1 話完結の 5 回連続。途中参加・途中欠席可。参加費は 500 円(attac会員は 300 円)。本をお持ちでない方は各回 1000 円で書籍がもれなくついてきます。申し込みは attac-jp@jca.apc.org まで。


下記は終了しました。

第1回2018 年9月18日(火)19 時~

「オルタナティブの戦後 」
戦後の社会運動のなかで非主流ともいえる様々な運動を通じて、少数とはいえ彼らが切り開いてきた変革への問題意識を考えてみます。

〈「平成」代替りの政治を問う〉 第7回  東京オリンピックと「生前退位」―ナショナリズム大イベントがねらうもの

PP研からのお知らせ : 〈「平成」代替りの政治を問う〉 第7回  東京オリンピックと「生前退位」―ナショナリズム大イベントがねらうもの

〈「平成」代替りの政治を問う〉 第7回
東京オリンピックと「生前退位」―ナショナリズム大イベントがねらうもの
問題提起:小倉利丸さん(「オリンピック災害」おことわり連絡会)
:宮崎俊郎さん(「オリンピック災害」おことわり連絡会)
:天野恵一さん(反天皇制運動連絡会)

次回 2018年 9月15日(土) 15時~
場所:ピープルズプラン研究所会議室
参加費:800円
主催・連絡先:ピープルズプラン研究所

2016年7月13日、 NHKのスクープとして〈天皇の「生前退位」の意向〉なるものが大きくマスコミに浮上。翌日からすべてのマスコミが大騒ぎに突入し、直後の宮内庁の「事実ではない」、政府の否定のコメントなど、まったく無視するような情報の大洪水は、8月6日に天皇のビデオ・メッセージが準備されている(安倍晋三首相のコメントもあり)との報道にいきついた。
そして、8月8日に、象徴として〈公務〉を努カする天皇、それの活動を安定的に継承するための「生前退位」希望と、「国民」への同意を要求し、事実上法づくりをいそがせる「ビデオ・メッセージ」を発した。この天皇の意思が大きくつくりだした状況のパワーにのみこまれ、事実を「否定」して嘘のコメントをした事など忘れたように安倍政権も宮内庁も、基本的に「生前退位」を実現すべく動き出す。
そして、2017年6月9日「天皇の退位等に関する皇室典範特例法」は「付帯決議」つきで成立してしまう。
憲法が禁じている「象徴としての公的御活動」と法に書き込み(条文まで敬語!)、「国民」が天皇を深く「敬愛し」「お気持ちを理解し、これに共感している」とも書き込み、法的に天皇(の意思)への敬愛・理解・共感を強制している。トンデモない違憲立法である。
ところが、 一方で「有識者会議」をつくり、アドバイスを求め、国会では、一切の討論をシャットアウトした〈翼賛国会〉。その挙国一致体制の下、つくられたこの法づくりのプロセスおよび法案に対する安倍改憲に反対しているはずの護憲派野党・憲法学者の正面からの批判の声は、ほぼゼロ、比較的「リベラル」と思われていたインテリたちのアキヒト天皇の意思尊重こそ大切(その意思はスバラシイ!)という声が大きくマスコミに飛び交いだすしまつである。
私たちの予想に反してスタートしたこの「平成天皇代替りの政治」のプロセスを、まず正面から緻密に批判的検証をしなければなるまい。その作業を通して、権力によって進められるであろう「ここ3 年」以内の「退位・新天皇即位」の政治イベントに有効に対決していきたい。
以上のモチーフの下に〈「平成」代替りの政治を問う〉連統講座を呼びかける(2ヶ月一回のペースで一年以上連統)。

(声明)2020東京オリンピック・パラリンピックを理由としたプライバシー権と市民的自由を侵害するテロ対策に反対します

2020東京オリンピック・パラリンピックを理由としたプライバシー権と市民的自由を侵害するテロ対策に反対します

2018年9月6日
盗聴法に反対する市民連絡会
問い合わせ先
070-5553-5495(小倉)
hantocho-shiminren@tuta.io

JOC、政府、自治体、民間企業そしてマスメディアの報道は、いずれも、2020東京オリンピック・パラリンピック(以下オリンピックと呼びます)のセキュリティ対策を大義名分として、監視社会化を推進する一方で、基本的人権としてのプライバシーの権利や言論・表現の自由など人々の市民的自由が最優先されるべきであることに全く関心をもっていません。

たかだか夏の一ヶ月のスポーツイベントとその準備によって、基本的人権としての市民的自由やプライバシーの権利が、半永久的に奪われる非常に憂慮すべき事態にあることを、訴えたいと思います。

●オリンピックが歯止めのない監視社会化を招いている

政府は、2017年に「2020年東京大会に向けたセキュリティ基本戦略」や「オリパラ・テロ対策推進要綱」を策定しました。そして現在、政府は、安倍首相を本部長とした「オリパラ推進本部」の下に各省庁を横断した「セキュリティ幹事会」を設置し、更に各自治体もまきこんだ大規模な監視システムを構築しています。現在までに、組織や個人の監視や情報収集のために、セキュリティ情報センター(警察庁)、国際テロ対策等情報共有センター(仮称)(内閣官房)、サイバーセキュリティ対処調整センター(内閣官房)などが設置され、「国際テロ情報収集ユニット」等の活動が拡大・強化されるなど、新たな組織や仕組みが次々と作られてきました。共謀罪は、このような動きのなかで、強引に成立させられたのです。また、2018年春の通常国会に政府が提出した「2020年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会の準備及び運営の推進に関する政府の取組の状況に関する報告」の中心課題も、もっぱらセキュリティ対策とリスク管理に置かれました。オリンピックに反対とは言いにくい世論をたくみに利用して、オリンピックを監視社会化のために利用しようとする意図が明かになっています。

監視強化の一例としていくつかの事例を上げることができます。たとえば、従来の入国審査での生体情報の利用に加えて、航空会社が保有する旅客情報の収集が強化されたり、空港、山手線などの鉄道車内や駅構内などの公共の場所での顔認証や個人識別機能付の監視カメラの設置、インターネット通信への監視強化などが計画されています。ボランティア管理では、マイナンバーと顔認証を併用することが計画されており、オリンピック観戦チケット購入についてもマイナンバーの導入が計画されています。更に、聖火リレーなどのイベントを口実に、日本全国で日常的にテロ対策訓練などが行なわれるようになってしまいました。

また警察庁は、2017年4月の「人口減少時代における警備業務の在り方に関する有識者検討会」において、オリンピック警備での人手不足を理由に、民間警備会社によるドローンなどのICTの活用を提言しており、更に将来的にはビッグデータの活用への動きもあり、官民が一体となってプライバシーの権利を侵害しかねない動きが加速しています。

政府であれ民間であれ、オリンピックを口実として、個人情報を網羅的に取得して監視の手段に使うことに歯止めがかかっていません。JOCの大会運営費、国や自治体のオリンピック関連予算、民間企業のオリンピック関連投資全体のなかで、テロ対策などを口実とした監視・警備予算は、大きく膨れ上がり、大会運営費だけでもその2割を占め、警備要員も5万人を越える規模になっています。オリンピックは、民間の監視産業の利益の源泉になっており、ICT産業は、私たちのプライバシーの権利を守ることよりも監視社会化から利益をあげる企業になっています。オリンピックをきっかけに導入された高度な監視の制度、政策、技術などは、将来、国の様々な政策に浸透してゆくきっかけになります。

このように、オリンピックは、監視社会化を促進し、市民的自由の抑圧、プライバシー権の侵害に格好の大義名分を与えるイベントになっているのです。私たちは、このようなオリンピックの開催に賛成することは到底できません。

●ナショナリズムと一体となった監視社会化

オリンピックは、その憲章の趣旨に反して、事実上ナショナルイベントになっています。表彰式では国旗が掲揚され国歌が歌われます。オリンピックは、過剰にナショナリズムを鼓舞する巨大イベントです。そしてまた、今回のオリンピックを政府は「復興オリンピック・パラリンピック」と呼び、「国民総参加」による「日本全体の祭典」であり「大会が日本の魅力や日本が誇るべき価値を発信する絶好の機会」であるなど、ナショナリズムの喚起のチャンスと捉えています。これは、オリンピックを絶好の機会とした監視社会化と国民総動員体制の構築ではないでしょうか。

個人の自由な思想信条など、憲法で保障された基本的人権の観点からすれば、政府が「国民総参加」を上から扇動するようなことがあってはなりません。参加しない自由、批判する自由、こうした異論をデモや集会などで表現する自由が監視されることなく保障されるべきことは言うまでもありません。警察、自衛隊、民間警備産業などを総動員する治安管理体制がとられるなかで、上からの「国民総参加」が事実上強制されようとしている現在、私たちのプライバシーの権利や思想信条の自由は、尊重も配慮もされていません。

また、こうした監視体制のなかで、「日本全体の祭典」といったナショナリズムが鼓舞される結果として、「国民」にも「日本」の枠組にもそぐわない地位を強いられている多くの外国籍の人々や、「日本」以外の国や地域に自らのアイデンティティを持つ人々のプライバシー権や市民的自由も奪われる危険性が高くなります。様々な少数者の市民的自由の権利、多数者とは異なる生き方やライフスタイルをもつ権利もまた監視され、差別と偏見にさらされ脆弱になるのではないでしょうか。人種差別や排外主義、少数者の人権に無関心なこの国の現状をふまえたとき、監視社会化のターゲットが、こうした人々に向けられる危険性を軽視することはできません。

●私たちの要求

私たちは、上記をふまえて、改めて以下の点を政府や関係機関に求めたいと思います。

(1)オリンピックやテロ対策を理由とした全てのセキュリティ政策、制度、組織を廃止すること。
(2)オリンピックやテロ対策を理由とした生体認証や個人識別技術の導入や監視カメラの設置を止め、すみやかに機器を撤去すること。
(3)オリンピックやテロ対策を理由とした令状なしの荷物検査や職務質問など、法令を逸脱した法執行機関の行動をやめること。
(4)オリンピックやテロ対策を理由とした出入国管理における生体情報等の取得をやめること。
(5)オリンピックやテロ対策を口実とした政府機関や民間等での個人情報の共有をやめること。
(6)警察も含めて、政府・自治体による生体情報、画像・動画などを含む個人情報の取得状況を本人に開示し、自己情報コントロールの権利を認めること。
(7)オリンピックのテロ対策を口実として制定された共謀罪を廃止すること。
(8)オリンピックのテロ対策を口実として批准した越境組織犯罪防止条約から脱退すること。
(9)オリンピックに関する全てのセキュリティ、治安関連予算を取りやめること。
(10)民間企業や地域組織(町内会、PTA、ボランティア団体など)はオリンピックを口実とした安全・安心などを名目とする監視への投資や監視活動に参加しないこと。

私たちは、思想信条、言論表現、および信教の自由など市民的自由を侵害し、生体情報、行動履歴、出入国履歴などプライバシーの権利を侵害するいかなる国家イベント、国策、民間企業などの活動を容認できません。人権をないがしろにするのならオリンピックは中止すべきです。

以上

小倉利丸著『絶望のユートピア』 (桂書房) を枕に 社会を変える夢を見るための連続講座 (第2期)

ATTAC首都圏主催の連続講座の二期目です。わたしの『絶望のユートピア』からいくつかテキストを選んで参加者のみなさんと議論します。以下案内を転載します。

会場は

ATTAC Japan (首都圏)
千代田区神田淡路町 1-21-7 静和ビル 1 階 A

地下鉄「小川町」B3出口。連合会館の裏手です。

地図

第1回2018 年9月18日(火)19 時~

「オルタナティブの戦後 」
戦後の社会運動のなかで非主流ともいえる様々な運動を通じて、少数とはいえ彼らが切り開いてきた変革への問題意識を考えてみます。

第2回 10月2日 (火) 19 時~

「ナショナリズムの終焉へ向けて」
右翼の歴史認識の源流ともいえる林房雄の『大東亜戦争肯定論』批判の文章。世界規模で跋扈する極右やネオナチの「保守革命」にも通じる世界観について考えてみます。

第3回 11月13日 (火) 19 時~

「社会主義にとってフェミニズムとは何であったのか 」
資本主義の搾取の廃絶によって性差別も人種差別も解消できるほどジェンダーの問題は簡単なものではありません。階級と性の問題を、フーリエやエドワード・カーペンターなど
19 世紀の時代の社会主義の思想と運動に立ち返って考えます。

第4回 12月11日 (火)19 時~

「グローバル資本主義の金融危機と<労働力>支配 」
資本主義の基本的な問題でもある<労働力>の商品化と搾取は金融危機あるいは金融システムとどのように関連するのか。資本による<労働力>支配の一環としての金融について考えます。

第5回 2019 年1月15日 (火) 19 時~

「労働概念の再検討」なぜ人々は働くことを強いられて自殺するまでに追いつめられるのだろうか。労働を美徳とする倫理観がどうして成り立ってしまうのか、本当に「働く」ことの無意味さを生きざるをえない資本主義の問題を考えます。

◆参加を希望される方へ◆ 会場は attac 事務所です。事前に読んでくる必要はありません。1 話完結の 5 回連続。途中参加・途中欠席可。参加費は 500 円(attac会員は 300 円)。本をお持ちでない方は各回 1000 円で書籍がもれなくついてきます。申し込みは attac-jp@jca.apc.org まで。

はじめてのインターネットラジオ放送

実は、私自身、ネットラジオは全くの初心者です。ですので、参加される皆さんと一緒に、とりあえず「出きる」ところまでやれることをとても期待しています。ことばは、読むこと、書くことだけでなく、話すこと(歌うこと?)、聞くことも大切なことです。話す、聞くことでしかできない可能性をいろいろ工夫するきっかけになればと思います。ネットでラジオ局を開局するときに、iTunesとかYoutubeなど既存のインフラを使うのであれば、netにたくさん情報があります。簡単とはいいますが、文章を書く、メールを送受信する、ネットサーフィンをするといった使い方が中心のユーザにとっては、音声をコントロールして配信すること(特にライブでの配信)ということになると、けっこう厄介かもしれません。
たとえば、
そもそも音声をパソコンに録音したり編集することはどうやってやればいいのか。
複数の話し手の声をパソコンで録音するはどうしたらいいのか。(パソコン内蔵マイクでskypeみたいなのではラジオとしての「音質」にはなりにくいでしょう)
音楽などを流したいけど、どうやって著作権問題をクリアしたらいいのか
パソコンからネットにどうやってライブで「音」を配信し、それを記録するのか。
録音したものをネットに上げるにはどうしたらいいのか。
ストリーミングなどをやるにはサーバを借りなければいけない?
いったいどれくらいの予算があればできるものなの?
などなどいろいろな疑問があるかもしれません。原則としてオープンソースのソフトを使って、Linuxでも実現可能なシステムを作ることをやれればと思います。参加されたみなさんも、実際にパソコンを使ってネットラジオの環境を作れるようにできればと思います。12号店の機材(マイクなど)は使えると思います。それ以外に、小型のミキサーとかを用意してみたいと思います。参考までに、以下の案内の後ろに、8月にベルリンで開催されるCRITICAL ENGINEERING SUMMER INTENSIVES, BERLIN 2018の紹介もあわせて掲載します。このイベントでもラジオへの関心がかなり中心的な主題になっています。

はじめてのインターネットラジオ放送

プロプライエタリ社会をハックする ― インターネットラジオ・ワークショップ

3月に1970年代イタリアの自由ラジオ局ラジオ・アリチェの物語「あくせく働くな」を上映し、自由ラジオ運動について語りあうセミナーを開催しました。日本は未だに電波管理が厳しく「海賊放送」の余地が非常に狭いままです。他方で、ネットラジオは自由度が高く、ブログやSNSにはない可能性と拡がりがあります。音声や音楽など「音」には書き言葉にはない可能性があるのです。伝えたい事柄を四苦八苦して文章にまとめるよりも話す方がずっと迅速で容易で、複数の参加者での討論や議論も文字よりは言葉の方が有効なコミュニケーションの方法でしょう。ネットテレビのような「顔出し」もないので、バジャマで寝転がってでもオンネアは可能です。このあくせく働かなくてもやれてしまうメリットを最大限に生かし、ライブの醍醐味も加味できるネットラジオの実践ワークショップを開催します。

講師は西荻窪にあるインディペンデントで公共的な文化スペース「あなたの公-差-転」を拠点に月一度の放送を行う〈ラジオ交-差-転 (Radio Kosaten) 〉で活躍するジョン・パイレーツ (Jong Pairez)さん。GLOBAL INDEPENDENT STREAMING SUPPORT (G.I.S.S.) などのフリーなネットツールを使用して、機材の接続から配信までをレクチャーしていただきます。

日 時:2018年7月20日(金)19:00~21:00
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
講 師:ジョン・パイレズ (Jong Pairez)
サポーター:小倉利丸、上岡誠二

講師:ジョン・パイレズ
マニラと東京在住のメディア・アーティスト。持続可能でオールタナティブな生活のリサーチやデザイン、または人災と天災の共有体験を通じて生き残る方法を探り、文明と繋がるための、戦略的なスペースCivilization Laboratory (CIV:LAB)の設立者。移住、変位、ジオグラフィー、異文化との境界線に関心を持ち、ディジタルとアナログのテクノロジーによって空間の論理と不合理に取り組む。ビデオ・ドキュメンタリー、8mmフィルムの作品制作や自由ラジオ放送を通じて、押し付けられた地理を再創造するために重要な音とイメージのある環境をつくろうと試みている。来日してから自分自身が失われた世代の「移民労働者」であることも主張してきた。


参考


(再録)大衆動員に使われた聖火——官僚の描いた日本地図の中心

近代オリンピックと聖火

オリンピックをはじめとする国際的なスポーツ競技は、なぜ国別に勝敗を争い、勝者の属する国家の国旗を掲揚し、国歌を演奏するという勝利の儀礼を行うのだろうか。このあまりにも当り前になっているスポーツ競技の儀礼風景は、観衆に向けられたナショナル。アイデンティティ確認の儀礼であるといっても間違いではない。オリンピックをこうした視点で見ると、すぐれて観衆に向けて組み立てられた動員のイベントであるといえる。オリンピックの競技それ自体は、選抜されたスポーツ選手による国家間の競争として展開されるわけで、競技に参加しない多くの人びとは、観衆として受動的な立場におかれる。これに対して、オリンピック競技に付随するさまざまな行事の中では、観衆が主役の位置をしめる仕掛けが登場する。とりわけ、聖火をめぐる一連のイベントは、その規模と動員のあり方からみて、大衆動員のメインともいえるものだ。

聖火が近代オリンピックに登場するのは、ナチスによるベルリン大会が最初だ。ナチス参謀本部は、聖火リレーコースを軍事侵略のためのルート調査として利用した。しかし、戦後、一時期廃止論も出たとはいえ、聖火リレーがもったこうした政治的軍事的な意図は無視され、逆に平和のシンボルのようにみなされて継続されていくことになる。。たとえば、六二年当時の組織委員会事総長の田畑政治はオリンピック東京大会の組織委員会の会報で、聖火について次のように述べている。
「当時はヒトラー全盛期で、国威宣揚を主眼にして、ドイツの財的・科学的。芸術的すべてのものを投入したのがベルリン大会である。しかし実際運営したのはヒトラーでなくスポーツ哲学者のカール・ディームで、東京大会における私のような立場にあって、彼の考えが表現されたのである。彼の一番の功績は、はじめてオリンピアの火をベルリンの競技場まで、地上を走って運んだことである。」(田畑政治「大会の象徴」『東京オリンピック」六二年二月二五日号)

ここには、政治とスポーツの関係についての月並みであるけれども、だからこそ半ば了解済みの政治とスポーツの間の暗黙の協調関係が表明されている。政治にとっての国威発揚になることを田畑は認めつつ、「しかし」という接続詞で形式的にはこの政治的な文脈をスポーツの文脈と切ってみせる。しかし、これはレトリックでしかない。いうまでもなくスポーツ競技としての最善の条件を整えるということと国家的な関与、政治的な調整、大衆的な動員は不可分だからだ。そのことは、聖火にはっきりとみてとれる。聖火それ自体はオリンピックのスポーツ競技とは何の関係もない。関係ないものがあたかも重要な意味をもつかのように意義づけられ、開会式・閉会式の儀式の中心をにない、オリンピックのシンボルとなる、そうした一連の物語に政治的な仕掛が隠されている。

東京オリンピックにおける聖火のルート選び

東京オリンピックの聖火はどのように準備されたのだろうか。当初、国外ルートは、ナチス大会の聖火ルートを考案したとされるカール・ディームがシルクロード説を唱えたりしたが、国際情勢から見て不可能と判断された。しかし、ルートについては、できれば陸路という希望が強かったようで、一九六一年から半年かけて「朝日新聞」が六名の踏査隊を組織して聖火の陸路コースを調査するといったことも行われたが、陸路の場合、「複雑な中近東、アジアの政治情勢や砂漠を越え、ジャングルを突破しなければならない等、相当の困難を覚悟しなければならない」(前掲)という判断がかなり早い時期に出され、空路ルートが有力と見なされるようになった。

では空路での聖火ルートがすんなり決ったのかというとそうではない。六二年八月に聖火リレー特別委員会による大綱が組織委員会で決まる。この大綱によると、アテネから空路で一九カ国二三都市を回り、沖縄から本土へという案で予算総額一億三五〇〇万円を計上していた。そして、「使用飛行機は可能な限り国産機が望ましい」としてYS11が想定され、それが無理な場合には自術隊のP2Vを使用することが計画された。このことを含めて、聖火の国外ルートに対する自衛隊の協力が当初の計画ではかなり積極的にうたわれたりしていた。かってのナチスの聖火に込めた軍事的な意味を思い起こすとき、こうした自衛隊の利用は——組織委員会の意図はどうあれ——自衛隊固有の意味付けや、任務を導き寄せるものであるといえる。しかし、この大綱は、六二年一二月二七日に政府側からクレームがついて修正きれる。組織委員会会報に掲載されている会議録に次のように記載されている。

「聖火リレーの計画案を松沢事務次官、藤岡競技部長から説明があり、福永委員から、①経費がかかりすぎる、②リレーする国にイスラエル、北朝鮮が含まれていないが、もう少し国際情勢を考えるべきだ、と発言。徳安委員(総務長官)からも政府にも計画を相談してもらいたいと発言があり、再検討することになった」(前掲、六三年二月二五日号)

結局、国外コースは、縮小して一二カ国一二都市を回ることになり、輪送機も日航のダグラスDC6をチャーターする計画に変更された。イスラエル、朝鮮民主主義人民共和国はともに国際政治上どのような扱いをするかが問題になる国だ。自衛隊機の利用や国産旅客機の利用を計画するということもオリンピックがどのような意味で国家的な威信を表明する場になっているかを明確に示している。

他方、国内ルートについても六三年三月二八日の組織委で、原案に対してJOCから異論が出てすんなりとは決っていない。異論の具体的な内容は会報の記事を見る限り分からないが、最終決定は、国内四コースに分けてすべての都道府県をまわるということに落ち着いている。国内ルートは、各ルートの起点への輸送を別にすればすべて陸路だから、どのようなコースを走るかによって通過する市町村、通過しない市町村という差がでてくる。

道路、鉄道建設と似たような誘致合戦が繰り広げられたということは想像に難くない。また、国内リレーでは、一六歳から二〇歳の「日本人」によるとわざわざ「日本人」規定を入れている。こうした「日本人」規定は、国際スポーツが国籍や国家的な威信を背景としたナショナリズムを暗黙の前提としたイベントであるという性格を主催当事者が当然とみなしていた証拠といえる。聖火リレーは、そのルート上の各地の若者が受け継いでゆくという建前でいっても国籍条件はまったく根拠のないものだ。逆に、「日本人」にだけリレーの権限を与えることによって、この列島を「日本人」という単一民族によって一色に塗り込め、国家イベントから外国籍の人びとを排除することを当然とする政策的意図が見える。こうした一見些細に見える規定によって、「単一民族」の神話が繰り返しすり込まれ、地域社会のなかに生活する外国籍の人びととの間に制度的な排除、区別、差別が形成きれてゆくのであって、決して軽視できることではない。

聖火コース国土美化国民大行進

この聖火の国内コース決定をふまえて、オリンピック開催の前年に「聖火コース国土美化国民大行進」が聖火と同じコースを聖火そっくりのトーチをもってリレーするという文字通りの予行練習が行われている。これは、財団法人・新生活運動協会が中心となったもので、この大行進のスローガンは、「紙くずのない日本」「行列を守る日本人」「国民各層の市民性、公衆道徳を高める」といったもので、その記録集には「みんなが力をあわせればどんなすばらしいことができるか、という自信をもつことができた」といった自画自賛がみられる。こうした準備の中で、聖火をタイムスケジュール通りに運ぶ段取りが周到に準備され、また、「親子清掃活動」「母子花いっぱい運動」など動員のための組織が作られていくことになる。総参加者は六〇〇万人、各県でオリンピック前夜祭を行い、そのしめくくりとして三月二日に国立競技場で中央前夜祭を七万人を集めて行うという大々的なものだった。

この予行演習のとき、各地で神社が聖火の受け入れ拠点になっている点が一つの特徴だ(たとえば、鹿児島照国神社、宮崎神宮が聖火の宿泊などの場所を提供している)。そして、全国各コースを回った「聖火」は、東京の明治神宮で集火された。オリンピック本番では、聖火の起源がギリシャと関わるということからか、これほど神社は全面に出ていない。逆にこの予行演習では、「聖火」の意味は、神社のかがり火に近いイメージがあるのかもしないし、地方の草の根の組織の核をなす神社が重要な動員の役割を担ったという印象がある。

聖火リレーの本番は、どうだったのか。直接オリンピックの競技を見る機会のない地方にとって、聖火は唯一、オリンピックのイベントを直接身近に感じられる行事だった。その意味で、聖火の受け入れと動員、それをめぐる地方の盛り上がりをどのように組織するかが、オリンピックの全国的な盛り上がりの演出にとって重要な前提条件をなしたといえる。ここでは、地方の様子の一例として、私の住んでいる富山の場合について、地元新聞『北日本新聞』の記事を参考にしながらみておく。富山県への聖火は石川県から受け継がれ、小矢部市、高岡市、富山市、滑川市、黒部市、朝日町などを通過して新潟県へ抜けるコースをたどった。

石川県から聖火を受け入れた小矢部市では、県境に歓迎の横断幕を揚げ、中学校のブラスバンド、小中学生七〇〇人の動員、沿道の会社、商店、体協、婦人会など二万人が動員されている。「沿道の各民家、商店、会社とも国旗を掲げる」(六四年一〇月二日)という町ぐるみの祝賀体制が組まれた。こうした歓迎体制が聖火の通過ルートの自治体でとられるわけだが、また、富山市では、この聖火の到着に合わせて中学連合運動会が開催され、会場に二万人を集め、聖火台を設けて聖火の分火を行い、オリンピックの開会式のまねごとが行われた。

また、県庁前広場にも二万人を動員して到着の儀式を行い、夜は富山市公会堂に三〇〇〇人を集めて「聖火をむかえる県民の集い」を開催、翌日にも出発式なる儀式を行っている。聖火は一九五六人によってリレーされ、この二日間で四二万人の人出であったとマスコミは報じている。メディアの報道は、オリンピック本番顔負けの派手さで、「沿道をうめる日の丸」などの見出しや、市町村ごとの細かな祝賀行事、沿道の風景、そして聖火ランナーになった人たちのエピソードなど、文字通り聖火一色に埋め尽された。聖火は、こうして、戦後の天皇の全国行脚に次いで、それ以上に大衆的な日の丸や君が代に接する機会を作り出したといえる。【注1】

沖縄から皇居前へ

先にも述べたように、聖火はまず、沖縄に上陸した。沖縄への聖火の誘致は六二年に決定されており、まだアメリカ合衆国の統治下にあった沖縄を日本の最初の聖火到着地とみなすことによって、沖縄返還への世論形成に利用しようという意図がかなりはっきりと読み取れる。

聖火が沖縄に与えた影響は、大きいものがあったのではないかと考えられる。聖火の沖縄でのルートは、ひめゆりの塔など南部の戦跡地巡りを一つのポイントとして打ち出すというものだった。聖火は「平和の火、戦跡地を行く」(『沖縄タイムズ』六四年九月八日夕刊一面見出し)という表現に見られるように、「平和」のシンボルに読み換えられてゆく。このことは、「日の丸」や「君が代」にもっと端的にあらわれている。聖火受け入れは、沖縄教職員会なども積極的に歓迎して「その日[聖火の沖縄入り]は各家庭とも国旗を掲揚し、全島を”日の丸”一色で塗りつぶそうとしているが、全琉小、中、高校でも、聖火が通る沿道を”日の丸”でかざろうとその準備もおおわらわ」(同上、六四年九月四日)といった記事が写真入りで大きく掲載されている。そして、聖火到着の儀式が行われた奥武山競技場で君が代とともに日の丸が掲げられた。

新聞報道も「日本の玄関、那覇空港へついた」「感激の”君が代”吹奏で日の丸が掲揚されたが”君が代”を聞く観衆の中には感激の余り涙にむせぶ風景もあちこちでみられた」といった記事が続く。

ここには、沖縄が日本との関係で被った一切の犠牲、沖縄の独自の文化、そういったものは見事に消し去されている。「復帰後」の沖縄が「日の丸」「君が代」に対して率直な批判をなげかけてきたことを考えると、「日の丸」「君が代」へのこだわりを心の奥に押し隠さざるをえなかった人びとが数多くいたのではないか。こうして、沖縄におけるオリンピックの大衆動員は、聖火リレーとそれをめぐる無視すべきでないさまざまなこだわりや違和感を画一的なナショナリズムによって排除し、島ぐるみを演出し、複雑で深刻な心情を押し殺さざるをえない巧妙な舞台装置となった。この意味でも、東京オリンピツクをめぐる沖縄の大衆動員の問題はもっと掘り下げて検討すべき課題だろうと思う。【注2】

野毛の報告【注3】にもあったように、広島でも聖火は平和のシンボルとして演出さた。こうして一〇月九日に全国を四コースにわかれてリレーされた聖火は東京に到着する。この四つの聖火は、皇居前で集火式を行って、一つにまとめられる。沖縄を出発点と位置付け、皇居を集約点として演出されたこの聖火コースに政治的な意図を読み取ることは容易だろう。当日の午後六時から後楽園球場で前夜祭が行われたわだが、このことを念頭に置いたとき、集火式は後楽園球場でもよかったわけだ。それをわざわざ別に皇居前に設定したというところに、皇居前という場所に対する格別の「意味付け」が感じられる。

聖火のコースが、沖縄から皇居へという形で構成されたことには重要な意味がある。愛知文部大臣は、集火式で「この聖火はアジアにはじめてはいった歴史的な火であるとともに、沖縄の本土復帰の悲願が込められ」ていると挨拶しているように、この聖火リレーは、沖縄の「復帰運動」と巧妙に連動したものになっていた。しかし、こうした聖火のルートに込められた意味を政府も組織委員会も大衆にアピールすることには失敗したといえる。聖火が沖縄に到着したことや、沖縄現地での歓迎などの報道は、沖縄を除けばほとんど報道されなかったし、集火式の模様についても新聞の報道は地味なものだった。この意味で、聖火は、各地方での動員を媒介にして、ナショナルな一体感を形成したとはいえても、天皇や皇室——それらを象徴する皇居——を「日の丸」や「君が代」と結び付けて押しだし、国家儀礼と国家イベントの中心的な舞台回しとして穂極的に位置付けるというところには至っていない。

聖火の意味

こうしてみると、聖火は、オリンピックのなかで非常に重要な大衆動員の仕掛けとして機能したといる。しかも、聖火は、たんなる動員の道具であるだけでなく、オリンピックをめぐる「伝統」と「正統性」についてのフィクションを巧妙に生み出す格好の道具でもあった。聖火のリレーの起源は、ナチスのベルリン大会に湖れるにすぎないものだ。しかし、聖火の火を太陽から採る古代ギリシャの様式を模した儀式は、あたかもこの聖火の儀礼が古代ギリシャのオリンピックの伝統を近代に受け継いでいるかのごとき錯覚を人びとに与えてきた。こうした「伝統」による正統性の物語形成は、オリンピックが時代を超越した普遍的な価値をもつものであるという装いをもたせるのに格好の方法だ。現実には政治と不可分の国家的な行事であるオリンピックは、こうした普遍性の物語をまとうことによって、国家の意志を巧妙にカモフラージュし、アマチュア・スポーツの最高の祭典という価値をまとうことになる。

そしてまた、聖火は同時に国際的な環境の中の日本の位置に正統性を与える役割を担うものでもあった。かつてのアジア侵略、植民地支配を行った国ぐにや第二次大戦で敵国となった国ぐにを通過することを通して、聖火は国際的な関係を象徴する道具として機能しまた。国際ルートの決定に当って、朝鮮民主主義人民共和国やイスラエルについて議論になったり、アジア諸国のどの国を通過するかという選択で論議が起きたのも外交が絡むからだ。

そして、リレーという様式は、継続、継承、連続を具体的に表現するものとして聖火のコースそのものがひとつの糸のように結びつけられ、オリンピックという物語に統合きれる、そうした物語を形作りやすい形式だといえる。そして、この物語の中心に東京、なかんずく皇居が位置し、そしてまた国立競技場の聖火台が位置することによって大衆の意識をオリンピックという行事に集中させ、そこにおいて中心的な役割を担う「日本」との同一化を巧妙に演出した。このことが、少なくとも日本に住む多くの「日本国民」に「日本国民」という自覚を繰り返し喚起するための条件を作り出した。それは、上からの押し付けとしては意識されない形での、しかし国家によって巧妙に演出されたナショナリズムの喚起のためのイベントであったといえる。【注4】

また、ほとんどの競技がテレビメディァを媒体として「経験」されたのにたいして、聖火は直接触れることの可能なオリンピック経験の装置であったという点でも、大きな特徴を持っている。この意味で、大衆動員を組織する絶好の仕掛けであるといえた。この聖火の経験、それに対する地域メディアの過熱報道、それが、なかなか盛り上がらなかったオリンピックを最後になっておおきく盛り上げることになった。

しかしまた、こうした戦後の大衆動員の最後のイベントがこの東京オリンピックの聖火であった、ということもいえるのではないかと思う。東京オリンピック以後、様々な国家イベントが繰り返し行われてきたが、動員の形式は明らかに変化した。多くの人びとは、直接会場に足を運ぶという形で動員されることから、家庭の中に入り込んだマスメディアを媒介に動員されるようになった。東京オリンピックは、ちょうどマスメディア媒介型の動員と直接動員の転換点に入ちしたイベントだったといえる。【注5】


1 文部省は、高校生から社会人向けのパンフレット『オリンピック読本』(一九六三年)のなかで「オリンピックを迎える国民のあり方」として次のように「国旗」「国歌」尊重を掲げている。
「次にたいせつなことは、国旗や国歌を尊重することである。どこの国でも、ひとりひとりが、よく国旗の意義をを理解して、国旗をあげる場合でも正しくあげ、また国旗をむやみに作ってそまつな取り扱いをすることのないような慎重な態度で望まななければならない」。
ここでは、あえて「日の丸」「君が代」という表現はなく、国旗、国歌一般という形で表現されているが、大多数の人びとがオリンピックを通じて最も頻繁に接する機会を持った「日の丸」「君が代」であることを思えば、ここでの表現は実質的に「日の丸」「君が代」に対する「意義」「厳粛な態度」の強調といえる。
2 この聖火リレーの最中に、米兵による「日の丸」破損事件が起きた。こうした事件やある意味での「日の丸」フィーバーのなかで、当時布令で制限を加えられていた「日の丸」掲揚の自由を求める運動が沖縄教職員会によって「抵抗としての”日の丸”掲揚」運動として提起される。(同上、六四年九月二二日号)
3 野毛一起「リニューアルされた日の丸・天皇」、『きみはオリンピックを見たか』一九九八年 社会評論社所収。
4 総理府内閣総理大臣官房広報室は「オリンピック東京大会に関する世論訓査」を大会をはさんで前後三回(六二年一〇月、六四年三月、六四年一一月)実施している。このなかに、オリンピックは国や民族の力を示し合うものか、選手個人の技艇などを競うものか、という質問があり、前者と回答したものが鮪一回調査で四三・〇%だったのが大会が近づいた第二回調査では四八・九%に上昇している。また、大会後の第三回調査で日の丸に対する「感じ」がオリンピックで変ったかどうかをきいており、「変った」という回答が二〇%、「変らない」が七二%ある。また、日本人としての認識を新たにしたことがあるかどうかという闘問もあり、「ある」が三四%、「ない」が三五%で、「ある」の内容としては「日本の力を感じた」「愛国心を感じた」といった回答が寄せられている。これらの数字は、オリンピックという国家イベントがナショナリズムの形成にある程度の効果を持ったことを推測させるものだが、それ以上に興味深いのは、オリンピックの世論訓在にかこつけてこうしたナショナリズムや愛国心についての露骨な質問項目に、当時の政府のオリンピックについての一つの隠きれた本音があらわれている点であろう。
5 本文では、メディアそのものについて言及できなかったので、簡単な補足をしておく。マスメディアの機能と意義については日本放送協会放送世論調査所『東京オリンピック』が詳細なメディア研究と各種世論調査の分析を行っている。本書の結論部分で、「東京オリンピックは、マス・メディアの媒介によって、はじめて(ナショナル)な規模の反応をよびおこすことができた」として、三二会場の競技を一つのブラウン管に集約し、ビデオを利用して現実の時間を再編集することが可能となり、こうして構成されたオリンピックが「大部分の日本人が接触することのできた、唯一のオリンピック大会であった」ということ、「マス・メディアとくにテレビは、それ独自のオリンピック像‐‐大部分の人びとにとってはテレビ中継されたオリンピックだけが、彼らの認知と評価の対象であった‐‐を作りあげることによって、オリンピックをまさにナショナル・イベントに仕立てあげたのである。そして二四日の閉会式とともに、オリンピックがマス・メディアの素材ではなくなるのと同時に、人びと異常な興奪も急速に冷却した」と述べている。この分析は妥当なものだろう、こうしたメディアによる動員と現実の動員の関係をさらに検討しておくことが今後の課題として残されている。

出典:『きみはオリンピックを見たか』1998年 社会評論社、のちに『絶望のユートピア』(桂書房)収録

弾圧に抵抗した100年前のアーティストたち――エロシェンコと宮城与徳と大杉栄

ふくおか自由学校から転載します。

tytle1.jpgアジア太平洋戦争前から戦中まで、活動家たちは国家権力側に監視され続けました。そんな弾圧のなか、したたかに抵抗をみせた二人のアーティストたちにスポットをあてます。盲目の詩人であるワシリイ・エロシェンコと、沖縄出身の移民青年画家・宮城与徳。更に、恋と革命に生きた大杉栄にもつながるのはアナキズム、そしてエスペラント語。100年前に描かれた言葉やキャンバスが現代に蘇り、希望が投射される時間です。

問題提起 小倉利丸(おぐら・としまる)さん
1951年生まれ。経済学者、評論家。富山大学名誉教授。
専門は現代資本主義論、情報資本主義論。監視社会に対する
批判的な視点から研究・発言を続ける。
著書に『絶望のユートピア』(2017年、桂書房)など多数。

日時   2018年 6月23日(土) 開場13:30、開演14:00、終了16:30

会場   あいれふ視聴覚室
福岡市中央区舞鶴2-5-1 あいれふ8F
福岡市営地下鉄空港線「赤坂駅」3番出口より徒歩約4分

定員   66名

参加費  一般 1000円   / 学生 500円

申込み方法こちら

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プロプライエタリ社会をハックする:セキュリティー・エデュケイション

当初、インターネットは社会を変える民衆のツールとして現れたように見えました。しかし、そのツールはどのような使い方も可能なものでした。猛威を振るう資本の流れは、ドットコムバブルを引き起こし、インターネットを資本に取り込んだのです。それは資本と政府が渇望する民衆管理のツールとして発展し始め、SNSの出現によってその能力は飛躍を遂げています。同時にインターネットの自由の保護に邁進する人たちも現れています。その最先鋒である「Electronic Frontier Foundation(電子フロンティア財団)」が進めるデジタル・セキュリティー・ラーニングサイト「Security Education Companion」を参照しつつ、そのノウハウを共有しましょう。

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参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
サポーター:小倉利丸、上岡誠二

戦争を煽るJアラート

(転載に際しての前書き) 下記の文章は昨年(2017年)10月に執筆したものだ。丁度朝鮮半島情勢が緊迫していた時期に、戦争を煽る国内の動員体制の一貫としてJアラートに関心が良せられていた時期である。その後、朝鮮半島情勢の緊張が大幅に緩和されたにもかかわらずJアラートの体制が一貫して維持されている。こうした現状への批判の意味も含めて以下、文章を転載する。


現在日本政府が国内で対応している有事を前提とした「国民保護」を名目とした動員体制は、法制度の枠組も含めて、実質的には戦時動員体制といっていいものだ。この体制は、ポスト冷戦期のグローバル資本主義による旧社会主義圏と第三世界の統合過程がもたらした地域紛争と切り離せない日本の安全保障政策の変質に結果だが、その淵源は、1999年の周辺事態法に遡ることができる。「国民保護」は、2001年「同時多発テロ」を契機に日本が、対テロ戦争の参戦国として、主としてロジティクスの一端を担うことを鮮明にして以降の日米同盟の質的な変化に対応した国内体制の整備であった。法制度でいえば、2003年以降たてつづけに成立した武力攻撃事態対処関連法、有事法制関連法などだが、国民保護法(2004)もまた有事関連法に位置付けられて成立し、Jアラートはこの国民保護法を根拠として制度化された。

 

自然災害と戦争を同じ「災害」の枠組のなかで捉えて、「防災」という概念で一体化する動きは、国民保護法の制定以降顕著になってきた。そして、ここ数年、朝鮮民主主義人民共和国(以下北朝鮮と略す)によるミサイル発射実験のたびに、防災訓練などが、一気に戦争を前提とした戦災訓練へと転換してきた。毎年91日を防災の日として、この時期に繰り広げられてきた自衛隊、消防、自治体、学校、地域住民の防災組織やボランティア組織による防災訓練も、北朝鮮のミサイルへの対応を公然と掲げたミサイル防災の様相を帯びた。これまでも「防災」体制は、一貫していわゆる北朝鮮の脅威を口実として、治安維持の性格を色濃くもってきたが、昨年以降、戦争法制の整備とも連動して、自然災害に対する防災という建前をかなぐり捨てて、直截に戦争防災という様相を露骨に示しはじめたように思う。

 

通称「Jアラート」と呼ばれている全国瞬時警報システムは、消防庁が管轄しているにもかかわらず、実態として自然災害よりも治安維持を内包させた戦争対応といった性格を濃厚にもちはじめ、それに連動して消防そのものもまた、治安維持組織の性格を持ちはじめているようにみえる。

 

 銃後動員体制のインフラとしてのJアラート

 

Jアラートは、総務省消防庁側の配信設備で構成される送信局と、都道府県・市町村側の受信局で構成される。ミサイル発射など有事関連は、内閣官房から国民保護関係情報として発信され、気象庁からは気象関係情報が発信される。これらを消防庁が受け、通信衛星(SUPER BIRD B2)経由で各自治体などに配信する。その後、自治体などへの配信には、通信衛星に加えて、かの悪名高いマイナンバーカードの管理システムなどを担う地方公共団体情報システム機構が運営する総合行政ネットワーク(LGWAN)とインターネットの地上回線も加えられる。各自治体などの受信局設備でこれらの情報を受け、市町村防災行政無線、ケーブルテレビ、コミュニティFMなどに自動起動装置を介して住民に配信される。気象庁からは携帯電話会社を通じて、エリアメール、緊急速報メールが配信される。これを数秒から数十秒以内に実現しようというのがJアラートの目論見だ。

 

Jアラートと総称されているシステムは、実際にはいくつかの独立したシステムから構成されている。内閣官房からの「国民保護情報」と気象庁の災害情報それぞれが独立して有している監視と情報発信のシステム、これらを統合して運用する消防庁のシステム、通信衛星やLGWANなどを介して各自治体が受信するため受信システム、そして、この受信システムからの情報を受けて、情報の種別に応じた処理を行なうシステム、そして情報を受信すると自動的に起動して住民へ情報を配信するシステムなどに分けられる。これらのシステムは、誤作動やシステムの不具合がこれまでもあったように、決して単純な仕組みではない。

 

Jアラートの受信システムは、現在民間企業3社、センチュリー、理経、そしてパナソニックの寡占市場である。受信システムは、ミサイル発射などへのより迅速な対応のためという理由で、来年システム更新があり、パナソニックはこの市場から撤退すると言われており、将来的にはセンチュリーと理経の二者のみが受信システムを販売することになりそうだ。報道によれば現行機種は19年度以降、現行の受信システムは使用できなくなるというから、全ての自治体はシステムの更新投資を余儀なくされる。売り手にとっては、極めて旨味のあるビジネスになる。これまでも全ての市町村にもJアラートを配備するために、国の全額補助などが行なわれてきているので、受信システムメーカーの利権は大きい。適正な価格での市場競争などありえようもない寡占市場だから、まさに戦争や危機で越え太る死の商人が、戦場の兵器だけでなく、銃後の動員体制でも遺憾無く発揮されているといえそうだ。

 

災害から戦争対応へ

 

Jアラートは、設置当初自然災害への緊急避難対応を主とする位置付けだった。瑣末なことのようにみえるが、消防庁はこのシステムを立ち上げる際に「全国瞬時警報システム(J-ALERT)は、津波警報や緊急地震速報、緊急火山情報や弾道ミサイル情報といった対処に時間的余裕のない事態が発生した場合に、通信衛星を用いて情報を送信し、市町村の同報系防災行政無線を自動起動することにより、住民に緊急情報を瞬時に伝達します。」と述べていた。(『全国瞬時警報システム(J-ALERT)についての検討会報告書、実証実験結果及び標準仕様書』2006)

 

ところが最近では「弾道ミサイル情報、津波警報、緊急地震速報など、対処に時間的余裕のない事態に関する情報」というように弾道ミサイルがまずトップに表示されるようになった。いわゆる武力攻撃や有事といった事態で想定されている項目がいくつかあり、航空攻撃情報、ゲリラ・特殊部隊攻撃情報、大規模テロ情が列挙されているが、ミサイル以外の他の項目が「攻撃」を想定しているのに対して、弾道ミサイルに関してだけは「攻撃」の文言がない。そのためにミサイルに関しては、実験であれ演習であれ、攻撃でなくとも攻撃同様の緊急避難の体制をとることになる。このセコい制度上の些細な文言に、実はこのシステムの本質が図らずも露呈している。すなわち有事に対応するための、避難と動員を一体化させて、この枠組に地域住民の草の根の組織から巻き込むということである。そして、実際に、攻撃とも言い難いミサイル発射をあたかも「攻撃」ともみまがう不安と恐怖を煽ることで北朝鮮への敵意を醸成するための格好の口実として利用してきた。こうした動きに、冷静な状況判断をなすこともなく、自治体や企業が半ば自発的に巧妙に同調してきたといえる。

 

他方で、Jアラートでは、原発への攻撃や火災は想定されていても、現実に最も可能性の高い原発事故については例示すらされていない。自然災害と国民保護法が前提している武力攻撃事態のいずれにも該当しないからなのだろう。これまでの災害の実害からすれば、原発事故は地震とも連動する最も深刻な被害をもたらし、繰り返し人災としての事故を起してきたにもかかわらず、まるで原発事故など皆無であるかのような対応である。消防機関と原子力事業者との消防活動に関する連携強化のあり方検討会の「消防機関と原子力事業者との消防活動に関する連携強化のあり方検討会報告書」(http://www.fdma.go.jp/neuter/about/shingi_kento/h28/renkei_kyouka/houkoku/houkoku.pdf)をみても、原発火災を中心とした対応しか検討されていない印象が強く、とうてい東日本大震災と原発事故を正面から総括しているとはいいがたい。火災や自然害とは全く無関係といってもいい「国民保護」への消防庁の力の入れようはかなり異常なものと映る。まるで自衛隊や警察と一体となった治安機関であるかのようですらある。

 

ミサイルによる被害よりも交通事故で死亡する確率の方が格段に高いにもかかわず、この異常な危機の扇動は、言外に、日本の世論を感情に北朝鮮敵視へと誘導することになる。戦争に踏み切ることをより容易にし、改憲を必要とする立法事実を演出する上で、Jアラートは格好の舞台装置となっている。

 

戦争を回避不可能な天災とする発想

 

「国民保護」は、外部からの武力攻撃が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態(武力攻撃事態)と、武力攻撃の手段に準ずる手段を用いて多数の人を殺傷する行為が発生した事態又は当該行為が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態(緊急対処事態)に分けられている。武力攻撃事態の例示としては、着上陸侵攻、ゲリラ・特殊部隊による攻撃、弾道ミサイル攻撃、航空機による攻撃などであり、緊急対処事態の例示としては、原子力事業所等の破壊、石油コンビナートの爆破等、ターミナル駅や列車の爆破等、炭疽菌やサリンの大量散布等、航空機による自爆テロ等が挙げられている。(消防庁国民保護室「国民保護のしくみ」、消防庁ウエッブサイトから)こうした事態を一括して「武力攻撃災害」という珍妙な命名で「災害」と位置付けている。こうして戦争はあたかも天災であるかのように扱われることになる。

 

災害には幅広い意味があるが、災害基本法では異常な自然現象又は大規模な火事など自然災害を指すものとして定義されていた。こうした定義が明らかに、1990年代以降変質した。自然災害そのものも文字通りの意味で「自然」に起因するとはいえない事態であることは、気候変動が深刻化したり自然破壊という人為的な原因を抜きには語りえないことは明らかとはいえ、武力紛争や戦争は、意図的に災害をつくりだすことを目的とした行為であって、意図せざる副作用などといったものではない。にもかかわらず、台風のような自然現象は避けることができないように、戦争もまた避けようのない事態であるかのような認識を前提とした制度が国民保護法制なのである。

 

国民保護法制には、救援、救助、避難などについて国民への協力要請と称する事実上の動員の心理的な圧力も明文化され、地域防災組織やボランティア団体への支援もまた定められている。Jアラートは、こうした「国民保護」法制の枠組のなかで、これを具体的に実施する上で、必要になる緊急避難などの行動へと住民を誘導するためのインフラであるが、同時に、このシステムは、繰り返し避難訓練などにも用いられたり、今回の北朝鮮ミサイル発射に際しても発動されるなどを通じて、ある種の積極的な参加型プロパガンダの手段としても機能している。人々は、日常的に、マスメディアなどを通じて、北朝鮮への敵視感情が繰り返し醸成されるような環境に置かれているが、こうした受け身の態度からJアラートは必要な行動へと人々を促す効果をもつ。

 

実際、官民あげてのヒテリックなミサイル恐怖症を煽るような行動がとられてきた。JR東日本は列車を止め、文部科学省は、ミサイル発射の度に自治体の教育委員会を通じて小中学校など教育機関に注意喚起の通知を出し、一部の学校では休校などの措置がとられた。そして自治体レベルでのミサイル発射を想定しての避難訓練が頻繁にみられるようになってきた。

 

戦争を煽るJアラート体制への抵抗

 

北朝鮮のミサイル発射に対して、この国の住民たちに与えられた選択肢は、戦争を前提とした避難だけで、戦争を回避するという最も重要な選択肢は―あたかも台風が避けられないのと同じように―最初から放棄させられている。政府は、憲法が義務づけている国民の財産と安全を確保するために必要な措置をとっているかのような装いをとって、防災体制を正当化するが、むしろ戦争を煽る効果に軸足がある。というのも、政府はもっぱら北朝鮮に対する人々の不安感情を煽ることによって、軍事的緊張を正当化することしかしていないからだ。国民保護法制そのものが戦争(武力攻撃事態)を想定しての体制であるから、相手国にとっては、戦争を挑発されているに等しく、戦争準備のための国内体制であると解釈されてもおかしなこととはいえない。こうなればなるほどますます軍事的な緊張が高まることになる。しかも、「国民保護」の名目は、あくまで攻撃の主体は北朝鮮など他国であって、日本は一切の武力行使の挑発行為には加担していないかのポーズをとることのよって、正義の仮面を被りつづける。しかし、現実の東アジア情勢を客観的にみれば、朝鮮戦争の休戦以降、米軍は朝鮮半島から撤退せず、韓国と日本の米軍が恒常的に北朝鮮に対して挑発的な軍事演習などを行ない、日本もまた戦争のロジスティクスの一端を担ったり、あるいは偵察衛星を打ちあげるなどの挑発を繰り返してきた。挑発は双方にあるにもかかわらず、、日本のメディアは日本や米国の挑発を挑発とは報じない。東アジアからの米軍の撤退なしに北朝鮮に核の放棄を迫ることが地域の紛争解決をもらすとはとうてい思えない。

 

だから、本来、平和を希求する人々がこのような国民保護法制の制度に組み込まれることを拒否する態度をとることが重要なのだが、地域でも職場でも、徐々に国民保護体制への巻き込みが進んでいる。たしかに、現状では、Jアラートは半分笑い話のようでもあり、各自治体などのミサイル避難訓練や学校の休校措置なども、過剰反応ではないかという素朴な実感をもつ人々も少なくないが、こうした動員体制は、マニュアル化され、各組織ごとに詳細な防災計画が策定され、担当者が置かれることによって、動員が「仕事」とされ、万が一被害があったときの責任問題を恐れて、各組織ともに過剰な同調行動ばかりが促されて、こうした危機扇動体制への疑問や批判の意思表示すら抑え込まれる雰囲気が蔓延しはじめている。他方で「北朝鮮は何をしでかすかわからない国」という「話し合ってもムダ」とい感情的な嫌悪と不安の感情も広くみられるように思う。こうした感情がヘイトスピーチや排除だけでなく、文字通りの「戦時」となれば、暴力的な敵意にすらなる危険性がある。米国は真珠湾攻撃の後、本土への攻撃はなかったものの、米国在住の日本人をことごとく収容所に収容したように、具体的に目の前には危険な事態などなくとも、排除と敵意は、権力者が煽る不安に支えられて拡大する。その結果として、レイシズムをナショナリズムの名において正当化するような事態が起き、敵対的な感情の対立が、東アジア全体の民衆相互の分断ばかりか、国内の民衆相互の分断と敵対関係を形成し、こうした事態が治安維持活動に口実を与え、警察権力の肥大化に帰結する。こうし一連の動きにJアラートのようなアクティブ型の動員・誘導のシステムは最も効果を発揮してしまうかもしれない。

 

武力攻撃事態や有事への対応などという事態を想定することが現実主義的な政策対応だという誤った考え方がある。しかし、いかなる意味においても、国家が軍事力に依存した解決を図るとき、人々の安全が保障されたためしはない。この列島に暮す人々の安全と安心を確保するための必要条件は、この地域の軍事的なリスク要因を除去すること以外になく、それは、この地域からの米軍の撤退と日本国家の非武装という戦後のラディカルな平和主義が掲げた原点を堅持すること以外にない。どのような事態になろうとも、私たち一人一人が、政府の政策や思惑への同調を拒否して、武力行使は私たちの選択ではないという立場を堅持するという反戦平和運動の原則が再確認されるべきだろう。

(初出『季刊・ピープルズプラン』78号 2017年11月)

 

集会ご案内:5月12日(土)「安倍改憲」と「祝・明治150年」問題

手前味噌ですいません。以下、主催者からの案内を転送します。
お近くの方は是非いらしてください。わたしは憲法学者ではないので憲法
学的な話は一切しません。(できません) 突っ込みどころ満載な話しにな
ると思います。

2018年度 第1回「集い」 ご案内
「安倍改憲」と「祝・明治150年」問題
「安倍改憲」の強い意欲と、この「明治150年記念」キャンペーンをつなぐ串刺しは何?何やらら「におい」を感じませんか?
憲法記念日後ですが、論説・問題点指摘をいただき、共に考え交流してみませんか。
ぜひ、ご参加を!
■日 時 5月 12日・土  13:30~16:30
■場 所 市川市文化会館(下図参照) 第5会議室
■お 話 小倉利丸さん (富山大学名誉教授)
<プロフィール> 1951年~  東京都生れ 法政大学卒 東大大学院経済学研究科中
退 経済学者(現代資本主義論) 現代社会論研究者 教育者 評論家
富山大学経済学部教授(2005年~)
(著書)「多様性の全体主義・民主主義の残酷 9・11以降のナショナリズム」(2005年 インパクト出版社)「抵抗の主体とその思想」(2010年 インパクト出版社)  <共著>「東アジア 交錯するナショナリズム」(2005年 社会評論社) <編著>「危ないぞ!共謀罪」(2006年 樹花舎)

◇資料代   500円     4/19現在、安倍首相(内閣)の
「行政私物化」汚濁、官邸一強に蠢く財務省の「忖度政治」、防衛省の
「公文書」隠蔽他のモラルハザード等が、自浄作用の力なく多くが外部か
らの指摘が風穴を開けるという無様を晒し、「内閣総辞職も時間の問題」
との声も上がる情勢に。その渦中の安倍首相が政治的意欲を燃やし続ける
「憲法改悪」のタイムスケジュールが公表され、とりわけ「9条改悪」
(「新安保法制」下の現自衛隊の明文化)の是非が、私たち国民ひとりひ
とりに問われようとしています(国民投票)。安倍首相の「改憲」論拠は、
一貫して「戦後レジュームからの脱却」(=押し付けられたとする現「日
本国憲法」の否定)にあり、その基本理念は2012年の「日本国憲法改
正草案」に如実であり、「明治憲法」復活を想起させる内容と言えます。
その一方で安倍政権は今年、大々的な「明治150年記念事業」を計画し
ているといいます。官邸HPには「明治以降の歩みを次世代に残すことや、
明治の精神に学び日本の強みを再認識することは、大変重要なことです。」
「次世代を担う若者にこれからの日本の在り方を考えてもらう契機とす
る。」などとあります。

主催・戦争はいやだ!市川市民の会

声明 知的財産戦略本部・犯罪対策閣僚会議による「インターネット上の海賊版サイトに対する緊急対策」に反対する。

以下、JCA-NETの声明を転載します。海賊版サイトへのブロックの問題はこの声明のなかで指摘されていますが、こうしたブロックが公権力とプロバイダーによって恣意的に行なえる土台が構築されかねない極めて危惧すべき政策だと考えます。


声明
知的財産戦略本部・犯罪対策閣僚会議による「インターネット上の海賊版サイトに対する緊急対策」に反対する。
2018年4月23日
JCA-NET理事会
東京都千代田区外神田3-4-10 神田寺ビル4階D
問い合わせ先
小倉利丸(理事)
toshi@jca.apc.org

4月13日、政府の知的財産戦略本部・犯罪対策閣僚会議は「インターネット上の海賊版サイトに対する緊急対策(案)」を公表した。(以下「緊急対策案」と呼ぶ)

この緊急対策案は「昨今運営管理者の特定が困難であり、侵害コンテンツの削除要請すらできない海賊版サイト(例えば、「漫画村」、「Anitube」、「Miomio」等のサイト。)が出現し、著作権者等の権利が著しく損なわれる事態となっている」と現状を分析した上で、「インターネット・サービス・プロバイダ(lSP)等による閲覧防止措置(ブロッキング)を実施し得る環境を整備する必要」を提言するものになっている。

「緊急対策案」は、ブロッキングが憲法第21条第2項、電気通信事業法第4条第1項に定められている「通信の秘密」条項を「形式的に侵害する可能性がある」こと、また憲法21条の表現の自由への影響を「懸念」するとした上で、敢えて刑法でいう緊急避難(刑法第37条)に該当する案件であるとして、「違法性が阻却」されるという立場をとった。

JCA-NETは、この緊急対策案に対して明確に反対の態度を表明するとともに、この緊急対策案の撤回と、ブロッキングを合法化する法整備に反対する。以下、その理由を述べる。

(1)憲法で保障されている私たちの権利を侵害する政策であること。「緊急対策案」は、政府が自らの政策の策定によって憲法に保障された基本的人権を制約できるという憲法理解を前提にしている。政府は、憲法が定めている私たちの基本的人権としての通信の秘密や言論・表現の自由を尊重すべき義務を負うにもかかわらず、むしろ、その義務を放棄し、逆に私たちに権利の放棄を強いるものである。「海賊版」問題が現在いかなる状況にあろうとも、私たちの通信の秘密や言論・表現の自由を制約する理由にはならない。

(2)ブロッキングはアクセスの犯罪化に道を開きかねない。「緊急対策案」は、いわゆる「海賊版」サイトの閉鎖やコンテンツのアップロードの犯罪化ではなく、アクセスするユーザをブロックという手段を用いて事実上の行政処分と同等の効果を持たせようとしている。海賊版対策としてウエッブサイトを停止させる強制措置は、米国で2011年にSOPA法案(Stop Online Piracy Act、海賊行為防止法案)として立法化が図られたが、検閲に反対する大規模な運動が国際的に起き、頓挫した経緯がある。日本政府はこの経験を踏まえて、米国などに拠点を置くサイトを標的にするのではなく、日本国内のユーザをターゲットにしてその権利を制限する措置にでた。日本政府に従順なISPと市民的自由の権利意識が低いこの国のユーザたちなら容易に飼い馴らせると踏んだに違いない。なんとも馬鹿にされたものだ。日本のユーザは怒らなければいけない。アクセスは権利であり犯罪ではない。アクセスのブロックこそが憲法に保障された権利を侵害する権力犯罪である。

(3)ISPに違法行為を行なわせ、政府の管理下に置く政策である。「緊急対策案」は、ブロッキングをISPなど「あくまで民間事業者による自主的な取組として、民間主導による適切な管理体制の下で実施されること」としているが、これはISPを政府の管理・監督下に置く体制を構築することになる。ISPは憲法と電気通信事業法が保障している私たちの通信の秘密を遵守する責任を負う。ISPが逆に、この責任を放棄させられて通信の秘密を侵害し検閲行為を行なうことになれば、明かな違法行為の当事者となる。政府公認の犯罪がまかり通ることになる。ISPはユーザのプライバシーや通信の秘密を技術的にも保障すべきであり、政府の検閲の手先となるような政治的な圧力に屈するべきではない。

(4)ネットアクセスの監視を恒常化させ、自由なコミュニケーションを阻止することになる。サイトブロッキングでは、ネットのサイトアクセスをISPが監視し、違法性のあるコンテンツへのアクセスを検知した場合に、当該サイトへのアクセスをブロックすることになる。ISPは常時ユーザの行動を監視する一方で、アクセス先のコンテンツの違法性を判断してブロックを実施する。どのサイトを違法と判断するのかを個々のISPに委ねることは現実的ではないから、結局は政府が著作権等の業界団体を巻き込みながら、違法サイトの判断において主導権を握ることになるだろう。個々のISPは、政府や業界団体の指導のもとでユーザを監視する役割りを強いられる。このような体制のなかでユーザは、常に契約先のISPに監視の目に不安が感じなければならず、ネットにおける自由なアクセスやコミュニケーションを阻害されるようになるのは明かだ。

(5)ISPはユーザのプライバシー情報を政府に提供する目的で保有せざるをえなくなる。通信の秘密を保持するために、ISPは必要のないユーザの個人情報を保持すべきではない。しかし、ブロッキングが実施されることになれば、ISPは将来の訴訟等を前提にしてユーザのアクセスログなどを蓄積しなければならなくなる。しかも、このプライバシー情報は、政府や捜査機関等に開示することを目的として保持するということになる。言論・表現の自由は権力に対してプライバシーの権利、コミュニーションの自由が確立していることが大前提である。政府によるプライバシー情報の把握体制は、この前提そのものを崩すことになる。

(6)監視のない自由なコミュニケーション技術もまた規制される可能性がある。この制度が実効性をもつためには、ISPがユーザの行動を把握できないような技術をユーザーが用いることを規制する方向へと向いかねない。VPNの利用や端末間(エンド・ツー・エンド)の暗号化された通信、アクセス先を秘匿できるネットワークサービスなどがことごとく規制される恐れがあるなど、政府が把握できないようなユーザのネットでの行動が網羅的に規制されるか違法とされる恐れがある。

(7)より一般的なサイトブロッキングに道を開く危険性がある。サイトブロッキングはこれまで児童ポルノに限定されてきたが、それが今回は「海賊版」に拡大されたのであって、こうした規制拡大の傾向を踏まえると、サイトブロックの手法が今後も更に拡大される可能性があると言わざるをえない。「緊急対策案」は、当面の措置として、「『漫画村』、『Anitube』、『Miomio』の3サイト及びこれと同一とみなされるサイトに限定してブロッキングを行うことが適当」としているが、将来はこの限りではない。政府は、刑法の緊急避難条項を拡大解釈し、司法の判断も立法措置もなしで、政府が独断で違法と判断したサイトへのアクセスをブロックできるとした。これは、緊急避難条項の拡大解釈であり、法の支配をないがしろにする行政府の明かな暴走である。現政権は、権威主義的な改憲、秘密保護法、安保関連法制などの戦争法制、盗聴法の改悪、共謀罪新設、2020年の東京オリンピックを念頭においてのサイバーテロ対策など、立て続けに人権をないがしろにする法律や政策を打ち出している。共謀罪のようなコミュニケーションの犯罪化の法律を念頭に入れたとき、また世界各国の独裁的権威主義的な政府のネット規制の現状を踏まえたとき今回の海賊版問題への対処と同様の手段を用いて、違法行為の疑いを理由に、政府への異論や反対運動がブロックされる恐れがある。

(8)「緊急対策案」は政府の人権侵害を正当化し、憲法をないがしろにする法制度への道を開く。政府などの公権力による干渉や監視によって、その自由が侵害される危険性がどこの国でも高まってきている。インターネットにおけるコミュニケーションの自由は、ISPが通信の秘密を遵守しユーザのプライバシーの権利を最優先とすることでその自由なコミュニケーションが保障されるものだ。しかし、この体制は、公権力による介入や干渉に対しては脆弱だ。「緊急対策案」はまさに、コミュニケーションの自由を侵害する典型的な公権力による介入である。緊急対策として導入された制度が既成事実となり、それが立法事実としての口実を与え、結果として憲法をないがしろにする法制度を正当化する恐れがある。このような一連の流れに道筋をつけさせないためにも「緊急対策案」には断固として反対する。

以上の声明は下記を参考にして作成された。

知的財産戦略本部
第4回 検証・評価・企画委員会『模倣品・海賊版対策の現状と課題』内閣府 知的財産戦略推進事務局
http://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/tyousakai/kensho_hyoka_kikaku/2…
「インターネット上の海賊版サイトに対する緊急対策」(案)(概要)
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/180413/siryou1.pdf
「インターネット上の海賊版サイトに対する緊急対策」(案)
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/180413/siryou2.pdf
インターネット上の海賊版サイトに関する進め方について別ウィンドウで開きます
https://www.kantei.go.jp/jp/singi/titeki2/180413/siryou3.pdf

各団体が出した声明
一般社団法人インターネットユーザー協会
主婦連合会
「政府による海賊版サイトへのブロッキング要請に反対する緊急声明」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1804/11/news113.html

一般社団法人インターネットコンテンツセーフティ協会
(理事団体)
一般社団法人日本インターネットプロバイダー協会
一般社団法人テレコムサービス協会
一般社団法人電気通信事業者協会
「著作権侵害サイトへのブロッキングに関する声明」
http://netsafety.or.jp/news/info/info-026.html

一般社団法人モバイルコンテンツ審査・運用監視機構
「インターネット上の漫画海賊版サイトのブロッキング要請に対するEMAの意見」
http://www.ema.or.jp/press/2018/0411_01.pdf

情報法制研究所(JILIS)
「著作権侵害サイトのブロッキング要請に関する緊急提言の発表」
https://www.jilis.org/pub/20180411.pdf

私たちのサイバーセキュリティを! 共謀罪で萎縮しないための実践セミナー

以下の文章は4月2日に開催された同名の集会で配布したものです。発言の機会を与えてくださった主催者に感謝します。

1 はじめに

共謀罪反対運動は、下記のような批判を共謀罪に投げかけてきました。

「普通の市民団体や組合が組織的犯罪集団に!!
政府・法務省は、共謀罪はテロリスト集団や組織的犯罪集団が対象であり、普通の団体には適用されないといっていますが、これはウソです。法案には組織的犯罪集団とはどういう集団なのかなどの規定はありません。市民団体、組合、会社などの団体のメンバーが一度共謀したと判断されればその団体は組織的犯罪集団とされます。共謀罪は思想・意見・言論を処罰し、結社=団体を規制する、現代の治安維持法です。(2017年4月6日 日比谷集会呼びかけ)」

わたしは、こうした反対運動が提起した共謀罪反対の危惧を、共謀罪推進側が言うような、単なるプロパガンダだとは考えていません。皆さんもまたそうだと思います。わたしたちが市民的な自由や人権のために闘えば闘うほどわたしたちは組織的犯罪集団とみなされることになる。そうした環境のなかにいるのだ、ということを冗談でも誇張でもなく受け止めて、闘い方に創意工夫をこらすことが必要になってきたのです。

1.1 治安維持法の時代との違い

共謀罪は治安維持法の再来として批判されてきましたが、実態は戦前とはかなり違ってきています。特に、インターネットなどのコンピュータを介したコミュニケーションが与える影響は戦前にはないものです。実世界の私たちの行動にへばりついて、四六時中監視することはさほど意味のあることとは考えられません。私たちがどこにいるのかは、尾行しなくても常時持ち歩くスマホのGPSが教えてくれます。車に載ればNシステムが追跡する。ネットのメールやSNSでのコミュニケーションは通信事業者のログでほぼ把握できます。ウエッブで内閣、警察、自衛隊から企業までどこをチェックしても、必ず相手のサーバはこちらの行動を伺う技術を持っています。街中の監視カメラも次第に、ネットワーク化され、顔認証システムが搭載され、データベースと連動するようになっています。

膨大なデータを処理するのも人間ではなくコンピュータです。たった1ギガのメモリに日本語A4で40万枚から100万枚もの文書が収録できるのです。8ギガのメモリがたったの1000円程度です。しかも、政府やマスコミが警鐘を慣らす「サイバー攻撃」なるものの攻撃者になっているのは、どこの国でも政府、警察、軍隊であり、その攻撃の的は国内にいる反政府運動活動家や人権活動家なのです。

1.2 共謀罪でどのようにリスクが拡大したか

共謀罪は思想・信条を処罰する法律です。共謀罪の処罰を恐れて、私たちが思想・信条を曲げたり、反政府運動から撤退するようなことがあってはならないわけですが、同時に、共謀罪の成立によって、従来であれば違法とはみなされなかった事態が違法とされるために、捜査機関による捜査や検挙といった弾圧の可能性が拡がったことも事実です。共謀罪が前提にしているのは、会議などの議論が政府にとって不都合な異議申し立てや反政府運動などに繋ることを恐れています。他方で私たちは、行動の正当性を確保するために、仲間や多くの人たちと議論を重ね、合意を形成する過程を大切にしなければなりません。

もし、捜査機関などが、共謀罪の捜査を口実に、私たちの会議や議論の場に同席することがあるとしたら、私たちはそれでも自由な議論ができるでしょうか。言うべきことも言えなくなって沈黙する人、会議などにそもそも参加することを躊躇する人、権力の顔色をうかがいながら権力におもねるような発言をする人など、議論そのものが自由であることを阻まれて歪められるのではないでしょうか。もちろん、警察がいようといまいと、検挙される危険があろうとも、自由に自分の意見を言えるタフな人もいるに違いありません。しかし、多くの人々はそれほどタフではないのではないかと思います。

1.2.1 匿名であることの大切さ

たとえば、選挙の場合を考えてみましょう。私たちの社会では思想・信条の自由が憲法で保障されているにもかかわらず、選挙で誰に投票したのかを人に知られないように無記名で投票します。なぜ正々堂々と自分が誰に、あるいはどこの政党に投票したのかを言えないのでしょうか。自分の思想・信条を自由に表明し、その結果としていかなる意味でも社会的な不利益を被ったり差別や偏見にさらせれない社会ができない限り、無記名投票は民主主義を支える重要な条件です。「匿名」であることが自由を保障する重要な前提条件であるということは、選挙だけでなく一般に言いうることです。

あるいは、マイナンバー制度のように個人のプライバシー情報を網羅的に把握可能な仕組みは、思想・信条の自由など基本的人権が保障されているのであれば、政府がどのような個人情報を把握しようとも恐れることは何もないと言えるでしょうか。

1.2.2 萎縮効果は厳しいものがある(たとえばデモの場合)

あるいは、日本では、デモをするときに「デモ申請」なる手続を警察にする必要がありますし、デモコースやデモの時間、デモの隊列の組み方などをこと細かに指定されます。本来、デモも言論・表現の自由に属することですから、こうしたデモ申請という手続きやデモの規制は人権侵害ですから、こうした人権侵害のルールは無視してもいいはずです。しかし、実際にはなかなかそうはならず、無届けデモによる弾圧を恐れて(萎縮効果ですが)、デモ申請をし、デモの主催者もまたデモの参加者にルールを守らせるための一定の秩序維持の体制をとります。このように、私たちの自由は、憲法が謳うほど確固たるものではありません。非常に脆弱で、萎縮効果を繰り返し受けながらじりじりと自由の領域を狭めるように後退してきたのではないでしょうか。

1.2.3 警察の監視下で自由な議論はできない

このように、共謀罪がない時代であっても、萎縮しないで闘うことは決して容易なことではありませんでした。萎縮しないで闘うことは、決意表明の問題ではないと思います。今まで以上に厳しい状況を耐えながら断固として闘い続けることが必要になってしまえば、運動は大衆化せず、戦闘的な活動家たちが大衆から孤立して闘うことしか残されなくなります。社会を変える運動が大衆的な広がりを獲得するには、人々が自由闊達に、政府や権力や権威を批判あるいは否定し、未だ実現しえない社会を構想しながら、政府に対抗する日常生活の場を創出できなければなりません。このような議論の場を政府や警察の監視や圧力によって歪められないように防衛することは、私たちの基本的人権を確実なものとするために必要なことです。そして、その防衛の手段と方法は、政府や警察がどのような強制力をもって私たちの自由を奪いうるのか、という彼らの力の基盤によって規定されます。共謀罪がない時代と比べて共謀罪がある時代は、私たちがとるべき防衛の手段もまた、この悪法による影響を排除するための、今まではさほど重要とは思われなかったような条件を念頭に置いて再構築することが必要になります。

2 ネットやパソコンによるコミュニケーションと共謀罪

共謀罪の容疑を裏付けるためには、捜査機関は、実行行為以前の「話し合い」の段階での情報収集を行なう必要があります。「話し合い」の内が共謀罪に該当するのはかは、まだ検挙、起訴、裁判の実績がないので不明ですが、捜査機関や検察、裁判所が決めることになり、私たちは、「もしかしたら共謀罪で立件されるかもしれない」という不安を持てば、それが萎縮に繋ります。

2.1 これまでの捜査機関の強制捜査を踏まえると…

会議、メーリングリスト、メールでの意見交換などは一体のもので、ネットでのコミュニケーションと現実に顔を合わせての会議とが有機的に組合されて実行行為に必要な合意形成が行なわれると思います。これらの議論全体が捜査機関によって共謀を裏付ける証拠として強制捜査や潜入捜査、監視や盗聴の対象になるでしょう。裁判所もまた、共謀罪を前提として、強制捜査の令状を幅広く発付するでしょうから、共謀罪によって捜査機関は広範囲にわたって従来にはない捜査権限を手にすることになります。

従来から捜査機関による捜査の常套手段として次のようなことが行なわれてきました。

  • 家宅捜索におけるパソコン、住所録、メモなどの押収
  • 集会会場などの張り込み(場合によっては潜入)
  • デモでのビデオや写真撮影
  • 尾行
  • 職場などへの嫌がらせ的な聞き込み

以上のような捜査機関の行動は私たちにもある程度把握できますが、把握できな活動として以下の活動が行なわれています。

  • 盗聴法に基く通信の盗聴
  • プロバイダや金融期間などが取得している個人データの取得(任意あるいは令状による)

これらは、いずれも捜査に協力した(させられた)通信事業者は、当該のユーザに捜査機関による捜査があったことを告知してはならないという守秘義務が課せられるので、私たちには全く知らされません。これらを通じて、従来の捜査では、活動家の人間関係を洗い出すこと、住所録などから、職業や住所などの個人情報を取得すること、組織での役割りを特定することなどに使われてきたのではないかと推測されます。

2.1.1 捜査機関は共謀罪捜査でどのような「証拠」を欲しがるのか

共謀罪によって、捜査機関は、実行行為そのものだけでなく、「話し合い」が犯罪とされることから、捜査機関はこれまで以上に、保管されているデータの内容に関心をもつようになります。たとえば

  • 会議録や会議メモ どのような議論がなされ、誰が発言したのかなど。音声データがパソコンに残されている場合も多いと思います。
  • メーリングリスト 誰が何を発言したのか。メーリングリストのメンバーはだれか。
  • 会計関連のデータ。誰がカンパや会費を納入しているか。

こうしたデータを相互につきあわせながら、共謀罪に問えるターゲットを絞ることになるのではないかと思います。多分こうしたデータを長い期間にわたって膨大な分量を蓄積してデータベース化するだろうと思われます。ビッグデータの時代ですから、データがいかに膨大であっても、その解析技術も高度化しているので、膨大なデータであること自体は全く支障がありません。

捜査機関は、強制捜査だけでも運動への多きな威嚇になることを知っていますから、共謀罪で立件しないとしても、何年かたって共謀罪で立件されるといった事態になるための証拠を積み重ねるということになるでしょう。

裁判所の強制捜査を拒むことはほぼ不可能でしょう。プロバイダーが私たちの個人情報を提供したとしても、それが法令に基くものなら避けられないでしょう。実はもっと悪いことに日本のプロバイダーは法令に基づかない場合でも、任意で個人情報を提供する余地を残すような曖昧な「プライバシーポリシー」を掲げているのが一般的です。

2.1.2 どのようにして仲間や支援者たちのプリアバシーを防衛するか

私たちのパソコンにあるのは「私」の情報だけではありません。私のパソコンのデータのなかには、私宛に送られてきた知人、友人、あるいは活動仲間のメールや意見、思想・信条にかかわるものの含まれています。こうした第三者の思想・信条を「私」のパソコンを踏み台にして捜査機関が取得することになります。

米国の捜査機関は、捜査対象となっている人物の人間関係を「三等親」まで追跡すると言われています。つまり、私と直接コミュニケーションをとっている相手、その相手がコミュニケーションをとっている相手、さらにその相手がコミュニケーションをとっている相手まで追跡するというのです。たった1台のパソコンから把握できる情報は膨大なものになります。私個人の思想・信条が捜査機関に把握されるだけならいざしらず、何の強制捜査の対象にもなっていない人たちの個人情報まで取得されてしまうことを、萎縮しないで闘うぞ!という決意表明だけで済ますわけにはいかないと思います。

2.2 何がもできないのだろうか?

強制捜査の権限をもつ捜査機関に対して、私たちは何もできないのでしょうか?巨大な権力をもつ監視社会を敵に回して私たちは、それこそ完全に無力なのでしょうか?そうではありません。

2.2.1 私たちがすべきこととは

何はともあれ、私たちが挑戦しなければならないのは、次のような事柄です。

  • 強制捜査を拒否することはたぶんほとんど不可能だろうと思います。パソコンなどの押収は裁判所の令状があれば拒否できないでしょう。しかし、押収されたパソコンのデータに捜査機関がアクセスしようとしても技術的に困難であるような仕組みを使うことはできないものでしょうか?
  • 私たちが知らないうちに、プロバイダーなど私たちが契約している通信事業者が個人情報やメールを提供してしまう場合があります。しかし、捜査機関が押収したメールが捜査機関には読めないというような仕組みを使うことはできないのでしょうか。
  • たとえプロバイダーのメールや個人情報が押収されても、私たちは今まで通り必要な議論や運動のための戦略や戦術を議論しながらも、そもそもそこには肝心の共謀の容疑を裏付けるような捜査機関が欲しがるようなメールやデータが存在しないということは可能でしょうか。

これらはいずれも可能なのです。そしてその可能性については、広く知られてもいます。たぶんこうした技術の利用で最も先端をいっているのは企業でしょう。顧客の個人情報が漏洩しないように防御すること、競争相手から自社の社外秘の技術や経営戦略などを防御すること、国内外の本店と支店などとの間で盗聴などされないでコミュニケーションをとりこと、こうしたことが保障できるコミュニケーションの技術はインターネットのなかに長年にわたって確立されてきています。それを市民運動などは使ってこなかったのです。

2.2.2 世界中の活動家、ジャーナリスト、弁護士などの経験から学ぶ

世界中には、独裁的で抑圧的な国が多くあります。そうした国でもねばり強く抵抗運動を展開する人々や人権活動家、弁護士やジャーナリストがいます。当局の追跡や監視を逃れてネットにアクセスし情報を発信しつづける人々の数は決して少くありません。こうした人々はどうやって自分たちの言論の自由を確保しているのでしょうか?逮捕覚悟で、発信者や発信場所が特性できるような方法で発信しているのでしょうか?敵に知られずに情報発信を持続させることや、コミュニケーションを行動へと繋げる工夫を技術的なことも含めて、皆が必死になって模索しています。こうした人々の経験や知恵に私たちも学ぶべきではないでしょうか。

萎縮しないことは大切ですが、今まで通りの情報発信のスタイルを維持するのであれば、それは、私だけでなく仲間や支援してくれている人々皆をリスクに晒すことになります。こうした仲間を守り、コミュニケーションの回路を確保すること、そのために出来うる最大限のことを実践すること、それが今必要になっていることだと思います。

本日の集会では、次に二つについて、やや具体的にお話をして、当局の監視を排除して私たちの自由な空間を確保するための具体的な方法についても概略をお話します。

2.3 パソコンとネットのセキュリティの基本認識

パソコンであれネットであれ、わたしたちのセキュリティを防衛する手段の基本は、匿名性の確保と「暗号化」です。これ以外の方法はないと思ってください。

パソコンとネットのセキュリティについて次の点を常に念頭に置いてください。

2.3.1 メールは誰でも見ることができる。

宛先の人以外には絶対に知られたくないメールは電子メールで送るべきではありません。電子メールは契約しているプロバイダーのメールボックスに蓄積されます。プロバイダーのメールサーバの管理者はこのメールを読むことができます。インターネットは多くのサーバを経由して世界中と繋っています。場合によっては配送経路の途中で盗聴される危険もあります。

対策としては、重要なメールのやりとりは暗号化するか、自分の契約しているプロバイダーを使わずに、暗号化メールサービスを提供しているサイトを使う。暗号化メールサービスのサイトは世界中にいくつかありますが、以下のサイトは日本語の解説があります。

protonmail

https://protonmail.com/jp/

無料で登録ができます。個人情報は一切必要ありません。パスワードを紛失したときの回復に使うメールアドレスを別途一つ用意する必要があります。

インターネットの途中の経路での盗聴を防ぐ基本的な方法はVPN(バーチャル・プライバシー・ネットワーク)を使うことでしょう。このサービスは、多くの企業などが普通に利用しているものなので、サービスもいくつもあります。

2.3.2 パソコンのデータを暗号化する

パソコンのログインパスワードは気休めでしかない。パソコンの電源を入れたあとで、パスワードを入力しないとアクセスできないように設定していても、これはセキュリティとしてはほとんど意味がありません。このパスワードを回避してデータにアクセスすることは比較的容易です。

パソコンのデータを暗号化するには二つ方法がある。

  • ハードディスク全体を暗号化してしまう。(電源を入れたときに、ハードディスクの暗号は復号化する鍵を入力したあとで、通常のログインパスワードを入力する)
  • 暗号化して保護すべきデータを個別に暗号化する。住所録とか会議録など第三者に見られたくないデータを個々に暗号化する。

上記の二つを併用することもできる。

2.3.3 匿名でネットサーフィンする

インターネットのウエッブにアクセスするときは、かなりの個人情報が相手に取得されていると覚悟する必要があります。テレビと違って、自分の目の前にあるパソコンとアクセス先のホームページを運用しているコンピュータとの間では非常に多くのデータのやりとりがなされています。相手は私の固有名詞を知ることができない場合もありますが(ショッピングサイトでは固有名詞も判明してしまうでしょう)、調べることは不可能ではないと考えた方がいいでしょう。

最も有名な匿名でのウエッブアクセスの手段は、Torブラウザと呼ばれるホームページ閲覧ソフトを使うことだろう。このソフトは捜査機関が「闇サイト」にアクセスするために用いられているなどという風評を流して、その使用を抑制したがっているもの。しかし、これはネットでの尾行を阻止するためには必須の道具でしょう。

3 最後に:実際に日常のパソコンとネットで使えるようになることが大切

共謀罪の「効果」は長期にわたる捜査機関による情報収集と思わぬ時に思わぬ容疑で検挙や摘発へと向う危険性のあるものです。安倍政権が特に危険な政権なのではなく、今後どのような政権になろうとも共謀罪などの治安立法がある限り、警察は私たちへの弾圧の手を緩めることはないでしょう。私たちは、これに対して、出来る限りの方法で私たちの基本的人権を守るための手立てをとらなければなりません。悪法を廃止するには、大衆的な運動が必須です。その運動はどのようなものであれ、明確な反政府運動です。政府に抗うことなしに私たちの権利を回復することはできないからです。そしてこうした運動そのものを潰すことが共謀罪をはじめとする治安立法の趣旨でもあるわけですから、こうした悪法に立ち向かうことができる技術を持つこと必要でしょう。

なによりも、まず、私たちが日常的に使っているネットやパソコンの習慣をこうした共謀罪の時代に対応して変えなければなりません。コミュニケーションのライフスタイルを変えることは実は非常に難しいのです。つい慣れ親しんだこれまでと同じ環境でも大丈夫なのでは、と油断してしまいがちです。

今日の集会が終ってからが本番です。みなさんが帰宅し、まずやるべきは、自分と仲間のコミュニケーションを守り抜くために、できるこを始めることです。暗号化と匿名性を確保したネットとパソコンの利用へと是非一歩一歩進んでいってください。

3.1 (補足)わたしは何をやってきたか

共謀罪が成立して以降、上記のような危惧を抱いてわたし自身がやったことは下記です。(ネットやパソコンに関連して)

  • パソコンのデータのセキュリティの強化。(ハードディクスの暗号化)
  • クラウドサービスの見直し。(Dropboxから有料のTresoritに変更)
  • モバイル環境の見直し(タブレットの暗号化)
  • 暗号化メールサーバのサービスの利用
  • 匿名性を重視したブラウザの導入
  • VPNの導入(有料)
  • 一部のメーリングリスト管理のサーバの引越しと利用頻度の低いメーリングリストの廃止
  • 共謀罪を念頭にしたプライバシーの権利を具体的に防衛するツールの紹介サイトの開設
  • プライバシーとセキュリティについての実践セミナーの開催

まだ取り組めていないこと

  • まだ引越しできていないメーリングリストがある
  • プロバイダーの見直し作業(よりプライバシーの権利を重視するプロバイダーへの変更)
  • 何年も使用していない古いパソコンや記憶媒体のデータの保護措置

まだまだ不十分なのですが、できるところから、ネットの情報を調べたり、セキュリティの本を読んだり、パソコンやネットの初歩的な技術を学んだりしながら、右往左往しながら取り組んできました。

こうしたことは反対運動に取り組んでこられた皆さんそれぞれがなさっていることと思います。本日の集会はこれまでの対抗的な取り組みの知恵を出し合い、知識を共有しながら更に強固な私たちのプライバシーの権利を防衛するための相談の集まりにしたいと思います。

3.2 (補足)anti-surveilanceのウエッブ紹介

 

私たちのサイバーセキュリティ講座 共謀罪で萎縮しないために

市民活動、組合、会社などの団体のメンバーが一度共謀したと判断されれば、その団体は組織的犯罪集団とされます。私たちは、そうした環境の中にいるのだということを、冗談でも誇張でもなく受け止めて、闘い方に創意工夫を凝らすことが必要になってきたのです。

お話し: 小倉利丸さん (おぐら としまる)
批評家。専門は現代資本主義論、情報資本主義論。富山大学名誉教授。
共謀罪に対抗して私たちの自由を防衛するためのサイト
https://antisurveillance.researchlab.jp/
著書:『絶望のユートピア』 (桂書房) 共著:海渡雄一『危ないぞ共謀罪』(樹花舎)

2018年4月2日(月)19:00〜21:00
中野区産業振興センター2階セミナールーム1(45人)

施設概要・アクセス


会場の都合で先着順
資料代:500円
共催:安倍政権にNO!東京・地域ネットワーク
草の根市民広場
問合せ: 090-8311-6678

Good bye 商用SNS!! Kick out リーガルマルウェア!!

facebookは5000万件の個人データを不正にCambridge Anaryticaという調査会社に渡し、このデータが米国大統領選挙のために不正使用させた疑いがもたれています。トップのザッカーバーグは、不正行為を認めて謝罪する事態にまで発展し、facebookボイコット運動が拡がりはじめています。他方で、昨年以来、米国ではあらためて政府捜査機関による合法的なマルウェアを利用して大量の個人情報を盗み出す捜査手法に批判が集っています。ここ日本では、民間のビッグデータを扱うIT産業とマイナンバーのような個人情報を一元的に管理する政府のシステムとが私たちのプライバシーやコミュニケーションの自由を脅かす危険な状況になっています。4月のセミナーでは、こうした事態について簡単に概要を参加した皆さんと共有しながら、自分の使っているパソコンやコミュニケーション環境をどうしたらいいか、具体的な対策を議論します。

・facebookのボイコットをマジに議論します。金儲けや国家安全保障を理由に私たちの個人情報を売り渡すようなSNSと決別して、何を使うか。どうすべきかを考えます。
・捜査機関が使う合法マルウェアの実態と、それへの対策を議論します。

そしてこれまで同様、Linuxユーザの皆さん相互の間での情報交換の時間を設けます。ぜひパソコンを持参して参加ください。

日 時:2018年4月20日(金)19:00~21:00
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
サポーター:小倉利丸、上岡誠二


「プロプライエタリをハックする」のセミナーは、多国籍企業や政府から自立したコンピュータスキルの共有を目指しています。Linuxパソコンがなくても大丈夫。全くの初心者、ネット、パソコンが苦手な皆さん大歓迎。ノートパソコンを何台か用意します。

国による「大嘗祭」および天皇の「即位」にかかるすべての儀式の撤回要請

以下、安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京の要請文を転載します。


内閣総理大臣安倍晋三 様
宮内庁長官   山本信一郎 様

私たちは、「大嘗祭」および天皇の「即位」にかかるすべての儀式を国が行う事について、政府の方針を撤回されるよう要請します。

2018年3月26日

安倍靖国参拝違憲訴訟の会・東京
http://seikyobunri.ten-no.net/

政府は、天皇退位と新天皇即位の日程を、それぞれ2019年
4月30日、5月1日と決め、2019年秋に予定されている「即位式」「大嘗祭」の日程も決まりつつあることが知らされています。そして官房長官を長とする政府の「式典準備委員会」は、
「即位礼正殿の儀」および、「剣璽等承継の儀」をはじめとする5つの「即位の礼」関連儀式を国事行為とし、「大嘗祭」については、「宗教上の儀式としての性格を有するとみられることは否定できない」としながらも、「極めて重要な伝統的皇位継承儀式で公的性格があり、費用を(公金である)宮廷費から支出することが相当」としました。国事行為であれ、公的行為であれ、現実に国の予算が支出され、国の儀式としてなされることに違いはありません。30年前の政府見解を前例として踏襲する形で論争を避ける、というコメントも付けられていました。しかし、あらかじめ反対意見を寄せつけない形式は、民主主義にも「国民主権」にも反するものです。
私たちは、「大嘗祭」および天皇の「即位」にかかるすべての儀式を国が行なう事について、以下のように考え、反対します。そして、政府の方針を撤回されるよう求めます。
憲法は、主権が「国民」にあることをはっきりとうたっています。天皇は「日本国と日本国民統合の象徴」であり、定められた「国事に関する行為のみを行」うと規定されています。国事行為は実際の政治権能を持たない儀礼的な行為であって、宮内庁という役所も持つ、国家の制度(国家機関)として天皇は存在しています。さらに、憲法20条では「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」という政教分離原則が定められ、99条で、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ」と規定されています。私たちは、「即位礼」「大嘗祭」を国の儀式として行なうことは、この「国民主権」「政教分離規定」「憲法擁護義務」に抵触するものと考えます。
一連の「代替わり」儀式は、それが神道儀式であるというばかりでなく、天皇を神格化する儀式です。天皇は即位した後、「大嘗祭」という皇室神道の儀式を経て神格化するという説が有力です。神格化された天皇の名の下に始めた戦争に敗北したあと、天皇は敗戦処理のひとつとして、「人間宣言」によって自ら、「現人神」であることを否定せざるを得ませんでした。
新天皇即位儀式のひとつである「剣璽等承継の儀」は、「日本神話」に由来する「神器」(レプリカ)を継承する宗教的儀式に他なりません。「大嘗祭」は、亀卜という占いで悠紀斎田・主基斎田の地を定め、神道儀式に則り生育させた稲を採取し、新天皇が新穀を天照大神に供え、共に食して五穀豊穣などを祈る宗教儀式です。また、国事行為とするという「即位礼正殿の儀」をはじめ一連の儀式も、即位の礼について神々に報告を行なう儀式など、宗教的な行為と結びついています。
国の機関が、このような宗教行為を公に行なう事自体が、憲法上許されることではありません。政府は、これらの儀式を行うことを「重要な伝統的皇位継承儀式で公的性格がある」などと強弁しています。しかし、これらの「伝統」と呼ばれる儀式のほとんどが、明治以降の近代天皇制の儀式として新たに作り出されたものであり、「大正」「昭和」「平成」の「代替わり」時に行われたに過ぎない、決して「伝統」などと言える代物ではありません。
また、「即位後朝見の儀」は、天皇が三権の長らに向かい、高い位置から即位を宣言し、「国民」を代表する首相らが下からそれに応えるという儀式ですが、それは「象徴と主権者の関係」というより「君主と臣下」の関係を表すもので、「国民主権」原則に反します。一連の儀式の意味が、天皇を神格化して主権者である「国民」の上に置く国家による儀礼である以上、それは事実上「国家神道」の祭祀であって、国家が宗教活動を行なうことを禁止する政教分離原則に対する重大な侵犯行為となります。

以上の理由により、私たちは、天皇の「即位礼」「大嘗祭」を、国が関与して行なう事に反対し、政府方針の撤回を要請します。