憎悪の美学――天皇=平和言説の根源にあるもの

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天皇制廃止をめぐる問題の最大の課題は、天皇が戦後憲法擁護の象徴的な存在とみなされて、戦後日本の「平和」言説=イデオロギーの震源地のひとつをなしてきた点にある。好戦的で抑圧的な暴君を批判するのは容易い。しかし、伝統主義者や極右の戦後憲法批判者もまたシニフィアンとしての「平和」という記号を共有しているために、そもそもの「平和」の意味の本質的な違いが棚上げにされて、天皇が語る平和と、この平和を政治の文脈のなかで利用する政権の言う「平和」と、私たちが語る「平和」が、平和運動の担い手たちの間ですら混同されて、あたかも、私たちの「平和」の言説が天皇をはじめとする伝統主義者たちにも共有されたかのように誤信する雰囲気が広がっているように思う。言葉の定義は、政治的な事がらであって、多くの場合、定義の主導権は支配者たちが握る。こうした言語の政治において、「平和」という政治言語をめぐる政治もまたひとつの重要な闘いの場である。

そしてまた、昨今の人種差別主義の露骨な言動が、じつはその対極にあるかにみえる平和という記号を味方につけた象徴天皇制と表裏一体であるという問題を見据えておく必要がある。戦後憲法の平和主義を象徴する9条とこれを体現するかの如くに表明される天皇の「お言葉」の意味することと人種差別と排外主義の過激な言動は表裏一体である。だから、小池東京都知事がオリンピックを口実に掲げはじめたヘイトスピーチ規制をはじめとする「人権」の取り込みが「おもてなし」という欺瞞が、「日本文化」と手をたずさえて登場している事態を、あたかもレイシズムとは対極にあるかのように誤解する雰囲気もまた万延してしまっている。「おもてなし」は日本の伝統文化を肯定し、これを受け入れる外国人だけに開かれており、そこには、暗黙のうちに、文化的な多様性を通じた伝統の解体こそが、新しい文化的な人口構成に基づく社会へのに移行とって避けるべきではない創造的な過程であることが、根本から否定されている。伝統は美しいに違いなく、天皇もまた平和を愛してやまないはずだというフィクションを私はフェイクとは呼ばない。むしろこうした心情は、フィクションの力によるものであって、科学や合理的な理性の領域の外にあって人間を支配するものだ。嘘だという糾弾は必要ではあっても十分な説得力をもたない。フィクションとしての芸術に感動する人間の感性が、戦争であれ天皇制であれ、あるいは諸々の社会的な諸矛盾であれ、社会をめぐる現実を主題に据えるフィクションの領域において、支配的な心情によって支配されているということそれ自体が抱えている問題に向き合うことが必要なのだと思う。多くの人々は、なぜ平和を愛する天皇を否定するのか、なぜ歓待の美徳の伝統をもつこの国を敵視するのか、という感情をあわせもっていることは間違いないように思う。フィクションの力を味方にした感情は、天皇の平和主義も歓待の美徳も欺瞞であり虚妄に過ぎないという者達に対して、平和主義も歓待の感情もかなぐり捨てて敵意をむきだしにする。極右のテロリスムは多くの場合、耽美的な伝統世界と残酷な敵への憎悪の仕打ちを表裏のものとしている。こうして再び憎悪の言説が還流し、また、平和と歓待の言説もまた還流し、この二つが合流するところでこの国は、次の戦争を用意するに十分な「国民」の感情が再生産される。この現代の問題は、実は近代日本が一貫して抱えてきたジキルとハイドの物語でもある。このやや錯綜した問題をここでは幸徳秋水と保田輿重郎を取り上げて考えてみたい。

*国民的帝国主義の愛国心批判――幸徳秋水のばあい

幸徳秋水の『帝国主義』は、まさに二十世紀の始めの年、1901年(明治34年)に出版された。先駆的な作品として言及されることはあっても、レーニンの『帝国主義』ほどにその内容への評価に言及されることは少ない。しかし、幸徳の帝国主義論は、その構成からみて、レーニンよりも包括的だ。帝国主義を愛国心と軍国主義の双方を視野に入れて論じた。幸徳は帝国主義をペストになぞらえ、愛国心はペストの病原菌であり軍国主義はペストの伝染を媒介するものだとした。幸徳とレーニンの帝国主義論の大きな違いは、幸徳が議論の出発点に「愛国心」を据えたところにある。レーニンはもっぱら列強による植民地再分割という資本蓄積の世界的な構造に着目したのに対して、幸徳は、イデオロギーの構造に着目した。近代の帝国主義を憲法、議会、政党政治の統治機構のもとでの「国民帝国主義」と呼び、古代ローマの帝国主義と明確に区別した。近代国民国家が、立憲君主制であれ共和制であれ、「国民」の帝国主義を問題視した。ここには自由民権運動もまた帝国主義のイデオロギーを排することができていないという強い危機意識をみてとることができる。

幸徳の『帝国主義』の結論を先取りして述べてしまったが、本書の冒頭は、帝国主義が西欧の流行となり燎原の火のごとくに世界中を席巻しており、「世界は皆な其膝下に慴伏し、之を賛美し崇拝し捧持せざるなし」(全集、第三巻、114ページ)と述べることから始められている。この帝国主義に浮かれる人々の様を述べた後に、次のように帝国主義の「劣情悪徳」を述べる。

「然れども若し不幸にして、帝国主義の勃興流行する所以の者は、科学的智識に非ずして迷信也、文明的道義に非ずして狂熱也、自由、正義、博愛、平等に非ずして、圧制、邪曲、頑陋、争闘なりしとせよ。而して仮に是等の劣情悪徳が、精神的に物質的に、世界万邦を支配すること如此にして止ますとせよ、其害毒の流る所、深く寒心すべきに非ずや」(115-6ページ)

幸徳にとっての最大の問題は、上に引用したように、なぜ人々が感情的に帝国主義の迷信、圧制、邪曲等々に同調してしまうのか、なぜ科学や文明的道義としての自由、平等などの価値が退けられてしまうのか、にあった。明治期の富国強兵を支えたのは近代西欧の科学的知識であったことは間違いないにしても、科学や合理主義では人々を「国家」に収斂するアイデンティティへと構成することができないことも明かだ。普遍的であるが故に、知や科学は日本という普遍的とは到底言えない特殊な国民国家に人々の価値観を収斂させることはできないからだ。ここに愛国心を必須の条件とする近代国家の非合理性があり、近代資本主義の確立期とされる十九世紀が同時に国民国家のイデオロギー装置の完成期ともなって建国の神話がどの国においても重要な国民統合のイデオロギーとして再構成された理由がある。当時の文脈のなかでは、国家に収斂するイデオロギー(愛国心_は、階級闘争への対抗と植民地領有の正当化を含んでいた。日本という近代国家が国家イデオロギーとしての天皇制を必要としたことは、この普遍的な世界観に対する特殊な国民国家のアイデンティティ構築の必要という近代世界に共通する統治の側面でいえば、日本に固有の問題ではなく、近代資本主義国家に共通する「国家」それ自体に内在する非合理的な「国民」という主体意識の構造に由来するものだ。

幸徳にとって帝国主義とは、単なる経済的な植民地主義では済まされないものであり、「所謂愛国心を経となし、所謂軍国主義(ミリタリズム)を緯となして、以て織り成せるの政策」であると捉えている。井戸に落ちた子どもが自分の子であれ他人の子であれ助けようとするを心情を例に、こうした「シムパシー、惻隠の念、慈善の心」が「遠近親疎を問はざる」のに対して愛国心はもっぱら自国(民)への惻隠・慈善の心でしかないと指摘する。(117ページ)たとえば、当時米国の統治下にあったフィリピンの独立運動を支持するような米国人がいたとき、この米国人は愛国心なき者として非難されるように、正義、自由、平等といった価値が愛国心と対立するとき、これらの価値は愛国心の前に容易に捨て去られ、愛国心に反するあらゆる事柄を不正義、不自由、不平等とみなすことにすらなる。愛国心は自国の領土や自国民を愛するのみで「他国を愛せずして唯た自国を愛する者は、他人を愛せずして唯た自家一身を愛する者也。浮華なる名誉を愛する也、利益の壟断を愛する也。」(118ページ)だから「国民」が抱く愛国心は、迷信、熱狂、劣情悪徳となる。今流にいえば、他者への歓待をなしえず排除と敵意を醸成するのが愛国心だというわけだ。

幸徳は、「愛国心は又故郷を愛するの心に似たり」と述べ、愛国心は愛郷心と類似の心情だという。人が故郷を想起するのは、異郷にあって、その文化になじめず、「知己の志を談するなく、父母妻子の憂を慰するなくして、人は故園を思ふこと切也」というある種の疎外の感情であり、挫折を味わい、人情の冷さを経験するときに、「人は少年青春の愉快を想起して旧知の故園を慕ふこと切也」(119ページ)という望郷の悲哀に陥る。こうした感情は「故郷の愛すべく尊ふべきが為めに思念するよりは、寧ろ唯た他郷の忌むべく嫌うべきが為め」(同上)であって、故郷に愛すべきなにものかがあるが故に愛するのではなく、「他郷に対する憎悪」が愛郷心を駆り立てるに過ぎない。このようにして喚起される故園(故郷)への感情は疎外に対するカタルシスとして機能することが必要であって、そのためには、故郷についての記憶や経験は、現在の苦境を相殺しうるだけの理想的な姿へと作り変えようとする意識操作が作用する。現実の故郷は、多くの人々にとって、地方の農村であり、貧困と背中あわせの因習に縛られた世界でもあったはずだ。しかし愛郷心はこうした現実に基づくのではなく、他郷を忌み嫌うに値する故郷へのロマンを創造する。

愛国心は、こうした感情が故郷ではなく国家へと転移したものであって、その心理は同一の構造をもつ。国民国家を構成する近代資本主義の生産関係が国家に収斂する国民意識のイデオロギーとして愛国心を形成するといった筋書はここにはない。むしろ、生活世界に内在する疎外とカタルシスは自らが帰属する故郷や国家を理想化する感情を生成するという筋書のなかに、幸徳は国民帝国主義の意識を位置付けようとした。大衆が抱く故郷に繋ぎとめられた記憶が愛国心へと転移するとき、日本のファシズム――戦前の日本を「ファシズム」と規定できるかどうかという議論についての私の見解を留保した上で、暫定的に「ファシズム」という言葉をあえて使う――は、一方で農村を理想化する農本主義、他方での「満州」を理想化する王道楽土の感情という二つの焦点をもつ楕円を描くことになった。侵略の基盤をなした戦前の国民帝国主義が、一方で、愛郷主義というアナキズムをも包摂する反中央の思想を、他方で欧米帝国主義からのアジアの解放という転倒したマルクス主義を包摂するアジア主義という異教をも呑み込みえたのには理由があるのだ。コミュナリズムやパガニズムを底流にもつ近代西欧のロマン主義がファシズムやナチズムとして浮上して現代までその息の根を止められることなく延命してきた構図を踏まえると、天皇制が日本に固有であるだけでなく帝国主義が一般に持つイデオロギー構造の特殊日本的な現れであることがよくわかる。この愛国心が支える愛郷心の構造もまた、近代資本主義の不合理なロマン主義に共通する構造をもっているといえる。この天皇制と世界規模で存在する諸々の反近代の流れとの構造的な同質性に内在している暴力と非人間的な欲望を視野に入れなければ、資本主義批判は完結しない。

愛郷心、あるいは「望郷の念」は逆境の者ばかりでなく順境の者にも同様の問題をもたらす。自らの私利私欲、立身出世のために故郷を利用するものに過ぎないのだが、本人も地域の人々もこの虚栄心こをが故郷への愛そのものだとみなす。

「得意の人の故郷を思慕するは、其心事更に卑しむべき有り。彼等は即ち郷里の父老知人に向って其得意を示さんと欲するのみ。郷里に対する同情惻隠に非ずして、一身の虚栄也、虚誇也、競争心也。」「曰く大学を我地方に置かん、鉄道を我地に敷かん、是れ猶ほ可なり。甚しきは即ち曰く、総務委員を我が県より出さん、大臣を我州より出さん。彼等は一身の利益若くば虚栄を外にして、真に其郷里に対する同情滋慇の念に因て然る有るか」(119ページ)

愛国心を問題視する人々も、地域やコミュニティへの「愛」の心情を許容しがちだ。しかし、幸徳はこうした心情にこそが愛国心が巣喰うことを見抜いている。中央政府や「国家」への抵抗の拠点として、地域やコミュニティに基盤をもつ草の根運動への期待が語られることがある。「国家」=愛国心と「地域」や「コミュニティ」への愛情を対置させて、抵抗の草の根の根拠地として生活圏の基盤となるコミュニティ(地域)に期待を抱く。しかし、実際は、コミュニティを基盤とする草の根の住民運動もまた、多くの場合、既存の中央政府を支持する住民たちとの対立を経験する。近代化による地域開発(ダム、工場誘致から観光開発まで)や人的交流(郷土出身の代議士や中央政府官僚を典型モデルとする立身出世の物語)は近代的な豊かさのイデオロギーを再生産する格好の資源であり続けてきた。他方で、近代化の失敗――開発に伴う公害、貧困、環境破壊、巨大資本によるコミュニティ経済の解体など――は、こうした現状を受け入れ過去を懐しむ望郷へと心情を動員し、現実の政治・経済への矛盾の覚醒を抑制する基盤ともなる。当時の文脈でいえば、地方各地を席巻した自由民権運動のラディカリズムは、必ずしも侵略主義とは対立せず、むしろ民権派もまた帝国主義に加担した。幸徳はこうした経緯を念頭に置いていたに違いない。

人々のコミュニティへの心情の共同性が強固であればあるほど、よそ者の入り込む余地は少くなり、ライフスタイルであれ文化であれ、エスニシティやジェンダー上のマイノリティであれ、左翼であることの思想的なマイノリティであれ、あれやこれやのマイノリティは狭いコミュニティのなかでは窒息させられかねない。コミュニティが生成する愛郷心は、何世代も地元に住み続けてきた人々と移住してきた「余所者」との間に溝を生み出し、余所者は、他郷への憎悪のターゲットとなる。「余所者」もまた彼ら自身の望郷の感情から今住む場所への疎外感を悲嘆や諦念と結びつけて、抵抗や怒りの感情を抑制するように促される。余所者は、中央政府や大資本の手先ででもない限り、コミュニティの価値観や伝統に同化することを強いられる。多くのコミュニティでは、資本の巨大開発をコミュニティの活性化とむすびつけて歓迎する一方で、新に参入する異なる文化的な背景を持つ人々、とりわけ非西欧世界からの移住労働者たちへの排斥の感情は根強い。コミュニティは、その出身者や親族などの帰郷を歓迎するだろうし、外国人一般を嫌っているわけではなく、観光客として一時的に滞在する者たちには「おもてなし」などという言葉で歓迎のポーズをとる。幸徳が巧みに言い当てたように、望郷の観念のなかにある敗北感が立身出世への挫折の裏返しでしかなく、コミュニティの繁栄もまた経済的な利益や権力との太い繋りへの欲望でしかなく、文字通りの意味での、コミュニティを構成する人々への「愛」などではない。いやむしろ「愛」という観念こそが本質的に利己的で排他的な独占欲を正当化するための美名だと捉えるべきなのではないか。

幸徳が批判した郷土愛を引き算してなお残る郷土愛とは何なのだろうか。幸徳は、「愛」という観念ではなく、平民自治であれ労働者共有の社会であり正義博愛の心による愛国心を抑えつけることだという。つまり近代が国民国家と資本の両輪によって構成される限り、利他的で非自己愛的なコミュニティに根差す「愛」の感情などは存在しえないということだ。しかし、愛国心を正義とみなす転倒した感情がコミュニティから国家へと重層的に共有される。幸徳はこうして、感情を再生産する基盤を感情に還元するのではなく、貴族専制の社会、陸海軍人の国家、資本家横暴の社会という制度の変革の問題として位置付ける。愛国心を形成する政治的経済的な土台の問題はまさにイデオロギー装置の土台の問題である。勿論幸徳にイデオロギー装置論などないのだが、この問題は私たちが引き受けるべき課題である。

故郷への失望を国家が救い、国家への失望を故郷が救うというこのもたれあいの構図のなかに巧妙に囲い込まれることによって、失望は愛へと巧みに誘導されて、非現実的な郷土愛や愛国心を唯一不可欠な感情の拠り所とする仕組みができあがる。

憎悪の感情は、他郷の者や外国人に向けられるだけでなく、自国民の批判者たちにも向けられる。幸徳は次のようにいくつか具体的な事例を列挙している。

「想起す、故森田思軒氏が一文を草して、黄海の所謂霊鷹は霊に非ずと説くや、天下皆な彼を責るに国賊を以てしたりき、久米邦武氏が神道は祭天の古俗也と論ずるや、其教授職を免ざられたりき、西園寺侯が所謂世界主義的教育を行はんとするや、其文相の地位を殆うくしたりき、内村鑑三氏が勅語の礼拝を拒むや、其教授の職を免ぜられたりき、尾崎行雄氏が共和の二字を口にするや、其大臣の職を免ぜられたりき。彼等皆な大不敬を以て罵られき、非愛国者を以て罪せられき。」

ここに挙げられている例はいずれも、具体的な行為ではなく、政治家の言論が近代国家日本のイデオロギーの核に据えた広義の意味での天皇制イデオロギーがもたらす世界観、歴史観、国家体制への異論や逸脱に対する国家レベルから民衆レベルに至る様々な制裁、つまりコミュニティがその生活圏から発する排除の感情に深く根差している。

「国民の愛国心は、一旦其好む所に忤ふや、人の口を箝する也、人の肘を掣する也、人の思想をすらも束縛する也、人の信仰にすらも干渉する也、歴史の論評をも禁じ得る也、聖書の講究をも妨げ得る也、総ての科学をも碎破することを得る也。文明の道義は之を耻辱とす。而も愛国心は之を以て栄誉し巧妙とする也」(125ページ)

自国民を愛国心の同調感情へと強制し、これに抗う者たちを厳しく処罰あるいは排除する行為は、同時に、外部の敵に対するより残酷な心情を生むことになる。幸徳は、日清戦争における日本人の愛国心の残虐な心情に言及している。

「日本人の愛国心は、征清の役に至りて其発越涌を極むる振古曾て有らざりき。彼等が清人を侮蔑し嫉視し憎悪する、言の形容すべきなし、白髪の翁媼より三尺の嬰孩に至るまで、殆ど清国四億の生霊を殺し殲して後甘心せんとするの慨ありき。虚心にして想ひ見よ、寧ろ狂に類せずや、寧ろ餓虎の心に似たらずや、然り野獣に類せずや」(136ページ)

愛国心は敵国人を「侮蔑し嫉視し憎悪」すること「清国四億の生霊を殺し殲して後甘心せんとするの慨」といった非常に厳しい言葉を重ねている。明治国家がその体裁を整え始めてまだ日も浅い時期であっても、戦争が契機となって愛国心が過剰な敵意を急激に拡大させた時代の流れを幸徳は非常に深い危機感をもって受けとめていた。

幸徳はこの愛国心が日本ばかりでなく、西欧諸国にも共通してみられる心情であることを指摘している。「政治を以て愛国心の犠牲となし、教育を以て愛国心の犠牲となし、商工業を以て愛国心の犠牲となさんと努むる者は、是れ文明の賊、進歩の敵、而して世界人類の罪人」(141ページ)であると断罪し、「故に我は断ず、文明世界の正義人道は、決して愛国心の跋扈を許す可からず、必ずや之を刈除し尽さざる可からずと。而も如何せん、此卑しむべき愛国心は、今や発して軍国主義(ミリタリズム)となり、帝国主義となって、全世界を流行するを。」(142ページ)

日本の愛国心は日本に固有のものではなく、むしろグローバルな資本主義が国民国家として侵略を正当化する心情の構造として生成され、これが軍国主義、帝国主義へと至り世界中の流行となっているとした。先にも述べたように、この意識が存在を規定するかのような転倒した唯物論は、むしろ人工的な明治国民国家の設計においてはふさわしい分析方法だったといえる。近代日本の帝国主義の物質的土台は、その誇大妄想としかいえないような愛国心を規定するようなものではなかった。先にも述べたように物質的土台を構成する合理主義は国家という観念に収斂しないからだ。この安普請の帝国主義を壮大な「大日本帝国」の伽藍のように観念するために創作された愛国心が、むしろ富国強兵と植民地侵略の「夢」を現実のものとする潜勢力となったともいえる。この意味でも、人々は近代日本を、合理主義と非合理主義の不可分一体となった感情から構成されたものとして受け取り、この意味で、常に、現実を合理的に直視するのではなく、現実をある種の夢物語を通して理解する非合理性に一面では囚われ続けてきた。「満州」は資源や過剰人口のはけ口であることを一面では理解したが、同時に、こうした理解を越えた意味も付与され、この種のロマン主義は今に至るまで「満州」の言説につきまとい、このことによって、日本の侵略が全面的には否定・反省されずに、東亜協同体や大東亜共栄圏だの五族共和だの八紘一宇だのといった言説を免罪してきたのではないか。

資本蓄積の必要という経済的土台が国民国家のイデオロギー的な上部構造を規定するという定式とは逆に、近代国家「日本」の観念をもって国民統合の要とすることを先行させて上からの愛国心の構築によって資本蓄積に必要な<労働力>の国民的な統合を実現しようという後発資本主義の帝国主義的な設計図、つまり「国民的帝国主義」が帝国主義の核心にある。この意味で、愛国心は、資本の問題であるだけでなく、むしろ国民としての<労働力>の問題なのだ。資本の生産関係は、ナショナルな存在であり、そのアイデンティティの核をなすのは、階級意識を「国民」に還元する愛国心という心情ぬきには維持することはできない。マルクスの『資本論』に決定的に欠落しているこの「国民」と「階級」というアイデンティティの相克のなかでしか<労働力>は再生産しえないという問題に光を当てる契機を、幸徳の帝国主義論は内包していた。幸徳は直感的にこのことを見抜いていたし、この直感が働いたのは、彼がマルクス主義の教条から距離を置くことができる時代のなかで思想形成できたからだと思う。

しかし、同時に、よく知られているように、こうした国主義批判から幸徳ははっきりと明治天皇を免責した。

「[明治天皇は]戦争を好まずして平和を重んじ給ふ、圧制を好まずして自由を重んじ給ふ、一国の為めに野蛮なる虚栄を喜ばずして、世界の為めに文明の福利希ひ給う。決して今の所謂愛国主義者、帝国主義者に在らせられさるに似たり。」(135ページ)

幸徳のこの天皇免責は、唐突に前後の文脈と無関係に挿入されているようにもみえ、しかも愛国心や軍国主義の要をなす天皇が平和と自由を重んじ圧制を好まないなどということがありえるだろうか。この戦争を厳しく批判した幸徳が、なぜ宣戦布告の詔勅を下した天皇を平和主義者であるかのように敢えて述べる必要があったのだろうか。あまりにも奇妙である。愛国心がもたらす戦争と抑圧に対する激しい糾弾の間に挟まって、論旨の一貫性を削ぐ。先に引用したように、西園寺、尾崎、内村が被った弾圧は、天皇制国家の歴史観、価値観に抵触するが故に起こされた出来事であったにもかかわらず、明治天皇が平和と自由を重んじるとは一体どのような根拠をもって主張できることなのか。どのように理解すれば、愛郷心=愛国心の凶暴な心情と明治天皇の「平和を重んじ給ふ、圧制を好まずして自由を重んじ」るという心情が共存しうるのか。

幸徳は資本家たちだけでなく、軍部と貴族たちへの批判を口にしている。貴族制と天皇制の不可分一体とする見方は、天皇制を半封建制の体現とする理解とむすびつくが、事柄はそれはほど単純ではない。貴族制に代表される身分制度が国民の平等に反することから貴族制を廃止するとしても、そのことと天皇あるいは皇帝を廃止することとは同じことにはならない。戦後憲法は、象徴天皇制と民主主義あるいは国民の平等という相反する条件を同時に成り立たせるひとつの方法を提示したが、これは新奇なことではなく19世紀のドイツにおいても、1848年革命後の共和主義のひとつの考え方として、貴族制を廃止しつつ王制を残し、一君万民の体制をとることを主張する流れがあった。こうした潮流は19世紀の地下水脈として生き残り、それが具体的な姿をとったのが、ナチスの体制だったと言えないこともないのだ。【注】

【注】ここで私が念頭に置いているのは、リヒャルト・ワグナーである。以下参照。「共和主義の運動は王権に対していかなる関係にたつか」、北村義男訳『芸術と革命』、岩波文庫所収】

幸徳の天皇観が内包している問題、実は、今現在私達が経験しているヘイトスピーチと天皇明仁の「平和主義」という装いの共存という事態に重なりあう問題でもある。ヘイトスピーチはヘイトの裏側に、幸徳が批判してやまない愛郷心=愛国心の核心をなす「愛」を抱いてもいる。この「愛」は、エロティシズムとは無縁な崇高とか美とか永遠な存在といった何ものかを想起させるような否定しがたい心情とこれを表象あるいは象徴する事物や事柄をもっぱら日本や」郷土」にのみ繋ぎ留める感情の総称である。だから、この「愛」は同時に「憎悪」の別名でもあり、幸徳は、この憎悪を中心に「愛」の問題を指摘した。以下、逆に、まさに崇高な美や普遍性を内在させた伝統や文化としての「愛」、誰もが否定しがたいと感じる感情の肯定的な側面をとりこむ天皇制の象徴的な作用と文化的な包摂の問題に目を向けてみたい。

*ホロコーストの正当化――保田輿重郎のイロニー

ここで、ファナティックな愛国主義者の出番となる。日本浪漫派の中心人物として戦時期に日本人の愛国心をひたすら鼓舞し続けてきた保田与重郎は、日中戦争の翌年「満州」を半年あまり旅し、それを『蒙疆』として一冊にした。その冒頭、日本を出発する旅の門出に、戦死将校の遺族たちと出会う。「一人の年稚い子供と赤子をつれた若い落ち着いた未亡人である。泣き叫ぶ児をほとんどあやしもせず、あきらめたやうに手を拱いてゐるさまが、情景から切なく思はれた。」(『保田輿重郎全集』16巻、講談社、18ページ)この切なさから保田はこの感情を次のような世界観のなかに位置付ける。

「私らは、今日本が敢然として世紀の世界史を劃し、われらの民族の歴史を変革する大事業を行ってゐる北方に旅しようとしてゐるのである。しかもその私のゆくみちは、新しい世界文化の最初の交通路とならうとするみちである。わが大和民族が世界の異国と異民族に対して始めて示す浪漫的日本が、まず拓く交通路をゆくのである。今は軍隊を送る道であるが、やがてはそれは世界の交通路となり、世界文化の一大変革の拠点ともなる幹線である。その旅につく朝の門出に、そのみちを拓くために身を曠野にすてた人々の親しい肉親や、相愛の妻子と同じ客車にのることは、少なからず私の歌心をかりたてるほど、あはれなことであった。陋巷の雑念の虜となってゐた私にも、年ごろにない清浄の歌心に似たものを味ひ得た所以である。」(19ページ)

保田が兵士遺族に感じた切なさは、庶民が戦争体験のなかで被害者として(加害者としての感情を獲得することはそれ相当の時代認識が必要だろうが)抱く素朴な悲嘆とは全く交差することのない「歌心」に収斂するような「あはれ」である。この保田の感情は、「浪漫的日本」という異様な形容にその全てが凝縮している。彼の中国の風景や人々への眼差しには「支那人」への憎悪と侮蔑の感情が露骨だ。北京は「泥でできた聚落と、あの醜悪な男たちの風景」として語られ、紫禁城の美しさに感動しながらも「泥の家と埃の町は、季候のゆゑか、住民の汚さと混じて、異様であった」(77ページ)と書く。「支那人は希望と理想をなくしても地にはって生きうる種族である」(71ページ)という。よく理解できないままに「舞台も演劇も劣ったものと思はれた」とか「私は何もわからぬなりに滑稽に思へた」といったように理解への努力放棄を正当化する。そしてこうも言う。「我々は東洋平和のために優秀な支那を殲滅せねばならない、しかしこの悲劇は、支那人の歴史の思想の誤謬に原因する。間違ったものは滅さねばらなない。さうしてそれを悲しむ一面で、我らのさらに優秀な正当な精神の戦死を一そう悲しまねばならない。支那軍の一人々々は国民でなく英雄ではかったのだ。我々の一兵はみな国民であり英雄である」(109〜110ページ)こうした殲滅を正当化する過剰な暴力の言説の文脈には常に自国民や若い兵士への賛美と賞賛がついてまわる。

「さういう大陸へ、我々は抜群に優秀な若者を夥しく送ってゐるのである。大君の命のまにゝ征くことが、我らの国では理想と目的である。大陸への征旅―今世紀に日本が行った大遠征は各個に於ては犠牲と捨身に生きる無償の美しい壮挙であった。」(69〜70ページ)

同時に保田は戦争ルポルタージュを嫌いリアリズムを嫌う。「わが戦争文学は事件と経過と政治と経済を忘れたときの詩に成立する」(80ページ)ともいい、「詩があるか美があるかそれが問題である」「今日浪漫的な世紀を初めて経験した日本は、一切の悲観を蹴って飛躍する。たとへ征服や侵略を手段としても、なほそれは正しく美しいのである」(80ページ)と言う。こうして侵略の尖兵でもある「若い兵士」を徹底して称揚し「一切の古い教養を誤謬とし、教育も、知識も、考へ方も、感じ方もすべて変革する」「精神的に未曾有の変革」(154ページ)のなかにある日本、「古い疑似知識文化人の抹殺を行為した日本の今日の若い精神が、何故支那の同一物を抹殺してはならないのだらうか」(154ページ)と言う。

保田の文章は、その心情の在処において、さしずめヘイトスピーチの原型だろうと思う。ここにあるのは、戦争を美化するレトリックが、あからさまな「支那人」に対する憎悪とその対極に置かれて日本のラディカルな変革の主体の位置にまつりあげられた侵略地にいる若い兵士たちの弁証法という構図のなかで展開され、戦争は詩と美の問題に還元される。植民地人民の居場所はおろかリアリズムのなかで戦争を政治や経済の文脈のなかで見ようとするジャーナリズムや知識人たちの居場所もことごとく奪われる。

抹殺と殲滅を正当化するこの主張を支えているのが詩と美としての戦争であり、無条件の「若い精神」へのオマージュである。保田のこうした文章は、典型的な自己陶酔に基づくサディズムの「美学」による現実世界の再解釈に他ならないのだが、戦地や植民地にいる若い兵士たちは、この保田の言う「抹殺」や「殲滅」によって自らの暴力を精神的に正当化あるいは美化する罠に陥ったことが果してないといえるか。あるいは、こうした文章を読む読者たちが戦争の無定見な暴力を正当化する理由をこの保田の文章のなかに見出そうとしたことはなかったといえるのだろうか。しかし、私たちにとっての最大の課題は、彼の過剰な暴力を表出させた文章それ自体ではなく、限りない崇高と美のなかに、彼のいう詩的な世界として表現された「日本」にある。こうした「浪漫的」に構成された虚構の美学が神話や伝統と結びついて正当化される世界は、政治における戦争責任や人道上の責任の問いを巧みに回避して、生き延びることになる。

*橋川文三の保田批判

橋川文三は『増補・日本浪漫派批判序説』(未来社、1965)のなかで保田輿重郎(と小林秀雄)の反(非)政治的思想が「もっとも政治的に有効な作用を及ぼしえたこのと意味」(93ページ)を問うている。政治に背を向けることがむしろ政治的な効果ももたらすという問題は、戦後の象徴天皇制の非政治性がもたらしてきた政治的効果を考える上で重要なだけでなく、天皇や皇室の言説の問題を超えて、戦後日本の文化、芸術、学問などと呼ばれる分野における非政治性が内包してきた政治的効果の問題として重要な論点である。一般に、政治的な言説が政治的な表現のなかでストレートに表出する場合よりも、その表現においては一切の政治性も見い出せないにもかかわらず、美や伝統的文化といった分野を自陣に囲い込むことによって、こうした非政治的な言説が実は極めて深度のある政治的な効果をもたらすという逆説が、現在の日本のナショナリズムを検討する上で避け通れない課題であり続けてきた。だから、この半世紀も前の議論が妙に気がかりなのだ。とりあわけ保田に代表される日本浪漫派が戦時期に、強度な愛国心を鼓舞しつつも、それがいわゆる皇道主義右翼のようなスタイルをとることのない「イロニー」のレトリックによってなしえたことを、ヘイトスピーチと「おもてなし」が共存するこの時代に想起しておくことは大切なことだと思う。

特に、通説では、戦後の象徴天皇制は、非政治的であることが制度的に強制され、従って政治的な機能を果しえない存在に押しとどめられているのであって、戦前の神格化は回避され民主主義が確立されてきたとする。ところが、この天皇の非政治性は、美とか伝統を――広義の意味での文化の価値――非政治的な領域に押し込めることによって、この美と伝統を仕切る制度ともなってきた。しかし、こうした枠組では、戦争を詩と美の問題として正当化しようとする保田のような立場への抑止力にはならない。むしろ、戦後は、非政治的な表象としての詩や美を通じて、戦争の主体――つまりは「国民」であり、その象徴である天皇だが――を崇高な存在に押し上げ、正当化しうる可能性を常に残してきたとはいえないだろうか。ここでいう詩も美も、あるいは文化や芸術一般も、徹頭徹尾戦争とも政治ともあるいは社会とも関わりのない、まさに純粋な文化・芸術の装いをもったものであり、だからこすむしろ戦争への感情を支える効果を担う。日本文化を美や伝統の文脈のなかで崇高なものとして評価することは、同時に、日本文化の周辺にあって日本文化と対立・競合する諸々の文化を「日本文化」と対等な崇高な地位から退けること、排除することを暗に含んでいるが、そんなことはおくびにも出さない。これは事柄の社会性や政治性とは直接関わることを回避した上で成り立つ価値序列(イデオロギー)の問題である。戦後の象徴天皇制は、この意味での「日本文化」における美や崇高の制度の中心をなし、非政治的な位置をとることを通じて、ナショナリズムを非政治的な領域に無限大で拡げる制度的な役割を担ってきた。ヘイトスピーチの根源にあるのは、まさにこのような「日本」をめぐる詩的な美学や神話と伝統に色どられた非政治的な世界である。

文化や文化的価値は、ナショナリズムやファシズムを支える心情を構築する上で最も重要な役割りを非政治性の領域にで果してきたし、これは今でも変りはない。文化的な価値の優劣の中心をなしてきた「美」的な価値は、歴史をナショナリズムのフィルターによってカテゴライズして配置することで成り立つ「伝統」を過去と未来の双方への視線に接合させることによって、社会集団のなかに感性的な優越性に普遍的な根拠を与え、他者を見下す価値意識を差別とも蔑視とも感じない感性を形成する。そして最も重要なことは、こうした文化や美的な価値は、人々の感性に作用するだけでなく、それが内包している愛国主義や排外主義を露骨な憎悪として表出させることなしに、その効果を発揮することができるという点だ。これが、自由、平等、民主主義といった近代の政治的価値観と共存しつつも、これらの政治的価値をしっかりとナショナリズムの鋳型に嵌め込むことができる理由でもある。こうして美や伝統は、自由、平等、民主主義といった権利と規範の原則を迂回して、不自由、不平等、独裁を正当化する手段とされる。

橋川はこうした保田のスタンスを次のように総括している。

「政治的現実の形成は、それが形成されおわった瞬間に、そのまま永遠の過去として、歴史として美化されることになる。人間はいかなる鬱憤・怨恨をそれに対して抱懐しようとも、竟にその『昨日』に対して一指も染めるとはできない、そこでは、『永遠に昨日なるもの、われらをひきゆく』という断念が人生論の核心をなすことになる。こうして、絶対に変更することのできない現実―歴史―美の一体化観念が、耽美的現実主義の聖三位一体を形成する。保田や小林が『戦争イデオローグ』としてもっとも成功することができたのは、戦争という政治的極限形態の過酷さに対して、日本の伝統思想のうち、唯一つ、上述の意味での「美意識」のみがこれを耐え忍ぶことを可能ならしめたからである。いかなる現実もそれが「昨日」となり「思い出」となる時は美しい。保田は伝統的美意識へのアピールによって、『十五年戦争』の現実を『昨日』として、『歴史』として生きることを訓えたのであり、それらが永遠に崩壊することのない『美』の規範によって支えられていることを、自信を以って解釈してみせたのである。いわば、人間にとってもっとも耐えがたい時代を生きるもののために、あたかも殉教者の力に類推しうるものとして、現実と歴史を成立せしめる根源的実在としての『美』を説いたわけである。かれの『国粋主義』が、『ウルトラ・ナショナリズム』というよりも、むしろ『耽美的パトリオティズム』と呼ぶにふさわしいのは、そのためである。」(99〜100ページ)

政治を変更不可能な過去としての歴史に、歴史を伝統に等値する。今現在の政治権力の最大の関心事は、現に今ある権力を絶対に変更することができないものであることとして民衆に受け入れさせることだ。現実の変更不可能性がありうるとすると、それは、現実が必然の産物であって、それ以外の選択肢はない、という感情に人々が捉えられていると同時に、こうした意味での現実は、それが必然であればあるほど、その見掛けがどうあれ、好ましいものであり、否定しがたいこととして感覚的に受容しうるものでなければならないだろう。現実を必然的なものとして受け入れる歴史的な態度は、伝統という観念を今ある現実に重ねあわせる態度になる。もし、そうであるなら、人々の肯定的な感情を動員するための条件として、この伝統が「美的」なものに媒介されるとき、伝統は肯定され、伝統に支えられた現実の権力もまた肯定される条件が生み出されることになる。

腐敗した権力は、いかに腐敗していようとも、いかに抑圧的であろうとも、そうした現実の権力そのものを人々は、上述の意味での伝統や美的意識の文脈のなかで見ようとしているし、また、腐敗した権力者たちも、この権力者を支持するメディアもまた、伝統と美的意識が作り出すを虚像を現実の権力の背後に見ることによって、腐敗した権力を許容することになっているのではないだろうか。

現にある権力は確かに腐敗しており、人々を抑圧する横暴な力を揮っている。他方で、日本という国は本来、美しい自然と伝統を連綿ともってきたという認識があるとすると、この美しい国の伝統が腐敗した権力を生み出すこと自体が矛盾でしかないことになる。この矛盾を解決する道筋は二つある。ひとつは、そもそもの美と伝統の国という観念そのものの欺瞞と擬制に気づいて、この欺瞞と擬制こそが腐敗した権力のひとつの源泉であると見ぬいて、これを拒否すること。もうひとつは、この美と伝統の国の観念を肯定し、この観念を参照枠として腐敗した権力に対する伝統主義的な革新――ナチズムの時代であれば保守革命と言うかもしれない――に挑戦するという態度である。後者がいわゆる愛国主義とか右翼が保守主義とる選択肢だ。伝統と美をめぐる膨大な資源を動員して、本来あるはずの「日本」のユートピアを語ろうとする。これに対して前者は、原則的な左翼がとる立場だが、この立場は固有の困難を抱える。それは、否定や破壊が、伝統と美意識をも根底から覆すだけの力を持ちえることができるかどうかという目先の課題だけでなく、右翼が引き合いに出す伝統も美意識といった既存の資源ではなく、全くのゼロから権力の正統性を支えうる統治の正統性を体現する集団的な意識の枠組を構築しなければならないという困難である。

橋川は次のように述べている。

「わが国の精神風土において、「美」がいかにも不思議な、むしろ_越権的_な役割りをさえ果してきたことは、少しく日本の思想史の内面に眼をそそぐならば誰しも明かにみてとることができる事実である。日本人の生活と思想において、あたかも西欧社会における神の観念のように、普遍的に包括するものが「美」にほかならなかったということができよう。」(93〜4ページ)

西欧社会において果して美が越権的な役割をもたなかったかといえば、そうではないだろう。やはり、19世紀の理性を補完する位置にしっかりと「美」は非合理性を近代の枠組、とりわけ感性的なイデオロギーを「近代」すなわち、資本主義と国家の枠組に還元する役割を担ってきたのではないかと思う。西欧におけるロマン主義はその中心のひとつであったと思う。日本の特殊性があるとすれば、日本には西欧近代とは異なる美と伝統の文脈があるために、その表象においては全く異なる様相をとりながらも、美と伝統のイデオロギー構造は同じ機能を担ってきたということと、西欧的な美の価値規範を日本の伝統とされるそれに接合する固有の工夫が必要になったということである。たとえば、音楽や美術の分野では洋楽や洋画の導入は同時に、大衆的な美意識の秩序の再構成をともないつつ、美や文化の領域をナショナリズムの感情として構築することが必要であった。

橋川は、「政治の基本的カテゴリイとしての『支配と服従』関係(権力関係)において、その正統性原理が美意識の位相においてあらわれる傾向を示す」「われわれは、ある社会のある時代が生み出した芸術的遺品をとおして、とくにそれが支配者層のプレスティージを表現する意味を含んだものである場合、そこから権力支配の特徴的な関係を推定することもできるのである」(95ページ)という。芸術的遺品がまずあり、この遺品を介して支配層の特権性が表現されるというが、むしろ、逆に、支配層の特権性を表現するような日常生活の物の造形や表象が芸術的な遺品として認定され、美と伝統を構成するのではないか。あるいは、日常生活における(現代でいう民芸)民衆の生活における物質的な構成を伝統や美の解釈の枠組の中に組込むことによって、人々の日常生活が支配と服従の権力関係と不可分一体のものとして再解釈され、人々の生活内部に潜在する抵抗や逸脱の潜勢力を削ぎ、全てを今ある権力関係の正統性のために動員される。この日常生活と不可分の美のイデオロギーが構成されるときに、天皇制は一木一草に宿ることが可能になる。橋川はこれを「正統性原理の美意識化」つまり「政治が政治として意識せられる以前に、政治の作用が日常的な生活意識の次元で、その美意識の内容として受けとられることがとくに問題となる」(95ページ)のだと述べた。

政治は、日常生活意識のなかで、日常生活と不可分なものとして構成されている日本の美意識の内容として受けとられることによって効果を発揮する。これは奇妙に聞こえるかもしれないが、政治は祝祭の空間を演出することによってしか、その権力という抽象的な力の現実態を表出させることができない。儀礼は欠かすころができず、儀礼によって政治の汚辱に満ちたスキャンダルや暴力は見逃される。この儀礼の効果を日本の場合は天皇が引き受ける。日常生活のなかに浸透する政治的大きな出来事、たとえば、戦争といった出来事が、日常生活の美意識の枠組のなかで再解釈されることによって、戦争という悲劇が、政治的な悲劇にはならずに、むしろ政治的な美意識において肯定的な価値を持ちうるような特殊な回路が成り立つということだろう。戦争で死ぬことが犬死にではなく、「英霊」として祀られるということや犠牲者への慰霊のイベントが「美」として演出されることを通じて(靖国神社が桜の美によって象徴化されるように)、事柄の悲劇の責任問題を問うべき政治の領域を美的な価値が支配してしまう。こうして政治は美を味方につけることによって、崇高な価値を纏う一方で、戦争であれ災害であれ、悲劇は美的な賛美を可能にするいわゆる芸術の領域で再解釈される。

*愛国のイデオロギーとしての「自然」

橋川はこうした一連のプロセスを政治意識の美意識への還元と指摘した。ただし、この政治意識と美意識は直接接合するわけではなく、これを媒介する位置に「自然」の観念、とりわけ国学の自然観があったとする。

「『神州不滅』の理念は戦争体制を根本的に可能ならしめた思想にほかならなかったが、その場合においても、『神州』はどこまでも感性的自然としての日本国土を意味したのであり、Civitate Deiに含まれる超越的・被岸的意味は全く脱落していた。いわば、日本列島の実在性が疑われない限り、日本政治もまた実在的であるという非政治的次元でのみ、それは有効な政治原理として機能したのである」(97ページ)

「神州不滅」という物語によって、戦後日本は、「国土」の開発と工業化、農村の解体を戦前以上に一挙に展開し、ほぼ日本の農林水産業を壊滅的な状態に追いやり、地方の自然はもっぱら都市を支える資源と廃棄物の処理場になった。この延長線上に原発やダムの建設のような反自然の極致とでもいえる破壊が正当化された。こうした開発を主導したのは欧米の近代化にひたすら追従する中央政府の官僚と大企業だというのではなく、まさに、田中角栄に象徴されるような地方に基盤を持つ保守主義者たちだった。そして、こうした一連の自然破壊の開発をもまた「自然」と矛盾することのない事態として解釈する枠組が、この国の政治の文脈のなかでの「自然」意識が与えてきた。「美しい日本の自然」という決まり文句と「近代化・工業化による地域の発展」とが矛盾することのないものとして受け止められてきた。このような事態は、空襲や広島・長崎の原爆から幾度かの自然災害、そして福島原発事故の経験を経た現在においてもなお、矛盾することのない「美」として政治的な正統性を支えているようにみえる。

明らかに私たちが対決しなければならない現在の事態は、政治的な次元にとどまるのであれば、敵の核心を衝くことにはならないということを自覚することだろう。むしろ核心は、非政治的な領域にあって自然意識と美意識を現にある「日本」という国家に媒介する構造そのものである。そして、この構造を支えるところに、戦後の象徴天皇制のまさに象徴としての作用、表面は文化と非政治的な「美」の現れとして、裏面には政治を美意識に媒介するイデオロギー装置としての作用がある。

政治的意識と美意識を媒介する自然を橋川は「非政治的自然としてあらわれることによって、はじめから抵抗の対象たりえない本質として考えられた」(98ページ)と述べている。問題は抵抗の対象たりえない、という把握がもたらした抵抗の不在である。

「その場合、人間の政治的諸関係はむしろ自然関係として表象される。近代日本の文学史のいわゆる自然主義の「自然」が、ヨーロッパ的自然概念と異質の意識を前提していることはしばしば指摘されるが、そこでも自然は人間完成の即自的状況の意味であらわれ、いわば人間的欲望(主情主義)の展開として考えられている。すべてこのような自然概念の支配する精神風土において政治状態はそのまま自然状態と同一視されることになる。人間の欲望的自然の展開形態として考えられた政治は、いわゆる『欲望のナショナリズム』の表現にほかならないものであり、その帰一する究極の価値的イメージが、一種のコスモロギッシュな理念としての『天壌無窮』にほかならなかった」(98ページ)

橋川が主題としている日本浪漫派や近代日本文学にとって、自然をめぐる問題は、都市と農村という近代資本主義が抱えた本源的な対立における「農村」に関わる実体であったり、農本主義が立脚する「農」に象徴される――都市や工業と対立する――自然だったろう。しかし、こうした意味での農村経験が個人的にも世代を越えた時間軸においても希薄になっている現在、自然はまさに、イメージとして再生産された自然でしかないものになっている。しかしだからこそ、より一層その自然をめぐる意識操作の可能性の幅も広がっている。自然とは意識された自然だが、その自然は、バーチャルな自然から観光化された田舎の風景に至るまで、人工的な再構成物として、橋川が指摘した欲望のナショナリズムを支える構造を維持している事態は近代を一貫している。

こうして日本の政治、自然、美の関係はカール・シュミットがいう政治的ロマン主義と本質的に異なるものになるという。「政治の表象は人間の美的関心の領域に移行する傾きを示す」(98〜99ページ)として保田と小林を念頭に次のように述べている。

「まず、政治的現実の把握において、両者に共通するある態度が注目される。それは、政治を『伝統』もしくは『歴史』のうちに解消する態度である。そして、小林や保田において、『歴史』は『伝統』と同一化せられ、それらは、いずれもまた『美』意識の等価とみられたのであう。(中略)。保田においてもまた、「歴史」の追及と「美の擁護」とは同じ意味をもっていた。端的にいうならば、郷土大和の風土と伝承に対する耽美的愛着の同心円的拡大がかれの「歴史意識」にほかならなかったのであり、その場合の『歴史』とは、カール・マンハイムのいわゆる『同空間者』(Raumgenossen)の意識を内容とするものにほかならなかった。そこではもっとも人為的な『政治』の介入する余地はなかったのである。

このような精神構造において、ある政治的現実の形成は、それが形成されおわった瞬間に、そのまま永遠の過去として、_歴史として_美化されることになる。人間はいかなる鬱憤・怨恨をそれに対して抱懐しようとも、竟にその『昨日』に対して一指も染めるとはできない、そこでは、『永遠に昨日なるもの、われらをひきゆく』という断念が人生論の核心をなすことになる。こうして、_絶対に_変更することのできない現実―歴史―美の一体化観念が、耽美的現実主義の聖三位一体を形成する。保田や小林が『戦争イデオローグ』としてもっとも成功することができたのは、戦争という政治的極限形態の過酷さに対して、日本の伝統思想のうち、唯一つ、上述の意味での「美意識」のみがこれを耐え忍ぶことを可能ならしめたからである。いかなる現実もそれが「昨日」となり「思い出」となる時は美しい。保田は伝統的美意識へのアピールによって、『十五年戦争』の現実を『昨日』として、『歴史』として生きることを訓えたのであり、それらが永遠に崩壊することのない『美』の規範によって支えられていることを、自信を以って解釈してみせたのである。いわば、人間にとってもっとも耐えがたい時代を生きるもののために、あたかも殉教者の力に類推しうるものとして、現実と歴史を成立せしめる根源的実在としての『美』を説いたわけである。かれの『国粋主義』が、『ウルトラ・ナショナリズム』というよりも、むしろ『耽美的パトリオティズム』と呼ぶにふさわしいのは、そのためである。」(99〜100ページ)

*反近代としての絶対平和主義――戦後の保田輿重郎

自己愛と他者への憎悪を表裏一体のものとして戦時期のアジテーターをつとめた保田は、戦後の早い時期(まだ占領期)に『絶対平和論』(『全集』二五巻)を出す。保田の戦後の転身は、戦前戦中から戦後へと生きながらえた知識人の思想的転身のひとつの典型に過ぎない。ありふれた知識人の風景である。保田は多くを語ったが故にその変節が露出したのだが、沈黙を選択した処世術に長けた者達が心中に抱えていた価値観の転換の内実は、保田と変るところはないと思う。戦争の崇高さを「平和」の文脈のなかで実践した昭和天皇も、保田とほとんど同じ転換の軌跡を辿ったに違いないと思う。

保田は戦後も保守主義を捨てたわけでもないし愛国者であることをやめたわけでもなく、一九世紀近代西欧の価値観を嫌い、左翼を嫌い続けた。だが『絶対平和論』のなかで、新憲法、とりわけ憲法9条を肯定してみせる。

「今日の日本は、戦争をせぬ、武備をもたぬと宣言したのです。そのいきさつはどうでもよいのです。これは一つの事実です。軍需重工業と近代生活の進歩と繁栄とは、不可分のものです。この点で日本は自らも近代生活に限定を加へたのです。」(18ページ)
「この宣言は単に日本がしたものでなく、世界中の理想をもつと考へる人々が集ってした共同宣言だと考へんばなりません。さらにそれに連合国軍が加っています。彼らも必ず信義というものを解する人々でせう。」(19ページ)
「日本の中立を持すことは、日本の国と民族の将来を守る自衛と考へられるのです。」(19ページ)

右派が執拗に批判する憲法制定の「いきさつ」には全く関心を寄せず、連合軍は信義に厚にに違いなく、だからこれを受け入れるべきだという。自衛権についての考え方は更にユニークだ。自衛権を人文上の権利であって軍事的な行為ではないとして次のように述べる。ある意味で、「人間安全保障」に近い考え方かもしれない。

「軍備をもたない現在の日本の自衛権の現し方は、我々が戦争に介入せぬ生活を国全体の計画として立て、一切の戦争介入の危険を勇気を以て拒絶する以外にない筈です」
「この意味で治安のための警察力を拡大し、時によっては国際法上の自衛権の発動に役立てようなどと考えることは、極めて危険な考へ方です。それは大義名分を紊した一個の妄想にすぎないのです」(21ページ)

その一方で保田は、新憲法の「基本思想」では九条は守れないとも言う。なぜなら「新憲法のいふ文化とその生活は、十九世紀的な生活を基礎としたもの」であるからだという。私もまた近代国民国家の統治機構をとる限り非武装を実現することの矛盾をこれまでも指摘し、平和は近代国民国家を基盤とする近代資本主義を前提にしては解決しないと主張してきた。この限りで保田の上の主張とほぼ重なる。しかし、彼がなぜこのような主張を展開したのかというところになると私とは真逆の方向へ向う。彼は「最も重要なこと」として次のように言う。

「[平和主義によって]遠い祖先からうけついできた、倫理をもつ国と民を、その倫理の道に於て永遠に光輝あるものとして守ることが出来るといふことです。我々の云ふ絶対平和生活は、平和を守らうといふ必要から考へた思想ではなく、日本の神々の代から、日本の道として伝へてきた道なのです。」(23ページ)

私はこの文章を読んだとき、近代の歴代天皇がいう「平和」のイロニーを理解したように感じた。天皇が公然とは語ることはしないまま、その日常の祭祀や公務を通じて実践してきた行為の意味は、保田が上で指摘する「遠い祖先からうけついできた、倫理をもつ国と民を、その倫理の道に於て永遠に光輝あるものとして守ること」なのではないだろうか。天皇は、儀礼的な行為や文化への関与のなかでこれを体現してきたとは言えないだろうか。天皇は、汚辱にみちた国家を「美学」、崇高な対象へと転換する浄化装置であることによって、想像上の理想モデルとしての「日本」を現実の日本に重ね合わせて正当化するイデオロギー装置となるる。だから幸徳が述べたように、この崇高な価値に裏付けられた愛国心が、同時に、強度の敵意を醸成する、幸徳が免責した天皇はやはり免責すべきではなかったのだ。

ヘイトスピーチの根源には、暴力とは真逆の、「日本」をめぐる文化や伝統、美や詩的な世界といった人文主義的な「崇高」を構成する世界がある。この世界では、平和や人権といった権利概念は武器にはならない。これを異化し解体するにはどうしたらいいのか、という課題を担わなければならない。

保田が観念する詩的で美的な日本などどこにも存在しないし、天皇が平和の言説で意図している日本もまたどこにもあったためしはないが、彼らはそれを、あたかも将来実現しうるに違いないものとして示唆することによって、人々は生きる今現在の「日本」をこの仮想の将来へと至る道程にあるものだという錯覚に陥いる。幸徳が指摘したように、今現在の社会をどのように将来へと延長してみせたとしてもそこには平和や正義を体現する社会などは現われない。保田の絶対平和主義は虚構の域をでることは絶対にない。私たちが暮す社会は、搾取と差別をその根源に据えた近代資本主義「日本」の矛盾に満ちた社会を見てみないからだ。幸徳が夢とした平民自治の社会、労働者共有の社会は今ここにある「日本」の延長上にはなく、道は新たに創られねばならない。

(『季刊ピープルズプラン』81号掲載論文に加筆しました)

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