絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(3)

投稿日: コメントするカテゴリー: オリンピック共謀罪監視社会資本主義批判

絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(1)

1.今国会への共謀罪上程に際しての政府・自民党のスタンス
2.戦後体制はそもそも絵に描いた餅だったのかもしれない
絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(2)
3.共謀罪容疑での捜査に歯止めをかけることはできない
4.越境組織犯罪防止条約は批准する必要がない(以上前回まで)


5.共謀罪を支える操作された「不安」感情

かつての共謀罪では、越境組織犯罪防止条約でいう文字通りの意味での組織犯罪(薬物、銃器、人身売買などを念頭に置いた条約である)を主要なターゲットとするものとされたが、その対象犯罪や処罰の内容から、深刻な副作用として、社会運動や市民運動あるいは政治活動などへの弾圧の手段として共謀罪が用いられるであろうという危惧がもたれた。しかし今回は、条約を根拠にしながらテロ対策を前面に打ち出した。このことが、反政府運動にとっては、深刻な副作用どころか、自らの運動が主要なターゲットとされて共謀罪が登場したということを意味している。こうなると共謀罪を活用するのも、刑事警察よりも警備公安警察になる危険性が高くなる。これが治安維持法の再来ではないかと言われる所以でもある。

人びとの行動を新たな立法で取り締まるために政府が用いる手法は、人びとの不安を煽るという方法である。(不安という感情をめぐる問題については拙著『絶望のユートピア』参照)不安感情は、自分ではどうすることもできない未だ到来していない脅威と感じる何ものかを想起することによって喚起される。明確にその存在が実感できる脅威には恐怖や怒りの感情が対応するが、不安は、あいまいで漠然とした将来自らの身にふりかかるかもしれない具体的に指し示すことのできない出来事への畏怖の感情である。テロリズムは恐怖(terror)の感情を喚起するものであるとすると、この感情とは本質的に異なる。不安の解消は、このような未だ存在しない事柄そのものを排除する力によって与えられる。共謀罪がテロリズムを前提とした立法であると言われながら、もっぱら政府が強調するのは恐怖ではなく不安感情の喚起である。感情のレベルで共謀罪を正当化するために、なぜ恐怖ではなく不安感情が煽られるのかといえば、共謀罪を必要とするような具体的で目前にある恐怖がそもそも不在であるからだが、それだけでなく、不安感情そのものが権力が自らの統治の自由(逆に、人びとの自由の抑制)への人びとの同意を獲得する上で欠かせないものだからだ。

共謀罪賛成の議論は、犯罪が起きてから対処するのでは被害者が出ることを防げないではないか、という不安感情に訴える議論を展開し、被害を出さないためには、犯罪の実行行為に至る前に取り締まりをすることが不可欠だと主張する。こうした言説は、誰もが犯罪は起きるよりは起きない方がいいと考えるから、犯罪への不安感情を当然の感情とみなして、実行行為よりもずっと手前のコミュニケーション(実行行為の是非をめぐる意見交換やデイスカッションなどから実行行為を想定したとみなされうる議論などまで)に遡って、犯罪抑止のための捜査や取り締まりを実行することが「安全・安心」を確保する最善の方法であるとして、共謀罪を正当化するなかなか手強い主張である。

しかし、そもそもこうした不安感情という主観的な実感の構造を当然の感情として前提していいのだろうか。不安を喚起する感情の構造は、哲学や心理学が想定するような個人の内的な精神状態(キェルケゴールであれハイデガーであれ、精神分析であれ)ではなく、人間の社会的な関係に深く影響を受ける操作的な感情である。権力は人びとの不安感情を操作することを通じて、自己の権力基盤を強化しようとするという点を見落してはなるまい。不安感情は実感として個々人が感じとるので、この実感を否定することは難しいが、不安の根源にある事態が、この感情を惹起するに値いするだけの根拠をもっているかどうかについては、権力の意思をかなりの程度反映している。例えば、政府は、原発による放射能汚染や被ばくのリスクに対しては、人びとの不安感情を風評被害などと称して否定する。米軍基地やオスプレイのリスクへの住民の不安感情も政府は否定し、反対運動が不安感情を煽ると批判する。その一方で、アベノミクスがもたらす雇用不安や貧困の不安を「成長」の夢物語や金融市場の価格操作で帳消しにしようとする。政治の言説では、不安は常に「敵」によって喚起されるものとして物語が構築されるから、不安の解決とは「敵」の排除にある、ということになるから、不安の排除=安全・安心=予防的な措置による「敵」の除去あるいは排除という等式が当然のように持ち出される。例えば、さし迫った脅威もないなかでオリンピックへのテロや朝鮮民主主義人民共和国への不安が煽れる。つまり人々の不安感情の構造は、個人の内面から説明することはできず、人間の社会関係によってしか説明できず、ここには権力の自己維持機能と不可分なメカニズムが組み込まれているということである。

テロの言説は、本来は恐怖の言説であるが、差し迫った恐怖が不在なときにこの言説は不安の言説に転化する。あるいは権力者はこうした語の効果を計算に入れて、不安を煽る目的でテロリズムを口にする。権力者にとっては、自らの権力に敵対する存在は、権力にとっての脅威であり、具体的な誰が、という特定ができない大衆的な敵対(反政府運動の集団性)こそが、それがいかに少数であっても、その背後に不可視の大衆的敵意の影を感じる権力は、不安をかきたてられる。権力は、この不安を人びとの感情に転移させて権力の不安をあたかも人びとの不安であるかのように生成する。その具体的な転移のメカニズムが立法による反政府運動の犯罪化であったり、マスメディアなどを利用した世論操作であったりする。権力に敵対する大衆と権力の不安を内面化した大衆という二つの大衆的な感情の摩擦が生み出される。反政府運動のデモや集会は、既存の社会秩序への正当な異議申し立ての権利であり、民主主義を標榜する国家であれば当然存在する多様な価値観の表明だから、こうした対立は社会の正常な姿である。しかし、権力の正統性が揺らいでくると、こうした対立を調整する力を喪失する。あらゆる反政府運動をテロと連動するかのような物語をつくりだして、秩序を乱す犯罪行為に分類しようとする。反政府運動は権利の運動ではなく、人々を不安に陥れる不穏な活動であるという印象を植えつけようとし、権力にとって、うさんくさいもの、自分たちの存在を脅かすかもしれない不安なものを、大衆の心理に転移させようとする。大衆のなかに、それがたとえ自分の思想信条とは異なっていても民衆的権利の行使であると冷静に理解することが不安感情によって妨げられるようになる。こうした不安感情が大衆意識として醸成されることによって、思想信条やライフスタイルにおけるマイノリティは社会的排除の対象となる。権力は、民主主義や自由の権利を掲げながらも、支配的な思想信条と相容れない思想信条への不安を巧みに扇動し続けることによって、現政権の支配的な思想信条を正当化し、敵対する価値観に基づく運動を犯罪化して排除しようとする。欧米諸国であれば、イスラム教が、逆にムスリームの諸国ではキリスト教が不安をもたらすかのような雰囲気が醸成されてきた。あるいは、西欧資本主義諸国では、一貫して共産主義、アナキズム、無神論が不安をもたらすものとして「法律」によって犯罪化されさえした。社会主義の諸国でも資本主義やアナキズム、宗教的信条が犯罪化された。近代国家日本は、戦前から現在まで一貫して、この「不安」を、共産主義者やアナキストあるいは新興宗教といった思想信条をもつ者たちと、周辺諸国の人びと(「日本」へのアイデンティティを持つ必要のない人びと)に向けてきた。

こうして、この不安に対処するためには、未だ起きていないし起きることが確定しているわけでもない出来事を除去することがその対処方法だとみなされがちであるから、政府は、こうした不安感情を政権にとって有利なように操作する一方で、政府こそが不安を解決できる力をもつこと、この不安を解決するには、不安の元凶である「敵」を予防的に排除すること、そして政府にはこうした予防措置をとる力があることを誇示して不安感情を解決できる唯一の存在であることを印象づけようとする。政府は、既存の社会システムの矛盾を棚上げにして、不安の原因をもっぱら「犯罪」や反政府運動の当事者に転嫁する。

従って、不安感情は、既存の支配システムへの依存感情を生み出し、この感情を政治的に操作するなかで構築されるものだということを理解することが必要だと思う。犯罪は、こうした不安を醸成する最も一般的な行為とみなされる。この観点から見た場合、法律は、不安というあいまいな感情生成の政治社会構造に支えられて、あらかじめ不安を除去する権力の行動を正当化する一方で、人びとが自らの自由を権力に譲渡し、権力の自由な行使に委ねるための規範メカニズムだとみることができる。

6.テロリズムのレトリック

テロリズムは、反政府運動を不安の感情のなかに絡めとることを通じて、権利の犯罪化を正当化するためのレトリックの言葉となる。だからテロリズムの定義は、法律の条文でどのように規定されようと、語の意味内容を指し示すことはない。この語の本質は、権力がみずからにとっての不安や脅威となるであろう存在を排除する力の行使を正当化するための概念として権力によって与えられるあいまいさをその本質としている、とでも言うしかないものだ。つまり国会でいかに重箱の隅まで突っ突いて条文解釈の厳格さを担保するような議論をしたとしても、条文の恣意的な解釈と現実への適用を国会が制約することなどできないということだ。

今回の法案上程の趣旨は、条約を盾にとってテロ対策をメインにもってくることによって、むしろ社会運動、市民運動や政治活動を主要なターゲットとするものとなったわけだが、このことを条文に即して述べておく。

法律でテロリズムの定義が示されたのは2013年の不特定秘密保護法が最初かもしれない

「政治上その他の主義主張に基づき、国家若しくは他人にこれを強要し、又は社会に不安若しくは恐怖を与える目的で人を殺傷し、又は重要な施設その他の物を破壊するための活動をいう」

この定義は、2016年に成立したドローン飛行の規制法(国会議事堂、内閣総理大臣官邸その他の国の重要な施設等、外国公館等及び原子力事業所の周辺地域の上空における小型無人機等の飛行の禁止に関する法律)にもそのまま継承されている。しかし、ここで定義されているテロと称される犯罪が、対テロ戦争以降起きたことはない。この意味では、立法事実を欠いた政治的な意図をもった法律だといえる。

また、一般に「テロ資金規制法」などと呼ばれる法律(正式には「公衆等脅迫目的の犯罪行為のための資金等の提供等の処罰に関する法律」)では、条文にテロリズムの文言はないが、対象犯罪を「公衆等脅迫目的の犯罪行為」として、第一条で次のように定義しており、テロリズムの定義とみなしうる内容といえる。しかしこれもまた、この定義に該当するような事件が起きたことはない。

「第一条  この法律において「公衆等脅迫目的の犯罪行為」とは、公衆又は国若しくは地方公共団体若しくは外国政府等(外国の政府若しくは地方公共団体又は条約その他の国際約束により設立された国際機関をいう。)を脅迫する目的をもって行われる犯罪行為であって、次の各号のいずれかに該当するものをいう。」(以下略)

秘密保護法などにある「殺傷」「破壊」という文言は、かなり強烈な印象を与えるが、反政府運動の検挙の口実で用いられるほとんど言い掛かりといってもいいような容疑、たとえば公務執行妨害や建造物損壊などの容疑のこれまでの例をふまえると、条文が警備公安警察によって恣意的に拡大解釈されて転用され、それを裁判所が令状発付で追認する危険性は確実にある。国会の法案審議では、こうした警備公安警察の恣意的な法の運用の常態化の現実を抑制する実効性を担保できない。むしろ政府与党はこの立法府の限界を十分承知した上で、「テロリズム」の対象を広範に解釈して反政府運動全体を視野に入れるだろう。

例えば、テロ資金規制法では「脅迫する目的をもって行われる犯罪行為」とあるが、脅迫なのか正当な抗議の意思表示なのかを判断して捜査、取り締まりに着手するのは警察である。(第一条には上記引用のあとに犯罪類型が列挙されている)デモであれストライキであれ、ピケッティングであれ、団交であれ、抗議声明であれ、人びとが権力に抵抗して示す行動や意思表示は、権力側からは「脅迫」とみなして摘発の対象にしようとする動機を持つことは容易に想定できる。

人びとの権利の防衛あるいは拡大、あるいは自由は、他方で権力の権利の抑制、権力の自由の制限になる。この権利のゼロサムゲームのなかで、法律解釈の力を権力側が握る。日本の議院内閣制では、政府与党が執行権力と癒着することが正当化されるように制度設計がなされ、右翼改憲派である自民党が一貫して政権を担い議会の多数を占めてきたことから、違憲立法が常態化し、この立法を根拠に、更にその恣意的な法解釈によって行政権力こそが法であるという政権と官僚の法意識が大衆の権利なき法感覚を定着させてきた。だから、共謀罪でテロの定義が明示されようとされまいと、反政府運動がそのターゲットとなることに変りはない。この構造は、人びとの抵抗を無化し、人びとの権利を抑制・制限する方向で法を利用しようとする権力の意思を支える。権利のための闘争とは、こうした既存の権力を支える構造を覆すことによる人びとの権利と自由の獲得を意味する。

7.オリンピックと共謀罪

共謀罪の必要性について、政府の言い分で新たな必要性の理由づけの中心に据えられたのが、2020年東京オンピック・パラリンピックの開催に伴うテロ対策に必要な立法措置だという主張だ。しかも安倍は、共謀罪が成立しなければオリンピックは開けないとまで言う始末だ。(1月23日テレ朝東京新聞)安倍政権にとってオリンピックとはスポーツイベントではなく治安維持とナショナリズムのための総動員体制とこれを実現するための社会的排除、反政府運動の犯罪化が主要な目的となっているのであって、スポーツそのものに関心があるわけではない。もともとオリンピックという国際イベントは、その当初から、国家が莫大な予算と絶大な関心を抱く権力の政治的な思惑と切り離せないものであって、スポーツはそのための格好の手段、ナショナリズム高揚の舞台装置であった。

今回の共謀罪上程に際して、安倍政権がオリンピックを前面に持ち出した理由は、幾つか考えられる。

(1)これまでオリンピックがいわゆる「テロリズム」の標的になったケースが確かにある。有名なのは、1972年のミュンヘンオリンピックだろう。現在のいわゆるイスラーム原理主義者たちの動向から国際イベントがテロの脅威に晒されることを危惧するスタンスは世論に受け入れられやすい。しかし政府や警察が直接念頭に置いているのは、リオ五輪で生じた広範な反対運動ではないか。テロは不安を喚起するためのレトリックであり、実際の取り締まりのターゲットはオリンピック反対運動になる。オリンピック反対運動はテロリストの運動だというフレームアップによって、民衆の生存権の闘争を犯罪化する方向に向うのではないか。特にポスト冷戦期のオリンピック反対運動は、どこの国でも、都市の貧困層の居住の権利や都市再開発反対の運動と連動したり、反グローバル化運動とも重なりあう潮流でもある。(小笠原博毅、山本 敦久編『反オリンピック宣言』、航思社参照)共謀罪はこうした運動を弾圧する道具として用いることが想定されていることはまず間違いない。

(2)オリンピックに反対する国会の野党勢力は皆無である。与野党こぞって賛成するオリンピックという国家行事がテロの脅威にさらされる可能性があるとすれば、これを未然に防止するための法的措置をとるという政府の理屈に、国会内で反対する勢力はいないだろうと政府は見ているのではないか。これは戦争法とは全く異なる政治状況である。オリンピックについては、中道・左派野党のかなりの部分が容認、あるいは条件付賛成、あるいは反対はしない、という立場であり、オリンピック反対を明確に主張する政党はない。オリンピックのようなスポーツイベントの政治的な本質を理解できずに、有権者の支持を失なうことを危惧して政権政党のプロパガンダの本質を批判する言語を持てていない弱さがある。

(3)議会外の市民運動などでも、オリンピック反対は極めて少数であり、かつ国会内にほとんど影響力をもっていない。戦争に反対する論理の蓄積は運動にはあるが、オリンピックをはじめとする文化イベントや国家事業に反対する論理が運動の側の共通認識として確立されていない。政府は、戦争法反対運動のような広範な反対勢力は登場しないと見ているのではないか。国会内野党であれ議会外の市民運動であれ、ナチスのベルリン・オリンピックをスポーツの祭典だからという理由で、ナチスの政治と切り離して肯定するような共通理解はないと思う。むしろナチスに利用された政治イベントとしてのオリンピックだと理解されているのではないか。文化イベントの政治性、とりわけ国別で競われるイベントがナショナリズムを喚起し、それが戦争や国際的な対立の感情的な基盤を形成するということへの危惧を持つことがこの対テロ戦争の時代には重要なことであるはずだ。オリンピックは形を変えた「戦争」の一環でもあるのだ。だから、2020年東京オリンピックを安倍極右政権による政治イベントだという認識を持つ必要がある。安倍政権に反対する諸々の運動の最大の問題は、ナチスのオリンピックと自民党のオリンピックを本質において同質のものと理解することに失敗している点にある。

まず共謀罪ありきであって、この法案のためにオリンピックが必要とされているのだ。この共謀罪の成立にはどのような戦術をとれば世論や国会の合意を形成できるかが計算され、世論に受け入れられやすい(あるいは否定しがたい)シナリオが何なのかを念頭に置いて、そこにオリンピックを位置づけ、共謀罪をこのシナリオに沿って正当化する手法をとっている。

なぜそうまでして共謀罪を必要としているのか。既存の法律の恣意的な運用や拡大解釈ではなぜダメだと政府は考えているのだろうか。ありうるとすれば、拡大解釈や恣意的な運用の範囲を越えた領域に網を拡げたいということだろう。そうなると、想定できるのは、政府が人びとの内心を監視し、干渉し、思想信条のレベルでの統制や摘発をしたがっていることではないか。本来、政治は、様々な対立する主張や意見を前提として、討議を通じて合意を形成し、これを法として成文化し、この法を基準として権力の行使を行なう。多様性を一つの「法」に収斂させる力を権力が持てなくなると、多様性を排除しようとする動機が生まれる。現在の日本の権力機構になかで起きているのはこうした事態ではないか。そうだとすると、外見上は権力基盤は磐石にみえるが、実態としては合意を形成することができない脆弱性を内包させているともいえる。(続く)

絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(2)

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絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(1)

1.今国会への共謀罪上程に際しての政府・自民党のスタンス

2.戦後体制はそもそも絵に描いた餅だったのかもしれない (前回まで)


3.共謀罪容疑での捜査に歯止めをかけることはできない

政府が共謀罪から「テロ等準備罪」に名称変更したこと、そしてテロ対策を前面に押し出してきたことは、前述したように、共謀罪の本質が維持されただけでなく、政治活動や思想信条への監視・取り締まりにシフトすることになったことを意味している。また、「共謀」と呼ばずに「準備」と呼ぶことによって、準備罪の定義が共謀を含むものに拡張されることになった。安倍政権は、治安立法としての共謀罪という性格を公然と打ち出しても世論の批判は少数に留まるという強気の判断をしているのだろうと思う。

「準備罪」という名称をどう考えたらよいだろうか。これは共謀罪という評判の悪い名称を隠蔽するずる賢い手口であるだけでなく、従来からある「準備罪」の概念を共謀まで含むものに拡大してしまう恐れをもつのではないだろうか。また、犯罪を実行する目的で行なわれる準備行為を「予備罪」と呼ぶが、その明確な定義があるわけではないから、この予備罪もまた共謀を含む概念として恣意的に解釈される可能性がでてくる。

これまでの既遂以外の犯罪類型には、未遂、準備、予備、陰謀などがあり、概念そのものが混乱している。実行行為の前段階の「行為」を客観的に区分けできるような定義がいかに困難であるかを法律概念の混乱そのものが如実に示している。言い換えれば、既遂以外の行為を客観的に定義することは論理的には不可能であって、常に捜査機関の主観的・恣意的な法律解釈なしには成り立たないのだ。既遂の事件であれば、行為を特定し、その行為の物証となる物を特定できるが、実行行為以前の事柄を事件と結びつけようとすると、この「結びつけ」それ自体に捜査機関の解釈が介入せざるを得ず、客観性は維持できないからだ。定義があいまいなまま様々なカテゴリーに行為を分類すると、更にまたこのあいまいさの隙間を埋める必要からカテゴリーの細分化が進行する一方で、それが法律による縛りにはならずに、逆に、法執行当局に恣意的な解釈を委ねるような法律の適用を横行させることになる。共謀罪は、既遂の行動が捜査の着手点にするのとは異なり、時には様々な矛盾をはらんだコミュニケーションを含む広義の意味での「行為」全般を捜査の出発点に据えることを合法化してしまう。その対象犯罪の数がどうあれ、既遂の犯罪を処罰する刑法の基本(と私たちが考えている性質)を根底から転換させるものだ。

対象犯罪に関して政府案は「懲役4年以上」としており、600以上の犯罪が対象になることが争点となっている。絞り込みを前提として共謀罪を容認するという対応を公明党は取りはじめており、毎日も社説で「テロ等準備罪 犯罪の対象が広すぎる」ことに懸念を示すというスタンスをとっているために、数を絞り込めば共謀罪もアリであるかのような印象が拡がりつつある。これは共謀罪の本質をあいまいにする議論でしかない。

共謀罪の本質は、共謀という行為を犯罪化できるという枠組が確立するという点にある。行為そのものではなく、コミュニケーションや思想信条を含む「共謀」行為を犯罪の概念として確立させるということが今回の法案の最大の問題点なのであって、その罪数や対象の集団の性質は問題の本質ではない。この点は一歩も譲ってはならない大問題である。いったんこのような犯罪の枠組が定められてしまえば、当初の法律がいかに対象犯罪が絞られようと、いかに対象の集団が「組織的犯罪集団」とかテロ集団などとして定義的に限定されようと、近い将来、対象犯罪が拡大され、対象の集団の範囲も拡大されるような改悪に容易に道を開くことになる。治安維持法であれ盗聴法であれこうした道をとってきた。

この点を踏まえた上で、対象犯罪についての政府側の主張にみられるある種の情報操作を指摘しておきたい。窃盗(刑法235条)、詐欺(刑法246条)や恐喝罪(刑法249条)などは「10年以下の懲役に処する。」と定められているから、共謀罪の対象犯罪になる。しかし、刑罰の下限は規定がない。軽微であり到底懲役4年にもなるとは思えないような事案であっても、懲役4年以上の刑罰規定があるので共謀罪が適用され、共謀罪容疑の捜査や逮捕・拘留が可能になる。この問題が深刻に議論されてきていない。

たとえば、捜査機関は、争議の実績のある労働組合や非暴力直接行動をとる市民団体などを「組織的犯罪集団」と恣意的に分類することができるし、どのような団体を組織的犯罪集団とみなしているのか、そのリストは公表されない。労働組合が会社に、市民団体が行政に団体交渉することを「恐喝」の可能性を疑いうると解釈して、そうであるなら共謀罪適用が可能との口実をもうけて、捜査に着手するかもしれない。当該団体が「共謀」しているかどうかの証拠を収集しなければならないから、会話や通信を傍受したりメンバーの動静を追跡・監視するといった行動が正当化されてしまう。あるいは共謀罪容疑で逮捕・拘留や強制捜査を行なうということ自体によって、起訴しないとしても運動への弾圧効果をもたらそうとするかもしれない。

また、共謀罪容疑での捜査や取調べで得られた情報を、起訴されなかったからといって廃棄する義務はなく、こうした情報を別の捜査目的で利用することを違法とする法律もない。共謀罪の成立は、反政府運動の監視と取り締まりにこれまでは警備公安警察が公然とは介入できなかった領域に、予算と人員を割り当て、足を踏み入れて干渉する権利を与えることになる。

共謀罪の対象犯罪での立件とは別に共謀罪単独でも立件できるので、逮捕拘留の更なる長期化が可能になる。たとえば、恐喝の共謀容疑で逮捕拘留して23日拘留し、拘留期限が切れるときに容疑を恐喝に切り替えて再逮捕、拘留延長ができる。3週間以上の裁判なしの拘留が可能な現状にあっても、警察はこの権限を最大限に活用して、外部との接見を制限し、本人に対する心理的な拷問を加える手段に用いられる。3週間も逮捕されると仕事を失う可能性も大きく、しかも警察の記者クラブを利用して警察にとって都合のよい情報をメディアに流し、逮捕=犯人という印象をメディアは与える一方で、メディアは被疑者への取材を後回しにし、警察は被疑者本人のメディアのアクセスを阻止する。共謀罪はこうした傾向に拍車をかけることになる。

共謀罪の萎縮効果はこれにとどまらない。実行犯でなくても共謀に加わっただけで共謀罪で検挙される。議論に参加したが、実行行為には参加しなかった場合であっても、共謀罪に問われる。したがって、自らの思想信条を表明することだけでも犯罪とされる可能性をもつ。どのような関わり方が犯罪とみなされるのかは捜査機関の裁量に委ねられ、国会での法案解釈論議は拘束力をもたない。行動に参加しなくても行動を支持するような考え方を述べることが、共謀の疑いとして少なくとも監視の対象になることから、こうした息苦しい環境のなかで、犯罪とみなされる可能性のある反社会的あるいは反道徳的な価値観や考え、あるいはこれらを表現することそれ自体が違法ではないかとの危惧が抱かれて、作者だけでなく、メディアや出版社などの自主規制を招く危険性がある。一般論として言えば、小説、映画、ゲームなどのフィクションのなかですら、自主規制がなされる危険性がある。少なくとも反政府的な言説は、フィクションはもちろんのこと、諷刺などで反道徳的と政権がみなすかもしれない内容が含まれていても幅広く認められなければならないにもかかわらず、こうした雰囲気としての自主規制の範囲が拡がる危険性がある。

これまでも警備公安警察は、反政府運動の活動を取り締まるために上で例示したような犯罪類型を恣意的に適用することは珍しくなく、しかもかなり強引かつ社会常識からみても適法の範囲内の行為であっても、検挙される場合がある。逮捕や強制捜査の令状も裁判所はほぼ捜査機関の言いなりで発付するという癒着が常態化している。捜査機関には対象となる行為が懲役4年以上になるかどうかを判断する権限はないことを逆手にとって、共謀罪対象犯罪としてリストアップされた犯罪については、いかに軽微な犯罪であっても共謀罪での捜査に着手することができるようになる。政府は意図的と思われるが、懲役4年以上という文言だけを強調するので、懲役6ヶ月などという場合には適用されないかのような誤解を与えようとしている。

上に述べたように、共謀罪があるかないかでは、捜査機関の初動捜査のタイミングや範囲・規模、人員や装備などの予算措置が大きく異なることになる。共謀罪が適用される集団構成員の範囲を特定するためには、集会参加者、デモ参加者、カンパや機関紙誌購読者などを網羅的に監視するという方向に進むだろう。機関紙誌の定期購読者や集会の参加者を集団の構成メンバーとみなすことができるかどうかは、捜査機関の裁量による。実際には警察は情報収集活動を行ない、メンバーを特定し、一人一人の集団との関わりを捜査することなしに集団の構成員かどうかの判断を下すことはできない。ネットの情報環境を前提すれば、ウエッブへのアクセス、FacebookやtwitterなどSNSの利用者の言論内容や行動、相互の繋がりなどから広範に人間関係を特定することが重要な捜査活動になるだろう。盗聴捜査や通信事業者との協力関係がこれまで以上に促進されるだろう。そしてこうした全ての活動が適法なものとして予算措置が公然ととられることになる。

このように、共謀罪が反政府運動に対して利用される最も危惧すべき事態のひとつは、こうした事実上の監視のための利用である。こうした利用を明示的に法律の条文で禁ずることはできない。禁じてしまえばそもそもの犯罪としての共謀罪の捜査は不可能になるからだ。言い換えれば、共謀罪を認めるということは、歯止めなく人びとの自由に干渉あるいは介入する権利を公権力に与えるということにならざるを得ないということである。国会質疑では、こうした恣意的な運用や監視のための手段としての共謀罪の運用を政府は否定するだろうが、共謀罪反対の野党側は、この政府の否定のごまかしに有効に反撃できる論理を立法府という限定された土俵の上で構築することはほぼ不可能だろう。押し問答の末、付帯決議などという形式的な歯止めの約束に対して、現実の執行機関は一切拘束されない。だから国会審議は、悲しいことに茶番劇でしかない。この茶番の挙句に、国会で成立した法律は具体的な物理的強制力をもって私たちの自由を奪うことができるのだ。メディアもまた国会で政府が「確約」したことが法に反映して執行機関を抑制できるかのような印象を与えかねない報道しかできない。現場の執行機関が法を解釈し、運用するのであって立法府の立法意思は何らの効果も持たないということがメディアでは報じられない。このような立法府の限界と法執行機関の歯止めなき権力行使が、いかに人びとの権利を侵害する深刻な温床となり、国家権力にフリーハンドの権利濫用を認めることになっているのか、このことを制度の根源に遡って批判的に検証すること自体が運動化されることが必要だ。

4.越境組織犯罪防止条約は批准する必要がない

共謀罪の前提として越境(国際)組織犯罪防止条約を必要とする政府の主張を一部マスメディアも支持している。サンケイは1月11日の社説「テロ準備罪、国際連携に成立欠かせぬ」で「国連は2000年、国際社会でテロと対峙(たいじ)するため「国際組織犯罪防止条約」を採択した。各国に共謀罪を設けることを求めて批准の条件とし、すでに180カ国以上が締結しているが、共謀罪を持たない日本は先進7カ国(G7)で唯一、締結に至っていない。」と述べ、読売も22日付社説で「テロ対策などでの国際協力を定めた国際組織犯罪防止条約の加入に必要なものだ」と述べている。あたかもテロ対策の条約であるかのようなこの説明は明かに間違っている。

越境組織犯罪防止条約は、1990年代に、米国の覇権主義が勝利したかにみえる冷戦後の世界秩序にとっての最大の脅威はもはや社会主義・共産主義ではなく、薬物、銃器、人身売買といった国際的な犯罪であるという理解を背景に制定されたものだ。つまりポスト冷戦時代の不安の中心にこうした越境的な組織犯罪を置いたのだ。2001年以降の対テロ戦争以前の世界の枠組でのことだ。

越境組織犯罪防止条約については、共謀罪反対運動のなかでも、日弁連の主張にあるように、条約そのものの意義を肯定する主張が多数派だろう。しかし、わたしはこの条約には問題が多いと考えている。一言その問題点を述べておきたい。現在の世界の現状を見ればわかるように、この条約を180ヶ国以上が締結しているにもかかわらず、薬物、銃器、人身売買のいずれについても国連の思惑通りには効果を上げていない。理由は簡単だ。いずれも組織犯罪を摘発して解決できる問題ではなく、政府や企業がときには関与する構造的な問題だからだ。

例えば、薬物は、社会の貧困の問題と密接に関わる一方で、薬物に関するどのような行為を「犯罪」とするのかは国や文化で大きく異なる。薬物は、所持や自己使用を個人の自由に委ねるが売買は禁止するという国がある一方で、日本のようにいずれも違法とする厳罰の国もある。また大麻のように国際的には合法化の動きが活発な対象もある。貧困問題を置き去りにした薬物対策は貧困層への差別と社会的排除という治安維持の手段にしかならない。また薬物の問題は、犯罪行為に関連する薬物と、医療で用いられる薬物、軍が用いる向精神薬、スポーツにおけるドーピング対象となる薬物、町のアスレチックジムに通う人たちが用いるサプリメントといった合法・違法の境界を越えて社会に蔓延する「薬」と製薬産業と国策としての健康スポーツの全体を視野に入れないとその本質は理解できない。銃器は言うまでもなく、武力紛争と多国籍兵器資本を頂点とし末端の武器商人に至る構造のなかで流通しているという意味でいえば、武力紛争や武器輸出の元凶となっている兵器産業大国の構造的な問題の解決なしには問題の解決は不可能だ。人身売買もまた固有の困難な問題を抱えており、正当な移住労働者がセックスワークを職業として選択する労働者としての権利の問題も含めて、労働市場のいかなる取引きが「人身売買」であり、いかなる取引きが「雇用契約」なのか、その境界は決して明確ではないのだ。この点からすれば、人身売買の問題の根源は、〈労働力〉を商品として売買するという労働市場の存在そのものの問題を問わざるをえないところに結びつく。また米国は、人身売買に寛容な国かどうかといったランキングを行なって、外交の手段に利用してきた。人権や人道を外交のかけひきの手段とし、人道を口実とした武力介入すら正当化する一方で、問題の本質にある資本のグローバル化や国民国家がもたらす貧困と紛争を解決する意思をもたない先進諸国にとって越境組織犯罪防止条約は、ポスト冷戦の対テロ戦争に本格突入する前の時代を背景として、西欧的な人権の欺瞞を第三世界に押し付けるイデオロギー色の強い条約だったといえる。そしてまた、国際組織犯罪の捜査を口実とした捜査機関のグローバル化(先進諸国の警察のグローバル化)を正当化する条約でもあるといえた。越境組織犯罪防止条約を締結しても薬物、銃器、人身売買の防止に寄与することは何もないばかりか、逆に、これらの「犯罪」に関与したとされる末端の「被疑者」たちへのみせしめ的な懲罰を課すことで社会の構造的な矛盾の問題には一向に目を向けることにはならないに違いない。多くの論調が、共謀罪はいらないが、越境組織犯罪防止条約は批准できるし必要だろうと主張するが、わたしは、越境組織犯罪防止条約は人権条約とはいえないからむしろこの条約自体もいらないと考えている。

このように越境組織犯罪防止条約は、その趣旨からみてテロ対策とは全く関係がない。しかし、条約の経緯などを無視して政権が条約を自らの都合に合わせて改釈しようとするところが国会の争点にはなるだろう。これまでの安倍政権の法改釈は、法を政権のために改釈することを当然のようにやってきたし、それを実現してきた。この手法が今回も用いられるに違いない。たぶん法治国家としては末期症状といえるが、そのなかで権力が更に暴走する加速器として共謀罪が治安立法としてその効力を発揮することになるのではないか。(続く)

絵に描いた餅としての「憲法」と茶番劇の「議会制民主主義」が共謀罪を産み落す(1)

投稿日: 2件のコメントカテゴリー: オリンピック共謀罪監視社会資本主義批判

テロ対策を共謀罪法案の軸に据えてきた今回の安倍政権の戦術を念頭に置いて以下の文章を書いている。長いので分載とする。

共謀罪は、一般の刑事犯罪などにも適用されるし、反政府運動——日本ではこの表現はほとんど使われないが、あえてこの表現を復活させたい——などの政治活動にも適用される。この二つは、刑法上区別はできないが、捜査機関の捜査体制は全く異なる対応をとる。政治活動では、主として警備公安警察が共謀罪を捜査活動の道具として利用するが、その利用の手法も動機も一般刑事事件の捜査とは異なるであろうことは、多言を要さないだろう。しかし、国会における法案審議では、もっぱら一般刑事事件を念頭に置いた議論になり、警備公安警察による捜査の手法や逮捕・拘留、取調べについて、それ自身の固有の問題としては審議されることはマレではないのか。一般刑事事件における共謀罪の問題は、極めて深刻である。だから一般刑事事件を前提にして共謀罪の問題を検討し、廃案を主張することは十分可能であるし必要な主張である。その上で、あえて共謀罪が反政府運動に与える問題について別途検討することは必要なことだと思う。このことは政治犯罪を一般刑事犯罪から区別して特権化しようというのではない。広範な反政府運動が犯罪化されている現状があるにもかかわらずこれが刑事事件として隠蔽される一方で、一般刑事事件をもっぱら個人の責任に帰して社会の諸制度が有する諸問題を棚上げにしようとする近代刑法と処罰の基本的な構造への政治社会運動の側からのより一層の関わり、言い換えれば、一般刑事事件に対する法と処罰のメカニズムそのものへの批判を展開することは、反政府運動にとっても不可欠な視点だ。

政治的な動機を持たない一般刑事事件も含めて「犯罪」とはそもそも何なのか、刑罰とは何なのかを考えるとき、その社会的な背景を重視することが必要だ。米国でいえば、黒人やヒスパニックの貧困層の犯罪率が高いことを、彼らの人種的な特性とみなして、人種差別を正当化する主張がある。あるいは、日本の場合も、学校の秩序からドロップアウトする若者たちや、ときには「母子家庭」や「生活保護家庭」を犯罪と結びつける感情や、エスニックマイノリティ(特に非欧米出身者の労働者階級)への偏見は、こうした人びと個々人のパーソナリティそのものに犯罪を犯す「体質」とでもいうべき性格があるとみなす捜査機関や大衆の偏見は未だに根強い。社会的矛盾や抑圧と排除の構造を棚上げして、更にはこうした既存の社会への強制的な統合を意図して刑罰が与えられるとき(応報刑であれ教育刑であれ同じだが)、政治犯への処罰は何を意味するのだろうか。「犯罪者」個人にその行為の責任を負わせて、彼らが社会的な排除の構造のなかで疎外された位置に追いやられることによって生み出されてきた行為として犯罪を捉えるとすれば、刑罰の政治性にこそ注目する必要があるだろう。死刑廃止運動や受刑者の人権問題の運動は、こうした問題に取り組んできたと思う。この点を前置きとしながら、主として以下では、警備公安警察が対象とするであろう反政府運動が共謀罪によって被るであろう問題を念頭に述べる。

1.今国会への共謀罪上程に際しての政府・自民党のスタンス

共謀罪の上程は確実視されているが未だに法案は示されていない。しかし、報道などから、政府・自民党は共謀罪を以下のように位置付けているようだ。

(1)共謀罪とは呼ばずに「テロ等準備罪」と呼ぶ。
政府が共謀罪と呼ばないことで、マスメディアも「テロ等準備罪」と報じることが多くなった。反対運動のなかでは「テロ等準備罪」という名称を使うべきではないという意見が多数かもしれない。私もそう思う。その上でふたつの問題を指摘したい。ひとつは、「テロ等準備罪」という名称は通称であって、法律には正式には盛り込まれないだろうから、これは国会向けの戦術的名称に過ぎないということ。名称のいかんを問わず、立法化されれば共謀罪としての効果を発揮するだろう。二つめは、通称を共謀罪からテロ等準備罪へと変更することによって、たとえ法案の条文が全く同じであったとしても、かつての共謀罪と同じ意味内容をもつ法律といえるかどうかだ。後に述べるように、同じ条文なら、その意味も同じだとはいえない。名称の違いをどのように考えるかが重要なのはこの点である。これは、一般に、法律の文言とその解釈、そして法律が適用される対象(犯罪行為)との関係をどのように考えるか、という問題に関わるかなりやっかいな内容を含んでいる。

(2)対象犯罪は600だが削減もあり。
削減をめぐる議論が日々報じられているように、法案の争点が、削減の是非あるいは、削減の数をめぐる与野党の攻防になる可能性があり、すでに政府は公明党に配慮して対象犯罪の絞り込みを容認するとも報じられている。対象犯罪が絞り込まれればとりあえずよしとしよう、という発想は公明党や一部野党にもある。後述するように、共謀罪の問題は数ではないし、対象犯罪の問題でもない。本質的な問題は、共謀の犯罪化を広範に認めることは、憲法を逸脱し、刑法に想定されている基本的な前提を根底から転換させることになる点にある。「共謀」の犯罪化が法の規範に反しないという法意識をもつ権力の態度・動機が問題なのである。このような根本的な転換それ自体が問題にされずに、法案の条文のあれこれを議論するという態度や、そもそも国会で法案として提起されるような状況自体が問題なのだ。

(3)越境組織犯罪防止条約の批准の前提となる法案。
与党が一貫して共謀罪の必要性の中心に据えてきたのが越境組織犯罪防止条約の批准に必須の前提が共謀罪だというものだ。今回は、この条約の目的があたかもテロ対策にあるかのように条約解釈を根底から変えてきた。これに対して、条約の批准に共謀罪は不要であるというのが反対運動に共通する合意になっている。また、条約とテロ対策とは結びつかないということも反対運動の共通認識だろう。しかし、条約そのものは必要なのかどうかでは運動のなかでも意見が分かれる。

(4)2020年のオリンピックを念頭においたテロ対策に不可欠。
今回の法案上程で持ち出されてきた奇矯な立法事実らしきものが2020年オリンピックへのテロの脅威である。テロ対策を前面に打ち出したために、メディアの注目も、治安維持法など戦前の治安立法との共通性に注目があつまってきた。国会内でオリンピック反対の政党はおらず、オリンピックのためのテロ対策を持ち出す政府を効果的に批判できていない。

(5)「早期成立」を目指す。
会期末の混乱と強行採決を回避したいという公明党が主張し、多分現状では早期の審議入りの可能性が高い。しかし、逆に会期の早い時期に審議入りすると、審議を尽したなどという口実を与えることになる。国会審議のディスクールは、理念的な議会主義のありかたとは裏腹に、現状では茶番でしかない、最大の悲劇は、茶番の帰結が権力に法執行のフリーハンドを事実上与えるという点にある。

共謀罪の前提となる幾つかの社会・政治的な背景として、念頭に置いておくべき論点がある、

(1)戦争法制や秘密保護法の成立。日本は「戦時」である、という認識が必要である。政府は戦時の挙国一致の体制を構築しようとしており、共謀罪はその一環を担うだろう。政府に対する異論や批判を、社会的な秩序を乱す行為として取り締ろうとする傾向を強めるだろう。

(2)泥沼化する対テロ戦争(欧米中心部へ、中東からアフリカへ)。ISなどのイスラーム復興運動との戦争状態が拡散する傾向にある。テロと難民をリンクさせる排外主義。つまり、極右ナショナリズムの台頭を背景に欧米各国で起きている移民、難民の排除と不寛容な態度を当然とする空気は、日本のナショナリズムにも影響を及ぼすだろう。

(3)新たな戦争=サイバー戦争。一方でハッカーアクティビストとの「戦争」があり、国家機密が、内部通報者やWikileaksなどを通じて公開される状況に対する政府の取り締まりがある一方で、政府情報機関によるハッキングが「情報戦」として展開されている。ハッキングはテロリズムの一類型へと組み入れられはじめた。通常兵器が通信ネットワークと連携されることによって、米国のドローン攻撃に典型的にみられるような国家によるテロリズムがネットワークの技術を取り込んで展開されている。サイバースペースと現実空間の境界をまたぐ戦争状態がある。こうした意味での戦争状態の転換に9条を根拠とする日本の反戦運動は十分に追いついていない。

(4)米国のグローバルな覇権主義の危機(ロシア、中国の台頭)。トランプの排外主義 (右からの反グローバリゼーション)は、資本主義的グローバリゼーションのなかで、米国の覇権主義が相対的に後退していることを示している。世界の覇権構造の基軸が、欧米から中国、ロシアなどにシフトしつつあることを示している。これは、欧米が構築してきた戦後西側のルール(安倍政権のいう「国際社会」なる概念はこの意味で用いられているのであって文字通りの「国際」ではない)が危機にあり、日米同盟も危機を免れず、その変質は必至だろう。

(5)「法の支配」を否定する権力者たち。民主主義を後ろ盾にする独裁者たちが次々に登場している。法を超越する独断的な指導者がもてはやされ、国家の官僚制度も法規範を逸脱することを当然のこととする腐敗が進行する。彼らを支持する民衆にとっても法の支配への信頼が希薄になりつつある。これまでも、一方で欧米の価値観を掲げ、自国内では自由と民主主義を保障しながら、その価値観を防衛するという名目で、外国では軍事力を含む戦争や抑圧を繰り返すのが欧米の戦後のやり口だった。(ベトナム戦争、ラテンアメリカの独裁支援、中東やアフリカで繰り返される軍事介入などなど)「テロとの戦争」は、国内においても自由と民主主義を抑制せざるをえない状況を生み出した。(米国の愛国者法、フランスの戒厳令の長期化など)その結果として、自由と民主主義が虚構の神話であることが露呈し、極右の価値観が国内政治で無視できない勢力として台頭するようになった。

(6)以上は、日本だけでなく、欧米諸国に共通するが、日本では、親米極右政権の欺瞞的なイデオロギーの危機が進行している。安倍政権は、国内極右ナショナリズムと「親米」路線の矛盾をかかえる一方で、中国が日本を追い抜き世界第二位の経済大国となったことなど戦後日本のナショナリズムを支えた経済的豊かさが破綻に瀕しているために、戦後ナショナリズムの再構築に迫られているが、その解答を戦前回帰以外に見出せていない。

(7)安倍政権にとっての「敵」は誰か。政権にとっての「国益」とは何か。国内最大の「敵」は、欧米諸国が言うような意味でのテロリズムではない。沖縄反基地運動、反原発運動、反戦争法運動は、政権にとっては「一般市民」ではないから、これらの反政府運動がテロリズムとしてフレームアップされる可能性がある。これらの反政府運動に対する抑え込みが共謀罪のターゲットになることは間違いない。政権を危機に追い込むほどの力をもっていない運動であるにもかかわらず、政権は、こうした運動に対する世論の「不安」感情を扇動するだろう。対外的な「敵」としての朝鮮民主主義人民共和国、中国、韓国(領土問題、「慰安婦」問題から経済的な脅威まで)との関係は、国内の移住労働者や「在日」への監視と偏見・差別を助長することになる。

こうしてみると、日本をとりまく世界の状況は、大きな構造的な地殻変動の渦中にあるといえそうだ。従来の戦後民主主義の枠組がこの国でまだ機能しているという前提にたって、この国の政治や国会の動向を理解することは、今この国で起きている事態の深刻さを軽く見ることになるのではないだろうか。

2.戦後体制はそもそも絵に描いた餅だったのかもしれない

私たちがまず問わなければならないのは、戦後の憲法と刑法の規範を「公理」としながら、なぜ共謀罪のような「法」が登場できるのか、国会でこうした法案を審議することがなぜ可能なのか、である。なぜ「論外」とはならないのか。なぜ「荒唐無稽」だとみなされないのか。

戦争法案が議論された当時、あたかも戦争法の前と後との間に大きな質的な転換があるかのようにみなして、戦争法のない状態を維持することが9条を守る重要なポイントであるかのようにみなされたことがあったように思う。しかし、戦争法がなかった時代はどのような時代であったかといえば、その時代もまた9条に違反する自衛隊が存在し、海外派兵されていた時代であり、そもそも自衛隊あるいは自衛のための武力をもつこと自体が違憲であるという原則を主張すること自体がきわめて少数の理想主義的な(非現実的な)主張であるかのように見なされていた時代ではなかっただろうか。(とくに1990年代後半の村山政権の時代に、自衛隊合憲、安保体制支持をうちだした時代以降)

法案をめぐる反対運動のなかでは、法の問題を議論する枠組は、現行憲法の体制が旧憲法とは本質的に異なる好ましい体制であることが前提されるのが一般的かもしれない。しかし、現実の日本の法制度も政治や統治の体制も、とうてい書かれた憲法の理念(として私たちが解釈する内容)を体現するものとは言えないばかりか、ますますその理念から遠ざかるような立法が繰り返されてきた。こうした欺瞞的な事態は、憲法制定当時から存在していた。その典型が、日米安保体制と米軍基地の存在である。いったいなぜ、外国の軍隊を領土内に有するような違憲状態が常態化する事態が半世紀以上も続いてきたのだろうか。根本にあるのは、政権政党がこうした事態を法制化してきたにもかかわらず、憲法がそもそも違憲立法を排除する実質的な力を持てないように制度設計されていたからである。どのような違憲立法も国会で成立すれは法としての効果をもつという制度の欠陥を政権は利用してきた。

戦前と戦後を分ける敗戦の年、1945年は、決定的な転換点ではない。戦前も戦後も日本は、近代国民国家であり資本主義体制であった。官僚制は維持され、統治機構を支える人的な構成も維持された。天皇は「象徴」機能をもつという点で戦前から継承された。この政治と経済、ナショナリズムのイデオロギーの連続性は、憲法の断絶よりも強固である。(憲法を除く下位の主要な法律は戦前から継承されている。1907(M40)制定の刑法が現行刑法。1896年(M29)制定の民法、1988年の商法(M32)など。)

また、戦前から戦後にかけて、権力者たちの法意識が根底から変ったという明確な証拠はない。自民党は、一貫して改憲派であるから、戦後憲法や戦後民主主義はかれらの理念ではないし、憲法を国家に対する命令とは解釈せず、国家による国民への命令だと解釈する旧憲法の認識を継承している。彼らにとって法は支配者による民衆支配の規範でしかない。こうした政党が政権を担い続けてきたのだから、自民党政権が「法の支配」を受け入れているとみなすのは根拠のないことだ。政権の独断を抑制してきたのは、戦後の様々な反政府運動の存在である。

憲法は統治権力を抑制する現実的な力を持ちえているとはいえない。上に述べたように、憲法に反する立法は可能であり、法としての効果をもつ。「法の支配」は理念でしかなく、現実には、自主憲法制定派の自民党が、法の執行者(集団:行政府や警察など)として法を解釈し適用し、人の自由を奪う裁量権を持ってきた。権力者が法の支配を遵守する意思を持たないばあい、憲法も法も紙に書かれてはいても、それが文字通りに実在することにはならない。「絵に描いた餅」の憲法に定められた基本的人権や自由権は、極めて脆弱で実在しないと言っても過言ではない。実在しているのは、民衆的な権利を制約するためのルールを優先させ、政府・政権の自由を優先し、その残余を人びとに「自由」とか人権として割り当てているにすぎないのである。(法が認める限りでの自由しかない)この不在を招いたのは、戦後民主主義を過信し、主権者である「国民」が自らの権利のために十分に闘わなかったからだというしかない。一貫して戦後憲法を否定する自民党を政権の座につかせてきたその結果が、現在の日本の状況ではないだろうか。(以下続く)

1月26日民権com.講演会:支配階級に逆らう者には人権がない!―「共謀罪」が狙うもの―

投稿日: コメントするカテゴリー: 主宰者からのお知らせ集会、デモなど

民権com.講演会
支配階級に逆らう者には人権がない!
―「共謀罪」が狙うもの―

2017年1月26日(木)pm6:30~
会場 ベルブ永山(永山公民館)
集会室
講師 小倉利丸さん
富山大学名誉教授・(元ピープルズプラン
研究所、元「インパクション」編集員、著書「絶望のユートピア」「抵抗
の主体とその思想」など多数)

〈オスプレイ墜落は沖縄辺野古―高江基地建設反対運動の正義を証明した〉
「支配階級に逆らう者には人権がない!」 この言葉は、現在の沖縄が
見舞われている情況、新基地建設に抵抗する人々を襲う弾圧を直視すると
き、身につまされる。私たちは、この言葉の転覆を、沖縄連帯の先に見と
うしていきたい。

〈「共謀罪」は民衆の声を圧殺する「治安維持法」の再来です〉
戦争法強行成立から1年がたち、安倍自民党政権はいまや自衛隊の海外
での武力行使に踏み出そうとしています。その背景には戦争のできる国と
して、世界市場の覇権の一翼を担おうとする日本の支配階級―安倍自民党
政権の野望があります。こうした支配階級の暴走に立ちふさがる民衆の声
を圧殺するために、沖縄反基地闘争やアンチヘイトグループへの警察―機
動隊の暴力的な弾圧、排除が行われ、改憲、盗聴法、そして事前治安弾圧
を可能にする「治安維持法」の再来として「共謀罪」法制化を押しすめよ
うとしています。

〈「テロ等組織犯罪準備罪」=「共謀罪」国会上程を阻止しよう〉
「共謀罪」は第1に行為ではなく、思想・団結を罰する予防刑法です。
「話し合っただけで罪になる。」法律は予備罪以前の段階を対象としたも
のであり、行為処罰原理の近代刑法の原則の大きな変更です。第2に対象
犯罪が懲役・禁固4年以上の400以上の犯罪であり、民衆運動を全面監
視し、恒常的に予防弾圧を可能にしていきます。第3に司法取引、刑事免
責とセットとして、密告やスパイを生み出し相互監視や団結破壊をもくろ
む治安弾圧法に他なりません。第4に「テロ等組織犯罪準備罪」と特徴づ
けることによって、「テロリスト・過激派に人権はない。」というテロと
の戦争の事前治安弾圧に適用し、人々の反対闘争を圧殺する武器にしよう
としています。「共謀罪」を安倍自民党政府は4度目の国会上程をなそう
としています。

こうした現状と私たちの戦いについて、一貫して危機感をもって問題提
起をしている小倉利丸さんをお招きして講演報告集会を行います。ぜひ多
くの皆さんのご参加をお願いいたします。

<民権com.>は反権力・反差別・反貧困を基調として、自由な議論を行っ
ている市民グループです。[主催・連絡先]民権com.(自由と平和、民権
をすすめる多摩市民懇談会)

090-2331-7602
[共催] アジア・ヒストリー    参加費500円

1月22日:オリンピック災害おことわり!− Read in Speak Out −

投稿日: コメントするカテゴリー: オリンピック集会、デモなど

オリンピックはもういらないと思う。予算の透明性とかナショナリズムに利用されないようにとか、様々な「改革」の提言に、実はぼくはほとんど魅力を感じない。オリンピックを口実に、野宿者が排除され、住み慣れた住居を奪われた人たちがいる。そのことだけで、そうした行政や政府の意思と権力の行使のありかたを見るだけで、オリンピックはいらないと主張するのに十分な根拠となると思う。22日の集会は、文字通り「おことわり」をメインの主張に据えたガチな集会になると思う。


オリンピック災害おことわり!− Read in Speak Out −

「2020オリンピック災害」おことわり連絡会
(東京オリンピックおことわリンク)結成へ

日 時:1月22日(日)13:30〜16:30
場 所:千駄ヶ谷区民館 集会場
資料代:500円
交 通:明治神宮前駅・JR原宿駅から徒歩9分
地 図:http://www.j-theravada.net/tizu-sendagaya.html

※11:30からは神宮橋(原宿)で反五輪の会のデモもあるってよ!
詳細はこちら → http://hangorin.tumblr.com/

◆2020年に向けて運動がスタート!

2020年の東京オリンピック・パラリンピックは、スポーツや財政が抱える問題だけにとどまらず、日本社会の問題をほとんどすべて包括する社会問題のデパート。私たちはそれを「オリンピック災害」と呼ぶ。このオリンピック災害に立ち向かうネットワーク、「東京オリンピックおことわリンク」を立ち上げる。

◆スピーカー(順不同)

山本敦久(成城大学)
いちむらみさこ(Planetary No Olympics Network)
小川てつオ(反五輪の会)
池田五律(戦争に協力しない・させない練馬アクション)
谷口源太郎(スポーツジャーナリスト)
根津公子(「日の丸・君が代」被処分元教員)
井上森(立川自衛隊監視テント村)
友常勉(東京外国語大学)
なすび(被ばく労働を考えるネットワーク)
北村小夜(元教員)
脇義重(元・いらんばい!福岡オリンピックの会)
江沢正雄(オリンピックいらない人たちネットワーク)
金滿里(劇団態変)
アツミマサズミ(東京にオリンピックはいらないネット)

◆主催

「2020オリンピック災害」おことわり連絡会(東京オリンピックおことわリンク)
千代田区神田淡路町1-21-7静和ビル1階A(ATTAC首都圏気付)
Tel 080-50520270(宮崎)

Rio反オリンピック報告―オリンピックの開催都市に何が起きるか?

投稿日: コメントするカテゴリー: オリンピック集会、デモなど

2016年12月21日(水)19時-

渋谷・隠田区民会館 集会室

東京都渋谷区神宮前6-31-5
※JR原宿 6分 東京メトロ千代田線明治神宮前駅 徒歩2分

8月5日、2016リオリンピックの開会式が華やかに開催されたと報道されました。しかし、現地リオでは、巨大なデモ・学校でのオキュパイ・地下鉄、空港の関税員たちや教員のストライキなどが起り、オリンピック反対とテメル副大統領退陣の声が響く中での開幕でした。

Planetary No Olympics、反五輪の会のいちむらみさこさんが、7月27日-8月10日までリオに滞在し、オリンピックがもたらす状況をリサーチし、オリンピックに対する抵抗アクション「Jogos da exculusao(排除のゲーム)」に参加しました。

これまでもオリンピック開催都市ではたくさんの反対運動があり、オリンピックについての問題意識は確実に広がっています。ハンブルグ、ボストンでは、住民投票で招致しないことを決め、ロシアでは新市長が辞退しています。

今年、リオオリンピック・パラリンピックは開催されましたが、リオの住人たちは黙っておらず開幕中も声を上げ、確実に押し返していました。

そのうねりを、わたしたちはどう引き継ぐか。

2017年1月22日(日)13時半から「2020オリンピック災害」おことわり連絡会による立ち上げ集会が開かれます。また同日正午から、多くの排除をもたらした新国立競技場建設予定地を回り、JSC(日本スポーツ振興センター)に抗議する反五輪の会によるデモが行われます。

それらに先駆けて、今回の報告会では、リオで何が起っていたのか、どのような抵抗があったのか、大手メディアでは報道されなかった写真や映像などを観ながら情報を共有し、次のわたしたち闘いに繋げていきたいと思います。

報告者:いちむらみさこ(Planetary No Olympics / 反五輪の会)

司会:首藤久美子(反五輪の会)

参加費:500円
主催:「オリンピック災害おことわり」準備会

もうこれ以上我慢ならない!──理性を越える情念の革命の復権?

投稿日: コメントするカテゴリー: 書評、映画評、音楽評など資本主義批判

ロルドンの新著の邦訳は『私たちの”感情”と”欲望”は、いかに資本主義に偽造されているか』というものだが、「偽造」というよりもむしろ飼い馴らされた感情に耐え切れずに内破するマルチチュードの激情への熱い期待、とでもいった方がいいような内容であり、理性主義的な資本主義批判への徹底した疑義に貫かれた刺激的な本でもある。

ロルドンがとりわけ槍玉にあげるのが、合理的経済人を前提として組み立てられた支配的な経済学だが、それだけではなく、理性的な資本主義批判や善意にヒューマニズムに溢れる「一人でもできる社会を変えるための第一歩」的な身の回り革命ごっこ、あるいはヒッピー風ライフスタイルの革命への辛辣なダメ出しである。

「自由意志や自己決定といった主張を退けて──ことによって、自由主義思想の形而上学的土台を破壊する。他方、自由主義思想の反対者が自由主義に対して自由主義の(主観主義的)文法の枠内で異議を唱え続けているという実態をも自覚しなくてはならない。こうした反対者たちは、無意識のうちに自由主義の根本的前提を共有していて、それは予め敗北のリスクを犯していることを意味するのである」27(断らない限り、数字は邦訳書のページ)

つまり、「個人」という主体を疑いようのない自立した存在として前提する一切の立場に対して、彼は異議を唱える。多分左翼リバタリアンとか個人主義的なアナキストは大嫌いなんだろうと思う。(私はそれほど嫌いではない)だから集団性の復権が彼にとっては重要な課題であり、そう、あの60年代を彷彿とさせるような死語となったともいえる「情念の革命」といった言葉がとてもよく似合うのがこの本の魂の部分だろうと思う。私は、組織や集団性が苦手で、党派や政治集団に対してはシンパシーを感じたことは生れてこのかた一度もないが、しかし社会を転覆するという大事業が何らかの集団性をもった力を前提としなければならないことも十分理解するから、どのような集団性なら自分のような人見知りで人付き合いの苦手な人間でも解放の感情を喚起されうるのだろうかというのは、大きな課題でもある。本書でロルドンはこうした私の個人的な悩み事には一切答えてはくれていないが、しかし、別の意味で、集団性を支える情念とはどのようなことなのかを「理解」する上でかなり刺激的なきっかけは与えてくれたと思う。

ロルドンは、自由主義に反対していると称する者たちがよって立つ土台も、自由主義と共通する個人主義への確信にあるとして批判する。個人が自由主義によって自由になるのか、それとも抑圧されるのかの違いはあっても、主題は個人をめぐる幸福というフィクションの範囲を越えないから、社会を総体として転覆するといった野心を持つこともなく、従って権力の今ある構造にとっては手強い敵になることもない。ピケティのような新自由主義批判のスタンスは彼にとっては全く評価するに値しないものだということになる。(これに異論は全くない)

彼は、率直に、社会を変革するということは大事業であって、それなりの集団的な力の結集が不可欠であって、それなしには資本や国家の体制を覆すことはできないのだ、と主張するのだが、その場合、一方で、感情によって動く諸個人が存在し、他方に非人称的な社会構造が存在するということを強く念頭に置いて、この大事業の主体となる集団性を描こうとする。このことを本書の冒頭で次のように、スピノザを引きながら示唆している。

「スピノザ理論は、通常何よりも主体に固有のものと考えられている感情についての、ラディカルな反主観主義的理論なのである」「すなわち、感情と構造の二律背反を乗り越えるために、感情を保持しつつ主体を葬る(感情の作動する必然的な起点と見なされていた主体を厄介払いする)ということ」18

彼はスピノザの理論を「感情の構造主義」と呼び「感情によって動く個人と非人称的な社会構造」を相互に排他的なものではなく、この二つを一つのものとして把握する方法を、スピノザの、とりわけ『エチカ』の重要な概念のひとつであるコナトゥス(ラテン語で、企て、冒険、骨折り、努力、衝動などの意味をもつ)に求めた。感情は確かに個人の主観=主体に帰属するかのようにみなされるし、そのように実感されるが、こうした感情のよって立つ基盤を探ると、そこには個人の心的な作用には還元できない外部から個人にもたらされる作用があり、この「非人称的な社会構造」があってはじめて諸個人の感情が個々ばらばらな主観や実感ではなくて相互に共感したり共振して伝播するような広がりが持てる。この意味で、個人の感情は、個人の心理に還元することもできないし非人称的な社会構造(非人称の構造に感情があるわけではない)による一方的な規定性(通俗的な唯物論が論じるような、存在が意識を規定する、といった粗雑な規定)をも排して、感情と構造の両者の位相を異にするところに成り立つある種の弁証法をスピノザに託して現代社会に対する転覆的な理論のパラダイムとして提示しようとした。

社会構造は諸個人の総和ではない。だから、取り組むべき課題は、社会構造を破壊し新たな構造として創造するという事態を、諸個人の行為とどのように結びつけるか、にある。人々が行動しなければ何ひとつ社会を変える力は現実のものにはならない。しかし、それは個人の個別の営為ではなしえないことでもあると同時に、個人に体現されている行動を促す感情の高揚が、個人の主観を越えて集団的な感情と行動として共振しつつ社会的な力を体現することなしには何ごとも始まらない。こうした集合的な力は、どのようにして生じるのか。逆に、こうした転覆的な集団的な感情を抑制して、既存の権力再生産の限度内に感情という要素を収束させるコントロールのメカニズムはどのようにして発動するのか。本書の邦訳が”感情”と”欲望”の偽造と表現しているのは、この後者のような現にあるシステムを維持再生産することに加担する感情のありかたを指すものだといえる。

本書は、集団的な行動の重要性を指摘しつつも、かつての前衛党指導のもとでの大衆的な革命運動の称揚といった趣きと共通するところは全くない。なぜならば、党の理念を体現する「綱領」や「宣言」といったテクストが宿命的に負わされている思想や理論を彼は一切信用しないからだ。もっと言えば、そのような理論的な装いを凝らした文章で人々(マルチュードと表現される「大衆」)はみずからの感情を行動に跳躍させるようなことには至らないとの確信がある。体制を転覆させるに足る大衆的な力を支える感情、革命を指向しないではおかないような激情を喚起することは、いったいどのようにしたら可能なのか。彼の問題意識は、この一点をめぐって、人々を駆り立てずにはおかない感情の深部を探る冒険に赴く。だから、本書が具体的な事例として取り上げているのは、1960年代から70年代のフランスの労働者による工場占拠運動といったどちらかといえば、小規模だが既存の社会構造を別のそれに置き換える可能性を秘めた集合的な感情の具体的な運動としての表出に絞られており、国家権力を総体として転覆することが可能なような大規模な大衆運動ではない。ロルドンはスピノザからマルチチュードの概念を継承するが、同様にマルチチュードの概念を自身の理論に取り入れたアントニオ・ネグリとマイケル・ハートと比べると、ロルドンのマルチチュードには、新自由主義の時代のなかで社会変革の主体として登場してきたとネグリらが考える移民労働者や非物質労働者などはほとんど想定されていない。むしろ、ロルドンがイメージする労働者は、古典的な工場労働者であり、彼が例示するケースはことごとく1970年代までのもの、フォーディズムの危機の時代のものであって、新自由主義の時代にこうした労働者の集団的な社会転覆力が大きく削がれてしまったことへの危機感の方が大きいように見える。ロルドンの議論は一定の修正を加えれば移民たちの運動の評価にも用いることが可能な枠組だと思うが、彼がそうしなかった理由は何なのだろうか。本書を通じて私が感じた率直な疑問の一つはここにあった。(移民とマルチチュードの問題には本稿ではこれ以上言及しない)
(さらに…)

越境するアンダークラス──映画『バンコクナイツ』

投稿日: 2件のコメントカテゴリー: 書評、映画評、音楽評など

空族の新作『バンコクナイツ』は、今年観た映画のなかで最も印象に残り、わたしがうかつにも忘れかけていた1970年代のタイの熱い民衆の闘争を思い起させてくれた。とはいえ、決して「政治的に正しい」行儀のいい映画ではない。そこが空族の最大の魅力だ。(以下、ネタばれは最低限に抑えたつもりだが、予断なしに映画を観たい方は読むのを控えてください)

バンコクの歓楽街タニヤ、60年代から70年代にかけてラオスへの米軍空爆でできた巨大なクレーター、1976年タイ軍事クーデタで追われた反政府運動の活動家たちが逃げ込んだ漆黒の森。今回の空族の作品は、バンコクからタイ東北部、そしてラオスへと連なる現に存在する不可視の動線を移動する。セックスとドラッグにしか関心をもたない日本人が、東南アジアで「ビジネスマン」と称する無自覚な植民地主義者として、タイのアングラ経済を支える。しかし、その更に舞台裏で、越境するアンダークラスの逆賊たちの群れが蠢くことを予感させる物語、それがこの映画のある種の示唆するところでもあるように思う。

空族の映画の主人公は、たいていアンダークラスの能天気なノンポリとして登場する。彼らは、いつのまにやらぱっくりと口を空けた闇の世界の深い亀裂の中に彷徨いこむことになる。それでもなお彼らはそれが何なのかを明瞭には把握できないまま狼狽いする。物語のなかでそれが一体何なのかすら理解できないまま理不尽な世界(それも一つではない)に迷いこむ能天気な日本人たち。それを見る私たち(ここでは日本人を意味する、とりわけこの映画では男の日本人を)は、しかし、映画の登場人物のように能天気ではいられない。映画は観客に、「これが何を意味するのか、あなたは分っていなければならないのではないか?」とさりげなく問うのだ。

バンコクの世界有数の歓楽街は、ベトナム戦争における兵力を支えるセックス・ロジスティクスの一環として成長してきた。軍事用語のロジスティクスは食糧、燃料、武器・弾薬の補給を意味するという説明しかされないが、兵士の休息と娯楽もまた重要なロジスティクスの一環をなしてきた。これが今では、新自由主義経済戦争の〈労働力〉(ビジネスマン)を支える物流ならぬサービスロジスティクスとして日本の多国籍企業を支える存在になった。タニヤのセックスワーカーたちは、資本主義的な一夫多妻制の典型的な構造のなかにある。このことを映画はかなり端的に描いていると思う。この映画に登場する女性たちのしたたかさは、伝統的に職人労働者がもっていたしたたかさに通じるものがある。あるいは戦前のプロレタリア作家、宮島資夫が描いた「坑夫」のような、ど外れな存在に重なるかもしれない。翻弄されるバカ丸出しのビジネスマンたちが金と権力を握る理不尽さとの孤立した闘いが、ここタニヤには恒常的に存在する。たぶん、「バンコクナイツ」というタイトルとフライヤーの雰囲気についつられて映画を見に来た、ビジネスマンたちは、アテが外れて不快な思いをして映画館を出るに違いない。いいことだ。

脚本を担当した相澤虎之助は、上映後のトークで、富田監督や自身の東南アジアでの経験から、日本の旅行者というとドラッグ、セックス、ガンシューティングが目的ではないかと必ずといっていいほど質問されることから、この三つがいかに東南アジアの経済に大きな影響をもっているかに気づかされ、これがこれまでの映画制作のモチーフになってきたと述べていた。そして『バビロン花物語』はタイ北部のケシ栽培、『ビロン2』はベトナム戦争を主題としたが、ようやくこの『バンコクナイツ』で最後に残されたモチーフ、セックスを主題にした映画を制作できたと述べた。

わたしはこれに加えて、二つの重要なモチーフがあると思う。ひつとは、越境するアンダークラス。『サウダーヂ』は日本を舞台に、日系ブラジル人やタイ人の移民労働者の物語であり、移動する者たちが常に物語の中心に据えられている。闘う労働者ではなく、いつのまにかシステムを破壊する力をそれとは知らず発揮してしまうアナーキーな存在へと変貌する姿が描かれる。もうひとつは、「地方」である。今回のバンコクナイツの先行上映も空族の拠点である甲府で開催された。『国道20号線』も地方を走る国道が舞台だ。地方のアンダークラスという視点は、決定的に東京のようなグローバル都市の非正規労働者と同じようには語れない固有性がある。これはグローバル都市にはない地方のアンダークラスが潜在的に持っている豊穣な可能性に繋っている。私はこの映画を甲府という場所で観ることができて本当によかったと思う。

『バンコクナイツ』もバンコクの歓楽街からタイ東北部へと引き寄せられる。実は、タニヤで働く女性たちもまた、タイ東北部やラオス出身者であったり、あるいはタイ、ラオスから中国に拡がる地域に住むモン族の出身だったりする。こうなると「ゾミア」の世界になる。

最後に、ひとつやっかいな問題について書いておきたい。空族がセックスの問題を最後まで取り組まないできた理由のひとつは、これまでの映画もそうだが、主人公が男であるということとの関わりのなかで、セックスワーカーの世界を描くということの困難があったのではないかと思う。男の監督や脚本家が女を描くことができるのか?は、常に問われてきた問題でもある。このことは、映画を男の私が観るのと、女性が観るのとでは同じ感想にはならないかもしれない、ということでもある。ラオスのクレーターに集合するアジアの若者たち、ある種の梁山泊を想起させるファンタジーのようでもあるが、そこにはタニヤの女たちはいない。漆黒の森にもいない。この欠落がたぶんこの物語を次に引き継ぐ上での大きな鍵になるように思う。タニヤがゾミアに変貌する潜在的な可能性がすでに女たちが担っているのだから。

他方で、主人公が男であるという場合に、女は脇役なのだろうか?主体は他者なしには主体にはなりえないが、主体=主人公という位置を確たるものにするには、他者を他者のままに、主体の周辺に配置する以外にない。この映画では、女たちは、ことあるごとに、主人公の主体を揺さ振りつづける。すれ違うコミュニケーションがそれを象徴しているようにも思う。どこかでこの主客の転倒がありうるのでなければ、物語は、既定の路線を逸脱できない。どのような脱線と転倒が起きるか。そのための伏線はこの作品でほぼ出揃ったように思う。

(2016年11月13日、甲府桜座にて)

米大統領選挙が露呈させた国民国家と民主主義のもはやこれまで!

投稿日: コメントするカテゴリー: 資本主義批判

今回の米国大統領選挙ほどグローバルな資本主義のもとでの国民国家における民主主義が、明確にその限界を露呈したことはなかった。もともと国民国家は、階級構造が生成してきた搾取の構造を「国民」という普遍的価値を装って均質なアイデンティティを扮装することによって隠蔽する仕掛けでもあった。しかし、資本蓄積の構造(言い換えれば搾取の構造)が否応なく資本の出自を越えて(あるいは資本の出自を裏切って)展開しないではいられないほど成長=肥大化するなかで、自国とその外部という国民国家の境界に沿って、自国内の階級構造がもたらした失業や貧困の矛盾を、外部の「敵」に転嫁し、この「敵」と内通する自国内の既得権益に固執する特権層や、境界を密かに越境して「非合法」に自国の富や雇用を脅かす自国内部の他者にその責任を転嫁し、有権者である特権的な犠牲者の地位を白人労働者階級に付与するという構図が今回の大統領選挙を席巻した。トランプ陣営は白人労働者階級の一部が抱く人種的優越主義を刺激しながら「偉大なアメリカ」というイメージを構築するプロパガンダを展開した。トランプのプロパガンダは、伝統的な共和党のイデオロギーと相入れないだけでなく、これまで既成の政治を嫌ってきた下層の保守主義を代表すると言われてきたリバタリアニズムとも異なるスタンスをとった。とりわけリバタリアンが強調してきた小さな政府と自由競争資本主義への信仰(ハイエクやフリーッドマンなどだが)を否定した点は、それがサンダース支持者の取り込みという戦術の一環であったとしても、そのプロパガンダの方法も含めて、これまでの米国政権のなかで最もファシズムに近似する性格をもった主張であったという点に特徴があったといえるかもしれない。

国民国家の民主主義の限界は、グローバル資本主義がもたらした世界規模での貧困と紛争の根源にある米国の覇権国家としての責任という問題を正面に据えることができないという点に現われている。更に悪いことに、この問題が米国内の貧困問題に還元された上に、この原因をもっぱら外部の他者(中国であったり「不法移民」であったり、いずれにせよ有権者ではない国民国家にとっての他者)になすりつけて、愛国心を鼓舞するという方向でしか選挙のキャンペーンは展開されなかったということだ。国内の有権者のみを対象とする国政選挙という枠組は、米国ナショナリズムの神話=「偉大なアメリカ」のイデオロギーを再生産し、国民的な一体性や同質性を確認するための儀礼効果として、常に、外部の敵を再生産することに終始せざるをえない。これは国民国家の民主主義にとって解決困難な難問であって、米国に固有の問題ではない。これは近代国民国家と憲法が本質的にもっている敵対の構造に基づく自己保存の権力メカニズムであり、人びとの生存を脅かす根底をなすものの一つでもある。

米国大統領選挙でトランプは、失業と貧困から脱却できない主として白人労働者階級の票を獲得したのではないかと言われている。彼は、中国やメキシコに製造業が流出し、米国製造業を支えてきた錆びついた工業地帯(rust belt)と呼ばれる地域の白人労働者階級の職を取り戻すと主張して、TPPに反対し、安価な賃金で貿易で優位に立つメキシコや中国を非難してきた。ペンシルベニア、ウェストバージニア、オハイオ、イリノイ、アイオワ、ウィスコンシンといったかつて重工業で栄えた地域は、イリノイを除いて全てトランプが勝利した地域だ。一般論として、日本でもよく聞かれる主張として、新自由主義グローバリゼーションによって国内の産業が海外に移転することによって、職が奪われ格差と貧困がより深刻になる、だから自由貿易には反対だという議論の立て方がある。こうした主張は間違いではないが、正しいわけでもない。どこの国であれ、新自由主義の政権を批判する野党が、自国の有権者だけを念頭に陥いりがちな自覚されない排外主義のスタンスであり、格差と貧困に直面している有権者には実感をともなう主張だとして受け入れられやすいのだが、同時に、有権者の大衆意識としても、自分達の職を奪う「他者」像を構築してしまう。これは、自国内の移住労働者や近隣諸国の低賃金労働者への感情的な敵意を醸成しかねず、これが感情的なナショナリズムを支える基盤をなす危険性をもつことになる。

ナイジェリア出身で米国在住のアフリカ史の研究者モーゼス・E・オチョヌは、「新自由主義グローバリゼーション、白人労働者階級、アメリカ例外主義」(注)というエッセイで、米大統領選挙において、米国労働者階級がグローバリゼーションの被害者であるといことを強調する論調には、米国を特別視する価値観、言いかえれば、「米国の労働者階級だけがグローバル化における敗者となっており、それ以外の人びとは新自由主義の利益享受者だ」とする誤った見方が支配的であったと指摘した。こうした見方には「ナイジェリアのイルペジュ(Ilupeju)カドゥナ(Kaduna)、カノ(Kano)など、破壊された工業センターにおけるグローバリゼーションの被害者たちへの同情も連帯もみられない」と批判した。ナイジェリアでは、ここ15年の間に、グローバル化によるアジアからの安価な繊維製品の流入で国内産業が大きな打撃をこうむってきた。こうした事例は「南」の諸国で広範に見られる新自由主義グローバリゼーションがもたらした悲劇だ。

(注)Moses E. Ochonu, “Neoliberal globalization, the white working class and American exceptionalism”

しかし問題の構造はもっとやっかいで、中国やインドはアフリカとの関係ではアウトソーシングのハブとして機能しており、これら諸国との経済的な格差と資本投資による搾取の最底辺をなすのがアフリカ諸国になるグローバル資本主義の階層構造がある。この全体の構造を支配しているのは、言うまでもなく欧米の多国籍資本である。オチョヌはこうした構造を無視すべきではないとし、だからといって、中国の工場労働者がグローバル化の勝ち組の側にいるわけでもないことを強調する。だから、米大統領選挙で強調されたグローバル化によって職を奪われたという場合、アフリカ諸国は米国の職を奪える位置にはなく、むしろグローバル化の犠牲者でありつづけた。オチョヌは、アフリカの視点からすれば、米国労働者階級をもっぱらグローバル化の犠牲とみなす観点には同意できないとし、「 世界中で、多くの人びとは、米国の労働者階級同様、新自由主義的グローバリゼーションの収奪のなかで尊厳を維持しようと闘っている」ことを強調した。

当然のことながら、米国大統領選挙で主張された格差、貧困の問題ではこうしたグローバルサウスが被ってきた犠牲への関心はほとんどみられなかった。なぜなら、アフリカの人びとは有権者ではないからだ。しかし、米国の新自由主義グローバリゼーションの被害者であり利害当事者であることもまた明かだ。この排除を正当化しているのは、憲法の枠組であり、国民国家に基づく民主主義なのだということを軽視することはできない。ちなみに、ヒラリーよりずっとマシなバーニー・サンダースですら、自由貿易の問題は低賃金諸国が「アメリカの労働者」「わが国の労働者や中産階級」から職を奪うことだというスタンスが基本にある。(サンダースのTPP反対演説「TPPに反対する四つの理由」は議会演説としては優れていると思うが、国境を越える連帯の視点を持てない限界はいかんともしがたい。)

外交や安全保障から経済まで、閉鎖的な国民国家など存在しないにもかかわらず、絶対多数の利害関係者(米国の選挙権を持たない米国内外の人びと)を排除した上で行なわれる選挙のどこに正統性があるといえるのか。グローバル資本主義に対する米国の責任という観点から大統領選挙が争点化されることはまずありえない。これは米国に限らず一般論として言えることであり、国民国家によって分断されて選挙の権利がナショナルなアイデンティティを共有する人口に限られるなかで実施されることによって、民主主義はナショナリズムを正当化し、その結果として国民国家相互の摩擦や敵対を根本的に調整することが困難な条件を抱え込むという近代国民国家のリスクを体現するシステムだからだ。しかも、こうした利害の当事者の排除に基づくナショナリズムが正当化される一方で、資本は容易に国境を越えてグローバルな投資環境を構築しようとし、各国政府もまた、自国資本のグローバルな展開を相手国当事者を排除した民主主義的な合意形成によって正当化する。こうした国民国家の枠組に規定された民主主義選挙の争点から排除される論点は、一国内の有権者の利害に関わらないが世界の民衆にとっては死活となる課題である。あるいはグローバルな民衆の問題をあたかも一国内の特定の階層にのみ関わる問題であるかのように論点を歪曲した上で、これを正当化するレトリックの技術の横行である。民衆はどこの国であってもいったん「国民」として自己のアイデンティティが再定義されて内面化されると、相互に敵対関係の枠組の中で相手を見ること以外の眼差しを持つことが心理的にも困難になる。

直接間接に利害をもつ人びとが国境や国籍を越えて討議できる枠組がなくナショナルなアイデンティティに傾き、グローバルな公正性(といった近代コズモポリタニズムが掲げる理念)すら脇に追いやられる構造の根源に、皆が大切だと信じている憲法制度(立憲主義と呼んでもいい)の存在があると考えている。憲法は、普遍的な価値を国家の理念として立てる一方で、主権者を国籍によって排除・選別する。この枠組の境界線上に、移住労働者、難民、外国籍の人びととして、膨大な数で地球上に存在する。一国が有する他国との利害関係のなかには、主権者としての権利をもたない多くの人びとの利害もまた含まれる。現実の人口構成と憲法が規定する権力の正統性を支える民主主義の基盤をなす人口との間には無視できないズレと亀裂がある。トランプの「壁」発言は、この亀裂が民主主義の正統性の危機の域に逹っしていることを端的に示したものと解釈できるかもしれない。更に、分離独立を求める集団が存在する国が少なからずあり、こうした分離派にとっては憲法は、分離を妨げる最大の規範となる可能性がある。こうした状況と、憲法を後ろ盾とした資本や軍隊の越境性とを比較したとき、一体どこに民主主義の効用が、あるいは憲法の普遍性についての肯定的な価値があるというのだろうか。

今回の米国大統領選挙は、国民国家という枠の内部で競われる民主主義的な選挙が同時にナショナリズムを高揚させて、人種差別主義を正当化する危険性があることを端的に示した。トランプのように「偉大なアメリカ」を口に出して叫ぼうが、ヒラリーのように「偉大なアメリカ」を暗黙の前提としようが、彼らが競っているのは、どちらが「偉大なアメリカ」を将来において維持あるいは再現あるいは再興できるのかでしかない。彼らにとって、米国民(つまり有権者だが)の犠牲を最小化し、その利益を最大化するための政策を競っているのであって、この方程式の解が、他国の犠牲を最大化し、その利益を最小化することがあってもそれは問題の焦点にはならない。このことを端的に示したのがトランプによる米国白人労働者階級の貧困問題への言及だっただろう。彼にとって米国白人の貧困は特別に重要な解決されなければならない問題だということであり、この立場を支持する米国の有権者が少なからず存在したことがトランプの勝利を支えた。トランプだけでなく米国の有権者の多くも、米国の国民は例外的に繁栄を享受する権利があるかのように感じているのではないか。

一世紀近く前の古い話をしたい。カール・シュミットは『現代議会主義の精神史的地位』(稲葉素之訳、みすず書房)の第二版(1926年)まえがきで次のように述べている。

「あらゆる現実の民主主義は、平等のものが平等に取扱われるというだけではなく、その避くべからざる帰結として、平等ではいものは平等には取扱われないということに立脚している。すなわち、民主主義の本質をなすものは、第一に、同質性ということであり、第二に──必要な場合には──異質的なものの排除ないし絶滅ということである。このことを説明するためには、民主主義の二つの異った例について一言するだけで十分であろう。すなわち、一つは今日のトルコがギリシア人を徹底的に国外へ移住させることによって、その国土をトルコ化しようとしていること、他の一つはオーストラリアの_くに_(Gemeinwesen)が移民立法によって好ましくない移住者の流入を阻止し、他の自治領と同様に、_正しい種類の植民者_に合致する移住者のみを入国させていることである。すなわち、民主主義の政治的力は、他所者と異種の者、すなわち同質性を脅かすものを排除ないし隔離できる点に示されるのである」(14ページ)

上でシュミットが言う同質性とは「一定の国民への帰属性、すなわち国民的同質性」を意味するとともに「一般に民主制には、これまで常に奴隷または野蛮人、非文明人、無神論者、貴族あるいは反革命分子と呼ばれる何らかの形態で全部のまたは一部の権利を剥奪され、政治的権力の行使から除外されている人間が常に附きものになっていた」(15ページ)とも述べている。

シュミットにとって国民的同質性の核をなすものは、「民族的に同質な国家」であり、「大抵の国家は、それ自身の内部においては民族的同質性に基づいて民主主義を実現しようと努めているが、その他の点ではあらゆる人間を同権的な市民として取り扱っているわけではないのである」(17ページ)とも述べている。

シュミットは後にナチスの同伴者になるが、ワイマール時代に彼が論じた論点は今に至るまで繰返し議論の対象になってきた。ここで述べられている論点は、民主主義を擁護しようとする者たちにとっては実は聞きたくない考え方だろうと思う。しかし、民主主義が合意形成の手続きである以上、その前提として共通の価値規範を何か持たないことには成り立ちようがなく、そうであるとすると、価値観を共有しえない部分を排除するメカニズムを持つことによって民主主義的な合意形成を効果的に発動できるような制度設計が不可欠になる。国民国家は、これを「国民」としてのアイデンティティとして形成・再生産しようとするとともに、国家権力を制約する規範を「普遍的な価値」として構成することによって、理論上は何人も否定できない価値に基づく「同質性」を標榜することになる。これは多様性や異質なものの排除を意味するのではなく、これらを包含することを前提として形成される合意こそが普遍的な価値の体現であるとすることによって、同質性を異質なものの同質性として立てうることを示そうとしてきた。その結果、政治は言説のレベルにおける普遍的な価値の氾濫の一方で、現実には、普遍的な価値に名を借りた差別と排除が横行することになった。差別ではなく正当な競争の結果であるとか、排除ではなく普遍的な価値を実現するための秩序の実現であるなど、権力は政治の言説を討議に基く真理への過程としてではなく、既存の権力を正当化するためのレトリックと駆け引きのための詭弁として用いてきた。

憲法はこうしたレトリックの中枢をなす普遍的価値の擬制の体系なのだが、憲法が支えられているメタレベルでの権力の自己再生産構造を見ずに、憲法の条文が意味するであろう内容を「憲法学」的に解釈する立法府やアカデミズムの議論は、実は憲法が、普遍的な価値を纏うが故に逆説的に暗黙のうちに含んでいる排除の正当化の機能を見落している。シュミットはこの点を突いて、民主主義は排除と同質性の維持、とりわけそれを民族的同質性以外にはありえないと断定することによって、ワイマールとナチズムを同じ土俵の上で正当化してみせたのだと言うことができるかもしれない。ワイマールはよくてナチズムは悪いというふうには問題はたてられないのだ。同じことは、米国憲法にもいえる。トランプを生んだのは米国憲法であり、安倍を生んだのは日本国憲法なのだ、という事実から、憲法や国民国家という権力の構成を免罪できるか、という問いを私たちは自問しなければならないところに立っている。

米国大統領選挙から見えることは、日本の政治や国家の制度の問題とほぼ重なる。民主主義の欺瞞であれ、憲法のレトリックであれ、これらをシニカルに捉えて諦めるのではなく、だからこそこれまでにありえなかったような社会を構成する基本的な枠組を構想するという問題に挑戦しなけらばならないということではないのだろうか。「日本」やこの国のナショナリズムを廃棄するという課題は世代を越える大きな問題だが、この問題に答えを見出せないとすれば、国民国家が本質的に抱えもっている生存に対する危機を座して覚悟するという選択しか残されないと思う。それでいいはずはない。