表現の不自由展再開が抱えた問題

* はじめに

名古屋市で201981日から1014日まで開催されたあいちトリエンナーレ2019に出品された」表現の不自由展・その後」(以下、不自由展と呼ぶ)が開催三日にして展示中止とされ、約2ヶ月間の展示再開をめぐる攻防を経て、ようやく再開にこぎつけたのが108日だった。

展示中止をもたらした脅迫や抗議の電話などは「平和の少女像」(キム・ソギョン、キム・ウンソン作)と「遠近を抱えてPartII(大浦信行作)に集中した。政治家たちの発言も中止に影響した。菅官房長官は「補助金決定にあたっては、事実関係を確認、精査して適切に対応したい。」と述べ、河村たかし名古屋市長も「表現の自由は、憲法第21条に書いてあるが、絶対的に何をやってもいいという自由じゃありません。表現の自由は一定の制約がある」「市民の血税でこれをやるのはいかん。人に誤解を与える」などの批判を繰り返した。また、展示中止後には、あいちトリエンナーレに助成金を支出している文化庁が助成金を支出しないことを決定し、更に助成金支出のガイドラインの見直しまで行なわれ、この過程で文化庁の助成金審査などに携わってきた委員が複数名抗議の辞任をするに至った。

実際の展覧会は、開会からの三日間、展示会場に右翼などの抗議による混乱はなく、むしろ鑑賞希望者が殺到し、連日展示場の外は長蛇の列となった。脅迫などの行為はもっぱら電話やメールで、実際に来場した人達は賛否を問わず、冷静に鑑賞したのが実態であった。周辺の街宣車もほとんど見かけなかった。

展示中止後、展示再開を求める様々な運動が展開された。不自由展実行委員会は繰り返し抗議声明などを発表してきた。加えて、トリエンナーレに出品している海外作家12組が展示をボイコットした。トリエンナーレ出品作家88名も抗議声明を出し、独自の抗議の意思表示や討論の場の設定を試みるなど、抗議がトリエンナーレの展覧会に参加しているアーティスト全体に波及し、また日本国内からの出品者のなからもボイコットの意思表示をする者が登場するようになった。また、美術・芸術団体、メディア団体、弁護士会や人権団体なども相次いで抗議声明などを出し、地元の市民も「表現の不自由展 その後」の再開をもとめる愛知県民の会を結成し、集会やデモ、連日展覧会場前での抗議のスタンディングなどで再開要求の意思表示を続けた。トリエンナーレ側にとってこうした広範な抗議の拡がりは想定外の事態だったと思う。

不自由展実行委員会は、9月下旬に名古屋地方裁判所に展示再開を求める仮処分を申し立てる。裁判所で主催者の愛知県側と不自由展実行委員会側との協議が重ねられ、再開のための和解で合意し、108日から約2ヶ月ぶりに再開される。展示中止への抗議の拡がりなしには仮処分から和解へという道筋は実現しなかったと思うが、他方で、法的手段なしに再開ができたかといえば、それはほぼ不可能だったとも思う。行政が一旦決定した事柄を覆すに足りるだけの条件は、やはり法的な力による以外にないというのがこれまでの行政のあり方だからだ。

* 展示再開でも表現の自由は一歩後退してしまった

再開が決まったとはいえ、具体的な再開の条件の交渉は難航した。最終的に、トリエンナーレ側と不自由展実行委員会との間で再開の条件として8項目が約束された。入場を定員制で入れ替え制とし、入場者は抽選で決めること、荷物を預け、金属探知機を使うこと、入室前に、SNS投稿禁止の同意書へのサインと身分証明書を提示することなど、展覧会の再開の条件は極めて厳しいものになった。トリエンナーレ側との妥協なしには再開は難しいことは、現実の力関係から覚悟せざるをえないこととはいえ、妥協が結果として当初の目標であった原状での再開という条件から後退したものであったこと、結果として、表現の自由の基本的な理念を損なう再開となった点については、私も実行委員のひとりとして深く反省しなければならないと感じている。

また、再開の条件での合意によって、あたかも不自由展実行委員がこの合意に納得したと解釈されて報じられたり、再開を手放しで喜ぶような光景を目にすることにも私個人としては強い違和感があった。不自由展実行委員会としては、再開のための条件が表現の自由や原状での再開という原則から外れるものであるということを明確なメッセージとして出し、合意したものの納得をしたわけではないことを主張することは必須なのだが、妥協による合意と原則との間にある溝を埋めることは容易なことではない。現実が原則をなしくずしに後退させたりねじ曲げることが、検閲の過程では常に起きる。そして、不自由展実行委員も合意しているのだから、これは検閲ではない、という体裁が整えられ、検閲した側があたかも表現の自由を侵害していないかのように振る舞ったりすることにもなる。実際に、トリエンナーレの閉会日に、津田総監督は、全ての展示が再開されたことを喜び、あたかも表現の自由の勝利であるかのように振る舞った。

検閲とは、鑑賞者を鑑賞対象から切り離してアクセスできない環境を作ることだ。これまでも起きてきた検閲と自主規制や妥協の構図が今回もまた繰り返されたともいえる。高度な監視社会では、こうした切り離しとともに、誰が鑑賞したのかという個人情報もまた容易に把握されてしまう。私は、反監視やプライバシー問題に取り組んできた者として、こうした監視下での作品へのアクセスという環境を認めざるをえなかったことは、私自身の責任として深く反省しなればならないと思っている。では、自由な鑑賞を許してもなお、右翼の攻撃を回避できたのか。この問いへの答えはイエスでもありノーでもある。今回実際に実現した再開を求める多くの人々の闘いの経験を踏まえれば、再開を求める運動が、アーティストなど当事者と鑑賞を求める人々との間の大衆的な連携を構築できさえすれば、右翼側の抗議をはねのけることも不可能ではないという実感がむしろ私には強い。

展示中止から再開に至る経緯も含めて、手放しで再開を検閲に対する表現の自由の勝利とは言えない問題が残されたのだが、以下いくつか指摘しておきたい。

* 電凸は防げなかったのか?

展示中止の直接の原因は、電話による脅迫が多数寄せられたことにある、というのが大村愛知県知事や津田芸術総監督の見解だった。不自由展実行委員会は81日、2日深夜に津田総監督やトリエンナーレ事務局と電凸対策の会議をやってきた。抗議・脅迫などへの対策は数ヶ月前から検討されてきたにもかかわらず、ほとんど何も対策がとられていないことが判明する。小手先の対応に終始し、抜本的な対策を講じようとはしなかった。クレーム対応に長けた職員は配置されておらず、トリエンナーレの実行委員長でもある知事サイドも動いていない。不自由展側は、初日の動向をみて、人員、資金、設備に関してきちんとした対処をするように要求したが、いずれについては拒否された。現場の職員が疲弊するのを組織の上部は知りながら放置したのだ。こうして「表現の自由などと言いながら現場で精神的に追いつめられる自分たちの人権はどうしてくれる」といった怨嗟の声すら聞こえてくるようになる。不自由展実行委員から「電話線を抜け」「電話を切れ」という要求にも難色を示した。中止の原因となった放火脅迫についても、捜査機関に被害届けなどの手続きがなされたのは展覧会が中止された後、数日たってからのことである。津田は、警察が被害届を受理しなかったというが、これはありえない。国家公安委員会規則「犯罪捜査規範」第61条で定められているように、被害届の受理は警察の義務だからだ。被害届は展示中止が決まった後にようやく出されたのは「謎」というしかない。

ところがこの電凸問題は、9月頃になるとなぜか影をひそめてしまう。むしろ不自由展の展示のあり方への批判が強くなってくるという奇妙な現象が起きる。他方で、右翼が攻撃したり政府が反対するような展示作品そのものが、問題の原因を作ったかのような逆立ちした論調が散見されるような事態も起きたと思う。そもそもこうした展覧会を公立美術館で開催しようと企画すること自体が間違いだというのだ。こうした意見が後述する検証委員会でも示唆されるようになる。

* 大村知事は表現の自由の擁護者だったか

大村知事の折りに触れての発言は、名古屋市の河村市長による「少女像」や「遠近を抱えてPartII」へのあからさまな内容に踏み込んだ誹謗中傷ともいえる発言とは好対照をなし、表現の自由の擁護者として振る舞ったこともあり、大村への期待は高かった。津田もまた右翼の攻撃の被害者として同情も集めた。その大村が唯一展示を渋ったのが「少女像」だった。大村あるいは県の上層部やトリエンナーレ側は、4月段階から幾度となく、津田を介して不自由展実行委員会に対して、「少女像」そのものの展示を断念するように打診してきた。大村も津田も、展示自粛要請の理由を一切明らかにしたことはなかった。開会後の攻撃の主要なターゲットももっぱら「少女像」であり、安世鴻の元「慰安婦」のポートレート写真も白川昌生の朝鮮人強制連行の慰霊碑をモチーフとした作品も、ターゲットにはならなかった。

県知事サイドによるかねてからの「少女像」撤去の意向は、開会後に「少女像」をピンポイントに攻撃する電凸などの一連の行動をあたかも予測していたかのような態度だ。不自由展に展示された作品はかつて検閲された作品ばかりで、検閲の背景として、右翼などの攻撃に晒されたことがあったものが多くあるにもかかわらず、もっぱら「少女像」がターゲットになった。大浦の作品への攻撃は、ネットに投稿された動画をきっかけに二日目に急増する。

推測の域は出ないが、今当時を振り返ってみると、「少女像」攻撃の一連の流れは、この間の日本政府による海外の「少女像」撤去要請の態度と一脈相通じるところがあるように思えてならない。政府は、在外公館前に設置されることが「公館の威厳の侵害等に関わる問題」(参議院、質問趣意書への答弁、180回、提出者佐藤正久、答弁者野田佳彦)とする態度をとり、2017年には釜山の日本領事館前に「慰安婦像」が設置された対抗措置として、総領事の一時帰国や経済関連の協議の中断や延期など過剰ともいえる拒否反応を示した。保守派にとって「公」とは天皇が国民統合の象徴とされる国家を意味するから、「公立美術館」もまたこの意味での国家に帰属する文化施設であるべきだという考え方が根強い。政府が「少女像」の展示の事実を知った時期がいつかは不明だが、多くの場合、自治体が国の政策に関わると思われる事態に関して、中央政府の意向を敢えて無視することはありえない。今回の場合、天皇の肖像写真も絡むので宮内庁も無関係とはいえないと思う。愛知県が中央政府に忖度したのか、あるいは忖度以上の綿密な協議があったのか、あるいは非公式のルートで水面下で電凸を煽るような何らかの画策があったのか、事実を知りようがないが、私は、展示の計画段階から開会後の抗議・脅迫の動きまでの流れをみると、ある種の一貫性を感じざるをえない。だからこそ不自由展の少女像撤去が知事側の譲れない線だったのだろう。これに応じない場合は、トリエンナーレ全体に影響しない形で不自由展だけを潰すことを企図したのではないか。電凸がリーダーなきネトウヨの自然発生的な「運動」だったとはいちがいにはいえないかもれない。

メディアでもネットでも、大村知事や津田芸術監督は展覧会を中止せざるをえなかった被害者であり、表現の自由の守護者であるかのようにすら報じられもした。たしかに河村名古屋市長を批判して、右翼の攻撃にも晒されてきたわけだがら、表現の自由を守ることを公言してきた二人に守護者の側面がないとは言わないが、しかし、他方で、水面下で、非公式に、不自由展実行委員会に直接間接に接触する場合には、「少女像」撤去を要求する別の顔があったことも忘れるべきではないと思っている。

* 検証委員会による介入

愛知県は、展示中止後、一週間もたたない89日に「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」を設置する。この委員会はいわゆる外部の有識者から構成され、知事がオブザーバーで参加した。当初検証委員会は不自由展の展示に直接介入するものではないとされたが、実際の検証委員会の行動は、展示内容に踏み込んだもので事実上の主導権を握る存在になったように感じた。公式の文書などには出てこないが、検証委員会の山梨座長らは、数度にわたり、非公式に不自由展実行委員会との接触を求め、展示の方法などについて介入するようになった。こうした接触のなかで、山梨座長は、展示の稚拙さなども指摘しながら、不自由展の実行委員に対して、再開の条件として、不自由展実行委員会は退き、展示についての全てをトリエンナーレのキュレーターチームに委ねるという選択肢すら提示してきた。検証委員会は一貫して、不自由展実行委員会を独立した表現主体としては認めようとはしなかったのだ。

しかし、現実には、不自由展実行委員なしには、展示作品の作家たちとのコンタクト、作品をめぐる背景説明など鑑賞者に提供すべき基礎的な情報すらなしえなかったことは後に明かになる。検証委員会もトリエンナーレのキュレーターチームも短期間で膨大な検閲事件を理解し把握することなどできなかったからだ。検閲をめぐる経緯は、どの作品も一様ではなく、個々の作品に関する長い裁判の経緯や複雑な社会的背景を、検証委員会もキュレイータチームもかなりあなどっていたと思う。不自由展実行委員を、公共施設が展示を禁じたことに怒って検閲だと騒ぎ、検閲反対と叫んでいるだけのアートに無知な左翼くらいに思っていたに違いない。たぶん、こうした偏見は多かれ少なかれ、本展のアーティストやキュレーターチームにもみられるように感じていたが、個々の作品が背負ってきた非公開や拒否の歴史を知るにつけて、容易ならざる問題であるという自覚が生まれるなかで、偏見もまた払拭されるようになったと思う。

再開に際して、トリエンナーレ側は、検証委員会の示唆を踏まえて、鑑賞者に対する事前の「教育」をほどこそうということも企図していた。実際にはこの「教育」プログラムは実現しなかった。だからその具体的なプランはわからないのだが、賛否両論ある作品について、賛成の考え方、反対の考え方を両論併記するような形で提示することなども考えていたのかもしれない。「少女像」であれば、日本政府がしきりに持ち出すウィーン条約や日本政府の言い分を説明し、他方で、韓国政府の言い分も説明し、更には市民運動などの議論も紹介し、作家の制作意図を説明するすることで「中立」の立場を確保しようとするのが「教育」だというのであるとして、このようなことが短時間に実施できるはずはない。大浦の作品については更にやっかいだろう。本人は天皇を侮辱する意図はなかったと言うし、憲法や法令にはもはや不敬罪はなく、裁判の資料だけでも膨大になる。そもそも検閲された理由を客観的、中立の立場で「教育」的にレクチャすることなどできるのだろうか。作家はそれぞれの思想信条に基いて作品を制作するから、中立な作品などありえない。作品が政治性をもつことは個人が政治的な存在としての属性をもつ以上回避すべきでも否定すべきでもない。事前に作品についての「教育」ができると思い込んでいたこと自体が、アートと検閲の問題の奥深さを専門家たちが全く理解していなかったということに他ならない。結果として「教育」プログラムが実施されなかったことは不幸中の幸いといえた。

* 仮処分申し立て撤回の圧力

再開を求めての仮処分申し立てのギリギリの期限が近付いた9月中旬に、津田芸術総監督が不自由展実行委員と非公式に会いたいという申し出があった。この席に予告もなしに、津田の会社の顧問弁護士を同席させて、仮処分撤回の要請が強い口調で何度も語られた。同席した弁護士は、仮処分を申し立てれば確実に県はこの申し立てに対して和解などには応じず、結果として展示再開は不可能になる、仮処分申し立ては展示中止の継続にしか繋がらないということを再三強調し、仮処分申し立てが敗北に終ることは法律の専門家からみれば常識だといったことを述べて、不自由展実行委員会にかなり強い圧力をかけてきた。また、仮処分を申し立てるなら事前に申し立ての内容を教えるようにとも要求してきた。仮処分申し立てについては、一部のアーティストからも危惧を伝えられた。裁判の権利は憲法で保障された権利であるにも関わらず、「裁判沙汰」というネガティブな印象があるからか、あるいは津田サイドからのある種の印象操作があってのことか不明だが、法的措置をとることへの強い抵抗が、一部のアーティストにはあると感じたことがあった。

不自由展実行委員側はこの要求を拒否した。これは津田ひとりのスタンドプレイではないだろう。裁判所による再開の命令がでてしまうと、再開せざるをえないだけでなく、再開の条件についてもトリエンナーレ側がイニシアチブをとれなくなることを畏れたのかもしれない。

* 象徴天皇制と文化支配との闘いへ

不自由展の展示、中止決定、そして再開という過程のなかで、何度もトリエンナーレ側の裏切りを経験してきた。

今回の不自由展の展示中止に関して、特徴的にあらわれたことのひとつは、「少女像」の問題については、多くのマスメディアが写真や映像を映しながら報じたのに対して、「遠近を抱えてPartII」は、問題となった場面はまず報じられず、この作品のもとになった版画作品「遠近を抱えて」もまた、一部例外はあるが、ほとんどの図版の掲載すらなされなかった。ある大手メディアの記者は図版の掲載は「上から止められている」と漏らしたが、こうした自主規制が展示中止から再開後まで一貫していた。トリエンナーエレ側のメディア規制も異常といえた。会場での報道機関の取材が禁止され、ネットでの投稿や配信も厳しい規制が敷かれた。全体としていえば、再開展示するが、可能な限り作品や関連資料へのアクセスを規制して「見せない」ことを画策したと言っても過言ではないと思う。再開しつつ、いかに「見せないか」に最大の努力を払ったようにすら見える。

大浦の作品は、本人の作品のモチーフへの言及によれば、必ずしも天皇や天皇制批判を意図したものではない。このような作家の発言などを捉えて、多くのメディアの論調は、天皇制を批判することを意図した作品ではないにも関わらず検閲されたということを問題視するスタンスが支配的で、天皇や天皇制を批判する表現そのものの自由を保障すべきだという観点を前面に押し出した主張は目立つものとはいえなかった。

そもそも今回問題になった「従軍慰安婦」は90年代から知られるようになっているが、当時と比べて、現在の方がずっと自由な議論の余地は狭くなっている。天皇をめぐる表現も戦後様々なされており、常に検閲にさらされてきた。この流れを受けて、明かに言論表現の自由は、明仁天皇の時代に大きく後退しているのだ。

私は今回の問題に直面して、とりわけ戦後の象徴天皇制が、政治的な権力を奪われた反面、文化的イデオロギー的な作用を構築する装置としては、戦前戦中以上に巧妙なものとなってきたと感じている。美術や芸術の世界からスポーツや学術の世界まで広義の意味での文化に戦後象徴天皇制が果してきた役割は大きい。象徴天皇制の文化的な力は、ヘイトスピーチのような憎悪の表現と表裏一体をなしながら、むしろ人々があたりまえのように肯定し受容する「日本文化」に潜むレイシズムとは自覚されないレイシズムや排外主義的なナショナリズムを再生産してきた。経済の情報化、文化資本の巨大化のなかで、観光と国際的なメガイベント、学術研究のグーバルな競争が新たなイデオロギー装置の不可欠な一翼を担うようになり、象徴天皇制の非政治的な政治性がこうした現代の資本と国家の構造にますます不可欠な役割を担うようになっている。あいちトリエンナーレもこの枠組を出るものとはいえない。歴史認識や天皇をはじめとして、権力がアートの権威者たちとの密かな共謀のもとで構築してきた表現の自由から排除された領域を、再度自由の側に取り戻す闘いにアーティストや鑑賞者たちが真剣に向き合うことができるかどうかが問われている。

(おぐらとしまる 元表現の不自由展実行委員)

出典:季刊ピープルズプラン 86号