ロシア・フェミニスト反戦レジスタンスレポート

(訳者前書き)これまでもロシア国内の反戦運動を何度か紹介してきた。以下は、やや前になるが5月1日づけでフェミニスト反戦レジスタンスが出した活動報告の訳。私はロシア語ができないので機械翻訳(DeepL、Ligvanex)を用いている。不正確なところがありうることをご了承いただきたい。以下のレポートにあるように、直接的な行動だけでなく、調査、研究なども精力的にこなし、更に海外の運動との連携も活発だ。東アジアでは韓国との交流が報告されている。

以下のレポートは最近起きた極右ネオナチの軍事組織ワグネルの謀反などの事件以前に書かれているので、こうした最近の事態についてはまた別途紹介いたいと思う。私見だが、反戦運動の観点からいうと、プーチンもワグネルに共通しているのは、戦争遂行を前提としての権力争いだということだ。戦争を押し止める運動との接点はない。(小倉利丸)


フェミニスト反戦レジスタンスレポート
5月1日
FASレポート(28.03.23-27.04.23)

ロシア内外の活動家たちは、反戦活動、被害者支援活動、反戦プロパガンダの普及、公共キャンペーンの立ち上げなどを日々続けている。

FASには多くの活動家グループやプロジェクションをするチームや細胞があり、私たちはこの分散化と独立性を大切にしている。私たちは皆、フェミニスト反戦レジスタンスであり、私たちの仕事は目に見える重要なものである。FASの一員になる方法は、こちらで知ることができる。

以下は、2023年4月に私たちが行った活動である:

  1.     FASの心理部門は、動員の影響を受けた人々や、このテーマで行動している反戦活動家のためのサポートグループを定期的に開催している。このグループはプロの心理学者が指導している。1ヵ月で3つのグループを開催した。
  2.     一つは戦時下の復活祭、もう一つはロシアにおける家族と国家の関係、そして三つ目は春の徴兵制と電子召集令状に関する法律である。この号には、人権活動家とともに編集した「徴兵逃れ」のためのマニュアルが掲載されている。
  3.     私たちの活動家の一人が、抵抗と占領博物館で、トゥールーズにおけるロシアの反戦フェミニズム活動に関するレポートを読んだ。そのレポートは、プーチンの独裁政権に抵抗することを余儀なくされ、多大なリスクに直面しているロシアの反戦活動家たちによる生の演説で構成されていた。また、FASから博物館のコレクションに展示品が移された。それは「ザブゴール工作員」と刻まれた被り物で、私たちはウクライナや市民のイニシアチブを支援するチャリティーイベントで販売している。レポートには、活動家_女性たちによる発言が添えられている。
  4.     私たちはまず、ジェンダー研究の第一歩を踏み出したい人のためのストリーム・ディスカッション「私はジェンダー研究をしたい」シリーズを立ち上げ、実施した。海外出願について、大学院の選択肢について、若い研究者の不安について–4つのディスカッションがあった。活動家たちは、コースの付録として、ジェンダー研究入門に関する文献リストをまとめた。
  5.     現代の女性の政治戦略に関するオンライン講義シリーズを開始した。講義は女性のジェンダー研究者が担当する。講義の告知や講義へのリンクは、オープンで匿名のエレメント・スペースに掲載している。このスペースに入る方法については、こちらで読むことができる。
  6.     私たちのコーディネーターであり、新聞『Zhenshaya pravda』の編集者でもあるリリヤ・ヴェジェヴァトヴァが、DPDマヤークと「フェミニストと反戦のサミズダット-歴史と現代性」と題したオンラインミーティングを開催した。
  7.     「気前のいい火曜日」の習慣の一環として、私たちはトビリシ、ベルリン、チュメンで、人道支援のための資金集めや、ウクライナから強制移住させられた親子が交流するためのイベントやワークショップの開催などのボランティア活動を支援した。また今月は、戦争反対を訴え、迫害下に置かれることになった人々を支援する人権プロジェクト「連帯ゾーン」を支援した。私たちのボランティア部門は、ロシアに強制送還されたウクライナ人女性たちを支援し、人道支援物資の運搬、医薬品の引き渡し、プヴルでの宿泊先や被後見人のための法的支援先のアドバイスなどを行った。
  8.     第一弁護団の弁護士とともに、FASの「外国人工作員」事件と、私たちの活動家ダリア・セレンコの「外国人工作員」事件に対する控訴を準備している。
  9.     ビデオシリーズ「暴力の帝国」を完成させた。脱植民地運動家や活動家とともに、カルムイク語とタタール語のロシア帝国主義に関するビデオを発表した。
  10.     反戦の姿勢のために苦しんだロシア人女性たちについての私たちの展覧会は、パリの新しい場所に移った。展覧会とその最新情報はこちら

FASメディア

私たちはフェミニスト反戦メディアとしての仕事を続けている。今月は、活動家たちが他のリソースや活動家などと協力して、多くの重要な記事を書いたり制作したりした:

  •     人権活動家スヴェトラーナ・ガヌシュキナとの “ウクライナ人がロシアでどのように生きるか “についてのインタビュー
  •     サーシャ・タラヴェラがグラスナヤに寄稿したコラム「フェミニズムはロシアで禁止されるのか?
  •     ロシアのパルチザンへのインタビュー
  •     「軍隊の信用を失墜させた」「(同級生の糾弾について)テロを正当化した」という刑事事件の被告で、自宅軟禁から逃れたオレシャ・クリヴツォワへのインタビュー
  •     フランスの年金改革反対運動についてのレポート
  •     カザフのフェミニストアクティビスト、ジャナール・セケルバエワへのインタビュー
  •     「戦争の道具としての文化:文化的『統合』」についての論文研究

FAS細胞

FASタリン

タリン支部はブックウォークを開催し、本の交換や討論を行った。残った本はエストニアのVao Refugee Centerの図書館に寄贈される。

4月8日には、タリンのロシア大使館前で「戦争を忘れるな」「戦争は近い」というスローガンを掲げた反戦集会を開催した。

4月29日には、政治犯とAlexei Navalnyを支援する集会に参加した。

FASブラジル

ラブロフの南米訪問に関連し、ロシア領事館前で抗議活動を行った。

リオデジャネイロではロシア領事館前でデモを組織し、ブラジリアとサンパウロでは@slavaukraine_br@RussiansAgainstTheWar_Br抗議行動に参加した。
FASドイツ

ロシアの政治犯に手紙を送る夕べが22日、デュッセルドルフで開催された。

FAS韓国

ソウルのロシア大使館前で毎週反戦集会を開催した。ソウルのロシア大使館近くで、ブチ虐殺の犠牲者に捧げる写真展を3時間にわたって開催した。9つの大きなスタンドの中には、ロマン・ガヴリリュクとその弟セルゲイ・ドゥクリー、イリーナ・フィルキナ、ジャンナ・カメネワ、マリア・イルチュク、アンナ&タミラ・ミシェンコの個人的な物語が展示された。

多くの人々が足を止め、物語を読み、参加者に話しかけた。

FASチェコ共和国

4月15日、Hnutí pro životによる中絶禁止に反対する集会に参加した。

FASオックスフォード

バフムート、オデッサ、ザポロジエ、ケルソンへの人道支援のための寄付を集める募金活動「Crochet for Ukraine」を開始した(この支援は、英国のフェミニスト・ボランティア団体「Sunflower Sisters」によって組織されている)。寄付金と引き換えに、編み物ワークショップに参加し、ひまわりの編み方を学んだり、編み物の図案や既製品を購入することができる。

私たちは、ウクライナの難民女性がどのように人身売買に直面しているかについて、リサーチを行い、文章を書いた。

https://t.me/femagainstwar/8729

(LeftEast:alameda)ロシアの資本主義は政治的であり、標準的である: 収奪と社会的再生産について

(訳者前書き)この論文は、先に訳したヴォロディミル・イシチェンコとともに同じ論文集(以下のLeftEastの編集部注参照)に収録されたもの。イシチェンコの論文同様、戦争それ自体ではなく、戦争を可能にしているロシア国家による労働力政策あるいは社会政策に焦点を当てている。大方の西側の論調が、左翼であれ右翼であれ、ロシアを資本主義における異例な体制とみなし、だから侵略戦争を引き起こしたのであり、まともな資本主義国家であれば侵略戦争など引き起すはずかがないということ言外に暗示することによって、自らの正義と正統性を強調しようとしてきた。

この論文の著者、リュプチェンコはむしろロシア資本主義を「ノーマル」な資本主義であることをむしろ強調してみせた。イシチェンコがプーチンは狂人だとか、プーチンが独断でやっている戦争だといった観点を厳しく批判したように、リュプチェンコもまた、戦争への動員を可能にしている社会システムを社会的再生産、とりわけ出生奨励主義との関連で論じている点は、日本の労働力政策や社会政策と戦争の歴史をみたときに、いくつもの共通点があるのではないか、ということに気づかされる。増山道康は、「日本の社会保障制度の大部分が準戦時ないし戦時下にかけて戦争計画の一 環として立案実施」され、日本の戦後にまで受け継がれる社会政策の基調が形成された指摘しているように、戦争は労働力再生産過程を国家の統治機構に実質的に包摂する重要な契機となってきた。戦時期日本の女性政策については、加納実紀代の「銃後史ノート」をはじめとして多くの女性史研究者の仕事の蓄積があり、こうした日本の戦争体制と現在のロシアの労働力再生産政策を時代も場所も異なるなかで、安易は比較や類推は避けるべきだろうが、他方で、日本資本主義の資本主義としての異質性と同質性をめぐる戦前からある長い論争を知る者にとって、家族と資本主義、排外主義的なナショナリズムと高度な産業政策のなかに垣間みえる日本資本主義をめぐる論点をもまた、見る思いがする。

日本もロシアも、いずれも資本主義の基本的な構造は共通したものがあり、だからこそ、家父長制とナショナリズムが戦争を支える構造にも共通した性格があるということを見落すべきではないとも思う。特に、日本は少子高齢化のなかで人口政策が大きく転換させられようとしているだけでなく、移民・難民への排除政策、LGBTQへの差別的な扱いもまたロシアとの共通性として意識せざれるをえないと思う。そして同時に日本もまた戦争を見据えた軍事安全保障の質的転換を、伴っていることを念頭に置く必要がある。ロシアを資本主義の例外として、西側資本主義を免罪しようという西側のイデオロギーに足を掬われないようにするためにも、リュブチェンコの論文を通じて、このロシアの構造もまた、資本主義に普遍的な搾取と抑圧の共通性の特殊ロシア的な表出であって、むしろ日本を含む西欧の資本主義にも明確に存在している同様の問題への重要な示唆であることを見落さないようにしたいと思う。

短い論文にあらゆる課題を求めるべきではないが、これまで現代ロシアをめぐって繰り返し議論されてきたことのひとつに、いわゆるファシズムとの関係という問題があり、またロシア正教のイデオロギーの役割もまた注目されてきた、こうしたイデオロギーの領域が「ヘテロナショナリズム」と密接に関わるのではないかとも思う。同時に、ロシアでの事態に対してウクライナはどうなのか、ポストソ連としてのウクライナに対しても新しい分析枠組が可能になるようにも思う。(小倉利丸)


ロシアの資本主義は政治的であり、標準的である: 収奪と社会的再生産について

オレーナ・リュブチェンコ Olena Lyubchenko
投稿日
2023年5月22日

LeftEast編集部注: このミニシリーズでは、Alameda InstituteのDossier、The War in Ukraine and the Question of Internationalismに掲載された2つのエッセイを再掲する。参考までに目次を掲載する。

2006年、社会学者の故サイモン・クラークSimon Clarkeは、その著書『ロシアにおける資本主義の発展The Development of Capitalism in Russia』の中で、以下のように述べた。「資本主義の新興形態を国家の理念モデルと異質な遺産の統合として分析する主意主義的で二元的なアプローチは、国家社会主義から資本主義経済への移行というダイナミックの土着の根と真の基盤を特定できず、変革のプロセスを歴史的に発展する社会の現実として把握できていない(…)。 全体主義に関するリベラルな理論家たちは、ソビエト国家が、リベラルな批判の結果ではなく、それ自身の矛盾の重さによって崩壊したとき、完全に意表を突かれたのである」

2006年にクラークが警告した、ロシア資本主義を「理想的なモデルと[西欧資本主義とは:訳者]異質な遺産」のハイブリッドという観点から特徴づける傾向は、現時点でも蘇ってきている。 ロシアのウクライナ戦争が始まって1年余り、この戦争に関するほとんどの分析は、その原因の根底にある物質的利益を理解することを差し置いて、政治的あるいはイデオロギー的説明を強調する傾向がある。

ロシア政権の帝国主義、権威主義、腐敗、家父長制が、西側の自由民主主義、私的所有関係、普遍的人権、主権原則への譲れないコミットメントと並列される。

特にウクライナ侵略後のプーチン政権は、グローバル資本主義の「標準」かつ健全な機能とは一線を画し、時には例外的な存在として提示されている。その理由は、ロシアの資本主義への移行が特殊であったためであり、これは、ロシア帝国主義を動かしている政治的イデオロギー的な利害とともに非合理的なハイブリッド資本主義や混合資本主義が生まれた結果だという。このため、多くの人が、現在のロシアの体制が資本の利益にまったく貢献していないのではないかという疑問さえ抱いている。ロシアの政治的イデオロギー的な派閥に焦点を当てることは、ロシアをグローバル資本主義の外部に位置づけるという危険を冒すこととなり、ヨハネ福音書の非物質主義の教え――「世からのものではないのにいかにして世にあるのか」[ヨハネの福音書,17-15:訳注]――を彷彿とさせることになる。

政治的・観念的な説明をする者と物質的・経済的な説明をする者との間の二極化した議論を乗り越えるために、ヴォロディミル・イシチェンコVolodymyr Ishchenkoは「侵略の政治的・観念的根拠が(ロシアの)支配階級の利益を反映している」ことを強調している。彼は、プーチンの単純な支配への不合理な執着や国益の代わりに、ソ連崩壊以来、ロシアの支配階級――「政治的資本家」――の形成と再生産は、公職を私的な富のための手段へと変えることと密接に結びついてきたと論じている。したがって、このような蓄積の構造は、一部は国家の収奪のまさにその源泉となったソ連崩壊時の本源的蓄積の過程に端を発し、レント率を維持するための領土拡大に依存するものである。

イシェンコの分析は、ロシアの例外性やグローバル資本主義の外部に立つという二項対立的な考え方を再現することなく、クラークの言う「自国の矛盾の重さ」に向かって、政治と経済の関係を捉えるものである。ポスト・ソビエトの変革というレンズを通して、ロシアの支配階級の政治的・経済的利益のつながりを解明することを求めるイシェンコの呼びかけに応えて、私たちはさらに2つのポイントを提示する。

第一に、私は、「ロシア資本主義」とウクライナ侵略を説明するのににハイブリド性や混合性を用いることに対して釘をさす。ここでは、経済学的なマルクス主義の先入観にとらわれることなく、ロシアの特殊性、すなわち(地政)政治の優位性を独自の観点から説明しなければならないというイリヤ・マトヴェーエフIlya Matveevの呼びかけに対して、批判的な回答を行うものである。そのためには、資本主義とは何か、そのグローバルな展開、「自由民主主義」世界とポスト・ソビエト・ロシアとの相互関係などを再検討する必要があると思うのである。

自由民主主義国家からの逸脱とみなされるものに「混合資本主義」の概念を適用することは、資本主義的生産様式からその政治的・社会的内容を空疎なものにするリスクをはらんでいる。それは「合理的」な資本主義と「非合理的」な資本主義を並列させ、資本主義の人種的、ジェンダー的、環境的暴力からの解放という神話を再生産している。この問題に対処するため、私は社会的再生産理論(SRT)と本源的的蓄積に関する文献を活用し、資本主義における生産と社会的再生産の間の不可欠な関係を実証する。これらの洞察は、抑圧と収奪がハイブリッドなケースに限定されず、むしろ資本主義全般の作用に不可欠であることを明らかにする。

次に、このような資本主義の理解を用いて、1990年代を本源的蓄積の時代とするイシェンコの分析に基づき、生産と社会的再生産の関係の再構築を中心に、ロシアのケースにおいて資本主義がどのように具体化されているかを追跡していく。プーチン政権の現在のヘテロナショナリズム的な思想的・政治的特徴、軍国主義化、ウクライナ戦争は、しばしば資本主義からのロシアの逸脱の証拠として挙げられるが、実際には新自由主義的な蓄積体制の特徴であることを主張する。

具体的には、社会的再生産の金融化と、プーチンのもとで剥奪的な出産奨励主義的社会ポリシーによって推進されているロシア国家の軍国主義化との密接な関連性を検討する。出産奨励主義的な社会政策による労働者階級世帯の負債に基づく包摂は、兵役のための標的徴集のメカニズムとして機能しているのである。

ロシアの事例において、資本主義の収奪、抑圧、搾取の絡み合った力学を解明する作業は、単なる記述的な作業ではない。それは、資本主義が一般的にどのように作動しているかについての私たちの理解を深めるものである。この課題を念頭に置かなければ、グローバル資本主義の産物としてのプーチン政権の本質を理解できないだけでなく、プーチン政権に対する政治的対抗のための有効な戦略を考案することもできないだろう。

ハイブリッドとは

ロシア経済はしばしばハイブリッドと評され、縁故主義、管理主義、依存主義、愛国主義、権威主義、泥棒政治的kleptocraticといったレッテルを貼られて、ポスト産業化のリベラル民主主義の「通常の」資本主義との違いが強調される。これらの様々な限定詞は、戦後の近代化論者が約束した「資本主義=イコール=民主主義」の方程式に、何らかの間違いがあることを意味している。

このことは、アスランド・アンダースAslund Andersの近著『Russia’s Crony Capitalism: The Path from Market Economy to Kleptocracy (2019)』のような堅実な主流派の論考でも、今や広く確認されている。本書は、1990年代の移行が、2000年代半ばに始まるプーチンの国家主義・権威主義への転換と現在のロシアの拡張主義への土台を築いたとしている。国内外での政治的支配を求めるロシア政権のほとんど形而上学的な渇望は、不合理であるだけでなく、例外的でもある。

21世紀には、いかなる国も隣国を侵略してはならない!この感覚は、ロシアがウクライナに侵略した約1週間後の2022年3月に、米国司法省がロシア資本に対する米国の制裁を実施するためのタスクフォースを立ち上げ、「クレプトキャプチャーKleptoCapture」と名付けたほど常識化している。アメリカの進歩主義者たちが、アメリカ人を含むすべてのオリガルヒの富を差し押さえ、人々に再分配しようと呼びかけたが、CNNが宣言したように、答えは出なかった: 「ロシアのオリガルヒは、他の億万長者とは違うのだ」このようにして、ロシアの資本主義は、「普通の資本主義」と比べて本質的に腐敗し、異質なものとして描かれているのである。

批判的な研究者がハイブリッドや混合体制という言葉を使うとき、彼らはまさしく、ロシアと自由民主主義資本主義国家との違いを説明したかったのだ。

政治的・個人的な国家との密接な結びつきを特徴とするロシアの略奪資本主義を、(通常は西洋の)自由民主資本主義国家の合理的とされる私的所有関係と対比することによって、私たちは、抑圧と収奪を排除した資本主義という考え方を再現し、「経済外」暴力が歴史的瞬間や特に遅れた地域だけに関連付けられるという危険な考え方に陥っている。

ロシアを含む、あらゆる歴史的・具体的現われにおいて、それらが資本主義システムの不可欠な要素であることを示すためには、私たちは、これまでとは違って、SRTと原始的蓄積に関する文献が提供する資本主義のより包括的な定義を利用すべきなのだ。

ハイブリッドの枠組みは、2つの別個のタイプの蓄積の存在を前提としている。すなわち、危機にさらされるとはいえ、「自由」な労働者と最大限の「ソフト」な規制に基づく高度な経済搾取と、「経済外」暴力と政治的「介入」に基づくより古風な形態の蓄積である。

しかし、本源的蓄積に対するマルクスの批判は、資本主義が「クリーン」で「非政治的」な形態で実現できるというロマンチックな仮定に疑問を投げかけている。政治理論家・歴史家のエレン・メイキシンズ・ウッドEllen Meiksins Woodが書いているように、「マルクスにとって、資本主義生産の究極の秘密は政治的なものである」実際、マルクス主義フェミニストが示したように、資本と「自由」な労働(生存手段からの自由)との間の契約という法的形態の下での生産的で確立された蓄積は、法律や公共政策に定式化され、それによって国内外で国家によって促進された、社会再生産領域における暴力的な収奪を常に伴っていた。

資本の蓄積は、労働力の再生産を目的とした労働者の身体とセクシュアリティの規制と規律を通じて、家庭と共同体における再生産労働の継続的な従属を必要とし、これは「伝統的」異性愛規範の家族構造の形をとりがちである。

ティティ・バタチャリヤTithi Bhattacharyaの言葉を借りれば、理論としての社会的再生産の意義は、ジェンダー、セクシュアリティ、人種に関連する社会的抑圧が、しばしば「分析の周縁に追いやられたり、より深く、より重要な経済プロセスの添え物として理解されたり」するが、実際には「構造的に資本主義生産と関係し、それゆえに、それによって形成される」ことを示すことである。ブラジルの歴史家ヴァージニア・フォンテスVirginia Fontesが指摘するように、経済外暴力は危機の際の資本蓄積の稀な瞬間だというのは西洋の思い込みである。実際、資本主義がグローバルであるならば、収奪は歴史の特定の瞬間や資本主義的蓄積のレジームの「外側」だけに蔓延するものではない。

つまり、ソビエト連邦後のロシアが、福祉国家モデルから新自由主義へと、西欧の資本主義国家と同様の軌跡をたどることができたという考えには、2つの理由から欠陥があるのである。第一の理由は、資本主義のクリーンなイメージは神話だということ。第二の理由は、グローバル資本主義の中心部と周縁部は、同じグローバル資本主義システムの相互依存的な部分だということ。ソビエト連邦の変容という特殊なストーリーは、資本主義の本質に光を投げかけているのである。

標準的な資本主義

ソビエト政治経済の廃墟から生まれた今日のロシアにおける資本主義国家の形成と、1980年代後半に危機に陥ったグローバル資本主義への統合の力学については、これまで多くのことが書かれてきた。

現代のロシア資本主義には、この時期における生産と社会的再生産の関係の再構築という、重要でありながら見過ごされてきた側面がある。これは、資本主義以前/非資本主義のコモンズの民営化ではなく、(再)生産手段の国家所有の再構成であった。

乱暴に言えば、ケインズ的な福祉国家と比較して、ソ連における剰余の充当と再分配の中央集権的システムは、(再)生産を国家/軍事機構の物質的必要性への従属に基づいていたのである。サイモン・クラークSimon Clarkeとトニー・ウッドTony Woodが示すように、これは深刻な矛盾によって特徴づけられている。国家は、そのコントロール下にある企業から抽出される物質的剰余を最大化することを目指し、一方、企業は、コストまたは彼らが自由に使える国家資源を最大化し、その潜在生産性を隠そうとするものだった。

これは、(不十分ではあったが)社会的市民権の基本的保障である育児、余暇、住宅などが、ソ連企業を通じて果たされたためであり、言い換えれば、生産計画を達成するだけでなく、企業はその労働力の再生産に責任を負っていたためでもあった。重要なのは、賃金はソ連の労働者を再生産するために必要な価値の一部にすぎず、公共サービス、脱/非商品化社会財は、家庭における無償の社会的再生産労働を(不十分ながらも)補助し、地域社会はケインズ主義の福祉国家よりも大きな程度で別の領域を形成していたということである。

1990年代の変革期には、疎外され、力を奪われた労働者とソ連の企業経営者との間の階級関係や、より強固な制度的国家インフラが、ソビエト後のロシア経済に大きな打撃を与えた「ショック療法」の実施を容易にした。

国有企業と公共圏は私的な収入源に変容し、ソ連の国家機関、法的資源、装置は資本蓄積のためのインフラストラクチャー的基盤を形成した。例えば、1992年の民営化によって、企業は国家補助金を失い、事業に専念するために住宅などの社会的再生機能を切り離すことを要求された。

イシェンコが述べているように、ソ連官僚による国家の盗用は、資源の盗用以上の意味があったとするスティーブン・ソルニックの指摘は正しい。社会的再生産の再構築という点で、それは社会的崩壊を意味した。経済的な不安は、出生時の平均寿命の劇的な低下と未熟児の増加を招いた。コスコムスタットによると、1990年代前半のロシアのGDPの落ち込みは、大恐慌時のアメリカのGDPの落ち込みよりも60%も激しいものだった。

2000年代に入ると、1998年以降の石油の利潤による景気回復のおかげで、年金、医療、福利厚生といった国家の義務を果たす能力がいくらか回復してきた。これは、1990年代の明確な新自由主義的経済政策との決別を示すものであった。プーチンのもとで「インサイダー」や「政治的資本家」が強化され、ロシアにおける国家と資本の境界はますます曖昧になった。

社会政策研究では、1990年代のショック療法の混乱に対応して、国家介入主義や出産奨励主義が政権の中心的な特徴になったことが示されている。Anna Tarasenko、Linda Cook、Ilya Matveev、Anastasia Novkunskayaなどの研究者は、福祉給付の収益化、国家支出の減少、サービス提供における官民パートナーシップの確立、その他の緊縮政策が、異性愛家族を中心とした伝統的価値の法的制度化と一致することを示した。

ロシア国家のハイブリッドな性質(新自由主義的規制と国家主義的介入主義)が、いかにウクライナ戦争への道を導いたかを強調する語り方は、現実を断片的に(そして誤解を招くように)説明するものである。国家のイデオロギー的・政治的特徴が、資本主義的蓄積の外部の目的のために発揮さ れていると解されて、ナショナリズム、家父長制、人種差別、同性愛嫌悪などが、階級とは別の抑圧体制と して考えられているところに問題がある。

むしろ、介入主義的な出産省奨励主義的な社会政策の実行が、ウクライナ戦争による国家の軍事化や新自由主義資本主義の維持など、プーチン政権の計画の鍵を握っていると私は主張する。

プーチンのロシアにおける社会政策と市民権

イシュチェンコの言うレントの論理に従えば、ロシアでは、出産奨励主義的な社会政策を通じて国家が奨励する負債ベースの金銭的な包摂に付随する市民権の再構成を私たちは目の当たりにしているということになる。このような形の剥奪は、ソビエト時代の母子保護の言説を援用したポスト・ソビエトの新自由主義的社会政策の延長線上にあるものである。これは、国家が福祉の提供に責任を持ち、公共部門を拡大維持するべきだという考えが残っていることを物語っている。

マタニティ・キャピタル給付金(2007年)[文末の訳注参照]は、最近母親となった受給者を対象とし、主に住宅ローンの頭金に使われる出産奨励主義的な銀行のクーポン券であり、最近のマザー・ヒロイン[母親英雄wiki:訳注]勲章(2022年)は、ウクライナに徴兵された若者が死んでいることを背景に導入されたものであり、兵士に与えられる低利の戦争貸付金(2022年)まである。

ロシアの社会給付制度は、公共部門の継続的な貧困化、労働の不安定化、子どもの貧困、ジェンダー化された暴力に対抗して、金融と社会政策の融合を反映している。しかし、新自由主義的な民営化の継続的なプロセス以上に、プーチン時代の出生奨励主義的な社会政策は、直接国家によって提供される社会的なサービスの提供形態とは対照的に、(特にロシアの銀行と建設会社にとって)利益のために金融資本の回路を通して供給される複雑なメカニズムとなっており、公共財や労働者階級の家計を収奪している。

普遍的な福祉の提供や社会的な市民権が国家を巻き込むことで財政負担を強いのとは違って、負債に基づくインクルージョンは、住宅などの基本的なニーズを満たすための融資への依存を常態化し、ロシアの市民権に付随する個人、しばしば母親を対象としたサービスの提供を通じて社会改良の感覚を作り出した。2000年代半ば以降、子どもの貧困化、多子世帯や母子・祖母世帯の困窮にあわせて、とりわけ住宅ローンを中心とした家計債務の急増が顕著になった。

国家は、ロシアの住宅危機の解決策として、マタニティ・キャピタルと兵士のための戦争住宅ローンプログラムの両方を推進している。貧困地域をターゲットにした広告では、夫や兄弟、息子の祖国への奉仕に感謝し、より安い住宅ローンを確保する機会を得たロシアの家族が笑顔で登場する。実際、こうしたプログラムは、労働者階級の人々をリクルートする仕組みとして機能している。兵役は、よりどころのない世帯が自己再生産する機会を提供するものだからである。

このように、社会的再生産はますます民営化され、その責任は、一種の母性の軍国主義化を通じて女性に取り込まれている。家族は、文字通り、ロシア国家の軍事化を支える金融的な蓄積の直接的な場となっている。

「ロシアの伝統的家族」モデルの制度化は、LGBTQ+の人々や移民労働者の犯罪化、福祉規定、完全な市民権からの排除に基づくものである。フェミニスト理論家ジェニファー・サッチランドJennifer Suchlandの「ヘテロナショナリズム」という用語は、新自由主義的な蓄積体制を支える、出産奨励主義、保護主義、表向きの開発主義的な方向性の国家言説に具現されるロシアナショナリズムの構築を説明するのに役立つ。

複数のインタビューの中で、国会のロシア子どもと家族に関する委員会の責任者であるエレーナ・ミズーリナ Elena Mizulinaのような当局者は、大家族を持つというロシアの伝統的な価値観を、内外の敵に対する国家の維持と明確に結びつけている。中央アジア諸国からの労働移民は、犯罪、公衆衛生リスク、麻薬密売の元凶として描かれることが多い。妊娠中の未登録の[移民の]女性がロシアの公的医療を利用することへの不安の表明や、モスクワの国庫補助の公立プレスクール/幼稚園における未登録の移民の子どもに関する懸念に示されるように、移民への人種差別的取り締まりが生産と社会再生の両方の領域で行われている。

マタニティ・キャピタルMaternity Capital給付金の初年度である2008年3月26日に、プーチン率いる統一ロシアが「家族、愛、貞節[忠節、Fidelity]の日」という祝日を導入したのは偶然ではないだろう。

また、ロシア軍がウクライナ南部と東部の鉱物資源の豊富な土地で採掘と土地収奪に従事している間に、ロシア国家は、未成年者の間での「ゲイプロパガンダ」の拡散の禁止に関する2013年の法律をすべての年齢層に拡大して適用する法律を可決したことも偶然の一致とは言えない。労働者や社会主義者の組織者がロシアで投獄されたのが偶然ではないように。

ロシアの異質性やハイブリッド性についての西洋の描写に反して、サッチランドSuchlandが説明するように、「政治的同性愛嫌悪とヘテロナショナリズムは、ロシアにおける非自由主義の単なる尺度ではなく、ヨーロッパ中心主義と対立するものではなくヨーロッパに絡め取られたポストソ連の帝国プロジェクトの症状である」。

しかし、政治的なものが経済的なものでもあるとすれば、ロシアのヘテロナショナリズムがヨーロッパ中心主義と絡んでいることは、グローバル資本主義と絡んでいることをも意味している。

ロシアの資本主義は政治的であり、それを生み出したグローバル資本主義そのものと同じ様に[資本主義における]標準的なものである。

Olena Lyubchenko トロントのヨーク大学で政治学の博士号候補者であり、ブルックリン社会研究所のassociate faculty membeである。政治経済学のマルクス主義的批判に基づき、社会的再生産、本源的蓄積、グローバルな文脈におけるソビエト連邦の形成と変容に焦点を当てて研究・教育を行っている。ソビエト連邦後のロシアとウクライナにおける新自由主義の再構築、社会的再生産の金融化、人種差別化と市民権、入植者植民地時代のカナダにおける労働関係の規制についても執筆している。LeftEastとMidnight Sun Magazineの編集者である。また、アラメダのアフィリエイターでもある。

出典:https://lefteast.org/russian-capitalism-is-both-political-and-normal-on-expropriation-and-social-reproduction/

訳注:マタニティ・キャピタルについてはロシア社会基金に以下の説明がある。

Maternity (family) capitalは、2007年から2021年までの間に第2子または第3子以上の子どもが誕生または養子縁組したロシアの家庭に対する国家支援の方法であり、第2子の誕生(養子縁組)においてこれらの権利は付与されないことを条件としている。

2020年1月1日以降、出産(家族)資本は466,617ルーブルとなる。

以下のことを知っておくとよい:

マタニティ(ファミリー)キャピタルを受け取る権利は、一度しか与えられない;
マタニティ(ファミリー)キャピタルは、政府による年次指数化[物価スライド]の対象となっており、その額が変わっても証明書を交換する必要はない;
第2子、第3子以上の出産(養子縁組)後、PFRからマタニティ(ファミリー)キャピタル証明書を請求できる期間は無期限である;
マタニティキャピタル(の一部)の使用申請は、第2子、第3子以上の出産(養子縁組)後3年経過すれば、いつでも可能である。出産資金を住宅ローンの初期費用、住宅ローンの元金や利息の支払いに充てる場合、出産(養子縁組)により証明書を受け取る権利を得た子どもの出産または養子縁組後いつでも利用できる;
マタニティ(ファミリー)キャピタルは、所得税が免除される;
証明書は、所有者が死亡した場合、所有者が出産または養子縁組によってマタニティ・キャピタルを受け取る権利を得た子どもに関する親権を剥奪された場合、所有者が人に対する犯罪として定義される自分の子ども(子ども)に対する故意の犯罪を実行し、マタニティ・キャピタルの権利を与えた子どもの養子縁組が終了した場合、またはマタニティ・キャピタルが完全に使われた場合に無効となるものとする;
マタニティ・キャピタルは、銀行振込としてのみ受け取ることができる。これらの資金の現金化は違法である。現金化に同意したマタニティ・キャピタル証明書の所有者は、犯罪を犯し、公的資金の不正使用の共犯者として認識される可能性がある。

マタニティ(ファミリー)キャピタルは、以下のことに使うことができる:

生活環境の改善
    住居を取得する;
    建築業者のサービスを利用して個人住宅を建設または改修する;
    建築請負業者のサービスを利用しない個人住宅の建設または改修;
    個人住宅の建設または改修のために発生した支出に対する補償;
    住宅の取得または建設のための、住宅ローンを含むクレジット(ローン)の初期支払い;
    住宅ローンを含む住宅の取得または建設のための債権(ローン)の元本債務および利息の支払い;
    建設共同資金調達契約に基づく支払い;
    証明書所有者またはその配偶者が住宅、住宅建設、住宅貯蓄協同組合の組合員である場合の、入会金および/または出資金の支払い。
子どもの教育
    国が認定した教育プログラムに対する支払い;
    教育機関における子ども(子ども)の宿泊施設または世話のための支払い;
    教育機関が提供する研修期間中の寮での宿泊費および公共料金の支払い。
母親の基金付き年金

障害のある子どもの社会的適応と統合のため

(LeftEast:alameda)ロシアの戦争の背景にある階級摩擦

(訳者前書き)ロシア・ウクライナ戦争について日本でも多くの議論があり、私も比較的多くのことを書いているが、主に私の関心は、暴力という手段をめぐる問題に集中してきた。日本の改憲状況のなかで、反戦平和運動が専守防衛や自衛のための武力行使を曖昧に肯定するという欺瞞的な立ち位置へとじりじりと後退してきたことへの危機感があるからだ。他方で、戦争をより広い文脈のなかに位置づけることによって、戦争それ自体というよりも、戦争を選択した体制そのものの構造的な矛盾といったもうひとつの大きな問題に視野を拡げてはこなかった。しかし、戦争を遂行する社会システムや政治体制が抱えている諸矛盾を理解すること、つまりは、既存の体制を与件として平和を構想することができるのかどうか、という根本的な戦争と平和をめぐる体制認識を問うことになり、平和を理解する上で欠かせないことでもある。私は資本主義に戦争を廃棄する可能性を見出すことができないが故に、資本主義の廃棄が平和の不可欠な前提をなすと考えるが、なぜそうなのか、という問題に明確な答えを与えることが私にとっても避けられない宿題になる。以下に訳出したヴォロディミル・イシチェンコの主張は、この観点からも重要な問題提起となっている。なおイシチェンコについては、以前にも訳出紹介したものが二点、このブログ掲載されている。

ロシアの戦争を「プーチンの戦争」とみなすような歴史認識は、時代劇の大河ドラマのような時の支配者によって社会の事象を代表させる典型的な英雄主義史観が横行しているなかで、イシチェンコは、「プーチンは権力欲の強い狂人でもなければ、イデオロギーの狂信者でもない(中略)し、狂人でもない。ウクライナ戦争を起こすことで、彼はロシアの支配階級の合理的な集団利益を守っている」とし、左翼の批判的な分析も「帝国主義」の概念装置の安直な適用に陥りがちで、この戦争を特徴づけている特異性とともに、戦争を引き寄せる資本主義に共通する性質を明かにすることからは程遠いものになりがちである点にも警鐘をならしている。イシチェンコは下記の論文の冒頭で、こうした認識を退けるためのオルタナティブなパラダイムとして、ハンガリーの社会学者イヴァン・セレーニが提唱する政治的資本主義という概念を援用して、ポスト・ソヴィエトのロシアを特徴づける階級構造を描き出そうとしている。彼は「技術革新や特に安い労働力に根ざした優位性を持つ資本家とは異なり、国家からの選択的利益を主な競争力とする資本家階級の一部を、政治的資本家と呼ぶ」と定義している。そしてこの概念に当て嵌まるもうひとつの国家として中国を挙げている。この政治的資本主義とロシアの経済学者ルスラン・ザラソフが提唱する「インサイダー・レント」という概念を用いて、イシチェンコはポスト・ソビエトのロシアに固有の階級構造を明かにしようとする。これらの概念は、ポスト・ソ連あるいは社会主義から資本主義へと転換した社会にとって、いわゆる社会主義の体制が構築してきた労働力再生産や経済組織の構造の資本主義的な継承の特殊性を把握する上で重要な位置を与えられている。このことは、日本が近代化するなかで国家主導の富国強兵政策をとり経済組織を国家の統制に置く戦時総動員体制から戦後の西側資本主義への統合の過程でのいわゆる「経済の民主化」や労動改革などを経つつも、戦前からの構造的な一貫性をも維持してきた経緯と照らしても、興味深いものがある。資本主義と20世紀の社会主義を包含する近代性という概念が、純粋な近代の理念モデルからは排除されている非(前)近代的な要素の不可分性というこの概念の外延をも包摂しなければ、近代性そのものの本質もまた把握しえない、ということに気づかされる。20世紀初頭の資本主義ロシアから革命を経たスターリン体制下のロシア、そしてポスト・ソ連としてのロシアは、私たち日本の近代史とは余りにもかけはなれた歴史的経験にあるように感じるが、西欧に対して後進的な位置にありながら近代化を目指すなかで獲得されてきた支配の構造には、思いのほか多くの共通点を見出すこともできそうに思う。

戦争へと向う構図は単純ではないことは、イシチェンコの分析に登場するアクターと歴史的な背景から浮き彫りにされる単純明快とは言い難い階級闘争の姿からも理解できる。しかし、この論文のタイトルが階級闘争ではなく階級摩擦class conflictとなっていることには重要な含意がある。イシチェンコはロシアだけでなくウクライナにも注目しつつ、西側からのアプローチを軍事や多国籍資本だけでなく、いわゆる「市民社会」(つまり実現不可能あクリーンな資本主義のアクターを代表するわけだが)の回路を通じた西側への統合がもたらす支配階級内部の軋轢に着目する。この市民社会の回路は極めて重要なイデオロギー作用をロシアやウクライナだけでなく、私たちの社会にももたらしている。つまり「市民社会」は、資本主義を理想化するイデオロギー効果を伴っており、これが権力を善導すればよい資本主義が実現するという幻想の担い手になってしまっている。少なくとも、この点では未だ闘争といいうるような階級の構成が登場していないということを示唆しつつも、ラディカルな変革の可能性をも指摘するところでこの論文は終っている。

この論文が、単刀直入にウクライナへの侵略へと向ったロシアの政治権力の意思決定を分析するという方法をとっていないので、なぜ、これがロシアの戦争の「背景」なのかを理解するのは容易ではないかもしれない。戦争を軍が武力行使い動員される事態としてだけ捉えるのではなく、むしろ戦争を可能にし、かつこれを必然ともする戦争する国家の権力構造全体を理解しようとすれば、イシチェンコのようなアプローチには意義があると思う。

イシチェンコが援用する「国家からの選択的利益を主な競争力とする資本家階級の一部を、政治的資本家と呼ぶ」という捉え方は、マルクスの唯物史観の定式でもある土台と上部構造の伝統的な理解を覆して、国家の統治機構を資本=土台の不可欠な蓄積構造のなかに組み込む事態を指すとすれば、私もまた同様の考え方をしてきたので、関心が重なるところがある。中国も視野に入れた政治的資本主義は、その前身をなす20世紀の国民国家社会主義が政治権力による経済統制のモデルとしての経験を継承することで可能になったものともいえるが、他方で、私のように、統治機構の社会基盤となっている情報通信インフラを資本に依存する構造に着目する場合は、産業構造の転換もまた視野に入れるべき問題だということになる。そして、この情報通信の分野が、同時に現代的な軍事産業のひとつの軸をもなしつつあるということにも着目する必要がある。イシチェンコの論文にはこうした観点への言及がないが、政治的資本主義、あるいはインサイダー・レントといった概念を私のような問題意識を持つ者にとっても、検討する価値のある捉え方だと感じた。(小倉利丸)


ヴォロディミル・イシチェンコ Volodymyr Ishchenko
投稿日

2023年5月23日

LeftEast編集部からのお知らせ: このミニシリーズでは、Alameda InstituteのDossier、The War in Ukraine and the Question of Internationalismに掲載された2つのエッセイを再掲する。参考までに目次を掲載する。

今年初めにロシア軍がウクライナに侵略して以来、政治的なスペクトルを問わず、アナリストたちは何が、あるいは誰が、我々をここまで導いたのかを正確に特定することに苦心してきた。「ロシア」、「ウクライナ」、「西側」、「グローバル・サウス」といった用語が、あたかも統一された政治主体を示すかのように飛び交っている。左派であっても、ウラジーミル・プーチン、ヴォロディミル・ゼレンスキー、ジョー・バイデン、その他の世界の指導者の「安全保障上の懸念」「自決」「文明的選択」「主権」「帝国主義」「反帝国主義」に関する発言は、しばしば額面どおりに受け取られる。

特に、戦争開始におけるロシア、より正確にはロシアの支配集団の利益をめぐる議論は、疑問の多い極端へと偏りがちである。多くの人は、プーチンの言うことを文字通り受け取り、NATOの拡張への脅迫観念や、ウクライナ人とロシア人が「一つの人々」を構成するという主張が、ロシアの国益を代表しているか、ロシア社会全体が共有しているかを疑問視することさえしない。他方で、彼の発言は大嘘であり、ウクライナにおける彼の「真の」目標とは全く関係のない戦略的コミュニケーションであるとしてはねつける意見も多い。これらの立場はいずれも、クレムリンの動機を明らかにするのではなく、むしろ謎めいたものにするものである。ロシアのイデオロギーに関する今日の議論は、175年前に若き日のカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによって書かれた『ドイツ・イデオロギー』の時代に戻ったかのように感じることが多い。

ある人は、ロシア社会で支配的なイデオロギーが、社会的・政治的秩序を正しく表していると考える。また、「王様は裸だ」と宣言するだけで、イデオロギーの自由な泡に穴を開けることができると考える人もいる。しかし、現実の世界はもっと複雑である。「プーチンが何を求めているのか」を理解する鍵は、彼の演説や論文から、観察者の先入観に合った不明瞭なフレーズを選び出すことではなく、むしろ、彼が代表する社会階級の物質的利益、政治組織、イデオロギー的正統性を構造的に決定する分析を実施することである。

以下では、ロシアの文脈に即して、そのような分析の基本的な要素をいくつか挙げてみる。だからといって、この紛争における西側やウクライナの支配階級の利害に関する同様の分析が無関係であったり不適切であったりするわけではないが、私がロシアに焦点を当てたのは、一部には現実的な理由からであり、またこの問題が現在最も議論を呼んでいるからであり、さらにまたロシアの支配階級がこの戦争の第一責任を負っているからでもある。彼らの物質的利益を理解することで、支配者の主張を額面通りに受け取る薄っぺらい説明から、戦争が1991年のソ連崩壊によって開かれた経済的・政治的空白にいかに根ざしているかという、より首尾一貫した図式へと向かうことができる。

名前に何があるのか?

この戦争において、クレムリンの利益を理論化するために、多くの人が帝国主義という概念を参照している。もちろん、あらゆる分析的パズルに、利用可能なすべてのツールを使ってアプローチすることは重要である。しかし、それと同じくらい重要なのは、それらを適切に使用することである。

この問題は、帝国主義という概念が、ポスト・ソビエトの状況に適用される際に、実質的に何の発展も遂げていないことである。ウラジーミル・レーニンも、他の古典的なマルクス主義者も、ソビエト社会主義の崩壊によって出現した根本的に新しい状況を想像することはできなかっただろう。彼らの世代は、資本主義の拡張と近代化の帝国主義を分析していた。これとは対照的に、ポスト・ソビエトの状況は、縮小、脱近代化、周辺化という永続的な危機にある。

だからといって、今日のロシア帝国主義の分析が無意味だというわけではないが、それを実りあるものにするためには、かなり多くの概念的な宿題が必要である。20世紀の教科書的な定義を参照しながら、現代のロシアが帝国主義国家であるかどうかを議論することは、学問的な価値しかない。説明概念としての「帝国主義」は、「ロシアは弱い隣国を攻撃したから帝国主義だ」「ロシアは帝国主義だから弱い隣国を攻撃した」など、非歴史的かつ同語反復的な記述的ラベル貼りに変わってしまう。

ロシアの金融資本の拡張主義を見ずに(グローバル化したロシア経済とロシアの「オリガルヒ」の欧米資産に対する制裁の影響を考慮して)、新市場の征服(ウクライナでは、自国のオリガルヒの海外資金を除き、事実上いかなる外国直接投資(FDI)も誘致できなかった)、戦略資源のコントロール(ウクライナ国内にどんな鉱脈があるとしても、ロシアにはそれを吸収する産業の拡大か少なくともより進んだ経済国にそれを売る可能性が必要だが、それは――驚くべきことに!――欧米の制裁によって厳しく制限されている)、あるいはロシアの侵略の背後にあるその他の従来の帝国主義的な原因について、一部のアナリストは、この戦争は「政治」または「文化」帝国主義の自律的合理性を持っているかもしれないと主張している。

これは結局のところ、折衷的な説明である。私たちの仕事は、侵略の政治的・思想的根拠が支配階級の利益をどのように反映しているかを説明することにある。そうでなければ、必然的に、力のための力、あるいはイデオロギーの狂信という無骨な理論に行き着くことになる。さらに、これは、ロシアの支配層は、ロシアの偉大さを取り戻すという「歴史的使命」に取りつかれた権力欲の強い狂信的なナショナリズムの人質になってしまったか、あるいは、客観的に利益に反する政策に導かれてつまりプーチンのNATOの脅威に関する考えやウクライナの国家としての否定を共有するという極端な虚偽意識にさいなまれているということを意味することになるだろう。

私は、これは間違っていると思う。プーチンは権力欲の強い狂人でもなければ、イデオロギーの狂信者でもない(この種の政治はポストソ連の空間全体では周辺的でしかない)し、狂人でもない。ウクライナ戦争を起こすことで、彼はロシアの支配階級の合理的な集団的利益を守っているのである。集団的な階級の利益は、その階級の代表者個人の利益と部分的にしか重ならず、あるいは矛盾することも珍しくはない。それでは、実際にロシアを支配しているのはどのような階級であり、その集団的利益は何なのだろうか。

ロシアとそれを越えた政治的資本主義

ロシアを支配する階級は何かと問われれば、左派の人々の多くは、ほとんど本能的に「資本家」と答えるだろう。ポストソビエトの平均的な市民は、彼らを泥棒、ペテン師、マフィアと呼ぶかもしれない。少し高尚な回答としては、「オリガルヒ」であろう。このような回答を、誤った意識の反映と断じることは簡単である。しかし、より生産的な分析の道は、なぜポスト・ソビエト市民が「オリガルヒ」という言葉が意味する窃盗や私企業と国家の緊密な相互依存関係を強調するのかを考えることであろう。

現代の帝国主義の議論と同様に、ポスト・ソビエトの条件の特殊性を真剣に考える必要がある。歴史的に見ると、ここでの「本源的蓄積」は、ソ連の国家と経済が遠心的に崩壊していく過程で起こったものである。政治学者のスティーブン・ソルニックSteven Solnickは、このプロセスを「国家を盗む」と呼んだ。

新しい支配階級のメンバーは、国有財産を民営化するか(多くの場合、1ドル=1円で)、形式的に公的な団体から私的な手に利益を吸い上げる機会を豊富に与えられた。彼らは、国家公務員との非公式な関係や、しばしば意識的に設計された法律の抜け穴を利用して、大規模な脱税や資本逃避を行い、短期的な視野で素早く利益を得るために敵対的な企業買収を実行したのである。

ロシアの経済学者ルスラン・ザラソフ Ruslan Dzarasovは、このような慣行を「インサイダー・レント」というコンセプトで捉え、権力者との関係に依存する企業の財務フローをコントロールすることで、インサイダーが引き出す収入のレント的性質を強調した。このような慣行は、確かに世界の他の地域でも見られるが、国家社会主義の遠心的崩壊とそれに続くパトロン制に基づく政治経済的再統合から始まったポストソ連の変革の性質上、ロシアの支配階級の形成と再生産におけるその役割ははるかに重要である。

ハンガリーの社会学者イヴァン・セレーニIván Szelényiのような他の著名な思想家は、同様の現象を「政治的資本主義」と表現している。マックス・ウェーバーに倣って、政治的資本主義は、私的な富を蓄積するために政治的地位を利用することを特徴としている。私は、技術革新や特に安い労働力に根ざした優位性を持つ資本家とは異なり、国家からの選択的利益を主な競争力とする資本家階級の一部を、政治的資本家と呼ぶことにしたい。

政治資本家は、ポスト・ソビエト諸国に限ったことではないが、歴史的に国家が経済の支配的役割を果たし、巨大な資本を蓄積し、現在は私的搾取のために開放されている分野でこそ、繁栄することが可能である。

政治資本主義の存在を認識することは、クレムリンが「主権」や「勢力圏」について語るとき、時代遅れのコンセプトへの不合理な執着からそうしているのではない理由を理解するために極めて重要である。同時に、このようなレトリックは、必ずしもロシアの国益を明示するものではなく、ロシアの政治資本家の階級的利益を直接反映するものである。

国家の選択的利益が彼らの富の蓄積の基礎となるのであれば、これらの資本家は、彼らが独占的なコントロールを行使する領域、つまり資本家階級の他のいかなる部分とも共有されないコントロールを囲い込む以外に選択肢はない。

このような「領域を示す」ことへの関心は、異なるタイプの資本家には共有されないか、少なくともそれほど重要ではない。マルクス主義理論における長年の論争は、Göran Therbornの言葉を借りれば、「支配階級が支配するときに実際に何をするのか」という疑問が中心であった。その謎は、資本主義国家のブルジョアジーは、通常、国家を直接には運営しないということであった。国家官僚は通常、資本家階級から実質的な自律性を享受しているが、資本家的蓄積に有利なルールを確立し、実施することによって資本家階級に奉仕する。対照的に、政治資本家は、一般的なルールではなく、政治的意思決定者に対するより厳密なコントロールを要求する。あるいは、自ら政治的地位を占め、私的な富を得るために政治的地位を利用する。

古典的な企業家資本主義のアイコンの多くは、国家補助金、優遇税制、あるいはさまざまな保護主義的措置の恩恵を受けていた。しかし、政治資本家とは異なり、彼らの市場での生存と拡大が、特定の役職にある特定の個人、特定の政党、特定の政治体制に依存することはほとんどなかった。多国籍資本は、その本社が所在する国民国家に依存することなく存続することができたし、今後も存続するだろう。ピーター・ティールのようなシリコンバレーの大物が後押しする、国民国家から独立した浮遊起業家都市であるシーステージング・プロジェクトseasteading project[海上に自治都市を建設するという構想l]が思い出される。政治資本家は、外部からの干渉を受けずにインサイダー・レントを得ることができる少なくともいくつかの領域がなければ、グローバルな競争の中で生き残ることはできない。

ポスト・ソビエトの周縁部における階級闘争

政治資本主義が長期的に持続可能かどうかについては、まだ未解決の疑問が残る。結局のところ、政治資本主義者の間で再分配するために、国家はどこからか資源を奪う必要がある。ブランコ・ミラノヴィッチが指摘するように、政治的資本主義にとって汚職は、たとえ効果的でテクノクラート的で自律的な官僚機構が運営する場合であっても、固有の問題である。

政治的資本主義の最も成功した事例である中国とは異なり、ソ連共産党の組織は崩壊し、個人の後援ネットワークに基づく政権に取って代わられ、自由民主主義の形式的なファサードを自分たちに有利なように曲げた。このことは、経済の近代化と専門化の衝動にしばしば逆行する仕事であった。

乱暴に言えば、人はいつまでも同じところで盗みを働くことはできない。利潤率を維持するためには、資本投資や労働搾取の強化によって別の資本主義モデルに転換するか、インサイダー・レントを抽出するためのより多くの源泉を得るために拡大する必要がある。

しかし、再投資も労働搾取も、ポストソビエトの政治的資本主義では構造的な障害に直面している。一方では、ビジネスモデル、さらには財産の所有権が基本的に特定の権力者に依存している場合、多くの人々が長期的な投資に取り組むことを躊躇する。一般に、利益を海外口座に移す方が好都合であることが判明している。

一方、ソ連崩壊後の労働力は、都市化され、教育を受け、決して安くはなかった。この地域の比較的低い賃金は、ソビエト連邦が遺産として残した広範な物質的インフラと福祉制度があったからこそ可能だったのである。この遺産は国家に大きな負担を強いているが、主要な有権者グループの支持を損なうことなく放棄することはそう簡単ではない。

プーチンのようなボナパルティズムの指導者や他のポストソ連の独裁者は、1990年代を特徴付けた政治資本家同士の対立を終わらせようと、政治的資本主義の基盤を変えることなく、一部のエリート層の利益を均衡させ、他の層を抑圧することによって、万人対万人の戦争を緩和させた。

強欲な拡張が内部的な限界に直面し始めると、ロシアのエリートは、抽出のプールを増やすことによってレント率を維持するために、外部への委託を試みた。それゆえ、ユーラシア経済同盟のようなロシア主導の統合プロジェクトを強化することになった。しかし、このプロジェクトは2つの障害に直面した。ひとつは、比較的マイナーな存在である地元の政治資本家たちである。たとえばウクライナでは、彼らはロシアの安価なエネルギーに関心を寄せていたが、同時に自国の領土内でインサイダーのレントを得るための主権的権利にも関心を寄せていた。彼らは、崩壊したソビエト国家のウクライナ地域の領有権を正当化するために反ロシアナショナリズムを利用することはできたが、明確な国家開発プロジェクトを展開することはできなかった。

ウクライナ第2代大統領レオニード・クチマLeonid Kuchmaの有名な本『ウクライナはロシアではない』のタイトルは、この問題をよく表している。

ウクライナがロシアでないなら、いったい何なのか。

ロシア以外のポストソビエトの政治的資本家たちは、ヘゲモニーの危機を克服することに至るところで失敗したため、彼らの支配は脆弱になり、最近ベラルーシやカザフスタンで見られるように、結局はロシアの支援に依存することになった。

ポスト・ソビエト空間における多国籍資本と職業的中産階級の同盟は、政治的には親欧米のNGO化した市民社会によって代表され、劣化し崩壊した国家社会主義の廃墟で一体何を育てるべきかという疑問に、より説得力のある答えを与え、ロシア主導のポスト・ソビエト統合により大きな障害となった。これが、ウクライナ侵略に結実することになるポストソビエト空間における主要な政治的対立を構成している。

プーチンをはじめとするソビエト連邦の指導者たちが実施したボナパルティズム的安定化は、職業的中産階級の成長を促進した。その一部は、官僚や戦略的な国営企業で働くなどして、制度の恩恵を共有していた。しかし、その大部分は政治的資本主義から排除されていた。

彼らの収入、キャリア、政治的影響力の発展の主な機会は、西側との政治的、経済的、文化的なつながりが強まるという見通しのなかにあった。同時に、彼らは西洋のソフトパワーの先兵でもあった。EUや米国が主導する機関への統合は、彼らにとって、「適切な」資本主義と「文明世界」の両方に参加するという、偽りの近代化プロジェクトであった。これは、ソビエト後のエリートや制度、そして、1990年代の惨事の後、少なくともある程度の安定を保つことにこだわった「後進的」な平民大衆に染み付いた社会主義時代の精神性との決別を必然的に意味する。

ほとんどのウクライナ人にとって、これは自衛のための戦争である。このことを認識した上で、彼らの利益と彼らの代弁すると主張する人々との間のギャップについても忘れてはならない。

このプロジェクトの根深いエリート主義的性格が、歴史的な反ロシアナショナリズムに後押しされたとしてもポスト・ソビエトのどの国でも真の意味でヘゲモニーになることはなかった理由である。現在であっても、ロシアの侵攻に対抗するために動員された[ロシアに対する]ネガティブな連合は、ウクライナ人が何らかの特定のポジティブな議題で団結しているということを意味してはいない。同時に、このことは、グローバル・サウスが、グローバル・パワーを目指す者(ロシア)や、帝国主義を廃止するのではなく、より成功した帝国主義と結びつこうとして西側諸国への統合を目指す者(ウクライナ)と連帯するよう求められたときに、懐疑的な中立性を示している理由を説明するのに役立つ。

ロシアの侵略に道を開いた西洋の役割についての議論は、通常、NATOのロシアに対する威嚇的な姿勢に焦点が当てられている。しかし、政治的資本主義という現象を考慮に入れると、ロシアの根本的な転換なしでのロシアの西欧への統合が、決してうまくいくことはなかっただろう理由がわかる。ポスト・ソビエトの政治的資本家からその主な競争力であるポスト・ソビエト諸国から与えられる選択的利益を奪うことで階級としての彼らをなきものにしようと明確に目論む西側主導の制度には、彼らを統合するような方策はなかったのである。

ポスト・ソビエトの空間に対する西側機関のビジョンのなかでいわゆる「反腐敗」アジェンダは、最も重要ではないにしても、不可欠な部分であり、この地域の親西側中産階級によって広く共有されてきた。このアジェンダの成功は、政治的資本家にとっては彼らの政治的・経済的な終焉を意味する。

公の場では、クレムリンは戦争を、ロシアの主権国家としての存続をかけた戦いだと見せようとしている。しかし、最も重要な利害関係は、ロシアの支配階級とその政治的資本主義モデルの存続である。世界秩序の「多極化」的な再編が、しばらくの間は、この問題の解決となるだろう。これが、クレムリンが彼らの特殊な階級プロジェクトをグローバル・サウスのエリートたち売り込もうとする理由であり、クレムリンは「文明を代表する」という主張に基づいて自分たちの主権の「影響圏」を手に入れようとするだろう。

ポスト・ソビエトのボナパルティズムの危機

ポスト・ソビエトの政治資本家、職業的中産階級、多国籍資本の矛盾した利害が、最終的に現在の戦争をもたらすような政治的対立を構造化した。しかし、政治的資本家の政治組織の危機は、彼らに対する脅威を深刻化させた。

プーチンやベラルーシのアレクサンドル・ルカシェンコのようなボナパルティズム政権は、受動的で脱政治的な支持に依存し、ソ連崩壊後の惨事を克服することで正統性を得ているのであって、支配階級の政治ヘゲモニーを確保するような積極的同意からではない。このような個人主義的な権威主義的支配は、後継者の問題があるが故に根本的に脆弱である。権力の継承には明確なルールや伝統がなく、新しい指導者が遵守すべき明確なイデオロギーもなく、新しい指導者を社会化しうるような政党や運動もない。後継者は、エリート内部の対立が危険な水準にまでエスカレートし、下からの反乱の方が成功する可能性が高いという脆弱な場になっている。

2014年のウクライナにおけるユーロマイダン革命だけでなく、アルメニア革命、キルギスの第三革命、ベラルーシの2020年蜂起の失敗、そして直近ではカザフスタンの蜂起など、近年、ロシアの周辺部でこうした蜂起が加速している。最後の2つのケースでは、ロシアの支援が現地政権の存続に不可欠であることが証明された。

ロシア国内では、2011年と2012年に開催された「公正な選挙のために」集会や、Alexei Navalnyに触発されたその後の動きは、重要な意味を持つものとはいえなかった。侵略の前夜、労働不安は高まり、世論調査ではプーチンへの信頼は低下し、引退を望む人々が増えていた。注目すべきは、回答者が若いほどプーチンへの反発が強かったことである。

ポスト・ソビエトのいわゆるマイダン革命は、いずれも階級としてのポスト・ソビエト後の政治的資本家それ自体に対する脅威となるものではなかった。彼らは同じ階級の権力者の一部を入れ替えただけであり、したがって、そもそも反動であった政治的代表の危機を激化させただけである。だからこそ、この種の抗議運動がこれほどまでに頻繁に起こっているのである。

マイダン革命は、政治学者マーク・ベイシンガーMark Beissingerが呼んだように、典型的な現代都市の市民革命である。彼は豊富な統計資料から、過去の社会革命とは異なり、都市市民革命は権威主義的支配を一時的に弱め、中流市民社会に力を与えるにすぎないことを示している。それは、より強固で平等な政治秩序や、永続的な民主主義の変化をもたらすものではない。

典型的な例として、ポスト・ソビエト諸国では、マイダン革命は、多国籍資本からの圧力(直接的にも親欧米NGOを通じて間接的にも)に対して国家を弱体化させ、地元の政治的資本家を脆弱にしただけであった。例えば、ウクライナでは、ユーロマイダン革命後、一連の「反腐敗」機関が、IMF、G7、市民社会によって徹底的に推進されてきた。

彼らは、この8年間、腐敗の重大な事例を提示することはできなかった。しかし、外国人や反腐敗活動家による主要な国営企業や裁判制度の監督機能を制度化し、国内の政治的資本家がインサイダー・レントを得る機会を奪っている。ロシアの政治的資本家には、かつて強大だったウクライナのオリガルヒが抱える問題に神経を尖らせるのに十分な理由があるといえるだろう。

支配階級の統合がもたらす意図せざる結果

ウクライナ侵略のタイミングと、プーチンの迅速かつ容易な勝利という誤算を説明するのに役立つ要因はいくつかある。例えば、極超音速兵器におけるロシアの一時的優位、ヨーロッパのロシアエネルギーへの依存、ウクライナ国内のいわゆる親ロシア派の反対派の弾圧、ドンバスでの戦争の後の2015年ミンスク合意の停滞、またはウクライナにおけるロシアの諜報活動の失敗である。

ここでは、侵略の背後にある階級的対立、すなわち、一方ではレントの割合を維持するための領域拡大に関心を持つ政治的資本家と、他方での政治的資本主義から排除された専門職中間層と連携する多国籍資本との間の対立を、非常に大まかに説明しようと思う。

マルクス主義的な帝国主義の概念は、戦争の背後にある物質的利益を特定することができれば、現在の戦争に有意義に適用することができる。同時に、この紛争は、単なるロシア帝国主義以上のものである。現在ウクライナで戦車、大砲、ロケット弾によって解決されようとしている紛争は、ベラルーシやロシア内部で警察の警棒によって抑圧してきたのと同じ紛争である。

ポスト・ソビエトのヘゲモニー危機――支配階級が持続的な政治的、道徳的、知的リーダーシップを発揮できない無能さ――の激化が、エスカレートする暴力の根本原因である。

ロシアの支配層は多様である。その一部は、欧米の制裁の結果、大きな損失を被っている。しかし、ロシアの体制は支配層から部分的に自立しているため、個々の代表者やグループの損失とは無関係に、長期的な集団的利益を追求することができる。同時に、ロシア周辺部の類似の政権の危機は、ロシア支配層全体に対する存立危機事態を悪化させている。

ロシアの政治的資本家のうち、より主権主義的な分派は、より買弁的な分派に対して優位に立っているが、後者でさえも、政権の崩壊によって、彼ら全員が敗北することをおそらく理解しているだろう。

クレムリンは戦争を開始することで、世界秩序の「多極化」再編を最終目標に、当面の脅威を軽減しようと目論んだ。ブランコ・ミラノヴィッチBranko Milanovicが示唆するように、戦争は、高い代償を払うことになるにもかかわらず、ロシアの西側との関係弱体化に正当性を与え、同時に、さらに多くのウクライナ領土を併合した後に、それを覆すことを極めて困難にする。

同時に、ロシアの支配的な小集団は、支配者層の政治的組織とイデオロギー的正統性をより高いレベルにまで高めている。ロシアにはすでに、中国のより効果的な政治的資本主義にロールモデルとしての明かなヒントを得つつ、より強固で、イデオロギー的で、動員力のある権威主義的な政治体制への転換の兆候がある。

プーチンにとって、これは本質的に、ロシアのオリガルヒを手なずけることによって2000年代初頭に始めたポスト・ソビエトの統合プロセスのもうひとつの段階である。第一段階における大惨事の防止と「安定」の回復という緩やかな物語に続いて、今の第二段階では、より明確な保守ナショナリズム(海外ではウクライナ人や西欧に、ロシア国内ではコスモポリタンな「裏切り者」に向けられる)が、ソ連崩壊後の思想的危機という状況の中で広く利用できる唯一の思想言語となった。

社会学者ディラン・ジョン・ライリーDylan John Rileyのように、上からのより強力なヘゲモニー政治が、下からのより強い対抗的なヘゲモニー政治の成長を助長する可能性があると主張する著者もいる。もしそうだとすれば、クレムリンのよりイデオロギー的で動員主義的な政治への移行は、ポスト・ソビエトのどの国が経験したよりも大衆層に根ざした、より組織的で意識的な大衆政治的反対運動、ひいては新しい社会革命の波が起こる条件が生まれるかもしれない。

このような展開は、世界のこの地域の社会的・政治的な力のバランスを根本的に変え、約30年前にソビエト連邦が崩壊して以来、この地域を苦しめてきた悪循環に終止符を打つ可能性がある。

Volodymyr Ishchenko ベルリン自由大学東欧研究所の研究員である。抗議行動や社会運動、革命、急進化、右翼・左翼政治、ナショナリズム、市民社会などを研究テーマとしている。ウクライナの現代政治、ユーロマイダン革命、それに続く戦争について広く発表している。『ガーディアン』『アルジャジーラ』『ニューレフトレビュー』『ジャコバン』への寄稿が多い。現在、『The Maidan Uprising: Mobilization, Radicalization, and Revolution in Ukraine, 2013-14』というタイトルの集合的なモノグラフを仕事にしている。VolodymyrはAlamedaのアフィリエイターでもある。

ロシアとウクライナ、良心的兵役拒否が機能していない!!

戦争状態になると、当然のように市民的自由の制約がまかり通ってしまう。それを、戦争だから、国家の緊急事態だから、という言い訳で容認する世論が後押しする。ロシアでもウクライナでもほぼ同じように、良心的兵役拒否の権利が事実上機能できない状態にある。両国とも良心的兵役拒否は法律上も明文化されている。また市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)18条の2「何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない」によって、宗教の教義で殺人を禁じている場合は、この教義に基づいて軍隊で武器を持つことや武力行使の幇助となるような行為を拒否できる。日本もロシアもウクライナも締約国だから、この条約を遵守する義務がある。さらに、この自由権規約で重要なことは、宗教の信仰だけでなく「信念」もまた兵役拒否の正当な理由として認められている点だ。

しかし、実際には、ロシアもウクライナも良心的兵役拒否の権利が機能していない。現在、ロシアとウクライナでは兵役拒否の実態がどのようになっているのかについて、下記に二つの記事を翻訳して紹介した。いずれもForum18.org という自由権規約18条の思想、良心及び宗教の自由についての権利を守る活動に取り組むノルウェーに本部がある団体のレポートだ。

ロシア:動員中の代替役務に関する法的規定がない

ウクライナ:ヴィタリィ・アレクセンコに対するすべての告発を直ちに取り下げよ

それぞれの国の具体的な状況については、このレポートを是非読んでほしいのだが、少しだけ書いておく。別のブログでも言及したことだが、ロシアにおける兵役拒否あるいは徴兵や軍への動員を忌避して民間での仕事に振り替える権利は、不当に狭められ、正当な権利行使を違法行為として訴追されるケースがある一方で、人権団体や弁護士の活動で兵役拒否の正当性を裁判所に認めさせることができたケースもあり、法的な権利が大きく侵害されながらも、むしろ権力による人権侵害に対してはっきりと闘う姿勢をとる人達がいることで、権利の完全な壊死を免れている。ウクライナでは、正義の戦争にもかかわらず、この戦争を遂行する国内の動員体制や戦争協力を拒否する人達への締め付けは厳しく、正義が危機に瀕している状況だ。上の記事にあるアレクセンコは、良心的兵役拒否を申立てたが、認められず、有罪となった。ロシア侵略以降ウクライナの裁判で有罪判決を受けたのは彼で5人目だが、初めて実刑1年の判決が下された。兵役拒否裁判では執行猶予がついていたが、アレクセンコはそうならなかった。兵役拒否の問題は、自分の思想・信条を捜査官や裁判官が信じるかどうかにある、ともいわれている。単に、「殺したくない」とか「軍隊は嫌だ」ということでは理由にならない、とされてしまっている。しかし、わたしは、そもそも国家の命令で「殺す」という行為そのものが不条理である以上、単純に「殺したくない」という(信条というよりも)心情のレベルでの忌避感情であっても十分兵役拒否の理由として認めらるべきだ、と考えている。

自由権規約は国家の緊急事態、つまり戦争のような場合に、4条1稿で個人の自由権を一定程度制約することを認めている。

国民の生存を脅かす公の緊急事態の場合においてその緊急事態の存在が公式に宣言されているときは、この規約の締約国は、事態の緊急性が真に必要とする限度において、この規約に基づく義務に違反する措置をとることができる。ただし、その措置は、当該締約国が国際法に基づき負う他の義務に抵触してはならず、また、人種、皮膚の色、性、言語、宗教又は社会的出身のみを理由とする差別を含んではならない。

しかし、この国家による自由権規約に対する義務違反を認める条文は、第2項で18条には適用できないと定められているので、良心的兵役拒否の権利は例外なく常に国家がその義務として保障しなければならない。

ロシアでは、姑息な手段を使って、兵役拒否や代替役務の権利を認めない扱いが横行しているようだ。兵役拒否は、徴兵制に対応した制度であるというのがロシア政府の解釈だそうで、徴兵制とは別の動員体制の場合には兵役拒否の権利は適用できない、というのだ。実はウクライナも似たり寄ったりで、戒厳令と動員の法体系の条件下で、期限付き兵役への徴兵がないために、代替(非軍事)役務の憲法上の権利の実施は、適用されないという。上のレポートにあるように、このような法解釈などをめぐっても闘いが続いている。

社会の大半の人々が兵役拒否あるいは戦争への動員を拒否すれば戦争は遂行できない。人々の多数の意思が非戦であるなら、好戦的な政権を選挙で選ぶはずがないだろう(選挙のトリックは別にして)。だから、問題の根源にあるのは、むしろ政権の戦争指向を明確に否定する声の存在が希薄であり、戦争を拒否する人達が社会のなかの少数として様々な圧力に晒されて、戦争への同調を強制されるなかで、自由に自分の信条を表明できない状態がつくられてしまうことだ。

日本には、軍隊が存在しないという建前のために、良心的兵役拒否を明文化した憲法も法律も存在しない。しかし「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」(19 条)「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」(20条)があり、これらが殺さない権利のとりあえずの根拠にはなる。

また、一般に、軍隊や国家の戦力保有、あるいは自衛力の保持と個人の殺さない権利とは別とみなされるかもしれないが、国家が軍隊をもつことは、主権者としての私の良心や信仰の自由への侵害でもあるという観点は、重要だろう。

戦後の日本では良心的兵役拒否は遠い世界の議論のように感じられるかもしれないが、むしろ、きちんとした議論が今ほど必要になっている時はないのでは、とも思う。

「いかなる場合であれ武器はとらない」のは何故なのか

ロシアの侵略に対するウクライナによる武装抵抗をめぐって、左翼や反戦平和運動のなかに様々な立場や考え方の対立がある。私は、「いかなる場合であれ武器はとらない」という立場なので、ウクライナの武装抵抗あるいはロシア軍への武力による反撃を支持する人達からはこれまでも何度か批判されてきた。私なりに批判の内容を了解したつもりだが、残念ながら、だからといって私の考えを変えるということにはなっていない。

他方で、私の立場についても、ブログで書いたり、あちこちのメーリングリストに投稿したりして、お読みいただいている方は承知されていると思う。しかし、私の考え方も多くの皆さんの納得を得られていているとは判断していない。つまり、私はまだ、十分に納得を得られるような議論を展開することができていない、という自覚がある。だから、少なくとも、私がすべきことは、私とは異なる意見の人達をやりこめたり、一方的になじるような詰問を投げかけることではなく、自分の言葉がなぜ届かないのかということについて反省しつつ、自分の考えをよりきちんと述べる努力をすることだろうと思う。メーリングリストでの意見の対立はよくあることだが、意見の違いが解消することはまずない、というのが私のこれまでの経験だ。お互いの意見を知り、違いがあることがわかれば、それで十分メーリングリストの役割は果たせていると思う。いずれ場合によっては、熟考したりいろいろな人と議論したり、状況が変化する中で、自分の思い到らないことに気づいて見解を変えることもありえるだろう。なじられたり罵倒されて考えが変わることはまずない。

(注)わたしはブログで「いかなる理由があろうとも武器はとらない」と書きました。

「いかなる理由があろうとも武器はとらない」という立場は原則的な立場なので、ロシアの侵略戦争についても例外ではないということになる。だから、私のような主張は、結果として、ウクライナの武装抵抗を批判することになるので、武装抵抗を支持する人達にとっては許しがたい主張だということになる。なぜ私が武力を手段とすべきではない、と考えるのかをより突っ込んで説明しないと、たぶん同じ主張と批判の繰り返しにしかならない。今直ちに、説明できる余裕はないが、ロシアとウクライナに関連して私が重要だと感じていることをもう少し書いておきたい。

私は、基本的に、ウクライナで暮す人であれロシアで暮す人であれ、自らの意思に反して兵士として強制的に動員されないこと、戦争関連の労働を強制されないこと、戦場からの避難の権利が保障されること、つまり戦争によって国家間の問題を解決することに自分の命を賭けるつもりのない人たちの権利が尊重されるべきだ、と考えている。とりわけ明確に戦争に反対する主張をし、行動する人達の表現の自由は、権利として保障されるべきだ。私が注目するのはこうした人々になるが、どちらの国の政府にもこうした立場をとる人達へのリスペクトがなく、戦争する国では例外なく、こうした国家の戦争行為に背を向ける人々が様々な抑圧や時には命を奪われたり暴力の被害にあう事態がみられる。国家であれ何らかの集団であれ、軍事的な組織行動をとるときには、戦争を拒否する権利の保障がないがしろにされるのは、あってはならない市民的権利の侵害だと私は考えている。

今回のロシアとウクライナの戦争に関連していえば、

  • 兵士、戦闘員としての強制的な動員や事実上の道徳的倫理的な圧力による動員の体制がどちらの国にもあり、これは良心的兵役拒否国内法にも国際法にも反していると思う。
  • ロシアでは兵役、徴兵を忌避できても、懲罰的な代替労働や戦争に協力する銃後の労働に動員されることがあり、これも本人の自由意志に反している場合がある。
  • ロシアでもウクライナでも戦場からの離脱の自由が権利として保障されていない。部隊からの離脱は一般に「脱走兵」扱いで犯罪化される。兵士を辞める自由は重要な市民的自由の権利であり、会社を辞める権利と同様保障されなければならないと思う。
  • 学校や右翼団体の活動で軍事訓練戦争を賛美する教育や戦争を支える活動が行なわれているのは、子どもの権利の侵害だと思う。
  • どちらの国にも表現の自由を保障する憲法の枠組があるが、これが事実上機能していない。とくにロシアでは、軍へのちょっとした批判も許容されない厳しい言論弾圧体制がある。
  • ウクライナでは成人男性が国外に脱出できない状況は、私にとっては容認できない事態だ。
  • ロシアでは、高齢者や病気を抱えている人たちにさえ強制的に動員される事態になっている。
  • どちらの国でも、相手国に関連する言語や文化への不寛容が制度化され、著しく自由な表現への規制がみられる。
  • ウクライナでは政府に反対する政治活動や労働運動への規制が厳くなっている

ウクライナでもロシアでも、戦争に背を向ける人たちがおり、だから国内には戦争に関して相反する考え方をもつ人達がおり、こうした違いを棚上げにして、「ウクライナ人」「ロシア人」というような括りかたで論じることはできないと思う。自分が「日本人」として一括りにされてしまうことに違和感があるからかもしれない。

上に挙げたことは、一般的にいえば、国家安全保障領域においては人権が例外的に制約されてもいい、という考え方を国家がとっており、これを一般の人々もいつのまにか共有してしまっている、という問題だ。国家安全保障を別格扱いにする考え方は日本でも明白にある。軍隊は、企業以上に人権とはあいいれない組織であり、その行動や意思決定もまた人権とはあいいれない。力の行使は、軍隊であれDVを引き起こす家族制度であれ、刑務所であれ、みな同じように基本的人権とは矛盾する組織原理をとらないと、力での統制は見込めない。力=暴力とはそのような本質をもつものだと思うので、力による問題の解決は選択肢にはならない、と思う。

他方で、国家安全保障が突出している戦争体制でも、人々は唯唯諾諾として従属しているばかりではないし、抵抗とは武力の行使だというわけでもない。むしろ不服従や非協力、力の行使であっても、それは人を殺害する目的を伴わない行為の方が圧倒的に多い。ウクライナの状況はあまりよくわかっていないのでロシアについて例示する。

  • ロシアは、兵役忌避のための手続きなどで人権団体が精力的に支援をしており、忌避に必要なノウハウがネットで共有されているのは心強い。
  • ロシアはプーチンの独裁のような印象がありますが、徴兵など軍事動員については様々な法制度があり、動員しやすいように法改正を目論む政府ですが、国会では必ずしも政府の思惑通りに法案が通過しているわけではないようだ。
  • ロシアでは裁判で徴兵忌避や軍からの離脱が認められるケースがあり、一定程度の司法の機能が効いている場面もあるようだ。これも人権弁護士などの団体による努力が大きいように思う。
  • ロシア国内の情報統制は完璧ではないので若者たちは、政府寄りの情報だけでなく、かなり様々な情報に接することができており、ゲリラ的な抗議行動が続いている。

私は、ウクライナの情勢を、日本が今直面しているかなり危機的な「戦争」を扇動するような状況と重ねあわせて考えるべきだと思うが、他方で、ウクライナによる武力による反撃を支持することと日本の自衛のための武力行使の議論とは切り離して論じるべきだ、という意見があることも承知している。その上で以下のように考えている。

日本の反戦平和運動が、ウクライナの状況を経験するなかで、9条護憲を掲げてきた人達のなかにも、敵基地攻撃は憲法の枠を越えていて容認できないが、専守防衛としての自衛隊は必要ではないか、という意見をとる人達が増えているように感じている。

私は専守防衛という議論は、軍事論として成り立たないと考えている。防衛白書では「専守防衛とは、相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢をいう」と定義している。攻められたときに最小限度の攻撃だけを行なう戦争で勝つことはほぼありえない。だから、自衛隊は肥大化してきた。専守防衛とか必要最小限などの言葉に平和や戦争放棄の可能性を期待すべきことは何もない。こうした言葉に惑わされるべきではない。だから、軍隊をもつか、もたないか、という二者択一の問題として考える必要があり、はっきりと軍隊は不要であると主張しないといけない。

いちばん問題なのは、軍事力を背景とした外交は、武力による解決を最後の手段だと前提しての交渉になるので、非武装の外交とは全く次元が異なるということを理解することだと思う。力による解決という選択肢がないばあい、解決は「対話」による以外にないので、「対話」がもつ問題解決の能力が問われる一方で、武力によらない解決の可能性がずっと大きくなる。こうした異次元の外交を日本が戦後やってきたことはない。外交のコンセプトがそもそも武力を背景としたものしかもっていなかったために、結果として、岸田のような力による脅しの外交しかできなくなるのだと思う。

だから、自衛隊も米軍も排除することが日本にとって必須だと思うが、同時に、どこの国の軍隊も、そしてまた傭兵や軍事請け負い会社もすべて廃止すべきだが、これがグローバルな反戦平和運動の共通の了解事項にまでなっていないのが現実ではないかと思う。

最後に、私は死刑廃止論者だ。欧米諸国の多くが死刑を廃止しているが、なぜか軍隊は廃止していない。死刑は廃止されてもなぜ国家の命令による殺人行為としての軍事行動の廃止が大きな声にならないのだろうか。ここに、たぶん、近代国家がかかえる本質的な矛盾があるように思う。ついでにいえばBlack Lives Matterをきっかけに警察廃止の主張をよく目にするようになったが、やはり軍隊の廃止という主張には繋っていないように思う。

このほか本当は書きたいこと(戦争とPTSDのこと、領土と近代国家のこと、ナショナリズムのこと、非暴力不服従のことなどなど)がいくつかあるが、別の機会にしたい。

ロシアの反戦運動2023年に入っても活発に展開されている(ビジュアル・プロテスト)

ロシアの反戦運動は、さまざまな不服従運動が小グループに分かれながら、したたかに繰り広げられている。以下は、「ビジブル・プロテスト」として、屋外や公共空間、店舗などで展開されている抗議の行動で、2023年になってhttps://t.me/nowarmetro に投稿されたものからいくつかを紹介します。こうした行動の担い手は、分散的だが、抗議に必要なノウハウ(ステッカーやグラフィティの方法、印刷の方法などから弾圧対策まで)についてはかなりしっかりとしたアンダーグラウンドの基盤があるように思います。これは、帝政からソ連時代、そして現在のロシアまで長い年月をつうじて受け継がれてきた民衆の「地下」活動の文化なしには成り立たないようにも思います。一人一人の行動のキャパシティが大きく、それを支える人的ネットワークや人権団体による弾圧への対処は日本よりずっと厚いと思います。日本は街頭の規制が極めて厳しく、ステッカーやグラフィティなどを政治目的で利用する文化がこの半世紀近く途絶えてしまった。戦争になったとき、私たちはこれだけの抗議を中央でも地方でも展開できるだろうか。

ベルゴロドやブリャンスクでも抗議!?

ボロネジ、プーチンと戦争に反対するキャンペーンを積極的に行っている

モスクワでは、反戦銀行券や緑のリボンが盛んに配布されている
エカテリンブルクの街には、反戦を訴えるグラフィティが随所に。
モスクワで。
クラスノヤルスクでも抗議は続いている!
サンクトペテルブルでも抗議は収まらない!
サンクトペテルブルクで
スィフティグカルでの抗議
サマラで反戦グラフィティが活発に
反戦モスクワ
サラトフは反戦グラフィティを精力的に展開している!
サンクトペテルブルクでは、リーフレットを配布し、独立系メディアへのリンクを共有

以下は https://t.me/nowarmetro/12869 から。

ビジブル・プロテストの10ヶ月間。私たちは、目に見えるアジテーションの統計を共有し、戦争と動員について情報を提供し続けることをお願いします。

今日は、私たちのストリートキャンペーンプロジェクト「Visible Protest」の新しい統計データを紹介することにしました。 (https://t.me/nowarmetro)本当に感動的!

戦争、動員、独裁政治に反対する声を上げている皆さんに感謝します。戦争や残忍な弾圧の時代にあっても、あなた方は本当に勇敢な人たちです。なぜなら、私たちの国に実際に何が起こっているのかについて、恐れずに抗議し、他の人たちに知らせることができているからです。

何千人ものロシア人がすでに戦争に反対する声を上げています。彼らと一緒に大衆的な反戦の姿勢を示そう! また、ビジュアルキャンペーンの配布は、最も効果的で安全な抗議の表現方法の一つです。

私たちのガイド(https://vesna.democrat/2022/03/18/kak-sdelat-protest-zametnee-polnyj-g/4)[日本語、ただし若干内容が違います]を読んで配布し、キャンペーンに参加し、あなたの家族や友人に、戦争、動員、当局の犯罪行為についての真実を伝えてください。そして、キャンペーンの方法をソーシャルネットワークで共有しましょう

選挙運動はしましたか?あなたの街を写した写真をボットに送信してください(完全に匿名で、写真のメタデータも消去されます)。@picket_against_war_bot

(米国「フェミニスト反戦レジスタンス」)ロシア反ナショナリストの日

(訳者まえがき)6月12日は、ソ連の崩壊後にロシアが独立した記念日とされている。この日に、フェミニスト反戦レジスタンスの米国のグループが以下のような声明を出しています。この声明のなかで、ロシアが多民族国家であること、異性愛を強いる家父長制国家であること、これがロシアのナショナリズムを支えていることを厳しく批判しています。(小倉利丸)


ロシア反ナショナリストの日

この日、私たち米国の「フェミニスト反戦レジスタンス」のグループは、国民国家という考え方と、軍国主義、植民地主義、異性愛家父長制による権力の行使に異議を唱えたい。ロシアはいわゆる「多民族国家」であり、ロシア人はいまだに最も特権的なエスニック・グループとみなされているが、その深く染み付いた植民地的遺産は、今日のロシア・ウクライナ戦争に激しく現れていることを認識しなければならない。

6月12日、ロシアのナショナリズムを祝う日に、私たちはロシアの領土に190以上の民族がそれぞれの言語と文化を持って暮らしていることを強調したい。

ロシア帝国、ソビエト連邦、そして今日のロシアの植民地政治は、シベリア(16-17世紀)やコーカサス(19世紀)の人々の直接的な植民地化、ロシア人自身を含む複数のエスニックグループの奴隷化 ( surfdom )、ロシアと世界の様々な地域、例えば最近のものではチェチェン、シリア、グルジア、ウクライナでの戦争への関与など複雑な歴史を持っている。

ロシアの植民地主義の1つは、ロシア帝国、ソビエト連邦(1920年以降、現地の言語が普及した時期を除く)、そしてポストソビエト連邦による「ロシア化」、すなわち言語・文化的帝国主義であった。

例えば、1863年、当時のロシア帝国内務省長官ペトル・ヴァルイェフは、ウクライナ人の自決を阻止するため、ウクライナ語による宗教・教育関係のあらゆる文献の出版を禁止する通達を出した。この決定は、キエフ検閲委員会の代表者(ラゾフ)が「ウクライナ語(小ロシア語)には固有のものはなく、今もありえない、一般の人々が使う彼らの方言はロシア語と同じで、ポーランドの影響により損なわれただけだ」と述べた手紙などに基づいていた。後のエムス・ウカズ(1876年)は、ウクライナ語によるほとんどの文学の出版を禁止し、歴史文書や美辞麗句にはロシア語の正書法を押し付けた。これらの措置により、ウクライナの民族文学と文化の発展は何十年にもわたって制限された。同様のロシア化政策は、アゼリ語、ベラルーシ語、フィンランド語、ラトビア語、リトアニア語、ポーランド語、ルーマニア語、ウラル語族を話す人々の言語に対しても行われた。

ロシア支配のもう一つの形態は軍国主義である。国防・陸軍の年間予算は608億ドル近くあり、これはロシアの全予算支出のほぼ4分の1を占めている。軍国主義はまた、日常文化に大きく刻み込まれ、祖国防衛の日/マールデー(2月23日)や戦勝記念日(5月9日)などの祝日を通じて促進されている。これらの祝日には、軍国主義的なシンボル、男性らしさを連想させる物や贈り物、そして軍事パレードが行われる。

ロシアの植民地主義や軍国主義は、異性愛家父長制(女性やLGBTIQ+の人々の従属と占有に基づく政治体制)とも関連している。それは、家族(そして広く祖国)の「擁護者」とみなされる強い家父長的男性と、従順で性的に魅力的で世話好きの女性から成るロシアの家族のいわゆる「伝統的価値」の促進を通して発揮される。2018年にロシアで殺された女性の3分の2近く(61%)がパートナーや親族の被害者であるという人権活動家による証拠にもかかわらず、2017年にDVが非犯罪化(刑法から「近親者の殴打」という文言の削除)され、現在のロシアでは男性が女性の親族を殴ったり殺害することさえ自由になってしまっている。

もう一つ宣言されている「ロシアの伝統的価値」は、国家の言説のなかで、反ロシア的親西欧的価値とされる同性愛への嫌悪だ。同性愛嫌悪は、いわゆる「ゲイプロパガンダ」法(2013年7月2日に発足した連邦法第6条21項)により、「完全な法的責任を負う年齢以下の若者の非伝統的性関係の促進」に対する責任を定めることによって国家が推進している。多くの国がLGBTIQ+プライド月間を祝う今日、18歳以上の「ゲイのプロパガンダ」に対する重い罰金を規定する法案が国会に提出された。

こうしたプロパガンダの努力とは対照的に、ロシアでは多くのLGBTIQ+の人々が、私たちが代表を務めるフェミニスト反戦抵抗のグループを含め、このウクライナ侵略の時代に反戦抵抗の堅いネットワークを形成している。クィアの人々は、現在進行中の事件のずっと前から、全体的に敵対的な環境の中で連帯し、互いに配慮し、支援する方法を学んできた。そのため、彼らは効果的に平和主義的行動を組織し、ボランティアとして働き、ソーシャルネットワークのプロファイルを利用して反戦の議題を推進する最初の人々であった。彼らはまた、ますます抑圧的になる国家組織に直面して最も脆弱であり、それは、ユリア・ツヴェトコワYulia TsvetkovaのようなフェミニストやLGBTIQ+の活動家が起訴され、また現在「外国工作員」とされていることにも表れている。

ロシアの未来に対する私たちの願いは、ナショナリズム、植民地主義、言語と経済の帝国主義、異性愛家父長制の深く根付いた伝統が崩壊することだ。今日私たちが知っているようなロシア国家の崩壊とともに、私たちは、ナショナリズムス的な考えや権力崇拝、軍事兵器や国家暴力、保守的な家族政治、女性やLGBTIQ+グループを抑圧する法律が消滅するのを目撃することになるだろう。

https://docs.google.com/document/d/1cNXe8QoMBu1_V1qZVGOeRDIKusbjxJ33fp-IU8or7K8/mobilebasic

(フェミニスト反戦レジスタンス)戦争の100日-私たちの反戦レジスタンスの100日

6月4日にロシアのフェミニスト反戦レジスタンスは以下の声明を出した。Telegramに投稿されたメッセージの機械翻訳(DeepL)を基にしたものです。わたしはロシア語を理解できないので、語彙やニュアンスでのまちがいがありえます。Telegram https://t.me/femagainstwar/1384 6月4日100 дней войны — 100 дней нашего антивоенного сопротивленияの原文を確認してください。


戦争の100日-私たちの反戦抵抗の100日

占領という帝国戦争は、毎日、ウクライナの女性とウクライナ人の命を奪っている。今起きていることは、将来、全世界がジェノサイドと呼び、この時代のロシアは、ファシズムのすべての兆候を持つ国家として研究されるだろう。

戦争の100日、戦争犯罪の100日、フェミニストの反戦抵抗の100日。あなたと私は、この100日間で戦争を止めることはできなかった。しかし、さまざまな時代や空間の反戦運動の歴史を研究すれば、反戦運動そのものが戦争を終わらせるわけではないことがわかる。では、なぜ私たちはこのようなことをするのか、なぜ街頭に出るのか、なぜ強権政治の中で新しい抗議戦略を考案するのか、なぜできる限りの人々を守るのか、なぜ手の届く被害者を助けるのか。

おそらく、すべてのロシア人反戦派は、この「なぜ」に対してさまざまな反応を示すだろう。ある者は道徳的義務として、ある者は自分たちの例が誰かに伝染すると信じて、ある者は子どもたちに自分は黙っていなかったと伝えることが重要で、他の者は失った声と失った主体性を回復するための方法として、この方法をとる。しかし、反戦運動は政治的にも考えなければならない。民主主義制度が解体され、政治が抹殺され、選択肢も選挙もなく、独裁がエスカレートしているこの国で、私たちロシア全土の反戦運動が草の根の主要な政治勢力にならなければならないのである。しかし、私たち反戦運動は、 党派的で目立たない抵抗のインフラを構築し、言語を変え、文化を変え、政治スペクトルの態度を変えつつある。私たちは、一般的な反プーチン急進派の重要なプラットフォームになることができる。私たちはすでに、全国に活動家と直接行動のネットワークを織り交ぜながら、そうなりつつあるのだ。

私たちはこの100日間で、戦争を止めることはできなかった。しかし、私たちは、強制的に排除されたウクライナ人がロシア連邦を去るのを助け、立場を理由に解雇されたロシア人への支援活動を行い、路上での大衆行動や単独行動、反戦宣伝活動や メール送付を行い、毎日膨大な宣伝活動をしている。私たちには、財政的・物質的資源がほとんどなく、国家がすべてを握っているが、それにもかかわらず、ロシアの反戦の声は世界中で聞かれ、抵抗、破壊工作、ストライキ、行動、党派の新しい形態が日々現れているのである。人々は、刑務所や拷問、そして少数派であるという感覚にもかかわらず、戦争に反対する行動をとり続けている。

私たちは、自分たちが少数派であるかどうかはわからない。戦争と独裁の条件下では、明確な社会学を持つことはできない。プーチンとそのプロパガンダは、私たちが少数派であると考えることを強く望んでいる。しかし、どんな抗議活動も、どんな人権運動も、どんな反戦運動も、いわゆる少数派から始まり、そして今も始まっている。私たちには、巨大で非常に重要な仕事を続ける力があり、ロシアの全都市に反戦の網を張り続ける力があり、ロシア連邦の情報封鎖を突破する共同戦略を考案する力がある。今、反戦運動にとって最も重要なことは、戦争の影響を直接受けているロシア人たちの活動と結びつけることである。引退した市民、戦死した兵士の母親や父親、戦争で医療を受けられなくなった人たち。このような人々を国家に委ねてはいけない。そうすれば、彼らは黙ってしまうだろう。彼らが声を上げるためのプラットフォームを作ろう。社会のバブルに閉じこもっていてはいけない。

戦争の100日、恐怖の100日、抵抗の100日。この悪夢がいつまで続くかわからないが、あきらめないでほしい。活動家になり、同じ志を持つ人を探し、反対運動をし、困っている人を助け、政治犯に手紙を書こう。今、予審拘置所や 刑務所にいる人たちは、彼らがそこにいる理由があることを知っておく必要がある。

(LaCroix)ロシアのキリスト教ナショナリズム

(訳者前書き)以下は、カトリック系のウエッブサイトLa Croix Internationalの記事の翻訳です。私はキリスト者ではなく、キリスト教一般いついての理解も十分とはいえないが、ロシアのウクライナ侵略の戦争をもっぱらプーチンの「狂気」や個人の独裁に求めがちな日本のメディア報道に対するセカンドオピニオンとして、ロシアの宗教性とナショナリズムに関心をもつことは重要な観点だと感じている。宗教とナショナリズムの問題は、ロシアだけではなく、グローバルな現象として、米国の福音派から英国の君主制、そして欧州に広範にみられる異教主義的なヨーロッパへの回帰と排外主義など、いずれも多かれ少なかれ宗教的な心性との関りがある。日本の場合であれば天皇制ナショナリズムもこの文脈で把える必要があると思う。ほとんどの日本人は、この概念に違和感をもつだろうが、主観的な理解とは相対的に別のものとしてのナショナリズムの意識されざる効果があることに着目すべきだろう。以下で述べられているように、プーチンの戦争に宗教的な世界観が深く関わりをみせているとすれば、戦争の終結が国際関係のリアリズムの文脈によっては解決できない側面をもつということにもなる。グローバルな宗教ナショナリズムに対して、宗教者えあれば、宗教インターナショナリズムに基くナショナリズムの相対化の可能性を模索するのかもしれない。私のような無神論者は、宗教的な世界観や信条をもつ政治指導者や国家権力に対して世俗主義による解決を主張するだけでは十分ではないだろう。戦争放棄にとって「神」とは何なのかという問題は、同時に戦争にとってこれまでの人類の歴史が刻みこんできた「神」の加担の歴史を、信仰しない者の観点からもきちんと理解する努力が非常に重要になっていると思う。(小倉利丸)


ロシアのキリスト教ナショナリズム
ジョン・アロンソ・ディック著|ベルギー

聖なる金曜日に、私はイエスの人生経験における権威主義的な支配者と堕落した宗教指導者の不吉な協力にあらためて衝撃を受けた。そして、今日の多くの国々で見られる、宗教と政治の不吉な協力関係について考え始めた。

私の当面の関心事は、もちろんウクライナの戦争である。現在のロシア・ウクライナには、絶対に見落としてはならないキリスト教的な側面がある。復活祭の翌月曜日(正教徒にとっては棕櫚の日曜日の翌月曜日)、政治学者でロシア下院議員のヴャチェスラフ・ニコノフ(1956年生)は、ロシアのウクライナ戦争を賞賛した。

「実際、私たち(ロシア人)は、現代世界における善の力を体現しています。私たちは絶対悪の勢力に対抗する善の側なのです」「これはまさに私たちが行っている聖戦であり、私たちはこれに勝たなければならない。他に選択肢はない。私たちの大義は正義であるだけではありません。 私たちの大義は正義である。そして勝利は必ず我々のものになる」

これがキリスト教ナショナリズムである。

キーウが東欧正教会の中心地となる

歴史は、現在のロシア・ウクライナの出来事を理解するのに役立つ。980年頃、現在のウクライナの政治指導者たちが、コンスタンティノープルから来た正教徒に改宗させられた。キーウ周辺は、東ヨーロッパにおける正教会の中心地となった。しかし、それから約500年後、状況は一変する。1448年、モスクワのロシア正教会がコンスタンティノープル総主教座から事実上独立し、その5年後、コンスタンティノープルはオスマントルコに征服された。537年に帝都コンスタンティノープルの総主教座聖堂として建てられたアヤソフィアは、モスクとなった。このとき、ロシア正教会とモスクワ公国は、モスクワをコンスタンティノープルの正統な後継者と見なすようになった。モスクワ総主教はロシア正教会のトップとなり、ウクライナのすべての正教会はモスクワ総主教座の教会の管轄下に置かれるようになった。

1917年の10月革命後、1922年に共産主義国家であるソビエト社会主義共和国連邦が成立した。ソ連は既存の宗教を排除し、国家的な無神論を確立することを重要な目的としていた。1988年から1991年にかけてのソ連邦の崩壊により、ロシア正教会はその宗教的、国家的アイデンティティを再検討するようになった。

ソビエト連邦崩壊後のロシアにおける宗教復興

レニングラード司教アレクシー(1929-2008)は、1990年にモスクワ総主教アレクシー2世となり、70年に及ぶ弾圧の後、驚くほど迅速にロシア社会に正教会を復活させることを主導した。2008年のアレクシー総主教の任期終了までに、約15,000の教会が再開され、再建された。ロシア正教会の大規模な回復と再建は、アレクシーの後継者であるウラジーミル・ミハイロヴィチ・グンディアエフ(1946年生)―今日ではキリル総主教の名で知られている―の下で続けられた。2016年までにキリルの下で、教会は174の教区、361人の司教、3万9800人の聖職者が奉仕する34,764の小教区を有するに至った。926の修道院と30の神学院があった。

ロシア正教会は、総主教キリルのもとで、共産主義の崩壊による社会的・思想的空白を埋めるために、国家の宗教的・政治的権力の強力な代理人となるべく活動してきた。キリル総主教の下で、ロシア正教会はクレムリンと密接な関係を築いている。プーチン大統領(1952年生まれ)はキリルを個人的に庇護している。2012年のプーチン大統領選を支持し、プーチンの大統領就任を「神の奇跡」と呼ぶ。現在、彼はプーチンのロシアは反キリストと戦っていることを強調している。しかし、2014年にロシアがクリミアに侵攻したとき、プーチンには思いもよらぬことが起こり、彼とキリル総主教には気に入らないことが起こった。ウクライナの正教会の大きなグループが、モスクワ総主教庁から完全に独立することを主張する「ウクライナ正教会(OCU)」を結成したのだ。このクリミア半島侵攻後の歴史は、プーチンがロシアのアイデンティティと世界的な役割をどのように構想しているのかを示すものとして重要である。

「母なるロシア」の栄光を取り戻す

プーチンは、「母なるロシア」の栄光と地勢を回復させたいと考えており、それが西洋の世俗的退廃に対する「キリスト教文明」の保護であると強く主張している。1981年から2000年にかけて、ロシア最後の皇族であるロマノフ家がロシア正教の聖人に列せられた。つまり、ニコライ2世とその妻アレクサンドラ、そして5人の子供たち、オルガ、タチアナ、マリア、アナスタシア、アレクセイである。プーチンは、ロシア正教会とのイデオロギー的な同盟は、自分の目標達成のために不可欠だと考えている。プーチン大統領は、かつてのロシア皇帝と同じように、モスクワをロシア正教会の祝福を受けた政治的・軍事的帝国の中心に据えたいと考えている。これは、彼のロシアキリスト教ナショナリズムの重要な要素である。そのためには、自分がコントロールできるウクライナの正教会が必要なのだ。プーチンとウクライナの戦争が始まったとき、総主教キリルは説教で、神から与えられたウクライナとロシアの統一性を強調した。「抑圧されたロシア人の解放よりも、はるかに多くのものが危機に瀕している。人類の救済である」と3月6日の説教で強調した。「人々は弱い者で、もはや神の律法に従わない。 神の言葉や福音を聞かなくなっている。 彼らはキリストの光に対して盲目なのです」と総主教は述べた。

悪の力に対する黙示録的な戦い

ロシアのテレビで毎週行われる説教で、キリルは定期的に、ウクライナの戦争を「神から与えられた神聖ロシアの統一」を破壊しようとする悪の力に対する終末的な戦いとして描写している。彼は先月、ロシア、ウクライナ、ベラルーシの人々が共通の精神的、国家的遺産を共有し、一つの民族として団結すべきは「神の真理」だと強調したが、これはプーチンの戦争擁護に直接呼応するものだ。キリルはしばしば、同性愛者の権利に対して怒りに満ちた暴言を吐きながら、これは神に対する大きな罪であり、「神とその真理の明確な否定」であるとし、人類の文明の未来そのものが危機に瀕していると語ってきた。ロシア政治において総主教は複雑な人物である。彼は頭が良く、カリスマ性があり、野心的な人物である。彼は旧ソビエト連邦の中心的な治安組織であるKGBと関係してきた。しかし、キリルは総主教に就任して数年後、3万ドルのブレゲの腕時計をしているところを写真に撮られ、ちょっとしたスキャンダルを引き起こしたことがある。その後、正教会の支持者によって、公式写真が都合よくフォトショップで修正された。彼とプーチンは長い間、緊密な同盟関係にある。プーチンは、レニングラード(現サンクトペテルブルク)の司祭だったキリルの父親が、母親の希望で1952年に秘密裏に洗礼を授けてくれたと語っている。プーチンとキリルは頻繁に一緒に公の場に姿を現わしている。たとえば、復活祭の礼拝、修道院の訪問、巡礼地巡りなど、プーチンとキリルは頻繁に公の場に姿を現している。

プーチンの精神的宿命:モスクワを拠点としたキリスト教団の再構築

プーチンのキリスト教に対する真摯な姿勢は、大統領側近だったロシア正教徒のセルゲイ・プガチョフ(1963年生)によってはっきりと否定されてきた。しかし、近年、プーチンは自らの宗教性を強調するようになった。銀の十字架を首にかけ、イコンにキスし、テレビカメラの前で凍った湖に身を沈めたのは有名な話だ。この氷漬けの儀式は、男らしさの誇示であり、正教会の祭日である「聖霊降臨祭」の儀式でもある。プーチンは、モスクワを拠点とするキリスト教国の再建を自らの精神的宿命としている。「ウクライナは我々の歴史、文化、精神的空間の不可分の一部である」と彼は昨年2月の演説で述べた。ロシア正教は何世紀にもわたって、西欧のカトリックやプロテスタントとは対照的に、「真の信仰」の守護者として自らを提示してきた。モスクワは、第2位のコンスタンチノープル、第1位の帝政ローマに続く第3のローマであり、今日の真のキリスト教の中心地であるという。

ロシアの再軍国主義化に対する教会の祝福

確かに、ロシア正教会がロシアの軍国主義の台頭に大きな役割を果たし、ウラジーミル・プーチンのウクライナ侵攻に道を開いたことは、歴史が長く記憶することになるだろう。すでに2009年8月、キリルはセベロドビンスクのロシア造船所で、原子力潜水艦の乗組員に聖母マリアのイコンを贈呈している。ロシアの軍隊は「伝統的な正教会の価値観によって強化される必要がある…そうすれば、我々のミサイルで守るべきものを持つことになるだろう」とキリルは述べている。プーチンとキリルはナショナリストのイデオロギー的価値観を共有しており、彼らの目にはウクライナでの戦争は正当化されるように映る。彼らはキリスト教徒であると主張するが、キリスト教の価値観について語ることはない。キリスト教的倫理観と病院への爆撃、アパートや学校への爆撃、そしてウクライナの民間人への計算された虐待と虐殺については決して語らない。歴史に「このキリスト教徒たちは互いに愛し合っている」と記録されることはないだろう。国民の4分の3が正教徒であると自認するこの国において、プーチンとキリル総主教およびロシア正教会とのパートナーシップは、プーチンの権力と国民的支持を強化するものである。興味深いことに、2022年のロシアのウクライナ侵攻の際、ロシア国外のロシア正教会(ROCOR)の総主教ヒラリオン(カプラール)大司教は、「テレビの過剰視聴、新聞やインターネットのフォローを控え」、「マスメディアによって引き起こされる熱狂に心を閉ざす」よう信徒に求める声明を発表している。声明の中で、彼はウクライナという言葉ではなく、ウクライナの土地という言葉を使い、明らかにウクライナの独立を意図的に否定している。1948年にカナダで生まれたヒラリオンは、東部アメリカやニューヨークを管轄している。クレムリンと密接な関係にあり、ウラジーミル・プーチンとは友好的な関係である。

同性愛嫌悪や反フェミニズムなどの「伝統的価値観」を復活させる

キリル総主教率いる正教会は、プーチン大統領と協力し、「伝統的価値観」の復権に尽力してきた。その「伝統的価値」の中でも重要なものは、同性愛嫌悪と、女性を「産む者」として強く擁護する反フェミニズムである。プーチンが大統領になった1年後のインタビューで、キリルはフェミニズムはロシアを破壊しかねない「非常に危険な」現象であると述べた。ロシアの独立系通信社インタファクスによると、「フェミニズムという現象は非常に危険だと考えている。なぜなら、フェミニスト組織は、女性の疑似自由を宣言しており、それはそもそも、結婚や家族の外で実現されるべきものだからだ」と述べた。プーチンの支持者は、彼はキリスト教ナショナリストであり、自伝で明らかにされているように、1998年に亡くなった母親からの形見である正教会の洗礼十字架をシャツの下に身に着けていると言う。米国の「宗教右翼」の多くにとって、プーチンは世俗主義、特にイスラム教に対するキリスト教文明の権威主義的擁護者として今も賞賛されている。しかし、それは本当にキリスト教的なものなのだろうか。そして、それは本当に文明なのだろうか。ロシアのキリスト教ナショナリズムを象徴する現代的なモニュメントといえば、2020年にロシア国防省によって建設されたモスクワの勝利教会かもしれない。ロシアで3番目に大きな正教会で、クリミア占領後に計画された。ロシアの軍用武器メーカーであるカラシニコフ社が100万個のレンガを寄贈している。教会内のフレスコ画には、中世の戦争から現代の紛争に至るまで、ロシアの戦士たちの偉業が讃美されている。それは、軍事力の非常に粗野な賛美である。イエスの像でさえ、剣を振り回す戦士として描かれている。ステンドグラスのモザイクには、帝政ロシア軍出身の著名な軍事指導者の顔が描かれている。ロシアのキリスト教ナショナリズムは、歪んだキリスト教と乱暴な政治権力という不浄な同盟に支えられている。それは危険なだけでなく、悪である。

著者:歴史神学者、元ルーヴェン大学アメリカン・カレッジ学長、ルーヴェン大学およびゲント大学教授。最新作は『Jean Jadot; Paul’s Man in Washington』(アナザーボイス出版、2021年)。

出典:https://international.la-croix.com/news/religion/russian-christian-nationalism/15989