EUにおける盗聴捜査をめぐる新たな動き(5G、IoTの動向踏まえて)

以下、簡単なコメントのあとに、英国の反監視運動団体、Statewatchの記事(プレスリリース)を転載します。

(コメント)

5Gへの移行は同時にIoTの普及でもあり、私たちは、単純に監視社会化が進むと考えてきましたが、捜査機関からすると、従来の盗聴捜査が不可能あるいは時代遅れになる危険性があるとみており、法制度による対応や、そもそもの5Gの技術が法執行機関の盗聴が可能なのような技術仕様にすることを、国際的な技術標準に盛り込むことをも画策しているようです。こうした動きが、EUであり、英国が同調していれば当然、米国や日本も同調するでしょう。5Gの技術で支配力をもつ中国のHuaweiがやっかいな存在だと考えられているのもこうした文脈から理解するべきなのかもしれません。

また、日本のIoT調査もこうした監視技術の確保のための実験という側面があることは前から疑念がもたれていましたが、それが国際的な文脈も更に背景としてあるとすると、5G、IoTなどと監視社会問題の広がりはかなり大きいように思います。

早晩日本でも5GとIoTを念頭に置いた盗聴法や関連する監視法制の改悪は必至と思います。

EUの個人情報保護の法制度がこうした法執行機関の動きにどう対応するのか、注目する必要があります。どこの国もそうですが、プライバシーや人権を担う機関と法執行機関は別の組織で、相互の関係は力関係で決まりますね。この力関係を規定する重要な要因が世論や選挙ですが、右派の影響力が世論のなかでも大きくなっているので、この点も踏まえておく必要があると思います。

(以下、Statewatchのプレスリリース)


Statewatchが入手したEU内部文書によると、5Gの通信ネットワークは、EUと各国政府が行動を起こさない限り、伝統的な警察の「合法的傍受」技術を時代遅れにする可能性がある。 [1]

今週の金曜日(6月7日)、EU司法・内務評議会は、「国内の安全保障分野における5Gの意味するもの」について議論する。これは、Statewatchが分析を含めて公表したEuropolとEUテロ対策コーディネーター(Europol and the EU Counter-Terrorism Coordinator)が最近作成した文書で取り上げられているトピックでもある。 [2]

これらの文書は、5G通信ネットワークを支える様々な技術が、従来の方法による盗聴をはるかに複雑にしたり無用にする可能性があり、法執行機関が個人のデータにアクセスする新たな大きな課題となると警告している。

こうした状況に対処するため、関連する技術標準の確立を担う国際機関に影響を与えることを試みるべきだとの提案している。警察の要求を執行するために(国内およびEUレベルで)新しい法律を制定すること、例えば、米国、オーストラリア、カナダなどの主要な監視機関と、EU内外の関係者間での幅広い議論を確実にすることを提案している。

5Gの主な機能の1つは、モノのインターネットを通じた個人、物、装置そして環境の膨大なデータの生成、保存、共有を可能にする時代を可能にすることにあるという誇大宣伝を信じられるものだとすれば、5G技術が法執行機関によるある種のデータへのアクセスを制限する可能性がある。

この分析では、法執行機関は、現在の権限の一部を失う可能性があると同時に – 広大な新しい監視の可能性が開かれる面があり、公的に議論すべきであると主張している。

Statewatchの研究者であるChris Jonesは次のように述べている。

EUの当局者は、電話盗聴の可能性を失うことを当然懸念している。しかし、彼らが危惧するまさにその技術が、法執行機関や安全保障機関に、個人の活動を追跡してそのデータにアクセスすることを可能にするという権利侵害を可能にするかもしれない。これは「伝統的な」盗聴力の喪失の可能性と同じ問題の一部と見なされるべきだ。技術の標準化の設定や法律制定に影響を与えようと秘密裏に試みるのではなく、登場しつつあるテクノロジーに照らして、監視と盗聴の力について受容しうる限界についての公的な議論が求められている」

Contact

Statewatch office: +44 203 691 5227
chris [at] statewatch.org

Notes

[1] The analysis can be found here (pdf).
http://statewatch.org/analyses/no-343-5g-telecoms-wiretapping.pdf
[2] The agenda of the JHA Council meeting can be found here.
https://www.consilium.europa.eu/en/press/press-releases/2019/06/04/indicative-programme-justice-and-home-affairs-council-of-6-and-7-june-2019/

The official documents (pdfs) examined in the analysis are:

出典:Press release: EU officials in a panic over the possibility of a world without wiretapping

G20批判

Table of Contents

  • 1 はじめに
    • 1.1 G20とは何なのか―外務省の解説
    • 1.2 変質しつつあるG20
  • 2 G20と国際関係 経済の政治学
    • 2.1 ポスト冷戦の資本主義が抱え込んだ危機
    • 2.2 グローバル資本主義の基軸変動によるG20の変質
    • 2.3 G20大阪の議題
  • 3 G20の何が「問題」なのか
    • 3.1 市場と制度の相克
    • 3.2 資本に法制定権力がないという問題
    • 3.3 市場のルールの覇権の揺らぎ
  • 4 G7、G20と対抗する民衆運動
    • 4.1 オルタ/反グローバリゼーションをめぐる運動
      • 4.1.1 運動の多様性と限界
      • 4.1.2 伝統主義というオルタナティブ
    • 4.2 植民地からの独立、ケインズ主義、新自由主義、どれも不平等を解決してこなかった。
      • 4.2.1 現代にも続く「本源的蓄積」過程
      • 4.2.2 グローバルな格差は解決できていない
    • 4.3 メガイベントとしてのG20
  • 5 移民をめぐって
    • 5.1 民衆という主体の不在
    • 5.2 〈労働力〉とはナショナルなものとして構築され、資本は越境する〈労働力〉の流れを生む
    • 5.3 文化的同化
  • 6 情報通信インフラの国際標準をめぐるヘゲモニーと私達の「自由」の権利
    • 6.1 収斂技術としてのコンピュータテクノロジー
    • 6.2 自由の社会的基盤としてのコミュニケーション環境
  • 7 「テロ対策」名目の治安監視と超法規的な 市民的自由の剥奪―それでも闘う民衆たち
    • 7.1 異常な規模の治安対策予算
    • 7.2 トロントの場合
    • 7.3 治安監視の国際ネットワーク:スノーデンファイル
  • 8 おわりに:シンボリックな外交儀礼とナショナリズムだとしても、だからこそ…
  • 9 (補遺)簡単な年表

1 はじめに

1.1 G20とは何なのか―外務省の解説

外務省のウエッブでは次のように説明している。 https://www.mofa.go.jp/mofaj/ecm/ec/page25_001040.html

リーマン・ショック(2008年19月)を契機に発生した経済・金融危機に対処するため、2008年11月、主要先進国・新興国の首脳が参画するフォーラムとして、従来のG20財務大臣・中央銀行総裁会議を首脳級に格上げし、ワシントンDCで第1回サミットが開催。以降、2010年まではほぼ半年毎に、2011年以降は年1回開催。

参加国は、G7(仏,米,英,独,日,伊,加,欧州連合(EU)のほかに、アルゼンチン、豪、ブラジル、中、印、インドネシア、メキシコ、韓、露、サウジアラビア、南アフリカ、トルコ(アルファベット順) メンバー国以外に招待国や国際機関などが参加

その特徴として、

G20サミットは,加盟国のGDPが世界の約8割以上を占めるなど、「国際経済協調の第一のフォーラム」(Premier Forum for International Economic Cooperation:2009年9月のピッツバーグ・サミットで合意・定例化)として、経済分野において大きな影響力を有している。

1.2 変質しつつあるG20

G20の当初の主要課題は、グローバルな金融危機が体制的な危機へと転化することを阻止することだった。グローバル資本主義のヘゲモニーをG7中心として、G20にその影響力を拡大しつつ、途上国を含むグローバルな政治経済秩序を維持することが目論まれた。

米国をはじめとして各国政府も大企業も、リーマンショックを招いた企業や金融制度の責任をとるどころか、むしろ政府は、破綻に瀕した金融資本や金融システム救済のために莫大な公的資金を投入する一方で、緊縮財政政策を採用ことによって、人々の生存権を支えてきた福祉、社会保障、教育などの公的サービス1を削減する方向をとり、更に公共サービス部門を益々市場に統合することで資本の投資機会を拡大してきた。こうした方向をG20は、非公式な国際的な枠組みで合意しつつ、この外圧を利用して国内の政策を強行した。その結果として、資本蓄積の基盤を貧困層の切り捨てが進んだ。

しかし、経済の欧米諸国による影響力は相対的に低下し、中国を中心とする新たな世界秩序が形成されつつあるなかで、G20の性格も変質する。グローバル資本主義の基軸が欧米中心に構築されてきた「西欧近代」という枠組みからずれ、経済的な下部構造は資本主義ではあっても、その統治機構や意思決定、文化的な社会的な規範や価値観は、欧米のそれとは異なるだけでなく、欧米が構築してlきた規範とは異なる規範が対置されるようになる。

この構図がG20の当初のものだとすると、その後の世界情勢は狭義の意味でのグローバル資本主義の土台(下部構造)の維持というレベルでは収拾できない状況をまねいた。それが、アラブの春からオキュパイ運動への流れとともに急速に台頭してきたイスラーム原理主義と欧米極右の「主流」化である。日本の安倍政権はこの傾向を先取りする政権でもあった。

2 G20と国際関係 経済の政治学

2.1 ポスト冷戦の資本主義が抱え込んだ危機

G20の設立そのものが、グローバル資本主義の脆弱性を端的に物語っていた。G7/8は、ベトナム戦争の敗北と石油危機、第三世界における社会主義国家の伸長といった事態のなかで、戦後国際経済秩序の主導権を先進国が維持するための枠組だった。ここでは、資本主義的な自由主義を表向きの共通の価値観に据えて、社会主義と国連の経済ガバナンスを抑えこむ役割を担った。

G7/8とIMF、世銀、WTOは、ポスト冷戦のなかで、社会主義ブロックが崩壊したにもかかわらず、世界規模の反対運動にみまわれつづけた。20世紀の権威主義的な社会主義(あるいは社会主義と呼ぶべきかどうかの論争があることからすれば、何と呼ぶべきか)とは一線を画した民衆運動の草の根のなかで、既存の支配的な経済秩序へのオルタナティブへの模索は続いた。

リーマン・ショックは、1929年の世界大恐慌や1970年代の二度の石油危機などの大きな危機にはない特徴があった。かつての危機は、社会主義という対抗的な勢力が無視できない力を発揮していた時代であったのに対して、リーマン・ショックは、社会主義の敗北=資本主義の勝利という公式イデオロギーのもとで起き。しかも、G7/8の枠組みでは収拾できないようなグローバルな金融システムの構造を抱えていたことを示していた。

第二に、G7/8とダボス会議を車の両輪として、IMF、世銀、WTOといった国際経済機関による国際経済秩序の主導権を維持して、国連による公的なグローバルガバナンスを抑えこむという構造が、十分機能しなくなったことも示していた。この意味でG20の存在が注目されること自体が、欧米(+日本)を基軸とする戦後のグローバル資本主義の危機を体現している。

経済や金融の問題は、財やサービスの生産や貿易、あるいは通貨や金融商品の取引などから各国の財政まで、幅広いが、こうした問題を扱う主流の経済学や政治学が脇に追い遣っているのが、社会(地域コミュニティから国民国家の枠組み、そしてグローバルな「社会」まで)を構成しているのは人間なのだ、という当たり前の事実である。常に関心の中心にあるのは、産業資本による生産であり、金融市場のマネーゲームであり、政府の債務と財政問題であり、政府間関係としてのみ論じられる国際関係である。<労働力>としての人間も社会保障や公共サービスも、彼等にとっては節約すべきコストでしかない。

国際政治や外交が対象にする課題では、一般に、「アクター」とみなされるのは、国家を代表するとされる人格、「首脳」とか大臣や高級官僚たちである。また、経済においても、「市場」があたかも一個の人格であるかのようにみなされ、「市場」を体現する「アクター」もまた、大企業、あるいは多国籍企業の経営者たちである。

国家、市場、資本といった制度の人格的な表現としての「首脳」や「経営者」たちは、言うまでもなく、民衆の利害を代表するものではない。国際政治や国際経済の理論的な枠組そのものが、実は、民主主義や民衆を意思決定の主体とするような理論になっておらず、こうした権威主義的な理論を前提にして、政治や経済の政策が正当化されている。

2.2 グローバル資本主義の基軸変動によるG20の変質

上述のように、G20は、経済金融危機への対応から始まったが、むしろ現状は、グローバル資本主義の基軸国が欧米から中国をはじめとする新興国へとシフトし、戦後の国際経済覇権を支えてきたゲームのルールが揺らぎはじめているなかで、その役割は大きく変質した。

変質は幾つかの複合的な要因からなる。たとえば、

  • 中国など非欧米諸国の台頭
  • 新自由主義政策の結果としての国内外の格差拡大が国境を越える出稼ぎ労働者や移民を大量に排出(東ヨーロッパ、南ヨードッパから西ヨーロッパへ、中南米から北米へ)
  • 情報コミュニケーションテクノロジーが「成長」を牽引する位置に
  • 気候変動の深刻化
  • 中東やアフリカなどでの戦争と、その結果としての大量の難民
  • 宗教原理主義とナショナリズム(自国第一主義)に基づくポピュリズムの台頭(極右の主流化)
  • 社会主義ブロックを後ろ盾にしない、反権威主義的な広い意味での左翼大衆運動(階級+ジェンダー+エスニシティ+エコロジー+対抗文化)

こうした課題をG20という枠組みの会合によって効果的に「処理」できるとは思えない。日本政府はG20を「国際経済協調の第一のフォーラム」と評価するが、実態は、むしろ世界のGDPの8割を占める諸国が相互に合従連衡を繰り返して覇権を争奪する場になっており、協調どころかむしろ政治的経済的な不安定から更に危機的な敵対関係へと転換しかねない危うい場所になっている。

2.3 G20大阪の議題

日本政府にとってG20の大阪会合とは何なのか。今通常国会で外務省大臣官房審議官、塚田玉樹政府参考人は以下のように答弁している。

六月のG20大阪サミットにおきましては、主催国として、世界経済の持続的な成長に向けたリーダーシップを発揮していきたいというふうに考えております。

貿易におきましては、グローバル化によるさまざまな不安や不満、こういったものに向き合いまして、公正なルールを打ち立てるということで自由貿易を推進していく所存でございます。また、データガバナンス、電子商取引に焦点を当てる大阪トラックの開始を提案しまして、WTO改革に新風を吹き込みたいというふうに考えてございます。

また、それ以外でも、女性のエンパワーメントですとか、あるいはジェンダーの平等、気候変動、海洋プラスチックごみ対策、質の高いインフラ投資、国際保健、こういったテーマを取り上げまして、国際社会における取組をリードしていきたいというふうに考えております。(衆議院外務委員会 外務委員会 2019年、04月12日 )

また、麻生財務大臣は次のように多国籍企業への課税強化を強調している。

BEPSと称するベーシック・エロージョン・プロフィット・シフティング、略してBEPSと略すんですけれども、まあ早い話が課税限度額の低いところに法人格を移す、個人の居住地域を移した形にする等々、いろいろ手口はあるんですけれども、そういったものによってかなりなものが起きているのではないか。

(略)GAFAとよく言われる話がその最たるものなのかもしれませんが、これに限らずほかにもいろいろありますので、そういったものに関してはきちんとすべきだと。六年前に日本が主張してこれは始まって、今まで約丸六年ぐらい掛かったことになりますけれども、おかげさまで、少なくとも来週からIMF等々でこの話を、もう一回OECDも含めてこの話をワシントンでする形になって少し形が見えてきて、今、ヨーロッパ方式、アメリカ方式、いろいろ各国出してきましたので、それまではもう俺たちは関係ないという感じで逃げていたのが全部出してきましたので、一応そういったものになりましたので、六月の、そうですね、G20の財務大臣・中央銀行総裁会議をやらせていただきますけど、そのときまでにはかなりのものができ上がるというところまで行かせたいと思っております

こうした議題への解決を、G20に期待することは、二つの意味で間違っている。

ひとつは、これらの議題は、各国の国内政治上のプロパガンダであって、その実効性を担保するものは、ないに等しい。第二に、首脳たちの非公式の話し合いによって「解決」するという国際政治のスタイルは、意思決定のプロセスのどこにも民主主義は存在しない。だから、あたかも「市民社会」へのアウトリーチを演出するために、民間団体などをG20のプロセスに包摂しようとしている。しかし、どの団体であっても、公正な代表としての権限が与えられうるものではない。政府がそうした「代表」にお墨付きを与えるのであれば、もはや「市民社会」は政府や市場から自立した第3の対抗勢力にはなりえないだろう。

3 G20の何が「問題」なのか

3.1 市場と制度の相克

上述した意味とは別の意味で、G20あるいはG7/8といった非公式の首脳会合については、その影響力が果して政府やメディアが宣伝するほど大きなものかどうか、グローバル資本主義を肯定する立場からも疑問視する考え方がありうる。たとえば、

  • もし、世界経済の主要な動向が、市場経済によって規定され、市場経済が越境的で国家をしのぐ経済力を駆使する多国籍企業によって支配されているとすれば、首脳が集まって会議することで市場経済の動向が左右されるようなことがどうして起きるのか。むしろ毎年冬にスイスのダボスで開催される多国籍企業と各国の主要政治家たちが集まる世界経済フォーラムの方が経済への影響力が大きいのではないか。
  • 国連のような公式の各国代表による公式の討議や条約法条約で定められたような国際法上の正統性を有するルールの制定の枠組をもたない非公式の会合にすぎず、むしろ条約や協定の締結を目的とした公式の外交交渉などの方が重要なのではないか。

グローバルな市場経済の複雑な利害とメカニズムを公式であれ非公式であれ国際的な会合という仕組みがコントロールできるとみなすことは、通常の「経済学」の教科書では説明されていないことだ。むしろ市場が国家や国際機関では手に負えないある種の「自律性」があり、これが資本主義のやっかいな側面であって、リーマンショックもまた、こうした市場の制御不可能性から国際的な経済危機が起きたのは事実だ。国家は「資本の国家」でもありながら、資本を制御しきれないというの資本主義の矛盾をG7/8やG20が解決できるわけがない、というのはその通りである。

3.2 資本に法制定権力がないという問題

だからといって政府の役割を過小評価すべきではない。グローバル資本主義が国家を越えた多国籍資本の強い影響下にあるとしても、多国籍資本にできないことが二つある。

ひとつは、資本そのものには法制定の権力がない、ということだ。そもそも資本が「企業」あるいは「法人」としての法的正当性を獲得できるのは、法人格を定めた法制度に依存する。また、各国の国内法の制定と政府間の国際法の秩序は、議会や政府の専権事項である。IMF、世銀、WTOであれ国連であれ正式の構成員は政府代表であって、多国籍企業のトップが議決権を持つことはできていない。市場経済が国際的な市場として機能する上で必要なルールは未だに資本の専権とはなっていない。各国の市場を外国の資本に開放するかどうか、関税や非関税障壁、税制など資本の利潤に直接関わる事項の多くが自国あるいは覇権を握る先進国など有力国の法制定と法執行のプロセスに縛られる。もうひとつは、「人口」の管理である。あるいは、〈労働力〉の管理といってもいい。この問題は後に「移民問題」の箇所で言及する。

非公式会合は、民主的な意思決定の体裁を維持しながら、この決定プロセスをメタレベルで規定することによって、民主主義のプロセスそのものを既存の統治機構が骨抜きにする上で効果を上げてきた。非公式会合による事実上の合意形成を踏まえて、国内法や制度の整備あるいは国際法の枠組の主導権を維持しようとする。非公式会合の議論のプロセスは透明性を欠き、各国とも自国にとって都合のよい内容を国内世論形成に利用する。こうした情報操作の手法は、オリンピックなどの国際スポーツが自国選手の活躍ばかりを報じることによって、そもそもの競技全体のイメージを歪め、ナショナリズムを喚起することに加担する結果を招いている手法とほぼ変わるところがない。

3.3 市場のルールの覇権の揺らぎ

G20は、こうした状況のなかで、当初は、金融危機への対応の必要から、後には、中国やロシアなどとの対抗と牽制の駆け引きの必要から、非西欧世界の「大国」、地域の有力国を巻き込むことによって、これら諸国を欧米が戦後築いてきたグローバル資本主義のルールの枠内に抑え込むことを目論むという一面があったように思う。しかし、逆に、G20は、新興国が従来のゲームのルールを覆して新たなルールを欧米諸国に要求する場にもなりうることもはっきりしてきた。これまで、欧米が戦後構築してきたルールを前提に市場の秩序と競争が展開されてきたが、ここにきてむしろ新興国自身がルールメーカーになろうとしており、その結果としてルールの揺らぎが顕著になってきた。しかも、トランプ政権の自国第一主義もまた、ルールの恣意的な変更を厭わないという態度をとることによって、そもそもの「ルール」への信頼性が更に揺らいでいる。この意味で、日本政府が宣伝するようなG20の「協調」は存在していないばかりか、覇権の構造がG20内部で深刻な亀裂を生み出してさえいる。

このルールの揺らぎが最も端的かつ明瞭な形で表出してきたのが、Huaweiをめぐる情報通信技術の分野だろう。これは、単なるスマホの市場の争奪という問題ではない。次世代情報網の基盤となる5Gをめぐる情報通信の社会インフラというフロンティア市場の争奪であり、同時に、この同じ情報通信インフラが、「サイバー戦争」の戦場でもあるとみなされるなかで、現状では政府間国際組織が主導権を握れていないインターネットのガバナンスに影響しうる問題にもなっている。2

4 G7、G20と対抗する民衆運動

社会主義圏の拡大が続く70年代に、グローバルな資本主義経済秩序の再構築を目指したのがG7/8だった。G7サミットは「G7サミットでは、その時々の国際情勢が反映された課題について、自由、民主主義、人権などの基本的価値を共有するG7首脳が一つのテーブルを囲みながら、自由闊達な意見交換を通じてコンセンサスを形成し、物事を決定」3と説明されてきた。一切の国内の民主主義的あるいは法的な意思決定の手続に関わりなく首脳間の討議で合意形成するシステムである。G7/8は、冷戦期に、ベトナム戦争の敗北と石油危機によって米国の覇権の構造が揺らぐなかでの西側資本主義のグローバルは覇権再構築を国連の枠組に対抗して目指した。IMF、世銀、GATT(後のWTO)というブレトンウッズ体制とサミット、ダボス会議によって築かれた冷戦期のグローバル資本主義のゲームのルールは、国内的には、公共部門の民営化にる市場経済の拡大、冷戦後の旧社会主義圏の資本主義世界市場統合のなかで維持される。この戦後のグローバル資本主義のゲームのルールそのものが、内部から危機にみまわれる。アジア通貨危機やリーマンショックは、資本の競争原理に支配された規制なき市場がいかに制御しがたいものであり、危機に際して政府は資本の延命を優先していかに民衆に犠牲を強いる存在であるかが明かになった。

4.1 オルタ/反グローバリゼーションをめぐる運動

4.1.1 運動の多様性と限界

オルタ/反グローバリゼーションの運動は、周辺部の民衆運動として、多様な姿をとって80年代から登場してきた。90年代以降、こうした運動が(組織的イデオロギー的な繋がりがあるわけではないが)、先進国の大衆運動へと拡大してきた。もはや社会主義はブロックとしては存在しない。冷戦に勝利したかにみえる資本主義が歴史の最終的な勝者であるかのようにしきりに自画自賛してきた支配層やイデオローグたちにとって、反グローバリゼーション運動は理解を越えた。当時、世界の政治と経済を動かアクターは三つあると言われた。ひとつは、従来からの主権国家。もうひとつは、主権国家の経済力を凌駕しさえする多国籍企業、そして三番目に様々な民衆運動である。国際NGOから草の根のコミュニティの運動まで、女性、移民、労働運動、環境など課題も様々、ラディカルな民主主義、マルクス主義、アナキズムなど思想背景も様々である。世界社会フォーラムやグローバルレジスタンスの運動など、国際的な連帯は、反戦運動からコミュニティの環境・反開発、先住民運動など多様な運動をゆるやかにネットワークする上で貴重な役割を担った。

しかし、こうした運動の限界もあった。それは、新自由主義グローバリゼーションへの批判ではあっても、資本主義グローバリゼーションへの批判が共通の了解事項にはなりえなかったのではないか、という点であり、資本主義に代替する社会が何なのかを、社会主義といった概念で共有できなかったということである。資本主義を否定する明確な方向性をもつイデオロギーのなかで、たぶん、最も有力なのは様々な傾向をもつマルクス主義とアナキズムだが、このそれぞれの内部でも相互においても、「次」を見通すための建設的な議論が積み重ねられてきたとはいえない。

このことは、リーマンショックや緊縮財政といった危機に際して、多くの運動は、この危機をグローバル資本主義の衰退への引き金として、衰退を加速化させる戦略を見出せなかった。新自由主義批判のなかで、国家はあたかも中立の存在であるかのようにみなされることがあった。資本の国家であるにも関わらず。福祉や社会保障、公共サービスを資本のための〈労働力〉や家族政策への思惑から切り離し、資本主義としては成り立ちようのない要求へとは転換できなかったのではないか。資本主義への態度が運動のなかでは、かなりの温度差があったし、今もあると思う。資本主義でもよいのか?「よい」のなら、なぜ?資本主義ではダメだというなら、どうであればいいのか。この凡庸だが、しかし根源的な問いでもある。

正解がひとつではないにしても、資本と国家を廃棄するとして、また、20世紀型の社会主義や既存の社会主義を標榜する体制を範例とはしないとして、経済において、資本に何が代替すべきなのか、政治において国家に何が代替すべきなのか、自由、平等、民主主義はどのような内実をもつものでなければならず、その内実を実現できる制度とはどのようなものであるべきなのか、こうした一連の問いに応じうる運動が模索段階に留まってきた。(思想家や理論家の議論はともかくとして)

4.1.2 伝統主義というオルタナティブ

反グローバリゼーション運動が新自由主義グローバリゼーションへのオルタナティブを既成の社会主義ではない「何か」への模索のなかで、決定的な答えを出しあぐねているなかで、アジア諸国の権威主義や独裁、イスラーム世界の非世俗的な国民国家など、多様なオルタナティブは、近代が否定してきた近代以前の諸々の「伝統」への回帰を通じたアイデンティティの再構築を企図し、ある種の民衆運動がこうした傾向を支えて表出してきたようにみえる。諸々の伝統主義への回帰を内包した運動だ。4イラン革命(1979年)は、イスラム復古の民衆運動であった。他方で、80年代のレーガン・サッチャーの新自由主義は、イデオロギー政策の場面では「自由主義」とは真逆の時代となる。人工妊娠中絶、同性愛への弾圧、移民や少数民族排斥は、復古的な家族イデオロギーを強化する傾向を顕著にもち、AIDS被害の蔓延を同性愛への格好の攻撃の手段として用いた。キリスト教原理主義がリベラリズムを攻撃し、言論表現の自由がマッカーシズム以来最大の危機を迎えた。これ以降、現在に至る極右の運動のひとつの源流がこの時代にあるといってもいい。5

先進国でも途上国でも、ポスト冷戦後、こうした諸々の宗教原理主義、復古主義、伝統主義が、新自由主義グローバリゼーションによって犠牲となってきた貧困層から中間層を組織化する流れを形成しはじめ、これがもうひとつの反グローバリゼーション運動とも呼びうる潮流となる。

サミットのありかた自身が「自由、民主主義、人権などの基本的価値」を裏切る存在である。首脳たちの密室での合意のどこに自由、民主主義、人権があるというのか。この欺瞞が当初から批判されてきた。言い換えれば、先進国は、その掲げている理念とは裏腹に、自由も民主主義も人権も不在なのだ。とりわけ国際関係において、これらの国々にとっての「外国」への政治や軍事などの力の行使に関しては。一国一票の国連の「民主主義」すら疎んじて、国連のガバナンスに縛られることを嫌う態度が如実にあらわれているのがG7/8だった。同様に、「国民」という枠組によって国内の人口を分断し、移民を常に国内の治安に観点から「問題」視し、排除か同化的統合のための口実を探し続けてきた。

欧米の民主主義や自由主義、あるいは平等に代表されるような普遍的な人権の理念は、これら諸国内部から、形骸化してきた。かつての植民地宗主国は一貫して植民地支配と侵略の犯罪から目をそむけ、近代の普遍的な価値を享受できるのは、自国の「国民」の、もっぱら異性愛者である白人男性にそに優先権が与えられてきたにもかかわらず、あたかも万人が享受できるかのような見せ掛けを作り、その理念故に、差別と排除の実態が隠蔽された。日本の場合、高邁な理念を掲げて、現実を隠蔽するという近代国民国家のイデオロギー作用は、戦後憲法によってその枠組みが与えられてきた。

非西欧世界の民衆にとって、欧米先進国は、歴史的には植民地支配者であって、植民地解放の「敵」でありながら、欧米の「豊かさ」、価値観やライフスタイルへの憧憬も共存してきた。しかし、独立と近代化は、欧米資本主義であれ20世紀の国民国家を基盤とする社会主義であれ、その理念と現実との間には多くの矛盾があり、とりわけ、経済成長=豊かさは一握りの国々にしかその「席」は与えられず、必然的に貧困の「席」しか割り当てられない諸国が存在するような構造が維持されてきた。国際政治と国家を主体とする軍事安全保障は、植民地体制とは異なる国際的な政治的軍事的な支配と従属の重層的な構造を維持してきた。世界規模の資本による搾取と先進国による政治的な覇権の構造にとって、独立国家か植民地であるかの違いは見掛けほど大きくはないことが明かになった。それが20世紀後半以降の世界である。

4.2 植民地からの独立、ケインズ主義、新自由主義、どれも不平等を解決してこなかった。

4.2.1 現代にも続く「本源的蓄積」過程

国連の人間開発報告書のデータを概観してみると、GDPが高い国と低い国との格差は歴然としている。6その差が縮まっていることを強調して、貿易や投資の自由化を擁護する主張は、全体の構造的な格差を解決最も有効なシステムが資本主義的な自由主義であるという「答え」の正しさを証明しているわけではない。

経済的な貧困を貨幣で評価することは必ずしも正しい評価とはなりえないが、他方で、市場経済が浸透する過程で、自律的な非市場経済の構造に依存してきた社会が解体されて、人々の生存の基礎構造が破壊されることによって、経済を支えてきた共有の構造と、労働市場に依存しない労働=生産組織もまた破壊され、人々は、労働市場で〈労働力〉を売り、生活必需品の調達を市場に依存するようになる。このよく知られた資本の本源的蓄積とマルクスが呼んだ資本主義成立期のプロセスは過去の歴史的な出来事ではなく、むしろ現在においても、日々進行しているものだ。

資本にとっての〈労働力〉は、国家にとっての国民であり、国家権力の正統性を支える人的な基盤をなす。独裁であれ民主国家であれ、王制であれ共和制であれ、「国民」による支持は必須であり、同時に、この「国民」が〈労働力〉として資本によって統合されて市場経済的な意味での「価値」を資本にもたらす存在になることが経済的な基盤にとっての最低限の条件となる。

この構造は、先進国の側からの眺望と低開発国の側からの眺望とでは全く異る風景を描くことになるが、それだけではなく、それぞれの国のなかで、人々が帰属する所得階層、性別、年齢、エスニックグループ、宗教グループなどによっても大きな違いがある。所得の低い女性は、同じ階層の男性とは同じライフコースを歩むことはできないだろう。貧困層の幼い子どもは、自分が大人になるまで生きられるかどうかの確率について、富裕層の子どもとは全く異なる運命にみまわれる。

4.2.2 グローバルな格差は解決できていない

グーバルな貧困問題が国際的な課題になったきっかけのひとつが、国連の人間開発報告1999年で示された19世紀以来の長期的な格差の拡大だった。(巻末の図「Widening gaps between rich and poor since the early 19th century, United Nation, Human Development Report 1999,参照) 1820年から1990年代にかけて、その国別構成が変化しつつも、最貧国は一貫して貧しいままであり、富裕国は、一貫して豊かになり続けてきた。この傾向は、G20や国連などが提唱する持続可能な経済成長や格差の解消という掛け声にもかかわらず構造的には変化がない。GDPの指標や国別の統計なので、こうした数値では表面化しない深刻な格差や貧困があることを留意したとしても、この格差は異常な状態である。同様に、19世紀以降、工業化のなかで、以上な増大をみせているのがCO2の排出である。(巻末の図「化石燃料等からのCO2排出量と大気中のCO2濃度の変化」7、CDIAC, Global Fossil-Fuel Carbon Emissions, 参照)

そもそも、一方に500ドル足らずのGDPの国があり、他方で3万ドルから5万ドルあるいはそれ以上のGDPとなる国がある原因が、それぞれの国に暮す人々の経済活動に関わる「能力」とか「資質」に基づくとはとうてい考えられないだろう。とすれば、問題はこうした格差を数世紀にわたって再生産してきた構造的に問題があるとみるべきである。とりわけ20世紀以降の格差の拡大が顕著であるようにみえる。

一般に、新自由主義グローバリゼーションに反対するという主張を打ち出す場合、「新自由主義」という限定をつける理由は、1980年代のレーガン=サッチャー(そして中曽根)の時代以降の規制緩和や民営化、市場経済原理主義と呼ばれる時代が問題の元凶にあるという見方になりがちだ。しかし、明かに言えることは、グローバルな格差や貧困の問題は、もっと長期的だということである。新自由主義よりもケインズ主義や福祉国家の政策への評価が高かった時代であれ、多くの植民地が独立を果した時代であれ、格差と貧困のグローバルな構造は大きな変動をこうむらなかった。

言い換えれば、保護貿易や福祉国家やケインズ主義といった「大きな政府」も公共部門を民営化し自由貿易を採用しようと、どちらであれ、最貧国の地位を割り当てられる国が存在し、世界の富を独占する国が生み出されてきた。

なぜ、このした構造が数世紀も続いてきたのか。数世紀という長い歴史的な尺度のなかで、一貫して見い出せる構造があるとすれば、それは、国民国家と資本主義市場経済の構造以外にはない。現在のグローバルな資本主義がもたらしている深刻な問題の解決のためには、これらを前提にした部分的な改革は意味をもたない。解体のための挑戦として20世紀最大の実験が社会主義だったわけだが、社会主義は、国民国家の問題を棚上げにした。近代国民国家の枠組みを(当初は国家廃絶のために戦略的に、後にはむしろ権力の正統性の基盤として)受けいれた。統制経済が戦争を総力戦として遂行するための基盤を提供したという観点からみたとき、ナチスやイタリアのファシズム、日本の総動員体制とニューディールの間に本質的な違いはない。

一人当りGDP(ドル) 2015年(国連人間開発計画2016年版)
最貧国
Central African Republic 562
Burundi 693
Congo (Democratic Republic of the) 737
Liberia 787
Niger 897

最富裕国 日本 35,804(19425)
韓国 34,387
中国 13,400
インドネシア 10,385
インド 5,730
オーストラリア 43,655
米国 52,549(21558)
カナダ
メキシコ
英国 38,658
ドイツ 44,053(19351)
フランス 37,306
イタリア 33,587
ブラジル 14,455
アルゼンチン
サウジアラビア 50,284
南アフリカ 12,390
トルコ 18,959
ロシア 23,895
— カタール 135,322
ルクセンブルク 93,553
シンガポール 80,192
ブルネイ 66,647

人は、出身地、性別、民族は選択できない。こうした格差は、構造的人為的に生み出されてきた歴史的な構築物である。これは少なくとも、近代資本主義にその原因の主要な部分があることは間違いない。このとうてい容認できない格差は、単なる所得再配分とか金融所得課税といった分配によって解決できるだろうか。「持続可能な成長」は、持続可能な資本にとっての成長でしかない。そうではなく、むしろ持続可能な資本主義の衰退のプログラムとして構想しなければならない。伝統主義を排して、資本と近代国家を安楽死させる戦略と制度設計が必要なのだ。「衰退」を目的意識的に追求することは、政治的な革命のプログラムに還元できない。衰退を肯定的な価値としてポジティブに構想することは、資本主義的な「豊かさ」を内面化している大衆にとって容易なことではない。短期的な「文化革命」は成功しない。数世紀の長い革命を構想する必要がある。

4.3 メガイベントとしてのG20

G20は、同床異夢の不安定な覇権争奪の場であり、誰も決定的な主導権をとることはできず、いくつかの課題となる分野で、相互の牽制あるいは妥協を通じて、自国の国益を最大化するための努力を繰り返す不毛な会議である。犠牲になるのは世界中の民衆たちである。

しかし、プロパガンダとしての国際会議の効果は無視できない。特に、日本の場合、G20を開催する地域の自治体とメディアが一体となった国際イベントを盛り上げるプロパガンダによって、G20を、その実態とはかけはなれた国威発揚のためのイベントに仕立てることによって、ナショナリズムを刺激する効果をもつことになる。

国際イベントはどこの国のメディアも自国中心の視点から情報を発信する。先にも伸べたように、オリンピックなどの国際的なスポーツ競技が自国の選手や自国が得意とする競技を中心に報道されることによって、あたかも自国の選手が国際競技大会の主役であるかのような印象が演出される。同じことは政治や外交の国際会議にもあてはまる。特に日本の場合、日本語環境が国境とほぼ重なり、大半の日本の民衆は、自国の報道や政府の発表を他国のそれと比較しながら評価できる言語環境にない。日本の民衆はメディアや権力の情報操作に左右されやすい。

国際イベントはある種の儀礼的な行為、国家の権威や威厳を端的に象徴する場でもある。儀礼や儀式は、差異や矛盾を棚上げした国民統合を演出する仕掛けであって、それ自体が、多様な異論や異議申し立て、言論表現の自由を前提として成り立つ民主主義的な政治空間の本質とは相容れない。国際イベントに必須ともいえる場の威厳は、あらゆる混乱が排除された整然とした秩序を生み出すための権力作用を伴う。これが治安維持や治安弾圧を正当化してしまうことになる。

G7/8や国際機関の会合が大衆的な反グローバリセーションの抗議行動によって「混乱」に直面してきた90年代から2000年代初めの状況は、私たち(あるいは反政府運動の側)からすれば、民主主義の正当な表現行為であるが、このような異議申し立てそのものが、主催国内部の分断を可視化することになる。

従って、こうした儀礼的な効果という観点からすると、G20が、その内実として、空疎で実質的な国際政治や外交の意思決定において効果をもちえず、矛盾を糊塗するだけのものであったとしても、そのこととは別に、既存の権力基盤を固め、対抗的な勢力を統合と排除のゲームのなかで抑え込むという国内政治に及ぼす効果は、決して軽視することはできない。

5 移民をめぐって

5.1 民衆という主体の不在

G20の議題でも明らかだが、「人」が議題にのぼるのは、あくまで国益の従属変数としての「人」でしかない。大阪のG20の主要議題のひとつとされている女性の問題も、女性を国民的〈労働力〉として活用することに主要な関心がある。最大の課題は、国民的〈労働力〉の周辺部に形成されている移民や難民の問題だ。G20の首脳たちにとって、移民、難民問題は国家安全保障の問題でしかなく、国際政治のなかでの国益に関わる問題でしかない。

G20の舞台上の登場人物であれ、政治や経済の専門家たちの言説であれ、マスメディアの報道であれ、その構図のなかで明らかに登場人物として欠けているのは、75億人の民衆である。民衆を主体とした国際政治や経済、あるいは社会、文化を理解する視点ではなく、国家や資本(市場)を主要なアクターとしてしか世界を見ないことが当たり前のようになってしまっている。しかし、問題は、この75億の民衆が不可視の存在として、あるいは、事実上の意思決定の場から排除されていることに怒りの声を上げるよりも、むしろこうした指導者たちの振舞いを黙認するか、ありおはより積極的に支持する者たちが、その多くを占めているということである。残念なことに、民衆の多数者は、また、支配者を支える多数者であるか、あるいは黙従を選択せざるをえないか、あるいは無関心であるか、であり、可視化された権力に抗う民衆の姿は、常に相対的に少数である。

支配的多数者は、諸々のマイノリティを抑圧することによって、既存の資本と国家の権力の再生産構築してきたた。多様な民衆が抱える、自分たちの生存とアイデンティティに関わる問題は、既存の資本と国家のシステムを前提にして解決できるものではない、という感情が世界規模で拡がってきたのは、冷戦末期から新自由主義グローバリゼーションと呼ばれる時代、あるいは、湾岸戦争以降のテロとの戦争の時代であった。私達からすれば、この時代は、オルタ/反グローバリゼーション運動としての世界規模の社会運動の時代として位置付けたい誘惑に駆られるし、私もこれまでそのようにたびたび述べてきた。しかし、無視できない数の民衆は、私達とは別の方向へと向う。反グローバリセーションであり反新自由主義であるとしても、彼等が依拠するのは諸々の伝統への回帰という「オルタナティブ」だった。その力をあなどったために、日本では、安倍が、世界に先駆けて極右政権を樹立してしまった。その後の世界規模での多様な極右、伝統回帰、宗教原理主義、不寛容な排外主義に状況が今に至る。8

5.2 〈労働力〉とはナショナルなものとして構築され、資本は越境する〈労働力〉の流れを生む

資本主義は人間を<労働力>商品として労働市場で調達する仕組みのなかでしか「人間」を理解できない。このことの問題性をマルクスは搾取として批判したが、マルクスが見落したのは、人間には性別があり、<労働力>再生産は家族によって担われるというジェンダーと家父長制の問題、そしてもうひとつが、<労働力>は、無国籍なのではなく、常にナショナルなアイデンティティとの関係のなかで再生産される、という<労働力>のナショナリズム問題である。

国内の労働市場のように、物やサービス、資金の移動がグローバル資本主義の構造のなかで、とりわけ資本にとって困難なのは、〈労働力〉の制御である。経済学が扱う労働市場の〈労働力〉には国籍がない。(性別も民族もない)。しかし現実の〈労働力〉の担い手は国籍によってその移動を厳しく制約されている。言いかえれば〈労働力〉は国民的〈労働力〉なのである。膨大な移民は、この枠組を逸脱する流れである。これを資金の流れのように市場に還元したり、金融工学のようなコンピュータのプログラムで処理することはできない。ここに資本にとっても国家にとっても困難な課題があるからこそ、情報処理の技術は人への「監視」技術の開発へと向う。

近代国家では、〈労働力〉の理念モデルは「国民」としてのアイデンティティ形成と表裏一体のものとされてきた。これが様々なレイシズムを生み出す背景をなしてきた。「国民」としてのアイデンティティ形成を資本が直接担えるわではないが、階級意識を抑制して国民意識に統合することが資本に同調する労働者を形成する上で有効である限りにおいて、「国民」的〈労働力〉は資本の利害と一致するというに過ぎない。移民や難民を「国民」へと同化させるメカニズムそのものは国家が担う領域と大きく重なり、資本の領域には収まらない。国境を越える人口移動の動因を多国籍企業は様々な策略で生み出すが、国境を越えて人口を量的にも質的にもコントロールする裁量権も与えられていない。9

以下にあるように、ほとんどの先進国の人口に占める移民の割合は10%台である。これに対して、日本の移民の人口比は極端に低い。この低さは、ひとえに、入管政策によるものであり、自民族中心主義の政策をとってきた結果である。

人口比率(国連、人間開発報告書2016)
日本 1.6
韓国 2.6
中国 0.1
インドネシア 0.1
インド 0.4
オーストラリア 28.2
米国 14.5
カナダ 21.8
メキシコ 0.9
英国 13.2
ドイツ 14.9
フランス 12.1
イタリア 9.7
ブラジル 0.3
アルゼンチン 4.8
サウジアラビア 32.3
南アフリカ 5.8
トルコ 3.8
ロシア 8.1

国境を越える移民たちの動向は、人間開発指数の高い国(総じて所得が高い先進国)への貧困地域から移動する傾向がはっきりしている。こうした構造的な格差は、グローバル資本主義が生み出した経済的な搾取、政治的な覇権主義、そして軍事的な破壊行為の結果である。現代の不安定な構造の背景にあるのは、単純な多国籍資本の権益に還元することができない。むしろこうした多国籍資本が、その利益の源泉としてきた社会進歩や人々が理想とするライフスタイルを実現するための財やサービスの提供そのものにある。言い換えれば、「貨幣的な価値」だけではなく、この価値を実現するために資本が市場を通じて提供する人々の日常生活のための―つまり〈労働力〉再生産のための―生活の「質」そのものが、人々を物質的肉体的なだけでなく、精神的にも心理的にも、そして文化的な貧困に追いやってきた。

5.3 文化的同化

排外主義と差別の問題は、ヘイトクライムやヘイトスピーチの問題だけではなく、むしろ自民族文化に対する同化を暗黙のうちに強要するような同調圧力によって生み出される心理作用への対抗的な取り組みが必要であり、あからさまな誹謗中傷とは逆に、ポジティブな言説のなかに内包されたレイシズムであるために、固有の困難な課題でもある。あからさまな差別的な言動や暴力に多くの「日本人」が積極的に同調することは想像しづらい。逆に、日本の伝統文化や生活習慣の肯定的に評価されてきた側面を移民や外国人たちが受け入れずに、出身国・地域の言語や文化を持ち込む場合に生まれる日常的な些細にみえる摩擦が生み出す感情的な齟齬こそがヘイトスピーチといった突出した暴力の温床になる。

運動の側も含めて、多様な言語や文化を背景としてもっている人々との共同の行動の経験が持てている人達は多くはないと思う。異なる文化の人々と接することは、自分たちが当たり前と思っていた(運動や活動家も含む)文化の常識を相対化することになる。彼等が日本の文化やライフスタイルに同化することだけが求められるなかで、運動の側が私達のライフスタイルや文化を変えるための工夫をもつことが必要だろうと思う。

安倍政権は、移民受け入れ政策へと大きく転換した。この政策転換は、安価な〈労働力〉の調達政策として、研修生制度への批判をかわしつつ、労働市場の供給圧力を高めることによって、人件費を抑えこみたいという資本の論理が働いていることは間違いない。では、こうした政権の思惑があるから移民の日本への入国に反対すべきなのか。この政策だけを見るのであれば反対する以外にないが、しかし、他方で、私達がまず何よりも第一に考えなければならないのは、移動の主体は、日本政府でもなければ私達でもなく、日本で働く意思をもつ移動する人々である。彼等の意思が最大限尊重される必要がある。この点で、「日本の労働環境は過酷で差別もひどいよ」といった忠告は余計なお世話である。長い移民受け入れの歴史をもつ欧米であっても、数世代にわたる移民の経験があっても差別は解消されていない。しかし、そうであっても移動する人々がいるのだ。逆に、門戸を閉ざす日本の入管政策は、移民排除を掲げる欧米の極右にとっての理想モデルとすら言われている。彼等の国境を越えて来たいという意思を歓迎することが第一である。彼等の意思は、彼等を安価に搾取しようとする資本の意思とはそもそもの「労働」への向き合い方が違う。また、日本政府のように〈労働力〉でありさえすればいい、というのでもない。

6 情報通信インフラの国際標準をめぐるヘゲモニーと私達の「自由」の権利

6.1 収斂技術としてのコンピュータテクノロジー

コンピュータ技術は私生活から軍事技術まで広範囲に及ぶ様々な技術を支える技術の位置を占めている。生物の基本的な構造は分子生物学や遺伝子工学のコンピュータで解析可能と信じられている。工場では機械を制御するシステムになり、事務所では経理や人事の管理に用いられ、学校では生徒の個人情報から成績の管理に用いられる一方で、情報リテラシーやプログラミングの教材になる。人々のコミュニケーションは、不特定多数を相手に双方向の通信が可能になる。エネルギー革命といわれた産業革命やオートメーション技術の発明もこれほどまでに広範囲に、人々の日常生活から世界規模のシステムまで、分子レベルから宇宙規模までを包含して世界の理解を規定するような技術はなかった。

この技術の基礎を築いてきた欧米の科学技術は欧米を基軸とする国民国家と資本主義の制度的な前提なしにはありえなかった。しかし、今、グローバルな資本主義の基軸が非欧米世界へと移転するなかで、コンピュータ技術は欧米の覇権を支える技術ではなく、逆に欧米の覇権を脅かす技術になりつつある。

欧米のICT技術に支えられてきた資本主義と国家は深刻な難問が最も端的に表われているのが、Huaweiへの米国の苛立ちである。その背景にあるのが、Huawaiが構築してきた5Gネットワークの主導権である。既に、私達にはお馴染の話だが、スノーデンやWikiLeaksなどが暴露してきた欧米先進諸国による情報通信の監視や盗聴、そしてFacebookがトランプ政権の選挙に協力してきた英国のCambledge Analyticaを通じて米国の有権者動向分析のための膨大な情報を提供してきた問題など、ネットワークの世界は同時に、諜報活動や情報収拾活動の重要な基盤になっている。さらに、5Gになれば、このネットワーク同時に社会インフラを支えるコンピュータシステムと密接に統合され、いわゆる「サイバー攻撃」のリスクが高まるとも言われている。

6.2 自由の社会的基盤としてのコミュニケーション環境

コミュニケーションは私達の基本的人権の核でもある言論表現の自由、思想信条・信教の自由を支えるものだ。このコミュニケーションの権利が資本と国家の利害に私生活プライバシーのレベルから統合される事態が生まれている。その結果として、資本と国家の利益が私達の自由の権利を抑圧することが正当化される傾向が生まれている。

しかも、こうした抑圧は、鎖に繋がれた苦痛のような実感を伴うことなく、人々の一見すると自由な動きそのものを規制しコントロールするようになっている。指紋認証、顔認証、行動分析から将来の犯罪予測まで、コンピュータは広範囲の監視と規制の警察や軍隊の技術としてIT産業を支えるようになっている。米中でHuaweiを槍玉に上げて起きていることは、コンピュータ技術とコミュニケーション技術の主導権の転換を象徴している。

7 「テロ対策」名目の治安監視と超法規的な 市民的自由の剥奪―それでも闘う民衆たち

7.1 異常な規模の治安対策予算

テロなどの警備対策予算は約333億円。前年度予算から207億円の増加。代替わり関連は38億円に対してG20警備関連予算が120億円。警備費用は異常という他ない膨大な金額である。G20開催国は、いずれも膨大な警備費用と反対運動をはじめとしてテロ対策のために、 市民的自由を公然と制約し警察力を強化し、監視社会としてのインフラを構築する。その結果として、こうした警察-監視の体制が構造化される。

G20の会合は、これまでのオルタ/反グローバリゼーション運動が活発な国でも大規模な大衆運動が展開されてきた。たとえば、2010年トロントのG20では、史上最大の警備費用を投じ、警察の過剰警備によって反対運動参加者700名が逮捕される事態になった。警察の弾圧は無差別に近いもので、その後警察の行動については多くの批判的な検証が行なわれた。

7.2 トロントの場合

トロントの反g20運動が大きな高揚を実現できたのは、リーマンショック以降のG20諸国がおしなべ公的資金を金融機関救済に投じる一方で、緊縮財政と新自由主義政策をとったことへの強い異議申し立ての問題だけではなかった。むしろ、こうした狭義の経済問題に連動する形で起きてきた、多くの社会問題に対して、コミュニティの活動家からグローバルなNGOまで、いわゆる市民運動からマルクス主義左翼、アナキストまで、非暴力のストリートフェスティバルといった趣きからブラックブロックによる多国籍企業店舗への攻撃まで、アーティストや先住民運動まで、移民の権利から性的マイノリティの権利運動までが参加したことによる。

トロントのG20反対闘争は10日ほど続いた。

  • 2010年19日、20日(日)ピープルズ・サミット。労働組合や環境運動団体、NGOなどが主催。カナダ-EU自由防疫協定から先住民運動かで100以上のワークショップなどを開催。
  • 21日(月) 南オンタリオの反貧困運動が主に組織た抗議行動。数百名のデモ。数名逮捕。旗を持っていたとか、デモの規制地域にある自分の職場に入ったことなどが理由。
  • 22日 ジェンダーやクィアの権利のデモ。ダウンタウンでは同性愛嫌悪に対抗した「キス・イン」。
  • 23日 環境や気候変動を中心としたこの時点まででの最大規模のデモ。音楽、ダンス、ドラム、フェイスペイントなどの陽気なデモ。
  • 24日 Indigenous netwoark Defenders of the Landが組織した先住民の権利デモ。前日のデモ参加者を上まわる。
  • 25日 「わたしたちのコミュニティのための正義を」を掲げコミュニティの運動を中心としたデモ。移民の市民権や主権の問題から福祉切り捨てまで。最後はブロックパーティが路上で行なわれ終夜の「テント村」が出現。

ほぼ毎日1万から4万人のデモ

  • 26日(土) 「People’s First」をかかげて、組合やNGOがデモを組織。ブラックブロックを含む反資本主義、反植民地主義を掲げるデモの一部が警戒区域へと向う。銀行、スターバックスなどの多国籍企業の店舗が破壊される。この日以降、警察による報復攻撃が始まり、非暴力デモに対しても弾圧が始まる。
  • 27日 警察も暴力が顕著になる。ほとんどの市の主要な活動家たちが逮捕され、路上の抗議行動参加者の疑いがあるというだけで拘束。
  • 28日 逮捕された人達との連帯デモ。釈放された人達も再び路上へ。
  • 25日から27日だけで700名が逮捕される。10

こうしたカナダでの弾圧は例外ではない。むしろ毎年のG20の開催に伴って、どこの国でも同様の弾圧が繰り返されてきた。G20は、グローバル資本主義を中枢で担う諸国が、その「価値観」や利害を異にしながらも、国内の反政府運動を弾圧するための格好の口実であるという点では利害の一致をみている。G20にとってこうした国内治安弾圧は、副次的な意義しかないのだが、現実政治のなかでは、むしろこの治安弾圧が主要な獲得目標になっているとみてもよいくらいなのだ。

7.3 治安監視の国際ネットワーク:スノーデンファイル

トロントのG20会合について、カナダの公共放送が興味深い記事を配信した。11

https://jp.reuters.com/article/l4n0jd1iv-nsa-tronto-idJPTYE9AR04E20131128

NSAがトロントG20で諜報活動、カナダ政府は黙認=報道 [トロント 28日 ロイター] -カナダの公共放送CBCは27日、2010年にトロントで行われた20カ国・地域(G20)首脳会議の際、米国家安全保障局(NSA)が諜報活動を行うことをカナダ政府が認めていたと伝えた。

これはCBCが、NSAの元契約職員エドワード・スノーデン容疑者が持ち出した機密文書を引用する形で伝えたもの。それによると文書は、オタワの米国大使館が諜報活動の司令部となり、オバマ米大統領など各国首脳が相次いで会談する中、6日間にわたりスパイ活動が行われていたことを示しているという。

ロイターはこの文書を確認しておらず、報道の内容を確認することはできない。

また報道によるとNSAのメモには、この作戦は「カナダのパートナー」と緊密に連携して行われたとする記載があり、カナダ当局が米国の諜報活動を黙認していたと伝えている。

報道は具体的な諜報活動の対象については明らかにしていない。

カナダのハーパー首相の報道官はCBCの報道についてコメントを拒否した。

ここで言及されているスノーデンの暴露した機密文書には、アルカイダなどの国外のテロリズムの他に次のような記述がある。

「情報機関は、課題別の過激派がサミットに登場するとみている。こうした過激派は、これまでのサミットでも破壊行為を行なってきた。同様の破壊的活動がトロントのG20の期間中に集中する可能性がある」12

報道にあるスパイ活動には、G20に反対する運動へのスパイ活動も含まれていることが上の文書からも明かである。治安監視問題は、国内の警察問題ではなく、G20参加諸国の情報機関も関与する問題になっている。同盟国が相互に相手国の情報収集するだけでなく、開催国の国内治安問題いも関心を示す。オルタ/反グローバリゼーション運動が国境を越えるとともに監視のネットワークもまた国際化していることが如実にあらわれている。

8 おわりに:シンボリックな外交儀礼とナショナリズムだとしても、だからこそ…

G20で議長国が、リーダシップを発揮して、何らかの政治的な合意をとりつけることは、容易ではないし、たとえ合意があっても、ほとんど実効性のない空手形の類いに終るであろうことは明白だ。そうであればあるほど、G20の性格は、実質的な政治や外交の交渉の場というよりも、このメガイベントをまさにイベントとして演出することによってもたらされるある種の祝祭効果のようなものが期待されるようになる。

国家が内包する人々の意思は多様であり、支配的な制度の意思やイデオロギーに還元するとはできない。儀礼や祝祭を権力が演出するとき、これらに冷水を浴せるような民衆の怒りや嘲笑は、儀礼や祝祭が隠蔽しようとする空疎な内実を白日のもとに晒すことになる。権力者が恐れるのは、彼等の側には、現在のグローバルな資本主義が抱えている、制度そのものの内在的な矛盾を解決する道筋を見出せていないばかりか、逆に、制度内部で、権力者達がお互いに啀み合い、敵対せざるをえないようなヘゲモニーの交代に直面しているからだ。私達にとって、トランプや安倍を肯定しないからといって、G20のどの国が主導権をとろうとも、歓迎することも「敵の敵は味方」といった安直な王様選びのゲームには加担しない。

外交や国際関係は、コミュニティをベースにした直接民主主義が成り立ちにくい分野だ。なぜなら、利害関係者が国境を越え、国家によって分断されるからだ。多国籍資本の投資であれ、政府による開発援助であれ、あるいは軍事的な介入であれ、当事者の主体となるべき民衆の側は分断されたまま、「首脳」を名乗る者たちが、あたかも主権者の代表であるかのようにして、物事を決めていく。ネットワークがグローバル化したからといって、人々のコミュニケーションが言語の壁を越えるのは容易ではない。そして、こうした越境する連帯を阻害しているのは、G20のような首脳たちであるだけでなく、そもそもの国民国家が国益のために築いている「壁」、現代の関所ともいうべき国境である。もし民主主義を語るのであれば、その最低限の条件は、国境を越えた民主主義でなければならない、ということである。一方の当事者だけで物事を決めるべきではないからだ。とすると、そもそも、国民国家が国別に定めた憲法のような法の支配の体制もまた相対化されざるをえない。G7が傲慢に宣言した共有された自由や民主主義の価値を私達は共有するつもりはない。概念を再定義する力、ことばを取り戻すことを、言語の壁を越え、文化を横断して実現するにはどうしたらいいのだろうか。権力者のいう自由や民主主義にはうんざりだ。デモをする自由も異議申し立ての自由もろくに与えないこの国の主権者たちはその責任を自らとる必要がある。しかし、それが一国の内部に留まるなら、グローバル資本主義には立ち向かえないが、同時に、私達の日常生活は、ほとんどコミュニティや地域を越えることもない。しかし100年後、1000年後を夢見ることはできる。こうした意味での想像力を鍛えることだ。

私達が目指すのは、資本主義衰退であって、繁栄ではない。ひとつの国家が、文明が、没落し滅びることに期待を寄せ、無上の喜びを見出すためには、どのような夢を見たらいいのだろうか。

9 (補遺)簡単な年表

2009年 ティーパーティ運動始まる
2010〜15 ギリシア危機。15年、チプラス政権誕生
2010〜12年 アラブの春。この民衆運動はほとんど全てのアラブ中東諸国に波及
2011年〜12年 オキュパイ運動
2011年 シリア反政府運動から内戦へ
2011年 リビア内戦
2013〜14年 ウクライナ、ユードマイダンの反政府運動
2014年 イスラム国宣言
2014年 クリミア独立宣言
2014年 スコットランド独立投票(否決)
2014年 米国と有志連合、シリア空爆開始
2014年 スペイン、カタルーニャ独立投票
2014年 香港雨傘運動
2014年 台湾ひまわり運動(国会など占拠)
2015年〜 ヨーロッパへの難民の急増(世界の難民は2100万人:UHCR)
2016年 英国、EU離脱国民投票(可決)
2017年 トランプ政権成立
2019年 ブラジル、ボルソナーロ極右政権誕生

歴史は繰り返さないが、こうした歴史の教訓を念頭に置くことは、極右の台頭とグローバル資本主義の揺らぎに時代にあって、決して無意味なこととはいえないだろう。

Footnotes:

1 公共サービスとしての教育や社会保障、社会福祉のイデオロギー上の目的は、人間としての最低限の文化的な生活の保障といった憲法上の要請によるものとされている。しかし、資本主義システムの構造的な機能との関係でいえば、資本による賃金コスト抑制のために政府がそのコストを肩代わりすること、賃金はあくまで〈労働力〉の価格でしかなく、人々が生涯にわたって生存できるだけの所得とは関わりがない。貧困は、資本による直接的な搾取の他に、生存を保障できない労働市場の構造にもその原因があり、資本主義経済のこの矛盾を政治的に(財政によって)解決することによって、階級闘争を抑制し、生存を国家に依存する従属の構造(ここには、心理的な従属を含む)を生み出す。資本主義国家における社会保障や社会福祉は労働者階級あるいは民衆が資本と国家から自立した生存の構造を自律的に生み出すような運動を抑制して、生存を国家に統合するという性質をもつ。社会保障、福祉はこの意味で、手放しで肯定できるものではない。

2 インターネットのガバナンス組織は、ICANNである。米国に本社を置く非営利民企業。インターネットの技術仕様や資源(IPアドレス)などや、ルートサーバの管理などの中心的な課題がICANNの理事会で決定される。

3 外務省ウェッブ https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/ko_2000/faq/index.html

4 欧米近代の相対的な後退のなかで登場てしきた「極右」と呼ばれる様々な反近代=伝統主義の運動は、今回が始めてのことではない。20世紀初頭、第一次世界大戦による惨劇は、「西洋の没落」(シュペングラー)の最初の出来事だった。西欧近代の諸国は、価値観を共有しながらも、総力戦によってお互いに膨大な数の殺し合いを繰り広げた。その後、この戦争を帝国主義として再定義し、西欧近代を支えた資本主義を否定する社会主義運動が大衆的な高揚のなかで受容されるなかで、資本主義近代でもなく社会主義・共産主義でもない第三の道が伝統主義として呼び出された時代でもあった。同時に、ロシア革命からイタリア、ドイツへと拡がった革命のなかから、ファシズムが登場する。ファシズムは、高度な科学技術と生産力と近代以前に遡る民族主義や伝統主義によって、国家の正統性を再定義しようとする運動でもあった。ここで鍵を握ったのは、労働者、農民を、その家族とともに、国家に統合するためのイデオロギーの創造だった。

5 近代資本主義体制は、経済的価値増殖を自己目的とする資本、権力あるいは政治的な「価値増殖」を自己目的とする国家という二つの側面をもつ。経済的政治的な「価値増殖」に帰結する構造はひとつではない。しかし、この構造にとって、資本にとっては〈労働力〉が、国家にとっては国民が、社会的な人間のアイデンティティの核をなすものとして要求される。しかし、この二つの構造にとって必須でありながら、そのいずれのメカニズムにも完全に包摂していていないもうひとつのサブシステムがある。それが、親族組織(あるいは家族)である。家族は、〈労働力〉再生産の基礎をなす。国民として、また〈労働力〉として訓育するための国家の組織、教育制度は、家族による子どもの養育を前提とした組織である。失業者、高齢者などの非〈労働力〉人口を生活の基盤として支えるのは家族(単身の場合も含む)である。家族は、資本や国家に超越した普遍的な親族組織なのではない。むしろ逆である。〈労働力〉市場と国家の人口政策が家族の構造を規定する。資本主義は、体制として世代の再生産を資本と国家の組織内部で自己完結的に実現できない。家族はこの意味で必須の前提になる。資本主義が中心的に要請する世代の再生産の役割が家族に振り分けられる結果として、家族イデオロギーもまた世代の再生産を中心に構築される。世代の再生産と関わらない家族は周辺化され差別化される。

6 GDPは問題の多い指標である。しかも一国単位のデータは国内の格差を明示しないという問題もある。しかし、長期的な傾向がどのようであるのかを概観することがここでの目的である。

7 この図は電力各社のウエッブにも掲載されている。原発を正当化するためのデータとして用いられるようだが、むしろ注目すべきなのは、工業化がいかにイエネルギー過剰消費の構造をもっているか、である。 https://www.eneichi.com/useful/2192/

8 イスラム教徒が少数のミャンマーでは仏教徒が多数者として加害者になる。イスラム教徒が多数のパキスタンとヒンズー教徒が多数のインドとでは、同じ宗教に属する人達の加害と被害の構図は異るが、マイノリティへの抑圧という構造は共通する。言うまでもなく、日本の多数とは天皇信仰を持つ者たちである。民主主義は多数決原理に還元できないといわれながら、現実の政策や法制度は多数決原理による民主主義によって正当化されることを考えると、民衆内部の多数と少数の複雑な構図がもたらす問題は無視できない。

9 人口の質的コントロールとは、イデオロギー装置による「国民」としての形成を指す。「国民」という枠組を人口のカテゴリーとして構築するということは、国境内部の人口の周辺に国民とは定義されない人口を抱えていることを意味している。

10 ここでの時系列の出来事は、以下による。Tom Malleson and David Wachsmuth eds., Whose Streets?, Between the Line, Toronto,2011.

11 下記も参照。 http://metronews.ca/news/canada/868200/u-s-spied-on-g20-summit-in-toronto-and-canada-knew-about-it-cbc/

12 TOP SECRET // SI / TK // REL TO USA AUS CAN GBR NZL https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3965/snowden/snowden6.pdf

国連人間開発報告書。19世紀以来貧富の格差は拡大しつづけた。新自由主義だけが貧富の差を拡大させたわけではない。
19世紀から20世紀にかけてのCO2排出量は異常な増加を示している

Date: 2019-05-16 22:12:00 JST

Author: 小倉利丸 (ogr@nsknet.or.jp)

Org version 7.6 with Emacs version 25

出典:https://www.alt-movements.org/no-g20/blog/index.php/g20hihan/

6.8集会とデモ:ビッグデータがもたらす監視社会、G20デジタル経済・貿易会合への批判

G20サミットを持続させるな!

G20サミットを持続させるな!

集会やります

日 時 2019年5月17日(金)18:30~
場 所 文京シビックホール 会議室1(3階)    
資料代 500円


G20(金融・世界経済に関する首脳会合)が大阪で6月28、29日に開催されます。アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、カナダ、中国、フランス、ドイツ、インド、インドネシア、イタリア、日本、メキシコ、韓国、南アフリカ共和国、ロシア、サウジアラビア、トルコ、英国、米国、欧州連合(EU)が参加する会議で、G7以上に注目されています。首都圏では、つくばで6月8、9日に貿易・デジタル経済大臣会合が開催されます。新自由主義グローバリゼーションによって金融危機、貧困、気候変動と環境破壊、戦争などを世界中にばらまいてきたG20の国々の多くでは、日米を含め極右が政治の中枢に入りこむようになっています。


発言者

藤田康元(戦時下の現在を考える講座、つくば市在住)
デジタル技術神話を解体する

内田聖子(NPO法人アジア太平洋資料センター(PARC)共同代表)
自由貿易にNOを突きつける国際市民社会の運動

稲垣豊(ATTAC首都圏)
「造反無理、革命有罪」のデジタル毛沢東の矛盾論と実践論

☆司会および問題提起:小倉利丸(盗聴法に反対する市民連絡会)
G20やってはいけない5つの理由

つくばでは、自由貿易の問題に加えて、米中の緊張関係の一つともなっているデジタル技術や知的財産をめぐる貿易が議論され、新自由主義+監視資本主義という流れが作り出され、知識も情報もコミュニケーションを売り物にしたり、政府や企業の所有にするような動きがあります。また福岡では世界中に金融危機と債務をばらまいた金融機関の政府代表であるG20財務大臣・中央銀行会合が開催されます。危機の根本解決は先送りされ、金融資本主義の後押しをする議論がされます。

つくばや福岡、そして大阪など全国各地で開催される関連大臣会合やグローバルな運動の現場でNOの声をあげる人々とも連携して、抗議の声を上げたいと思います。

主催:戦時下の現在を考える講座、ATTAC Japan(首都圏)、盗聴法に反対する市民連絡会

賛同団体:JCA-NET、日刊ベリタ、聖コロンバン会

連絡先
070-5553-5495(小倉)
no-g20@protonmail.com
https://www.alt-movements.org/no-g20/blog

G20大阪NO! アクション・ウィーク(6月28−29日、大阪)お知らせと賛同のお願い


G20大阪NO! アクション・ウィーク実行委員会

代表(五十音順)

斉藤日出治(大阪労働学校アソシエ学長、大阪産業大名誉教授)

高里鈴与(基地・軍隊を許さない行動する女たちの会)

服部良一(元衆議院議員)

 

6月28−29日に大阪・インテックス大阪でG20サミットが開催されます。日本で初めて開催される2019年G20サミットにあたって、私たちは世界の人々と連帯して、私たちの未来を構想し、実現に向かって着実な一歩を踏み出すための取り組みを呼びかけます。

 

当実行委員会では、以下の行動を計画しています。

5月11日(土)プレ企画☆小倉利丸さん講演会

□講演:「G20の混迷と私たちの未来」

小倉利丸さん(批評家、ブログ「no more capitalism」を主宰、著書に『絶望のユートピア』など)

□海外からのビデオメッセージほか

午後6時半からエルおおさか南館5階ホール

地下鉄谷町線/京阪・天満橋下車・土佐堀通り沿いに西へ300m(松屋町筋との交差点の手前)

参加費500円

5月26日(日) (トランプ来日。トランプ・安倍会談) なんばで街頭宣伝、午後11時半から1時間ほど

6月23日(日)午後1時 新町北公園、3時ごろからデモ

6月28日(金)集会・デモ(時間・場所未定)

 

詳しくは↓をご覧ください(随時更新しています)

ブログ:https://nog20osaka.socialforum.jp/

Facebookイベントページ:https://www.facebook.com/events/646009015850782/

 

実行委員会への参加・賛同をよびかけます

 

*第4回実行委員会 5月23日(木) 午後6時半 エルおおさか南館71(定員30人)

*第5回実行委員会 6月10日 (月)午後6時半 エルおおさか701(定員54人)

1部:ミニ学習・討論会

626-27日に市民フォーラムを開催するNGOとの交流・討論。ゲスト講師として武田かおりさん(AMネット)に市民フォーラムの取り組みや海外ゲストの顔ぶれなどについて報告していただきます。

海外からのビデオメッセージも紹介します。

2部:6・23と28の直前打ち合わせ

 

実行委員会に賛同していただける方は賛同金として個人11000円、団体13000円を下記にお振込みください。

*振替口座 00930-4-196796 G20大阪サミット・アクション・ウィーク」

*実行委員会連絡先:市民共同オフィスSORA 06-7777-4935(月~土 午後2-5時)

 

4/27~5/1 終わりにしよう天皇制!反天WEEK!

気候変動に抗議する非暴力直接行動、Extinction Rebellion

昨年から、英国を中心にして起きている気候変動に抗議する非暴力直接行動、Extinction Rebellionが4月15日から集中行動を呼びかけ、公共交通を遮断する行動をおこなっている。

これまでに、300人以上が逮捕されている。私のアンテナになぜかひっかかってこなかったのだけれども、日本語の情報がなかなかみつからない。気候変動に関心のある日本の運動体がどのくらいこの運動を報じているのか。

国際的な運動も呼びかけられており、オーストラリアでも地方議会占拠。
https://wattsupwiththat.com/2019/04/16/extinction-rebellion-occupies-south-australian-parliament-demands-more-climate-action/
米国のサイト
https://extinctionrebellion.us/rebellion-week

こうした運動が昨年からあったことを知っていたら、フランスのイエローベスト運動との関連も含めて、運動の目標や運動のスタイルなども含めて、もっと幅広い議論ができたかもしれない。いずれにせよ、日本は、こうした運動のサイクルから脱線している。

本日のDemocrary Nowの報道。背景も含め、当事者へのインタビューもあり、わかりやすい。

https://www.democracynow.org/shows/2019/4/17

昨年までの行動(ガーディアン)Life inside Extinction Rebellion: ‘We can’t get arrested quick enough’

https://www.youtube.com/watch?v=jAH3IQwHKag

気候変動運動全体にいえることですが、原発への言及はたぶんないかほとんど目立たなと思います。extinction rebellionのサイトで検索してもヒットしない。原発への観点を気候変動の運動に提起するのは反原発運動にとって重要な課題と思います。

返上以外の選択肢はない!2020東京オリンピック誘致の違法性をなぜ問わない?

2019年3月19日に開催されたJOC理事会で、竹田恒和の6月の任期終了によって退任することを決めた。フランスの捜査当局が贈賄容疑で捜査していることに対して、竹田は、自身の潔白を1月の記者会見でも主張したが、辞めざるをえないところに追いこまれた。

東京新聞は3月20日の社説で次のように述べた。

「当時の東京五輪・パラリンピックの招致委員会は、約百四十九億円もの費用をかけながらリオデジャネイロに敗れた。そのため二〇年大会の招致では、大手広告代理店が推薦したシンガポールのコンサルタント会社に二億円超を支払って万全を期したが、その一部が票の買収に使われたことが明るみに出た。

贈賄疑惑を追及する仏司法当局が、招致委の理事長を務めていた竹田氏に捜査の目を向けるのは当然といえる。一方の竹田氏はコンサルタント会社に支払ったのは「正当な対価によるもの」としている。ただ、その金がどのように使われるかを知らなかったとしても、会社の素性や背後にいる人物を慎重に調査するべきだった。一六年大会の招致に失敗した焦りがあったのかもしれない。」

オリンピック招致でリオに敗北した総括として、買収作戦を展開したわけだが、これがフランスでは贈賄に当たるとして捜査の対象になる一方で、日本国内では、日本の国内法には違反していないから捜査できないし、問題もないといった主張が目立つ。上に引用した東京新聞の社説も歯切れが悪い。社説では「五輪開催の理念が乏しいまま招致にかじを切った関係者、関係団体すべてが反省するべきことだ」と批判するが、そもそも金で買ったオリンピックなど返上すべきだ、というふうには言えていない。

NHKは全く問題点には言及せず竹田がこれまでオリンピックにどのように寄与してきた人物なのかを紹介するなど、推定無罪の原則を非常に忠実に守る報道に徹している。(もちろん皮肉だが)

日本のメディアの報道では、竹田会長の辞任を残念と感想をもらす。政治家たちも一様に、静観するかノーコメントだ。野党も「フランスで行われている捜査との関係が分からないのでコメントのしようがない」(立民 福山幹事長)、「事情が分からないので、軽々に言えないが、疑念を持たれる対応をとること自体が問題だという思いはする。」(社民 又市党首)といったどこか他人ごとで、自ら真相究明を国会などの場で行う姿勢は皆無だ。オリンピックを敵に回すことは有権者を失うこと、という票の思惑がみてとれる。

事の発端は、2016年5月に英国のガーディアン紙が「東京オリンピック:2020大会に向け130万ユーロを秘密口座に送金」 と題した記事だった。国際陸上競技連盟(IAAF)のラミン・ディアク前会長の息子の関係口座にアフリカの票を買収する目的で金が流れたとみられる。

ガーディアン紙によれば、日本の贈賄疑惑は、世界反ドーピング機関(WADA)の独立委員会が2016年に提出した腐敗関連報告書の記述にあると指摘されていた。この報告書の第二巻の注に次のような記述がある。

「トルコの個人とKDとの間の様々な議論の記録(トランスクリプト)は2020年夏のオリンピックの開催年をめぐる誘致競争に関する議論に言及している。この記録では、トルコはDiamond LeagueかIAAFに200万ドルから500万ドルのスポンサーシップの金を払わなかったのでLDの支持が得られなかった。この記録によると、日本はこの金額を支払った。2020年のオリンピックは東京が招致に成功した。独立委員会はこの問題については、管轄外なので更なる調査をしなかった」(34ページ)

非常に欺瞞的なのは、この報告書に対する2016年12月12日の日本ドーピング委員会(JADA)の見解である。この見解のなかで次のように述べている。

「同報告書において指摘された競技大会、競技種目に関係する組織においては、クリーンなアスリートの擁護と競技大会の健全性の担保のために、速やかに適性な処置を講じることを強く要請します。

当機構は、Institute of National Anti-Doping Organizations (iNADO)との連携により、ロシアのアンチ・ドーピング体制の健全化支援を推進するとともに、2019年ラグビーワールドカップ、2020年オリンピック・パラリンピック競技大会のホスト国のアンチ・ドーピング機関として、競技大会の健全性を担保するために、国内外の関係組織と連携を密に図り、徹底した対策を講じていく所存です。」(オリジナルはリンク切れ。ここで読める。)

JADAは上述した日本の誘致疑惑については一切無視し一言の言及も弁解もしていない。

BBCの報道では、ディアク前会長はすでにロシアのドーピング疑惑に関連して収賄や資金洗浄でフランス当局に2015年に逮捕され、息子のパパ・マサタ・ディアク容疑者もインターポール(国際刑事警察機構)が指名手配していた。(以上上BBC日本語ウエッブ版) そして日本側がコナルタントとして契約したとされるブラックタイディング社はこうした疑惑の中心人物たちと近しい関係にあったことが知られている。ドーピン関連の問題も含めて、こうした一連の経緯のなかで、フランス捜査当局は2016年と2020年両方のオリンピック招致決定経緯についての汚職捜査を行った。

JOCは2016年にいわゆる第三者委員会を設置して、この疑惑についての検証を行い、報告書を出した。 この報告書では一切の疑惑を否定している。つまり、ブラックタイディング社との契約は賄賂のための架空の契約ではないし、この会社もペーパーカンパニーではない。「関係者の供述に加え、その成果等に照らしても、本件契約が架空の契約であったとか、およそ実態のない契約であったと認めるに足る証拠はない」とし、また、日本の刑事法に照らしても贈賄罪は「日本の刑法上、民間人に対して成立する余地がない」し、背任についても構成要件を満たしていないとし、「日本法上、民事上・刑事上のいずれも違法と解される余地はなく、適法であることは論を俟たない」(36ページ)と全面的に「白」の判断を下した。しかしディアクら渦中の人物にも会っておらず、フランスの捜査当局の動向は無視した。

日本国内でも、専門家たちによるこの第三者委員会の報告書への評価は低く、「第三者委員会報告書格付け委員会」は、この報告書の格付けは評価委員8名中2名が不合格にあたる最低ランクのF、残る6名が最下位のD評価としている。

●実は国内法に抵触している

その後の報道でも、JOCの第三者委員会の国内法適法を鵜呑みにして報道してきた。しかし、実は、国内法に抵触しているのだ。それは不正競争防止法である。その18条1項に興味深いことが書かれている。

「何人も、外国公務員等に対し、国際的な商取引に関して営業上の不正の利益を得るために、その外国公務員等に、その職務に関する行為をさせ若しくはさせないこと、又はその地位を利用して他の外国公務員等にその職務に関する行為をさせ若しくはさせないようにあっせんをさせることを目的として、金銭その他の利益を供与し、又はその申込み若しくは約束をしてはならない。」

「外国公務員等」とあるように、この規定は外国公務員に限定されていない。言うまでもなく、疑惑が本当なら、オリンピック誘致で「国際的な商取引に関して営業上の不正の利益を得る」ことを目的にして、金を送ったという理屈は成り立つように思う。

また、竹田は公務員ではないが、オリンピック組織委員会の委員はみなし公務員とみなされて贈収賄罪の対象になる。(Wikiペディアの「みなし公務員」の例示に、オリンピック組織委員会が含まれている)そして、金の渡った先は、コンサルタント会社を介して当時のIOC委員だとされているから、みなし公務員、あるいは下で説明するように「外国公務員」といえる。

経産省は不正競争防止法について次のように説明している。

「不正競争防止法では、OECD(経済協力開発機構)の「国際商取引における外国公務員に対する贈賄の防止に関する条約」を国内的に実施するため、外国公務員贈賄に係る罰則を定めています。」

そして、この「外国公務員贈賄に係る罰則」を次のように説明している。

「国際商取引において自分らの利益を得たり、維持するために、外国公務員に対して直接または第三者を通して、金銭等を渡したり申し出たりすると、犯罪となります」

これは国際商取引における外国公務員に対する贈賄の防止に関する条約第一条を説明したものといえる。条約の条文そのものは以下のようになっている。

「第一条 外国公務員に対する贈賄

1 締約国は、ある者が故意に、国際商取引において商取引又は他の不当な利益を取得し又は維持するために、外国公務員に対し、当該外国公務員が公務の遂行に関して行動し又は行動を差し控えることを目的として、当該外国公務員又は第三者のために金銭上又はその他の不当な利益を直接に又は仲介者を通じて申し出、約束し又は供与することを、自国の法令の下で犯罪とするために必要な措置をとる。

2 締約国は、外国公務員に対する贈賄行為の共犯(教唆、ほう助又は承認を含む。)を犯罪とするために必要な措置をとる。外国公務員に対する贈賄の未遂及び共謀については、自国の公務員に対する贈賄の未遂及び共謀と同一の程度まで、犯罪とする。

3 1及び2に定める犯罪を、以下「外国公務員に対する贈賄」という。

4 この条約の適用上、

a 「外国公務員」とは、外国の立法、行政又は司法に属する職にある者(任命されたか選出されたかを問わない。)、外国のために公的な任務を遂行する者(当該外国の公的機関又は公的な企業のために任務を遂行する者を含む。)及び公的国際機関の職員又はその事務受託者をいう。

b 「外国」には、国から地方までのすべての段階又は区分の政府を含む。

c 「外国公務員が公務の遂行に関して行動し又は行動を差し控える」というときは、当該外国公務員に認められた権限の範囲内であるかないかを問わず、その地位を利用することを含む。」

この条約では「外国公務員」を以下のように定義している。

「「外国公務員」とは、外国の立法、行政又は司法に属する職にある者(任命されたか選出されたかを問わない。)、外国のために公的な任務を遂行する者(当該外国の公的機関又は公的な企業のために任務を遂行する者を含む。)及び公的国際機関の職員又はその事務受託者をいう。」

あきらかにオリンピック組織委員会の委員はこの外国公務員に該当する。

今回の場合は、「第三者を通して」ということになるわけだが、疑惑が事実とすれば、明かに日本が締結した条約と、この条約を踏まえた日本の国内法に抵触するのだ。

更に興味深いのは、この条約には共犯の犯罪化も明記されていることだ。上に引用した条約第一条第二項にあるように、「外国公務員に対する贈賄行為の共犯(教唆、ほう助又は承認を含む。)を犯罪とするために必要な措置をとる。」こと、更に「未遂及び共謀については、自国の公務員に対する贈賄の未遂及び共謀と同一の程度まで、犯罪とする」となっている。とすれば、問題は竹田にとどまることにはならないだろう。JOC、東京都、電通など関連するすべての組織がこの共犯規定に抵触する疑いがあるとはいるはずだ。

更に条約では「締約国は、自国の法的原則に従って、外国公務員に対する贈賄について法人の責任を確立するために必要な措置をとる。 」ともあり、上記の不正競争防止法の条文の「何人も」には法人が含まれると解される。法人の責任ということになると、JOCや誘致した自治体など広範囲の団体の責任が問われることになる。

2020オリンピック招致でなりふり構わぬ招致競争を繰り広げてきた当時を思い浮かべれば、贈賄とみなしうるような対応をとった可能性を否定できない。だからこそ、というべきかもしれないが、この問題を、森友や加計問題のように追及されると、その広がりは権力の中枢に及ぶ危険性がありうるという危機感が権力者たちの側にあってもおかしくない。メディアも野党の政治家もオリンピックそのものと誘致過程での不正を切り離し、更に、誘致の不正は日本の国内法には抵触しないという理屈で、その真相追及には及び腰になる、という不正隠蔽のスパイラルが働いているようにみえる。竹田の退任は、国と東京都、JOCそして電通などが共謀した権力犯罪全体が明るみに出ないような予防措置だと判断できる。

外国の関係者にリベートを渡して不正競争防止法違反に問われたケースはいくつかある。ベトナムなどへのODAで、日本の民間会社社長や法人そのものが外国公務員への贈賄で起訴されたケースは注目された。(「現地関係者が繰り返し賄賂要求 ODA汚職初公判、被告ら起訴内容認める」) この事件を受けてJICAは不正腐敗防止強化を打ち出したりした。

オリンピックにはナショナリズムの特別な感情が絡みつき、スポーツそのものを神聖視する価値観もあって、誘致の過程での不正、開発最優先で住民を追い出す、人権を無視した監視や治安政策を推進するなどといった政府、自治体の対応が、ことごとく甘く見逃されてきた。この見逃しの構図に、電通などの巨大な情報資本がメディア支配の力を発揮して報道を抑えていると思われる。ましてや誘致に必要な票を買うくらいのことは、そうでもしなければ誘致できないのであれば、仕方がない、あるいは、そうした金でしか動かない国がある(といった事実上のレイシズムを逆用した居直り)などという大衆感覚が巧みに煽られてもいるように感じる。

誘致の犯罪にきちんとしたケジメをつける唯一の方法はオリンピックの返上である。オリンピックを名目とした権力犯罪が野放しである構図は、野宿者排除、監視社会化、テロ対策名目の治安強化、日の丸・君が代の強制など日常生活のあらゆる面を覆っている。これらせすべてに日本の大企業とメディアが加担する構図ができあがっている。誘致をめぐる犯罪もまたこうした隠蔽の構図と日本の大衆意識のなかにある「オリンピックのためなら仕方がない」「あるいは金を積んででも誘致しろ」といった暗黙の共犯者意識があり、これが権力の腐敗を下から支えている。

ニュージーランドの白人至上主義者によるテロリズムについて

今回の事件は、その被害者の規模からみても、ニュージーランドという場所からいっても、かなり深刻だな事態だと思います。

犯人たちは、犯行前にかなり詳細なマニュフェストを公開しています。
Observer紙が全文をネットで公開しています。
https://observer.news/featured/the-manifesto-of-brenton-tarrant-a-right-wing-terrorist-on-a-crusade/

詳細に読んだわけではありませんが、極右の若者が何を考えているのかを知る上でいくつか気になることが書いてありました。

・白人労働者階級の貧困層出身で学歴も高卒と述べている。
・政治経験について、最初はコミュニストに、次にアナキスト、そしてリバタタリアンになり最後にエスノナショナリストになったという。
・「グリーンナショナリズムが唯一のナショナリズム」である。
・必ずしもクリスチャンではない
・文化の多様性を否定しない。むしろ白人文化がイスラムによって侵略されており、このことが多様性を否定することになっている。
・それぞれの文化、民族はそれぞれの生れた場所で生きるべきだ。
・人間は平等(相互に均質な人間)ではありえない。なぜな、みな相互に異る存在だから。多様性は平等とは相容れない。
・現在とは私たちの祖先の人々からの贈り物である。
・客観的な事実よりも感情が優る。
・ヨーロッパをヨーロッパ人に返せ。
・運動がすでに世界で起きている。ポーランド、オーストリア、フランス、アルゼンチン、オーストラリア、ベネズエラ、カナダで。
・イスラム教徒、移民の出生率の高さは、いずれ白人を少数民族にしてしまう。
・民主主義も世界的な大企業もEU、NATO、国連も宗教指導者もみな自分たちの敵である。
・グローバル化した資本主義市場は人種主義的なオートノミスト(人種を基盤としたコミュニティの自治)の敵である。
・移民労働力が低賃金をまねく。労働者は団結し、出生率を上げて移民を削減すること、労働者の権利を確立して、自動化を進めれば安価な移民労働力は不要になる。

こうした主張は、先住民の「先住」者としての優越性を完全に無視して、あかたもニュージーランドがそもそも白人の国であるかのようにみなしているという間違いがありますが、これはほぼどこの国の白人至上主義者も犯している意図的な誤ちです。上の主張は、最近の欧米の極右に共通したイデオロギーで、その意味では新しいものはありませんが、日本の古典的な右翼の主張とはいくつかの点で違いもあります。

しかし、極右の思想のいくつかは、左翼が掲げてきたスローガンを巧みに転用したものでもあります。新自由主義グローバリゼーションがもたらした貧困や格差、環境破壊の解決を、「エスノナショナリズム」「エコファシズム」に求めようというのです。多様性を一人一人の差異として認める以上平等はありえない、という発想は、右翼のポストモダニズムが強調する反平等主義の基本です。この意味で、彼等は、同性愛を肯定してもいます。イスラムも自国に移民として来ないのであれば肯定します。

こうした彼等の主張のなかで、極右というよりも戦後の保守政治が一貫してとってきた「日本人中心主義」が、まさに極右の思想そのものだ、ということに気づく必要があります。つまり、日本の普通の保守や、あるいは革新のなかにもある「日本人」言説が実はレイスズムの根源をなしている、ということに気づく必要があるということです。

とりわけ、移民や移住労働者問題では、たぶん、左翼の間でも否定的な意見が多くあると思います。日本で働きたい人達の働く意思、働く自由よりも、外国人への差別や人権保障がないことを理由にして否定し、もともと日本に暮してきた(たまたま日本に生まれた)者たちを優先させる発想を、結果として肯定してしまいがちです。こういうと「あなたは安倍政権の外国人労働者受け入れ拡大を肯定するのか」と問われます。私が言いたいのは、国境を越えて働いたり住む自由があって当然だ、ということです。安倍がどうあれ、彼等の日本で働くこと、暮すことを選択する自由を私たちは否定すべきではない、と思うのです。誰も生れる場所も「民族」(そんなものがあるかどうか)も言語も選ぶことはできないのです。だからこそ、移動の自由を国境で阻んだり、<労働力>としての都合でその自由をコントロールするような国策とは別に、人間の本源的な自由の権利としての移動の自由が大切だと思います。海外で働こうとする友人や知人に対して、成功を祈って送り出すことは当たり前なのに、なぜ、日本で働こうとする外国の人々を歓迎できないのでしょうか。この非対照的な感情を、冷静に反省することが必要な時だと思います。

極右と左翼がいくつかの論点で、スローガンの上では重複することがあります。多国籍企業批判、新自由主義批判、エコロジーの重視、コミュニティの重視、形式民主主義批判、資本の搾取などなど。だから、安易にネオリベラリズム反対とか多国籍企業反対、環境破壊反対といったスローガンだけで運動を判断することはできない時代になったと考えるべきでしょう。しかし、極右と私(たち)の決定的な違いは、ナショナリズムあるいは人種主義とジェンダー、あるいは文化的な伝統主義への態度だろうと思います。これらの課題で、極右との差異を明確にできるかどうかが鍵だと思う。天皇制もそのひとつです。象徴天皇制を肯定する左翼あるいはリベラルが最近目につきますが、こうした人達は、いずれ、ナショナルなソーシャリズムを掲げていくのではないかと思います。ナショナルな要因を根底から批判的に問うことができないかぎりソーシャリズムは躓くと思います。

牙をむくナショナリズム

1 はじめに

たぶん、今私たちは、〈運動〉の文脈のなかで分かり切ったこととして用いているいくつかの基本的な概念を、あえて再定義しなおさなければならないところにきていると思う。こうした再定義が必要なの概念のなかで、ここでは特に、平和、戦争、憲法、政治、宗教という概念を天皇制の問題との関係で述べてみたい。

誤解を畏れずに、問題をやや単純化して提起すると次のようになる。

  • 平和。現代の日本をはじめとして欧米諸国は、平和な状態にはなく、おしなべて戦時期にある。平和な時代、あるいは平和な社会に私たちは暮していない。
  • 戦争。戦争は「実感」するものではなく、認識に努力が必要な複雑な事態である。ディズニーランドで遊ぶことと戦争は両立する。自らの手を汚すことなく多くの人を死に追いやることが戦争の現実の姿だ。
  • 政治。女性解放運動がスローガンとして掲げたように「個人的(私的)なことは政治的である」ものとして政治を理解しなければならない。政治は国会や内閣、裁判所にだけあるのではない。とりわけ文化は政治そのものである。
  • 宗教。教義や経典を意味するだけではなく、習俗や伝統の内部に浸透する聖なるものの不合理でフィクショナルな世界観が宗教にはある。日本では、天皇と神道は不合理な世界観の体現者であり、こうした存在の「聖性」を肯定する大半の日本人は、本人の自覚とは別に、客観的に観察すれば、神道の信者である。
  • 憲法。現代の権力者は憲法に対する抗体を持っているために、憲法によって抑制することはできない。普遍的な理念を掲げることは、現実の世界がどのようであれ、これを正当化する手段として利用され、戦争とナショナリズムを正当化する。憲法を唯一の最高の統治の規範であると前提すべきではない。

他者向けられた銃口には気づきにくい。武装したガードマンや監視カメラで守られた高い塀によって保たれている「平穏」な生活から戦争を実感することは難しい。為政者が「平和」を強調する時代は、たぶん戦時である可能性が高い。平和を偽装して戦争を隠蔽し、人々の支持を獲得しようとするのは権力者の常である。1

2 世界を席巻する極右

今年は、統一地方選挙や参議院選挙で、〈運動〉が内向きになりやすい時期でもある。有権者となりえない人々の問題は脇に追いやられ、とりわけ、少数者の権利や抱える問題が多数の有権者の利益に反する場合、多数の利益が最優先にされやすくなる。外交・安全保障など「敵」が外国の場合、有権者がナショナリズムの心情で同調しやすくもなる。多数が同意しづらい課題は優先順位が下げられるか除外され、選挙政治の争点は、排外主義やナショナリズム、社会的排除を正当化するためのメカニズムとして働きやすい。天皇制の問題とこれと密接に関わる歴史認識や戦争責任問題、移民・難民の受け入れ、伝統的な家族制度から逸脱する性的マイノリティの権利問題などは、選挙の争点にならないか、問題化されるときにはナショナリズムを鼓舞する偏見と排外主義、レイシズムの宣伝の場と化す危険性がある。

選挙が右翼レイシストによって利用される流れが世界規模で起きている。過激な暴力やテロだけでなく、穏健で合法的な手段をとって権力の中枢を狙うことができるまでに「極右」は「主流化」してきた。欧米諸国で、「極右」の台頭に影響されていない国はまずない。ほとんどの国では、国政レベルでも地方政府レベルでも極右の台頭が著しい。たとえば、

  • スペインのアンダルシアではフランコ独裁時代からの流れをくむVOXが議会で初めて議席を獲得2
  • イタリアは極右の「同盟」が連立政権の一翼を担う。もう一方の政権の担い手が、ポピュリスト政党とされる「五つ星運動」3
  • ギリシアでは黄金の夜明けが2012年から国会に議席をもち、現在第三党。
  • 欧州議会。欧州議会選挙で、イタリアの「同盟」、フランスの国民連合がそれぞれの国でトップの議席を獲得する見込み。また、オランダ、スウェーデン、スペインでも大幅躍進の予想。4
  • ポーランドでは、独立100周年の記念行進に極右の参加を政府が認める。5
  • 移民排斥を掲げるスウェーデン民主党は2018年秋の選挙で43議席から69議席に躍進。国会の第三党。6
  • ハンガリー、クロアチア、スロベニアなどでシリアなどからの難民排除の動きが活発化。ハンガリーの極右、ヨビックは現在議会第二党。2018年、スロベニアでは反移民を掲げる民主党(中道右派とされる)が第一党に。
  • 英国ではEU離脱の国民投票をUKIPなどが主導。離脱の争点が移民受け入れの是非となる。
  • オーストリアなど各国で、ムスリムの女性が着るベールの着用を禁止する立法が広がる。
  • 米国 ティーパーティ運動からSNSを使った人種差別主義の拡大が著しい。2018年には人種差別団体が過去最大数になる。オバマ政権下で減少傾向だったのがトランプ政権下で一貫して上昇し、2018年には1020団体になり過去最高に。7

そして、欧米中枢地域の外部でも、非寛容的で権威主義的、あるいは独裁的な政権を選択する「大国」があとをたたない。たとえば、独裁的といっていい権力基盤を持つ、ロシアのプーチン政権(その周辺には「ユーラシア主義」を掲げる極右の勢力がいる)、トルコのエルドアン政権(クルドやムスリムの反対派を弾圧し続けてきた)、インドのモディ政権(ヒンドゥー原理主義政党)、ブラジルの大統領選挙で当選したボルソナーロは反共主義者でかつての軍事独裁政権の支持者でもある。中国の習近平政権は少数民族、労働運動への厳しい弾圧を続ける。G20の過半数は極右の政治勢力の影響を無視した政策をとることが難しくなっているだろう。

中東欧、かつての社会主義圏においても極右の台頭は著しい。荻野晃は以下のように伸べている。

ソ連・東欧諸国における社会主義経済の崩壊に伴うグローバリゼーショ ンは, 情報通信技術の発達と相俟って, カネ, モノ, ヒト, サービスの国 境を超えた移動の自由を加速させた。グローバリゼーションの進行は国際 社会の中で価値観の多様化を促し, 国民国家の地位の相対的な低下をもた らした。しかし, 同時に, アンチ・グローバリズムの動きが世界各地で表 面化してきた。とくに, ヨーロッパでは, ヨーロッパ連合 (EU) の統合 に反発して国民国家の存在を重視する極右政党が支持を拡大させた。 西欧諸国における極右勢力の台頭には, EU の経済統合の深化による労 働力の自由な移動がもたらした移民の増加と文化的な多様性への反発が背 景にあった。他方, 2004年以降に EU 加盟を果たした中・東欧諸国では, 体制移行期以来の急激な社会変動に加えて, EU への幻滅と不信感が国民 国家における伝統的な価値観の再評価とその過剰な形態としての極右勢力 の台頭をもたらした。8

こうした動きは何を意味しているのだろうか。

かつて20世紀の社会運動が社会主義の価値観をもって資本主義批判を展開してきたときに、その実態がどのようであれ、現存する社会主義を標榜する諸国の存在をどこかで頼りにしながら、次の社会の実現可能性に賭けるという甘い期待をもってきたようにも思う。資本主義の支配者層もまた、自国の反体制運動を軽視できない存在とみなした背景に、現実に社会主義を選択した国家が存在していたことによる。スターリン主義批判を前提とする様々な批判的なマルクス主義や社会主義の潮流は、思想や理論としてもその有効性が共有されていた。

冷戦が資本主義の勝利で終わり、社会主義が世界体制として資本主義と拮抗する力を失ったときに、社会主義諸国の大衆運動は、国家による搾取と自由の剥奪に対して、西側の民主主義にある種の幻想をもった。その現実がどうあれ、彼らにとっては、今ある「社会主義」と呼ばれる体制よりもより自由で民主的な社会が「西側」にあるように見えた。西側資本主義は「自由」と「人権」をフルに活用して東側の大衆の歓心を惹く戦略をとった。しかし、この期待は裏切られた。

更に、第三世界の人々にとって、植民地からの解放闘争のなかで、独立を勝ち取った暁に、自分達の国がとるべき社会体制がより自由で抑圧のない社会となることを願って、社会主義か資本主義か、いずれかの体制を選択した。しかし、いずれの体制選択も、結果としては独立した国民国家としての理想の実現からは程遠く、とりわけグローバリゼーションのなかで貧富の差が広がり、対テロ戦争によって武力紛争に巻き込まれる結果になった。

市場経済の「自由」の代償として、貧困や失業を宿命として抱えるのではなく、また、経済的なある種の保証の代償として、政治的な自由を手放すのでもなく、資本主義的な経済システムを基盤にしつつも福祉と社会保障に国家が手厚い保護を与えるいわゆる北欧型と呼ばれるシステムが、典型的な資本主義や社会主義に失望した人々にとっての代替的な選択肢として期待されたこともあった。しかし、高度な管理社会という副作用と高福祉を支える財政基盤を資本主義システムに依存するという限界を抱えてきた。

これら全ての既存のシステムは、理念として掲げた社会を現実が裏切ることによって民衆の失望を招いた。他方で、既存の社会主義とも資本主義とも一線を画して登場してきた世紀末以降の反グローバリセーション運動は、いくつかの重要な課題に正面から挑戦できるような道具立てを欠いた。とりわけ、対テロ戦争の核心をなした宗教の問題をオルタ/反グローバリゼーション運動は取り組めてこなかったし、結果として、戦争の核心にも迫れず、他方で近代の価値観や多国籍企業、コミュニティの再興といった課題への民衆の「共感」が必ずしも左翼の主張とは結びつかず、むしろこれらの課題を極右が横取りできる危険性を的確に読めなかった。オルタ/反グローバリゼーションが国家主権の強化や移民の排斥を、コミュニティやエコロジーの主張が異質な他者を排除するための根拠に利用され、資本主義の次の社会を提起できない左翼に対して、伝統への回帰という実感としてもわかり易い主張を掲げる右翼が民衆の支持をさらってきた。フランスの黄色いベスト運動が、移民への寛容な受け入れを否定する移民排斥の政策を公然、非公然に掲げてきたことはその象徴的なものがある。

2.1 戦争の再定義

2.1.1 対テロ戦争

テロとの戦争は、戦争の定義を根底から変え、主権国家の概念も大きく変えられてきた。アフガニスタン、イラク、シリアのように、戦場となった諸国の自立性が奪われ、大国による軍事介入が恒常化している。ほとんどの欧米諸国や米国の同盟国は戦争の一方の加担者であるにもかかわらず、そこで暮す人々は、戦争当事者としての意識を持っていない。軍事行動が遂行されているにもかかわらず、戦争の加害者としての意識を持てていない。

このことは日本についても同様である。日本は米国の同盟国として戦争に加担している国である。今現在、日本は戦争をしている国なのだ。自衛隊は一発の銃弾も撃っていないではないか、という反論がある。米軍と一体となった指揮系統のなかに組込まれ、米軍に基地を提供し、兵站の一翼を担っており、世界規模で展開している米軍の軍事力の一部に組込まれているにもかかわらず、それでもなお戦争に加担していないといえるのだろうか。イラク戦争には在日米軍1万人余りが参戦したのだ。基地を提供した日本がどうして戦争に参戦していないといえるのだろうか。

2.1.2 サイバー戦争と憲法9条

もうひとつの戦争は「サイバー戦争」である。サイバースペースは、銃弾が飛び交うことはないが、ほぼそれと同等の効果をもたらすか、現実世界の軍事力行使を規定する力をもつことによって、戦争を左右するようになっている。コンピュータ・ネットワークが社会インフラの基盤となっている現在、こうしたインフラへの攻撃を空襲で実行するのと同等の効果をネットワーク経由でインフラのコントロールシステムに対して行使することが可能だ。

サイバー戦争という言葉を用いる場合、そもそもこうした「戦争」が戦争の定義から外れており、「戦争」という言葉を過度に拡張しているのではないか、という疑問があるかもしれない。しかし、社会システムを物理的に破壊する暴力として機能するのであれば、それが爆弾なのかコンピュータのプログラムなのかは、手段の違いであって、最終的な効果は同じところに行き着く。現実の兵器は、そのほとんどがコンピュータの指令なしには作動しなかったりもする。むしろ武器の中枢は目に見える武器ではなく、その背後のネットワークで数千キロも離れた場所で操作されたりもする。(ドローンによる爆撃はその典型だろう)そして、こうしたネットワークは私たちの日常生活と無関係なのではなく、私たちの日常生活に欠くことのできないコミュニケーションのネットワークと時には共存し、あるいはこうしたネットワークを利用して行なわれたりもする。民間空港を軍隊が利用したり、生活道路を戦車や戦闘車両が行き交うのと同じことが、サイバースペースで起きてもいる。しかしネットワークの世界は私たちの実感では捉えられず、武力行使のリアリティを掴むことが難しく、見逃されたり軽視されやすい。

憲法9条の戦争放棄条項が危機的(わたしからすでばすでにほぼ死文となっていると判断せざるをえない)であるときに、サイバースペースがどのような「戦争状態」を準備し、あるいは現に戦争状態にあるのかを的確に判断することができなければならない。それなくして、9条の戦争放棄条項が現実的な効果を発揮できているかどうかを理解することもできない。現実の場所としての基地がなくても、軍隊は存在可能であり、暴力を行使して人命を奪うことができるのが「サイバー戦争」でもある。

戦争放棄の実質を獲得するには、政府がコンピュータネットワークを戦争目的で使用していないことを私たちがこの目で確認できなければならない。そのような技術を私たちが持てていないとしても、そのことは言い訳にはならない。私たちは主権者として、そのような技術を獲得する「不断の努力」が必要なのだ。それができないのであるなら、民衆が理解し、確認することのできない技術を政府に使わせるべきではない。

自衛隊が存在するだけで9条はもはや空文になっているが、それに加えて、対テロ戦争を通じて現実のものになった戦争やサイバー戦争を通じて、9条の有効性を再検証することが必要だ。

国家の理念が外部の世界からみれば笑いものにしかならないことに当事者は気づかないでいることがある。フランスは移民への人種差別を国是の「自由、平等、博愛」のスローガンを口実に否定しつづけてきたことをかつての植民地出身者たちは身をもって経験してきた。正義、平穏、福祉、自由を掲げる米国憲法がどれだけの不正義を行い、貧困と差別を正当化してきたかを米国の移民やマイノリティは気づいている。だから彼らは国旗を掲げたり国歌を歌ったりしないのだ。天皇が口にする「平和」とはこの種の欺瞞の一種でしかないことをアジアの人々は知っている。たぶん同様に、9条では全く現代の戦争を阻止する上で必要かつ十分な文言にはなっていない。ことばが現実の戦争を阻止できるだけの力をもてなければならないが、9条はむしろ、世界に誇れるようなものとは真逆に、「平和」や「戦争放棄」を掲げながら戦争を遂行することを正当化する詭弁として世界に誇れるものになってしまった。9

2.2 極右の世界観

極右の世界観は一つではない。しかし、あえて幾つか、その柱になるものをピックアップしておく。とくに、左翼や反グローバリズム運動が掲げてきた主張と共通する論点を強調しておくと、次のようになる。10

  • 反グローバリズム。特に、新自由主義的なグローバリゼーション批判。国境を越えた多国籍企業の活動が、貧困と格差を助長した。外国資本の影響を排除すること。自国民の雇用を確保するための保護主義。
  • 消費主義批判。米国流の消費文化への批判。
  • 競争主義、能力主義批判。近代資本主義がもたらした「平等」メカニズムの基準としての競争的平等主義の否定。市場を基準とした能力主義の否定。むしろ下にあるように、伝統やコミュニティに基く序列や秩序を優先させる。
  • 伝統主義。コミュニティに基礎を置くライフスタイルの再建。そのためには、共通した価値観で繋りをもつコミュニティの価値が重要になる。多様な価値観を包含するのではなく、コミュニティが世代を越えて培い、構成員が共通してもつひとつの文化的伝統や価値観によってコミュニティが統合されることが最も安定した社会を築く。
  • 自然=ナチュラリズム。その土地で世代を越えて生活してきた人々のライフスタイルこそがその土地に最もふさわしい「自然」なありかたである。外部から異る文化を持ち込むことは、この最適なコミュニティのありかたを壊すものだ。移民は自国に戻るべきだ。
  • 家族の価値。伝統的な家父長制と性別役割を「自然」なものとみなす。
  • 反近代主義(近代の超克)。普遍的な人権や個人主義の否定。「普遍性」は、コミュニティを基盤とする固有の価値、あるいは多様性を損なう。個人主義はコミュニティの共同性を損う。

排外主義。とりわけ移民、難民、外国人労働者などに対する排除意識が強く、同時に、ジェンダーの平等を嫌う。しかし、コミュニティの価値、エコロジーや伝統文化に対する共感を持つ。こうした極右の価値観や主張の背景には、世代を越えた伝統や文化、時には民族的な神話が持ち出されることがある。しかし、その多くが、19世紀以降の近代化のなかで、伝統主義者たちが近代への抵抗の手段として再構築したり発掘したりしてきたものでもあり、文字通りの意味で、連綿とその社会、コミュニティが維持してきたものであるとはいえない。日本の場合は18世紀以降の国学が、西欧では、ロマン派の流れが、後の極右のイデオロギーの土壌の一部となる。

反グローバリゼーション運動が極右の文脈のなかで解釈されるとき、時には、多国籍資本や金融資本の背後に国際的なユダヤのネットーワークが存在するといった陰謀論と結びつく場合がある。

日本がアジアにおけるトップの座にあった時代から転落する過程のなかで、経済的な大国意識が成り立たなくなるにつれて、そのルサンチマンと嫉妬の感情が敵意を醸成してきた。日本を追い抜く諸国に対して、日本の政府もメディアも、競争相手の国のやり方をあたかも卑劣で道義に反するかのように非難する。不公正でルールを無視した経済活動をやる国として批判し、それが相手国の国民性であるかのようにみなして、非難する。

グローバリゼーションの主役が欧米諸国や日本の主導権のもとで展開されてきた1980年代以降とは異なって、今では、その主導権は中国、インドなどの新興国に移行しつつある。しかも、こうしたアジア諸国は国内に膨大な人口を抱えている巨大市場を自国の統治下にもっている国でもある。このグローバル資本主義の基軸の移動は、同時に、西欧の世界観への危機をももたらした。この危機のなかで、欧米が戦後構築してきたグローバルガバナンスの規範(国連、IMF・WTO・世銀による経済ガバナンス、ICANNによるインターネットガバナス)が正統性の危機に見舞われた。20世紀初頭の第一次世界大戦がもたらした未曾有の西洋の危機次ぐ、第二の危機の時代かもしれない。11

3 明仁の「おことば」

3.1 「おことば」そのもの

天皇の語りは、どのような効果をもつのだろうか。特に、天皇が語る「平和」への強い希求の文言は、安倍の好戦的な改憲の態度と対比されて、平和運動のなかでも支持する声が聞かれるようになった。

私は、人間が嘘吐きであることを忘れてはならないと強く思う。それは、意図的な嘘である場合があるが、天皇の言説が意味する嘘はこうしたものではないと思う。天皇が主観的な意図として真実を語った積りのことが、明らかな嘘となるという場合が圧倒的に多い。

在位三十年に当たり、政府並びに国の内外から寄せられた祝意に対し、深く感謝いたします。

即位から30年、こと多く過ぎた日々を振り返り、今日こうして国の内外の祝意に包まれ、このような日を迎えることを誠に感慨深く思います。

平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちましたが、それはまた、決して平坦な時代ではなく、多くの予想せぬ困難に直面した時代でもありました。世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました。島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し、誠意を持って他国との関係を構築していくことが求められているのではないかと思います。

天皇として即位して以来今日まで、日々国の安寧と人々の幸せを祈り、象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。

天皇としてのこれまでの務めを、人々の助けを得て行うことができたことは幸せなことでした。これまでの私の全ての仕事は、国の組織の同意と支持のもと、初めて行い得たものであり、私がこれまで果たすべき務めを果たしてこられたのは、その統合の象徴であることに、誇りと喜びを持つことのできるこの国の人々の存在と、過去から今に至る長い年月に、日本人がつくり上げてきた、この国の持つ民度のお陰でした。災害の相次いだこの30年を通し、不幸にも被災の地で多くの悲しみに遭遇しながらも、健気に耐え抜いてきた人々、そして被災地の哀しみを我が事とし、様々な形で寄り添い続けてきた全国の人々の姿は、私の在位中の忘れ難い記憶の一つです。

今日この機会に、日本が苦しみと悲しみのさ中にあった時、少なからぬ関心を寄せられた諸外国の方々にも、お礼の気持ちを述べたく思います。数知れぬ多くの国や国際機関、また地域が、心のこもった援助を与えてくださいました。心より深く感謝いたします。

平成が始まって間もなく、皇后は感慨のこもった一首の歌を記しています。

ともどもに平らけき代を築かむと諸人のことば国うちに充つ

平成は昭和天皇の崩御と共に、深い悲しみに沈む涼闇の中に歩みを始めました。そのような時でしたから、この歌にある「言葉」は、決して声高に語られたものではありませんでした。

しかしこの頃、全国各地より寄せられた「私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく」という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。

在位三十年に当たり、今日このような式典を催してくださった皆様に厚く感謝の意を表し、ここに改めて、我が国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります。

この天皇のメッセージは、9条改憲を執拗に追求し、周辺諸国との軋轢をかえりみず、様々な欺瞞と偽装で自らの成果を誇示する安倍の傲慢な姿勢に対して、ある種の「救い」をもたらすかのような言説となっている。しかし平和を語るのであれば、この国が周辺諸国との間で緊張関係を解消できていない最大の課題としての日本の植民地支配や戦争責任の問題に言及されなければならないはずだ。しかし、こうした歴史的に重要な問題を示唆する文言は一切ない。

子細にみてみると多くの疑問があり、とうてい受け入れ難い現状理解を示している。以下、この「おことば」をやや子細に検証してみよう。

3.2 平和とあいまいな言説が隠蔽する時代の闇

「平成の30年間、日本は国民の平和を希求する強い意志に支えられ、近現代において初めて戦争を経験せぬ時代を持ちました」

果して日本国民は平和を希求する強い意志を持ってきただろうか。むしろ、上述したように、日本の加害責任の問題を追求しようとする「日本国民」の「強い意志」が多数を占めたことはないし、天皇もこの問題に言及したこともない。また、自衛隊を容認するだけでなく、その海外派兵を支持し、改憲を支持する安倍政権を支えてきたのではないか。現在の日本を「戦争を経験せぬ時代」と呼ぶことによって、日本が戦時であることを否定している。日米同盟の一方の当事者の日本がなぜ戦争を経験していないといえるのか。

「世界は気候変動の周期に入り、我が国も多くの自然災害に襲われ、また高齢化、少子化による人口構造の変化から、過去に経験のない多くの社会現象にも直面しました」

明仁の時代の最大の「災害」は東日本大震災であり、とりわけ福島原発事故である。しかし、彼はあえて福島を口にしていない。そのかわりに「過去に経験のない多くの社会現象」という曖昧な言い回しでごまかした。天皇の沖縄への執着を前提にすれば辺野古をはじめとする沖縄の基地をめぐる「社会現象」が念頭にあるはずだろう。しかし、こうした具体的で重要な事柄を語らないことが天皇のこれまでの慣例である。

天皇の「おことば」は、語られないことのなかにも重要な意味がある。それは語ってはならない事柄であるということを示唆しており、この示唆がこの国の言論空間を支配する効果をもってきた。

3.3 政治を語れない天皇と政治を語りたがらない民衆

政治に言及できないが故に語れないという立場そのものが、社会的な礼儀作法のひとつとして、指導者や有力者、あるいは組織の長が核心に触れる政治的な立場や問題を曖昧な言葉で誤魔化してうやむやにすることをよしとする道徳を構築してきた。これは、戦後の象徴天皇制が非政治的であることを強制されてきたことの政治的副作用である。天皇が非政治的であることはこの意味で、極めて重大な社会的な効果、つまり民衆は非政治的であることが正しい振舞いである、という道徳を生み出した。

3.4 自民族中心主義としての「独自文化」

「島国として比較的恵まれた形で独自の文化を育ててきた我が国も、今、グローバル化する世界の中で、更に外に向かって開かれ、その中で叡智を持って自らの立場を確立し…(以下略)」

という条は、ある種の常套句としてこの国では問題にされない。しかし「独自の文化」といえるものとは何なのだろうか?それを誇ることは何を含意するのだろうか。「独自の文化」が含意しているのは、他者の文化との暗黙の比較のなかで、自らの文化をことさら「独自」であるとして差異を強調した上で、その優位性を示唆している。これは、自民族中心主義あるいはナショナリズムを支える文化的なアイデンティティを支持する言説である。また、「島国」をあたかも閉鎖的な場所であるかのようにみなす理解は、天皇が農耕民族中心の歴史館にとらわれている証左でもある。

「外に向って開かれ」以下の文言は、グローバル化のなかで、「日本」という国家の独自性を失なうことなくその地位を確立してきたことを評価するものだ。これは、極右が自国や自民族の独自性をグローバリゼーションの流れのなかで強調するスタンスと実はさほど違わない。英国がEU離脱へと向う流れも、EU諸国が移民・難民に対して門戸を閉そうとしてきたことも、トランプの「壁」の政策もみな「独自の文化」「自らの立場の確立」というキーワードで共通に語ることができる排外主義の立場である。

だから明仁は「外に向って開かれ」とは語っても内に向って開くことには言及しない。ここでも語らないことを通じて、語ってはならない事柄が示唆された。移民・難民を締め出してきたこの国の移民政策の現実を巧みに回避した表現になっているのだ。「開かれ」たのは、資本の投資であり、日本資本主義の経済帝国主義としての「進出」であり、更に自衛隊の海外派兵である。資本と軍事力が「自らの立場を確立」したという現実と明仁がここで言及しようとしている「自らの立場」は、グローバル化のなかでナショナルなアイデンティティの確立の必要を強調している。これは、後段で象徴天皇制のありかたに言及している箇所と対応している。

3.5 「皇室とともに」と皇室なしに、どちらが平和の選択肢として好ましいのか

「全国各地より寄せられた『私たちも皇室と共に平和な日本をつくっていく』という静かな中にも決意に満ちた言葉を、私どもは今も大切に心にとどめています。」

ここに引用されている言葉の典拠がない。だから本当に全国各地からこうした言葉が寄られているのかを確認できない。それはともかくとして、平和な日本は皇室とともにしか作れないのだろうか。「皇室と共に」という文言が平和とどのような必然的な関係性をもっているのか。もし平和が最重要の課題だとした場合、皇室が存在した方が平和を実現できるのか、ない方が実現できるのか、という少なくとも二つの選択肢が議論された上でなければ「皇室と共に」を前提することはできない。しかし、戦後の日本では、まともに皇室の是非を政治も課題として議論できる雰囲気も状況も保証されてはこなかった。むしろ右翼の暴力や公教育、マスメディアの皇室賛美によって皇室の存在を前提とする世論の形成が強制されてきた。そのなかで「皇室と共に平和な日本」などということを当然のように語ること自体が政治的な発言であろう。

明仁に限らず、裕仁の時代から、天皇の平和言説は、日本の現状がいかに戦争に加担していようとも、「平和」であると宣言することによって、事実を隠蔽し、人々に「ああ、これが平和なんだ」と思わせる効果をもってきた。同時に、戦後日本の平和の担い手が、戦時期にいかに戦争の加害者としてあったとしても、そのことを免罪するかのような雰囲気をも醸成してきた。

3.6 綺麗事を並べることの政治的効果

多分、何十年後かに、歴史学者がこの時代を観察しながら、天皇と安倍政権を比較して評価を下すとしても、実証主義者ならば、天皇の言葉から「戦争」をひきよせるような好戦的な文言を読みとることはないだろう。ここに実証主義(あるいはデータ主義)の限界がある。

実証主義、あるいは語られたことを客観的な事実として前提する罠に市民運動であれ革命的な運動であれ、様々な反政府運動の担い手たちも陥りがちだ。天皇の言説から「平和」の希求を論ずることは容易い。そしてこの天皇の「平和」に含意されていることを私たちがこの言葉に含意させていることと重ね合せて解釈しようとする。「平和」が意味するものは一つに違いないというのであれば、それは正しい方法だが、平和という抽象的な概念には無数の意味があり、戦争すら「平和」として語りうる。

そして、自分たちの「正しさ」を客観的なデータによって証明することによって、敵の欺瞞や嘘を暴き、こうした暴露こそが最大の敵への打撃であるという考え方があるが、これはさほど効果がない。また、客観的な証拠によって追い詰められた敵を、多くのもの言わぬ大衆あるいは有権者たちは、敵の化けの皮がはがれおちるのを目の前にして、敵への信頼を失い、敵は権力の座から追われることになる….こうした一連の発想のなかで、天皇の「平和」言説への期待も形成されてしまう。

天皇に対して、「なにを綺麗事言ってるんだよ。都心の一等地でのうのうと暮しやがって、調子のいいことほざいてんじゃあないよ」といった庶民の内心の一部にある冷笑は、天皇が何を語ろうが、その言葉の意味や含意とは全く無関係に、天皇を評価しないのである。しかし、こうしたある種の反感は、日本国内では、SNSなどで拡散したりはほとんどしないようにも見える。(SNSをやらない私の偏見かもしれないが)多分、こうした感情をもちながら、他方で、多くの庶民は、「間違ったこと言ってるわけじゃあないし、悪い人ではなさそうだし、言いたいことも言えず、窮屈で、死ぬまで天皇の仕事をするのは酷かもしれない…」とかとも感じていたりもする。

事実はさておき、物事を綺麗事としてきちんと言えることが礼儀作法上大切なことだというこの国に支配的な文化がある。結婚式や葬式で言っていいこと悪いことがあるように。そしてこうした建前をわきまえられるのが、他人からも尊敬される「大人」とみなされる。嘘であれ欺瞞であれ、そんなことはどうでもよくて、場のなかに「和」がつくられるような歯の浮いたような言葉がむしろ求められたりする。

私たちが、天皇の言葉を分析するときには、彼の発言と「場所」とを切り離さずに観察することが必要になる。そして、多くの人々が彼の言葉と彼の人間個人としての性格とを結びつけて彼についての―つまり天皇についての―イメージを構築しようとしているが、むしろ彼の言葉と「場」の関係のなかで、彼は国家の象徴としての言葉であり、かつ祭司としての布教の言葉でもある、二重の含意をもったものとしての言葉を発しているのではないか。慰霊とは禊でもあるのだと思う。

3.7 個人としての天皇ではなく、構造としての天皇が問題の中心にある

天皇とその場所が構成する「意味」は、その場に居合わせたりメディアを通じて接する人々の側で構築される「意味」でもあるわけだが、それは、どのような権力効果をもたらしてるのだろうか。これは言説空間の構造的な問題でもある。それを天皇の人間としての個性やキャラクターに還元してしまうと誤認することになる。しかも、最悪なことに、合理的な人間理解の中心に「個人主義」が居座っているから、「天皇」を「個人」として取り出すことができるかのような錯覚をもってしまう。「天皇」は関係の結び目であって、関係構築の背景に、特有の装置が組込まれている。その装置の一面が宗教的な側面だが、他面では、それは「憲法」に連なる統治機構の政治的な側面である。そしてこの二つの側面を繋ぐものとして「文化」の装置が介在している。宗教的な側面は、日本では「神道」の装置となるが、どの近代国民国家にも共通する構造が特殊な形態で表出しているにすぎない。「神道」を「信仰」あるいは非合理を本質とする共感構造という言葉で置き換えれば、この天皇制を支える構造―天皇意識の再生産構造―は、ほぼどこの国にも必須の国家に収斂するイデオロギー装置だということがわかる。この意味で天皇制に特異なものはない。この意味で、近代の終りが天皇制の終りになることはいくらでも可能なのだ。

4 象徴とは何なのかを理解できない天皇

4.1 天皇の利益相反―国事行為者であることと神道祭司であること

もし、大臣や官僚が、自分の役割が何であるのかを理解できないことを公言したら、マスメディアや野党は黙ってはいないのではないか。任期終了間際になって総理大臣が「総理大臣とはいかにあるべきか考えながら任期を過ごしてきました」とか「総理大臣とはどのようなものかを模索する道は果てしなく遠い」などと発言しようものなら、無責任極まりないと非難囂囂となること間違いない。だから、30年もその任にある明仁が、象徴天皇とはいかなる役割を担うべきものなのか理解できないということを率直に吐露したのは驚くべき発言と言わざるを得ない。

「象徴としていかにあるべきかを考えつつ過ごしてきました。しかし憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、更に次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています。」

とりわけ「憲法で定められた象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く」という文言は、謎というしかない。「憲法で定められた」ことが理解できない、というのだから。これまで30年間、明仁は自らの役割を理解しないまま「象徴」の役割を試行錯誤してきたというのだろうか。憲法に定められた天皇の国事行為のどこに、「象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く」などと言わせるような難解なことがあるのだろうか。もし、憲法1条から8条の文言を主権者が読んでも理解できず、果てしなく模索しなければならないとしたら、憲法の象徴天皇制規定を理解できるものは誰もいないということになる。

法の支配が民主主義の大前提であるとすれば、主権者が理解できない文言が憲法にあることは、あってはならないことである。主権者は、その権利と義務を憲法の文言によって定められ、それを理解して行動する。国会議員も官僚も皆この点では同じであって、天皇だけが、果てしなく遠くまで模索して「象徴とは何か、わからない」などと言うことは許されないことである。

では、この深淵なニュアンスをかもしだす文言で明仁は何を言いたかったのか。彼は、象徴天皇の役割を事実上、憲法が規定している天皇の役割を超越してイメージしており、このイメージと憲法が定める天皇の象徴機能とを見事に混同している。つまり彼のなかでは政教分離ができていないのだ。だから、憲法に定められた象徴天皇と祭司天皇の間に矛盾を感じ、これに対して答えを出すことができず、棚上げにした、ということではないか。神道祭司としての天皇、あるいは万世一系の神話の担い手としての天皇と国事行為の担い手としての天皇との間に解きえない矛盾があることは確かだ。憲法が定める政教分離や法の下の平等などの人権条項を尊重するなら、国家の象徴は国事行為の行為者である以外の役割において、これらの憲法の条項と矛盾するような役割を担うことはできない。もしこの二足の草鞋を履くのであれば、それは明らかな利益相反である。憲法を選ぶなら、神道の祭司であることはできないはずなのである。神道の祭司として信教の自由を守りたいなら国家の象徴としての役割は放棄すべきなのだ。にもかかわらずこの二重の天皇に固執するということの含意は、祭司としての天皇の側からみて、憲法は「制約」であり矛盾であって、天皇制の存在にとって利益にはならないということである。明仁はこのことを図らずも言外に示唆したのだ、と思う。

4.2 象徴天皇制をそのままにして政教分離は可能なのか

天皇は国民統合の象徴だという。他方で、憲法は、思想信条、信教の自由を国民の権利として保障するともしている。信教の自由を前提として多様の信仰があり、あるいは信仰を持たない者たちを「国民」として束ねる象徴として「天皇」が存在するという場合、この「天皇」が特定の信仰と結びつくことが可能なはずがないことはすぐに理解できよう。

象徴の機能は、その象徴が意味するものとの関係なしには象徴になれない。この場合、象徴には二つの異なる種類がある。ひとつは、瓶に貼ってある麒麟の絵を見て「ビール」であると認知するような場合の「麒麟」の絵である。この絵をみてビールであると認知できるのは、麒麟の絵がビールを意味することを知っている(学習している)場合に限られる。このことを知らないない者には、類推することはできない。他方で、人間の形をかたどったデザインを見たときに、それを「人間」であろうと類推できる場合というもある。この場合、人間の形を知っていれば、学習することなしに、その形を見て人間を意味することを理解できる。いずれの場合も、象徴となる記号は意味をもつが、象徴と意味をつなぐ仕組みは異なる。天皇の場合、それが日本国の象徴であるという「意味」は類推によって生成されるものではなく、「学習」されなればならない。しかもその「意味」は憲法の国事行為の条文だけを知ることで全てが尽されるものではない、ということが重要な問題なのである。天皇が「象徴」であるという意味は、憲法で明確に限定されており、それ以外の意味を持つことは禁じられているはずである。憲法の国事行為10項目を行なうことだけが憲法に定められているならば、それは誰がやっても構わないことである。しかし憲法には国民の総意であり、かつ世襲である存在という規定がある。天皇になったら世襲されなければならないいということと、国民の総意とは整合しない。総意が担保されない場合がありうるからだ。しかも、そこに更に神道にまつわる意味が付加されるように設計されている。

ある人物が、神道の祭司としての役割を担うときには「天皇」と呼ばれ、憲法に定められた国家の国事行為を担うときには、「大統領」と呼ばれるとしよう。複数の役割を別の名称(記号)によって区別することはありうることであり、それは名称の違いを越えて、意味の違いを生みだす。政治家であれ誰であれ、複数の役割を担いながら複数のアイデンティティを渡り歩くことはごく普通だ。役割ごとに名前をつけるのはそれなりのカテゴリーの境界を明確にして、ルールを明確にする効果がある。しかし、天皇についてはこうした境界を設けることを意図的に否定して、神道祭司としての役割の名前をそのまま憲法の「国民統合の象徴」の名前にした。ことばという記号の意味作用が、神道祭司としての意味と国事行為者としての意味が相互に重りあう構造になることを憲法は、そのそもそもの設計に組み込んだのである。この設計の基本は、新旧両方の憲法に共通している。

そもそも憲法7条の10項目の国事行為は国家の象徴とされる者が行なわなければできないことではない。有権者のなかから毎回抽選で誰がやっても構わないような行為である。あえて天皇と呼ばれる者がやらなければならない必然性はない。実は国事行為には、こうした「軽い」意味しかない、というところが天皇制にとってはその存在意義との関連で問題になる。だから、戦後の天皇制は、この国事行為以外の、とりわけ「文化」の領域に浸透するような戦略をとることによって、一方で習俗にむすびつく神道的な伝統に、他方で、「日本文化」というイデオロギーの再生産装置としての機能においてその不可欠な役割を構築しようとしてきた。仏教やキリスト教でいう宗教の意味合いとは異なるが、天皇への信仰を文化を通じて構築しようとしてきたのだ。12

5 牙を剥くナショナリスト

5.1 布教者としての天皇

明仁の「おことば」に対するほとんどのマスメディアの反応は好意的なものだった。ほんの少しの熟慮で、彼の発言がいかに問題の多い、排外主義の心情を内包させたものであるかを判断できるはずだが、むしろあたかも憲法を擁護する平和主義者であるかのようにみなしている。

そして、こうしたスタンスは平和運動や改憲反対運動のなかにも浸透している。安倍の好戦的な改憲のプロパガンダと比較して、その護憲のスタンスを我が意を得たかのように支持する声が聞かれるようになっている。こうした天皇への期待は、沖縄ですら聞かれるようになっている。

私が「牙を剥くナショナリスト」としてイメージしているのは、こうした明仁の言説に平和を期待するリベラルを含む広範に存在すると思われる、この国の「国民」の大半である。街宣車の右翼や在特会のようなヘイトクライマーを指しているだけではない。むしろ、戦後の政権を支えつづけてきた多数者としてのこの国の有権者であり、投票には行かないが、無自覚なまま民族的偏見を抱いている人々である。彼らの「牙」は街頭や公的な場では見出せない。SNSのような新しいメディアは彼等の心情を伝える回路になっているが、それだけではない。暗黙の偏見が「牙」なのである。目に見えないし、「私たち」は痛みを感じないが、その「牙」を見ることができ、痛みを感じる人々がいるのである。

天皇をめぐる言説は、人々の間に不必要なカテゴリー化と差異化による区別=差別を生み出す。象徴天皇制を認めるのか、認めないのかは明かな踏み絵になっている。この踏み絵は、元号、日の丸、君が代といった国家の象徴を介する場合もあれば、メディアの敬語使用、天皇由来の日を「国民の祝日」とすること、国体から植樹祭まで、全国各地へのいわゆる「慰問」や「慰霊」の類いの天皇が関わる布教=国事行為以外の多く布教=行事に伴う異例の処遇まで、彼を特別な存在として聖別するシステムを認めるのか否定するのか、こうした踏み絵を日常生活のなかで強いられるのがこの国で生きることである。そしてまた、こうした活動のなかの少なからぬものは、天皇由来の「神話」との繋りがある。これらは、広義の意味での神道に連なる宗教的な儀礼でもある。

こうした観点から戦後の天皇が、国事行為であれそれ以外の行為であれ、儀礼の場で行なう行為は、ローマカトリックの教皇がおこなう説教や布教の類いと、本質的にどこが異なるのだろうか。天皇が「祈り」を口にするとき、そこには宗教的な含意はない、となぜ言えるのか。天皇の「おことば」は布教である、とはっきり言いたい。私たちは、自分達の日常生活のなかにある「神道」的な世界観を自覚できていないが、天皇を聖別し、敬語を使い、その言葉を無批判に受容するという態度は、信徒の態度である。とすれば、天皇の言葉は布教のそれ以外のなにものでもない。

竹内好が天皇制は一木一草に宿ると述べたが、この言葉はこのように解釈できると思う。更に言えば、戦後の天皇制は国家神道としての位置を追われるわけだが、このことが、むしろ神道が日常生活の習俗のなかにもぐりこんで、そのスピリチュアリティを広げるきっかけを作ったのではないか。戦後象徴天皇制について、国家神道の枠組みでその是非を理解するのではなく、むしろ極めて定義することが困難な多様性をもつ「神道」的な信仰の構造のなかに、つまり「日本文化」と呼ばれる選民思想を支えてきた価値観の日常的な構造のなかに位置づけなおすことが必要なのではないか。

5.2 信仰に無自覚であること

天皇制を日本の人口の9割が支持している現実は、「国民」が神道の信徒であることを自覚させない環境を作ってきたともいえる。神道は、仏教、キリスト教、イスラム教などと同じように「宗教」 と呼ぶことは困難である。しかし、そうであっても「宗教」がもつ神話的な非合理な世界観に基く排外主義あるいは自民族中心主義を共有している。13

多くの「日本人」が「無宗教」でありつつその実神道の信者である(天皇への信仰をもと者)であるなかで、漠然と「無宗教」であることはほとんど意味のないことである。むしろ異教徒であること、あるいは明確な無神論者であることを一つの世界観として構想することがy必要なことである。これは、もしかしたら日本人としてのアイデンティティを捨てることかもしれないが、それが何を意味するのかすら私には明確にはできない。それは日本人とは何者なのかが私には理解できていないからだろう。

5.3 「日本人」というカテゴリー化そのものに内包するレイシズム

安倍に限らず、現代日本の支配層は戦後教育を受けてきた世代である。戦前の軍国主義教育を改憲勢力の背景として説明する議論は成り立たない。戦後のいわゆる民主主義教育なるものを通過してきた人々が、ますます戦前への回帰を主導しているのだ。こうした保守的あるいはレイシストの傾向は、教育ではなく家族関係など世代を越えた価値観の「伝染」によるのではないか、という別の見方もあるかもしれない。しかし、親や曾祖父母の時代の価値観を連綿と継承しているとみなすのは、当っていないだろう。むしろ、高度に情報化され、ネットのコミュニケーションが情報流通の主流になっているような今現在の環境のなかで、人々が日常的に交すコミュニケーションそのもののなかにナショナリズムやレイシズムを醸成あるいは再生産する構造があるとみるべきではないだろうか。

学校教育がますます右傾化するなかで、優等生はますますナショナリストになり、劣等生は反ナショナリストになる、といった教育とイデオロギー効果の相関関係があるようには思われない。家族、コミュニティ、親密な人間関係、学校、企業、メディアなど様々な社会の仕組みのなかで、人々は日々「私」を「日本人」といったナショナルなアイデンティティに結びつけている。ナショナリズムは、まず、日本人と日本人以外という二つの大きな人間集団にカテゴリー分けすることから始まる。こうしたカテゴリーは、リンゴが好きかミカンが好きかで人口を二分することと比べても、その根拠は曖昧で意味があるかどうかあやしいものだ。しかし、「日本人」とは何者か、ということに端的に答えられないからこそ「日本人」であることをことさらにあれやこれやの事象を引き合いに出しながら強調しようとする。米を食べるのが日本人とか、稲作が日本文化だといった俗説は、コメ文化の広がりト限界をみれば虚偽であることは容易にわかるのだが、そうであっても、それこそが 日本人の特徴であるかのように誇張することをやめない。こうした頑なステレオタイプへの固執の積み重ねが、「日本人」というカテゴリーにことさら過剰な意味を与えて、「日本人」であるのかないのかという境界線が強化される。こうしたカテゴリーに基づく差異の強調は、偏見を助長する。能力や性格など諸個人の個性を「日本人」であるかないかという分類のなかで、判断しようとする。例外的に優秀な「日本人」をあたかも「日本人だから優秀なのだ」とか、たまたま犯罪を犯した人物が外国人であると「外国人犯罪が蔓延している」などと誇張され、それが誇張や偏見であるとは理解されない。

天皇制は「日本人」というアイデンティティを再生産するための信仰=イデオロギー装置である。同時に、「日本人」というカテゴリーに過剰な意味を付与し、このカテゴリーの属さない人々を差別することを正当化する仕組みとして機能する。これは、戦前も戦後も一貫しており、とりわけ戦後は天皇制がこうしたアイデンティティの再生産の機能としての側面を発達させてきた。その結果として、「日本人」という概念それじたいに内在するレイシズムに無自覚となった世代が戦後世代でもある。彼等にとって天皇制は、強いられたイデオロギーではなく、無宗教の背後にあって、ある種の無意識のなかに組込まれた自発的な意思としての「日本人」のアイデンティティの持ち主となった。天皇制はこの意味で戦前の国家神道の教義を通じて教育されて外部注入されるようなものではなく、総体としてのこの国の家族、コミュニティ、私的な人間関係、職場、学校などなどを通じて、「天皇陛下万歳」などとは叫ぶ必要のない「日本人のアイデンティティ」を再生産する信仰の構造をなしてきた。

こうした構造のなかで、天皇制に反対することは、無神論を選ぶことも含めて、異教徒であることでもある。それはどのようなことなのか、このことを世界中で支配的な宗教の弾圧に苦しみながら闘っている人々の経験に学びながら、考え、行動することも必要なのではないかと思う。

Footnotes:

1

保守派や左翼嫌いの知識人たちが、現実の世界におもねって憲法9条に固執する平和運動を揶揄することがある。むしろ現実主義に立って、自衛隊を正当に評価し、軍事安全保障を強化することが平和構築の必要条件だと言いたいらしい。こうした現実主義は、「力」と正義の関係を見誤っているか、意図的に力を正義であると主張しているにすぎない。力と正義との間には何の関係もない。力の強い者が正義においても勝るということは証明されたことはない。力の強い者が正義を僭称して他者に正義と呼ばれる事柄を強引に押しつけることが、歴史上も日常生活でも繰り返されてきた。しかしわたしたちの経験からいえば、むしろ、道理の通らないところで力が幅を効かせる。現実主義者は既存の制度や社会の矛盾を棚上げして、その根本的な変革を絵空事とみなして否定する一方で、本の将来を過剰なナショナリズムや「日本人」の優秀さ、輝かしい歴史的な過去からの延長として描き、「美しい日本」の物語というフィクションで人々の歓心を獲得しようとする。

2

白石和幸「スペイン・アンダルシア自治州議選で極右が初議席。その背景と波乱が予想される今後」https://hbol.jp/180548 この記事では、VOXの政策を以下のように紹介している。 「自治州政治を廃止して中央集権体制に復帰すること ・カタルーニャの独立支持政党の違法化 ・公用語スペイン語を全国レベルで普及させ、カタラン語などを教育の場から廃止 ・シェンゲン協定(欧州の国家間で国境検査なしで越境を許可する協定)の廃止 ・イスラム寺院の閉鎖 ・移民は言語など共通の文化をもったラテンアメリカからの移民を優先し、それ以外の不法移民は一生スペインでは合法化させない ・同性愛の否認 ・20歳になって徴兵制の義務化 ・北アフリカのスペイン自治都市セウタとメリーリャに壁を設ける」

3

白石和幸「イタリア・サルビニ内相の非人道的な難民政策に、全国の市長が反旗を翻す」https://hbol.jp/183306

4

日経「欧州議会選、極右に勢い 伊・仏で首位予測」https://www.nikkei.com/article/DGXMZO41473310Z10C19A2FF2000/

5

「ポーランド独立100年で大行進 極右団体も参加」BBC日本語、https://www.bbc.com/japanese/46175710

6

「文化が違いすぎる国からの移民は、私たちの国の価値観や文化を学ばなければいけません。英語が共通語の企業で働くなら英語だけでもいいでしょうが、スウェーデン社会の一部になりたいと思うなら、スウェーデン語だって勉強するべき。難民に関しては、スウェーデンではなくて、難民キャンプで援助を施すのがよい」(党員ヨーハン・ティーレラン、鐙麻樹「北欧の極右、スウェーデン民主党を支持する人々の憤り」https://news.yahoo.co.jp/byline/abumiasaki/20181120-00104755/)

8

荻野晃「中・東欧における極右政党の台頭」関西学院大学『法と政治』65-3、2014年。

9

「われら合衆国の国民は、より完全な連邦を形成し、正義を樹立し、国内の平穏を保障し、共同の防衛に 備え、一般の福祉を増進し、われらとわれらの子孫のために自由の恵沢を確保する目的をもって、ここに アメリカ合衆国のためにこの憲法を制定し、確定する。」(合衆国憲法前文)

10

以下の私のブログの文章を参照。「反資本主義の再定義―台頭するグローバル極右を見据えて」 https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/blog/2019/02/01/against-far-rights/

11

フランスの極右の思想家、アラン・ド・ベノワは20世紀初頭の西洋の危機は、第一次大戦からロシア革命へという時代背景のなかで起きたが、今回の危機は、こうした「敵」不在のなかで起きており、より深刻だと述べている。一般に極右の思想の基本は、危機意識に基いている。今ある世界の現状維持を基本とする保守とは異なり、危機から西洋の崩壊を救済するための方向を、コミュニズムのような将来社会のユートピアではなく、むしろ近代以前、時にはキリスト教以前の時代にまで遡って構想しようとする。ギリシア神話や北欧の神話、あるいは近代西洋が忘却してしまった近代以前の社会の可能性を非西欧世界に求めたりもする。ある種のオカルトやイスラーム、ヒンドゥ、仏教といった非キリスト教への関心をもつことも極右思想家たちに共通した傾向のようにみえる。

12

憲法でいう政教分離原則でいう政治と宗教というカテゴリーは、現実の政と教のありかたとはズレている。即位大嘗祭などの皇室の神道儀礼が排除されればよいということではない。七五三や地域の祭礼から寺の葬儀など、私たちの日常生活のなかで習俗とみなされている出来事は「政教分離」違反である。なぜならば、政治は私たちの私的な日常そのものだからだ。

13

神道については、以下を参照。ネリー・ナイマン「神道と民俗宗教」、ミルチア・エリアーデ『世界宗教史』ちくま学芸文庫、奥山倫明他訳、第8巻所収。トーマス・カスーリス『神道』、衣笠正晃訳、ちくま学芸文庫、ヘルマン・オームス『徳川イデオロギー』、黒住真訳、ぺりかん社。

Date: 2019/3/2

Author: 小倉利丸

Created: 2019-03-04 月 17:50


本稿は、2019年3月2日に開催された「「日の丸・君が代」の強制跳ね返す 3.2神奈川集会とデモ」の発言資料として作成されました。発言の機会を与えていただいた主催者、そして参加者の皆さんに感謝します。

【声明】靖国神社での抗議行動は正当だ! 東京地裁は直ちに2名の勾留を解け! 公判闘争を支援しよう!

以下、反天皇制運動連絡会のブログから転載します。

2018年12月12日、靖国神社外苑で、2人の香港人の男女が「建造物侵入」の容疑で逮捕された。

男性は、「南京大虐殺を忘れるな 日本の虐殺の責任を追及する」と書かれた横断幕を広げ、日本軍国主義、南京大虐殺、靖国神社A級戦犯合祀に対する批判のアピールを行った。女性は、男性の抗議行動をビデオで撮影していた。抗議を開始してまもなく、靖国神社の神門付近にいた守衛がやめるように言ってきたので、男性が立ち去ろうとしたところ、複数の守衛が2人を取り押さえ、警視庁に引き渡した。

2人はそのまま逮捕・勾留され、さらには12月26日に起訴されてしまった。その身柄は今なお警察署の「代用監獄」に留め置かれている。1月15日の弁護団による保釈申請に対しても裁判所はこれを却下。2人はすでに1ヶ月以上も勾留され続けているのだ【注】。

「人質司法」といわれる日本の刑事司法のありかたは、内外から多くの批判を浴びている。今回2人は、「正当な理由なく靖国神社の敷地内に侵入した」建造物侵入という罪状で起訴された。だが、外苑は誰でも自由に出入りできる場所だ。仮に有罪となったとしても微罪であるのに、今回2人に対して加えられている逮捕、起訴、長期勾留という事態は、まさにアジアの人びとが、靖国神社において公然と抗議行動をおこなったことに対する「見せしめ弾圧」であったと言わざるを得ない。この強硬な姿勢が、安倍政権においてより顕著になっている歴史修正主義、国家主義の強権的姿勢と無関係であるはずがない。

抗議のアピールが行われた12月12日という日付は、1937年12月13日の日本軍による「南京陥落」の前日である。この日を前後しておこった、日本軍による膨大な中国市民の虐殺=「南京大虐殺」の歴史的事実を、日本の右派および右翼政治家は一貫して矮小化し、実質的に否定しようとしてきた。また香港は、アジア・太平洋戦争のさなか、3年8ヶ月にわたって、日本の軍政下に置かれた地である。日本政府は、戦後一貫して侵略戦争被害者への謝罪も補償もしないばかりか、歴史的事実を転倒させ、東アジアの平和を求める動きに逆行し続けてきた。このような日本政府のあり方を、中国やアジアの民衆が強く糾弾するのはまったく当然のことである。男性は、歴史問題に関する自らの意思の表現として、この象徴的な場所で抗議行動を行ったのだ。それが靖国神社に立ち入った「正当な理由」でなくて何であろうか。

また、逮捕された女性は、市民記者として、男性の抗議行動を記録していた。それが、男性と共謀の上「侵入」したとして罪に問われたのである。これは明らかに、報道の自由に対する不当な介入でもあると言わなければならない。

私たちは、この日本社会に暮らすものとして、彼らの行為が提起したことの意味を受け止めながら、剥奪され続けている2人の人権を回復し、彼らを被告人として3月から開始される裁判闘争を、香港の友人たちとともに支えていきたいと考える。

本事件に関する注目と司法権力への監視を。3月公判への傍聴支援を。そして2人の裁判闘争を支えていくためのあらゆる支援とカンパを訴えます。

(2019年1月21日)

【注】2月3日現在、1人は東京拘置所に移監されており、もう1人も近く東拘に移監の見込み。保釈請求却下に対する準抗告も1月30日に却下されている。

12.12靖国抗議見せしめ弾圧を許さない会

〒105-0004 東京都港区新橋2-8-16
石田ビル5階 救援連絡センター気付
mail: miseshime@protonmail.com
振替口座:現在口座開設準備中
*暫定措置として、「12・12靖国抗議弾圧救援」と指定のうえ、救援連絡センターに送金してくださって大丈夫です。
郵便振替 00100-3-105440 救援連絡センター
★ 法廷期日:3月7日(木)10:00〜
3月19日(火)10:00〜
ともに、東京地裁429号法廷

総務省、国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)による 「IoT機器調査」の中止を強く求めます

総務省による前代未聞のハッキング調査が始まっている。「サイバー攻撃」への不安を煽り、ネットのユーザが戸締りの責任を持つべきだという態度にはいくつもの不審な点がある。以下の声明はそうした疑問点を率直に提起している。私も呼びかけ団体に関わる者として、18日に開かれた国会議員会館での説明会・学習会で発言しました。

以下、声明本文です。団体賛同を募集中。是非賛同をお願いします。

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総務省、国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)による 「IoT機器調査」の中止を強く求めます

2月1日、総務省と国立研究開発法人情報通信研究機構(NICT)はIoT機器の脆弱性を調査する「NOTICE」(National Operation Towards IoT Clean Environment)を昨年11月に成立した「電気通信事業法および国立研究開発法人情報通信研究機構法の一部を改正する法律」に基き、2月20日から実施することを公表しました。総務省は、調査対象となるIPアドレスは約2億であることも公表しています。

IoT(Internet of things)とは、「モノのインターネット」のことで、一言でいえば「ありとあらゆるモノがインターネツトに接続する世界」のことです。いままで、インターネットに接続するものといえばすぐ思いだすものはパソコンであったり、スマートフォンでしたが、現在、テレビ、エアコンなど家電をはじめ家庭や会社内の事務機器、監視ロボット、クルマなどがインターネットに接続するようになりました。今後この傾向は更に強まります。

総務省はこの調査の理由をIoT機器のセキュリティの弱点をついて、サイバー攻撃がおこなわれるのを防ぐためとしています。

しかし、私たちは以下の点で、今回の調査は政府による違法なハッキング行為であると判断し、これに強く反対し、実施の中止を求めるものです。

(1)今回の調査は、憲法が保障している以下の私たちの権利を侵害しています。
通信の秘密を保障する憲法21条に違反します。また住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利を保障する憲法35条に違反します。

(2)今回の調査は、裁判所の令状すらなしに、政府による個人のプライバシー情報への網羅的なアクセスを許す先例となり、事実上、政府が自由に個人の通信や私生活などを監視する体制を整えることになります。

(3)総務省は「機器の内部に侵入したり、通信の秘密を侵害することはありません」と述べ、「取得情報も厳格な安全管理措置を講じる」と述べています。しかし、技術の詳細については、「悪意あるプログラム等に利用される恐れがある」として詳細の公開を拒否しています。このような対応から、実際には、技術的には機器内部への侵入が可能な方法をとっていると思われます。また、用いられる技術が本当に総務省の主張通りに運用されるのかどうかも、公正な第三者による検証がなされていません。取得情報の安全性、政府内部での情報共有のありかたなども不透明なままです。将来的には今回の調査を前例として、より一層私たちのプライバシーの権利や通信の秘密を侵害するような、機器内部への侵入へと発展する危険性も排除できません。

(4)総務省はIoT調査の実態を隠そうとしているのでは、との疑念を拭いきれません。今回の調査について、「センサーやウェブカメラなどのIoT機器」に限定されているかの印象を与えています。実際には総務省のいうIoTとは、インターネットに接続されている全ての機器を対象にするものです。このことを総務省は意図的に隠しています。パソコン、スマホなどプライバシー情報を多く含む機器やテレビなど、広範囲の機器が対象になります。その結果として、政府による私たちのプライバシーの権利侵害の範囲は、私生活のほぼ全てに及ぶといっても過言ではありません。
また、一般市民だけでなく、報道機関、弁護士事務所、人権団体、野党、労働組合、プロバイダーなどの言論・表現の自由、通信の秘密に関わる組織にも深刻な影響が及ぶと考えます。

(5)今回の調査で総務省・NICTは、脆弱性のある機器の利用者に対して、プロバイダーを通じて告知などを行なうとしています。しかし、将来的には、プロバイダーが取得しているIoT利用者の個人情報を政府がより容易に、あるいは直接取得するような方向へと制度や技術が変えられるきっかけになりえると危惧します。

政府は、今回の調査を「2020年オリンピック・パラリンピック東京大会などを控え、対策の必要性が高まっています」と主張します。この点についても、ひたすら不安感を煽るばかりで冷静な判断に基いているとはいえません。私達は今回の調査をきっかけに、あからさまな政府の私たちの通信への監視やハッキングが将来更に大規模に行なわれるのではないか危惧しています。

以上、私たちは、政府による憲法21条や35条の権利侵害を見過すことはできません。総務省、NICTに対して「IoT機器調査」を中止することを強く求めます。
2019年2月15日

呼びかけ団体(順不同)

  • 盗聴法に反対する市民連絡会
  • ATTAC Japan(首都圏)
  • JCA-NET理事会
  • 共通番号いらないネット
  • 2020東京オリンピックおことわり連絡会
  • ふぇみん婦人民主クラブ
  • 個人情報保護条例を活かす会(神奈川)
  • 「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会
  • 「秘密法反対・かながわ実行委員会

団体賛同のお願い(2月17日現在の賛同団体一覧はこちら)
団体名、連絡先(メール)を明記し、メールのタイトルに「賛同」と書いて下記のメールアドレスまで送信してください。なお、声明へのご意見なども添えていただいて構いません。
noiot@tuta.io
団体名とご意見はウエッブなどで公開することがあります。(メールアドレスなど連絡先、担当者のお名前は公表しません)

この声明への問い合わせ先

noiot@tuta.io

賛同団一覧

「日の丸・君が代」の強制跳ね返す3.2神奈川集会とデモ

転送・転載歓迎
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「日の丸・君が代」の強制跳ね返す
3.2神奈川集会とデモ
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★
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◆2019年 3月2日(土) 集 会:13時30分〜
デモ出発:16時15分
◆横浜市技能文化会館 802大研修室 (地図)
*根岸線[関内駅] 南口から徒歩5分
*横浜市営地下鉄ブルーライン
[伊勢佐木長者町駅] 出口2から徒歩3分

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◆お 話; 小倉利丸さん
「牙をむくナショナリズムー「平和」に潜む戦争と排外主義ー」
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主要な欧米諸国だけでなく、アジアやラテンアメリカなどの主要国の多くが極右やいわる宗教不寛容な政権や議会勢力によって大きく左右される時代になっています。人権や市民的自由が後退し、移民排斥、ジェンダー、宗教、ライフスタイルなど、様々なマイノリティを政府や議会が率先して抑圧する国々が次々に登場しています。
安倍政権が目指す改憲や代替りを迎える天皇制ナショナリズムの動向も、こうした世界の動向のなかでその意味や性質をみておく必要があります。
極右化の危機に直面している世界の民衆の運動と日本における天皇制とナショナリズムに抗う運動に共通する課題を模索しながら、グローバルな反排外主義、反ナショナリズムの運動を考えてみたいと思います。
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今年5月1日、徳仁が即位。新たな天皇の時代がつくられようとしています。
生前退位は天皇制の終わりではなく、「平和主義」者として多くの支持を得て、「代替わり」を実現させた明仁天皇が30年かけてつくりあげた「象徴天皇制」の継承です。天皇制支持層が増えていく現実を前に、侵略戦争の責任を取らず、日の丸・君が代を使い続けてきた天皇制を戴く「戦後民主主義」は今後どうある
べきか、「安倍改憲や代替わりを迎える天皇制ナショナリズムの動向も不寛容さが覆う世界の動向の中でその意味や性質を見ておく必要ある」と提起する小倉さんのお話を聞いて考えてみましょう。ぜひご参加ください。
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◆資料代:500円
◆共 催:「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会
日本基督教団神奈川教区社会委員会ヤスクニ・天皇制問題小委員会

反資本主義の再定義―台頭するグローバル極右を見据えて

本稿は「1968年―89年―そして世界と日本の現在を考える:分断の時代を越える2.2シンポ」のために準備された草稿である。

1 メインストリーム化する「極右」―左派、リベラルの政権そのものが激減している

ここ10年のグローバルな政治状況のなかで繰り返し指摘されるようになった特徴的な出来事は、様々な意味合いを背景とした「極右の主流化」あるいは「宗教的な救済」の復活である。これらはいずれも、上からの運動であるだけでなく、むしろ民衆によって下から支えられている側面があり、これが「ポピュリズム」として指摘されるようになった。

左翼の大衆運動もまた大衆運動である限りポピュリズムの側面をもつ。しかし、文字通りの意味でのポピュリズムでは無原則な大衆迎合主義が優先されて、イデオロギーや原則的な価値観へのこだわりは希薄だ。大衆が支持する主張がまず第一であって、それに対して後付けとして様々な政治や思想や信仰が付随するのだが、見た目はあたかもある種の確信的な世界観によって裏打ちされているかのような装いをとる場合もあれば、無原則に左右の政治組織との連携をも厭わないところもある。たとえば、イタリアの五つ星運動は移民の排斥とヘイトスピーチを厭わない運動だが(長年UNHCRで活動してきた中道左派の女性国会議員で下院議長だったラウラ・ボルデドリーニへの五つ星運動や北部同盟からのレイプ脅迫事件1などはその一例だろう)、左派がこうしたポピュリズム組織とある種の連携を組む兆候が見られるようにもなっている。

しかし、もしそうだとすると大衆な反政府運動のうねりは、いったいどのようにしてひとつの政治的な力といえるほどのものに成長するのだろうか。自然発生性を信じるとしても、なぜ大衆はそのような主張をもって(他の主張ではなく)可視的な大量現象として登場するのか、は説明されるべきだろう。大衆の心情を愚かで騙されやすいと決めつけることも、逆に大衆だから正しいに違いないという判断を前提することも、たぶん問題があると思うが、では、どのようなスタンスをとるべきものなのだろうか。2

今グローバルに起きている事態の特徴は、左派の政策の基本のうち、貧困やネオリベラルグローバリゼーションといった問題への対処を右翼が横取りして、これに移民・難民排斥と伝統的なコミュニティや文化の擁護をセットにした主張を展開することによって、下層労働者階級への影響力を確保してきたことかもしれない。貧困と反グローバリズムを共通項として、左右が協調する土台が形成され、この土台の上で、右翼が主導権をとる、という構図といっていいかもしれない。こうした構図の背景には、中東やアフリカで長引く「対テロ戦争」や内戦―その原因は欧米諸国が作り出してきたものだ―で生存の危機に瀕した人々が大量の難民として移動しているということと、19世紀、20世紀と決定的に違う状況として、欧米諸国がもはやグローバル資本主義の中枢を独占できず、中国をはじめとする新興国が政治的経済的な覇権の一端を担うようになったといことだろう。20世紀初頭に第一次世界大戦が未曾有の総力戦からロシア革命の到来によって西洋の没落がファシズムを引き寄せたように、21世紀初頭は、グローバル資本主義を生み出した近代が、その価値観やイデオロギーを含めて終末の危機を迎えていることを反映している。この危機は、欧米型資本主義の危機ではあるが資本主義そのものの危機ではないし、西欧の共通する世界観に基く帝国主義による世界市場の分割という古典的帝国主義への回帰でもない。欧米資本主義の経済が文化やイデオロギーあうるいは非物質的な意識や感情の生産様式へと転換しているなかで、社会の物質的な基礎を担う新興国との間の複雑で重層的な世界市場の再構築が、イデオロギー領域を巻き込んだヘゲモニー構造を変容させている。イスラームもヒンドゥーも周辺ではないし、諸々の非キリスト教的な文化的価値が平行して、「西欧」を包囲する。世界の民衆はもはや西欧を通して世界を解釈することに特権的な地位を認めなくなっている。このなかには西欧出自のオルタナティブとしての左翼思想も含まれる。とりわけマルクス主義が。

目をラテンアメリカに転じてみても、状況は深刻だ。ブラジルなどで典型的に見られるような左派政権の腐敗への民衆の失望を利用して一気に政権をとるという構図は、ワイマールからナチズムへの転換を彷彿とさせる。ベネズエラもまた経済の破綻という失政への怒りを右派が(米国を後ろ盾として)組織して政権を獲得する勢いだ。そして、ラテンアメリカは第二次世界大戦後、独裁政権が支配していた国々が多いだけでなく、またナチスの残党の逃亡先として、ネオナチの生息地でもあった。こうした歴史の亡霊が蘇えるつつあるようにすら見える。

極右の特徴を単なるヘイトスピーカーだとみなすことはできない。マージナルで少数の異端派からメインストリームへと成長するにつれてらは、その戦闘的な暴力部隊を抱え込みながら、その中核的な部分は、権力が射程距離に入る―つまり選挙での議席、首長や大統領職などの確保の可能性―につれて、戦術的に「穏健」になる。警察などの治安組織を掌中に収めれば、弾圧は強化されるだろう。とりわけ、自民族の伝統や文化をアイデンティティの核に据えて大衆の支持を得ようとするにつれて彼らの言動は、一方で過剰なロマン主義を、他方で、限り無い憎悪を表裏一体のものとして表現するようになるだろう。ここでは文化的なアイデンティティが主要な戦場へと格上げされる。

もし大衆とはプロレタリアートあるいは労働者階級や農民階級を意味し、階級としての存在がその意識を規定するという素朴な階級意識論を信じるとすれば、あらゆる大衆的な叛乱は階級闘争として擁護すべきものだということになる。しかし、移民や難民の排斥感情が多数を占めるようになっている中で、多数者の感情をそのまま肯定することはできない。同じことは、宗教的な信条や家族などの伝統的な価値についてもいえる。

かつて、第一インターナショナルの方針をめぐって、マルクスとバクーニンが争ったとき、バクーニンは組織の方針をマルクスの掲げる原則に従わせようとするマルクス一派に我慢ならないと批判した。たしかにある唯一の「原則」とか「綱領」などと呼ばれるものに数百万の労働者大衆が承認を与えるという構図は異様だと思う。しかし、他方でバクーニンは、労働者大衆の多数の結集のためには、自らの主張を禁欲すべき場合もあるとして、彼の重要な主張のひとつ「無神論」を第一インターの原則に持ち込むことを自ら禁欲した。無神論など持ち出せば労働者たちの多数派としての団結は望めないと判断したのだ。私はこのバクーニンの判断には現実主義的な妥協の必要としては理解できても、それが果して好ましい判断だといえるかどうか、躊躇する。というのも、近代国家の正統性問題は合理主義の仮面を被ったキリスト教の文化と価値観の問題と不可分であって、政治的権力の廃棄にとって「神」の問題を後景に退けることが妥当かどうか。日本の現状でいえば、天皇制に反対する大衆は圧倒的少数だからこの主張を原則から外すという判断と似て、運動の本質に関わる場合が多い。他方で、異論を排斥する主張は、運動内部の有意義な議論を封殺する危険性がある。資本の廃絶と権力の廃絶という二つの課題が、ひとつのものとして融合されなかった悲劇がその後現在に至るまで左翼の多様な潮流や思想の隘路をなしてきたようにも思う。

そもそも大衆とは誰か、プロレタリアートとは誰か、労働者階級とは誰か。私は誰か他人がこうした集団に帰属するだけの資格があるかどうかを判断することはできないが、私自身について言えば、明らかにこうした集団の中にいる者だといえる資格はないように感じている。

単純な善悪で割り切る粗雑な階級社会の議論は、多くの重要な主題を無視している。ジェンダーやエスニシティといった問題はとりわけ重要な課題になっている。なぜなら、近代世界は自由と平等をジェンダーやエスニシティという条件に対して適用しようとする意志をほとんどもってこなかったからだ。19世紀の階級闘争が―この時代がマルクスのコミュニズムとバクーニンやプルードンのアナキズムの出発点をなすが―ジェンダーや植民地主義と不可分な問題としての非西欧社会の解放を主題とすることはほとんどなかった。こうした限界のなかで、近代における反資本主義の理論的な枠組もまた形成されてしまった。

階級闘争の長い歴史は、同時に階級的な妥協と調整のメカニズムを資本主義自身が開発する歴史でもあった。その帰結が、普通選挙権に基づく大衆民主主義と社会保障など国家による労働者階級の「国民」としての庇護というシステムだった。

2 民衆叛乱そのものの変質

1990年代以降、急速に世界規模で拡大した反グローバリゼーション運動は、それまでの20世紀を通じて展開されてきた民衆運動とはいくつかの点で根本的な違いがあったと思う。

2.1 六つの特徴

第一に、善かれ悪しかれ、20世紀の大衆的な左翼の運動は、ソ連や中国といった「現存」する社会主義を支持するか否かにかかわらず、社会主義あるいは共産主義の理念を共有していた。この理念の共有は90年代以降の大衆運動には存在しない。

第二に、90年代以降の大衆運動は、二つの流れが微妙な対抗関係をもちながら併存してきた。ひとつは、1994年1月1日に「蜂起」を起こしたメキシコのサパティスタたちの運動とこの運動に連携してきたグローバルな反資本主義の抵抗運動。もうひとつは、1999年のWTOシアトル閣僚会議を破綻に導いたことで注目されるようになった反グローバリゼーションの運動。後者の運動のなかから、その後2001年に世界社会フォーラムが形成されることになる。

第三に、社会運動の課題の拡散がみられ、反開発、反レイシズム、反セクシズムといった課題が、むしろ運動を特徴づけるようになった。民主主義や反戦といった課題は「階級」という主題よりもむしろ「人権」という主題により親和性をもって理解されるようになった。

第四に、近代社会を支えてきた国民国家と市場経済がその理念においても揺らぐ一方で、これらに代わるシステムが未だに理論的にすら提起されないなかで、民衆の運動は、試行錯誤しつつ既存の政治的経済的な権力への「反」を掲げてきた。左翼の主流をなしてきた新左翼を含む伝統的な社会主義や共産主義組織の影響力が相対的に低下し、多様な左翼性を体現する不定形な運動が台頭し、アナキズムへの関心が相対的に高まる。だが同時に、左翼と右翼を分ける境界の曖昧化も進む。

第五に、既存の支配的なシステムへの異議申し立てが、伝統主義(近代以前への回帰)や新たな宗教的な価値の再発見(諸々の宗教原理主義)という選択肢を無視できないところにまで押し上げてきた。

第六に、最も新しい傾向として、インターネットというコミュニケーションインフラが大衆的な意識形成の基盤としてマスメディアを越え、国境を越える力をもつようになった。マスメディアを基盤とするナショナリズムという伝統的な「国民統合」の構造は脆弱になる一方で、SNSのような新たなコミュニケーション空間が人々の意識形成に不可欠の手段となる。

冷戦の崩壊によって、資本主義が歴史の勝者であるという支配層の公式見解を覆す広範で多様な左派の運動が、第三世界から資本主義中枢まで、存在することを示すものだった。しかし他方で、こうした運動のサイクルから明らかに外れた重要な地域があった。少なくとも、日本はこのサイクルから明確に外れており、大衆運動としての高揚を実現できないまま現在に至っている。なぜグローバルな大衆運動のサイクルに日本の運動が同期できないでいるのか、このことは解明されるべき重要な問題だろう。

2.2 同期する日本の大衆意識

こうした特徴をもちながら、現在起きていることは、大衆運動の基軸が多かれ少なかれ、極右と総称できる勢力の影響を受けて「高揚」する局面が顕著になっており、こうした極右の台頭というこれまでになかった大衆運動の傾向に、日本は、その政権の動向も含めて同期する傾向を強くもっているようにみえる。極右政権の誕生という点では欧米諸国よりも一歩先んじているところもあり、草の根や下からの「運動」という段階から既に上からの動員が可能な制度化の段階に入っているといった方がいいだろう。

かつてBRICSと呼ばれた新興諸国のなかで反グローバリゼーション運動のサイクルに含まれていたのはブラジルだけである。ブラジルの反グローバリゼーション運動がルラ政権の基盤のひとつをなしたといってもいいのだが、そのブラジルもある種の「クーデタ」によって極右政権にとってかわった。そして、ラテンアメリカの反米政権が次々に苦境に立たされ、かつてチャベスが率い、そのチャベスを継承してきた現政権が経済の破綻のなかで崩壊の危機にある。中国、ロシア、南アフリカは大衆運動の政治的な力はほとんどなく、インドは世界社会フォーラムを何度か開催できる力量をもっていたが、現在はヒンドゥ原理主義政権になった。そして東欧もまた、ポスト社会主義から極右の台頭、移民排斥の急先鋒へと転換している。東アジアでは香港、台湾は2014年に雨傘運動、ひまわり運動など大衆的な反政府運動が高揚したが、こうした運動が国境を越えて地域全体の運動の高揚へと繋る回路が非常に狭くなっている。

2.3 運動が抱える限界

左翼のグーバルな大衆運動がなぜ凋落してしまったのか。これまで、日本の左翼運動は、自らの停滞をかろうじて耐えるなかで、将来への希望を国外の様々な左翼の社会運動の高揚になかに見出してきた。アラブの春、ウォールストリートのオキュパイ運動、ギリシアの反ネオリベラリズム運動などは、注目されたが、その運動の帰結を「勝利」と呼んでいいのかどうか。世俗的独裁に抵抗する宗教原理主義がアラブの春のなかにはあった。金融資本への異議申し立てのなかには、ユダヤ人差別による陰謀史観による排斥感情が見られた。ギリシアのシリザは政権を右派との連立として獲得した。そしてウクライナのマイダンの運動はよりはっきりとナオナチに連なる勢力が運動を主導したし、英国のブレクジットもまた極右が世論を主導した。

こうした事態になる前、反グローバリゼーションの運動が高揚した時期を象徴する二つの運動を振返ってみたい。

  • サパティスタ
    サパティスタの運動は、そのスタイルと主張が従来の武装闘争組織や反政府運動組織にはないある種の左翼ポストモダニズトとでも表現したらいいのか、斬新なものだった。組織の平等性をジェンダーや家父長制といったラテンアメリカの強固な文化的価値観を明確に否定するなかで再構築し、権力を求めず「市民社会」と民主主義を尊重する態度は、運動の理念と目標の設定において明らかにひとつの地平を切り開いたといえる。しかし、こうしたユニークな運動がサパティスタを固有で唯一の存在にしてしまい、それが他の地域にも共有できる運動としての拡がりを獲得できなかった。サパティスタはどこにでもいる筈のものだが、現実には第二、第三のサパティスタの運動がアジアやヨーロッパなど異なる地域で生まれてはいない。
  • 世界社会フォーラム
    他方で、世界社会フォーラムはポスト冷戦を踏まえて社会主義を主張することを控えて、「もうひとつの世界は可能だ」という漠然としたスローガンを掲げて広範な民衆運動の参加を促した。イラク反戦の国際的な統一行動など、いくつかの国際的な運動の組織化にとっての重要な場所となったことは確かだろう。実際の世界社会フォーラムには毎年数万から十万に近い数の人々が集まる。中国の法輪功の人たちや、イランの親ホメイニ派の人たちなど、モロッコの西サハラ問題では政府寄りのNGOが参加したりもする。明確な左翼から穏健な市民社会ベースのNGOまで、多様である反面、彼ら一人一人がイメージする「もうひとつの世界」は何度会合が開かれても曖昧なままだ。サミール・アミンなどこの曖昧さに苛立った人達が、新たなインターナショナルの創設を提起したが、ほとんど具体的な成果をみていない。世界社会フォーラムは毎年、第三世界での開催だった。その後隔年開催となり、開催されない年には地域ごとのフォーラムを開催するようになる。これまでブラジル、マリ、インド、パキスタン、ヴエネズエラ、ケニア、セネガル、チュニジアなどで開催されてきたが、多分、徐々に数万規模のフォーラムを主催できる国は少なくなり、2016年にはモントリオールで開催されるなど開催地が第三世界に確保できなくなってきた。世界社会フォーラムの最大の問題は、フォーラムの中心的な課題が新自由主義グローバリゼーションに関連する経済や環境、ジェンダーの問題であったりするために、「対テロ戦争」の中心的な課題でもある宗教や諸々の「原理主義」問題を扱えていないということだ。私の経験に過ぎないが、世界社会フォーラムが極右や宗教原理主義といった問題への関心を持つことはそもそも困難だったのではと感じている。というのも、アフリカやパキスタンなどで開催するときにはイスラーム復興運動の問題を正面から議論することが可能だったかどうか、あるいはインドでヒンズー原理主義の問題を議論するような余地があったかどうか。
  • 運動の混迷?
    しかし、政治的な権力が世俗的であれば問題が解決するというわけでもない。その典型がエジプトの「民主化」運動だった。世俗政権がイスラム同胞団への強権的な弾圧を長年続けてきたことから、民主化運動は、こうした弾圧への抵抗運動という側面をもったから、純粋な世俗的な民主化運動とはいえないものを含んでいた。トルコもまた、世俗主義が政治権力の基本的なスタンスだが、国内の反体制派や民主化運動への弾圧は、同時に反体制派としての宗教弾圧をも含んでいた。もうひとつ象徴的な出来事を経験したことがある。それは、第三世界の左翼運動に影響力のあるサミール・アミンが、生前、反米のひとつの可能性として、ロシアのプーチン政権への期待を寄せていたのではないかと思わせる態度をとったことがあった。他方で、伝統的な宗教原理主義のなかで抑圧されてきた人々にとって、西側の民主主義の体制を獲得することは当面の課題として重視されていたともいえる。2004年以降続いたウクライナのマイダンと呼ばれるいわゆる民主化運動には、ウクライナのナショナリズムとネオナチが合流してロシアと対抗するという構図もあり、一概に「民主化」という言葉で代表できるような性質のものとはいえなかった。極右の影響力は、数の問題ではなく、相対的に少数であっても組織化されて強固な運動として登場し、伝統的なナショナリズムの感情を煽ることで影響力を行使した。ウクライナの極右の主張は「ウクライナファースト」「ウクライナに栄光を」といったネオナチのスローガンのウクライナ版でもあった。3

3 黄色いベスト運動

3.1 なぜ旗が立たない?

黄色いベスト運動が左派から注目と支持を得ていることは周知のところだろう。この運動が登場したときに私は率直に言ってある種の違和感を感じた。第一に、メディアが流す動画や画像には、赤旗も黒旗もない。そして平和運動からLGBTQの運動でも用いられるレインボーの旗もない。画像からの印象でしかないが、フランス国旗が目立ち、労組やエコロジストの旗もない。移民たちの姿が目立たない。組織である必要はないが、色に象徴される多様性がない。そして主張の柱がガソリン税増税反対だという。ちょうどポーランドでのCOPの会議を控えた時期で気候変動が重要な議題となっている最中のことだ。これに対してエコロジストたちは、的確な批判もしなかったし、かといって既存のエネルギーに依存する経済の構造に縛られている地方の問題に深い関心があるのかもわからなかった。(これらは多分に日本語のメディアの報道だからかもしれない)

こうしたやや「偏見」かもしれないような疑念を抱いた背景には、この間、私が注目してきたのが、極右大衆運動や文化運動の拡がりだったからだ。こうした大衆的な街頭での「暴動」のなかに移民たちの姿がめっきり影をひそめてしまったようにみえ、また、移民や難民を支援してきた組織の動向も目立たない。実際に黄色いベスト運動が提起したと言われているいくつかの要求項目のなかには、明確な移民排斥の主張すらある。4

3.2 右翼の対応

ルペンの国民連合は、そのホームページで炭素税引き上げ反対の署名運動などのキャンペーンを張っている。国民連合はグローバリゼーションが農村部を見捨てている点を批判し、農業や農村をフランスのナショナズムの再興の拠点に据えようとしている。地方にとって必需品でもある自動車、農家や中小零細企業にとってガソリンなどの燃料のコストは重要な課題であることを捉えた巧みな運動構築である。国民連合だけでなく、それ以外の極右の諸組織が、前面には登場していないが、たぶん運動の重要な主導権を握っているのではないかと思う。また、米国の極右ニュースサイト「BREITBART」は「パリ抗議」の特別ページを立ち上げて報道している。5

気候変動の深刻な問題への対処として、炭素税の引き上げを打ち出した政府に、エコロジストの運動の観点からどのような反対が可能だろうか。たとえば、フランスの緑の党は、炭素税引き上げに反対するが、その観点は、炭素税の19%しか脱炭素化政策に利用されない点を指摘して、この増税がCO2排出削減に寄与しないと批判している。

トルコのエルドアンは、このデモに対するフランス政府の弾圧を非難して民主主義として失格だと指摘した。ドナルド・トランプは、パリ協定が破綻したと主張する一方でフランス全土の抗議デモがその証左であるかのように賞賛するツイッターを呟いた。6デモ参加者が環境を口実にする増税に反対していることに好意的なコメントを出した。そしてロシアのプーチンはマクロンの新自由主義政策の失敗の証拠だと論評した。7

黄色いベスト運動にはフランスの伝統的な極右の運動、アクション・フランセーズが介入したり、欧州の極右もまたこの運動に注目している。たとえば、イタリアのネオファシスト組織CasaPoundはこの運動に参加した。8

ロシアの政府寄りの論調は、この黄色いベスト運動をグルジア(ジョージア)、ウクライナ、アラブの春同様米国が後ろ盾となった運動だという評価を下し、こうした動きがロシア国内に波及しないような方策をとる。しかし、ロシアのヨーロッパ向けの西欧言語の放送では、逆に黄色いベスト運動を、マクロンの自由主義への反対運動だと述べて肯定的な論調になる。そして、ロシアによる黄色いベスト運動への介入の有無が一時期イギリスをまきこんで話題になる。9
また、黄色いベスト運動の「記念写真」としてウクライナからの分離を求めるドネツク人民共和国の旗を掲げた写真を口実に、ウクライナ政府はロシアが黄色いベスト運動に介入しているというある種の陰謀論まがいの宣伝をはじめた。10

ロシア政府の運動への干渉の有無は不明だが、小規模な極右団体や個人の黄色いベスト運動への参加が確認されている。多くの場合、こうした国外の極右はフランス国内の極右の団体などと連携して運動に参加している。つまりフランス国内の極右が国外の極右の運動を呼び込み、黄色いベスト運動を極右の国際運動にしようとする動きが確実に存在した。なかでも注目すべきなのは、ロシアの極右の知識人で、「ユーラシア主義」のイデオローグでもあるアレキサンダー・ドゥギンの発言だろう。

「マクロンはロスチャイルド、ソロス、大金融、文化左翼、政治的正しさ、経済、右翼グローバリゼーション、フランスとヨーロッパのアイデンティティ嫌い、ベルナール・アンリ・レヴィ、もっと移民を、もっと同性婚を、もっと物価上昇を、中産階級の破壊、グローバル政府、コスモポリタニズムだ。あなたがこれらを好きなら、パリに来るんじゃない、黄色いベスト運動に参加すべきじゃない。しかし、ひょっとしてそうではないなら、ぜひ我々と共に参加すよう。今日、世界は分断されている。あなたたちは、イエロー・ベストかグローバルなマクロンの(奴隷)か、そのどちらかだ。フランス万歳!フランス人民万歳!独裁を倒せ…」

3.3 ATTACと緑の対応

ATTACフランスもマクロン政権は炭素税増税は、エネルギー支出が家計に占める割合の高い低所得層を直撃する一方で、増税分はほとんど脱炭素化には使われず、安価でクリーンな地方の公共交通サービスは閉鎖されて高速道路の建設など金融と経済のグローバル化に加担するものだと批判した。11

緑の党もATTACも増税=まやかし論である。これに対して、フランスのアナキスト連盟リヨンは、この黄色いベスト運動が右翼の特徴をもつことを承知の上で、この運動に参加することを表明した。このサイトの記事によると、もともと黄色いベスト運動は、自動車の速度制限に反対してスピード違反を検知するレーダーやガソリン税に反対する極右に近いグループから生まれたという。彼等の運動には、システムへの懐疑よりも実践的で直感的な怒りの信条が基盤となったもので、地方のフランス、「周辺部フランス」「忘れられたフランス」「農村の現実」といった概念で語られるような地域を基盤とするものだという。彼等の多くは確信的自覚的なレイシストではないが国民戦線(現在の国民連合)に投票してきた人々でもあるという。世界を席巻している極右(ロシア、ハンガリー米国、英国、イタリア、ブラジルなど)に共通しているのは「文化的なヘゲモニー」への関心である、とも分析している。アナキスト連盟リヨンは、極右のレトリックと馴れ合ってでもこうした運動に介入して主導権をとるというリスクを冒すべきだと主張する。12 総じて、黄色いベスト運動は、左翼が運動の戦術上の必要から介入を余儀なくされている側面が強く、本来の反資本主義の主張の枠組が極右の反ネオリベラリズムや反グローバリゼーションの主張に吸収されてしまい、行動としてもブラックブロックのスタイルを横取りされて、明確に思想的実践的な左翼性が見出せないところに追い込まれているように見える。

やや立ち入って、左翼からの二つのコメントを紹介したい。

3.4 アントニオ・ネグリのコメント

彼の持論でもあるマルチチュードへの期待を重ね合わせて、全体のトーンは何とかこの運動への肯定的な評価を試みようとする意図がベースにありつつ、今後どうなるかについては、「我々は待たなければならないし、何が起きるか見てみよう」というやや引いた論評だ。13興味深いのは、不定形の運動がこのまま進むことが左派にとってはあまりよい結果にならないと見ているところがある点だろう。「マルチュチードがある種の組織へと転換しないとすると、この種のマルチチュードは政治システムによって中立化し、機能不全になる。同じことだが、こうなれば、右翼に還元されるか、左翼に還元される。マルチュチードが機能するのは、その独立性にある。」とも言う。ネグリがここでマルチチュードにとっての組織として述べているのは、党を指すのではなく、資本に新しい空間をしぶしぶ認めさせて「資本の政府」に重くのしかかる存在になることである。「対抗的な権力」となること、マルチチュードが権力を掌握できないとしても、ある種の二重権力状態をもたらすことを期待しているようにも思う。しかし、右翼にも左翼にも還元されないというスタンスは、この間の極右の運動との関わりでいうといわゆる「第三の道」の主張とどこか共通するところがないかどうか、あるいはこの点を自覚して意図的に、非伝統的左翼による左からの「第三の道」を示唆しているのか、興味深いともいえる発言だ。

3.5 Crimethinc「進行中の分裂への貢献」の分析

もうひとつは、先にも紹介した、Crimethincのサイトに掲載されたContribution à la rupture en cours、英訳ではContribution to the Rupture in Progress、「進行中の分裂への貢献」とでも訳せるタイトルの運動への分析がある。l14この文章の著者はDes agents destitués du Parti Imaginaire、架空の党から却下されたエージェント。どこかシチュアシオニスト風な趣きがある。

この分析では、黄色いベストには三つの傾向があると分類している。ひとつは、本音では、将来の選挙にこの運動を利用しようと考えている潮流。スペインのポデモス、イタリアの五つ星運動、米国のティーパーティ運動など既存の政治に満足しないが、代議制を通じての変革を指向する方向でこの運動を利用しようとするポピュリストの流れに近い。国民投票による解決の模索はこの流れかもしれない。

二番目は、運動の政府との直接交渉を公然と要求する傾向。これに議会の与野党や組合も反応を示している。交渉の正統性を確保するには、黄色いベスト運動が対政府交渉を委任する代表を選出しなければならない。これは運動の水平性や非中心性という性質を反故にすることでもある。とはいえ、税制、エコロジー、不平等その他の争点となる課題を立法のプロセスに乗せようとする傾向で第三週に有力になった。組合や正統性のある代表なしに、政府との合意形成をどうするのかはっきりせず、結局は、政府による時間引き伸ばし作戦に屈してしまう可能性がある。

三番目が12月始めの週末にみられた運動のなかの反対勢力、あるいは最もラデイカルな傾向でマクロンの無条件即時退陣の要求。これは、警察の弾圧にもかかわらず、首都の富裕層居住区までデモが及んだことで、力を得た流れでもある。

この分析で興味深いのは、この三つの潮流のどれにも極右あるいは右翼が存在すること、また、上の三つの流れのどれになってもアイデンティティ主義や権威主義に傾く危険性がみられるし、主導権争いで左翼が勝利しても、反動や反革命の危険があることに注意を喚起している点だ。

後述するように、ネオリベラリズムとグローバリゼーションへの批判は左翼の専売特許ではない、ということをはっきりと確認する必要がある。これらは、新しい右翼の潮流もまた共有している。黄色いベスト運動のマクロン退陣は左右に共通するスローガンになるので、それ自体では左右の識別基準にはならない。先にも指摘したように、黄色いベスト運動には左翼を特徴づける運動の主張が希薄なのだ。

たぶん、新自由主義、市場経済、貧困、エコロジー、多国籍企業、消費主義、多文化主義、ローカルコミュニティ主義(あるいは地域分権)などのキーワードによる現状への批判では、左右の判別はつかない。そして右でも左でもない、という言説(第三の道とか第三の立場などとも言われたりする)はほとんどが右翼が自らの立場を隠して登場するときのスタイルになっている。

この点を若干補足しよう。多文化主義を右翼が主張するときは、異民族の絶滅要求ではなく、多文化を容認しつつ明確な棲み分けを強調し、移民を本国に送り返すことで地理的に分離して共存するという方向をとる。(今回の黄色いベストの要求項目にこの傾向がはっきりと出ている)エコロジーはその土地に伝統的に根づいた人々と自然との関係を優先させるナチュラリズムをとると、外来者を排除する思想を受け入れやすくしてしまう。これは地域分権主義にも言える。人々の生存は一面ではコミュニティとの繋りなしにはありえないのだが、このローカルコミュニティは同質的な伝統文化を共有する人々によって最もよくその合意形成が機能するとみなす。だから異質な文化を持ち込む移民を排斥することがこうした観点から正当化されてしまう。いわゆる消費主義は米国の多国籍企業が持ち込んだグローバル文化であって、ヨーロッパの伝統を破壊するものだから、否定される。こうした主張は半ばマルクス主義の資本主義批判の理論を援用することも厭わない。(後に紹介するド・ベノワはその代表格だろう)貧困問題もまた、移民の安価な労働力を導入しようとする資本の利益優先主義によるものだというトランプの主張と共通する考え方をとる。移民の出身国で彼らもまた「豊かさ」を享受できるようなシステムを構築すべきだ、そうすれば移民が自分たちの文化やコミュニティのアイデンティティを破壊するような事態は生じないという理屈になる。

彼らと左派の明確な分水嶺があるとすれば、ゾーニングや分離なしの移民の受け入れ、ジェンダーの平等、明確な無神論の立場(異教主義は反キリスト教極右が好む立場)、伝統文化の拒否といったところかもしれない。これらは、抽象的な理念としては掲げることは容易だが、それを理論化し、実践に結びつけるための運動全体の制度設計はほとんど未知の世界になる。しかし、こうした領域に挑戦することなしには、反資本主義の再定義も不可能である。経済の領域は、よっぽど徹底した資本主義批判の線を明確にしない限り、極右との違いは明確にならない可能性がある。

そもそも、ファシズムもナチズムも左翼の運動がナショナリズムに回収されて登場した側面があり、左翼だから大丈夫ということは全くない、というのが歴史の教訓だろう。だから、逆に、黄色いベスト運動だけでなく、最近の諸々の民衆の運動や市民運動から得るべき教訓は、大衆運動のネガティブな側面を見ることなのではないかと思う。

3.6 何が左右で共有されているのか

黄色いベスト運動に共有されているのは、マクロン政権への異論や反発と炭素税増税反対だけでなく、現状のフランスが直面している課題の根源に、左右どちらであれ、長年政権が採用してきた基本方針、グローバリセーション(あるいは新自由主義グローバリゼーション)への懐疑である。農村部や低所得層が増税とグローバリセーションの最大の犠牲者であるという点でも認識は共有されている。極右にとって、グローバリゼーションがもたらした農業の破壊や失業に対するオルタナティブは、国家による保護主義の復活であり、ナショナリズムの価値観の再興という過去の経験への回帰が、大衆を動員する上で最も効果的なスタンスになる。

黄色いベスト運動は、様々に解釈されてきた。「暴動」があたかも自然発生的に起きたかのように報じられ、政府も「首謀者」を把握することに苦慮しているかの報道がなされている。私の見方は違う。たぶん、語義矛盾だが、意図的に自然発生性が「組織」されたと思う。そして、組織が見えない状況もまた意識的に生み出されてきたものだと思う。というのは、90年代以降、極右の運動は、左翼の反グローバリゼーション運動の戦術から多くを横取りして自らの戦術へと組み入れてきたからだ。ブラックブロックのような街頭闘争戦術(黒のコスチュームを着たファシストたち―もともとファシストは黒シャツがシンボルだった―、そしてゲリラや地下組織のノウハウを導入した「リーダーなき組織」の構築、更には、資本主義批判では、マルクスからグラムシまでマルクス主義を借用し、ポストモダンの思想では、ボードリヤールからシチュアシオニストまでをちゃっかり利用する。そうかと思えば、エコロジーが「在来種」主義や太古のヨーロッパ神話と融合して移民排斥やセクシズムを「伝統」や「自然」の衣裳で包み込まれて利用される。こうした傾向を、インターネットのSNSなどのネットワークは、怒りや苛立ちといった感情を動員するような言説の空間として人々を煽る道具になってしまい、冷静に多様な見解を収集して自律的に意思決定する個人の主体性を奪う方向で利用されている。

4 極右の世界観―従来のネオリベラリズムとの本質的な違い

右翼のナショナリズムと保護主義への回帰はそもそも19世紀から20世紀にかけての近代合理主義に対する否定として、また20世紀の反社会主義のイデオロギーと冷戦期の反共政策のなかで構築されてきたものだった。

これに対して、左翼が反グローバリゼーションという場合、犠牲となる貧困層や地方をグローバル資本主義の軛から解放する社会構想は、破綻した20世紀型の社会主義や福祉国家を持ち出すことでは片付かず、現実的ではないという意味も含めて、私たちにとっては全く魅力に欠ける。20世紀の社会主義の最大の問題は、近代資本主義を継承した進歩の観念と粛清に端的に示された自由の問題だ。前者は経済とテクノロジーの、後者は政治とイデオロギーの問題であり、これら全体が人々のコミュニケーションと合意形成の場の構造によって規定されており、このいずれについても、先例を反面教師にすることはできても、その伝統の継承は選択肢にはならない。この点が、伝統を美化して継承しようとする右翼の戦略と非対称的ともいえる。だが、同時に、このことは、よほどの想像力/創造力を駆使することなしには、獲得できないという、大きなハンディを左翼は負っている。

大衆民主主義を基盤とした代議制民主主義の制度を前提するとすれば、ポピュリズムに迎合することなしには権力を掌握できないが、そうであるとすれば、左翼の原則を踏みはずさない一線を引きつつ、かつ、大衆的な支持を運動としてどのようにして創造できるのか、が問われることになってしまう。しかし、既存の代議制民主主義が反資本主義をその内部から生み出すことがありえるとは想像できない。逆に、代議制民主主義や既存の憲法の枠組からファシズムや軍事独裁政権が正統性を獲得することはよくある。多かれ少なかれ、資本主義と近代国民国家を前提として、その制度的な土台の上でのオルタナティブを企図することになる。私にとって、こうした選択肢が、近代資本主義が歴史的に形成してきた根源的な問題を解決する魅力あるものには見えない。この点で、左翼にとっては、過去への回帰という手段をもつ極右に対抗できるだけの未来への展望を支える理念を構築できているのかどうかが問われることになる。伝統への回帰に抗い、むしろ明確にこうした復古主義を拒否する基盤が、狭義の意味での経済的な資本主義批判だけでは明かに弱い。極右は左翼のこの弱い環を的確に突いているように思う。言い換えれば、反グローバリゼーションとしての反資本主義の民衆的な基盤を、経済決定論の狭い枠から広げて、ナショナリズムに回収されないアイデンティティの文化的な政治の課題として構築する方法論がまだ未成熟なのだ。

黄色いベスト運動だけでなく、最近の大衆運動で、目立つ「暴動」のスタイルには1990年代まで繰り返されてきた「暴動」にはない特徴があるように思う。今世紀にはいってから、民衆の運動が高揚するとき、「左右」の軸で運動を評価することが難しい局面が増えているように思うからだ。アラブの春といわれたエジプトのタハリール広場占拠のなかには、世俗的な社会運動からムスリム同胞団などの組織までが共存した。ウクライナのマイダンと呼ばれた反ヤヌコヴィッチ政権運動のなかには明かなネオナチの組織から民主化を求めるリベラルまでが存在した。ギリシアは急進左派と右翼の独立ギリシアが連立を組む。ウォール街占拠運動もまた、左派がヘゲモニーを握るなかで、右翼の介入(主導権を握る試み)が繰り返し指摘されてきた。右翼の反ユダヤ主義は伝統的に多国籍金融資本をユダヤの陰謀とみなす観点をとるからだ。そして、ブレクジットもまた、英国で極右が主導権を握って成功した事例に入れていいだろう。エコロジストの運動もまたいわゆる「エコファシズム」の問題を抱えてきた。つまり、近代工業化以前の社会への憧憬を背景とする「自然」回帰としてのエコロジーが、排外主義とセクシズムを内包するという問題だ。日本でも原発反対運動のなかには、原発に反対するのに右翼とか左翼といった立場を超えた連携が必要だという主張がある。環境からグローバル化まで、その矛盾の山積に対する答えとして、ナショナリズムが(あるいは宗教的な世界観が)急速に力を得てしまっている。「黄色いベスト」運動はこの意味でいって、目新しいこととはいえない一方で、街頭闘争として表出した反政府運動の主導権をこれだけ公然と極右に握られる事態が民主主義の牙城でもあるフランスで起きたことは、深刻なことと受けとめなければならないと思う。

以下では、極右の世界観、あるいは近代資本主義批判について二人の人物をとりあげて批判しておきたい。一人は、一時期トランプ政権にも参画したスティーブ・バノン。もうひとりは、左翼の思想を右翼の文脈に転用してきたフランスのアラン・ド・ブノワである。

4.1 スティーブ・バノンの場合

バノンは、彼の貢献がなければトランプは大統領にはなれなかったとすら言われている影の立役者である。「バノンはトランプに世界観を授けていた。理路整然として、内容も首尾一貫した世界観だ」これがアメリカ第一主義のナショナリズムと移民排斥の主張を生み出した。15

バノンは、伝統主義的なカトリックの家に生れ、海軍で勤務後にハーバードビジネススクールを卒業して1985年から5年間、ゴールドマンサックスでM&A部門に勤務。1990年退社し、投資顧問会社をビバリーヒルズにバノン&カンパニーを設立する。また、日本の商社経由で1億ドルの融資を受けて映画制作会社を設立する。ハリウッドでは多くの企業合併や買収などにたずさわりつつ、映画制作に投資家として関わる。また、香港を拠点にコンピュータゲーム業界にも進出する。その後自身も映画制作そのものに携わるようになる。最初の作品が、the Face of Evil Reagan’s War in Word and Deed。スターリンの粛清からはじまる映画この映画でレーガンが賞賛される。保守派のLiberty Film Festivalで評価される。この映画祭で、バノンはブライトバートと知り合い、後にバノンは極右のニュースサイト『ブライトバートニュース』で仕事をするようになり、2012年に執行役員になる。オバマ政権下では、ティーパーティ運動のサラ・ペイリンを主題としたドキュメンタリーを制作する。『国境戦争』(2006)ではメキシコ国境の移民を扱い、『祖国のための戦い』(2010)、そして『ジェネレーション・ゼロ』(2010)では金融システム批判を題材とした。この映画で彼は、古巣である金融資本を批判するようになる。「1990年代後半、政府、メディア、アカデミズムなど多くの機関の権力は左派によって奪い取られた。こうした立場や権力の座を通じ、彼等は制度を分断し、ついには資本主義体制を崩壊させる戦略を実行することができた」(『ジェネレーション・ゼロ』)という。

このように、バノンは、米国のエンターテインメント産業とネットニュース業界の両方に足掛かりをもち、しかも金融業界の内幕や米軍とのコネクションもちつつ、保守本流をも嫌う一匹狼としてトランプを大統領へと押し上げるための土台を築いた。

  • バノンとトランプ
    移民政策でトランプが排外主義のスタンスを明確にするきっかけになったのが、オバマ政権による2013年の移民法改正法案問題だった。(いわゆる「不法滞在」の移民1100万人に市民権を与えるなど)。トランプはこの年3月の保守政治活動評議会(CPAC)のスピーチで「われわれはアメリカをふたたび強い国にしなくてはならない。アメリカをふたたび偉大な国にしなくてはならないのだ。」と今でも繰り返される主張を展開し、1100万人に市民権を与えれば皆民主党に投票すると危機感を煽った。2014年には、国境州では「まるで門戸開放政策を認めたかのように、この国にひたすら人間が流れこんでいる。彼らには、医療を提供し、教育を施せち、ありとあらゆるものを提供してしかるべきだと思われている。」と批判した。そして2015年には国境に壁を作ると公言することになる。こうした極端な主張を公言するトランプを泡沫ではなく主流に押し上げる上で、バノンが果した役割がいくつかある。ひとつは、ネットの右翼をブライトバードニュースにとりこんだこと。これができたのは、ネットゲーム世界でのバノンの経験が生かされた。ネットの世界では、オルタナティブ右翼(オルタナ右翼、alt-right)が4chanや8chanなどの掲示板で急速に広がりをみせていた時期で、ゲーマーのなかのレイシストやセクシスト好みの記事を積極的に掲載し、ブライトバードニュースサイトに若いネトウヨを引き寄せた。(その実務を担ったのがゲイのテクノリジーブロガー、マイロ・ヤノブルスだと言われている)もうひとつは、最大の大統領候補のライバル、ヒラリー・クリントンを徹底的に攻撃する戦術を展開したことだ。単なる誹謗中傷だけでなく、クリントン財団の金の疑惑を調査報道で暴露する手法を使った。これは、ブライトバートの編集者でもあるピーター・シュヴァイツァーが『クリントン・キャッシュ』として出版し、バノンの映画制作会社によってドキュメンタリー映画にもなる。本書は際物というよりも主流の民主党寄りメディアでも同意せざるをえない内容をもっていたと言われており、この本がヒラリーの人気凋落に果した影響は大きいと言われている。
  • バノンの世界観
    バノンの世界観は、単純なアメリカ・ナショナリズムではない。もっとやっかいなものだ。ジョシュア・グーリンは、カトリシズムの影響もありバノンは社会を歴史的に見ようとし、「文化もむしばむ俗世界のリベラリズムには激しく反発した」という。しかし、単純なキリスト教原理主義ではない。彼はカトリック内の宗教改革やキリスト教神秘主義、東洋の形而上学、禅などに関心をもつが、最も大きな影響を受けたのが、20世紀初頭のフランスの伝統主義哲学者でカトリックからイスラム神秘主義者になった、ルネ・ゲノンだという。グリーンは次のようにゲノンについて説明する。

    「ゲノンは”根源的な”伝統主義学派の思想家であるとともに、ある種の古代宗教の理念を新報した。そうした原初の宗教―ヒンドゥ教ベーダンタ学派。スーフィズム(イスラム教神秘主義哲学)、中世カトリシズム―は、共通する霊的真実をたたえた宝庫で、西洋世界で世俗的な近代主義が台頭するとともに一掃された人類最古の霊的真実を明かにするとゲノンは考えた」

    この奇矯とも見える主張は、日本の文脈に置き換えればある種の「近代の超克」としての伝統の再発見である。このゲノンの主張を継承した20世紀はじめの最も重要な伝統主義哲学者がユリウス・エボラだ。グリーンはエボラを「イタリア知識人で伝統主義学派の面汚し」と書いている。なぜならエボラはイタリアファシズムのムッソリーニ以上にラディカルな立場をとったからだ。(そして、ムッソリーニ以上に戦後の極右の思想家として影響力を維持しつづけた)

    「君主主義者にして人種主義者のエボラは、両大戦間のヨーロッパの政治をカリ・ユガによる堕落に求め、社会的な変革を駆り立てようと具体的な一歩を踏み出した。(略)1938年にはベニート・ムッソリーニと関係を結ぶと、エボラの思想はファシストが唱える人種論の理論的な裏付けをなす。のちにムッソリーニへの興味を失うものの、ゲノンの思想はナチス政権のドイツで広く受け入れられていく。

    バノンは、ゲノンの『世界の終末:現代世界の危機』(1927、邦訳は平河出版)やエボラの『現代世界への反乱』(1934)に書かれた西洋文明の崩壊と超越的存在の喪失といった共通のテーマを通じ、伝統主義学派に対する興味を募らせた。この思想の精神的側面にもバノンは大いに魅了され、ゲノンが1925年に書いた『ベーダンタによる人間とその生成』については「人生を一変させた発見」と語っている。

    バノンのこうした世界観を荒唐無稽として冷笑してすますわけにはいかないところに私達はいる。なぜなら、同じように荒唐無稽な靖国の世界観を抱く政治家たちを政府や権力の中枢にもち、しかも憲法にまで「天皇」という日本の伝統主義の世界を持ち込んでいるからだ。

    グローバリゼーションは、こうした伝統主義の非合理的な世界観の亡霊を復活させた。以下で紹介するベノワも含めて、彼らがグローバル資本主義に対して対置する政治の主要な課題は、西欧のアイデンティティの復権であり、西欧に固有の文化的な価値の復興である。これはイスラームであれヒンドゥーであれ仏教、神道であれ、今起きているレイシズムやセクシズムを正当化し、個人主義に基づく自由と平等を否定する世界規模で生じている反動現象の根源に関わる問題である。

    右翼による資本主義経済批判は、資本主義=近代が基本に据えた物質主義(唯物論)と進歩史観(近代以前の世界の否定)に基いている点を批判のひとつの軸に据える。

4.2 アラン・ド・ベノワの場合

アラン・ド・ベノワ(Alain de Benoist 1943〜)戦後フランスの極右のイデオローグの一人。68年に「新右翼」を標榜して登場する。

彼の著作は経済、文化、ポストモンダンの思想から東洋思想まで幅広い。『底なしの破局の縁で:差し迫った金融システムの破綻』ではリーマンショックの分析から反資本主義を主張した。

資本は、利潤を追求するなかで「資本は徐々に、生産から、投機へと転換し、生産的な投資の機会を提供しなくなる」と説明する。

「今、我々が実際に直面しているのは新しい種類の三つの危機なのである。つまり、資本主義システムの危機、自由主義グローバリゼーションの危機、アメリカのヘゲモニーの危機である。」

「資本主義の永遠の問題は市場の問題である。本源的に、資本主義は、人々から購買力を徐々に奪いつつ、人々により多くのものを売ろうとする。一方で労働から得られた所得の不利益を増大して資本の利潤を得ることを賞賛するが、他方で、最終的には、利潤が上昇し続けるために消費が増大しなければならないことが必然的だということも理解する。賃金を引き下げることは消費を縮小することになる。資本主義のフォーディズムの局面では、人々が生産されたものを消費する手段を欠いていれば、無限に生産を増加させるという目的を維持することはできないことが自覚される。賃金は、消費を支えるという目的だけのために上昇してきた。この局面が今終わろうとしているが、これは「栄光の30年間」の頂点であった。フレデリック・ロルドン(訳注:『私たちの“感情”と“欲望”は、いかに資本主義に偽造されているか?――新自由主義社会における〈感情の構造〉』『なぜ私たちは、喜んで“資本主義の奴隷”になるのか?』いずれも作品社)が「賃金の下方圧力の資本主義」と呼んだものにおいて、消費を支え維持するための賃金上昇というフォーディストの論理は今や廃れた。この場面では、我々は資本主義の主要な形態に回帰する。ここでは、資本と賃金稼得者の収入の分配はゼロサムゲームとみなされ、一方が勝利すれば他方は敗北することになる。」

ベノワは金融危機から三つの教訓を引き出す。

第一に、「リベラル」のテーゼが否定されたということ。個人による利己的な振舞いが全体の利益になるという考え方が否定された。個々人や企業の最大限利潤を追求する行動とそてに必要な規制緩和(レーガンやサッチャー時代以来)は少数の富裕層と大多数の貧困化をまねいた。

第二に、需給の市場による自然な均衡の達成という考え方が成り立たないということ。市場は自律的に均衡を達成できず、危機に陥った大企業を救済するために、結果として国家による支えを必要とする。「金融の世界は自己規制できず、回復するための能力は大半、公的資金の注入に頼る」ことになる。

第三に、資本主義が循環性を有するとされながら、その予測ができたためしがない。経済学は科学だというが、そうであるなら、リスクを合理的な手法で処理し、永続的な成長を達成することを可能にできなければならないが、そうはなっていない。

そして、主流派の経済学(ブルジョワ経済学)を以下のように批判する。

「主流の経済学は危機を予見することもできていないし、危機を解決する手段の確認でも成功していないのはなぜなのか。それは、人間を、言うべきことが多くあるのに、Homo oeconomicusに還元してしまうからだ。社会的なリアリティは、数学の等式によっては理解できない。人間は、常に自分が所有するものを最大化しようとする合理的な存在でもなければ、単なる生産者や消費者でもないからだ。この事実を考慮すれば、不可避的に相互に絡みあう人間的社会的事実からかけはなれた「純粋な経済的客体」を単独でとりだすことは不可能である。新古典派経済学によれば、人間は数字に還元でき、彼の行動は予測できる。現在の危機は、この「透明性」の主張がまちがっていることを証明している。現実には、歴史は予測不可能である。」

量化され経済的合理性に人間を還元する経済学へのこうした批判は、マルスク主義とは言わないまでも左派の批判的な経済学に共通するある種のヒューマニズムと基本的に変わらない立場をとる。

資本主義の永遠性を前提とする経済学の理論を批判して次のように言う。

「存在する全てのものは、その存在をもたらしたことがらによって死ぬというのが事実である。疎外をもたらすあらゆるシステムにも同じことがいえる。つまり、システムに生命を与えるものやシステムが所与の時間に自らを存続させることを可能にすることが、また、その消滅の条件を生み出すということである。資本主義は永遠であるというのが支配的な信念であるが、真実は信用の悪魔と利潤のみの政治イデオロギーは、試みがそのキャリアを永続化させようとしても、究極にはその宿命を避けることはできない、ということである」

このベノワの主張は歴史的な限界をもつものとしての資本主義を明言するが、その先の社会についての構想を伝統への回帰とするところが左翼と明確に異なる。

4.3 移民、資本にとっての予備軍

1973年に当時のフランス大統領、ポンピドウは、大企業のボスたちの要求を容れて、移民の水門を開けた。その理由は、「フランス労働者の賃金の下方圧力を強め、抵抗の情熱を軽減し、加えて、労働運動の団結を破壊するために、安価で階級意識やあらゆる社会闘争の伝統を奪われた御しやすい労働力からの利益を望んだからである。

40年たっても何も変っていない。また、フランスは19世紀以来、移民労働力に依存しつづけてきたことを説明する。戦後は、マグレブからの移民が増える。

ベノワは、戦後のフランスの移民政策を振り返るなかで、日本に言及する。

「労働力不足がある部門で起きるとき、二つのうちのどちらかが生じる。ひとつは、賃金が上昇する。もうひとつは外国人労働力が増加する。」とフラシス・オーラン・バルサは説明する。一般に、フランス雇用者全国評議会(CNPF)が、1988年以降はこれを受け継いだフランス企業運動(Medef)が選択したのが二番目の主張だった。これは短期的な利潤への欲望を身をもって示す選択であり、これによって、生産装置の改善や産業の諸問題でのイノベーションは鈍化した。同時に、実際に、日本の例は、自生種の雇用に有利になるように、日本の西洋の競争相手の多数に先がけて技術革新をおこなうことをこの国に可能にした。

移民は、まず最初から雇用主の現象である。これは今日でもそうである。より多くの移民を求めるのは大企業である。この移民は、資本主義の精神によって、国境を廃止する傾向をもつ。「社会的な投げ売りの論理に従って、「低コスト」の労働市場が惨めでいまわしい違法移民を間に合わせのために形成される。あたかも大企業と極左が手組んだかのように、大企業は彼等の目からみて高価すぎる福祉国家を廃止するために、極左は国民国家をあまりにも古くさいものとして破壊するために」とバルサは言う。これは、共産党とCGTが―これらはラディカルにそれ以来方針を変えてきたが―1981年まで国境を開くというリベラルの原理に反対して、労働者階級の利益を防衛するという名目で闘ってきた理由がこれだ。」

ベノワは、純粋な資本の論理からすれば、移民が資本に利益をもたらすことを否定しない。しかし、彼は、リベラル派のフィリップ・ネモ(レヴィナスとの対話が翻訳されている)を引用しながら、「社会学的な問題」を看過すべきではないと強調する。また専門機関の経済分析評議会(CAE)のレポートを引きながら、労働力不足は伝統的に移民労働力を正当化するときに持ち出される論理だが、失業の時代にこれは妥当しないと批判していることを紹介する。労働力不足の部門は賃金が低すぎることがその原因だというレポートの主張を肯定的に紹介する。

ベノワは、移民現象は資本主義のグローバル化がもたらした現象であるということから、グローバル化を批判するのであれば、国境を開き移民を受け入れるということも否定しなければならないという立場をとる。言い換えれば、資本主義のグローバル化を批判しつつ移民受け入れを肯定するのは首尾一貫しない、という主張だ。

ベノワの議論の全体像を分析する余裕もなければその能力も今の私にはない。しかし、ひとつ言えることは、彼の反普遍主義、あるいは近代合理主義批判を通じて、これらに対置されるより好ましい将来社会が、固有の集団に基く相互に通約しえない文化的なアイデンティティをもつようなところで具体性をもたせようとしている点だ。こうした具体性の根拠を彼はキリスト以前に遡る西欧の伝統的な価値を求める。

マルスクは、市場経済=商品経済の批判の一つの観点に、貨幣的な価値に象徴される抽象化された関係への批判を置いた。商品の価値がその使用価値を支配する関係はその典型であり、モノの使用価値が商品化による価値の支配から解放されるということが、市場経済からの解放のひとつの観点だった。しかし、この議論は、使用価値がいったいどのような意味を内包しているのか、という観点を重視することがなかった。ベノワのような議論を前にして、私たちは、更にマルクスが問わなかった課題、そもそも「使用価値」とはどのようなものであるべきなのか、あるいは、どのようにあるべきではないのか、という問題を考えなければならないところに来ている。モノに固有の意味を与えるのは、人間集団の側である。それが資本によって組織されていないとしても、この人間集団がどのようであるかによって、モノの意味は、時には人々の相互関係に内在する排除と包摂の機能を果す。豚肉は食用としての使用価値があるのかという問題は市場の価格や価値に還元できないだけでなく、文化的な包摂と排除の意味を伴うことは容易に理解されるだろう。これはモノをめぐる生態学や食品添加物などがもたらす医学上の影響といった問題とは違うレベルのことだ。ベノワのような右翼は、こうしたモノのカテゴリーを伝統の価値に沿って再構成することを通じてコミュニティのアイデンティティを確保しようとする。では、左翼にとって、モノの具体性の意味はどのように構築されるべきなのだろうか?このようなことは問われてきただろうか。

5 反資本主義の課題とは何か―極右の台頭に抗するために

極右の主張の特徴を列挙すると

  • 反グローバリズム→コミュニティを基盤に据えた社会システム
  • 反中央集権→コミュニティのアイデンティティ重視
  • 反貧困→自民族中心の「平等」。排除に基づく「平等」
  • 議会制民主主義への懐疑→直接民主主義、政治的な特権層の否定
  • 進歩史観の否定と「近代」の超克→西欧文明の危機
  • 「伝統」の再発見→危機への対抗軸としての自民族の伝統の再発見
  • 在来種主義(ナチュラリズム)としてのエコロジー→「伝統」の敵対者としての移民、難民
  • 白人至上主義と家父長制的なジェンダー意識→家族と性役割の規範を「伝統」に求める
  • レトリックとしての「反資本主義」→リベラリズムの理念(自由と平等)の否定=「伝統」に基づく権威主義の復興
  • ユダヤ=キリスト教への批判としての「異教主義」あるいは「神秘主義」
  • マルクス主義思想の横取り→資本主義批判(貧困と資本の搾取)を摂取しつつスターリニズムを生み出した20世紀の社会主義、共産主義とその源泉の拒否

イデオロギー的な背景は複雑だ。しかし、多くの極右思想がおおむね共有しているのは、次のような傾向だと思われる。

  • シュペングラー『西洋の没落』への高い評価
  • 反啓蒙主義。ニーチェやドイツロマン派(たとえばワーグナーのような反近代主義
  • ルネ・ゲノンなどの神秘主義
  • ヒンドゥー主義など東洋の宗教や神秘主義
  • オットー・シュトラッサーなどナチス左派(ヒトラーに粛清された国家社会主義者たち)
  • 歴史修正主義(ホロコースト否定論、ユダヤ陰謀論)
  • ユーラシア主義(アレクサンダー・ドゥギン)

これらはどれをとっても重い課題である。以下では、ごく一言づついくつかの論点についてコメントするにとどめたい。

5.1 敵を個人の人格に還元すべきではない

安倍であれトランプであれ、運動がターゲットにしやすいのは、独裁、権威主義、極右、宗教原理主義を代表する個人になりがちだ。しかし、こうした個人をターゲットにする運動が、当該の問題とされる個人を誰か別のより好ましい人物に置き換えさえすれば問題が解決されるかのような対応に陥る危険性がある。とりあえず安倍よりマシな自民党の誰か、あるいは望むべくは野党が政権をとってくれればマシになるハズ、という期待だ。

歴史の教訓は、残念なことに、こうした期待が常に裏切られてきた、というものではないだろうか。ごく短い期間、社民党の村山政権の時代、自衛隊を合憲として容認したのではなかったか。当然のことだが、システムそのものが構造的に抱えている問題は、システムそのものを解体しない限り解決はされない。それを個人の問題に置き換えることはできないし、よりマシと思われる誰かが政権についたとしても解決されない。

5.2 資本主義の構造とその抵抗主体

どの社会システムも構造的な矛盾を抱え、この矛盾のなかで、抵抗の主体が構築される。抵抗の主体をシステムの側は、システム内部の矛盾として回収してシステムを再構築する。社会システムは歴史的な構造だから、こうした一連の抵抗の弁証法が機能できなくなると、構造そのものが解体に向う。

資本主義という歴史的な時代を形成してきた社会システムは二つのサブシステムを統合して成立してきた。

ひとつは、資本による市場経済的な価値増殖のシステム。もうひとつが、国家による政治的な権力の自己増殖システム。前者は、経済的価値を担い、後者は国家という幻想的な共同体に収斂する非経済的な価値の担い手となる。経済的な価値は、近代社会では市場経済が支配的であることによって、市場の貨幣的な価値の評価によって一元的に把握可能な側面がある。この側面に着目して、資本の価値増殖がもたらす矛盾を、賃労働者に対するの搾取として明かにしたのがマルクスの資本主義批判だ。しかし、この批判は、資本主義総体の批判というよりも、資本主義のシステムに果す資本の機能が労働者にもたらす深刻な経済的な抑圧という側面に限定されている。だから、貧困の問題、経済的な平等がこの領域では、重要な関心となる。この批判は資本主義批判の核心の一部をなすが、その全てではない。

5.3 マルクスの資本主義批判=資本批判の限界

マルクスもエンゲルスも国家が果す権威主義的な権力効果を過少評価した。資本の手から生産手段を奪い返した労働者階級が、その生産物を平等に分配するために国家の装置を利用するとしても、それは生産物の分配のための道具にすぎず、それ自体に権威も支配も生じないとみなした可能性が高い。しかし実際は、国家はこうした平等な分配装置であるだけでなく、民衆を統合する装置ともなった。たぶんプロレタリア独裁は資本主義的な資本の独裁よりもより平等でありうる可能性をもつが、そうなるかどうかは国家の統治機構が官僚であれ労働者の評議会であれ、意思決定過程そのものの平等という政治的な平等の問題をクリアできなければならない。20世紀の社会主義の「実験」は、国民国家の装置を利用した経済的平等あるいは資本の廃棄=社会主義という路線は、当初想定されたような労働者の解放には結びつかなかったということだろう。

5.4 アナキズムによる国家の否定の限界

他方で、権力の自己増殖システムは、近代国家批判として、アナキズムが主要に関心を寄せてきた領域だといえる。人間が集団を組む場合に、いかなるレベルであれ、集団の「統治」という問題を避けることはできない。権力は、権力の自己維持のために自立的な運動を展開する。それが官僚機構であれ評議会であれ、それ自体には権力の再生産を規制するメカニズムが必然だとはいえない。つまり、権力を―近代であれば国家を―廃棄する内在的な駆動力は意識的な制度設計がなされない限り、不在である。問題は、不在であるこの権力の自己維持機能が軽視されて、理性とか階級的な進歩とか、時には神なども持ち出して、権力の正当性を維持しようとする。他方で、この統治の問題は、人間にとっての平等とともに最も重要な権利としての自由と相反関係にある。同時に、近代市場経済は、個人の自由を近代以前の社会との比較において格段に拡げたことは事実だ。とりわけ、「貨幣」の匿名性は経済的な自由を支える中核をなしてきた。この意味で、市場経済は「自由」の土台をなす側面がある。この側面が強調されると、国家の権威主義的な介入や国家権力による自由への干渉を否定する手段として、市場経済の自由を最大限に拡張することを肯定する資本主義的アナキズムの主張が登場することにもなる。

5.5 物質性と身体性と不可分な文化とイデオロギーこそが資本主義の「土台」をなしている

資本主義が物の生産を通じて〈労働力〉の再生産と統治機構=権力の再生産を維持するという回り道をとってきた20世紀前半から、それ以降、この過程を維持しつつ、主要なシステムの維持を、社会を構成する人間そのものを資本主義の意識として直接生産する過程へと転換してきた。その結果が、コミュニケーションを資本と国家が包摂する情報資本主義をもたらした。

人間は、象徴作用を伴うモノによって世界を生きている。その端的な現れが言語としての「ことば」だが、それだけでなく身体言語のように非言語的なコミュニケーションから、合理的な理性によっては把握できない非合理的な世界―神の観念とか「夢」や「無意識」の世界、あるいは諸々の神秘的と言われる経験まで―である。どのような社会の支配的なシステムもこうした人間の非合理的な側面を包摂する。その枠組を「文化」と呼ぶわけだが、これを資本と権力の再生産の外部に与件として措定せざるをえないところから近代資本主義は始まった。これは人間を全面的に支配することができないシステムの弱点を意味していたが、それを20世紀の資本主義は包摂するようになる。その端的な現れが、19世紀から20世紀にかけて急速に開発されてきた精神医学、心理学といった領域の権力作用である。

同時に人々の労働は、物を対象とする労働から人を対象としてコミュニケーションを介して人々を制御する労働が中心をなすようになる。資本と国家の意識を内面化することが人々の〈労働力〉としての最低限の条件となる。反資本主義とは、経済的な搾取からの解放ではまったく不十分になったのだといえる。反資本主義の課題は、資本と国家に従属する労働化されたコミュニエーションからの解放である。しかし、この課題は、コミュニケーションが「言語」と不可分であるために、「言語」の解放という問題を含まざるをえない。言いかえれば、こうした過程を経ることなしに、右翼が武器とする伝統や文化を武装解除することはできない。この課題に失敗した20世紀の社会主義がほとんど国家社会主義となった教訓は、むしろ私たちにとって、次の時代の重要な基礎を与えてくれるにちがいない。とはいえその犠牲は余りにも大きく、その犠牲の責任を、少なくとも、マルクス主義に多かれ少なかれ依存してきたという自覚がある私は、ある意味で負いつづけなければならないと感じている。

Footnotes:

1 “I faced threats for being ‘outspoken'” https://www.bbc.co.uk/programmes/p06zdypy

2 こうした問いを発する私にとって、あたかも大衆は私の外部にあるかのようだ。そしてまた、大衆と呼ばれて十把一絡げにされる集団の存在を、その集団を構成する一人一人の存在への敬意もなしに扱うような方法がいいとは思えない。こうした違和感を感じながら書いている。

3 Ukraine’s Fractures. An interview with Volodymyr Ishchenko for New Left Review. http://www.criticatac.ro/lefteast/ukraines-fractures-nlr-interview-with-ishchenko/ ヨーロッパから東欧、旧ソ連圏にかけての極右のロシアへの評価は「反ロシア」として括ることはできない。ロシアの極右はヨーロッパの極右と連携する側面もあり、更に、ロシアの極右は、反ソというわけでもなく、むしろスターリンへの評価が高い場合もあり、「国家社会主義」を主張する場合は自由主義よりも社会主義を肯定する側面もある。

4 黄色いベストたちの要求
http://attaction.seesaa.net/article/463103573.html
以下のうち●印は、注目すべき論点 ▼は小倉のコメント
フランスの代議士諸君、我々は諸君に人民の指令をお知らせする。これらを法制化せよ。

  1. ホームレスをゼロ名にせよ、いますぐ!
  2. 所得税をもっと累進的に(段階の区分を増やせ)。
  3. SMIC〔全産業一律スライド制最低賃金〕を手取り1300ユーロに。
  4. 村落部と都心部の小規模商店への優遇策(小型商店の息の根を止める大型ショッピング・ゾーン〔ハイパーマーケットなど〕を大都市周辺部に作るのを中止)。+ 都心部に無料の駐車場を。
  5. 住宅断熱の大計画を(家庭に節約/省エネを促すことでエコロジーに寄与)。
  6. 〔税金・社会保険料を〕でかい者(マクドナルド、グーグル、アマゾン、カルフールなど)はでかく、小さな者(職人、超小企業・小企業)は小さく払うべし。
  7. (職人と個人事業主も含めた)すべての人に同一の社会保障制度。RSI〔自営業者社会福祉制度〕の廃止。
  8. 年金制度は連帯型とすべし。つまり社会全体で支えるべし〔マクロンの提案する〕ポイント式年金はNG)。
  9. 燃料増税の中止。
  10. 1200ユーロ未満の年金はNG。
  11. 〔地方議員も含めた〕あらゆる公選議員に、中央値レベルの給与を得る権利を。公選議員の交通費は監視下に置かれ、正当な根拠があれば払い出される。〔給与所得者の福祉の一部である〕レストラン利用券とヴァカンス補助券を受ける権利も付与。
  12. すべてのフランス人の給与と年金・社会給付は物価スライド式とすべし。
  13. フランス産業の保護:〔国内産業を空洞化させる、工場をはじめとする〕事業所の国外への移転の禁止。我々の産業を保護することは、我々のノウ・ハウと雇用を保護することである。
  14. ●〔東欧等からの〕越境出向労働の中止。フランス国内で働く人が同じ給与を同じ権利を享受できないのはおかしい。フランス国内で働くことを許可された人はみなフランス市民と同等であるべきであり、その〔外国の〕雇用主はフランスの雇用主と同レベルの社会保険料を納めるべし。▼東欧からの移民を排除するためのレトリック。東欧本国の労働条件がフランス国内と同一になれば、フランスへの移民が減る、という理屈は一見すると否定できないが、ここでの要求の目的は、移民の排斥にあり、移民排斥の手段として机上の空論が持ち出されているにすぎない。
  15. 雇用の安定の促進:大企業による有期雇用をもっと抑えよ。我々が望んでいるのは無期雇用の拡大だ。
  16. CICE〔競争力・雇用促進タックスクレジット〕の廃止。この資金〔年200億ユーロ〕は、(電気自動車と違って本当にエコロジー的な)水素自動車の国内産業を興すのに回す。
  17. 緊縮政策の中止。〔政府の国内外の〕不当と認定された債務の利払いを中止し、債務の返済に充当するカネは、貧困層・相対的貧困層から奪うのではなく、脱税されている800億ユーロを取り立てる。
  18. ●強いられた移民の発生原因への対処。▼右翼は、移民は移動を強いられているとみることがある。つまり、人間はそもそも、自分が生まれ育った土地で暮すことが最適な生存条件だという前提にたつ。移民の発生原因は紛争や貧困にあるが、要求(14)同様、ここでの要求の目的は移民の排除。社会的な流動性が高まるような経済や安全保障の環境を否定し、地域の安定を閉鎖社会としてイメージする。右翼のなかには、こうした考え方から、国外での積極的な武力行使に反対し、こうした世界規模での不安定な環境を生み出すグローバル化にも反対する。その理由は、伝統的な社会(コミュニティ)の安定、つまり伝統的な集団のアイデンティティを重視するので、異質な文化がコミュニティに入りこむことを嫌う。この考え方は、日本の江戸期の鎖国が生み出した平和が、明治期以降の帝国主義的な侵略へと転換したときに、異質な他者の排除という精神性と文化を下支えする結果になったことと比較して考えてみることもできる。異質なものを排除し、同質性に基く平和は、本来の意味での平和とは何の関係もない擬制の平和だが、こうした平和がむしろ戦後日本の「平和」の基本理念になってしまったともいえる。
  19. ●難民庇護申請者をきちんと待遇すること。我々には彼らに住まい、安全、食べ物、それに未成年者には教育を提供する義務がある。難民庇護申請の結果を待つ場となる受け入れ施設が、世界の多くの国々に開設されるよう、国連と協働せよ。▼フランスを念頭に置いているようでそうなっていないところが「ミソ」かもしれない。難民申請の適正化と難民施設をフランス国外に設置すべきだ、そうすれば、フランスまで難民はやって来ない、というのが本音ではないか。
  20. ●難民庇護申請を却下された者を出身国に送還すること。▼トランプのメキシコ国境政策とほぼ同じ主張。
  21. ●実質のある〔移民〕統合政策を実施すること。フランスに暮らすことはフランス人になることを意味する(修了証書を伴うフランス語・フランス史・公民教育の講座)。▼多様な文化を受け入れるのではなく、フランスの文化に同化することが移民としての受け入れの大前提。
  22. 最高賃金を15000ユーロに設定。
  23. 失業者のために雇用を創出すること。
  24. 障がい者手当の引き上げ。
  25. 家賃の上限設定 + 低家賃住宅(特に学生やワーキング・プアを対象に)。
  26. フランスが保有する財産(ダムや空港など)の売却禁止。
  27. ●司法、警察、憲兵隊、軍に充分な手立て〔予算・設備・人員〕の配分を。治安部隊の時間外労働に対し、残業代を支払うか代替休暇を付与すること。
  28. ●自動車専用道路で徴収された料金は全額、国内の自動車専用道路・一般道路の保守と道路交通の安全のために使うべき。
  29. 民営化後に値上がりしたガスと電気を再公営化し、料金を充分に引き下げることを我々は望む。
  30. ローカル鉄道路線、郵便局、学校、幼稚園の閉鎖の即時中止。
  31. 高齢者にゆったりした暮らしを。〔劣悪介護施設など〕高齢者を金儲けのタネにするのを禁止。シルバー世代の金づる化はもうおしまい、シルバー世代のゆったり時代の始まりだ。
  32. 幼稚園から高校3年まで、1クラスの人数は最大25人に。
  33. 精神科に充分な手立て〔予算・設備・人員〕の配分を。
  34. 人民投票の規定を憲法に盛り込むべし。わかりやすく、使いやすいウェブサイトを設けて、独立機関に監督させ、そこで人々が法案を出せるようにすること。支持の署名が70万筆に達した法案は、国民議会で審議・補完・修正すべし。国民議会はそれを(70万筆達成のちょうど1年後に)全フランス人の投票にかけるよう義務づけられるべし。
  35. 大統領の任期は〔国民議会の任期と同じ現行の5年から〕7年に戻す。(以前は〔大統領選の直後ではなく例えば〕大統領選から2年後に行われていた国政選挙により、大統領の政策を評価するかしないかの意思表示ができた。それが人民の声を聞き届かせる方法の一つになっていた。)
  36. 年金受給は60歳で開始。肉体を酷使する職種に従事した人(石積み作業員や食肉解体作業員など)の場合の受給権発生は55歳に。
  37. 6歳の子どもは独りにしておけないから、扶助制度PAJEMPLOI〔保育支援者雇用手当〕は子どもが〔現行の6歳ではなく〕10歳になるまで継続。
  38. 商品の鉄道輸送への優遇策を。
  39. 〔2019年1月1日から施行の〕源泉徴収の廃止。
  40. 大統領経験者への終身年金の廃止
  41. クレジット払いに関わる税金の事業者による肩代わりの禁止。
  42. 船舶燃料、航空燃料への課税。

このリストは網羅的なものではないが、早期に実現されるはずの人民投票制度の創設という形で引き続き、人民の意思は聞き取られ、実行に移されることになるだろう。
代議士諸君、我々の声を国民議会に届けよ。
人民の意思に従え。
この指令を実行せしめよ。
黄色いベストたち

5 https://www.breitbart.com/tag/yellow-jackets/

6 トランプのツイッター https://twitter.com/realDonaldTrump/status/1071382401954267136

7 French Yellow Vests, the Far Right, and the “Russian connection”http://www.tango-noir.com/2018/12/12/french-yellow-vests-the-far-right-and-the-russian-connection/

8 CasaPoundは2003年に、ローマで生まれたネオファシスト組織。ローマの公共施設の住宅占拠運動から出発している。反移民、伝統的な家族の尊重(LGBTQん権利否定)だが、他方でゲバラやチャベスの闘争を支持する。政治的な立場は左右を越えた「第三の立場」と呼ばれるものになる。https://en.wikipedia.org/wiki/CasaPound

9 ロシアの政府寄りの報道機関の日本語版、スプートニク日本の記事「BBC、仏抗議運動への「露による干渉」証明を職員らに要求」 https://jp.sputniknews.com/incidents/201812165715886/ 「露外務省 BBCが仏抗議行動での「ロシアの痕跡」模索に躍起と痛烈批判」https://jp.sputniknews.com/politics/201812175717904/

10 前掲、French Yellow Vests, the Far Right, and the “Russian connection。

11 11月13日、ウエッブ https://france.attac.org/

12 http://etincelle-noire.blogspot.com/

13 フランス語
http://www.euronomade.info/?p=11351
英語
https://www.versobooks.com/blogs/4158-french-insurrection

14 フランス語は
https://lundi.am/Contribution-a-la-rupture-en-cours
英語は
https://crimethinc.com/2018/12/07/contribution-to-the-rupture-in-progress-a-translation-from-france-on-the-yellow-vest-movement

15 この項目は、ジョシュア・グリーン『バノン、悪魔の取引』(秋山勝訳、草思社)を参考にした。

Date: 2019/2/2

Author: 小倉利丸

Org version 7.6 with Emacs version 25

1968年―89年―そして世界と日本の現在を考える:分断の時代を越える2.2シンポ

1月12日(土)巧妙になる市民監視:私たちの対抗アクションは?+セキュリティの入門実践セミナー

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巧妙になる市民監視

私たちの対抗アクションは?
********************
◆お話 小倉利丸さん(盗聴法に反対する市民連絡会)

◆運動の現場から
★共通番号いらないネット(共通番号・カードの廃止をめざす市民連絡会)
原田富弘さん
★すべての基地にNOを!ファイト神奈川
木元茂夫さん・星野潔さん
★共謀罪、盗聴法などの運動体から
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◆日時:2019年1月12日(土) 15時30分〜18時
◆会場:かながわ県民センター301号室
◆資料代 500円
◆主催:監視社会を考える1.12集会実行委員会
盗聴法に反対する市民連絡会
共通番号いらないネット
住基ネットに「不参加」を!横浜市民の会
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
共謀罪、秘密保護法、盗聴法改悪、共通番号制と監視立法が次々に成立しました。
2019年5月には天皇代替わり、2020年には東京オリンピックが開催されますが、
テロ対策の強化を名目にこれらの監視立法が私たち、市民活動の様々な自由(集会・
結社の自由)を脅かすようになってきました。

特に、共謀罪の成立を踏まえて、こうした監視への対抗手段、私たちがやれる市民のためのサイバーセキュリティなど、海外のアクティビストの実例などを紹介しながら、「仲間のセキュリティを守る」「市民みんなのセキュリティを守る」ことを通じて、言論・表現の自由や人権の確保を目指すために何をしたらいいのかを考えたいと思います。

一方、私たちも日常生活のなかでスマホや家電が便利なツールとして「安心・安全」のための監視機能を担うようになり、市民一人ひとりが監視する側にもなっていると思います。私たちの運動を広げていくために欠かせない、ケイタイやパソコンなどのコミニュケーションの道具の見直しから実践することも大切なライフスタイルの変革になるはずです。ご一緒に考えてみませんか。


この集会の終了後、同じ会場で、実際に自分達のネットのセキュリティの防衛について、パソコンやスマホを操作しながらの実践セミナーを開催します。

自分達の日常生活や活動の必需品であるパソコンやスマホを監視社会の脅威から少しでも守り、私たちのプライバシーの権利や市民的自由を確実なものにするための、誰にでも出来るちょっとした作業を参加した皆さんと実際にやってみます。お時間の許す方はぜひご参加ください。

◆日時:2019年1月12日(土) 18時30分〜20時30分

◆会場:かながわ県民センター301号室

会場費:カンパ

主催:盗聴法に反対する市民連絡会有志

連絡先:070-5553-5495 rumatoshi@protonmail.com (小倉)

ナビゲーター:小倉利丸

内容

・GmailやYahooメールなどや契約しているプロバイダーのウエッブメールはメール本文を含めて第三者に読まれるリクスがあります。暗号化されたメールサービスを使うことでこのリスクを回避します。日本語に対応し、パソコンでもスマホでも使えるスイスに拠点を置くProtonmailやドイツのTutanotaを紹介し、そのインストールや使い方を実際にやってみます。

・tuitterやLine、あるいはSkypeなどは、個人情報が第三者に取得される危険性があります。通話、ショートメッセージ、ビデオ通話などを暗号化して第三者による通信内容の取得ができないサービスにSignalがあります。このSignalをスマホのアプリとしてインストールしてその使い方を実際にやってみます。

・Torブラウザ。ウエッブにアクセスすることによって、アクセス先は多くの情報を取得します。こうした情報の取得をさせないでウエッブを閲覧できるTorブラウザをインストールして使いかたを実際にやってみます。 そのほか参加された皆さんの希望や意見をふまえて内容が変更されます。また、時間の制約もあるので、全てを行なうことができない場合もあります。ご了承ください。


(日程変更のお知らせ)2月5日に変更:5回小倉利丸著『絶望のユートピア』 (桂書房) を枕に 社会を変える夢を見るための連続講座

ATTACの『絶望のユートピア』 (桂書房) を枕に 社会を変える夢を見るための連続講座の日程を申し訳ありませんが、下記のように変更させていただきます。予定を組んでいただいていたかもしれません。ご迷惑をおかけして大変申し訳ありません。ご参加いただけるようであればよろしくお願いします。

なお本はお持ちでなくても構いません。また、当日購入される方は後払い、分割払いでお渡しします。

当日の参考資料「労働概念の再検討:労働の廃絶論をめぐって」 (下記のリンクからダウンロードしてください)
https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/wp-content/uploads/2019/02/roudouhaizetu.pdf

新規の日程
2月5日(火)19時から
場所 ATTAC首都圏事務所
千代田区神田淡路町 1-21-7 静和ビル 1 階 A
地下鉄「小川町」B3出口。連合会館の裏手です。
https://www.mapion.co.jp/m2/35.69575861,139.76569319,16
事前に読んでくる必要はありません。1 話完結の 5 回連続。途中参加・途中欠席可。参加費は 500 円

テーマ:「労働概念の再検討」
資本主義批判のなかで「労働」批判は重要な柱です。伝統的な考え方では、主に資本による労働者の搾取を「剰余労働」、つまり利潤の源泉になる労働に焦点をあてて批判してきました。しかし、この考え方では、そもそも労働者が働くということの意味や、「具体的有用労働」と呼ばれる使用価値を形成する労働そのものに内包されている問題を正面から扱うことができませんでした。実は、人びとが自分の<労働力>を資本に売って生活することの最大の問題は、労働時間全体が資本の意志に従属せざるをえないということ自体にあります。働くことを倫理や道徳によって称揚する一方で、働くことの根源的な意味を資本主義が人びとに納得させたことは一度もありません。

しかも、伝統的な資本主義の製造業や農業の世界と違って、現代では、圧倒的に多くの人びとは、人間を相手に労働をしています。営業の仕事であれ、事務職であれ、医師や看護師であれ、教師であれ、あるいは家事労働であれ、労働の対象は人間(店の客、会社の同僚、患者、生徒、妻た夫や子ども)です。労働者は、資本の意志を内面化させながら、人の欲望や知識や感性をコントロールすることを労働にています。こうした社会は、かつての階級闘争のモデルのような物づくりの労働者の連帯の戦略では対応できない問題を抱えます。コミュニケーションが労働になった世界は、人びとの世界観や価値観からイデオロギーに至るまでを労働によって再生産する社会になります。

同時に、伝統的な資本主義の世界同様、人びとは分裂して相互に内的な関連性をもつことができない断片した時間を日々横断しながら過します。私的な生活空間と職場との間には有機的な繋がりは一切ありません。職場の仕事は「私」の人生や生活にとって賃金とリンクする以外に意味をもつものではありません。夫婦も親子も、異る生活時間をばらばらに過しながら「家族」という幻想を共有するような意識を構築します。ほとんど全ての人びとは、この支離滅裂な時間を「当たり前」のようにして暮せる精神性を資本主義は再生産するのです。この奇妙で異常な日常こそが「正常」とみなされる社会が資本主義であり、その核心部分に労働という「意味」を剥奪された行為が居座っています。

19世紀の資本主義は、それまで精神医学という新な領域を「病い」としてカテゴリー化し、更に心理学も発達するようになります。資本主義がメンタルな領域に固有の問題を抱えてきたことの表れですが、こうした問題を、資本主義批判=労働批判の文脈で議論することはあまり注目されてきませんでした。しかし、上述したように、合理的な一貫性のない日常の分断された時間がもたらす人びとの意識への深刻な傷の問題は、資本が組織化する労働に人びとが動員される構図と不可分なものといえます。

そしてまた、この分断された日常の不合理性は、ナショナリズムの基盤をもなすといえます。資本主義の合理的な世界がもたらした不統一な日常のなかで、そしてまた市場経済が強いる相互の競争のなかで、人びとが相互の共感を生み出すものとして、一体感を構築する仕掛けとして国民国家のイデオロギーが機能します。労働者は「国民」として再生産されるという構造は、教育から社会福祉まで一貫した前提をなします。こうして人びとは、支離滅裂で無意味な労働と私生活の時間を「国家」や「国民」の神話で埋めあわせられるような仕掛けが用意されます。労働の無意味さと国家の神話作用は、資本主義の表裏一体のものです。この意味で、階級闘争は、国家を越えることなしには、国民的階級闘争、つまりあの忌しい国家社会主義に収斂する危険性を孕むことになります。

当日はこうしたお話をすこしして、皆さんとの議論に時間をなるべくとりたいと思います。よろしくお願いします。

小倉利丸

暗号化メールサービス、Protonmailの導入から使い方まで

Protonmailの導入から使い方までを、以前、antisurveillanceのサイトで公開しましたが、Protonmailの日本語化などをふまえて、改訂して下記に置いてあります。なるべく初心者の方でもアカウントをとって使えるようにと思い書いたつもりです。これを機会にちょっと試してみたいという方、使ってはいるけれどもよくわかってないという方もいると思います。参考になさってください。

監視社会からの自由を

Protonmailにアカウントを登録する
https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/knowledge-base/protonmail-account/
Protonmailのアカウント設定を確認する
https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/knowledge-base/protonmail-account-setting/
Protonmail:メールの読み書き、分類など
https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/knowledge-base/protonmail-receive-send/

サイバーセキュリティに政府も企業もメディアも大きな関心を寄せているが、いずれも、関心の中心は、国益や企業の利益やセンセーショナルな視聴率稼ぎといったところにあり、さらに、国際的な緊張関係のなかで、「サイバー戦争」や「サイバーテロ」といった話題が先行し、結果として、ネットワークは高度な監視の道具になってしまっている。こうしたなかで私たち一人一人のコミュニケーションの権利、言論表現の自由や思想信条の自由を防衛するために、法律が果せる役割は非常に限られており、多くの場合、技術が法律の裏をかくことが横行している。コミュニケーションの権利を第一にして、国家間の摩擦が作り出す緊張ではなく、人々のフラットな交流の場所を創造するためには、コミュニケーションの権利を防衛する技術を確実に私たちの手のなかに維持しておく必要がある。たぶん、こうした観点にたったとき、ネットの匿名性や暗号化、あるいは尾行・追跡されない行動の自由のための技術は私たちの権利の防衛にとっての必須の武器でもある。暗号化のメールサービスはこの意味でとても重要な貢献をしていると思う。

(抄訳)フランスの黄色いベスト運動:「エコロジー」、「ネオリベラリズム」、「非政治性」の間

以下に訳出したのは、Crimethincに掲載された「黄色いベスト」運動の分析である。この論文の後半部分を訳出した。


フランスにおける黄色いベスト運動

数週間前、マクロン政権は、2019年1月1日に再びガソリン増税をし、全面的にガソリン価格を引き上げると公式に発表した。 この決定は、「グリーンエネルギー」への移行の一歩とだと正当化された。

ディーゼル車は、通常のガゾリン車より安価なのでフランスの車の3分の2を占める。政府は、何十年もの間ディーゼル車購入を促進する政策をとってきた後で、ディーゼル燃料はもはや「環境にやさしい」ものではなく、人々は車と習慣を変えるべきだと決めつけた。マクロンは、政権当初、超富裕層の所得税減税を実施した。たとえ裕福層がエコロジー的に有害な産業活動が生み出す利益から恩恵を受けていたとしても、エコロジー的に持続可能な技術に移行するために富裕層の課税を利用することはなかった。その結果、マククロンのガソリン税に対するエコロジーについての議論はほとんど無視されてきた。多くの人々は、貧困層に対するもう1つの攻撃として、ガソリン税増税の決定を理解したのだ。

フランス政府は、エコロジーと労働者のニーズとの間に、この誤った二分法を作り出した責任がある。何十年にもわたる空間計画で、大都市圏では経済活動と雇用機会が集中して公共交通機関が発達したが、農村部は隔離され、他に選択肢がなければ、多くの人々は現在では、完全に車に頼って生活し、仕事をする状態になった。

料金所の封鎖

Macronのガソリン増税の発表に対して、インターネット上での組織化が始まった。ガソリン価格上昇に反対するいくつかの嘆願がオンライン署名でウィルスのように広がり、本稿執筆時点で、100万の署名に逹っした。その後、2018年9月17日、運転手の団体は「燃料の過剰な課税」を非難して、メンバーに課税を認めないことをしたためた手紙とともにマクロン大統領にガソリン支払いのレシートを送りつける運動を始めた。2018年10月10日に、2人のトラック運転手がFacebookのイベントを作成して、2018年11月17日にガソリン価格の上昇に対して全国的な封鎖を呼びかけた。その結果、FacebookやTwitterで、大統領の決定への攻撃が行なわれ、いかに自分達の経済状況が苦しいかを説明し、増税はこうした状況を悪化させるだけだと主張した。

全国的な呼びかけの前夜には、全国の約2000のグループが、道路、有料道路の料金所、ガソリンスタンド、および製油所を封鎖する意思を表明したり、少なくともデモを実行した。

この日、誰が参加者かがわかるように、デモ参加者は黄色の緊急用ベストを着用することを決め、車にこのベストを表示することで、共感する人々に行動の支援を意思表示するよう呼びかけ。このベストというシンボルの意味は、すぐに十分理解できるものだ。フランスの運転手は、運転中に事故その他の問題が発生した場合に備えて、車内に緊急用ベストを保管することが義務づけられている。自動車依存を考ると、生活条件が悪化する恐れがあることから、抗議者はこれらの緊急用ベストをマクロンの決定に対する抵抗の象徴として選んだ。そして、抗議者とメディアは「黄色いベスト」運動と呼ぶようになった。

11月17日のナントの近くの封鎖。

11月17日の週末に何千もの行動が起きた。全国封鎖の最初の日には、約288,000の「黄色いベスト」の抗議者が路上にいた。特に労働組合や他の主だった組織からの支援を受けていなかったことを考えれば、これは、この運動の成功だった。

残念なことに、 「黄色いベスト」と他の人たちとの間で争いが起きて事態が悪化した。 60代の女性で「黄色いベスト」の抗議者が、病気の子どもを医者に連れて行こうとして封鎖を突破しようとした母親の運転手に殺され、黄色いベストの人々が車を叩き始めた。全部で400人以上が負傷し、1人の抗議者が殺され、その週末に約280人が逮捕された。

こうした事件にもかかわらず、運動は依然として強く、参加は減少したが、封鎖は翌日も続いた。政府への圧力を維持するために、「黄色いベスト」は、次の土曜日11月24日(土)に全国行動を呼びかけた。再びFacebook上で、様々な「黄色いベスト」グループが、フランス全土での行動とデモを企画し、大規模デモでパリに集結するよう呼びかけた。

放水銃に面した抗議者。 このイメージは勇気づけられているかもしれないが、極右の国家主義アクションフランセーズは、この写真が彼らの活動家たちだと主張している。「秩序の力に逆らってフ前線を形成する」https://twitter.com/search?f=tweets&vertical=default&q=crimethinc&src=typd

当初このデモは、エッフェル塔近くのシャン・ド・マルスで計画されたが、そこを法執行機関が抗議者を取り囲んで閉じ込めた。しかし、この公式決定に満足しない一部の「黄色のベスト」がおり、ソーシャルメディア上で別の呼びかけがなされた。11月17日のパリでのデモは、その目標である大統領府には到達できなかた。その結果、パリに集結していた「黄色いベスト」たちは、11月24日に再度挑戦することを決めた。エッフェル塔下に集まるよりもむしろ、人々は強力な象徴的地位をもつシャンゼリゼに結集して封鎖した。この豪華な通りは、パリで最も訪れる人の多いところで、マクロン大統領が住むエリゼ宮殿は、この道の終点にある。

彼らが前の週にやったように、デモ隊は大統領府にできるだけ近づこうとした。バリケードを作っての対峙が、最も有名なパリの通りで終日行われた。この第2ラウンドの行動は、フランス全土で約10万6000人が集まり、パリでは約8000人が集まったと報じられている。これらの数字は、運動が勢いを失っていることを示唆している。パリのデモ中に、衝突で24人が怪我をし、103人が逮捕された。うち101人が拘束された。最初の裁判が11月26日月曜日に行われた。

シャンゼリゼ通りの焚き火。

この運動はどのような性格のものなのか?

「黄色いベスト」運動は、自発的で水平的であり、指導者のいないものとして描かれている。この主張を確証することは困難だ。この運動はソーシャルメディアを介して開始され、これが、何を自分がやりたいのか、どのようにやりたいのかをローカルで決める脱中心的な行動を促進した。この点で、明らかに何らかの水平に組織するような事態があることは明らかだ。

この運動が本当に指導者のないものかどうかについては、もっと複雑だ。最初から、「黄色いベスト」は、自分達の運動が「非政治的」で、指導者はいないと主張してきた。代わりに、彼らは共有された怒りに基づいて一緒に運動する人々のいくつかのグループの有機的な努力によるものだとされた。

にもかかわらず、実質的にすべてのグループには―アナーキストのプロジェクトも含めて―権力のダイナミクスが存在する。多くの場合そうであるように、リソースへのアクセス、説得力、または単に新しいテクノロジーのスキルによって、他の人よりも多くの影響力を蓄積する者がいる。「黄色のベスト」運動の自称スポークスパーソンの一部をよく調べてみると、運動の中で誰が影響力を蓄積し、彼らのアジェンダが何であるかがわかる。

・クリストフ・シャレンソン(Christophe Chalençon)はヴォクリューズ県のスポークスパーソンだ。 彼は「非政治的」であり、「いかなる労働組合にも属していない」としているが、2017年の選挙では「別の右翼diverse right」のメンバーとして立候補した。彼の個人的な関係やFacebookのプロファイルを詳細に調べると、彼の議論は明らかに保守的であり、ナショナリストであり、外国人嫌いであることがわかる。

・リモージュでは、11月17日行動の「黄色いベスト」の地域オーガナイザーは、クリストフ・レッシヴァリエ(Christophe Lechevallier)だった。この 「怒れる市民」のプロフィールはなかなか興味深い。少なくとも、クリストフ・レッシヴァリエは変節者だと思われる。2012年に、彼は中道政党(MoDem)のメンバーとして選挙に立候補した。その後、極右の国民戦線(現在の国民連合Rassemblement National)に加わり、2016年にそのリーダーのマリー・ルペンを集会に招待している。その間、彼はまた、フランスのGMO推進で生産を増強のために、グリホサート(除草剤:訳注)などの化学物質の使用を擁護することで知られている農業組織FNSEA(the National Federation of Agricultural Holders’ Unions)と協力している。

・トゥールーズでは、「黄色いベスト」の広報担当者はベンジャミン・コーシー(Benjamin Cauchy)だ。この若手エグゼクティブは、国内外のメディアで何度かインタビューを受けている。 彼の過去を考慮すると、このスポークスパーソンはほとんど「非政治的」とはいえない。ベンジャミン・コーシーは伝統的な新自由主義的右翼(当時、当時はUMP、現在はLes Républicains)のメンバーとして政治的経験があることをおおっぴらに語っている。ロースクールでは、ベンジャミン・コーシーは学生組合UNI―保守的な右翼や極右諸政党、団体と関係があることで有名―の指導者の1人だった。しかし、さらに興味深いことに、ベンジャミン・コーシーは、現在、先の大統領選挙でマクロンを落選させる期待をもって大統領選挙第二回投票で国民連合のマリー・ルペンと連携したナショナリストの政党Debout La Franceのメンバーであることを公然とは認めていないことだ。

バリケードの両側にはフラストレーションを抱えた消費者たちがいる。

したがって、保守的極右のグループは、この「怒れる市民の非政治的運動」を、彼らの議論を押しつけ、自分たちの考えを広げ、より多くの力を獲得する手段として利用しようと期待していることは明らかだ。こうした傾向は、全く阻止されていない。トゥールーズの「黄色いベスト」は、彼の政治的見解ヲ理由に、ベンジャミン・コーシーを運動から排除することを決めた。11月26日、ラジオ番組に招待されたコーシーは、排除への応答して、増税反対の運動を続けるために、「Les Citrons”(レモンズ)」という新しい全国組織を創設し、この機に乗じて「黄色いベスト」運動の中の民主主義の欠如を非難した。

最後に、いわゆる「リーダーのいない運動」は、第2回のパリのデモの余波の中でその戦略を完全に変えたように見える。11月26日月曜日、この運動の8人の公式スポークスパーソンのリストが報道陣に提示された。たしかに、その前日、黄色いベストたちは、新たな指導的な人物たちを選ぶためのオンライン選挙を提起していた。これらの人々のノミネーションと戦略的意思決定がすでに運動の中の緊張を作り出している。これらのリーダーが最初にどのように選出されたかについて疑問を投げかけ、黄色いベストの中には、選挙の正統性を批判する人もいる。

一方、運動の一部のメンバーは12月1日土曜日に別の日の行動を呼びかけた。その要求は明確だ。1)購買力を増やすこと、 2)すべてのガソリン税の撤廃、である。このような要求が認められなければ、デモ参加者は「マクロンの辞任に向けて進撃する」と述べた。
今のところ、27,000人がこのイベントに参加すると表明した。いくつかのローカルのオーガナイザーたちが、運動が採用しているように見えるより一層対立的な方針に反対して、運動から離れるというように、数週間前の掛け声が雲散霧消しつつあるようにも見える。

夜間封鎖

商業メディアの報道は、組織の水平性に注目するのではなく、別の問題に焦点を当てている。つまり、抗議者の怒りは正統なものか?ということだ。

多くのメディア報道は、この運動が環境保護に反対する未知の低所得者から成るものと示唆している。彼らは、参加者の怒りの正当化を避けるために、デモを暴力的なものとして報じている。それにもかかわらず、いくつかのメディア報道は、時間の経過とともに討論中心へと移り、デモ参加者の懸念がより多く放送されるようになり、参加者を見下すような報道が減るようになった。例えば、先週土曜日のシャンゼリゼでの対峙の後で、Christophe Castaner新内務大臣は、「損害額はわずかで、ほとんどが物的な損害で、それが最も大きかった」と述べたメーデーLoi Travailに対する抗議で、商業メディアや政治家が同じ様な行動をどのように罵倒したかを考えてみると、驚くべきことである。

私たちの視点からすると、彼らの怒りが正当なものであることは間違いない。この運動に参加するほとんどの人々は、毎日対処しなければならない困難な生活状況を語っている。彼らは、もううんざりで、ガソリン問題で堪忍袋の緒が切れたのだ、というのにはそれなりの道理がある。低所得層は生き残るために苦労しなければならず、他の人々は経済の転換や消費者対象の増税の影響を受けることのない快適な暮しを享受している。今は少なくとも。

したがって、怒りと直接行動は正当なのだ。問題は政治的ビジョンとこの運動を推進している価値が何らかの良いものと結びついているかどうかだ。

「さて、奴らにバイオ燃料をやろう – ブリジットマクロン」

混乱状態

多くの人種差別主義者、性差別主義者、同性愛嫌悪者の行動が黄色いベスト運動の中で行われてきた。11月17日のパリでのデモでは、よく知られている反ユダヤ主義者や民族主義者が、デモ参加者の群衆の中にいた。パリでは、右翼やナショナリズトのメンバーが11月24日のデモに参加した。一部の同志は、パリのデモでは、極右の存在が「否定できない」と報告している。群衆は、衝突時に法執行機関が使用した放水銃と比べれば、彼らの存在は「重要ではない」と考えた。

同じレポートで、解釈の難しいいくつかの要素にも言及されている。例えば、パリの群衆は1968年5月の古典的なスローガン(「CRS SS」)のデモのスローガン(「Paris debout、soulève toi!」)やLoi Travailデモのスローガンを唱えたが、マルセイエーズの一番の歌詞を唄う者もいた。この歌詞は、現在では伝統的な共和党や極右に関係するもので、ラディカルズとは無関係だ。この歌詞はフランス革命の起源を示す言葉として理解できたが、この曲はフランス国歌の役割を果たし、愛国的でナショナリズトの調子をもつものになっている。

イエローブロック

もう一つの例:シャンゼリゼを下っている間、群衆は「私たちは家にいる」を叫んだ。英語を話す読者にとっては、このコールは、デモ参加者が街頭を占拠していると主張しているもので何ら問題ないように見えるかもしれない。しかし、このシュプレヒコールは、国民戦線の支持者が集会で通常使うものの真似だ。ナショナリストにとって、フランスは常に白人、キリスト教徒、ナショナリストの国であり、これからもそうであることを意味している。したがって、彼らのアイデンティティと政治的アジェンダに合わない人は、誰であれ余所者、または侵入者とみなされる。言い換えれば、このスローガンは、誰が自分達に帰属するのか、誰がそうでないのかの物語を作り出す。黄色いベストのデモ中にこれらの言葉を使用することは、不吉とは言わないにせよあまりにもお粗末な選択だ。

反動的な傾向が運動のなかに登場したのはパリだけではない。11月17日、コニャックで黄色いベストの抗議者が車を運転している黒人女性を襲った。口論の中で、抗議者たちは彼女に「自分の国に帰れ」と言った。同じ日、Bourg en Bresseで、選出された代表と彼のパートナーが同性愛者であるとして暴行された。ソンム県では、移民がトラックにすしづめになっていることに気づいた黄色いベストの幾人かが移民警察に通報した。こうした事例はまだ他にもある。

最後に、この「非政治的」運動の一部の参加者は、より良い教育の運動、病院を守る運動、医療アクセス、鉄道労働者の運動など、社会運動全般への侮辱を公然と表明している。
実際には、集団闘争から自分自身を切り離し、「誰にでも」利益をもたらすことを目的とするこの運動は、個人主義的な自己利益の促進に終わる。

警察の高速道路封鎖。黄色いベストは自撮り。

どのように関わるべきか?

アナキズムや左翼の中で、参加すべきだと考える人々、そして距離を保つべきだと考える人々といったように、「黄色いベスト」現象にどのように取り組むかについて2つの異なる考え方が確認できる。

距離を置く議論:

・黄色いベスト運動は「非政治的」であると主張する。概して、参加者は自分を一所懸命に働きつつも税金や政府の決定の最初の犠牲者でもあるということで不平をもつ市民だという。この言説は、1950年代のPoujadisme運動とよく似ている。反動的でポピュリストの運動で代議士のピエール・ポウハデ(Pierre Poujade)の名前に由来するものだ。または、最近では「ボンネッツ・ルージュ(Bonnets rouges)」運動(「レッド・ビーニーズ」)とも似ている。

・この運動が「非政治的」であるという考えは、極右のオーガナイザー、ポピュリスト、ファシストが抗議者の間に浸透する絶好の機会を提供するという点で危険だ。言い換えれば、この動きは、極右が自らを再構築して権力を獲得する機会を提供してしまう。

・運動が広範に注目を集めるやいなや、極右の政治家、マリー・ルペンなどの保守派やポピュリストたちが、これを支持を表明する。「政治的」であるという話はここまでにしよう!

「極右は敗北する!」
運動に参加することを支持する議論:

・これは、低所得者を巻き込んだ真の自発的で分権的な運動のようにみえる。理論的には、私たちは資本主義や国家の抑圧と闘うために彼らと一緒に組織しなければならない。念のために言っておくが、階級戦争と反資本主義のコンセプトは、デモ参加者の間で受け入れられたり、促進されたりしているとはとうていいえない。

・私たちは、ファシストが運動とそれが表す怒りを吸い上げるのを防ぐために参加すべきだと主張する人もいる。一部のラディカルズは、人々との新たなつながりを作り、資本主義や経済危機への対応方法を広げる手段として、こうした行動に参加すべきだと考えている。

・一部のラディカルズにとって、現在の運動に懐疑的で、参加したくないというのは、「非政治的」な貧困層に向けたある種の階級的な軽蔑を示唆するものになる。他の人たちは、どのような状況にあっても、観客ではなくアクターを目指すべきだと主張する。私たちが「真の」革命家であれば、遠くから受動的に批判するのではなく、未知のものへと飛躍し、可能なことを発見する必要があると主張する者もいる。

これらの議論は全て根拠のあるものだが、ファシストに大衆をリクルートするプラットフォームを提供するような運動にアナキストが参加するのであれば、ウクライナ革命でアナキストがやってしまったように、もっと悪いカタストロフィに道を開く災害になるだろう。

「国家、警察、ファシストを倒せ」

黄色いベスト運動の根本的な問題は、私たちみながまず最初に廃止しようとして闘ってきた諸条件を維持しようとする間違った前提から始まった点にある。今日の疎外された悲惨な生活様式を守るためではなく、こうした生活は労働運動の敗北と裏切りのこの一世紀の結果であって、なぜ私たちは車やガソリンにそんなに依存しているのかをまず最初に問うべきなのだ。私たちのサバイバルとか旅のやり方が、これほどまで孤立し個人化されるようなやり方で構築されなかったとすれば、あるいは、資本家が無慈悲に私たちを悪用することができなかったとすれば、私たちは、環境を破壊するか、それとも財政的安定の最後の名残りを断念するかのどちらかを選択するといった必要はなかったはずだ。

私たちは自分の習慣を変え、もうひとつの世界(またはもう一つの世界の終り)のために闘う過程で私たちの権利を放棄しなければならず、政府と資本家は、いつも、彼らが引き起こした問題の矛先を私たちに耐えさせている。私たちは、彼らに議論の枠組みを設定させてはならない。そこでは、すべての戦略的拠点(港、空港、県)がブロックされている。

「マクロン倒せ、政府解体、システム廃絶」

開かれた問い

ちなみに、状況はフランス本国の外ではかなり異なっている。レユニオン島(フランス共和国の海外県ならびに海外地域圏(レジオン)である。マダガスカル島東方のインド洋上に位置:訳注)では、11月17日以来、社会的大変動があった。状況のコントロールを失い、経済に影響することを懸念して、フランス当局は11月20日に、11月25日まで夜間外出禁止令を出した。

ヨーロッパでは、黄色のベスト運動がリーダーシップ問題と戦略上の対立によって弱体化した後、再構築を模索しており、これが新しいかけはしとなり、この動きの原因となった問題に対するより体系的な解決策を築き、提案する機会になるかもしれない。

エコロジーに関しては、富裕層は主に気候変動に責任者があり、これを解決するための負担を負わなければならないということを強調すべきだ―私たちがまず最初に彼らを引きずり下すことができないのであれば。ある程度までは、これは、現在の資本主義と気候変動に対する阻止運動として、イングランドでExtinction Rebellionがやろうとしている動きにみられると思う。資本主義とエコロジーに関する2つの異なる封鎖運動が、今のところイギリスの各々の回路―一方は国家へのエコロジーの要求、もう一方は国家の環境対策に対する反動―で行われているのは皮肉なことだ。

ナショナリズムについては、私たち自身の人種、ジェンダー、宗教の市民による悪用のほうが外国人によって悪用されるよりましだなどということはない、ということを主張しなければならない。私たちが、様々な異なる戦線―人種、ジェンダー、市民権、そして性的嗜好―全てを横断した連帯を確立するばあいにだけ、私たちを抑圧し搾取する者たちに立ち向かうことができる。ということを強調したい。私たちは、11月24日にフェミニストの行進を歓迎して栄誉を捧げたモンペリエの黄色いベストの抗議者からインスピレーションを得た。

とりわけ、私たちは、社会運動の領域内に、反資本主義者、反ファシスト、反性差別主義者、エコロジーの前線を必要としている。問題は、それが 「黄色いベスト」の運動の中で起こるべきか、それともそれに対抗して起こるべきかにある。

クリスマスに向けたカオス
まだ明けない多くの夜がある

ナショナリズムに横取りされる反貧困、反新自由主義―「黄色いベスト」運動をどうみるか―

フランスでは燃料税(炭素税)増税をきっかけに「黄色いベスト」運動が急速に動員力を増して、道路封鎖デモから暴動状態になっている。少なくともテレビ報道では、このデモの背景についての説明はない。

炭素税増税に反対という結論は同じでも、その理屈は相対立する幾つかの立場がある。一つは、マクロン政権の炭素税増税=気候変動対策はまやかしであって、その効果はない、とする立場。真に気候変動対策となるCO2排出削減の政策なら賛成、ということでもある。二番目は、そもそも気候変動やCO2排出削減という政策そのものを否定する。トランプなど最近の極右政権がこうした立場をとる。気候変動陰謀説ともいえるもので、日本では、原発反対運動のなかにも、気候変動=CO2排出問題が原発推進の加担しかねないという危惧から懐疑的な立場をとる人たちもいる。三番目は、そもそもどのような理由であれ、これ以上税金を払いたくない、という立場。「黄色いベスト」運動はこの三つの立場が巧妙に路上で結合して発火した闘争といえる。

「黄色いベスト」運動は、また、農村部や低所得層の政権への不満を巧みにとりこんで急速に広がったように見える。地方を切り捨て、公共サービスを削減して自家用車に依存する構造を生み出してきた新自由主義への批判も含意している。しかし、こうした立場は左翼の専売特許ではない。むしろ新しい極右もまた反グローバリゼーションであり反新自由主義であるという意味で、政権を担ってきた議会制保守や右派とは一線を画すと思う。

この運動の初期の段階で、フランス在住の飛幡祐規は次のように述べている。

「「増税反対」は国粋的なポピュリズム運動を思わせる要素があるため、「黄色いベスト運動」はルペンの国民連合(国民戦線から党名を変更)に政治的にとりこまれる怖れがある、と左派の一部や緑の党は反発した。しかし、労働組合、政党、市民団体が組織するのではなく、ふだんデモや政治活動に参加しない民衆、とりわけ農村部・都市周辺の人々が政府に反対し、自発的にアクションをよびかけた運動は前例がなく、新しい形の民衆運動と見ることもできる。ラ・フランス・アンスミーズ(LFI屈服しないフランス)の多くの議員はこれを、不公平な税制と政治に対する民衆の怒りの爆発ととらえて支持した。保守、極右、左派の各党はみな党としてではなく、個人的に支持や抗議者への理解を表明して政府を批判した。」
(レイバーネット11月21日)

指摘されているように、この運動には「国粋的なポピュリズム運動を思わせる要素」がある。現状では上の三つの立場のうちの二番目が、主導権を握っているようにみえるのだ。実際、ルペンの国民連合は、そのホームページで炭素税引き上げ反対の署名運動などのキャンペーンを張っている。国民連合はグローバリゼーションが農村部を見捨てている点を批判し、農業や農村をフランスのナショナズムの再興の拠点に据えようとしている。地方にとって必需品でもある自動車、農家や中小零細企業にとってガソリンなどの燃料のコストは重要な課題であることを捉えた巧みな運動構築である。そして、テレビの報道などでの映像を見る限り、デモで見られるのは三色旗であり、赤旗や黒旗を目にすることはまずない。労組やエコロジストの旗もない。国民連合だけでなく、それ以外の極右の諸組織が、前面には登場していないが、たぶん運動の重要な主導権を握っているのではないかと思う。

また、米国の極右ニュースサイト「BREITBART」は「パリ抗議」の特別ページを立ち上げて報道している。

気候変動の深刻な問題への対処として、炭素税の引き上げを打ち出した政府に、エコロジストの運動の観点からどのような反対が可能だろうか。たとえば、フランスの緑の党は、炭素税引き上げに反対するが、その観点は、炭素税の19%しか脱炭素化政策に利用されない点を指摘して、この増税がCO2排出削減に寄与しないと批判している。

ATTACフランスもマクロン政権は炭素税増税は、エネルギー支出が家計に占める割合の高い低所得層を直撃する一方で、増税分はほとんど脱炭素化には使われず、安価でクリーンな地方の公共交通サービスは閉鎖されて高速道路の建設など金融と経済のグローバル化に加担するものだと批判した。(11月13日、ウエッブ)

このように、緑の党もATTACも増税=まやかし論である。これに対して、フランスのアナキスト連盟リヨンは、この黄色いベスト運動が右翼の特徴をもつことを承知の上で、この運動に参加することを表明した。このサイトの記事によると、もともと黄色いベスト運動は、自動車の速度制限に反対してスピード違反を検知するレーダーやガソリン税に反対する極右に近いグループから生まれたという。彼等の運動には、システムへの懐疑よりも実践的で直感的な怒りの信条が基盤となったもので、地方のフランス、「周辺部フランス」「忘れられたフランス」「農村の現実」といった概念で語られるような地域を基盤とするものだという。彼等の多くはレイシストではないが国民戦線(現在の国民連合)に投票してきた人々でもあるという。世界を席巻している極右(ロシア、ハンガリー米国、英国、イタリア、ブラジルなど)に共通しているのは「文化的なヘゲモニー」への関心である、とも分析している。かれれは、極右のレトリックと馴れ合ってでもこうした運動に介入して主導権をとるというリスクを冒すべきだと主張する。

黄色いベスト運動に共有されているのは、マクロン政権への異論や反発と炭素税増税反対だけでなく、現状のフランスが直面している課題の根源に、左右どちらであれ、長年政権が採用してきた基本方針、グローバリセーション(あるいは新自由主義グローバリゼーション)への懐疑である。農村部や低所得層が増税とグローバリセーションの最大の犠牲者であるという点でも認識は共有されている。極右にとって、グローバリゼーションがもたらした農業の破壊や失業に対するオルタナティブは、国家による保護主義の復活であり、ナショナリズムの価値観の再興という過去の経験への回帰が、大衆を動員する上で最も効果的なスタンスになる。

他方で、左翼が反グローバリゼーションという場合、犠牲となる貧困層や地方をグローバル資本主義の軛から解放する社会構想をどのように描いているのか。過去のナショナリズムと保護主義への回帰はそもそも、冷戦期に反社会主義のイデオロギーと政策のなかで構築されてきたものだっから選択肢にはならず、かといって、破綻した20世紀型の社会主義や福祉国家を持ち出すことも、現実的ではないという意味で、魅力に欠けるにちがいない。大衆民主主義を基盤とした代議制民主主義は、ポピュリズムに迎合することなしには権力を掌握できないが、そうであるとすれば、左翼の原則を踏みはずさない一線を引きつつ、かつ、大衆的な支持を運動として創造できるのか、が問われる。この点で、過去への回帰という手段をもつ極右に対抗できるだけの未来への展望を支える理念を構築できているのかどうか。伝統への回帰に抗い、むしろ明確にこうした復古主義を拒否する基盤が、狭義の意味での経済的な資本主義批判だけでは明かに弱い。極右は左翼のこの弱い環を的確に突いているように思う。言い換えれば、反グローバリゼーションとしての反資本主義の民衆的な基盤を、経済決定論の狭い枠から広げて、ナショナリズムに回収されないアイデンティティの文化的な政治の課題として構築する方法論がまだ未成熟なのだ。

今回の運動で、目立つ「暴動」のスタイルには過去も繰り返されてきた「暴動」にはない特徴があるように思う。最初に指摘したように、この運動が三つの全く相反する傾向の融合(あるいは野合)であるために、不可解さが増しているという側面もあるかもしれないが、それだけではなさそうだ。「暴動」があたかも自然発生的に起きたかのように報じられ、政府も「首謀者」を把握することに苦慮しているかの報道がなされている。私の見方は違う。たぶん、語義矛盾だが、意図的に自然発生性が「組織」されたと思う。そして、組織が見えない状況もまた意識的に生み出されてきたものだと思う。というのは、90年代以降、極右の運動は、左翼の反グローバリゼーション運動の戦術から多くを横取りして自らの戦術へと組み入れてきたからだ。ブラックブロックのような街頭闘争戦術(黒のコスチュームを着たファシストたち―もともとファシストは黒シャツがシンボルだった―)、そしてゲリラや地下組織のノウハウを導入した「リーダーなき組織」の構築、更には、資本主義批判では、マルクスからグラムシまでマルクス主義を借用し、ポストモダンの思想では、ボードリヤールからシチュアシオニストまでをちゃっかり利用する。そうかと思えば、エコロジーが「在来種」主義や太古のヨーロッパ神話と融合して移民排斥やセクシズムを「伝統」や「自然」の衣裳で包み込まれて利用される。こうした傾向を、インターネットのSNSなどのネットワークは、怒りや苛立ちといった感情を動員するような言説の空間として人々を煽る道具になってしまい、冷静に多様な見解を収集して自律的に意思決定する個人の主体性を奪う方向で利用されている。

今世紀にはいってから、民衆の運動が高揚するとき、「左右」の軸で運動を評価することが難しい局面が増えているように思う。アラブの春といわれたエジプトのタハリール広場占拠のなかには、世俗的な社会運動からムスリム同胞団などの組織までが共存した。ウクライナのマイダンと呼ばれた反ヤヌコヴィッチ政権運動のなかには明かなネオナチの組織から民主化を求めるリベラルまでが存在した。ギリシアは急進左派と右翼の独立ギリシアが連立を組む。ウォール街占拠運動もまた、左派がヘゲモニーを握るなかで、右翼の介入(主導権を握る試み)が繰り返し指摘されてきた。右翼の反ユダヤ主義は伝統的に多国籍金融資本をユダヤの陰謀とみなす観点をとるからだ。そして、ブレクジットもまた、英国で極右が主導権を握って成功した事例に入れていいだろう。エコロジストの運動もまたいわゆる「エコファシズム」の問題を抱えてきた。つまり、近代工業化以前の社会への憧憬を背景とする「自然」回帰としてのエコロジーが、排外主義とセクシズムを内包するという問題だ。日本でも原発反対運動のなかには、原発に反対するのに右翼とか左翼といった立場を超えた連携が必要だという主張がある。環境からグローバル化まで、その矛盾の山積に対する答えとして、ナショナリズムが(あるいは宗教的な世界観が)急速に力を得てしまっている。「黄色いベスト」運動はこの意味でいって、目新しいこととはいえない一方で、街頭闘争として表出した反政府運動の主導権をこれだけ公然と極右に握られる事態は、深刻なことと受けとめなければならないと思う。