(The New Fascism Syllabus)純粋な暴力の非合理的な核心へ。ネオ・ユーラシア主義とクレムリンのウクライナ戦争の収束をめぐって


(訳者前書き)以下はThe New Fascism Syllabusに掲載された論文の翻訳である。著者のひとり、アレクサンダー・リード・ロスは、西側左翼運動のなかに気づかれない形で浸透しつつある極右の思想や運動について詳細に論じたAgainst Fascist Creep のなかで、米国からヨーロッパ、ロシアに至る地域を包括する網羅的な現代の極右の動向を批判的に分析した。以下の論文でも彼のこれまでの仕事が踏まえられており、とくに、プーチンの思想的な後ろ盾ともなってきたアキサンダー・ドゥーギンについての記述は、プーチンのウクライナ戦略を支える世界観を理解する上で参考になる。ドゥーギンがほとんど日本では知られていないこともあって、その反米反グローバリズムに基くヨーロッパとアジアを架橋する「ユーラシアニズム」は見過ごされがちだが、現代の極右思想の無視できない一部をなしている。(ユーラシアニズムについてはチャールズ・クローヴァー『ユーラシアニズム』越智道雄訳、NHK出版が参考になる)

ウクライナとの戦争でロシアがしきりに口にするウクライナの現政権=ネオナチとみなす言説は、日本ではほとんどまともには受けとられていないが、以前にこのブログでも紹介したように、ウクライナの政権や軍部あるいは武装民兵のなかにはネオナチや極右の流れに属する者たちがいる。しかし同時に、ロシアの政権の側にもドゥーギンに代表されるれっきとして極右の影響があり、いずれの側にも現代のファシズムの一端を担う存在が少からぬ影響力をもっていることを軽視しない方がいいと思う。権力者たちの暴力を支える思想や哲学あるいは歴史的な系譜などは、戦争の暴力によって一方的に犠牲になる民衆にとってはいずれにせよ人道に対する犯罪を正当化する欺瞞でしかないのだが、同時に、また、その民衆のなかの少なからぬ人々もまたこのイデオロギーのいずれかを内面化して戦争に加担することを選択してしまうことも無視できない。これはフェイクニュースといった次元の問題よりも深刻だ。世界観やイデオロギーが西欧近代を支えた資本主義的な自由と民主主義を中心とするヘゲモニー構造に最初に亀裂を入れたのが、イスラーム原理主義による西欧近代の価値観の否定だったとすると、トランプ現象やブレクジット、EU内部の極右の台頭を経てプーチンの帝国の野望を列ぬく世界観の軸は、左翼を相対的に周辺に追いやる一方で、伝統主義や反啓蒙主義に基く排外主義の正当化とナショナリズムの再構築が主流の政治意識になるという最悪の方向に傾いてきた。日本の文脈でいえば例の「近代の超克」による西欧リベラリズムとマルクス主義を串刺しにして否定しようとするかつての日本主義イデオロギーとほぼ同質のイデオロギーが世界中を席巻しはじめているという風にみてもいい。フェイクニュースはこうした構図の氷山の一角にすぎない。

プーチンを理性を欠いた狂気の独裁者だとみなすのは簡単だが、現実はもっと錯綜しており、思想のレベルでいえば、かつて日本が陥った「近代の超克」とか欧米帝国主義に対するアジア人民の解放戦争とかといった戯言を本気で信じた知識人たちのことを想起すればわかるように、戦争がもたらす狂気をある種の「思想」へと昇華してイデオロギーとして構成する力をあなどってはいけない。私が言いたいのは、分りやすいドゥーギンのユーラシアニズムの欺瞞のことだけではなく、これらをも包含する近代国民国家=近代資本主義の罠のことを言っている。多くのファシズム運動が何らかの左翼のイデオロギー/運動のなかから生み出されてきたことを真摯に反省することが左翼にとって今ほど必要な時はないだろうと思うからだ。多くの反戦運動が、目前の深刻な生命の危機をもたらしているロシアの侵略を厳しく批判しつつも、単純な反ロシア、親ウクライナ(EU+NATO)という構図をとっていないことが救いだ。(小倉利丸)


2022年3月4日 アレクサンダー・リード・ロス、シェーン・バーリー

ナチス軍が3万3000人以上のユダヤ人を虐殺したキエフの渓谷のバビ・ヤール記念館でロシア軍が弾薬を爆破すると同時に、ロシアは「反ファシスト」会議を開催すると発表した。プーチン大統領は、中国、インド、サウジアラビアなどロシアが提携を望む国々を招待し、ウクライナを極右勢力に支配されている国として、その蔑視を図ったのである。プーチンは、ロシアがウクライナを「脱ナチス化」していると主張することで、同国を体制転換の場に位置づけ、その行為を進歩的な博愛として表現している。反ファシズムをアピールすることで、ロシア指導部は第二次世界大戦中にソビエトが東部戦線でナチスを破ったという歴史を利用し、他方でグローバルは紛争を引き起こすことにおける極右の役割について、すでに混乱ししばしば恐怖を感じている人々の会話に歪みをもたらしている。

2月26日、New Fascism Syllabusは、ポツダム大学ライプニッツ現代史センター「共産主義と社会」部門の共同ディレクター、ユリアネ・フュルストJuliane Fürstの「On Ukraine, Putin, and the Realities and Rhetoric of War[ウクライナ、プーチン、そして戦争の現実とレトリックについて]」を公開した。これは、現在ロシアのプーチン大統領が用いている「ファシズム」のレトリックについての研究に対して重要な貢献をするものだ。フュルストは、ドイツで育った経験を振り返り、ソ連がドイツ人とナチズムの関係を「ファシズム」という広いカテゴリーに置き換えたことにやや安堵したと述べ、「そのカテゴリーは悪い意味で、柔軟で包括的だった」と説明している。特に西部ウクライナ人にとっては、ソ連の抑圧を否定したことで、「ファシズムとナチの占領からのソ連の解放という物語に反したニュアンスや個人の回想の余地がない(スターリンが作り、ブレジネフが強化した)ソ連の公式な物語に対する」ナショナリスト的な反応に彼らをさらすことになった。

このような反ソナショナリズムは、ウクライナだけでなくソビエト共和国中のボヘミアンの間で、一種のカウンターカルチャーとなった。モスクワでは、ユージンスキー・サークルYuzhinsky circleと呼ばれるナチスの象徴を好む秘教主義的で伝統主義グループが、ファシズムの祝典のために集まっていた。ユージンスキー・サークルの超国家主義的なコミットメントは本物だが、本気とはいえない反啓蒙主義も蔓延していた。フュルストが指摘するように、「ファシズムは、そのダークな性格と不気味な歴史が滲み出た挑発という漠然とした概念の暗号に劣化してきた」という。しかし、この転換によって、反ファシズムも、特定のイデオロギーを否定するのではなく劣化に、つまり敵の汚染と感染に関する問題になってきた。こうして、プーチンは「脱ナチス化」を通じて、スターリン主義の脱ナチス化―汚染された人々をすべて粛清するキャンペーン―の含意を展開する。フュルストの言葉では、「自分の国家で暮らすというウクライナ人の現実のみならず、プーチンのロシア人像とは別の民衆としての概念そのもの」を変えるためにである。

プーチンの脱ナチス化は、脱ウクライナ化を意味する。プーチンによれば、ウクライナには歴史がなく、「現代のウクライナは、ボルシェビキ、共産主義のロシアによって…歴史的にロシアの土地であるものを分離、切断するというロシアに対して極めて厳しい方法で完全に作られた」ものでだ。2月21日の1時間に及ぶ拷問のような演説で、プーチンはウクライナを「(ロシアの)歴史、文化、精神空間の不可分の一部…親族、血縁、家族の絆で結ばれた人々」と表現している。プーチンは、「極めて過酷」といった感情的な言葉に訴え、ドンバスは「実際にウクライナにむりやり押し込まれた」という彼の主張は、最終的にソ連が準自治共和国に権限を委譲したことが、ウクライナの究極の崩壊につながったと主張しうるような歴史的なフィクションの背景を構成している。

ウクライナの独立について、プーチンは好戦的に「脱共産化を望むか?そうだ、それがまさにお似合いだ。しかし、なぜそれを途中でやめるのか?ウクライナにとって本当の脱共産化が何を意味するのか、我々は示す用意がある」という。つまり、脱共産化とは、ウクライナに与えられた自治権の遺産を、たとえわずかであっても断ち切り、2月24日の演説で彼が「歴史的故郷」としたロシア帝国空間への究極の再同化を意味するのは明らかである。

「脱共産化」という言葉の意味をただちに理解したのは、ファシズム化したソ連のカウンターカルチャーの第一人者で、ユージンスキー・サークルの元メンバー、アレクサンドル・ドゥーギンだった。「大統領は脱共産化について語った。ロシアには1世紀以上の歴史があり、そして、明かにリベラルでもコミュニストでもない新たなイデオロギーの担い手なのだということを言いたかったにすぎないと思う。私たちは帝国の人民である。われわれロシア人は過去ではなく、未来に目を向けているのだ」と応答した。

そして、ウクライナに関するドゥーギンの初期の著作は、プーチンの最近の主張と非常に近いものがある。「ウクライナという国家には地政学的な意味がない」と、ドゥギンは1997年に出版した痛烈な非難に満ちた本『地政学の基礎』で書いている。「文化的な重要性も普遍的な意義もなく、地理的な独自性も民族的な排他性もない」。もちろん、歴史的、哲学的、文化的、その他の口実でウクライナの生存権を否定して行動することは、それ自体が大量殺戮行為である。ドゥーギンにとって、ウクライナ西部の3つの地域だけは―1つの西ウクライナ連邦としてまとめられたボリニア、ガリシア、トランスカルパチア―、大ロシアから切り離すことは可能だが、非NATOに加盟しないという但し書きが伴う。

しかし、こうした共通点にもかかわらず、プーチンの言う「脱ナチス化」、とりわけ反ファシズムは、ドゥーギンにとって特に厄介なものに映ったようだ。ドゥ=ギンが最も大きな影響を受けた一人であるファシスト地政学者のジャン=フランソワ・ティリアールJean-François Thiriartは、ウクライナの超民族主義者ステパン・バンデラStepan Banderaを支持し、ソ連の国境を1939年のモロトフ・リベントロップ条約以前の境界線(つまり、ドゥーギンが考える大ロシアと仮想の西ウクライナ連邦という区分)に押し戻そうと考えた。ドゥーギンが影響を受けたもう一人のベルギー人レキシスト[注:Rexist、ベルギーの戦前のカトリック系極右]、レオン・デグレルLeon Degrelleは、バンデラ軍と協力してウクライナで残忍な武装親衛隊とともにソビエトと戦った自身の経験を賞賛して一冊の本にまとめている。

ドゥギンもクレムリンも、「ナチズム」や「ファシズム」というレッテルを使って、リベラルな反対派を躊躇なく杓子定規に批判する。FSB[ロシア連邦保安庁、ロシアの治安機関]のセルゲイ・ナリシキンSergey Naryshkinは最近、西側がロシアに科した制裁を非難し、それが「『寛容な』リベラル・ファシスト状況」の現だと主張している。ナリシキンが展開した「リベラル・ファシズム」のなかの「キャンセル文化」の一部としての制裁という考え方は、元Foxニュースのパーソナリティ、ジョナ・ゴールドバーグを念頭に置いている。ファシズムの根はリベラルなイデオロギーにあるという彼のテーゼは、この分野の専門家によって完全に否定されているものだ。同時に、ゴールドバーグよりもはるかに本物のファシズムの伝統に精通しているドゥギンが、このような定義の誤りを犯すとは想像しがたい。

3月4日にフェイスブックにドゥギンが、ウクライナ人はアメリカ由来の「ひどいナチス・リベラルのプロパガンダ」に振り回されていると投稿した見解は、ナリシキンと比較・対照できるものだ。ドゥギンは、2004-5年のオレンジ革命と2013-4年のマイダン抗議行動でモスクワに友好的な強権者ヴィクトル・ヤヌコーヴィチを追放するのに貢献したウクライナの自由主義運動を、自由主義とナチズムの合成物であると見なしている。ここでドゥギンは、親欧米(つまりリベラル)の立場を支持するナショナリズト的感情を打ち砕く目的でウクライナを征服するというクレムリンに再び近づいた。

しかし、ウクライナの左翼タラス・ビロウズTaras Bilousが指摘するように、ウクライナではナショナリズムの感情が高揚することもあるが、世代や家族間の争い、社会経済的対立、国の政治的地理的条件に関わる思想的複雑さもまた然りなのである。極右勢力は、世界のあらゆる軍隊でそうであるように軍隊内では存在感を示しているが、大きな政治的権力をウクライナで獲得することができなかった。こうした複雑で多次元的な亀裂を考慮すれば、ドゥギンの立場はおそらくナリシキンの立場よりもさらに説得力がないままであろう。

複数の政治的立場の存在は、その国が指導者原理を志向するシンクレティックなイデオロギー―それはまさにドゥーギンの世界理解の全体主義的枠組みだが―に支配されないとすれば、シームレスな異種混合を示すものにはならない。ウクライナにおけるファシズムの政治的役割を誇張することはさておくとして、ウクライナがナチ・リベラルの国であるという主張は、イギリスが複数政党制民主主義ではなく「愛国的代替労働の国Patriotic Alternative-Labour country」であるという考えと類ていることになるだろう。ナリシキンのリベラル・ファシズムに対する視点が米国の極右の感性に訴えかけるのに対し、ドゥーギンの「ナチ・リベラル」の理解は、彼自身の単純化された世界観の枠内に限定されたものでしかない。残念ながら、彼はこの特徴をクレムリンと共有しているようだ。

現実的なレベルでは、ウクライナの「脱ナチス化」という偽善は、2014年以来、侵略はファシスト、正教会の超国家主義者、そしてドゥギン自身の自称 “ネオ・ユーラシア主義” のネットワークのプロジェクトであったという事実に見出すことができる。当初から、ウクライナに対する侵略は、ドゥギンの後援者であるロシアの「正教会のオリガルヒ」、コンスタンティン・マロフェーエフKonstantin Malofeevによって銀行融資されていた。最初の数年間は、マロフェーエフの仲間のアレクサンダー・ボロダイAlexander Borodaiとイゴール・ガーキンIgor Girkin(マロフェーエフの警備主任になる前にボスニアのジェノサイドに参加した超国家主義者)が現場での活動を主導していた。ギルキンとドゥーギンは、ロシアの反体制派アンドレイ・ピオトコフスキーAndrey Piontkovskyによる辛辣な記事の中で、ロシアの「本物の高邁なヒトラー主義者、真のアーリア人」の一人としてリストアップされている。

オルト・ライトやヨーロッパのファシスト的な「アイデンティティ主義」運動の中で影響力のある人物ドゥギンのイデオロギーは、伝統的なナチズムよりも幾分混交的で複雑である。彼は、現代世界とそれが象徴すると考えているリベラリズムの完全な破壊を確信している。この世界の激変は、彼が 「政治的兵士 」と呼ぶ戦士-司祭に支配されるカースト制度によって識別される家父長制の血と土の共同体の再生へと導くものだ。ドゥーギンは、モスクワがダブリンからウラジオストクまで広がるユーラシア帝国を支配し、イスタンブールがコンスタンティノープル(または「ツァルグラード」)へと回帰することを望んでいる。ドゥギンにとって、ウクライナ侵攻はこの「スラブ大レコンキスタ」の最初のステップに過ぎない。

もちろん、「コンスタンティノープルの再征服」は、ドゥーギンの広範な地理的目的の中の王冠の宝石としての役割を果たすに過ぎない。8月の反ファシスト会議に招待された国々には、現在、極右の強者ナレンドラ・モディが率いるインドがいる。彼のヒンドゥーナショナリズムは、インドのイスラム教徒に対する「最終解決」を唱えたヴァヤック・サヴァルカルVayak Savarkarなどのヒトラー崇拝に由来する。ロシアはまた、新疆ウイグル自治区で多数占めイスラム教徒を大虐殺したにもかかわらず、ナショナリズムを強めている中国の政権をあえて参加させた。

ドゥーギンにとって、この2カ国はロシア、イランとともに「ユーラシア大陸の大国」を構成しているのである。上海の復旦大学中国研究所の上級研究員であるドゥーギンは、中国は国家ボルシェビズムに似た「国家共産主義」路線をとっていると考えており、これを「左翼反ヒトラー国家社会主義」と呼び、自身の「第四政治理論」の「第二のバリエーション」として新ユーラシア主義と結びつけている。つまり、モディのヒンドゥトヴァがヒトラーに共感する超国家主義的な立場をとっていることには疑いようがないが、ドゥーギンは、中国がナチズムの一系統に連なる思想を守り、このこと自体が彼自身の伝統主義に不可欠であると考えているのである。まさに反ファシスト会議なのだ!

一般的な意味で、ドゥーギンの新ユーラシア主義思想は、ファシズム研究者のロジャー・グリフィンが「霊的再生超国家主義palingenetic ultranationalism」と呼ぶ、神話的国家の精神的かつ暴力的な復活を求めるモデルとほぼ合致している。ドゥーギンはプーチンのロシア排外主義と新帝国の下での「大ロシア」への願望を共有しており、それによってファシズムと共産主義の対立を乗り越えたと主張している。そのため、例えばInfowarsにゲスト出演する際、ドゥギンはある意味では「反ファシズム」を主張しながら、他の文脈、例えば『第四政治理論』では、ファシズムと共産主義に必須の「共通根」のようなものとして(つまり、国家社会主義のより至高のバージョンとして)自らの思想を宣伝する、という逆説的な行動をとっているのである。

反ファシズムを「ナチ・リベラリズム」の否定へと改竄することは、形勢逆転のためのシニカルな戦術を表わしている。この戦術は他の場所でも使われている。例えば、ドゥギンの親しい同志であるセルゲイ・グラジエフSergei Glazyevは、イスラエルがウクライナでロシア人をユダヤ人に置き換えようとしていると主張した後、プーチンによってユーラシア統合の顧問の役割を解任されるのだが、こうした人達によるロシア語を話すウクライナ人を「大量虐殺」から守るといった主張でも使われているのだ。このように、ロシアのウクライナ復権論は、「大規模入れ替え理論」の形をとっている。つまり、民族的国民を外国のコスモポリタンに入れ替えるというディープ・ステートの陰謀が、過激さのレベルに応じて、大量のエスニック、人種、宗教的マイノリティの国外追放、さらなる周辺化、あるいはただ絶滅させるのみという口実になる。

同様のレトリックの反転において、ドゥーギンは「反帝国主義」の推進力を利用して、「グローバリズム」に対抗する「伝統主義インターナショナル」を召集し、左派の周辺部分を引き寄せようとしている。彼は、帝国の時代への回帰を唱えながらも、グローバリズムを西洋の「制海権」に内在するとみなしている。ドゥギンは最近、「ロスチャイルド、ソロス、シュワブ、ビル・ゲイツ、ザッカーバーグ」のリベラリズムと切り離されたヨーロッパの基準をロシアが担うと主張した。モスクワの帝国を軸に、海洋パートナーシップや諸権力は、神を破壊する近代主義的な傾向とともに、屈服させられるだろう。-その実現には、少なからぬ残虐性が必要であるような純粋のファンタジーの上に成り立っている妙技

-その実現には、少なからぬ残虐性が必要であるような純粋のファンタジーの上に成り立っている妙技

プーチンは過去に新ユーラシア主義的な思想への沈潜と、より伝統的な熱狂的ロシア愛国主義との間で揺れ動いていたようだが、侵略によってロシアの西側との金融関係が断たれたことで、ロシアはヨーロッパから遠く離れ、この巨体は経済崩壊をインドと中国という地域パートナーに頼って乗り切ろうとしているのである。このような立場から、ドーゥギンが精神的使命と考えること、すなわち近代を抹殺するであろう「大西洋主義者」に対する本質的に保守的なユーラシア戦争においては、ロシアは西洋に対する反発を強めるしかない。ドゥーギンの意味不明な世界では、これは「真の西洋」(すなわちユーラシア)の位置から西洋に引き返し、破壊することを意味する。「ロシアが(西側から)早く完全に切り離されれば切り離されるほど、ロシアは自らのルーツに戻るだろう…つまり、本当の西洋と共通のルーツに…そしてヨーロッパは西洋と手を切る必要があるし、アメリカでさえ、グローバリズムを拒否する人たちに従う必要があるのだ」。西洋を救済するためにこれを破壊する-あまりにもよく知られた無力な運動である。

近代西洋を戦闘的かつ完全に否定し、プーチンの反ファシズムという欺瞞に満ちた主張を利用して反ファシズムそのものに泥を塗ろうとする極右の努力をよそに、西側極右もまた超国家主義政治を世界の舞台へと引き上げる「希望の光」としてのロシアの役割を長らく受け入れてきた。プーチンのウクライナ戦争を最も熱心に支持した一人であるロシア帝国運動the Russian Imperial Movementは、ヨーロッパの極右メンバーを養成する準軍事キャンプを運営しており、アメリカからのファシスト・テロリストはこの国の右翼的政治生活に避難場所を見出そうとしている。マリーヌ・ルペンからマテオ・サルヴィーニに至る政治家たちはプーチンのEU懐疑モデルのラディカル右翼政治を受け入れ、世界支配を目指す彼の努力に付き合ってきた。そして、ドゥーギンの国際的な同志たちは、彼の非自由主義的な立場の故に、今度はイランの神権主義者たちに受け入れられている。

アメリカでは、共和党議員との関係を築いてきた白人民族主義者のニック・フエンテスNick Fuentesがアメリカン・ファースト政治行動会議American First Political Action Conferenceを通じて、プーチンを自分のブランドの政治を再定位するリーダーとして歓迎している。2月25日に開催されたAFPACの会議で、フエンテスは「ロシアに拍手を」と呼びかけ、「プーチン!プーチン! 」の掛け声が飛び交った。

米国では、ロシアのウクライナ攻撃を歓迎するのはファシストの端くれだけのように見えるかもしれないが、AFPACの影響力は議会にも及んでいる。ウェンディ・ロジャーズ下院議員は、自身もAFPACに参加しており、極右民兵組織「オース・キーパーズthe Oath Keepers」のメンバーである。ユダヤ系ウクライナ人の大統領について、「ゼレンスキーはソロスとクリントンのグローバル主義者の傀儡だ」と述べ、ロシアを人民の真の代表、ウクライナを富裕層が支配する人工国家とする反ユダヤ的陰謀物語に同調している。マージョリー・テイラー・グリーンMarjorie Taylor Green下院議員も、親ロシア派の祝賀と喝采の中、AFPACで演説を行った。

ドゥーギンのネオ・ユーラシア主義とクレムリンのウクライナに対するイデオロギーの押しつけ、そしてそれが築きつつある同盟国との間の収束点の現実を考えると、反ファシズムのレトリックを用いることは何を意味しているのだろうか。米国のメディアの言説でよく見られるように、この言葉はブギーマンとして、あるいは政治的美徳の表れとして歪曲されてしまう。現実には、ロシアのファシズムは、君主主義者、正統派神権主義者、変人の地政学者に満ちており、常に危ういものであった。1941年にナチスに侵略されたこの国は、全体としてまとまりがあるというよりも、ファシズムのように見え、話し、歩きながら、自らをより高みにある至高の形とみなす熱狂的な超国家主義のシンクレティズムを展開してきた。右翼伝統主義の教祖ユリウス・エヴォラJulius Evolaが「スーパーファシズム」、あるいは学者ウンベルト・エコの言う「ウルファシスム」がそれである。

私たちは、純粋な暴力における不合理な核心として、反ヨーロッパ、反帝国主義的帝国、反ファシズム的ファシズム、反ナショナリストのウルトラナショナリズム、そしてネーションの存在の抹殺と民間人への砲撃を伴うジェノサイドに対する防衛策をみることができる。ロシアは主権を行使するために、理性に頼ることなく、粗野な強制力、パワーポリティクスに頼りつつ、一方の極にある米帝国へのオルタナティブを提起する。米国の敵として自らを押し出すことで、新たな友好国を獲得しようとするのである。ロシアのナショナリズムは、協調から離れて二元的で非自由主義的な対立へと地政学を再調整するのを手助けしつつ、極右運動の前衛の一部としての役割りを担っている。そして、この現実は、反ファシズムのアピールに揺り動かされる人々には、ほとんど何の意味ももっていない。プーチンとドゥーギンは、逆説を呼び込むことによって、極右の実際の役割について混乱している人々の機嫌を取り、アメリカ、ウクライナ、欧州連合の批判者を、ロシアの攻撃に対する支持的または中立的な立場に引き込むことを望んでいるのである。それゆえ、ウクライナにおける帝国主義との闘いは、そこだけでなく、あらゆる場所での自由と平等のための闘いというレベルで普遍化されなければならない。

このことを理解するためには、反ファシズムにとって重要な「三者の闘い」という分析的枠組みが役に立つ。ロシアは、欧米諸国への挑戦として行動しているにもかかわらず、欧米列強の改革を目指す人々の友人ではない。むしろ、極右の造反者的な役割は、様々なイデオロギー的な支持者たちをこの紛争以上に危険な連合体に結びつける能力を持っている。反ファシズムの歴史的役割は、本質化されたアイデンティティと権威主義的統制に訴えることによって民主的価値を損なおうとする造反者的極右運動から身を守ることだった。しかし、反ファシズムは、政治でもイデオロギーでもなく、エートス、つまり、プーチンが破壊したい戦後世界のバックボーンとして機能する道徳的要請なのである。この点で、プーチン自身が全体主義的支配とネオ・ユーラシアの拡大に向けて「ファシスト的転回」をしてきたかどうかについての議論は続くだろうが、彼の反ファシズムの主張は議論の余地なくまやかしなのである。

Alexander Reid Ross ポートランド州立大学地理学講師、フリーランス・ジャーナリスト。

Shane Burleyはフリーランスのジャーナリストで、The Baffler, The Independent, Jacobin, Truthout, In These Times, Commune, Alternet, and Waging Nonviolenceに記事を書いている。
出典:http://newfascismsyllabus.com/contributions/into-the-irrational-core-of-pure-violence-on-the-convergence-of-neo-eurasianism-and-the-kremlins-war-in-ukraine/