第四章 使用価値の再定義―意味使用価値とパラマーケット

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1. 資本主義批判の枠組組み換え

本連載の冒頭(序章)で、マルクスの資本主義認識に立ち返りながら、現代資本主義の基本構造を、土台―上部構造の定式に対する資本主義的な応答としての、上部構造の土台化、土台の上部構造化について述べた。つまり政治権力と資本の意思決定構造が相似形をとるようになる、ということだ。マルクスの資本循環図式を形式的に当て嵌めて表現すると、以下のようにも言うことができる。権力の生産過程は、統治機構の物質的条件(権力の生産手段)と官僚、議員、裁判官などの人的な資源の投入によって、構造への「従属」という政治的生産物が生産される。これを人為的な構築物である「国民」やこのカテゴリーから排除された人々が「消費」することを通じて、「従属」が再生産される。

資本が介入する伝統的な回路は、ケインズ主義の公共投資と土木建設資本の関係のような財政のインフラ投資の時代から新自由主義の公共サービスの民営化の時代へと展開してきた。この前提には、公共サービスを生存権の保障のための国家の義務とする共通の合意に基づく財政負担という了解が崩れ、公共サービスを「費用」とみなして採算を優先させるような国家義務の理解に根本的な転換がみられた。その結果として、公共サービスを資本に利潤をもたらす価格構造が導入され、市場に組み込まれることになった。一般に、この過程は民営化とか小さな政府と解釈されてきたが、私は、逆に、権力の生産過程が資本の生産過程と融合しはじめたのであって、小さな政府ではなく、政府機能が市場経済に有機的に結合しながら、市場そのものが政治化する契機となったとみた方がいいと考えている。資本の基本的な財務構造に国家の財政投資が有機的に組込まれたのであり、政府は小さくなったのではなく、民主主義的な統制の外部で大きくなったのだ。この構造は軍需産業では従来からみられたが、これが市民生活の基盤にまで拡大されたとみることもできる。従来の民生公共投資では、資本は、政治的生産手段を担うこと(道路や港湾、都市開発など―これらは隠された軍事安全保障投資でもあるが―)を通じて政治過程と外的・形式的に接合していたに過ぎなかった。いわゆる民営化以降、現在に至る時期に起きてきたことは、官僚制など権力の生産過程を担う人的な組織の資本との内的・実質的接合である。伝統的な近代の国家権力を担う人的組織は、三権のいずれにあっても、意思決定と、その前提にあるコミュニケーションや情報の管理機能をもつことで、権力の正統性を維持してきた。言い換えれば、法の「生産」とこれを執行(適用)することのできる通用力である。これに対して、コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション(CTC)が支配的技術となる時代には、法の生産をコードの生産が超越する事態が顕著になり、コンピュータ(とりわけAI)が権力の執行を事実上決定できるだけの力を獲得して人間の意思決定を脇に追いやる方向が鮮明になる。

2. 家族あるいは「ライベートな領域」

公共サービスの民営化は、資本と国家の物語だけではない。もうひとつの重要な物語が、国家と家族の間に繰り広げられてきた。資本が国家の統治機構に介入するように、国家は家族に介入する、あるいは、家族が国家と相補的に「国民」としてのアイデンティティ形成の一翼を担うように組込まれる。この家族の役割は、日本のような家族国家とでもいうべき自民族中心主義においては、近代化そのものと重なりあい、天皇制のイデオロギー機能の末梢神経系をなしてきた。個人主義を近代世界の理念とする西洋の国家ですら、家族は消滅せず変容しつつも維持され続け、個人が近代啓蒙主義が理想とするような絶対的な主体になったことは一度もない。つまり、個人よりも「家」が優位にあるとする自己のアイデンティティによって個人主義に基づく自由や権利を「家」の枠組みによって抑制することは、多かれ少なかれどのような社会にもみられる。フロイト的な意味での抑圧の構造化は、この意味を正面に据えて家族のシステムの抑圧性に晒される個人の心的構造を捉えようとした。

この問題は、監視という問題にとっても重要だ。監視批判が暗黙のうちに採用している個人主義モデルでは、プライバシーの権利が実際には個人に帰属せずに、家族に担われることに内在する問題を、ドメスティック・バイオレンスの深刻な問題に注目が集まるまで重視してこなかったのではないだろうか。

家族は資本主義において<労働力>再生産を担う中核的な制度であり、個人は、家族関係のなかで、プライバシーは削がれ、これを「家」が引き受ける。外部からは、個人のプライバシーは家族のプライバシーによって代位される。1 こうして家族内の暴力は、市民社会的な法規範によって監視されることなく夫や父に与えられた当然の特権として放任され、その実態は隠蔽されてよいものとされてきた。この文脈での監視は、夫や父による家族への監視であり、それが暴力に直結することも許容された。プライバシー領域を担う中心的な組織でもある家族は、個人をデータとして把握しようとする社会においては、この家族そのものが同時に個人データの「宝庫」というこれまでになかった性質を纏うようになる。国家は家族を掌握することによって、事実上その構成員個々人を掌握することができた。これが20世紀の戦時期の動員体制から戦後の福祉や社会保障の体制に一貫する保護と監視を不可分とする社会の構造であり、これが家族のプライバシーという殻に作為的に組込まれた裂け目をなしてきた。つまり、政府であれ企業の労務管理であれ、個人ではなく世帯(家族)を掌握することを通じて、個人の動静を把握し操作する、という仕組みだ。

しかし、これが世紀末以降転換する。国家が家族を福祉や社会保障あるいは家父長制イデオロギーで形式的に包摂するだけでは個人のプライバシーの重要なデータを把握できなくなる。家族は、プライベートな領域を国家や資本に媒介する制度としては不十分になってきた。その理由は二つある。ひとつは情報処理能力の高度化によって、家族を介しての個人の動静把握に権力側が満足しなくなったことがある。より個人に即した詳細なデータを要求するようになる。個人単位の番号制度(マイナンバー)が監視と管理の中枢を占めるようになったのは、その端的な現れといえる。しかも、家族の多様性と単身者の増加などの要因もあり、家族さえ把握すれば個人を掌握できる、という状況にはなっておらず、人々を網羅的に監視するための媒介組織としては十分とはいえなくなった。もうひとつは、スマートフォンなど個人ベースのコミュニケーショツールの普及だ。プライベートに利用可能なコミュニケーション・ツールの発展と普及にとって家族は重要な単位だった。固定電話やテレビが一世帯に一台の保有となることをきっかけとして、更に個人化へと普及が進んできた。これはパソコンの時代までは同じ経路をとって普及してきた。しかし、これが大きく変容するのが、家族を飛び越して個人を直接ターゲットとするコミュニケーション・ツールの普及だ。その最初の成功例がソニーのウォークマンのように情報を家族が共有しないツールかもしれないが、文字通りのコミュニケーション・ツールは、ポケベルや携帯電話に始まり現在のスマートフォンの時代に繋る。通信事業者は、家族を介することなく、膨大な個人データを収集する拠点となり、この通信事業者の個人データを国家は従来の法制度では把握できなくなった。

長らく資本主義家族は、その共同性を想像力によって補完してきた。つまり、人々は同じ場所で寝起きしつつも、昼間の最も活動的な時間帯には、バラバラに過してきた。職場と学校に出向き朝晩の食事時だけかろうじて一緒になる。この時間も会話よりもテレビが支配する時間になる。にも拘わらず人々はお互いに相手のことをよく知っているつもりになれた。それは、事実に基くのではなく、「私の知りえない場所で、たぶんこのように振る舞っているに違いない」という憶測を共有しているからに他ならず、そこには実は確たる「証拠」となるものは、ごくわずかに交わされる会話という証言だけだ。スマホとSNSの普及は、たとえ同じ場所にいなくとも相互の動静を把握可能にした。これは家族をSNSを通じて相互監視することを可能にしたともいえるし、別々の場所で別々に活動しながらより親密な絆を構築できるようになったと肯定的に評価することもできるが、この二つは表裏一体である。監視に含まれるソーシャル・エンジニアリングとかhumintと呼ばれるような情報機関の振舞いが、一般の人々の慣習のなかに組込まれるようになった、ともいえる。同時に、SNSによる様々なグループチャットは個人が家族とや別の親密な人間関係のネットワークを構築可能なものにした。たとえばワクチン陰謀論に家族が皆ハマるということにはならず、誰かがこうした陰謀論のサークルに参加することになり、家族を単位とする価値観の共有構造が崩れる。

こうして、個人は、一方で別々の場所で別々に行動しながら常時コミュニケーションをとりうる技術的な基盤を獲得することで、これが相互監視の手段にもなりうるが、他方で、この相互関係の親密化と平行して他の家族とは相対的に別のコミュニティーへの参加も可能になり、この面では、相互の関係の距離は遠くなる。この両者全体を把握可能なのは、通信事業者などコミュニケーションネットワークのインフラを掌握し、人々のデータを管理・蓄積できる存在ということになる。人々のコミュニケーションは、インターネットの普及とその社会インフラへの格上げを通じて、従来の回路が廃れ、新たな回路が構築されるにつれて繋ぎ直し(リコネクション)が起きる。

本章の冒頭で上部構造の土台化、土台の上部構造化に言及したが、マルクスの土台―上部構造の枠組みでは家族の位置が明示されていない。これは家族を含むプライバシーと監視の一筋縄ではいかない権力的な構成に関心を寄せるとき、かなり決定的な限界をなすと思う。

3. 上部構造への資本の介入

CTCが支配的構造の基軸をなすようになったきっかけは、インターネットの商用利用への開放だった。20世紀を通じて、コンピュータが国家の膨大な情報処理や軍事的な目的で不可欠な役割を果してきた長い歴史を背景に、1990年代後半以降、インターネットが一気に社会の構成員に開かれ、社会のコミュニーション・インフラとして定着したことによって、民間資本のなかでも、情報通信分野が資本蓄積の基軸産業へとのしあがることになる。郵便や電信電話の民営化をこの文脈のなかで見直すと、単純に公共サービスが開放されて市場経済の論理に支配されたというように解釈することだけでは不十分だとわかる。政府は、CTC分野に投資する民間資本が確実に収益を挙げられるような法的財政的な構造を準備すると同時に、資本の側は、支配的構造による社会全体への制御を実現するようなサービスの拡がりを目指せるようになる。

ここで重要な意味をもつのが、コンピューターによる情報処理の高度化がインターネットのような双方向のネットワークと結びついて、人々の生活必需品として日常生活空間に組み込まれ、コンピュータ・アルゴリズムがこの双方向のコミュニケーションを制御し、その先に、ブレイン・コンピューター・インターフェース(BCI)のような直接的な人間の意識制御技術の開発が現実化しつつあるという点だ。政府や資本の権力のトップから個人ひとりひとりのプライベートな空間までが、通信プロトコルによって接合可能なネットワークのなかに組みこまれることによって、双方向のネットワークは、一方で、一般の人々に対して不特定多数への情報発信の力を与えることになると同時に、政府や資本に対しては、これまでは不可能だった個人のプライベートな情報を詳細に、かつリアルタイムに収集することが可能になる。ここには一般のユーザーには実感もされず、理解することも困難なアルゴリズムに基づく制御の力が作用することになった。前述したように、家父長制的な家族制度という殻を通じたプライバシー領域への間接的な制御―ここにはイデオロギー装置の作用も含まれる―が次第に後景に退き、逆に、スマートフォンのような個人ベースのデバイスとSNSのネットワークを介して、個人の発信力の強化を伴いつつ、より直接的なプライバシー領域の制御が台頭してきた。社会の支配的なイデオロギーを暗に体現し法の支配をすり抜けるアルゴリズムによって歪められ制御された形での個人の発信力の高度化と個人データの際限のない収集を通じて、コミュニケーションは、統治機構から家族などの親密な関係まで、様々な社会構造のなかで、その持つ意味を変容させた。これが土台と上部構造の相互浸透過程を生み出す決定的な要因となった。

ここでは、道路などの公共事業の民営化と医療や教育など人を対象とするサービスの民営化の間には本質的な違いがある点に注目しておく必要がある。統治機構の構造を理解する場合、権力が統治の対象とする人間(人口)との関係を考慮する観点からみる必要がある。権力や政治過程にとって、「人間」を「国民」として従属の構造に組み込むことが最大の課題であり目標でもある。この意味で権力は人間を手放すことはできない。家族であれ、いわゆる市民社会と呼ばれる任意の人間集団であれ、いずれも、その構成員は排除の対象ではなく統合あるいは包摂の対象である。その上で「国民」のカテゴリーに適合しない人々を排除しつつも従属的な統合の枠組みに組込む。逆に、資本にとって人的な条件は、コストであり、機械化によっての排除の対象であるか、消費者として商品を買わせるようにコントロールするためのターゲットでしかない。資本主義を支える構造のなかにありながら、政治・社会過程と経済過程とでは、「人間」への扱いに関する戦略が全く異なる。今起きていることは、排除のプロセスが政治過程の一部でも顕著になっていることだ。官僚制であれ、議会であれ、裁判所であれ、更には軍事行動の現場においてすら、これらの権力過程のなかの人的な要素が周縁化され、意思決定にAIが代替しはじめているということだ。民主主義は人間的条件によって構築されることが大前提になっているから、コンピューターの意思決定への介入による人間的条件の排除は、民主主義の本質を変質させることになる。他方で、権力の「生産物」である「国民」としての「従属」的な人間は、市場の消費者を制御する技術の応用として、コンピューターによって代替された意思決定を心理的にも受容する。移民の排除と資本による解雇=排除は同じメカニズムではない。資本にはあらかじめ排除を基本とする構造が組込まれているが、国家はそうではない。

4. 機械と監視資本主義

4.1. ズボフの監視資本主義

上で述べた統合と排除と監視のメカニズムは、国家の場合であれ資本の場合であれ「機械」という要素が重要な役割を果す。

ショシャーナ・ズボフは『監視資本主義』のなかで、構造転換を監視資本主義として概念化した。

監視資本主義は、人間の経験を行動データに変換するための無料の原料として一方的に要求する。これらのデータの一部は製品やサービスの改善に応用されるが、残りのデータは独自の行動余剰と宣言され、「マシン・インテリジェンス」と呼ばれる高度な製造プロセスに投入され、あなたが今、すぐ、そしてこの後何をするかを予測する予測製品に加工される。最後に、これらの予測製品は、私が行動先物市場と呼ぶ、行動予測のための新しい種類の市場で取引される。多くの企業が私たちの将来の行動に賭けようとしているため、監視資本家たちはこれらの取引から莫大な利益を得ている。」2

無料の原料とは、私たちが無料でGoogleで検索し、Facebookで交流したりするたびに、これらの企業が、このサービスの舞台裏で収集する私たちの行動データや私たちが利用しているデバイスが送信するメタデータやフィンガープリントと呼ばれるようなデータなどのことだ。ズボフは、データを「製品やサービスの改善に応用される」部分と、それ以外(以上)の部分に分け、後者を「行動余剰behavioral surplus」と呼ぶ。マルクスの剰余価値を想起させるような考え方だ。この余剰部分こそが監視資本家の動機を構成する部分になる。

こうしたデータの生産過程では、「私たちの声、性格、感情」が収集されるだけでなく、「最終的に監視資本家は、最も予測性の高い行動データは、収益性のある結果に向けて行動を誘導し、なだめ、調整し、集団を作る。」こうして「自動化された機械のプロセスが人間の行動を知るだけでなく、大規模に人間の行動を形成するようになる。」これをズボフは「知識から権力への方向転換」と呼び、次のように述べている。

監視資本主義の進化のこの段階では、生産手段はますます複雑で包括的な『行動修正の手段』に従属する。このようにして、監視資本主義は、私が『道具主義instrumentarianism』と呼ぶ新種の権力を生み出す。道具主義の権力は、他人の目的に向かって人間の行動を知り、形成する。軍備や軍隊の代わりに、「スマート」なネットワーク化されたデバイス、モノ、スペースのますますユビキタスなコンピューター・アーキテクチャの自動化された媒体を通して意志を行使する。3

ズボフが道具主義と呼んだ事態は、すでにこの連載で紹介したようにホルクハイマーがプラグマティズム批判で用いた概念との共通性に気づく。監視資本主義は、英米の支配的な思想でもあるプラグマティズムと行動科学、そして社会を数学的なモデルによって解析可能だとする非弁証法的な方法とデータに基く実証主義という20世紀のイデオロギーを堆肥にして、そこから成長してきたものだ。この成長の経路が「監視」へと向った理由は、個人主義と資本主義的な自由の枠組を前提として、いかにして「個人」を既存の権力構造に従属させるのか、という問題意識に基くものだ。行動科学は、目的の意味や動機を問わないで、目的に対して最適な手段の選択にのみ関心を寄せる。だから、権力や支配といった人間の自由や平等にとって不可欠な問いは脇に追いやられて、この目的を実現するには人間の行動をどのように予測し制御すべきか、だけが関心の対象になる。

ズボフは、私たちの個人データが無料の資源としてプラットフォーム企業によって採掘され、これをインテリジェンス機械で加工するところに着目している。製品になるのは私たちの行動を予測したり、行動変容を促すことができるような生産物で、こうした商品を欲しがる企業に売られることになる。私のズボフとの共通認識は、資本主義経済の蓄積様式が監視技術を担う産業によって大きく支配されている状況がもたらす深刻な破壊であり、ズボフがそれをある種のデータ搾取として捉え、人間の行動予測と行動制御が課題の中心にあるとしている点だ。他方で、私の関心はズボフとはややずれるところがある。それは、こうした監視資本を支える構造が市場経済によって完結するシステムにはなっておらず、その外部、私の言うパラマーケットを介した構造があり、更にこれに非知覚過程が構造的に接合することで、私たちの意識と行動そのものへの操作可能性が高度化している点に注目しているところだ。この問題は、市場・政府・家族の三分法や、これらを社会制度として議論するだけでは不十分だ、という私の問題意識によるものだ。

無料である限りデータ資源を抽出する過程は市場経済の売買関係では成り立たない。商品としての財やサービスの取引には価格が設定されなければ市場メカニズムが機能しないからだ。同時に、この予測と制御の商品を購入した資本が、この商品を利用して行なう過程もまた市場経済の外部で、パラマーケットが介在して行なわれることになる。私の関心は、むしろこのパラマーケットがもたらす効果と、こうした人間観そのものに内在するデータを人間それ自体とみなす誤認が誤認とされずに広く受け入れられる理由であり、この誤認を「真実」や「事実」とみなすことによってもたらされる深刻な人間への影響である。そしてコンピューターが介在するとき、このパラマーケットは非知覚過程を伴って「私」の意識とのフィードバック過程を構造化する。コミュニケーションが人と人の関係から機械に媒介された関係に変化することによって、「私」がコミュニケーションをとる「あなた」のどこまでが人間としての「あなた」なのかが不分明になる。これはモノに対するフェティッシュな感情の問題ではなく、モノと人の中間に新たな「意識」の領域が形成されるという問題である。

4.2. 資本主義と機械

ここで、やや回り道になるが、資本主義にとっての機械の意義をマルクスの『資本論』の議論を念頭に置きながら、簡単に振り返っておく。というのも、人間をデータとみなす過程は、マルクスが機械制大工業のなかで労働者が<労働力>として扱われる過程について論じた観点を再度思い出すことが必要になるからだ。第一章で述べたように、マルクスは機械を死んだ労働と呼び、<労働力>排除の武器であるという資本と労働者の関係は、現代のコンピューターと人間との関係の基底を構成していることを見落してはならない点だろう。労働者が疎外されつつ<労働力>を商品化して機械に接合され―将来的には排除の憂き目にあうことになる―、自らもまた機械に適合するようにアイデンティティの再構成を迫られる。この機械と労働者の対立の構造に対して、テイラーの科学的管理法や反ユダヤ主義者のフォードは資本による生産過程の実質的包摂―労働者の主体性の排除のための機械化―が構想され、その延長線上に20世紀以降の技術と資本主義の発展軌道が定められた。

19世紀の産業革命によって本格的に資本の生産過程の中核を占めるようになった機械=固定資本は、当時から労働者の排除、とりわけ熟練労働者の排除と単純労働への置き換え、そして、<労働力>コスト削減として、労働者に対する資本の支配の手段となってきた。フロラ・トリスタンは『ロンドン散策』4において、また、エンゲルスは『イギリス労働者階級の状態』において、機械の問題をいち早く指摘し、マルクスもまた『共産党宣言』において機械による労働者排除を指摘した。他方で、機械がもたらす単純労働化は、熟練労働による労働者階級内部の階層化を打破し、階級としての一体性、つまり階級的な団結の基礎をもたらすともみなしていた。こうしてマルクス=エンゲルスは、ラダイトのような機械排斥運動に対しては、その限界を指摘し、機械を労働者の統制の下に置くこと、つまり資本の機械から労働者の機械への転換を可能だとも考えていた。

機械制大工業が資本主義における産業技術の中心をなしてきた根源に、労働者による資本に対する不断の抵抗の存在があり、これが資本の生産性を阻害する要因になっていたことをアンドュー・ユアらが指摘しており、こうした指摘を踏まえて、マルクスは『資本論』において、資本の生産性は<労働力>の抵抗(政治的な抵抗だけでなく身体的あるいは文化的な抵抗も含む)との相互関係ぬきには説明できないことを強調した。

<労働力>を資本の支配の下に置くことができるかどうかは、資本主義にとって最大の社会統合問題だ。機械とは、一方で、<労働力>を機械に置き替えることを通じて、生産過程の全面的な資本による支配という夢を実現するための手段となるものであり、また、他方で、完全な置き換えが不可能であっても、単純労働化を通じて機械のリズムに従属させることで労働者の労働における主体的な裁量の余地を可能な限り奪うこと、つまり、労働現場における主体性の剥奪を実現する過程でもある。機械化は、この階級構造の資本によるヘゲモニーの物質的基礎をなすものであり、不断の技術革新は、<労働力>に対する資本のコントロールがその重要な動機をなしていた。

マルクスは、機械の問題を、労働者の部分労働者化と低賃金、あるいは失業と貧困の問題に集約して論じる傾向があるが、同時に、機械化の一連の過程は、労働者の抵抗を削ぐための技術でもあるという側面に着目するとき、問題の重要な側面として、資本に対する労働者の意識変容を見落すわけにはいかない。

19世紀の機械制大工業は、人類史上はじめて人間の身体が機械と接合し、機械が人間の身体を不可分一体のものとして―資本の観点からは―コストという貨幣量によって統一的に計量可能なシステムのなかに組み込むことを可能にした。これは人類史のなかで、人間と自然の関係を大きく変容させるものとなった。労働はもはや自然との物質代謝過程を直接実現する行為ではなくなり、資本=機械によって媒介され、しかも生産過程の一部分を担うだけになり、その労働の具体的有用労働としての側面が、具体的でありながらその意味を経験的にも見出すことが次第に困難になり、存在それ自体が抽象化されるようになる。具体的な労働がどのように意味づけられようとも、人間の<労働力>は機械よりも劣るものとする一般的な価値観が形成され、労働者は繰り返し機械によって駆逐される運命にあるものとみなされてきた。労働者にとって「労働」は賃金=貨幣に換算しうるものに媒介されることでのみ、その存在価値があるとみなされるようになる。だから貨幣によって評価されない行為は、価値をもたない行為―実は資本主義的な意味での価値に過ぎないのだが―として否定的にのみ評価されるようになる。他方で、資本にとって労働者とは、資本の機械と接合されたある種の機械といってもよいような存在―資本に抵抗する主体を放棄した存在―であるべきものとみなされることになる。機械は常に労働者の手強い競争相手でありながら、機械化を賛美する文化が労働者の消費生活や教育制度においても支配的になり、労働者自らが機械を資本の手先としてではなく、人類の進歩の成果だと誤認するようになる。こうして、機械の機能そのものには備わっていない文化的な「意味」を人間の側が作り出すようになり、機械はフェティシズムの対象になることで、近代社会の文化的表象となることができた。5自動車とテレビが日常生活を支配する最も基幹的な位置を占めることに成功したことによって、20世紀の資本主義の商品フェティシズムは『資本論』の時代とは質的に異なる意味の体系を私生活に持ち込むことに成功する。そして現在では、このフェティシズムの中心を担っているのがスマートフォンに代表されるCTCデバイスだ。

5. <労働力>再生産過程と使用価値の「意味」を介したコントロール

20世紀の資本主義では、統治機構のなかに、「国民」と呼ばれる人口が形成され、形式的であれ、議会制民主主義の制度を通じて、この「国民」が人口を国家に統合するためのアイデンティティとして必須のカテゴリーとなる。その結果として、資本主義の階級構造がもたらす人口内部の階級意識による分断は、「国民」意識との摩擦を内包し、統治機構に直接・間接の影響を及ぼすようになる。

<労働力>が生み出す剰余労働によって資本の価値増殖が支えられるとしても、このことが、<労働力>商品の担い手としての労働者の総体をいわゆる労働者階級に帰属しうる存在とするものではない。人間のいくつかの重要な属性を捨象(たとえば、ジェンダーやエスニシティとしてのアイデンティティや、親族関係のなかでの役割り意識、信仰など)することによって描かれた人間像と現実の人間の多面的な存在との間にはズレがある。しかも、資本は、その組織の巨大化と、生産過程の機械化の繰り返しを通じて、<労働力>は物の生産過程だけでなく、マルクスが資本家的な労働と呼び、剰余価値を生まないとみなしたような資本の流通過程における労働の大半を担うようになる。

階級闘争に対する資本による支配の戦略は、資本の組織内部における戦略と、<労働力>再生産過程、つまり消費生活過程における戦略の二正面作戦をとる。資本家が資本の人格的な表現であるように、資本の組織を構成する労働者集団もまた、労働者でありながら資本の人格的表現を分有するように企業組織が強いることになる。労働者でありながら資本家的な意識をもつことはこの意味では不思議なことではない。しかし、この階級構造が労働者に対して資本の意識とは対立する労働者意識、あるいは階級意識を醸成する根拠をもなしている。いわゆる中産階級やホワイトカラー層は、剰余労働の生産主体(被搾取主体)でありながら、資本家的な意識を内面化することこそが<労働力>の使用価値を構成しているという矛盾した存在だ。こうした存在と意識の矛盾が人口の大半を占めるようになるのが、20世紀の先進国に共通した<労働力>の構成でもある。

したがって、資本にとって<労働力>の再生産過程の意味は、19世紀資本主義とは根本的に異なるものになる。資本家的意識を内面化した<労働力>を世代的にも日常的にも形成するためには、消費生活とその基本的な組織の家族制度の意義が格段に大きくなる。資本が供給する商品は資本家的意識の形成のための不可欠な条件となる。マルスクは商品の価値に着目して使用価値の問題を「商品学」に委ねて詳細には検討しなかった。また、搾取の問題をもっぱら価値に関わる労働(抽象的人間労働)の問題として捉えたが、前にも述べたように、搾取とは人間が資本主義のなかで過す時間全体を覆うものであり、その意味で身体性の搾取であり、大衆消費社会における生活のなかで消費される商品の使用価値は、その消費行為に込められた象徴的な意味作用を通じて、<労働力>の担い手となる労働者の意識を形成し、同時に、家族関係のなかの人々の役割り意識を形成することにもなる。

資本がもっぱら生活手段を物としての商品の供給を通じてコントロールする以外の手段をもたなかった時代から、マスメディアや広告を通じて、商品の使用価値の意味、生活様式の意味を積極的に<労働力>となる人口に対して介入する時代へと移行する。これが、工業化から脱工業化、あるいはサービス化とか情報化と呼ばれる資本主義に一般的に見出せる展開の方向である。資本主義経済が、物の領域から非物質的な領域へと展開していくなかで、非物質的な領域が市場化されるようになる。

非物質的な領域は物質と無関係に存在するわけではない。ハードなしにソフトウェアやネットワークはありえないという意味でもそうだが、そもそも物が資本主義社会のなかで存在することを私たちが認知できるのは、その物が資本主義のシステムのなかで意味の体系に位置づけられているからだ。この意味の体系を市場は使用価値の体系として構成する。商品の使用価値には、その物の本来の有用性と、この有用性によっては説明しえない意味が付随する。後者のようなモノの直接的な有用性とは無関係な意味の部分が生じるのは、資本主義が使用価値ではなく価値に支配されており、資本の価値増殖に寄与するように使用価値が操作され、これが広告やパッケージなどを通じて買い手の消費行動を左右するからだ。価値に支配された使用価値が本来の使用価値には付随しない意味を担わされる。これまでも、こうした側面の使用価値を「記号」や「象徴」といった概念で把握することで資本主義における消費社会の問題を浮き彫りにし、本来の使用価値の世界への回帰(?)が模索されたりもしてきた。6しかし、資本主義的生産様式を前提として供給される商品の意味を剥ぎ取ることで本来の使用価値と呼びうるものが露出するというふうには、商品は存在していない。いかなる社会にあっても、物の有用性としての機能をそれそのものとして体現するような物はひとつもない。人間が言語をもつ限り、物の有用性それ自体はその物の言語表現=意味と不可分であり、その意味とされる事柄は、ことばで表される限り、常に有用性を逸脱する要素を含む。つまり非本来的あるいは過剰としての意味が本来的な意味そのものであり、そうである限りにおいて、本来と非本来という区別は便宜的なものでしかありえない。とはいえ、市場経済が商品の使用価値として直接扱うことが可能な「意味」と、そうとはいえない「意味」という二つの領域を判別することは、資本主義批判の理論構築にとっては必要な作業である。

このモノに付与される意味は資本の生産過程を通じて商品の使用価値として固定化されるのではなく、「意味」は、この生産過程を越えて生成され続けるものでもある。資本主義が歴史的な「社会」として数世紀にわたってとりあえず延命できたのは、モノと意味の構造が人々の生存において一定の意味の体系として<労働力>の再生産基盤を構築したからだ。この基盤は、当初は、資本主義に先立つか、あるいはその外部にある人々の日常生活やその伝統を巧みに接合することを通じて形成されてきたが、資本の生活手段供給は、商品の使用価値の集合を通じて、生活全体を商品によってコーディネート可能な空間とするにつれて、人々は自己の身体を除いて空間そのものを商品の使用価値で覆うようになる。商品の使用価値の意味は、料理のレシピのなかで一つ一つの素材の役割りや意味が定められるように、生活のなかにある商品ひとつひとつの意味はその商品によってだけでなく、その商品がとりむすぶ他の諸商品との関係のなかで、人々の生活過程のなかでも形成される。

ごく当たり前の日常生活空間は、生活世界の植民地化7であるとすれば、私たちはこの植民地のいかなる住民なのだろうか?先住民を追い出して定住しようとする植民者なのか、資源や土地を収奪してプランテーションを建設してもっぱら植民地産品の輸出に関心をもつような帝国主義者としてなのだろうか。あえてこのたとえ話を続けるとすると、大衆消費社会以降現在まで続く資本による生活世界への浸透は、資本が浸透する以前の生活世界とそこで暮す人々のライフスタイルと記憶を排除したり統合したり歪ませたりして巧みに利用する。これは「伝統」8と呼ばれて資本の観光資源になったりもする。こうしたなかで、<労働力>という資源が資本によって「採掘」されることになる。

生活世界への資本の拡張は、拡大再生産を本性とする資本にとって、生活手段生産部門の拡大再生産の帰結として、生活が市場経済に呑み込まれることになった、といったストーリーだけでは理解できない。むしろ、<労働力>という資源の再生産に必要なプロセスとして捉える必要がある。このときの最大の目標は、<労働力>を資本の人格に包摂すること、フロイトによる大衆心理に関する分析での言い回しを借りれば、資本への同一化と恋着の心理を形成するためのプロセスとして、消費生活を組み込むことであり、資本の組織化とは異なる組織原理をもつ家族制度を資本に折り重ねることよって消費市場に供給される商品の使用価値の意味・象徴作用が、家父長制家族を通じて、またこうした家族を再生産しつつ<労働力>を再生産する重要な役割を担う。ライヒがファシズム批判の核心に抱いていたように、家族は資本による階級闘争/意識に対する対抗戦略の拠点となる。

資本循環を貨幣循環の相でみれば、生活手段としての商品は、<労働力>の代価であり賃金によって購入されることによって、資本はその投資を回収し、労働者は必要労働部分を「買い戻す」ことになるだけだ。しかし、こうした貨幣のフローの視野から外れるところで、<労働力>の再生産過程が機能しつづける。消費生活の場は、家族関係から様々な公共的な場や人間関係まで多様な内容で構成されるが、これらを資本が供給する商品の空間として再構成することによって、資本にとって必要とする<労働力>資源の安定的な供給が目指される。ここでいう<労働力>は、20世紀前半までは、製造業と農業が<労働力>の具体的有用労働としての質を規定していた。同時に政治的支配の側からすれば、<労働力>となる人口を「国民」として組織することによって、権力の正統性が維持される。これが民主主義であれ独裁であれ、権力の基盤をなす。こうして国民的<労働力>が資本主義の前提をなすことになる。

20世紀前半までに人間の肉体的な能力を機械体系と接合して制御する技術は、その頂点に達した。究極の制御は、結局のところ全自動無人工場へと向うことになった。周辺部資本主義は、このなかで別の役割、つまり機械化しえない人間の労働を担うのだが、これは産業革命の機械化と非西欧世界の植民地の構図がまだ成り立っているということを示してもいる。

20世紀後半以降、先進国の人口は、非物質的生産へとシフトするが、人と人のコミュニケーションの制御、つまり、資本や国家に対して向けられる否定や拒否の言説、あるいは摩擦や対立を組織し動員することを正当化する言説、更には感情的な敵意や抗議の言説をいかに「言論の自由」という近代社会の規範を侵害しない体裁をとりつつ制御するのかが最大の課題になる。ここで、<労働力>の使用価値9は、物を対象とした労働から人を対象とした労働への大転換をこうむることになる。販売、教育、企業組織内の合意形成、マスメディアやその周辺に形成される様々な情報産業の類いまで、労働は人の意識に働きかけて、人の情動を制御することになる。人の意識(心理、感情、ニーズなどなど)が労働対象になる。こうしてコミュニケーションは労働に組み込まれることになる。こうなれば、かつての機械化と<労働力>の排除のプロセス同様、こうした人を対象としてその感情に働きかける労働そのものが機械化されることになる。生成AIへの注目は、この傾向が顕著になってきたことを示している。

6. 予測と制御:意味使用価値と意味生成過程

6.1. <労働力>再生産過程と使用価値

マルクスは商品分析において、価値と使用価値の二要因を指摘し、使用価値をもっぱら具体性の側にあるものとした。こうすることによって、価値の分析を通じて抽象的人間労働から剰余労働、剰余価値の理論を構築することができた。その一方で、使用価値が人々の意識形成に与える影響については素朴な直接的使用価値の自明な「使用」=消費以上のものをそこに見出さなかった。しかし、<労働力>再生産過程や国民国家を支える権力の正統性をめぐる意識生産の構造に着目するとき、商品の使用価値の構造こそがこれら意識形成の主要な担い手であることがわかる。人々は個々それぞれ識別可能な固有名詞をもった存在でありながら、彼らが「集団」として社会の構成員とされるときには、この固有名をもった差異は後景に退き、逆に集団的な一体性に還元可能な存在、それは具体性のレイヤーのなかにありながらより抽象的な層に属するような存在とみなされる。このように見なすことができるのは、固有名によっては不可能であって、そこにはより抽象的なその対象を指し示す言語が介在する必要がある。「カテゴリー」と呼ばれるような抽象的な対象認識である。この抽象的な対象認識を通じて、人々は、自分をとりまく幾重にも折り重なる世界を、ある共通した世界として共有するものとみなしている。これが資本主義における社会的な富を商品の膨大な集積として理解させたり、貨幣の物神性を支えたり、指し示すことすら困難な「国家」の観念といった抽象的だが具体的な意味の世界を支えている。この世界は、資本主義の歴史的社会に内在する構造とその矛盾を反映しており、抽象的意味の具体的な世界は、複数存在し、人々は誰もがこの複数の世界のなかを生きている。そうでありながら、社会がひとつの歴史的な連続性をもった社会体制として少なくとも数世紀にわたって維持されるのは、この複数の抽象的だが具体的な意味によって構築された社会のなかに、社会を支配することを可能にしている唯一性や普遍性の意味との繋りを獲得した一連の制度やモノ、人間関係の連関があるからである。パラマーケットはこうした矛盾した重層的な世界を一方で市場に媒介し、他方で無限に多様な具体性としての固有名をもつ人々に媒介しながら、市場を支え、権力の正統性を支える意識の形成に主要に寄与する。

マルクスの商品論では、商品の二要因として、価値と使用価値を指摘し、使用価値を物の有用性を意味するものであり社会的歴史的な背景はあるとはいえ、使用価値には価値の問題のような資本主義の搾取と関わるやっかいな隠された構造をもつとは考えていなかった。たしかに使用価値は、直接剰余価値を形成するわけではないのだが、生活手段として消費過程に入ることによって、<労働力>再生産過程に直接影響を及ぼすことになる。生活手段を消費するとは、資本が供給した「モノ」を単に生理的な必要を満すために使用するのではなく、この消費には文化的な意味があり、また労働者のライフスタイルを規定する条件にもなる。どのようなものであれ市場で生活手段を購入せざるをえないということは、資本が供給する商品を私生活のなかに持ち込むことを意味しており、このことがどのように<労働力>の再生産に影響するのかという問題は、決して瑣末な問題ではない。資本が生産した使用価値が生活世界に与える影響は、たとえば、出版物や映画のような文化商品について、検閲の制度によって、商品化されうるとしても消費に制約を課す制度が多かれ少なかれ存在しつづけてきたこと、それが現代ではSNSの投稿や拡散を制御するアルゴリズムとして構造化されてきたことを、重要な問題として捉えるべきだ、ということでもある。

たとえば、商品として購入したアンドロイド・スマホは、Googleのサービスと密接に連携されるように設計されている。検索エンジンとしてGoogleを用い、Googleアカウントを様々なサービスを横断して利用させ、Googleマップなどで移動のデータも収集する。デバイスとこうした一連のサービス全体が使用価値を構成し、これを常時利用するという日常の行為と不可分一体なものにする。こうして、たとえば、検索アルゴリズムの結果に深く影響されたり、表示される広告に刺激されてその後の購買行動や価値観が影響を受けつづける。背後で機能する個人データを資本の収益につなげて利用するメカニズム―ズボフの言う意味での搾取―は不可視なままだ。このように、物質的な消費手段の消費にはない直接的な影響が、コンミュニケーションのツールからは恒常的に生じる。

一般に、商品の使用価値は物の直接的な有用性(衣服なら外部環境から身体を保護するという機能)に還元することはできない。ファッションとしての衣服は衣服の直接的な使用価値、つまり身体の保護によっては説明できない記号作用をもち、この側面なしには衣服は商品として需要もされない。10衣服はジェンダーや信仰の識別にも用いられるから、ファッションやデザインは、それ自体が文化やイデオロギーを直接的使用価値と一体化することによって、人々の意識のなかにある価値観の再生産を担うことになる。スマホのような通信デバイスも同様に、このデバイスに搭載されているアプリや通信アプリのアルゴリズムを通じて人々は文化やイデオロギーを取り込む。この取り込みは、人と人が直接コミュニケーションをとるような意味での自然なものではなく、アルゴリズムや不可視の検閲が作用している。この意味でアルゴリズムは、後述する商品の意味使用価値の構成要素をなすことにもなる。

このように、使用価値は、マルクスが定義する剰余価値を直接形成するわけではないのだが、生活手段として消費過程に入ることによって、<労働力>再生産過程に直接影響を及ぼすことになる。生活手段を消費することとは、資本が供給した「モノ」を単に生理的な必要を満すために使用することを意味するわけではない。この消費には文化的な意味があり、また労働者のライフスタイルを規定する条件をなすものだ。どのようなものであれ市場で生活手段を購入せざるをえないということは、資本が供給する商品を私生活のなかに持ち込むことを意味しており、階級闘争の主体にとっては、このことが<労働力>の再生産に影響する。また、その意識にも影響するはずであって、この問題は主体の解体をもたらす可能性を秘めており、決して瑣末な問題ではない。生活手段とは、資本が労働者の生活世界に送り込む敵の手先なのだ。だからこそ、商品の使用価値をモノの直接的な有用性(衣服なら外部環境から身体を保護するという機能)に還元することはできない。ファッションとしての衣服の側面なしには衣服は商品として需要もされない。商品の使用価値における直接的な有用性(以下直接的使用価値と呼ぶ)は、ある種の抽象的な概念化作用でしかなく、実際の商品は直接的使用価値と一体化された様々な意味をまとう。伝統的なマスメディア広告が前提にしているのは、市場に参入する消費者を集団として把握して、その集団が前提する使用価値についての前提条件、例えば、男性はスカートを需要しないなどの多かれ少なかれ固定観念や慣習、ときには偏見も交えた使用価値の意味である。この使用価値の意味を構成する環境は市場経済の貨幣を代価とする所有権の移転の過程だけでは理解できない。広告のように、商品そのものとは別の回路を通じて、一般には対価なしで提供される商品情報と一体となって商品の使用価値の意味が形成される。他方で、市場における商品売買は、この広告に典型的に示さているような商品情報の回路なくしては十分に需要を開拓することができない。価格と使用価値は市場において「情報」として、商品本体とは別の回路を通って流通する。私は、市場経済を補完し、かつ市場経済にとって不可欠な情報の回路をパラマーケットと呼ぶ。

広告の機能はマスメディアのニュース報道などと本質的に異なる役割りを担っている。それは広告に触れた人たちが、その商品に対して購買欲望を発動し、行動に移すように促すことを意図している。つまり、操作的な情報に特化している。他方で、ニュース報道に接した人たちは、報道内容を様々に解釈する。様々な評価をもつことをメディアの発信者側は許容し、報道の内容が画一的な何らかの行動に結びつくことは必ずしも最優先の目的ではない。どのように評価しどのように行動するのかは情報の受け手に委ねられている。しかし、広告はそうではない。考え方や欲望の内容を変えるだけではなく、実際に行動する(当の商品を買う)ことを実現できるかどうかが広告の成否の基準になる。広告は行動主義が目指したものととてもよく親和する。

6.2. 直接的使用価値と意味使用価値

広告は商品それ自体ではなく、商品の意味内容を構成する最も普及した事例だといえる。広告に限らず、商品の使用価値を分析するには、マルクスの概念装置だけでは十分ではない。使用価値をパラマーケットの構造を踏まえて再定義することが必要になる。とりわけ、その商品の意味内容を構成するものであって、そのモノをモノとして消費することによって得られる有用性については、「意味」という世界を通じて接点をもつにすぎない要素を的確に論じるための概念が必要になってくる。

マルスクは小麦、靴墨、リンネルといった一般名詞によって商品交換を説明したし、大方の経済学の教科書も同様だ。しかし私達が遭遇する市場では、「ハンバーガー」という商品は存在しない。存在するのは、固有のブランド名をもつ様々な「ハンバーガー」である。マクドナルドのハンバーガーを食べるということは、モスバーガーのハンバーガーを食べることとはその「意味」が違うことは消費者なら誰でも知っている。この違いは直接的使用価値には還元できない意味が買い手の心理に作用する領域に関係しており、ここにはブランドごとに発信される広告が消費者に与えようとする「意味」の関与がある。だからバンスの間に挽肉と野菜が挟まれた食べ物という定義でマクドナルドのハンバーガーやモスバーガーを定義することはできない。買い手が何を選択するのかという問題は、市場全体の構造からすると、買い手は選択肢から圧倒的に多くの商品を排除して、ある特定のブランドを冠した商品一つを選ぶわけだから、ほとんど全ての広告や商品を覆うパッケージや看板の類は効を奏すことなく終ることになるが、そうであったとしても、市場に供給される商品の意味を構成することには寄与しており、また、この意味なくしてはそもそもの市場のメカニズムも機能できない。市場の構造を説明するためには、このように直接的な使用価値とは区別されるものとして、意味を担う使用価値に固有の機能があることを明確にすることが不可欠なのだ。

資本主義のなかで個人として構築されるアイデンティティの重要な核として、市場が供給する商品に随伴する抽象的な使用価値と具体的使用価値のある種の弁証法のなかで、資本の戦略は、自らのブランドを担う具体的使用価値が抽象的使用価値を乗っ取り転倒させて、固有名詞としてのブランドによって一般名詞を代表させるような使用価値の物神性とでもいうべき現象をもたらすことが繰り返し試みられる。プレゼンテーションソフトと呼ぶかわりに「パワポ」と呼ぶことが一般的に通用するような事態をイメージしてもらえばわかりやすいだろう。このような過程を含む生活の場における意味集合が資本主義的な個人のアイデンティティ形成に影響を与える側面こそが、私たちを資本主義的な世界意識からの解放を困難にしている。私とは何ものなのかは、生活を構成する無数の直接的使用価値が具体的/抽象的使用価値としての「意味」世界に入りこみ、抽象的な言語の意味内容を作り変える。意味するものと意味されるものとの相互関係を構築する社会的なコミュニケーション構造が資本主義においては、資本によって編成される市場によって、そしてまた、この市場を通じて供給される<労働力>再生産過程における意味の構造によって規定される。この意味で言語の意味もその作用も資本主義的なそれとして歴史的に規定される。資本主義における監視という機能は、広告がそうであったように、この意味の構造に介入し、人々がどのような意味を生成し、これを行動に結びつけているのかを把握しようとする。

6.3. 多重化する意味使用価値

他方で、意味使用価値は、売り手にとっての意味使用価値と買い手のそれとが一致しているかどうかを確認する手だてがないために、その意味は二重になる。意味の二重性とその検証困難性11はコミュニケーション一般に共通する基本的な性格であり、相手が語ったことの意図を相手の内面にたちいって正確に把握することはできず、常に私による解釈を相手の意図や意思そのものとみなすという「思い込み」を確信できるかどうか、あるいは相手の真意を理解しようとする真摯な努力がコミュニケーションを左右する。そもそも売り手が商品の使用価値の意味として構成しようとしたコンセプトをパッケージや宣伝文句が正確に反映しているかどうかについて、売り手は買い手―市場にあって買うかもしれないし買わないかもしれない消費者―の理解のなかに入り込んで確証することすらできない。可能なのは、資本がその組織の意思決定において、商品の使用価値の「意味」をパッケージや商品名や広告のキャッチコピーなどとして具体化する際の組織内合意形成が概ね成立しているということ、そして、「売れた」ことをもって資本にとっての意味使用価値が買い手によってもまた承認されたと「見做す」ということ、「買われない」ことをもって意味使用価値の市場における失敗を意味するということ以上のものではない、というのが伝統的な大量拡散型広告によるパラマーケットが果たしうる機能の限界だった。付言すれば、意味使用価値であれ直接的使用価値であれ、使用価値は価値との一体性をもって商品を構成するが、ここでは価値(あるいは交換価値)との関係が意味使用価値にもたらす重要な影響をあえて無視している。12

売り手にとっての意味使用価値は、パラマーケットを通じた情報回路によって市場に伝達される様々な非直接的な使用価値、つまり、パッケージデザインであったり広告に登場するタレントや有名人のキャラクターであったり、商品のブランド名やロゴであったり、いずれにしても、本来の使用価値とされているモノの有用性とは概念的にも物理的にも区別されるものでありながら、買い手の購買欲望に直接作用することを意図して売り手が意識的に商品と一体のものとして生産することになる。アンドロイド・スマホでGoogle検索することとiPhoneでGoogle検索することとは、その機能は同一であっても、意味使用価値の観点からみた場合、異なる二つの消費現象である。この意味使用価値は、一次的には、モノの生産とは異なって資本の流通過程のなかに意味生産過程として組込まれる。つまり、意味使用価値の観点からすると、資本の流通過程はモノとしての完成された使用価値であっても、意味使用価値はこの流通過程において生産されつづける。しかし、売り手は、買い手がどのような意味を当該商品に与えるかを完全に制御することはできない。買い手が店舗などで商品を購入する際に実際に接触する店員たちとのコミュニケーションが果たす役割を想起すれば理解しやすいだろう。ネットの広告やインフルエンサーによる宣伝などのコミュニケーションもまた意味使用価値に組み込まれる。意味生産過程は資本の流通過程とパラマーケットの双方に関わることになる。

買い手のなかで起きる意味使用価値の生成は、売り手のそれとは全く異なる。最も純粋なケースとして、これまで消費経験のない商品を購入する場合を考えてみればわかるように、買い手の購買行動を促す欲望には具体的な経験は必ずしも必要とはされない。「もしこの商品を買うとすればどのような生活が実現可能になるだろうか」というイメージや想像の世界が形成されさえすれば、この想像の世界のなかの欲望の充足が先取りされることによって、現実の商品への欲望がここに係留される。実際には想像と現実の間を橋渡ししているのは売り手による想像力喚起のための仕掛けであり、これが長年広告やパッケージデザインが果すべき役割りとされてきた。13

6.4. SNSと意味使用価値―ネガティブな意味

この意味生産過程は、インターネットのSNSのようなサービスに接合されることによって、伝統的な意味形成のプロセスに新たな要素が加わることになる。それがアルゴリズムとインフルエンサーである。この二つは、広告の新たな手法としての側面もあるが、同時に、それとは相対的に区別される市場の自律的な情報空間の力学にも晒される。広告に限らず、とりわけネガティブな評価の拡散という問題にこの特徴が端的に表われる。SNSのアルゴリズムはネガティブな言説や偽情報の類いを拡散しやすい性質をもっている。これは伝統的なマスメディアのパラマーケットには存在しなかった新しい状況ともいえる。いつの時代にもいわゆる流言飛語の類いは存在したが、SNSの場合は、これが機械的に増幅されるようなアルゴリズムによって制御されており、ここには資本の収益構造とリンクした意図的な戦略が組込まれている。

これまで固有のブランド名をもつ商品を念頭に置いた議論をしてきたが、ポジティブな評価が当該商品を供給する資本によって意識的に「広告」として流されると同時に、時には、これと対抗するネガティブな情報もまた口コミの範囲を越えて拡散しうる構造がある、ということだ。そのために意味使用価値における「意味」の構成のバランスシートはインターネットが存在しなかった時代の大衆消費市場にはみられない多様でネガティブな要素をもつ「意味」の占める割合が高くなりうる環境に晒されることになる。

こうした意味使用価値をめぐる生成の弁証法は、商品を供給する資本の側の意味生成の戦略に大きな変化をもたらした。ひとつは、インターネットの広告におけるインフルエンサーの囲い込みや組織化であり、もうひとつはSNSのアルゴリズム戦略である。ここには、場合によっては、インフルエンサーを用いた競争相手へのネガティブキャンペーンも含まれるかもしれない。同時に、市場に参入する消費者の動静を把握するために、さまざまなトラッキング技術が開発され消費者データが収集されるようにもなる。これらがビッグデータの一部を構成し、これが再びターゲティング広告などの手法でパラマーケットを通じて消費者の行動にフィードバックされる。意味使用価値は、この構造のなかで商品を供給する資本が独占的にその「意味」の主導権を握るということにはならず、様々なアクターによる当該商品についての意味作用の複合的な合成をなすことになり、市場においては、直接的使用価値のように固定された存在ではなく常時その内容が変容するものとして存在することになる。こうした絶え間ない変化があるからこそ、この意味領域は、これをいかにして確定的なものとして商品を供給する資本の側が意味使用価値の主導権を獲得できるかをめぐる闘争をもたらし、同時に、資本が与えようと意図する意味使用価値に対する敵対する要因への強い監視の動機を生まれることになる。これが市場経済における監視技術の開発を促すことになる。意味使用価値をめぐる問題は、外面的にみれば消費者の動静を外形的に詳細に把握することに焦点が絞られているようにみえるが、実際の関心の核心は、消費者の意識それ自体を把握して制御することにある。AIとブレイン・コンピュータ・インターフェースへの関心はこうした傾向を顕著に代表している。

意味それ自体はモノやサービスではない。言葉、画像や動画、シンボルなど様々な手段の組み合わせによって生成されるものであり、文化的な文脈に依存するコミュニケーションそのものでもあると同時に、言語によって集約されるものであるから、上の例でいえば、店舗の店員と買い手の間で交される会話や、買い手がテレビやネットで接する広告、SNSでの噂話の類まで、様々な回路を通じて買い手(となるかもしれない者)の側に商品の意味が生成され言語化される。しかし、市場の究極の目的は言語化ではなく、消費者の行動である。だから、資本の流通過程で資本がもっぱら意味生成の主体になれるわけでもないが、この流通過程を通じてしか資本は意味を生成しパラマーケットを通じて拡散させることもできない。この複雑な意味生成のプロセスが最終的には、買い手の「買う」とか「買わない」という判断を導くことに繋りをもつ一連の過程である。こうして資本は、買い手に購買欲求を喚起する目的で買い手が生成するであろう「意味」を外部から操作するための様々なまどろっこしい手段を講じるが、このことだけが「意味」ではない。市場に流通する商品の意味使用価値は、モノの使用価値それ自体ほど自明ではない。だからこそ、資本は意味使用価値を確定的なものすることにこだわらざるをえない。この一連のプロセスは民主主義の意思決定システムでは投票行動を制御する仕組みに容易に移植されうる。消費者の購買行動を操作するのと同様のことを有権者の投票行動にも適用されうるだろうということは、実際に広告代理店が選挙にも関与していることからも容易に推測できる。

6.5. 意味使用価値を媒介するもの

やや横道に逸れるが、意味使用価値の生産について、若干補足をしておきたい。商品の売り手と買い手という関係だけで売買関係は完結しない。広告資本が意味使用価値の形成に重要な役割を果し、広告資本と売り手との間でも市場の取引が成立する。広告資本と商品の売り手との間では、意味使用価値の生産をめぐる商品売買関係になる。広告資本は、意味使用価値の生成から流通媒体―広告を掲載する媒体―の段取りなどまでを担う。これは、広告資本が買い手=消費者の動向を専門的に把握する情報産業としての機能をもつことを意味する。「意味」の領域は、交換の一方の当事者である買い手の購買欲望を把握しこれを操作することによって、目的の商品を買わせるという行動へと繋げていく行為領域と不可分だ。

広告資本は、買い手のなかに潜在していた欲望に「ことば」を与え「意味」を顕在化させるだけでなく、そもそも買い手にはなかった欲望を、広告という媒体を通じて意図的に与えることで欲望=需要を人工的に創出する役割を担う。このプロセス全体にとって中心的な役割を担うのは直接的使用価値ではなく意味使用価値だ。このプロセスの効果的な実施には、匿名性の高い消費市場において、匿名の買い手を特定し、その動静を把握する高度な情報収集能力を持つことが必要になる。市場経済の匿名性は、一方で買い手の自由を保障することにもなるが、他方で、匿名であるが故に買い手が誰であるのかを把握するために必要になる情報収集の技術の開発を促すことにもなる。情報収集―意味使用価値の生産―消費者欲望の生成―行動の制御、という一連の流れは、商品それ自体の流通構造とは相対的に区別されるコミュニケーション領域に関わる。これをわたしはパラマーケットと呼んできた。ほぼ同じ構造は、匿名性を前提とする選挙制度に基く民主主義的な統治機構にも当て嵌まる。この場合には有権者情報の収集を有権者の投票行動に結び付けることになる。広告資本などが選挙運動に関与することによって、立候補者と広告資本の間には市場の取引がありながら、そこで生成された情報は市場を介さずに有権者に届けられるので、ここにもパラマーケットが生成される。いずれの場合も、情報収集を前提とするシステムになるために、こうした社会は、情報収集とその処理技術を高度化させる傾向をもつことになる。これが、コンピュータを駆使する現代の監視社会の背景にある。コンピュータをこうした情報収集―行動予測―行動制御に利用しようとする傾向は社会進歩の自然な流れでもなければ、技術の中立的な性格によるものでもなく、経済と政治の権力の要請によるものだ。つまり、もともと市場経済とパラマーケットに備わっていたこの欲望をめぐる仕組みが、インターネットの普及を通じて、サードパーティクッキーのような仕組みの開発を促してきたのだ。この点は折に触れて言及することになるだろう。

6.6. 意味の生成という問題

本題に戻ろう。買い手のなかで起きる意味使用価値の生成は、売り手のそれとは全く異なる。最も純粋なケースとして、これまで消費した経験のない商品を購入する場合を考えてみればわかるように、買い手の購買行動を促す欲望には具体的な経験を必ずしも必要とはしない。経験の記憶もなしに、全く見知らぬ商品に接したときに、生理学的な必要に迫られているわけでもないのに、なぜ買い手が「買いたい」という欲望を抱くのかは、説明を必要とすることだ。「もしこの商品を買うとすればどのような生活が実現可能になるだろうか」というイメージや想像の世界が形成されることはその前提をなす。この想像の世界のなかの欲望の充足が先取りされることによって、現実の商品への欲望がここに係留される。

実際には想像と現実の間を橋渡ししているのは売り手による想像力喚起のための仕掛けであり、同種の他商品の使用経験があれば、それとの比較も含めて新製品を選択させるような情報操作を展開する。それが長年広告やパッケージデザインが果すべき役割りだった。この意味の先取り、あるいは商品によって可能となるであろう将来のイメージをパラマーケットは広告だけでなく様々な回路を通じて構成し、これを実際の市場に繋げ、人々を消費者として再定義して買い手として行動しようとする意識を形成する。私たちの将来、未だ到来していない未来をパラマーケットは市場に媒介することを通じて資本による支配を未来の時間へと媒介する作用をもっている。未だ到来していない未来があらかじめ資本によって支配されているのだ。行動主義が目標を与件として、人々の行動を制御する技術に関心もったことを思い起こそう。この目標のなかには、資本や国家の廃棄は含まれておらず、「意味」というやっかいな領域もまた資本と国家による再生産の構造の呪縛を被り続けることになる。この未来の資本による支配は、私たちが闘わなければならない対象の一つでもある。未来を資本から奪回することなしに資本主義を終わらせる未来の想像力を獲得することもできないからだ。

買い手にとっての使用価値の「意味」は、どのような作用を果すものなのか、更に立ち入ってみてみよう。直接的使用価値が消費者の生理的な身体の維持や保護などの機能を果すとすると、意味とはいったい何なのだろうか。買い手が買うモノは具体的なブランド名をもつものだが、その具体性を買い手は具体的な意味としてのみ受け取るわけではない。たとえば、マクドナルドのハンバーガーを食べるとき、「美味しい」とか「不味い」といった感想を口にする。ほとんどの日常生活の経験が言語として表現されるときには、暑い、寒い、痒い、痛い、面白い、退屈などなどいずれも、様々なシチュエーションに共通する言葉で表現されることが多い。言語化されるときに、人は同時に、経験を抽象化して一般的な言葉として表現する。「マックのハンバーガーは美味しい」というありきたりの表現であれ、いわゆるテレビのグルメ番組の食レポであれ、言語による表現は意味使用価値の抽象化作用を必ず伴う。味覚のような身体経験は言語に還元できない言語外の残余の部分を含むが、これが言語化されたときには、必ずある種の抽象化作用が生じる。このように考えると、商品をめぐる意味は、買い手のなかで幾重にも重なった重層的な具体と抽象の意味構造のなかで処理されていること がわかる。

たとえば、7月25日午後5時に原宿竹下通りのマクドナルドでビッグマックセットを1個購入した、というように、モノの具体的な情報は、時間と空間によって一義的に決定される世界のなかに配置されている。しかし私たちは、コンピューターとは違って、この具体的なモノの意味するものを特定するデータをそのモノの意味それ自体だとみなしているわけではない。データによってこの一義的に決定されたこのモノは、たとえば、次のような会話を成り立たせることになる。

アリス「ハンバーガーを買って食べたよ」
ボブ「どのハンバガー」
アリス「マック」
ボブ「どこで買ったの?」
アリス「竹下通り」
ボブ「いつ食べたの」
アリス「5時ころかな」
ボブ「最近ぼくはハンバーガー食べてないけど、どうだった?」
アリス「まあまあかな」
ボブ「一緒に食事しようと思ったけど、まだお腹すいていないね」
アリス「そうでもないよ…」

こうしたごく普通にありがちな会話は「7月25日午後5時に原宿竹下通りのマクドナルドでビッグマックセットを1個購入した」というデータが一括で提供されているわけではない。「ビッグマックセット」は「マクドナルドのハンバーガー」として抽象化され、更には「ハンバーガー」という一般名詞に置き換えられ、それが食事のカテゴリーのなかに属するものであり、美味しいとか空腹などの感覚表現とむすびつけられている。会話が具体的な状況を前提にしながら、実は、極めて抽象的な概念がその背後で作用している。具体的な意味は抽象的な意味と相互に繋がりながらひとつの意味の場を形成している。この限りでは、具体的な意味と抽象的な意味の間には一見するとどちらが規定的なのか判別がつかないようにみえる。しかし、具体的な意味が抽象的な概念との結び付きを一切もちえない場合、食べ物は「食べ物」としては認識できず、食べるという行為にも結びつかない。また、他方で、食べ物が「食べ物」として認識されても、それを食べるという行為と結びつけられない場合もある。その「食べ物」が映画のなかの登場人物の演技であったり、自分の嫌いな食べ物であったりなど、「食べ物」は、その文脈のなかでその意味が変容する。いずれの場合も、抽象的な概念との関係のなかで具体的な意味がその具体性を実現する。

具体的なモノが時間と空間によって一義的に規定されるということと、それが意味をもつということとは別のことである。そして具体的なモノの意味は抽象的な概念なしには意味を生成できない。このような意味の具体性と抽象性の弁証法に対して直接的使用価値として登場する商品体それ自体は、この弁証法の前提としての場を提供することになる。商品として取引されるモノなくして意味の弁証法は成立しないという点からすると、資本主義の日常生活の大半を支配している商品とは、同時に日常生活の具体性と抽象性の意味の弁証法の場であるということができる。この意味空間を通じて私たちは自らの意識を形成・再生産する。このことは、労働者階級であっても避けることはできず、そうであるからこそ、商品は階級意識に影響及ぼす資本の武器でもあるのだ。コンピューターはこの具体と抽象の意味の世界を格好の獲物にする。つまりデータセットだ。

ではこの抽象的な意味、「食べ物」「食べる」とか、「服」「着る」などの表現や、「美味しい」とか「寒い」といった感覚や感情を一般的に示すような表現はどこから生まれてくるのだろうか。ハンバーガーもお茶漬けもともに「食べ物」という概念で括ることができるような意味操作を人間は成長の早い時期に獲得する。対人関係に関わる言語も、母や父の固有名詞よりも先に「ママ」「パパ」といった一般的な呼称が先行したりする。友だちの親と自分の親が同じ「ママ」「パパ」と呼ばれながら、それが「同じ」意味ではないことを子どもも認識できたりする。このようにしてみると、時間的空間的に一義的に規定され、他と明確に区別されるようなモノがまとう具体的な意味の方が実は極めて特殊なのではないか、と考えてみる必要がある。言語表現よりもより原初的かもしれない身振りなどは、それが指し示すものを言語と比較して漠然としてしか表しえず、その意味は言語ほど明確ではない印象があるが、実は言語とのこうした比較が正しいのかどうかを疑う必要がある。むしろ漠然とした指し示しのように見える場合であっても当事者の人々が相互に了解可能なコミュニケーションの方が、言語に還元できないが意味としての機能はそれで十分果しえているから、それでコミュニケーションとして通用している、ということの意義にもっと注目する必要がある。言語による表現であれば曖昧さが抑制されるかどうかは、具体的意味と抽象的意味の関係がモノとの間でとり結ぶ関係のなかでしか決まらないのだ。これはたぶんコンピューターの認識世界にはないことだろう。

6.7. 近代資本主義に固有な「意味」生成の特徴

そもそもモノの意味が時間と空間によって一義的に規定されることにこだわるのは、近代世界の、とりわけ市場経済が、モノを私的所有の対象とし、商品として供給する構造がもたらした意味生成の特徴である。パンを作るのに必要な小麦粉という商品は、特定の商標名をもって売られる以外には存在しない。つまり、資本主義の市場経済では「小麦粉」それ自体は実在しない。具体的なモノとして存在しているのは何らかの商品名である。この固有名詞としての商品と一般名詞としての「小麦粉」とを売り手も買い手も同一視するが、この同一視は同じことを意味していない。売り手は、固有名詞を一般名詞に結びつけて、あたかも自社の商品が小麦一般を代表するかのように振る舞おうとする。こうした振る舞いは、言外に、競争相手を意味論上排除することが意図されている。他方で、買い手にとって必要なのは、小麦の直接的使用価値であり、これは、買い手が小麦粉を用いて料理する(パンを作るとか天ぷらの衣にするとか)など、そのモノが使用される文脈に依存してその意味が規定される。このような意味の文脈上の規定にとって、商品の商標名が不可欠であるとは限らない。小麦粉であれば何でもいい、という場合も珍しくない。買い手にとっての小麦一般と商品としての小麦との結び付きは、その直接的使用価値をめぐる意味の文脈から導き出されるものだ。14

いつどこでどれだけの商品が売れたのかは資本にとっては大きな関心事だ。このことが、モノの具体的な意味を近代市場経済に固有の意味として規定し、これこそがモノの意味の一般的な性質の中心を占めるようになる。具体的有用労働に担われた具体的意味は、買い手のなかで、意味の抽象化作用の階段を登って最も抽象的で一般的な意味を担う言語と結びつくことになる。つまり、労働生産物としての小麦は、この回路を通じて、買い手にとっての「小麦」になる。このように、「小麦」は、売り手にとっては、自社のブランドの固有名詞と同義であり、買い手にとっては、その意味の文脈に規定された直接的使用価値なのである。

7. パラマーケットと意味使用価値

7.1. パラマーケットとモノの意味

資本主義において、商品売買は、市場で商品が買い手に渡され、貨幣を売り手が受けとる時点で完結するという点については、支配的経済学とマルクス経済学の間に基本的な認識の差はない。どちらの場合も、パラマーケットと使用価値の意味をめぐる構造を念頭に置いたとき、市場経済がいわゆる消費過程そのものと截然と区別されうるわけではない。この曖昧さは、監視社会としての資本主義批判にとってはそのままにしておくわけにはいかない問題をもたらす。市場の売買は上述したように、直接的使用価値と貨幣との交換関係に集約することのできない意味使用価値とパラマーケットの構造を伴う。

近代資本主義では、市場は、空間的に明確なを境界もつ場所としての「いちば」を意味していない。市場は「いちば」と同義とみなされて日本語でも英語でも空間的な場としての「いちば」と、機能としての商品売買行為の場としての「市場(しじょう)」との間に本質的な違いがあることにはあまり関心が払われてこなかった。パラマーケットは、商品売買そのものと空間的には不可分一体ではなく、いわゆる売買とは異る構造のなかで機能しつつ、同時に市場の取引にとって不可欠な機能を果すなかで、この空間的な観念に擬した市場では把握できない意味空間の広がりをもたらす。

パラマーケットは、これまでの文脈でいえば、情報・コミュニケーションの回路が市場経済の取引に必要な機能として作用するところで成り立つ。パラマーケットと呼ばれるものが制度的に機能分化して実在するのではなく、コミュニケーションの回路のなかに、その他の様々なものと区別されない形で入りこんでいる特性を概念的に抽出して提示したものだ。この意味で経験主義的にも実証主義的にも導出できるものではないが、資本主義の構造的な支配、とりわけ意味の搾取への批判的なアプローチには必要な手続なのだ。このことが、市場を介して調達されたモノが買い手の市場的なモノの編成のなかにシームレスに組み込まれて買い手の「生活」意識の構成を可能にする仕組みを明らかにすることになる。市場で買ったもの、自分が作ったもの、他人からプレゼントされたもの、私の「モノ」の来歴は様々であるが、これらが渾然一体となって生活の意味空間を構成する。モノの意味は、来歴だけでなく、使用をめぐるモノや人の相互関係によって様々に変化する。資本にとっての関心は、こうした私生活のなかで自社の商品がどのような意味をもって消費されているのか、この消費を通じて消費者が再び自社の商品を買うという選択をするのかどうかであり、競合他社の商品を消費者が使用している場合は、いかにしてこの競争相手を消費者の生活の場から排除するか、である。市場における競争が目論む「排除」とは文字通りの直接的使用価値の排除だけでなく、その意味使用価値における具体的使用価値と抽象的使用価値との結び付きを切り離し、その意味を一般性から駆逐して希薄化させ否定的な意味へと追い込もうとする。こうした意味作用は、パラマーケットを通じて不断に繰り返される。それは広告によって組織的に展開される場合もあれば、口コミによる場合もあれば、SNSのアルゴリズムとインスフエンサーによるかもしれない。モノの意味は直接的使用価値とは違って固定化されているわけではなく、コミュニケーションを通じて繰り返し生成され、さまざまなモノのとの関係づけの組み換えのなかで、その意味も変容する具体的意味と抽象的意味の弁証法的な構造をもっている。この意味生成の「場」は市場の外のパラマーケットに組み込まれることによって、資本が介入することが可能になる。20世紀においてマスメディアを通じて実現されたのは、この市場の外部の生活空間を制御するパラマーケットによる支配だったが、これが20世紀末以降、今世紀にはインターネットの双方向のコミュニケーションを意識しえない領域で支配することを通じてより巧妙化し、容易には生活世界から排除することが困難なものへと進化した。(後述するようにパラマーケットは政治権力を支える意識とコミュニケーションの構造としても機能する)

問題は、生活の場にパラマーケットが組み込まれてモノの意味に資本が影響を与えようとする行動がもつ影響の拡がりである。資本は、個別資本の観点からすれば、市場における消費者の購買行動に影響を与えて自社の商品を買うように仕向けるが、総資本の観点からすれば、生活の社会的な機能が<労働力>再生産にあることを踏まえたモノの集合的意味の問題を捉えることが必要になる。生活を構成するモノの総体によって構成される生活の意味は、ライフスタイルとか生活様式とか、あるいは習慣や文化などと呼ばれるようなものによって輪郭を与えられる社会集団が、全体として共有していると観念される生活実感でもあり、これが<労働力>の担い手の意識の再生産を担う。市場に供給されるモノの集合が、生活過程のなかで消費されることを通じて意味を形成するわけだが、ここでのモノの意味は直接的使用価値や具体的な使用価値が指し示すいまここにある当のモノそのものを特定するような言語と抽象的使用価値としての意味使用価値が相互に接合しながら形成される意味空間である。ブランド名としてのモノが「小麦粉」「ハンバーガー」といった一般名詞であったり、「美味しい」「嬉しい」といった他のモノにもあてはまる感情表現であったりするような意味をになう言語の集合と接合して形成される意味が、生活の意味を、つまり人々の社会意識を規定する物質的基盤となる。この集合の要素が相互にい結びつく在り方は、生活それ自身のなかでのモノが果たす機能や、フロイトが指摘したような無意識や「検閲」にも作用する。

7.2. パラマーケットの変容

伝統的なパラマーケットとは、市場の取引に付随して市場にとって不可欠だがそのサービスを市場原理に即して対価を請求することができない、あるいはそうしない方が資本にとって効果があるような情報データの流通回路だった。パラマーケットは商品の意味使用価値の形成を担い直接的使用価値とともに使用価値そのものを支えるための回路であるという意味で、もっぱら情報データに関わるものといえた。マルクスは商品、貨幣、資本に対して、その所有者を単なる、これら市場の構成要素の人的な担い手に過ぎないものとみなした。市場におけるモノの性質は人間に依存するのではなく、むしろ人と人との関係が物と物との関係として構築可能な物象化の世界を資本主義経済社会の基本的な性格とみなした。これが初期の疎外論からの大きな転換とも解釈されたのだが、私は、むしろ、物象化は貫徹されることはできず、常に人間的な条件が残るところに、資本主義の限界があることをこれまでも指摘してきた。15 労働者にとって自らの労働能力とは、労働への意欲の関数であり、労働の潜在的な可能性としてのみ存在するのであって、ここに労働者の抵抗の手掛かりもある。同様に、商品の売買過程が買い手の欲望を必須の条件としなければ成立しないということは、欲望を生成する使用価値の作用を把握できる理論的な枠組が必要だということを意味している。

使用価値の意味は、まさにこの点で買い手の欲望をターゲットにして構築されるものだ。大量散布型の広告であれターゲティング広告であれ、最終的な目標は、消費者個々人が「買う」という行動をとるように、消費者の欲望を操作しようとすることであり、この操作が、消費者の主観においては「私」の欲望として感じとられるように、消費者の心理に組み込まれることが必要なのだ。パラマーケットはもっぱらこうした消費者の心理に作用することも目的として生成された使用価値の意味が、商品本体とは別に伝達される回路だった。

7.3. デジタル時代:意味の生成過程のインタラクティブな組み換え

CTCが支配的なデジタル時代のパラマーケットは、この資本の回路を根底から別のものにした。それは、意味の生成過程をインタラクティブに組み換え、同時に、これまでは推測の域を出なかった、個々の消費者を識別し、更にプライベートなデータに直接アクセスすることによって、欲望の操作をフィードバック・システムのなかに組み込むことが可能になった、ということである。没個性的な「大衆」を生み出すと批判された大衆消費社会とは逆に、デジタル時代のパラマーケットでは、人々は固有名詞をもった「個人」として個別化された上で、資本の都合に応じて柔軟にカテゴリー分けが可能な対象となることによって、不確定な「消費」予測に対する柔軟性のある対応力を獲得するようになる。ここで核心をなす事態が、プライバシーの解体だ。パラマーケットはプライバシーの領域に風穴を開ける突破口となる。もともと資本の商品は、家族のような私的な制度の内部に入り込み、プライバシー空間を占領し、人々の私生活と日常を資本の物を通じて資本の意思に従属可能な外的環境世界として構築することまでは成功してきたが、CTCに基づく支配的構造では、個人の所有するスマートフォンに端的にみられるように、家族の制度によるバリアは解体されて直接個人にアクセスが可能になる。他方で、プライベートな空間とされてきた家族の領域もまた電力会社のスマートメーターやAIロボットなどIoTを組み込んだ生活手段がリアルタイムでモニターが可能になることによって、家族関係と個々の消費者の内面を解析し、行動を操作し、思い通りにいかなければ何度でもプロファイルを再構築して思い通りの結果となるように調整を繰り返すことが可能になった。

先にも述べたように、資本主義のなかで個人として構築されるアイデンティティの重要な核として、市場が供給する商品に随伴する抽象的な意味使用価値と具体的な直接的使用価値のある種の弁証法のなかで、資本の戦略としての直接的使用価値が意味使用価値を乗っ取り転倒させて、固有名詞としてのブランドによって一般名詞を代表させるような使用価値の物神性とでもいうべき現象をもたらすことが繰り返し試みられる。従来、資本主義的な個人のアイデンティティは、生活の場における意味の集合が、家族のような私的な組織を介して形成され、このことを前提として、「私」とは何ものなのかは、生活を構成する無数の直接的使用価値が具体的/抽象的使用価値として「意味」世界に入りこみ、抽象的な言語の意味内容を作り変えるなかで形成されてきた。意味するものと意味されるものとの相互関係を構築する社会的なコミュニケーション構造が資本主義においては、資本によって編成される市場によって、そしてまた、この市場を通じて供給される<労働力>再生産過程―家族が不可欠な制度としてこれを担うことが想定されている―における意味の構造によって規定される。言語の意味もその作用も資本主義的なそれとして歴史的に規定される。

CTCが支配的な資本主義では、この過程から、家族のような私的な組織によるプライバシーのバッファが後退し、文字通りの意味でのプライバシーの権利主体である個人が、自らの主体性をもってパラマーケットに仕組まれた監視と対峙することになる。こうして現代の監視社会は、近代が理念として掲げた個人主義の限界と脆弱性を突いて、自覚されることもなく密かに私の主体性の内部に侵入する糸口を獲得することになる。これに対して家族をCTCによる個人への直接的な介入に対する障壁となることを期待するのは、復古主義でしかなく、解放の選択肢にはならない。現実の過程は、家族を介さなし個人への介入と家族を媒介とする個人への介入が相互に補完するようにして、個人を包囲することを通じて、国家と資本による監視が構造化されることになるだろう。

7.4. 選択の自由と操作的言語

消費者は複数の商品からの選択の自由をもち、この自由に対して資本は消費者の行動をコミュニケーションの回路(パラマーケット)を通じて制御しようとする。制御とは消費者の意識に作用して、その行動の変容を促すことであるから、資本の言語とは、常に操作的である。広告のような一方的なメッセージはその典型であり、これは、従来のマスメディアであれネット広告であれ、基本は変わらない。売り手と買い手の間の双方向のコミュニケーションとは、お互いが対等な立場ではなく、また、相互が同じ利害にたつコミュニケーションでもなく、非対称なコミュニケーションであり、双方の思惑も利用できるアルゴリズムや技術も同じではない。私たちは、買い手であることを市場ではほぼ強いられており、常に操作的なコミュニケーションに晒されていて、こうしたコミュニケーションを当たり前のものと感じている。にもかかわらず、このなかで自分の認識や感性が操作されている可能性に気づくとは限らないし、気づいても深刻な権利侵害だとは考えない。

言語が他者に対して操作的であるかどうかは、文脈に依存する。たとえば「お腹が空いたね。ハンバーガーでも食べようか」「そうだね。マックにしようか」という会話が友人との間なのか、それともマクドナルドのコマーシャルの一シーンでの出来事なのかでは、全くこの言語が果すことが期待されている効果が異なる。後者の場合は明らかに操作的な言語であることは広告の文脈から明かだ。人はこの文脈を理解して操作的な言語表現の意味を組み立てる。この点で言語は、この言語が語られる言語以外の環境全体の文脈のなかでしかその意味を確定することができない。もし、そうであるとすると、言語の操作性は言語の文法などの構造に依存するとは限らないことになる。資本が広告によって欲望を操作するような表現を投げかけたときに、受け手の側がこれを、資本の意図に沿って解釈することができなければならない。広告の受け手が市場経済の習慣や仕組みを知らなければ、操作的な言語はその機能を発揮できない。

つまり、制度とそのルールへの理解が前提になる。その上で、情報の受け手は、このメッセージという刺激の「意味」を解釈するときに、操作的な言語だということを受け入れ、この刺激に対して情動を発動して購買欲求に繋げるかどうかを判断する。様々な欲望のなかでも「空腹」に焦点があてられ、更に食べ物や食事といった一般的な使用価値のなかから「ハンバーガー」が選択され、このメッセージの唆しに乗るか拒否するかが判断される。市場は一般に消費者の欲望に関わるから、リビードのコントロールと結びつく。そうである以上、ここには、「検閲」が関与する。前章の大衆心理のありかたで述べた恋着や同一化が市場経済においても生じるが、市場で生じるこうした大衆心理ではモノへの恋着や同一化を媒介とした自己に回帰する同一化、という特殊な構造をとる。ナルシシズムと呼ばれたりもするわけだが、商品を買うことを通じて未だ実現されていないその商品を使用することによって得られるであろう満足をイメージとして先取りする。このイメージはパラマーケットを通じた広告のようなメッセージと自分自身が有する意味集合から生成される。消費者としての人間の側からすれば、自分の生活を構成している無数のモノは直接的使用価値の単なる集合ではない。これらが相互にどのように意味づけられて繋りをもつものなのかを直観や感性も含めた意識を通じて理解しうるものとして、その存在を認知している。「美味しい食べ物」といった一般化のなかに、マクドナルドのハンバーガーが登録されると、今度は、逆のルートを辿って、この一般化が個別具体性をもつ商品へと向うようになると、消費者はリピーターになる。

このように、市場経済のなかでは、言語の果す役割りとは、とりわけ売り手と買い手の間でのコミュニケーションにおいてはは、人間相互の場合であれ、広告のメッセージによる場合であれ、最大限に操作的な性格をもってメッセージの受け手に作用することを意図したものになる。この言語環境は市場経済に固有のものだ。売り手は、商品を自分の意志だけで買い手に買わせることはできず、買い手は貨幣所有者として、どの商品を購買するのかについての主導権を握っている。言い換えれば、売り手の資本は、資本としての絶大な権力も持ちながら、市場のなかでは、一介の消費者の行動を文字通りの意味で自由にすることすらできない。だからこそ、消費者の行動を自由に制御するための力を、コミュニケーションを通じて発揮しようとする。このときに、資本がなすべきことは、自社の商品の意味使用価値がまとう具体的な意味に買い手を繋ぎとめることだが、繋ぎとめとは、買い手の情動を自社の商品にのみ接合し、他の商品を排除するような選択的な判断と行動を実践させるような方向づけをコミュニケーションのなかで実現することである。時間と空間によって一義的に規定される意味の具体性をまとった商品と貨幣との交換は、実際には、意味の抽象化作用を通じて、この具体的な意味が抽象的な意味のなかに位置付けられることを通じて、評価的な意味、つまり使用の価値性格が形成される。これは、直接的使用価値によっては成し遂げることができない使用価値の別の側面である。意味の抽象化を通じて、消費者はその意味をはじめて、意味という概念に即した内実をもって内面化できる。資本の使用価値をめぐるコミュニケーションがターゲットにするのは、買い手の抽象的意味使用価値の領域なのだ。言い換えれば、この個別具体的な商品をある種の普遍的な意味を担うカテゴリーの一角に押し込めるのである。こうした、たかが資本が金儲けために生み出したにすぎない使用価値が、買い手の生活のなかで、過剰な意味を担うものとなる。

7.5. 具体的な意味が抽象的な意味を乗っ取る

更に、具体的な意味が抽象的な意味を乗っ取り、それ自体が抽象的な意味の地位を占めるようになる場合がでてくる。パソコンの文書データを「ワード」と呼んだり、オンライン会議を「ズーム」と呼ぶなどがそれだ。抽象的な言語の意味作用を言語の具体的な対象を指し示すための機能が代位する。多分市場経済の商品の意味使用価値の究極の目標は、自らの具体的な意味が抽象的一般的な意味の唯一の担い手になることだろう。マルクスが価値形態論において商品相互の交換関係を通じて、一般的等価物(貨幣)が社会的な共同作業として形成されるとした過程と同じ過程が、実は商品の使用価値世界においても繰り返されているのである。

そして更にこの意味使用価値の生成過程は、生活過程そのものに及ぶ。販売の実現は意味使用価値の確定を意味しない。消費過程のなかで意味使用価値はその意味内容を変化させながら消費者に影響を与え続ける。実際の消費を通じて買い手は、購買した商品の意味を経験として実体化する。個別資本にとって、商品の使用価値は、「我が社の商品」としてその意味を構築することになるが、買い手にとっての意味使用価値は、当該商品を個別に取り出して、その意味を「消費」するわけではない。消費の文脈のなかでその商品の意味が様々に変容する。生活手段の集合がライフスタイルを構成する。ライフスタイルは生活を支える経済的な裏付けに左右されるだけでなく、文化や価値観も反映する。総体としての生活手段集合のなかで個々の商品の意味使用価値が規定されるという点からすると、意味の二重性は、常に一致することはありえないとみるべきだろう。同時に、この生活手段集合こそが<労働力>再生産が担う具体的な<労働力>の「質」を規定するものにもなる。<労働力>再生産は、単に、労働者の肉体的生理的な労働能力の維持だけでなく、「働く意味」を形成する重要な要素の一つとなる。言い換えれば、労働者のパーソナリティ形成の一翼を担うことでもある。 資本主義のイデオロギー作用は、こうした商品の意味使用価値が果す買い手の意識への作用を抜きにしては論じることはできない。

市場における操作的な言語は、フロイトが言及した教会や軍隊のなかでのコミュニケーションが生み出すであろう恋着や同一化と同様、商品の使用価値に対するある種のフェティシズムをもたらすのだが、このフェティシズムは、イデオロギー一般と同じく、単純な外部注入ではなく、モノの意味の文脈化を可能にする買い手としての「私」の(無意識を含む)意識との共同作業になる。

7.6. CTC以前と以後での違い

以上の点を踏まえて、インターネットとコンピューター・コミュニケーションが支配的になる前と後でどのような本質的な違いが生まれているのかをやや図式的になるが整理しておこう。

前述のように、具体性の世界、つまり人間が実空間のなかで「私」と呼ばれる身体的な実体をもって存在している限り、この意味での私は、その身体性に制約された時間と空間の座標のなかに必ず位置づく。ある瞬間に存在する世界における私の場所は唯一の場所を占めるものとしての「私」である。この「私」は、同時に、実空間のなかでは、単純な同心円状の関係を形成する。最も親密な関係から、最も縁遠い未知の人々との、”関係”と表現していいのかすら不明な関係までの広がりである。図式的にいえば、家族、友人、地域や学校、職場、そして都市空間で出会う誰かもわからぬ多くの人々がこの同心円のどこかにプロットされる。最も親密な関係が家族だというわけでは必ずしもない。家族との関係が最悪なばあいには、物理的な距離の近さが、逆に関係を悪化させることになり、むしろ友人関係の方がより親密であったりもする。こうしたこと自体が、私の身体性が物理的空間との関係のなかで、位置づいているからこそ生じる問題であり、同時に、家族制度や家族の権力関係に内在する矛盾や軋轢がもたらす問題でもある。こうした場合、「私」は親密な関係の再構築を試みる。既存の同心円に対して、これとは別の同心円の構造を持ち込もうと闘うことになる。いずれの場合も、同心円の構造そのものが揺らぐわけではなく、矛盾を通じて、同心円の再構成が試みられるというに過ぎない。

このような同心円がどのような範疇によって形成されるのかは、社会の歴史的な性格によって規定される。市場経済と国民国家という社会の枠組をもつ現代資本主義は、この社会に固有の同心円の構造を人々の実空間のなかに形成することになる。そして人々は主として、空間のなかでこの同心円を知覚することができるから、人々は社会の秩序との関わりを意識的に理解する。

これまで度々論じてきたマスメディアやパラマーケットは、この実空間の構成のなかで、いわば、この同心円に対して楔を打ちこむようにして入り込むことによって、私の身体性に直接作用しようとしてきた。しかし、同時に私は様々なレベルでのコミュニケーションを通じて、メディアやパラマーケットを流れるコミュニケーションの「意味」の解釈を確立させようとする。メディア研究で論じられてきたように、人々はマスメディアを一方的に信じたり受け入れるわけではなく、親密な関係をもち信頼を寄せる人達の評価に左右されながらメディアの言説を受け入れる。広告のような商品情報は、物理的空間のなかで、実際の生活を通じて経験されるモノとの関係という経験も含めて、解釈される。こうしたメディアとパラマーケットの情報は政治や社会などに及ぶが、基本的な解釈と受容の構造は同じだ。この構造は、現在のインターネットとコンピューター・コミュニケーションが支配的な世界では次第に解体されつつある。

8. 空間の解体

8.1. プライバシーと空間

プライバシーは空間的な概念として成立した歴史的な経緯はよく知られている。他人に干渉されずに一人にしておいてもらう権利としてのプライバシーと、土地や建物の私的所有や占有の権利とは不可分の関係にあった。私の「場所」を特定できるルールが確立することによって、余所者の侵入を違法とし、国家権力による介入を例外として認めるための面倒な手続き(裁判所による捜索令状発付手続きなどによってのみ私権を制約できるとするのが近代法の基本原則だろう)も空間=場所への権利と不可分といえた。とはいえ、すでに述べたように、このプライバシーの空間は個人というよりもまず家族の空間として設定され、この家族関係に従属するものとして個人のプライバシーが位置づけられる。これは空間が「家」として設定され、個人はこの「家」のなかで個室が与えられれば、この個室が個人に直接関与するプライバシーの空間になるが、そうでなければ、個人のプライバシーは家族のプライバシーに代替されるだけの脆弱なものになる。プライバシー空間と資本や国家の占有空間の間にあるものとして、資本主義的な共有の空間として「公共空間」が論じられる場合も、これを「公共性」「公共圏」と言い換えるとしても、いずれであれ、現実の地理的な空間のなかに公共と呼びうるものを実体化する存在―公園や路上、公共施設など―が不可欠なものとしてイメージされており、現実の公共的な場所なくして公共の実体もまた維持できないものであることはほぼ確実なことだった。

場所を私的に囲い込むことによって排他的に自分だけ―実際には家族がこれに代位していることが多いわけだが―の空間を確保して他人から覗かれないで一人にしておかれる権利を物理的に確保するという、このプライバシー権を保障する物理的環境は、二つの前提条件によって確保された。ひとつは空間の私的所有の確立である。土地の商品化といってもいい。この排他的な権利は、他者の侵入を違法とする法規範を通じて正当化される。ただしここでいう物理的環境は文字通りの意味での個人の私的空間であるとは限らず、社会制度の前提としては、家族の空間がプライバシー空間として与えられさえすれば、プライバシーは保護される、とみなされてきた。もうひとつの条件は、この排他的な空間の占有や所有を侵害せずにプライバシーで保護されている場所を覗く技術がない、ということだ。後者については、通信の当事者がプライベートな空間にいたとしても、遠距離の内密な通信のような場合に通信経路はこのプライバシー空間の外部にあり、プライバシー権を空間の所有や占有のみでは保護できないという問題が生じることになる。手紙は配送の途中で盗み見される危険性があったし、19世紀に発明された電信、電話もまた、回線が盗聴されるリスクが常にあった。言い換えれば、プライバシー権は、その出発点から決定的な脆弱性をもっており、それが遠距離のコミュニケーションでは顕著だった。そして、この遠距離通信のリスクはインターネットの時代になっても、暗号技術による保護が進展してはいても脆弱なままなのだ。

空間を時間の関数だとみなすと、電話や電波による通信であれインターネットであれ、人間の身体感覚からするとほぼリアルタイムでのコミュニケーションが遠距離間で可能になることによって、空間の構造は明かな変容を遂げる。物理的な空間は、この空間をリアルタイムで接続する技術によって大きく変容する。サイバースペースの広がりは、地理的物理的な空間の属性としての時間によっては定義することができない。サイバースペースの大きさを測るには、移動に要する時間ではなく、ビット(あるいはバイト)で測定されるデータの大きさと、コンピューターのデータ処理能力だったりする。つまり、技術に依存する人工的な場所であるが、これをスペースとみなすとき、そこには私たちの知覚する空間との類推が密かに入り込む。サイバースペースの大きさは、誰にとっても同じではない。実空間のように入れる場所と入れない場所があるだけでなく、通信の回路は実空間の道路以上に、不平等であり選別的でもあり、場所によっては極め閉鎖的だったり、刑務所の空間のようだったり、サファリパークのようであったりもする。それが「自然」なコミュニケーション環境だと誤解される。というのも、このコミュニケーション環境を支えるインフラはそのほとんどが不可視であるか、専門的な技術や知識がなければ理解が困難だからだ。人と人との直接のコミュニケーションが「自然」な関係に属していることから、通信におけるコミュニケーションもまた同様の「自然」に属するかのような感覚が与えられる。直筆の手紙がメールやSNSのメッセージになることに伴う歪みが知覚されず、コミュニケーションの自然感覚が維持される。機械によって擬似的に形成されたコミュニケーションが「場所」=スペースとして意識され、これが視覚的に構成されると、コンピューターがディスプレー上に描き出す空間が本物の空間を凌駕して知覚に作用するようになる。16

実際の地理的空間上での行動をプロットすると、地図上の自宅、通勤経路、ショッピングエリア、職場、公共空間としての路上や公園など、場所ごとの色分けができる。それぞれの色に応じて人はその空間のなかで自分の役割衣装を着替える。この構図は、自分という人格を構成する重要な前提条件をなしており、一般に「私」という人格がただひとつの人格であるかのようにみなされがちだが、実際には複数の人格がひとつのものとして統合された存在でしかなく、しかもこの統合は理路整然とした繋がりによって一体となっているというよりも、生理的な身体に無理矢理に繋ぎとめられているかのように、不安定で相互に摩擦や不具合を孕みながらなんとかひとつの存在として「私」が維持されているにすぎない。たぶん、私ですら、この私の多面的なありかたを合理的に首尾一貫したものとして説明することは不可能だろう。しかし監視社会の基盤となる政府や企業が管理するデータの側からみえる風景は異なる。私のアイデンティティの現実がどうあれ、彼等は唯一の「私」をデータに基いて構築し、これを政府は唯一公認された「私」として認証シールを貼る。私がいかに抗弁しようと、却下されることになる。私が何者であるのかを規定する主体から私が排除され、私が親密の思う人々も排除され、政府が管理するアルゴリズムがとって代わる。

上図のように、伝統的な資本主義の空間構成のばあい、各々の場所ごとにそのルールを定めることが可能だ。縦軸の商品化の軸に沿ってみたばあい、空間は商品化され私的所有に従属するから、空間の所有者の裁量が大きくなる。民間企業の職場は、この意味で資本の裁量が最大化する空間であり、逆に監獄は公権力の裁量が最大化する。いずれも、人々の個人としてのプライバシーも自由もわずかしか認められない空間になる。ショッピングモールや交通機関は、たとえそれらが民間あるいは公的機関の管理下にあるとしても、場所における個人の自由あるいはプライバシーの権利は職場や監獄ほど小くはない。

監視をめぐる二つの権力、資本と国家―支配的構造―に対して諸個人が相対的に自由を確保するということは、この便宜的な図でいえば、原点に近ければ近いほど、自由度が高い空間になる。個人の自由は同時に個人がプライバシーを優先順位として高い位置に置くのか、それともプライバシー以外の権利を優先させるのかという選択の自由度が高いことを意味している。この図では、原点に近いところに、親密な人々によるか、あるいは全くひとりでいることが可能な空間を配置してある。こうした空間は支配的構造の直接支配を相対的に逃れている空間であればよいので、いわゆる家族のような制度を与件とする必要はないが、現実には、多くの人々にとってこの親密な空間の重要な制度が家族であり、そうであるが故に、この親密な空間は、資本や国家にはない、別の意味での「監視」をめぐる問題領域にもなる。

斜め右上向きの矢印のように、空間の再開発が進展するにつれて全体が次第に原点から遠ざかる傾向をもつ。空間が支配的構造に管理されるとともに、原点に近い位置にあった親密な空間もまた右斜め方向へと移動する。上図を簡略化すると下図のようになる。

データがデジタル化されてビッグデータとしてコンピューターのアルゴリズムによって、その都度必要に応じて必要なデータの組み合わせが抽出されて使用されるようになると、監視を地理的な空間に沿って構造化することは意味がなくなる。(下図参照)

こうしてコンピューターの世界は、データの束として全ての存在をネットワーク上にあるサーバーに溜め込むか、リアルタイムで生成されて短時間で消滅するような揮発性の高いデータとしてネットワーク上を移動しているといった類のものを通じて、「サイバースペース」とみなされるような世界が描かれている。ハードディスクなどの記憶媒体のメモリ領域を「場所」といえば「場所」だが、こうした「場所」が実空間の「場所」に対応しているわけでは決してない。しかし、やっかいなのは、実際には物理的な場所も時間の流れも存在しないサイバースペースが人間関係を構成するコミュニケーションに介入しているにもかかわらず、私たちは実空間の歪みを知覚できずに、素朴にこの「実空間」を疑わないまま受け入れてしまう。その結果として、コミュニケーションの歪みも気づかれないままになる。

それでは、こうした構造変化は、監視社会との関係でどのような新たな問題を引き起すことになるのだろうか。第一に、実空間との相互作用という問題だ。監視の目的に沿って監視すべきターゲットを抽出し、ターゲットを再度ビッグデータをもとにして精査し、この段階で必要であれば実空間における監視のための手段が動員される、という実空間との相互作用のなかで監視社会が構成される、という問題が生じる。そもそも「サイバー」とか「リアル」といった二分法は現在の支配的構造における監視システムを説明するには適さない。CTCに基く監視は、最終的には現実世界にいる私たちをターゲットにし、私たちのアナログの身体を標的にする。たとえば、米軍がドローンによってイランにいる敵を攻撃する場合、現場のターゲットを現場で米軍が実際に確認するわけではない。データセットから一定のアルゴリズムによって抽出されたターゲットと実空間が交差するのは、ドローンを操縦する兵士がドローンのカメラを通じて目視する地上の映像だけだ。このときターゲットにされた人達にできる回避策はほとんど存在しない。第二に、このプロセスの大半が(攻撃する側にあっても)知覚の外で起きる、という問題だ。スマートシティなどのような地理的空間をIoTと5Gネットワークなどによって網羅的に包囲する場合も基本的には知覚しえない領域が重要な機能を担う。コミュニティの主体であるはずの住民たちのコミュニケーションのなかに、人間の知覚では捉えられない別のコミュニケーションがまとわりつくようになる。こうした空間では民主主義的な議論が次第にその実体を奪われるようになる。住民の知覚しえないコミュニケーション構造のなかで、権力の再生産を最適化するように、コンピューターがコミュニティの最適な「環境」が決定される。

こうしたデータによる網羅的な監視を前提とした監視ターゲットの洗い出しが、これまで監視社会の事例とされた都市に配置された膨大な監視カメラのモニンタリングルームでの監視と異なるのは、不審なターゲットをモニタリングルームの監視員が発見したり、あるいは警報装置の作動で把握して、ターゲットを追いかける、というアナログではなく、あるカテゴリーで分類されたデータセットに該当するあらゆる人々をコンピュータによって抽出し、そこから、ターゲットを予測するという方法をとっている点にある。まず最初に怪しい人物が具体的に存在するということではなく、データベースと照合して、窃盗の前科がある、土地勘がある、男性である、失業している、外国籍であるなどなどのデータを組み合わせることによって、不審人物を人工的に構成(生成)して、該当する者を監視する、という方法をとる。この方法は、刑事司法の分野でいえば、令状主義の原則17を意図的に形骸化することを意味している。事実米国では、こうしたデータによる網羅的な監視のための公権力の行使が先行する事例が発生している。18

ネットのコミュニケーションでは、実空間の同心円的な親密さのスケールが機能しない。だから、プライバシー空間のように、私の制御能力は限定的にしか機能しない。ネットでは、いわゆるプライバシー情報は「私」の管理下にはない。サイバー領域では、私に帰属する空間が、仮想的にしか存在せず、多くの場合私の能力や権限を越える技術が支配しているからだ。たとえば、SNSの「お友達」「フォロー」などの仕組みは、全く未知の人達と既知の親しい人達の心理的距離をあいまいにする。私のメッセージの拡散は、街頭のビラ撒きとは全く異なるメカニズムのなかに置かれる。サイト検索によってアクセス先を探す行為は、自分が住んでいる町の商店街を歩いたり、新聞や雑誌の情報から必要なモノを見つける行為とは違う。私と環境との物理的な距離関係が崩れ、キーワードを意識的に選択するという主体的な行為の結果として表示される対象の位置や売り手と私との間の仮想空間の距離のコントロールの力を私は失なっている。ネットの大半の行動はパラマーケットを通じた行動になるが、そのほとんどをプラットホーム企業と呼ばれるGAFAなどが私たちからは隠された仕組みを使って制御する。しかも、ネットでの行動はビッグデータとして蓄積され、ターゲティング広告などによって、再帰的に「私」へとその情報が再構成されて返され、私の意識や行動に影響を与える。このフィードバックにおいては、「私」はデータ化され、このデータ化を元に、パラマーケットを介することによってコミュニケーションは、実空間の距離とは無関係な心理的な距離として私の内面で再現される。この一連の、どちらかといえば双方向を通じた「私」に対するパラマーケト経由の資本による制御のシステムが社会のコミュニケーション・システムの支配的な構造となりつつある。統治の伝統的な枠組のなかに「領土」があり、また人々の権利と権力の力が及ぶ範囲をめぐる権利と権力の関係の力学もまた「空間」によって表現されることが、経験的にも妥当な時代があった。しかし今はそうではないのだ。

こうしたコミュニケーション構造を前提にしたとき、法的権利の及ばない領域が新たに形成される。法の限界は、権利を行使するためには、権利としての自覚をもつことが必要だという点にある。言い換えれば、権利侵害が自覚されない領域で権利侵害が進行していたとしても、そのことが発見されなければ、権利は侵害され続けるだけだ。プライバシーの権利も同様であり、だからこそ、プライバシーを意図的に侵害することを企図する者たちは、巧妙に侵害行為を隠蔽しながら遂行する。空間によって境界を区切ることができず、時間が防御の手段にもならないサイバースペースでは、プライバシーが実際にどのように侵害されているのかを知覚化することが困難なために、正確にプライバシーの「領域」が意識されることもまた困難になる。サイバースペースは、リアルタイムで通信を行なうだけでなく、膨大な履歴や記録を蓄積することが可能でもあり、複製も容易であり、逆に消去や削除、改竄も同様に権限を与えられた者には容易な作業になる。こうした環境のなかで物語(ナラティブ)なるものが人工的に構築される。権利はこの物語の土台の上で争われるが、本当の問題は、この物語そのものの来歴にある。こうして、私たちのコントロールの手を離れたサイバースペースは、従来であればプライバシーの権利として私たち自身が自らの力で保護することが可能だった事柄を、私たちの意識の及ばない方法によって私たちのプライバシーを蓄積する場所として利用される。

この人工的な物語について、やや補足しておこう。サイバースペースのなかでは、時間はタイムスタンプとして、逐一記録可能であり、また消去も可能だが、同時に、この時間を改竄することも簡単にできてしまう。更には、特定の人にしかアクセスできないか理解できないような方法(暗号化)でデータを保持することも可能だが、暗号化される前と復号化された後の時点、つまり人間が読むことができるタイミングが脆弱になる。こうしたデータは、実空間を流れる時間のように一方向ではなく、タイムスタンプは押されていても、その並び順は、一義的ではなく、操作可能だ。ネットで検索してソートする場合の並び換えのように、古い順、新しい順、カテゴリー順などなどプログラムに応じて表示を変更できるだけでなく、こうした並び順をアルゴリズムによってプラットーマー側が自己の利益に即して操作できる。

こうしたソートによる時間の柔軟な組み換えは、アナログのデータに対しても可能だが、その場合には膨大なカードを作成して、それを、組み換えるための面倒な作業が必要になる。検索エンジンを用いて膨大なデータのなかからキーワードによって抽出されたものを読む行為を通じて、時間は変容する。この変容は自律しているのではなく、実空間にいるわたしと接続することで初めて「意味」を生成することになる。だが、曲者は、こうして形成された「意味」は、誰が生み出したものなのかというところにある。人間が作成した分類カードとは違い、ここには分類の技法をめぐるブラックボックスが存在する。つまり一定の方法でコンピューター・アルゴリズムを介して収集されたデータセットや、このデータセットを処理するアルゴリズムに「意味」が依存するということだ。そしてこの「意味」によって私の理解、あるいは世界についての「意味」そのものが変容してしまう。物語はこの変容の産物になる。こうした意味での物語のなかで、私の思考や判断は、誰か他の人間とのコミュニケーションによって生成されたのだといえるのだろうか。先に「お腹が空いたね。ハンバーガーでも食べようか」「そうだね。マックにしようか」という会話が友人との間なのか、それともマクドナルドのコマーシャルの一シーンでの出来事なのかでは、全くこの言語が果すことが期待されている効果が異なると書いた。しかし、会話の相手がAIのロボットだったとすると、どうだろうか。この場合、私は操作的な言語の罠を自覚的に認識できなくなる可能性が高くなる。 つまり、AIロボットを人間とみなして会話することに躊躇しなくなり、これもまた物語を構成することになる。

8.2. 空間の配置とパラマーケット

資本主義に限らず、社会の支配が究極において実現しなければならないのは、その構成員を社会の既存の秩序を前提とした上で、その言動を制御することだ。この権力の目的はたぶん、どのような社会にも共通する目的である。権力が歴史的に異なる構成をもつのは、この目的を実現するためにとりうる選択肢が一つではないということの現れだが、近代社会としての資本主義は、この目的を市場経済と国民国家というマクロな制度と、家族制度というミクロな制度によって構成しようとしてきた。これが人類史においてベストな解決法でもなければ、これで人類の歴史の終着点に辿りついたわけでもない。家族、市民社会、国家というヘーゲルの見立てとこれを批判的に継承したマルクスの枠組を私はその限りで受け継いではいるが、その意味内容は同じではない。とくに、本書の観点との関連でいえば、こうした制度が空間的なカテゴリーでもあることに注目したい。ここに個人の自由と平等といった理念を実現するためには、空間的な前提が必要だということが含意されている。近代の都市が市場経済と結合して形成されてきた自由や、民主主義を成り立たせる空間へのアクセスの平等(都市への権利)は、空間概念の重要性を示している。

空間の配置は、いわゆるサイバースペースの形成によって、完全に別物になった。通信は、「交通Verker、traffic」概念に含まれうるとしても、空間との関係でいうと、電気通信が支配的になって以降、空間の特性としての時間の条件が「リアルタイム」を基準に据えて、そこからの遅れが「遅延」とみなされるように、時間に規定されない空間が理想のモデルとなるという奇妙な空間がサイバースペースの特徴となった。19同時に、テレワークやオンライン授業のように、あるいは、各自が所有するスマートフォンのようなプライベートなデバイスが、プライベートな空間を変容させた。プライベートな空間が自分には管理権のない職場や学校のような場所にリアルタイムに繋げられると同時に、家族制度が担ってきた擬制のプライバシー空間―個人のプライバシーとは決して同義にならないにもかかわらず―もまた外部からの干渉を遮断するとともに家族相互の監視の制度としての機能を弱体化させ、プライベートな空間が職場や学校、あるいはパラマーケットも含めた市場の管理空間に統合され、その結果として、プライバシーの権利そのものが成立しにくくなると同時に、相互監視が大幅に資本のサービスに移譲されるようになる。従来の家族主義的なプライバシーの権利を保障していた空間的な距離と、それに伴う時間という壁が解体し、結果として個人のプライバシーもまた解体した。

このプライバシーの解体は以下のように説明することもできる。パラマーケットは商品売買そのものではないにもかかわらず、商品売買と有機的に結合して資本の生産過程と不可分一体化して、資本が明示的に構築する商品の意味の流通回路として、商品の意味使用価値を担う。コンピューター・コミュニケーションもまた市場の商品売買過程と不可分かつ不可欠でありながら、むしろ機械相互のコミュニケーションによって形成されるデータの集合からなる非知覚過程を構成する。パラマーケットと非知覚過程、そしてこれらを通じて再帰的にかつ常に消費過程そのものに密着しながら消費の意味を変容させようとして資本の監視下に置き続けられる商品の意味使用価値が消費者の生活そのものと区別をつけることが難しいものとなる。こうした生活世界の資本による実質的な包摂の構造が組み上がり、人間の意識をとり囲む内堀が埋められることになる。プライバシーの空間的防御はもはや意味をなさない。

市場で商品が消費者とアクセスするとき、使用価値の意味構造は、直接的使用価値と意味使用価値、そして非知覚過程の機械的なフィードバックから構成される。だかからといって、使用価値の意味構造は、社会構造のなかに局所的に存在して実証可能だというわけではない。使用価値は、非知覚過程を含めて全体として機能するからだ。広告などの市場のコミュニケーションは、それなしにでも商品の直接的使用価値の「モノ」それ自体は成り立つが、コンピューター・プログラムが商品の直接的使用価値の一部を構成するようになった商品(消費者向けでいえば、パソコン、スマートフォンなどからAIロボットやスマートメータなどのIoTやオンライン機能をもつゲーム機など)は、プログラムや通信機能なしには機能しない。しかし、このプログラムや通信機能そのものは、広告イメージによって消費者の欲望を喚起することはあっても、そのどこまでが直接的使用価値を正確に反映しているのかはもはや明確ではない。たとえばスマートフォンのGPS機能は、今いる場所を知りたいときに教えてくれる機能としてユーザーのニーズに対応する機能かもしれないが、この位置データがGoogleのビッグデータの一部となってAIによる解析の資源となることは、消費者のニーズとは対応しないだろう。GPSはスマホの使用者の意図(消費者としての自覚的な消費行動)とは相対的に無関係に機能することができる。あるいは、OSを提供する企業(マイクロソフトやアップルなど)は、OSのセキュリティ・アップデートなどの自動更新を実施することができるように、ユーザーのデバイスにアクセス可能な仕組みをもっている。これは購入した自動車の車検の仕組みと似ているが、決定的な違いは、車検が市場でのサービスとして商品化されているのに対して、ソフトウェアのアップデートは通常支払いは発生せず、市場の外部でパラマーケットを通じて機能する。つまり、直感的には「タダ」で行なわれているようにみなされるということだ。コンピューターを内蔵したデバイスの場合、消費者が何を「消費」しているのかが直感的に把握できない領域が拡大している。そして、消費者の立場で判断する場合と、何らかの方法で製品の行動を追跡したりする機能を組み込んだりする商品のメーカーや売り手の立場で判断する場合とでは、「消費」の意味は全く異なる。消費過程は、資本から独立した広い意味でのプライベートな行為ではもはやなく、むしろ資本による生産過程の延長になっている。

消費過程とは<労働力>の再生産過程のことだから、資本はようやく<労働力>再生産過程を包摂するための技術的な道筋をつけはじめたともいえる。この点で、コンピューター・コミュニケーションが生活過程で関与する主体が資本なのか、政府なのか、それとも私たちなのかで、生活過程そのものに本質的な違いが生まれる。この場合でも、消費者/ユーザーが自らの行動を総体として知覚―意識の層で把握できないなかで意味の構築が行なわれる。貨幣が介在しない領域が非知覚過程とパラマーケットを介して支配的構造に私達の私生活を直接・間接に組み込むことになるが、しかし、他方で、私たちがある種の主体として、この生活過程が支配構造との間に構築してきた回路を遮断してオルタナティブな回路を構築することは、マスメディアによる大量散布に時代に比べると、その可能性はむしろ拡がっており、いくつもの選択肢が可能な段階にある。この楽観論をとりあえず慎重に維持することだ。

Footnotes:

1

個人データは公的制度では、戸籍制度として集約され、住民データの多くも事実上世帯単位で管理されるという制度的な枠組みは、この問題と無関係ではないだろう。

2

Shoshana Zubof, The Age of Surveillance Capitalism, Orinceton Unbiversity Press, p. (『監視資本主義』 ★)

3

Zubof、p.

4

フロラ・トリスタン『ロンドン散策』、小杉隆芳、浜元正文訳、法政大学出版局、第七章「工場労働者」参照。1840年の出版でエンゲルスの著書より数年早い。エンゲルスはトリスタンの著書に冷やかだが、トリスタンは、「監獄」「売春婦」などエンゲルスの著書にはない関心をもっている。

5

人間は、モノを自己と同類の人間になぞらえる特異な対象理解を構築する能力をもっている。モノにそれ固有の客観的な機能や性格とは関わりのないある種の性格を読み込むことによって、そのモノに特異な意味づけを与えることができる。マルクスは金が貨幣の機能を担う市場経済の仕組みについて、金という物質のどこにも貨幣の本質をなす一般的等価物という性格は見出せないこと、この性格は市場経済によって、社会の構成員のある種の「共同作業」によって付与される社会的な性格なのであるが、このようには理解されず、あたかも金そのものに、一般的等価性が内在しているかのような錯覚を人々が抱くという転倒した現象が生じることを指摘した。これを物神崇拝、フェティシズムと呼んだ。

6

たとえば、以下を参照。アンドレ・ゴルツ『エコロジー共働体への道 労働と失業の社会を超えて』、辻由美訳、技術と人間。

7

この概念はハーバーマスからの借用である。『コミュニケイション的行為の理論』河上倫逸他訳、未来社参照。

8

たとえば以下を参照。E.ホブズボウム他編『創られた伝統』、前川啓治 他訳、紀伊国屋書店。

9

ここでいう<労働力>の使用価値は、マルクスの定義とは異なる。マルクスは価値形成性をその使用価値としたが、ここでは商品の使用価値を形成する能力を<労働力>の使用価値として定義する。この定義は宇野弘蔵の定義を踏まえている。

10

わたしはこの問題を、ロラン・バルトの記号論を参照しながらアプローチしたことがある。この挑戦は必ずしも成功したとは言い難いが、意味使用価値の問題に取り組む上で重要な示唆を与えてくれる機会となった。拙稿「商品―自明性の罠」、拙著『絶望のユートピア』所収、桂書房 参照。

11

商品の直接使用価値を売り手が「ことば」で正確に表現し、この「ことば」を買い手が売り手の意図通りに解釈して「わかりました」と発語した場合、たぶん、両者の「ことば」上の誤解は最小化されるだろうが、それが商品の直接的な使用価値それ自体の正確な理解の共有であるかどうかはわからない。社会の経済は、このモノの使用経験の世界と「ことば」の世界の構造的な齟齬の世界でもある。なお、「ことば」に括弧を付しているのは、この「ことば」には価格のような特殊な数値表現が含まれ、これは通常の意味での言葉の世界だけでは理解しえないが、同時に言葉を媒介としたコミュニケーションに帰属するものでもあるので、括弧を付した。

12

たとえば、商品の価格が「高い」とか「安い」という判断は、広告やパッケージがあえて高価であることや激安を印象づけることを意味使用価値に担わせることがあるように、価格の表示もまた意味を生成する。

13

ここで論じたことは国家の「意味」生成にもあてはまる。国家の統治機構の直接的な意味は、法治国家であれば、憲法を頂点とした法によって規定されるが、国家の実際の行為は、法の条文に還元できないイデオロギー効果を伴う。政府の行為の妥当性を私たちは法律の条文を参照しながら評価しようとする。しかし、こうした評価方法の決定的な限界は、法という書かれたテキストによって現実の政府の執行権力を抑制するには、私たちの側もまた、現実的な力を持たねばならず、このことは書かれたテキストの力を越えることでもある、という点だ。この問題は、政府がCTCを駆使することによって、ますます鮮明になってきた。法はプログラムという現実にCTCを実行しうるテキストによって、事実上その効力が削がれてきており、法の支配は終焉を迎えつつあるように思う。

14

ブランド商品を欲しがる感情は、この意味の世界が転倒した典型例だ。直接的使用価値を意味使用価値が呑み込んでしまう。エルメスとかグッチが直接的使用価値であって、物それ自体の有用性は名目的なものになる。これが資本主義的商品が望む理想形なのだが、これは交換価値(価値)の世界だけを眺めていても見出せない。

15

たとえば、以下を参照。小倉利丸『搾取される身体性』、青弓社。

16

とはいえ仮想の空間はCTCの特徴ではない。人類の歴史を通じて、人間は、視覚によっては把握できない「空間」を脳の作用として自律的に生み出してきた。発話は単なる音声記号ではなく知覚作用をもつし、小説を読むことや、特徴的な匂いは視覚に作用するし、絵画は視覚に還元できない想像効果をもつ。 )15 たとえば以下を参照。小倉利丸『搾取される身体性』、青弓社。

17

令状主義では、場所と被疑者を特定することが公権力の行使(家宅捜索などの強制捜査)の要件とされる。

18

たとえば、ジオフェンス令状やキーワード令状がこれに該当する。ジオフェンス令状は、地図上でエリアを限定する仮想的な壁(ジオフェンス)で囲まれた地域にあるすべてのデバイスの開示を強制するもの。キーワード令状は、特定のキーワード、フレーズ、または住所を検索したすべてのユーザーを特定するもの。こうした包括的な令状は、警察の監視に対する憲法上のチェックを回避し、私たちの宗教的実践、政治的所属、性的指向などに関する事実上の捜査網を構築するものだとして批判されている。以下を参照。「Re: 「ジオフェンス」と「キーワードワラント」の透明性向上の必要性。」https://www.alt-movements.org/no_more_capitalism/hankanshi-info/knowledge-base/geofence-letter/

19

サイバースペースの時間の概念は、私たちの日常的な身体感覚でいえば、誤差の範囲とみなしていいような「秒」単位の時間を中心にしている。通信におけるデータの伝送単位bpsは、1秒間に1ビットの伝送を1bpsとする単位で、伝送の速さの単位とはいえない。伝送の速さはlatencyつまり「待ち時間」と呼ばれ、日本語では「遅延」とも言うように、たとえ数秒であっても伝送に時間がかかること自体が「待たされる」「遅い」という認識になる。伝送の速さは、伝送の遅さという認識で数値化される。英語ではコンピューターで時間を扱うときの最小単位ミリ秒は1秒の1000分の一。遅延は、回線やサーバーの処理能力などに依存するが、それだけでなく、政府が望まないサイトへのアクセスを妨害するときにも人為的に遅延を発生させたりする政治的な技術に関連することがある。この問題は、インターネットの中立性問題としてコミュニーションの平等を議論するときに無視できない重要な問題である。サイバースペースの時間はそれ自体がコミュニケーションのガバナンスに関わる場合がある。

Author: toshi

Created: 2026-06-15 月 11:48

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