「家の廃止」という選択肢を排除する皇室典範改正論議
皇室典範をめぐる議論のなかで、私が最も違和感を感じてきたのは、国会議員もメディアも議論の大前提に家の継承ありきとしていることだ。家の廃止という選択肢があらかじめ排除されている。
家の存続を前提とした議論は、皇室典範であれ庶民の結婚をめぐる議論であれ、子どもの生き方を強く限定し制約する。本人の意思などは配慮されずに、家の継続が第一に考えられるばあい、結婚しない生き方とか、結婚するとしてもその相手が同性であるとか、子どもを産まない選択をすることなどは、家の継承に寄与しないために、あるべき生き方ではないと暗に否定的な評価を与えられざるをえず、こうした多様な選択肢と生き方の否定になる。
結婚しないとか子どもを産まないとか同性婚を選択するとか、「家」の意向などに縛られずに個人の多様な生き方が人々の日常の慣習のなかにおいても許容されはじめている流れに逆行しているのが、国会やメディアによる皇室典範についての議論であり、これはジェンダーや個人の自由をめぐる流れに対するバックラッシュに他ならない。巧妙なのは、異論を「叩く」というネガティブで攻撃的な態度をとらずに、人々の家意識のなかに内在する家系をめぐる慣習を巧みに利用しながら、恣意的な家系の枠組みの選択肢を、あたかもこれだけしかないかのように取り出して、議論を「家」の廃止という選択肢に向かわないように枠をはめてきたことだ。男系男子のみはではなく、選択肢を広げ、女性天皇も認めるべきだという主張はあっても、「家」の廃止という選択肢はそもそも議論にすらならず、あらかじめ排除されているということすら誰も問題視してこなかったことに、私は注目する必要があると感じている。
私は、個人の選択の自由を中心に据えることが、全ての議論の大前提にあるべきだ、と考えるので、皇室典範の議論のように、個人の自由に関心がなく、もっぱら天皇家の維持が最優先の課題だということを当然視するあらゆる議論に強い違和感を感じる。こうした議論の枠組みそのものが、個人の自由―後述するようにここでいう個人は皇位継承の可能性のある個人だけを意味していない―への抑圧そのものだということを強張したい。
結婚を選択しなければ、それで家系なるものが絶えるわけだが、それだけのことである。それは天皇家なる「家」においても例外であってはならない。個人の自由な生き方を尊重すれば、こうした家の終焉はありうる自然な結末である。始まりのあるものは終りもある。しかし、天皇についてはこうした考え方をすべきではないということが暗黙の前提になっているように感じる。それは永遠に存続しつづけるべき存在としての天皇を前提にする考え方で、これは歴史を無視する神話的な態度であって、社会制度の是非を論じる態度としては間違いだ。繰り返すが、結婚するのかしないのか、誰と結婚するのか、同性とか異性とか、外国籍の人とか、子どもを産むか産まないかとか、こうしたことは、すべて本人の自由意志に委ねられるべきものであり、親も含めて口出しすべきことではない。結果として、家系が絶えるとしても、そのことに特別な意味はない。自然な終りかただとして受け入れるべきことだ。
このように書くと、継承の当事者が天皇家の継承を肯定し皇室典範に則る生き方を選択したいという場合は、それもまた個人の選択の自由だから、口出しすべきことではない、ということになるのでは?という反論がありうるだろう。この限りでは、その通りだ。しかし、私が危惧し、関心をもつ中心的な課題は、天皇家の家系存続問題は、日本の慣習的な婚姻をめぐる個人と家の権力関係を端的に象徴している、という点にある。戦後の象徴天皇制の主要な機能のひとつが、そのイデオロギー装置としての役割だ。どのような社会であれ、支配的なイデオロギーが大衆の価値観に支配的な影響与える。このことを前提にすれば、やや杓子定規な言い回しだが、皇室典範の「家」制度が人々の「家」意識に少なからぬ影響を与えていることを軽視すべきではないだろう。
このことを踏まえるとして、事態はもっと錯綜している。今に至るまで日本では、支配的イデオロギーの効果として、個人の自由意志を尊重した生き方よりも家の都合(あるいは親の都合)を優位に置くことを暗黙のうちに肯定しようとする傾向が根強いが、これに対して、むしろ個人の自由を家制度に超越するものとして尊重する傾向が抗ってきた歴史がある。個人主義は、人々の慣習には根づかず、慣習としての家意識が揺らぎつつも支配的な地位を維持しつづけた。この現実をこの皇室典範騒動の議論は映し出している。親や親族の価値観とか結婚観が子どもの人生を縛り、子どもの意思を尊重すると表向き言いながらも、結婚を決めるときに、親の承諾(!)をもらうとか、親にあらかじめ相談するとかということが世間の常識になっているように感じる。だから結婚式も「両家」の婚姻儀礼という体裁をとったりすることが多いように思う。墓もまた「家」に縛られる。こうした慣習のなかに埋め込まれた「家」による個人の自由に対するある種の抑圧(本人は抑圧を内面化するから、抑圧とすら感じないかもしれない)が礼儀とか常識とかを武器に、個人の自由に含まれる家制度を逸脱する可能性を抑え込む。
だから、私が皇室典範問題で問われていると考える核心にあるのは、天皇家の皇位継承者の可能性をもつ当事者の問題ではないのだ。政治家やメディアや、あるいは人々が世間話で話題にする皇位継承をめぐる議論のなかに、「家」の廃止という選択肢があらかじめ排除されているということが、人々の結婚や家についての多様性も個人の自由も尊重しない慣習の力として日常生活の抑圧を生み出している、ということを問題にしたいのだ。
皇室典範騒動に表出しているのは、人々の慣習においても同様の問題が存在していることを示している。何度も繰り返すが、結婚しない自由、同性婚や外国人との結婚、結婚しても子どもを産まない選択など様々な個人の自由よりも「家」を重視する価値観が人々の間では、いまだに揺らぎつつも支配的だ、ということだ。どう生きるかは本人が決めるべきことであり、個人の自由の権利であり、「家」の存続が個人の自由に優越すべきではない、ということだ。
だから、天皇の跡継ぎとなる可能性のある子どもたちの自由だけを慮って言っているのではない。そうではなくて、皇室典範問題の議論それ自体が、個人の自由よりも「家」を優先させる慣習を強化する傾向へと誘導していることを危惧しているのだ。多様なジェンダーに基く親密な人間関係を人々が受け入れつつあるなかで、近代日本の家意識は揺らがざるをえなくなってきたが、皇室典範の議論は、この揺らぎを押し戻し「家」をめぐる議論の枠組みを再構築しつつ「家」の廃止という選択肢を排除することに成功してしまった。革新野党も含めてジェンダー平等とか多様性などという言葉を実際の国会内での行動では完全に裏切った。
皇室典範は、継承者の不在=天皇制の廃止という選択肢をそもそも排除しており、これは、メディアや政治の議論を通じて、人々の日常の慣習における「家」と個人の関係と共振し、個人の自由な生き方を「家」の継承によって抑圧するというバックラッシュを暗に正当化する効果をもつものになっている。この家制度としての天皇制の効果は、戦前・戦後を一貫したものだとも思う。家の廃止を継承の当事者の自由意志に期待するのは、空論の類いであり、そもそもありえない可能性に賭けるような虚しい主張であることを私も承知している。皇室典範に端的に示されている支配的なイデオロギーとしての「家」に対して、人々ができることは、この「家」制度による個人の自由への抑圧を、慣習の世界から追放することだろう。下からの揺らぎが高い震度をもって国家の上部構造を揺さぶることは、長いジェンダーをめぐる解放の運動をみても、不可能ではない。皇室典範の議論の枠を受け入れず、家の廃止という選択肢を明示的に提起することを私たちの日常の慣習の規範のなかで作ることができるかどうかが、バックラッシュを押し返す鍵になるかもしれない。
私はこれまでも天皇制条項は憲法から削除すべきだと主張してきたが、だからといって、共和制の「日本」―このナショナルな枠組みを維持することにも疑問がある―が自ずと個人の自由を尊重する社会を構築できるとも思わないし、「家」意識が多様なジェンダーを肯定する方向に変わるわけではなく、不断の闘いや努力は依然として必須だが、天皇制が存在する社会では、こうした自由の権利を獲得できないことだけは確かだと思う。
補足
言うまでもなく親族の系譜は極めて複雑・多様であり、自分を起点にして、親(育ての親であれ産みの親であれ)、親の親、そして兄弟姉妹とその系譜も含めれば過去に遡れば遡るほど親族の関係者は増える。親族の制度は社会的歴史的な構築物であり、変化するものであって、数千年も同じものとして維持されることなどはない。親族の構造の本質において、ひとつの系統を取り出す行為そのものが恣意的であり、社会のイデオロギーを反映している。私たちは、人類のはじまりから。無数の人々との繋がりの上に成り立っていることを「家」意識は忘れさせてしまう。