共謀罪と無差別監視社会

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<共謀罪と無差別監視社会>

自由なコミュニケーションを手放さないために、
ネット社会の通信の秘密はどうあるべきか?
私たちにできる対抗手段を考えよう!

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★お話と実践:小倉利丸さん(批評家)
★日時:2017年10月20日(金)18:30
★場所:かながわ県民センター1502号室 参加費:500円
★対抗手段、レクチャーします。
ノートパソコン、スマートフォンをお持ちください。
★主催:共謀罪と監視社会を考える会(090-6138-9593)

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共謀罪は6月15日に強行成立、7月11日には施行されました。
今後、私たちは共謀罪のある社会で暮らし、活動していかなけ
ればなりません。未遂以前の話し合うことを処罰する共謀罪を
立証するために、治安管理と称した個人や団体活動の情報収集
が行なわれるようになると思います。
スノーデンの暴露によってNSA(米国安全保障局)が情報監
視システム「エックスキースコア」を世界中に張り巡らし、メ
ールや通話の情報を大量に収集していたことが明らかになって
います。
私たちはSNS(ソーシャルネットワークサービス)を使って
メールやツイッター、フェイスブックで運動を広げてきました。
ネットや携帯電話を使ってのコミュニケーションは欠かせなく
なっています。これまで以上の市民監視が常態化することへの
不安はありますが、小倉利丸さんは「メゲてる場合ではない、
通信の秘密を侵害されないように一人ひとりができるセキュリ
ティ防衛手段はある。プライバシーを守り、自由を獲得するた
めに、ネット上で戦うハッカーたちの作り出したオープンソー
スのソフトウェアーやサービスを使うことを共に学び、私たち
のあたりまえの〈コミュニケーション〉を取り戻そう。」と言
います。 萎縮せず活動を続けていくために、私たちにできる対
抗手段を考えていきませんか。
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全てを疑ってみたいと思う

1 選挙なのだが….

安倍だけが問題なのではなく、安倍政権を支持する「国民」が多数を占めているこの国の「世論」が問題だと思うのだが、こう言うと、投票率の低さからみて、安倍の支持率は過半数にいかないではないか、選挙区の区割りや定数格差などの事情を考慮するとますます安倍支持は少数ではないかという反論がありうる。そうかもしれないが、私は悲観論者なので、むしろこう言いたい。

そもそも、選挙に行かない層は、行く必要性を感じていないわけで、選挙に無関心である理由のなかで、考えられる理由いくつかありそうだ。一つは、現状の政治に特に異論を唱えなければならないほど切実な危機感や批判意識を抱く必然性を実感していないということではないか。この場合、同じような環境にありながら、ある人々は危機感や批判意識をもち、別の人々はむしろ権力に同調し、更に最も多数を占めるかもしれない人々は無関心であるというように、異なる考え方をもつのはなぜなのか、という問題に私たちなりに答えを探さなければならないだろう。

安倍政権が(あるいはより本質的には戦前戦後一貫してなぜ保守・右翼が政権を維持しつづけているのかという問いについての最も簡単で(ある意味では安直な)こたえは、権力の真実を隠蔽するまやかしに多くの人々が騙されているから、真実を暴けば人々は権力の正体に気付き、反旗を翻すはずだ、というものだ。騙される大衆と、この騙しに乗らないで真実を見抜く「私たち」という図式は、あきらかに傲慢だ。なぜ「私たち」は真実を見抜くような才能を身に付けられたのか?あるいは「私たち」の主張が真実であり、大衆の考え方が騙されたものだという根拠はどこにあるのか?人々はそれほどにも愚かであるという傲慢さに少なくとも私は不快な気分以外のものを感じない。

そもそも私たちは真実を体現するなどという大それた存在ではない。むしろ私たちが熟考しなければならないのは、彼らの「正しさ」と私たちの「正しさ」といった複数の正しさがあるということを前提とするか、あるいは、私たちの正しさが本当に正しいのかどうかを反省することだ。もちろんこの反省が、彼ら権力者の正しさへの屈服を意味するなら、それは思想的にも生き方としても敗北の宣言をして転向することを意味するが、そうではなく、彼らでも私たちのこれまでの思想でもない、未だ見出せていない「正しさ」を模索すること、という第三の道もありうるということである。

1.1 大海の一滴にすぎない「1票」のもつ意味

もう一つは、選挙で投票する票の効果は、何万という票のなかのたった1票にしかすぎないという諦めがあるかもしれない。この諦めは、理解しやすいようにもみえる。しかし、膨大な人口を選挙の母体とする近代国民国家の代議制は、その当初から、大規模な有権者のなかのたった1票しか割り当てられていない個人から成り立ってきた。自分の1票がほとんど体制に影響しないことは常識でもわかる。しかし、そうであっても多くの人々は選挙に出向いてきた。それがある種の「義務」の意識からくるものだとは思えない(棄権することにペナルティは課せられないからだ)。ではなぜ1票の無力さよりも1票に多かれ少なかれ期待を寄せる心情を抱くのか、ということの方が説明を要するだろう。

投票することが実際に政治を動かすだけの効果をもつと実感されるためには、自分の票が個人としての票ではなく、自分が帰属すると感じている社会集団の票と一体のものとして自覚できるかどうかにある。こうした集団的なアイデンティティは、伝統的な社会関係でいえば、一方での地域コミュニティへの帰属意識、他方で労働組合や企業への帰属意識など、いずれにせよ集団への帰属と「票」が密接に関わってきたようにみえる。これは今でも、選挙をめぐる投票行動の分析の基本条件をなすが、「無党派」と呼ばれたりする層は、こうした社会集団の政治的な機能とは直接の関係意識をもたないために、個人としての意識=わたしの1票のむなしさ、無力感がより強いかもしれない。

1.2 階級的アイデンティティ

もうすこし教科書的にいえば、「革新」を支えてきた投票行動の背景には、広義の意味での階級意識の存在があったということだ。労働運動だけではない多様な社会運動を背景としながら、自民党や保守との価値観の相違が理屈ではなく、ライフスタイルの一部として存在していた。だから、一方で労働者階級の政治意識が、他方で、資本家の政治意識が、相互に集団的な対立の構造の意識的な受け皿として個人レベルでも実感しうるものだったのではないか。この個人の実感を社会的な階級意識へ媒介するところに政治集団としての「党」が機能していた。党に帰属していないとしても、いわゆる「支持政党」と階級的な帰属意識との間に、安定した持続的な繋がりが自覚されてきたように思う。人々の集団的な意識は階級に還元されるわけではなく、家族、地域、友人から国家への帰属まで、様々なアイデンティティの集合であるが、そのなかで、階級意識と「国民」としての国家への帰属意識は人々が政治的な価値判断をもつときの最も影響力の大きな要因であったという時代が、多分、20世紀の半ばころまでは見られたように思う。社会制度の側面でいえば、労働運動や労働組合に集約され、これらを母体とする左翼政党と資本家階級の意識を体現する経営者組織に集約される保守政党であり、後者が主として国民国家の権力を握るという構図である。

2 「外部」あるいは「瑣末」な存在の重要性
2.1 核心としての「外部」

この構図は、便宜的に階級社会論などとして単純化されて論じられる場合の「骨組」のようなものだが、この構図が重要なのは、二大階級の図式に還元することのできない、その外部がこの階級社会の構造を常に不安定、不均衡な状態に置く主体として存在してきたという点にある。この外部というのは、実は言葉の便宜的な表現上の都合(私の表現力のなさに結果)でしかなく、実際には外部どころか、それ自体が社会の核心をなすといってもいい条件である。

社会システムが安定することのない不均衡を常態とするのは、社会システムと不可分であり不可避ですらある条件が社会システムの内部ではなく外部に存在するという奇妙な構造をもっているところにある。「社会とはこれこれの仕組みをもっている」という説明によって理路整然と社会が説明されるとき、社会が抱える本質的で避けがたい深刻な問題は、このような理路整然とした説明のなかでは瑣末な要因として軽視されて切り捨てられる。むしろこうした意味での切り捨てられた外部から社会が抱える矛盾が噴出する。「瑣末」というのは、こうした要素を軽視あるいは無視しうるとみなすことだが、社会である以上、この「瑣末」とみなされる要素を構成しているのは、これもまた人間集団である。そして、この人間集団もまた「瑣末」なもの、どうでもよいもの、社会にとって存在してもしなくてもよいものという位置付けのなかでほったらかしにされるわけだが、そのことが結果として、社会システムそのものを不安定にし、矛盾や危機を生み出すことになる。

2.2 「外部」の内部化

他方で、社会の支配的なシステムは、主要な(瑣末とはいえない)対抗的な社会集団を現にある社会システム(資本主義)の維持を前提として、その内部に取り込むことによって制度の安定性と支配の覇権を維持しようとする。有力な対抗的な社会集団による問題提起は、社会問題化されやすいから、これを制度内改革を通じて、制度の維持が可能な範囲に問題解決を抑えこむ。19世紀であれば、標準的な労働時間の法制化、児童労働の禁止などから男性の普通選挙制度の導入、19世紀末のいわゆる社会保障制度の導入などがこうした枠組によって説明できる。その結果として、労働運動の主流は、体制変革の運動(社会主義、共産主義、無政府主義の運動)ではなく、資本主義の制度を前提とした改良主義へと転換してゆく。こうした問題の枠組では、女性であること、有色人種であることなどの属性は重要な主題とはならない。皮肉なことだが、階級的な敵対関係を資本主義の内部に包摂する仕掛けは、階級闘争を通じて、この闘争を教訓として資本の自衛戦略として編み出されてくる。

同時に、こうした主流の運動の周辺に―つまり外部に―主流の運動に包摂しえない社会集団が登場する。改良を否定してあくまで資本主義を打倒しようとする運動ばかりではなく、そもそも運動の内部では十分な認識を獲得できていない課題をになう社会集団が、運動が事実上無視してきたことへの批判も含めて、運動<論>の再構築を要求するようになる。こうなったときに初めて、社会システムの「主流」をなすと自認してきた主流の社会諸集団の側が、この「瑣末」な社会集団の存在に気づいて、資本家と対決する上で利害を共有しうる存在として認知するか、あるいは逆に、敵対的な関係へと追いやってしまうかの選択を迫られることがある。1支配者達もまた、この「瑣末」な集団をどう扱うべきか、扱いかね、あるときは社会システムに影響を及ぼさないところにまで放逐しようとしたり、逆に自らの利害損得を計算しながら、自らの集団の内部に「下位集団」として組み込んで懐柔すようとする。こうして外部の「瑣末」な社会集団は、内部化されるか放逐されて、社会は再びある種の均衡や安定を実現したかにみえる。2また再び、今まで想定していなかったか薄々気付いていても「瑣末」な事として無視してきた社会集団がまたぞろ登場し、上で述べたことと同様の揺らぎをもたらすことになる。

2.3 外部の「瑣末」な社会集団とは実は内部の社会集団そのものなのだが

上で、便宜的に「外部」の「瑣末」な社会集団と述べたものは、実は、文字通りの意味での社会の外側にある何者かを意味するわけではない。それは、社会を構成している人々そのものである。人々は、複数の社会集団に所属し、複数のアイデンティティを持つ。労働者階級という概念があたかもある個人が、その存在の全てにおいて労働者階級に帰属する存在であるかのようにみなすが、実際には、家族のなかでは親族システムのなかの一定の位置付け(妻とか夫とか)に即した役割りを担うし、地域社会や友人関係、学歴もまた、それぞれに固有の人間関係を形成する。そして、誰もが国籍を付与されることによって、「国民」としての義務や権利、アイデンティティを持たざるをえないものとして教育される。ラディカルな労働運動の活動家が家族やジェンダーの価値観においては保守的な家父長制的な価値観をもっていたり、民族差別意識をもっていたりすることは決して矛盾ているわけではない。たとえ革命家であっても、ありとあらゆる側面において革命的なわけではない。支配的な変革の理論や思想が、「革命的」とかラディカルとする枠組においてそうなだけである。そして、こうした変革のための思想や理論が人々に提起する世界観や社会認識が、資本主義批判にとって主要な課題が何であるのかの指針を与えるから、こうした理論がまた、どのような事柄が「瑣末」なのかについてのお墨付きをも与えることになる。

しかし、「瑣末」な外部による、主流の社会関係への介入と異議申し立てを通じて、こうした存在を正当に再評価して、社会変革にとって重要な主題であることを再認識することによって、理論や思想が自己批判的な再構築を試みることができるかどうかによって、運動を担う人々が共有する社会批判の枠組にも影響をもたらすことになる。言い換えれば、理論や思想がいつまでたっても自己批判できず、理論が「瑣末」としてきた事柄の再評価を阻むのであれば、運動もそれを支える世界観も変らない。せいぜいのところ政策的な課題として表層的に(選挙の票目当ての公約のように)処理されるだけだろう。

上で述べた「瑣末」とか外部というのは、それぞれの個人が自分自身の中に持っている複数のアイデンティティのなかにありながら、社会認識の理論や思想によって、下位に位置づけられているアイデンティティである。

3 伝統的な社会批判の限界
3.1 例えばジェンダーという課題と階級闘争という課題はどこで交差するか

たとえば、伝統的な資本主義社会の批判的な分析では(マルクス主義の教科書的な理解をイメージしていただけばいいのだが)、社会集団は上で述べたように労働者階級と資本家階級という階級概念で括られるものとして理解された。この理解のなかで、資本主義の基本的な矛盾や問題が論じられることになる。支配者の側にあっても、経済であれ政治や法律であれ、資本主義を肯定することを前提とした社会理論の体系が構築され、実務的な政策が策定される。人間とか労働者とか資本家とか国民といった概念が繰り返し登場するが、これらが明示していない属性がいくつもある。例えば性別は明示されない。明示されないという意味は、性別という要素が「瑣末」であって、無視してよいからだ。社会問題の主要な課題ではない、ということの表明である。資本主義社会の問題を解決する上で中心に据えられるべきなのは、階級闘争であり、人々は労働者階級としての集団性によって代表することができるとみるわけだ。あるいは、階級闘争によって性差別の問題も解決可能であるとみなす。なぜなら、女性労働者もまた女性であるよりも労働者であることの方がより重要な社会的な属性であるとみなして、労働者階級に帰属するものであり、労働者階級の解放はそれ自体が人間の解放を意味するのだから、女性もまた人間である以上、人間として解放されれば女性に関する問題もまた解決されるハズであるということになる。

同様のことは、人種差別などその他の社会問題にも共通していえることだ、というのが階級社会一元論の観点である。しかし、こうした一元論は、ジェンダーの問題を解決できなかった。なぜならば、階級社会論には家族や世代的再生産、あるいはセクシュアリティの問題を捉える枠組がないからだ。もし、家族やセクシュアリティの問題を含めて、再度「社会」の枠組を捉えかえすということになった場合、ジェンダーの問題と階級の問題をどのような関係として、あるいは解決されるべき優先順位の問題として理解すべきかということへの答えが要求されることになる。

階級と民族、階級とエコロジーなど、19世紀以降階級闘争として構築されてきた社会運動の基本的な枠組を揺がす課題が、とりわけ20世紀後半から現代まで、一貫して増殖しつづけてきた。しかも、冷戦の終結と20世紀の社会主義(それがその名に相応しいものかどうかも含めて)の敗北によって、階級闘争の思想的理論的な正統性への信頼が大きく揺らいだ。その結果として、社会主義という選択肢が非現実的なものとみなされ、それが新自由主義のなかで、福祉国家やいわゆる混合経済体制すら選択肢ではないかのようにみなされるという閉塞状況が生まれた。他方で、これまで選択肢としてはありえようもない宗教的原理主義(イスラームだけでなくレイシズムを伴うキリスト教、天皇主義、ヒンズー教、仏教まで広範に拡がっている)というイデオロギーの新たな形態が無視できないものとして登場してきた。これは、近代資本主義が非世俗的資本主義というこれまで「瑣末」だとみられてきた資本主義の選択肢が無視できない力をもってきたことを示している。

資本主義を擁護するビジネスの理論もまた、企業の収益が最大化することが社会の幸福と同義であるとみなして、社員が企業組織の人的資源として最大限に活用しうる条件を論じるが、ここでもまたジェンダーや民族の問題は、「瑣末」なものとみなし、これらに関わる差別の問題も軽視する伝統が長く続いた。ビジンネスにとって、無視できない最大の障害は労働運動あるいは階級闘争や社会主義、共産主義のイデオロギーであったから、これらに対抗できる組織と思想を構築することに最大の関心を抱いてきた。

3.2 「外部」の闘争こそが社会を不安定化させる

こうした事情が20世紀の後半以降徐々に変化してきたことは、私たちが直接経験してきたことでもある。女性や性的マイノリティ、少数民族の社会的な差別の問題を放置できなくなった背景にあるのは、階級闘争の主流派の主体が、こうした問題を階級闘争として組み込んだからではなく、伝統的な闘争の枠組の外部に、新たな主体として階級に還元できないアイデンティティを前面に押し出す社会集団による闘争が登場したからだ。こうして、闘争の主体は、複数の社会集団として登場することになり、階級闘争の図式に還元できないより複雑な社会の不安定性が重要な課題となる。3

こうした集団性の解体が、よく言われるように、階級意識の解体を招いたが、これに代替する資本主義に対抗しうる社会的に多数を占める人々をまとめる集団性のアイデンティティは今に至るまで見出されていない。しかし、様々な異議申し立てのアイデンティティを基盤にした運動が錯綜しながら相乗効果をもたらす場合がある一方で、日本のように、相乗効果が発揮されるのではなく、人々が集団性を資本(企業と消費市場)と国家(ナショナリズム)と家族に収斂させる傾向が濃厚となる国もある。私たちの課題は、こうした制度の周囲に構築されてきた支配的な対抗軸の外に、新たな「外部」を構築することである。そしてその「外部」が資本主義の制度に内部化されることも排除されることも拒否することとはいったいどのようなことなのかを模索することを行動と思想の両面で実践することではないだろうか。

危機感も批判意識も、日常生活のなかの私的な会話や愚痴の類いではなく、より積極的に自らの心情の表明のレベルにまで達することがなければ、投票という些細な行動であっても、行動には結びつかない。こうした意識が促す現状維持を消極的あるいは受け身であれ否定することを含意するものだから、変化への期待や可能性を前提とする意識ということになる。危機感や批判意識の欠如は、断念、諦めによる現状甘受の心情でもある。この心情は容易に、外部の敵への感情的な憎悪によって、抑圧を解除しようとする。だから、棄権した有権者の大半は、安倍に対する潜在的な支持層である。なかには、投票したい候補者がいないとか選挙はそもそもナンセンスであるという人たちもいるだろうが、とりわけ、左翼やアナキストの信条から選挙を拒否するという人たちはごく少数に違いない。

だから、この国の多数は、安倍政権に肯定的だと推測することの方が合理的だと思う。このような理不尽な政権を肯定するなどということがどうしてありえようか?と批判的な私たちはつい考えてしまうのだが、ここで立ち止まって考えなければならないのは、私たちにとっての正しさがなぜ、多数の人々にとって受け入れうるものになっていないのか、である。

脚注:

1

例えば、普通選挙権を要求する運動は、無産者の選挙権を要求するという場合も、男女ともに選挙権を要求することが実現性の困難な場合に、男性無産者にまず選挙権を与える方向で運動の方針を立てると、女性の選挙権を要求する運動とは対立することになる。しかも、有産者の女性にまず選挙権を与え、既存の有産者男性の選挙権の制限を解除しようという女性の参政権運動は、労働運動や無産者運動からは階級的に敵対するものとみなされることになる。一般に、改良主義や漸進的な改革運動は、こうした相対立する選択肢に直面したとき、その世界観や価値観が問われることになる。

2

ここでは労働運動を例に出しているが、現代でいえば、正規の常用雇用の労働者に対して非正規の労働者の運動といった事例を挙げられるかもしれない。あるいは、戦後の世界でいえば、米国の公民権運動、植民地解放運動から移民の運動、いわゆる「68年」の運動、そして、現在欧米世界で最大の問題になっている難民の問題、あるいは、そのアイデンティティが軽視されてきたムスリームというアイデンティティ(冷戦期の左翼がイスラム世界を宗教的文化的なアイデンティティの問題として重視してきたことはほとんどない)などなど。いずれもかつて「瑣末」あるいは外部とされてきた社会集団がむしろ社会の主要な運動の主体となるというケースである。

3

階級闘争が主役を担っていた19世紀から20世紀にすでに女性解放運動はあったし、こうした運動が階級闘争との緊張関係をもってきたことは知られている。また、階級闘争の基本的な社会経済構造の前提が、都市の工場労働者と大資本との対立に置かれているとき、その外部に無視できない闘争の主体が登場する。農民や小規模自営の貧困層である。これらをプチブルとみなして資本家階級の下位集団と位置付けるのか、それとも労働者階級の同盟集団とみなすのかは、古典的な階級社会論では一義的な説明ができない。19世紀から20世紀にかけて、資本主義化が進む諸国では、この農業・農民問題が重要な課題となり、また、革命後のロシアにおいても社会主義建設の難問が農業問題であったのは、そもそもの資本主義批判の枠組に非工業セクターのなかでも重要な位置にあった農業部門をきちんと位置づけることができなかったからだ。同様に、性別の問題、とりわけ女性をめぐる問題は、労働現場に還元できない家族の問題を含み、家族の問題は世代的再生産の問題と不可分であるから、ここでもあまた階級という観点の外部が問題の核心をなしていた。家族の問題とはとりもなおさずプライベートな問題として公的な問題から排除され、伝統的な労働運動にとっては主題とはならなかった。しかし、このプライベートとされる問題が人口と<労働力>の再生産に関わるという意味でいえば最も「公的」な領域でもあるという逆説をともなうのだが、こうした家族の問題が政治的社会的な問題として自覚されるようになるのは階級闘争や労働運動ではなく、その外部にあったジェンダーの運動だった。

 

カタルーニア独立投票におけるスペイン政府のネットシャット ダウン

スペイン警察による独立投票の弾圧について、投票所周辺への機動隊などによる暴力行為は日本のメディアも報じていますが、インターネットがシャットダウンされたことについてはあまり詳しく報じられていないかも
れません。きちんと訳す時間がないので、概要のみです。

今回特徴的だったのは、

(1)どこかのウエッブをシャットダウンするという方法ではなく、カタルーニアの独自ドメイン、.catを管理しているオフィスを差押え、シャットダウンした。このドメインは、referendum.catとかref1oct.catなど、投票に用いられていた。

(2)googleは投票所情報などを提供する投票用アプリの削除を求められた。

(3)有権者の確認に必要なコンピュータシステムがアマゾンによって投票日の最初の数時間閉鎖された。

(4)投票所でのインターネッアクセスができなくなった。

(5)カタルーニアの地域プロバイダから住民投票のサイトへのアクセスがブロックされた。これは9月末から投票日まで続いた。

(6).catだけでなく、住民投票のサイトが広範にブロックされた。このブロックに加担したのは、

– El Pais, スペイン最大のメディア業者はロシアのハッカーを使ってサイトの遮断に加担した。
– France Telecom Espanya (AS12479) とEuskaltel (AS12338) はDNS tampering(ドメインネームの改竄)
– Telefonica de Espanya (AS3352)はHTTP transparent proxiesを用いてアクセスを阻止した

などである。

出典 https://ooni.torproject.org/post/internet-censorship-catalonia-independence-referendum/

こうした状況は日本でも当然ありうることです。カタルーニアのネットの活動家たちはかなりがんばってサイトの閉鎖に対抗する措置をとるなどしていたと思います。

印象的なのは、アマゾンやグーグルなど大手やスペイン国内の通信事業者の対応がカタルーニアよりもスペイン政府に加担したということです。ネットの中立性なんていうものは、インフラには通用しないということです。今回の住民投票では、インターネットのウエッブだけでなく、スマホのアプリが重要な役割りを果したようですが、同時に、アプリを搭載できるかどうかは、スマホアプリを提供しているアップルとグーグルの判断に委ねられているという極めて異常な寡占構造に支配されており、これらの企業がアプリを提供しないとなれば、事実上アプリの利用を断念させられることになります。これまでも、中国でVPアプリが使えない措置がとられるなどがあり、政府がその気になれば企業の意思決定を支配できる状況がどこにでもあると思います。

とくに、今回私にとってある意味で衝撃だったのは、トップレベルドメインを管理している組織そのものを政府が強権的に閉鎖するということをやったり、一般に「ネット犯罪」として捜査機関や政府のセキュリティ対策機関が槍玉にあげているDNS tamperingといったサイバー攻撃を政府や民間大手の通信事業者がやったことです。そこまでやるのか、ということでもあります。

共謀罪が存在してしまった日本で、どうするか、カタルーニアの人たちへの連帯もふくめて議論すべきことはたくさんあると思います。分離独立という選択肢が日本の政治で主要な議題になったことはない反面、近代日本の歴史は領土の拡張や統合の歴史ばかり。近代国家は統合や併合は好んでも分離独立には異常に抵抗する。このことに近代国家の問題の本質が露呈しているようにも思います。カタルーニャだけでなく、スペインにはバスクもあり、またクルドをはじめとして、世界中で分離独立と地域の自立を選択したいという運動は多くあり、今回のスペイン政府の対応を特別なものとみるべきではないでしょう。

上で紹介した情報源のooniというサイトは、Tor projectが運営しているもので、インターネットのアクセスが不当に遮断されるなどしていないかを調べることができるツールなどをフリーで提供しています。
https://ooni.torproject.org/

カタルーニアのネット検閲の情報はXNETをぜひ参照してください。カタルーニアに拠点をおくネットアクティビストのサイトです。
https://xnet-x.net/en/digital-repression-and-resistance-catalan-referendum/

(いくつかのメーリングリストなどに投稿したものに加筆)

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参考 .catドメイン
.catドメインができる以前は、スペインからフランス(一部はアンドラやイタリア領サルデーニャ島など)にまたがって住むカタルーニャ民族の機関や会社や個人は、やむなく.es、.fr、.it、.adなどそれぞれの住む国のドメインを使用していた。あるいは関係ない国のドメインを使ってドメインハックを行っていた。例えば、カタルーニャ州のジローナという都市は、ジローナという名にちなんで.giドメイン(”http://www.ajuntament.gi/" “ajuntament”とは、市役所の意)を使用している。このccTLDは、ジブラルタルのもので、スペインの都市がジブラタルドメインを使用することは、ジブラルタルをスペインでなくイギリスが統治する現状を認めることにも繋がりかねず、ジブラタルの主権を主張しているスペイン政府は困惑した。奇妙なことに、この登録はカタルーニャ地方の独立とジブラタルの主権を英国が持っていることに反対しているスペイン社会労働党の関係政党カタルーニャ社会主義者党の事務所によって行われていた。

この問題を解決し、インターネット上のカタルーニャ語圏の文化のコミュニティのニーズに応えるために、2005年9月.catドメインが承認された。このコミュニティは、彼らがオンラインコミュニティでカタルーニャ語を使用するために使ったり、他の文化を持つ人々にカタルーニャの文化を知ってもらうためなどに使うため立ち上げられた。最初の登録期間は、2006年2月13日から2006年4月21日。2006年4月23日から一般からの登録受付を開始した。
規制

.catドメインには対象地域の限定はなく、拠点のサイトがカタロニアにあるとはいえ、すべてのカタルーニャ語話者のコミュニティが対象である。その代わりにカタルーニャ文化に所属する個人や団体でなければならない。

こうした規制にもかかわらず、猫に関係するサイトや、「lolcat」や「Nyan Cat」など猫に関係するネット上の流行にまつわるサイトのためのドメインハックに.catは利用されている。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/.cat

プロプライエタリ社会をハックする(実践編:その3)

プロプライエタリ社会をハックする(実践編:その3)

―人文、芸術系のコミュニケーションの自由

世界全体で一日200万人(2015)に利用されているTor(トーア)、ネットアクセスのプライバシー保護に対する人々の関心はまだ高いとは言えませんが、今後重要な技術になってくるでしょう。オープンソース・コミュニティーの人々が技術開発に取り組み、USBメモリーに入れてPCに差し込むだけで使える、インターネットブラウザもフリーで公開されています。また、暗号化により仮想的に専用線を構築するVPN(ヴァーチャル・プライベート・ネットワーク)の技術も確立され、すでに多くの企業/団体が利用しています。

今回のセミナーでは、Torによるプライバシーの保護、VPNによるセキュリティの向上、この2つの技術を同時に利用することで自由なコミュニケーションを獲得する、その方法を試みます。さらにプロプライエタリなSNSを利用せず、コミュニティ内でどのように自由なコミュニケーションをとっていけるかを、自由芸術大学のT.A.Z.サイトの使い方を学びながら考えます。

可能であれば、ご自身のノートパソコンお持ちください。
※スマートフォンでも出来ることはあります。

日 時:2017年10月14日(土)16:00~19:00
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
サポーター:小倉利丸、上岡誠二

小池都知事の朝鮮人虐殺犠牲者追悼メッセージ取りやめに抗議します

以下、レイバーネットから転載します。


小池都知事の朝鮮人虐殺犠牲者追悼メッセージ取りやめに抗議します

・賛同人
小沢信男 (作家)
加藤直樹 (ノンフィクション作家)
香山リカ (精神科医)
斎藤美奈子 (文芸評論家)
坂手洋二 (劇作家・演出家)
島田虎之介 (漫画家)
島田雅彦 (作家)
鈴木 耕 (一般社団法人マガジン9代表理事)
田中正敬 (専修大学文学部教授、歴史学)
永井 愛 (劇作家・演出家)
中川五郎 (フォーク歌手)
中川 敬 (ミュージシャン/ソウル・フラワー・ユニオン)
中沢けい (作家)
中島京子 (作家)
平井 玄 (路地裏批評家)
平野啓一郎 (小説家)
平松洋子 (エッセイスト)
星野智幸 (作家)
森まゆみ (作家・編集者)
山本唯人 (東京大空襲・戦災資料センター主任研究員)
吉野 寿 (ミュージシャン/eastern youth)
(以上、アイウエオ順、敬称略)

私たちは、9月1日に行なわれた朝鮮人虐殺犠牲者追悼式典に対しての追悼メッセージ送付を取りやめた小池百合子都知事の決定に、抗議します。多民族都市・東京の多様性を豊かさとして育んでいく上で、関東大震災時の朝鮮人虐殺という「負の原点」を忘れず、民族差別によって非業の死を遂げた人々を悼むことは重要な意義をもっていると考えます。

1923年9月1日に発生した関東大震災では、都市火災の拡大によって10万5000人の人々が亡くなりました。その直後、「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れた」といった流言が広まり、関東一円で朝鮮人や、朝鮮人に間違えられた多くの人々が虐殺されました。

このとき、内務省や警察が流言を拡散してしまったことが事態を悪化させたこと、一部では軍人や警官自らが虐殺に手を染めたことは、内閣府中央防災会議がまとめた「1923関東大震災報告第2編」でも指摘されています。

東京に住む人々が隣人である朝鮮人たちの生命を奪い、それに行政が加担したのです。歴代の都知事が、横網町公園の朝鮮人犠牲者追悼碑の前で行われる虐殺犠牲者追悼式典に追悼のメッセージを送ってきたのは、「二度と繰り返さない」という東京都の決意を示すものでした。またそれは、1973年の追悼碑建立の際に当時の都知事はもとより東京都議会の各会派が賛同した経緯をふまえたものでもあったはずです。碑の建立と毎年の追悼式に参加してきた人びとの思いは決して軽くはありません。

ところが小池都知事は今年、メッセージ送付を取りやめました。私たちは、この誤った判断が、むしろ「逆のメッセージ」として機能することを恐れます。史実を隠ぺいし歪曲しようとする動きに、東京都がお墨付きを与えてしまうのではないか。それは追悼碑そのものの撤去まで進むのではないか。差別による暴力を容認することで、災害時の民族差別的流言の拡散に再びつながってしまうのではないか —。メッセージ取りやめが、そうした方向へのGOサインになってしまうことを、私たちは恐れています。

東京は、すべての国の人々に開かれた都市です。さまざまなルーツをもった人々が出会い、交わる街です。その出会いが、この街に次々と新しい魅力を生み出してきました。多様性は面倒や厄介ではなく豊かさだと、私たちは考えます。街を歩くたびに聴こえてくる様々な国の言葉は、東京の「恐ろしさ」を示すものではなく、豊かさの証拠であることを、私たちは知っています。

東京の多様性をさらに豊かさへと育てていくためには、民族をはじめとする差別が特定のマイノリティー集団に向けられる現実を克服していく必要があります。民族差別が暴力として爆発した94年前の朝鮮人虐殺を記憶し、追悼し、教訓を学ぶことは、そのための努力の重要な一部であると、私たちは考えます。それは、多民族都市・東京のいわば「負の原点」なのです。

私たちは小池都知事に訴えます。来年9月には虐殺犠牲者への追悼メッセージをあらためて発出してください。虐殺の史実を教育や展示から排除するような方向に、これ以上進まないでください。

そして、いま東京に生きている、あるいは東京に縁をもつ人々にも訴えます。94年前に不当に生命を奪われた隣人たちを悼み、それを繰り返さないという思いを手放さないでください。虐殺の史実を隠ぺいし捻じ曲げる動きを許さず、未来の世代に教訓として伝えていくべきだと、行政に、都議や区議に、声を届けてください。そのことが、多様性が豊かさとして発揮される東京をつくっていく上で重要な意義を持つと、私たちは考えます。

2017年9月15日
声明とりまとめ/加藤直樹
声明についての連絡先/seimei1923@gmail.com


【この声明のPDFファイル ダウンロード】

出典:レイバーネット

(転載)9.11経産省前歩道デモ逮捕抗議声明

以下、経産省前テントひろばの抗議声明を転載します。

ブログ内の関連記事

麻生邸「リアリティツアー」弾圧国賠意見書


(転送します。重複送信をお許し願います。拡散を歓迎します。)

警視庁丸の内警察署長 殿
抗 議 声 明
2017年9月13日
経産省前テントひろば

1 私たち「経産省前テントひろば」は、2011年9月からテント設置6年が経過する9月11日夕刻、経産省本館前で抗議集会を開いた。私たちは集会に先立って、経産大臣に宛てた抗議声明を提出し、昨年8月の脱原発を求める3張りのテントの違法撤去に抗議し、政府の原発推進政策等に抗議を申し入れた。
この日の経産省本館前には300名以上の人びとが集まって午後6時から2時間半にわたって集会を続けた。その集会終了の直前に、経産省敷地外周歩道約1キロメートルを一周するウォーキング抗議が行われた。

2 上記ウォーキング抗議には集会参加者のうち約150名が参加し、他の人びとは本館前に残って集会が続行された。ウォーキングの参加者は、歩道上で口々に経産省への抗議の意思表示を行い、また経産省別館前では多くの人々が資源エネルギー庁のエネルギー政策に対する抗議の意思表明を行った後、再び経産省本館前へ戻る歩道を進んだ。
こうしたウォーキング抗議の参加者の一人だったF氏が、歩道を歩いている時に突然に5、6名の私服警察官に歩道上で包囲されて車道に押し出され、「無届けデモ」の指揮を行ったとの口実で、東京都公安条例違反の容疑で逮捕された。

3 しかし、そもそも上記のような歩道でのウォーキング抗議を「無届けデモ」と捉えること自体、民衆の歩道上での表現行為を不当に規制し弾圧するもので許されないことである。しかも今回、丸の内警察はF氏の身元を充分承知しつつ「無届けデモ」とか、その「指揮」者と事実を捏造して東京都公安条例違反容疑で逮捕し身柄拘束した。
このような捏造の事実を踏まえれば、今回の事件が丸の内警察によるF氏への不当な狙い撃ち逮捕だったことを十分に示している。
また、こうした丸の内警察による「事件」捏造は、経産省前テントひろばの6年を超す運動の持続を恐れ、いまだに原発推進政策にしがみつく政府・自民党の意向を忖度した警察権力の違法行為そのものにほかならない。

4 今回のF氏への弾圧事件は、全国各地に広がった脱原発集会への参加者による継続した抗議活動が歩道上での通行の妨害なしに合法的に行われはじめたことに対する違法な予防的な弾圧である。また、市民の自発的抗議活動及びその行動への参加者を「デモ」及び「指揮者」と決めつけてF氏を不当に逮捕した行為は、「警視庁が原発関連の集会・デモで参加者を逮捕したのは初めて」(東京新聞2017年9月12日夕刊【但し、この記事で「集会・デモ」と記述されていることは不正確である】)とされる程に、違法な弾圧と言わざるを得ない。

5 私たちは、今回の不当逮捕に東京都公安条例が適用されたことは、同条例の民衆の表現行為に対する不当制約性・弾圧法規性が明白に露呈されたものである。この悪法に強く抵抗し、同条例の廃絶を要求する。
私たち経産省前テントひろばは、今回の丸の内警察署の弾圧行為に断固抗議するとともに、F氏の身柄を即刻に解放することを強く求めるものである。
以 上

共謀罪とグローバル化する刑事司法──対テロ戦争と対峙する社会運動の課題──

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共謀罪とグローバル化する刑事司法
──対テロ戦争と対峙する社会運動の課題──

★お話し 小倉利丸さん(批評家)

★日時 2017年9月21日(木)午後6時半〜
★会場 文京区男女平等センター(本郷三丁目下車徒歩5分)

アクセス | 文京区男女平等センター
https://www.bunkyo-danjo.jp/access.aspx

★参加費 500円
★主催 ATTAC Japan(首都圏)

日本は米国の同盟国としてまぎれもなく対テロ戦争の当事国です。戦場は、ネット空間も含めて地理的な限定がなく、軍事諜報機関は国の内外を問わずをスパイし、警察は軍隊さながらの装備で国境を越えて活動し、軍隊は自国の民衆に銃口を向ける存在になっています。そして、IT産業は、グローバル資本主義の基幹産業であるとともに、こうした対テロ戦争を支える軍
事産業になっています。

共謀罪は治安維持法の再来と言われる一方で、このような全く新しい戦争の時代、グローバル資本主義の時代に人々のコミュニケーションを犯罪化するものとして導入されました。本集会では、この新たな戦争とグローバル化の時代に焦点をあてて、対テロ戦争と対峙する社会運動の課題を考えます。

小倉さんには10月から新著『絶望のユートピア』を使った連続講座をお願い
しています。
9月21日の集会は「絶望」から「ユートピア」に向けたスタートラインです。

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誰が〈表現の自由〉を殺すのか ニコンサロン「慰安婦」写真展中止事件と裁判判決から考える

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ニコンサロン「慰安婦」写真展中止事件から5年。写真家・安世鴻さんが世界的カメラメーカーのニコンを訴えていた裁判で東京地方裁判所は、2015年12月、勝訴判決を言い渡しました。3年のわたる裁判闘争の過程では、ニコンが抗議を恐れて中止決定に至った具体的経過や、ネット上の抗議行動が「表現の自由」に与えた影響などが明らかになりました。
「慰安婦」問題、表現の自由、企業の社会的責任、「炎上」と「自粛」、排外主義……日本社会が直面するさまざまな課題について、この事件と裁判はきわめて大きな教訓を示しています。
事件・裁判の経過を記録し、判決の意義を多角的に論じた2冊の本『誰が〈表現の自由〉を殺しかのか』、『《自粛社会》をのりこえる』が同時に出版されることになりました。
この機会に、事件と裁判を振り返りながら、安倍第2次政権以降、増え続ける「表現の自由」への侵害、「自粛」にどう抗うのか、みなさんと一緒に考えたいと思います。ぜひご参加ください

2017年9月9日(土)14:30~17:30(開場14:00)
在日本韓国YMCA地下1階 スペースY
参加費:1,000円(学生・非正規500円)

<シンポジウム> 全体司会:岡本有佳(編集者)
◆コーディネーター:李春熙(弁護士)
◆パネラー:
東澤靖 (弁護士/明治学院大学教授)●「表現の自由」を実現する企業の責任
池田恵理子(女たちの戦争と平和資料館(wam)館長)●「慰安婦」の記憶を巡る闘い
小倉利丸(富山県立近代美術館検閲訴訟元原告)●検閲と沈黙に抗うために
◇特別発言:安世鴻(写真家/ニコン事件裁判元原告)
*目でみる<表現の不自由>スライド上映
◆ 問合せ:jjteninfo@gmail.com
○主催:教えてニコンさん! ニコン「慰安婦」写真展中止事件裁判支援の会&実行委員
○協賛:御茶の水書房

【近刊案内】——-当日会場では特別価格で販売します!
『誰が〈表現の自由〉を殺すのか
——ニコンサロン「慰安婦」写真展中止事件裁判の記録』
安世鴻、李春熙、岡本有佳 責任編集 2017年9月刊
A5判280頁予 カラー8頁 御茶の水書房

岩波ブックレット973
『《自粛社会》をのりこえる
——「慰安婦」写真展中止事件と「表現の自由」』
安世鴻・李春熙・岡本有佳編
A5判80頁 本体620円

ーーーー関連企画ーーーー
安世鴻 最新写真展開催決定!
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重重:消せない痕跡Ⅱ写真展
―アジアの日本軍性奴隷被害女性たち
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■9/30(土)〜10/9(月・祝)12:00〜19:00 会期中無休
■セッションハウス 2階ガーデン(東京・神楽坂)
■入場無料■平日:作家によるギャラリートーク(無料)
■9/31,10/7,8:トークイベント(有料)あり。
写真展賛同カンパのお願い:郵便振替00830-5-136108、
加入者名:重重プロジェクト
問合せ:ianfu@juju-project.net


当日配布のエッセイです。

検閲と沈黙に抗うために

小倉利丸

安世鴻の元「慰安婦」被害者たちのポートレイトが検閲され黙殺されたのは、日本の企業のギャラリーで、日本人が選考委員をつとめ、日本で開催されたという条件抜きには一切の説明ができない。だから問題は「日本」という検閲の装置なのだと思う。

写真史に必須の検閲の歴史

写真の歴史と検閲は切り離せない。にもかかわらず、日本の写真史が検閲の問題に注目して多くのページを割くことはあまりない。戦前戦中の写真検閲についても、どこかしら「仕方のないこと」とし、『FRONTO』や『NIPPON』などのグラフ誌のデザインの斬新さに関心を向け、写真家の戦争への加担や責任はあいまいにされる。伊奈信男、木村伊兵衛、土門拳など戦時中に戦争報道に深く関与した人々がそのまま戦後日本の写真界の中核を構成してきたことが果してどれほど批判的に検証されてきただろうか。しかも、日本統治下の台湾や朝鮮でどのような検閲がなされたのかに関心を寄せる写真史や回想録の類いは少ない。

このことに私は、崔仁辰『韓国写真史 1631─1945』を読んで気づかされた。崔は日帝統治下の韓国の写真検閲に多くのページを割き、検閲の背景や検閲に抵抗する写真家やジャーナリストにも言及する。崔が韓国についての述べたことが、台湾や旧「満州」など日本の植民地支配、軍事侵略の国・地域についても徹底した検証が必要だと思う。検閲を支えた日本の自民族中心主義とナショナリズムは、その相貌は変わりはしたものの、地続きで、今現在まで生きている。安世鴻の作品展中止の出来事はその端的な表れともいえる。

「日本民族の運命」と「抵抗のリアリズム」の間

戦後の写真表現のなかで、広島・長崎の被ばく体験や原爆被害の記録への写真界の関心に、戦後ヒューマニズムの原点と同時にその限界もまた端的に見い出せる。戦争の被害者としての日本人の視点から構築された平和の表象を表現する出発点に原爆体験があった。この被害への関心から表現者がどこに向うのか、何を自らの悲劇に見出すのか。戦争被害への関心から、日本の戦争責任、植民地支配、戦争犯罪など加害の問題へと視野を拡げ、表現者が戦後日本の支配的な歴史観、価値観を相対化するところに行きつくとは限らない。安世鴻の作品への検閲に、日本の写真界は沈黙することで黙認した。ここに戦後日本の平和意識の限界があると思う。

土門拳は戦後13年たって初めて広島に取材で出向く。これがきっかけで、彼の代表作であり、ドキュメンタリーの傑作ともいわれる『ヒロシマ』が生まれる。彼は、今もなお被爆者が生きることそれ自体と闘う現実に直面し、広島の風化を強い危機感をもって作品にした。

「しかしぼくは、広島へ行って、驚いた。これはいけない、と狼狽した。ぼくなどは「ヒロシマ」を忘れていたというよりは、実ははじめから何も知ってはいなかったのだ。13年後の今日もなお『ヒロシマ』は生きていた。焼夷弾で焼きはらわれた日本の都市という都市が復興したというのに、そして広島の市街も旧に立ちまさって復興したというのに、人間の肉体に刻印された魔性の爪跡は消えずに残っていた。」(『ヒロシマ』)

「広島・長崎の被爆者は、ぼくたち一般国民の、いわば不運な『身がわり』だったのである。ぼくたち一般国民こそ、今、この不幸な犠牲者に対して温かい理解といたわりを報いることによって『連帯感』を実証すべき責任があるはずである」(同上)

土門のこのヒューマニズムは、戦後のドキュメンタリー写真家たちにほぼ共通した理解の根幹をなしてきたものだろう。しかし、土門のヒューマニズムが果してどこまで普遍的な意識に支えられたものといえるのか。

194111月、総動員体制のなかで、写真界も組織の再編統合が進み、内閣情報局主導で「日本報道写真協会」が生まれる。土門は協会の常務理事に就任する。そして、128日の開戦後に開かれた総会で「カメラを銃としペンとする我々の職能に相共に挺身し、以て大東亜共栄圏確立の大理想達成に殉ぜん」という総会宣言を朗読した。(白山眞理『<報道写真>と戦争』から引用)土門は「カメラを持った憂国の志士」として「報道写真家としての技能を国家へ奉仕せしめんとする」(多川精一『焼け跡のグラフィズム 『FRONT』から『週刊サンニュース』へ』)と述べた。

『ヒロシマ』は土門が、戦後民主主義国家を前提とした「憂国の志士」として取り組んだ作品だったのではないかと思う。68年に「報道写真家としては、今日ただ今の社会的現実に取組むのも、奈良や京都の古典文化や伝統に取組むのも、日本民族の怒り、悲しみ、喜び、大きくいえば民族の運命にかかわる接点を追求する点で、ぼくには同じことに思える」(「デモ取材と古寺巡礼」)と述べたことにこれは端的に現われている。ヒロシマは彼にとって「民族の運命」を感じさせたのである。

彼は結局のところ、ヒロシマの被爆体験を日本人というナショナルな枠組のなかでの共通の被害体験として捉え、「不幸な犠牲者」への「連帯感」を感じる以上のところには行きつくことができなかった。戦争における加害を発見できなかった。それが「日本人」に共感をもって迎えられた原因だと思う。これは土門だけではなかった。大江健三郎もまた「土門拳の『ヒロシマ』が真に日本人の名において、現代日本人の名においてなされた1958年の日本の現実の記録であるとともに戦争の記録である」など「日本人」に繰返し言及しながら、同時に「生きて原爆と戦っている人間を描きだす」「徹底して人間的であり芸術の本質に正面からたちむかう」というように、「日本人」を「人間」に等置した。(大江健三郎「土門拳のヒロシマ』」私はこうした観点に強い違和感を感じざるをえない。

しかし同時に、土門は戦後まもなくの頃「戦争犠牲者から目をそむけている写真家」は「非人間的な背信行為者」(「フォトジェニックということ──或る傷兵の写真について──」)だと厳しく批判した。そして、「絶対非演出」としてのリアリズム写真は「現実をより正しい方向へ振り向けようという抵抗の写真的な発言としてある」(「リアリズム写真とサロン・ピクチュア」)とも語った。

ある意味では、安世鴻は土門の抵抗のリアリズムの正統な継承者であり、安世鴻の展示中止に関与したニコンサロンの関係者たちは、土門の「日本民族の運命」に加担することで非人間的な背信行為者となることを選んだのだ。

引用・参考文献(安世鴻関係の文献を除く)

伊奈信男『伊奈信男写真論集 写真に帰れ』、ニコンサロンブックス、2005

白山眞理 『<報道写真>と戦争19301960』吉川弘文館、2014

白山眞理、小原真史 『戦争と平和─<報道写真>が伝えたかった日本』、平凡社、2015

白山眞理、堀宣雄編『名取洋之介と日本工房』、展覧会図録、毎日新聞社、2006

多川精一『焼け跡のグラフィズム 『FRONT』から『週刊サンニュース』へ』 平凡社新書、2005

崔仁辰『韓国写真史 1631─1945』犬伏雄一監訳、青弓社、2015

土門拳『ヒロシマ』、研文社、1958、『土門拳全集第十巻 ヒロシマ』、小学館、1985

土門拳『写真作法』、ダヴィッド社、1976

土門拳「フォトジェニックということ──或る傷兵の写真について──」、『写真作法』所収。

土門拳「リアリズム写真とサロン・ピクチュア」、『写真作法』所収。

土門拳「デモ取材と古寺巡礼」、『死ぬことと生きること』、築地書館、1974

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プロプライエタリ社会をハックする(実践編:その2)

End to Endの暗号化がネット上の自由を守る!

――人文、芸術系のメール監視・検閲回避の実践法

プロプライエタリな社会は、プライバシーを侵害し、自由を奪う。いまやスマートフォンはジョージ・オーウェルの小説に出てくる監視装置「テレスクリーン」と化した。プライバシーを守り、自由を獲得するために、ネット上で戦うハッカーたちの作り出したオープンソースのソフトウェアーやサービスを使うことを共に学び、私たちのあたりまえの〈コミュニケーション〉を取り戻すための不定期連続セミナー。

実践編:その2では、メールの暗号化通信の実践を行います。
★はじめての暗号化メール (Thunderbird編)
暗号ソフトウェア―のPGP(プリティ・グッド・プライバシー)で暗号化したメールの送受信の実践。
★監視装置「Gmail」からの脱出(ProtonMail/Tutanotaへの移行)
メールの中身を覗くことを当然とする、大企業によるプロプライエタリなサービスを止め、オープンソースの暗号化ウェブメールサービスを使う。

実際に試してみたい方は、ノートパソコンをお持ちください。
※スマートフォンでも出来ることはあります。

日 時:2017年9月5日(火)19:30~21:00
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
サポーター:小倉利丸、上岡誠二

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「通信の秘密」と表現の自由を共謀罪から防衛するために

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はじめに

共謀罪の成立が警察の捜査手法を根底から変える危険性があるが、この問題に、反対運動が十分な対抗手段をとることができないまま時間だけが過ぎているように見える。とくに、ネットが必須のコミュニケーション・ツールになり、多くの活動家や市民運動、社会運動の参加者たちがSNSやブログ、メーリングリストなどを活用している状況のなかで、共謀罪がこうしたコミュニケーションをターゲットとした捜査機関の権限の大幅拡張を合法化する危険性がすでに存在している。

ネット社会のセキュリティやプライバシーは実感することが難しい。60年代からの活動家たちにとって、パソコンもスマホも苦手ななかで四苦八苦しながらネットの「便利さ」に追いつこうとしてきたのではないだろうか。こうした苦手な世代を狙って、セキュティの穴を巧みに利用して監視するサイバー公安警察による共謀罪の利用も十分に念頭に置く必要がある。

共謀罪は、それほど私たちのコミュニケーションの秘密(プライバシー)にとって脅威になるのはなぜなのだろうか。監視社会批判派の我田引水のプロパガンダではないか、という疑問もあるかもしれない。しかし、以下で述べることから皆さん自身で共謀罪のリスクを判断していただければと思う。

(1)共謀罪立件に必要な「証拠」はコミュニケーションの内容そのものだ

共謀罪で立件する場合、捜査機関は、起訴し裁判で有罪とすることが可能な証拠を収集しなければならない。「共謀」は話し合いでしかなく、犯罪行為に伴う物的な証拠とは、傷害事件で使われた凶器やDNAなどの科学的に立証可能な「物的証拠」はない。証拠は、「共謀」の事実を記録したネットの通信記録や会議の記録などということになる。誰と誰が通信したのかといった通信会社が保管している通信のログ(通信日時、通信の時間、通信相手のアドレスや番号)では不十分で、会話やメールの内容そのものを取得なければならない。共謀容疑での捜査では、通信の内容を取得することが必須の条件になる。そのために、これまでの捜査機関の態度は一変して、通信の内容を何がなんでも「証拠」として確保しようとするだろう。共謀罪によってこれまでは想定されていなかったような段階から、これまで以上に広範囲に強制捜査やパソコンなどの通信機器の押収が行なわれることになる危険性が高まる。

●盗聴捜査の変質と拡大の恐れ

盗聴捜査も様変わりするかもしれない。例えば、これまでの盗聴捜査では、犯罪に用いられると疑われる回線を期間を限って盗聴し、犯罪関連通信を把握し(これが盗聴された通話の2割程度にしかならないことがプライバシー侵害として問題になってきたが)、そこから実行行為に関わる犯罪の摘発が行なわれた。犯罪関連の通信それ自体は犯罪行為ではなかった。しかし共謀罪では、犯罪関連通信そのものが共謀行為として犯罪とされる。通信の内容そのものが犯罪を立証する直接の証拠になり、検挙の根拠になる。実行行為に至らなくても、通信だけで立件できることになる。従って、盗聴捜査の位置付けは、本来の犯罪に対する補充的あるいは捜査の端緒をつかむための手段から、それ自体を犯罪とみなす犯罪捜査の対象になる。共謀罪は300前後の罪を網羅するから、これらの犯罪の証拠を把握できる能力を捜査機関が持つべきだというのが捜査機関や法務省の言いぶんになるだろう。共謀を犯罪化した政権、議会、法曹界の現状では、これに抗う声は少数にとどまり、共謀罪の対象犯罪全体に盗聴捜査を拡大される危険性がある。

●蓄積されたデータへのアクセスの拡大

とはいえ、盗聴法の最大の限界は、リアルタイムの通信しか対象にできないということだ。既に行なわれた過去の通信は対象にできない。捜査機関にとって、蓄積された通信データへのアクセスには別の手段が重要になる。

ネットの大量監視がメタデータを網羅的に収集するもので、これが監視社会化をまねく重大な問題としてこれまでも指摘されてきたし、私もそう思う。共謀罪は、こうした大量監視の主な対象になるメタデータ(メールの送受信の記録などで、通信の本文は含まない)から人間関係などをあぶり出すための必須のツールだ。こうしたメタデータやこれまで政府や捜査機関が収集してきた膨大な個人情報データなどを突き合せながら、通信の内容まで把握すべき人々をあぶり出すことになる。こうした人々の通信は盗聴捜査の対象になるだけでなく、やりとりされたメール、アクセスしているネットの宛先などを網羅的に監視してその内容をできるかぎり把握しようとするだろう。とくに、プロバイダーに蓄積されたメール、facebookやLine、twitterなどでの通信などの具体的なコミュニケーションの内容を把握しようとすると思われる。こうして大量監視を前提に、捜査機関の関心が共謀という犯罪を構成する「相談」「話し合い」の内容そのものの把握へとシフトすることは明かだと思う。実社会でも、集会や会議、デモなどで公安警察が会場の外で参加者が誰なのかを監視しビデオや写真撮影するなどの違法行為が野放し状態だが、今後は会場でのコミュニケーションそのものが共謀罪を構成する可能性があるとみなして、より大きな関心を寄せて内容を把握しようとするだろう。室内盗聴、おとり捜査、スパイの送り込みなど、新たな捜査手法がこれまで以上に関心がもたれることになる。

共謀罪が成立したことによって、裁判所への捜査機関の令状請求もまた「共謀罪容疑」によるものが可能になる。こうして、これまでは裁判所の令状発付が不可能と思われたケースに対しても裁判所の令状が発付されるようになる。同時に、共謀罪を前提に、捜査機関は民間の協力を得やすくもなり、これまで以上に容易に民間が取得した個人情報の提供が行なわれるようになりかねない。資金の流れを監視するために金融機関に、集会や会議の内容を把握するために会場施設の管理者に、「証拠」となりうるような内容へのアクセスを要求する捜査機関の圧力は強化されるだろうと思われる。

●プロバイダーには膨大なデータが蓄積される。

ネットに限定していえば、私たちがネットにアクセスするには、スマホやタブレットであれパソコンであれ、契約しているプロバイダーなど接続サービス業者の仲介が必要だ。会社や学校であれば、組織内のネットワークを外部のインターネットに接続させるシステムの管理部門がその仕事を担う。ネットの管理者は「root」と呼ばれたり「スーパーユーザ」と呼ばれて、自分が管理しているサーバの「全能の神」である。一般のユーザがアクセスできない管理ファイルなどにも自由にアクセスでき、ユーザのファイルやメールにもアクセスでき、ユーザの権限をコントロールし、パスワードを変更したりアカウントを削除することもできる。こうした管理者を捜査機関は法的な強制力をもって協力させようとする。共謀罪はこれまでできなかった法的強制力の範囲を大幅に拡げ、管理者がやむをえず指示に従わなければならないケースが飛躍的に増えることになる。

ネットがコミュニケーションの必需品になったために、メールサーバ、プロバイダーに保管されている通信履歴、携帯電話会社の取得する携帯などの位置情報、DropboxやiCloudなどクラウドストレージのサービス、SNSが取得しているユーザの個人情報など、私たちがネットでアクセスする先のサイトなどが取得しているIPアドレスやネットサーフィンの記録、ネットバンキングやクレジット決済などの取引きデータまで、これらが網羅的に把握されてしまえば、私たちのコミュニケーションのほとんど全てが丸裸になる。これらは、捜査機関からすれば、共謀罪での立件に必要な証拠の宝の山とみなされるだろうし、これを見逃すことは、共謀という犯罪を野放しにすることだといった理屈が刑事司法の体制として定着し、メディアが追随し、人々が常識として受け取ってしまう危険性が今ここにあるのだ。

(2)共謀罪は捜査機関の人権侵害を合法化する

共謀罪を立証するためには、私たちのコミュニケーションそのものを捜査機関が取得して証拠としなければならないということについて、共謀罪反対運動では、ほとんど中心的な争点にはできなかったと思う。私もこの点をもっぱら強調して批判を論じてきたわけではないので、私自身の批判のスタンスへの反省も込めて、今一度、捜査機関によるコミュニケーションへの監視、介入、情報収集を認めるべきではなく、こうした捜査から私たちのコミュニケーションを防衛することの正当性を述べておきたい。

共謀罪を口実に私たちのコミュニケーションの内容を収集する行為は、明かな憲法違反である。憲法には次のように書かれている。

「憲法21条:集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。 」

21条は第一項で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」とあるが、あえて表現の自由をこのように明記しているのは、憲法が念頭に置いている集会や結社、言論、出版が、政権に批判的であったり反政府的な性格をもつことを理由に、権力によって弾圧の対象になることを禁じているのである。政権与党の結社や政権支持の言論の自由を保障したり、多数が当然とみなす思想信条を保障することが趣旨ではない。社会において少数であり、権力に対して敵対的な言論・表現の自由や結社の自由を保障することがその趣旨である。この規定を受けて第2項で、検閲と通信の秘密の侵害を禁じているから、反政府活動を理由に、検閲や通信の秘密を侵害してはならないというのが、その基本の筋である。いかなる社会集団であれ、その内部に様々な異論があり、権力への異論があり、政治的社会的な摩擦が存在し、時にはこれらの異論がやがて多くの人々の支持を得て権力の転換をもたらすことは社会の健全なありかたでもある。(憲法がこうした体制転換をも保障しているかどうかは議論がある)こうした異論や摩擦を通じて人々は複数の考え方に接しながら、意思決定を繰り返す。憲法は、ある側面ではこうした異論を保障する枠組であるが、同時に、現実の権力行使にあっては、むしろ異論を犯罪化して既存の権力を防衛する手段として刑法などの法制度が利用され、憲法の自由の権利は単なる理念の域を出ない場合が実はほとんどの国民国家の現実でもある。ここに憲法のジレンマあるいは欺瞞があるのだが、今はこの問題には言及しない。「法」が私たちの権利を保障する枠組として機能するかどうかは、そこに書かれている「文言」そのものに受動的に依存するのではなく、私たちが「法」の意味するところを体現する主体として、権利を行使する正当性を意思表示する行為者として存在することを示す以外にないのである。

【注】勿論「結社」が政治的であるとは明記されていないから、いかなる集団の形成もまた憲法は保障しているし、実際の行為となれば犯罪となるような事柄であっても、それが言論、出版という範囲であり、またそれが実行行為に至るわけではない集会や集団である限りにおいてはこれは保障される。

共謀の立証のために捜査機関は通信の内容に介入しなればならず、通信の秘密を侵害しなければならないことは明らかであるにもかかわらず、政府も国会も憲法における通信の秘密の規定と共謀罪との関連を無視しただけでなく、多くの刑法の専門家たちもまた通信の秘密条項への侵害という問題には言及しなかったと思う。これはかつての盗聴法の国会審議の場合以上に、憲法の通信の秘密との関わりへの関心は低かった。盗聴法が既定の法となり、憲法の通信の秘密条項の解釈が根底から覆されたことの効果がこうしたところにも現われているともいえる。

おわりに

共謀罪は、憲法が私たちの権利として保障している通信の秘密を公然と侵害する権力による人権侵害の法である。この法律そのもの違憲性を問うことや廃止法の成立をめざす必要があるが、それまで私たちは、通信の秘密を保障されない環境に置かれなければならないのだろうか。そうあってはならず、私たちなりの通信の秘密を防衛するための積極的な行動をとる必要がある。共謀罪の捜査が憲法の保障する通信の秘密の権利を侵害するのであれば、私たちが憲法に保障された通信の秘密を防衛するための対抗措置をとることは、私たちの権利を守るための最低限の防衛措置である。もし共謀罪を理由に、犯罪の立証に必要であるという理由でコミュニケーションの内容が常に捜査機関によって把握可能になるとするならば、同様に、あらゆる犯罪の可能性のあるシチュエーションを前提に、捜査機関がフリーハンドで私たちの日常生活やプライバシー空間に介入することを認めるべきだということになる。繰り返そう。私たちは権力による人権侵害を正当化する法を認めないし、私たちの通信の秘密を守るための手段をとる権利は憲法が保障している、私たちの基本的人権である。

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8月27日講演会:市民の自由はガンジガラメ!?‐監視社会を考える−

西東京市公民館市民企画事業講演会
テーマ:「市民の自由はガンジガラメ!?‐監視社会を考える−」
講師:小倉利丸さん(富山大学名誉教授)
日時:8月27日(日)14時〜17時
場所:西東京市柳沢公民館(西武新宿線西武柳沢駅南口徒歩1分)
資料代:100円
企画・実施:ピースナウ西東京
http://peacenow042.blogspot.jp

プロプライエタリ社会をハックする(実践編:その1)

以下、自由芸術大学のサイトから転載します。


Dropboxは捨てろ、FacebookとGoogleには近づくな、Appleも例外ではない。

プロプライエタリな社会は、プライバシーを侵害し、自由を奪う。いまやスマートフォンはジョージ・オーウェルの小説に出てくる監視装置「テレスクリーン」と化した。プライバシーを守り、自由を獲得するために、ネット上で戦うハッカーたちの作り出したオープンソースのソフトウェアーやサービスを使うことを共に学び、私たちのあたりまえの〈コミュニケーション〉を取り戻すための不定期連続セミナー。

セミナーでは、PCやスマホの自由なソフトウェア―やアプリの解説を行いインストールします。ウェブメールやクラウド・ストレージ、SNSなどのサービスについても検証し、より安全なものを選択していきます。
次回、8月5日(土)はお使いのWindows、MacのPCやiPhone、Androidのスマホに簡単にインストールできる、プライバシー保護を考慮したアプリケーションを紹介します。まずは匿名でインターネット・ブラウジングが出来る「TorBrowser」から。
インストールしてみたい方は、ご自身のPCをお持ちください。

日 時:2017年8月5日(土)15:00~18:00/14:30 Open
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
サポーター:小倉利丸、上岡誠二

*プロプライエタリという言葉は、主にプロプライエタリ・ソフトウェアとして語られ、人間に理解できるプログラミング言語(ソースコード)を機械語に変換(コンパイル)したもののみを配布・販売したり、ライセンスによって使用の制限を設けることで権利を独占するようなソフトウェアを指します。

 

8月3日:共謀罪で監視社会はどうなる? 私たちの闘い方を考えよう!

転送・転載歓迎
*******************
<緊急集会>

共謀罪で監視社会はどうなる?
私たちの闘い方を考えよう!
*******************
▼お話
●小笠原みどりさん(ジャーナリスト)
スノーデンの共謀罪への警鐘をふまえて、情報操作に対抗するためのデータ民主主義の可能性についてお話しいただきます。
著書:『スノーデン、監視社会の恐怖を語る 独占インタビュー全記録』(毎日新聞出版)など

●小倉利丸さん (批評家)
網羅的な監視状況のなかで、異議申し立て運動が「話し合う」自由を確保するための運動文化の創造について、お話しいただきます。
著書:『絶望のユートピア』(桂書房)など

▼日 時:2017年8月3日(木)18時30分〜
▼場 所:文京区民センター2A
都営三田線・大江戸線「春日駅A2出口」徒歩2分、東京メトロ丸ノ内線「後楽園駅4b出口」徒歩5分
東京メトロ南北線「後楽園駅6番出口」徒歩5分、JR水道橋駅東口徒歩15分
都バス(都02・都02乙・上69・上60)春日駅徒歩2分

▼資料代:500円
▼主 催:盗聴法廃止ネット
▼協 賛:共謀罪NO!実行委員会/JCA-NET/共通番号いらないネットの事務局
▼連絡先:090-6138-9593
===================================
何とも悔しい限りですが、共謀罪が成立しました。共謀罪は、戦前の治安
維持法の再来という声もあり、これまで私たちが経験したことのないよう
な、驚天動地の特高警察まがいの弾圧がありえるかもしれません。労働運
動、政治活動、地域の住民運動からグローバルな社会運動を支えてきた言
論・表現の自由や基本的人権が危機にさらされる時代が到来してしまうの
でしょうか。
他方で、日常生活から軍事技術までIT技術を駆使した監視社会であること、
ネットを巻き込んだ対テロ戦争に米国の同盟国として加担していることな
ど、戦前の日本と大きく異なる状況もあり、単純な戦前回帰ではないこと
も確かです。
何はともあれ、メゲてる場合ではなありません。共謀罪をなんとかして仮
死化させ、廃止へと追いやり、網羅的監視の網の目を破るために私たちに
できることはまだまだ沢山あるはずです。
本集会では、小笠原みどりさんと小倉利丸さんを講演者に招いて、今後の
監視社会がどうなるのか、また共謀罪下で私たちの闘い方をどのように再
構築する必要があるのかなど、反転攻勢の手掛かりを参加者の皆さんと一
緒に議論しようと思います。ふるってご参加ください。
======================================

7月24日(月)大阪:共謀罪施行後、初の共謀罪学習講演会

以下、主催者のFBから転載します。


共謀罪施行後、初の共謀罪学習講演会です。
メインの講演はネットワーク反監視プロジェクトで活躍されている小倉利丸さん。共謀罪についての共著があり、インターネット上の監視についても詳しい小倉さんのお話は興味津々です。

さらに、共謀罪が施行されてしまった今、まずは政府に共謀罪を使わせないことが一番! でも、もしも、もしも逮捕されてしまったら、そのときはどうしたらいいの?というもしものときの実践マニュアルも、弁護士の先生からお話していただきます。

そして、新聞うずみ火代表の矢野さんからは、ジャーナリズムと共謀罪という、これまた興味津々のお話も。

短い時間に盛りだくさんで、とても贅沢な内容の学習講演会です。
共謀罪なんてぜったい許せない!と思っている方も、でもこれからどうなるのか正直ちょっと不安…という方も、ぜひぜひご参加下さい。

●7月24日(月) 18時半~エルおおさか708号室(京阪・地下鉄谷町線「天満橋駅」より西へ300m)

講演「ぶっ飛ばせ!共謀罪」
小倉利丸さん(元富山大学経済学部教授)
◇講師の小倉さんより◇
共謀罪の施行を目前にして、共謀罪への反対運動を今後も継続することは当然のこととして、これまでの反対運動で十分に議論されてきたとはいえない幾つかの重要な論点と、共謀罪成立後の日本における刑事司法と私たちの自由の権利との新たな構造について考えてみたい。

「ジャーナリズムと共謀罪」
矢野 宏さん(新聞うずみ火)
「もし逮捕されたら?―実践マニュアル」
永嶋靖久さん(弁護士)

資料代:¥700
主催:共謀罪あかんやろ!オール大阪
連絡:共謀罪に反対する市民連絡会・関西気付 市民共同オフィスSORA TEL06-7777-4935
https://www.facebook.com/events/253221815168310

オリンピックと戦争──感情の同調回路からの切断へ

 

オリンピックへの批判は、金がかかるとか誘致の過程が不透明だとか、不正・腐敗の疑惑がある。様々ありながら、オンピックは、崇高なスポーツの精神をこうした政治や金がらみのメガイベントにすることで汚しているといったスタンスの批判が大方だ。初心に帰れということだろう。スポーツそのものには問題はなく、スポーツを政治や金儲けに利用することが問題だという発想は根強い。しかし、政治や金儲けと無関係にスポーツが成り立ったことはあるのだろうか。そんなことはあったためしがない。

しかし、そもそもスポーツがそんなに立派なものなのかぼくにはまったく理解できない。もちろん、文化系のあれやこれや──文学とか音楽とか美術とか──とか、理系のあれこれ──数学とか物理学とか生物学とか──もまた立派なものと思ったことはない。大体が学校で教わって、最終的には様々に学んだものが数字(点数)に化けて一丁上りという仕組みに立派なものなどない。点数とか数字に化けるものはおしなべて空しい。ただ空しいだけだと思う。

ぼくは、小学生の頃、校内でベストスリーに入る肥満児だった。だから体育の成績がよかったことはない。かといって、他の教科の成績もよかったこともない。5段階評価で5はとったことはないし、4はあったかなあ、程度である。勿論得意科目はない。本も読まない。唯一得意だったのは授業中「ぼんやり」していることだったと思う。肥満児だから大体がイヂられキャラになるのだが、それをいじめだと思ったことはない。何ごとにつけても学校文化にほとんど興味がなかったように思う。肥満児だったから、中学では柔道部にリクルートされたが、真面目に練習したことはなく、試合で勝ったことはない。高校ではラグビー部に勧誘されフォワードにされたが、半年で辞めた。練習が辛いのが苦痛だった。そもそもなぜそんなに辛い試練を耐えて試合に勝つ必要があるのかが理解できなかったと思う。今でもスポーツをテレビで観ると、その苦痛に耐えて頑張る根性というのか精神力がぼくには「謎」で、すごいと思ってしまう。「そこに山があるから登る」みたいな、無心に打ちこめることがすごいと思う。ぼくにはできない。

ぼくがオリンピックに反対なのは、冒頭に述べたような理由だけでなく、こうした体の鍛え方とか競争とかに、国家の威信とか名誉を賭けて争うということの「意味」について誰も何も論じないまま、当然のように受け入れるということ自体に疑問があるからだ。つまり、100メートルを9秒で走ることとか、アクロバットのように床の上で回転したり飛んだりすることとかにはどのような意味があるのか、といった行為の意味が論じられることはほとんどない。「そういうものなのだ」ということでしかない。他方で射撃とかフェンシングとか格闘技もスポーツということになっているが、こうした武力や暴力をスポーツとする意味が議論されたことがあるのだろうか。射撃と憲法9条とかは議論すべきだろう。

オリンピックというのは、人々がきちんとモノを考えることなくお国のためなら、何でもやり、体を犠牲にし、国別の競争を戦争の代用のようにして興奮して応援する擬似的な戦争イベントであって、事柄についての「根拠」とか「意味」などを考えることを放棄させる感情を習性とさせるものであって、戦争になれば、殺し殺される根拠も意味も考えずに、国家の利益に率先して加担するようになる。オリンピックも戦争も感情の回路はほぼ同じ構造だと思う。

さて、東京オリンピックでは、スケボーとサーフィンが正式種目になったという。とてもがっかりしたし、唖然とした。こうしたスポーツがもっていたサブカルチャーな文化が漂白されて、清潔な体制的なスポーツになるのかと思うとやりきれない。警察の職質にめげずに路上を走ってきたストリートのスケボー乗りたちは、その文化をオリンピックに奪われないように頑張ってほしい。サーファーは競技やスポーツのルールに押し込められないで自由な文化を守って欲しい。こうしたサブカルチャーのスポーツにこそ意味があるとぼくは思うからだ。

空族(くぞく)最新作 『バンコクナイツ』富山上映会(7月16日、17日)

空族(くぞく)の最新作『バンコクナイツ』が富山で上映される。17日には私もトークに参加させていただきます。

わたしの映画評は下記にあります。

越境するアンダークラス──映画『バンコクナイツ』


アトリエ・セーベーの告知(転載)

みなさん、こんにちは。
アトリエセーベーがあるLETTERが1周年を迎えました。
デッサン教室をベースに、読書会、映画、「みる」ことをいろんなかたちでおこなってきました。さまざまな出会いと体験のおかげでなんとか折れずにやってこれたのも、場所とそこを訪れてくださるひと、表現と表現者のおかげです。ありがとうございます。
わたしは、金属をつかって大きな作品をつくり、それで食べていた時期がありますが、あることがきっかけで全く作れなくなり、それから数年後に誘っていただいて出会った劇場バイトで大きな変化がありました。また、デッサンの講師をやりはじめたのもこの頃です。
劇場では1日3、4本、ひと月約15本ほどの作品を上映していました。パブリックな場所と作品とひとと。ただ受付に立っているだけでしたけれども、作品をつくっていたころのような感覚を取り戻したような気持ちになれたのは、表現とひとに触れ、世界と自分とのつながりを田舎の小さな劇場で持てたことにあると思います。
LETTER1周年を記念しまして、アトリエセーベーでは
空族(くぞく)最新作
『バンコクナイツ』を上映いたします。
昨年、甲府で行われた上映会に出かけました。桜座という古い劇場(ライブハウス)でパイプ椅子、しかも寒かった…なのに、上映時間の3時間3分はあっという間で、エンドロールで嗚咽するという自分でも想像できないことが起こってしまいました。
ほんとうの優しさに包まれて安心したとでもいいましょうか。そんな気持ちになりました。
そこで出会ったSoi48(『バンコクナイツ』音楽担当)というアーティストユニットが音源を販売していたのですが、これがまた面白い。音楽が好きなひとはジャンルを超えて絶対にハマると確信しました。ほんとうにおもしろい!もはやスタンダード!
上映会のゲストには空族から富田克也、相澤虎之助のおふたりと、
音楽を担当したSoi48(宇都木景一、高木紳介)
トークイベントに小倉利丸
初日だけですが、タイのシーサケットに公園をつくる仕事で滞在していた経験のある大家さんがタイフードでおもてなししてくださいます。
作品と表現者に触れて、作品の奥深くに手を伸ばしに来てください。

いろんなひとと集まって、たとえば映画をみることも
困難になるだろう、
なんて気が重くなっていましたが、
めちゃくちゃ元気もらいました。そして、きょうも元気です。
================
『バンコクナイツ』上映イベント@小杉町LETTER
LETTER1周年記念祭
〜LETTER from(trip to) ISAN
7月16日(日)
①10:15〜 上映後空族による舞台挨拶
●13:30〜 1階書店にてSoi48によるタイ音楽講座(DJ、物販) 大家によるタイごはん販売
②16:00〜 上映後19:05頃 空族による舞台挨拶(10分程度)
17日(月・祝)
12:30〜 上映終了後
空族、小倉、観客とのセッション
各回とも3000円です。ご予約よろしくお願いします!

プロプライエタリ社会をハックする

――芸術・文科系のハッキング術

ネットのややこしい「技術」なんか知ったこっちゃない、便利ならとりあえずいいか…というアクティビストのための、それって、結構ヤバいんじゃないかということを巡るレクチャー&トーク

スピーカー:小倉利丸(『絶望のユートピア』著者)
プレゼンター:上岡誠二(芸術活動家)

日 時:2017年7月16日(日)19:00~21:00/18:30 Open
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
資料代:500円+投げ銭(ワンドリンクオーダー)

共謀罪は、警察であれ政府機関であれ企業であれ、あらゆる諸組織がまず何よりも私たちの〈コミュニケーション〉を監視し、情報を収集・分析・分類する活動を前提として、私たちの〈コミュニケーション〉を犯罪化するものだ。とすれば、私たちは、〈コミュニケーション〉の非犯罪化を要求しなければならないだけでなく、彼らの監視・収集・分類の目論見から私たちの〈コミュニケーション〉の権利を防衛する技術を身につけなければならない。のっぴきならない戦争の時代に、彼らが仕掛けた〈コミュニケーション〉の戦場を生き延びるために…

今回のレクチャーでは〈ネット〉時代のコミュニケーションの権利闘争を振り返りながら、現実に進行する社会の〈プロプライエタリ〉化のリスクから、私たちの権利を防衛するために何が必要なのかを探ります。

社会のプロプライエタリ化:社会の更新に必要な情報や情報の入手を秘密化し、権力を肥大させることによって、コミュニケーションを監視し、個人情報を盗み、不公正を可能とする技術や法律による支配化。
※今話題になっている、国家戦略特区の一連の問題は社会のプロプライエタリ化の特徴を現わしています。その決定に至るプロセス(ソースコード)を隠蔽し、告発者のプライバシーを侵害(マルウェア)し、その情報(ビッグデータ)を悪用して不公正を生み出しています。共謀罪法案が成立すれば、そのような社会が常態化していくでしょう。
参考:「プロプライエタリなソフトウェアはしばしばマルウェアである

ブッとばせ!共謀罪 7・10集会

ブッとばせ!共謀罪 7・10集会

反戦・反改憲のうねりを創りだそう!   7・10集会
□日時:7月10日 18時15分開場~21時
□場所:文京区民センター2A会議室
■問題提起:共謀罪新設攻撃をはね返し、
どのような運動を構想するか?
小倉利丸さん(富山大学元教員)
□交通:都営地下鉄春日駅1分、メトロ後楽園駅5分
□資料代:500円

安倍政権は共謀罪を新設して、沖縄をはじめとする反
戦運動を弾圧し、反改憲の声を封じ込め、2020年東
京オリンピック」前にも改憲を実現しようとしています。
こうした動きに対して、治安法・弾圧をはね返し、反
戦・反改憲の闘いをいかに創りだしていくのか。今春の
共同した闘いを踏まえ、小倉利丸さんの問題提起を受けて
大いに討論したいと思っています。ぜひご参加ください。

主催  戦争・治安・改憲NO!総行動実行委員会
[実行委呼びかけ団体]破防法・組対法に反対する共同行動、共謀罪反対!国際共同署名運動、救援連絡センター、集団的自衛権法制化阻止・安倍倒せ!反戦実行委員会、戦争に協力しない!させない!練馬アクション、心神喪失者等医療観察法(予防拘禁法)を許すな!ネットワーク、立川自衛隊監視テント村、都教委包囲首都圏ネットワーク(ob)《連絡先》東京都港区新橋2‐8‐16石田ビル5F 救援連絡センター気付 破防法・組対法に反対する共同行動 03-3591-1301/東京都港区西新橋1-21-8 9条改憲阻止の会気付 03-6206-1101 090-6481-6713(松平)

越境し共謀するアーティストたち(戦前編)

──エロシェンコと宮城与徳

スピーカー:小倉利丸(『絶望のユートピア』著者)

日 時:2017年7月1日(土)19:00~21:00/18:30 Open
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3丁目8-12 フデノビル2F 奥の部屋
資料代:500円+投げ銭(ワンドリンクオーダー)

戦前から戦中の時代は今の日本よりも逼塞した暗い時代だったのだろうか。アクティビストたちは常時特高警察に監視され、集会もデモもままならない時 代だったが、そのなかで、思いの他したたかに権力に抗った者たちも多くいる。そうした人々のなかから、二人のアーティスト、ワシリー・エロシェンコ (1890年~1952年)と宮城与徳(1903年~1943年)に焦点を当てます。二人とも、周辺に生まれ(エロシェンコはウクライナ、宮城は沖縄)国 境を越えて移動しつつ、共謀の抵抗線を意図せざる結果として描いた人たちです。彼らの生き方とアーティストの表現について考えながら、過酷な時代ですら私 たちの今の時代を凌駕する、国家に抗する行動がありえたことを再認識しつつ、私たちにはまだまだ多くの共謀の可能性があるのだ、という勇気と展望を彼らの 生き方と表現から掴みたいと思います。

ワシリー・エロシェンコ:1890年~1952年 ロシア帝国領(現在ウクライナ)クルスク県生れ。幼くして盲目となり、楽師として生計をたてる。10代からエスペラトを学び、ロンドンでクロポトキンと出 会い、20代で日本語を学び、25歳で来日。2年間滞在。その後アジアを放浪し30歳で再来日。1921年、日本社会主義同盟大会に参加して逮捕、国外追 放。中国を経由してソ連に帰国。彼はシベリアや極東、アジアなど辺境をこよなく愛した。日本滞在中は多くの社会主義者やアナキストと交流し、音楽を演奏し 多くの文章を残す。彼の作品の大半は魯迅が中国語に訳した。(高杉一郎編『エロシェンコ全集』みすず書房など)

宮城与徳:1903年~1943年 沖縄県名護村生れ。16歳で渡米。沖縄出身の移民たちによる「黎明会」結成。宮城がサンディエゴ官立美術学校の学生、21歳のときに排日移民排斥を目的と した新移民法制定される。宮城は日本の無産者運動や、バクーニン、クロポトキンなどに触発されつつ作品を制作する。26歳、プロレタリア芸術研究会創設に 参加。29歳、米共産党南ロサンゼルス地区大会が官憲に弾圧され多くの沖縄出身者とともに逮捕される。30歳、ソルゲスパイ団として来日。以来38歳で検 挙されるまで日本で「スパイ」として活動。40歳、獄中で未決のまま病死。(野本一平『宮城与徳、移民青年画家の光と影』沖縄タイムス社など)

「英国のテロ: 首相は何を知っていたのか? 」ジョン・ピルジャー

以下に訳出したのは、Counter Punch に掲載されたジョン・ピルジャーによるマンチェスターの「自爆テロ」についてのエッセイである。日本では、共謀罪がテロ対策を口実に国会でも成立の瀬戸際という危うい状況にあることを念頭に訳したものだ。

ピルジャーは、マンチェスターの事件を対テロ戦争が引き起した帰結であるとはっきりと指摘している。特に、英国がリビアに対して行なった軍事介入における戦争犯罪(多数の民間人が破砕爆弾やクラスター爆弾の犠牲になった)と、カダフィを排除するためにイスラム主義者たちを利用してきた軍や諜報機関を批判する。英国のみならず米国やフランスも含めて、かつての植民地諸国を支配・従属しつづけようとする野望のために、西欧「帝国」の国益のためにイスラム主義者を使い捨ててきた歴史を視野に入れなければ「テロ」の問題は答えを見出せない。

日本も含めて、西側諸国は、みずからの歴史的な植民地支配とポスト植民地主義(新自由主義的な支配)に内在する国家の暴力や犯罪を一切反省することなく、こうした自らの犯罪を棚上げして「正義」の側に、彼らが「テロ」と呼ぶ対象を「悪」の側に分類する単純な善悪の構図に大衆の心情を動員する。かつての植民地地域を現在に至るまで支配・従属させつづけようとする野望と、米国のような新たな帝国の野望をアフリカに抱く諸国との複雑な利害を背景にしながらも、「テロ」については、その表面的な現象だけを歴史的文脈から切り離して取り出し、あたかも理解しえない非人道的な行為であるかのように決めつけて報復と厳罰化を正当化しようとしてきた。日本も含めて西欧諸国は、そもそも「テロ」を理解することを拒否し、「テロ」に関連すると彼らが考える社会集団を網羅的に監視して敵視し、排除し、基本的人権を剥奪し、ときには国外に追い出し、同時に、彼らの母国には軍事介入して内戦を助長する。

「テロ」には歴史的社会的な文脈がある。しかし、「テロ」を理解することは、この文脈に触れることになる。このことは、同時に、国家が隠蔽してきた権力犯罪、彼らがとってきた、「テロ」に帰結せざるを得ないほどのその何倍、何十倍にもなる殺戮と支配の歴史を明みに出すことになる。だから、「テロ」は理解ではなく無条件に「悪」のレッテルを貼って、根絶やしにしたいのだ。こうした経緯はピルジャーのこの短かいエッセイからも十分読みとれると思う。

同様に私たちは、共謀罪の立法事実として政府が持ち出す「テロ」をめぐる言説を、日本の植民地支配の時代から対テロ戦争における米国の侵略への加担に至るこの国の国家犯罪との関わり抜きには理解すべきではない。日本がテロの脅威に晒されるのであれば、それはテロリストと名指された「敵」の理不尽で理解を超えた「悪」の問題だと片付けるのではなく、テロを誘き寄せることになった(なるであろう)この国の不合理で理不尽な対外政策や覇権主義、排外主義という、この国の犯罪にも目を向けなければいけない。こうした国家犯罪や「経済進出」や「援助」なる言葉でごまかされてきた資本の犯罪が隠蔽され正当化されるだけでなく、さらに、対テロ戦争の泥沼に今以上に足を踏み入れることこそが、「テロ」を招き寄せる根源にある。

日本はかつての植民地支配や戦争責任はおろか、イラク戦争以降の戦争への加担と責任すら明確に自覚せず、きちんとした検証すら行なっていない。こうした日本の国家犯罪を文字通り放免する構造を共謀罪はより一層強化するものとして導入されることになる。戦前も含めた歴代の支配者たちの犯罪を見逃してきた責任は、この国の主権者にある。近代日本の侵略を国家犯罪としてきちんと処理し、対テロ戦争から撤退すること、日米同盟から離脱し、自衛隊を派兵せず解体すること、文字通りの意味での「非武装中立」という戦後反戦平和運動の基本原則に立ち返ることが、「テロ」対策の唯一の選択肢だろう。しかしこうした原則的な議論が国会の場ではもはやほとんど聞かれなくなっている。

ピルジャーのこの短かいエッセイは、日本のわたしたちがこの国の「テロ対策」や対テロ戦争について何を考えるべきかを示唆してくれると思う。


(2017年6月6日改訂:誤訳、不適切訳をご指摘いただいた皆さんに感謝します。読みやすくなったと思います。)
英国のテロ: 首相は何を知っていたのか?
ジョン・ピルジャー
2017年5月31日

英国総選挙で語られていないのはこのことだ。マンチェスターの惨劇──ジハディストによって22人の若者が殺害されたわけだが──の原因は、英国外交政策の秘密を守るために明かにされないままだ。

決定的な疑問──なぜ国家保安機関、MI5はマンチェスターのテロリストの「利用価値」を擁護し続けているのか、そして、なぜ政府は公衆のまっただなかにある脅威を警告しなかったのか──は、「内部監査」の約束なるものによってはぐらかされて、答えられないままである。

自爆攻撃の容疑者、サルマン・アベディは、過激主義のグループ、the Libyan Islamic Fighting Groupのメンバーであり、このグループはマンエスターで成長拡大し、20年以上にわたってMI5によって利用されてきた。

LIFGは、リビアで「強硬なイスラム国家」を目指すアルカイダに触発されたグローバルなイスラム主義過激主義運動に属するテロリスト組織として、英国では法的な保護の埒外に置かれてきた。

「動かぬ証拠」は、テレサ・メイが国家安全保障相であったときに、LIFGのジハディストがヨーロッパ中を自由に旅行できて、最初は、リイビヤのムアンマル・カダフィを排除する闘争に、次にシリアのアルカイダと関係するグループに参加するといった、「闘い」に従事するよう仕向けられていたということだ。

昨年、FBIは、アベディを「テロリスト監視リスト」に載せ、MI5に彼のグループが英国の「政治ターゲット」を探していると警告をしたと報じられている。なぜ彼は拘束されず、彼の周辺のネットワークは計画を阻止されずに5月22日の惨劇を起すことになったのか。

こうした疑問が湧くのも、5月22日の攻撃に引き続く単独犯という説がFBIのリークによって葬られたからだ。結果として、このリークによるパニック状態の激しい憤りは、ロンドンからワシントンとドナルド・トランプの弁解に向けられた。

マンチェスターの残虐行為は、英国外交政策が、過激なイスラムとの打算による同盟──とくに、ワッハーブ派あるいはサラフィズムとして知られる者たちであり、その主要な保護者であり資金提供者は、英国最大の武器輸出国、サウジアラビアである──であることを暴露するというやっかいな問題をもたらした。

こうした帝国の密接な関係は第二次世界大戦と初期のエジプトのムスリム同胞団の時代にまで遡る。英国の政策の目的は、汎アラブ主義の阻止であった。近代世俗国家として発展しつつあるアラブ諸国が西側帝国から自立して自らの資源への支配を確保しようとするのを阻止することにあった。強欲なイスラエルの建国には、この西側帝国の目論見を促進する意図があった。汎アラブ主義は以来押し潰され、今では西側の目標は、分割統治となった。

『Middle East Eye』によれば、2011年にマンチェスターのLIFGは「マンチェスターボーイズ」として知られていた。執念深くカダフィに反対していた彼らは、リスクの高い存在とみなされ、メンバーは、多くの部族対立のなかでまとまりをもってきたリビアで反カダフィのデモが起きたときには、内務省の統制命令下──自宅監禁──にあった。

突然、彼らへの統制命令が解除された。「私は外出を許され、何の尋問もなかった」とあるLIFGのメンバーは語っている。MI5は彼らにパスポ-トを返し、ヒースローの対テロ警察は、彼らを飛行機に搭乗させてよいと言われた。

アフリカ最大の石油埋蔵量を支配するカダフィ政権の転覆は、長年にわたってワシントンとロンドンが計画してきたものだ。フランスの諜報機関によれば、1990年代にLIFGは、英国諜報機関の後ろ盾を得て、何度かカダフィ暗殺を企てた。2001年3月に、フランス、英国、米国は「人道的介入」のチャンスを得てリビアを攻撃する。彼らは、国連の「民間人保護」決議に乗じて、NATO軍として参加した。

昨年9月、下院外交問題特別委員会の調査は、当時のデヴィッド・キャメロン首相は一連の「誤った仮定」にたってカダフィに対する戦争に(英国を)引き込み、「北フリカのイスラム国の勃興を招いた」と結論した。下院委員会は、リビアでキャメロンがやってきたことを「最低のショーだ」といったバラク・オバマの表現を「的確」として引用した。

事実、オバマは、好戦的な国務長官、ヒラリー・クリントンにせきたてられたこの「最低のショー」の主役であり、メディアは、カダフィが自国民に対する「ジェノサイド」を計画していると糾弾した。「我々は知っている…もし我々があと1日待てば、(ノースカロライナ州の)シャーロットほどの規模のベンガジは大量殺戮を被り、これが地域全体に拡がり、世界の良心にとっての汚点となるだろう」

この大量殺戮の物語は、リビアの政府勢力に追いつめられたサラフィストの民兵がでっちあげたものだった。彼らはロイターに「ルワンダで我々が目撃したような大虐殺がありうるかもしれない」と語った。下院委員会は「カダフィがベンガジでの民間人の大量殺戮を命じたかもしれないという仮定は、入手可能な証拠からは証明されなかった」と報じている。

英国、フランスそして米国は効果的に、近代国家リビアを破壊した。NATOは、自身の記録によれば、延べ9700回出撃し、その三分の一以上が民間人をターゲットにしたものだった。そのなかには破砕爆弾(fragmentation bomb)や劣化ウラン弾を搭載したミサイルが含まれる。

ミスラータやスルテの諸都市は絨毯爆撃を受けた。ユニセフは、なかでも10歳以下の子どもたちが多く殺されていると報じている。

イスラム国を「生み出し」ただけでなく──ISISはすでに2003年にブレアとブッシュ政権が侵攻したあとでイラクの崩壊のなかで根づいていた──、この本質的な中世主義者は、拠点として北アフリカ全体を確保している。その攻撃は、ヨーロッパへの難民流出に拍車をかけた。

キャメロンはトリポリで「解放者」として賞賛された。あるいは彼はそのようにイメージされた。群衆は彼を歓迎したが、そのなかには、密かに送りこまれ、英国の特殊部隊で訓練され、そしてイスラム国に触発された「マンチェスターボーイズ」のような者たちもいた。

米国と英国にとってカダフィの真の犯罪は、彼の因習を打破する独立と米帝国の柱たるオイルダラーを廃棄しようという計画にあった。彼は金に裏打ちされたアフリカ共通通貨を引き受け、全アフリカ銀行を設立し、貴重な資源を持つ貧困国の経済連合を促進することを大胆にも計画していた。こうしたことが実現できたかどうかは別にしても、こうした考え方そのものが、アフリカに介入し、軍事「パートナーシップ」という賄賂を渡してアフリカ諸国政府と組もうとしていた米国にとっては許しがたいことであった。

堕ちた独裁者は、命からがら逃亡する。英国空軍機が彼の車列を攻撃しシルテの瓦礫のなかで彼は、報道では「反逆者」とされるファナティックな人物によってナイフで陵辱された。

300億ドルのリビアの兵器廠の武器は略奪され、「反逆者」たちは南進し、町や村でテロ行為を行なった。砂漠を越えてマリのサブサハラ地域へ、彼らはこの国の脆弱な安定性を破壊した。かねてから熱心だったフランスは、かつての植民地に「アルカイダと闘うために」、あるいは自らがその誕生に加担した脅威と闘うために、空軍と地上部隊を送った。

2011年10月14日に、オバマ大統領はウガンダ内戦に参戦するために特殊部隊を送るとアナウンスした。続く数ヶ月、米国の戦闘部隊が南スーダン、コンゴ、中央アフリカ共和国に派兵された。リビアが確保されるにともなって、米国のアフリカ大陸への侵略が進行しているのだが、ほとんど報じられることもない。

ロンドンでは、世界最大の武器見本市のひとつが英国政府によって計画された。会場の宣伝文句は「リビアでのデモンストレーション効果」だった。ロンドン商工会議所は「中東:英国防衛・安全保障企業の巨大市場」という内覧会を開いた。主催はスコットランド銀行。リビアの民間人をターゲットとして広範囲に用いられたクラスター爆弾の主要な投資家だ。銀行の武器関連の宣伝文句には「英国防衛・安全保障企業にとってのまたとないチャンス」の賛辞がある。

先月テレサ・メイ首相はサウジ・アラビアを訪問し、英国の武器を20億ポンド以上も売り込んできた。サウジ・アラビアは英国からの武器でイエメンを攻撃してきた。リヤドの指令室を拠点に、英国の軍事アドバイザーが空爆を支援している。この爆撃で10000人以上の民間人が殺されているのだ。そして今はっきりと飢餓の兆候がみられている。イエメンの子どもたちは予防可能な病気で命を落しているとユニセフは述べている。

5月22日のマンチェスターの惨劇は、こうした遠い場所で、その多くが英国が支援して起こされている無慈悲な国家暴力の結果である。この遠い国での被害者の命と名前はほとんど私たちにはわかっていない。

ちょうど2005年7月7日に起きたロンドン地下鉄爆破の時と同じように、こうした真実に耳を傾けるような努力が必要だ。時折一般の人たちのなかで沈黙を破る人がいる。陳腐な常套句を並べたてているCNNのカメラクルーとレポーターの前に歩み寄ったイーストロンドンの住民は「イラクだ!我々がイラクを侵略したんだ、それでどうなると思ってたんだ、言ってごらん」と詰め寄った。

私が参加した大きなメディアの会議では、重要なゲストの多くは、彼らがプロフェッショナルとして、思いきって公然とは言えないことの代償であるかのように「イラク」と「ブレア」を口にした。

しかし、彼がイラクに侵略する前に、ブレアは統合情報委員会から「イラクへのなんらかの軍事行動の結果として、アルカイダからの脅威が増加する。…他のイスラム主義のテロリストのグループや個人からの世界規模での脅威が顕著に増加するだろう」と警告されていた。

ブレアが、彼やジョージ.W.ブッシュの血まみれの「最低のショー」の暴力を英国に痛感させたように、テレサ・メイに支えられて、キャメロンのリビア犯罪は、その後の流血事件や、特に5月22日のマンチェスターアリーナの事件でさらに劣悪な様相がはっきりしてきた。

単独犯説が再浮上しても驚くにはあたらない。サルマン・アベディは一人で行動した。彼はただのゴロツキで、それ以上ではなかった。昨週米国によってリークされた広範なネットワークは消滅した。しかし疑問は残されたままだ。

なぜアベディは自由にヨーロッパからリビアへ移動し、彼が関与した恐るべき犯罪のたった数日前にマンチェスターに戻ることができたのか。テレサ・メイは、FBIが政治的なターゲットへの攻撃を英国で計画しているイスラムの細胞の一部として彼を追跡しているとMI5から言われていたのだろうか。

現在の選挙キャンペーンで、労働党党首、ジェレミー・コービンが「敗北した対テロ戦争」に慎重に言及した。彼は分っているように、これは対テロ戦争ではなく、征服と服従を求める戦争なのだ。パレスチナ、アフガニズタン、イラク、リビア、シリア。イランが次のターゲットだと言われている。もうとつのマンチェスターが起きる前に、誰がこのことを指摘する勇気を持つのだろうか?