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ニコンサロン「慰安婦」写真展中止事件から5年。写真家
「慰安婦」問題、表現の自由、企業の社会的責任、「炎
事件・裁判の経過を記録し、判決の意義を多角的に論じ
この機会に、事件と裁判を振り返りながら、安倍第2次
2017年9月9日(土)14:30~17:30(開場
在日本韓国YMCA地下1階 スペースY
参加費:1,000円(学生・非正規500円)
<シンポジウム> 全体司会:岡本有佳(編集者)
◆コーディネーター:李春熙(弁護士)
◆パネラー:
東澤靖 (弁護士/明治学院大学教授)●「表現の自由」を実現す
池田恵理子(女たちの戦争と平和資料館(wam)館長
小倉利丸(富山県立近代美術館検閲訴訟元原告)●検閲
◇特別発言:安世鴻(写真家/ニコン事件裁判元原告)
*目でみる<表現の不自由>スライド上映
◆ 問合せ:jjteninfo@gmail.com
○主催:教えてニコンさん! ニコン「慰安婦」写真展中止事件裁判支援の会&実行委員
○協賛:御茶の水書房
【近刊案内】——-当日会場では特別価格で販売
『誰が〈表現の自由〉を殺すのか
——ニコンサロン「慰安婦」写真展中止事件裁判の記録』
安世鴻、李春熙、岡本有佳 責任編集 2017年9月刊
A5判280頁予 カラー8頁 御茶の水書房
岩波ブックレット973
『《自粛社会》をのりこえる
——「慰安婦」写真展中止事件と「表現の自由」』
安世鴻・李春熙・岡本有佳編
A5判80頁 本体620円
ーーーー関連企画ーーーー
安世鴻 最新写真展開催決定!
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重重:消せない痕跡Ⅱ写真展
―アジアの日本軍性奴隷被害女性たち
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■9/30(土)〜10/
■セッションハウス 2階ガーデン(東京・神楽坂)
■入場無料■平日:作家によるギャラリートーク(無料)
■9/31,10/
写真展賛同カンパのお願い:郵便振替00830-5-1
加入者名:重重プロジェクト
問合せ:ianfu@juju-project.net
当日配布のエッセイです。
検閲と沈黙に抗うために
小倉利丸
安世鴻の元「慰安婦」被害者たちのポートレイトが検閲され黙殺されたのは、日本の企業のギャラリーで、日本人が選考委員をつとめ、日本で開催されたという条件抜きには一切の説明ができない。だから問題は「日本」という検閲の装置なのだと思う。
●写真史に必須の検閲の歴史
写真の歴史と検閲は切り離せない。にもかかわらず、日本の写真史が検閲の問題に注目して多くのページを割くことはあまりない。戦前戦中の写真検閲についても、どこかしら「仕方のないこと」とし、『FRONTO』や『NIPPON』などのグラフ誌のデザインの斬新さに関心を向け、写真家の戦争への加担や責任はあいまいにされる。伊奈信男、木村伊兵衛、土門拳など戦時中に戦争報道に深く関与した人々がそのまま戦後日本の写真界の中核を構成してきたことが果してどれほど批判的に検証されてきただろうか。しかも、日本統治下の台湾や朝鮮でどのような検閲がなされたのかに関心を寄せる写真史や回想録の類いは少ない。
このことに私は、崔仁辰『韓国写真史 1631─1945』を読んで気づかされた。崔は日帝統治下の韓国の写真検閲に多くのページを割き、検閲の背景や検閲に抵抗する写真家やジャーナリストにも言及する。崔が韓国についての述べたことが、台湾や旧「満州」など日本の植民地支配、軍事侵略の国・地域についても徹底した検証が必要だと思う。検閲を支えた日本の自民族中心主義とナショナリズムは、その相貌は変わりはしたものの、地続きで、今現在まで生きている。安世鴻の作品展中止の出来事はその端的な表れともいえる。
●「日本民族の運命」と「抵抗のリアリズム」の間
戦後の写真表現のなかで、広島・長崎の被ばく体験や原爆被害の記録への写真界の関心に、戦後ヒューマニズムの原点と同時にその限界もまた端的に見い出せる。戦争の被害者としての日本人の視点から構築された平和の表象を表現する出発点に原爆体験があった。この被害への関心から表現者がどこに向うのか、何を自らの悲劇に見出すのか。戦争被害への関心から、日本の戦争責任、植民地支配、戦争犯罪など加害の問題へと視野を拡げ、表現者が戦後日本の支配的な歴史観、価値観を相対化するところに行きつくとは限らない。安世鴻の作品への検閲に、日本の写真界は沈黙することで黙認した。ここに戦後日本の平和意識の限界があると思う。
土門拳は戦後13年たって初めて広島に取材で出向く。これがきっかけで、彼の代表作であり、ドキュメンタリーの傑作ともいわれる『ヒロシマ』が生まれる。彼は、今もなお被爆者が生きることそれ自体と闘う現実に直面し、広島の風化を強い危機感をもって作品にした。
「しかしぼくは、広島へ行って、驚いた。これはいけない、と狼狽した。ぼくなどは「ヒロシマ」を忘れていたというよりは、実ははじめから何も知ってはいなかったのだ。13年後の今日もなお『ヒロシマ』は生きていた。焼夷弾で焼きはらわれた日本の都市という都市が復興したというのに、そして広島の市街も旧に立ちまさって復興したというのに、人間の肉体に刻印された魔性の爪跡は消えずに残っていた。」(『ヒロシマ』)
「広島・長崎の被爆者は、ぼくたち一般国民の、いわば不運な『身がわり』だったのである。ぼくたち一般国民こそ、今、この不幸な犠牲者に対して温かい理解といたわりを報いることによって『連帯感』を実証すべき責任があるはずである」(同上)
土門のこのヒューマニズムは、戦後のドキュメンタリー写真家たちにほぼ共通した理解の根幹をなしてきたものだろう。しかし、土門のヒューマニズムが果してどこまで普遍的な意識に支えられたものといえるのか。
1941年11月、総動員体制のなかで、写真界も組織の再編統合が進み、内閣情報局主導で「日本報道写真協会」が生まれる。土門は協会の常務理事に就任する。そして、12月8日の開戦後に開かれた総会で「カメラを銃としペンとする我々の職能に相共に挺身し、以て大東亜共栄圏確立の大理想達成に殉ぜん」という総会宣言を朗読した。(白山眞理『<報道写真>と戦争』から引用)土門は「カメラを持った憂国の志士」として「報道写真家としての技能を国家へ奉仕せしめんとする」(多川精一『焼け跡のグラフィズム 『FRONT』から『週刊サンニュース』へ』)と述べた。
『ヒロシマ』は土門が、戦後民主主義国家を前提とした「憂国の志士」として取り組んだ作品だったのではないかと思う。68年に「報道写真家としては、今日ただ今の社会的現実に取組むのも、奈良や京都の古典文化や伝統に取組むのも、日本民族の怒り、悲しみ、喜び、大きくいえば民族の運命にかかわる接点を追求する点で、ぼくには同じことに思える」(「デモ取材と古寺巡礼」)と述べたことにこれは端的に現われている。ヒロシマは彼にとって「民族の運命」を感じさせたのである。
彼は結局のところ、ヒロシマの被爆体験を日本人というナショナルな枠組のなかでの共通の被害体験として捉え、「不幸な犠牲者」への「連帯感」を感じる以上のところには行きつくことができなかった。戦争における加害を発見できなかった。それが「日本人」に共感をもって迎えられた原因だと思う。これは土門だけではなかった。大江健三郎もまた「土門拳の『ヒロシマ』が真に日本人の名において、現代日本人の名においてなされた1958年の日本の現実の記録であるとともに戦争の記録である」など「日本人」に繰返し言及しながら、同時に「生きて原爆と戦っている人間を描きだす」「徹底して人間的であり芸術の本質に正面からたちむかう」というように、「日本人」を「人間」に等置した。(大江健三郎「土門拳のヒロシマ』」私はこうした観点に強い違和感を感じざるをえない。
しかし同時に、土門は戦後まもなくの頃「戦争犠牲者から目をそむけている写真家」は「非人間的な背信行為者」(「フォトジェニックということ──或る傷兵の写真について──」)だと厳しく批判した。そして、「絶対非演出」としてのリアリズム写真は「現実をより正しい方向へ振り向けようという抵抗の写真的な発言としてある」(「リアリズム写真とサロン・ピクチュア」)とも語った。
ある意味では、安世鴻は土門の抵抗のリアリズムの正統な継承者であり、安世鴻の展示中止に関与したニコンサロンの関係者たちは、土門の「日本民族の運命」に加担することで非人間的な背信行為者となることを選んだのだ。
引用・参考文献(安世鴻関係の文献を除く)
伊奈信男『伊奈信男写真論集 写真に帰れ』、ニコンサロンブックス、2005
白山眞理 『<報道写真>と戦争1930〜1960』吉川弘文館、2014
白山眞理、小原真史 『戦争と平和─<報道写真>が伝えたかった日本』、平凡社、2015
白山眞理、堀宣雄編『名取洋之介と日本工房』、展覧会図録、毎日新聞社、2006
多川精一『焼け跡のグラフィズム 『FRONT』から『週刊サンニュース』へ』 平凡社新書、2005
崔仁辰『韓国写真史 1631─1945』犬伏雄一監訳、青弓社、2015
土門拳『ヒロシマ』、研文社、1958、『土門拳全集第十巻 ヒロシマ』、小学館、1985
土門拳『写真作法』、ダヴィッド社、1976
土門拳「フォトジェニックということ──或る傷兵の写真について──」、『写真作法』所収。
土門拳「リアリズム写真とサロン・ピクチュア」、『写真作法』所収。
土門拳「デモ取材と古寺巡礼」、『死ぬことと生きること』、築地書館、1974
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