戦争とアナキスト:ウクライナにおける反権威主義の視点


(訳者まえがき)この論文は、アナキストのサイトCrimethIncに掲載された論文。2014年以降のウクライナの民衆運動をアナキストの観点から分析している。商業メディアや国主導のメディアはどこの国であれ、戦争を常に国家と国家の武力行使として捉え、国のなかに存在する多様な異論を無視する。国家の視線は、いつのまにか多様なはずの大衆を「国民」という心情に統合し、自らを国家と同一化して「戦争」を論じるような言論空間を作り出す。ウクライナも例外ではないが、以下の文章にあるように、ウクライナはひとつではない。西側の支配者たちにとって好都合なウクライナ、ロシアの支配者にとって好都合な別のウクライナがあり、それらがメディアを席巻しているが、そのどちらでもないウクライナがある。このどちらでもないウクライナは、まさに、ウクライナという国家と社会システムが抱えてきた矛盾の歴史を体現しており、それ自体が闘争の構造をなしている。スターリン主義とナチズムによる弾圧、そして資本主義化のなかで旧ソ連、東欧圏の反体制運動は、三重の弾圧を経験してきた。この意味でアナキズムが反体制運動に占める格別の位置があると思う。ウクライナのアナキストたちが直面した思想的な試練は、明かな侵略者を前にして、この侵略者とどう対峙するかという問いは、無傷では答えられない問いであることが以下の文章からもわかる。戦うとすれば、ウクライナの腐敗した政府や極右の武装集団との連携は避けられない。他方で、戦わないという選択は、侵略を肯定することであり権力の増殖を許すことでもあり、それ自体もまた権力の否定への道を自ら閉すことになる。彼らが直面した選択肢の問題は、言うまでもなく私たちの選択の問題でもある。日本にいる私自身に即していえば、常備軍を持つことを否定し、武力による解決を放棄しているハズのこの国で、国家間の武力行使の問題に武力をもってこの国の「軍隊」と肩を並べて、この国が「敵」と呼ぶ相手に銃口を向けるという選択肢は。私には「ない」。だからといってウクライナで抵抗する人々にも同じ選択肢をとるべきだということは言えない。私たちが抱えてきた「戦後」の課題、つまり国家を武装解除することを大前提とした社会構築という課題は、私たちの課題であって、彼らとの共通の課題だということはできないからだ。

なお、この論文に対してアナキストの間で批判もある。Fighter Anarchistは、全体として分析に高い評価を与えつつも、いくつかの論点で異論を提起している。ウクライナの社会構造への分析がないこと、たとえば「マイダン後のヴェルホヴナ議会は、ロシア語の使用を制限することを目的とした法案No.5670-dによって、「ロシア世界」の代表者に切り札を与えてしまった」こと、クリミアが新自由主義政策のなかで貧困問題を抱えてきたことなどを指摘している。アナキスト運動が与えた影響の評価にも異論が述べられている。こうした異論があることをCrimethInc自身が紹介していることは議論をオープンに受けいれる姿勢として好感がもてる。(小倉利丸)

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この記事は、ウクライナの社会運動参加者が、過去9年間にそこで繰り広げられた困難な出来事をどのように見ているかという文脈を与えるために、ウクライナのアナキストによって書かれたものである。私たちは、世界中の人々にとって、彼らが以下に述べる出来事と、それらの展開がもたらす疑問と取り組むことが重要であると信じている。この文章は、私たちがこれまでに発表したウクライナロシアの他の視点との関連で読まれるべきものだ。


この文章は、ウクライナのアクティブな反権威主義活動家数名によって構成された。我々は一つの組織を代表しているわけではないが、この文章を書きつつ起こりうる戦争に備えるために集まったのである。

私たちの他に、文章に書かれている出来事の参加者、私たちの主張の正確さをチェックしたジャーナリスト、ロシア、ベラルーシ、ヨーロッパのアナーキストなど10人以上によってこの文章は編集された。できるだけ客観的な文章を書くために、多くの修正や説明や論点の明確化をおこなった。

戦争が勃発した場合、反権威主義運動が生き残れるかどうかはわからないが、私たちはそうなるように努力する。とりあえず、この文章は、私たちが蓄積してきた経験をネット上に残すための試みである。


現在、世界ではロシアとウクライナの戦争の可能性が盛んに議論されている。まずロシアとウクライナの戦争は、2014年から続いていることを明らかにしておく必要がある。

しかし、その前に。

キエフのマイダン抗議運動

2013年、ウクライナでは、当時のヴィクトル・ヤヌコヴィッチ大統領がEUとの協定に署名しないことに不満を持つ学生デモ隊に対するベルクトBerkut(警察の特殊部隊)の暴行をきっかけに、大規模な抗議活動が始まった。この暴行事件は、社会の多くの層に行動を喚起するものとなった。ヤヌコビッチ大統領が一線を越えたことは、誰の目にも明らかだった。この抗議運動は、最終的に大統領の逃亡につながった。

ウクライナでは、これらの出来事は “尊厳の革命 “と呼ばれている。ロシア政府は、ナチスのクーデター、アメリカ国務省のプロジェクトなどと表現している。デモ参加者自体は、シンボルを掲げた極右活動家、ヨーロッパの価値観やヨーロッパ統合について語るリベラルな指導者、政府に反対して出かけた普通のウクライナ人、少数の左翼など、雑多な人々であった。デモ参加者の間では反オリガルヒ的な感情が支配的であり、ヤヌコヴィッチがその任期中に側近とともに大企業を独占しようとしたため、それを快く思わないオリガルヒがデモに資金を提供した。つまり、他のオリガルヒにとっては、今回のデモは自分たちのビジネスを守るチャンスだったのである。また、中堅・中小企業の代表の多くは、ヤヌコビッチ一派が彼らに金を要求して自由に商売をすることを許さなかったために、抗議行動に参加した。一般市民は、警察の著しい腐敗や恣意的な行為に不満を抱いていた。親ロシア派の政治家であることを理由にヤヌコビッチに反対していたナショナリストたちが、再び幅をきかせるようになった。ベラルーシやロシアの国外居住者は、ヤヌコヴィッチがベラルーシやロシアの独裁者アレクサンドル・ルカシェンコやウラジミール・プーチンの友人であると認識して抗議行動に参加した。

マイダン集会のビデオをご覧になった方は、非常に暴力的であることに気づいたかもしれない。デモ隊は引き揚げる場所がないため、最後まで闘うしかなかった。ベルクトはスタングレネード[音や光で一時的に混乱させることで戦闘不可能にする装備]にスクリューナットを巻いていて、爆発した後に破片が目に入ったりして、負傷者が続出した。終盤、治安部隊は軍事兵器を使用し、106人のデモ隊を殺害した。

これに対し、デモ隊はDIYで手榴弾や爆発物を作り、マイダンに銃器を持ち込んだ。ちょっとした分業体制で火炎瓶が製造された。

2014年のマイダン抗議デモでは、当局は傭兵(titushkas)を使い、彼らに武器を与え、調整し、組織的な忠誠勢力として使おうとした。彼らとの棍棒やハンマー、ナイフを使った戦いがあった。

マイダンは「EUとNATOが操作したもお」であるという意見に反して、欧州統合支持者は平和的な抗議行動を呼びかけ、戦闘的な抗議者たちを手先だと揶揄していた。EUと米国は、政府ビルの占拠を批判した。もちろん、「親欧米」の勢力や組織も抗議行動に参加したが、彼らが抗議行動全体をコントロールしたわけではない。極右を含むさまざまな政治勢力が積極的に運動に介入し、自分たちのアジェンダを指示しようとした。彼らはすぐにとるべきスタンスを確認し、最初の戦闘分遣隊を作り、皆に参加を呼びかけ、訓練と指導を行った結果として、組織的な勢力になった。

しかし、どの勢力も絶対的な支配力を持つことはなかった。主な傾向は、腐敗し不人気なヤヌコビッチ政権に向けられた自然発生的な抗議動員であったということだ。おそらくマイダンは、数ある “盗まれた革命 “のひとつに分類できるだろう。何万人もの一般市民の犠牲と努力は、権力と経済を支配する道を歩む一握りの政治家によって簒奪されたのである。

2014年の抗議活動におけるアナーキストの役割

ウクライナのアナキストには長い歴史があるにもかかわらず、スターリンの時代には、アナキストと何らかの形でつながった者はみな弾圧され、運動は消滅し、結果として革命的経験の伝達も途絶えてしまった。1980年代に歴史家たちの努力によって運動は回復し始め、2000年代にはサブカルチャーや反ファシズムの発展によって大きな盛り上がりを見せた。しかし、2014年当時、それはまだ深刻な歴史的課題に対応できる状態ではなかった。

デモが始まる前、アナーキストは個人の活動家であったり、小さなグループに散らばっていたりしていた。運動が組織化され、革命的であるべきだと主張する者はほとんどいなかった。このような出来事に備えていたよく知られている組織としては、マフノ・アナルコ・シンジカリスト革命同盟(RCAS of Makhno)があったが、暴動の始まりに、参加者が新しい状況に対する戦略を立てられなかったため、解散してしまった。

マイダンの出来事は、特殊部隊が家に押し入り、決定的な行動をとらなければならないのに、自分の武器はパンクの歌詞、菜食主義、100年前の本、せいぜい街頭での反ファシズムや地域の社会紛争に参加した経験だけ、といった状況のようなものだった。その結果、人々は何が起こっているのかを理解しようとするなかで、多くの混乱が生じた。

当時は、状況に対する統一的なビジョンを形成することは不可能だった。多くのアナーキストたちが、ナチスとバリケードの同じ側に立つことを望まず、抗議行動を支持しない判断をしたのは、極右勢力の存在による。このことは、デモに参加することを決めた人たちをファシズムと非難する人たちもいて、運動に多くの論争をもたらした。

デモに参加したアナーキストたちは、警察の蛮行やヤヌコビッチ自身や彼の親ロシア的な立場に対して不満を抱いていた。しかし、彼らは本質的にアウトサイダーの範疇にあったため、デモに大きな影響を与えることはできなかった。

結局、アナーキストたちはマイダン革命に個人または小グループで、主にボランティア/非軍事的な取り組みに参加した。しばらくして、彼らは協力して自分たちの「百人組」(60〜100人の戦闘グループ)を作ることにした。しかし、分遣隊detachment の登録(マイダンでは必須の手続き)の際、多勢に無勢のアナキストたちは、武器を持った極右の参加者たちによって排除された。アナキストたちは存続し続けはしたものの、もはや大規模な組織的集団を作ろうとはしなかった。

マイダンで殺された者の中には、皮肉にもその死後にウクライナの英雄とされたアナーキスト、セルゲイ・ケムスキーがいた。彼は、治安部隊との対立が激しくなった局面で、狙撃手に撃たれたのである。抗議デモの最中、セルゲイは「聞こえるか、マイダン」と題する抗議文を出し、その中で、直接民主主義と社会変革を強調しながら、革命を発展させる可能な方法を論じている。この文章は、こちらで英語版をご覧いただけます。

アナーキスト部隊の集結。

戦争の始まり:クリミア併合

ロシアとの武力衝突は、8年前の2014年2月26日から27日の夜、クリミア議会議事堂と閣僚理事会が正体不明の武装集団に占拠されたことから始まった。彼らはロシアの武器、制服、装備を使っていたが、ロシア軍のシンボルは持っていなかった。プーチンはこの作戦にロシア軍が参加した事実を認めなかったが、後にドキュメンタリー宣伝映画「クリミア:祖国への道」の中で自ら認めている。

2014年3月9日、クリミアでウクライナ軍部隊を阻止する記章のない制服を着た武装した男たち。

ここで、ヤヌコビッチの時代、ウクライナ軍の状態が劣悪だったことを理解する必要がある。クリミアで22万人のロシア正規軍が活動していることを知っていながら、ウクライナ臨時政府はあえてそれに立ち向かおうとはしなかった。

占領後、多くの住民が今日まで続く弾圧に直面した。弾圧された人々の中に私たちの同志もまた含まれている。最も有名なケースをいくつか簡単に振り返ることができる。アナキストのアレクサンドル・コルチェンコは、民主化運動家のオレグ・センソフとともに逮捕され、2014年5月16日にロシアに移送されたが、5年後、囚人交換の結果、釈放された。アナキストのアレクセイ・シェスタコビッチは拷問を受け、頭にビニール袋を被せられて窒息状態にされ、殴られ、報復の脅しを受けたが、何とか逃亡した。アナキストのエフゲニー・カラカシェフは2018年にVkontakte(ソーシャルネットワーク)への再投稿で逮捕され、現在も拘束されている。

囚人交換後のアナキストのアレクサンドル・コルチェンコ。

偽情報(ディスインフォメーション)

ロシア国境に近いロシア語圏の都市では、親ロシア派の集会が開催された。参加者はNATOや過激なナショナリスト、ロシア語圏の人々を標的にした弾圧を恐れていた。ソ連崩壊後、ウクライナ、ロシア、ベラルーシの多くの家庭には家族の絆があったが、マイダンの出来事は個人的な関係に深刻な裂け目を生じさせることになった。キエフの外にいてロシアのテレビを見ていた人たちは、キエフがナチスに占領され、そこでロシア語を話す人たちが粛清されていると思い込んでいた。

ロシアは、次のようなメッセージングでプロパガンダを展開した。「キエフからドネツクにナチスがやってきて、ロシア語圏の住民を粛清しようとしている(キエフもロシア語圏の都市のひとつだが)。偽情報の言説では、プロパガンダ担当者は極右の写真を使い、あらゆる種類のフェイクニュースを流した。戦争行為で最も悪名高いでっちあげび次にようなものがある。戦車にくくりつけられて道路を引きずられたとされる3歳の男の子の磔刑というものだ。ロシアでは、この話は連邦政府のチャンネルで放送され、インターネット上で広まった。

ロシアのチャンネルによるフェイクニュース。3歳児の処刑とはりつけを見たという女性がその様子を語る。

2014年、私たちの意見では、偽情報は武力紛争を発生させる上で重要な役割を果たた。ドネツクとルガンスクの一部の住民は、自分たちが殺されることを恐れ、武器を取り、プーチンの軍隊を呼び寄せた。

ウクライナ東部の武力紛争

「戦争の引き金が引かれた」、ロシア連邦保安庁(FSB、KGBの後継組織)の大佐であるイゴール・ガーキンの言葉だ。ロシア帝国主義の支持者であるガーキンは、親ロシア派の抗議を過激化させることを決意した。彼はロシア人の武装集団と国境を越え、スラビャンスクの内務省の建物を占拠して武器を手に入れた。(2014年4月12日)親ロシア派の治安部隊はガーキンと合流するようになった。ガーキンの武装集団に関する情報が明らかになると、ウクライナは反テロ作戦を発表した。

軍隊の能力が低いことをがわかると、ウクライナ社会の一部は、国家主権を守ろうと決意し、大規模な志願運動を組織した。ある程度軍事的能力のある者が教官となり、あるいは義勇軍の大隊を結成した。また、人道的なボランティアとして正規軍や義勇軍に参加する人々もいた。彼らは、武器、食料、弾薬、燃料、輸送、民間車のレンタルなどのために資金を調達した。義勇大隊の参加者は、しばしば国軍の兵士よりも優れた武装と装備を持っていた。これらの分遣隊は、かなりのレベルの連帯と自己組織化を示し、実際に領土防衛という国家機能を代替し、(当時は装備が貧弱だった)軍隊が敵にうまく対抗できるようにしたのである。

親ロシア派が支配する地域は急速に縮小し始めた。そこにロシア正規軍が介入してきた。

時系列で3つのポイントを挙げることができる。

1.ウクライナ軍は、武器やボランティア、軍事専門家がロシアからやってくることを認識した。そこで、2014年7月12日、ウクライナ・ロシア国境での作戦を開始した。しかし、軍事行軍中にウクライナ軍はロシアの大砲の攻撃を受け、作戦は失敗に終わった。武装勢力は大きな損失を被った。
2.ウクライナ軍はドネツクを占領しようとした。進軍中、イロヴァイスク付近でロシア正規軍に包囲された。義勇軍の大隊に所属していた私たちの知人も捕虜になった。彼らはロシア軍を目の当たりにしたのだ。3カ月後、捕虜交換で帰国することができた。
3.ウクライナ軍は、大きな鉄道の分岐点があるデバルツェフ市を制圧した。これにより、ドネツクとルガンスクを結ぶ直通道路は寸断された。長期停戦に向けたポロシェンカ(当時のウクライナ大統領)とプーチンの交渉の前夜、ロシア軍の支援を受けた部隊によりウクライナ陣地が攻撃された。ウクライナ軍は再び包囲され、大きな損害を被った。

2014年、イロヴァイスクで行動を行う義勇軍の戦闘員たち。

当面は(2022年2月現在)、停戦と条件付きの「平和と静寂」の秩序に合意し、一貫して違反があるものの維持されている。毎月数人が死亡している。

ロシアは、正規のロシア軍の存在と、ウクライナ当局が管理していない地域への武器の供給を否定している。捕虜になったロシア軍は、訓練のために警戒態勢を敷き、目的地に到着して初めて、自分たちがウクライナの戦争の真っ只中にいることに気づいたと主張している。国境を越える前に、彼らはクリミアで同僚たちがしたように、ロシア軍のシンボルを取り除いた。ロシアでジャーナリストたちが戦死した兵士の墓地を見つけたが、墓石に刻まれた碑文には2014年としか書かれておらず、彼らの死に関する情報はすべて不明だ。

未承認共和国の支持者たち

マイダンの反対派の思想的基盤も多様であった。主な統一思想は、警察への暴力への不満と、キエフでの暴動への反対であった。ロシアの文化的な物語や映画、音楽で育った人たちは、ロシア語の破壊を恐れていた。ソ連の支持者や第二次世界大戦の勝利の賛美者たちは、ウクライナはロシアと同盟を結ぶべきだと考え、過激なナショナリストの台頭を不満に思っていた。ロシア帝国の支持者たちは、マイダンの抗議行動をロシア帝国の領土に対する脅威と受け止めた。これらの同盟国の考えは、ソ連とロシア帝国の国旗、そして第二次世界大戦の勝利のシンボルであるセント・ジョージ・リボンを示すこの写真で説明することができるだろう。彼らを権威主義的な保守派、旧秩序の支持者として描くことができる。

ソ連、ロシア帝国、そして第二次世界大戦の勝利のシンボルであるセント・ジョージ・リボンの国旗。

親ロシア派は、ロシアに同調する警察、企業家、政治家、軍人、フェイクニュースに怯える一般市民、ロシア愛国主義者や各種君主主義者など様々な極右思想をもつ個人、親ロシア帝国主義者、タスクフォースグループ「ルシッチRusich」、PMC(民間軍事会社)グループ「ワグナーWagner」、悪名高いネオナチのアレクセイ・ミルチャコフAlexei Milchakov、最近亡くなった、排外主義のロシアナショナリストのメディアプロジェクト「スプートニクとポグロム」の創設者のエゴール・プロスビルニンEgor Prosvirnin、その他多くの人たちで構成されていた。タスクフォースグループ「ルシッチRusich」、PMC(民間軍事会社)グループ「ワグナーWagner」、悪名高いネオナチのアレクセイ・ミルチャコフAlexei Milchakov、最近亡くなった、排外主義のロシアナショナリズロのメディアプロジェクト「スプートニックとポグロム」の創設者のエゴール・プロスビルニンEgor Prosvirnin、その他多くの人たちが含まれている。また、ソ連と第二次世界大戦の勝利を称える権威主義的な左翼もいた。

ウクライナにおける極右勢力の台頭

説明したように、右翼は戦闘部隊を組織し、ベルクトと物理的に対決する準備を整えることで、マイダンの間に共感を得ることに成功した。彼らは武力を持つことで、独立性を維持し、他の者たちは、彼らを考慮に入れることを余儀なくされた。彼らが鉤十字、狼の鉤、ケルト十字、SSのロゴといったあからさまなファシズムのシンボルを使用していたにもかかわらず、ヤヌコヴィッチ政権の勢力と戦う必要性から、多くのウクライナ人が彼らとの協力を呼びかけ、彼らの信用を落とすことは困難だった。

マイダン後、右翼は親ロシア勢力の集会を積極的に弾圧した。軍事作戦が始まると、彼らは義勇軍を結成し始めた。最も有名なのは「アゾフ」大隊だ。当初は70人の戦闘員で構成されていたが、今では装甲車、大砲、戦車中隊、そしてNATOの基準に沿った軍学校の独立プロジェクトを持つ800人の連隊になっている。アゾフ大隊は、ウクライナ軍で最も戦闘力の高い部隊の一つである。このほか、ウクライナ義勇軍「右派セクターRight Sector」部隊やウクライナ・ナショナリスト組織the Organization of Ukrainian Nationalistsなどのファシスト軍団もあったが、あまり広く知られてはいない。

その結果、ウクライナの右翼はロシアのメディアで悪評を買った。しかし、ウクライナの多くの人々は、ロシアで嫌われているものをウクライナの闘争のシンボルだと考えていた。例えば、ロシアでは主にナチスの協力者として知られるナショナリスト、ステパン・バンデラStepan Banderaの名前は、デモ参加者が嘲笑の対象として積極的に使用した。また、ネットでユダヤ教・メソニック陰謀論の支持者に挑発的なメッセージを送るために、ユダヤ教・バンデラ派Judeo-Banderansを名乗る者もいた。

やがて、このような荒らしが極右の活動を活発化させるようになった。右翼は公然とナチスのシンボルを身につけ、マイダンの一般支持者は自分たちはロシアの赤ん坊を食べるバンデラ主義者だと主張し、そのような趣旨の情報をネットで拡散した。極右が主流派になり、テレビ番組や他の企業メディアのプラットフォームに招かれ、そこで愛国者、ナショナリズトとして紹介された。マイダンのリベラルな支持者たちは、ナチスはロシアのメディアが作り出したデマだと信じて、彼らの味方をした。2014年から2016年にかけては、ナチスであろうと、アナキストであろうと、組織犯罪シンジケートの幹部であろうと、公約を何一つ実行しない政治家であろうと、戦う覚悟のある者は誰でも受け入れられたのである。

鉤十字とNATO旗を持つ極右の戦闘員たち。アゾフ大隊はNATOに対して否定的な態度をとっている。現在、米国はアゾフに武器を譲渡していない。

極右台頭の理由は、危機的状況においてよりよく組織化され、他の反乱軍に効果的な戦闘方法を提案することができたからである。ベラルーシでもアナキストが同様のことを提供し、大衆の共感を得ることができたが、ウクライナでの極右のような大きな規模にはならなかった。

停戦が始まり、過激な戦闘員の必要性が低下した2017年までに、SBU(ウクライナ治安局)と州政府は「反システム」あるいは右翼運動の展開方法について独自の視点を持つオレクサンドル・ムジチコ、オレグ・ムジチル、ヤロスラフ・バビッチなどを投獄したり無力化したりして、右翼運動を引き込んだ。

現在も右翼は大きな運動ではあるが、その人気は小さいといってよく、指導者も保安庁や警察、政治家と関係があり、本当に独立した政治勢力とは言い難い。民主主義陣営では、極右の問題についての議論が頻繁に行われるようになり、人々は懸念を黙って否定するのではなく、自分たちが扱っているシンボルや組織について理解を深めている。

戦時中のアナキストと反ファシストの活動

軍事作戦の開始とともに、親ウクライナ派といわゆるDNR/LNR(「ドネツク人民共和国」「ルハンスク人民共和国」)支持派に分かれるようになった。

戦争の最初の数カ月間、パンク・シーンには「戦争にノーと言え」という感情が広がっていたが、それは長くは続かなかった。親ウクライナ派と親ロシア派を分析してみよう。

親ウクライナ派

大規模な組織がなかったため、最初のアナキストと反ファシストの志願者は、個人としての戦士、軍医、ボランティアとして個々に戦場に赴いた。彼らは自分たちの部隊を作ろうとしたが、知識も資源も不足していたため、この試みは失敗に終わった。中には、アゾフ大隊やOUN(ウクライナ・ナショナリスト組織)に参加する者もいた。理由はありふれたもので、最もアクセスしやすい部隊に入隊したのだ。その結果、右翼的な政治に転向する者もいた。

[編集部注:これらの出来事の詳細は分からないし、著者たちが全面的に戦争の渦中にいる間は確認することも難しいが、ファシストが組織する民兵に参加した反ファシストあるいは「アナキスト」とされる者は、そもそも本当のアナキストではなかったのは明らかであるが、私たちは、このパラグラフをそのまま維持する。それは、批判的であること、そして出来事の渦中にいる人々の声を中心に据えることが重要であると考えるからである。それについての私たち[CrimethInc]の考えは、ここで読むことができる] 。

デスナの右翼セクターの基地で訓練を受ける反ファシストたち。この写真には、武力紛争に参加したモスクワの反ファシスト2人が含まれていることに注目したい。

戦闘に参加しなかった人たちは、東部で負傷した人たちのリハビリや、前線近くにある幼稚園に防空壕を建設するための資金集めを行った。また、ハリコフには「自治Autonomy」という名のスクワットがあり、アナーキストの社会文化センターとして開放されていた。当時、彼らは難民の救済に力を注いでいた。彼らは住宅と恒久的な本当に自由な市場を提供し、新しく到着した人たちの相談に乗り、資源を案内し、教育活動も行いました。さらに、センターは理論的な議論の場となった。残念ながら、2018年、このプロジェクトは消滅した。

これらの行動はすべて、特定の人たちやグループの個人的な取り組みであり、一つの戦略の枠組みの中で起きたものではない。

この時期の最も重要な現象のひとつは、かつて大規模だった過激なナショナリスト組織「Autonomnyi Opir」(自治的抵抗)ダッた。彼らは2012年に左傾化し始め、2014年にはメンバー個人が “アナキスト “と自称するほど左傾化していた。彼らは自分たちのナショナリズムを「自由」のための闘争とし、サパティスタ運動とクルド人をロールモデルとして、ロシアのナショナリズムに対抗するものとしている。ウクライナ社会の他のプロジェクトと比較して、彼らは最も親密な同盟者と見なされたので、アナキストたちのなかには彼らに協力する者たちもいたが、また別の者たちはこの協力や組織自体を批判した。AOのメンバーはまた、志願大隊に積極的に参加し、軍人の間で「反帝国主義」の思想を発展させようとした。また、女性の戦争参加の権利も擁護し、女性隊員も戦闘に参加した。AOは戦闘員や医師を養成する訓練所を支援し、軍隊に志願し、リヴィウでは難民を収容する社会センター「シタデルCitadel」を組織した。

2014年、モスクワ。ロシアの侵略に反対して行進するアナキストたち。

親ロシア派

現代のロシア帝国主義は、ロシアがソ連の後継者であるという認識に基づいている。これは、政治体制においてではなく、領土においてである。プーチン政権は、第二次世界大戦におけるソ連の勝利を、ナチズムに対する思想的な勝利ではなく、ロシアの強さを示すヨーロッパに対する勝利とみなしている。ロシアやロシアが支配力を及ぼしている諸国では、人々が情報にアクセスすることが少ないため、プーチンのプロパガンダマシンは複雑な政治的概念をわざわざ作り出すこともない。そのシナリオは、基本的に次のようなものだ。アメリカとヨーロッパは強いソ連を恐れていた、ロシアはソ連の後継者であり、旧ソ連の全領土はロシアである、ロシアの戦車は[第二次大戦で]ベルリンに入った、だから同じことは「もう一度できる」、ここで誰が一番強いかをNATOに見せつける、ヨーロッパが「腐っている」のは、そこでゲイと移民がすべて手におえないからだ。

2014年、2015年にロシアで大人気だったステッカー。碑文には “We can do it again. “とある。

左翼の間で親ロシアの立場を維持するイデオロギー基盤は、ソ連と第二次世界大戦での勝利の遺産としてだ。ロシアは、キエフの政府がナチスとその軍に掌握されたと主張しているので、マイダンの反対派は自分たちを反ファシズム、反キエフ政権の闘士だと表現したのである。このブランド戦略は、権威主義的な左派-たとえばウクライナの「ボロトバBorotba」組織など-に共感を呼んだ。2014年の最も重要な出来事の際、彼らはまず革命に忠誠的な立場をとり、その後、親ロシア的な立場をとった。オデッサでは、2014年5月2日、彼らの活動家数名が街頭暴動で殺害された。また、ドネツク州やルガンスク州の戦闘にもこのグループが参加し、そこで死亡した者もいる。

“ボロトバ “は、自分たちの動機をファシズムと戦いたいからだと説明した。彼らはヨーロッパの左翼に、”ドネツク人民共和国 “と “ルハンスク人民共和国 “に連帯するよう促した。ウラジスラフ・スルコフVladislav Surkov(プーチンの政治戦略家)の電子メールがハッキングされて、ボロトバのメンバーがスルコフから資金提供を受け、スルコフの部下に監督されていたことが明らかにされた。

ロシアの権威主義的な共産主義者が離脱した共和国を受け入れたのも、同様の理由からである。

マイダンの極右支持者の存在も、非政治的な反ファシストたちに “DNR “や “LNR “を支持する動機を与えた。ここでも、彼らの一部はドネツク州やルガンスク州での戦闘に参加し、そこで命を落とした者もいた。

ウクライナの反ファシストの中には、「非政治的 」な反ファシスト、つまり 「祖父たちがそれと戦ったから」ファシズムに対して否定的な態度をとるというサブカルチャーに属する人たちがいた。彼らのファシズムに対する理解は抽象的で、彼ら自身、政治的に支離滅裂で、性差別主義で同性愛嫌悪でロシアへの愛国者、などということがよくあった。

いわゆる共和国を支持するという考えは、ヨーロッパの左翼の間で広く支持されるようになった。イタリアのロックバンド「バンダ・バソッティBanda Bassotti」やドイツの政党「ディ・リンケDie Linke」がその代表的な支持者である。バンダ・バソッティは資金集めのほか、「ノボロシアNovorossia」にも遠征した。欧州議会の一員であるディ・リンケは、あらゆる方法で親ロシア派のシナリオを支持し、親ロシア派過激派とのビデオ会議を手配し、クリミアや未承認共和国へも足を運んだ。ディ・リンケの若手メンバーやローザ・ルクセンブルク財団(ディ・リンケ党財団)は、こうした立場は参加者全員が共有しているわけではなく、サハラ・ワーゲンクネヒトSahra Wagenknechtやセヴィム・ダーデレンSevim Dağdelenといった党の最も著名なメンバーが流布させていると主張している。

2014年、ドネツクでのバンダ・バソッティ。

親ロシアの立場は、アナキストの間で人気を得ることはなかった。個人の発言では、アナキストのシンボルのタトゥーを入れたアメリカ出身の総合格闘技選手、ジェフ・モンソンJeff Monsonの立場が最も目立っていた。彼は以前は自分をアナキストだと思っていたが、ロシアでは公然と与党「統一ロシア」のために働き、ロシア下院の代議士を務めている。

親ロシア「左派」陣営を要約すると、ロシア特務機関の仕事と思想的無能力の結末が見えてくる。クリミア占領後、ロシア連邦保安庁の職員が地元の反ファシストやアナキストに接触し、活動の継続を許可するが、今後はクリミアがロシアの一部であるべきだという考えを扇動に盛り込むようにと話を持ちかけた。ウクライナには、反ファシストを標榜しながらも、本質的には親ロシア的な立場を表明する小規模な情報・活動グループがあり、ロシアのために活動しているのではないかと疑う人も少なくない。ウクライナではその影響力は小さいが、メンバーは “内部告発者 “としてロシアのプロパガンダに奉仕している。

また、ロシア大使館やイリヤ・キヴァIlya Kivaのような親ロシア派の国会議員から「協力」の申し出があることもある。彼らは、アゾフ大隊のようなナチスへの否定的な態度を利用しようとし、立場を変えれば金を出すといった提案する。今のところ、リタ・ボンダールRita Bondarだけがこのような方法で金を受け取ったことを公然と認めている。彼女はかつて左翼やアナキズムのメディアに書いていたが、金の必要性から、ロシアの扇動家ドミトリー・キゼレフDmitry Kiselevに属するメディアのプラットフォームにペンネームで書いたりした。

ロシア自身、アナキズム運動の排除と、反ファシズムのサブカルチャーからアナキズトを追い出す権威主義的共産主義者の台頭を目の当たりにしている。最近で最も示唆的なのは、2021年に “ソ連兵 “を追悼する反ファシスト大会が開催されたことだ。


ロシアとの本格的な戦争の危機はあるのか?アナーキストの立場

10年前、ヨーロッパで本格的な戦争が起こるという考えは、狂気の沙汰に思えた。21世紀の世俗的なヨーロッパ諸国は、「ヒューマニズム」を誇示し、彼らの犯罪を隠そうとしてきた。軍事行動を起こすにしても、ヨーロッパから遠く離れた場所で行う。しかし、ロシアといえば、クリミア占領とその後の偽の住民投票、ドンバス戦争、MH17便の墜落事故などを目撃している。ウクライナは、国の建物だけでなく、学校や幼稚園の中まで、ハッカー攻撃や爆破予告を常に経験している。

2020年のベラルーシでは、ルカシェンカが投票率80%という結果で選挙の勝利を宣言した。ベラルーシでの蜂起は、ベラルーシのプロパガンダ担当者のストライキにまで発展した。しかし、ロシア連邦保安庁の飛行機の到着後、状況は一変し、ベラルーシ政府は抗議デモを暴力的に制圧することに成功した。

カザフスタンでも同様のシナリオが展開されたが、そこではCSTO(集団安全保障条約機構)協力の一環として、ロシア、ベラルーシ、アルメニア、キルギスの正規軍が体制を支援し反乱鎮圧のために投入された。

ロシアの特務機関は、EUとの国境で紛争を起こすため、シリアからベラルーシに難民を引き入れた。また、ロシア連邦保安庁の中に、すでにおなじみの化学兵器 “ノビチョク “を使って政治的暗殺を行うグループがあったことも明らかになった。スクリパリ一家やナヴァルヌイ以外にも、ロシア国内の政治家を殺害している。プーチン政権は、あらゆる非難に対して、「我々はやってない、おまえたちは嘘をついている」と言う。一方、プーチン自身は半年前に 「ロシア人とウクライナ人は一つの国家であり、共にあるべきだ 」と主張する文章を書いている。ウラジスラフ・スルコフ Vladislav Surkov(ロシアの国家政策を構築する政治戦略家で、いわゆるDNRやLNRの傀儡政権とつながっている)は、「帝国は拡大されなければならない、さもなければ滅びる 」と宣言する文章を発表している。過去2年間、ロシア、ベラルーシ、カザフスタンでは、抗議運動は残酷に弾圧され、独立系メディアや反対派メディアは破壊されている。ロシアの活動については、こちらで詳しく紹介しているので読むことをお勧めします。

総合的に判断して、本格的な戦争が起こる可能性は高く、昨年よりも今年の方がやや高い。しかし、鋭いアナリストでさえ、いつ戦争が始まるかを正確に予測することは不可能であろう。ロシアで革命が起これば、この地域の緊張は緩和されるかもしれないが、先に書いたように、ロシアでの抗議運動は封じ込められている。

ウクライナ、ベラルーシ、ロシアのアナキストたちは、ほとんどがウクライナの独立を直接または暗黙のうちに支持している。なぜなら、国家的ヒステリー、腐敗、多くのナチスがいるとしても、ロシアやその支配下にある国々に比べれば、ウクライナは自由の島のように見えるからである。大統領の交代制、名目以上の権力を持つ議会、平和的な集会の権利など、ポストソビエト地域特有の現象が残っており、社会からの注目度も加味して、裁判所が公言通りに機能することもある。これがロシアの状況より望ましいと言うのは、何も新しいことを言っているわけではない。バクーニンが書いたように、「最も不完全な共和国は、最も賢明な君主制よりも千倍も優れていると固く信じている」のである。

ウクライナ国内には多くの問題があるが、これらの問題はロシアの介入なしに解決する可能性の方が高い。

万が一、ロシア軍が侵攻してきた場合、戦う価値があるのだろうか?私たちは、その答えは「イエス」だと考えている。ウクライナのアナキストが現時点で考えている選択肢は、ウクライナ軍への入隊、領土防衛への従事、党派活動、ボランティア活動などだ。

ウクライナは今、ロシア帝国主義との闘いの最前線にある。ロシアは、ヨーロッパの民主主義を破壊する長期的な計画を持っている。私たちは、ヨーロッパにおけるこの危険性にまだほとんど注意が払われていないことを知っている。しかし、著名な政治家、極右組織、権威主義的共産主義者の発言を時系列で追っていけば、ヨーロッパにはすでに大規模なスパイ網が存在することに気づくだろう。たとえば、退任後にロシアの石油会社の役職に就く高官もいる(ゲルハルト・シュレーダーGerhard Schröder、フランソワ・フィヨンFrançois Fillon)。

私たちは、「戦争にノーと言おう」とか「帝国の戦争」というスローガンは、効果がなく、ポピュリスト的だと考えている。アナキスト運動はこのプロセスに何の影響も及ぼさないので、そのような声明は全く何の影響も与えない。

私たちの立場は、逃げ出したくない、人質になりたくない、戦わずして殺されたくないという事実に基づいている。アフガニスタンを見れば、「戦争反対」の意味がわかる。タリバンが進出すると、人々は一斉に逃げ出し、空港の混乱で死に、残った人々は粛清される。これはクリミアで起こっていることを描いてもおり、ウクライナの他の地域でロシアが侵攻した後に何が起こるかが想像できる。

2021年、アフガニスタン。タリバンから逃れるためにNATOの飛行機に乗り込もうとする人々。

NATOに対する態度については、この文章の執筆者は2つの立場に分かれている。この状況に対して、肯定的なアプローチをとる者もいる。ウクライナが自力でロシアに対抗できないことは明らかである。大規模なボランティア活動を考慮しても、近代的な技術や武器が必要である。NATOは別として、ウクライナにはそれを助けてくれる同盟国がない。

ここで、シリアのクルディスタンの話を思い出すことができる。現地の人々は、ISISに対抗するためにNATOに協力することを余儀なくされた。NATOからの支援は、西側諸国が新たな利益を得たり、プーチン大統領と妥協点を見出したりすれば、あっという間に消えてしまうことを私たちはよく理解している。現在でも、クルド自治区the Self-Administrationは、代替案がほとんどないことを理解しており、アサド政権に協力せざるを得ない。

ロシアの侵攻の可能性があると、ウクライナの民衆はモスクワとの戦いにおいて、ソーシャルメディア上ではなく、現実の世界で味方を探さざるを得なくなる。アナキストは、プーチン政権の侵略に効果的に対応するための十分な資源をウクライナや他の地域に持っていない。したがって、NATOからの支援を受け入れることを考えなければならない。

もう一つの立場は、この執筆グループの他のメンバーも支持していることだが、NATOもEUも、ウクライナでの影響力を強めることで、現在の「野生の資本主義」の体制を固め、社会革命の可能性をさらに低くしてしまうというものだ。NATOのリーダーであるアメリカを旗艦とするグローバル資本主義のシステムにおいて、ウクライナは、安価な労働力と資源の供給者という、謙虚な辺境という位置づけにある。したがって、ウクライナ社会は、あらゆる帝国主義からの独立の必要性を認識することが重要だ。国の防衛力という文脈では、NATOの技術や正規軍への支援の重要性ではなく、草の根ゲリラ抵抗向う社会の潜在力に重点を置くべきだ。

私たちは、この戦争を主にプーチンとその支配下にある政権に対するものと考えている。独裁者のもとで暮らしたくないというありふれた動機に加え、この地域で最も活動的で独立心が強く、反抗的なウクライナ社会に可能性を見出している。過去30年にわたる人々の長い抵抗の歴史が、その確かな証拠だ。したがって、ウクライナ社会は、あらゆる帝国主義からの独立の必要性を認識することが重要である。国の防衛力という文脈では、NATOの技術や正規軍への支援の重要性ではなく、草の根ゲリラ抵抗の社会の潜在力に重点を置くべきである。

私たちは、この戦争を主にプーチンとその支配下にある政権に対するものと考えている。独裁者のもとで暮らしたくないというありふれた動機に加え、この地域で最も活動的で独立心が強く、反抗的なウクライナ社会に可能性を見出しているのである。過去30年にわたる人々の長い抵抗の歴史が、その確かな証拠だ。このことは、直接民主制の概念がここに肥沃な土壌を持つという希望を私たちに与えてくれる。

ウクライナにおけるアナキストの現状と新たな課題

マイダンと戦争中のアウトサイダーという立場は、運動における士気低下効果があった。ロシアのプロパガンダが 「反ファシズム 」という言葉を独占したため、アウトリーチが阻害された。親ロシア派過激派の中にソ連のシンボルがあったため、「共産主義」という言葉に対する態度は極めて否定的で、「アナルココミュニズム」という組み合わせさえ否定的に受け止められた。親ウクライナの極右勢力に反対するという宣言は、一般庶民の目にはアナキストに疑いの影を投げかけた。ウルトラ右翼は、集会などでシンボルを掲げなければアナキストや反ファシストを攻撃しないという暗黙の了解があった。右翼は多くの武器を手にしていた。この状況はフラストレーションのようなものを生み出し、警察がうまく機能していないため、結果を出さずに誰かが簡単に殺される可能性があった。例えば、2015年には親ロシア派の活動家であるオレス・ブジナOles Buzinaが殺された。

こうしたことが、アナーキストたちがより真剣に問題に取り組むよう促した。

2016年から過激な地下活動が発展し始め、過激な行動に関するニュースが出始めた。火炎瓶だけに限定された旧来のものとは対照的に、武器の買い方や武器貯蔵庫の設置方法を説明する過激なアナキストの資料が登場した。

アナキストの世界では、合法的な武器を持つことが許容されるようになった。銃器を使用するアナキストの訓練キャンプのビデオが出回るようになった。

こうした変化の反響は、ロシアやベラルーシにも及んだ。ロシアでは、FSBが合法的な武器を持ち、エアソフトを練習していたアナキスト・グループのネットワークを一掃した。逮捕者は、テロ行為を自白させるために電気拷問を受け、6年から18年の刑に処された。ベラルーシでは、2020年の抗議デモの際、「黒旗」という名のアナキストの反乱グループが、ベラルーシとウクライナの国境を越えようとして拘束されたことがある。彼らは銃と手榴弾を持っていた。Igor Olinevichの証言によると、彼はキエフで武器を購入したとのことだ。

アナキストの反乱集団 “黒旗”

アナキストの経済的課題についての時代遅れのアプローチも変わった。以前は大多数が「被抑圧者に近い」低賃金の仕事に就いていたとすれば、今は多くの人が高給の仕事、多くはIT部門に就こうとしている。

街頭の反ファシスト団体も活動を再開し、ナチスの襲撃に際して報復行動をとっている。アンティファの戦士たちによる「No Surrender」という名の模擬戦闘競技を開催したり、キエフのアンティファ集団の誕生を描いたドキュメンタリー「Hoods」(英語字幕あり)をリリースしたりと、さまざまな活動を行っている。。

ウクライナにおける反ファシズムは重要な戦線である。なぜなら、地元の多数の極右活動家に加えて、ロシアから多くの悪名高いナチス(セルゲイ・コロトキフSergei Korotkikhやアレクセイ・レフキンAlexei Levkinなど)、ヨーロッパから(デニス「ホワイトレックス」カプースチンDenis “White Rex” Kapustinなど)、さらにはアメリカから(ロバート・ランドRobert Rando)移住してきたのである。アナキストたちは、極右の活動を調査してきた。

様々な種類の活動家グループ(古典的アナキスト、クィア・アナキスト、アナルコ・フェミニスト、フード・ノット・ボムズ、エコ・イニシアチブなど)や、小さな情報プラットフォームが存在する。最近では、テレグラムの@uantifaに、英語での出版物を複製した政治的な反ファシスト資料が登場した。

現在、グループ間の緊張関係は徐々に滑らかになりつつあり、最近では共同行動や社会的紛争への共同参加も多く見られるようになった。中でも、ベラルーシのアナーキスト、アレクセイ・ボレンコフAleksey Bolenkov の国外追放に反対するキャンペーン(彼はウクライナの特殊部隊との裁判に勝ち、ウクライナに残ることができた)や、キエフのある地区(ポディルPodil)を警察の襲撃や極右の攻撃から守ることなどは大きな出来事だった。

私たちはまだ社会全体にほとんど影響を及ぼしていない。これは、組織やアナキストの構造の必要性という考えそのものが、長い間無視されたり否定されたりしてきたことが大きな原因だ。(ネストル・マフノも回顧録の中で、アナーキストの敗北後、この欠点を訴えている)。アナーキストのグループは、SBU[ウクライナ治安維持局]や極右勢力によって、あっという間に破滅させられてしまった。

今、私たちは停滞を脱し、発展しつつあり、それゆえ、新たな弾圧やSBUによる運動の支配を狙う新たな試みが予想される。

現段階では、私たちの役割は、民主主義陣営の中で最もラディカルなアプローチと見解にあると言える。リベラル派が、警察や極右による攻撃があった場合に警察に苦情を申し立てることを好むとすれば、アナーキストは、同様の問題に苦しむ他のグループと協力し、攻撃される可能性がある場合には、施設やイベントの防衛に乗り出すことを提案する。

アナキストは今、共通の関心に基づき、社会の中で草の根的な横のつながりを作り、コミュニティが自衛を含む自分たちの必要に対応できるようにしようとしている。これは、組織や代表者、あるいは警察を中心に団結することが提案されることの多い、ウクライナの一般的な政治的実践とは大きく異なるものである。組織や代表者はしばしば賄賂を受け取り、その周りに集まった人々は騙されたままである。例えば、警察はLGBTのイベントを擁護しても、その活動家が警察の横暴に反対する暴動に参加すれば警察は怒るだろう。実は、だからこそ、私たちのアイデアに可能性があるのだが、戦争が起きてしまえば、また再び武力紛争に参加できる能力が主題になってしまうだろう。

出典:https://ja.crimethinc.com/2022/02/15/war-and-anarchists-anti-authoritarian-perspectives-in-ukraine

下訳にDeepLを用いました。