(訳者前書き)以下は、東欧の批判的左翼による優れた論評を掲載してきたLEFTEASTに掲載された論文の翻訳。著者のキルンは、ヨーロッパ世界が突然ウクライナ難民への門戸を開放する政策をとったことの背景にある「ヨーロッパ」と非ヨーロッパの間に引かれている構造的な排除に内在する戦争の問題を的確に指摘している。ヨーロッパが繰り返し引き起こしてきた戦争がもたらした難民には門戸を閉ざしているにもかかわらず、なぜウクライナはそうではないのか。ヨーロッパのレイシズムがここには伏在しているという。同時に、左翼が、ナショナリズムの罠に陥ることなく、国境や民族を越えて資本主義批判の原則を立てうるかどうかが試されているとも言う。ロシアにも米英EUにも与しない国際的な連帯を、ウクライナの問題としてだけではなく、欧米もロシアも仕掛けてきたグローバルサウスにおける戦争の問題を視野に入れて新たな階級闘争の理論化が必要だとも指摘している。私がこれまで読んできた論文のなかで共感できるところの多いもののひとつだ。(小倉利丸)
ガル・キルン著
投稿日
2022年3月10日
COVID-19の大流行による長い冬が終わり、初めて垣間見える春の訪れのなかで、新たな流血が目撃されるようになっている。ロシアによるウクライナへの侵攻と戦争が1週間以上続き、国際関係の断絶を否定できない時期が続いていることを私たちは目の当たりにした。地上、サイバースペース、国際空間において、信じられないほど速いスピードで事態が動いている。ウクライナへの侵攻は、NATOや米国政府によって数カ月前から予告されていたにもかかわらず、あらゆる戦争がそうであるように、多くの人々を驚かせた。キプロスや旧ユーゴスラビアでの戦争を除けば、ヨーロッパが戦争を経験したのは1945年以降初めてだと言う人さえいる。より広い視野に立てば、今週は、少数の超大国だけが小国や人々の将来を決定するという、一見すると過去の冷戦―熱戦の帝国主義的パラダイムへの回帰と呼ぶこともできる。このパラダイムは、冷戦のみならず、第一次世界大戦前のヨーロッパの大帝国間のグローバルな競争の時代にも明らかであった。冷戦だけでなく、第一次世界大戦前のヨーロッパ大帝国の世界的な競争時代にも見られたパラダイムである。例えば、プーチンはしばしば新しいヒトラーとして描かれ、彼自身もウクライナ政府を「ナチス化」だと描いている。どちらの同一視も誤りではあるが、1939年と第二次世界大戦の始まりとの類推が強まっていることを示している。むしろ、1914年の第一次世界大戦の勃発の方が、歴史的なアナロジーとしてふさわしい。しかし、戦争が地域的に収まったとしても、1991年以降の旧ユーゴスラビアにおける紛争や、過去20年間のポストソビエトの文脈でロシアの政治・軍事機構が行った一連の戦争を連想させるようになるかもしれない。この戦争は、ロシア的ミールの文明空間としてドゥーギンの新ファシズムの思想を体現している。おそらく、ようやく死につつある歴史的イメージはヨーロッパだけでなく、南半球の一部でも「解放」/「英雄」国家としてのロシアのイメージである。
批判的で唯物論的な分析を主張するならば、歴史を心理学的に分析し、ある人格(ここではプーチン)を病理学的に分析するという、メディアを通じてしばしば繰り返される言葉の綾には反対せざるを得ない。プーチンのイデオロギー装置は、少なくとも外交政策においては、アメリカによる世界支配に反対するという、ますます説得力のない反帝国主義のスタンスを必死になって主張してきたことは注目に値する。シリアは、主要超大国の最初の大きなにらみ合い、つまり代理戦争となった。それ以外ではISILに対する共通の戦いで結束しているにもかかわらず、である。この現在のロシアの「反帝国主義」姿勢は、第二次世界大戦中のソ連に遡り、反植民地闘争によって部分的に担われつつ長いこと議論の的になってきたイデオロギーに基づくものだ。 ソ連は、ファシズムに対する現実的で血なまぐさい闘いに基づいて、自らを国際的な反ファシスト闘争の象徴として宣伝することができた。この遺産は、戦後ヨーロッパの公式の記憶の礎となっていた。しかし、反ファシズムは、反全体主義のイデオロギーと、EUの特殊な記憶政治に取って代わられることになった。反全体主義とは、主に(新たな)ナショナリズムと反共産主義に基づくもので、ロシア(「旧ソ連」)が第一の敵となり、ファシズムの過去はホロコーストの追憶に還元されることになった。この記憶の転換は、今日も西側諸国における反ロシアの立場に影響を与え続けている。
ウクライナ戦争によって、反帝国主義・反ファシスト闘争の継承者として自らを提示するロシアのイデオロギー的な遮蔽(ドネツク地方でこれに言及することは偶然ではない)は、ついに枯れ果てた(願わくば、あまりにも長い間「反西洋」または「反米」の外観をロマンティックに描いてきた左翼も、願わくはそうであってほしい)。はっきりさせておきたいのは、プーチンはいかなる約束も、「より良い世界」のイメージさえも提供していないことである。ロシアでは、間違いなく、反ファシズム、左翼、民主的な反対派をすでに押しつぶし、もし許されるなら、ロシアの外でも同じことをするだろうということだ。左翼の新たな課題の一つは、「愚か者たちの反帝国主義」と呼ばれてきたもので今やついに息切れしてしまったアメリカの覇権主義に反対する権威主義的指導者たちに対する古い左翼のロマン主義を振り払うことである。
今日、私たちはどこに希望の光を指し示すことができるのか、また指し示すべきなのだろうか。この論文のタイトルが示すように、私たちの希望はウクライナやロシア、そしてそれ以外の国々の抑圧された人々に託されるべきものだ。つまり、ロシアや他の場所での戦争に反対する意志と希望を持っている人々、今日ウクライナで命をかけて戦う人々、自分自身を守る人々、戦場から逃げてくる人々との連帯ネットワークを組織するボランティア、そして戦争によるエスニシティの武器化にもかかわらず、社会変革と平和のプロジェクトに深く献身しているすべての人々である。
しかし、このような希望を明確にするためには、この特別な戦争を始めたのが誰であるかを明確にする必要がある。私は、この批判的な左翼の立場が、地政学的にアメリカの覇権主義に加担する新しいヨーロッパに関する主流のリベラルと保守のコンセンサスに吸収される必要はないと主張したい(『New Left Review』のWolfgang Streeckの論文を参照されたい)。左翼は、迫り来る環境と社会の破局がますます顕著になる世界において、反戦の遺産とその将来の地平を省みる必要がある。このような風潮は、デフォルトで恐怖と不安を中心に動員される。恐怖、不安、絶望は、人間の自然な反応や原動力ではなく、数十年にわたる新自由主義的改革と2年間のパンデミックの後、大きく不安定化した社会構造が有する徴候だ。この絶望の高まりが、ディストピアの地平線、戦争への明確で短絡的な道筋を提供している。今や、世界中の多くの人々にとって、大規模な世界大戦が(あらゆる)紛争に対するあたりまえの答えであるようにさえ思えてきた。NATOとEUの加盟国が最近発表したヨーロッパの再軍事化には、戦争のラッパが強く鳴り響いている。ドイツの現政権は、2022年に1000億ユーロ(ロシアの3倍)というこれまでで最も野心的な軍事予算を提案し、この点で先導的な役割を担っている。このように軍需産業と軍に現金を投入することで、ドイツは今後数年間、軍事的攻勢をかける勢力に変貌していくだろう。そして、より多くの武器への要求が、石油産業や軍需産業の大喝采を招きつつも、軍事化は、より大きな安定をもたらすことも戦争を防ぐことも決してないというかつての常識を拭い去っている。
では、今日および将来の寡頭政治的、地政学的戦争にどう対処すればよいのだろうか。手短に言えば、ロシア軍がこの戦争を直ちに停止し、いわゆる超大国がひとつのテーブルに着いて、ウクライナの将来について議論することである。その一方で、より長い回答の一部ではあるが、非軍事化の未来のための立場を明確にすることがこれまで以上に必要である。これは、人種やネーションの線引きではなく、むしろ階級的認識と反帝国主義であり、今再び非同盟である。全世界の指導者、特にEUの軍国主義の高まりを応援するのではなく、非軍国主義化と軍拡競争の終結を応援すべきなのは確かであろう。この戦争と将来の戦争の終結を考えるには、平和のパラダイムを理論的、政治的に考え直す必要がある。バリバールがかつて書いたように、西洋の政治哲学全体が戦争によって深く刻み込まれてきたとすれば、これを平和のパラダイムへと方向転換するときが来たのである。軍事ブロックや超大国を超えた積極的中立の政治を推進し、非同盟運動や反帝国主義闘争の遺産を再考することが、今すぐできる具体的な措置であろう。
最後に、公然と人種差別的、民族主義的な政策を押し付けることによって状況を武器化し、ヨーロッパの現実にとって危険が高まっている2つの警告のサインを指摘することによって、結論としたい。この2つの警告は、「白い」西欧文明空間を優先させ、ある生命が他の生命よりも重要であると繰り返す道徳の二重基準を呼び起こす二つの憂慮すべき傾向を示している。
第一に、EUが単純に、突然、難民を受け入れているのを見るのは悲劇的である。公然と保守的な政治家たちは、この変化を「自然なこと」として受け入れ、現在のウクライナからの難民は同じ「文化的」「文明的」な場所から来ているのだと述べる。しかし、ウクライナ以外の場所から来た難民は全く異なる扱いを被りつづけている。シェンゲンの国境では、武装した沿岸警備隊、有刺鉄線、警棒、拷問などで出迎え、また、2022年以前、一部のヨーロッパ政府は、公然と参戦した地域(特にアフガニスタン)からの人々に対して、反難民・反移民の風潮があったことは注目すべきだ。神聖なEUにやってくる人々は、疑わしい、我々の文化に対する潜在的な脅威とみなされ、ある人々にはイスラム過激派やテロリストとさえ映った。反移民、反難民の政策やレトリックは、EUをはるかに過激で保守的な空間にし、ヨーロッパ内から難民がやってきたらヨーロッパのオルバンやヤンシャがみなあっという間に難民推進派になり、国境を開放し、戦争で荒廃したインフラに資金を提供することを認めたのだ。言うまでもなく、連帯は、自分たちの「Blut und Boden」文明分化にとってより都合のよい、ある「タイプ」の難民だけに留保されるものではない。だから、現場でも議会でも、左翼にとっては、今こそ難民や移民をもっと受け入れるアプローチを推し進め、イエメンやソマリア、アフガニスタン、シリアからの人々にも、今ウクライナからの人々に与えられているのと同じ援助を与え、そこでも戦争を止めるために同じだけの労力を発揮する時なのである。
第二に、今回の制裁は、ロシアの産業界や一部のオリガルヒまで対象として、急ピッチで実施されたことである。しかし、私たちは公然と検閲する時代に入り、敵との関連や遺産からあらゆる空間を浄化/純化することを目的とするキャンセルカルチャー2.0に突入している。しかし、この敵がどのように定義されているかは重要な問題である。パスポートを理由に誰かを排除することを目的とした制裁がさらに強化されれば、これは悪影響を及ぼし、おそらく我々の社会の軍事化と不安定化を長引かせることになるのは周知の事実である。戦争を止めるというよりも、このようなキャンセルや制裁は現在、プーチンの権威主義を強化し、「ロシア」の統一と自己破壊に手を貸し、それまで暗黙あるいは公然と彼を批判してきた人々の多くにマイナスの影響を及ぼす。「私たちの側」「私たちに反対する側」の人たちの間のどこで線を引くのか(一部の文化施設では、チャイコフスキーやドストエフスキーなど、ロシアの芸術家の演劇やコンサートをレパートリーから外すことさえしている)。これは、ファシスト思想家カール・シュミットが精緻に描いた、友/敵の人種的論理である。私たちは、すべての寡頭政治家、そして「自由世界」のすべての指導者に対しても、階級意識と反帝国の立場を実践しつつ彼らの戦争と占領に反対して階級の次元で染めあげるような基準を課す準備ができているのだろうか。彼らの戦争犯罪のリスト増えつづけ、終わりがない。今こそ、上述したような平等な倫理を課すのか、それとも単に、このヘゲモン/帝国権力に沿って従っていくのかを決める時ではないか。後者の場合、将来の戦争の再生産は間違いなく起きる。前者の場合、私たちは非軍事化の地平に基づく世界のビジョンを明示するチャンスを得る。
ロシア当局が主導するこの恐ろしい戦争とそれがもたらすであろう影響に照らして、怒り、不安、恐怖、さらには絶望を感じるのは普通のことだ。同時に、批判的な左翼は、道徳的で人種化された自由主義者や保守主義者のコンセンサスに基づいてヨーロッパを統一しようとする安易な努力と歩調を合わせるべきではない。戦争はしばしばイデオロギー的言説をヘゲモニー化し、右傾化させる。厳密な国家/人種化された枠組みの強化にこの領域を委ねることには意味がない。私たちは、抑圧された人々との連帯に参加し、反戦キャンペーンを組織し、国旗を越えて互いに支え合う方法を見出す必要がある。未来の平和のために本当に組織化するためには、非軍事化をエコロジーや社会正義の問題と結びつけることが必要なのだ。
リュブリャナ大学の研究員で、ユーゴスラビア崩壊後の移行期に関する研究プロジェクトを主導。また、国際研究グループPartisan Resistances(グルノーブル大学)の一員でもあり、スロベニアでは左派(Levica)党員である。
下訳にDeepLを用いました。