学術会議と憲法あるいは学問の自由について

以前このブログに書いた学術会議への批判に対して、いくつか批判をいただいた。批判のひとつひとつについて逐一答えるというよりも、前回のブログで書けなかったことを書くことで、たぶん私の答えになると思う。

(1)学術会議と憲法の学問の自由について

菅による学術会議のメンバー任命拒否が、憲法の学問の自由の侵害だという主張がある。しかし、まず学術会議という組織は憲法の学問の自由とどのような関係にあるのかをみるべきだろう。学術会議は、憲法の学問の自由の権利を擁護し、この自由の枠組みに対する政府による介入から学問の自由を防衛するような役割を担うものとなっているのだろうか。

そもそも学問の自由とは何か、について憲法では最小限のことしか語っていない。この最小限の規定しかされていないことが実は自由にとって本質的に重要な意味をもつ。学問の自由は憲法23条に独立した条文として掲げられている。

第23条 学問の自由は、これを保障する。

いわゆる「国民の権利」の諸条文、12条、13条、22条、29条はいずれも「公共の福祉に反しない限り」など「公共」の制約が明記されているが、23条は19条、20条、21条とともに、この限定がない。「国民の権利」に関する条文は、意図的に「公共」という制約を課した条文と、この制約を課していない条文とにはっきり分れている。

23条に「公共の福祉に反しない限り」といった制約がないということを積極的な意義としてとらえる必要がある。このシンプルな条文のシンプルさは非常に重要だ。憲法学者や政治学者の議論は別にして、この国の為政者たちが「公共」を国益と同義とする現実は特殊なことではなく資本主義社会の権力のあり方一般にみいだされる傾向である。この国益=「公共」の支配的な用法を前提にして言えば、学問の自由や21条の集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由が、「公共」という制約のない条文になっているという意味は、国益=「公共」に反することがあってもよい、ということが積極的に含意されているとみなければならないだろう。そうでなければ、そもそも「公共」という文言を意図的に外した意義が失なわれる。とすれば、問題は、どのように「公共」から逸脱すべきなのかということになるが、言うまでもなく、国家が規定する「公共」に反しつつも、そのほかの憲法が保障する自由の権利と抵触すべきではなく、より積極的に言えば、これら自由の権利を拡張するような性質のものとして、学問の自由は権利として保障されるべきだ、ということでなければならないだろう。ヘイトスピーチやレイシストが言論の自由などをもちだしたり、あるいは学問の自由を口実に軍事安全保障や自由を抑圧する監視技術の研究を行う自由の主張は、自由の本来の意味には含まれない。個人としての尊重と、人種、信条、性別、社会的身分又は門地、政治的、経済的又は社会的関係において、差別を肯定しない社会的平等としての自由のための学問の自由であって、だからこそ、自由と深く関わる領域で制度や組織を置くことは自由の防衛になるとは必ずしもいえないのであって、むしろ、個々の研究者が組織や制度に依存することなく、政府が支配的なイデオロギーとして掲げる「公共」に抗う権利を行使できることこそが学問の自由にとって重要な意味をもつものだと言わなければならない。

同時に、自由という概念と、憲法すらそのなかに含まれる統治の規範や制度は、どのようなものであれ自由を制約する、ということも忘れられがちだ。絶対自由というものがありうるとすれば、一切の制度や規範が存在しない状態でなければ可能とはいえないが、こうした意味での絶対自由は、人間が社会を構成せざるをえない以上、少なくとも私の想像できる範囲では、実現不可能だ。制度や規範は人間の集団にとって不可避である。しかし、そうだとして、自由との関係でいえることがあるとすると、最大限の自由を確保するためには、規範や制度は少い方がいい、ということになる。資本主義社会では、新自由主義を規制緩和だから規範や制度を削減する「自由主義」的な発想だと見なすが、これは間違っている。新自由主義は国家の制度を市場の制度に置き換える立場であって、制度や規範の縛りが「減る」わけではなく、国家の代りに市場が人々の自由を縛る、自由を縛る縛り方が変るだけのことだ。

さて学術会議だが、学術会議もひとつの制度であり、上の原則を当てはめれば、存在するより存在しない方が自由の幅は拡がる、ということになる。しかし、本当に存在しない方が自由の幅を拡げることになるのだろうか?このことを検証するためには、学術会議のルールと学術会議がやってきたことを検証しなければならないだろう。学術会議が権利として憲法が保障する自由の権利を拡げる役割を果してきたのだろうか。前に書いたように、少なくとも、私自身の利害に関することでいえば、学術会議は、私の教育と学問の自由とはあいいれない立場をとった「大学教育の分野別質保証のための 教育課程編成上の参照基準」(以下参照基準と書く)を文科省に提出したという点だけでも、私個人にとっては学問の自由を制約する組織だと言わざるをえない。

(2) 学術会議は学者の「国会」ではない

私が参照基準問題を重視するのは、単に、私個人の問題というわけではないことは前にも書いたが、そこに書かなかったことを補足したい。参照基準が決定されて文科省に提出されるプロセスそのものに問題があったと思うのだ。参照基準は全ての大学教育に利害関係のある人々に関わる問題である。にもかかわらず、私の知る限りでは、参照基準の決定にこうした利害関係者の合意をとるという手続きがとられたことはない。

大学教育の利害関係者とは、大学で教育を担当する常勤、非常勤を問わず、すべての教員、研究者、職員を意味するだけでなく、あえてネオリベラリスト風に言えば「教育サービス」の受益者でもある学生もまた重要な利害関係者であることは言うまでもない。大学教育のカリキュラムはこうした人々全てに関わる問題であるにも関わらず、圧倒的多数の教員と全ての学生がこの参照基準の議論に関与しておらず、合意形成の枠組のなかにもいなかった。

「朝日新聞」10月1日では

「日本学術会議は、人文・社会科学や生命科学、理工など国内約87万人の科学者を代表し、科学政策について政府に提言したり、科学の啓発活動をしたりするために1949年に設立された。「学者の国会」とも言われる。」

というふうに学術会議の性格を規定している。NHK10月2日の報道も「「学者の国会」日本学術会議 6人の任命求め総理宛に文書提出へ」という見出しだ。しかし、学術会議を国会にたとえることが妥当なような選考方法は、法律にも下位の規則などでにも規定されていない。朝日は87万人というが、このなかには誰が含まれているのか、どのようにして代表を民主的に選考していうのか、といったことを理解して書かれた記事なのか。後に再度言及するが、代表選考にふさわしい選出方法にはなっていないと思う。このように書くと、学術会議を政権の思いのままにしたい菅政権や学術会議批判を繰り返す右派メディアやネトウヨの思う壺だと思う人たちもいるだろうが、わたしはそうは思わない。彼らは文字通りの意味での利害関係者全体による合意形成の民主主義など欲していないからだ。しかし、他方で、文字通りの民主的な手続きをとれば政権に批判的で民主的な研究者が選ばれるとも思わない。大学全体が保守化して企業や政府とのパートナーシップを積極的に受けいれる体質が強くなっているなかで、むしろ逆になる可能性のほうが高いが、そうした政権や保守派に有利な状況であっても官僚のコントロールが難しい民主主義を政権は好まないと思う。こうした問題も含めて、学術会議が文字通りの意味で学問の自由、市民運動や左派の目指す社会の実現に寄与するような団体であるのかどうかという評価を棚上げにして、任命拒否の一点に焦点を絞る運動方針を市民運動の方針とはしてとってほしくないと思う。むしろ、産官学一体化に学術、研究を包摂するための装置となってきた学術会議への批判的な評価をきちんと出すべきだと思う。学術会議の一部には私にとっても共感できる研究もあることを承知している。しかし、こうした「リベラル」な研究が学術会議という枠組みのなかに位置づけられることによって、逆に学術会議がリベラルを装うイデオロギー装置(文化のヘゲモニー装置と言う方が妥当かもしれない)として機能してしまい、リベラルを巻き込みながら、保守的あるいは政権寄りの学術研究政策の正統性を支えてしまうことになっているとも思う。「リベラル」な研究が学術会議のなかになければ実現できないわけでもなく、市民向けの社会教育ができないわけでもない。

常勤の教員ですら、学術会議のガバナンスの民主主義的な関与が不明確と私は思うが、そうであれば非常勤の教員はますます学術会議への関与の回路は閉ざされている。そして学生については学術会議はおろか今に至るまで大学の教育に対して「教育サービス」の受益者としての権利(消費者の権利といってもいい)すら獲得しえていない。教育の基盤を支える職員なしに教育と研究ができるわけもない。大学教育の直接の利害関係者の参加ができていない反面、菅政権が学術会議を批判するときには、民間研究機関などの研究者の参加を促すことが主眼であって、ガバナンスの民主主義的な意思決定には後ろ向きだ。

上述したように、ガバナンスが民主的になろうが、政府からの独立性が担保されようが、自由の本質からすれば、学術会議という組織の存在は自由を狭めるものでしかない。どのように合意形成が民主的に制定されようと、独立の装いのもとで、実際には一人の研究者、教育者としての自由を制約するような活動をせざるをえない限りは、学術会議は自由を制約する組織でしかない、とみなさざるをえない。

(3) 学術会議の独立はどのような選択肢をとっても不可能であり、かつ個々の研究者にとっては不必要でしかない

学術会議法3条に「日本学術会議は、独立して左の職務を行う」とあり、これが学術会議の独立性を法的に定めたものとして、政府の介入を不当あるいは違法とする根拠とみなされているように思う。しかし、個々の研究者、教育者の独立性を権利として保障するものにはなっていない。4条では、政府の諮問、5条では政府への勧告が定められており、これらの条文が「独立」の意味を制約している。独立しつつも政府との関係のなかで仕事をする機関という位置づけになっているのだ。

実は、そもそも学術会議法の前文が問題である。前文は次のようになっている。

「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立つて、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される。」

いいことが書かれていると誤解されそうな文言だが、「科学が文化国家の基礎である」などという文言は受け入れがたい。私の研究も教育も「文化国家の基礎」としての科学という枠組みのなかにはないし、そうあるべきとも思わない。この前文では、科学は、もっぱら文化国家の正統性のために奉仕することが想定されており、このこと自体が、個々の教育者、研究者の自由を縛るものであり、民衆のための科学という観点が皆無だと思う。また、「わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献」するなどという文言は、歴史的にみても、口当たりのよい内実の伴わない文言だとは理解されずに国策に従属する研究者を排出するための口実につかわれてきた、と思う。資本主義の日本が平和復興や人類社会の福祉に貢献できる体制だという前提を置くこと自体に疑問を持つことが学問の自由の基本だと私は思う。前文のような口当たりよく聞こえがいいが国家を中心に据える文言が、個々の研究者、教育者の自由を縛り、国益に従属させるものになってきた思う。

「平和」を否定するのか、と言われそうだが、平和という言葉ほど平和から遠い言葉はないとつくづく思う。「平和維持軍」のような平和と軍がひとつの熟語のなかに共存していたり、核の平和利用としての原発の容認(これが学術会議の伝統的なスタンスだ)とか、人道的介入という名の武力行使とか、現実の戦争や軍事安全保障がいかに平和を乱用してきたか、ということは経験済みではないかと思うのだ。研究者がまず疑問に付すべきなのは、このような紋切り型の「平和」とか「文化」とか「国家」を科学によって正当化しうるかのような言説そのものである。国家が科学によって基礎づけられたことなどあったためしがない。同様に文化も科学によって基礎づけられることなどありえない。国家も文化も、そして「文化国家」なる奇妙な概念も、いずれもが多かれ少なかれイデオロギー装置なしにはその正統性を維持・再生産できないということを考えれば明らかなように、「科学」は不合理で科学的に説明しえない権力の正統性をあたかも論理的に説明しうるかのように偽装するために利用され、その結果として、研究者も教育も国策に利用されてきたし、今もそうだ。このような前文に学術会議がどれほど規定されているのかはまた別の問題であるにしても、こうした理念そのものが学問の自由を縛るものだと思う。

そして前文にある「科学者の総意の下に」という文言が、たぶん今回の任命騒動でも問題にされるべきことだと思う。「総意」の確認手続きがどのように担保されているのか、私には理解できない。参照基準のように教育の内容にまで踏み込むのであれば、その利害当事者をきちんと合意形成に含めるべきだろうし、総意というのであれば、内閣総理大臣の任命以前に科学者の総意を確認する手続きをとるようなルールが存在しなければならないと思う。市民運動は、「総意」に含意されている内実をきちんと原則に沿って確認することから政権の対応を批判してほしいと思う。「総意」問題は組織のガバナンスと民主主義にとっての死活問題で、このことは市民運動が組織の意思決定の民主主義をどれだけ重要な問題とみなしているかの試金石だと思う。ここで右翼や政権に足を掬われることを危惧して沈黙してはいけないと思う。

現行の学術会議が政府機関と位置づけられていることへの批判として、文字通りの独立機関にすべきだ、という意見がある。たとえば東京新聞12月4日は井上科学技術担当大臣の発言を報じている。

「井上信治科学技術担当相は4日の記者会見で、日本学術会議について国からの切り離しを求めたことについて「各国のナショナルアカデミーが独立した形をとっており参考にしてほしい」と述べ、海外の事例を参考に会議側に検討を要望したことを明かした。一方で「日本のナショナルアカデミーとしての機能を維持したい」との会議側の要請については「私も賛成だ」とし、その機能を維持した上で切り離しを模索するよう求めたとも話した。」

私はいかなる意味での独立、切り離し論にも反対だ。いわば民営化のような措置だが、学術会議が民間機関化すれば必ず、学術会議は映倫のような自主規制組織になり、なおかつ国の機関ではないために、人々の権利の及ばない組織になる。独立化によって、ますます一般市民であれ利害関係者であれ、民主主義的なコントロールの及ばないブラックボックスとなるから、容認できない。他方で、現状のような国の機関という位置付けであれば、政府の直接の影響を免れることはほぼ絶望的だと思う。いずれであっても、政府は、教育と研究を支配するための文化的なヘゲモニー装置として学術会議に対する権力作用を維持できるだろう。

自由のためには制度は少ない方がよく、代替の制度も不要だという自由の原則からすれば、学術会議はなくした方がよく、それ以外の選択肢は思いつかない。その結果として大方の研究者や学生が不便であったり自由を侵害されることにはならない。そもそも圧倒的多数の研究者や学生にとっては意思決定に参加できる回路が存在しないのだから。

(4) 学術会議の提言と現実の間の乖離

日本学術会議の意義として引き合いに出されるもののひとつに2017年に出された「軍事的安全保障研究に関する声明」がある。たった1ページの簡素なものだ。冒頭で

「日本学術会議が 1949 年に創設され、1950 年に「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を、また 1967 年には同じ文言を含む「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を発した背景には、科学者コミュニティの戦争協力への反省と、再び同様の事態が生じることへの懸念があった。近年、再び学術と軍事が接近しつつある中、われわれは、大学等の研究機関における軍事的安全保障研究、すなわち、軍事的な手段による国家の安全保障にかかわる研究が、学問の自由及び学術の健全な発展と緊張関係にあることをここに確認し、上記2つの声明を継承する。」

と宣言し、より具体的には防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」への危惧が表明されている。

「防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015 年度発足)では、将来の装備開発につなげるという明確な目的に沿って公募・審査が行われ、外部の専門家でなく同庁内部の職員が研究中の進捗管理を行うなど、政府による研究への介入が著しく、問題が多い。学術の健全な発展という見地から、むしろ必要なのは、科学者の研究の自主性・自律性、研究成果の公開性が尊重される民生分野の研究資金の一層の充実である。」

この学術会議の声明は実際には効果を発揮していないと思う。防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」に対しては今年度120件もの応募があり、21件が採択されている。この制度は「防衛技術にも応用可能な先進的な民生技術、いわゆるデュアル・ユース技術を積極的に活用することが重要」として設置されたものだ。研究の採択審査にも多くの研究者が参加しており、採択された研究がどのような軍事技術への転用が可能なのか部外者には非常にわかりにくい。

学術会議はこの宣言のフォローアップ報告『「軍事的安全保障研究に関する声明」への研究機関・学協会の対応と論点』を今年8月に公表するが、上述のように、実際に応募されているケースがあり、この防衛装備庁の採択審査に協力している研究者が多数いるにもかかわらず、こうした研究に応募した研究者、研究機関に対する有効な歯止めのアクションはとれていないように感じる。学術会議は、宣言の一定程度の効果を評価しているが、果してそういえるのか、120件もの応募が実際にあったことを過少評価していないだろうか。こうした学術会議の動向は学術会議の限界でもあると思う。

学術会議は、高邁な理想を提言に盛り込みつつ実際には、その理想を実現できないどころが実現する積りがあったんだろうか、というケースもある。以下は、もはや「時効」かもしれないような半世紀も昔の話だ。

学術会議には「勧告」という制度がある。ここ10年一度も勧告は出されていない。勧告とは「科学的な事柄について、政府に対して実現を強く勧めるものです」と説明されている。 提言などよりもより強い主張ということだろう。

1969年5月10日に「大学問題について(勧告)」が出される。そのなかに「学生の権利の確認について」という項目があり、「学生に対しては、憲法、教育基本法の保障された権利を認め、さらに大学における学生の地位にかんがみ、一定の方式で大学の運営に参加させるべきである」と明記されている。また「大学問題についての中間報告草案(抜すい)」では、更に踏み込んで「学生は、教職員とともにそれぞれ固有の権利と義務をもって大学を構成するものであり、大学の自治に参加すべきものであろう」と書かれている。学術会議は学生運動の暴力の表面的な現象に拘泥している面もあり、その背景をなしている教育の問題を捉えそこねているところもあるが、この勧告では学生を単なる受け身の存在とはみなさず学問、研究の主体の一翼を担うべきものとした。この点を学術会議もこの国の研究者たちもすっかり忘れてしまっている。そして私も今回、このような出来事がなければ把握できなかったことでもある。現代の大学がいかにおおきく後退してしまっているかを改めて実感させられる。学術会議はこうした勧告を出しながら、それをほぼ完全に反故にしたといえるのではないか。大学の教員の大半がこうした学生、職員の管理運営への参加に否定的だったということだろうし(私自身も学生の大学運営への参加を積極的に主張してこなかった)、このスタンスを学術会議もまた受け入れてきたとしか解釈のしようがない。市民運動が問題にすべきなのは、こうした大学をはじめとする高等教育と学者の「国会」を標榜する学術会議の実態が学問の自由をはじめとする自由の権利に値する制度なのかどうかでなければならないと思う。大学の管理運営問題では、教授会の自治への関心は強いのだが、非常勤の教員や学生、職員も含めた教育、研究に関わる全ての人々の平等な参加の可能性についての議論はほとんどされてきていない。国立大学では人事権は教授会から奪われ、大学経営に外部の理事が参加するが、地域社会の多様性はほとんど反映されず、もっぱら企業、財界の有力者ばかりが経営に影響力を行使できるような制度になってしまっている。半世紀前の問われた問題は、こうした文脈のなかで、社会的平等を基礎とした自由の問題として想起されてよいと思う。

他方で学術会議が着実に成果をあげ、積極的に取り組んでいるように思えるものもある。たとえば以前言及したように、安倍政権が目玉のひとつとして打ち出したSociety5.0には繰り返し肯定的な言及がなされている文書が複数あり、また、市民運動のなかでは重要な課題となっているマイナンバーなどのプライバシー侵害の技術についても批判よりも推進の立場が目立つ。原発についても容認の立場が目立つ。どのようにみても市民運動の方向性とは対立する政権や財界の路線を踏襲するスタンスの提言について、不問に付すべきではないと思う。それぞれの運動の課題との関連のなかで厳しく評価すべきだ。任命拒否反対、全員を任命せよという運動の方針では、とりあえず問題を棚上げにすることになってしまうのでは、と危惧する。本当にこれでいいのだろうか、と思う。

学術・研究の分野は、総じて保守的で政権を支える流れが支配的な存在になっていることを見落してはならない。学問・研究の自由は、こうした支配的な流れに抗して、右翼レイシストの自由の概念の簒奪に抗して、憲法が保障した基本的人権を実現するための自由の領域でなければならないが、こうした立場は明らかに少数になりつつあり、周辺に追いやられざるをえない存在だ。自由を希求するが故に、常勤のポストを得られない多くの研究者がいる。学生も院生も将来の就職を人質にとられて自由な研究ができないだけでなく、そもそもの基本的な意思決定の権利を大学や研究組織のなかで保障されていない。学術会議にこうした原則的な自由の擁護者を期待できない。たとえ全員が任命されようとこれまでの学術会議が果してきた文科省や政府の政策を補完する役割が覆されることなど到底ありえないと思う。

学術会議に市民運動は、それぞれの目指す運動の課題の実現との関連で期待することが本当にできるのか、あるいはそうすべきなのか。反戦運動や反基地運動などの平和運動、反原発運動、反監視運動などのスタンスの原則からきちんと批判しないといけないのではないか。批判することで市民運動が失うものなど何もないはずだ。市民運動は、教育や学問の問題でも原則を見失わないでほしいと切に願う。