G20批判

Table of Contents

  • 1 はじめに
    • 1.1 G20とは何なのか―外務省の解説
    • 1.2 変質しつつあるG20
  • 2 G20と国際関係 経済の政治学
    • 2.1 ポスト冷戦の資本主義が抱え込んだ危機
    • 2.2 グローバル資本主義の基軸変動によるG20の変質
    • 2.3 G20大阪の議題
  • 3 G20の何が「問題」なのか
    • 3.1 市場と制度の相克
    • 3.2 資本に法制定権力がないという問題
    • 3.3 市場のルールの覇権の揺らぎ
  • 4 G7、G20と対抗する民衆運動
    • 4.1 オルタ/反グローバリゼーションをめぐる運動
      • 4.1.1 運動の多様性と限界
      • 4.1.2 伝統主義というオルタナティブ
    • 4.2 植民地からの独立、ケインズ主義、新自由主義、どれも不平等を解決してこなかった。
      • 4.2.1 現代にも続く「本源的蓄積」過程
      • 4.2.2 グローバルな格差は解決できていない
    • 4.3 メガイベントとしてのG20
  • 5 移民をめぐって
    • 5.1 民衆という主体の不在
    • 5.2 〈労働力〉とはナショナルなものとして構築され、資本は越境する〈労働力〉の流れを生む
    • 5.3 文化的同化
  • 6 情報通信インフラの国際標準をめぐるヘゲモニーと私達の「自由」の権利
    • 6.1 収斂技術としてのコンピュータテクノロジー
    • 6.2 自由の社会的基盤としてのコミュニケーション環境
  • 7 「テロ対策」名目の治安監視と超法規的な 市民的自由の剥奪―それでも闘う民衆たち
    • 7.1 異常な規模の治安対策予算
    • 7.2 トロントの場合
    • 7.3 治安監視の国際ネットワーク:スノーデンファイル
  • 8 おわりに:シンボリックな外交儀礼とナショナリズムだとしても、だからこそ…
  • 9 (補遺)簡単な年表

1 はじめに

1.1 G20とは何なのか―外務省の解説

外務省のウエッブでは次のように説明している。 https://www.mofa.go.jp/mofaj/ecm/ec/page25_001040.html

リーマン・ショック(2008年19月)を契機に発生した経済・金融危機に対処するため、2008年11月、主要先進国・新興国の首脳が参画するフォーラムとして、従来のG20財務大臣・中央銀行総裁会議を首脳級に格上げし、ワシントンDCで第1回サミットが開催。以降、2010年まではほぼ半年毎に、2011年以降は年1回開催。

参加国は、G7(仏,米,英,独,日,伊,加,欧州連合(EU)のほかに、アルゼンチン、豪、ブラジル、中、印、インドネシア、メキシコ、韓、露、サウジアラビア、南アフリカ、トルコ(アルファベット順) メンバー国以外に招待国や国際機関などが参加

その特徴として、

G20サミットは,加盟国のGDPが世界の約8割以上を占めるなど、「国際経済協調の第一のフォーラム」(Premier Forum for International Economic Cooperation:2009年9月のピッツバーグ・サミットで合意・定例化)として、経済分野において大きな影響力を有している。

1.2 変質しつつあるG20

G20の当初の主要課題は、グローバルな金融危機が体制的な危機へと転化することを阻止することだった。グローバル資本主義のヘゲモニーをG7中心として、G20にその影響力を拡大しつつ、途上国を含むグローバルな政治経済秩序を維持することが目論まれた。

米国をはじめとして各国政府も大企業も、リーマンショックを招いた企業や金融制度の責任をとるどころか、むしろ政府は、破綻に瀕した金融資本や金融システム救済のために莫大な公的資金を投入する一方で、緊縮財政政策を採用ことによって、人々の生存権を支えてきた福祉、社会保障、教育などの公的サービス1を削減する方向をとり、更に公共サービス部門を益々市場に統合することで資本の投資機会を拡大してきた。こうした方向をG20は、非公式な国際的な枠組みで合意しつつ、この外圧を利用して国内の政策を強行した。その結果として、資本蓄積の基盤を貧困層の切り捨てが進んだ。

しかし、経済の欧米諸国による影響力は相対的に低下し、中国を中心とする新たな世界秩序が形成されつつあるなかで、G20の性格も変質する。グローバル資本主義の基軸が欧米中心に構築されてきた「西欧近代」という枠組みからずれ、経済的な下部構造は資本主義ではあっても、その統治機構や意思決定、文化的な社会的な規範や価値観は、欧米のそれとは異なるだけでなく、欧米が構築してlきた規範とは異なる規範が対置されるようになる。

この構図がG20の当初のものだとすると、その後の世界情勢は狭義の意味でのグローバル資本主義の土台(下部構造)の維持というレベルでは収拾できない状況をまねいた。それが、アラブの春からオキュパイ運動への流れとともに急速に台頭してきたイスラーム原理主義と欧米極右の「主流」化である。日本の安倍政権はこの傾向を先取りする政権でもあった。

2 G20と国際関係 経済の政治学

2.1 ポスト冷戦の資本主義が抱え込んだ危機

G20の設立そのものが、グローバル資本主義の脆弱性を端的に物語っていた。G7/8は、ベトナム戦争の敗北と石油危機、第三世界における社会主義国家の伸長といった事態のなかで、戦後国際経済秩序の主導権を先進国が維持するための枠組だった。ここでは、資本主義的な自由主義を表向きの共通の価値観に据えて、社会主義と国連の経済ガバナンスを抑えこむ役割を担った。

G7/8とIMF、世銀、WTOは、ポスト冷戦のなかで、社会主義ブロックが崩壊したにもかかわらず、世界規模の反対運動にみまわれつづけた。20世紀の権威主義的な社会主義(あるいは社会主義と呼ぶべきかどうかの論争があることからすれば、何と呼ぶべきか)とは一線を画した民衆運動の草の根のなかで、既存の支配的な経済秩序へのオルタナティブへの模索は続いた。

リーマン・ショックは、1929年の世界大恐慌や1970年代の二度の石油危機などの大きな危機にはない特徴があった。かつての危機は、社会主義という対抗的な勢力が無視できない力を発揮していた時代であったのに対して、リーマン・ショックは、社会主義の敗北=資本主義の勝利という公式イデオロギーのもとで起き。しかも、G7/8の枠組みでは収拾できないようなグローバルな金融システムの構造を抱えていたことを示していた。

第二に、G7/8とダボス会議を車の両輪として、IMF、世銀、WTOといった国際経済機関による国際経済秩序の主導権を維持して、国連による公的なグローバルガバナンスを抑えこむという構造が、十分機能しなくなったことも示していた。この意味でG20の存在が注目されること自体が、欧米(+日本)を基軸とする戦後のグローバル資本主義の危機を体現している。

経済や金融の問題は、財やサービスの生産や貿易、あるいは通貨や金融商品の取引などから各国の財政まで、幅広いが、こうした問題を扱う主流の経済学や政治学が脇に追い遣っているのが、社会(地域コミュニティから国民国家の枠組み、そしてグローバルな「社会」まで)を構成しているのは人間なのだ、という当たり前の事実である。常に関心の中心にあるのは、産業資本による生産であり、金融市場のマネーゲームであり、政府の債務と財政問題であり、政府間関係としてのみ論じられる国際関係である。<労働力>としての人間も社会保障や公共サービスも、彼等にとっては節約すべきコストでしかない。

国際政治や外交が対象にする課題では、一般に、「アクター」とみなされるのは、国家を代表するとされる人格、「首脳」とか大臣や高級官僚たちである。また、経済においても、「市場」があたかも一個の人格であるかのようにみなされ、「市場」を体現する「アクター」もまた、大企業、あるいは多国籍企業の経営者たちである。

国家、市場、資本といった制度の人格的な表現としての「首脳」や「経営者」たちは、言うまでもなく、民衆の利害を代表するものではない。国際政治や国際経済の理論的な枠組そのものが、実は、民主主義や民衆を意思決定の主体とするような理論になっておらず、こうした権威主義的な理論を前提にして、政治や経済の政策が正当化されている。

2.2 グローバル資本主義の基軸変動によるG20の変質

上述のように、G20は、経済金融危機への対応から始まったが、むしろ現状は、グローバル資本主義の基軸国が欧米から中国をはじめとする新興国へとシフトし、戦後の国際経済覇権を支えてきたゲームのルールが揺らぎはじめているなかで、その役割は大きく変質した。

変質は幾つかの複合的な要因からなる。たとえば、

  • 中国など非欧米諸国の台頭
  • 新自由主義政策の結果としての国内外の格差拡大が国境を越える出稼ぎ労働者や移民を大量に排出(東ヨーロッパ、南ヨードッパから西ヨーロッパへ、中南米から北米へ)
  • 情報コミュニケーションテクノロジーが「成長」を牽引する位置に
  • 気候変動の深刻化
  • 中東やアフリカなどでの戦争と、その結果としての大量の難民
  • 宗教原理主義とナショナリズム(自国第一主義)に基づくポピュリズムの台頭(極右の主流化)
  • 社会主義ブロックを後ろ盾にしない、反権威主義的な広い意味での左翼大衆運動(階級+ジェンダー+エスニシティ+エコロジー+対抗文化)

こうした課題をG20という枠組みの会合によって効果的に「処理」できるとは思えない。日本政府はG20を「国際経済協調の第一のフォーラム」と評価するが、実態は、むしろ世界のGDPの8割を占める諸国が相互に合従連衡を繰り返して覇権を争奪する場になっており、協調どころかむしろ政治的経済的な不安定から更に危機的な敵対関係へと転換しかねない危うい場所になっている。

2.3 G20大阪の議題

日本政府にとってG20の大阪会合とは何なのか。今通常国会で外務省大臣官房審議官、塚田玉樹政府参考人は以下のように答弁している。

六月のG20大阪サミットにおきましては、主催国として、世界経済の持続的な成長に向けたリーダーシップを発揮していきたいというふうに考えております。

貿易におきましては、グローバル化によるさまざまな不安や不満、こういったものに向き合いまして、公正なルールを打ち立てるということで自由貿易を推進していく所存でございます。また、データガバナンス、電子商取引に焦点を当てる大阪トラックの開始を提案しまして、WTO改革に新風を吹き込みたいというふうに考えてございます。

また、それ以外でも、女性のエンパワーメントですとか、あるいはジェンダーの平等、気候変動、海洋プラスチックごみ対策、質の高いインフラ投資、国際保健、こういったテーマを取り上げまして、国際社会における取組をリードしていきたいというふうに考えております。(衆議院外務委員会 外務委員会 2019年、04月12日 )

また、麻生財務大臣は次のように多国籍企業への課税強化を強調している。

BEPSと称するベーシック・エロージョン・プロフィット・シフティング、略してBEPSと略すんですけれども、まあ早い話が課税限度額の低いところに法人格を移す、個人の居住地域を移した形にする等々、いろいろ手口はあるんですけれども、そういったものによってかなりなものが起きているのではないか。

(略)GAFAとよく言われる話がその最たるものなのかもしれませんが、これに限らずほかにもいろいろありますので、そういったものに関してはきちんとすべきだと。六年前に日本が主張してこれは始まって、今まで約丸六年ぐらい掛かったことになりますけれども、おかげさまで、少なくとも来週からIMF等々でこの話を、もう一回OECDも含めてこの話をワシントンでする形になって少し形が見えてきて、今、ヨーロッパ方式、アメリカ方式、いろいろ各国出してきましたので、それまではもう俺たちは関係ないという感じで逃げていたのが全部出してきましたので、一応そういったものになりましたので、六月の、そうですね、G20の財務大臣・中央銀行総裁会議をやらせていただきますけど、そのときまでにはかなりのものができ上がるというところまで行かせたいと思っております

こうした議題への解決を、G20に期待することは、二つの意味で間違っている。

ひとつは、これらの議題は、各国の国内政治上のプロパガンダであって、その実効性を担保するものは、ないに等しい。第二に、首脳たちの非公式の話し合いによって「解決」するという国際政治のスタイルは、意思決定のプロセスのどこにも民主主義は存在しない。だから、あたかも「市民社会」へのアウトリーチを演出するために、民間団体などをG20のプロセスに包摂しようとしている。しかし、どの団体であっても、公正な代表としての権限が与えられうるものではない。政府がそうした「代表」にお墨付きを与えるのであれば、もはや「市民社会」は政府や市場から自立した第3の対抗勢力にはなりえないだろう。

3 G20の何が「問題」なのか

3.1 市場と制度の相克

上述した意味とは別の意味で、G20あるいはG7/8といった非公式の首脳会合については、その影響力が果して政府やメディアが宣伝するほど大きなものかどうか、グローバル資本主義を肯定する立場からも疑問視する考え方がありうる。たとえば、

  • もし、世界経済の主要な動向が、市場経済によって規定され、市場経済が越境的で国家をしのぐ経済力を駆使する多国籍企業によって支配されているとすれば、首脳が集まって会議することで市場経済の動向が左右されるようなことがどうして起きるのか。むしろ毎年冬にスイスのダボスで開催される多国籍企業と各国の主要政治家たちが集まる世界経済フォーラムの方が経済への影響力が大きいのではないか。
  • 国連のような公式の各国代表による公式の討議や条約法条約で定められたような国際法上の正統性を有するルールの制定の枠組をもたない非公式の会合にすぎず、むしろ条約や協定の締結を目的とした公式の外交交渉などの方が重要なのではないか。

グローバルな市場経済の複雑な利害とメカニズムを公式であれ非公式であれ国際的な会合という仕組みがコントロールできるとみなすことは、通常の「経済学」の教科書では説明されていないことだ。むしろ市場が国家や国際機関では手に負えないある種の「自律性」があり、これが資本主義のやっかいな側面であって、リーマンショックもまた、こうした市場の制御不可能性から国際的な経済危機が起きたのは事実だ。国家は「資本の国家」でもありながら、資本を制御しきれないというの資本主義の矛盾をG7/8やG20が解決できるわけがない、というのはその通りである。

3.2 資本に法制定権力がないという問題

だからといって政府の役割を過小評価すべきではない。グローバル資本主義が国家を越えた多国籍資本の強い影響下にあるとしても、多国籍資本にできないことが二つある。

ひとつは、資本そのものには法制定の権力がない、ということだ。そもそも資本が「企業」あるいは「法人」としての法的正当性を獲得できるのは、法人格を定めた法制度に依存する。また、各国の国内法の制定と政府間の国際法の秩序は、議会や政府の専権事項である。IMF、世銀、WTOであれ国連であれ正式の構成員は政府代表であって、多国籍企業のトップが議決権を持つことはできていない。市場経済が国際的な市場として機能する上で必要なルールは未だに資本の専権とはなっていない。各国の市場を外国の資本に開放するかどうか、関税や非関税障壁、税制など資本の利潤に直接関わる事項の多くが自国あるいは覇権を握る先進国など有力国の法制定と法執行のプロセスに縛られる。もうひとつは、「人口」の管理である。あるいは、〈労働力〉の管理といってもいい。この問題は後に「移民問題」の箇所で言及する。

非公式会合は、民主的な意思決定の体裁を維持しながら、この決定プロセスをメタレベルで規定することによって、民主主義のプロセスそのものを既存の統治機構が骨抜きにする上で効果を上げてきた。非公式会合による事実上の合意形成を踏まえて、国内法や制度の整備あるいは国際法の枠組の主導権を維持しようとする。非公式会合の議論のプロセスは透明性を欠き、各国とも自国にとって都合のよい内容を国内世論形成に利用する。こうした情報操作の手法は、オリンピックなどの国際スポーツが自国選手の活躍ばかりを報じることによって、そもそもの競技全体のイメージを歪め、ナショナリズムを喚起することに加担する結果を招いている手法とほぼ変わるところがない。

3.3 市場のルールの覇権の揺らぎ

G20は、こうした状況のなかで、当初は、金融危機への対応の必要から、後には、中国やロシアなどとの対抗と牽制の駆け引きの必要から、非西欧世界の「大国」、地域の有力国を巻き込むことによって、これら諸国を欧米が戦後築いてきたグローバル資本主義のルールの枠内に抑え込むことを目論むという一面があったように思う。しかし、逆に、G20は、新興国が従来のゲームのルールを覆して新たなルールを欧米諸国に要求する場にもなりうることもはっきりしてきた。これまで、欧米が戦後構築してきたルールを前提に市場の秩序と競争が展開されてきたが、ここにきてむしろ新興国自身がルールメーカーになろうとしており、その結果としてルールの揺らぎが顕著になってきた。しかも、トランプ政権の自国第一主義もまた、ルールの恣意的な変更を厭わないという態度をとることによって、そもそもの「ルール」への信頼性が更に揺らいでいる。この意味で、日本政府が宣伝するようなG20の「協調」は存在していないばかりか、覇権の構造がG20内部で深刻な亀裂を生み出してさえいる。

このルールの揺らぎが最も端的かつ明瞭な形で表出してきたのが、Huaweiをめぐる情報通信技術の分野だろう。これは、単なるスマホの市場の争奪という問題ではない。次世代情報網の基盤となる5Gをめぐる情報通信の社会インフラというフロンティア市場の争奪であり、同時に、この同じ情報通信インフラが、「サイバー戦争」の戦場でもあるとみなされるなかで、現状では政府間国際組織が主導権を握れていないインターネットのガバナンスに影響しうる問題にもなっている。2

4 G7、G20と対抗する民衆運動

社会主義圏の拡大が続く70年代に、グローバルな資本主義経済秩序の再構築を目指したのがG7/8だった。G7サミットは「G7サミットでは、その時々の国際情勢が反映された課題について、自由、民主主義、人権などの基本的価値を共有するG7首脳が一つのテーブルを囲みながら、自由闊達な意見交換を通じてコンセンサスを形成し、物事を決定」3と説明されてきた。一切の国内の民主主義的あるいは法的な意思決定の手続に関わりなく首脳間の討議で合意形成するシステムである。G7/8は、冷戦期に、ベトナム戦争の敗北と石油危機によって米国の覇権の構造が揺らぐなかでの西側資本主義のグローバルは覇権再構築を国連の枠組に対抗して目指した。IMF、世銀、GATT(後のWTO)というブレトンウッズ体制とサミット、ダボス会議によって築かれた冷戦期のグローバル資本主義のゲームのルールは、国内的には、公共部門の民営化にる市場経済の拡大、冷戦後の旧社会主義圏の資本主義世界市場統合のなかで維持される。この戦後のグローバル資本主義のゲームのルールそのものが、内部から危機にみまわれる。アジア通貨危機やリーマンショックは、資本の競争原理に支配された規制なき市場がいかに制御しがたいものであり、危機に際して政府は資本の延命を優先していかに民衆に犠牲を強いる存在であるかが明かになった。

4.1 オルタ/反グローバリゼーションをめぐる運動

4.1.1 運動の多様性と限界

オルタ/反グローバリゼーションの運動は、周辺部の民衆運動として、多様な姿をとって80年代から登場してきた。90年代以降、こうした運動が(組織的イデオロギー的な繋がりがあるわけではないが)、先進国の大衆運動へと拡大してきた。もはや社会主義はブロックとしては存在しない。冷戦に勝利したかにみえる資本主義が歴史の最終的な勝者であるかのようにしきりに自画自賛してきた支配層やイデオローグたちにとって、反グローバリゼーション運動は理解を越えた。当時、世界の政治と経済を動かアクターは三つあると言われた。ひとつは、従来からの主権国家。もうひとつは、主権国家の経済力を凌駕しさえする多国籍企業、そして三番目に様々な民衆運動である。国際NGOから草の根のコミュニティの運動まで、女性、移民、労働運動、環境など課題も様々、ラディカルな民主主義、マルクス主義、アナキズムなど思想背景も様々である。世界社会フォーラムやグローバルレジスタンスの運動など、国際的な連帯は、反戦運動からコミュニティの環境・反開発、先住民運動など多様な運動をゆるやかにネットワークする上で貴重な役割を担った。

しかし、こうした運動の限界もあった。それは、新自由主義グローバリゼーションへの批判ではあっても、資本主義グローバリゼーションへの批判が共通の了解事項にはなりえなかったのではないか、という点であり、資本主義に代替する社会が何なのかを、社会主義といった概念で共有できなかったということである。資本主義を否定する明確な方向性をもつイデオロギーのなかで、たぶん、最も有力なのは様々な傾向をもつマルクス主義とアナキズムだが、このそれぞれの内部でも相互においても、「次」を見通すための建設的な議論が積み重ねられてきたとはいえない。

このことは、リーマンショックや緊縮財政といった危機に際して、多くの運動は、この危機をグローバル資本主義の衰退への引き金として、衰退を加速化させる戦略を見出せなかった。新自由主義批判のなかで、国家はあたかも中立の存在であるかのようにみなされることがあった。資本の国家であるにも関わらず。福祉や社会保障、公共サービスを資本のための〈労働力〉や家族政策への思惑から切り離し、資本主義としては成り立ちようのない要求へとは転換できなかったのではないか。資本主義への態度が運動のなかでは、かなりの温度差があったし、今もあると思う。資本主義でもよいのか?「よい」のなら、なぜ?資本主義ではダメだというなら、どうであればいいのか。この凡庸だが、しかし根源的な問いでもある。

正解がひとつではないにしても、資本と国家を廃棄するとして、また、20世紀型の社会主義や既存の社会主義を標榜する体制を範例とはしないとして、経済において、資本に何が代替すべきなのか、政治において国家に何が代替すべきなのか、自由、平等、民主主義はどのような内実をもつものでなければならず、その内実を実現できる制度とはどのようなものであるべきなのか、こうした一連の問いに応じうる運動が模索段階に留まってきた。(思想家や理論家の議論はともかくとして)

4.1.2 伝統主義というオルタナティブ

反グローバリゼーション運動が新自由主義グローバリゼーションへのオルタナティブを既成の社会主義ではない「何か」への模索のなかで、決定的な答えを出しあぐねているなかで、アジア諸国の権威主義や独裁、イスラーム世界の非世俗的な国民国家など、多様なオルタナティブは、近代が否定してきた近代以前の諸々の「伝統」への回帰を通じたアイデンティティの再構築を企図し、ある種の民衆運動がこうした傾向を支えて表出してきたようにみえる。諸々の伝統主義への回帰を内包した運動だ。4イラン革命(1979年)は、イスラム復古の民衆運動であった。他方で、80年代のレーガン・サッチャーの新自由主義は、イデオロギー政策の場面では「自由主義」とは真逆の時代となる。人工妊娠中絶、同性愛への弾圧、移民や少数民族排斥は、復古的な家族イデオロギーを強化する傾向を顕著にもち、AIDS被害の蔓延を同性愛への格好の攻撃の手段として用いた。キリスト教原理主義がリベラリズムを攻撃し、言論表現の自由がマッカーシズム以来最大の危機を迎えた。これ以降、現在に至る極右の運動のひとつの源流がこの時代にあるといってもいい。5

先進国でも途上国でも、ポスト冷戦後、こうした諸々の宗教原理主義、復古主義、伝統主義が、新自由主義グローバリゼーションによって犠牲となってきた貧困層から中間層を組織化する流れを形成しはじめ、これがもうひとつの反グローバリゼーション運動とも呼びうる潮流となる。

サミットのありかた自身が「自由、民主主義、人権などの基本的価値」を裏切る存在である。首脳たちの密室での合意のどこに自由、民主主義、人権があるというのか。この欺瞞が当初から批判されてきた。言い換えれば、先進国は、その掲げている理念とは裏腹に、自由も民主主義も人権も不在なのだ。とりわけ国際関係において、これらの国々にとっての「外国」への政治や軍事などの力の行使に関しては。一国一票の国連の「民主主義」すら疎んじて、国連のガバナンスに縛られることを嫌う態度が如実にあらわれているのがG7/8だった。同様に、「国民」という枠組によって国内の人口を分断し、移民を常に国内の治安に観点から「問題」視し、排除か同化的統合のための口実を探し続けてきた。

欧米の民主主義や自由主義、あるいは平等に代表されるような普遍的な人権の理念は、これら諸国内部から、形骸化してきた。かつての植民地宗主国は一貫して植民地支配と侵略の犯罪から目をそむけ、近代の普遍的な価値を享受できるのは、自国の「国民」の、もっぱら異性愛者である白人男性にそに優先権が与えられてきたにもかかわらず、あたかも万人が享受できるかのような見せ掛けを作り、その理念故に、差別と排除の実態が隠蔽された。日本の場合、高邁な理念を掲げて、現実を隠蔽するという近代国民国家のイデオロギー作用は、戦後憲法によってその枠組みが与えられてきた。

非西欧世界の民衆にとって、欧米先進国は、歴史的には植民地支配者であって、植民地解放の「敵」でありながら、欧米の「豊かさ」、価値観やライフスタイルへの憧憬も共存してきた。しかし、独立と近代化は、欧米資本主義であれ20世紀の国民国家を基盤とする社会主義であれ、その理念と現実との間には多くの矛盾があり、とりわけ、経済成長=豊かさは一握りの国々にしかその「席」は与えられず、必然的に貧困の「席」しか割り当てられない諸国が存在するような構造が維持されてきた。国際政治と国家を主体とする軍事安全保障は、植民地体制とは異なる国際的な政治的軍事的な支配と従属の重層的な構造を維持してきた。世界規模の資本による搾取と先進国による政治的な覇権の構造にとって、独立国家か植民地であるかの違いは見掛けほど大きくはないことが明かになった。それが20世紀後半以降の世界である。

4.2 植民地からの独立、ケインズ主義、新自由主義、どれも不平等を解決してこなかった。

4.2.1 現代にも続く「本源的蓄積」過程

国連の人間開発報告書のデータを概観してみると、GDPが高い国と低い国との格差は歴然としている。6その差が縮まっていることを強調して、貿易や投資の自由化を擁護する主張は、全体の構造的な格差を解決最も有効なシステムが資本主義的な自由主義であるという「答え」の正しさを証明しているわけではない。

経済的な貧困を貨幣で評価することは必ずしも正しい評価とはなりえないが、他方で、市場経済が浸透する過程で、自律的な非市場経済の構造に依存してきた社会が解体されて、人々の生存の基礎構造が破壊されることによって、経済を支えてきた共有の構造と、労働市場に依存しない労働=生産組織もまた破壊され、人々は、労働市場で〈労働力〉を売り、生活必需品の調達を市場に依存するようになる。このよく知られた資本の本源的蓄積とマルクスが呼んだ資本主義成立期のプロセスは過去の歴史的な出来事ではなく、むしろ現在においても、日々進行しているものだ。

資本にとっての〈労働力〉は、国家にとっての国民であり、国家権力の正統性を支える人的な基盤をなす。独裁であれ民主国家であれ、王制であれ共和制であれ、「国民」による支持は必須であり、同時に、この「国民」が〈労働力〉として資本によって統合されて市場経済的な意味での「価値」を資本にもたらす存在になることが経済的な基盤にとっての最低限の条件となる。

この構造は、先進国の側からの眺望と低開発国の側からの眺望とでは全く異る風景を描くことになるが、それだけではなく、それぞれの国のなかで、人々が帰属する所得階層、性別、年齢、エスニックグループ、宗教グループなどによっても大きな違いがある。所得の低い女性は、同じ階層の男性とは同じライフコースを歩むことはできないだろう。貧困層の幼い子どもは、自分が大人になるまで生きられるかどうかの確率について、富裕層の子どもとは全く異なる運命にみまわれる。

4.2.2 グローバルな格差は解決できていない

グーバルな貧困問題が国際的な課題になったきっかけのひとつが、国連の人間開発報告1999年で示された19世紀以来の長期的な格差の拡大だった。(巻末の図「Widening gaps between rich and poor since the early 19th century, United Nation, Human Development Report 1999,参照) 1820年から1990年代にかけて、その国別構成が変化しつつも、最貧国は一貫して貧しいままであり、富裕国は、一貫して豊かになり続けてきた。この傾向は、G20や国連などが提唱する持続可能な経済成長や格差の解消という掛け声にもかかわらず構造的には変化がない。GDPの指標や国別の統計なので、こうした数値では表面化しない深刻な格差や貧困があることを留意したとしても、この格差は異常な状態である。同様に、19世紀以降、工業化のなかで、以上な増大をみせているのがCO2の排出である。(巻末の図「化石燃料等からのCO2排出量と大気中のCO2濃度の変化」7、CDIAC, Global Fossil-Fuel Carbon Emissions, 参照)

そもそも、一方に500ドル足らずのGDPの国があり、他方で3万ドルから5万ドルあるいはそれ以上のGDPとなる国がある原因が、それぞれの国に暮す人々の経済活動に関わる「能力」とか「資質」に基づくとはとうてい考えられないだろう。とすれば、問題はこうした格差を数世紀にわたって再生産してきた構造的に問題があるとみるべきである。とりわけ20世紀以降の格差の拡大が顕著であるようにみえる。

一般に、新自由主義グローバリゼーションに反対するという主張を打ち出す場合、「新自由主義」という限定をつける理由は、1980年代のレーガン=サッチャー(そして中曽根)の時代以降の規制緩和や民営化、市場経済原理主義と呼ばれる時代が問題の元凶にあるという見方になりがちだ。しかし、明かに言えることは、グローバルな格差や貧困の問題は、もっと長期的だということである。新自由主義よりもケインズ主義や福祉国家の政策への評価が高かった時代であれ、多くの植民地が独立を果した時代であれ、格差と貧困のグローバルな構造は大きな変動をこうむらなかった。

言い換えれば、保護貿易や福祉国家やケインズ主義といった「大きな政府」も公共部門を民営化し自由貿易を採用しようと、どちらであれ、最貧国の地位を割り当てられる国が存在し、世界の富を独占する国が生み出されてきた。

なぜ、このした構造が数世紀も続いてきたのか。数世紀という長い歴史的な尺度のなかで、一貫して見い出せる構造があるとすれば、それは、国民国家と資本主義市場経済の構造以外にはない。現在のグローバルな資本主義がもたらしている深刻な問題の解決のためには、これらを前提にした部分的な改革は意味をもたない。解体のための挑戦として20世紀最大の実験が社会主義だったわけだが、社会主義は、国民国家の問題を棚上げにした。近代国民国家の枠組みを(当初は国家廃絶のために戦略的に、後にはむしろ権力の正統性の基盤として)受けいれた。統制経済が戦争を総力戦として遂行するための基盤を提供したという観点からみたとき、ナチスやイタリアのファシズム、日本の総動員体制とニューディールの間に本質的な違いはない。

一人当りGDP(ドル) 2015年(国連人間開発計画2016年版)
最貧国
Central African Republic 562
Burundi 693
Congo (Democratic Republic of the) 737
Liberia 787
Niger 897

最富裕国 日本 35,804(19425)
韓国 34,387
中国 13,400
インドネシア 10,385
インド 5,730
オーストラリア 43,655
米国 52,549(21558)
カナダ
メキシコ
英国 38,658
ドイツ 44,053(19351)
フランス 37,306
イタリア 33,587
ブラジル 14,455
アルゼンチン
サウジアラビア 50,284
南アフリカ 12,390
トルコ 18,959
ロシア 23,895
— カタール 135,322
ルクセンブルク 93,553
シンガポール 80,192
ブルネイ 66,647

人は、出身地、性別、民族は選択できない。こうした格差は、構造的人為的に生み出されてきた歴史的な構築物である。これは少なくとも、近代資本主義にその原因の主要な部分があることは間違いない。このとうてい容認できない格差は、単なる所得再配分とか金融所得課税といった分配によって解決できるだろうか。「持続可能な成長」は、持続可能な資本にとっての成長でしかない。そうではなく、むしろ持続可能な資本主義の衰退のプログラムとして構想しなければならない。伝統主義を排して、資本と近代国家を安楽死させる戦略と制度設計が必要なのだ。「衰退」を目的意識的に追求することは、政治的な革命のプログラムに還元できない。衰退を肯定的な価値としてポジティブに構想することは、資本主義的な「豊かさ」を内面化している大衆にとって容易なことではない。短期的な「文化革命」は成功しない。数世紀の長い革命を構想する必要がある。

4.3 メガイベントとしてのG20

G20は、同床異夢の不安定な覇権争奪の場であり、誰も決定的な主導権をとることはできず、いくつかの課題となる分野で、相互の牽制あるいは妥協を通じて、自国の国益を最大化するための努力を繰り返す不毛な会議である。犠牲になるのは世界中の民衆たちである。

しかし、プロパガンダとしての国際会議の効果は無視できない。特に、日本の場合、G20を開催する地域の自治体とメディアが一体となった国際イベントを盛り上げるプロパガンダによって、G20を、その実態とはかけはなれた国威発揚のためのイベントに仕立てることによって、ナショナリズムを刺激する効果をもつことになる。

国際イベントはどこの国のメディアも自国中心の視点から情報を発信する。先にも伸べたように、オリンピックなどの国際的なスポーツ競技が自国の選手や自国が得意とする競技を中心に報道されることによって、あたかも自国の選手が国際競技大会の主役であるかのような印象が演出される。同じことは政治や外交の国際会議にもあてはまる。特に日本の場合、日本語環境が国境とほぼ重なり、大半の日本の民衆は、自国の報道や政府の発表を他国のそれと比較しながら評価できる言語環境にない。日本の民衆はメディアや権力の情報操作に左右されやすい。

国際イベントはある種の儀礼的な行為、国家の権威や威厳を端的に象徴する場でもある。儀礼や儀式は、差異や矛盾を棚上げした国民統合を演出する仕掛けであって、それ自体が、多様な異論や異議申し立て、言論表現の自由を前提として成り立つ民主主義的な政治空間の本質とは相容れない。国際イベントに必須ともいえる場の威厳は、あらゆる混乱が排除された整然とした秩序を生み出すための権力作用を伴う。これが治安維持や治安弾圧を正当化してしまうことになる。

G7/8や国際機関の会合が大衆的な反グローバリセーションの抗議行動によって「混乱」に直面してきた90年代から2000年代初めの状況は、私たち(あるいは反政府運動の側)からすれば、民主主義の正当な表現行為であるが、このような異議申し立てそのものが、主催国内部の分断を可視化することになる。

従って、こうした儀礼的な効果という観点からすると、G20が、その内実として、空疎で実質的な国際政治や外交の意思決定において効果をもちえず、矛盾を糊塗するだけのものであったとしても、そのこととは別に、既存の権力基盤を固め、対抗的な勢力を統合と排除のゲームのなかで抑え込むという国内政治に及ぼす効果は、決して軽視することはできない。

5 移民をめぐって

5.1 民衆という主体の不在

G20の議題でも明らかだが、「人」が議題にのぼるのは、あくまで国益の従属変数としての「人」でしかない。大阪のG20の主要議題のひとつとされている女性の問題も、女性を国民的〈労働力〉として活用することに主要な関心がある。最大の課題は、国民的〈労働力〉の周辺部に形成されている移民や難民の問題だ。G20の首脳たちにとって、移民、難民問題は国家安全保障の問題でしかなく、国際政治のなかでの国益に関わる問題でしかない。

G20の舞台上の登場人物であれ、政治や経済の専門家たちの言説であれ、マスメディアの報道であれ、その構図のなかで明らかに登場人物として欠けているのは、75億人の民衆である。民衆を主体とした国際政治や経済、あるいは社会、文化を理解する視点ではなく、国家や資本(市場)を主要なアクターとしてしか世界を見ないことが当たり前のようになってしまっている。しかし、問題は、この75億の民衆が不可視の存在として、あるいは、事実上の意思決定の場から排除されていることに怒りの声を上げるよりも、むしろこうした指導者たちの振舞いを黙認するか、ありおはより積極的に支持する者たちが、その多くを占めているということである。残念なことに、民衆の多数者は、また、支配者を支える多数者であるか、あるいは黙従を選択せざるをえないか、あるいは無関心であるか、であり、可視化された権力に抗う民衆の姿は、常に相対的に少数である。

支配的多数者は、諸々のマイノリティを抑圧することによって、既存の資本と国家の権力の再生産構築してきたた。多様な民衆が抱える、自分たちの生存とアイデンティティに関わる問題は、既存の資本と国家のシステムを前提にして解決できるものではない、という感情が世界規模で拡がってきたのは、冷戦末期から新自由主義グローバリゼーションと呼ばれる時代、あるいは、湾岸戦争以降のテロとの戦争の時代であった。私達からすれば、この時代は、オルタ/反グローバリゼーション運動としての世界規模の社会運動の時代として位置付けたい誘惑に駆られるし、私もこれまでそのようにたびたび述べてきた。しかし、無視できない数の民衆は、私達とは別の方向へと向う。反グローバリセーションであり反新自由主義であるとしても、彼等が依拠するのは諸々の伝統への回帰という「オルタナティブ」だった。その力をあなどったために、日本では、安倍が、世界に先駆けて極右政権を樹立してしまった。その後の世界規模での多様な極右、伝統回帰、宗教原理主義、不寛容な排外主義に状況が今に至る。8

5.2 〈労働力〉とはナショナルなものとして構築され、資本は越境する〈労働力〉の流れを生む

資本主義は人間を<労働力>商品として労働市場で調達する仕組みのなかでしか「人間」を理解できない。このことの問題性をマルクスは搾取として批判したが、マルクスが見落したのは、人間には性別があり、<労働力>再生産は家族によって担われるというジェンダーと家父長制の問題、そしてもうひとつが、<労働力>は、無国籍なのではなく、常にナショナルなアイデンティティとの関係のなかで再生産される、という<労働力>のナショナリズム問題である。

国内の労働市場のように、物やサービス、資金の移動がグローバル資本主義の構造のなかで、とりわけ資本にとって困難なのは、〈労働力〉の制御である。経済学が扱う労働市場の〈労働力〉には国籍がない。(性別も民族もない)。しかし現実の〈労働力〉の担い手は国籍によってその移動を厳しく制約されている。言いかえれば〈労働力〉は国民的〈労働力〉なのである。膨大な移民は、この枠組を逸脱する流れである。これを資金の流れのように市場に還元したり、金融工学のようなコンピュータのプログラムで処理することはできない。ここに資本にとっても国家にとっても困難な課題があるからこそ、情報処理の技術は人への「監視」技術の開発へと向う。

近代国家では、〈労働力〉の理念モデルは「国民」としてのアイデンティティ形成と表裏一体のものとされてきた。これが様々なレイシズムを生み出す背景をなしてきた。「国民」としてのアイデンティティ形成を資本が直接担えるわではないが、階級意識を抑制して国民意識に統合することが資本に同調する労働者を形成する上で有効である限りにおいて、「国民」的〈労働力〉は資本の利害と一致するというに過ぎない。移民や難民を「国民」へと同化させるメカニズムそのものは国家が担う領域と大きく重なり、資本の領域には収まらない。国境を越える人口移動の動因を多国籍企業は様々な策略で生み出すが、国境を越えて人口を量的にも質的にもコントロールする裁量権も与えられていない。9

以下にあるように、ほとんどの先進国の人口に占める移民の割合は10%台である。これに対して、日本の移民の人口比は極端に低い。この低さは、ひとえに、入管政策によるものであり、自民族中心主義の政策をとってきた結果である。

人口比率(国連、人間開発報告書2016)
日本 1.6
韓国 2.6
中国 0.1
インドネシア 0.1
インド 0.4
オーストラリア 28.2
米国 14.5
カナダ 21.8
メキシコ 0.9
英国 13.2
ドイツ 14.9
フランス 12.1
イタリア 9.7
ブラジル 0.3
アルゼンチン 4.8
サウジアラビア 32.3
南アフリカ 5.8
トルコ 3.8
ロシア 8.1

国境を越える移民たちの動向は、人間開発指数の高い国(総じて所得が高い先進国)への貧困地域から移動する傾向がはっきりしている。こうした構造的な格差は、グローバル資本主義が生み出した経済的な搾取、政治的な覇権主義、そして軍事的な破壊行為の結果である。現代の不安定な構造の背景にあるのは、単純な多国籍資本の権益に還元することができない。むしろこうした多国籍資本が、その利益の源泉としてきた社会進歩や人々が理想とするライフスタイルを実現するための財やサービスの提供そのものにある。言い換えれば、「貨幣的な価値」だけではなく、この価値を実現するために資本が市場を通じて提供する人々の日常生活のための―つまり〈労働力〉再生産のための―生活の「質」そのものが、人々を物質的肉体的なだけでなく、精神的にも心理的にも、そして文化的な貧困に追いやってきた。

5.3 文化的同化

排外主義と差別の問題は、ヘイトクライムやヘイトスピーチの問題だけではなく、むしろ自民族文化に対する同化を暗黙のうちに強要するような同調圧力によって生み出される心理作用への対抗的な取り組みが必要であり、あからさまな誹謗中傷とは逆に、ポジティブな言説のなかに内包されたレイシズムであるために、固有の困難な課題でもある。あからさまな差別的な言動や暴力に多くの「日本人」が積極的に同調することは想像しづらい。逆に、日本の伝統文化や生活習慣の肯定的に評価されてきた側面を移民や外国人たちが受け入れずに、出身国・地域の言語や文化を持ち込む場合に生まれる日常的な些細にみえる摩擦が生み出す感情的な齟齬こそがヘイトスピーチといった突出した暴力の温床になる。

運動の側も含めて、多様な言語や文化を背景としてもっている人々との共同の行動の経験が持てている人達は多くはないと思う。異なる文化の人々と接することは、自分たちが当たり前と思っていた(運動や活動家も含む)文化の常識を相対化することになる。彼等が日本の文化やライフスタイルに同化することだけが求められるなかで、運動の側が私達のライフスタイルや文化を変えるための工夫をもつことが必要だろうと思う。

安倍政権は、移民受け入れ政策へと大きく転換した。この政策転換は、安価な〈労働力〉の調達政策として、研修生制度への批判をかわしつつ、労働市場の供給圧力を高めることによって、人件費を抑えこみたいという資本の論理が働いていることは間違いない。では、こうした政権の思惑があるから移民の日本への入国に反対すべきなのか。この政策だけを見るのであれば反対する以外にないが、しかし、他方で、私達がまず何よりも第一に考えなければならないのは、移動の主体は、日本政府でもなければ私達でもなく、日本で働く意思をもつ移動する人々である。彼等の意思が最大限尊重される必要がある。この点で、「日本の労働環境は過酷で差別もひどいよ」といった忠告は余計なお世話である。長い移民受け入れの歴史をもつ欧米であっても、数世代にわたる移民の経験があっても差別は解消されていない。しかし、そうであっても移動する人々がいるのだ。逆に、門戸を閉ざす日本の入管政策は、移民排除を掲げる欧米の極右にとっての理想モデルとすら言われている。彼等の国境を越えて来たいという意思を歓迎することが第一である。彼等の意思は、彼等を安価に搾取しようとする資本の意思とはそもそもの「労働」への向き合い方が違う。また、日本政府のように〈労働力〉でありさえすればいい、というのでもない。

6 情報通信インフラの国際標準をめぐるヘゲモニーと私達の「自由」の権利

6.1 収斂技術としてのコンピュータテクノロジー

コンピュータ技術は私生活から軍事技術まで広範囲に及ぶ様々な技術を支える技術の位置を占めている。生物の基本的な構造は分子生物学や遺伝子工学のコンピュータで解析可能と信じられている。工場では機械を制御するシステムになり、事務所では経理や人事の管理に用いられ、学校では生徒の個人情報から成績の管理に用いられる一方で、情報リテラシーやプログラミングの教材になる。人々のコミュニケーションは、不特定多数を相手に双方向の通信が可能になる。エネルギー革命といわれた産業革命やオートメーション技術の発明もこれほどまでに広範囲に、人々の日常生活から世界規模のシステムまで、分子レベルから宇宙規模までを包含して世界の理解を規定するような技術はなかった。

この技術の基礎を築いてきた欧米の科学技術は欧米を基軸とする国民国家と資本主義の制度的な前提なしにはありえなかった。しかし、今、グローバルな資本主義の基軸が非欧米世界へと移転するなかで、コンピュータ技術は欧米の覇権を支える技術ではなく、逆に欧米の覇権を脅かす技術になりつつある。

欧米のICT技術に支えられてきた資本主義と国家は深刻な難問が最も端的に表われているのが、Huaweiへの米国の苛立ちである。その背景にあるのが、Huawaiが構築してきた5Gネットワークの主導権である。既に、私達にはお馴染の話だが、スノーデンやWikiLeaksなどが暴露してきた欧米先進諸国による情報通信の監視や盗聴、そしてFacebookがトランプ政権の選挙に協力してきた英国のCambledge Analyticaを通じて米国の有権者動向分析のための膨大な情報を提供してきた問題など、ネットワークの世界は同時に、諜報活動や情報収拾活動の重要な基盤になっている。さらに、5Gになれば、このネットワーク同時に社会インフラを支えるコンピュータシステムと密接に統合され、いわゆる「サイバー攻撃」のリスクが高まるとも言われている。

6.2 自由の社会的基盤としてのコミュニケーション環境

コミュニケーションは私達の基本的人権の核でもある言論表現の自由、思想信条・信教の自由を支えるものだ。このコミュニケーションの権利が資本と国家の利害に私生活プライバシーのレベルから統合される事態が生まれている。その結果として、資本と国家の利益が私達の自由の権利を抑圧することが正当化される傾向が生まれている。

しかも、こうした抑圧は、鎖に繋がれた苦痛のような実感を伴うことなく、人々の一見すると自由な動きそのものを規制しコントロールするようになっている。指紋認証、顔認証、行動分析から将来の犯罪予測まで、コンピュータは広範囲の監視と規制の警察や軍隊の技術としてIT産業を支えるようになっている。米中でHuaweiを槍玉に上げて起きていることは、コンピュータ技術とコミュニケーション技術の主導権の転換を象徴している。

7 「テロ対策」名目の治安監視と超法規的な 市民的自由の剥奪―それでも闘う民衆たち

7.1 異常な規模の治安対策予算

テロなどの警備対策予算は約333億円。前年度予算から207億円の増加。代替わり関連は38億円に対してG20警備関連予算が120億円。警備費用は異常という他ない膨大な金額である。G20開催国は、いずれも膨大な警備費用と反対運動をはじめとしてテロ対策のために、 市民的自由を公然と制約し警察力を強化し、監視社会としてのインフラを構築する。その結果として、こうした警察-監視の体制が構造化される。

G20の会合は、これまでのオルタ/反グローバリゼーション運動が活発な国でも大規模な大衆運動が展開されてきた。たとえば、2010年トロントのG20では、史上最大の警備費用を投じ、警察の過剰警備によって反対運動参加者700名が逮捕される事態になった。警察の弾圧は無差別に近いもので、その後警察の行動については多くの批判的な検証が行なわれた。

7.2 トロントの場合

トロントの反g20運動が大きな高揚を実現できたのは、リーマンショック以降のG20諸国がおしなべ公的資金を金融機関救済に投じる一方で、緊縮財政と新自由主義政策をとったことへの強い異議申し立ての問題だけではなかった。むしろ、こうした狭義の経済問題に連動する形で起きてきた、多くの社会問題に対して、コミュニティの活動家からグローバルなNGOまで、いわゆる市民運動からマルクス主義左翼、アナキストまで、非暴力のストリートフェスティバルといった趣きからブラックブロックによる多国籍企業店舗への攻撃まで、アーティストや先住民運動まで、移民の権利から性的マイノリティの権利運動までが参加したことによる。

トロントのG20反対闘争は10日ほど続いた。

  • 2010年19日、20日(日)ピープルズ・サミット。労働組合や環境運動団体、NGOなどが主催。カナダ-EU自由防疫協定から先住民運動かで100以上のワークショップなどを開催。
  • 21日(月) 南オンタリオの反貧困運動が主に組織た抗議行動。数百名のデモ。数名逮捕。旗を持っていたとか、デモの規制地域にある自分の職場に入ったことなどが理由。
  • 22日 ジェンダーやクィアの権利のデモ。ダウンタウンでは同性愛嫌悪に対抗した「キス・イン」。
  • 23日 環境や気候変動を中心としたこの時点まででの最大規模のデモ。音楽、ダンス、ドラム、フェイスペイントなどの陽気なデモ。
  • 24日 Indigenous netwoark Defenders of the Landが組織した先住民の権利デモ。前日のデモ参加者を上まわる。
  • 25日 「わたしたちのコミュニティのための正義を」を掲げコミュニティの運動を中心としたデモ。移民の市民権や主権の問題から福祉切り捨てまで。最後はブロックパーティが路上で行なわれ終夜の「テント村」が出現。

ほぼ毎日1万から4万人のデモ

  • 26日(土) 「People’s First」をかかげて、組合やNGOがデモを組織。ブラックブロックを含む反資本主義、反植民地主義を掲げるデモの一部が警戒区域へと向う。銀行、スターバックスなどの多国籍企業の店舗が破壊される。この日以降、警察による報復攻撃が始まり、非暴力デモに対しても弾圧が始まる。
  • 27日 警察も暴力が顕著になる。ほとんどの市の主要な活動家たちが逮捕され、路上の抗議行動参加者の疑いがあるというだけで拘束。
  • 28日 逮捕された人達との連帯デモ。釈放された人達も再び路上へ。
  • 25日から27日だけで700名が逮捕される。10

こうしたカナダでの弾圧は例外ではない。むしろ毎年のG20の開催に伴って、どこの国でも同様の弾圧が繰り返されてきた。G20は、グローバル資本主義を中枢で担う諸国が、その「価値観」や利害を異にしながらも、国内の反政府運動を弾圧するための格好の口実であるという点では利害の一致をみている。G20にとってこうした国内治安弾圧は、副次的な意義しかないのだが、現実政治のなかでは、むしろこの治安弾圧が主要な獲得目標になっているとみてもよいくらいなのだ。

7.3 治安監視の国際ネットワーク:スノーデンファイル

トロントのG20会合について、カナダの公共放送が興味深い記事を配信した。11

https://jp.reuters.com/article/l4n0jd1iv-nsa-tronto-idJPTYE9AR04E20131128

NSAがトロントG20で諜報活動、カナダ政府は黙認=報道 [トロント 28日 ロイター] -カナダの公共放送CBCは27日、2010年にトロントで行われた20カ国・地域(G20)首脳会議の際、米国家安全保障局(NSA)が諜報活動を行うことをカナダ政府が認めていたと伝えた。

これはCBCが、NSAの元契約職員エドワード・スノーデン容疑者が持ち出した機密文書を引用する形で伝えたもの。それによると文書は、オタワの米国大使館が諜報活動の司令部となり、オバマ米大統領など各国首脳が相次いで会談する中、6日間にわたりスパイ活動が行われていたことを示しているという。

ロイターはこの文書を確認しておらず、報道の内容を確認することはできない。

また報道によるとNSAのメモには、この作戦は「カナダのパートナー」と緊密に連携して行われたとする記載があり、カナダ当局が米国の諜報活動を黙認していたと伝えている。

報道は具体的な諜報活動の対象については明らかにしていない。

カナダのハーパー首相の報道官はCBCの報道についてコメントを拒否した。

ここで言及されているスノーデンの暴露した機密文書には、アルカイダなどの国外のテロリズムの他に次のような記述がある。

「情報機関は、課題別の過激派がサミットに登場するとみている。こうした過激派は、これまでのサミットでも破壊行為を行なってきた。同様の破壊的活動がトロントのG20の期間中に集中する可能性がある」12

報道にあるスパイ活動には、G20に反対する運動へのスパイ活動も含まれていることが上の文書からも明かである。治安監視問題は、国内の警察問題ではなく、G20参加諸国の情報機関も関与する問題になっている。同盟国が相互に相手国の情報収集するだけでなく、開催国の国内治安問題いも関心を示す。オルタ/反グローバリゼーション運動が国境を越えるとともに監視のネットワークもまた国際化していることが如実にあらわれている。

8 おわりに:シンボリックな外交儀礼とナショナリズムだとしても、だからこそ…

G20で議長国が、リーダシップを発揮して、何らかの政治的な合意をとりつけることは、容易ではないし、たとえ合意があっても、ほとんど実効性のない空手形の類いに終るであろうことは明白だ。そうであればあるほど、G20の性格は、実質的な政治や外交の交渉の場というよりも、このメガイベントをまさにイベントとして演出することによってもたらされるある種の祝祭効果のようなものが期待されるようになる。

国家が内包する人々の意思は多様であり、支配的な制度の意思やイデオロギーに還元するとはできない。儀礼や祝祭を権力が演出するとき、これらに冷水を浴せるような民衆の怒りや嘲笑は、儀礼や祝祭が隠蔽しようとする空疎な内実を白日のもとに晒すことになる。権力者が恐れるのは、彼等の側には、現在のグローバルな資本主義が抱えている、制度そのものの内在的な矛盾を解決する道筋を見出せていないばかりか、逆に、制度内部で、権力者達がお互いに啀み合い、敵対せざるをえないようなヘゲモニーの交代に直面しているからだ。私達にとって、トランプや安倍を肯定しないからといって、G20のどの国が主導権をとろうとも、歓迎することも「敵の敵は味方」といった安直な王様選びのゲームには加担しない。

外交や国際関係は、コミュニティをベースにした直接民主主義が成り立ちにくい分野だ。なぜなら、利害関係者が国境を越え、国家によって分断されるからだ。多国籍資本の投資であれ、政府による開発援助であれ、あるいは軍事的な介入であれ、当事者の主体となるべき民衆の側は分断されたまま、「首脳」を名乗る者たちが、あたかも主権者の代表であるかのようにして、物事を決めていく。ネットワークがグローバル化したからといって、人々のコミュニケーションが言語の壁を越えるのは容易ではない。そして、こうした越境する連帯を阻害しているのは、G20のような首脳たちであるだけでなく、そもそもの国民国家が国益のために築いている「壁」、現代の関所ともいうべき国境である。もし民主主義を語るのであれば、その最低限の条件は、国境を越えた民主主義でなければならない、ということである。一方の当事者だけで物事を決めるべきではないからだ。とすると、そもそも、国民国家が国別に定めた憲法のような法の支配の体制もまた相対化されざるをえない。G7が傲慢に宣言した共有された自由や民主主義の価値を私達は共有するつもりはない。概念を再定義する力、ことばを取り戻すことを、言語の壁を越え、文化を横断して実現するにはどうしたらいいのだろうか。権力者のいう自由や民主主義にはうんざりだ。デモをする自由も異議申し立ての自由もろくに与えないこの国の主権者たちはその責任を自らとる必要がある。しかし、それが一国の内部に留まるなら、グローバル資本主義には立ち向かえないが、同時に、私達の日常生活は、ほとんどコミュニティや地域を越えることもない。しかし100年後、1000年後を夢見ることはできる。こうした意味での想像力を鍛えることだ。

私達が目指すのは、資本主義衰退であって、繁栄ではない。ひとつの国家が、文明が、没落し滅びることに期待を寄せ、無上の喜びを見出すためには、どのような夢を見たらいいのだろうか。

9 (補遺)簡単な年表

2009年 ティーパーティ運動始まる
2010〜15 ギリシア危機。15年、チプラス政権誕生
2010〜12年 アラブの春。この民衆運動はほとんど全てのアラブ中東諸国に波及
2011年〜12年 オキュパイ運動
2011年 シリア反政府運動から内戦へ
2011年 リビア内戦
2013〜14年 ウクライナ、ユードマイダンの反政府運動
2014年 イスラム国宣言
2014年 クリミア独立宣言
2014年 スコットランド独立投票(否決)
2014年 米国と有志連合、シリア空爆開始
2014年 スペイン、カタルーニャ独立投票
2014年 香港雨傘運動
2014年 台湾ひまわり運動(国会など占拠)
2015年〜 ヨーロッパへの難民の急増(世界の難民は2100万人:UHCR)
2016年 英国、EU離脱国民投票(可決)
2017年 トランプ政権成立
2019年 ブラジル、ボルソナーロ極右政権誕生

歴史は繰り返さないが、こうした歴史の教訓を念頭に置くことは、極右の台頭とグローバル資本主義の揺らぎに時代にあって、決して無意味なこととはいえないだろう。

Footnotes:

1 公共サービスとしての教育や社会保障、社会福祉のイデオロギー上の目的は、人間としての最低限の文化的な生活の保障といった憲法上の要請によるものとされている。しかし、資本主義システムの構造的な機能との関係でいえば、資本による賃金コスト抑制のために政府がそのコストを肩代わりすること、賃金はあくまで〈労働力〉の価格でしかなく、人々が生涯にわたって生存できるだけの所得とは関わりがない。貧困は、資本による直接的な搾取の他に、生存を保障できない労働市場の構造にもその原因があり、資本主義経済のこの矛盾を政治的に(財政によって)解決することによって、階級闘争を抑制し、生存を国家に依存する従属の構造(ここには、心理的な従属を含む)を生み出す。資本主義国家における社会保障や社会福祉は労働者階級あるいは民衆が資本と国家から自立した生存の構造を自律的に生み出すような運動を抑制して、生存を国家に統合するという性質をもつ。社会保障、福祉はこの意味で、手放しで肯定できるものではない。

2 インターネットのガバナンス組織は、ICANNである。米国に本社を置く非営利民企業。インターネットの技術仕様や資源(IPアドレス)などや、ルートサーバの管理などの中心的な課題がICANNの理事会で決定される。

3 外務省ウェッブ https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/summit/ko_2000/faq/index.html

4 欧米近代の相対的な後退のなかで登場てしきた「極右」と呼ばれる様々な反近代=伝統主義の運動は、今回が始めてのことではない。20世紀初頭、第一次世界大戦による惨劇は、「西洋の没落」(シュペングラー)の最初の出来事だった。西欧近代の諸国は、価値観を共有しながらも、総力戦によってお互いに膨大な数の殺し合いを繰り広げた。その後、この戦争を帝国主義として再定義し、西欧近代を支えた資本主義を否定する社会主義運動が大衆的な高揚のなかで受容されるなかで、資本主義近代でもなく社会主義・共産主義でもない第三の道が伝統主義として呼び出された時代でもあった。同時に、ロシア革命からイタリア、ドイツへと拡がった革命のなかから、ファシズムが登場する。ファシズムは、高度な科学技術と生産力と近代以前に遡る民族主義や伝統主義によって、国家の正統性を再定義しようとする運動でもあった。ここで鍵を握ったのは、労働者、農民を、その家族とともに、国家に統合するためのイデオロギーの創造だった。

5 近代資本主義体制は、経済的価値増殖を自己目的とする資本、権力あるいは政治的な「価値増殖」を自己目的とする国家という二つの側面をもつ。経済的政治的な「価値増殖」に帰結する構造はひとつではない。しかし、この構造にとって、資本にとっては〈労働力〉が、国家にとっては国民が、社会的な人間のアイデンティティの核をなすものとして要求される。しかし、この二つの構造にとって必須でありながら、そのいずれのメカニズムにも完全に包摂していていないもうひとつのサブシステムがある。それが、親族組織(あるいは家族)である。家族は、〈労働力〉再生産の基礎をなす。国民として、また〈労働力〉として訓育するための国家の組織、教育制度は、家族による子どもの養育を前提とした組織である。失業者、高齢者などの非〈労働力〉人口を生活の基盤として支えるのは家族(単身の場合も含む)である。家族は、資本や国家に超越した普遍的な親族組織なのではない。むしろ逆である。〈労働力〉市場と国家の人口政策が家族の構造を規定する。資本主義は、体制として世代の再生産を資本と国家の組織内部で自己完結的に実現できない。家族はこの意味で必須の前提になる。資本主義が中心的に要請する世代の再生産の役割が家族に振り分けられる結果として、家族イデオロギーもまた世代の再生産を中心に構築される。世代の再生産と関わらない家族は周辺化され差別化される。

6 GDPは問題の多い指標である。しかも一国単位のデータは国内の格差を明示しないという問題もある。しかし、長期的な傾向がどのようであるのかを概観することがここでの目的である。

7 この図は電力各社のウエッブにも掲載されている。原発を正当化するためのデータとして用いられるようだが、むしろ注目すべきなのは、工業化がいかにイエネルギー過剰消費の構造をもっているか、である。 https://www.eneichi.com/useful/2192/

8 イスラム教徒が少数のミャンマーでは仏教徒が多数者として加害者になる。イスラム教徒が多数のパキスタンとヒンズー教徒が多数のインドとでは、同じ宗教に属する人達の加害と被害の構図は異るが、マイノリティへの抑圧という構造は共通する。言うまでもなく、日本の多数とは天皇信仰を持つ者たちである。民主主義は多数決原理に還元できないといわれながら、現実の政策や法制度は多数決原理による民主主義によって正当化されることを考えると、民衆内部の多数と少数の複雑な構図がもたらす問題は無視できない。

9 人口の質的コントロールとは、イデオロギー装置による「国民」としての形成を指す。「国民」という枠組を人口のカテゴリーとして構築するということは、国境内部の人口の周辺に国民とは定義されない人口を抱えていることを意味している。

10 ここでの時系列の出来事は、以下による。Tom Malleson and David Wachsmuth eds., Whose Streets?, Between the Line, Toronto,2011.

11 下記も参照。 http://metronews.ca/news/canada/868200/u-s-spied-on-g20-summit-in-toronto-and-canada-knew-about-it-cbc/

12 TOP SECRET // SI / TK // REL TO USA AUS CAN GBR NZL https://www.nhk.or.jp/gendai/articles/3965/snowden/snowden6.pdf

国連人間開発報告書。19世紀以来貧富の格差は拡大しつづけた。新自由主義だけが貧富の差を拡大させたわけではない。
19世紀から20世紀にかけてのCO2排出量は異常な増加を示している

Date: 2019-05-16 22:12:00 JST

Author: 小倉利丸 (ogr@nsknet.or.jp)

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出典:https://www.alt-movements.org/no-g20/blog/index.php/g20hihan/

6.8集会とデモ:ビッグデータがもたらす監視社会、G20デジタル経済・貿易会合への批判