1 選挙なのだが….
安倍だけが問題なのではなく、安倍政権を支持する「国民」が多数を占めているこの国の「世論」が問題だと思うのだが、こう言うと、投票率の低さからみて、安倍の支持率は過半数にいかないではないか、選挙区の区割りや定数格差などの事情を考慮するとますます安倍支持は少数ではないかという反論がありうる。そうかもしれないが、私は悲観論者なので、むしろこう言いたい。
そもそも、選挙に行かない層は、行く必要性を感じていないわけで、選挙に無関心である理由のなかで、考えられる理由いくつかありそうだ。一つは、現状の政治に特に異論を唱えなければならないほど切実な危機感や批判意識を抱く必然性を実感していないということではないか。この場合、同じような環境にありながら、ある人々は危機感や批判意識をもち、別の人々はむしろ権力に同調し、更に最も多数を占めるかもしれない人々は無関心であるというように、異なる考え方をもつのはなぜなのか、という問題に私たちなりに答えを探さなければならないだろう。
安倍政権が(あるいはより本質的には戦前戦後一貫してなぜ保守・右翼が政権を維持しつづけているのかという問いについての最も簡単で(ある意味では安直な)こたえは、権力の真実を隠蔽するまやかしに多くの人々が騙されているから、真実を暴けば人々は権力の正体に気付き、反旗を翻すはずだ、というものだ。騙される大衆と、この騙しに乗らないで真実を見抜く「私たち」という図式は、あきらかに傲慢だ。なぜ「私たち」は真実を見抜くような才能を身に付けられたのか?あるいは「私たち」の主張が真実であり、大衆の考え方が騙されたものだという根拠はどこにあるのか?人々はそれほどにも愚かであるという傲慢さに少なくとも私は不快な気分以外のものを感じない。
そもそも私たちは真実を体現するなどという大それた存在ではない。むしろ私たちが熟考しなければならないのは、彼らの「正しさ」と私たちの「正しさ」といった複数の正しさがあるということを前提とするか、あるいは、私たちの正しさが本当に正しいのかどうかを反省することだ。もちろんこの反省が、彼ら権力者の正しさへの屈服を意味するなら、それは思想的にも生き方としても敗北の宣言をして転向することを意味するが、そうではなく、彼らでも私たちのこれまでの思想でもない、未だ見出せていない「正しさ」を模索すること、という第三の道もありうるということである。
1.1 大海の一滴にすぎない「1票」のもつ意味
もう一つは、選挙で投票する票の効果は、何万という票のなかのたった1票にしかすぎないという諦めがあるかもしれない。この諦めは、理解しやすいようにもみえる。しかし、膨大な人口を選挙の母体とする近代国民国家の代議制は、その当初から、大規模な有権者のなかのたった1票しか割り当てられていない個人から成り立ってきた。自分の1票がほとんど体制に影響しないことは常識でもわかる。しかし、そうであっても多くの人々は選挙に出向いてきた。それがある種の「義務」の意識からくるものだとは思えない(棄権することにペナルティは課せられないからだ)。ではなぜ1票の無力さよりも1票に多かれ少なかれ期待を寄せる心情を抱くのか、ということの方が説明を要するだろう。
投票することが実際に政治を動かすだけの効果をもつと実感されるためには、自分の票が個人としての票ではなく、自分が帰属すると感じている社会集団の票と一体のものとして自覚できるかどうかにある。こうした集団的なアイデンティティは、伝統的な社会関係でいえば、一方での地域コミュニティへの帰属意識、他方で労働組合や企業への帰属意識など、いずれにせよ集団への帰属と「票」が密接に関わってきたようにみえる。これは今でも、選挙をめぐる投票行動の分析の基本条件をなすが、「無党派」と呼ばれたりする層は、こうした社会集団の政治的な機能とは直接の関係意識をもたないために、個人としての意識=わたしの1票のむなしさ、無力感がより強いかもしれない。
1.2 階級的アイデンティティ
もうすこし教科書的にいえば、「革新」を支えてきた投票行動の背景には、広義の意味での階級意識の存在があったということだ。労働運動だけではない多様な社会運動を背景としながら、自民党や保守との価値観の相違が理屈ではなく、ライフスタイルの一部として存在していた。だから、一方で労働者階級の政治意識が、他方で、資本家の政治意識が、相互に集団的な対立の構造の意識的な受け皿として個人レベルでも実感しうるものだったのではないか。この個人の実感を社会的な階級意識へ媒介するところに政治集団としての「党」が機能していた。党に帰属していないとしても、いわゆる「支持政党」と階級的な帰属意識との間に、安定した持続的な繋がりが自覚されてきたように思う。人々の集団的な意識は階級に還元されるわけではなく、家族、地域、友人から国家への帰属まで、様々なアイデンティティの集合であるが、そのなかで、階級意識と「国民」としての国家への帰属意識は人々が政治的な価値判断をもつときの最も影響力の大きな要因であったという時代が、多分、20世紀の半ばころまでは見られたように思う。社会制度の側面でいえば、労働運動や労働組合に集約され、これらを母体とする左翼政党と資本家階級の意識を体現する経営者組織に集約される保守政党であり、後者が主として国民国家の権力を握るという構図である。
2 「外部」あるいは「瑣末」な存在の重要性
2.1 核心としての「外部」
この構図は、便宜的に階級社会論などとして単純化されて論じられる場合の「骨組」のようなものだが、この構図が重要なのは、二大階級の図式に還元することのできない、その外部がこの階級社会の構造を常に不安定、不均衡な状態に置く主体として存在してきたという点にある。この外部というのは、実は言葉の便宜的な表現上の都合(私の表現力のなさに結果)でしかなく、実際には外部どころか、それ自体が社会の核心をなすといってもいい条件である。
社会システムが安定することのない不均衡を常態とするのは、社会システムと不可分であり不可避ですらある条件が社会システムの内部ではなく外部に存在するという奇妙な構造をもっているところにある。「社会とはこれこれの仕組みをもっている」という説明によって理路整然と社会が説明されるとき、社会が抱える本質的で避けがたい深刻な問題は、このような理路整然とした説明のなかでは瑣末な要因として軽視されて切り捨てられる。むしろこうした意味での切り捨てられた外部から社会が抱える矛盾が噴出する。「瑣末」というのは、こうした要素を軽視あるいは無視しうるとみなすことだが、社会である以上、この「瑣末」とみなされる要素を構成しているのは、これもまた人間集団である。そして、この人間集団もまた「瑣末」なもの、どうでもよいもの、社会にとって存在してもしなくてもよいものという位置付けのなかでほったらかしにされるわけだが、そのことが結果として、社会システムそのものを不安定にし、矛盾や危機を生み出すことになる。
2.2 「外部」の内部化
他方で、社会の支配的なシステムは、主要な(瑣末とはいえない)対抗的な社会集団を現にある社会システム(資本主義)の維持を前提として、その内部に取り込むことによって制度の安定性と支配の覇権を維持しようとする。有力な対抗的な社会集団による問題提起は、社会問題化されやすいから、これを制度内改革を通じて、制度の維持が可能な範囲に問題解決を抑えこむ。19世紀であれば、標準的な労働時間の法制化、児童労働の禁止などから男性の普通選挙制度の導入、19世紀末のいわゆる社会保障制度の導入などがこうした枠組によって説明できる。その結果として、労働運動の主流は、体制変革の運動(社会主義、共産主義、無政府主義の運動)ではなく、資本主義の制度を前提とした改良主義へと転換してゆく。こうした問題の枠組では、女性であること、有色人種であることなどの属性は重要な主題とはならない。皮肉なことだが、階級的な敵対関係を資本主義の内部に包摂する仕掛けは、階級闘争を通じて、この闘争を教訓として資本の自衛戦略として編み出されてくる。
同時に、こうした主流の運動の周辺に―つまり外部に―主流の運動に包摂しえない社会集団が登場する。改良を否定してあくまで資本主義を打倒しようとする運動ばかりではなく、そもそも運動の内部では十分な認識を獲得できていない課題をになう社会集団が、運動が事実上無視してきたことへの批判も含めて、運動<論>の再構築を要求するようになる。こうなったときに初めて、社会システムの「主流」をなすと自認してきた主流の社会諸集団の側が、この「瑣末」な社会集団の存在に気づいて、資本家と対決する上で利害を共有しうる存在として認知するか、あるいは逆に、敵対的な関係へと追いやってしまうかの選択を迫られることがある。1支配者達もまた、この「瑣末」な集団をどう扱うべきか、扱いかね、あるときは社会システムに影響を及ぼさないところにまで放逐しようとしたり、逆に自らの利害損得を計算しながら、自らの集団の内部に「下位集団」として組み込んで懐柔すようとする。こうして外部の「瑣末」な社会集団は、内部化されるか放逐されて、社会は再びある種の均衡や安定を実現したかにみえる。2また再び、今まで想定していなかったか薄々気付いていても「瑣末」な事として無視してきた社会集団がまたぞろ登場し、上で述べたことと同様の揺らぎをもたらすことになる。
2.3 外部の「瑣末」な社会集団とは実は内部の社会集団そのものなのだが
上で、便宜的に「外部」の「瑣末」な社会集団と述べたものは、実は、文字通りの意味での社会の外側にある何者かを意味するわけではない。それは、社会を構成している人々そのものである。人々は、複数の社会集団に所属し、複数のアイデンティティを持つ。労働者階級という概念があたかもある個人が、その存在の全てにおいて労働者階級に帰属する存在であるかのようにみなすが、実際には、家族のなかでは親族システムのなかの一定の位置付け(妻とか夫とか)に即した役割りを担うし、地域社会や友人関係、学歴もまた、それぞれに固有の人間関係を形成する。そして、誰もが国籍を付与されることによって、「国民」としての義務や権利、アイデンティティを持たざるをえないものとして教育される。ラディカルな労働運動の活動家が家族やジェンダーの価値観においては保守的な家父長制的な価値観をもっていたり、民族差別意識をもっていたりすることは決して矛盾ているわけではない。たとえ革命家であっても、ありとあらゆる側面において革命的なわけではない。支配的な変革の理論や思想が、「革命的」とかラディカルとする枠組においてそうなだけである。そして、こうした変革のための思想や理論が人々に提起する世界観や社会認識が、資本主義批判にとって主要な課題が何であるのかの指針を与えるから、こうした理論がまた、どのような事柄が「瑣末」なのかについてのお墨付きをも与えることになる。
しかし、「瑣末」な外部による、主流の社会関係への介入と異議申し立てを通じて、こうした存在を正当に再評価して、社会変革にとって重要な主題であることを再認識することによって、理論や思想が自己批判的な再構築を試みることができるかどうかによって、運動を担う人々が共有する社会批判の枠組にも影響をもたらすことになる。言い換えれば、理論や思想がいつまでたっても自己批判できず、理論が「瑣末」としてきた事柄の再評価を阻むのであれば、運動もそれを支える世界観も変らない。せいぜいのところ政策的な課題として表層的に(選挙の票目当ての公約のように)処理されるだけだろう。
上で述べた「瑣末」とか外部というのは、それぞれの個人が自分自身の中に持っている複数のアイデンティティのなかにありながら、社会認識の理論や思想によって、下位に位置づけられているアイデンティティである。
3 伝統的な社会批判の限界
3.1 例えばジェンダーという課題と階級闘争という課題はどこで交差するか
たとえば、伝統的な資本主義社会の批判的な分析では(マルクス主義の教科書的な理解をイメージしていただけばいいのだが)、社会集団は上で述べたように労働者階級と資本家階級という階級概念で括られるものとして理解された。この理解のなかで、資本主義の基本的な矛盾や問題が論じられることになる。支配者の側にあっても、経済であれ政治や法律であれ、資本主義を肯定することを前提とした社会理論の体系が構築され、実務的な政策が策定される。人間とか労働者とか資本家とか国民といった概念が繰り返し登場するが、これらが明示していない属性がいくつもある。例えば性別は明示されない。明示されないという意味は、性別という要素が「瑣末」であって、無視してよいからだ。社会問題の主要な課題ではない、ということの表明である。資本主義社会の問題を解決する上で中心に据えられるべきなのは、階級闘争であり、人々は労働者階級としての集団性によって代表することができるとみるわけだ。あるいは、階級闘争によって性差別の問題も解決可能であるとみなす。なぜなら、女性労働者もまた女性であるよりも労働者であることの方がより重要な社会的な属性であるとみなして、労働者階級に帰属するものであり、労働者階級の解放はそれ自体が人間の解放を意味するのだから、女性もまた人間である以上、人間として解放されれば女性に関する問題もまた解決されるハズであるということになる。
同様のことは、人種差別などその他の社会問題にも共通していえることだ、というのが階級社会一元論の観点である。しかし、こうした一元論は、ジェンダーの問題を解決できなかった。なぜならば、階級社会論には家族や世代的再生産、あるいはセクシュアリティの問題を捉える枠組がないからだ。もし、家族やセクシュアリティの問題を含めて、再度「社会」の枠組を捉えかえすということになった場合、ジェンダーの問題と階級の問題をどのような関係として、あるいは解決されるべき優先順位の問題として理解すべきかということへの答えが要求されることになる。
階級と民族、階級とエコロジーなど、19世紀以降階級闘争として構築されてきた社会運動の基本的な枠組を揺がす課題が、とりわけ20世紀後半から現代まで、一貫して増殖しつづけてきた。しかも、冷戦の終結と20世紀の社会主義(それがその名に相応しいものかどうかも含めて)の敗北によって、階級闘争の思想的理論的な正統性への信頼が大きく揺らいだ。その結果として、社会主義という選択肢が非現実的なものとみなされ、それが新自由主義のなかで、福祉国家やいわゆる混合経済体制すら選択肢ではないかのようにみなされるという閉塞状況が生まれた。他方で、これまで選択肢としてはありえようもない宗教的原理主義(イスラームだけでなくレイシズムを伴うキリスト教、天皇主義、ヒンズー教、仏教まで広範に拡がっている)というイデオロギーの新たな形態が無視できないものとして登場してきた。これは、近代資本主義が非世俗的資本主義というこれまで「瑣末」だとみられてきた資本主義の選択肢が無視できない力をもってきたことを示している。
資本主義を擁護するビジネスの理論もまた、企業の収益が最大化することが社会の幸福と同義であるとみなして、社員が企業組織の人的資源として最大限に活用しうる条件を論じるが、ここでもまたジェンダーや民族の問題は、「瑣末」なものとみなし、これらに関わる差別の問題も軽視する伝統が長く続いた。ビジンネスにとって、無視できない最大の障害は労働運動あるいは階級闘争や社会主義、共産主義のイデオロギーであったから、これらに対抗できる組織と思想を構築することに最大の関心を抱いてきた。
3.2 「外部」の闘争こそが社会を不安定化させる
こうした事情が20世紀の後半以降徐々に変化してきたことは、私たちが直接経験してきたことでもある。女性や性的マイノリティ、少数民族の社会的な差別の問題を放置できなくなった背景にあるのは、階級闘争の主流派の主体が、こうした問題を階級闘争として組み込んだからではなく、伝統的な闘争の枠組の外部に、新たな主体として階級に還元できないアイデンティティを前面に押し出す社会集団による闘争が登場したからだ。こうして、闘争の主体は、複数の社会集団として登場することになり、階級闘争の図式に還元できないより複雑な社会の不安定性が重要な課題となる。3
こうした集団性の解体が、よく言われるように、階級意識の解体を招いたが、これに代替する資本主義に対抗しうる社会的に多数を占める人々をまとめる集団性のアイデンティティは今に至るまで見出されていない。しかし、様々な異議申し立てのアイデンティティを基盤にした運動が錯綜しながら相乗効果をもたらす場合がある一方で、日本のように、相乗効果が発揮されるのではなく、人々が集団性を資本(企業と消費市場)と国家(ナショナリズム)と家族に収斂させる傾向が濃厚となる国もある。私たちの課題は、こうした制度の周囲に構築されてきた支配的な対抗軸の外に、新たな「外部」を構築することである。そしてその「外部」が資本主義の制度に内部化されることも排除されることも拒否することとはいったいどのようなことなのかを模索することを行動と思想の両面で実践することではないだろうか。
危機感も批判意識も、日常生活のなかの私的な会話や愚痴の類いではなく、より積極的に自らの心情の表明のレベルにまで達することがなければ、投票という些細な行動であっても、行動には結びつかない。こうした意識が促す現状維持を消極的あるいは受け身であれ否定することを含意するものだから、変化への期待や可能性を前提とする意識ということになる。危機感や批判意識の欠如は、断念、諦めによる現状甘受の心情でもある。この心情は容易に、外部の敵への感情的な憎悪によって、抑圧を解除しようとする。だから、棄権した有権者の大半は、安倍に対する潜在的な支持層である。なかには、投票したい候補者がいないとか選挙はそもそもナンセンスであるという人たちもいるだろうが、とりわけ、左翼やアナキストの信条から選挙を拒否するという人たちはごく少数に違いない。
だから、この国の多数は、安倍政権に肯定的だと推測することの方が合理的だと思う。このような理不尽な政権を肯定するなどということがどうしてありえようか?と批判的な私たちはつい考えてしまうのだが、ここで立ち止まって考えなければならないのは、私たちにとっての正しさがなぜ、多数の人々にとって受け入れうるものになっていないのか、である。
脚注:
例えば、普通選挙権を要求する運動は、無産者の選挙権を要求するという場合も、男女ともに選挙権を要求することが実現性の困難な場合に、男性無産者にまず選挙権を与える方向で運動の方針を立てると、女性の選挙権を要求する運動とは対立することになる。しかも、有産者の女性にまず選挙権を与え、既存の有産者男性の選挙権の制限を解除しようという女性の参政権運動は、労働運動や無産者運動からは階級的に敵対するものとみなされることになる。一般に、改良主義や漸進的な改革運動は、こうした相対立する選択肢に直面したとき、その世界観や価値観が問われることになる。
ここでは労働運動を例に出しているが、現代でいえば、正規の常用雇用の労働者に対して非正規の労働者の運動といった事例を挙げられるかもしれない。あるいは、戦後の世界でいえば、米国の公民権運動、植民地解放運動から移民の運動、いわゆる「68年」の運動、そして、現在欧米世界で最大の問題になっている難民の問題、あるいは、そのアイデンティティが軽視されてきたムスリームというアイデンティティ(冷戦期の左翼がイスラム世界を宗教的文化的なアイデンティティの問題として重視してきたことはほとんどない)などなど。いずれもかつて「瑣末」あるいは外部とされてきた社会集団がむしろ社会の主要な運動の主体となるというケースである。
階級闘争が主役を担っていた19世紀から20世紀にすでに女性解放運動はあったし、こうした運動が階級闘争との緊張関係をもってきたことは知られている。また、階級闘争の基本的な社会経済構造の前提が、都市の工場労働者と大資本との対立に置かれているとき、その外部に無視できない闘争の主体が登場する。農民や小規模自営の貧困層である。これらをプチブルとみなして資本家階級の下位集団と位置付けるのか、それとも労働者階級の同盟集団とみなすのかは、古典的な階級社会論では一義的な説明ができない。19世紀から20世紀にかけて、資本主義化が進む諸国では、この農業・農民問題が重要な課題となり、また、革命後のロシアにおいても社会主義建設の難問が農業問題であったのは、そもそもの資本主義批判の枠組に非工業セクターのなかでも重要な位置にあった農業部門をきちんと位置づけることができなかったからだ。同様に、性別の問題、とりわけ女性をめぐる問題は、労働現場に還元できない家族の問題を含み、家族の問題は世代的再生産の問題と不可分であるから、ここでもあまた階級という観点の外部が問題の核心をなしていた。家族の問題とはとりもなおさずプライベートな問題として公的な問題から排除され、伝統的な労働運動にとっては主題とはならなかった。しかし、このプライベートとされる問題が人口と<労働力>の再生産に関わるという意味でいえば最も「公的」な領域でもあるという逆説をともなうのだが、こうした家族の問題が政治的社会的な問題として自覚されるようになるのは階級闘争や労働運動ではなく、その外部にあったジェンダーの運動だった。