いかなる理由があろうとも武器をとらない

私たちはいかなる理由があろうとも武器をとらない、という強い決意がなければ、日本の戦争は阻止できない。私たちは権力者でもなければメディアに影響のある有力な発言力をもつ者でもないし、SNSのインフルエンサーでもない。私たちが武器をとらないと宣言しても、それは孤立する以外にない事態になりうることでもある。しかし、まだそこまでは追いつめられてはいない。とはいえ、ロシアによるウクライナ侵略とその後今に至るまで継続している戦争をめぐる報道や情報に接するなかで、武力攻撃を受けるのではないかという目前の不安感情が喚起されて、「こうした事態を回避するためには自衛力の行使もやむをえないのではないか」という感情をもつ人達は、増えているように思う。

自衛のための武力行使を明確に否定すること

護憲や平和憲法擁護の議論の最大公約数になりつつある立ち位置は、自衛力の保有を是認しつつ、この自衛力が実際に行使されないように、外交手段などによって平和の維持に努力すべきであって、政権与党や右翼のように、率先して戦争に前のめりになることには反対だ、というあたりにあるように思う。戦争に前のめりになる具体的な政治的対応が自民党の改憲であるとして批判する場合でも、自民党や右翼との対峙の基軸が、「自衛」の暴力を肯定するか、巧妙に回避するのであれば、武力あるいは暴力の行使が意味する本質的な課題について、日本の支配的な権力や右翼の主張を支える「自衛」の問題に太刀打ちできずに、ずるずると国際関係の現実主義の罠に嵌ることになりかねない。そもそも政府がいう「自衛」=自己防衛の「自」とは彼ら自身の権力のことであって、これを人々が「自分たち」の「自」だと誤解させるようなレトリックがある。彼らは、民衆の命を犠牲にして彼らの「自衛」を図る。

これに対して、いかなる理由があろうとも武器はとらない、という立場は、自衛のための武力行使を明確に否定することが主張の要をなし、同時に、敵がいかに残虐な侵略者であっても、彼らに対して武力によっては対峙しない、という覚悟をもつということでもある。その上で非暴力不服従の戦略と考え方を確立することが重要になる。

もうすこし身近な言い方をすれば、私は人殺しはしたくないしできない、だからといって自分の安全のために誰かに私のかわりに人殺しをしてもらうというようなことも考えたくない、ということだ。戦争について「殺されたくない」という言い回しがあるが、これでは決定的に不十分だ。なぜなら殺されたくないから、自衛のために殺すことは許容される余地を残すからだ。むしろ殺さないことが重要なのだ。この極めて素朴な日常生活感覚が社会関係の基礎にあるからこそ、社会は殺し合いを問題解決の選択肢とすることについては、ある種のタブーとして封印する。ところがこの封印の例外に、国家による暴力の独占があり、これが法の支配のもとで正統性を獲得してきたのが近代国民国家だ。今問わなければならないのは、この国家による例外的な暴力をそのままにはできないということだ

戦争状態のなかで(あるいは目前に到来しそうだという不安のなかで)、人殺しはしたくないとかできないといった感覚は、あっという間に覆される。だから常備軍ではなく徴兵によって短期間の訓練だけで戦場に派兵される人達も「兵力」になりうる。同様に、平和運動の理念もまた、目前の脅威にさらされた(ように感じられる)場合、容易に、平和を維持するために平和を脅かす敵を物理的に屈服させなければ不安でならない、これこそが平和を維持する唯一の手段だというように、安倍が主張した「積極的平和主義」のような戦争を平和と言いくるめるようなレトリックに容易に足をすくわれてしまう。この不安感情のなかで、人々はナショナリズムの感情によって統合され、この人工的に構築されたナショナリズムが、あたかも、何百年のこの国で続いてきたかのような物語を次々に生み出すことになる。祖国のないはずの労働者階級に祖国ができ、社会主義もまたナショナルな社会主義に、つまりナショナル・ソーシャリズムに変質することになる。

平和を徹底させるためには、こうした罠を可能な限り回避しないといけない。そのためにはいかなる場合・理由であれ、武器は持たない、殺されても殺すことはしない、という強い決意が必要になる。これは易しいことではない。武器をもたないという選択は臆病者の選択だが、臆病ではとうていやってられないタフな選択なのだ。しかも、この選択は、いわゆる「敵」の脅威だけでなく、味方からの精神的肉体的な抑圧や孤立、戦争体制をとる自国政府による弾圧をも被るから、二重の暴力に晒される。多くの兵役拒否者や脱走兵たちは、この二重の迫害を生きる覚悟をもつことになる。だからこそ、戦争当事国において武器を持たないこと、殺さないことを選択し、なおかつ戦争に抗って闘うことをあきらめない人々との連帯は、彼らを孤立させないためにも、とても大切なことでもある。

正義について

私が、武器をもたないという選択をすべきだと主張する大前提には、暴力は正義を体現することはできない、という認識があるからでもある。私が正義を確信したとすれば、正義のための暴力は許容されるのではないか、という疑問があるかもしれない。しかし私が確信した正義は本当に正義だといえるのかどうかを、「戦時」や戦争の危機が目前に迫ったコミュニケーション状況のなかで、客観的に判断することはほとんど不可能だ。戦争は、自国民や兵士が命を捨てる覚悟なしには、遂行できないから、極めて強度な国民統合の機能が働かなければならない。軍事行動による犠牲は避けられない以上、社会が総体として軍の行動を支持するような合意を獲得できるように政府は動く。伝統的なメディアもSNSも、あるいは社会的影響力のある知識人やインフルエンサーもこぞって戦争を肯定するような動きが形成され、ごく一部に、例外的な事象として戦争反対の主張が存在するという構図が描けなければ戦争はできない。こうした状況のなかで、「正義」は戦争の正当化のための戦略的イデオロギー操作としての言説の網のなかで、「正義」の意味をめぐるヘゲモニー構造が形成され、結果として、国家の軍事行動を正当化する言説に「正義」の意味内容が与えられ、この正義を根拠に正義の実現のための手段として暴力が正当化されることになる。マージナルな反戦集団が発する「正義」はむしろ「不正義」のレッテルを貼られ、リベラルな知識人の議論はアカデミズムの象牙の塔のなかでのみその自由を与えられるに過ぎず、社会的な影響力が削がれる。だから、こうした状況のなかで、反戦運動が、客観的な情勢分析から「正義」を判断することは極めて困難な作業になる。

正義は言葉を介してしか証明しえないものだが、戦争状態にあるとき、言葉もまた戦争をめぐるレトリック、欺瞞、嘘、陰謀など様々な戦略的イデオロギー的な影響を受けて武器化される。正義の証明として暴力が正当化されるようにみえるとき、そもそもの正義が偽装された正義ではないか、と疑うべきだろう。しかし、その疑いすらも多くの人々の脳裏にはもはや浮かばないかもしれない。だから、原則の確認が必要になる。力の強さと正義とは比例しないだけでなく、両者の間にいかなる因果関係もないのであって、正義を暴力の優劣によって証明することはできない―これはDVを想起すれば、それだけで十分納得できる論理のはずだ―という単純だが否定しえない論理を踏まえさえすれば、戦争を正当化する正義の欺瞞を見誤ることはない。

私たちはいかなる理由があろうとも武器をとらないという原則は、国家の自衛権を明確に否定することを意味している。軍事的脅威と不安を煽る政府や世論に対して、反戦平和運動は、この明確な立ち位置を確実なものにする必要がある。だから、自衛隊も米軍も容認する反戦平和運動は、その本来の意義を逸脱していると思う。これは決意の問題ではなく、現代世界を構成している権力や国家をラディカルに否定するための世界観、価値観、思想的な立場の問題でもあると思う。