貨幣と市場の政治学

1 はじめに――貨幣と資本主義批判

1.1 生存の構造と資本主義的市場経済

人間が社会集団を構成して持続的に世代的な再生産を維持し、一定の人口(増減はあってもいいが)を維持することができるために、「経済」と呼びならわされてきた仕組みが、どの時代、どの社会にあっても組み込まれていなければならなない。(これを「経済」と呼ぶ必要はかならずしもないが)

経済は、人々の生存を維持する上で必要なモノを生産、供給するためのものであるから、市場経済だけを意味する必要もないし、家族(親族)組織のように、近代社会では経験的に「経済」とは呼ばれない組織も、見方を変えれば生産や供給に関与しているれっきとした経済システムの一部を担うものだと理解する必要がある。いかなる組織、制度、集団もそのほとんどが何らかの意味で経済の機能を果しているのだ。同様に、社会は人々を統治するためにシステム(一般に政治と呼ばれるが)を組み込んでいるが、政治のシステムもまた、行政、立法、司法の諸組織だけを意味しているのではなく、一般に経済の組織とみなされている資本や労働の組織や制度もまた統治機構としての役割を担う。家族もまた親密な集団を組織化することが可能なようなルールや支配と被支配の関係を含むという意味で政治的な機能を果している。

1.2 利潤目的のメカニズムと生存のメカニズム

資本主義は、資本の利潤目的の活動を動力として社会の人口の生存を維持するシステムだ。利潤を目的とする組織は社会の人口の生存を結果として支えることができるということを証明するための理論が、近代の経済学という学問分野だ。しかし、その実態からすればむしろ、資本の利潤目的の活動を正当化するために、社会の人口を維持する生存のメカニズムとして最適な仕組みとして資本を中核に置く市場経済があるのだという本末転倒した理屈づけが経済学という学問を形成してきた。この本末転倒した理屈は、人間個々人の私的な利益や欲望を最大化することを自己目的とする行動が、結果として社会全体の生存を最適化するという風にも主張されてきた。個人が「自由」に自己の利益の最大化を図るという身勝手に見える行動が、逆に社会の「幸福」も最大化するはずだという理屈は、人々が市場経済的な私利私欲を正当化するための学問的な裏付けを与える役割も果してきた。

この利潤と私的な利益を社会の豊かさや繁栄をもたらすものとして正当化する主張は、実は、証明されたことは今まで一度もない。資本主義的な市場経済が資本に一定の利益をもたらし、資本蓄積を通じてここ数世紀の間に莫大な市場経済的な富を蓄積してきた背景には、資本主義的な市場経済のメカニズムがあるということは説明できる。しかし、このメカニズムが社会の人口の生存を維持することに成功してきたかどうか(失業者は市場経済のシステムの内部では生きられない)、社会を構成する人々の「豊かさ」を保障するシステムとして機能してきたかどうか(世界規模でみれば、19世紀からの2世紀で世界の貧富の格差は国別でみて70倍以上に拡大した)については、常に有力な反証によって異論を完璧に退けるまでにはなっていない。

資本による利潤目的の活動のメカニズムと人々の生存のメカニズムは相互に一体のものにはなっておらず、別々のメカニズムとして機能している。資本のメカニズムと生存のメカニズムの二つのメカニズムの間を人々は日常的に往来する。朝出勤して会社に行くのは、人が資本のメカニズムに入ることを意味している、という風にとりあえずイメージすることはできるが、これは必ずしも正しいとはいえない。人々の24時間は、会社の外にいようが家で睡眠している時間であろうが、こうした時間が人々の<労働力>を再生産する時間として機能しているという面からすれば、これもまた資本のメカニズムの内部にあるといえる。生存のメカニズムはむしろこうした日常の時間や経験として実感されるレベルではなく、その背後で、人々の実感や経験を越えたレベルで機能している。

1.3 資本に依存しない生存のメカニズムとは

資本の搾取からの解放というマルクス主義が掲げた課題は、それ自体としては間違ってはいないが、資本に依存しない生存のメカニズムとは何なのか、それはどのように変容するのかという問題については十分な関心をもってこなかったように思う。

端的な問いとしては、資本主義が供給してきた諸々の商品(財やサービス)が資本の廃棄によって労働者がこれらを供給するとすれば、財やサービスの具体的な構成は資本主義社会とは何ひとつ変らないことになる。資本の利潤として資本が懐に入れる剰余価値=利潤部分は、人々に配分されるから、分配は変るが、社会全体が受けとる財やサービスの構成は変わらない。しかし、たぶん、こうした単純な資本家の労働者への置き換えを社会主義だと主張することで満足できないことは明かだ。では何が問題なのか。

資本主義が資本の利潤目的で供給してきた商品には、様々な紛い物や社会にとって有害な物も含まれる。このことはマルクスも繰り返し指摘してきた。だから、資本のない社会では、利潤目的に従属して商品の使用価値が毀損されるような条件が排除されて、人々は自らの必要を満すためのモノを自ら生み出すことになるだろう。言わば、自分で食べるモノを作る人間が、健康に害のあるものや手抜きの不味い食事を作るよりは旨い食べ物を作りたいと思うように、社会全体が社会にとって好ましいものを社会の主体である人々が―資本に依存せずに、直接に―生み出す。これはいわば、生存のメカニズムを直接何にも媒介されないで実現する社会、ということを意味している。

1.4 生存のメカニズムの直接的な実現は不可能だ

こうした社会が実現できればそれに越したことはないが、実は社会とはそのようには実現できない、というところが重要なのだ。資本の廃棄は重要な課題であり、これは、人々が資本主義的な搾取から解放されるための必須の条件である。しかし、その結果が、生存を直接実現する社会を生み出すことがないのは、生存のメカニズムは、社会全体の構造を支えるものではあっても、この構造を人々が経験とか人生とかとして生きる世界それ自体にはなりえないのである。なぜなのか?

もし人がロビンソン・クルーソーのように自給自足の生活をしているのであれば、こうした生存のメカニズムを直接実現することはできる。ところが人が二人になるや、生存のメカニズムは二人の関係によって覆われることになる。関係という「覆い」によって生存の直接性は背後に退き、関係というある種の「虚構」のメカニズムが生成される。生存の条件の達成は、この二人が何らかの形で相互に相手に依存することを通じて実現されることになるから、関係という迂回路を通ることになる。

1.5 ことばと相互理解

人間は一人では生きられず集団を構成するが、その意味することは、この集団をなす人々の関係は広義の意味でのコミュニケーションによって構築されるということだ。コミュニケーションには様々な要素が含まれる。とりわけ「ことば」はその中心的な役割りを果す。ことばを通じて人々は、相互の感情や意思などを伝えあう。感じたことを「ことば」に置き換える。表情や仕草などもある種の「ことば」だ。人々は「ことば」(文字だけではなく発話も含む)通じて、「世界」に関する観念を構築し、この「世界」を人々は共有しあっているものとして相互に信認しあう様々な手続きを編み出す。「ことば」は、身振りであってもよく、様々な手段で自分の意思を外部に表明すること、声帯を使うか顔の筋肉を使うか、手を使うか、衣服の色やデザインを使うか、それは本質ではない。この意思を他者が「理解」すること、そしてこの両者の間に意思の疎通が可能であるという共通した了解が成り立つことがあればよい。

もちろん、こうした意思疎通の了解を証明することは容易ではなく、多くの場合、客観的あるいは科学的に両者の理解が完全に同じものであるという確認なしに、「そう思う」ということで成り立つものだ。誤解はコミュニケーションにおける重要で不可欠な要素であり、また、同時に嘘や虚偽をあたかも「真実」であるかのように表明することもまた「ことば」の重要な性質である。

1.6 真実の一部としての自覚された虚構あるいは嘘――世界を構成するものとして

文学や詩などの芸術と呼ばれる分野は、この「嘘」をむしろ崇高なものへと押し上げる領域であり、嘘や虚構がそれ自体として価値を持つ世界だ。現実にはありえない物語や表現がここでは生み出されて人々は感動する。人々は嘘や虚構に感動できるし、それを素晴しいものとして尊重することもできる。同時にこうした虚構の世界が人々の現実の世界に影響を及ぼすことにもなる。人々が世界に働きかけるときに、世界を見る見方や、世界に働きかけるときに人々は虚構の世界が与えた「世界」についての見え方に影響されることもしばしばだ。文学によって人生の進路を変えるとかということは、即席ラーメンを袋に書いてあるレシピ通りに作ること同様、世界と自分の関わり方に変化をもたらす力をもっている。たぶん、即席ラーメンよりもその影響力はおおきいだろうと思う。

文学であれ美術であれ、それらが生み出す虚構の世界は、人々の内面の世界のなかでは、一つの「真実」を構成している。その真実とは、こうした虚構の世界を経験したという事実であり、その経験によって、経験するまでは考えもしなかったような世界についての、あるいは自分自身の生き方やこれまでの経験への捉え返しそれ自体の修正やときには否定すら生み出すことになる。虚構は人の内面世界で、真実を構成する現実世界の経験の一部として埋め込まれる。よくよく考えれば、私たちの経験という現実の(虚構とか嘘とは言えない)体験のなかに、読書とか美術とか映画といった表現の世界もまた含まれており、後者が文字や絵の具の痕跡や光の強弱が織り成す物質の世界としてではなく「意味」を担うモノとして理解され受容される。このこと自体はまぎれもない事実であるが、それは虚構を経験するという事実だから、事実としての虚構を経験するということになる。人間の経験の大半はこうした虚構を事実として経験する世界から成り立っている。そうではない、事実を事実として経験する世界はほとんどない。つまり事実の直接性は人間にとってはこれを「経験」として捉えることが極めて困難なのだ。その困難の原因をなしているのが、人間が世界を理解するときに常に広義の意味での「ことば」を介する以外にないという特異な世界との関わり方にある。

1.7 真実を装う虚構あるいは嘘――世界を構成するものとしての宗教、学問、国家

文学とか芸術を引き合いに出したが、それだけではなく、人々の内面世界がより具体的に世界それ自体を変えうる力を集団的に構築する場合がある。その典型が宗教的な信仰と呼ばれる「嘘」あるいは「虚構」である。神と呼ばれる証明しようのない絶対的な存在をめぐる物語が宗教の重要な要素にあるとして、この神の物語を文学や絵画のように虚構の力として受容するのではなく、それ自体が虚構であることを否定して真実とか真理であるとして受容あるいは理解させようとする。これが虚構を前提としてその崇高さを標榜する文学や芸術とは決定的に異なるところだ。真実としての神を内面化した人間集団は、この真実に沿って世界を再構築しようとする。真実としての神が観念としてではなく現実としての世界のなかに物質化されるように振る舞う。こうして宗教上の様々な建築物や教義を教育する制度などからイコンや経典ということばで書かれたテキスト、芸術の力を借りて非言語的な表現によって真理を具体化しようとする。

虚構や嘘が現実世界に具体的物質的な実体を構築することは可能である。この可能性を支えているのは、単なる人間の妄想や創造ではなく、虚構を現実世界の中に組み込むために現実世界を構築している物的な構造に転換できる能力があるかどうかに依存する。神を信仰する人々が神殿を造営するときに必要なのは、神への信仰というモチベーションとともに、神殿を設計し、構造物として建設するための建築学や工学の技術・知識である。これらの技術や知識は神の存在には依存せず、むしろ構造計算だとか諸々の工学的な学問・知識に属するものだ。こうした工学的な知識が動員されることで虚構が具体的な現実の世界のなかに組み込まれる。こうして可視的で触ることもできる物質としての神殿が出来上がったとして、人々はこれを単なる工学的な条件を満した建築物として「理解」するのではなく、それを「神殿」として理解する。こうして神は物質化されることになる。宗教的な虚構は現実の世界と不可分一体のものとして存在している。虚構と現実という区別はこの意味では、この宗教的な信仰に帰依する人間集団を外部から観察するよそ者が便宜的に与えた、このよそ者にとっての嘘と現実の区別であるに過ぎない。

神殿は壊すことも焼き払うこともできるが、それによって神が滅ぶとみなすことも可能だが、むしろこうした現実世界にある物質的な構築物を廃棄することによって人々が内面世界に構築した虚構を退けることにはならない。虚構を廃棄する作業は、人々が経験として実感している内面世界を一旦リセットする作業が必要になる。この問題がかなりやっかいなのは、人々の内面的な世界と外部の世界とは言語上はあたかも区別可能なのように表現せざるをえない(これは私の表現能力の未熟さによるのだが)が、実は同じ構造の異なる側面なのである。この構造は社会そのもの、つまり現在であれば資本主義的な社会それ自体の構造である。

虚構を経験するための文学や芸術から虚構を真実(真理)とする宗教的な信仰から、狭義の意味での「経済」に立ち戻ってこの問題を考えてみよう。神殿と建築学の関係は、市場や資本と経済学の関係にもいえることだし、国家と政治学や法学にもいえることだ。いずれも真理が虚構を支え、虚構に物質的な実体を付与することに加担する。

2 商品――虚構の現実性と「ことば」というやっかいな難問

2.1 辞書の意味と商品の意味

「商品」という物的な現実体について上記の論点との関わりを考えてみよう。

広辞苑の初版では、自動車を「内燃機関を動力とする軌道をもたない四輪で移動する輸送機械」といった定義を与えている。この定義は理論的には間違っていないし、統計上も自動車は「輸送機械」として分類されているから、実用上もこの定義が意味をなさないわけではない。しかし、自動車が商品の使用価値として売買されるときにはこの定義はほとんど意味をなさない。買い手も売り手も自動車はこのようなモノとしてではなく、この定義では明示されていないそれ以外の要素によって自動車の使用価値を規定しようとする。それは広告に端的に示されるし、人々が自動車を「買いたい」と思うときの動機に即して考えれば容易にわかる事柄である。

自動車という使用価値は、市場経済に固有の意味をまとうことなしには商品にはならない。この固有の意味は、ある面では文学や芸術のような虚構を露出させた「物語」がもつ買い手(候補者)の想像力や欲望を喚起する機能を動員するし、また宗教的な信仰のように虚構を「真実」とするような機能―とりわけ自動車メーカーの企業としての神話―を動員するかもしれない。買い手は自分の欲望を実感として感じることを否定できないから、その欲望を肯定しがちだ。しかし欲望は商品の使用価値をめぐって売り手が構築する虚構を混じえた意味の刺激によって生成されたものであって、自然なもの、あるいは生存の構造に根拠をもつものではない。商品の意味は人々の実感によって経験として繰入れられる。

2.2 売り手と買い手ん相互行為と意味の生成

アダム・スミスは商品としての「ピン(まち針)」を、マルクスはリンネルとか上着とか小麦を例に交換を説明した。この説明は非常にプリミティブな市場では成り立つが、こうした一般名詞で商品を交換する世界は近代の市場経済のなかでは極めてマレだ。むしろこうしたモノの物質的な使用価値とは相対的に異なる意味を付与されたものとして市場に供給される。どちらの場合であれ、売り手と買い手の間で生じるのは、売り手は買い手の欲望を喚起する何らかの戦術を行使し、買い手はこの売り手の攻勢に対して買うかどうかの意思決定の決定権を握ることによってその攻勢に立ち向かいながら、欲望の構成を調整するということだ。この売り手と買い手の相互行為のなかで、市場は社会におけるモノの意味を生成し再生産する。ここには市場に固有の意味の世界、言い換えれば、市場経済に固有の虚構と現実との不可分一体の構造が形成されるとともに、この構造を前提とした相互関係がとりむすばれる。

この構造のなかでは、自動車が、たとえ生存に必須の使用価値を担っていたとしても、それはこの生存に根拠をもつ以上の「意味」なしには存在しえないし交換もされないということだ。近代的な市場経済が資本によって支配されているということは、このような構造を支える資本による虚構を含む意味の構造を指している。

2.3 資本主義の否定としての意味の否定――了解不可能な意味の世界をどのようにして創造するか

そうだとすれば、資本主義を否定して、その問題や矛盾を克服するということは、資本の意味の構造をその土台から覆すということでなければならなし。しかし、最大の困難は、こうした意味の世界は資本の側にしかなく、その買い手―大半が労働者階級に属するとされる大衆だが―の側にはない、ということではなく、買い手の欲望のなかに転移され大衆の日常生活を構成しているということである。

大衆は資本の虚構を自らの経験として主体的に意味を付与したり調整しながら生活のなかに取り入れるのである。自動車を買った買い手は、売り手の意味に束縛されずに自らの意味生成の主体として自分の自動車を再定義できるが、そうであったとしても、こうした再定義された自動車もまた資本主義的な生活のなかで、再び資本主義的な生活世界のなかに投げ戻されて人々の資本主義的な日常の一部を構成することになる。こうした大衆の主体的な意味生成の過程を資本は巧妙に横取りして、これを次に売る商品の意味づけのなかで利用する。

こうした資本に加担する構造から逸脱して、市場のモノを資本から切断して「使用」することは、資本主義の生活秩序や虚構の構造を覆す上で必須である。これは、一言でいえば、資本によっては理解しえないモノの使用を創案する想像力の問題である。つまり、資本主義が許容することのできない虚構の世界を構築することである。わけのわからない振舞いやスタイルは個人の孤独な営為というよりも、それ自体もまた集団的な営為として一定の広がりを獲得できたとき、そこには意味の世界の分節化が生まれる。文化のコードが分裂して、資本を遮断するのである。

商品の使用価値をめぐる虚構と現実世界を架橋する意味の世界は、マルクスが商品論で言及できなかった問題でもある。意味の世界が重要なのは、それが虚構であり「嘘」であり、しかも「ことば」はおしなべて虚構や嘘と不可分であり、要するに人間は嘘つきであることによってコミュニケーションを駆使できる存在だということを、現にある支配の構造への転覆の戦略としてどのように組込むかという問題である。革命にとって問題なのは「正しさ」ではなく虚構と嘘の想像力/創造力の問題である。革命家とは偉大な嘘つきである…!?

3 貨幣――一般的等価性と市場の政治学

3.1 一般的等価性は何に由来するのか

商品における意味生成は、売り手と買い手双方の相互行為を通じてモノの虚構を現実を構成する力とする。貨幣にも同様の意味をめぐる虚構のメカニズムがある。

マルクスは貨幣と呼ばれることになる一般的等価物としての商品の存在を、市場経済に参入する人々の「共同作業」だと述べている。つまり市場にいる人々が、歴史的にみれば「金」を貨幣とするという了解を形成することで、金は貨幣となる、ということだ。金という金属物質の有用性もまた社会のなかでの金の用途がどのようなものなのかに依存するから歴史的な性質をもつ(ともマルクスは述べている)が、高価な装飾品としての「意味」には、社会を構成する人々が虚構のなかで形成してきた神話や物語と関連づけられた意味の具体的な体現物などのように、物質性それ自体からは導くことのできない有用性がまとわりついている。王冠に用いられた金は王権を象徴する「モノ」となるが、王権そのものになるわけではない。また、王権という至高の権力を例えとして引き合いに出すためのもの(例えば、王権とは何の関りもない飲料に王冠のマークをほどこすのは単なる隠喩としての王冠の利用だが、それとは違う)でもない。

貨幣とされた「金」の一般的等価物としての性格は金という物質に由来するわけではなく、人々の共同意思に由来する。この共同意思とは金という物質に、他の商品にはない固有の意味、すなわち「どのような商品とも交換できる力をもつモノ」を与える。市場に参加する人々の信認によって「金」は貨幣になる。しかし難問は、どうして市場に参加する人々皆が例外なくある特定のモノに一般的等価性を付与し、貨幣として認めるのか、なぜ例外がないのか、という問題である。この難問をマルクスは価値形態論という『資本論』のなかでも最も難解だと言われる方法で解こうとした。しかし、マルスクの方法は、商品交換が一般的等価物を必要とすることを暗黙のうちに先取りして想定しているようにみえる。そうすることによってしか市場で唯一の一般的等価物を導くことができなかった。論理的な展開に現実による先取りが横入りしている。俗な言いまわしをすれば、一般的等価物は複数よりも一つの方が市場の交換にとって便利だということが経験的にも現実的などいう事実によりかからざるえをえなかった。

3.2 唯一の一般的等価物は市場ではなく分配から生まれる

一般的等価物としての性格を主張することはどの商品にも可能である。それを市場が受け入れるかどうかはまた別の話である。もしそうだとすれば、唯一の一般的等価物に収斂する過程は、市場それ自体からは生まれない。(この問題は、『資本論』第三巻の信用制度で中央銀行と発券の集中の議論にも共通する「難問」だ)

貨幣と呼ばれる商品が唯一のものとして、一般的等価性を独占する力は、市場の交換からは生まれない。こうした唯一の存在が生じるのは、交換ではなく分配の機構からだと思う。分配とは社会の統治機構が構成員に対してその生存を保障する必要と権力の正統性とを結びつける上で欠かすことのできないメカニズムだ。権力者が市場においてあらゆる商品との交換を保証するモノとして「金」を指定して、その一般的等価性の後見人になるときにのみ市場のなかに唯一性が生みだされる。市場はこうした意味での唯一性としての貨幣なしには機能しないということでいえば、市場は、その外部に一般的等価性を保証する力を持つ存在を必要とする、ということになる。この力は、その社会において唯一の力であること、つまり他に一般的等価性を主張するようなモノの登場を許さないような独占を維持できる力を持つことが必要であって、それは近代においては国家が担うことになる。この意味で貨幣とは、市場経済にとって必須の機能を担うだけでなく、それ自体が近代社会の権力の経済的な姿でもある。

3.3 労働の裏付けという問題

こうして市場は近代の統治機構に貨幣を媒介として接合されることになる。「金」のように労働に裏打ちされることによって、国家による信認を現実社会における労働という実体とリンクさせたわけだが、これは、市場経済が「共同体と共同体との間」の取り引きのメカニズムを担ってきたことから生じるもので、社会の分配に基づく交換に必須な一般的等価性のメカニズムだけでは説明できない。

複数の共同体(あるいは市場でもよいが)が相手を権力の正統性やその共同体に帰属することの是非についても相互に自己の正統性や帰属のみに依存して相手を「他者」とする場合、一般的等価性の信認は相手の権力に根拠を求めることはできない。だから、「労働」という実体によって支えられることになる。

3.4 分配と自由

他方で、分配が生成する一般的等価物の場合、分配の主体は、誰にどれだけの「貨幣」を分配すべきかのルールを策定しなければならないから、相手が何者なのかを知る必要がある。分配ではモノの関係が人と人との関係によって規制される。

しかし、このようにして分配された「貨幣」が、市場の交換のメカニズムのなかで機能するときにはこの「誰」という側面は不要になる。貨幣の一般的等価性が人が誰であるかを不問として、その一般的等価性のみが信認されることで全ての取り引きが完結する。こうして市場は匿名であっても相互に信認しあう関係を作り出した。相手が誰であるかを知らなくても、相互に信認しあう関係が市場経済では可能になった。その結果として、分配の主体はもはや市場を流通する「貨幣」が誰と誰との間で流通しているのか、どのような取り引きを媒介しているのかを把握できなくなった。

こうして市場で人々は貨幣という一般的等価物が保証する無限の貨幣欲望を引き受けるかわりに「自由」を手に入れることになる。国家は、こうした市場の自由に対して「法」という権力によってその規範を策定することを通じて間接的な制御を行うが、その際に「貨幣」が重要な手段を担うことになる。

3.5 貨幣の「ことば」と権力

貨幣に込められた意味には、市場の交換に必要な一般的等価物としての機能という側面だけでなく、この一般的等価性を保証する唯一の権力による「お墨付き」という意味が含まれる。このお墨付きを人々が感覚的に把握できるためには、「金」はで地金はなく、刻印が打たれる。そしてまた、一般的等価性には特別な貨幣としての名称が与えられる。ドルとか円とか元とか。先に「ことば」と意味について述べたように、社会の構成員が世界を理解するためには意味による世界の了解構造が必要だ。「ことば」はこの了解構造と深く関わる。自動車を単なる内燃機関による輸送機械であるだけでなく、フェラーリとかレクサスとかといったブランドやデザインの「意味」が商品の使用価値と不可分であるように、貨幣は単なる「金」ではないし、貨幣の名称もまた単に便宜的で名目的なものではなく、その名称や外形それ自体が貨幣の本質の一部をなす。

マルクスの資本主義批判の最も弱い部分はこうした使用価値の意味作用であり、この意味作用を構成している「ことば」が果してきた役割りを、抽象的な価値と労働の世界から機械的に分離して、社会主義、共産主義へと継承可能な普遍的な物質的生産の世界だと誤認したところにある。意味のないモノの世界はなく、意味を構成するモノの世界は意味と不可分な歴史的な産物であって、近代であれば使用価値とその意味もまた資本主義的な産物として、この特殊な意味とモノの世界を媒介しないと生存の構造を維持できないように仕組まれている。人々は、だから、資本主義を宿命として誤認し、この世界を与件として最適なシステムを模索するという徒労な作業(これを近代の学問というわけだが)に知的なエネルギーを費す。こうしたモノの意味は次の時代に肯定的に継承されるべきではないのであって、使用価値それ自体もまた廃棄の対象なのである。

3.6 強制的で移譲された信認の構造の限界

貨幣を支える国家による信認の構造は、市場の全ての人々の文字通りの意味での信認を必要とはしない。人々が何らかの手続で――民主主義であれ独裁であれ――国家に移譲した統治権力の一部に、市場の秩序に必要な規範も含まれるからだ。同時に、国家は市場の交換に対して「分配」の権力として、市場を補完するが、同時に、この分配の権力から派生する一般的等価性をもつ「貨幣」の意味世界を支配する。国家というこれまた実体のあいまいな虚構の構築物は経済的な実体として市場の秩序とその不可欠な前提としての一般的等価物のお墨付きを与えることで、その虚構を現実の世界によって根拠づける。国家は憲法や法制度から官僚機構、裁判所による命令、意思決定のための討議も含めて、すべてが「ことば」によって織り成された世界だ。

そもそも市場経済が存在する一つの理由は、物々交換が成り立つ上で必要な人々の需給をマッチングさせるのに必要な情報を処理することができないという人間の知識と情報処理能力の限界にあった。「上着が欲しいけれども、自分が持っているリンネル20ヤール(1ヤール=91センチ)と交換してくれる人がこの市場のどこかにいるだろうか?」というわけだ。貨幣はこうした難問を解決してくれる。しかし貨幣の一般的等価性を支える国家の信認と国家の信認を支える市場経済(国民経済として国家の「富」の源泉であり、分配の原資を供給する構造)という相互のもたれ合いは、資本が市場を支配し、国境を越えた市場の広がりなしには資本蓄積が維持できない規模になると、国家の領域と市場の領域との摩擦を生み出す。

人々が国境を越えて移動すると同時に、複数の国家をまたがる人々のコミュニティ(移民や難民が暮す「先進国」と出身国に暮す親族や友人たち、あるいはことばや宗教や文化といって非物質的な共同性)が国境と摩擦を引き起こす。この摩擦の背景には生存の構造がある。生存の構造と資本=市場が織り成す資本主義的な意味=使用価値と価値の世界との間に調整が不能なほどの齟齬が生じて亀裂が生まれる。つまり一般的等価性という貨幣の性質を支えてきた国家に対して、資本と市場の規模が肥大化した結果として、国家への信認が揺らいできたともいえる。

3.7 仮想通貨

仮想通貨は、この問題を解決するための市場の再構築という側面をもっている。一般的等価性を国家に依存しない仕組みである。それを人間の能力では不可能な情報処理の力を借りて実現することが可能になった。相互の信頼を国家ではなく、暗号技術という純粋に数学的な世界に委ねたのだ。客観的に誰もが否定しえない仕組によって相互の信認を行なうという仕組みだ。人を信じることではなく数学のアルゴリズムを信じるということになる。

ここで達成されるのは、市場経済が必要とする交換における最低限の条件である。つまり、貨幣に対して合意した価格で売り手から買い手にモノの所有権や処分権が移転し、買い手から売り手に貨幣が引き渡されるということだ。買い手にとって必要なのはモノであり、売り手が誰かということが必要なわけではないし、売り手にとっても貨幣が必要であり売り手の素性が必須の条件ではない。この人と人との関係がモノとモノとの関係に置換されることで、人はモノの背後に退き「匿名性」を獲得する。これが市場経済の自由であり、この自由が「ことば」の世界を通じて、一方では統治機構に、他方ではコミュニティのコミュニケーションに浸透した。仮想通貨はこうした意味での近代的な自由を再度市場経済の交換のメカニズムのなかで再生させようとする。現実の市場経済ではもはや不可能な市場の匿名性をサイバースペースで再度実現しようというわけだ。

こうした動きは、仮想通貨が依存する情報処理の世界が、国家の情報処理能力を高度化させて、「国民」と「よそ者」全体に対して、その管理をコンピュータの情報処理能力にあわせて高度化させていわゆる監視社会を構築してきたこと、市場では匿名の買い手が「誰」なのかを詮索する技術が高度化し、信用制度(クレジットカード社会)が現金取り引きの匿名の自由を抑圧して人々の「自由」を奪いはじめたこと、こうして市場の行動も市場外の行動も常に追跡可能で逃げ場がなくなる。国家がもつ分配の権力もまた、誰にどれだけ分配すればどのような権力作用が生じ権力の正統性を強化することに寄与するのかを詳細に計算できるようになる。(こうした「政治算術」の動機は近代の統計学ととも近代国家が本質的にもっている国民統治の欲望に根差している)仮想通貨を含む、サイバースペースのアンダーグラウンド経済は、こうした事態に対する近代的な「自由」の側からの反作用でもある。

3.8 自由と平等をともに実現する可能性

権力の情報処理技術が匿名性を奪う方向に進んだとすれば、その裏面で、同じ技術を匿名性の回復の方向で用いようとしたのが暗号技術だ。最大限必要な情報を網羅的に収集して解析する技術があるとすれば、それを回避できる技術を持つことによって、この網羅的な監視からの隠れ家を確保することで、この高度な監視技術から自分だけは逃れうるシェルターを権力者たちは欲しがる。国家も資本も網羅的に監視し情報を収集するが、自分だけはこの監視の対象にならず、人々にその正体を晒したくない、というわけだ。これはいたちごっこだが、この両面を国家と資本の権力は必要としてきた。これが情報処理技術を高度化させた。皮肉なことに、この網羅的監視は「技術」であり、コンピュータのプログラムに依存するから、一定の知識を持つものなら誰でも実現可能なものでもある。核兵器と違って、個人の手に届くところにある。机上のパソコンでも実現可能だ。仮想通貨は、この意味でいえば明らかに市場の匿名性を確保することを通じて、国家が貨幣を媒介に握ろうとしている市場への支配に対する防波堤を築く動機があるが、それはいわゆるネオリベラリズムの市場原理主義と一致するとは限らないし、投機の手段になるだけでもないし、闇の取り引き手段になるだけでもない、かもしれない。

仮想通貨が提起した問題は、自由と匿名性を再構築し、国家による一般的等価性への信認に代替できる中心を持たない分散的で国境を越えた信認のネットワークによって一般的等価性を構築できるか、という問題である。この問題に対して、更に、どのようにしたら、これに市場のメカニズムが平等に寄与し国家の後ろ盾を持たない生存の構造と調和するメカニズムへと転換できるか、という追加の問いを提起しなければならない。もしこれに市場経済が、たとえサイバースペースや情報処理技術を駆使しても満足な答えを出せないなら、市場経済を周縁に追放し(つまり近代国家をも追放することになるが)何か別の「回り道」を「ことば」の世界を駆使して編み出さなければならない。それなしに資本主義の次は見えないだろう。

(2018年2月20日ATTAC首都圏の連続学習会で配布した資料)

 

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