ナショナリズム天皇制批判文化資本主義批判

文化・伝統のレイシズム

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1 生前退位「お言葉」のレイシズム

何度も議論され、批判もされてきた明仁の生前退位表明だが、あえてもういちど下記の文言をとりあげてみたい。

即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごしてきました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

明仁が「国事行為を行うと共に」と述べていることに注目したい。彼は天皇に国事行為以外に天皇の重要な役割があることを明言した。そのあとに「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索」と続ける。憲法では象徴天皇の国事行為は、内閣が責任をもって助言して行なわれる国事行為であるはずだ。しかし、明仁はそのようなものとして天皇の象徴的行為を考えていない。憲法の枠に縛られた国事行為の外にも、天皇が主体となる象徴的行為があることを明言した。これは、象徴としての天皇の行為は、憲法によって制約しえない領域を含み、憲法の外部にあって憲法を超越する、とも解釈できる言い回しだ。戦後民主主義を体現する天皇であるかのように解釈されてきたが、少なくとも、晩年の彼は天皇の象徴的行為の憲法超越性を自覚していたのではないか。ここでいう憲法を超越するといっても、それは、政治的な権力が法を超越するという意味ではなく文化や伝統に内在する象徴権力の超越性を含意させている。

「伝統の継承者」を天皇に与えられた役割だと述べているところは見逃せない。天皇が想定している聞き手はもっぱら日本国民であると同時に、その圧倒的多数を占める(構築されたものとしての)エスニック集団としての「日本人」である。「日本文化」に属さない「文化」や「伝統」は天皇にとって「守り続ける責任」を有さない。そして、「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし」という皇室を主語とする表現は、日本文化総体を念頭に置きつつ、その中心に皇室の文化を据えた表現だ。ここには文化のヒエラルキーも含意されている。しかも、こうした伝統の継承者として「いきいきとして社会に内在」することを使命にするという。社会に内在した皇室は、当然のこととして、日本の文化や日本に固有の価値を伝統としつつ日本社会にこれを内在化させることを通じて「継承」を実現する主体になる。主権在民の理念はここにはない。ここに戦後憲法の本音が透けてみえる。

天皇が日本国民統合の象徴でありながら、同時に「伝統の継承者」でもあるということは、日本が天皇や皇室の伝統を共有する単一民族から構成されているという虚構を肯定した排除の言説、あるいは日本文化を最上位に置いて諸々の文化をその下位に位置づける差別の言説でもある。これを国民統合の象徴の役割としての天皇が担うということは、統治機構のあり方として、差別や排除が構造化されることを意味している。天皇が「伝統」を口にするということは、国民統合をいわゆる「日本文化」を共有する「民族」や社会集団に限定し、それ以外の社会集団の存在を排除するか差別するという構図を統治機構のなかに持ち込むことを意味している。「伝統の継承者」とは、異なる文化の排除の表明であって、レイシズムの言説なのだ。

この戦後の皇室の発言や振舞いに体現されている文化や伝統をめぐるレイシズムは、戦前戦後を通じて憲法が国民統合を、そもそも法によって規制することのできない特異な宗教的な主体である天皇の象徴機能を与えた結果である。この意味で問題の根源は、戦前であれ戦後であれ憲法そのものにある。

2 徳仁のばあい

現在の天皇、徳仁も皇太子時代に「伝統」や「文化」を次のように用いている。

京都府は、我が国の政治や文化の中心地として、千年を超える歴史を有し、海を越えて渡来する文化を取り入れながら、日本文化の基本を形成してきた「こころのふるさと」と言える地域です。また、長い歴史を通じて、常に時代の変化に対応し、今なお、伝統文化の中心であるとともに、新しい文化を創造し続けています。(中略) 京都では、「こころを整える~文化発心」という大変奥深いテーマを掲げて取り組んでこられました。日本文化と日本人の精神性を見直し、次の世代に継承するため、大切にしたい日本の「こころ」のメッセージを募集し発信するなど、多彩な取組が進められていると伺っています。(2011年国民文化祭、京都:宮内庁ウエッブより)

「海を越えて渡来する文化を取り入れながら」という文言は、文化的な多様性を肯定するかのようにみせながら、むしろ「日本文化」が様々な文化を同化させてきた優位的な位置にあることを評価している。上にあるように何度も「こころ」という言葉を使い「日本人の精神性」という表現すら用いている。皇室が「日本人の精神性」に言及したことはほとんどない。宮内庁のウエッブでみるかぎりこの一箇所だけだ。「物」を介した文化から人間の感性や心情に直接関わる文化領域へと踏み込んでいる。この言葉から戦前の「日本精神」を連想するのは過剰反応と思う一方で、かといって全く無関係と言いきれるかどうかは、この言葉が受け手によってどのように解釈されるのかによるだろう。今の日本には「日本精神」を許容する危うさがあるように思えてならない。

あるいは次のような徳仁の「伝統」という言葉の使い方にもレイシズムが隠されている。

現在の世界の水問題は、大変厳しい状況にあります。その解決は、世界の喫緊の課題であり、国際社会が一致し て、強固な連携を図りつつ、ことに当たることの重要さは今更言うまでもありません。しかし、その解決策は、その地方、その河川流域ごとに異なるはずです。その地域の先人達が、場合によっては数千年の歴史をかけて、営々として築きあげてきた流れにそって構築されるべきものでありましょう。それぞれの地域の歴史の流れと伝統が尊重されなければ、本当に地域に役立つものとはならないはずです。(第4回世界水フォ-ラム全体会合基調講演:宮内庁ウエッブより)

ここでは、ある地域に数千年の単位で生活してきた人々による「伝統」に注目している。言いかえれば、その地域に新たに居住するようになった人々を言外に伝統から逸脱する人々であり、 水問題の解決の主体になりえないかのような印象を人々に与えている。天皇や皇室が繰り返し口にする「お言葉」は、ほとんどの「日本人」にとって違和感のない、むしろ退屈ですらある「常識」の類いであることが多い。しかし、こうした日本の「伝統」や「文化」の言説がレイシズムを支える大衆意識の基層を構成してきた。

3 グローバル化する極右と天皇制

冷戦終結以降、世界規模で目立つ政治的な動きは、民衆の反グローバリゼーション運動が明確なオルタナティブを社会主義として掲げなくなるなかで、新自由主義グローバリゼーションを左翼とはある意味で真逆のベクトルで批判する極右の台頭である。明らかに左翼の衰退の隙をついて極右が政治的影響力を強めてきているのだ。

極右は、経済のグローバリゼーションを「マクドナルド化」にみられるような画一的な消費文化、格差、貧困、移民の流入によるコミュニティ固有の価値の破壊として批判し、テロリズムや法制度を通じた移民排斥を実現しようとする。人々は自分が生まれ育った場所で、その場所の文化や伝統を重んじながら暮すことが最も幸福なありかただとし、市場経済競争よりも、文化や伝統に依拠した民族的アイデンティティの再構築を通じたコミュニティの再建を主張する。近代科学技術を環境破壊の元凶とみなして伝統文化のなかに解決を探そうとする。リベラリズムと民主主義を敵視し、家父長制家族制や権威主義を肯定する。米国の福音主義がある一方で、ヨーロッパの極右の一部には近代世界に加担したキリスト教を否定し、キリスト以前へのヨーロッパの古層への回帰、ヨーロッパの原型を北欧やアラブ、インドなど非西欧文化や宗教に求める異教主義的な傾向もある。

「文化」が伝統主義や極右の政治運動と結びついて運動の駆動力として復興しつつあるとき、日本では、裕仁から明仁への代替わりが重なった。グローバルな極右の台頭のなかで、象徴天皇制が世界各地の資本主義延命の文化運動とシンクロしはじめていることに注目したい。天皇制の構造は、見掛けと違って日本に固有とはいえない側面がある。神話や伝統への回帰を武器にするレイシズムと闘う世界の運動と日本の反天皇制運動とが共通の課題を見出すことは難しくなくなっている。むしろ連帯の可能性が拡がっている。このことは、伝統主義と闘う左翼の運動にとって大きな希望だと思う。

出典:『反天皇制運動Alert』44号