Rio反オリンピック報告―オリンピックの開催都市に何が起きるか?

2016年12月21日(水)19時-

渋谷・隠田区民会館 集会室

東京都渋谷区神宮前6-31-5
※JR原宿 6分 東京メトロ千代田線明治神宮前駅 徒歩2分

8月5日、2016リオリンピックの開会式が華やかに開催されたと報道されました。しかし、現地リオでは、巨大なデモ・学校でのオキュパイ・地下鉄、空港の関税員たちや教員のストライキなどが起り、オリンピック反対とテメル副大統領退陣の声が響く中での開幕でした。

Planetary No Olympics、反五輪の会のいちむらみさこさんが、7月27日-8月10日までリオに滞在し、オリンピックがもたらす状況をリサーチし、オリンピックに対する抵抗アクション「Jogos da exculusao(排除のゲーム)」に参加しました。

これまでもオリンピック開催都市ではたくさんの反対運動があり、オリンピックについての問題意識は確実に広がっています。ハンブルグ、ボストンでは、住民投票で招致しないことを決め、ロシアでは新市長が辞退しています。

今年、リオオリンピック・パラリンピックは開催されましたが、リオの住人たちは黙っておらず開幕中も声を上げ、確実に押し返していました。

そのうねりを、わたしたちはどう引き継ぐか。

2017年1月22日(日)13時半から「2020オリンピック災害」おことわり連絡会による立ち上げ集会が開かれます。また同日正午から、多くの排除をもたらした新国立競技場建設予定地を回り、JSC(日本スポーツ振興センター)に抗議する反五輪の会によるデモが行われます。

それらに先駆けて、今回の報告会では、リオで何が起っていたのか、どのような抵抗があったのか、大手メディアでは報道されなかった写真や映像などを観ながら情報を共有し、次のわたしたち闘いに繋げていきたいと思います。

報告者:いちむらみさこ(Planetary No Olympics / 反五輪の会)

司会:首藤久美子(反五輪の会)

参加費:500円
主催:「オリンピック災害おことわり」準備会

もうこれ以上我慢ならない!──理性を越える情念の革命の復権?

ロルドンの新著の邦訳は『私たちの”感情”と”欲望”は、いかに資本主義に偽造されているか』というものだが、「偽造」というよりもむしろ飼い馴らされた感情に耐え切れずに内破するマルチチュードの激情への熱い期待、とでもいった方がいいような内容であり、理性主義的な資本主義批判への徹底した疑義に貫かれた刺激的な本でもある。

ロルドンがとりわけ槍玉にあげるのが、合理的経済人を前提として組み立てられた支配的な経済学だが、それだけではなく、理性的な資本主義批判や善意にヒューマニズムに溢れる「一人でもできる社会を変えるための第一歩」的な身の回り革命ごっこ、あるいはヒッピー風ライフスタイルの革命への辛辣なダメ出しである。

「自由意志や自己決定といった主張を退けて──ことによって、自由主義思想の形而上学的土台を破壊する。他方、自由主義思想の反対者が自由主義に対して自由主義の(主観主義的)文法の枠内で異議を唱え続けているという実態をも自覚しなくてはならない。こうした反対者たちは、無意識のうちに自由主義の根本的前提を共有していて、それは予め敗北のリスクを犯していることを意味するのである」27(断らない限り、数字は邦訳書のページ)

つまり、「個人」という主体を疑いようのない自立した存在として前提する一切の立場に対して、彼は異議を唱える。多分左翼リバタリアンとか個人主義的なアナキストは大嫌いなんだろうと思う。(私はそれほど嫌いではない)だから集団性の復権が彼にとっては重要な課題であり、そう、あの60年代を彷彿とさせるような死語となったともいえる「情念の革命」といった言葉がとてもよく似合うのがこの本の魂の部分だろうと思う。私は、組織や集団性が苦手で、党派や政治集団に対してはシンパシーを感じたことは生れてこのかた一度もないが、しかし社会を転覆するという大事業が何らかの集団性をもった力を前提としなければならないことも十分理解するから、どのような集団性なら自分のような人見知りで人付き合いの苦手な人間でも解放の感情を喚起されうるのだろうかというのは、大きな課題でもある。本書でロルドンはこうした私の個人的な悩み事には一切答えてはくれていないが、しかし、別の意味で、集団性を支える情念とはどのようなことなのかを「理解」する上でかなり刺激的なきっかけは与えてくれたと思う。

ロルドンは、自由主義に反対していると称する者たちがよって立つ土台も、自由主義と共通する個人主義への確信にあるとして批判する。個人が自由主義によって自由になるのか、それとも抑圧されるのかの違いはあっても、主題は個人をめぐる幸福というフィクションの範囲を越えないから、社会を総体として転覆するといった野心を持つこともなく、従って権力の今ある構造にとっては手強い敵になることもない。ピケティのような新自由主義批判のスタンスは彼にとっては全く評価するに値しないものだということになる。(これに異論は全くない)

彼は、率直に、社会を変革するということは大事業であって、それなりの集団的な力の結集が不可欠であって、それなしには資本や国家の体制を覆すことはできないのだ、と主張するのだが、その場合、一方で、感情によって動く諸個人が存在し、他方に非人称的な社会構造が存在するということを強く念頭に置いて、この大事業の主体となる集団性を描こうとする。このことを本書の冒頭で次のように、スピノザを引きながら示唆している。

「スピノザ理論は、通常何よりも主体に固有のものと考えられている感情についての、ラディカルな反主観主義的理論なのである」「すなわち、感情と構造の二律背反を乗り越えるために、感情を保持しつつ主体を葬る(感情の作動する必然的な起点と見なされていた主体を厄介払いする)ということ」18

彼はスピノザの理論を「感情の構造主義」と呼び「感情によって動く個人と非人称的な社会構造」を相互に排他的なものではなく、この二つを一つのものとして把握する方法を、スピノザの、とりわけ『エチカ』の重要な概念のひとつであるコナトゥス(ラテン語で、企て、冒険、骨折り、努力、衝動などの意味をもつ)に求めた。感情は確かに個人の主観=主体に帰属するかのようにみなされるし、そのように実感されるが、こうした感情のよって立つ基盤を探ると、そこには個人の心的な作用には還元できない外部から個人にもたらされる作用があり、この「非人称的な社会構造」があってはじめて諸個人の感情が個々ばらばらな主観や実感ではなくて相互に共感したり共振して伝播するような広がりが持てる。この意味で、個人の感情は、個人の心理に還元することもできないし非人称的な社会構造(非人称の構造に感情があるわけではない)による一方的な規定性(通俗的な唯物論が論じるような、存在が意識を規定する、といった粗雑な規定)をも排して、感情と構造の両者の位相を異にするところに成り立つある種の弁証法をスピノザに託して現代社会に対する転覆的な理論のパラダイムとして提示しようとした。

社会構造は諸個人の総和ではない。だから、取り組むべき課題は、社会構造を破壊し新たな構造として創造するという事態を、諸個人の行為とどのように結びつけるか、にある。人々が行動しなければ何ひとつ社会を変える力は現実のものにはならない。しかし、それは個人の個別の営為ではなしえないことでもあると同時に、個人に体現されている行動を促す感情の高揚が、個人の主観を越えて集団的な感情と行動として共振しつつ社会的な力を体現することなしには何ごとも始まらない。こうした集合的な力は、どのようにして生じるのか。逆に、こうした転覆的な集団的な感情を抑制して、既存の権力再生産の限度内に感情という要素を収束させるコントロールのメカニズムはどのようにして発動するのか。本書の邦訳が”感情”と”欲望”の偽造と表現しているのは、この後者のような現にあるシステムを維持再生産することに加担する感情のありかたを指すものだといえる。

本書は、集団的な行動の重要性を指摘しつつも、かつての前衛党指導のもとでの大衆的な革命運動の称揚といった趣きと共通するところは全くない。なぜならば、党の理念を体現する「綱領」や「宣言」といったテクストが宿命的に負わされている思想や理論を彼は一切信用しないからだ。もっと言えば、そのような理論的な装いを凝らした文章で人々(マルチュードと表現される「大衆」)はみずからの感情を行動に跳躍させるようなことには至らないとの確信がある。体制を転覆させるに足る大衆的な力を支える感情、革命を指向しないではおかないような激情を喚起することは、いったいどのようにしたら可能なのか。彼の問題意識は、この一点をめぐって、人々を駆り立てずにはおかない感情の深部を探る冒険に赴く。だから、本書が具体的な事例として取り上げているのは、1960年代から70年代のフランスの労働者による工場占拠運動といったどちらかといえば、小規模だが既存の社会構造を別のそれに置き換える可能性を秘めた集合的な感情の具体的な運動としての表出に絞られており、国家権力を総体として転覆することが可能なような大規模な大衆運動ではない。ロルドンはスピノザからマルチチュードの概念を継承するが、同様にマルチチュードの概念を自身の理論に取り入れたアントニオ・ネグリとマイケル・ハートと比べると、ロルドンのマルチチュードには、新自由主義の時代のなかで社会変革の主体として登場してきたとネグリらが考える移民労働者や非物質労働者などはほとんど想定されていない。むしろ、ロルドンがイメージする労働者は、古典的な工場労働者であり、彼が例示するケースはことごとく1970年代までのもの、フォーディズムの危機の時代のものであって、新自由主義の時代にこうした労働者の集団的な社会転覆力が大きく削がれてしまったことへの危機感の方が大きいように見える。ロルドンの議論は一定の修正を加えれば移民たちの運動の評価にも用いることが可能な枠組だと思うが、彼がそうしなかった理由は何なのだろうか。本書を通じて私が感じた率直な疑問の一つはここにあった。(移民とマルチチュードの問題には本稿ではこれ以上言及しない)
(さらに…)

越境するアンダークラス──映画『バンコクナイツ』

空族の新作『バンコクナイツ』は、今年観た映画のなかで最も印象に残り、わたしがうかつにも忘れかけていた1970年代のタイの熱い民衆の闘争を思い起させてくれた。とはいえ、決して「政治的に正しい」行儀のいい映画ではない。そこが空族の最大の魅力だ。(以下、ネタばれは最低限に抑えたつもりだが、予断なしに映画を観たい方は読むのを控えてください)

バンコクの歓楽街タニヤ、60年代から70年代にかけてラオスへの米軍空爆でできた巨大なクレーター、1976年タイ軍事クーデタで追われた反政府運動の活動家たちが逃げ込んだ漆黒の森。今回の空族の作品は、バンコクからタイ東北部、そしてラオスへと連なる現に存在する不可視の動線を移動する。セックスとドラッグにしか関心をもたない日本人が、東南アジアで「ビジネスマン」と称する無自覚な植民地主義者として、タイのアングラ経済を支える。しかし、その更に舞台裏で、越境するアンダークラスの逆賊たちの群れが蠢くことを予感させる物語、それがこの映画のある種の示唆するところでもあるように思う。

空族の映画の主人公は、たいていアンダークラスの能天気なノンポリとして登場する。彼らは、いつのまにやらぱっくりと口を空けた闇の世界の深い亀裂の中に彷徨いこむことになる。それでもなお彼らはそれが何なのかを明瞭には把握できないまま狼狽いする。物語のなかでそれが一体何なのかすら理解できないまま理不尽な世界(それも一つではない)に迷いこむ能天気な日本人たち。それを見る私たち(ここでは日本人を意味する、とりわけこの映画では男の日本人を)は、しかし、映画の登場人物のように能天気ではいられない。映画は観客に、「これが何を意味するのか、あなたは分っていなければならないのではないか?」とさりげなく問うのだ。

バンコクの世界有数の歓楽街は、ベトナム戦争における兵力を支えるセックス・ロジスティクスの一環として成長してきた。軍事用語のロジスティクスは食糧、燃料、武器・弾薬の補給を意味するという説明しかされないが、兵士の休息と娯楽もまた重要なロジスティクスの一環をなしてきた。これが今では、新自由主義経済戦争の〈労働力〉(ビジネスマン)を支える物流ならぬサービスロジスティクスとして日本の多国籍企業を支える存在になった。タニヤのセックスワーカーたちは、資本主義的な一夫多妻制の典型的な構造のなかにある。このことを映画はかなり端的に描いていると思う。この映画に登場する女性たちのしたたかさは、伝統的に職人労働者がもっていたしたたかさに通じるものがある。あるいは戦前のプロレタリア作家、宮島資夫が描いた「坑夫」のような、ど外れな存在に重なるかもしれない。翻弄されるバカ丸出しのビジネスマンたちが金と権力を握る理不尽さとの孤立した闘いが、ここタニヤには恒常的に存在する。たぶん、「バンコクナイツ」というタイトルとフライヤーの雰囲気についつられて映画を見に来た、ビジネスマンたちは、アテが外れて不快な思いをして映画館を出るに違いない。いいことだ。

脚本を担当した相澤虎之助は、上映後のトークで、富田監督や自身の東南アジアでの経験から、日本の旅行者というとドラッグ、セックス、ガンシューティングが目的ではないかと必ずといっていいほど質問されることから、この三つがいかに東南アジアの経済に大きな影響をもっているかに気づかされ、これがこれまでの映画制作のモチーフになってきたと述べていた。そして『バビロン花物語』はタイ北部のケシ栽培、『ビロン2』はベトナム戦争を主題としたが、ようやくこの『バンコクナイツ』で最後に残されたモチーフ、セックスを主題にした映画を制作できたと述べた。

わたしはこれに加えて、二つの重要なモチーフがあると思う。ひつとは、越境するアンダークラス。『サウダーヂ』は日本を舞台に、日系ブラジル人やタイ人の移民労働者の物語であり、移動する者たちが常に物語の中心に据えられている。闘う労働者ではなく、いつのまにかシステムを破壊する力をそれとは知らず発揮してしまうアナーキーな存在へと変貌する姿が描かれる。もうひとつは、「地方」である。今回のバンコクナイツの先行上映も空族の拠点である甲府で開催された。『国道20号線』も地方を走る国道が舞台だ。地方のアンダークラスという視点は、決定的に東京のようなグローバル都市の非正規労働者と同じようには語れない固有性がある。これはグローバル都市にはない地方のアンダークラスが潜在的に持っている豊穣な可能性に繋っている。私はこの映画を甲府という場所で観ることができて本当によかったと思う。

『バンコクナイツ』もバンコクの歓楽街からタイ東北部へと引き寄せられる。実は、タニヤで働く女性たちもまた、タイ東北部やラオス出身者であったり、あるいはタイ、ラオスから中国に拡がる地域に住むモン族の出身だったりする。こうなると「ゾミア」の世界になる。

最後に、ひとつやっかいな問題について書いておきたい。空族がセックスの問題を最後まで取り組まないできた理由のひとつは、これまでの映画もそうだが、主人公が男であるということとの関わりのなかで、セックスワーカーの世界を描くということの困難があったのではないかと思う。男の監督や脚本家が女を描くことができるのか?は、常に問われてきた問題でもある。このことは、映画を男の私が観るのと、女性が観るのとでは同じ感想にはならないかもしれない、ということでもある。ラオスのクレーターに集合するアジアの若者たち、ある種の梁山泊を想起させるファンタジーのようでもあるが、そこにはタニヤの女たちはいない。漆黒の森にもいない。この欠落がたぶんこの物語を次に引き継ぐ上での大きな鍵になるように思う。タニヤがゾミアに変貌する潜在的な可能性がすでに女たちが担っているのだから。

他方で、主人公が男であるという場合に、女は脇役なのだろうか?主体は他者なしには主体にはなりえないが、主体=主人公という位置を確たるものにするには、他者を他者のままに、主体の周辺に配置する以外にない。この映画では、女たちは、ことあるごとに、主人公の主体を揺さ振りつづける。すれ違うコミュニケーションがそれを象徴しているようにも思う。どこかでこの主客の転倒がありうるのでなければ、物語は、既定の路線を逸脱できない。どのような脱線と転倒が起きるか。そのための伏線はこの作品でほぼ出揃ったように思う。

(2016年11月13日、甲府桜座にて)

米大統領選挙が露呈させた国民国家と民主主義のもはやこれまで!

今回の米国大統領選挙ほどグローバルな資本主義のもとでの国民国家における民主主義が、明確にその限界を露呈したことはなかった。もともと国民国家は、階級構造が生成してきた搾取の構造を「国民」という普遍的価値を装って均質なアイデンティティを扮装することによって隠蔽する仕掛けでもあった。しかし、資本蓄積の構造(言い換えれば搾取の構造)が否応なく資本の出自を越えて(あるいは資本の出自を裏切って)展開しないではいられないほど成長=肥大化するなかで、自国とその外部という国民国家の境界に沿って、自国内の階級構造がもたらした失業や貧困の矛盾を、外部の「敵」に転嫁し、この「敵」と内通する自国内の既得権益に固執する特権層や、境界を密かに越境して「非合法」に自国の富や雇用を脅かす自国内部の他者にその責任を転嫁し、有権者である特権的な犠牲者の地位を白人労働者階級に付与するという構図が今回の大統領選挙を席巻した。トランプ陣営は白人労働者階級の一部が抱く人種的優越主義を刺激しながら「偉大なアメリカ」というイメージを構築するプロパガンダを展開した。トランプのプロパガンダは、伝統的な共和党のイデオロギーと相入れないだけでなく、これまで既成の政治を嫌ってきた下層の保守主義を代表すると言われてきたリバタリアニズムとも異なるスタンスをとった。とりわけリバタリアンが強調してきた小さな政府と自由競争資本主義への信仰(ハイエクやフリーッドマンなどだが)を否定した点は、それがサンダース支持者の取り込みという戦術の一環であったとしても、そのプロパガンダの方法も含めて、これまでの米国政権のなかで最もファシズムに近似する性格をもった主張であったという点に特徴があったといえるかもしれない。

国民国家の民主主義の限界は、グローバル資本主義がもたらした世界規模での貧困と紛争の根源にある米国の覇権国家としての責任という問題を正面に据えることができないという点に現われている。更に悪いことに、この問題が米国内の貧困問題に還元された上に、この原因をもっぱら外部の他者(中国であったり「不法移民」であったり、いずれにせよ有権者ではない国民国家にとっての他者)になすりつけて、愛国心を鼓舞するという方向でしか選挙のキャンペーンは展開されなかったということだ。国内の有権者のみを対象とする国政選挙という枠組は、米国ナショナリズムの神話=「偉大なアメリカ」のイデオロギーを再生産し、国民的な一体性や同質性を確認するための儀礼効果として、常に、外部の敵を再生産することに終始せざるをえない。これは国民国家の民主主義にとって解決困難な難問であって、米国に固有の問題ではない。これは近代国民国家と憲法が本質的にもっている敵対の構造に基づく自己保存の権力メカニズムであり、人びとの生存を脅かす根底をなすものの一つでもある。

米国大統領選挙でトランプは、失業と貧困から脱却できない主として白人労働者階級の票を獲得したのではないかと言われている。彼は、中国やメキシコに製造業が流出し、米国製造業を支えてきた錆びついた工業地帯(rust belt)と呼ばれる地域の白人労働者階級の職を取り戻すと主張して、TPPに反対し、安価な賃金で貿易で優位に立つメキシコや中国を非難してきた。ペンシルベニア、ウェストバージニア、オハイオ、イリノイ、アイオワ、ウィスコンシンといったかつて重工業で栄えた地域は、イリノイを除いて全てトランプが勝利した地域だ。一般論として、日本でもよく聞かれる主張として、新自由主義グローバリゼーションによって国内の産業が海外に移転することによって、職が奪われ格差と貧困がより深刻になる、だから自由貿易には反対だという議論の立て方がある。こうした主張は間違いではないが、正しいわけでもない。どこの国であれ、新自由主義の政権を批判する野党が、自国の有権者だけを念頭に陥いりがちな自覚されない排外主義のスタンスであり、格差と貧困に直面している有権者には実感をともなう主張だとして受け入れられやすいのだが、同時に、有権者の大衆意識としても、自分達の職を奪う「他者」像を構築してしまう。これは、自国内の移住労働者や近隣諸国の低賃金労働者への感情的な敵意を醸成しかねず、これが感情的なナショナリズムを支える基盤をなす危険性をもつことになる。

ナイジェリア出身で米国在住のアフリカ史の研究者モーゼス・E・オチョヌは、「新自由主義グローバリゼーション、白人労働者階級、アメリカ例外主義」(注)というエッセイで、米大統領選挙において、米国労働者階級がグローバリゼーションの被害者であるといことを強調する論調には、米国を特別視する価値観、言いかえれば、「米国の労働者階級だけがグローバル化における敗者となっており、それ以外の人びとは新自由主義の利益享受者だ」とする誤った見方が支配的であったと指摘した。こうした見方には「ナイジェリアのイルペジュ(Ilupeju)カドゥナ(Kaduna)、カノ(Kano)など、破壊された工業センターにおけるグローバリゼーションの被害者たちへの同情も連帯もみられない」と批判した。ナイジェリアでは、ここ15年の間に、グローバル化によるアジアからの安価な繊維製品の流入で国内産業が大きな打撃をこうむってきた。こうした事例は「南」の諸国で広範に見られる新自由主義グローバリゼーションがもたらした悲劇だ。

(注)Moses E. Ochonu, “Neoliberal globalization, the white working class and American exceptionalism”

しかし問題の構造はもっとやっかいで、中国やインドはアフリカとの関係ではアウトソーシングのハブとして機能しており、これら諸国との経済的な格差と資本投資による搾取の最底辺をなすのがアフリカ諸国になるグローバル資本主義の階層構造がある。この全体の構造を支配しているのは、言うまでもなく欧米の多国籍資本である。オチョヌはこうした構造を無視すべきではないとし、だからといって、中国の工場労働者がグローバル化の勝ち組の側にいるわけでもないことを強調する。だから、米大統領選挙で強調されたグローバル化によって職を奪われたという場合、アフリカ諸国は米国の職を奪える位置にはなく、むしろグローバル化の犠牲者でありつづけた。オチョヌは、アフリカの視点からすれば、米国労働者階級をもっぱらグローバル化の犠牲とみなす観点には同意できないとし、「 世界中で、多くの人びとは、米国の労働者階級同様、新自由主義的グローバリゼーションの収奪のなかで尊厳を維持しようと闘っている」ことを強調した。

当然のことながら、米国大統領選挙で主張された格差、貧困の問題ではこうしたグローバルサウスが被ってきた犠牲への関心はほとんどみられなかった。なぜなら、アフリカの人びとは有権者ではないからだ。しかし、米国の新自由主義グローバリゼーションの被害者であり利害当事者であることもまた明かだ。この排除を正当化しているのは、憲法の枠組であり、国民国家に基づく民主主義なのだということを軽視することはできない。ちなみに、ヒラリーよりずっとマシなバーニー・サンダースですら、自由貿易の問題は低賃金諸国が「アメリカの労働者」「わが国の労働者や中産階級」から職を奪うことだというスタンスが基本にある。(サンダースのTPP反対演説「TPPに反対する四つの理由」は議会演説としては優れていると思うが、国境を越える連帯の視点を持てない限界はいかんともしがたい。)

外交や安全保障から経済まで、閉鎖的な国民国家など存在しないにもかかわらず、絶対多数の利害関係者(米国の選挙権を持たない米国内外の人びと)を排除した上で行なわれる選挙のどこに正統性があるといえるのか。グローバル資本主義に対する米国の責任という観点から大統領選挙が争点化されることはまずありえない。これは米国に限らず一般論として言えることであり、国民国家によって分断されて選挙の権利がナショナルなアイデンティティを共有する人口に限られるなかで実施されることによって、民主主義はナショナリズムを正当化し、その結果として国民国家相互の摩擦や敵対を根本的に調整することが困難な条件を抱え込むという近代国民国家のリスクを体現するシステムだからだ。しかも、こうした利害の当事者の排除に基づくナショナリズムが正当化される一方で、資本は容易に国境を越えてグローバルな投資環境を構築しようとし、各国政府もまた、自国資本のグローバルな展開を相手国当事者を排除した民主主義的な合意形成によって正当化する。こうした国民国家の枠組に規定された民主主義選挙の争点から排除される論点は、一国内の有権者の利害に関わらないが世界の民衆にとっては死活となる課題である。あるいはグローバルな民衆の問題をあたかも一国内の特定の階層にのみ関わる問題であるかのように論点を歪曲した上で、これを正当化するレトリックの技術の横行である。民衆はどこの国であってもいったん「国民」として自己のアイデンティティが再定義されて内面化されると、相互に敵対関係の枠組の中で相手を見ること以外の眼差しを持つことが心理的にも困難になる。

直接間接に利害をもつ人びとが国境や国籍を越えて討議できる枠組がなくナショナルなアイデンティティに傾き、グローバルな公正性(といった近代コズモポリタニズムが掲げる理念)すら脇に追いやられる構造の根源に、皆が大切だと信じている憲法制度(立憲主義と呼んでもいい)の存在があると考えている。憲法は、普遍的な価値を国家の理念として立てる一方で、主権者を国籍によって排除・選別する。この枠組の境界線上に、移住労働者、難民、外国籍の人びととして、膨大な数で地球上に存在する。一国が有する他国との利害関係のなかには、主権者としての権利をもたない多くの人びとの利害もまた含まれる。現実の人口構成と憲法が規定する権力の正統性を支える民主主義の基盤をなす人口との間には無視できないズレと亀裂がある。トランプの「壁」発言は、この亀裂が民主主義の正統性の危機の域に逹っしていることを端的に示したものと解釈できるかもしれない。更に、分離独立を求める集団が存在する国が少なからずあり、こうした分離派にとっては憲法は、分離を妨げる最大の規範となる可能性がある。こうした状況と、憲法を後ろ盾とした資本や軍隊の越境性とを比較したとき、一体どこに民主主義の効用が、あるいは憲法の普遍性についての肯定的な価値があるというのだろうか。

今回の米国大統領選挙は、国民国家という枠の内部で競われる民主主義的な選挙が同時にナショナリズムを高揚させて、人種差別主義を正当化する危険性があることを端的に示した。トランプのように「偉大なアメリカ」を口に出して叫ぼうが、ヒラリーのように「偉大なアメリカ」を暗黙の前提としようが、彼らが競っているのは、どちらが「偉大なアメリカ」を将来において維持あるいは再現あるいは再興できるのかでしかない。彼らにとって、米国民(つまり有権者だが)の犠牲を最小化し、その利益を最大化するための政策を競っているのであって、この方程式の解が、他国の犠牲を最大化し、その利益を最小化することがあってもそれは問題の焦点にはならない。このことを端的に示したのがトランプによる米国白人労働者階級の貧困問題への言及だっただろう。彼にとって米国白人の貧困は特別に重要な解決されなければならない問題だということであり、この立場を支持する米国の有権者が少なからず存在したことがトランプの勝利を支えた。トランプだけでなく米国の有権者の多くも、米国の国民は例外的に繁栄を享受する権利があるかのように感じているのではないか。

一世紀近く前の古い話をしたい。カール・シュミットは『現代議会主義の精神史的地位』(稲葉素之訳、みすず書房)の第二版(1926年)まえがきで次のように述べている。

「あらゆる現実の民主主義は、平等のものが平等に取扱われるというだけではなく、その避くべからざる帰結として、平等ではいものは平等には取扱われないということに立脚している。すなわち、民主主義の本質をなすものは、第一に、同質性ということであり、第二に──必要な場合には──異質的なものの排除ないし絶滅ということである。このことを説明するためには、民主主義の二つの異った例について一言するだけで十分であろう。すなわち、一つは今日のトルコがギリシア人を徹底的に国外へ移住させることによって、その国土をトルコ化しようとしていること、他の一つはオーストラリアの_くに_(Gemeinwesen)が移民立法によって好ましくない移住者の流入を阻止し、他の自治領と同様に、_正しい種類の植民者_に合致する移住者のみを入国させていることである。すなわち、民主主義の政治的力は、他所者と異種の者、すなわち同質性を脅かすものを排除ないし隔離できる点に示されるのである」(14ページ)

上でシュミットが言う同質性とは「一定の国民への帰属性、すなわち国民的同質性」を意味するとともに「一般に民主制には、これまで常に奴隷または野蛮人、非文明人、無神論者、貴族あるいは反革命分子と呼ばれる何らかの形態で全部のまたは一部の権利を剥奪され、政治的権力の行使から除外されている人間が常に附きものになっていた」(15ページ)とも述べている。

シュミットにとって国民的同質性の核をなすものは、「民族的に同質な国家」であり、「大抵の国家は、それ自身の内部においては民族的同質性に基づいて民主主義を実現しようと努めているが、その他の点ではあらゆる人間を同権的な市民として取り扱っているわけではないのである」(17ページ)とも述べている。

シュミットは後にナチスの同伴者になるが、ワイマール時代に彼が論じた論点は今に至るまで繰返し議論の対象になってきた。ここで述べられている論点は、民主主義を擁護しようとする者たちにとっては実は聞きたくない考え方だろうと思う。しかし、民主主義が合意形成の手続きである以上、その前提として共通の価値規範を何か持たないことには成り立ちようがなく、そうであるとすると、価値観を共有しえない部分を排除するメカニズムを持つことによって民主主義的な合意形成を効果的に発動できるような制度設計が不可欠になる。国民国家は、これを「国民」としてのアイデンティティとして形成・再生産しようとするとともに、国家権力を制約する規範を「普遍的な価値」として構成することによって、理論上は何人も否定できない価値に基づく「同質性」を標榜することになる。これは多様性や異質なものの排除を意味するのではなく、これらを包含することを前提として形成される合意こそが普遍的な価値の体現であるとすることによって、同質性を異質なものの同質性として立てうることを示そうとしてきた。その結果、政治は言説のレベルにおける普遍的な価値の氾濫の一方で、現実には、普遍的な価値に名を借りた差別と排除が横行することになった。差別ではなく正当な競争の結果であるとか、排除ではなく普遍的な価値を実現するための秩序の実現であるなど、権力は政治の言説を討議に基く真理への過程としてではなく、既存の権力を正当化するためのレトリックと駆け引きのための詭弁として用いてきた。

憲法はこうしたレトリックの中枢をなす普遍的価値の擬制の体系なのだが、憲法が支えられているメタレベルでの権力の自己再生産構造を見ずに、憲法の条文が意味するであろう内容を「憲法学」的に解釈する立法府やアカデミズムの議論は、実は憲法が、普遍的な価値を纏うが故に逆説的に暗黙のうちに含んでいる排除の正当化の機能を見落している。シュミットはこの点を突いて、民主主義は排除と同質性の維持、とりわけそれを民族的同質性以外にはありえないと断定することによって、ワイマールとナチズムを同じ土俵の上で正当化してみせたのだと言うことができるかもしれない。ワイマールはよくてナチズムは悪いというふうには問題はたてられないのだ。同じことは、米国憲法にもいえる。トランプを生んだのは米国憲法であり、安倍を生んだのは日本国憲法なのだ、という事実から、憲法や国民国家という権力の構成を免罪できるか、という問いを私たちは自問しなければならないところに立っている。

米国大統領選挙から見えることは、日本の政治や国家の制度の問題とほぼ重なる。民主主義の欺瞞であれ、憲法のレトリックであれ、これらをシニカルに捉えて諦めるのではなく、だからこそこれまでにありえなかったような社会を構成する基本的な枠組を構想するという問題に挑戦しなけらばならないということではないのだろうか。「日本」やこの国のナショナリズムを廃棄するという課題は世代を越える大きな問題だが、この問題に答えを見出せないとすれば、国民国家が本質的に抱えもっている生存に対する危機を座して覚悟するという選択しか残されないと思う。それでいいはずはない。

書評:武藤一羊著『戦後レジームと憲法平和主義』れんが書房新社、2016

刺激的な本に出会うということは、本の内容をそのまま受け入れるということよりも、本の内容に触発されて、著者がどう思うかとは別に、私自身の考え方に一歩でも新たな展開をもたらすようなことだと思う。武藤一羊の議論は、とくに私とは目のつけどころも方法論も違うけれども、現状への危機感は多くの点で共有できるという意味で、刺激的である。本書もまたそうであった。以下では主に、本書の理論的な枠組を提示している「総論」を中心に私の雑駁な感想を述べたい。

本書は、武藤がこの間提起してきた彼の戦後日本国家論を再度整理して、とりわけ安倍政権が目指す方向への根底的な否定の根拠を論じるものだといえる。武藤は、戦後日本国家の構成原理はアメリカの覇権原理、戦後憲法の平和・民主主義原理、そして帝国継承原理の三つからなるという基本認識を提起するが、これら三原則は「相互に矛盾する構成原理で成り立つ歴史的個性を備えた国家」であるというのが武藤の重要な方法論であると同時に、ここから安倍政権が目論む帝国継承原理一元論とでもいうべき改憲を通じた戦後レジームからの脱却戦略へのオルタナティブも導き出される。武藤は安倍の歴史認識をつぎのように要約している。

「安倍政権を構成する政治集団の基本的立場は、近代日本=大日本帝国の近隣アジアへの侵略・植民地化は正当であり、それを妨害しようとした欧米との戦争は正当な自衛戦争、そして欧米帝国主義からアジアを解放する戦争だったというものであう。誇るべき過去しかない。日本はこの歴史観を軸に組織しなおさなければならない。そのためには、帝国の過去を反省や贖罪の相でとらえる「自虐史観」を日本国民の間から一掃しなければならない。」(104ページ)

この安倍政権の歴史観は、戦後右翼が一貫して主張してきた歴史観そのものであり、安倍あるいは政権が固有の歴史認識を新たに構築してみせたわけではない。こうした右翼の一部の主張から戦後国家の権力の中核を担う正統化原理へと格上げを実現したところに極右政権たる所以もある。とはいえこの帝国継承原理が安倍政権になって登場したものではなく、戦後国家に一貫して伏在してきた基本原理の一角をなすものであって、その現われが顕在的であれ潜在的であれ、「帝国継承原理が戦後国家の中に現に生きている原理として継承されていたということにかんして、多くの有力な論者の中にはっきりした認識がなかったし、いまでもないかに見える」(57)と武藤は指摘している。

武藤が「戦後国家は、帝国継承原理を正統化原理の一つとして最初から組み込んで成立していた」(59)と言うとき、同時に、戦後国家の権力構成の基本に戦後憲法では天皇の政治的な大権も神格化も否定されたにもかかわらず帝国継承原理が組み込まれてきたとするなら、それは何を意味するのがが問題になる。武藤は、この点をおおよそ次のように説明する。アメリカの覇権原理との関わりでいえば、戦後の天皇制存続は米国の覇権構造への組み込みの一環として米国の国益と占領統治の便宜として米国の選択であったという意味で、「アメリカ製天皇制」であるということ。戦後憲法の平和・民主主義原理との関わりでいえば、天皇を不可侵の主権者とすることから「人間宣言」と象徴化へと転換することによって民主主義を保障することになったということ。帝国継承原理との関りでいえば、裕仁が戦後も天皇の座に座り続け、「万世一系」の神話も保持され、同時に戦後憲法も裕仁の名において公布されたということ、である。神格化を伴なう「日本」の「神代」からの継続性を一方で確保しつつ、他方で神格化を否定して人間宣言をする。「日本」という擬制の中核をなすものでありながらそれが「アメリカ製」である戦後天皇制。武藤はこれを戦後天皇制の「三元的自己矛盾の塊」と指摘し、安倍政権はこの自己矛盾を第三の正統性原理、つまり帝国の継承原理で一貫させようとしていると見ている。

本書では、正統性原理のなかの「戦後憲法の平和・民主主義原理」が、米国や日本の支配層の思惑を越えて、憲法9条に体現されている平和主義を民衆のなかに深く根付かせるとともに、そのことが60年安保闘争、ベトナム反戦運動から現在の沖縄反米軍基地闘争や戦争法反対闘争といった一連のアメリカの覇権原理に抗う流れを生み出してきたことを指摘し、この流れのなかに、安倍が目論む帝国継承原理を覆す可能性を見出そうとしている。

「原理としての平和主義によって、私たちは安倍政権を倒す。それによって戦後国家に作り付けだった他の二つの国家構成原理の排除に向かう。それは、醜悪な野合をとげている帝国継承原理おアメリカの覇権原理を癒着のまま処分し、平和主義原理によって日本列島を組織しなおすことに踏み出すことである」(94)

異論はとりあえずないが、では倒すべきは安倍政権であるとしても、武藤の立論をふまえれば、それに止まることはできない。倒すべきものは戦後を通底してきた米国覇権原理と帝国継承原理であり、したがって、倒すべきは安倍政権を越えて戦後自民党政権総体だということではないだろうか。またそうだとして、「平和主義」の核をなす憲法9条をどのように解釈すべきものとしてわたしたちが再定義できるかにもかかっている。憲法9条には共通の合意された解釈がないなかで、9条は壊死しているが、そうであっても9条は書かれた憲法として有効な手掛かりなのだという希望を持ちたいと思いつつも、9条は平和主義をささえる国家の統治原理になりえなかったという反省を踏まえて、更に先を見据える必要があると思う。言い換えれば、武藤の言う米国覇権原理と帝国継承原理が排除されたとき、そこには平和主義が自立した姿で見出せると言いうるのか?である。わたしはこの点で懐疑的だ。なぜなら、国民国家という統治機構をとる限り、常に平和主義は擬制においてしか成り立たない危険性をはらむのではないか、という疑問があるからだ。根源的な平和主義を構想するとき、どうしても問わなければならなくなるのは、抽象的な言い回しになるが、国民国家という近代に遍くはびこっている権力の基本的な構成原理そのものに内在する暴力ではないか、ということである。平和主義がこの水準にまで到達するとすれば、それは、近代の政治学や憲法学が前提としているパラダイムを越えることになる。そうならなければ多分、平和主義は運動としても思想としても再生できないと思う。

武藤は次のようにも述べている。

「戦後日本国家の著しい特徴は、日本国憲法が国家の完全な構成原理として働らかなかったことである。形式上は、戦後日本国家は日本国憲法によって構成されたことになっているにもかかわらず、現実には、これまで見たように、憲法原理はそれとは両立しがたいアメリカ覇権原理および帝国継承原理と並んで、それらの掣肘下に存在したので、原理として自己を貫徹することなかったし、できなかった」(69)

ここでいう「日本国憲法が国家の完全な構成原理として働らかなかった」の意味は憲法前文に明文化されている平和主義を念頭に置いている。言うまでもなく、この構成原理としての不十分性をもたらしたのは、他の二つの原理、米国覇権主義と帝国継承原理によって制約されているからに他ならない。実は同じことは帝国継承原理にも言えると武藤は言う。

「帝国継承原理は、国家の中枢に保持されていたが、それを公然とかかげることはできなかった。こうして、どの原理も排他的に自己を貫徹できなかったから、どれも原理としての本来の資格を大きく失い、その結果、戦後日本国家は明確な正統化原理を持たぬ国家、逆説的に言えば、オポチュニズムを原理とする国家となった。」(69)

戦後憲法の象徴天皇制は帝国継承原理と接合しており、9条もまた米国の安全保障政策と国益に接合して構築されたものであるという面でいえば、そもそも戦後憲法は、アメリカ覇権原理と帝国継承原理なしにはありえないものだともいえた。このような武藤の議論の前提を受け入れるとすると、この三つの原理のうち、帝国継承原理だけが他の二つの原理なしに存立可能な特異な正統性原理である、と言えそうだ。この意味で、安倍が帝国継承原理を前面に押し出したことの結果として戦後憲法の平和・民主主義原理を原理の地位から放逐することは、ある意味では矛盾を回避する論理的な帰結だともいえるかもしれない。

●戦後憲法の平和・民主主義原理とは何か?

武藤は、帝国継承原理に一元化しようと画策する安倍政権に対置して、「第二原理(憲法平和主義)の下で暮してきた日本国民」を米国の覇権原理と帝国継承原理を抑え込む民衆運動のよりどころとなりうるものとみているように思う。しかし、この憲法の平和・民主主義原理の論じ方は、安倍政権の帝国継承原理一元化の構想(その具体的な提案が自民党の改憲草案)の登場によって、戦後平和運動が論じてきた論じ方では対応できない状況が生み出されたとみる。

「右翼的勢力の改憲の最大の動機が、戦後期全体を通じて、合憲的合法的な軍隊を持ちたい、そのため憲法九条を変えたいということであったのは言うまでもありません。その状況の下で、日本国憲法の大原則の一つである『非武装平和主義』をどのように扱うかは、主として憲法九条の存廃をめぐる論争、対立として展開されてきました。それが誤りだというのではありません。しかし今回の自民党改憲草案が提起している『国防軍』の創設は、日本国の普遍的基準からの切断という文脈の中に据えられているので、国家は軍隊を持つべきか否か、といった抽象的・一般的議論のレベルだけでは扱えない歴史の中での具体性を備えているのです」(163)

武藤は非武装平和主義、つまり軍隊をもたないという立場によってはもはや対応できないほど具体的な軍隊の問題が「歴史の中での具体性を備えて」登場していることを強調する。これは、非武装平和主義を放棄するとか棚上げにするということを意図して述べられているわけではないが、非武装平和主義を普遍的な原理として前面に押し出して自民党の改憲草案と対峙するというスタンス、つまり。上の引用で「国家は軍隊を持つべきか否か、といった抽象的・一般的議論のレベルだけでは扱えない」に含意されている彼なりの問題意識がある。武藤は非武装平和主義を否定しているのではなく、それだけでは十分ではないと言うのだ。彼は次のようにも言う。

「日本国憲法の非武装条項は、戦後日本がアジアの諸国民に向けた誓約であるとはこれまでも指摘されてきたことですが、その通りです。敗戦日本が、反省もせず、負けたのはアメリカに物量でかなわなかったからだなどと開き直っただけだったら、戦後アジアとの関係は不可能であったでしょう。非武装憲法の誓約はかろうじて関係つくりの基礎の役割を果たしたのです。現実には戦後日本は、米国のアジア支配に便乗してこの基礎をないがしろにし、脱帝国・脱植民地の課題に直面せず、アジアとの間の過去を清算することを回避してきました。それでも、この憲法ん誓約は戦後日本がアジアとの関係を回復する際の前提として存在してきたのです。」(163)

この非武装条項は、憲法前文と対応するものだが、武藤は「自民党草案は、その前文において、戦後期冒頭に置かれたこの礎石[現憲法全文]を取り外し、投げ捨てました」と指摘する。こうしてアジアとの誓約も非武装平和主義も棄て去って、帝国継承原理に一元化しようとしているとみるわけだ。わたしは、武藤のこの指摘は大枠として正しいと思うから異論はない。とはいえ、問題は、現在の安倍政権あるいは自民党改憲草案と戦争法の時代に起源をもつ問題なのではない。武藤は安倍につらなる戦後日本国家の質的な転換を1990年代にみている。つまり、戦後の矛盾に満ちながらもかろうじて相互の調整を維持してきた三つの原理の均衡が崩れたのが90年代だいう。総評の消滅と社会党の衰退はその象徴的な出来事だという。(「始まったレジームチェンジ」プロセスの尋常でない性格」、本書所収)

この武藤の指摘に更に私は重要なもうひとつのファクターを強調したいと思う。それは大きく言えば戦後日本の「革新」の限界に関わる。その出発点は、言うまでもなく、裕仁の戦争責任問題、戦後憲法讃美によって後景に退いた沖縄の米軍統治問題という戦後の端緒に埋めこまれた戦後日本の平和主義の限界に関わるが、さらに私は、武藤の言う三つの原理の均衡が崩れた大きな要因をつくりだしたのは、自民党ではなく90年代の村山政権だったことを強調したい。村山政権が、日米安保と自衛隊合憲を打ち出し、原発をも容認したことは、「革新」側による憲法9条の再定義であって、その後の平和運動の基本理念を大きく損なう裏切り行為だったとはいえないだろうか。この結果として、その後の野党や反戦平和運動の流れのなかに、原則や理念を棚上げにして、目先の軍事・安全保障政策に対する反対として運動を展開するという理念なき政局運動がはびこるようになった。体制選択はおろか、原則的な外交・安全保障の基本政策を根底から否定する運動の思想的なラディカリズムは影をひそめ、その結果として、日米同盟解消や自衛隊廃止、非武装中立という方向性が平和運動の当然の共通認識とはならなくなってしまった(あるいは公然とは口に出されなくなった)ように思う。こうして、自衛のための武力行使を暗黙のうちに容認する価値観が徐々に平和運動のなかにも浸透してきたように思う。言い換えれば、自国軍隊を持つことを当然の前提とする諸外国の平和運動と同じ次元で反戦平和運動が再定義され、その結果として9条を重要な運動の柱としながらも、この9条が「革新」側によって自衛隊合憲、日米安保容認という再定義を前提とした立法府での議論の枠組が構築されていることの深刻な問題を棚上げにする一方で、「戦争放棄」や「9条守れ」というスローガンには漠然とした戦争放棄の理念がありうるハズだという期待を多くの反戦平和運動の担い手たちは抱きつつも、政治の現実の舞台があまりにもこの理念とかけはなれた土俵の上で展開されている欺瞞に疲れ果てる姿が日常化してきたとはいえないか。自衛隊解体、国家に軍隊はいらないを非武装平和主義の意味として共通の合意とする確認もなしに、具体性のないヌエ的なスローガンでお茶を濁す空気すら生み出されてきたのではないだろうか。この反戦平和運動のなかでの90年代の9条再定義は安倍政権につらなる現実政治への理想主義の敗北であったのではないだろうか。だから、左派の再構築は、こうした90年代以降の再定義を自己批判的に総括することを避けることはできないはずだ。その上で、武藤が言うように平和主義をその内実を伴なう意味のレベルで再定義し共有することが必須の課題だ。

「革新」による9条解釈の変質は、現行の自衛隊については違憲とは明言せず、集団的自衛権だけが違憲であるかのような奇妙なレトリックが支配的になってきた現在の流れの源流にあるものとはいえないだろうか。こうなってしまうと、安倍政権が打ち出した「積極的平和主義」や自衛隊合憲を前提とする議論の土俵に片足を乗せながら、集団的自衛権行使や海外派兵の条件だけを争点とするような論じ方になってしまう。こうした危惧を武藤は戦争法反対の論調のなかに見出して危惧を表明している。こうしてみると先に述べたように、村山政権が打ち出した日米安保容認、自衛隊合憲論がその後の運動にもたらした影響は非常に大きかったのではないかと思う。

●戦前・戦中・戦後を繋ぐ国家原理とは

政治学者や法学者は1945年の転換に大きな意義を与え、これこそが戦前・戦中と戦後の「平和主義」を分つ分水嶺だと強調するが、私はこの見解にこれまでも異論をさしはさんできた。1945年はさほど大きな亀裂を「日本」にもたらさなかったと考えてきたからだ。もちろん1945年は近代史においても特筆すべき切断面を示している。このことを軽視するつもりはないが、その反面、この切断面は近代「日本」の深層にまでは到達しえていないと考えるからだ。では、戦前・戦中・戦後の連続性とは何なのか。その答えは極めて単純な事実にある。それは、戦前・戦中・戦後に一貫して、「日本」は資本主義の構造を維持したこと、そしてまた、近代国民国家としての構造を維持したこと、この二点である。同時に、これらの構造が生成しているこの国で生活する民衆の大多数のアイデンティティもまた「日本人」としてのアイデンティティであったことである。(その周辺に植民地の人びとのアイデンティティが接合され、この他者のアイデンティティなしには「日本人」のアイデンティティも確立しない構造をもっている)「日本人」としてのアイデンティティと国民国家としての構造との間をつなぐ「日本」の近代の正統性あるいは自他の差異は、(不合理であれ何であれ)普遍的な装いをもって提示すべき国家イデオロギーとして構成されなければならず、これは、この国では天皇制以外にはありえなかった。しかし、これこそが脆弱であることもまたこの国が抱えてきた固有の問題でもある。

民衆の日常生活に即してみたとき、戦争体験や自由に対する抑圧が1945年を境に大きな転換を遂げたとしても、国民国家と資本主義の構造のなかで、〈労働力〉として組み込まれる構造は一貫したものがあり、これが国民としての〈労働力〉を再生産する構造として維持されつづけてきた。この一貫した構造がある限り、ある種の戦前・戦中への回帰(文字通りの意味での回帰はありえないのだが)を絶つことはできないというのが私の認識だ。たぶん武藤の三原理と私の認識の最大の違いはここにあるのではないかと思う。

その上で、武藤が危惧する帝国継承原理について私なりのコメントを書いておきたい。帝国継承原理として武藤が指摘している侵略の正当化の主張は、一般論としてその通りだと思うが、戦前・戦中の日本の侵略を正当化する歴史認識はひとつではなかったことが重要だと思う。一方で、蓑田胸喜や国体明徴運動といったファナティックとさえいえる皇国史観があり、他方では天皇機関説があり、後者が弾圧されたとはいえ、戦後憲法のなかで復活することになる。前者は、戦後天皇制の伏流として、右翼のイデオロギーとして生き残る。皇国史観や現人神としての天皇=主権説は、ある種の一神教だが、一神教は、普遍主義を体現できるだけの教義の普遍性と、この普遍性を支えるだけの主体の神性が遍く人びとに受容されうるような組織に支えられなければ維持できない。普遍宗教を標榜するキリスト教であれイスラームであれ数世紀をかけて教義としての体系を整え、これを普遍性の言説へと彫琢してきたことによってかろうじて世俗主義近代を生き延びてきた。天皇制にはこうした強靭な思想的な普遍性がなく、神話を現実に繋ぐ強靭な歴史形成力を持たない。だから1945年を境にあっという間に民衆は天皇=現人神の神話を自ら放棄することに同意したのだと思う。ほとんど誰も本気で信じていなかったということだ。

対外関係では、一方に昭和研究会を中心とする東亜協同体論(東亜新秩序論)があり、他方に大東亜共栄圏がある。多分、軍事的侵略と人殺しの狂気を支える精神性にとってはファナティックな皇国史観や大東亜共栄圏の妄想は役にたったかもしれないが、広範な知識層を含めて侵略を正当化する思想的理論的実証的あるいは政策的な枠組は、むしろ東亜協同体論に代表されるようなスタンスではなかったかと思う。しかも、戦前の日本による植民地化と侵略を正当化する思想の無視できない一角を占めたのが、転向マルクス主義者たちであったということは決して無視できない。マルクス・レーニン主義の資本主義批判や帝国主義批判を逆立ちさせた議論が、平野義太郎であれ三木清であれ、あるいはプロレタリア文学作家として重要な仕事をしながら転向した林房雄であれ、彼らの理論的枠組はマルクス主義的な知的伝統抜きにはありえないものといえた。この意味で帝国原理は転向マルクス主義を抱えこんだものでもある。(これは、戦後高度成長を支えたイデオローグもまた転向マルクス主義者たちであったことにも共通する問題だ)そしてこの左右の中間に膨大な沈黙する現状追認の知的世界が拡がっていたのではないか。西田幾太郎や京都学派はリベラルな追認派として、ほぼ無傷でそのまま戦後を生き延びる。

帝国継承原理として武藤は、これらの戦前・戦中の帝国原理の振れ幅のどこに焦点を当てているのかはいまひとつはっきりしない。もし皇国史観や国体明徴運動のイデオロギーと大東亜共栄圏の構想をもって帝国原理とするなら、確かにアジア諸国の合意は得られないだろうし、少なくとも今現在の日本国内においても安倍政権を支持する確信的な右翼は別にして多くの有権者の合意も難しいに違いない。いやむしろ安倍政権がイデオロギーとして戦後の価値を否定する場合に、何をオルタナティブとして構想するのかという選択肢として、従来は採用されなかったような戦前・戦中のイデオロギーの核となるものの幾つかを取り入れようとしているのかもしれない。その取捨選択は、あらかじめ決められてはいない。まさにオポチュニズムによって選択されるに違いない。

●米国の覇権主義

多分、戦後日本が70年にわたってほぼ一貫してそのスタンスを変えてこなかったものが、この米国覇権主義を組み込んだ国策の構造だろうと思う。この意味で武藤の指摘に根本的な異論はない。しかし、米国の覇権主義に基いて構築されてきた戦後世界秩序のデファクトスタンダードは、中国とロシアの台頭によって、大きく揺らぐ事態になっている。新興国は、もはや欧米がルールとして定めた「国際社会」の正統性を無条件では受け入れなくなってきた。中国やロシアがそれぞれの国益をグローバルスタンダードとして打ち出し、これが相当程度に具体的な外交や安全保障、経済の分野で効果を発揮しはじめているからだ。中国のインフラ投資銀行、ロシアのシリア介入やクリミア併合、そして、米国にとって軍事的な空白地帯になっているアフリカでは、中国が圧倒的な経済的なプレゼンスをもって台頭しつつあり、同様に中央アジアもまたロシアの影響力が強まりつつある。これは、世界最大の軍事大国米国が、アジア重視やリバランスを主張したとしても、もはや世界の動向を左右する覇権国家の覇権国家たる所以を具体的な行動で示さなければならない場所そのものが、米国を中心とする欧米のヘゲモニーの構造から相対的に自立しはじめているということだ。こうしたなかで日本が米国覇権主義を正統性原理として維持することについて、支配層内部でも異論がでてくる可能性は否定できないと思う。これは別の見方からすれば、非武装中立というかつての夢の再興の可能性を孕む客観情勢が顕在化しつつあるともいえるかもしれないのだが、平和主義の側にもはやその準備がないように見える。

米国覇権主義は実際にはそれほど磐石であったことはなかった。この意味である種の神話に近いものであったかもしれない。ベトナム戦争以降、明確に戦争での勝者になりえず、冷戦の勝利は軍事的な勝利ではなくむしろグローバル資本の圧力による社会主義圏の自壊ともいえるものであったし、アラブ中東であれ旧ユーゴであれ、一貫した外交理念を貫くことができずに、国益だけを指標に無定見な武力行使を繰り返す以外になかったのではないか。その米国が、911同時多発テロでうろたえた大国の姿を世界中にさらし、出口のない対テロ戦争に引きずりこまれて手をやいている。世界最大の軍事国家米国が勝てない戦争を続けており、この米国との同盟という負け組を選択する極右安倍政権のスタンスに、この国の愛国主義者も同調するという奇妙なナショナリスムもまた米国覇権主義と帝国継承原理の矛盾の産物なのだと言えるが、これは逆に戦後国家の正統性の一角を脆弱にしている要因ともいえる。

21世紀の世界がそれまでの世界秩序と本質的に異なるのは、近代の普遍的な理念がそのままでは通用しなくなっており、そのことは支配的な価値観の側でも、従来の反政府運動(左翼)の側でも起きているということではないかと思う。これまで世界政治の枠組のなかでは不可視な存在としてしか扱われてこなかった20数億のイスラーム人口が、これまで前提されてきた欧米近代の普遍主義ともキリスト教習俗とも異なる文化的な価値をもって可視化され、無視できない政治的社会的文化的な潜勢力を示しはじめていることに対して、こうした動きを既存のグローバルは覇権システムのなかに有効に包摂することができないままになっている。多文化主義、民主主義、自由と平等もまたその欺瞞が露呈することになった反面、諸々の差別主義と排外主義が公然と欧米の民主主義を逆手にとって権力の中枢に迫る。価値観としての自由も平等も欺瞞以外の何ものでもないことを民衆の大半は実感しており、それは日本が「平和国家」であると公言することに込めらている欺瞞と共通するレトリックの構造があり、これは近代社会を支えてきたイデオロギー構造そのものの限界と矛盾が露呈したものだといえる。だから、これは、米国の覇権主義原理の危機のあらわれでもあって、その危機は、グローバルなイデオロギーの危機でもある。

他方で、民衆運動の側はどうか。冷戦期の反戦平和運動は、ベトナム戦争反対運動であれ第三世界連帯運動であれ、反米闘争を闘う民衆の闘争への思想的な共感をともなうものでありえた。しかし、ポスト冷戦期の運動は、湾岸戦争からアフガン・イラク戦争そして対テロ戦争の現在に至るまで、米国とその同盟軍と闘うもう一方の主体に対して共感をもってこれに同調することで運動が成り立っていない。欧米に主導された軍事介入に反対するとはいえ、広範に(特にイスラーム圏で)どこからどこへ向う解放が民衆の解放の闘いとして、欧米や日本の反戦平和運動と世界観や将来社会像において共有できるものとして存在しているのか、この点が未だに不分明なままだ。世界社会フォーラムの「もうひとつの世界は可能だ」というスローガンも、もうひとつの世界を「像」として結ぶことができるような焦点を見出せないままである。ギリシア、スペイン、香港、台湾、あるいは英国労働党や米国民主党内部の左派の台頭は注目すべきだが、しかし、これらの運動は、資本と近代国民国家の枠を越える理想が希薄なようにも見える。多国籍資本のビジネスモデルを覆すだけの潜勢力がまだ見出せていない。この意味で。米国の覇権主義は、圧倒的な軍事的・イデオロギー的な優位に支えられているというよりも、次の選択肢が見出せない反体制運動の脆弱さによってかろうじて延命しているともいえる。米国覇権主義の危機はかなり明白であるが、それに代替するプログラムが見出せない。この意味で、危機は主体の側により深刻であり、この間隙を縫って、極右がその隙間を埋める運動として民衆的な力を獲得しつつあるように思う。この意味では、問題は奴等の側にではなく私たちの側に、私たちが提起すべき解放の想像/創造力の欠如にこそある。

●わたしたちにとっての最大の課題は何なのか?

資本主義にとって、戦前・戦中・戦後に一貫しているのは言うまでもなく、資本蓄積の構造である。独裁であれ民主主義であれ、何であれ資本を支える社会的な構造を資本は要求するのみである。国家にとっては、国民国家としての権力の正統性が何であれ、国家の統治機構の自己維持こそがその自己目的である。この一貫した構造のなかで、一人一人の個人あるいは身近な民衆の存在に定位したとき、そこにあるのは、国民的〈労働力〉としての再生産の構造である。一方で資本が、他方で家族が、そしてこれらを支える統合の基盤としての国家がある種の原理的な構造をなしている。武藤が三原理を相互に矛盾するものとして指摘したことは重要であるが、私はこの三つの原理の矛盾だけでなく、より多様な正統性の要件があると考えている。ここではそれを全体として論じることはできないが、近代の資本と国家のシステムはある種のモジュール構造をとって緩やかに相互に接合される。家族や親族の構造から重層的なコミュニティの構造、総体としての資本や国家の統治機構に至るまで、相互に矛盾と摩擦をはらみながら調整しうるようなモジュールであり、ときにはその一部が別の構造をもつモジュールと取り替えられることすらある。国民的〈労働力〉の再生産の時間的(歴史的)空間的(領土的)な配置のなかで、資本は蓄積を自己目的とし、国家は権力を自己目的とする構造を維持する。常に問題の中心をなすのは「人口」である。人間社会である以上この「人口」が問題であり主体でもあるからだ。資本と国家の自己維持メカニズムにとって、「人口」はその手段でいかない。武藤が述べているように、オポチュニズムがこうしたシステムの根底にはあって、実は最も重要な存立構造の核をなしているようにも思う。近代の普遍主義はこのオポチュニズムを正当化するための神話の装置だとも言える。

これを「日本」という文脈に引き寄せたときに、その固有性は何になるのかが問題になり、武藤はこの固有性の次元で「日本」の正統性原理を批判した。彼は過度な抽象化や理論化には大変慎重かつ批判的だと思うので、私のような抽象的な資本や国家という概念に「日本」の固有性を還元することには異論があると思うし、わたしには武藤が論じているような密度で、同じ抽象の水準で戦後日本の国家を論じる能力も準備もないのだが、だからこそ彼の安倍政権批判から近代日本の国家原理総体へと至る批判の具体性は、示唆に富み、かつ刺激的なのだ。問題は、今に至るまで、やはり、資本と国家の廃棄という課題である。この課題に連接する具体性の次元で語るべき言葉を本来なら持たなければならないのだが、まだ私にはその用意が十分にできていない。このことを武藤の議論を読みながら改めて実感させられた。

12月17日:今日の反核反戦展2016 関連企画 ―ディスカッション:反核・反戦と表現の自由 『核×戦争のアートアクティヴィズム』

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チラシ

今日の反核反戦展2016 関連企画  ―ディスカッション:反核・反戦と表現の自由
『核×戦争のアートアクティヴィズム』

12月17日(土)13時~15時(12時30分 開場)
場所:原爆の図丸木美術館 小高文庫 ※参加者数により変更
〒355-0076  埼玉県東松山市下唐子 1401 TEL:0493-22-3266
参加費:500円 (資料・茶菓子代) ※美術館入場料別途要

■小倉利丸《批評家》
遊動と根拠地:アナログ・アートアクティビズムへ
■岡村幸宣《原爆の図丸木美術館 学芸員》
《原爆の図》の活動期――占領下、1980年代、そして現在
■狩野 愛《アートアクティヴィズム研究》
アートアクティヴィズムは国境を越える

《原爆の図》の全国巡回は、原爆被害の報道が禁じられていた占領期に始まり、1950〜53年の約4年間で、全国170カ所以上で開催されました。丸木位里・俊が、美術作家として反核・反戦の悲惨さを表現し、全国行脚して展示し、物語を伝えていく活動は、社会教育やジャーナリズムとも結びついた実践だといえます。ただ、現在の「自由に制作・発表出来ている」状況におけるアートの制作と展示と比べると、大分異なる活動のあり方かもしれません。しかし、アーティストと美術関係者が、積極的に原発や米軍基地の緊急の問題に関わり、解決に向けて一歩踏み出す方法を議論し、共有し、模索する機会を増やしていく意味はあるでしょう。
かつての丸木夫妻のアートアクティヴィズムの実践と、今日までの原爆の図丸木美術館の取り組みを省みると、社会の中で美術を機能させる意識を持つべきなのか、美術の中で社会を見出す契機を作っていくべきなのかという問いは、もはや無効であると言えるでしょう。むしろ、今回のトークイベントでメインに据えたいテーマは、アートを触媒にした対抗文化は、今日の社会制度、美術制度が敷かれた空間で、いかにラディカルさを確保し、力を発揮できるかということです。
世界的にもナショナリズムが求心力を持ち、政治状況が激しく揺れ動く一方、市民として反核・反戦を実現していくユートピアを、発表と参加者を交えたオープンディスカッションで描き、より広くアートアクティヴィズムの可能性を見出せればと思っております。皆さま、奮ってご参加ください。

左派は国民国家の統治とは別な何かを創造できるか──『絶望のユートピア』出版に際して

以下は、『人民新聞』10月15日号に寄稿したものです。

私は、この30年ほどの時間のなかで、雑多な文章を書いてきた。この雑多な産物を雑多なままに、『絶望のユートピア』というタイトルを付して本にした。一二〇〇ページを越える大部だが、時系列にもカテゴリー別にも分類することを排した混沌とした本である。特定のテーマはない。現代資本主義批判もあれば現代美術の批評もある。原発への言及もあれば、天皇制や右翼言論への批判もある。サイバースペースや監視社会批判もある。しかし、これらをカテゴリーのなかに押し込んで相互に別々の課題とするようなことはしたくなかった。結果として、混沌が生まれた。

左派が、日本だけでなくどこにおいてもグローバルに直面しているのは、左派としてのアイデンティティの危機だと思う。この危機は、西欧近代が普遍的な価値としてきた自由、平等、人権、民主主義の擬制と虚構に左派もまた加担してきたしてきたところにある。もはやいかなる意味においてもこうした価値は、その一切の正統性を喪失してしまったと思う。底辺に生きる民衆たちは、こうした価値とは別な何か、国民国家の統治(憲法がそれを体現しているのだが)とは別な何かを直感的な欲望として抱きはじめている。左派に必要なことは、こうした普遍的価値からいかにして自らを切り離し、そうではない「何か」を思想的にも実践的にも創造できるかということだろう。こうした問題意識を具体化できる能力は私にはない。とりあえず自分にできることとして、この30年を混沌の坩堝に投げ入れる不細工な仕儀の産物が、本書なのかもしれないと感じている。

5000円という高額の本はそう手軽に買える値段ではない。そこで本書については、異例な販売方法をとることにした。分割後払いでの購入ができるようにした。文末に掲載した問い合わせ先にメールで注文すると、本と一緒に郵便振替口座など支払いの案内と振替用紙が同封されてくる。何回払いにするか、一回の支払い金額は買い手が自分で決めてよい。文庫本ですら1000円では買えないご時世だ。失業と非正規低賃金の労働者が圧倒的に多くなっているなかで、読みたい本が高くて買えないということは、そもそも知へのアクセスから貧困層を排除するということでもある。月々数百円とか1000円程度なら支払えるという皆さんに是非手にとってもらえたらと思う。全てを読む必要はないが、何か考えるヒントの一つでも得られるものでありたいとも思う。分割後払いは一般の書店では扱ってもらえないが、こうした販売に協力していただける方、団体、お店などがあればぜひ下記に連絡をいただければと思います。

分割後払いでの購入申し込み先
daRa revo
dararevo@alt-movements.org
詳しくはウエッブをご覧ください。
https://dararevo.wordpress.com/

『絶望のユートピア』桂書房、5000円

小倉利丸

SNSは民衆的自由の基盤になりうるか

Facebookは昨年同期の1.5倍の収益を上げた。収益の半分は広告料収入だ。3ヶ月で70億ドル近くの広告料収入を得ている。

SNSの収益構造は、広告に依存しており、伝統的なマスメディア資本の収益システムとほとんど変りがない。つまり、広告で収入を稼ぐ一方で、ユーザーには無料でサービスを提供するという方式は、伝統的なマスメディアのビジネスモデルと変らないのだ。テレビなら無料で番組を提供するかわりに広告も流す。新聞なら広告料収入によって読者に採算以下の価格で新聞を売る。ネットの多くの無料サイトは多かれ少なかれこのマスメディアの収益システムと同種のことをインターネットで展開しているにすぎない。

情報は「物」とちがって、所有者を移転することは元の情報の所有者から情報が失なわれるわけではない。だから、情報の所有者は物とは違って情報の提供のハードルが低い。たとえば、親友にカンニングさせるということは、親友も自分もともに100点が取れるからであって、一方が100点をとったら他方は0点になるという「あいつか俺か」ではなく「あいつも俺も」になる。だから、この情報を市場経済にメカニズムに乗せるには、著作権を設定して使用の権利を規制したり、情報の共有にペナルティを課したり(カンニングしたくなるような退屈な授業しかできない教師は処罰されない)、「特定秘密」などという特殊なカテゴリーを構築して情報へのアクセスを犯罪化したり、あの手この手で情報をコントロールしようとする。

マスメディアの広告は、資本主義における資本のメカニズムのなかでは、ある意味で「コロンブスの卵」のようなものだ。資本の生産物(番組や記事)は、多額のコストをかけながら無料で配布(放送)してしまう。他方で、放送の時間枠や紙面の面積をスポンサーに売り、不特定多数に伝播されて流通する商品情報の回路を提供する。資本としてのマスメディアは番組のコンテンツを売っているのではない。彼らは、放送の一定に時間枠や紙面の一定のスペースを、視聴率や発行部数などのデータを基に、価格を設定して切り売りする時間やスペースの商品化業者だ。こうした無料あるいは市場経済のコストや資本の収益の論理では説明のつかない低価格で情報の受け手に情報を提供することによって、広告を流通させる。他方で、こうした情報の流通なくして市場で「モノ」を売ることもできないから、こうした情報の回路は市場にとって不可欠のメカニズムでもある。私は、この市場に付随する市場の論理とは区別されるが市場にとって不可分の情報の回路をパラマーケットと呼んでいる。

かつてのマスメディア同様、ユーザー数が広告料に比例すると思われるが、かつてのマスメディアと比べて、SNSビジネスは、ユーザーとの関係で本質的な変化があるが、必ずしも好ましい変化だというわけではない。

インターネットは双方向のメディアであって、マスメディアのように一方通行で大量に同質の情報を散布するのではなく、ユーザーが相互に情報を不特定多数に対して発信しあうことができる。この点がメリットと言われてきた。マスメィアは番組や記事を自前で生産し、このコンテンツがどれだけの視聴者(読者)を獲得できるかが広告収入とリンクしていたので、コンテンツの生産が重要な意味をもった。しかし、SNSでは、コンテンツはユーザーに完全に依存し、SNS資本はそのプラットフォームを提供するだけである。この意味でコンテンツの「生産」にかかるコストを完全に排除できる。コンテンツはユーザーが発信する情報そのものであって、ユーザーが自ら生産したコンテンツに寄生して収益を上げることになる。この意味でネットのメディアには新たなものを生み出すクリエイティビティは欠ける一方で、ユーザーがクリエイティビティの主体になりつつ、これを資本が自らの利潤のために「横取り」するという構造になる。

マスメディアは広告とマーケティングによって需要動向を間接的に調整し予測するための手段にすぎなかった。あくまで個々のユーザーは匿名の存在でしかなかった。これに対してSNSでは、登録したユーザーの個人情報(言語、居住地、年齢、性別、職業、人間関係など)や投稿内容を分析してこれらから解析された個々のユーザーの趣味や傾向に基づいて、SNSなどの画面に最適と思われる広告を掲載するような仕組みになっている。個人のプライバシーはマスメディアの場合に比べて格段に脆弱になっている。

このプロファイリングの仕組みをSNSなどは民間の企業に売り込み、広告を出す企業は自社の商品の売り込みにこれを用い、これがユーザーの購買行動とリンクする。特に途上国では、多国籍企業の商品の販路開拓に有効に機能する可能性があり、日本のような先進国でも、広告を打つことのできない地元の零細な自営業は駆逐され、ユーザーの視野(消費者の選択肢)から外れるような心理効果を生む。

こうしてSNSは、かつてのマスメディア以上にユーザーを包摂する効果が大きいと思う。マルクスの『資本論』の表現を借りれば、マスメディアは視聴者や読者の欲望を単に「形式的」に包摂していただけで、マスメディアの情報に接した受け手が、その情報をどのように理解し受け入れているかは未知数にままだったが、SNSは「実質的」にユーザーをメディア環境の内部に、あたかも「主体」であるかのように包摂しながら、その欲望を個々のユーザーの個性やライフスタイルに合わせて調整することを通じて、商品の購買行動へと誘導する。SNS資本の最大に目論見は、資本の収益であり、その基盤は広告収入であって、ユーザーの自由な言論空間を確保することは、それが広告収入の増収に繋がる限りで関心を持たれるに過ぎない。

この構造は、基本的に多様性とともに大量現象を生み出すことが収益を支える上で効果的になるので、マイノリティの言論の自由は、排除によるプラス効果がるとされれば容易に排除されるから、本質的に脆弱なものになる危険性がある。SNSに限らず情報通信関連の資本はプライバシーポリシーによって顧客の個人情報を保護することを誓約し、一定の法的な保護もあるとはいえ、これらが文字通りの意味で遵守されているかどうかを、自分の個人情報の管理や使用のされかたに即して知ることは不可能に近い。プロファイリングのプログラムがどのように個人情報を処理しているのかを知ることもできない。

インターネットが不特定多数の間で双方向で行なわれるコミュニケーションの技術的な環境を提供することによって、コミュニケーション環境は劇的に歴史的な変貌を遂げたことは事実だ。それが諸々の社会運動や反政府運動に与えた肯定的な影響は評価してもしきれないが、しかし、同時に、こうした自由なコミュニケーション環境が、極めて寡占的な営利を目的とした資本によって提供されており、これに代替するサービスないということが深刻な問題なのだ。他方で、非営利であってもそれが政府などの公的機関の直接・間接の助成などによって運営される場合は、個人情報やプロファイリングのデータが私企業による営利目的ではなく、何らかの政治的な意図によって利用・管理される危険性に直接晒されるということになる。

しかも、プライバシーポリシーであれ法制度であれ、それらは改変されうるものだ。人間の一生を70年として、個人の名前や性別、エスニシティ、国籍、生年月日などはほぼ不変のまま維持されるのに対して、制度が改悪される危険性は人生のなかで何度も起きる。そのときに、自分の個人情報を今以上にコントロールできない環境に置かれざるえないことになる。これまでの経験からすれば、コミュニケーションが高度な機械化に依存すればするほど個人の自由を押し拡げる方向で発展するよりもむしろ自由を制約する方向に進んできた。同時に、資本や国家に主体的に同調するような個人のパーソナリティを生成するための手段になる危険性もまた大きくなってきたのではないだろうか。

このように考えると、そしてまた、対テロ戦争の戦時下にあるという認識を前提としたとき、寡占化されたSNSがますます大きな収益を目指してビジネスモデルを開発しようとすれば、こうした資本の利害は国家の利害を体現するグローバルなプロパガンダ装置に変貌し、社会的排除の新たな道具になる危険性があるとはいえないか。この意味で、資本にも国家にも依存しない第三の選択肢が不可視な現在の状況は、民衆的自由にとってかなり深刻な危機だと思わざるをえない。

(声明)インターネットの民営化とフェイスブック/ズッカーバーグによるinternet.orgの独占に反対する

ちょうど私がfacebookに引導を渡したのと相前後して、米国のLaborNet.orgとMay First/People Linkから声明への賛同の呼び掛けが、APC(Association for Progressive Communications、主に第三世界のインターネットの権利運動を担ってきた組織で、日本ではJCA-NET、韓国ではjinbonetが加盟してます)に流れました。以下、大急ぎで訳したものです。日本語訳の後ろに原文をつけますが、原文の英語がちょっと乱れていて不明確なところもあります。タイトルにある「internet.orgの独占に反対する」の「独占」は直訳すると「捕獲capture」です。

internet.orgが何なのかは日本ではあまり知られていないと思います。これは、フェイスブック、サムスン、エリクソン、ノキアなどの企業などが設立した途上国向けのインターネットへのアクセスを推進する企業主導のインターネットの途上国へに拡大戦略の一環として最近話題になってきたものです。

数十億の人口がありながらネットアクセスの経済的な条件のない人たちが膨大に存在する。こうした貧困層をネットに囲い込むことから新たな途上国におけるビジネスの展開に繋げるという思惑をもったものといえます。.orgというドメインを使いながら実際は非営利とはいえないもの(本来なら.comでしょう)ということで、以下の声明では非営利の領域を民間企業が乗っ取りを画策しているということで「民営化privatization」という言い方をしているのだろうと思います。また下記で言及されている「課金ゼロ政策」とは、インターネットへのアクセスに課金しないことでアクセスユーザを増やす政策です。これは一見すると貧困や格差の時代にあっては歓迎されそうな政策ですが、これがネットユーザの囲い込みを促し、これをビジネスチャンスに繋げたり、ソーシャルメディアを利用するユーザの行動を監視する手段に使われることを警戒しています。こうして将来の企業の利益を見越して、非営利の民衆組織が太刀打ちできないような無料でのアクセスとかサービスの提供によって、ネットで文字通り「非営利」で活動しようとする運動体の活動の場が乗っ取られるということになります。貧困の現状を変えるのではなく、貧困層にタダでネットにアクセスさせることを「餌」にして搾取と監視の網に囲い込むという巧妙な罠ともいえます。日本語訳の間違いとか是非ご指摘ください。(以上簡単な説明)

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インターネットの民営化とフェイスブック/ズッカーバーグによるinternet.orgの独占に反対する

インターネットはグローバルなコミュニケーションのための活力ある歴史的な力である。インターネットにおける民主的な諸権利を守ることの重要性は、世界中の民衆と労働者にとっての基本的な課題である。ドットオルグ.orgのデザインの確立は、非営利、労働組合など企業ではない諸組織のためにドメインを確保することにある。インターネットの民営化の取り組みや、インターネットは私企業の利潤目的のためにあるなどの宣伝が、インターネットを危険に晒している。フェイスブックなどの企業によるインターネット支配を確立する課金ゼロ政策zero-ratingは、民主的なコミュニケーションと民主的な情報にとって弊害である。

こうした理由から世界中で、利潤を目的として、企業の利益のためにインターネット支配を目論む企業によるインターネット支配の構想を押しとどめる動きが徐々に登場してきている。

フェイスブックとそのオーナーのマーク・ズッカーバーグによるinternet.orgの独占は、インターネットの民営化からインターネットを防衛するという立場と対立し、インターネットを利潤目的に従属させるものだ。同時に、主要なソーシャルメディアとしてのフェースブックは、これまでも、ノルウェイ、トルコ、パレスチナ、インド、イスラエル、米国などの諸国の反体制派を検閲し、コントロールしようとしてきた。ソーシャルメディアの検閲は、実際に、抑圧的な政府がその国の住民やコミュニティによる政府の見解への異議申し立てを阻止することを画策するための道具になってきた。ソーシャルメィアによるコミュニケーションの基盤が十億人以上を含むようになって以来、ソーシャルメディアは、これを支配する企業経営者によるそのコンテンツの検閲者となった。

こうした私企業の所有者はまた、政府の政策に対してさまざまな異論を持つ人びとを把握するために、抑圧的な政府がソーシャルネットワークを利用するコトを許容てきた。こうした私企業のインターネット管理者にとっては、より多くの利潤を獲得することの方が、民主的なコミュニケーションやプライバシーの権利よりも明かに重要なのである。

我々は民間企業によるinternet.orgの独占を含めむインターネットの民営化に反対する。我々はまた、政府に反対する論争や政治的宗教的見解を妨げるソーシャルメディアによる検閲にも反対する。

我々は、一般大衆、労働者、労動組合、民衆組織、ネットワークのユーザたちに、インターネットの民営化に反対し、全ての人びとのインターネットにおける民主的な権利を防衛するために行動するようにことを呼びかける。

LaborNet.org
May First/People Link


Statement In Opposition To Privatization of Internet and Capture Of internet.org by Facebook/Zuckerber
The internet is a vital and historic  force for communication globally. The need to protect democratic rights on the internet is a fundamental issue for people and labor throughout the world. The establishment of the .org designation was to set aside a domain for non-profits, unions and other non-business organizations. The effort to privatize the internet and through fraudulent advertising to control what the internet is for the purpose of increasing profits of private companies is a threat to the internet. The effort of zero-rating to establish an internet controlled by companies such as Facebook and others is detrimental to democratic communication and information.
For this reasons countries around the world have more and more sought sought to prevent such schemes of control of the internet by companies whose purpose is to increase profits and control the internet for their profits.
The capture internet.org by the Facebook corporation and the owner Mark Zuckerberg is contrary to the interests of protecting the internet from privatization and control of the internet for profits. At the same time the major social media tool Facebook has been used to censor and control dissident points of view around the world from Norway, Turkey, Palestine, India, Israel, the US and many other countries of the world. The social media censors have become in fact tools for oppressive government which seek to prevent their residents from communities from dissenting from the governmental views. Since these platforms contain over a billion people they have become world censors of content by owners who control these social platforms.
These private owners have also allowed repressive government to use their social networks to capture people that have differences with the policies of these governments. The pursuit of profits have clearly been more important the democratic communication and privacy rights by these private internet operators.
We oppose the privatization of the internet including the capture of internet.org by private entities. We also oppose the use of censorhship by these social media networks to prevent debate and political or religious views which are in opposition to governments.
We urge the public, working people unions popular organization  and the users of these networks to demand an end to the privatization of the internet and to take action to defend our democratic rights on the internet for all human kind.

Signed
LaborNet.org
May First/People Link

facebookのアカウントを廃止した理由

facebookのアカウントを廃止した。ほとんど使ってはいなかったが、facebookで「いいね」してくださいとか、とりあえずお友達してくださいということで、おつきあいでアカウントだけ持っていたようなもので、最初で最後のfacebookへの投稿は、アカウントの廃止の告知だった。

反監視運動とかもやってきたし、最近のスノーデンやwikileaksなどが報じてきた米国のITやネット企業と政府・諜報機関の癒着は見過すことができないと思ってきた。多国籍資本の搾取に反対する活動家がMSやAppleのOSを「便利」だといって使うのはどうなんだろうかなあと思って、まったく何もわからないままオープンソースに移行してLinuxユーザーになったとか、まあやれるところで工夫はしてきたので、facebookについてもまだ依存症にはなっていない今のうちにおさらばすることに。tuitterはかなり依存しているのでそう簡単ではない。スノーデンも使ってるし、いいかなあとか、いろいろ言い訳を考えうことになるのだが。

「facebookのアカウントを閉鎖するよ」と言うと、多くの友人たちが、「そうできればいいけど、できない」という反応になる。彼らにとってfacebookは日常生活の必需品になってしまっている。私生活でも社会運動の道具としても、人間関係の繋りがSNSによって媒介されている。これは、ネットビジネスの思惑通りの筋書きでもある。生活に欠かせない道具になることによって、特定の企業のサービスに依存しないと友人関係や、非営利の活動すら維持できないことになる。人間は一人では生きられないから、通信やコミュニケーションが生存の必需品であることに不思議はない。しかし、コンピュータ・コミュニケーションは言語を用い始めて以降の人類のコミュニケーション経験を根底から変えてしまった。機械なしにはコミュニケーションができなくなった。そして、SNSを利用することによって、わたしたちの人と人との繋がりや、いつ誰とコミュニケーションしたのか、どのような写真を誰と撮り、誰がこうしたメッッセージに「いいね」をしたのか、こうした一連の人間関係が一私企業によって把握されて、この企業のプロファイリングのプログラムを通じて、人間関係の拡がりもまた影響を受け、制御される。こんなことは手紙の時代にも直接人と人がオーラルにコミュニケーションしてきた時代にもなかったことが起きている。問題は、こうした企業の介入を「便利」ということで、これに依存してしまい、コミュニケーションの基盤を企業の収益に結び付けるような構造に組み込まれてしまったということだ。他方で、企業の利益が見込めない環境では、逆に公権力が公共サービスとしてのSNSを展開したりするので、いずれにせよ、資本か政府の制御のなかで私たちの親密なコミュニケーションが成り立たせられるということになっている。

facebookはgoogleとともに、諜報機関の情報収集に企業としても協力してきたと言われているが、とりわけfacebookにわたしが怒りを感じたのは、イスラエル政府に協力して、パレスチナ連帯運動を公然と監視してきたことを知ったときだ。7月4日づけのロイターは「パレスチナの暴動に拍車を掛ける恐れのあるメッセージを阻止するのに、フェイスブックが協力的ではない」とイスラエル政府が批判していると報じ、この記事のなかで、facebookは「当社は、フェイスブックの安全な使い方を周知徹底するため、イスラエルを含めた世界の治安当局や政策当局と常に協力している。当社のプラットフォーム上では、暴力や直接的な脅迫、テロリスト、ヘイトスピーチを助長するようなコンテンツが介在する余地はない」というとんでもない弁解をしている。とんでもないというのは、「イスラエルを含めた世界の治安当局や政策当局と常に協力している」ということを公然と発言しているからだ。「世界のの治安当局や政策当局」には当然、日本も含まれているだろう。

とくに、イスラエルのパレスチナ政策をかつての南アのアパルトヘイトと同質のものとして、ボイコット運動を国際的に展開しているBDS(https://bdsmovement.net/)運動への干渉にfacebookが加担しただけでなく、facebookは、イスラエル政府のトップと会談し、イスラエル・オフィスは、ネタニエフ首相のドバイザーで元駐米スイラルエ大使館の主任スタッフを勤めたジョルダーナ・カトラーを雇用するという露骨な政権寄りのビジネスを展開するなどということをやったことで、ぼくは一線を越えたと判断した。facebookはこれまでも、イスラエル政府から反イスラエル運動への監視と検閲を要求されており、ある種の摩擦があった。DBSはこうした問題があってもfacebookのアカウントは閉鎖していないようだ。運動にとって重要なメディアのプラットフォームになってしまっているから、そう簡単には抜けられないということだろう。

SNSやネット企業はユーザーに対してはリベラルで物分りがよい顔を見せたりするが、他方で収益を目標とするれっきとしたビジネスでもある。ネット企業がいかに収益に敏感に反応しているかは、証券市場の動向がネット企業に与える影響を見ているとわかる。投資家は、ネット企業の市民的自由への貢献度には関心がなく、株価は、顧客をどれだけより多く獲得したか、広告収入など収益がどれだけ前の期と比べて「成長」したかといったことに敏感に反応する。資本主義の悪弊でもある成長第一主義と競争、大手資本による買収、アジアの新興市場での熾烈な市場獲得競争が繰り広げられる様子は、他の分野の多国籍企業と何ら変るところはない。しかも、ITインフラや公共投資の最大の投資家であり、かつ情報通信関連の法制度の権力者である政府(独裁政権であろうが軍事政権であろうがお構いなしだ)に背くことは、グローバルな成長と市場支配を目指すネット企業にとってマイナスでしかない。逆に、人びとの自由な言論を監視し制御したり、顧客の個人情報を含むプロファイリングは、広告主にも政府にも好都合で、こうして資本と政府の間に、ユーザーの民衆的な自由の権利を監視し売買するシステムが構築されることになる。この資本の論理に私たちのコミュニケーションの世界がますます統合され、ここから切断できない心理的な依存症状を多くの人たちがかかえるようになっている。こうした状況が、反体制運動や反政府運動あるいはネオリベラリズムに反対する運動のコミュニケーションをメタレベルで支配している。これは、コミュニケーションの権利にとってかなり深刻な事態だ。かくいう私も、ブログというネットに依存した手段に頼っているという意味でいえば、この構造の外にあるわけではない。

とりあえず、わたしは、facebookのように、露骨な検閲やアパルトヘイトを推進する政府との協調を公言するネット企業のアカウントを持つのは不快きわまりないので、付き合う義理はないし、付き合いを切ることの実害もないので、廃止ということにした。facebookが活動やコミュニケーションの必需品になっている場合はそう簡単ではないと思う。すくなくとも簡単にアカウントをゴミ箱に入れるなんてできないとしても、NSAやイスラエルに協力している企業の株価に貢献している気持ち悪さを忘れずにお使いいただければと思う。こうした多国籍企業のSNSとはちがう、オルタナティブのSNSがあればぜひご紹介くだい。

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政府の監視に加担するソーシャルメディア

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P.S. ちなみに、日本の大手通信事業者には以前から警察などからの天下りがあり、これがかつての盗聴法反対運動でもちょっとだけ問題になったことがあります。ということでfacebookだけが特に極悪なのではありません。

戦争法(安保法制)下の共謀罪 -なぜ、いま、「テロ等組織犯罪準備罪」なのかー

以下は、10月30日に富山市で開催された集会に提出した講演資料に若干加筆したものです。

1.共謀罪の概要

朝日新聞の報道(このブログの最後に転載)をもとに、新共謀罪法案の要点をまとめると下記の5点になる。

(1)「組織的犯罪集団に係る実行準備行為を伴う犯罪遂行の計画罪」
条文にはテロという文言はないが通称として「テロ等組織犯罪準備罪」を用いる。

(2)対象となる犯罪は、「4年以上の懲役・禁錮の罪」。罪種は600を超える。

(3)対象は「組織的犯罪集団」。「組織的犯罪集団」の認定は捜査当局が個別に行う。

(4)犯罪の「遂行を2人以上で計画した者」を処罰。計画をした誰かが、「犯罪の実行のための資金又は物品の取得その他の準備行為が行われたとき」という要件が必要。

(5)法案提出の理由
・越境組織犯罪条約(国際組織犯罪条約)
「国境を越える犯罪を防ぐため、00年に国連総会で採択された「国際組織犯罪防止条約」がある。日本も署名し、国会は03年に承認したが、条約を締結するには共謀罪を含む国内法の整備が必要。」
・オリンピック警備
「 念頭にあるのは、4年後の東京五輪・パラリンピックだ。政権幹部の一人は「テロを防ぐためなら国民の理解を得られる。目の前に東京五輪を控えているのに、何もやらないわけにはいかない」とチャンスとみる。」

2.新共謀罪法案の問題点(日弁連)

上記のような新共謀罪について、日弁連は会長声明で以下のような批判を展開した。(声明はこのブログの最後に資料として掲載)

そもそもの大前提として、刑事法の基本は既、遂の行為を処罰するものであり、共謀罪はこの「刑事法体系の基本原則に矛盾し、基本的人権の保障と深刻な対立を引き起こすおそれが高い」とした。つまり、「話し合う」こと(実行そのものではなく、共謀や計画すること)は、言論・表現の自由という基本的人権によって保障されるものであって、これを実行行為と同等に扱って犯罪とするのは、基本的人権の侵害であると批判したのである。その上で、個々の論点について以下のように批判した。

対象となる犯罪がかつての共謀罪法案を大幅に上回るということ。2007年自由民主党小委員会案では、対象犯罪を約140から約200にまで絞り込んでいたが、提出予定新法案では、600以上の犯罪を対象に。また、民主党2006年修正案では、犯罪の予備行為だけでなく対象犯罪の越境性(国境を越えて実行される性格)を要件としたが、提出予定新法案は、越境性を要件としていない。

犯罪の「遂行を2人以上で計画した者」を処罰とし、旧共謀罪よりも要件を厳格にしているような印象を与えているが、「『計画』とはやはり『犯罪の合意』にほかならず、共謀を処罰するという法案の法的性質は何ら変わっていない。」ということ。また、「『組織的犯罪集団』を明確に定義することは困難」であり、「『準備行為』についても、例えばATMからの預金引き出しなど、予備罪・準備罪における予備・準備行為より前の段階の危険性の乏しい行為を幅広く含み得るものであり、その適用範囲が十分に限定されたと見ることはできない」と批判した。

越境組織犯罪条約(国際組織犯罪条約の批准にとって共謀罪は必須の国内法であるという旧共謀罪当時から政府が繰り返してきた主張について、日弁連は、条約は、経済的な組織犯罪を対象とするものであり、テロ対策とは本来無関係であると批判した。

こうした日弁連の批判は当然のことであり、私は特にこの批判につけ加えることはない。以下では、こうした法案の条文に即した共謀罪法案の批判とは視点を変えて、法執行の現状や司法の構造的な問題、そして民衆による抵抗権や民衆的な自由の観点から、法案がもたらすであろう問題に絞って、共謀罪の制定は絶対に許すべきではないことを述べておきたい。

3.捜査機関の捜査、逮捕・勾留の大幅な拡大

以下では日弁連の批判とは別の観点から、新共謀罪法案の問題について述べておく。

共謀罪が成立するとした場合、従来犯罪ではなかった多くの行為が犯罪とみなされることになる。とりわけ注目しなければならないのは、あらかじめ警察などが、実行行為がない段階から、複数人が刑法に抵触するかもしれない行為を相談していることを察知して監視するということができなければ、検挙に繋らないという点である。つまり警察などは、かなり早い段階から捜査(内偵)を実施することになるし、こうした活動を「共謀罪の疑い」とか「共謀罪犯罪を未然に防止するため」などとして公然と予算や人員の配置などの措置をとることができるようになる、ということである。たとえば、交通事故を未然に防ぐために安全運転のキャンペーンをやる。空き巣や盗難を防ぐための戸締りキャンペーンをやる。こうした「安全・安心」のキャンペーンに町内会などが動員される。現在でも「テロ犯罪を未然に防ぐため」と称したキャンペーンが展開されているが、こうしたことが共謀罪という従来は犯罪ではなかった行為(言論)を犯罪とすることで、どのようなことになるのだろうか。

原発反対運動で共謀罪が適用される?(ひとつの想定)
たとえば、原発の再稼動反対集会があったと仮定しよう。この集会で「再稼動を断固として阻止しょう!」という発言に皆が拍手喝采する。どうすれば再稼動を阻止できるか、可能な行動であれ「夢」のような不可能に近い話しであれ、あれこれの議論が自由になされるかもしれない。集会の最後に、「再稼動を阻止する闘いを貫く」という集会決議文が採択される。集会決議などは、実現可能かどうかは別にして、威勢のいい元気な内容になることもよくあることだ。

こうした「阻止」の主張を皆が集会で議論することは果して共謀だろうか?この集会を主催した団体は「組織的犯罪集団」だろうか?あるいは、この集会が「阻止」を決議したということは、この集会そのものが「犯罪の実行のための資金又は物品の取得その他の準備行為」といえるのだろうか。たぶん、この段階ではまだ「共謀」が成り立っているのかいないのか不明瞭に違いない。しかし、警察は、この集会で主張された原発再稼動「阻止」を文字通りその言葉通りに実行される可能性があり、これはれっきとした「テロ」だと判断したらどうなるだろうか?どのような行為が「テロ」なのかは警察が自由に判断できる。警察は、実際に「阻止」の行動をとるために計画を具体的に立て、必要な資金や物品などを調達するかもしれず、そうなれば共謀という立派はな犯罪になると考えて行動するだろう。共謀罪で検挙できるようなことになるかならないかを事前に判断するために、警察は捜査や監視の活動に着手することになるだろう。もし警察が、何らの具体的な行動もなされていない段階であっても、集会を監視し、将来実力で「再稼動阻止の行動に出る可能性がありうる」とみなし、この阻止行動の内容には、傷害罪とか逮捕・監禁罪とか建造物等損壊とか電子計算機損壊等業務妨害などいずれも懲役4年以上になりうる犯罪が含まれるかもしれないと判断するかもしれない。こうした可能性が少しでもあれば、警察は、実際に共謀罪での検挙を視野に入れて本格的に捜査することになるかもしれない。

こうして警察は、この集会の主催団体や参加者たちを監視して、共謀するかどうかを常時見張ることになる。「共謀」はコミュニケーションだから、会話や通信を見張り、共謀の「証拠」をつかまなければならない。共謀罪の捜査の基本は、人びとの行動を見張り、人間関係を把握し、相互の会話や通信の内容を把握して、検挙に必要な情報を収集するということだ。コミュニケーションを見張る有力な方法は盗聴捜査だろう。2裁判所に盗聴捜査の令状を請求することになるが、警察は例の集会の決議文を証拠として、共謀罪の容疑があるので盗聴捜査をしたいと裁判所に令状の発付を申請することになる。裁判所は、共謀罪を前提に、共謀罪がなかった時にはできなかった監視の捜査を認めることになるかもしれないし、本人の知らないうちに携帯のGPS機能を警察が利用する3、潜入捜査を行なうなどに着手するかもしれない。いずれにせよ、共謀罪で検挙するには、ターゲットになっている人びと(つまり私たちだが)に悟られてはならないから、秘密裡に監視することになる。

そして、ある日突然、この集会の主催者や集会参加者が何ひとつ具体的な実行行為もないのに、共謀罪で検挙されることになる。逮捕するためには逮捕状を裁判所に請求する必要がある。警察は私たちの通信の記録や会話の記録を提出して、共謀罪の「容疑がある」ということで逮捕状を請求できる。これまでは犯罪ではなかったから、単なる「相談」だけでは逮捕できなかったわけだが、共謀が犯罪となったために、裁判所は、共謀罪の容疑の可能性があれば逮捕状を発付する。マスコミは警察発表を鵜呑みにして、「原発テロ」などと報じるかもしれない。

逮捕された私たちは、話し合ったりメールでやりとりした記録を示されて、共謀の事実を白状するように迫られるかもしれない。原発のシステムをハッキングするとか、敷地に侵入して制御室を占拠するとか、所長を捕まえて吊るし上げようとか、….確かに話し合いはしたが、皆酒飲んで、Lineとか使って気炎を吐いていただけだと言っても、酒を飲んでの上でのヨタ話ということを証明するものは何もないし、実行するつもりはなかったということを証明できるものも何もない。唯一、話し合った威勢のいい内容だけが明確な「証拠」として残っている。

警察は23日私たちを勾留して取調べたが、その後、「起訴猶予」として釈放してしまう。裁判になれば、警察の捜査や逮捕が正当だったのかどうか、共謀罪の解釈や適用が妥当だったかどうかを裁判で争うこともできるのだが、起訴されることがなければ、警察の権力行使の妥当性はあいまいなままにされる。こうして、警察は、司法による判断を巧みに回避しながら、逮捕の特権をフルに利用して勾留と尋問を繰り返し、自らの裁量で法を解釈・適用し続けることが可能になる。

実は警察の思惑は、共謀罪の摘発そのものにあるのではなく、共謀罪を巧みに利用して、原発に反対する運動を弾圧しようとしたのかもしれない。共謀罪が成立したお陰で、警察はこれまでやれなかったような段階からターゲットを監視できるようになり、逮捕・勾留の権力とマスコミへの情報操作をフルに駆使して、運動を弾圧する道具として共謀罪を利用できるようになる。

あるいは、実際に実行行為のための作戦会議を行ない、そのための具体的な準備をしていたとしよう。こうした具体的な実行行為に必要な資材などの準備には加わらなかったとしても、この団体にカンパしたり、こうした実行行為のためにアイディアを提案したり、行動の意義づけを与えるような立場でアドバイスしたりした者たちもまた、共謀罪の容疑に問われる可能性がある。したがって、多かれ少なかれ「違法行為」を含むと疑われる何らかの具体的な行動を想起させるような発言したり、ネットで意見を述べるなどした者もまた、共謀罪の対象になりうる。どの範囲までを共謀罪の対象にするのかは、警察などの裁量ということになる。長期の勾留と過酷な取調べをし、マスコミが逮捕のキャンペーンを展開するが、裁判せずに「釈放」というこれまでの警察の弾圧手法が、共謀罪によってかなり広範囲に適用可能になる。

こうして、私たちは、どのような場合に共謀罪が適用されるかわからないから、逮捕・勾留を恐れて、カンパをしなくなり、発言や主張を抑制してしまうかもしれない。真面目な言論の自由だけでなく、冗談すら言えなくなり、活動を支える資金すら絶たれるかもしれない。

今のところ上に述べた共謀罪が成立した社会の物語はフィクションだが、警察が恣意的な法解釈によって正当な市民の運動や労動運動を弾圧する事例は今現在でも日常茶飯事で起きていることだ。この事態がより頻繁に容易に引き起されるようになる、これが共謀罪が成立した社会の姿だということである。

4.国会審議が全てではない

新共謀罪法案は通常国会に上程予定だという。法案反対運動は、戦術的にいえば国会の多数派でもある与党をどのように巻き込みつつ、法案の成立を断念させるかというところにあるが、現実の国会における与野党の駆け引きのなかで、廃案にすべき法案が、修正の上可決成立してしまう場合が少くない。共謀罪の危険性は、法の条文上の歯止めと思われる文言では阻止できない。法を実際に執行する警察などによる基本的人権侵害行為を合法的に許す手段になるところに最大の問題がある。廃案以外の選択肢はない法案である。しかし、こうした「法案」をめぐる国会での攻防では、上で述べたような法を巧妙に利用した警察などによる監視や捜査権限の合法的「濫用」がもたらす民衆的な自由の権利に対する深刻な抑圧と侵害を視野に入れた反対運動にはなりにくいという側面がある。というのも、法案の審議では、警察などの捜査機関は権力の濫用はしないという大前提を置いて議論されるからだ。未だ成立していない法律をどのように警察が行使するのかを議論するとしても、それは事実に沿った議論にはならず「想定問答」の域を出ないものにしかならない。

しかし、警察などが権力を最大限濫用しつつ反政府運動などを弾圧してきた(そして今もしている)事実は、運動の担い手たちによって繰返し指摘されてきた事実だが、この事実に切り込むことが国会の審議では極めて不十分である。したがって、反対運動にとって重要なことは、国会審議における法案の「条文」をめぐる解釈や「条文」の意味をめぐる議論を越えて、実際に、法を執行する権力(警察など)がとってきた権力の濫用そのものを問うことが必要であり、権力の濫用を完全に封じ込めるような根本的な警察や司法の制度変革の運動をどのように展開できるかが鍵となる。これは、戦前の治安立法が警察に与えた強大な権限への反省をふまえて、国会の議論ではなく、実際に民衆的な自由の行使としての様々な運動の場面で、自分達の言論・表現の自由を防衛するようなスタンスを、自分達の運動の現場で確立することだろうと思う。

5.最大の課題は、正義のためにやむをえず法を逸脱することをどのように考えるのか、にある。

法案反対運動のなかでは、往々にして、運動の側は常に憲法が保障する言論・表現の自由の権利に守られており、違法な行為は一切行なっていないのに、権力が法を濫用して不当な弾圧をしかけてくる、という前提がとられる。しかし、現在の状況は、こうした遵法精神を前提とするだけで運動が正当化されるという狭い世界に運動を閉じこめていいのかどうかが問われている。いやむしろ現実の運動は、警察や政府にとっては「違法」、わたしたちにとっては正当な権利行使、としてその判断・評価が別れる広範囲の「グレーゾーン」のなかで、民衆の抵抗権の確立のために戦ってきたのではないだろうか。

例えば、エドワード・スノーデンによる米国の国家機密の意図的な漏洩や、ジュリアン・アサンジやウィキリークスなどによる組織的な国家機密の開示運動は、いずれも違法行為である可能性が高い。彼らとその支援者の活動は、新共謀罪の適用もありうるような行為といえるかもしれない。彼らは敢て法を犯してでも、実現されるべき正義があると考えて行動し、この行動に賛同し支援する人びとが世界中にいるのだ。私たちは、彼らが違法な行為を行なったからという理由で、その行為を否定したり、法の範囲内で行動すべきだ、と主張すべきだろうか?私はそうは思わない。むしろ彼らの「違法」な行為によって、隠蔽されてきた国家の犯罪といってもいい行動が明かになったのではないだろうか。

例えば、2014年に台湾では、中国との間の自由貿易協定に反対して学生たちが国会を長期にわたって占拠するひまわり運動が起きた。ほぼ同じ頃、香港でも行政長官選挙などの民主化を要求して長期にわたって街頭を占拠する雨傘運動が起きた。それ以前に、米国の格差と金融資本の支配に反対して2011年にウォール街占拠運動が起きた。2010年から12年にかけて、チュニジア、エジプトなどからアラブに拡がった「アラブの春」と呼ばれる広場占拠と反政府デモが続発し、これらがギリシアにも波及してこれまでには全く想像できなかった左派「シリザ」が政権をとった。スペインでもウクライナでも反政府運動は、多かれ少なかれ「違法」な行為を内包しており、それが警察の介入を正当化してきたが、しかし、私は、こうした警察の介入を法と秩序を維持する上で正しく、法を逸脱した反政府運動が間違っているということにはならないと考えている。むしろ、法を執行する権力が、同時に合法・違法の判断を下す権限を独占し、法を口実に、民衆的な自由の権利を「犯罪化」しようとすることが世界中で起き、こうした法を隠れ蓑に民衆の権利を「犯罪化」するやりかたへの大きな抵抗運動が起きているということではないだろうか。

そして、日本も例外ではない。沖縄の辺野古や高江での米軍基地建設反対運動では多くの逮捕者を出している。阻止のための実力行使も行なわれている。私は、そのような行為を「言論」による闘いに限定すべきだとして否定すべきだとは思わない。あるいは、福島原発事故直後から5年にわたって経産省の敷地の一角を占拠してきた経産省テント広場は、政府や警察にすれば違法行為である。彼らの解釈によって違法とされたからといって、それを私たちもまた受け入れなければならないのだろうか?むしろ経産省前テントを強制的に撤去した政府の実力行使こそが言論・表現の自由を侵害する行為だと私は考える。

ここで想起したい古い事件が二つある。ひとつは、1930年代に起きたいわゆる「ゾルゲ・スパイ団事件」である。主犯格とされたリヒャルト・ゾルゲと尾崎秀実は、治安維持法、国防保安法などの罪に問われ、1941年に死刑判決を受けて処刑される。ゾルゲも尾崎も確信犯として「スパイ」を行なったことが明かになっており、権力のでっちあげ事件ではない。国家機密を敵に提供したのだから犯罪者として処罰されても仕方がないというべきなのか、それともたとえ犯罪とされることであっても、自らの思想や良心に沿って正義を貫くことが必要であって、彼らの行為にこそ正義があり、法には正義がない、と判断すべきなのか。私は後者の立場をとりたい。この観点からすると、スノーデンの事件はまさに現代のゾルゲ事件ともいえるものだ。ゾルゲグループはソ連に情報を提供したわけだが、スノーデンはどこか特定の国ではなく、グローバルな民衆の世界に情報を提供したという違いがあるだけで、ともに、国家による平和を毀損しようとする犯罪に立ち向かおうとしたことでは同じ質のものであったといえる。むしろ今の私たちにはゾルゲや尾崎、あるいはスノーデンに該当するような人物が不在であることの方が大きな痛手だとはいえないだろうか?

古い事件の二つ目は、1911年、明治天皇暗殺計画容疑で幸徳秋水ら12名が処刑された大逆事件である。この事件は、「明治天皇暗殺計画」であって、実行行為はない。幸徳はいわばイデオローグとして、暗殺に共謀したことが罪に問われたものだ。この事件は、現代の共謀罪が指し示す未来がどのようなことになるのかを示唆するものともいえる。まさに「話し合う」ことが罪になった典型的な事件である。幸徳の有名な『帝国主義論』では明治天皇を平和な君主として持ち上げたが、後に「日本政府が恐るるは、経済問題ではなく、非軍備、非君主主義に関する思想の伝播」であって、こうした思想は「自然に青年の頭脳を支配する」と考えるようになっていた。そして「爆弾のとぶと見てし初夢は 千代田の松の雪折れの首」というざれ歌も詠むが、これが警視庁のスパイによって察知されて「幸徳伝次郎不穏ノ作歌」として注視される。死刑判決を受けた後に獄中で書き続けて処刑後に出版された『基督抹殺論』では、キリストに仮託して天皇制の虚構を暴こうとしたと思われる議論を展開した。彼は実際には明治天皇暗殺計画には途中から関わりをもたなくなったにもかかわらず、弁明も転向もせずに処刑された。

歴史は繰り返さない。しかし、権力は過去の教訓や経験の蓄積から多くのことを学び、現状において利用可能な手法を再生したり復活させようとする。この権力の構造的な記憶装置をあなどることはできない。新共謀罪法案はこの典型的な例ではないかと思う。これに対して、反政府運動の側は、歴史の過ちを引き合いに出すだけでは十分ではないだろう。むしろ、歴史を踏まえつつ、民衆的自由を実現できる社会を新たに創造することを視野に入れた運動を生み出すことがなければならないと思う。


(参考資料)

(参考)憲法と特定秘密の保護に関する法律
(1)憲法
第十九条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。(略)

第二十一条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。

第二十三条  学問の自由は、これを保障する。

(2)特定秘密の保護に関する法律
第二十三条
特定秘密の取扱いの業務に従事する者がその業務により知得した特定秘密を漏らしたときは、十年以下の懲役に処し、又は情状により十年以下の懲役及び千万円以下の罰金に処する。特定秘密の取扱いの業務に従事しなくなった後においても、同様とする。

第二十四条
外国の利益若しくは自己の不正の利益を図り、又は我が国の安全若しくは国民の生命若しくは身体を害すべき用途に供する目的で、人を欺き、人に暴行を加え、若しくは人を脅迫する行為により、又は財物の窃取若しくは損壊、施設への侵入、有線電気通信の傍受、不正アクセス行為(不正アクセス行為の禁止等に関する法律(平成十一年法律第百二十八号)第二条第四項に規定する不正アクセス行為をいう。)その他の特定秘密を保有する者の管理を害する行為により、特定秘密を取得した者は、十年以下の懲役に処し、又は情状により十年以下の懲役及び千万円以下の罰金に処する。

第二十五条
第二十三条第一項又は前条第一項に規定する行為の遂行を共謀し、教唆し、又は煽動した者は、五年以下の懲役に処する。


尾崎秀実「上申書」より抜粋

近年の日本政治に対する私の中心の憤懣は、日本の政治指導者が世界の赴きつつある情勢にはっきりした認識を持たず、日本を駆って徒らに危険なる冒険政策に驀進せしめつつあるということでありました。満州事変以来は軍部がひたすら政治的指導権を握らんとしつつあるものと考え、政治家は無能にしてこの情勢を制御する識見と能力を欠くものと難じたのであります。軍部の目指すところは、対外政策においては、独逸との緊密なる提携であり、その当然の帰結として、ソ連、または英米との戦争を惹起せんとするものであると信じ、日本を駆って破局的世界戦争に投ずるものであると痛憤したのであります。

かくのごととくして私の国際主義は新らしい現実的基礎を得たのであります。すなわち、日本の現在の政策の帰結は悲しむべき破綻以外にはないであろう。しかしこの破局から日本を新たに立ち上がらしめるものは、日本のプロレタリアートがソ連および、支那のプロレタリアートとがっちり手を組むことであると、そのように考えたのであるました。(略)

私は左翼的実践活動い入ってから、すでに約十年に及んでおり、ことに近年は、私の行動が国家の緊急的態勢に照応するごとく、次々につくられた国防保安法以下の厳重なる諸法規に抵触するものであることを知っておりました。事件の発覚がいかに重大な結果を私一身、一家はもとより種々の関係者に及ぼすべきかについて常に考えぬではありませんでした。(略)ただ私自身の根本思想はかつて一貫して不変であり、かつ現実の世界状勢の推移は、ますます私たちの思想の正しさを証明するものだとの信念を強める一方であったため、以上のごとき不安、苦痛、恐怖に打克って勇気を鼓して私の左翼的実践活動の直接任務たる諜報活動に従事し続けたのでありました。
(岩波現代文庫版)


幸徳秋水 法廷陳述

たとえば、政府がひじょうな圧制をし、そのために多数の同志が、言論・集会・出版の自由を失なえるはもちろん、生活の方法すらもうばわれる、とか、あるいは富豪が横暴をきわめたる結果、窮民の飢凍・悲惨の状見るにしのびざるとか、いうがごときにさいして、しかも、とうてい合法・平和の手段をもって、これに処するの途なきのとき、もしくは途なきがごとく感ずるのときにおいて、感情熱烈なる青年が、暗殺や暴動に出るのです。これは彼らにとっては、ほとんど正当防衛ともいうべきです。(神崎清『実録 幸徳秋水』)


エドワード・スノーデン

国家相対主義を旨とすること、すなわち(私が暮らす)社会の問題から、私たちがいかなる権威も責任も持たぬ遠い海外の悪へと視線を転じることもできないのか、と私を中傷する向きも多いことでしょう。でも、市民権というのは他国を正さんとするまえに、まず自分たちの政府を監視する責務を帯びているものです。私たちは今ここで、そうした監視を限られた範囲でしか認めようとしないばかりか、罪を犯しても説明責任を果たそうとしない政府を放任しています。社会から爪弾きにされた若者が軽微な違反を犯し、世界最大の監獄制度の中で耐えがたい結果に苛まれようと、私たちは社会全体として見て見ぬふりを決め込んでいます。その一方で、巨万の富を有するわが国で最も強大な電気通信プロバイダー企業が故意に数千万件の重罪を犯そうと、議会はわが国の第一法を通してしまうのです。民事であれ、刑事であれ、どこまでもさかのぼれる免責特権を企業エリートたる友人たちに与える法律を。そうした犯罪は史上最長の刑に値するはずなのに。

こうした企業は、わが国でトップクラスの弁護士たちをスタッフとして抱えています。そして今なお自らが招いた結果に対する責任のかけらさえ問われていない。では、権力構造の最上層に位置する高官、具体的に例えれば副大統領が、こうした犯罪企業に自ら指示を出している疑いで捜査線上に浮んだらどうなるでしょうか。捜査は中止すべきだということになれば、その捜査結果はSTLW(ステラーウィンド)と呼ばれる”例外的制限情報”の区画に機密中の機密として分類されます。そして、権力を濫用するこうした人物の責任を問うのは国益に反する、われわれは”振り返ることなく、まえを向いて進まねばならない”という原則のもと、それ以上の捜査はいっさい不可能となるのです。(略)

私は自分の行動によって、自分が苦しみを味わわざるをえないことを理解しています。これらの情報を公開することが、私の人生の終焉を意味していることも。しかし、愛するこの世界を支配している国家の秘密法、不適切な看過、抗えないほど強力な行政権といったものが、たっった一瞬であれ白日の下にさらされるのであれば、それで満足です。あなたが賛同してくれるなら、オープンソースのコミュニティに参加し、マスメディアの自由闊達な精神の保持とインターネットの自由のために戦ってください。私は政府の最も暗い一角で働いてきました。彼らが恐れるのは光です。

(グレン・グリーンウォルド『暴露』)


いわゆる共謀罪法案の国会への提出に反対する会長声明

今般、政府は、2003年から2005年にかけて3回に渡り国会に提出し、当連合会や野党の強い反対で廃案となった共謀罪創設規定を含む法案について、「共謀罪」を「テロ等組織犯罪準備罪」と名称を改めて取りまとめ、今臨時国会に提出することを検討している旨報じられている。

政府が新たに提出する予定とされる法案(以下「提出予定新法案」という。)は、国連越境組織犯罪防止条約(以下「条約」という。)締結のための国内法整備として立案されたものであるが、その中では、「組織犯罪集団に係る実行準備行為を伴う犯罪遂行の計画罪」を新設し、その略称を「テロ等組織犯罪準備罪」とした。また、2003年の政府原案において、適用対象を単に「団体」としていたものを「組織的犯罪集団」とし、また、その定義について、「目的が4年以上の懲役・禁錮の罪を実行することにある団体」とした。さらに、犯罪の「遂行を2人以上で計画した者」を処罰することとし、その処罰に当たっては、計画をした誰かが、「犯罪の実行のための資金又は物品の取得その他の準備行為が行われたとき」という要件を付した。

しかし、「計画」とはやはり「犯罪の合意」にほかならず、共謀を処罰するという法案の法的性質は何ら変わっていない。また、「組織的犯罪集団」を明確に定義することは困難であり、「準備行為」についても、例えばATМからの預金引き出しなど、予備罪・準備罪における予備・準備行為より前の段階の危険性の乏しい行為を幅広く含み得るものであり、その適用範囲が十分に限定されたと見ることはできない。さらに、共謀罪の対象犯罪については、2007年にまとめられた自由民主党の小委員会案では、対象犯罪を約140から約200にまで絞り込んでいたが、提出予定新法案では、政府原案と同様に600以上の犯罪を対象に「テロ等組織犯罪準備罪」を作ることとしている。

他方で、民主党が2006年に提案し、一度は与党も了解した修正案では、犯罪の予備行為を要件としただけではなく、対象犯罪の越境性(国境を越えて実行される性格)を要件としていたところ、提出予定新法案は、越境性を要件としていない。条約上、越境性を要件とすることができるかどうかは当連合会と政府の間に意見の相違があるが、条約はそもそも越境組織犯罪を抑止することを目的としたものであり、共謀罪の対象犯罪を限定するためにも、越境性の要件を除外したものは認められるべきではない。

当連合会は、いわゆる第三次与党修正案について、我が国の刑事法体系の基本原則に矛盾し、基本的人権の保障と深刻な対立を引き起こすおそれが高く、共謀罪導入の根拠とされている、条約の締結のために、この導入は不可欠とは言えず、新たな立法を要するものではないことを明らかにした(2006年9月14日付け「共謀罪新設に関する意見書」)。また、条約は、経済的な組織犯罪を対象とするものであり、テロ対策とは本来無関係である。

そして、以上に見たとおり、提出予定新法案は、組織的犯罪集団の性格を定義し、準備行為を処罰の要件としたことによっても、処罰範囲は十分に限定されたものになっておらず、その他の問題点も是正されていない。

よって、当連合会は、提出予定新法案の国会への提出に反対する。

2016年(平成28年)8月31日

日本弁護士連合会
会長 中本 和洋


朝日新聞の報道

「共謀罪」新設案、問題点は 適用「組織的犯罪集団」に 当局の解釈で対象拡大も

2016年8月26日05時00分

安倍政権が捜査当局の悲願だった「共謀罪」について、大勝した参院選直後を狙って衣替えし、4度目の挑戦となる法案提出をめざすことになった。「組織犯罪」や「テロ」という名称を使うことで、東京五輪を控えたテロ対策のための法案であることを強調する構えだが、問題点は数多い。▼1面参照

「共謀罪というおどろおどろしい名前が悪いから、『概念がどんどん拡大する』『人権問題だ』と批判された。長い名前に変え、テロリストを捕まえるための法律であることを明確にする」

政権幹部は名称を「組織的犯罪集団に係る実行準備行為を伴う犯罪遂行の計画罪」(テロ等組織犯罪準備罪)に変える狙いを語る。適用範囲が限定されることを嫌い、条文には「テロ」という言葉を使わないが、通称名の冒頭に付けてアピールする方針だ。

テロ対策というイメージを強調する一方、法案の中身についても、共謀罪に関する過去の国会審議で浴びた批判をかわすよう修正した。

まず、適用対象を変えた。

共謀罪の条文案では「団体」とだけしか記されていなかった。このため野党は「健全な会社、労組、市民団体も対象になる」と批判。2006年の通常国会では、当時の民主党の主張を採り入れ、与党は「組織的な犯罪集団」と修正したが、廃案となった経緯がある。

今回は「4年以上の懲役・禁錮の罪を実行すること」を目的とする「組織的犯罪集団」とした。普通の会社員や労組は適用の対象にならないようになっ たと政権側は強調する。しかし、「組織的犯罪集団」の認定は捜査当局が個別に行うため、解釈によって対象が拡大する可能性は残る。

■要件に「準備行為」を追加 何が該当、基準は不明確

犯罪として成立する構成要件についても、今回の政府案は、犯罪を実行する「準備行為」が行われていることを付け加えた。

共謀罪では、犯罪の「遂行を共謀」しただけで罰せられる可能性があった。これに対して、「会社員が居酒屋で『上司を殺そう』と意気投合しただけで適用される」「目配せや相づちだけでも共謀と見なされる恐れがある」と批判が続出。与野党ともに犯罪の予備的な行為がなければ、罰するべきではないと訴えた。

今回の案では、この批判をかわすため、「犯罪の実行のための資金または物品の取得」という代表的な事例を条文に盛り込み、「準備行為」が行われていることを構成要件に加えた。これで、共謀、つまり話し合いや合意だけでは処罰されないようになったと政権は訴える構えだ。

暴力団組員らが振り込め詐欺を計画しても、すぐに翻意すれば処罰されない。一方で、テロ組織の構成員らが化学物質を使ったテロを計画して化学物質を調達したり、暴力団組員らが対立する組長を拳銃で射殺しようと拳銃の購入資金を用意したりしたケースは適用対象となる。

ただ、準備行為を定めた条文には「その他」という文言がある。事実上、何が該当するのか明確な基準はないも同然で、その解釈は捜査当局の判断に委ねられる。「準備行為」と、現行の刑法にある予備罪や準備罪の違いが分かりにくいとの指摘も出そうだ。

■対象の罪種、600超か

対象となる罪については、共謀罪の対象とした「4年以上の懲役・禁錮」を据え置き、罪種は600を超えるとみられる。

過去の国会審議で民主は、「5年を超える懲役・禁錮」で国際的な犯罪に限定して、約300に絞り込むよう主張。自民党法務部会の小委員会も07年、「対象犯罪の多さが国民に誤解や不安を与えている」として、「テロ」「薬物犯罪」など5類型に分け、計140前後に絞り込む修正案の骨子をまとめた。しかし今回の政府案は、いずれの案も盛り込まれていない。

■東京五輪のテロ対策、前面 過去3回、批判強く廃案

共謀罪を新設する議論が始まった背景には、国境を越える犯罪を防ぐため、00年に国連総会で採択された「国際組織犯罪防止条約」がある。日本も署名し、国会は03年に承認したが、条約を締結するには共謀罪を含む国内法の整備が必要。

小泉政権が03、04、05年と3回、共謀罪を新設する組織的犯罪処罰法改正案を国会に提出したが、批判が強く、いずれも衆院解散で廃案になり、条約は締結できていない。今年6月時点で、187カ国が締結。G8で締結していないのは日本だけだ。

ではなぜ今、安倍政権は名称を変え、中身も変えてまで、法案成立を狙うのか。

念頭にあるのは、4年後の東京五輪・パラリンピックだ。政権幹部の一人は「テロを防ぐためなら国民の理解を得られる。目の前に東京五輪を控えているのに、何もやらないわけにはいかない」とチャンスとみる。

過去に共謀罪法案が廃案となった時に比べ、現在は世界的にテロの脅威が格段に高まり、日本人も巻き込まれるケースが増えている。五輪を控え、テロへの不安が身近になるなかで、国民の理解を得られやすいとの思惑もあるようだ。

ただ、7月の参院選で自民党は公約で共謀罪には直接触れていない。「治安・テロ対策」として「国内の法制のあり方について検討を不断に進め」と記しているだけで、野党などからの批判は免れない。

衆参で単独過半数を確保し、内閣支持率が高水準を維持しているからこそ、「体力がある今のうちに一気に成立させるしかない」(自民党幹部)との算段が働いているのは間違いない。

9月に召集予定の臨時国会は、今年度の第2次補正予算案に加え、環太平洋経済連携協定(TPP)承認案、時間ではなく成果で賃金を払う労働基準法改正案など重要法案を多く抱えている。憲法改正や天皇陛下の生前退位をめぐる皇室典範改正論議も注目される。

このため国会の審議状況によっては、臨時国会で法案を継続審議とし、来年の通常国会以降で成立させるという見方もある。(久木良太)

■対象、制限的になるか疑問

日本弁護士連合会共謀罪法案対策本部副本部長の海渡雄一弁護士の話 共謀罪を新設する理由として、テロ対策のために国際組織犯罪防止条約を締結する必要があるとしているが、もともとこの条約はマフィアなどの犯罪集団の取り締まりが目的であり、テロ対策が目的ではない。条約締結は反対しないが、現在の日本の法制度を前提にすることでも対応は可能だ。

新たに提出される法案では適用対象の団体を限定するとされているが、本当に制限的な定義になるか疑問だ。また、組織犯罪とは関係のない罪も多く、600を超える罪が対象となる必要があるとは認めがたい。法案には反対だ。


内務事務官、緒方信一「防諜」、『警察協会雑誌』1940年6月号
「近代戦の特質は所謂国家総力戦たる点に在る。即ち戦の勝敗を終局的に決定するものは単に 武力でなく、国家の政治体制、経済的実力、又は国民思想の動向等国家総力の充実如何に存する。従って近代戦に於ては武力戦と並行し或は之に先行して外交戦、経済戦、思想戦が熾烈に展開されるのである。(略)斯る新しき形態の戦に於ては、諜報・謀略・宣伝等所謂秘密戦 の価値が極めて重要になって来るのである」

「諜報」の定義
「近代戦の特質は所謂国家総力戦たる点に在る。即ち戦の勝敗を終局的に決定するものは単に 武力でなく、国家の政治体制、経済的実力、又は国民思想の動向等国家総力の充実如何に存する。従って近代戦に於ては武力戦と並行し或は之に先行して外交戦、経済戦、思想戦が熾烈に展開されるのである。(略)斯る新しき形態の戦に於ては、諜報・謀略・宣伝等所謂秘密戦 の価値が極めて重要になって来るのである」

三つの「合法手段」
第一に、マスメディアの利用。「相手国に於て発行される新聞紙、雑誌其他の出版物を可及的多数蒐集して詳細熟読し、之を科学的組織的に分類又は集積して正確なる資料を得る方法」である。しかも、マスメディアのなかでも比較的検閲の目を逸れやすい地方紙誌の利用が諜報活動上有効だとみている。
第二に、観光、学術、観察等の名目で文書を照会したり合法的に調査する方法。「主として工場、港湾、交通、気象、各種資源、各種統計等に関する情報の収集に利用されることが多い」という。
第三に、「社交戦術」。「相手国の政界、財界の知名人士との接触面を広くし、努めて之等人士と会談の機会を作り、其の会談の間に種々のヒントを得て正確なる情報を掴まんとする」。
緒方は合法手段による諜報に対しては、「法令を適用して権力的に取締りを執行することは困難な場合が多く、又一面一般国民の側に於ては不知不識の間に之に利用せられ、乗ぜられる危険も少からず存する」と述べて、既存の防諜立法である軍機保護法、軍用資源秘密保護法等の軍事関連に限定された法令の不十分性を主張し、後に成立する国防保安法の必要性を強調した。
緒方はこの論文の最後に、警察組織や警察官はこうした「諜報」「防諜」活動にとって必ずしも有効な組織とはいえないと指摘している。警察は強制力を伴う取締りの組織でもあるために、「動もすると国民の側からすれば取締を受ける立場に立ち、之が為に正しい民情を警察官に対しては殊更に隠蔽することもなしとしない」と指摘し、従って「官にも非ず、民にも非ざる立場に立って深く民情の把握上通の任に当るべき者の必要」を強調することになる。ここに大政翼賛会、壮年団、翼賛政治会の意義があると緒方はみる。翼賛組織の構成員は彼らの職業や人間関係によってヨリ徴細な情報の提供者であると同時にまた、こうした「世間」の関係による〃偏り“もま た有するが故に、警察官吏はこの情報を「真に国家的の立場に立って判断し観察」「是正」するものと位置づけられている。


内閣情報局『週報』1941年5月14日号 国防保安法の制定をふまえた「防諜週間」へむけた防諜特集
「一般にスパイといえば、映画や小説に出て来るような、種々の方法で人を篭絡して秘密を盗み出す、或いは金庫をあけて重要書類を盗み出す影のような男、またはマタ・ハリのような女と思われているようである。こういうものもいるにはいるだろうが、しかし現在、日本はこういう諜者は余りいない。日本ではそんな危険なことをしなくても、白昼堂々と大手を振って仕事ができるからである」
「スパイの正体」とは「外国の合法的な組織の網」である。例えば外国系の銀行、会社、商店、教会、学校、社交団体などであり、「これらの中に恐るべきスパイの網があることを銘記すべき」だ。

「仮りにそれを非常に重要な秘密兵器の設計図としよう。これに『軍極秘』の判を捺して金庫の中に蔵っておけば、先づ誰にも盗めないわけだが、金庫の中に蔵って置くだけでは紙屑同様のものに過ぎない。全体の設計図は金庫の中にあっても、部分々々の図面は必要な方面に配布され、部分品は職工の手によって作られている筈である。すなわち軍極秘の書類の内容は、金庫の外に出ているわけである。金庫の中の物をとるのは難しいが、外へ出ているものを、ひとつつひとつは断片的なものでも、沢山集めれば金庫の中の本尊がわかるのである」

「この組織の網がいかに広く、いかに濃密に張りめぐらされているかは、例えば会社が全国に百ヶ所以上の支店、出張所などを持っているとする。一つの出張所から更に百の特約店を出しているとすると、全国に一万以上の第一段の網があるわけである。この特約店等に出入する人々を第二段の網とし、更にこれらの人に接触する人の数を考えてみると、とても想像できない程の多数に上り、これだけの網があれば全国のことは何でも集まるわけである。」

「例えばどこそこの誰が応召した、という話は、個々の事実としては大した価値はなさそうに見えるが、『どこの誰がどの師団に応召した』という話を日本全国からたくさん集めると、今日本ではどの師団とどの師団、計何ヶ師団を動員しているということが直ぐわかる。(略)即ちある土地での見聞では、局部的で大した価値のないことでも、広く日本全国に網を拡げている合法的な組織の網にひっかかり、そこで整理されると重大な情報となるのである。スパイは、何でもない話、断片的では決して法規にはひっかからない話を広い範囲から集め、整理して、重要な秘密事項を察知しているのだということを、国民はよく認識して、おしゃべりに注意していただきたい。でないと、スパイの片棒をかついだという結果になるのである。」

「次に防諜と法規の関係であるが、防諜は法律の禁止を守っただけでは、絶対に出来ないことを、明確に認識していただきたい。防諜に関する法律としては、軍機保護法、軍用資源秘密保護法、それに今度の国防保安法、その他要塞地帯法、軍港要港規則、陸軍輸送港域軍事取締法いろいろある。しかし法律というものは、最後の線だけを押えたものであって、法律でいけないということだけを守っていればいいかというと、それでは防諜は絶対に不可能である。
例えば軍機保護法で、東京横浜附近では、地上二十メートル以上の高所からは、許可なく写真をとってはならないことになっている。では二十メートル以下なら鉄橋をとろうと駅を撮ろうと差支えないことになるが、法律に触れていないというのでこんなものをどしどし出していると、とんでもないことになることは、前にあげた〔重慶の〕海鷲の鉄橋爆撃の例でおわかりのことと思う。従ってここに、官憲の行政指導が必要となってくる。法規にはなくても、防諜上必要と認める措置はどしどしとってゆかなくては、本当の防諜はできない」

網羅的監視の構造

8月27日に、日本のジャーナリストとして初めてエドワード・スノーデンにインタビューした小笠原みどりの講演会が東京で開催された。会場は立ち見の出る盛況となり、丁度共謀罪の再上程報道があったばかりということもあって、参加者の関心は非常に高いものがあった。

小笠原のスノーデンへのインタビューについては既に、『サンデー毎日』に連載記事が掲載され、また、ネットでは『現代ビジネス』に「スノーデンの警告「僕は日本のみなさんを本気で心配しています」(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49507)が掲載され、インタビューの概要を知ることができる。

27日の集会での小笠原の講演で強調された論点は、私なりの関心に引き寄せて端的にまとめれば、日本におけるネット上の情報通信が網羅的に米国の諜報機関によって監視可能な環境に置かれていること、そして、こうした環境について日本の市民がもっと深刻に捉えて対処すべきだ、ということだ。とりわけ日本の政府もIT企業も、日本に住む人びとのプライバシーを米国から保護するどころか、むしろ構造的に日本の市民のコミュニケーションを監視する体制に加担している可能性を否定できないということが、事の重大性の核心にある。日本に住む多くの市民が「自分は悪いことをしていないから監視されるということはないだろう」あるいは「いくらなんでも日本の政府や企業が意図的に米国の諜報機関と共謀してこの国の住民のプライバシーを売り渡すなどということは被害妄想の類いではないか」と高を括っていることへの厳しい警告だったといっていいだろう。スノーデンの告発やwikileaksによる機密文書の暴露がドイツ、ブラジルなど諸外国でも国連でも大問題になり、多くの市民が抗議の声を上げてきているのに対して、小笠原は、日本のマスメディアや市民運動の動きの低調さへの危惧を率直に語ったと思う。

スノーデンがこれまでも繰返し警告してきたことは、小笠原の「現代ビジネス」の記述を借りれば、以下のようなことだろう。スノーデンは、小笠原のインタビューで、一般論として次のように述べている。

「多くの場合、最大手の通信会社が最も密接に政府に協力しています。それがその企業が最大手に成長した理由であり、法的な規制を回避して許認可を得る手段でもあるわけです。つまり通信領域や事業を拡大したい企業側に経済的インセンティブがはたらく。企業がNSAの目的を知らないはずはありません」

小笠原は「日本の通信会社がNSAに直接協力しているのか、それはスノーデンにも分からない。」と留保した上で、更に次のようにスノーデンの言葉を紹介している。

「もし、日本の企業が日本の諜報機関に協力していないとしたら驚きですね。というのは、世界中の諜報機関は同手法で得た情報を他国と交換する。まるで野球カードのように。手法は年々攻撃的になり、最初はテロ防止に限定されていたはずの目的も拡大している。交換されているのは、実は人々のいのちなのです」

「僕が日本で得た印象は、米政府は日本政府にこうしたトレードに参加するよう圧力をかけていたし、日本の諜報機関も参加したがっていた。が、慎重だった。それは法律の縛りがあったからではないでしょうか。その後、日本の監視法制が拡大していることを、僕は本気で心配しています」

上で指摘されている「法律の縛り」を一挙に解くことになったのが特定秘密保護法の制定であり、スノーデンは、「日本で近年成立した(特定)秘密保護法は、実はアメリカがデザインしたものです」とすら断言している。この法律があることによって米国と日本の政府の間での情報共有の実態を合法的に隠蔽することが可能になるからだ。米国の諜報機関の日本国内での活動は、日本政府や日本の企業の協力なしには不可能な領域が多く存在する。にもかかわらず、その実態は闇に包まれたままだ。企業にとっては権力犯罪に加担して自らの顧客の権利を侵害する方が企業の利益になるのであれば、顧客のプライバシーは容易に見捨てられる。マーケティングのためとあれば、顧客の行動をとことん監視する。そのための技術が急速に普及し、これが軍事や治安管理に転用されてきた。政府にしてみても、自国の市民の権利を抑制した方が国益に叶うということであれば躊躇なく権利侵害の力を行使するだろう。いずれも市民たちが、こうした実態を知りえないことが大前提になる。

便利なコミュニケーションツールとしてのネット環境、「平和」で娯楽に興じることができるアミューズメントパークのような都市環境のなかで、失業と貧困にあえぎながら高額の通信費を食費を削ってでも維持しようと必死になる姿は、監視されようがプライバシーが丸裸にされようが、それよりもこの電子的な蜘蛛の糸にすがることでかろうじて社会との繋がりを維持しなければ心と体の糧を失ないかねない不安があるからだ。快楽の装置に抵抗する一部の者たちが「テロリスト」とか「犯罪者」のレッテルを貼られて監視され排除され、あるいは社会的に抹殺されたとしても、それが権利なき祝祭を保障するのであれば、大多数の人びとには容易に受け入れられるということでもあるだろう。

小笠原も指摘しているように、こうした監視のシステムは、日本と米国を繋ぐ情報通信の海底ケーブルについては、千葉の新丸山陸揚局の名前が具体的に明かになっている。しかし奇妙なことに、日本のメディアはこの事実が明らかになって以降、一向にこの「新丸山」の実態に迫るような記事を書いていない。メディアには取材を自主規制する何かが働いているのだろうか。

米国に接続されている国際的な通信回線であれば情報の網羅的な収集は可能といえるが、それだからといって、このことだけで日本国内の情報通信が網羅的に米国諜報機関によって監視可能になるわけではない。新丸山は、韓国、台湾、中国沿岸部ともケーブルで接続されているから、日本とこれら地域との通信が米国によって監視しうる可能性はあるし、インターネットの世界規模の情報通信の経路の多くが米国を経由していることを念頭に置けば、日本と海外との情報通信を米国が監視する技術的な可能性は否定できない。しかし、以下のような回線の流れのうち、国外には出ない日本国内の情報通信については、陸揚局でデータを収集することはできないだろう。国内の情報通信を網羅的に監視するには別の鋳掛けが必要になる。つまり、受信側も発信側も日本国内にいる者の通信を強引に陸揚局を経由して米国に送るような仕掛けが必要だ。こうした仕掛けのためには、日本の企業や政府の協力が欠かぜない。

米国太平洋岸 → NSA

日本陸揚局

日本国内のインターネット回線網

たとえば、米国が関心を持つだろう日本国内の反基地運動や日米同盟に関わる動向、日本国内における中国や北朝鮮が絡む動きなど米国の安全保障に直接間接影響するような動向については、日本国内の情報通信を担う通信事業者や、日本に住む人びとの個人情報を管理している政府や民間企業のデータに何らかの形でアクセスできなければ網羅的な監視は完結しないだろう。これを可能にするには、政府と民間の情報通信関連企業が関与することが必要になるのではないだろうか。

通信の内容を全て地引き網のようにして収集するのではなく、メタデータやユーザの個人情報などを収集するというのであれば、決して難しくない。こうしたデータは通信事業者や政府のデータベースに既に存在しているからだ。小笠原は、NSAが関心を持つのは、必ずしも通信のコンテンツそのものよりもメタデータの方だ、とも指摘している。メタデータによって人間関係を把握することが相当程度可能であるからだ。この人間関係の把握を前提にしてターゲットを絞りこんで、その行動などをより詳細に監視する、ということになるだろう。こうした手法は、今後具体化されそうな共謀罪法案においても前提となる監視体制であり、改悪された盗聴法はそのための技術的なインフラを整備する口実として利用可能な条件を揃えているから、NSAの問題から見えてくるのは、米国の諜報機関に限った問題ではない、ということである。

小笠原の講演のなかでも、NSAに協力してきた企業として、マイクロソフト、google、facebook、youtube、appleといった末端の個々人のコミュニケーションに直接関与する企業の存在が指摘された。こうした企業の協力なしには網羅的な情報収集は不可能だと指摘されたし、スノーデンやウィキリークスが公開した機密文書でもこのことは明らかだ。とすれば、日本ではこの問題をどのように考えたらいいのだろうか。

私たちの個人情報や通信に関する情報を網羅的に収集するいくつかのポントがある。メタデータであれば先に述べたように私たちが契約している通信事業者が最大の情報保有者であるが、それだけでなく、私たちがインターネット上のウエッブにアクセスすれば、ウエッブサイト側はかなりの情報を獲得することができる。アクセスしているユーザーの個人名や住所などは特定できないとしても、端末やIPアドレス、サイト内の閲覧行動などはほぼ把握可能だ。こうしたネット上に残された足跡を、個々のユーザー一人一人について追跡してその情報をユーザー別に網羅的に把握することが文字通りの意味で可能であるためにはインターネット上に設置されているサーバーを全て監視することができなければならない。そのためには、大手のプロバイダーなどだけでなく、小規模なレンタルサーバー業者や個人による自主サーバー、海外に設置されているサーバーなどを網羅しなければならないだろう。こうした細部の問題を今脇に置かざるをえないとして、確実に私たちの情報が収集される可能性のある回路を考えておくことが最低限必要だろう。そうなると、契約している通信事業者がどのような情報を取得しているのかが多分最も確実な(政府や情報機関などに)提供可能な情報ということになる。

もうすこし具体的に考えてみよう。生活必需品になっている携帯電話やスマホを例にとると、通信事業者は次のような情報を保有する。

・端末がインターネットにアクセスする際のIPアドレス
・使用しているOSやソフトウェア
・契約者情報:契約したときに書類に記載する住所、名前、生年月日など。身分証明書類のコピーなど。支払いに必要な情報。
・通信のメタデータ(送受信の日時、相手の電話番号など)
・メールサーバーに保存されているメール(本文を含む)
更に、
・クラウドサービス(dropboxなど)を利用していれば、クラウドに保存されているデータ。
・gmailやyahooなどのメールサービスを利用していればこれらの企業のメールサーバーに蓄積されたデータ。
・ネットショピングをすれば購買履歴
・ウエッブで閲覧をすれば、閲覧履歴。(firefoxなどのブラウザーのプライベートブラウジング機能を利用した場合、手元のパソコンには表示したページ、Cookie、検索履歴などは残されないが、ネットワーク管理者やインターネットサービスプロバイダは、訪れたページを追跡できる。
・ネット上での買物は大抵クレジットカードが用いられるので、カード会社は購買履歴を保有する(最低でも請求書に記載されている購買履歴)
・携帯のGPS位置情報は通信事業者が保有できる。(appleは保有しないとしているが、NTTドコモは保有するとしている)
・多くの個人情報の取り扱い表示には、ユーザーの直接の契約相手の会社だけでなく、関連の会社への情報提供などがありうるとの記載がある場合が多い。
・信用情報(多重債務者でないかどうかなど)を紹介するために、個人情報は信用情報を専門に扱う会社が個々の通信事業者や金融機関を横断して集約している。

すでに、私たちは、これだけ多くの個人情報を自らのコントロールできない環境のなかに置かざるえをえない状況にある。これは、手紙や電話で通信をし、現金で取引きをしていた時代にはありえなかった状況である。それだけ私たちの自由は確実に狭められ脅かされている。

また、携帯の機能の高度化によってこれまで以上に多くの個人情報が携帯端末に保存されるようになってきた。その典型が生体認証だ。指紋によって待受画面からパスワードなしで起動できるなどの仕組みが便利だとされるが、このような生体情報に通信事業者がアクセスできるのかできないのかは、OSの仕様次第ではないだろうか。また、音声や動画などを扱うアプリがそのデータをどのように端末に保存しているのか、このデータに外部からアクセスできるのかどうかもアプリのプログラム次第だろう。

NSAの内部文書が暴露され、そこのアップルの名前があったことが、自由とプライバシーに敏感で、だからMSは使わないコアなアップルユーザーから厳しい批判に晒された。こうしたことがあってか、アップルはiPhoneにアクセスするためのパスコードをアップル自身でも解除できない仕様にした。こうすることで捜査当局からパスコードの解除での協力要請があっても対応できないとしたのだ。これに対して捜査当局は、テロリストの通信を監視できないなどアップルへの強い批判もあった。今ここでは詳しく述べないが、捜査当局はアップルの協力がなくてもパスコードは解除できるだろうというのが米国自由人権協会の専門家の見解なので、当事者の言い分を鵜呑みにするわけにはいかない。

私はアップルだけでなくどこのグローバル企業であれ、相手国の市場を獲得するには相手国の法や政府の政策を受け入れることが大前提になるだろうから、どこの国であれ米国並の市民的自由やプライバシーの権利をグローバルスタンダードにしているなどということはありえないと考えている。中国をはじめとする膨大なアジア市場をターゲットにする以上、政府の監視が不可能なような機器は米国など一部の国に限定されているに違いないと推測している。米国民はこれでプライバシーが保護されるかもしれないが、それ以外のユーザーは丸裸かもしれない。

この二重基準の可能性を私は強く疑わざるをえないのだが、このことは多国籍企業一般にいえる本質的な問題と関わっており、IT企業に固有のものではない。労動、環境、貿易、投資など各国が国内で活動する企業に課す固有の条件を前提として、たとえ欧米諸国では禁じられているような条件であっても、それがビジネスとして有利に展開できる(つまり、収益に結びつく)限りにおいて、個別の国の条件を最大限に利用しようとする。だから、多国籍企業による児童労働や人権侵害、環境破壊が 後を絶たないのだ。IT資本であれば、コミュニケーション・サービスを政府の意向や各国の法制度を前提として、時にはユーザーの権利を侵害することがあってもそれが有利なビジネスに結びつくのであれば受け入れるということだ。この意味で資本は、欧米の市民には市民的自由や言論表現の自由のプラットフォームを提供するリベラルな顔を作る一方で、独裁、権威主義的な国ではむしろ市民を監視する手先の役割を担う。こうした二重基準は、私たちからすれば肯定できない欺瞞であるが、資本にとっては、最大限利潤を獲得するためのビジネスモデルの構築という観点からすれば、完全に合理的な選択なのだ。資本主義の自由の本質は資本の自由であるということがIT資本では端的に示される。スノーデンたちが暴露したのはまさにこの資本の自由の欺瞞だったのだ。そして、日本もまた資本主義の国である以上、この欺瞞の世界にあることは否定できない。

アップルはウエッブ上に興味深い情報を提供している。それは、捜査機関向けに、アップルが取得した個人情報を捜査機関が取得する場合の手続きや条件を詳細に記載した「法的手続きのガイドライン:日本とAPACの法執行機関」という文書だ。やや長いが、このブログの最後に、その抜粋を掲げておいた。この文書が一般の「プライバシーポリシー」とは全くその性格が異なる。

この文書を読むと、アップルが保有する個人情報は日本にはないことがわかる。全て米国のデータセンターに暗号化されて保有されているということだ。アップルだけでなく、MSやNSAの強力している多くの米国系企業は、サーバを米国内あるいは個人情報やメタデータを監視・取得しやすい国に置いているのではないか。そうなると、かなりやっかいな技術的な手法やスパイ映画もどきの危ない橋をわたる必要もなくなる。合法的にあらゆるデータが国外のサーバに向けて送信されるからだ。

上でメタデータと書いたが、具体的に何が把握可能なのか。住所氏名など登録者情報の他に、アップルであればiCloudのメールログが取得可能で、ここには「日時、送信者のEメールアドレス、受信者のEメールアドレスなど、受信および送信の通信記録」が含まれるだけでなく「Eメールのコンテンツとその他のiCloudコンテンツ:フォトストリーム、書類、連絡先、カレンダー、ブックマーク」も含まれる。つまり、メタデータではなくデータそのものも取得可能だというのだ。クラウドサービスをやっている以上、これは当たり前のことではある。そして、多くのユーザが自分のパソコンにメールをダウンロードせずにクラウドやプロバイダーのサーバーに溜めてウエッブメールで閲覧するよおうになっている。しかも最近のパソコンはハードディスクを搭載せずクラウドを使用することを前提としたタイプのものが徐々に普及しつつある。

アップルの文書では、法執行機関側が必要なハードディスクなど記憶媒体を準備することなどをことこまかに指定している。この詳細な条件についての文言にまどわされがちだが、法的な手続き(緊急事態ではそれも省略可能だ)さえとれアップルは情報を提供すると言っている。これは現在の法制度の下では、避けられないことだといえる。アップルの文書は、わたしたちが知りえなかった、通信事業者と捜査機関との間の具体的な文書の構成について透明性を確保することによって、秘密裡に捜査当局に協力するようなことはしないと宣言しているに過ぎない。

アップルに限らず、米国系企業の場合、NSAによる網羅的な監視のうち、米国系企業が把握可能な個人情報については、それがたとえ日本国内の送受信者の間の通信であったとしても、米国内のサーバーから把握可能なものがかなりありそうだ、ということが推測できる。逆に、日本の捜査機関がこうした海外のサーバーにある個人情報などを取得するためには、日米捜査共助条約や同盟間のルートを通じて容易に情報の共有が可能に違いない。上記のアップルが提示しているような法執行機関向けの個人情報提供のガイドラインに沿うことが必要になるのかもしれないが、個人情報の取得が不可能ではない、ということでもある。

では、日本の通信事業者の場合はどうなのか。日本国内にデータセンターやサーバーを設置して個人情報を管理している場合は、NSAといえども自力で情報にアクセスすることは容易ではないように思われる。この場合にはやはり日本の通信事業者や政府などの協力が不可欠となるだろう。このようなケースが実は私たちにとっても最も不透明で解明が困難なところだろうと思われる。というのもこれまで、米国政府による違法ともいえる個人情報収集については、スノーデンやwikileaksなどや少からぬジャーナリスト、市民的自由の活動家たちが、多くの犠牲を払いながらも果敢に政府の隠蔽と闘い、その成果が公開されてきているが、日本についてはまだ氷山の一角の更にその隅っこほどしか情報が公開できていない。だから、日本国内における監視の実態はまだブラックボックスの中にある。

米国との通信回線として注目されるインターネットだが、これだけが米国と日本を結ぶ監視ネットワークの神経系だというわけではないと思う。インターネットとは全く別の世界規模のイントラネットがある。それが米軍の通信網だ。世界中の米軍基地と米国本国を結ぶネットワークが、セキュリティを強化したVPNのような仕組みでインターネットを共有しているとは思えないのだ。もし米軍が独自の回線網を持っているとすれば、それば日本国内の米軍や米国政府機関をネットワークするものであるだろうし、この通信網を介して米国に日本国内の情報が送られているとみることもできるかもしれない。この点で、日米同盟の問題は、狭義の意味での軍事安全保障だけでなく、広範囲にわたる私たちの日常生活の監視と統制を担うこの国の情報通信のインフラとも密接に関わっているといえる。

以上のような問題を考える上で、最低限考慮に入れるべきことは、私たちの個人情報をこれらの企業が入手できていなければ、そこから先、つまり諜報機関へと流れることはありえないだろうということ、逆に、これらの企業が取得している個人情報は、例外なく、諜報機関に提供される可能性が(法的には規制されている場合であっても)技術的には可能だということである。技術的に可能なことをやるかどうかは、企業と政府の意思決定に委ねられ、この意思決定は、政治に左右される。現在であればテロとか米軍基地問題とかかもしれないが、政治・社会状勢が変化すればターゲットが変わるにしても、どのようなターゲットに対しても対応できるような監視のインフラが既に存在している。

では、私たちはこの監視の包囲網と闘う術がないのだろうか。法は私たちの自由をそれ自体で守ってはくれない。この包囲網を破る闘いや運動は世界中で起きていることだから、この国の運動が(いかに政府の抑圧が厳しいとしても)やれないことではないだろうと思う。これは英雄的なハッカーを待望するということとは違って、むしろ私たちが、監視社会に加担するIT資本とどう向きあうか、という些細にみえる行動から始めることもできると思う。児童労働に加担するアパレル産業やパレスチナを弾圧しつづけるイスラエルの資本をボイコットする運動が一定の成果をあげてきたように、あるいは、原発再稼動を推進する電力会社を切って別の選択肢を捜すことができるように、監視社会に加担するIT資本をボイコットすることは不可能ではないと思う。社会運動の活動家たちがこうした問題にある程度の関心をもって、ちょっとした努力を惜まずに取り組めばいいだけのことだ。NSAに加担ししてきたマイクロソフトや、イスラエル政府の協力企業となったFacebook、網羅的な監視に利用されかねないgoogleを「便利」「皆が使っている」というだけの理由で運動の道具として選択するようなことをやめるだけでいい。かくいう私もまた完璧に監視に加担するIT資本に依存しないコミュニケーション環境を構築できているわけではない。それはまだ全く不十分ではあるが、コミュニケーションの権利、あるいは民衆的な自由にとってこのサービスやシステムを利用することは「あり」なのか、と一寸立ち止まって考えることから運動は始まると思う。


「法的手続きのガイドライン:日本とAPACの法執行機関」(抜粋)

「Appleは、法執行機関による法的に有効な要求を、Eメールによって受理します。ただし、Eメールの送信元が、当該法執行機関の認証されたEメールアドレスであることを条件とします。日本とAPACの法執行機関職員がAppleに法的要求を提出する際は、日本ではjapan_police_requests@apple.com 宛て、APACではapac_police_requests@apple.com 宛てに、認証された各法執行機関のEメールアドレスから直接送信してください。これらのEメールアドレスの使用は、法執行機関による要求の送信に限定されます。Appleは、法執行機関が発行する法的手続き文書を有効と見なします。これには協力要請書(Cooperation Letter)、証拠入手通知(Notice of Obtaining Evidence)、召喚状、裁判所命令、捜査および差し押さえ令状、1979年オーストラリア電気通信法(Telecommunications Act of 1979)にもとづく委任状、または各地でこれらの有効な法的要求に相当する文書が該当します。Appleが必要とする文書の種類は国によって異なる場合があり、要求される情報によって種類が決定されます。

データ保存要求

appleは、米国の自社データセンターにおいて暗号鍵を保持します。従って、米国外の法執行機関が当該コンテンツを要求する際は、米国司法省の担当局を通じて法的手続きを進める必要があります。米国と刑事共助条約(MLAT)を締結している米国以外の国は、当条約で規定された手続き、または米国司法省担当局とのその他の協調的取り組みを通じて、適切な法的手続きを進めることができます。

緊急対応要求

Appleは、以下の項目に対する深刻な脅威が真に差し迫っている状況に関連した要求を緊急対応要求と見なします。
1) 個人の生命または安全
2) 国家の安全
3) 極めて重要なインフラまたは施設に対する大規模な破壊行為

要求を行う法執行官が、上記の基準の1つ以上に該当する真の緊急事態に関する要求であることを十分に立証した場合、Appleはその要求を緊急に検討します。

Appleから入手可能な情報
A.デバイス登録
氏名、住所、Eメールアドレス、電話番号を含む基本的な登録情報
B.カスタマーサービス記録
デバイスまたはサービスについてカスタマーがAppleのカスタマーサービスとやり取りした記録
C. iTunes
登録者の氏名、住所、Eメールアドレス、電話番号などの基本情報が提供されます。さらに、iTunesで購入またはダウンロードした際の取引と接続の情報、iTunes登録者情報、IPアドレスの接続ログ
D. Apple Storeでの取引
Apple Storeで発生する店頭取引には、現金、クレジットカード、デビットカード、ギフトカードによる取引があります。特定の購入に関連したカードの種類、購入者の氏名、Eメールアドレス、取引日時、取引金額、店舗の場所に関する情報を入手するためには、法的に有効な要求が必要です。店頭取引記録に対する法的に有効な要求を提出する際は、使用されたクレジットカードまたはデビットカードの完全な番号と、取引日時、取引金額、購入商品などの追加情報を提供してください。さらに法執行機関は、レシートの写しを入手するために、購入に関連したレシート番号をAppleに提供できます。この情報は、要求者の国向けの適切な法的手続き文書を提出することによって入手できます。
E. Apple Online Storeでの購入
Appleは、氏名、配送先住所、電話番号、Eメールアドレス、購入した製品、購入金額、購入時のIPアドレスを含む、オンライン購入に関する情報を保持します。この情報を入手するためには、法的に有効な要求が必要です。
G. iCloud
iCloudコンテンツデータは、サーバの設置場所において暗号化されます。データの保存に外部業者を使用する場合、Appleがその鍵を業者に渡すことは一切ありません。Appleは、米国の自社データセンターにおいて暗号鍵を保持します。
Cloudから入手できる可能性がある情報は以下の通り
i.登録者情報
カスタマーがiCloudアカウントを設定すると、氏名、住所、Eメールアドレス、電話番号などの登録者の基本情報がAppleに提供されます。さらに、iCloudの機能への接続に関する情報も利用できる場合があります。iCloud登録者情報とIPアドレスの接続ログは、要求者の国向けの適切な法的手続き文書を提出することによって入手できます。接続ログは最大30日間保持されます。
ii.メールのログ
メールのログには、日時、送信者のEメールアドレス、受信者のEメールアドレスなど、受信および送信の通信記録が含まれます。執行官がメールのログを要求する場合は、その旨を法的要求に明記する必要があります。この情報は、要求者の国向けの適切な法的手続き文書を提出することによって入手できます。iCloudのメールログは最大60日間保持されます。
iii.Eメールのコンテンツとその他のiCloudコンテンツ:フォトストリーム、書類、連絡先、カレンダー、ブックマーク、iOSデバイスのバックアップ

appleは、米国の自社データセンターにおいて暗号鍵を保持します。米国外の法執行機関が当該コンテンツを要求する際は、米国司法省の担当局を通じて法的手続きを進める必要があります。米国と刑事共助条約(MLAT)を締結している米国以外の国は、当条約で規定された手続き、または米国司法省担当局とのその他の協調的取り組みを通じて、適切な法的手続きを進めることができます。Apple Inc.は、MLATの手続きに従って捜査令状が発行された場合にのみ、カスタマーのアカウントにあるカスタマーのコンテンツを提供します。

I.パスコードロックされたiOSデバイスからのデータ抽出
特定のデバイス上の特定のコンテンツにアクセスするための技術的なサポートを要求する場合は、刑事共助条約(MLAT)の手続きを通じてApple Inc.に連絡してください。米国外の法執行機関が当該コンテンツを要求する際は、米国司法省の担当局を通じて法的手続きを進める必要があります。米国とMLATを締結している米国以外の国は、当条約で規定された手続き、または米国司法省担当局とのその他の協調的取り組みを通じて、適切な法的手続きを進めることができます。

正常に動作するデバイスについては、カリフォルニア州クパチーノにあるApple Inc.本社でのみデータ抽出プロセスを行うことができます。Apple Inc.がこのプロセスをサポートするためには、後出の文言を捜査令状に記載することが必要です。また、捜査令状にはデバイスのシリアル番号またはIMEI番号を必ず入れてください。iOSデバイスのシリアル番号またはIMEI番号の場所の詳細については、
http://support.apple.com/kb/ht4061
を参照してください。
捜査令状に記載する裁判官の氏名は、書類に正しく記入できるように、はっきりと判読できる活字体で記載してください。
法執行機関は、この文言を含む捜査令状を取得した後、その令状をsubpoenas@apple.com 宛てのEメールによってApple Inc.に送達してください。データを抽出するiOSデバイスをApple Inc.に渡す方法には、面会と配送があります。法執行機関が配送を選択した場合は、配送を依頼するAppleからのEメールを執行官が受信するまでは、デバイスを発送しないでください。面会によって渡す場合、法執行機関職員は、iOSデバイスのメモリ容量の2倍以上にあたるストレージ容量があるFireWireハードドライブを持参してください。デバイスを配送する場合、法執行機関は、iOSデバイスのメモリ容量の2倍以上にあたるストレージ容量がある外部ハードドライブ、またはUSBサムドライブをAppleに提供してください。配送を依頼するEメールを受信するまでは、デバイスを発送しないでください。
データ抽出プロセスの完了後、デバイス上のユーザー生成コンテンツのコピーが提供されます。Apple Inc.は、このプロセスによって抽出されたユーザーデータのコピーを一切保持しません。従って、すべての証拠の保存は、法執行機関の責任のもとで行われるものとします。

捜査令状への記載が必要な文言:

「アクセス番号(電話番号)_________、シリアル番号3またはIMEI番号4_________、およびFCC ID番号_____________を持つ、_______ネットワーク上のモデル番号____________のApple製iOSデバイス1台(以下「デバイス」)の捜査において、デバイスが正常に動作し、パスコードロックによって保護されている場合、Apple Inc.が妥当な技術的支援の提供によって[法執行機関]を支援することを、この書面をもって命ずる。この妥当な技術的支援には、可能な範囲におけるデバイスのデータ抽出、デバイスから外部ハードドライブまたはその他のストレージメディアへのデータのコピー、および前述のストレージメディアの法執行機関への返却が含まれる。法執行機関はその後、提供されたストレージメディア上にあるデバイスのデータの捜査を実施できるものとする。
さらに、デバイス上のデータが暗号化されている場合、Appleは暗号化されたデータのコピーを法執行機関に提供できるが、その解読を試みることや、その他の方法で法執行機関が暗号化されたデータにアクセスできるように計らう義務はないものとする。
Appleは、デバイス上のデータの完全性を維持するために妥当な努力をする一方で、この書面により命じられた支援の結果としてユーザーデータのコピーを保持する義務は一切ないものとする。従って、証拠の保存は法執行機関の責任のもとで行われるものとする。」

Q.ロックされているiOSデバイスのパスコードをAppleに提供してもらうことはできますか?
A:いいえ。Appleはユーザーのパスコードにアクセスできません。ただし、このガイドラインで説明している通り、デバイスに搭載されたiOSのバージョンによっては、MLATの手続きに従って発行された有効な捜査令状があれば、ロックされたデバイスからデータを抽出できる場合があります。
Q.Appleは要求に応じて提供できるGPS情報を保存していますか?
A:いいえ。Appleはデバイスのジオロケーションを追跡しません。
Q.提供された情報を使って法執行機関が捜査または刑事事件に関する業務を完了した後、その情報はどのように処理すべきですか?
A:法執行機関のために抽出された、個人を特定できる情報を含むすべてのファイルと記録(すべてのコピーを含む)は、関連する捜査、犯罪事件に関する業務、すべての再審請求が完全に終了した後に必ず破棄してください。

「EMERGENCY Law Enforcement Information Request」フォームは、次のリンクから編集可能なPDFとして入手できます。
http://www.apple.com/legal/privacy/le-emergencyrequest.pdf

集会ご案内:(富山)戦争法(安保法制)下の共謀罪──なぜ、いま、「テロ等組織犯罪準備罪」なのか

下記の富山の集会で話します。


戦争法(安保法制)下の共謀罪──なぜ、いま、「テロ等組織犯罪準備罪」なのか──
▽ 日時:2016 年 10 月 30 日(日)午後1:30〜3:40
▽ 会場:自治労とやま会館 3階大会議室(富山市下新町 8‐16)

▽ 講演:小倉 利丸 さん(元富山大学教員)

一般 1000 円/学生 500 円/高校生以下無料(障がい者の介助者は無料)
「共謀罪」「テロ等組織犯罪準備罪」??
「安倍政権は、小泉政権が過去 3 回(2003 年~05年)にわたって国会に提出し、廃案となった『共謀罪』について、適用の対象を絞り、構成要件を加えるなどした新たな法改正案をまとめた」と、朝日新聞が 8 月26 日付で報じました。2020 年の東京五輪の警備やテロなどに対処するためとして、罪名を「テロ等組織犯罪準備罪」に変え、今秋臨時国会での提出を考えている、というのです。
▼いままで3度も廃案にされたのは、どこか問題があったの?
▼今度は、名前を変え、中身も変えて、出すのだから、問題ないのでは?
▼テロリストを取り締まるのだから、必要なのでは?
▼それって、私たちには関係あるの?

▽ 小倉さんのメッセージ
戦争法の成立は、従来から批判されてきた共謀罪法案の性格を、根本から変える危険性をもつものだと思います。この点を踏まえて、共謀罪の問題点についてお話しようと思います。
▽ プロフィール
2015 年 3 月まで富山大学経済学部教員
著書に
『抵抗の主体とその思想』(インパクト出版会)、
『危ないぞ 共謀罪』(共著、樹花舎)、
『アベノリスク—止めよう!市民監視五本の矢』(共著、樹花舎)、
『絶望のユートピア』(桂書房)など。

主催 :秘密法廃止市民ネットとやま
問合せ先
090-8704-5004(土井)
https://www.facebook.com/considersecrecylaw

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『絶望のユートピア』刊行のお知らせ

久し振りに本を出しました。タイトルは『絶望のユートピア』。タイトルにある「絶望」という言葉と「ユートピア」という言葉は、真逆のようでもありますが、「の」に込めた意味をどのように取るかで、そのニュアンスは変わるだろうと思っています。「私の本」のように所有や帰属を意味する場合、「海の青」というように、ある事柄の性質を意味する場合、「1917年のロシア革命」のように、ある時間や時代と事柄を繋ぐ場合、「机の上の本」のように、あるものとあるものとの関係を示す場合など、「の」には多様な意味、機能があります。本書のタイトルの「の」もまたそうした多様な「の」としての意味をもたせているつもりです。本は、これまでに私が書いてきた文章のなかから三分の一ほどを選んで掲載しました。配列は時系列でもカテゴリー別でもありません。一見すると混沌としていますが、それがこれまで私が書いてきたことのありのままであると思っています。

多くの皆さんに手にとっていただくには本書は定価5000円とかなり高価です。専門書などなら5000円は高くないという人もいますが、本代に1000円出すのも大変という人の方が圧倒的に多いはず。毎月ギリギリの収入で暮している人たちにも何とか本を手にとってもらう方法のひとつとして、一度に5000円は出せないけれども、毎月少しづつなら払えるという人たちにも手のとどく方法として分割払いを決断しました。

詳しくは下記をごらんください。
https://dararevo.wordpress.com/


前書きから(抜粋)
(注)以下の文章は本に収録した文章とは正確には一致しません。一部省略し、校正の時点での加筆は反映されていません。参考までにお読みください。

ネットの時代になって、紙の新聞のような読み方は廃れつつあるように思う。ネットで必要な情報を得るようになってから、私たちは、あらかじめ得たいと思う情報をキーワードで検索して、必要な情報を必要な限りにおいて得るという効率性の世界に慣れはじめている。カテゴリーへの拘束が著しく強められるような環境のなかに追い込まれてしまったともいえる。また、ブログやツイッターのように、タイムラインに沿って事柄が一つの時間軸のなかに配置されることも当たり前のようになってしまった。

本書は、そうした今ある情報環境を前提とした「知識」の構成を捨てて、もっとカオスに近いものへと押し返す目論見でもある。本当ならば、すべての文章を最初から最後まで、タイトルも小見出しも、いや、段落すらもない文章にしてしまいたかったし、読み始める入口も一つではないものにしたいくらいなのだが、それはあまりにも気を衒い過ぎたものにしかならないだろうから、とりあえず、個々の文章については、初出のスタイルを維持しつつも必要な加筆や修正はほどこした。

私は、大学の研究者、教育者として、あるいは社会運動の活動家として、たぶん、そのいずれにおいても極めて中途半端な存在であり続け、徹底した生き方ができないまま、必要に迫られて文章を書いてきた。こうして出来上がった文章の山は、その時間の経過からすれば、決して大きなものではないだけでなく、その山は、特定の分野についての深い洞察や徹底したこだわりがあるわけでもないし、該博な知識に裏付けられた百科全書のようなものでもない。外国語の能力を駆使してこの国に未だ紹介されていない海外の研究や思想を輸入するような能力にも長けているわけではない。いわば、計画性のない増改築を繰り返した挙句、ついに「完成」と呼ぶにはほどとおい芥屋敷の類いが本書である。だから、最近とみに多くなった大部の書籍とは外見が似ていても、その成り立ちと構成はほとんど似たところはないと思う。したがって、読者の皆さんとしては、どこから読んでいただいても構わない。

本書に収録した文章群はほぼ1980年代に本格的に文章を書き始めてから現在に至る四半世紀のテキストから、既に単行本としてまとめたものを除いたテキスト群から選別して編集したものである。その時々の状況のなかで書かれた時事的な内容もあれば、かなり理論的な内容のものもあり、また短文もあれば数十ページの長い文章もあり、それらがほぼアトランダムに収録されている。以下、若干の編集方針と注釈を述べて「前書き」にかえたいと思う。

テキストをどのように解釈するかは、読者の領分に属することだ。しかし、著者は勝手な解釈を歓迎するというよりも、いかにして著者の意図や趣旨を読者に「正確に」理解してもらうか、ということに執着して読者の解釈をコントロールしようとする。著者としての私もまた著者である限り、読者をコントロールしたいという欲求を持つが、他方で、読者としての私は、様々なテキストを「読む」場合には、いかにして著者の期待を裏切るような解釈ができるか、というややひねくれた意図をもって解釈の自由度を拡げたいという気持ちを抱くことも事実である。本書は、こうした著者と読者の間にあるテキストを、著者ではあっても、より自由な「読み」を読者の手に委ねようという意図をもって編集した。これは、読者に媚びたいのではなく、読者自身が意図していないテキスト相互の関係の網のなかに誘惑したいということである。

私が最初に出版した『支配の「経済学」』の読者は、二番目に出した『ネットワーク支配解体の戦略』にはかなり失望したように思う。最初の本を書いた後で、私は、より現在に近い現実の分析枠組を提示したいと思った。私は、「思想家」ではないし、最初の本も、現実の資本主義批判に必要な理論的な前提を、従来の私が縛られてきた前提を壊してスケッチしたいということだった。しかし、後者は、思想や理論ではなく現実の社会を対象にしたことによって、現実の世界への批判を知的な世界の批判によって代位する悪しき人文主義にとらわれた人たちには、つまらない本だったと思う。そして、『アシッドキャピタリズム』では、もはや『支配の「経済学」』の読者はほとんど見出せないように感じた。だから、この両方を読んでくださった数少い読者の方達には特に深い感謝の気持ちを感じている。

他方で『アシッドキャピタリズム』は、そのややキャッチーなタイトルの本だったために、文字通り「アシッド」な本だと誤解して買ってくれた若いアートや音楽が好きな読者にも受け入れられたことは嬉しいことだった。他方で、彼らの多くは、必ずしも私の『支配の「経済学」』の読者やその後に書いた社会批判に関わる本の読者になるということでもなかったようにも思う。その後私は、監視社会や情報資本主義の問題、グローバル資本主義と社会運動、天皇制と表現の自由の問題など、「雑多」な課題に首を突っ込み、何冊かの本を出してきた。それぞれの問題群ごとに、数少ない私の読者が別々のレイヤーを構成し、あまりその間を横断するような読者がいないように感じてきた。

たとえば、アントニオ・ネグリらがマルチュチュードという概念によって新たな変革の主体を再定義しようとしたとき、その前提となる世界にインターネットやサイバースペースがもららす可能性へのかなり楽観的な見通しがあったと私は感じた。私は、情報通信のガバナンスの問題(これが権力の問題であることは言うまでもない)を見ずに、ユーザーインターフェースのレイヤーだけでその「自由」を判断する皮相なネットアクティビズムにはどうしても同意できなかった。世界でたった一つしかない「インターネット」、殆どのパソコンのOSはマイクロソフトとアップルに独占されている情報環境のどこに「自由」の基盤があるというのだろうか?このような「自由」は幻影に違いないと疑うことはアクティビストにとっては難しいことではない筈だが、多国籍企業を批判してやまないアクティビストが、ウィンドウズPCやSNSに違和感や苦痛を感じているという場面に遭遇することは極めてマレだった。なぜこのような奇妙な日常が、「運動」の現場でも生じていしまうのかという疑問は、現代の社会が抱える問題を、既存のカテゴリーのレイヤーに沿って配置してしまった結果なのではないかと思うようになった。グローバルな反グローバリゼーション運動がインターネットを駆使して実現できたことは事実だとしても、そこにはかなり厄介な落とし穴があるということだ。こうした問題を情報資本主義と監視社会の問題として、マルクスの言う下向法の出発点に置いた私の問題意識は、監視社会に関心を持つ人たちにはある程度の関心をもってもらえたが、他方で、左翼人文主義の人たちにとっては関心の中心にはなってこなかったのではないかと思った。

右に述べたことはほんの一例であって、こうした既存のカテゴリーの溝によって生み出された超えがたい亀裂は随所にあり、支配の構造が巧妙に仕掛けたこの分断線を超えないところで、運動も批判的な知も自閉する状況が続いてきたように思う。私にできることは、私が書いてきたものをこのカテゴリーに従属させないということくらいなので、それをここで実行しようと思った。これが本書でカテゴリーによる編集を退けようと思った動機である。

私が独特な意味を込めて使用している概念については、もしかすると分りにくいかもしれない。ここで少しだけ注釈を加えておきたい。

たとえば、〈労働力〉というカッコ付きの労働力がよく登場する。幾つかの文章では簡単な注釈をつけておいたが、これは私にとってはかなり中心的な問題意識に関わる考え方に基づくので説明しておきたい。

〈労働力〉とは、変数としての労働能力を指している。実際に労働者が実行する労働の行為を支える労働能力ではない。可能態としての、あるいは潜勢力としての労働力といってもいいかもしれない。労働市場で売買されるのは、この意味での〈労働力〉である。本当は、このようなわずらわしいカッコを外したいのだが、マルクスを始めとして、一般に労働力として論じられている概念には、この可能態としての意味はほとんどない。労働市場で購入された労働力は、その能力を100%発揮するものだということを前提として理論が組み立てられている。しかし、私は、どのような強権的な資本の下にあっても、どれだけの労働を投下するかを最終的に決定するのは労働者の意思であり、労働する身体としての能力をどの程度発揮しようと思うのかは、労働者の意思に依存すると考えており、これが、労働と資本の重要な闘争の主題になってきたと考えている。この労働の発揮の水準は、賃金、労働時間、労働内容、労働組織の人間関係などでも決まるが、それだけではないし、これらの要因も単純ではない、勤勉と怠惰、従属と反抗、過剰な同調、自傷的な自己犠牲、これらの間で揺れながら、構造としての階級が一方で資本の搾取を、他方でこの搾取を阻害する労働者の個人的集団的あるいは文化的な態度の弁証法が成立する。言い換えれば、この労働をめぐる意思の問題を論じうる枠組を構築することなしに、資本主義批判を徹底させることはできない、ということでもある。

〈労働力〉と表記しているときには、この〈労働力〉の担い手がどのように自己の能力を労働として実現するかは不確定であるということを含意している。この不確定性が時には労使間の摩擦や対立をもたらすかもしれない。本書ではこうした〈労働力〉概念の再定義がもたらす全体としての資本主義批判については断片的にしか言及されていない。この問題については別途きちんと論じる機会を持ちたいと考えている。

もうひとつ、搾取という概念の再定義についてここで簡単に説明しておきたい。搾取は、資本主義批判の基本として、通俗的に用いられる場合もあればマルクス主義の理論的な枠組として厳密に論じられる場合もあるが、いずれの場合も、搾取が関係するのは労働者が資本のために必要労働を超えて労働する「剰余労働」であるという基本認識に基づいている。長時間労働や資本の飽くなき利潤追求が労働者の搾取を招くという場合、問題は、単に「剰余労働」に限定されるわけではない、というのが私の理解だ。搾取は、一般に、剰余労働の量的な概念に(経験的な世界でいえば賃金と利潤の量的な関係)関わるとされているために、行為の意味それ自体が資本によって剥奪されるという側面への関心は中心を占めなくなってしまった。

問題は、労働時間の長さだけでなく、そもそもの労働それ自体の意味にある。若いマルクスは、これを「疎外された労働」という感性的な概念で問題にしようとしたために、「物象化」された労働者の観念を問題にできなくなった。近代の人間が〈労働力〉を市場で売買するようになってから、労働と生活を繋ぐ内在的な意味の構造に深刻な亀裂が生まれた。この亀裂は、学校教育であれば、科目の配列相互の関係がどうあれ、最終的に学んだ内容が成績という「量」によって評価されて序列化されるところに表われている。こうした意味不明な教育のカリキュラムを不可解と感じることなく受け入れる心理が普通であり、これを理解できない子どもたちは問題のある子どもたちだとみなされる。同様に、労働の苦痛や意味を見い出せないことによって抱える悩みを直視しようとする人たちは、社会的な適応障害を抱えることになる。人間は象徴的な事柄の意味の関係性のなかで幻想的な首尾一貫性の観念を形成することによって、行為の意味を生成するが、ここには、論理を超越する日常生活それ自体の構造がある。

近代社会は、資本や国家という「大きな物語」の担い手がこの超越的な意味の織物を構成することによって、この社会に内在する剥奪された意味の世界にある種の「意味」を挿入する。私たちが、資本や国家が挿入するこの意味から離脱して、自立した意味の世界を生きようとすれば、それは、多分、この支配的な世界からすれば容認できないか理解しえない意味に捉えられた行為や主張だとしか思われない可能性がある。搾取とは、私たちが資本と国家から自立した意味を喪失せざるをえない意味の織物のなかに捉えられているという側面を含むものとして再定義が必要なのである。

この他、本書では、通説に反する考え方がいくつか登場する。たとえば、近代資本主義の家族制度を私は「一夫多妻制」として捉えているとか、階級という概念を人口構成など人の分類としてではなく、「構造」として捉えるといったことが前提として書かれた文章がある。一夫多妻制については本書に収録した二つの文章で、その内容についてやや詳細に論じたので、そちらを読んでいただいた方がいいだろう。また階級を「構造」概念として捉えるということについては、本書以外の私の著書で既に述べているので本書では、特にまとまった記述はないが、特にそのために理解が困難になることはないと思う。

政府の監視に加担するソーシャルメディア

米国の諜報機関、捜査当局のなりふり構わぬ監視活動が最近次々に明かになっている。ロイターは10月5日付の記事で「米ヤフー(YHOO.O)が昨年、米情報機関からの要請を受けてヤフーメールのユーザーのすべての受信メールをスキャンしていたことが、関係筋の話から明らかになった。」と報じた。対象になっているのは数億のメールアカウントで、メール本文も含まれるという。そして次のようにも報じている。

「情報機関はヤフーに対し特定の文字をサーチするよう要請していたが、どのような情報を求めていたのかは明らかになっていない。関係筋によると、メールもしくは添付ファイルに記載されたフレーズを求めていた可能性がある。」

スノーデンやウィキリークスによるNSAの内部文書暴露によって、上記のような網羅的な監視が行なわれているのでは、ということが指摘されてきた。そして、キーワードによって網羅的に収集したメールを取捨選択する仕組みもあるのでは、と言われてきたが、今回の報道は、こうしたこれまでも報じられてきた疑いを、内部関係者の証言だけだが裏付けるものになったといえる。

ヤフーは先頃、IT大手のヴェライゾンに買収されたばかりだが、ヴェライゾンはNSA協力企業として、極秘文書にもその名前があり、しかも、日本と米国を結ぶ通信回線の監視にも関与している疑いのある企業でもある。しかも、今回のヤフーによる諜報機関などへの協力が、企業トップのマリッサ・メイヤー最高経営責任者(CEO)の決定だちうから、企業ぐるみであり、かつ企業の経営方針でもあることがわかる。事実、これに反発して昨年6月に情報セキュリティ責任者アレックス・スタモスが辞任する。

さて、このような米国の監視が米国で起きているから国外のわたしたちは安心かといえば全くそんなことはない。報道にあったように、監視されているのは受信メールである。(インターネットの仕組みからみて送信メールを送信側のメールサーバで取得するのは受信メールを横取りするよりやっかいだと思う)だから、取得されるメールは、様々な国地域から様々なプロバイダーと契約しているユーザーであって、ヤフーのユーザに限定されない。しかも、日本のヤフーのアカウントを持っている場合は監視対象外になるかといえば、たぶんそうではない。メールサーバが米国内に設置されている可能性が高いからだ。数億というアカウントの数が報じられているが、この数は米国だけでなく全世界のヤフーのユーザの数ではないかと思われる。ヤフーは、「米国の法律を順守している」と声明しているというが、いったいどのような法律によればこうした網羅的にメールの内容まで監視・取得できるのだろうか。国家が法を越えた行為をすることが当たり前になっている米国では(ガンタナモしかり、ドローンによる越境爆撃しかり、NSAなどの諜報活動しかり)、法治国家の実体が事実上形骸化している。これは米国だけでなく世界的な傾向であり、こうした状況のなかで法律順守といった発言は、全く責任をともなうものとは言い難い。

もう一つの問題は、こうした米国ヤフーの行動について日本のヤフーはどのような対応をとるつもりなのかという点である。日本法人がこうした米国ヤフーの対応を黙認するのか、あるいは、もし、サーバが米国内にあって、日本のヤフーのユーザや、ヤフーのアカウントに送信した全てのメール送信者のプライバシーの権利が侵害されている可能性があるとすれば、その事実を公表しなければならないだろう。そして日本法人として、ユーザーのプライバシーを最優先に考えるのであれば、こうした網羅的な監視に協力しない技術的な(言葉ではなく)対応をとるべきだろう。

●IT企業の協力なんていらない?──FBIのハッキング捜査

すでに書いことだがここで繰り返しておきたい。電子フロンティア財団(EFF)が9月15日付でウエッブに「FBIによる前例のない違法なハッキング作戦」という記事を掲載した。この記事によると、2014年12月、外国捜査機関による児童ポルノサイト(ネット上の闇サイトでThe Playpenと呼ばれている)の情報提供をきっかけに、捜索令状を裁判所から得たFBIは、このサイトのサーバーをそのまま稼動させ監視を続けた。この間にFBIは、このポルノサイトにアクセスしたユーザーのコンピュータに侵入して個人情報を取得するウィルス(一般にマルウェアと呼ばれる)を仕込むハッキング捜査を実施した。裁判所の令状がハッキング捜査の令状ではなかったことで裁判で争点になっている。実は捜索令状でどこまで捜索が可能かは、サイバースペースでの捜索においては常に問題になる。リアルワールドであれば場所を特定することが令状主義のルールとされているが、サイバースペースの「場所」はバーチャルでありネットワークで接続されている全てをたった一通の令状で捜索することも可能だ、という拡大解釈をする動機が捜査機関側にはありうる。こうした権力の動機を規制する法制度も技術的な規制もほとんどない状態だ。

わたしたちがウエッブにアクセスした時の直感的な感覚としては、あたかもテレビを観ているかのような錯覚に陥いっているといえそうだ。しかし、最近のデジタル放送も同様だが、ウエッブの受信側と送信側の双方のコンピュータの間では、ユーザには実感できない様々なデータのやりとりが行なわれている。そのなかには、IPアドレスや自分のPCのOSの情報やブラウザの情報なども含まれ、このやりとりをするソフトウェアのセキュリティホールなどを利用してウィルスを仕込むことも可能になる。FBIはこの仕組みを利用してハッキングをしたわけだ。FBIはハッキングとは呼ばずに「Network Investigative Technique」、略称NITと呼んでいるらしいが、要は官製ハッキングであり、米国が蛇蝎のごとく嫌うロシアや中国などの政府によるハッキングと同類である。

このケースでわかるのは、サーバの管理者が捜査に協力しなくても、管理者に知られることなく捜査機関はサーバを利用するユーザの個人情報を取得できる技術をもっているということだ。Playpenのケースが児童ポルノであるために、捜査機関が用いた手法の問題性への関心が逸らされかねないのだが、ハッキング捜査はどのようなケースであっても可能な捜査技術だということである。今回たまたま児童ポルノサイトでのハッキング捜査が露呈したに過ぎず、他にも同様のケースがありうると考えるべき事案だろうと思う。とくに、サーバを民間のプロバイダなどに依存しないで自主運用していたり、捜査機関に安易に協力しないプロバイダーであったり、国外にサーバがあって容易にその管理者の協力を得られないといった場合に、こうしたハッキング捜査が行なわれる可能性が高い。日本は米国とは違うのでは、ということは成り立たないだろうと思うし、米国の捜査機関がやっていることは日本の捜査機関でも(少なくとも技術的には)やれるということでもある。

このハッキング捜査は、リアルワールドであればたぶん潜入捜査やおとり捜査に該当するものかもしれない。こうした潜入捜査が認められているのであれば、サイバースペースでの潜入捜査なども認められて当然という考え方が捜査当局にあってもおかしくない。こうした潜入捜査を規制する明確な法制度は、米国にも日本にもないように思う。ハッキング捜査は、盗聴捜査以上に密行性が高くなるだろう。こうした手法を支える技術は、どこの国でも、捜査機関だけでなく諜報機関など軍事組織でも使えるということでいえば、政府がいう「サイバー戦争」なるものの武器の一つでもある。警察も軍も銃を使うのと同様、どちらもコンピュータウィルスを使うということだ。

この事件の最大の教訓は、FBIには、サーバーの管理者やプロバイダーの協力なしに侵入し、ウィルスを仕掛ける技術があるというところにある。従来、ネット監視にどのようにIT企業などを協力させるか、あるいは現に協力しているのかが話題になることが多かったし、冒頭に述べたヤフーのケースもこの流れに該当するが、Playpenのケースは、捜査機関がネット事業者抜きでかなりのことまでやりおおせるということを示したものとして注目すべきことだ。捜査機関や諜報機関は、これまでも何とかしてこれら企業依存しない監視・情報収集体制を構築したがってきた。日本の改悪盗聴法でも、業者の立ち会いを排除し、更には業者の通信施設ではなく警察署などでも盗聴可能な態勢を構築する方向で法を緩めようとしてきたことに、権力が脱民間企業の方向をとろうとしていることが表われている。軍事組織になれば尚更だろう。

●フェイスブック:政府をビジネスパートナーにするソーシャルメディア資本

次はフェイスブックである。 フェィスブックによる検閲事件が相次いでいる。ベトナム戦争当時、ピューリッツァー賞を受賞した有名な写真に、米軍のナパーム弾から逃げる裸の少女の写真がある。この写真をノルウェー人作家のトム・エーゲランがフェイスブックに掲載したところ、フェイスブックはこれを児童ポルノだとして削除するという出来事が起きた(ハフィントンポスト9月10日)。この削除への批判が、ノルウェーはじめ国際的にも高まり、フェイスブックは削除措置を撤回したという。この事件を報じたハフィントンポストによると、写真の削除だけでなく、検閲を批判したエーゲランのフェイスブックのアカウントが一時停止されることまで起きた。「アフテンポステン」のイギル・ハンセン編集長はこの事件に対してフェイスブックのCEOマーク・ザッカーバーグに公開書翰を送り、その中で次のように述べた。

「マーク、子供たちが、たる爆弾や神経ガスなどの被害にあう今の戦争のことを考えてほしい」「お願いだから、偏狭な検閲方針を撤回してもらえないだろうか? 単に極めて少数の人たちが裸の子供を映した画像を見て不快感を感じる可能性があり得るとか、どこかの小児性愛者がその画像を児童ポルノと見なすかもしれないから、という理由をつけるのはやめてもらえないか?」

ハンセンは「マーク、あなたは世界で最も権力のある編集者なのだから」「権力を乱用していると思う。そして、あなたがよく考え抜いた結果こうなったとは、とても思えない」とも書いた。

この問題はハンセンが述べているように、マーク・ザッカーバーグのちょっとした権力濫用といったエピソードのたぐいなのかどうか。実は、フェイスブックには別の検閲事件も起きており、これらを総合すると、フェイスブックのそもそもの経営方針がネットの民権的自由(注)よりも後で述べるように、グローバルな資本の論理が作用しているなかで起きたことのように思われるのだ。

イスラエル政府は、ネット上で急速に影響力を拡げはじめたパレスチナ人たちによる国際的な反弾圧運動、BSD運動をターゲットに、その国際的な支援者たちを網羅的に監視するための法整備を実施し、こうした動きにフェィスブック側が協力していることが判明している。9月11日に、イスラエル政府の閣僚とフェイスブックのトップが会談し、協力協定を締結したことをフェイスブックは公式に発表した。具体的には、国外のBSD運動の支援者たちの監視にフェイスブックが協力するということになるという。BSDは、イスラエルをかつての南アのアパルトヘイト国家と同罪とみなして糾弾する国際的な非暴力運動だ。フェイスブックは、イスラエル政府のトップと会談し、イスラエル・オフィスは、ネタニエフ首相のドバイザーで元駐米スイラルエ大使館の主任スタッフを勤めたジョルダーナ・カトラーを雇用するという露骨な政権寄りのビジネスを展開している。イスラエルの公共安全・戦略問題・情報担当大臣のジラッド・エルダンは「フェイスブックは自身のプラットームを監視し、コンテンツを削除することに責任を自覚している。」と述べている。イスラエル政府はフェイスブックやソーシャルメディアを監視し、数千の投稿やアカウントなどの削除に成功し、イスラエル法務大臣によれば政府の要求の7割が実現できているとも報じられている。(Middle East Monitor 6月9日) また、その投稿内容を根拠に投稿者の逮捕者まで出ている。(Intercept  9月13日Guardian 9月12日

ソーシャルメディアが反政府運動や人権活動の手段として有効な時代は終ったのかもしれない。ソーシャルメディアもまた資本の論理でその経営を維持していることが忘れられがちで、なぜかソーシャルメディアは言論表現の自由の味方であるかの神話が確立されてしまったように思う。しかしネットビジネスは、ユーザーの権利よりも株式市場の株価の動向にずっと敏感だ。しかも株価は、ソーシャルメディアの顧客数や広告料などによる収益を基準に変動するのであって、人権や表現の自由度などは株価とは無関係だ。ヤフーが象徴しているように、競争他社に押されぎみの資本にとって政府は格好のビジネスパートナーとなる。かつての軍事産業が政府の予算を経営の基盤に据えたように、現代のIT産業の無視できない経営基盤に政府資金があることは間違いない。また、中国、インド、東南アジアのような巨大な人口をかかえた国はソーシャルメディアにとってはまたとないビジネスチャンスでもある。こうした国でのビジネスを円滑に進めるには政府とのパートナーシップが重要になるだろうし、そこでのビジネスの展開いかんによって株価に影響し、これが資本の業績を左右するという仕組みがある以上、各国の規制や政府の意向を受け入れることこそが利益最大化のポイントになるというのがソーシャルメディアを含むIT産業の基本的な姿勢だろう。民権的自由などというのは、こうした資本の論理からすると、それが圧倒的に多くのユーザーの関心にならない限り、後回しになることは必然ともいえる。

サイバースペースが欧米中心の言論表現の自由に大きな関心を寄せるユーザーが多くを占めた時代から、グーバルなネットユーザーの市場へと変貌するなかで、ユーザーの関心の軸が、民権的自由よりもショッピングやエンタテインメントに移行し、ヘイトスピーチや戦争の国策メディアへと変貌するなかで、各国政府の富国強兵政策の一環としてのIT産業へのテコ入れ、そして対テロ戦争の一環としての「サイバー戦争」の軍事産業としてのIT産業の変質という環境のなかで、もはやソーシャルメディア資本をかつての商業マスコミや国営放送と差別化して「自由」の守護神だと高を括る時代にはない。

私が危惧するのは、こうした深刻な状況にありながら、多くの活動家や運動は、やはりツイッター、フェイスブックなどの限られたソーシャルメディアに依存しているということだ。ソーシャルメディア業界がますます寡占化しているだけではない。PCのOSは、事実上マイクロソフトかアップルか、という二つの選択肢しかない。(私はLinuxユーザーだが、徐々に増えてはいても極端な少数派だ)インターネットに至ってはたったひとつしかないのだ!しかも資本と国家の論理から自由なメディアではない。資本も国家も大嫌いなアナキストですら、これらを大いに活用している奇妙な現実を奇妙でヤバいことだと真剣に青ざめなければならない。

19世紀に印刷技術が普及した時代には、執筆、印刷から配布までを国家や資本から自立したメディアとして構築することが可能だった。匿名の筆者、アクティビストの植字工、労働者が自主管理する印刷所、そして地下茎のような流通のネットワーク。これらが、どこの国でももうひとつの世界を構築できた。しかし、ネットにアクセスして情報を共有する仕組みのどこにアナログの世界が確立してきたもうひとつのメディアに匹敵する自由があるといえるのだろうか。インターネット草創期に「サイバースペース独立宣言」が出されたり、もうひとつのインターネットを!といった運動があったが、今やそうした運動が決定的に消滅してしまったかのようだ。ネットへの依存を絶たれる危険性のある時代にあって、サイバースペースをかつてのユートピアとして奪還することの必要性はますます高まっているが、同時に、現実の空間を越境できるメディアのアナロギズム(analog+ ism)の再構築も重要だと思う。難民たちが身体をもって越境し移動するように、現実の空間を移動できるメディアの回路の遺跡を発掘して再生する方途もまた模索すべき時代だろう。

(注)民権的自由:市民的自由と言われていることの言い換え。「市民」という概念に違和感がりながらこれまで使ってきたが、とりあえず民権と言い換えておく。しかし、これも「自由民権」という歴史的な概念を想起させるので、イマイチかもしれないが。

(参考サイト)

Amid Anti-BDS Pressure, Facebook Israel Appoints Long-Time Netanyahu Advisor To Policy Post

Amid Anti-BDS Pressure, Facebook Israel Appoints Long-Time Netanyahu Advisor To Policy Post

Facebook And Israel Officially Announce Collaboration To Censor Social Media Content

Facebook And Israel Officially Announce Collaboration To Censor Social Media Content

Islael Targeting Palestinian Posters on Facebook
Alex Kane:July 7 2016
https://theintercept.com/2016/07/07/israel-targeting-palestinian-protesters-on-facebook/

Under Israeli pressure, Facebook and Twitter delete large amounts of Palestinian content
https://www.middleeastmonitor.com/20160609-under-israeli-pressure-facebook-and-twitter-delete-large-amounts-of-palestinian-content/

FBIはハッキング捜査の時代に——拡大する監視警察国家

9月15日付けの米国電子フロンティア財団のウエッブに「FBIにょる前例のない違法なハッキング作戦」という記事が掲載された。

記事の表題でわかるように、FBIは、ネットにおける犯罪捜査のためにハッキングを大規模に、しかも違法にやっているというのだ。記事によると、2014年12月に外国の捜査機関から、児童ポルノサイト「Playpen」のサーバーの情報があったことがきっかけとなって、前例のない大規模なハッキング捜査を行なったというのだ。捜査の結果、数百件の刑事訴追があり、現在連邦裁判所で審理中とのことだからかなり大規模な事件だったことがわかる。EFFは、この事件でほとんど注目されていないが、実は重大な問題として、捜査当局による違法捜査の問題を指摘した。この違法捜査というのがハッキング捜査である。

ハッキングの手口は、捜査対象となるサイトについての捜索令状を裁判所から得たFBIは、サイトのサーバーを差押えるかわりに、サーバーをそのまま稼動させた(つまり泳がせた)。その期間2週間あり、この間にも多くの児童ポルノがダウンロードされたがそれは見て見ぬフリをして監視を続けた。しかし、ただ監視しているだけでなく、FBIは、このポルノサイトにアクセスしたユーザーにマルウェア(文末の注参照)を仕込んだ。

一般に、ウエッブでサイトにアクセスすると、ユーザーが画面で見ている環境の裏側で、先方のサイトのコンピュータと自分の端末との間で多くの通信が行なわれる。この通信を利用して、ユーザーの端末に忍びこみユーザーの情報を盗むプログラムをFBIは仕掛けたのだ。ブラウザのセキュリティの穴を巧妙に利用したものという。マルウェアは定義上「悪意あるソフトウェア」を意味するので、FBIは「Network Investigative Technique」(ネットワーク捜査技術)略してNITと呼んでいるという。呼び名は変えてもマルウェアであることは変りないように思われがちだが、たぶん、公権力が私たちのパソコンに侵入するためのソフトは、実体は同じでも、こうした名称で正当化されるようになるに違いない。

NITのハッキングプログラムは、ユーザーの個人情報をコピーしてバージニア州のアレクサンドリアにあるFBIにこの個人情報を送るように仕組まれているという。たった1通の裁判所の令状で、サーバーにアクセスしマルウェアを仕込み、ネットワークの先にある令状では捜索の対象にはなっていないコンピュータに捜査員自身が入り込むのではなくて、マルウェアという悪意のウィルスを感染させる。これでは、1通の令状でンターネット上の数十億のコンピュータの情報に自由にアクセスできてしまうことになりかねない。令状主義は有名無実ということになる。結局、数百人が逮捕されたわけだが、弁護側はこうしたFBIの捜査手法の違法性を問題にしているという。

この記事によれば、米国では、捜査機関によるハッキングについての法がほとんど整備されていないという。言い換えれば、捜査機関の裁量でハッキングも許容されるということだろう。おとり捜査や潜入捜査などが許されるのであれば、ハッキングもまた許される捜査手法だということになりかねないというところが、EFFが危惧することだ。

言うまでもなく、この問題は、通信ネットワークに関していえば、盗聴法の問題の延長線上に位置づく問題だが、上で述べたように、それ以外の様々な捜査手法とも関連する。今回発覚した事案が、児童ポルノだったことは問題の本質ではない。どのような問題であっても同様の捜査手法が使えてしまうというところが問題なのである。盗聴捜査の議論でも、凶悪な犯罪とか社会の大半の人びとにとっては反道徳的であったり人権侵害が著しい事件については捜査機関の逸脱が許容されやすく、こうした傾向を捜査機関が利用して権限の拡大を実現しようとする。盗聴法改悪の国会論議でもこうした本質ではない問題の土俵にひきずりこまれて、結局は法の改悪を許してしまった。

いかなる捜査の技術や手法も、政治活動やマイノリティの市民的な自由を監視する手段として使うということは可能なことである。ほとんど全ての反政府運動(日本の市民運動にこういう名称を使うのは新鮮な感じがするのはなぜか?)は、刑事犯罪として立件されて政治犯としては扱われないからなおさらだ。捜査機関がいったん合法的に獲得した技術に、通信事業者やIT産業が協力するビジネスのメカニズムが恒常的に制度化されてしまえば、この技術をどのように用いるかは、法の問題領域から容易に逸脱可能になる。(法律で法定速度に制限があっても、実際の自動車の性能がこれを大幅に越えられる技術を持てば、法定速度を越えて走る自動車が 後を絶たなくなるのと同じだ)「逸脱」か「適法」を判断するのが裁判所だとしても、裁判所が警察の「逸脱」を「適法」としてお墨付きを与える可能性は、かなり高いのがこの国の腐敗した権力の現実だろう。これが法執行機関と技術の間にある重大な問題だということを、法の側は、立法府であれ法曹関係者であれ十分に考慮できているとは思えない。法は「条文」の問題ではなく、法を執行する現実の組織の行動の問題として捉えるべきのだと思う。今回のFBIの場合のように、マルウェアを仕込むということを捜査機関がやれてしまうと(将来は日本もそうなりかねない)、私たちのパソコンや携帯は丸裸同然だということである。スノーデンの警告に繋る問題がここにもあるということだ。

日本では、取調べの可視化という聞こえはいいがその実ほとんど可視化の実質などはないに等しい司法改革なるものを、警察は大袈裟に捜査機関の取調べに支障をきたすかのように主張して、捜査手法の多様化や令状主義の更なる形骸化(今でも形骸化しているが)や、捜査における裁量権の拡大にかなり熱心だ。テロ対策や2020年のオリンピックは警察にとってはまたとないビジネスチャンスと考えられている。しかも、昨年の戦争法成立によって、今後は関連する国内法の整備、要するに、戦時体制にみあう治安関連法の整備も射程にはいる可能性がある。誰がテロリストなのか、何をテロと呼ぶのかの定義はないから、私たちの誰もがテロリストとみなされる可能性がある。反政府運動の活動家たちだけでなく、多くの外国籍の人たちから人権団体の活動家まで、幅広く監視の対象になるのは、対テロ戦争で米国やその同盟国諸国やってきたことを見れば言うまでもないことだろう。こうした時代にあって、マルウェアが捜査機関によって野放しで利用可能な環境は非常に危惧すべきことだ。こうした動向のいずれもが、市民的自由やプライバシーの権利などというものは可能なかぎり抑えこむ方向で、つまり国家安全保障にとっての障害物として抑圧する方向で、世論の合意をとろうとするだろう。あるいは、警察に権力製マルウェアを売り込むITセキュリティ企業があってもおかしくなく、こうした傾向は、そのまま、いわゆる「サイバー戦争」という刑事司法や法執行機関の領分から軍事安全保障の領分へとスライドすることにもなる。警察の軍事化、軍隊の警察化、そしていIT産業の軍事産業化、監視産業化への警鐘が鳴らされて久しいが、この傾向を転換させるには、とくにこの国で脆弱な、ナショナリズムに足をすくわれず、資本と国益がリンクする構造とも対決できる市民的自由の権利運動が必要だと思う。

(注)マルウェアとは「マルウェアとは、「Malicious」(悪意のある) 「Software」を略したもので、さまざまな手法を用いて利用者のコンピュータに感染し、スパムの配信や情報窃取等の遠隔操作を自動的に実行するソフトウェア(コード)の総称です。」http://www.active.go.jp/faq/

平井玄「真に畏怖すべきもの」をめぐって

『季刊ピープルズ・プラン』73号(2016年8月10日)に掲載された平井の文章は、戦争法反対運動として高揚した国会前行動の「主役」を担ったSEALDsや総がかり行動などに対する苛立ちと怒りに近い思いに溢れたもので、近年めっきりお目にかかることが少なくなった熱い文章だ。

なによりも重要なことは、このエッセイが書かれたということだ。このエッセイは『季刊ピープルズ・プラン』の特集「対抗線をリセットする」に掲載されたのだが、実は、特集の枠外の位置けだ。ところが、枠外であるんもあかかわらず、リセットのために悪戦苦闘した文章は平井のものが唯一だといっていい。この奇妙な位置づけが逆にこのエッセイの性格を象徴している。

平井に会ったときに是非感想を聞かせてほしいと言われながら、すぐに私なりの意見を述べることもできずに今に至った。実は、私は彼ほどに熱心にあの国会行動に足を運んだわけではなく、むしろあの国会前の雰囲気と自分の居場所のなさとの落差、あるいは多くの人びとが運動に共感して同調する姿を見ながら自分の中にある違和感をいかんともしがたく、結局、出足の落ちるだろうから、雨が降ればとりあえず行こうと決めるのがやっとで、しかも行ったとしても1時間もいればいい方で、その場を離れたい気持ちに抗することができない自分がいた。本来であれば、こうした自分の違和感を表明することが物書きとしての重要な役目かもしれない。しかし、その意欲すら沸かなかった。政治状況からすれば戦争法はとんでもない悪法であるから、最も大きな運動のうねりに何はともあれ参加することの意義はあったに違いない。しかし、国会前に行くたびに感情が萎える自分と向きあわなければならなかった。私は「なぜそんなに民主主義に信頼を寄せることができるんだろうか?民主主義が戦争に正当性を与えているのではないか?欧米の民主主義国家が同時に戦争の主要な当事国だということをどう思ってるんだろうか?」(独裁も民主主義も私たちの選択すべき統治のシステムではないと思うからだ)であり、機動隊と警察車両に包囲されて威圧的な権力の干渉のなかの自由(動物園の檻のなかで育った動物たちが感じる「自分たちは自由だ」という感覚か)でしかない場所の窮屈さに耐えられなかった。しかしスピーカーからは「これが民主主義だ!」というシュプレヒコールが日本語とこともあろうに英語!で連呼される。「何故英語か!アジアの言語はどこにいった?運動までが英語帝国主義なのか?」と思うのだが、そんなへそ曲がりは通用しないだろうことも承知している。

平井の苛立ちは、私の違和感とどこかで共振するものをもっているだろうが、彼が運動に感じた疑問や問題と私のそれとが同じだというわけでもない、というのが彼の文章を読んでの率直な感想ではある。

共振するところ、それは、平井の文章の冒頭に書かれていることがそのまま私の感じたことと重なる。

「肝心なことはほとんど何も語られていないのである。選挙だけではない。これから幾度もこの疑念は回帰してくるだろう。少なからぬ人びとの中で、この一年間そういう思いがますます膨らんできたに違いないのである。

不信を抱いたのは、街頭行動のあり方や、呼びかけた側の警備当局に対する姿勢だけではない。場所を確保した「総がかり行動」やSEALDsが掲げた抗議の内容は「1960年以来の反安保闘争の再来」という運動側やマスコミが作り付けたイメージに明らかに反していた。その主張は、日米安保条約それ自体を問わず、武器を構えた自衛隊をそのまま抱き取り、「戦後」という時代に丸ごと迎合する惨憺たるものだった。それが「戦略」だと言おうと、大衆意識の表層にすり寄ろうとする疚しさが診てとれるのである。」

ここで平井が言っていることの大筋に私も同意できる。「戦後」への迎合として平井が語っているのは、まさにその通りだ。この間の運動が戦後民主主義を裏切ってきた自民党政権に対して、戦後民主主義のあるべき姿を国会前の行動が体現しているという主張を対置することで、自らの運動の立脚点を構築しようとしてきたと私も感じてきた。これではつまらない、退屈だとも思った。運動のなかに発見がないのだ。言葉であれ行動であれ、はっとさせられる瞬間が運動の可能性の条件だからだ。

60年の反安保闘争がラディカルであったのは、それが戦後保守政治だけでなく、この保守政治を補完してきた野党=革新に対しても異議を提起する「新左翼」(この時代まだ世界のどこにも既成の左翼から自立した左翼運動が大衆性を獲得したことはなかった)というパラダイムの転換を伴ったからだ。そしてのこパラダイムの転換は、60年代後半以降(日韓条約反対闘争以降といってもいいだろう)、再度のパラダイムの転換が起きる。この時代は、同時に、戦後民主主義に対する根底的な懐疑と訣別の闘いでもあった。運動が内包するスタイルと思想(いやむしろ情念を含む広範な世界の見え方とでもいうべきもの)の問題の両者がこれまでにない有様を示しながら、相互にぶつかりあい、現実の運動の力学を構成するものだった。大衆文化はことごとく運動の文脈のなかに転用され、やくざ映画、マンガ、そして平岡正明のようなジャズと犯罪を革命に翻訳する異例な批評家たち、これらが、やがてこの国の周縁に位置してきた存在を中心に据える世界観を模索するようになる。琉球、アイヌ、在日中国・朝鮮人、身体障碍者、精神障碍者、精神病者、寄せ場の労働者といった、これまでの主流の運動では不可視な存在とされた人びとが運動にとって重要な主体となり、こうした運動が、中産階級出身の学生たちを、政治的に下層へと引き込んだり、ライフスタイルの転換を迫った。これは、学生運動などの運動の担い手が、これまでの運動の世界理解(その核となってきたのがマルクス主義の階級社会論)の枠組が規定してきた視野に収まらない領域にあった運動を見出すことを通じて、運動の伝統を切断する力を獲得したということでもある。この時代に戦後民主主義は否定の対象でしかないというのが私が感じ、経験してきたことでもある。戦前でもなく戦後でもない第三の選択肢は必須だが、それが何なのかが見えないまま試行錯誤が繰り返され、未消化な言葉が氾濫した。平井が「自分の言葉」として述べたことは彼の経験としてそうだったのだと思う。

この意味で、私は運動の世代的継承を信じていない。むしろこれまでの運動が理解しえない不可解さこそが新しい運動の可能性を支えるものだと思う。既視感や長い活動家の経験を持つ者たちの流儀に抗うことこそが必要なことだと思う。多分平井は、こうした運動の切断による想像/創造力の獲得を否定しないだろうが、他方で、平井は、こうした切断の問い以前にある60年代後半の運動そのものが半ば意図的に、しかもこの60年代後半という時代を経験したはずの世代自身によって記憶から消し去られていることに、最も大きな憤りを感じているのではないか。この世代がほぼ総体として、運動の敗北の後に、70年代、80年代を経て、社会の支配層へと転向するなかで、新自由主義と21世紀の対テロ戦争に加担する主体となってきた。この世代の最後に位置する私がこうした転向と無縁だとは言えないが、この壮大な裏切りがどうして起きてきたのかは、真剣に検討すべき課題だろう。他方で、かろうじて運動に関ってきた人たちは、おせっかいな教育パパ、ママよろしく聞き分けのいい若い世代に同伴する。この気持ちの悪い擬似的親子関係を断つ可能性は若い世代のなかにしかない。それは、そもそも国会前などには顔を出さないが、しかし、支配的な秩序も文化も受け入れることが生理的にできないような人たちのなかにこそあるのではないか。

平井は「学生たちがファッションや音楽と共にある姿に驚く国会前の老人たちは、いったい1968年をどうやって生きたのか」と問う。この問いは、SEALDsらに同伴した68年を経験した大学教員や、それよりも若い世代の大学教員たちにも向けられたものだが、その一方で、国会前の「民主主義ってなんだ?これだ!」というコーラーの舌触りのよさを広告的政治、あるいは「広告の暴風」として手厳しく批判する。平井のこの苛立ちは、他方で、平井にとっての可能性あるいは運動の潜勢力を担う「大学教員」とか若い世代が全く不在だということではないだろうと思う。彼の文脈のなかで肯定されるものと否定されるものとの境界線がある。ここで抵抗線をリセットしようというわけだ。このことに言及されるのは、このエッセイの後半の「何が抹消されたのか?」以降においてである。ここで、国会前の運動が一切言及してこなかった運動として被ばく労働問題に特に注目する。この注目は、非正規労働者の運動への注目としてより一般的に論じうる視線だろう。ここで、国会前の運動に深くコミットしたとされている小熊英二を槍玉に挙げて次のように批判している。

「(小熊は)反原発運動を論じて被ばく労働者たちにいっさい触れない。物質的労働に従事する者とは違う認知的な仕事に関わる非正規労働者たちが登場した意義を大いに語って、しかしより下層のまったく「非認知的」な単純作業に従う者たちに眼を向けないのである。デモに参加する認知的プレカリアートを「アートないし知的な職業についている場合が多い」とする。だが、非認知的プレカリアートはその下請のまた下請で無意味な打ち込み作業に従うオペレーターか、メンテナンスや清掃などさまざまな補助的労働の徒労に長時間身を焦がすしかないのである。非正規労働者の中でも彼らこそがもっとも分厚い層を成しているはずだ。小熊は曖昧な記述ながら、その後に現われたSEALDsの学生たちに低賃金労働の世界に放り出される危険を診ているが、ならばなぜ、今ここにいるアンダークラスたちに一瞥もしないのか?」

平井は、2013年官邸前行動で被ばく労働問題を語ることが阻止されたり、抗議やデモで逮捕された者たちを救援するどころが誹謗中傷するような「主流派」の運動を手厳しく批判する。「少数の人びとがおそらく意識することなく掲げた旗幟こそ第一に排除されたのである」という。全体として議会政治の枠組に収斂させることのできない運動が排除された、ということだ。それは、逆に運動のナショナリズムこそが「主流派」の基本的なイデオロギーとなってしまっているのではないか、という鋭い直観でもある。この直観は多分正しいだろう。これは戦争の時代にあっては極めて深刻な問題だということでもある。

平井はこの事情を旧約聖書にあるアブラハムとイサクの物語に託して、「アブラハムにして、イサクであること」と述べた。自らの子、イサクを殺すことをエホバに指示される象徴的な話しだが、これは神への信仰の篤さが試された物語とされている。平井が言外に示唆しようとした現代のエホバが何(誰)かを明示していないが、それは共産党かもしれないし、68年世代の同伴者たちかもしれない。ということは、平井はこの物語の外に出る必要性を暗示しているといえるわけで、そうだとすれば、アブラハムはイサクを殺すべきであったのか。いやむしろ、アブラハムと召使との間に生まれたイシマエルにこそ、その可能性があるということだろう。神の意思を裏切ることだ。これは、対テロ戦争の現代において、なかなか含蓄のあることでもある。

運動の想像/創造力は、まさに運動の伝統と流儀の創造的破壊のなかにしかない。そして、このような作業をなしうるのは、これまでの運動を全く新しい視点で総括できる者達の手に委ねられることになるだろう。(中途半端な活動家でしかない若くない私には不可能なことだ)否定の対象になるのは、既成のあらゆる政治=社会運動であり、とりわけ平井が指摘する議会制民主主義、あるいは戦後民主主義であるだろうし、同時に60年代後半の運動が窒息しつつその中から生み出されたその後の支配層(転向活動家の層)のライフスタイルや価値観であるだろうが、それだけではない。たぶん、東京をはじめとした大都市そのものの存在をどのように新たな否定の対象に据えられるか、だろう。東京は、大卒が人口の過半数を占めるという。その結果、学歴のない層は、それ自体がマイノリティとなる。しかも、メディアは高学歴非正規雇用の悲劇を論じても、中卒や高校中退の若者たちの貧困は話題にすらならない。そもそもメディアの記者たちにはこうした下層が見えていないのだ。進学率の高い高校から大学へと進むこの国の教育は、すでに10代前半で、差別と選別のシステムを通じて、中間層や支配層の認識から下層は排除されている。その象徴が東京だと思う。その東京の中枢に毒の棘のようにして生息してきた平井には、この支配的な眼差しがあえて隠蔽しようとしてきた闇を視る力があると思っている。これは私には完全に欠けている資質でもある。近代資本主義日本の搾取の上に成り立ってきた東京を廃墟にできる想像/創造力が欲しいと思う。たぶん、この意味で、私たちがほぼその情報を得ることのできていない「場所」に可能性がある。

私は今のままの「田舎」であるなら住みたいとは思わないが、都市で安住できるとも感じない。シチュアシオニストや有象無象のサブカルチャーは魅力的ではある。しかし、それらが都市という概念を引きずる以上は、その限界もはっきりしている。毛沢東主義者のような農村革命や、ノマドのユートピアはこれまで見事に都市と近代化の流れに抗することができずに、むしろ自由を裏切る革命になる危険性を孕んだ。これまでの選択肢はいずれも選択に値いしないということだ。しかし、このことがわかっただけでも、可能性への道はわずかとはいえ開かれたということかもしれない。

平井のエッセイは、この可能性をどう論ずるのか、という点については未知数のままになっている。この点は今後に期待する。

資本主義的身体からの訣別のために—近代スポーツと身体搾取

 (8月26日に仮サイトに投稿したものです)

オリンピック否定論の根底に置くべき視点は、そもそも近代社会が「スポーツ」というカテゴリーによって構築した人間の身体のありようそのものが、資 本主義における身体搾取の現われであるというところに定められるべきだ、ということだ。資本主義的な搾取が否定されなければならないという問題の一つの系 論として、スポーツに表出される身体のありようへの批判が位置付けられるべきなのである。これは容易に理解されないことかもしれないが、私たちが、スポー ツというスペクタクルによって動員される自己の同調感情やある種の高揚した感情の根底にあるのは、近代社会が人びとの身体の根源に埋め込んだ身体の理想と 深く関ることであり、この理想の罠といかに闘うかが課題だといっていい。

近代社会においてスポーツは「娯楽」というカテゴリーのなかで、圧倒的な大多数を「観衆」の位置に置きながら、ごく一部の者たちがこの「観衆」の前 で演じる身体表現として成り立つものだ。これは、音楽が、演奏者と聴衆に、美術が美術家と鑑賞者に、文学や哲学などの学問が学者や作家と読者に分けられる ことによって成り立つ文化生産と消費の構造と同一のものといっていい。あるいは、近代西洋医学が、人びとの身体についての知識を奪い医者という特権的な専 門家を生み出したように、自己の身体性は、自己の統治の下にあるのではなく、これを様々な専門家に委ねることによって、生を支える根源的な力を奪われ、あ るいはこうした専門家に委ねることで支配と従属の関係に自ら身を委ねる。この構造そのものを土台として成り立つ身体性(肉体としての身体であれ、言語能力 であれ、非言語的な表現であれ)が同時に、資本主義社会が不可欠とする身体の見取り図あるいは規範的かつ理想的なモデルの提示でもあるということ、このこ とを踏まえるならば、こうした文化的な身体が生産する行為や「作品」がいかに感動的なものであったとしても、その感動を生起するわたしの感性そのものを疑 うことなくして、資本主義を深い懐疑の闇のなかに投げ入れることなどできようはずがない。

最大の困難は、こうした文化が生み出す感動や共感といった実感としては否定しようのない肯定的な感情を突き放し、ここに懐疑の楔を打ち込むという苦 痛な作業をあえて行わなければならないというところにある。感動を疑うこと、感動する自己の感情や心理がどのような社会的な条件に規定されて生成されるの かを冷静に突き止めることが必要なのだ。

近代スポーツ(近代以前には「スポーツ」と呼びうる身体の使用があったとは思えないが)の特徴は、身体をスピードと正確性によって評価する構造を基 本に据えているという点にある。これは、近代社会の労働する身体がスピードと正確性という価値判断によって構築されていることと無関係ではない。

より速く、より正確に、決められた時間内で結果を出すという枠組のなかで身体をめぐる競争(闘争)が組織されるのがスポーツの基本的な枠組である。 この枠組は、工業化社会を前提として成立した「資本」の行動原理が個々の人間の行動規範として内面化され、ある種の倫理となる。速度=効率性は資本の投資 —利潤の回転の基礎条件であり、正確性は機械化された職場で人間が機械の正確性に適応することを必須の身体的な条件とされ、市場を予測し売上げを確定させ ることが資本にとってのリスクとロスを最小化する手段となる。こうして古典的な文化や芸術の世界では、即興や一回性の表現は排除され、聴衆の前で、一定の ルールを前提とした繰返しを前提とした差異や特異性が争われるようになる。

近代化のなかで近代以前からある身体競技はその社会的な文脈も意味も変容し、そのスタイルを「伝統」として意味づけることによって、資本主義に固有 な身体の規範や文化的な価値があたかも普遍的なものであるかのように装われることになる。オリンピックが古代ギリシアにその起源をもつという神話はその典 型だろう。しかし、現代においては、むしろオリンピックが古代ギリシアにしかその起源を持つことができていないということが逆にオリンピックの世界性に疑 問を付すことになっている。非西欧世界の多様な文化が、ギリシアに起源をもつ身体の普遍的な「力」の誇示を競うゲームと接触する事態と、非西欧世界が近代 化=工業化の過程へと統合される事態との間にある相似形には根拠があるのだ。日本が1964年の東京オリンピックに過剰な意味を与えたように、北京オリン ピックもまた中国の資本主義化を象徴したものであったし、そしてまた今年のブラジル、リオのオリンピックもまたBRICSの一角を占めてラテンアメリカの 新興国としての国威発揚を担うものとして企図された。オリンピックはこの意味で、西洋中心主義の身体をめぐる価値を国民国家として総括するという近代世界 が前提としてきた世界システムの枠組の一翼を担っている。しかし、西洋の価値観が世界を支配することを正当化する露骨な西洋中心主義であることに皆が気づ かざるをえないのが現代という時代ではないか。イスラーム復興運動は、こうした西洋が僭称する普遍的な文化的価値に対してみずからのアイデンティティを対 置する。こうした事態が今日ほど広汎に、しかも政治的な摩擦や緊張を伴って登場した時代はない。たぶん、多文化主義というポストモダンな多様性の統合様式 の副作用として、世界中にある様々な「伝統的社会」のなかのある部分がイスラームほどには大きな影響力をもたないとはいえ、西洋中心主義のいかがわしさに 背を向けはじめると一方で、逆に自らのアイデンティティを放棄してでも西洋的な価値に統合されることを選択するポストモンダンな近代主義の部分も登場し、 その双方の摩擦がますますのっぴきならない状態へと陥るのがこの時代の危機の特徴になるのではないか。

オリンピックが可視化したいくつもの分断線がこの危機を端的に示している。健常者のスポーツと障害者のスポーツ、男性と女性、国家に帰属しえない人 びとの排除と「難民」チームによる包摂、そしてお定まりのサクセスストーリーがもたらす競技の勝敗の物語に暗示される社会的「敗者」への差別。スポーツが 持ち込む価値判断の基準は、健常者と障害者というカテゴリーを越える人間としての生をそれ自体として肯定することはできず、障害者は健常者と対等に競争で きないことを前提として二重基準を当然のようにして持ち出す。スポーツの速さや正確さという価値規範(労働の価値規範でもあるが)そのものが差別を構造化 しているということを疑うことができない。。同様のことは男性と女性についても言える。いずれの場合も、そのどちらともえいない境界の上に立つ多くの者達 がいるのだが、このボーダーの存在を強引にあちらとこちらに引き裂く。高齢者や子どもはもちろんこうしたスポーツの行為者の側には立ちえないものとして排 除される。スピードと正確性を基準とするスポーツは、こうして多くの差別と分断を内包させながら、排除された者達を「観衆」として位置付けて感情的な同一 化を生み出す仕掛けをもっている。この仕掛けの中心をなすのが、ナショナリズムだということになる。ナショナリズムの幻想がどのようにして近代社会で再生 産されるのかは別に議論すべきことだ。

スピードの優劣を百分の一秒のレベル争ったり、行為の優劣をポイント化して数量によって序列をつけるというスポーツの評価体系は、資本主義がもたら した数値化による競争と評価をそのまま持ち込んだものだ。これは、学校の成績から会社による査定まで、生活全般を覆う。数値化(成績であれ給料であれ) は、行為そのものの意味を問うことなく、意味を数値に還元することによって、行為の無意味さを隠蔽する。100メートルをいかに速く走るかにいったいどの ような意味があるのかとか、酷暑のなかを猛烈なスピードで40キロ以上も走りつづけることで何が得られうのか、といった行為の意味を問うことは、スポーツ においてはタブーに近い。しかし、意味の欠如は歴然としているのだが、だからこそ、一方で、薬物の使用による身体改造が常態化し、多方で、無意味なことに 文字通り命を賭ける人びとへに感動をもたらすという、よくよく考えてみればダークな世界がここにはある。ワーカホリックとなってドラッグや酒に依存しなが ら働き続け、あげくの果てに心身を病み、命を絶つことすらありうる労働世界の残酷さとスポーツの世界のそれとはやはり相似形だといわざるをえない。スポー ツの無意味さに多くの人びとが気づかないことと、多くに人びとが教育の成果をを成績(点数)で評価したり、労働の評価を報酬の多寡で評価することに疑問を 感じない日常感覚と密接に結びついている。この無意味さにもかかわらず、多くの人びとはこれらの行為に感情を動員し感動したりマゾヒスティックな快楽を感 じたりする。資本主義がどのようにしてこのような特異なアーソナリティを形成したのかを解明することは、資本主義と訣別するための重要な課題だ。

自然に依存する社会では、自然のリズムを変えることはできず、自然を完璧に予測して制御することもできなかった。こうしたアルカイックな社会に秒単 位の正確性とか、飽くなきスピードアップとかを競うような「競技」への関心は持ちえなかった。もちろんこうした社会には、この社会が与える固有の行為の 「意味」の体系があり、この「意味」の体系もまた、実は意味の喪失の表現でしかない、といことではあるのだ。「機械」の出現は、この前提を崩し、人間の理 想モデルは機械のようであることになった。つまり、より速く、より正確に、そして、反抗することなく指示に従うこと。近代のスポーツはこのような機械の時 代の人間を典型的に表象する仕掛けとなった。この近代的な身体をめぐる意味の喪失を過去や非近代的な社会によって回復しようとする試みに私は魅力を感じな い。意味と意味の喪失は表裏一体であって、この罠から抜け出るには、「意味」という問題の立て方それ自体を問題にいなければならない。つまり、言語や身体 の表現や、人と人、人と自然の関係そのものである。こうしたやっかいなテーマがオリンピックに象徴されるスポーツの問題の根源にあるということ、オリン ピックだけでなくスポーツを含む文化的な身体表現の社会的な構成そのものが資本主義の身体搾取を支えているということ、このことだけをここでは指摘するの が精一杯のところだ。

【参考文献】(思いつくままに)

渡辺裕 『聴衆の誕生』、春秋社。
アラン・コルバン『身体はどう変ってきたか——16世紀から現代まで』、小倉孝誠他訳、藤原書店。
小倉利丸『支配の「経済学」』、れんが書房新社。
小倉利丸『搾取される身体性』、青弓社。
ワロン『ワロン/身体・自我・社会』、浜田寿美男訳編、ミネルヴァ書房。
イヴァン・イリイチ『脱病院化の社会』、金子嗣郎訳、晶文社。
小笠原博毅・山本敦久編『反東京オリンピック』、航思社。