プロプライエタリ社会をハックする──ビッグデータの光と影

◎ターゲット・マーケティングの戦略◎

今回のセミナーは特別ゲストをお呼びして、ビッグデータの集め方やターゲット・マーケティングの技法をトークしてもらいます。その方法を知ることで、資本への隷属から逃れるプライバシーの守り方を学びます。
トークの時間は1時間程度です。前後にLinuxインストールや暗号化のおさらいをしますので、PCをお持ち下さい。

★トークゲスト:池田佳穂
広告代理店の開発本部でターゲット・マーケティングに従事。現在はアートセンター・オンゴーイング、TERATOTERAで翻訳のほか、海外アーティスト対応など行う。3月より定期的になんとかバー「池田バー」店主。版画女子デビューも果たす。

日 時:2018年3月2日(金)19:00~21:00
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
サポーター:小倉利丸、上岡誠二

憲法とナショナリズム――近代国民国家が抱える構造への批判

1 はじめに――近代150年の断絶と継続

1.1 一貫性の構造

「明治150年」が端的に象徴している時間の観念は、近代を天皇の即位と死の循環によって表象する元号という「暦」の尺度のなかで規定しようとするイデオロギー的な時間の観念である。

日本の近代を明治元年に出発点を求めることが妥当かどうかという問題を脇に置くとして、直ちに日本の近代をのっぺらとした150年という時間のなかで、ある種の一貫性をもった統治機構として位置づけようとすることは、1945年を重要な分水嶺とする認識――これは戦後憲法の理念を肯定し、旧憲法を否定する歴史認識と不可分だろう――と明らかに衝突する。

たぶん政治学者や歴史学者であれば、戦前と戦後という重要な分水嶺を軽視した150年の連続性を端的に象徴する「明治150年」には強い違和感を感じるに違いない。私もまた、こうした違和感を共有するが、しかし、支配者がこの戦前と戦後の分水嶺をあたかも無視するかのようにして喧伝する「明治150年」を単なるイデオロギーの問題、つまり物質的な基礎を伴わない空論の類いだとして退けることも間違っていると思う。

現在の日本の状況を判断するときに、私たちが主観的に抱く現状への強い拒絶の感情を抱かざるをえない極右政権や支配層に対するルサンチマンに身を委ねることを今しばらく禁欲して、彼らのいう150年という時間の連続性の根拠を探してみることは無駄なこととは思わない。むしろ彼らが抱いている150年の連続性の根拠を私たちもまた、しかし、彼らとは明確に真逆な立場から見据えながら、その根拠をなす構造に土台から楔を打ち込むことができるなら、それはむしろ150年という一貫性の構造を根底から覆えしうる梃子の支点を見出すことにもなるはずだ。

1.2 150年に通底する共通の構造とは

150年を近代日本を象徴する時間の幅だとして、戦前、戦中、戦後を貫く近代日本の共通する構造は何か。憲法の枠組からすれば旧憲法と現行憲法という重要な切断面があるにしても、それだけが絶対ではない共通する構造とは何か。たとえば、すぐ次のような連続面を想起することができる。

  • 資本主義であること
  • 国民国家であること
  • 天皇は国家の象徴機能を担うこと
  • 国旗と国歌が日の丸と君が代であること
  • 習俗や慣習としての家父長制。民法は改正されたが家制度が慣習として維持された
  • 人口の多数が日本人としてのアイデンティティを持っていること
  • 刑罰の基本構造が変らないこと。現行刑法は1907年に制定されている

これらをみると、実は戦前と戦後の分水嶺をなす1945年あるいは戦後憲法の体制に比べて、150年のこの国の構造を支える一貫性の方がより根底的な部分を占めていることがわかる。国家や社会の大きな構造的な土台とイデオロギーの基本は、戦前も戦後も一貫したものを維持している。戦後憲法とある種の「民主化」がこの一貫性の構造を甘くみてしまったのではないか。より冷静に、近代の日本を振り返ったとき、資本主義としての構造が残り、「日本人」としてのアイデンティティが残った、というよりもむしろ、戦後も一貫してこれらが再生産されてきたという事実の重さに気付く必要があると思う。

この観点からすると、改憲は、150年間の近代日本の構造的な土台が現代資本主義の新たな構造(グローバル化と情報通信コミュニケーションを資本蓄積の基盤とする対テロ戦争という戦時体制)に適合するように統治機構を再構成するという問題なのであって、改憲に反対するということは当然の課題であるにしても、私たちが見据えるべきなのは、近代日本の土台それ自体が依然として強固に、戦前から一貫したものとして維持されたままであることに、どのように楔を打ち込めるか、なのである。これは「日本」をめぐる国家と資本への決別の方向性を見失わないために、直近の政治情勢だけではなく次の社会を構想する想像力を、近代総体を大胆に覆しうるものとして獲得できるかどうかにかかっている。

2 虚構としてのナショナリズム

憲法は国民国家の統治の枠組を規定する最高法規であるが、同時に、このことは国民国家という近代社会の統治機構を原則として肯定することを前提として成り立っている。憲法に明記されている国家権力の枠組――その権力の及ぶ範囲の確定――は、「国民」が主権者として国民国家の枠組を承認し、この枠組を前提とした権利と義務の担い手となる。言い換えれば、私たちが自己のアイデンティティを「国民」に置かないという選択肢をとることが憲法の枠組のなかでは不可能だ、ということである。1この憲法の限界を明確に自覚することが、左翼による資本主義と近代の呪縛――この国に即せば日本の近代と日本の資本主義――からの解放にとっての原則的な立場になるのだと思う。

2.1 支配者の150年という時間の幅を支える大衆意識

「明治150年」という時間の区切りは、露骨なナショナリズムの表現だが、同時に「近代」という時代の表現でもあるという意味でいえば、近代日本の一貫性がそこには暗黙のうちに強調され、その結果として、1945年を象徴的な分水嶺とする「戦後」と「戦後憲法」の意義を相対的に後退させて、明治以降の近代全体の時間軸のなかで二義的な位置に置こうとする露骨な権力者のイデオロギーを感じることができる。このことが、戦後憲法を戦前の帝国憲法との比較において相対的に優れた憲法であると評価する者達にとっては受け入れ難い観点であった。しかし問題は、この支配者のイデオロギーを支えているものは何なのか、である。「明治150年」という時間を前提とした国家イベントが成功しているとはいえないが、しかし、この時間を明確な虚構として否定する運動や主張は更に希薄なように思う。

「明治」という元号を出発点とする天皇の時間、支配者の時間への懐疑が公然とは議論されない雰囲気は、そもそも元号そのものの是非が争点にすらならず、むしろ元号を当然のこととして(どうでもいい習慣だとする立場も含めて)受容する感情と密接にむすびついている。近代日本を天皇の時間によって象徴させることは、政策的なレベルの問題ではなく、「昭和歌謡曲」とか「平成の歌姫」とか「大正ロマン」とか、諸々の大衆文化の表象を指し示すときに用いられてきた大衆文化の歴史の観念でもあり、こうした大衆文化が借用する元号+文化の一体性の方がむしろ大衆の心情の襞に取り去りがたい経験や記憶として蓄積される効果をもつ。

大衆文化から国家儀礼の時間まで、戦後は、戦前・戦中のある側面を明確に継承しつつ成り立ってきたもので、その切断の傷の深さは致命的ではなく、むしろ皮下脂肪あたりに到達する程度のものだ。この断絶と継承の錯綜した構造のなかに「戦後」が存在してきたのであり、その延長線上に現在という時代が存在する。2

2.2 戦争とナショナリズム

戦争はナショナリズムに収斂する人々の心情/信条を構成することなしにはなしえない。このナショナリズムに憲法はどのような関係をもつものだろうか。戦後憲法を念頭に置いてみた場合、いわゆる戦争放棄=平和国家の統治機構を肯定するナショナリズムであるならば、それは否定すべきものではなく「好ましいナショナリズム」である、という考え方がありうる。

しかし、こうした考え方が前提しているのは、そもそものナショナリズムを根拠づけるナショナルなものの実体を肯定しているということでもある。具体的にいえば、日本のナショナリズムとは「日本人」とか「日本国民」と呼ばれる集団に何らかの客観的あるいは合理的な根拠があるものとして肯定するということだ。しかし、果して「日本人」とか「日本国民」と呼ばれるものにどのような合理的な根拠があるというのだろうか?「あなたが日本人だとして、あなたを日本人とする根拠は何に基づくのですか?」もしこの問いを「民族」的な社会集団によって根拠づけようとしても、そもそもの民族なる概念に科学的客観的な根拠はない。他方で、「国籍」といった法制度によって根拠づけようとすると、国籍が前提としている「日本人」であることの根拠は、「日本」という国家の領土や戸籍といった制度に依存する決定であって、これらの統治機構の正統性がどこから生まれたものなのかを問わずにはいられないことになる。こうして私が日本人であるのは、私が日本人だからだ、というトートロジーから逃れられないことになる。「日本経済」、「日本文化」からDNAによる民族の判定まで、様々な「科学」や「学術」の研究は、「日本」という枠組を自明のこととしてその存在を疑いえないものであるに違いないという結論を置いた上で、この結論に合わせて理論を構築するという間違いを犯していることが多い。これは虚構だと言うことで退けられるような脆弱なものではない。神という虚構を真実とみなす宗教の教義や信仰の体系が実際に統治機構や権力の制度として社会を支配してきた長い文明の歴史をみればわかるように、虚構は科学や真理によって覆すことはできない。科学や合理主義は唯一の武器ではなく、多くの武器のなかの一つに過ぎない。3

2.3 「日本人」への帰属意識

たぶん最も現実に効果をもっている「日本人」としての自己意識は、日本人としての実感にあるのであって、科学とか学問とか法制度などとは異なる文脈のなかで構築されるものではないか。この日本人としての虚構の集団性に実体を与えているのは、国民国家の統治主体、つまり主権者という権力を正統化し、かつ権力の源泉をなす人口への帰属を前提として現実世界のなかに構築される制度や機関――役所、警察、軍隊、学校、都市計画、コンピュータのネットワークやデータベースなど――である。この実体は、権力が具体的な強制力をもって人々(ここには「日本人」であるかどうかではなく、領土の中にいるかどうかが問われるわけだが)の自由を制約できるような実体として作用する。

憲法は、この虚構の集団性を「法」によって正当化する特異な虚構の体系4である。どこの国の憲法であれ、国民国家の統治原則を規定した法として、主権のありかと主権が及ぶ人的空間的な範囲が規定される。憲法は抽象的な人民を主体にしたり「臣民」にしたりすることはできず、固有名詞をもった人々(戸籍であれ国籍であれ、明確な固有名詞による人口の集合がその本質をなす)に対する特定の国民国家の統治機構としてしか成り立たない。つまり、具体的な国家とそこに帰属する「日本人」とか「中国人」といった「人」を前提としている。普遍憲法は存在しないのである。だから最高法規を謳う憲法が国家の数だけ存在し、その結果として、相互の摩擦と対立、唯一至高の統治機構の座を争奪する無益な争いが起きる。この意味でいえば、憲法は近代の国家間の摩擦と戦争の根源をなす。

憲法が主権者とする「国民」は、同時に、個々の人々の日常生活や意識・感情のなかで、感性的かつ無条件に当然のこことして自らの「国民」としての帰属意識によって受け止められるという意味でいえば、法を越えた概念を内包している。日本人であることは問いの問題ではなく、問い以前の自明の前提として置かれる。この自明の前提は理論や科学の世界によって根拠づけられるものではないから、理論や科学によって批判したとしても、そのことによって人々が自らの実感としての日本人であることを否定できるわでもないし、このような実感に基づく民族排外主義を払拭できるわけでもない。

2.4 ナショナリズムの虚構性は「真実」や「正しさ」では排除できない

ナショナリズムとはこうした意味での「日本人」に根拠をもって表出されるある種のイデオロギーや信条のありかたである。もちろん「日本人」という観念に客観的な根拠となるものはないから、根拠のない虚構の観念が根拠になる。しかし、やっかいなのは、虚構――嘘と端的に言い直してもいい――だから間違いであり、否定すべきだ、という風にはならないことと、虚構であるから、それは「悪」であるとか、ナショナリズムの悪を根拠づけることになるといった「正しさ」による「虚構」への排斥という主張は、見当違いの批判だというこである。

なぜならば、どのような社会集団であれ、人間の集団から「虚構」や「嘘」を排除することができないからだ。(「現人神」が現実に暴力的な力を実現した近代日本の経験は、蒙昧な時代ではなく、むしろ近代科学を積極的に受容した時代だった)誤解を畏れずに言えば、虚構や嘘の構築が現行の支配構造――資本主義の政治、経済、文化など――を支えるものであるならば、それとは闘わなければならないが、その闘いにおいて私たちもまた虚構や嘘をある種の武器にして闘う以外にないのだ、ということである。虚構や嘘は人間の本質そのものであって、これから逃れることはできない。「私たちは正しい」とか「正義だ」とかいう言い回しは、それ自体が虚構や嘘である。間違わない人間はいないし、意図的に間違いを犯そうとする人間もいる。最も巧妙に構築されてきたのが合理的な虚構である。それが近代の合理主義と呼ばれてきたものであり、その最大の産物が法制度という「ことば」による規範と秩序の仕組だろう。法学も政治学も国家を前提とするが、国家を虚構とはみなさない。経済学は市場を前提とするが商品や貨幣を虚構とはみなさない。国家や市場を自明の前提として、学問の体系を構築するだけでなく、この砂上の楼閣を具体的物質的な構築物として現実化する力をもつ。

こうした観点を踏まえて、私たちは近代日本を構築してきた虚構としての天皇制に立ち向かうという課題を担うことになる。キリスト者や宗教者であれば、もうひとつの神が天皇制を代替するかもしれない。これは虚構によって虚構を撃つという立場だが、この虚構によって虚構を撃つという方法は無神論者であっても、いかなる社会主義者、共産主義者、アナキストであっても避けることはできない。なぜなら、私たちは「ことば」で支配的な虚構を否定する「物語」を語る以外にないからだ。

3 ナショナリズムなき憲法はない――憲法と天皇制

3.1 強制された「総意」

ナショナリズムなき憲法はありうるのだろうか?ナショナリズムを自民族中心主義と言い直して、支配的な民族の「主義」を意味するものととらえるのではなくて、「国民主義」として、複数の「民族」を包含するものとみなせば、憲法はこの意味での「国民主義」を前提しなければ成り立たないことは明らかだ。この「国民主義」が「民族主義」になるかどうかは、「国民」の定義と憲法の規定如何ということになる。

日本国憲法の場合、冒頭の天皇条項によって、天皇は国民の総意に基くとされている。この「総意」とは「全員一致」を意味する日本語だから、一切の少数の異論も許さず、全員が天皇の地位を承認するということを意味している。これは天皇を日本国の象徴とする意思をもたない者は「国民」とはみなさないという暗黙の関係を含意している。総意を確認する手続を欠いているから天皇の地位の正統性の根拠はないのだが、むしろ現実に起きている事態は、国民である以上、天皇を日本国の象徴とする「総意」のなかの一人であることが確認もされることなく半ば強制的に同意を要求されているということである。

私たちからすれば、総意など成り立っていない。なぜならば、私たちは、憲法がどのように定めようと、天皇を国家の象徴として認めないという意思をもっているからだ。(そもそも国家そのものも認めたくないかもしれない)しかし権力者たちにとってみれば、問題の立て方は逆転して、異論を持つことは総意によって成り立つ天皇の象徴としての地位に反するから、異論を差し挟むことは許されない、私たちの主観的な思想信条がどうあれ、私たちもまた強制的に「総意」の一部を成すべき存在である、ということになる。つまり「総意」の構成者として私たちは有無を言わさず、権力者によって「総意」に組み込まれてしまう。(ここでいう「私たち」とは、日本国籍をもっている者のことを敢えてこのように呼んでいる)ここに、例外的に天皇に対しては、その否定も含む私たちの自由な意思表示や思想信条を持ち、これを表明すること自体に対する抑圧としても作用するし、そのような強引な解釈を含意させることも不可能ではない。解釈とは権力による意味付与であるという側面からすれば、これは彼らにとって当然の振舞いであり、私たちのとっては、この解釈それ自体が、重要な闘いの場を構成することになる。

日本国憲法のナショナリズムは、このようにして天皇を象徴として正当化し、憲法が保障している思想信条の自由、信教の自由など一連の自由の権利と真っ向から対立する。しかし、それだけではない。天皇を日本国の象徴とする「総意」から排除される人々を作りだす。この排除とは天皇制に反対するといった思想信条の立場にもとづくものだけではなく、「おまえたちは『総意』の構成者とはみなさない」という権力者による選別が働くということだ。日本の場合、憲法が「国民」として、国民以外の人口と区別して規定する集団のイデオロギー的な根拠は、天皇を日本国の象徴とする「総意」の構成者であって、そうである限り、象徴としての天皇を否定する――天皇制を否定する――ことは原理的にありえない者たち、ということになっているといえる。

3.2 国民国家と戦争――国家に戦争を阻止する構造はあるのか――

近代国家は、一般論としていえば、主権者が「国民」である以上、「国民」は国家を防衛する義務の主体となる。こうして、国民を主体とする常備軍を持つことを近代国家は前提として成り立ってきた。この観点からすると、現行憲法が「戦争放棄」を明記したことは、この近代国民国家の暴力装置の一部を意識的に放棄するという大胆な選択をしたということになる。

しかし果してどれだけの人々が、意識的に国民国家としては異例のものとして戦争放棄があるのかを自覚しただろうか?戦争放棄は単なる戦争への反省とか悲惨な戦争を繰り返さないためといった情緒的な感情や経験に基づくだけでは、統治機構の実体に組み込むことはきないのであって、国民国家の統治機構全体の制度設計と同時に、他の諸国(それらは常備軍を持ち、時には徴兵制度も持って対外的な政治の手段の一つとして武力行使という選択肢を維持している)との関係のもちかたに固有の努力が必要になる。このことを戦後の政治や外交が――野党も含めて――どれほど真剣に捉えてきただろうか?現実に起きてきたことは、戦争放棄条項を持ちながら、外交は伝統的な国家間の外交戦略の教科書に従い、軍を除く統治機構を異例な国民国家として再構築することはできなかったのではないか?言い換えれば「平和」を構造化するための構想力を持とうという志向性に欠けていたのではないか。

3.3 暴力による解決の本質的な矛盾

暴力による問題の解決が抱えている本質的な矛盾は、「正しさ」を力の強弱に置き換えて処理しようとする不合理な選択を世界中の支配者たちが肯定しているところにある。力の強い者が正しいのであるなら、DVでは男や大人が正しく、被害者は「正しくない」から被害者になったのだ、ということになる。そして大抵は、暴力に訴えざるをえないやむにやまれない事情なるものを持ち出して、被害者にも「非」があるかのような印象が与えられる。どのような問題があったにせよ、その解決を暴力に委ねるという解決方法が、筋の違うものだという基本原則が忘れられてしまう。「1+1=3」は算数では間違いだが、腕力のある者がこれを「正しい」として殴って認めさせることで「1+1=3」が正解になる世界、それが暴力による解決を肯定する世界である。戦争の本質はこの理不尽な解決方法にあるが、最大の問題は、ほどんどの人々がこうした解決を肯定しているところにある。

戦争を放棄するということは、暴力によって相互の利害の対立や摩擦を解決するのではない解決のオルタナティブを模索するということだ。しかも先に述べたように、人間の本質は虚構と嘘と切り離せず、自らがついている嘘や虚構を「正しい」と信じて疑わない社会集団の集合的な観念に基づいて「国家」が構成されているのだから、正しさは問題を解決するための唯一の手法にはならない。

虚構の構造は「法」の世界では、書かれた条文との解釈の間に生まれる。憲法9条は、戦力の保持を禁止しているが、そもそも戦争や戦力の定義は与えられていない。その定義は憲法の外で、解釈として与えられる。誰が解釈の決定権あるいは実効性のある力を行使するのか。それは学者でないし、国会議員でもなく、そのときどきの政府に握られ、この解釈は「財政」という物質的な裏付けをもって具体的なモノ(兵力、武器、兵站物資などなど)として現実の世界のなかに組み込まれる。戦闘機や戦車は戦力ではなく「自衛力」であるという意味が付与される。憲法9条は現実の戦力を「自衛力」として意味づけるための格好の道具となっている。

これに対して、現実主義者は、憲法の文言を現実に合わせて解釈するか改正することを主張する。暴力を肯定する国民国家の枠組を受け入れるべきだというわけだ。これは、どのような言い訳をしようとも、あるいはどのような学問的な装いをとろうとも、国家が抱える対外的あるいは国内的な矛盾や摩擦を暴力で解決するという不合理な選択を肯定することを意味している。DVで腕力の強い者が正しいという発想と本質的に同じ発想が「国家」をめぐるややこしい議論のなかでは実感されないうちに同質の暴力が国家に対しては容認されているのである。

大抵の場合、暴力を正当化するのは敵とみなされた相手への感情的な憎悪や嫌悪などであり、冷静な判断ではないのだが、こうした感情を冷静な判断へと媒介して暴力を正当化する仕組が、外交政策とか国際政治学とかといった政策や学問の専門家が果す役割りということになる。一般に官僚や学者は自己の感情的なバイアスを科学的客観的な言説に置き換えて表現するプロフェッショナルだ。彼が依拠するのは、与件としての「国家」であり「国民」であり法や政策の体系だ。

3.4 解釈の権力と戦争放棄の厳格化のための改憲という選択肢

今必要なことは、こうした憲法の文言に限らず法解釈の権力が私たちにはなく、法の条文ではなくその解釈こそが権力なのだということを踏まえたとき、現行憲法には多くの恣意的な解釈を許す可能性があることを認めて、どのようにして「ことば」とその意味を権力の恣意的な利用に委ねないようにできるかを考えることだろう。9条の明らかな限界は自衛権を明記していないことであるとすれば、自衛権を含む戦力の保持は認めないという文言が必須だということになる。9条を足掛かりにより徹底した国家による戦争放棄への方向を確実なものにするには9条の条文では決定的に不十分な事態にあることを自覚することが必要になっている。(自衛隊と米軍の存在がなによりの証拠だ)5

たぶん、こうした戦争放棄の徹底化に対して、もし、それが実現したとしても、自衛権という文言の意味を骨抜きにした何らかの暴力の手段を国家は持ちたがるに違いない。そうなったときに、こうした擦り抜けをどのように回避するかという問題が生じる。この意味では、法は常に解釈の権力の問題を抱えるから、このジレンマを解決する道はないように思う。イタチごっこの世界でもある。そのとき、私たちは、そもそも憲法によって基礎づけられている国民国家という統治機構それ自体が暴力や抑圧から人々を解放できる枠組なのか、それ以外の「統治」のありかたはないのか?という方向での問いに直面するだろう。目先の政策や政治課題には収斂しない長期の解放の構想力を国家や資本に依存しない社会として描く力こそが左翼性の根本にあるはずであり、こうした理想や創造/想像力を失った左翼の「理論」は容易にファシズムの理論へと変質することは、過去のファシズムの歴史でも現代のネオナチや「オルトライト」などと呼ばれる集団のイデオロギーを見れば自明ともいえることだ。

4 日の丸・君が代とオリンピックをめぐるナショナリズムの攻勢

2020年の東京オリンピックに向けて、日の丸・君が代が日常的な風景のなかで繰り返し登場するようになるだろう。オリンピックに先立って行なわれる天皇代替わりの行事は象徴天皇制の継続の具体的な制度化の一環としての新元号の制定と即位儀礼によって、象徴天皇制の国家としての「日本」というこの国の近代国家としての枠組とイデオロギーが露出することになり、ここ数年を通じて、ナショナリズムを再構築する時間に入ることになる。そしてこうした時期が同時に改憲と重ねあわせられるように政治のタイムスケジュールが組まれている。

しかし、ナショナリズムの露出と強制が、多くの人々の実感のレベルでは、より不自由で権威主義的な国家の登場といった風にはならないだろう。多くの人々(自らを「日本国民」とみなすことに疑いをもつことのない人々)にとって、代替わりもオリンピックも改憲も、ナショナルなイベントという堅苦しさよりも、新しい時代への幕開けとか、優秀な日本人の活躍とか、より強い日本とかといった情緒的で曖昧な「日本人」の物語を演出するメガイベント以上のものとは感じられないかもしれない。ほとんどの人々にとってはどうでもいいことかちょっとした楽しみ、せいぜいで我慢できる程度の面倒な事であって一時が過ぎれば終るものにすぎないのかもしれない。そうであればあるほど、これら一連の出来事に対して、ことさら目くじらを立てて異論や抗議の声を挙げる者たち(私たち)は、多くの人たちからすれば、理解しえない者たち、異例な反対者、ときには過激派やテロリストとみなそされるかもしれない。

4.1 国家に収斂する「敵」と「味方」の感情的な敵意と歓喜

オリンピックでは、日の丸に限らず、各国の国旗は、選手や関係者の集団を象徴する記号である。この記号は他の同種の記号と併存しながら相互に「競争」のゲームの担い手となる。ゲームは敵対関係を背後に醸成しながら、それを戦争とか経済分野での競争とは異なる回路を通じて敵意の祝宴というスタイルをとり、その勝者のみが、国家を象徴する歌と旗を大衆に前に掲げることが許されるという儀式で締め括られる。

オリンピックに端的に示されている国別のスポーツ競技の本質的な問題は、国別という競技の枠組それ自体にある。戦争で人を殺しあうこととスポーツであれ文化・芸術であれ国別でその技量などを競うことも、根底にあるのは、ある種の敵意の再生産を通じた「国民」や「国家」に収斂するアイデンティティの至高性を証すというものだ。敵と味方という集団の区分を国家や国民を基礎に形成し維持する上でスポーツや文化・芸術の国際的な競技は重要なイデオロギー装置となる。(文化芸術の分野でオリンピックに匹敵するのはノーベル賞だろうか)競技に参加するごくごく例外的な能力をもった個人が「国民」としてのアイデンティティに回収され、国民がこの個人に自己同一化し、そしてその同一化の証しとして、国旗が掲げられ国歌が歌われる。国民は時には民族と同一視される。とくに日本では「日本人」とは日本国籍を持つものというニュアンスよりも民族的な集合名詞としての意味合いが強く、レイシズムを含意した概念としても受け取りうるものだ。

国家や国民が他と比べて優れていることを示そうとする意欲は、スポーツや芸術そのものに必然的な条件ではない。しかし、同時に、近代のスポーツも芸術も、「近代」という時代が持つ身体性や個人と集合的なアイデンティティのありかたと密接に関わってしか存在できないということも明らかである。この意味でいえばスポーツも芸術も学問も、これらに携わる人々が国家や国民としてのアイデンティティの構造から自由であることはできないし、逆に国家もまた一人一人の能力を「国民」の能力(優秀さ)とみなすことができるために、スポーツ、文化・芸術、学問などを支えようとする。

個人としての心身の技量や才能を「日本人」とか「日本」という集団性に還元し、彼や彼女は「日本人」を代表する者としてその栄誉が称えられる。国旗や国歌はこのことを可視化する装置である。敵を倒すことへの歓喜を国別の競技は繰り返し生み出し、これを戦争とは異なる平和の祭典とみなすが、大衆の心理のなかに醸成される敵と味方、歓喜と悲哀の感情の構造は全く同じものだ。大衆は、こうした国家や国民という観念に自らを同調させて感情的な一体化を繰り返し経験として刷り込まれ、その結果として、この経験的な感情を疑うことのできない「実体」あるものとして誤認し、国家や国民を実体あるものへと自ら押し上げ、そこに自らも帰属すると感じる主体になる。

スポーツ競技は身体を伴うだけに、そこには殺す/殺される、という身体が極限で経験する敵と味方の間の闘争関係が巧に代位あるいは隠喩として組み込まれている。スポーツの「争い」は実際の戦争のように人を殺すわけではない、その意味で、国家間の争いを戦争とは別のスタイルで実現できるという意味で「平和」な祭典なのだ、と肯定的にも言われる。しかし、これは肯定すべきことというよりも戦争を支える感情を再生産する仕掛けであることを理解すべきだろう。将来においてありうる敵との殺し合いの感情へと容易に転移できるような、国家と国民という集合的なアイデンティティを人的な被害なしに再生産できるという意味で、オリンピックのような国別のスポーツは、国家にとって意味のある(国家財政を投資する価値のある)イベントなのだ。

4.2 問題の本質はスポーツと戦争の相同性にある

このように、オリンピックのような国別のスポーツは、「殺す」「殺される」当事者になるかどうかではなく、敵意を醸成する感情の共同性が戦争の敵―味方を生み出す感情の共同性とおなじ性格をもっている。スポーツで対戦相手となる選手たちを「敵」とみなして日本の選手が勝利すること、敵をやっつけろという感情の昂りを醸成できるように、利害関係もなければ恨みをもつ根拠もない、事実上メディアの報道でしか知ることのできない相手を憎むことが可能だということがスポーツの歓喜の構造の背景にある。もし人々がスポーツに歓喜できないのであれば、スポーツはメディアの関心を呼ばず、大衆文化としても普及しなかったに違いない。「敵」の存在、しかも国別でそれが設定されているということ、そしてその敵を憎む合理的な理由などなにもないということ、この構図のなかで人々が歓喜するということ。その歓喜の締め括りに、勝者にのみ許される国家を象徴する旗と歌が披露されるという儀式は、すべての敵対的な歓喜の感情が最終的に勝者の国家の象徴に集約されて結末へと至る、不合理極まりない感情の構造を正当化する仕掛けをもっている。国際スポーツはこの意味で「平和」を装いながら戦争の感情を正当化するものでしかない。

おわりに

戦争放棄という重要な私たちにとっての課題は、武器や兵器を廃棄するだけでなく、戦争の心情を形成する国家や国民へと収斂するアイデンティティ形成の文化的なイデオロギー装置をいかにして打ち砕くか、という課題をも含むものでなければならない。オリンピックでいえば、日の丸君が代は、歴史の記憶のなかの戦争との繋がりだけでなく、スポーツそれ自体に組み込まれた敵意の醸成の装置になっているということが問題なのだ。6

そして、憲法をめぐる喫緊の状況のなかで、私たちが時間を費して真剣に議論すべきなのは、近代国家としての日本と資本主義としての日本、近代以降、新旧の別はあっても「憲法」に基づくナショナリズムを基本的な統治構造として持ち、資本主義としての搾取と侵略の構造を維持してきたこと、このような日本を文字通りの意味で総括して、私たちは、次の社会を「日本」とは呼びえない何ものかとして構想する創造/想像力としてどのように獲得するか、という徹底した「夢」を追求し続けることこそが今必要なのではないかと思う。

脚注:

1  近代の伝統的な労働運動や階級闘争が自らの立場として「プロレタリア国際主義」をとるとき、そこには明確に「国民」に収斂させられるアイデンティティへの拒否があった。しかし、戦争の時代は、この拒否を貫徹することの困難をもたらし、多くの左翼の運動は国民主義へと変質する。この変質を巧みに横取りして成り立ってきたのが「国家社会主義」のイデオロギーである。こうした構図はネオナチや極右が左翼の通俗的な解釈を横取りして反資本主義を標榜するなかにも継承されている。

2  現在は、もはや戦後ではなく、対テロ戦争という「戦争」を米国とともに担う国家になっているという意味でいえば、戦時である。戦争とは、宣戦布告し、戦場に戦闘部隊を派遣することをもって開戦とみなすことで生じる事態ではないというのが1945年以降の戦争の現実だ。武装した兵士と武器弾薬や戦闘機や戦車などの兵器だけが兵力・武力なのではない。武力行使は、その背後に広範囲にわたる兵站を必要とし、兵站の更に背後には、武力行使を持続的に可能にするような経済構造と政治的な意思決定、そしてなによりも「国民」の同意と同調をもたらす思想信条の環境が準備されていなければならない。これらが一体となり、また複数の同盟国がこれらの構造を分業として担うなかで、日本は、兵士による殺人を直接担っていないというに過ぎない。朝鮮戦争、ベトナム戦争の時代から現在まで、日本は常に戦争の後方支援と兵站を担うことによって、戦争に加担してきた。戦争責任の問題は、過去の侵略戦争、植民地支配の問題に限られるのではなく、今現在の戦争に関して問わているのだ。

3  近代日本が、天皇を現人神と定めたことの荒唐無稽さは笑い話で済ませられない。近代科学が近代国家を支える知識をなし、近代医学や生物学もまたその科学としての評価を妨げられることはなかった。しかし、科学者たちは、天皇が神であることを科学的に立証しようとしたことはなかった。天皇を現人神とするといった荒唐無稽は非科学的な言説を国家の理念と科学者たちの科学的な知識とが彼らのかなかで矛盾を自覚されることなく共存したのである。こうした共存は軽視すべきでない。客観的な科学は虚構としての国家の観念や宗教的な信条の有効な反論にはなりえないのである。むしろ、科学者ですら神を信じるということを通じて、神の虚構が「真実」の外観をまとうことになり、これが虚構を強化したというべきだろう。

4  虚構だというのは、憲法であれ法であれ、それらが「書かれたテキスト」でしかないからだ。文章として表記されたものは現実そのものではない。現実を指し示すための記号である。この記号に意味を与えるのが、解釈の権力である。私たちが憲法を解釈したり理解する自由があるとしても、その自由は権力作用を剥奪された解釈の自由でしかなく、それが実体的な効果をもつことができるためには、司法の判断に委ねることを強いられる。言論表現の自由は重要な権利だが、この権利には表現を実体化できる力はない。

5  これはなにも9条に限らない。たとえば、残酷な刑罰を禁じた36条(公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。 )は死刑を明記していないから死刑制度が存続しているとすれば、死刑を明記すべきだという改正は必要なことだ。(そもそも監獄が残虐な刑罰ではない、とみなす考え方自体が疑われるべきなのだが)

6  国別で身体の技芸を競う必然性はないだけでなく、いわゆるスポーツと呼ばれる競技そのものもまた、それが身体技芸として普遍的な価値をもつものではないということ、

(2018年2月25日 都教委の暴走をとめよう!都教委包囲・首都圏ネット集会の講演資料より)

 

貨幣と市場の政治学

1 はじめに――貨幣と資本主義批判

1.1 生存の構造と資本主義的市場経済

人間が社会集団を構成して持続的に世代的な再生産を維持し、一定の人口(増減はあってもいいが)を維持することができるために、「経済」と呼びならわされてきた仕組みが、どの時代、どの社会にあっても組み込まれていなければならなない。(これを「経済」と呼ぶ必要はかならずしもないが)

経済は、人々の生存を維持する上で必要なモノを生産、供給するためのものであるから、市場経済だけを意味する必要もないし、家族(親族)組織のように、近代社会では経験的に「経済」とは呼ばれない組織も、見方を変えれば生産や供給に関与しているれっきとした経済システムの一部を担うものだと理解する必要がある。いかなる組織、制度、集団もそのほとんどが何らかの意味で経済の機能を果しているのだ。同様に、社会は人々を統治するためにシステム(一般に政治と呼ばれるが)を組み込んでいるが、政治のシステムもまた、行政、立法、司法の諸組織だけを意味しているのではなく、一般に経済の組織とみなされている資本や労働の組織や制度もまた統治機構としての役割を担う。家族もまた親密な集団を組織化することが可能なようなルールや支配と被支配の関係を含むという意味で政治的な機能を果している。

1.2 利潤目的のメカニズムと生存のメカニズム

資本主義は、資本の利潤目的の活動を動力として社会の人口の生存を維持するシステムだ。利潤を目的とする組織は社会の人口の生存を結果として支えることができるということを証明するための理論が、近代の経済学という学問分野だ。しかし、その実態からすればむしろ、資本の利潤目的の活動を正当化するために、社会の人口を維持する生存のメカニズムとして最適な仕組みとして資本を中核に置く市場経済があるのだという本末転倒した理屈づけが経済学という学問を形成してきた。この本末転倒した理屈は、人間個々人の私的な利益や欲望を最大化することを自己目的とする行動が、結果として社会全体の生存を最適化するという風にも主張されてきた。個人が「自由」に自己の利益の最大化を図るという身勝手に見える行動が、逆に社会の「幸福」も最大化するはずだという理屈は、人々が市場経済的な私利私欲を正当化するための学問的な裏付けを与える役割も果してきた。

この利潤と私的な利益を社会の豊かさや繁栄をもたらすものとして正当化する主張は、実は、証明されたことは今まで一度もない。資本主義的な市場経済が資本に一定の利益をもたらし、資本蓄積を通じてここ数世紀の間に莫大な市場経済的な富を蓄積してきた背景には、資本主義的な市場経済のメカニズムがあるということは説明できる。しかし、このメカニズムが社会の人口の生存を維持することに成功してきたかどうか(失業者は市場経済のシステムの内部では生きられない)、社会を構成する人々の「豊かさ」を保障するシステムとして機能してきたかどうか(世界規模でみれば、19世紀からの2世紀で世界の貧富の格差は国別でみて70倍以上に拡大した)については、常に有力な反証によって異論を完璧に退けるまでにはなっていない。

資本による利潤目的の活動のメカニズムと人々の生存のメカニズムは相互に一体のものにはなっておらず、別々のメカニズムとして機能している。資本のメカニズムと生存のメカニズムの二つのメカニズムの間を人々は日常的に往来する。朝出勤して会社に行くのは、人が資本のメカニズムに入ることを意味している、という風にとりあえずイメージすることはできるが、これは必ずしも正しいとはいえない。人々の24時間は、会社の外にいようが家で睡眠している時間であろうが、こうした時間が人々の<労働力>を再生産する時間として機能しているという面からすれば、これもまた資本のメカニズムの内部にあるといえる。生存のメカニズムはむしろこうした日常の時間や経験として実感されるレベルではなく、その背後で、人々の実感や経験を越えたレベルで機能している。

1.3 資本に依存しない生存のメカニズムとは

資本の搾取からの解放というマルクス主義が掲げた課題は、それ自体としては間違ってはいないが、資本に依存しない生存のメカニズムとは何なのか、それはどのように変容するのかという問題については十分な関心をもってこなかったように思う。

端的な問いとしては、資本主義が供給してきた諸々の商品(財やサービス)が資本の廃棄によって労働者がこれらを供給するとすれば、財やサービスの具体的な構成は資本主義社会とは何ひとつ変らないことになる。資本の利潤として資本が懐に入れる剰余価値=利潤部分は、人々に配分されるから、分配は変るが、社会全体が受けとる財やサービスの構成は変わらない。しかし、たぶん、こうした単純な資本家の労働者への置き換えを社会主義だと主張することで満足できないことは明かだ。では何が問題なのか。

資本主義が資本の利潤目的で供給してきた商品には、様々な紛い物や社会にとって有害な物も含まれる。このことはマルクスも繰り返し指摘してきた。だから、資本のない社会では、利潤目的に従属して商品の使用価値が毀損されるような条件が排除されて、人々は自らの必要を満すためのモノを自ら生み出すことになるだろう。言わば、自分で食べるモノを作る人間が、健康に害のあるものや手抜きの不味い食事を作るよりは旨い食べ物を作りたいと思うように、社会全体が社会にとって好ましいものを社会の主体である人々が―資本に依存せずに、直接に―生み出す。これはいわば、生存のメカニズムを直接何にも媒介されないで実現する社会、ということを意味している。

1.4 生存のメカニズムの直接的な実現は不可能だ

こうした社会が実現できればそれに越したことはないが、実は社会とはそのようには実現できない、というところが重要なのだ。資本の廃棄は重要な課題であり、これは、人々が資本主義的な搾取から解放されるための必須の条件である。しかし、その結果が、生存を直接実現する社会を生み出すことがないのは、生存のメカニズムは、社会全体の構造を支えるものではあっても、この構造を人々が経験とか人生とかとして生きる世界それ自体にはなりえないのである。なぜなのか?

もし人がロビンソン・クルーソーのように自給自足の生活をしているのであれば、こうした生存のメカニズムを直接実現することはできる。ところが人が二人になるや、生存のメカニズムは二人の関係によって覆われることになる。関係という「覆い」によって生存の直接性は背後に退き、関係というある種の「虚構」のメカニズムが生成される。生存の条件の達成は、この二人が何らかの形で相互に相手に依存することを通じて実現されることになるから、関係という迂回路を通ることになる。

1.5 ことばと相互理解

人間は一人では生きられず集団を構成するが、その意味することは、この集団をなす人々の関係は広義の意味でのコミュニケーションによって構築されるということだ。コミュニケーションには様々な要素が含まれる。とりわけ「ことば」はその中心的な役割りを果す。ことばを通じて人々は、相互の感情や意思などを伝えあう。感じたことを「ことば」に置き換える。表情や仕草などもある種の「ことば」だ。人々は「ことば」(文字だけではなく発話も含む)通じて、「世界」に関する観念を構築し、この「世界」を人々は共有しあっているものとして相互に信認しあう様々な手続きを編み出す。「ことば」は、身振りであってもよく、様々な手段で自分の意思を外部に表明すること、声帯を使うか顔の筋肉を使うか、手を使うか、衣服の色やデザインを使うか、それは本質ではない。この意思を他者が「理解」すること、そしてこの両者の間に意思の疎通が可能であるという共通した了解が成り立つことがあればよい。

もちろん、こうした意思疎通の了解を証明することは容易ではなく、多くの場合、客観的あるいは科学的に両者の理解が完全に同じものであるという確認なしに、「そう思う」ということで成り立つものだ。誤解はコミュニケーションにおける重要で不可欠な要素であり、また、同時に嘘や虚偽をあたかも「真実」であるかのように表明することもまた「ことば」の重要な性質である。

1.6 真実の一部としての自覚された虚構あるいは嘘――世界を構成するものとして

文学や詩などの芸術と呼ばれる分野は、この「嘘」をむしろ崇高なものへと押し上げる領域であり、嘘や虚構がそれ自体として価値を持つ世界だ。現実にはありえない物語や表現がここでは生み出されて人々は感動する。人々は嘘や虚構に感動できるし、それを素晴しいものとして尊重することもできる。同時にこうした虚構の世界が人々の現実の世界に影響を及ぼすことにもなる。人々が世界に働きかけるときに、世界を見る見方や、世界に働きかけるときに人々は虚構の世界が与えた「世界」についての見え方に影響されることもしばしばだ。文学によって人生の進路を変えるとかということは、即席ラーメンを袋に書いてあるレシピ通りに作ること同様、世界と自分の関わり方に変化をもたらす力をもっている。たぶん、即席ラーメンよりもその影響力はおおきいだろうと思う。

文学であれ美術であれ、それらが生み出す虚構の世界は、人々の内面の世界のなかでは、一つの「真実」を構成している。その真実とは、こうした虚構の世界を経験したという事実であり、その経験によって、経験するまでは考えもしなかったような世界についての、あるいは自分自身の生き方やこれまでの経験への捉え返しそれ自体の修正やときには否定すら生み出すことになる。虚構は人の内面世界で、真実を構成する現実世界の経験の一部として埋め込まれる。よくよく考えれば、私たちの経験という現実の(虚構とか嘘とは言えない)体験のなかに、読書とか美術とか映画といった表現の世界もまた含まれており、後者が文字や絵の具の痕跡や光の強弱が織り成す物質の世界としてではなく「意味」を担うモノとして理解され受容される。このこと自体はまぎれもない事実であるが、それは虚構を経験するという事実だから、事実としての虚構を経験するということになる。人間の経験の大半はこうした虚構を事実として経験する世界から成り立っている。そうではない、事実を事実として経験する世界はほとんどない。つまり事実の直接性は人間にとってはこれを「経験」として捉えることが極めて困難なのだ。その困難の原因をなしているのが、人間が世界を理解するときに常に広義の意味での「ことば」を介する以外にないという特異な世界との関わり方にある。

1.7 真実を装う虚構あるいは嘘――世界を構成するものとしての宗教、学問、国家

文学とか芸術を引き合いに出したが、それだけではなく、人々の内面世界がより具体的に世界それ自体を変えうる力を集団的に構築する場合がある。その典型が宗教的な信仰と呼ばれる「嘘」あるいは「虚構」である。神と呼ばれる証明しようのない絶対的な存在をめぐる物語が宗教の重要な要素にあるとして、この神の物語を文学や絵画のように虚構の力として受容するのではなく、それ自体が虚構であることを否定して真実とか真理であるとして受容あるいは理解させようとする。これが虚構を前提としてその崇高さを標榜する文学や芸術とは決定的に異なるところだ。真実としての神を内面化した人間集団は、この真実に沿って世界を再構築しようとする。真実としての神が観念としてではなく現実としての世界のなかに物質化されるように振る舞う。こうして宗教上の様々な建築物や教義を教育する制度などからイコンや経典ということばで書かれたテキスト、芸術の力を借りて非言語的な表現によって真理を具体化しようとする。

虚構や嘘が現実世界に具体的物質的な実体を構築することは可能である。この可能性を支えているのは、単なる人間の妄想や創造ではなく、虚構を現実世界の中に組み込むために現実世界を構築している物的な構造に転換できる能力があるかどうかに依存する。神を信仰する人々が神殿を造営するときに必要なのは、神への信仰というモチベーションとともに、神殿を設計し、構造物として建設するための建築学や工学の技術・知識である。これらの技術や知識は神の存在には依存せず、むしろ構造計算だとか諸々の工学的な学問・知識に属するものだ。こうした工学的な知識が動員されることで虚構が具体的な現実の世界のなかに組み込まれる。こうして可視的で触ることもできる物質としての神殿が出来上がったとして、人々はこれを単なる工学的な条件を満した建築物として「理解」するのではなく、それを「神殿」として理解する。こうして神は物質化されることになる。宗教的な虚構は現実の世界と不可分一体のものとして存在している。虚構と現実という区別はこの意味では、この宗教的な信仰に帰依する人間集団を外部から観察するよそ者が便宜的に与えた、このよそ者にとっての嘘と現実の区別であるに過ぎない。

神殿は壊すことも焼き払うこともできるが、それによって神が滅ぶとみなすことも可能だが、むしろこうした現実世界にある物質的な構築物を廃棄することによって人々が内面世界に構築した虚構を退けることにはならない。虚構を廃棄する作業は、人々が経験として実感している内面世界を一旦リセットする作業が必要になる。この問題がかなりやっかいなのは、人々の内面的な世界と外部の世界とは言語上はあたかも区別可能なのように表現せざるをえない(これは私の表現能力の未熟さによるのだが)が、実は同じ構造の異なる側面なのである。この構造は社会そのもの、つまり現在であれば資本主義的な社会それ自体の構造である。

虚構を経験するための文学や芸術から虚構を真実(真理)とする宗教的な信仰から、狭義の意味での「経済」に立ち戻ってこの問題を考えてみよう。神殿と建築学の関係は、市場や資本と経済学の関係にもいえることだし、国家と政治学や法学にもいえることだ。いずれも真理が虚構を支え、虚構に物質的な実体を付与することに加担する。

2 商品――虚構の現実性と「ことば」というやっかいな難問

2.1 辞書の意味と商品の意味

「商品」という物的な現実体について上記の論点との関わりを考えてみよう。

広辞苑の初版では、自動車を「内燃機関を動力とする軌道をもたない四輪で移動する輸送機械」といった定義を与えている。この定義は理論的には間違っていないし、統計上も自動車は「輸送機械」として分類されているから、実用上もこの定義が意味をなさないわけではない。しかし、自動車が商品の使用価値として売買されるときにはこの定義はほとんど意味をなさない。買い手も売り手も自動車はこのようなモノとしてではなく、この定義では明示されていないそれ以外の要素によって自動車の使用価値を規定しようとする。それは広告に端的に示されるし、人々が自動車を「買いたい」と思うときの動機に即して考えれば容易にわかる事柄である。

自動車という使用価値は、市場経済に固有の意味をまとうことなしには商品にはならない。この固有の意味は、ある面では文学や芸術のような虚構を露出させた「物語」がもつ買い手(候補者)の想像力や欲望を喚起する機能を動員するし、また宗教的な信仰のように虚構を「真実」とするような機能―とりわけ自動車メーカーの企業としての神話―を動員するかもしれない。買い手は自分の欲望を実感として感じることを否定できないから、その欲望を肯定しがちだ。しかし欲望は商品の使用価値をめぐって売り手が構築する虚構を混じえた意味の刺激によって生成されたものであって、自然なもの、あるいは生存の構造に根拠をもつものではない。商品の意味は人々の実感によって経験として繰入れられる。

2.2 売り手と買い手ん相互行為と意味の生成

アダム・スミスは商品としての「ピン(まち針)」を、マルクスはリンネルとか上着とか小麦を例に交換を説明した。この説明は非常にプリミティブな市場では成り立つが、こうした一般名詞で商品を交換する世界は近代の市場経済のなかでは極めてマレだ。むしろこうしたモノの物質的な使用価値とは相対的に異なる意味を付与されたものとして市場に供給される。どちらの場合であれ、売り手と買い手の間で生じるのは、売り手は買い手の欲望を喚起する何らかの戦術を行使し、買い手はこの売り手の攻勢に対して買うかどうかの意思決定の決定権を握ることによってその攻勢に立ち向かいながら、欲望の構成を調整するということだ。この売り手と買い手の相互行為のなかで、市場は社会におけるモノの意味を生成し再生産する。ここには市場に固有の意味の世界、言い換えれば、市場経済に固有の虚構と現実との不可分一体の構造が形成されるとともに、この構造を前提とした相互関係がとりむすばれる。

この構造のなかでは、自動車が、たとえ生存に必須の使用価値を担っていたとしても、それはこの生存に根拠をもつ以上の「意味」なしには存在しえないし交換もされないということだ。近代的な市場経済が資本によって支配されているということは、このような構造を支える資本による虚構を含む意味の構造を指している。

2.3 資本主義の否定としての意味の否定――了解不可能な意味の世界をどのようにして創造するか

そうだとすれば、資本主義を否定して、その問題や矛盾を克服するということは、資本の意味の構造をその土台から覆すということでなければならなし。しかし、最大の困難は、こうした意味の世界は資本の側にしかなく、その買い手―大半が労働者階級に属するとされる大衆だが―の側にはない、ということではなく、買い手の欲望のなかに転移され大衆の日常生活を構成しているということである。

大衆は資本の虚構を自らの経験として主体的に意味を付与したり調整しながら生活のなかに取り入れるのである。自動車を買った買い手は、売り手の意味に束縛されずに自らの意味生成の主体として自分の自動車を再定義できるが、そうであったとしても、こうした再定義された自動車もまた資本主義的な生活のなかで、再び資本主義的な生活世界のなかに投げ戻されて人々の資本主義的な日常の一部を構成することになる。こうした大衆の主体的な意味生成の過程を資本は巧妙に横取りして、これを次に売る商品の意味づけのなかで利用する。

こうした資本に加担する構造から逸脱して、市場のモノを資本から切断して「使用」することは、資本主義の生活秩序や虚構の構造を覆す上で必須である。これは、一言でいえば、資本によっては理解しえないモノの使用を創案する想像力の問題である。つまり、資本主義が許容することのできない虚構の世界を構築することである。わけのわからない振舞いやスタイルは個人の孤独な営為というよりも、それ自体もまた集団的な営為として一定の広がりを獲得できたとき、そこには意味の世界の分節化が生まれる。文化のコードが分裂して、資本を遮断するのである。

商品の使用価値をめぐる虚構と現実世界を架橋する意味の世界は、マルクスが商品論で言及できなかった問題でもある。意味の世界が重要なのは、それが虚構であり「嘘」であり、しかも「ことば」はおしなべて虚構や嘘と不可分であり、要するに人間は嘘つきであることによってコミュニケーションを駆使できる存在だということを、現にある支配の構造への転覆の戦略としてどのように組込むかという問題である。革命にとって問題なのは「正しさ」ではなく虚構と嘘の想像力/創造力の問題である。革命家とは偉大な嘘つきである…!?

3 貨幣――一般的等価性と市場の政治学

3.1 一般的等価性は何に由来するのか

商品における意味生成は、売り手と買い手双方の相互行為を通じてモノの虚構を現実を構成する力とする。貨幣にも同様の意味をめぐる虚構のメカニズムがある。

マルクスは貨幣と呼ばれることになる一般的等価物としての商品の存在を、市場経済に参入する人々の「共同作業」だと述べている。つまり市場にいる人々が、歴史的にみれば「金」を貨幣とするという了解を形成することで、金は貨幣となる、ということだ。金という金属物質の有用性もまた社会のなかでの金の用途がどのようなものなのかに依存するから歴史的な性質をもつ(ともマルクスは述べている)が、高価な装飾品としての「意味」には、社会を構成する人々が虚構のなかで形成してきた神話や物語と関連づけられた意味の具体的な体現物などのように、物質性それ自体からは導くことのできない有用性がまとわりついている。王冠に用いられた金は王権を象徴する「モノ」となるが、王権そのものになるわけではない。また、王権という至高の権力を例えとして引き合いに出すためのもの(例えば、王権とは何の関りもない飲料に王冠のマークをほどこすのは単なる隠喩としての王冠の利用だが、それとは違う)でもない。

貨幣とされた「金」の一般的等価物としての性格は金という物質に由来するわけではなく、人々の共同意思に由来する。この共同意思とは金という物質に、他の商品にはない固有の意味、すなわち「どのような商品とも交換できる力をもつモノ」を与える。市場に参加する人々の信認によって「金」は貨幣になる。しかし難問は、どうして市場に参加する人々皆が例外なくある特定のモノに一般的等価性を付与し、貨幣として認めるのか、なぜ例外がないのか、という問題である。この難問をマルクスは価値形態論という『資本論』のなかでも最も難解だと言われる方法で解こうとした。しかし、マルスクの方法は、商品交換が一般的等価物を必要とすることを暗黙のうちに先取りして想定しているようにみえる。そうすることによってしか市場で唯一の一般的等価物を導くことができなかった。論理的な展開に現実による先取りが横入りしている。俗な言いまわしをすれば、一般的等価物は複数よりも一つの方が市場の交換にとって便利だということが経験的にも現実的などいう事実によりかからざるえをえなかった。

3.2 唯一の一般的等価物は市場ではなく分配から生まれる

一般的等価物としての性格を主張することはどの商品にも可能である。それを市場が受け入れるかどうかはまた別の話である。もしそうだとすれば、唯一の一般的等価物に収斂する過程は、市場それ自体からは生まれない。(この問題は、『資本論』第三巻の信用制度で中央銀行と発券の集中の議論にも共通する「難問」だ)

貨幣と呼ばれる商品が唯一のものとして、一般的等価性を独占する力は、市場の交換からは生まれない。こうした唯一の存在が生じるのは、交換ではなく分配の機構からだと思う。分配とは社会の統治機構が構成員に対してその生存を保障する必要と権力の正統性とを結びつける上で欠かすことのできないメカニズムだ。権力者が市場においてあらゆる商品との交換を保証するモノとして「金」を指定して、その一般的等価性の後見人になるときにのみ市場のなかに唯一性が生みだされる。市場はこうした意味での唯一性としての貨幣なしには機能しないということでいえば、市場は、その外部に一般的等価性を保証する力を持つ存在を必要とする、ということになる。この力は、その社会において唯一の力であること、つまり他に一般的等価性を主張するようなモノの登場を許さないような独占を維持できる力を持つことが必要であって、それは近代においては国家が担うことになる。この意味で貨幣とは、市場経済にとって必須の機能を担うだけでなく、それ自体が近代社会の権力の経済的な姿でもある。

3.3 労働の裏付けという問題

こうして市場は近代の統治機構に貨幣を媒介として接合されることになる。「金」のように労働に裏打ちされることによって、国家による信認を現実社会における労働という実体とリンクさせたわけだが、これは、市場経済が「共同体と共同体との間」の取り引きのメカニズムを担ってきたことから生じるもので、社会の分配に基づく交換に必須な一般的等価性のメカニズムだけでは説明できない。

複数の共同体(あるいは市場でもよいが)が相手を権力の正統性やその共同体に帰属することの是非についても相互に自己の正統性や帰属のみに依存して相手を「他者」とする場合、一般的等価性の信認は相手の権力に根拠を求めることはできない。だから、「労働」という実体によって支えられることになる。

3.4 分配と自由

他方で、分配が生成する一般的等価物の場合、分配の主体は、誰にどれだけの「貨幣」を分配すべきかのルールを策定しなければならないから、相手が何者なのかを知る必要がある。分配ではモノの関係が人と人との関係によって規制される。

しかし、このようにして分配された「貨幣」が、市場の交換のメカニズムのなかで機能するときにはこの「誰」という側面は不要になる。貨幣の一般的等価性が人が誰であるかを不問として、その一般的等価性のみが信認されることで全ての取り引きが完結する。こうして市場は匿名であっても相互に信認しあう関係を作り出した。相手が誰であるかを知らなくても、相互に信認しあう関係が市場経済では可能になった。その結果として、分配の主体はもはや市場を流通する「貨幣」が誰と誰との間で流通しているのか、どのような取り引きを媒介しているのかを把握できなくなった。

こうして市場で人々は貨幣という一般的等価物が保証する無限の貨幣欲望を引き受けるかわりに「自由」を手に入れることになる。国家は、こうした市場の自由に対して「法」という権力によってその規範を策定することを通じて間接的な制御を行うが、その際に「貨幣」が重要な手段を担うことになる。

3.5 貨幣の「ことば」と権力

貨幣に込められた意味には、市場の交換に必要な一般的等価物としての機能という側面だけでなく、この一般的等価性を保証する唯一の権力による「お墨付き」という意味が含まれる。このお墨付きを人々が感覚的に把握できるためには、「金」はで地金はなく、刻印が打たれる。そしてまた、一般的等価性には特別な貨幣としての名称が与えられる。ドルとか円とか元とか。先に「ことば」と意味について述べたように、社会の構成員が世界を理解するためには意味による世界の了解構造が必要だ。「ことば」はこの了解構造と深く関わる。自動車を単なる内燃機関による輸送機械であるだけでなく、フェラーリとかレクサスとかといったブランドやデザインの「意味」が商品の使用価値と不可分であるように、貨幣は単なる「金」ではないし、貨幣の名称もまた単に便宜的で名目的なものではなく、その名称や外形それ自体が貨幣の本質の一部をなす。

マルクスの資本主義批判の最も弱い部分はこうした使用価値の意味作用であり、この意味作用を構成している「ことば」が果してきた役割りを、抽象的な価値と労働の世界から機械的に分離して、社会主義、共産主義へと継承可能な普遍的な物質的生産の世界だと誤認したところにある。意味のないモノの世界はなく、意味を構成するモノの世界は意味と不可分な歴史的な産物であって、近代であれば使用価値とその意味もまた資本主義的な産物として、この特殊な意味とモノの世界を媒介しないと生存の構造を維持できないように仕組まれている。人々は、だから、資本主義を宿命として誤認し、この世界を与件として最適なシステムを模索するという徒労な作業(これを近代の学問というわけだが)に知的なエネルギーを費す。こうしたモノの意味は次の時代に肯定的に継承されるべきではないのであって、使用価値それ自体もまた廃棄の対象なのである。

3.6 強制的で移譲された信認の構造の限界

貨幣を支える国家による信認の構造は、市場の全ての人々の文字通りの意味での信認を必要とはしない。人々が何らかの手続で――民主主義であれ独裁であれ――国家に移譲した統治権力の一部に、市場の秩序に必要な規範も含まれるからだ。同時に、国家は市場の交換に対して「分配」の権力として、市場を補完するが、同時に、この分配の権力から派生する一般的等価性をもつ「貨幣」の意味世界を支配する。国家というこれまた実体のあいまいな虚構の構築物は経済的な実体として市場の秩序とその不可欠な前提としての一般的等価物のお墨付きを与えることで、その虚構を現実の世界によって根拠づける。国家は憲法や法制度から官僚機構、裁判所による命令、意思決定のための討議も含めて、すべてが「ことば」によって織り成された世界だ。

そもそも市場経済が存在する一つの理由は、物々交換が成り立つ上で必要な人々の需給をマッチングさせるのに必要な情報を処理することができないという人間の知識と情報処理能力の限界にあった。「上着が欲しいけれども、自分が持っているリンネル20ヤール(1ヤール=91センチ)と交換してくれる人がこの市場のどこかにいるだろうか?」というわけだ。貨幣はこうした難問を解決してくれる。しかし貨幣の一般的等価性を支える国家の信認と国家の信認を支える市場経済(国民経済として国家の「富」の源泉であり、分配の原資を供給する構造)という相互のもたれ合いは、資本が市場を支配し、国境を越えた市場の広がりなしには資本蓄積が維持できない規模になると、国家の領域と市場の領域との摩擦を生み出す。

人々が国境を越えて移動すると同時に、複数の国家をまたがる人々のコミュニティ(移民や難民が暮す「先進国」と出身国に暮す親族や友人たち、あるいはことばや宗教や文化といって非物質的な共同性)が国境と摩擦を引き起こす。この摩擦の背景には生存の構造がある。生存の構造と資本=市場が織り成す資本主義的な意味=使用価値と価値の世界との間に調整が不能なほどの齟齬が生じて亀裂が生まれる。つまり一般的等価性という貨幣の性質を支えてきた国家に対して、資本と市場の規模が肥大化した結果として、国家への信認が揺らいできたともいえる。

3.7 仮想通貨

仮想通貨は、この問題を解決するための市場の再構築という側面をもっている。一般的等価性を国家に依存しない仕組みである。それを人間の能力では不可能な情報処理の力を借りて実現することが可能になった。相互の信頼を国家ではなく、暗号技術という純粋に数学的な世界に委ねたのだ。客観的に誰もが否定しえない仕組によって相互の信認を行なうという仕組みだ。人を信じることではなく数学のアルゴリズムを信じるということになる。

ここで達成されるのは、市場経済が必要とする交換における最低限の条件である。つまり、貨幣に対して合意した価格で売り手から買い手にモノの所有権や処分権が移転し、買い手から売り手に貨幣が引き渡されるということだ。買い手にとって必要なのはモノであり、売り手が誰かということが必要なわけではないし、売り手にとっても貨幣が必要であり売り手の素性が必須の条件ではない。この人と人との関係がモノとモノとの関係に置換されることで、人はモノの背後に退き「匿名性」を獲得する。これが市場経済の自由であり、この自由が「ことば」の世界を通じて、一方では統治機構に、他方ではコミュニティのコミュニケーションに浸透した。仮想通貨はこうした意味での近代的な自由を再度市場経済の交換のメカニズムのなかで再生させようとする。現実の市場経済ではもはや不可能な市場の匿名性をサイバースペースで再度実現しようというわけだ。

こうした動きは、仮想通貨が依存する情報処理の世界が、国家の情報処理能力を高度化させて、「国民」と「よそ者」全体に対して、その管理をコンピュータの情報処理能力にあわせて高度化させていわゆる監視社会を構築してきたこと、市場では匿名の買い手が「誰」なのかを詮索する技術が高度化し、信用制度(クレジットカード社会)が現金取り引きの匿名の自由を抑圧して人々の「自由」を奪いはじめたこと、こうして市場の行動も市場外の行動も常に追跡可能で逃げ場がなくなる。国家がもつ分配の権力もまた、誰にどれだけ分配すればどのような権力作用が生じ権力の正統性を強化することに寄与するのかを詳細に計算できるようになる。(こうした「政治算術」の動機は近代の統計学ととも近代国家が本質的にもっている国民統治の欲望に根差している)仮想通貨を含む、サイバースペースのアンダーグラウンド経済は、こうした事態に対する近代的な「自由」の側からの反作用でもある。

3.8 自由と平等をともに実現する可能性

権力の情報処理技術が匿名性を奪う方向に進んだとすれば、その裏面で、同じ技術を匿名性の回復の方向で用いようとしたのが暗号技術だ。最大限必要な情報を網羅的に収集して解析する技術があるとすれば、それを回避できる技術を持つことによって、この網羅的な監視からの隠れ家を確保することで、この高度な監視技術から自分だけは逃れうるシェルターを権力者たちは欲しがる。国家も資本も網羅的に監視し情報を収集するが、自分だけはこの監視の対象にならず、人々にその正体を晒したくない、というわけだ。これはいたちごっこだが、この両面を国家と資本の権力は必要としてきた。これが情報処理技術を高度化させた。皮肉なことに、この網羅的監視は「技術」であり、コンピュータのプログラムに依存するから、一定の知識を持つものなら誰でも実現可能なものでもある。核兵器と違って、個人の手に届くところにある。机上のパソコンでも実現可能だ。仮想通貨は、この意味でいえば明らかに市場の匿名性を確保することを通じて、国家が貨幣を媒介に握ろうとしている市場への支配に対する防波堤を築く動機があるが、それはいわゆるネオリベラリズムの市場原理主義と一致するとは限らないし、投機の手段になるだけでもないし、闇の取り引き手段になるだけでもない、かもしれない。

仮想通貨が提起した問題は、自由と匿名性を再構築し、国家による一般的等価性への信認に代替できる中心を持たない分散的で国境を越えた信認のネットワークによって一般的等価性を構築できるか、という問題である。この問題に対して、更に、どのようにしたら、これに市場のメカニズムが平等に寄与し国家の後ろ盾を持たない生存の構造と調和するメカニズムへと転換できるか、という追加の問いを提起しなければならない。もしこれに市場経済が、たとえサイバースペースや情報処理技術を駆使しても満足な答えを出せないなら、市場経済を周縁に追放し(つまり近代国家をも追放することになるが)何か別の「回り道」を「ことば」の世界を駆使して編み出さなければならない。それなしに資本主義の次は見えないだろう。

(2018年2月20日ATTAC首都圏の連続学習会で配布した資料)

 

「新元号制定に反対する署名」 集めにご協力ください

仲間のみなさんへ★おねがい★「新元号制定に反対する署名」集めにご協力ください

2019 年 5 月 1 日の天皇代替わりにむけて、政府は新しい元号を 2018 年中に発表するとしています。

一昨年来、首都圏各地でさまざまなかたちで反天皇制の運動に取り組んできた私たちは、この新元号制定に反対する署名活動を皆さんによびかけます!

「昭和」の時代と比べれば、市民生活から元号は急速に姿を消しつつあります。インターネットでも元号不要論・不便論が公然と語られだしてきました。「最も生活に身近な天皇制」であるはずの元号と、民衆意識との乖離は着実に進んでいるのです。この天皇制の大きな弱点である元号制度を突くことを通じて、「終わりにしよう天皇制」の声を、共に、さらに広げていきましょう!

「8・8天皇メッセージ」から始まった「平成」代替わり反対闘争の重要な一環として、この署名運動に取り組んでいただけるようお願いします。目標は 5000 筆です。たくさんの仲間と共同できることを心待ちにしています。(2018/2/1)

1 署名を集めて、集約先 または 取り扱い団体 まで ご郵送 下さい
2 署名の取り扱い団体 (個人ももちろん可) になってください
新元号制定に反対する取組みをするチャンスは、そう何回もないと思います。運動の広がりを示
すために、ぜひ、皆さん自身が取り扱い団体・個人となって、署名集約のハブになってください。
3 街頭署名集めを計画してください
このテーマは街頭署名集めもしやすいテーマだと思います。ぜひ計画してください。一緒にやる仲間が見つからない方は、下記いずれかの連絡先までお気軽にご相談ください。
4 提出行動にご参加ください
署名の集まり具合や、新元号制定に向けた政府の動きなどを勘案して、内閣府に対して署名提出行動を行います。あらためて日程をお知らせしますので、ご参加ください。

署名用紙のダウンロード(PDF)

「元号はいらない署名運動」呼びかけ団体
■反天皇制運動連絡会
千代田区神田神保町 1-21-7-2A 淡路町事務所気付 hanten@ten-no.net
■「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会
横浜市神奈川区鶴屋町 2-24-2 かながわ県民センター9FレターケースNO.333
■靖国・天皇制問題情報センター 新宿区西早稲田 2-3-18-31 キリスト教事業所連帯合同労組気付
■天皇制いらないデモ実行委員会 立川市富士見町 2-12-10-504 立川テント村気付 tennoout@gmail.com

セキュリティのためにOSおよびソフトウェアのアップデートを――SpectreおよびMeltdownによるCPUのセキュリティホール問題――

JCA-NETのサイトから転載します。

セキュリティのためにOSおよびソフトウェアのアップデートを
――SpectreおよびMeltdownによるCPUのセキュリティホール問題――

インテル、AMD、およびARMのCPUチップの設計に問題があり、第三者がデバイスから個人データにアクセスし盗み出すことが可能であることが年末から年始にかけて相次いで報じられました。この問題は、いわゆるプログラムの「バグ」という問題ではなく、そもそもの設計にある欠陥だと言われており、20年も前から存在した問題でもあるとされています。

CPUはコンピュータの心臓部であり、その設計ミスからコンピュータが保有するパスワードや個人情報など機密情報を取得できる危険性があるということは極めて深刻な事態だと受けとめなければいけないと考えます。

しかも問題になっているチップは、ほとんど全てのパソコンやスマートフォンに用いられ、ウィンドウズ、マック、Android、Linux、iOSのいずれもがこの脆弱性に晒されています。

以下は、米国のシアトルに拠点を置く、アクティビスト向けにメーリングリストなどのサービスを提供しているriseupが、ユーザ向けに出したアナウンスをもとに、若干の追加情報などを含めて、今回の事態への対処をまとめたものです。

具体的に何をしなければならないのかが書かれていますので、是非参考にしてください。基本的に是非やっていただきたいのは、OS及びソフトウェアやアプリを最新のものにアップデートすることです。以下のriseupのアナウンスの後ろに若干の背景説明を追加しました。ぜひ御読みください。

JCA-NET 理事会
2018年1月10日

============================================================
(仮訳)Riseup Security Bulletinより

すでに報道を読んでいると思いますが、現在使用されているCPUには相互に関連する3つのセキュリティ問題があります。 これらの脆弱性は、アクセスしたWebサイトからJavascriptを読み込んだだけでも、あなたのコンピュータからパスワード、秘密、個人情報を盗む悪質なプログラムの可能性が高まります。 これらの脆弱性は深刻なものであり、ソフトウェアをアップグレードするための対策を講じる必要があります。

*「Meltdown」と呼ばれる一番目の欠陥は、ほぼすべてのインテルCPUに影響し、ほとんどのオペレーティングシステムのアップデートで修正されています。

*「Spectre」と呼ばれる他の2つの欠陥は、インテルだけでなく、過去20年間に構築されたほぼすべてのCPUに共通してみられますが、悪用は難しいとされています。 現在のところSpectreを恒久的に修正することはできませんが、ソフトウェアを更新することで攻撃の可能性が低くなります。

あなたのすべてのデバイスに対して、以下の手順を両方同時に実行すべきです。

(1)Webブラウザをアップグレードします(下記参照)。 これらの修正によって、CPUに対する新たな攻撃がより困難になります。

(2)オペレーティングシステムをアップグレードします。 Windows、macOS、およびGNU/Linux用のアップデートがあります。これらは、Intel CPUのMeltdownによる脆弱性を修正し、Spectreに対する若干の緩和措置を提供します。さらに、iOSとAndroidの新しいリリースではSpectreに対する緩和措置が含まれています。

オペレーティングシステムとソフトウェアについて、更なる修正が、今後数週間あるいは数ヶ月以内に継続して実施されると思われます。 あなたのシステムを最新の状態に保ってください!

ブラウザに関して
————

ブラウザを更新することで、アクセスしたWebサイトからロードされたJavascriptを使用して、攻撃者がコンピュータから機密情報を盗むことを極めて困難にすることができます。

Firefoxのバージョン57.0.4以降には、Specter攻撃への対策が含まれています[1]。

EdgeがSpectre攻撃を緩和する措置を含むように更新されました。 最新のWindows Updateを適用すると、新しいバージョンのEdgeが取得できます。

Safariによれば、Safariは近々更新される予定です。 App Storeのアップデートを確認してください。

Chromeは、バージョン64以降のSpectreに対する緩和措置が1月23日にリリースされる予定です。その間、「サイトの隔離」を有効にすることで、Specterの脆弱性を大幅に軽減するように設定を変更できます。
https://support.google.com/chrome/answer/7623121?hl=en

さらに、Webへのアクセスを安全に保つためのベストプラクティスについては、
https://riseup.net/en/better-web-browsing
を参照してください
(これらの新しい攻撃に対する軽減にも役立ちます)。

Windowsに関して
————

Windows 10の場合、Windowsをアップグレードする前に、最初にアンチウィルスソフトウェアをアップグレードする必要があります。 これをしないと、コンピュータが動作しなくなる可能性があります。 [2]

Windows 10をアップグレードするには:

> [スタート]ボタンを選択、[設定]> [更新とセキュリティ]> [Windows > Update]に移動、[更新を確認する]を選択。

自動更新を有効にする良い機会でもあります。以下のようにして自動更新を設定してください。

>「スタート」ボタンを選択、「設定」>「アップデートとセキュリティ」>「Windows Update」>「詳細オプション」を選択、「アップデートのインストール方法の選択」で「自動(推奨)」を選択。

Windows 7または8の場合もアップデートを利用できます。

MacOSに関して
———-

すでにMacOSバージョン10.13.2を使用している場合、Meltdown [3]に対しては保護されています。 それ以外の場合は、macOSをアップグレードします。

アップフレードの方法は、MacでApp Storeアプリを開き、App Storeツールバーの “Updates”をクリック、 “Update”ボタンでリストされたアップデートをダウンロードしてインストール。

自動更新を有効にする良い機会でもあります。以下のようにして自動更新を設定してください。

アップルメニューを選択、「システム環境設定」>「App Store」>「アップデートを自動的にチェックする」を選択。

AppleはSpectreに対していくつかの緩和策を提供するSafariブラウザのアップデートを近々リリースする予定です。

iOSに関して。
——-

Appleは、iOSがSpectreの影響を受けると述ベており、新らたな攻撃の大半を軽減するアップデートがリリースされました。 iOSバージョン11.2以降の場合、アップデートに対処されています[3]。

新規のアップデートを確認するには、[設定]> [一般]> [ソフトウェアアップデート]の順に選択します。

Androidに関して。
—————–

悪いニュースは、AndroidがSpectreに脆弱であることです。Googleブランドの携帯電話を持っていない場合や、カスタムファームウェアを実行していない場合には、何ヶ月も更新されない可能性があります。 しかし、現時点でセキュリティ研究者の間の共通理解は、Spectre攻撃はかなり困難だが、おそらくAndroidデバイスを侵害するより容易な方法はあるというものです。 どう理解したらいいでしょう?

これらの新しいCPU攻撃に対して、Androidデバイスをより安全にするために今できることが1つあります。

* Chromeで「サイトの隔離」を有効にする:https://support.google.com/chrome/answer/7623121?hl=ja
* 1月23日以降にChromeブラウザをアップグレードする。
*または、Android用Firefoxを使用する。

Debian / Ubuntu GNU / Linuxに関して。
—————-

「ソフトウェアセンター」または「ソフトウェアアップデータ」を実行します。

または、端末を開いて次のように入力します。
sudo apt update
sudo apt upgrade
sudo reboot

Fedora GNU / Linuxに関して。
————

端末を開き、次のように入力します。
sudo dnf –refresh (カーネルを更新するコマンド)
sudo reboot (再起動します)

安全性を保ち、強靭さを維持してください。
Riseup Birds

[1] https://www.mozilla.org/en-US/security/advisories/mfsa2018-01/
[2] http://www.theregister.co.uk/2018/01/04/microsoft_windows_patch_meltdown/
[3] https://support.apple.com/en-us/HT208394

以上riseupからの翻訳

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関連情報と補足説明

詳細情報が下記にあります。
Meltdown and Spectre
Bugs in modern computers leak passwords and sensitive data.
https://meltdownattack.com/
https://googleprojectzero.blogspot.com/

●日本語の記事が下記にあります。(日々更新されています)
JPCERT
投機的実行機能を持つ CPU に対するサイドチャネル攻撃
https://jvn.jp/vu/JVNVU93823979/

ZDNET Japan
CPUの脆弱性、Linux関係者らの見方や対応
https://japan.zdnet.com/article/35112767/
マイクロソフト、CPUの脆弱性問題で緩和策を緊急公開
https://japan.zdnet.com/article/35112758/?tag=mcol;relArticles
インテル、CPUに影響する脆弱性「Meltdown」「Spectre」対策でパッチを
公開
https://japan.zdnet.com/article/35112769/
CPU脆弱性のパッチ提供が本格化、Windowsはアンチウイルスの確認も
https://japan.zdnet.com/article/35112799/

CNET Japan
インテル、ARM、AMDなど多数のCPUに脆弱性–各社が対応急ぐ
https://japan.cnet.com/article/35112721/?tag=mcol;relArticles
プロセッサの脆弱性「Spectre」と「Meltdown」について知っておくべき
こと
https://japan.cnet.com/article/35112771/
プロセッサの脆弱性は全てのMacとiOS機器に影響–アップル、対策を公表
https://japan.cnet.com/article/35112791/?tag=cleaf_relstory_manual

ITpro(日経)
グーグルがCPU脆弱性の詳細を明らかに、Intel・AMD・Armが対象
http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/010402924/?ST=security&itp_list…
iPhoneやFirefoxでもCPU脆弱性問題、更新版の提供始まる
http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/010502927/?itp_leaf_cxpc
CPU脆弱性問題でAWSとAzureの対応状況が判明
http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/010402926/?itp_leaf_cxpc
インテル、CPUの脆弱性に「AMDやアームとともに対応」
http://itpro.nikkeibp.co.jp/atcl/news/17/010402925/index.html

●どのような脆弱性か

CNET Japanの記事「プロセッサの脆弱性「Spectre」と「Meltdown」について知っておくべきこと」では下記のように説明されています。

「セキュリティ研究者らが発見したこれら2つの重大な脆弱性は、攻撃者がプロセッサから読み取れないはずの機密情報を読めるようにするものだ。2つとも、プロセッサが一時的にチップ外で読み取り可能にする機密情報を攻撃者に提供してしまう。
プロセッサは基本的に、プロセスを高速化するためにコンピュータが次の機能を実行する上で必要な情報を予測する。これは「投機的実行」と呼ばれる動作で、この推測の段階で一時的に機密情報にアクセスしやすくなる。
1つめの脆弱性、Spectreを悪用することで、攻撃者はプロセッサに投機的実行プロセスを開始させることができる。すると、プロセッサがコンピュータが次に実行する機能を推測するために機密データを有効にし、攻撃者はこれを読めるようになる。
2つめの脆弱性、Meltdownは、「Windows」や「Mac」などのOSを通じて機密情報にアクセスできるようにする。Microsoftは3日、Windowsへの影響を緩和するセキュリティアップデートをリリースした。Appleは4日、「macOS」「iOS」「tvOS」向けに対策のアップデートをリリースした。また、数日中に「Safari」ブラウザ向けの修正も予定している。同社は今後も各OSへのアップデートを通じて対策を続けていくとしている。」

●なぜ20年間も放置されてきたのか。

設計上の問題をかかえたチップは20年前に遡ることができると言われています。この問題が当初から知られていたのに隠蔽されてきたのか、それとも気づかれないままだったのかなど、「謎」は今後解明されるでしょう。

しかし、明かに言えることは、今回のこのCPUの設計上の問題が明かになったのは2017年の4月であり、この段階で、この問題を明かにしたGoogleのセキュリティチーム、Google Project ZeroがIntelに報告していたにもかかわらず、それから半年IntelもGoogleもきちんとした対処をしてこなかったことです。この問題に対するパッチに関する情報がリークされ始めて、Apple、Linux開発者、Microsoftが脆弱性に対するパッチを急きょ準備することになった、というのがこの間の経緯とされています。(上記「CPUの脆弱性、Linux関係者らの見方や対応」参照)

この点について、Linuxカーネルの生みの親Linus Torvalds氏は次のように述べています。

「  私は、Intel社内の人物が時間をかけて、自社CPUを厳しい目で精査する必要があると考えている。そして、すべてが設計通りに動作しているといった広報用の文章を作文するのではなく、問題があるという事実を実際に認める必要があるとも考えている。..またこのことは、問題を軽減するためのこれらパッチが「すべてのCPUがガラクタというわけじゃない」ということを念頭に置いて記述されるべきだという意味を持っている。」

これがまさに、企業が自己の利益のためにセキュリティを放置するモチベーションの構造を端的に示しています。日本では誰もが知っている自動車から素材産業に至るまで頻発している製品基準の偽造問題と本質は同じなのではないでしょうか。

●実際のリスク、将来のリスクは?

現在まで、SpectleやMeltdownによる被害は報告されていないと繰り返し報じられています。このミスを利用することは技術的に困難であるとされる一方で、国家レベルのハッカーなら可能だともいわれています。そもそも、個人情報を盗み出したことをこの場合どうやって把握できるのか、把握できなければ盗まれたこと自体を認知することもできないのではなかとも思います。データロンダリング(違法に取得した情報であることを秘匿して情報を利用、転用、複製などすること)をされてしまえば、出所は明かにできず、外部に秘匿しての利用は、とくに国家ハッカーならありえます。金儲け目当てなら公然化するでしょうが、諜報機関は沈黙を守るでしょう。こうしたCPUの設計レベルで個人情報などの機密情報を取得しうるミスを「利益」と考えるのは誰か。このミスが文字通りの「ミス」なのか、それとも故意あるいは意図されたものなのか、この点も明確ではないと思います。後者であれば、これは設計ミスの問題ではなく、いわゆるバックドアの問題になり、企業犯罪あるいは権力犯罪の可能性すら出てくるかもしれません。

将来のリスクについては「高度な脅威アクターが近い将来、パッチが適用されていないシステムを悪用しようとすることに疑いの余地はほとんどない」(Juniper Networksの脅威研究の責任者Mounir Hahad、上記「CPUの脆弱性、Linux関係者らの見方や対応」から引用)とも言われており、こうしたリスクはほぼ確実だと思われます。地球上のほぼ全てのコンピュータのCPUに脆弱性があり、しかも、抜本的な解決(CPUをのものを取り替えることでしょう)は不可能であって、現在配布されているバッチも脆弱性を「緩和」するもので完全に回避するものではありません。

ゼロデイ攻撃というよく知られた手法があります。脆弱性が明かになった直後でまだセキュリティの対処が行なわれていない隙間を狙うもの。今回はこの格好のターゲットになるかもしれません。あるいは皆が忘れたころに、脆弱性を抱えた世界中の多くのコンピュータを利用した情報の盗み出しが密かに行なわれるかもしれません。これは私たちにとって無関係なことではなく、私たちが日常的に用いているパソコンや契約しているプロバイダなどのセキュリティの問題なのです。とくに多くの個人情報を扱っている市民運動団体や労働組合、弁護士事務所などのコンピュータのセキュリティを脆弱な状態にさらす危険性があることに十分留意して、最大限可能な対処をしてゆくことが必要だと思います。

(文責:小倉利丸 JCA-NET)

12月20日:私たちのサイバーセキュリティを! 共謀罪で萎縮しないための実践セミナー

★共謀罪の成立によって捜査機関は、従来ならば認められなかった「話し 合う」ことそれ自体を標的に、捜査活動を行なえるようになりました。

★かつて治安維持法の時代に捜査機関は、公然と姿を見せて威嚇したり、言論・表現の検閲をしました。
しかし、現代では、こうした弾圧の手法は氷山の一角となり、むしろ秘密裏にじっと私たちの日々の言動を監視し、情報を収集・蓄積する大規模な監視インフラに包囲されるようになっています。
捜査機関は、民間のIT産業も巻き込んで、コンピュータによるデータ分析を駆使し、私たちの正当な権利を犯罪化する巧妙な罠を仕掛けています。

★また、サイバー攻撃とかサイバーテロなどと呼ばれて世界中で起きている出来事の多くは、スノーデンが暴露したように、政府や大企業が自国にいる市民をターゲットにしているケースが少くありません。
この点でも、コミュニケーションの多くをネットに依存している私たちの日常生活は、自国の政府や企業からの攻撃に非常に脆く、防御の手段も知られていません。

★このような環境のなかで、共謀罪が成立したのです。
共謀罪では「話し合い」そのものを犯罪の証拠とします。
これは、明らかに、憲法が保障する言論・表現の自由や通信の秘密を侵害するものです。
私たちは、こうした権利侵害に対して、法的対抗手段だけでなく、もうひとつの権利防衛の手段をとることができます。
それが、技術的な権利防衛、市民のためのサイバーセキュリティです。

★この集会では、主に、コンピュータやネットを用いたコミュニケーションを防衛するために、私たちがどのような手段をとるべきなのかに焦点をあてて、具体的な実践につながるような議論をしていきます。

12・20 私たちのサイバーセキュリティを! 共謀罪で萎縮しないための実践セミナー
▼日 時:2017年12月20日(水)18時30分
▼場 所:文京シビックホール 1・2会議室(3階)
東京メトロ「後楽園駅」丸ノ内線(4a・5番出口)南北線(5番出口)徒歩1分
都営地下鉄「春日駅」三田線・大江戸線(文京シビックセンター連絡口)徒歩1分
JR総武線「水道橋駅」(東口)徒歩9分
地図→http://www.city.bunkyo.lg.jp/shisetsu/civiccenter/civic.html
▼資料代:500円
■お話し:小倉利丸さん(批評家)
共謀罪に対抗して私たちの自由を防衛するためのサイト:
https://antisurveillance.researchlab.jp/
著書:『絶望のユートピア』(桂書房)
共著:海渡雄一『危ないぞ共謀罪』(樹花舎)
▼主 催:共謀罪NO!実行委員会(連絡先:090-6138-9593)
https://www.kyobozaino.com/

12.20集会チラシ↓
https://www.kyobozaino.com/app/download/13901947029/12.20%E9%9B%86%E4%BC%9A%E3%83%81%E3%83%A9%E3%82%B7.pdf?t=1511931359

プロプライエタリ社会をハックする:WindowsとMacから離脱して新年を迎えるために

自由のための道具とは――Linuxを支えたオープンソースとフリーソフトの思想

日本のほとんどのパソコンのOSは、WindowsかMacの二つの選択肢しかないと思わされている現実があります。しかし、Linuxという第三の選択肢があることは「聞いたことがある」けれども、パソコンショップでもネット通販でもほとんど見かけないし、難しいらしいとか、使い勝手が悪いなどという流言蜚語やフェイクニュースによって、事実上選択肢から外されるということが今に至るまで続いています。反グローバリズムのアクティビストたち、国家と権力にはとことん抗いたいアナキストたち、なによりも個性が最大のアイデンティティであるはずのアーティストたち、皆が、我慢しながら、多国籍企業の金儲けの産物で、政府の監視の手先にもなり、個性のカケラモないステレオタイプのデスクトップを押し付けるWindowsやMacを使ってきたとすれば、今年を最後に、この抑圧からおさらばしましょう。

年末の「プロプライエタリ社会をハックする」は、WindowsとMacのプロパガンダを解毒する2時間を提供します。Linuxやオープンソース、フリーソフトの提唱者たちの哲学や実践を描いたドキュメンタリー映画『レボリューションOS』を素材に、今年をWindows最後の年に、マックとの別離の年にしたいと思います。覚悟を決めて、パソコンを是非持参してください。

なお、参加者には来年の解放に向けたプレゼントを用意します。お楽しみに!!

日 時:12月8日(金)19:00~21:00
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
サポーター:小倉利丸、上岡誠二

二つのアピール:終わりにしよう天皇制11・26集会アピール/天皇主義右翼による、立川テント村宣伝カー破壊を許さない。 暴力に萎縮せず、反天皇制の声を大きく上げよう!

以下、二つのアピールを転載します。言論表現の自由は、日本において、戦前も戦後も「天皇制」を否定する言論に対して、最低限の公正な議論の場が与えられることは本当に少なかった。戦後においても、マスメディアは敬語報道を自らの報道規範としてきたし、文学であれ美術であれ、多くの天皇制をめぐる表現が自粛やあからさまな規制、検閲をくりかえし受けてきた。(アライヒロユキ『天皇アート論』社会評論社など参照)代替わりの議論でも、天皇制を選択肢にしない統治機構の可能性という議論は当然のようにして除外されてきた。改憲論議もまた、天皇条項がいかに他の条項と整合しないかを論じて、1章は削除すべきで憲法前文から2章(9条)へとつながる論理の方が合理的だというような議論すらでてこない。こうしたなかで、私も含めて、天皇制は不要であるという主張は、あきらかに少数派だが、そうであるからこそ、こうした言論を権利として保障できるかどうかが、この国の言論表現の自由で試されていると思う。


終わりにしよう天皇制11・26集会 集会アピール

天皇教という言葉もある通り、天皇一家の宗教としての振る舞いは、これか
ら予定されている代替わり儀式において、もっとも濃密にあらわれる場面とな
る。メディアに映るのは民衆の素朴な信仰を装っているが、天皇教はあまたの
宗教と違い当たり前のように公共予算を食いつぶす。法律(憲法)によって存
在を許されながら、その法律を無視し、ゆがめ続けることも天皇の十八番であ
る。2016年7月から始まる「生前退位」騒動は、代替わりを円滑に進めようと
いう天皇と支配層の都合ばかりが通りすぎている。特例という名の茶番は、天
皇制自体がかかえ持ってきた混乱でしかないことを思い起こすべきだ。
この宗教の原理主義者というべき人たちは長い間、「日の丸・君が代」をは
じめとする選別の道具を用いて、異端をあぶりだしては、官民あわせたむき出
しの暴力をちらつかせてきた。
一方、今の天皇は原理主義色を薄めることも意図しながら、被災地を含め少
数派と思しき人々への「慰問」に精を出し、より幅広い信仰のすそ野を広げよ
うと「仕事」してきている。今回オリンピック開催を前に譲位しようとする天
皇の意図も、穏健さの表れとして好意的に解釈されがちだ。しかしその作業は、
身分等の差別を含んで広がる格差をあたかも平らに地ならしするように装いな
がら、その作業をする天皇自身は、格差の頂点あるいは格差の枠外に座り続け
るという理不尽をあらわしているのである。
もちろん日本の中だけでない。アメリカからやってきたトランプのような乱
暴な人気取り差別主義者でさえ、天皇一家の儀礼的空間をくぐれば、彼の犯罪
性を薄めるかのような政治的効果を生み出したりもする。天皇は、かつて自分
の親たちが侵略戦争でアジアの地を血で染めたことを原理主義の行き過ぎとし
てしか顧みないのだろうか。近い将来、短絡的で好戦的な支配者たちが朝鮮半
島で一線をこえることがあれば、天皇たちは静かなお墨付きを与えるのだろう
か。
今、代替わり儀式のみならず、天皇のあり方を問うこと自体に委縮する状況
ではある。これまで述べてきたような「平和天皇」の姿は、天皇制に異を唱え
る存在に対する右翼の暴力と、それを黙認する警察によってはじめて成り立っ
ている。このことを放置し看過すれば、表面的な政治変革さえまっとうされな
いし、格差の下層におかれた人々が孤立した末に天皇教のようなまがいものに
しか希望を見いだせないという悪循環が続くことになってしまう。
天皇代替わり儀式は、そもそも血縁が(男子を通してのみ)長い歴史を経て
続くという天皇一家の宣伝の場であり、いつわりの権威づけの核心でもある。
その思想のために、どれだけの性差別と、優生思想とが生み出され、どれだけ
の生身の人間が絶望の淵へと追い込まれたことか。結集された怒りこそが天皇
制、天皇制的なものを終焉に追い込み、真に素朴な関係性で人が生きる社会へ
と展望を開くだろう。
天皇制はいらない! 天皇制を終わりにしよう!

2017年11月26日  集会参加者一同


※なお11月23日、本日デモで使用予定の宣伝カーを右翼が襲撃破壊した件についての声明

天皇主義右翼による、立川テント村宣伝カー破壊を許さない。
暴力に萎縮せず、反天皇制の声を大きく上げよう!

11月23日、陸上自衛隊立川駐屯地で行われた「防災航空祭」に抗議していた、
地域の反戦・反基地団体「立川自衛隊監視テント村」の宣伝カーが、街宣右翼
によって1時間にわたる攻撃を受け、フロントガラスやサイドミラー、ランプ
などが破壊されるという事態が起こった。
テント村の宣伝カーは、昨年11月20日の吉祥寺で行われた「天皇制いらない
デモ」でも襲撃・破壊されている。今回も襲撃者が「去年今年とよく壊れる車
だなあ」「26日はこんなもんじゃねえぞ」と口にしていたことからも明らかな
ように、右翼の目的は、反基地運動に対する襲撃であると同時に、明日、11月
26日に私たちが行なおうとしている「終わりにしよう天皇制 大集会・デモ」
への攻撃であったことは明らかだ。同宣伝カーが、この間の反天皇制デモの先
導を務めていることを知った(知らされた?)右翼が、この宣伝カーを狙い撃
ちにしたのである。今回、とりわけ防災航空祭抗議行動の終了後、撤収中の宣
伝カーを街宣車で取り囲んで執拗に襲撃したことは、それがたんに偶発的な事
態ではなく、 きわめて計画的な犯行だったことを物語る。さらに、私服公安
警察や立川署警備課の警察官も、目の前で起こっている破壊行為を黙認してい
た。天皇主義右翼と警察とが馴れ合って、白昼堂々、好き放題の蛮行がなされ
たという事実を、私たちは決して許さない。
こうした天皇主義者による暴力、それは「平和天皇」「護憲天皇」と賛美さ
れ、いわゆる「リベラル」層からも評価の高い明仁天皇制もまた、現実には暴
力によって支えられていることを明らかにする。
世襲の君主という特権身分が「日本国および日本国民統合の象徴」として据
えられている。この天皇制という差別的な制度の存在自体が、「絶対敬語」や
「人格賛美」を通じて、特別な存在に対するタブー意識を日々作り出し、天皇
制の前には私たちの人権や権利は制約されてもやむを得ない、とする感性を生
み出す。右翼の暴力は、間違いなくそのような意識の上に乗って存在し続けて
いるのだ。
右翼暴力の目的は運動を萎縮させることにあり、警察もまた右翼暴力を利用
して運動に介入しようと絶えず目論んでいる。だからこそ私たちは、いま、敢
えて天皇制反対という声を明確に上げていかなければならない。
「終わりにしよう天皇制 大集会・デモ」(11/26 13:00 千駄ヶ谷区民会
館)に結集し、各地域・現場で反天皇制の声を上げていこう。

2017年11月25日
終わりにしよう天皇制11・26集会実行委員会
東京都千代田区神田淡路町1-21-7-2A
ゴメンだ共同行動気付

*テント村へのカンパを!

立川自衛隊監視テント村
立川市富士見町2-12-10-504 042-525-9036 tento72@yahoo.co.jp
カンパ振込先⇒郵便振替00190-2-560928(口座名「立川自衛隊監視テント村」)

プロプライエタリ社会をハックする ―暗号化とオープンソース

プロプライエタリ社会をハックする ―暗号化とオープンソース

文学がソースコードで、絵画が暗号化された文学だとしたら、暗号について考えることは芸術を知ることなのかもしれません。

☆今回のセミナーは、ファイルの暗号化とオープンソースをテーマに行います。

●ファイルの暗号化
名簿や経理・会計などのデータ、あるいは人には見られたくない写真や文章や動画。パソコンやスマホはこうしたプライバシーデータの宝庫でもあります。こうしたデータを第三者に覗かれないための最も有効な方法は、データを暗号化してしまうことです。ファイルの暗号化は比較的簡単にできるので、暗号化ソフトの導入を実際にやってみます。やることは次の二つです。
– 自分のパソコンやスマホのファイルを暗号化する
– ProtonMailを使ったメールサーバの暗号化とその活用
暗号化されたデータをメールでやりとりするための公開鍵暗号PGP/GPGの導入はちょっとややこしいのですが、その考え方や思想は重要なので今回は概略だけ触れます。

●オープンソースについて――Linuxをちょっとだけ
自分が使っているソフトが本当に自分のプライバシーを保護してくれているのか、自分の意図しない振舞いをしていないか、政府や企業に密かに自分のデータを漏洩させていないか、こうしたことを確認する唯一の手立ては、プログラムのソースコードが公開され、コミュニティによって検証されていることです。オープンソースはこうしたソフトウェアの公開性の基本的な考え方で、プログラムを企業秘密にしたり著作権を設定して第三者に公開することを拒む考え方とは真逆のものです。このオープンソースの考え方と、この考え方に基いて開発されてきたLinux OSを紹介し、WindowsやMacからの乗り換え作戦の第一歩を参加者のみなさんと議論します。

日 時:2017年11月17日(金)19:00~21:00
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
サポーター:小倉利丸、上岡誠二

共謀罪と無差別監視社会

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<共謀罪と無差別監視社会>

自由なコミュニケーションを手放さないために、
ネット社会の通信の秘密はどうあるべきか?
私たちにできる対抗手段を考えよう!

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★お話と実践:小倉利丸さん(批評家)
★日時:2017年10月20日(金)18:30
★場所:かながわ県民センター1502号室 参加費:500円
★対抗手段、レクチャーします。
ノートパソコン、スマートフォンをお持ちください。
★主催:共謀罪と監視社会を考える会(090-6138-9593)

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共謀罪は6月15日に強行成立、7月11日には施行されました。
今後、私たちは共謀罪のある社会で暮らし、活動していかなけ
ればなりません。未遂以前の話し合うことを処罰する共謀罪を
立証するために、治安管理と称した個人や団体活動の情報収集
が行なわれるようになると思います。
スノーデンの暴露によってNSA(米国安全保障局)が情報監
視システム「エックスキースコア」を世界中に張り巡らし、メ
ールや通話の情報を大量に収集していたことが明らかになって
います。
私たちはSNS(ソーシャルネットワークサービス)を使って
メールやツイッター、フェイスブックで運動を広げてきました。
ネットや携帯電話を使ってのコミュニケーションは欠かせなく
なっています。これまで以上の市民監視が常態化することへの
不安はありますが、小倉利丸さんは「メゲてる場合ではない、
通信の秘密を侵害されないように一人ひとりができるセキュリ
ティ防衛手段はある。プライバシーを守り、自由を獲得するた
めに、ネット上で戦うハッカーたちの作り出したオープンソー
スのソフトウェアーやサービスを使うことを共に学び、私たち
のあたりまえの〈コミュニケーション〉を取り戻そう。」と言
います。 萎縮せず活動を続けていくために、私たちにできる対
抗手段を考えていきませんか。
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全てを疑ってみたいと思う

1 選挙なのだが….

安倍だけが問題なのではなく、安倍政権を支持する「国民」が多数を占めているこの国の「世論」が問題だと思うのだが、こう言うと、投票率の低さからみて、安倍の支持率は過半数にいかないではないか、選挙区の区割りや定数格差などの事情を考慮するとますます安倍支持は少数ではないかという反論がありうる。そうかもしれないが、私は悲観論者なので、むしろこう言いたい。

そもそも、選挙に行かない層は、行く必要性を感じていないわけで、選挙に無関心である理由のなかで、考えられる理由いくつかありそうだ。一つは、現状の政治に特に異論を唱えなければならないほど切実な危機感や批判意識を抱く必然性を実感していないということではないか。この場合、同じような環境にありながら、ある人々は危機感や批判意識をもち、別の人々はむしろ権力に同調し、更に最も多数を占めるかもしれない人々は無関心であるというように、異なる考え方をもつのはなぜなのか、という問題に私たちなりに答えを探さなければならないだろう。

安倍政権が(あるいはより本質的には戦前戦後一貫してなぜ保守・右翼が政権を維持しつづけているのかという問いについての最も簡単で(ある意味では安直な)こたえは、権力の真実を隠蔽するまやかしに多くの人々が騙されているから、真実を暴けば人々は権力の正体に気付き、反旗を翻すはずだ、というものだ。騙される大衆と、この騙しに乗らないで真実を見抜く「私たち」という図式は、あきらかに傲慢だ。なぜ「私たち」は真実を見抜くような才能を身に付けられたのか?あるいは「私たち」の主張が真実であり、大衆の考え方が騙されたものだという根拠はどこにあるのか?人々はそれほどにも愚かであるという傲慢さに少なくとも私は不快な気分以外のものを感じない。

そもそも私たちは真実を体現するなどという大それた存在ではない。むしろ私たちが熟考しなければならないのは、彼らの「正しさ」と私たちの「正しさ」といった複数の正しさがあるということを前提とするか、あるいは、私たちの正しさが本当に正しいのかどうかを反省することだ。もちろんこの反省が、彼ら権力者の正しさへの屈服を意味するなら、それは思想的にも生き方としても敗北の宣言をして転向することを意味するが、そうではなく、彼らでも私たちのこれまでの思想でもない、未だ見出せていない「正しさ」を模索すること、という第三の道もありうるということである。

1.1 大海の一滴にすぎない「1票」のもつ意味

もう一つは、選挙で投票する票の効果は、何万という票のなかのたった1票にしかすぎないという諦めがあるかもしれない。この諦めは、理解しやすいようにもみえる。しかし、膨大な人口を選挙の母体とする近代国民国家の代議制は、その当初から、大規模な有権者のなかのたった1票しか割り当てられていない個人から成り立ってきた。自分の1票がほとんど体制に影響しないことは常識でもわかる。しかし、そうであっても多くの人々は選挙に出向いてきた。それがある種の「義務」の意識からくるものだとは思えない(棄権することにペナルティは課せられないからだ)。ではなぜ1票の無力さよりも1票に多かれ少なかれ期待を寄せる心情を抱くのか、ということの方が説明を要するだろう。

投票することが実際に政治を動かすだけの効果をもつと実感されるためには、自分の票が個人としての票ではなく、自分が帰属すると感じている社会集団の票と一体のものとして自覚できるかどうかにある。こうした集団的なアイデンティティは、伝統的な社会関係でいえば、一方での地域コミュニティへの帰属意識、他方で労働組合や企業への帰属意識など、いずれにせよ集団への帰属と「票」が密接に関わってきたようにみえる。これは今でも、選挙をめぐる投票行動の分析の基本条件をなすが、「無党派」と呼ばれたりする層は、こうした社会集団の政治的な機能とは直接の関係意識をもたないために、個人としての意識=わたしの1票のむなしさ、無力感がより強いかもしれない。

1.2 階級的アイデンティティ

もうすこし教科書的にいえば、「革新」を支えてきた投票行動の背景には、広義の意味での階級意識の存在があったということだ。労働運動だけではない多様な社会運動を背景としながら、自民党や保守との価値観の相違が理屈ではなく、ライフスタイルの一部として存在していた。だから、一方で労働者階級の政治意識が、他方で、資本家の政治意識が、相互に集団的な対立の構造の意識的な受け皿として個人レベルでも実感しうるものだったのではないか。この個人の実感を社会的な階級意識へ媒介するところに政治集団としての「党」が機能していた。党に帰属していないとしても、いわゆる「支持政党」と階級的な帰属意識との間に、安定した持続的な繋がりが自覚されてきたように思う。人々の集団的な意識は階級に還元されるわけではなく、家族、地域、友人から国家への帰属まで、様々なアイデンティティの集合であるが、そのなかで、階級意識と「国民」としての国家への帰属意識は人々が政治的な価値判断をもつときの最も影響力の大きな要因であったという時代が、多分、20世紀の半ばころまでは見られたように思う。社会制度の側面でいえば、労働運動や労働組合に集約され、これらを母体とする左翼政党と資本家階級の意識を体現する経営者組織に集約される保守政党であり、後者が主として国民国家の権力を握るという構図である。

2 「外部」あるいは「瑣末」な存在の重要性
2.1 核心としての「外部」

この構図は、便宜的に階級社会論などとして単純化されて論じられる場合の「骨組」のようなものだが、この構図が重要なのは、二大階級の図式に還元することのできない、その外部がこの階級社会の構造を常に不安定、不均衡な状態に置く主体として存在してきたという点にある。この外部というのは、実は言葉の便宜的な表現上の都合(私の表現力のなさに結果)でしかなく、実際には外部どころか、それ自体が社会の核心をなすといってもいい条件である。

社会システムが安定することのない不均衡を常態とするのは、社会システムと不可分であり不可避ですらある条件が社会システムの内部ではなく外部に存在するという奇妙な構造をもっているところにある。「社会とはこれこれの仕組みをもっている」という説明によって理路整然と社会が説明されるとき、社会が抱える本質的で避けがたい深刻な問題は、このような理路整然とした説明のなかでは瑣末な要因として軽視されて切り捨てられる。むしろこうした意味での切り捨てられた外部から社会が抱える矛盾が噴出する。「瑣末」というのは、こうした要素を軽視あるいは無視しうるとみなすことだが、社会である以上、この「瑣末」とみなされる要素を構成しているのは、これもまた人間集団である。そして、この人間集団もまた「瑣末」なもの、どうでもよいもの、社会にとって存在してもしなくてもよいものという位置付けのなかでほったらかしにされるわけだが、そのことが結果として、社会システムそのものを不安定にし、矛盾や危機を生み出すことになる。

2.2 「外部」の内部化

他方で、社会の支配的なシステムは、主要な(瑣末とはいえない)対抗的な社会集団を現にある社会システム(資本主義)の維持を前提として、その内部に取り込むことによって制度の安定性と支配の覇権を維持しようとする。有力な対抗的な社会集団による問題提起は、社会問題化されやすいから、これを制度内改革を通じて、制度の維持が可能な範囲に問題解決を抑えこむ。19世紀であれば、標準的な労働時間の法制化、児童労働の禁止などから男性の普通選挙制度の導入、19世紀末のいわゆる社会保障制度の導入などがこうした枠組によって説明できる。その結果として、労働運動の主流は、体制変革の運動(社会主義、共産主義、無政府主義の運動)ではなく、資本主義の制度を前提とした改良主義へと転換してゆく。こうした問題の枠組では、女性であること、有色人種であることなどの属性は重要な主題とはならない。皮肉なことだが、階級的な敵対関係を資本主義の内部に包摂する仕掛けは、階級闘争を通じて、この闘争を教訓として資本の自衛戦略として編み出されてくる。

同時に、こうした主流の運動の周辺に―つまり外部に―主流の運動に包摂しえない社会集団が登場する。改良を否定してあくまで資本主義を打倒しようとする運動ばかりではなく、そもそも運動の内部では十分な認識を獲得できていない課題をになう社会集団が、運動が事実上無視してきたことへの批判も含めて、運動<論>の再構築を要求するようになる。こうなったときに初めて、社会システムの「主流」をなすと自認してきた主流の社会諸集団の側が、この「瑣末」な社会集団の存在に気づいて、資本家と対決する上で利害を共有しうる存在として認知するか、あるいは逆に、敵対的な関係へと追いやってしまうかの選択を迫られることがある。1支配者達もまた、この「瑣末」な集団をどう扱うべきか、扱いかね、あるときは社会システムに影響を及ぼさないところにまで放逐しようとしたり、逆に自らの利害損得を計算しながら、自らの集団の内部に「下位集団」として組み込んで懐柔すようとする。こうして外部の「瑣末」な社会集団は、内部化されるか放逐されて、社会は再びある種の均衡や安定を実現したかにみえる。2また再び、今まで想定していなかったか薄々気付いていても「瑣末」な事として無視してきた社会集団がまたぞろ登場し、上で述べたことと同様の揺らぎをもたらすことになる。

2.3 外部の「瑣末」な社会集団とは実は内部の社会集団そのものなのだが

上で、便宜的に「外部」の「瑣末」な社会集団と述べたものは、実は、文字通りの意味での社会の外側にある何者かを意味するわけではない。それは、社会を構成している人々そのものである。人々は、複数の社会集団に所属し、複数のアイデンティティを持つ。労働者階級という概念があたかもある個人が、その存在の全てにおいて労働者階級に帰属する存在であるかのようにみなすが、実際には、家族のなかでは親族システムのなかの一定の位置付け(妻とか夫とか)に即した役割りを担うし、地域社会や友人関係、学歴もまた、それぞれに固有の人間関係を形成する。そして、誰もが国籍を付与されることによって、「国民」としての義務や権利、アイデンティティを持たざるをえないものとして教育される。ラディカルな労働運動の活動家が家族やジェンダーの価値観においては保守的な家父長制的な価値観をもっていたり、民族差別意識をもっていたりすることは決して矛盾ているわけではない。たとえ革命家であっても、ありとあらゆる側面において革命的なわけではない。支配的な変革の理論や思想が、「革命的」とかラディカルとする枠組においてそうなだけである。そして、こうした変革のための思想や理論が人々に提起する世界観や社会認識が、資本主義批判にとって主要な課題が何であるのかの指針を与えるから、こうした理論がまた、どのような事柄が「瑣末」なのかについてのお墨付きをも与えることになる。

しかし、「瑣末」な外部による、主流の社会関係への介入と異議申し立てを通じて、こうした存在を正当に再評価して、社会変革にとって重要な主題であることを再認識することによって、理論や思想が自己批判的な再構築を試みることができるかどうかによって、運動を担う人々が共有する社会批判の枠組にも影響をもたらすことになる。言い換えれば、理論や思想がいつまでたっても自己批判できず、理論が「瑣末」としてきた事柄の再評価を阻むのであれば、運動もそれを支える世界観も変らない。せいぜいのところ政策的な課題として表層的に(選挙の票目当ての公約のように)処理されるだけだろう。

上で述べた「瑣末」とか外部というのは、それぞれの個人が自分自身の中に持っている複数のアイデンティティのなかにありながら、社会認識の理論や思想によって、下位に位置づけられているアイデンティティである。

3 伝統的な社会批判の限界
3.1 例えばジェンダーという課題と階級闘争という課題はどこで交差するか

たとえば、伝統的な資本主義社会の批判的な分析では(マルクス主義の教科書的な理解をイメージしていただけばいいのだが)、社会集団は上で述べたように労働者階級と資本家階級という階級概念で括られるものとして理解された。この理解のなかで、資本主義の基本的な矛盾や問題が論じられることになる。支配者の側にあっても、経済であれ政治や法律であれ、資本主義を肯定することを前提とした社会理論の体系が構築され、実務的な政策が策定される。人間とか労働者とか資本家とか国民といった概念が繰り返し登場するが、これらが明示していない属性がいくつもある。例えば性別は明示されない。明示されないという意味は、性別という要素が「瑣末」であって、無視してよいからだ。社会問題の主要な課題ではない、ということの表明である。資本主義社会の問題を解決する上で中心に据えられるべきなのは、階級闘争であり、人々は労働者階級としての集団性によって代表することができるとみるわけだ。あるいは、階級闘争によって性差別の問題も解決可能であるとみなす。なぜなら、女性労働者もまた女性であるよりも労働者であることの方がより重要な社会的な属性であるとみなして、労働者階級に帰属するものであり、労働者階級の解放はそれ自体が人間の解放を意味するのだから、女性もまた人間である以上、人間として解放されれば女性に関する問題もまた解決されるハズであるということになる。

同様のことは、人種差別などその他の社会問題にも共通していえることだ、というのが階級社会一元論の観点である。しかし、こうした一元論は、ジェンダーの問題を解決できなかった。なぜならば、階級社会論には家族や世代的再生産、あるいはセクシュアリティの問題を捉える枠組がないからだ。もし、家族やセクシュアリティの問題を含めて、再度「社会」の枠組を捉えかえすということになった場合、ジェンダーの問題と階級の問題をどのような関係として、あるいは解決されるべき優先順位の問題として理解すべきかということへの答えが要求されることになる。

階級と民族、階級とエコロジーなど、19世紀以降階級闘争として構築されてきた社会運動の基本的な枠組を揺がす課題が、とりわけ20世紀後半から現代まで、一貫して増殖しつづけてきた。しかも、冷戦の終結と20世紀の社会主義(それがその名に相応しいものかどうかも含めて)の敗北によって、階級闘争の思想的理論的な正統性への信頼が大きく揺らいだ。その結果として、社会主義という選択肢が非現実的なものとみなされ、それが新自由主義のなかで、福祉国家やいわゆる混合経済体制すら選択肢ではないかのようにみなされるという閉塞状況が生まれた。他方で、これまで選択肢としてはありえようもない宗教的原理主義(イスラームだけでなくレイシズムを伴うキリスト教、天皇主義、ヒンズー教、仏教まで広範に拡がっている)というイデオロギーの新たな形態が無視できないものとして登場してきた。これは、近代資本主義が非世俗的資本主義というこれまで「瑣末」だとみられてきた資本主義の選択肢が無視できない力をもってきたことを示している。

資本主義を擁護するビジネスの理論もまた、企業の収益が最大化することが社会の幸福と同義であるとみなして、社員が企業組織の人的資源として最大限に活用しうる条件を論じるが、ここでもまたジェンダーや民族の問題は、「瑣末」なものとみなし、これらに関わる差別の問題も軽視する伝統が長く続いた。ビジンネスにとって、無視できない最大の障害は労働運動あるいは階級闘争や社会主義、共産主義のイデオロギーであったから、これらに対抗できる組織と思想を構築することに最大の関心を抱いてきた。

3.2 「外部」の闘争こそが社会を不安定化させる

こうした事情が20世紀の後半以降徐々に変化してきたことは、私たちが直接経験してきたことでもある。女性や性的マイノリティ、少数民族の社会的な差別の問題を放置できなくなった背景にあるのは、階級闘争の主流派の主体が、こうした問題を階級闘争として組み込んだからではなく、伝統的な闘争の枠組の外部に、新たな主体として階級に還元できないアイデンティティを前面に押し出す社会集団による闘争が登場したからだ。こうして、闘争の主体は、複数の社会集団として登場することになり、階級闘争の図式に還元できないより複雑な社会の不安定性が重要な課題となる。3

こうした集団性の解体が、よく言われるように、階級意識の解体を招いたが、これに代替する資本主義に対抗しうる社会的に多数を占める人々をまとめる集団性のアイデンティティは今に至るまで見出されていない。しかし、様々な異議申し立てのアイデンティティを基盤にした運動が錯綜しながら相乗効果をもたらす場合がある一方で、日本のように、相乗効果が発揮されるのではなく、人々が集団性を資本(企業と消費市場)と国家(ナショナリズム)と家族に収斂させる傾向が濃厚となる国もある。私たちの課題は、こうした制度の周囲に構築されてきた支配的な対抗軸の外に、新たな「外部」を構築することである。そしてその「外部」が資本主義の制度に内部化されることも排除されることも拒否することとはいったいどのようなことなのかを模索することを行動と思想の両面で実践することではないだろうか。

危機感も批判意識も、日常生活のなかの私的な会話や愚痴の類いではなく、より積極的に自らの心情の表明のレベルにまで達することがなければ、投票という些細な行動であっても、行動には結びつかない。こうした意識が促す現状維持を消極的あるいは受け身であれ否定することを含意するものだから、変化への期待や可能性を前提とする意識ということになる。危機感や批判意識の欠如は、断念、諦めによる現状甘受の心情でもある。この心情は容易に、外部の敵への感情的な憎悪によって、抑圧を解除しようとする。だから、棄権した有権者の大半は、安倍に対する潜在的な支持層である。なかには、投票したい候補者がいないとか選挙はそもそもナンセンスであるという人たちもいるだろうが、とりわけ、左翼やアナキストの信条から選挙を拒否するという人たちはごく少数に違いない。

だから、この国の多数は、安倍政権に肯定的だと推測することの方が合理的だと思う。このような理不尽な政権を肯定するなどということがどうしてありえようか?と批判的な私たちはつい考えてしまうのだが、ここで立ち止まって考えなければならないのは、私たちにとっての正しさがなぜ、多数の人々にとって受け入れうるものになっていないのか、である。

脚注:

1

例えば、普通選挙権を要求する運動は、無産者の選挙権を要求するという場合も、男女ともに選挙権を要求することが実現性の困難な場合に、男性無産者にまず選挙権を与える方向で運動の方針を立てると、女性の選挙権を要求する運動とは対立することになる。しかも、有産者の女性にまず選挙権を与え、既存の有産者男性の選挙権の制限を解除しようという女性の参政権運動は、労働運動や無産者運動からは階級的に敵対するものとみなされることになる。一般に、改良主義や漸進的な改革運動は、こうした相対立する選択肢に直面したとき、その世界観や価値観が問われることになる。

2

ここでは労働運動を例に出しているが、現代でいえば、正規の常用雇用の労働者に対して非正規の労働者の運動といった事例を挙げられるかもしれない。あるいは、戦後の世界でいえば、米国の公民権運動、植民地解放運動から移民の運動、いわゆる「68年」の運動、そして、現在欧米世界で最大の問題になっている難民の問題、あるいは、そのアイデンティティが軽視されてきたムスリームというアイデンティティ(冷戦期の左翼がイスラム世界を宗教的文化的なアイデンティティの問題として重視してきたことはほとんどない)などなど。いずれもかつて「瑣末」あるいは外部とされてきた社会集団がむしろ社会の主要な運動の主体となるというケースである。

3

階級闘争が主役を担っていた19世紀から20世紀にすでに女性解放運動はあったし、こうした運動が階級闘争との緊張関係をもってきたことは知られている。また、階級闘争の基本的な社会経済構造の前提が、都市の工場労働者と大資本との対立に置かれているとき、その外部に無視できない闘争の主体が登場する。農民や小規模自営の貧困層である。これらをプチブルとみなして資本家階級の下位集団と位置付けるのか、それとも労働者階級の同盟集団とみなすのかは、古典的な階級社会論では一義的な説明ができない。19世紀から20世紀にかけて、資本主義化が進む諸国では、この農業・農民問題が重要な課題となり、また、革命後のロシアにおいても社会主義建設の難問が農業問題であったのは、そもそもの資本主義批判の枠組に非工業セクターのなかでも重要な位置にあった農業部門をきちんと位置づけることができなかったからだ。同様に、性別の問題、とりわけ女性をめぐる問題は、労働現場に還元できない家族の問題を含み、家族の問題は世代的再生産の問題と不可分であるから、ここでもあまた階級という観点の外部が問題の核心をなしていた。家族の問題とはとりもなおさずプライベートな問題として公的な問題から排除され、伝統的な労働運動にとっては主題とはならなかった。しかし、このプライベートとされる問題が人口と<労働力>の再生産に関わるという意味でいえば最も「公的」な領域でもあるという逆説をともなうのだが、こうした家族の問題が政治的社会的な問題として自覚されるようになるのは階級闘争や労働運動ではなく、その外部にあったジェンダーの運動だった。

 

カタルーニア独立投票におけるスペイン政府のネットシャット ダウン

スペイン警察による独立投票の弾圧について、投票所周辺への機動隊などによる暴力行為は日本のメディアも報じていますが、インターネットがシャットダウンされたことについてはあまり詳しく報じられていないかも
れません。きちんと訳す時間がないので、概要のみです。

今回特徴的だったのは、

(1)どこかのウエッブをシャットダウンするという方法ではなく、カタルーニアの独自ドメイン、.catを管理しているオフィスを差押え、シャットダウンした。このドメインは、referendum.catとかref1oct.catなど、投票に用いられていた。

(2)googleは投票所情報などを提供する投票用アプリの削除を求められた。

(3)有権者の確認に必要なコンピュータシステムがアマゾンによって投票日の最初の数時間閉鎖された。

(4)投票所でのインターネッアクセスができなくなった。

(5)カタルーニアの地域プロバイダから住民投票のサイトへのアクセスがブロックされた。これは9月末から投票日まで続いた。

(6).catだけでなく、住民投票のサイトが広範にブロックされた。このブロックに加担したのは、

– El Pais, スペイン最大のメディア業者はロシアのハッカーを使ってサイトの遮断に加担した。
– France Telecom Espanya (AS12479) とEuskaltel (AS12338) はDNS tampering(ドメインネームの改竄)
– Telefonica de Espanya (AS3352)はHTTP transparent proxiesを用いてアクセスを阻止した

などである。

出典 https://ooni.torproject.org/post/internet-censorship-catalonia-independence-referendum/

こうした状況は日本でも当然ありうることです。カタルーニアのネットの活動家たちはかなりがんばってサイトの閉鎖に対抗する措置をとるなどしていたと思います。

印象的なのは、アマゾンやグーグルなど大手やスペイン国内の通信事業者の対応がカタルーニアよりもスペイン政府に加担したということです。ネットの中立性なんていうものは、インフラには通用しないということです。今回の住民投票では、インターネットのウエッブだけでなく、スマホのアプリが重要な役割りを果したようですが、同時に、アプリを搭載できるかどうかは、スマホアプリを提供しているアップルとグーグルの判断に委ねられているという極めて異常な寡占構造に支配されており、これらの企業がアプリを提供しないとなれば、事実上アプリの利用を断念させられることになります。これまでも、中国でVPアプリが使えない措置がとられるなどがあり、政府がその気になれば企業の意思決定を支配できる状況がどこにでもあると思います。

とくに、今回私にとってある意味で衝撃だったのは、トップレベルドメインを管理している組織そのものを政府が強権的に閉鎖するということをやったり、一般に「ネット犯罪」として捜査機関や政府のセキュリティ対策機関が槍玉にあげているDNS tamperingといったサイバー攻撃を政府や民間大手の通信事業者がやったことです。そこまでやるのか、ということでもあります。

共謀罪が存在してしまった日本で、どうするか、カタルーニアの人たちへの連帯もふくめて議論すべきことはたくさんあると思います。分離独立という選択肢が日本の政治で主要な議題になったことはない反面、近代日本の歴史は領土の拡張や統合の歴史ばかり。近代国家は統合や併合は好んでも分離独立には異常に抵抗する。このことに近代国家の問題の本質が露呈しているようにも思います。カタルーニャだけでなく、スペインにはバスクもあり、またクルドをはじめとして、世界中で分離独立と地域の自立を選択したいという運動は多くあり、今回のスペイン政府の対応を特別なものとみるべきではないでしょう。

上で紹介した情報源のooniというサイトは、Tor projectが運営しているもので、インターネットのアクセスが不当に遮断されるなどしていないかを調べることができるツールなどをフリーで提供しています。
https://ooni.torproject.org/

カタルーニアのネット検閲の情報はXNETをぜひ参照してください。カタルーニアに拠点をおくネットアクティビストのサイトです。
https://xnet-x.net/en/digital-repression-and-resistance-catalan-referendum/

(いくつかのメーリングリストなどに投稿したものに加筆)

————————————
参考 .catドメイン
.catドメインができる以前は、スペインからフランス(一部はアンドラやイタリア領サルデーニャ島など)にまたがって住むカタルーニャ民族の機関や会社や個人は、やむなく.es、.fr、.it、.adなどそれぞれの住む国のドメインを使用していた。あるいは関係ない国のドメインを使ってドメインハックを行っていた。例えば、カタルーニャ州のジローナという都市は、ジローナという名にちなんで.giドメイン(”http://www.ajuntament.gi/&quot; “ajuntament”とは、市役所の意)を使用している。このccTLDは、ジブラルタルのもので、スペインの都市がジブラタルドメインを使用することは、ジブラルタルをスペインでなくイギリスが統治する現状を認めることにも繋がりかねず、ジブラタルの主権を主張しているスペイン政府は困惑した。奇妙なことに、この登録はカタルーニャ地方の独立とジブラタルの主権を英国が持っていることに反対しているスペイン社会労働党の関係政党カタルーニャ社会主義者党の事務所によって行われていた。

この問題を解決し、インターネット上のカタルーニャ語圏の文化のコミュニティのニーズに応えるために、2005年9月.catドメインが承認された。このコミュニティは、彼らがオンラインコミュニティでカタルーニャ語を使用するために使ったり、他の文化を持つ人々にカタルーニャの文化を知ってもらうためなどに使うため立ち上げられた。最初の登録期間は、2006年2月13日から2006年4月21日。2006年4月23日から一般からの登録受付を開始した。
規制

.catドメインには対象地域の限定はなく、拠点のサイトがカタロニアにあるとはいえ、すべてのカタルーニャ語話者のコミュニティが対象である。その代わりにカタルーニャ文化に所属する個人や団体でなければならない。

こうした規制にもかかわらず、猫に関係するサイトや、「lolcat」や「Nyan Cat」など猫に関係するネット上の流行にまつわるサイトのためのドメインハックに.catは利用されている。

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/.cat

プロプライエタリ社会をハックする(実践編:その3)

プロプライエタリ社会をハックする(実践編:その3)

―人文、芸術系のコミュニケーションの自由

世界全体で一日200万人(2015)に利用されているTor(トーア)、ネットアクセスのプライバシー保護に対する人々の関心はまだ高いとは言えませんが、今後重要な技術になってくるでしょう。オープンソース・コミュニティーの人々が技術開発に取り組み、USBメモリーに入れてPCに差し込むだけで使える、インターネットブラウザもフリーで公開されています。また、暗号化により仮想的に専用線を構築するVPN(ヴァーチャル・プライベート・ネットワーク)の技術も確立され、すでに多くの企業/団体が利用しています。

今回のセミナーでは、Torによるプライバシーの保護、VPNによるセキュリティの向上、この2つの技術を同時に利用することで自由なコミュニケーションを獲得する、その方法を試みます。さらにプロプライエタリなSNSを利用せず、コミュニティ内でどのように自由なコミュニケーションをとっていけるかを、自由芸術大学のT.A.Z.サイトの使い方を学びながら考えます。

可能であれば、ご自身のノートパソコンお持ちください。
※スマートフォンでも出来ることはあります。

日 時:2017年10月14日(土)16:00~19:00
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
サポーター:小倉利丸、上岡誠二

小池都知事の朝鮮人虐殺犠牲者追悼メッセージ取りやめに抗議します

以下、レイバーネットから転載します。


小池都知事の朝鮮人虐殺犠牲者追悼メッセージ取りやめに抗議します

・賛同人
小沢信男 (作家)
加藤直樹 (ノンフィクション作家)
香山リカ (精神科医)
斎藤美奈子 (文芸評論家)
坂手洋二 (劇作家・演出家)
島田虎之介 (漫画家)
島田雅彦 (作家)
鈴木 耕 (一般社団法人マガジン9代表理事)
田中正敬 (専修大学文学部教授、歴史学)
永井 愛 (劇作家・演出家)
中川五郎 (フォーク歌手)
中川 敬 (ミュージシャン/ソウル・フラワー・ユニオン)
中沢けい (作家)
中島京子 (作家)
平井 玄 (路地裏批評家)
平野啓一郎 (小説家)
平松洋子 (エッセイスト)
星野智幸 (作家)
森まゆみ (作家・編集者)
山本唯人 (東京大空襲・戦災資料センター主任研究員)
吉野 寿 (ミュージシャン/eastern youth)
(以上、アイウエオ順、敬称略)

私たちは、9月1日に行なわれた朝鮮人虐殺犠牲者追悼式典に対しての追悼メッセージ送付を取りやめた小池百合子都知事の決定に、抗議します。多民族都市・東京の多様性を豊かさとして育んでいく上で、関東大震災時の朝鮮人虐殺という「負の原点」を忘れず、民族差別によって非業の死を遂げた人々を悼むことは重要な意義をもっていると考えます。

1923年9月1日に発生した関東大震災では、都市火災の拡大によって10万5000人の人々が亡くなりました。その直後、「朝鮮人が暴動を起こした」「井戸に毒を入れた」といった流言が広まり、関東一円で朝鮮人や、朝鮮人に間違えられた多くの人々が虐殺されました。

このとき、内務省や警察が流言を拡散してしまったことが事態を悪化させたこと、一部では軍人や警官自らが虐殺に手を染めたことは、内閣府中央防災会議がまとめた「1923関東大震災報告第2編」でも指摘されています。

東京に住む人々が隣人である朝鮮人たちの生命を奪い、それに行政が加担したのです。歴代の都知事が、横網町公園の朝鮮人犠牲者追悼碑の前で行われる虐殺犠牲者追悼式典に追悼のメッセージを送ってきたのは、「二度と繰り返さない」という東京都の決意を示すものでした。またそれは、1973年の追悼碑建立の際に当時の都知事はもとより東京都議会の各会派が賛同した経緯をふまえたものでもあったはずです。碑の建立と毎年の追悼式に参加してきた人びとの思いは決して軽くはありません。

ところが小池都知事は今年、メッセージ送付を取りやめました。私たちは、この誤った判断が、むしろ「逆のメッセージ」として機能することを恐れます。史実を隠ぺいし歪曲しようとする動きに、東京都がお墨付きを与えてしまうのではないか。それは追悼碑そのものの撤去まで進むのではないか。差別による暴力を容認することで、災害時の民族差別的流言の拡散に再びつながってしまうのではないか —。メッセージ取りやめが、そうした方向へのGOサインになってしまうことを、私たちは恐れています。

東京は、すべての国の人々に開かれた都市です。さまざまなルーツをもった人々が出会い、交わる街です。その出会いが、この街に次々と新しい魅力を生み出してきました。多様性は面倒や厄介ではなく豊かさだと、私たちは考えます。街を歩くたびに聴こえてくる様々な国の言葉は、東京の「恐ろしさ」を示すものではなく、豊かさの証拠であることを、私たちは知っています。

東京の多様性をさらに豊かさへと育てていくためには、民族をはじめとする差別が特定のマイノリティー集団に向けられる現実を克服していく必要があります。民族差別が暴力として爆発した94年前の朝鮮人虐殺を記憶し、追悼し、教訓を学ぶことは、そのための努力の重要な一部であると、私たちは考えます。それは、多民族都市・東京のいわば「負の原点」なのです。

私たちは小池都知事に訴えます。来年9月には虐殺犠牲者への追悼メッセージをあらためて発出してください。虐殺の史実を教育や展示から排除するような方向に、これ以上進まないでください。

そして、いま東京に生きている、あるいは東京に縁をもつ人々にも訴えます。94年前に不当に生命を奪われた隣人たちを悼み、それを繰り返さないという思いを手放さないでください。虐殺の史実を隠ぺいし捻じ曲げる動きを許さず、未来の世代に教訓として伝えていくべきだと、行政に、都議や区議に、声を届けてください。そのことが、多様性が豊かさとして発揮される東京をつくっていく上で重要な意義を持つと、私たちは考えます。

2017年9月15日
声明とりまとめ/加藤直樹
声明についての連絡先/seimei1923@gmail.com


【この声明のPDFファイル ダウンロード】

出典:レイバーネット

(転載)9.11経産省前歩道デモ逮捕抗議声明

以下、経産省前テントひろばの抗議声明を転載します。

ブログ内の関連記事

麻生邸「リアリティツアー」弾圧国賠意見書


(転送します。重複送信をお許し願います。拡散を歓迎します。)

警視庁丸の内警察署長 殿
抗 議 声 明
2017年9月13日
経産省前テントひろば

1 私たち「経産省前テントひろば」は、2011年9月からテント設置6年が経過する9月11日夕刻、経産省本館前で抗議集会を開いた。私たちは集会に先立って、経産大臣に宛てた抗議声明を提出し、昨年8月の脱原発を求める3張りのテントの違法撤去に抗議し、政府の原発推進政策等に抗議を申し入れた。
この日の経産省本館前には300名以上の人びとが集まって午後6時から2時間半にわたって集会を続けた。その集会終了の直前に、経産省敷地外周歩道約1キロメートルを一周するウォーキング抗議が行われた。

2 上記ウォーキング抗議には集会参加者のうち約150名が参加し、他の人びとは本館前に残って集会が続行された。ウォーキングの参加者は、歩道上で口々に経産省への抗議の意思表示を行い、また経産省別館前では多くの人々が資源エネルギー庁のエネルギー政策に対する抗議の意思表明を行った後、再び経産省本館前へ戻る歩道を進んだ。
こうしたウォーキング抗議の参加者の一人だったF氏が、歩道を歩いている時に突然に5、6名の私服警察官に歩道上で包囲されて車道に押し出され、「無届けデモ」の指揮を行ったとの口実で、東京都公安条例違反の容疑で逮捕された。

3 しかし、そもそも上記のような歩道でのウォーキング抗議を「無届けデモ」と捉えること自体、民衆の歩道上での表現行為を不当に規制し弾圧するもので許されないことである。しかも今回、丸の内警察はF氏の身元を充分承知しつつ「無届けデモ」とか、その「指揮」者と事実を捏造して東京都公安条例違反容疑で逮捕し身柄拘束した。
このような捏造の事実を踏まえれば、今回の事件が丸の内警察によるF氏への不当な狙い撃ち逮捕だったことを十分に示している。
また、こうした丸の内警察による「事件」捏造は、経産省前テントひろばの6年を超す運動の持続を恐れ、いまだに原発推進政策にしがみつく政府・自民党の意向を忖度した警察権力の違法行為そのものにほかならない。

4 今回のF氏への弾圧事件は、全国各地に広がった脱原発集会への参加者による継続した抗議活動が歩道上での通行の妨害なしに合法的に行われはじめたことに対する違法な予防的な弾圧である。また、市民の自発的抗議活動及びその行動への参加者を「デモ」及び「指揮者」と決めつけてF氏を不当に逮捕した行為は、「警視庁が原発関連の集会・デモで参加者を逮捕したのは初めて」(東京新聞2017年9月12日夕刊【但し、この記事で「集会・デモ」と記述されていることは不正確である】)とされる程に、違法な弾圧と言わざるを得ない。

5 私たちは、今回の不当逮捕に東京都公安条例が適用されたことは、同条例の民衆の表現行為に対する不当制約性・弾圧法規性が明白に露呈されたものである。この悪法に強く抵抗し、同条例の廃絶を要求する。
私たち経産省前テントひろばは、今回の丸の内警察署の弾圧行為に断固抗議するとともに、F氏の身柄を即刻に解放することを強く求めるものである。
以 上

共謀罪とグローバル化する刑事司法──対テロ戦争と対峙する社会運動の課題──

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共謀罪とグローバル化する刑事司法
──対テロ戦争と対峙する社会運動の課題──

★お話し 小倉利丸さん(批評家)

★日時 2017年9月21日(木)午後6時半〜
★会場 文京区男女平等センター(本郷三丁目下車徒歩5分)

アクセス | 文京区男女平等センター
https://www.bunkyo-danjo.jp/access.aspx

★参加費 500円
★主催 ATTAC Japan(首都圏)

日本は米国の同盟国としてまぎれもなく対テロ戦争の当事国です。戦場は、ネット空間も含めて地理的な限定がなく、軍事諜報機関は国の内外を問わずをスパイし、警察は軍隊さながらの装備で国境を越えて活動し、軍隊は自国の民衆に銃口を向ける存在になっています。そして、IT産業は、グローバル資本主義の基幹産業であるとともに、こうした対テロ戦争を支える軍
事産業になっています。

共謀罪は治安維持法の再来と言われる一方で、このような全く新しい戦争の時代、グローバル資本主義の時代に人々のコミュニケーションを犯罪化するものとして導入されました。本集会では、この新たな戦争とグローバル化の時代に焦点をあてて、対テロ戦争と対峙する社会運動の課題を考えます。

小倉さんには10月から新著『絶望のユートピア』を使った連続講座をお願い
しています。
9月21日の集会は「絶望」から「ユートピア」に向けたスタートラインです。

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誰が〈表現の自由〉を殺すのか ニコンサロン「慰安婦」写真展中止事件と裁判判決から考える

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ニコンサロン「慰安婦」写真展中止事件から5年。写真家・安世鴻さんが世界的カメラメーカーのニコンを訴えていた裁判で東京地方裁判所は、2015年12月、勝訴判決を言い渡しました。3年のわたる裁判闘争の過程では、ニコンが抗議を恐れて中止決定に至った具体的経過や、ネット上の抗議行動が「表現の自由」に与えた影響などが明らかになりました。
「慰安婦」問題、表現の自由、企業の社会的責任、「炎上」と「自粛」、排外主義……日本社会が直面するさまざまな課題について、この事件と裁判はきわめて大きな教訓を示しています。
事件・裁判の経過を記録し、判決の意義を多角的に論じた2冊の本『誰が〈表現の自由〉を殺しかのか』、『《自粛社会》をのりこえる』が同時に出版されることになりました。
この機会に、事件と裁判を振り返りながら、安倍第2次政権以降、増え続ける「表現の自由」への侵害、「自粛」にどう抗うのか、みなさんと一緒に考えたいと思います。ぜひご参加ください

2017年9月9日(土)14:30~17:30(開場14:00)
在日本韓国YMCA地下1階 スペースY
参加費:1,000円(学生・非正規500円)

<シンポジウム> 全体司会:岡本有佳(編集者)
◆コーディネーター:李春熙(弁護士)
◆パネラー:
東澤靖 (弁護士/明治学院大学教授)●「表現の自由」を実現する企業の責任
池田恵理子(女たちの戦争と平和資料館(wam)館長)●「慰安婦」の記憶を巡る闘い
小倉利丸(富山県立近代美術館検閲訴訟元原告)●検閲と沈黙に抗うために
◇特別発言:安世鴻(写真家/ニコン事件裁判元原告)
*目でみる<表現の不自由>スライド上映
◆ 問合せ:jjteninfo@gmail.com
○主催:教えてニコンさん! ニコン「慰安婦」写真展中止事件裁判支援の会&実行委員
○協賛:御茶の水書房

【近刊案内】——-当日会場では特別価格で販売します!
『誰が〈表現の自由〉を殺すのか
——ニコンサロン「慰安婦」写真展中止事件裁判の記録』
安世鴻、李春熙、岡本有佳 責任編集 2017年9月刊
A5判280頁予 カラー8頁 御茶の水書房

岩波ブックレット973
『《自粛社会》をのりこえる
——「慰安婦」写真展中止事件と「表現の自由」』
安世鴻・李春熙・岡本有佳編
A5判80頁 本体620円

ーーーー関連企画ーーーー
安世鴻 最新写真展開催決定!
======================
重重:消せない痕跡Ⅱ写真展
―アジアの日本軍性奴隷被害女性たち
======================
■9/30(土)〜10/9(月・祝)12:00〜19:00 会期中無休
■セッションハウス 2階ガーデン(東京・神楽坂)
■入場無料■平日:作家によるギャラリートーク(無料)
■9/31,10/7,8:トークイベント(有料)あり。
写真展賛同カンパのお願い:郵便振替00830-5-136108、
加入者名:重重プロジェクト
問合せ:ianfu@juju-project.net


当日配布のエッセイです。

検閲と沈黙に抗うために

小倉利丸

安世鴻の元「慰安婦」被害者たちのポートレイトが検閲され黙殺されたのは、日本の企業のギャラリーで、日本人が選考委員をつとめ、日本で開催されたという条件抜きには一切の説明ができない。だから問題は「日本」という検閲の装置なのだと思う。

写真史に必須の検閲の歴史

写真の歴史と検閲は切り離せない。にもかかわらず、日本の写真史が検閲の問題に注目して多くのページを割くことはあまりない。戦前戦中の写真検閲についても、どこかしら「仕方のないこと」とし、『FRONTO』や『NIPPON』などのグラフ誌のデザインの斬新さに関心を向け、写真家の戦争への加担や責任はあいまいにされる。伊奈信男、木村伊兵衛、土門拳など戦時中に戦争報道に深く関与した人々がそのまま戦後日本の写真界の中核を構成してきたことが果してどれほど批判的に検証されてきただろうか。しかも、日本統治下の台湾や朝鮮でどのような検閲がなされたのかに関心を寄せる写真史や回想録の類いは少ない。

このことに私は、崔仁辰『韓国写真史 1631─1945』を読んで気づかされた。崔は日帝統治下の韓国の写真検閲に多くのページを割き、検閲の背景や検閲に抵抗する写真家やジャーナリストにも言及する。崔が韓国についての述べたことが、台湾や旧「満州」など日本の植民地支配、軍事侵略の国・地域についても徹底した検証が必要だと思う。検閲を支えた日本の自民族中心主義とナショナリズムは、その相貌は変わりはしたものの、地続きで、今現在まで生きている。安世鴻の作品展中止の出来事はその端的な表れともいえる。

「日本民族の運命」と「抵抗のリアリズム」の間

戦後の写真表現のなかで、広島・長崎の被ばく体験や原爆被害の記録への写真界の関心に、戦後ヒューマニズムの原点と同時にその限界もまた端的に見い出せる。戦争の被害者としての日本人の視点から構築された平和の表象を表現する出発点に原爆体験があった。この被害への関心から表現者がどこに向うのか、何を自らの悲劇に見出すのか。戦争被害への関心から、日本の戦争責任、植民地支配、戦争犯罪など加害の問題へと視野を拡げ、表現者が戦後日本の支配的な歴史観、価値観を相対化するところに行きつくとは限らない。安世鴻の作品への検閲に、日本の写真界は沈黙することで黙認した。ここに戦後日本の平和意識の限界があると思う。

土門拳は戦後13年たって初めて広島に取材で出向く。これがきっかけで、彼の代表作であり、ドキュメンタリーの傑作ともいわれる『ヒロシマ』が生まれる。彼は、今もなお被爆者が生きることそれ自体と闘う現実に直面し、広島の風化を強い危機感をもって作品にした。

「しかしぼくは、広島へ行って、驚いた。これはいけない、と狼狽した。ぼくなどは「ヒロシマ」を忘れていたというよりは、実ははじめから何も知ってはいなかったのだ。13年後の今日もなお『ヒロシマ』は生きていた。焼夷弾で焼きはらわれた日本の都市という都市が復興したというのに、そして広島の市街も旧に立ちまさって復興したというのに、人間の肉体に刻印された魔性の爪跡は消えずに残っていた。」(『ヒロシマ』)

「広島・長崎の被爆者は、ぼくたち一般国民の、いわば不運な『身がわり』だったのである。ぼくたち一般国民こそ、今、この不幸な犠牲者に対して温かい理解といたわりを報いることによって『連帯感』を実証すべき責任があるはずである」(同上)

土門のこのヒューマニズムは、戦後のドキュメンタリー写真家たちにほぼ共通した理解の根幹をなしてきたものだろう。しかし、土門のヒューマニズムが果してどこまで普遍的な意識に支えられたものといえるのか。

194111月、総動員体制のなかで、写真界も組織の再編統合が進み、内閣情報局主導で「日本報道写真協会」が生まれる。土門は協会の常務理事に就任する。そして、128日の開戦後に開かれた総会で「カメラを銃としペンとする我々の職能に相共に挺身し、以て大東亜共栄圏確立の大理想達成に殉ぜん」という総会宣言を朗読した。(白山眞理『<報道写真>と戦争』から引用)土門は「カメラを持った憂国の志士」として「報道写真家としての技能を国家へ奉仕せしめんとする」(多川精一『焼け跡のグラフィズム 『FRONT』から『週刊サンニュース』へ』)と述べた。

『ヒロシマ』は土門が、戦後民主主義国家を前提とした「憂国の志士」として取り組んだ作品だったのではないかと思う。68年に「報道写真家としては、今日ただ今の社会的現実に取組むのも、奈良や京都の古典文化や伝統に取組むのも、日本民族の怒り、悲しみ、喜び、大きくいえば民族の運命にかかわる接点を追求する点で、ぼくには同じことに思える」(「デモ取材と古寺巡礼」)と述べたことにこれは端的に現われている。ヒロシマは彼にとって「民族の運命」を感じさせたのである。

彼は結局のところ、ヒロシマの被爆体験を日本人というナショナルな枠組のなかでの共通の被害体験として捉え、「不幸な犠牲者」への「連帯感」を感じる以上のところには行きつくことができなかった。戦争における加害を発見できなかった。それが「日本人」に共感をもって迎えられた原因だと思う。これは土門だけではなかった。大江健三郎もまた「土門拳の『ヒロシマ』が真に日本人の名において、現代日本人の名においてなされた1958年の日本の現実の記録であるとともに戦争の記録である」など「日本人」に繰返し言及しながら、同時に「生きて原爆と戦っている人間を描きだす」「徹底して人間的であり芸術の本質に正面からたちむかう」というように、「日本人」を「人間」に等置した。(大江健三郎「土門拳のヒロシマ』」私はこうした観点に強い違和感を感じざるをえない。

しかし同時に、土門は戦後まもなくの頃「戦争犠牲者から目をそむけている写真家」は「非人間的な背信行為者」(「フォトジェニックということ──或る傷兵の写真について──」)だと厳しく批判した。そして、「絶対非演出」としてのリアリズム写真は「現実をより正しい方向へ振り向けようという抵抗の写真的な発言としてある」(「リアリズム写真とサロン・ピクチュア」)とも語った。

ある意味では、安世鴻は土門の抵抗のリアリズムの正統な継承者であり、安世鴻の展示中止に関与したニコンサロンの関係者たちは、土門の「日本民族の運命」に加担することで非人間的な背信行為者となることを選んだのだ。

引用・参考文献(安世鴻関係の文献を除く)

伊奈信男『伊奈信男写真論集 写真に帰れ』、ニコンサロンブックス、2005

白山眞理 『<報道写真>と戦争19301960』吉川弘文館、2014

白山眞理、小原真史 『戦争と平和─<報道写真>が伝えたかった日本』、平凡社、2015

白山眞理、堀宣雄編『名取洋之介と日本工房』、展覧会図録、毎日新聞社、2006

多川精一『焼け跡のグラフィズム 『FRONT』から『週刊サンニュース』へ』 平凡社新書、2005

崔仁辰『韓国写真史 1631─1945』犬伏雄一監訳、青弓社、2015

土門拳『ヒロシマ』、研文社、1958、『土門拳全集第十巻 ヒロシマ』、小学館、1985

土門拳『写真作法』、ダヴィッド社、1976

土門拳「フォトジェニックということ──或る傷兵の写真について──」、『写真作法』所収。

土門拳「リアリズム写真とサロン・ピクチュア」、『写真作法』所収。

土門拳「デモ取材と古寺巡礼」、『死ぬことと生きること』、築地書館、1974

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プロプライエタリ社会をハックする(実践編:その2)

End to Endの暗号化がネット上の自由を守る!

――人文、芸術系のメール監視・検閲回避の実践法

プロプライエタリな社会は、プライバシーを侵害し、自由を奪う。いまやスマートフォンはジョージ・オーウェルの小説に出てくる監視装置「テレスクリーン」と化した。プライバシーを守り、自由を獲得するために、ネット上で戦うハッカーたちの作り出したオープンソースのソフトウェアーやサービスを使うことを共に学び、私たちのあたりまえの〈コミュニケーション〉を取り戻すための不定期連続セミナー。

実践編:その2では、メールの暗号化通信の実践を行います。
★はじめての暗号化メール (Thunderbird編)
暗号ソフトウェア―のPGP(プリティ・グッド・プライバシー)で暗号化したメールの送受信の実践。
★監視装置「Gmail」からの脱出(ProtonMail/Tutanotaへの移行)
メールの中身を覗くことを当然とする、大企業によるプロプライエタリなサービスを止め、オープンソースの暗号化ウェブメールサービスを使う。

実際に試してみたい方は、ノートパソコンをお持ちください。
※スマートフォンでも出来ることはあります。

日 時:2017年9月5日(火)19:30~21:00
場 所:素人の乱12号店|自由芸術大学
杉並区高円寺北3-8-12 フデノビル2F 奥の部屋
参加費:投げ銭+ワンドリンクオーダー
サポーター:小倉利丸、上岡誠二

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「通信の秘密」と表現の自由を共謀罪から防衛するために

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はじめに

共謀罪の成立が警察の捜査手法を根底から変える危険性があるが、この問題に、反対運動が十分な対抗手段をとることができないまま時間だけが過ぎているように見える。とくに、ネットが必須のコミュニケーション・ツールになり、多くの活動家や市民運動、社会運動の参加者たちがSNSやブログ、メーリングリストなどを活用している状況のなかで、共謀罪がこうしたコミュニケーションをターゲットとした捜査機関の権限の大幅拡張を合法化する危険性がすでに存在している。

ネット社会のセキュリティやプライバシーは実感することが難しい。60年代からの活動家たちにとって、パソコンもスマホも苦手ななかで四苦八苦しながらネットの「便利さ」に追いつこうとしてきたのではないだろうか。こうした苦手な世代を狙って、セキュティの穴を巧みに利用して監視するサイバー公安警察による共謀罪の利用も十分に念頭に置く必要がある。

共謀罪は、それほど私たちのコミュニケーションの秘密(プライバシー)にとって脅威になるのはなぜなのだろうか。監視社会批判派の我田引水のプロパガンダではないか、という疑問もあるかもしれない。しかし、以下で述べることから皆さん自身で共謀罪のリスクを判断していただければと思う。

(1)共謀罪立件に必要な「証拠」はコミュニケーションの内容そのものだ

共謀罪で立件する場合、捜査機関は、起訴し裁判で有罪とすることが可能な証拠を収集しなければならない。「共謀」は話し合いでしかなく、犯罪行為に伴う物的な証拠とは、傷害事件で使われた凶器やDNAなどの科学的に立証可能な「物的証拠」はない。証拠は、「共謀」の事実を記録したネットの通信記録や会議の記録などということになる。誰と誰が通信したのかといった通信会社が保管している通信のログ(通信日時、通信の時間、通信相手のアドレスや番号)では不十分で、会話やメールの内容そのものを取得なければならない。共謀容疑での捜査では、通信の内容を取得することが必須の条件になる。そのために、これまでの捜査機関の態度は一変して、通信の内容を何がなんでも「証拠」として確保しようとするだろう。共謀罪によってこれまでは想定されていなかったような段階から、これまで以上に広範囲に強制捜査やパソコンなどの通信機器の押収が行なわれることになる危険性が高まる。

●盗聴捜査の変質と拡大の恐れ

盗聴捜査も様変わりするかもしれない。例えば、これまでの盗聴捜査では、犯罪に用いられると疑われる回線を期間を限って盗聴し、犯罪関連通信を把握し(これが盗聴された通話の2割程度にしかならないことがプライバシー侵害として問題になってきたが)、そこから実行行為に関わる犯罪の摘発が行なわれた。犯罪関連の通信それ自体は犯罪行為ではなかった。しかし共謀罪では、犯罪関連通信そのものが共謀行為として犯罪とされる。通信の内容そのものが犯罪を立証する直接の証拠になり、検挙の根拠になる。実行行為に至らなくても、通信だけで立件できることになる。従って、盗聴捜査の位置付けは、本来の犯罪に対する補充的あるいは捜査の端緒をつかむための手段から、それ自体を犯罪とみなす犯罪捜査の対象になる。共謀罪は300前後の罪を網羅するから、これらの犯罪の証拠を把握できる能力を捜査機関が持つべきだというのが捜査機関や法務省の言いぶんになるだろう。共謀を犯罪化した政権、議会、法曹界の現状では、これに抗う声は少数にとどまり、共謀罪の対象犯罪全体に盗聴捜査を拡大される危険性がある。

●蓄積されたデータへのアクセスの拡大

とはいえ、盗聴法の最大の限界は、リアルタイムの通信しか対象にできないということだ。既に行なわれた過去の通信は対象にできない。捜査機関にとって、蓄積された通信データへのアクセスには別の手段が重要になる。

ネットの大量監視がメタデータを網羅的に収集するもので、これが監視社会化をまねく重大な問題としてこれまでも指摘されてきたし、私もそう思う。共謀罪は、こうした大量監視の主な対象になるメタデータ(メールの送受信の記録などで、通信の本文は含まない)から人間関係などをあぶり出すための必須のツールだ。こうしたメタデータやこれまで政府や捜査機関が収集してきた膨大な個人情報データなどを突き合せながら、通信の内容まで把握すべき人々をあぶり出すことになる。こうした人々の通信は盗聴捜査の対象になるだけでなく、やりとりされたメール、アクセスしているネットの宛先などを網羅的に監視してその内容をできるかぎり把握しようとするだろう。とくに、プロバイダーに蓄積されたメール、facebookやLine、twitterなどでの通信などの具体的なコミュニケーションの内容を把握しようとすると思われる。こうして大量監視を前提に、捜査機関の関心が共謀という犯罪を構成する「相談」「話し合い」の内容そのものの把握へとシフトすることは明かだと思う。実社会でも、集会や会議、デモなどで公安警察が会場の外で参加者が誰なのかを監視しビデオや写真撮影するなどの違法行為が野放し状態だが、今後は会場でのコミュニケーションそのものが共謀罪を構成する可能性があるとみなして、より大きな関心を寄せて内容を把握しようとするだろう。室内盗聴、おとり捜査、スパイの送り込みなど、新たな捜査手法がこれまで以上に関心がもたれることになる。

共謀罪が成立したことによって、裁判所への捜査機関の令状請求もまた「共謀罪容疑」によるものが可能になる。こうして、これまでは裁判所の令状発付が不可能と思われたケースに対しても裁判所の令状が発付されるようになる。同時に、共謀罪を前提に、捜査機関は民間の協力を得やすくもなり、これまで以上に容易に民間が取得した個人情報の提供が行なわれるようになりかねない。資金の流れを監視するために金融機関に、集会や会議の内容を把握するために会場施設の管理者に、「証拠」となりうるような内容へのアクセスを要求する捜査機関の圧力は強化されるだろうと思われる。

●プロバイダーには膨大なデータが蓄積される。

ネットに限定していえば、私たちがネットにアクセスするには、スマホやタブレットであれパソコンであれ、契約しているプロバイダーなど接続サービス業者の仲介が必要だ。会社や学校であれば、組織内のネットワークを外部のインターネットに接続させるシステムの管理部門がその仕事を担う。ネットの管理者は「root」と呼ばれたり「スーパーユーザ」と呼ばれて、自分が管理しているサーバの「全能の神」である。一般のユーザがアクセスできない管理ファイルなどにも自由にアクセスでき、ユーザのファイルやメールにもアクセスでき、ユーザの権限をコントロールし、パスワードを変更したりアカウントを削除することもできる。こうした管理者を捜査機関は法的な強制力をもって協力させようとする。共謀罪はこれまでできなかった法的強制力の範囲を大幅に拡げ、管理者がやむをえず指示に従わなければならないケースが飛躍的に増えることになる。

ネットがコミュニケーションの必需品になったために、メールサーバ、プロバイダーに保管されている通信履歴、携帯電話会社の取得する携帯などの位置情報、DropboxやiCloudなどクラウドストレージのサービス、SNSが取得しているユーザの個人情報など、私たちがネットでアクセスする先のサイトなどが取得しているIPアドレスやネットサーフィンの記録、ネットバンキングやクレジット決済などの取引きデータまで、これらが網羅的に把握されてしまえば、私たちのコミュニケーションのほとんど全てが丸裸になる。これらは、捜査機関からすれば、共謀罪での立件に必要な証拠の宝の山とみなされるだろうし、これを見逃すことは、共謀という犯罪を野放しにすることだといった理屈が刑事司法の体制として定着し、メディアが追随し、人々が常識として受け取ってしまう危険性が今ここにあるのだ。

(2)共謀罪は捜査機関の人権侵害を合法化する

共謀罪を立証するためには、私たちのコミュニケーションそのものを捜査機関が取得して証拠としなければならないということについて、共謀罪反対運動では、ほとんど中心的な争点にはできなかったと思う。私もこの点をもっぱら強調して批判を論じてきたわけではないので、私自身の批判のスタンスへの反省も込めて、今一度、捜査機関によるコミュニケーションへの監視、介入、情報収集を認めるべきではなく、こうした捜査から私たちのコミュニケーションを防衛することの正当性を述べておきたい。

共謀罪を口実に私たちのコミュニケーションの内容を収集する行為は、明かな憲法違反である。憲法には次のように書かれている。

「憲法21条:集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
○2  検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。 」

21条は第一項で「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」とあるが、あえて表現の自由をこのように明記しているのは、憲法が念頭に置いている集会や結社、言論、出版が、政権に批判的であったり反政府的な性格をもつことを理由に、権力によって弾圧の対象になることを禁じているのである。政権与党の結社や政権支持の言論の自由を保障したり、多数が当然とみなす思想信条を保障することが趣旨ではない。社会において少数であり、権力に対して敵対的な言論・表現の自由や結社の自由を保障することがその趣旨である。この規定を受けて第2項で、検閲と通信の秘密の侵害を禁じているから、反政府活動を理由に、検閲や通信の秘密を侵害してはならないというのが、その基本の筋である。いかなる社会集団であれ、その内部に様々な異論があり、権力への異論があり、政治的社会的な摩擦が存在し、時にはこれらの異論がやがて多くの人々の支持を得て権力の転換をもたらすことは社会の健全なありかたでもある。(憲法がこうした体制転換をも保障しているかどうかは議論がある)こうした異論や摩擦を通じて人々は複数の考え方に接しながら、意思決定を繰り返す。憲法は、ある側面ではこうした異論を保障する枠組であるが、同時に、現実の権力行使にあっては、むしろ異論を犯罪化して既存の権力を防衛する手段として刑法などの法制度が利用され、憲法の自由の権利は単なる理念の域を出ない場合が実はほとんどの国民国家の現実でもある。ここに憲法のジレンマあるいは欺瞞があるのだが、今はこの問題には言及しない。「法」が私たちの権利を保障する枠組として機能するかどうかは、そこに書かれている「文言」そのものに受動的に依存するのではなく、私たちが「法」の意味するところを体現する主体として、権利を行使する正当性を意思表示する行為者として存在することを示す以外にないのである。

【注】勿論「結社」が政治的であるとは明記されていないから、いかなる集団の形成もまた憲法は保障しているし、実際の行為となれば犯罪となるような事柄であっても、それが言論、出版という範囲であり、またそれが実行行為に至るわけではない集会や集団である限りにおいてはこれは保障される。

共謀の立証のために捜査機関は通信の内容に介入しなればならず、通信の秘密を侵害しなければならないことは明らかであるにもかかわらず、政府も国会も憲法における通信の秘密の規定と共謀罪との関連を無視しただけでなく、多くの刑法の専門家たちもまた通信の秘密条項への侵害という問題には言及しなかったと思う。これはかつての盗聴法の国会審議の場合以上に、憲法の通信の秘密との関わりへの関心は低かった。盗聴法が既定の法となり、憲法の通信の秘密条項の解釈が根底から覆されたことの効果がこうしたところにも現われているともいえる。

おわりに

共謀罪は、憲法が私たちの権利として保障している通信の秘密を公然と侵害する権力による人権侵害の法である。この法律そのもの違憲性を問うことや廃止法の成立をめざす必要があるが、それまで私たちは、通信の秘密を保障されない環境に置かれなければならないのだろうか。そうあってはならず、私たちなりの通信の秘密を防衛するための積極的な行動をとる必要がある。共謀罪の捜査が憲法の保障する通信の秘密の権利を侵害するのであれば、私たちが憲法に保障された通信の秘密を防衛するための対抗措置をとることは、私たちの権利を守るための最低限の防衛措置である。もし共謀罪を理由に、犯罪の立証に必要であるという理由でコミュニケーションの内容が常に捜査機関によって把握可能になるとするならば、同様に、あらゆる犯罪の可能性のあるシチュエーションを前提に、捜査機関がフリーハンドで私たちの日常生活やプライバシー空間に介入することを認めるべきだということになる。繰り返そう。私たちは権力による人権侵害を正当化する法を認めないし、私たちの通信の秘密を守るための手段をとる権利は憲法が保障している、私たちの基本的人権である。

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8月27日講演会:市民の自由はガンジガラメ!?‐監視社会を考える−

西東京市公民館市民企画事業講演会
テーマ:「市民の自由はガンジガラメ!?‐監視社会を考える−」
講師:小倉利丸さん(富山大学名誉教授)
日時:8月27日(日)14時〜17時
場所:西東京市柳沢公民館(西武新宿線西武柳沢駅南口徒歩1分)
資料代:100円
企画・実施:ピースナウ西東京
http://peacenow042.blogspot.jp