意味と搾取(改訂版)序章はこちら
Table of Contents
1. 拡張される搾取:土台と上部構造の融合
1.1. 機械と<労働力>:合理性の限界
1.1.1. 機械が支配した時代
本章では、本書の主題であるコンピュータが支配的なテクノロジーとなった時代の資本主義に対する批判の前提として、機械が支配した時代の資本主義を主に念頭に論じることになる。私がここで展開する歴史観は、資本主義に対する諸々の批判とその具体的な運動が資本主義の支配的な構造との間で展開されるある種の弁証法的な過程が歴史の経路を形成する、というものだ。資本主義批判に対して資本主義側はこの批判を吸収して対応したり、あるいは、逆に強圧的な弾圧で既存のシステムに固執する。どのような対応をとるのかを一義的にあらかじめ決定することはできない。しかし、資本主義への批判が運動化されて大きな潮流になればなるほど、この批判の矛先となる資本主義の側は、その矛盾点を調整して批判を吸収あるいは排除する。19世紀末の社会政策もナチス経済やニューディールも――国家の経済システムとしては本質的に変わらない――経済の計画化をシステムにとり入れるとともに、階級対立を国民的な統合に組み換えるイデオロギー装置の開発が進められるが、これは自然な歴史的発展ではなく、闘争の弁証法的な帰結である。
こうしたなかで、対立の構造は転換し、マルスクが分析した19世紀的な階級と経済的な搾取は、階級構造のなかに強固に維持されながらも、属人概念としての「階級」が解体されて「国民」とか「市民」という個人のアイデンティティが構築されるようになる。階級は属人概念では把握できなくなり、構造として再構築される。闘争の主体の側は、属人概念に基づく集団や組織として構成されるために、構造としての階級との闘争という観点を見出せない限り、階級闘争は反資本主義の中心を担えなくなる。これは資本主義的な闘争の弁証法が機能した典型的な事例だ。結果として、属人的な集団や組織が担う課題は、多様化し分散化しながら資本主義の矛盾との闘争が継続される一方で、これら多様で分散化した資本主義批判を全体として把握しうる批判的なグランドデオリーが存在しないために、反資本主義の運動は、旧態依然たる「社会主義」モドキの社会を掲げること以上の展望を提起できず、20世紀の社会主義はことごとく、解放への出口を見出せないまま、資本主義が準備した経済と政治の権力のアリーナに引きずりこまれてしまった。
こうした考え方を前提にして、マルクスが『資本論』で論じた一連の資本主義的な矛盾を、資本主義の側がコンピュータの時代になって解決可能なものにすることに成功したのかどうかを確認したい、というのが本章の狙いだ。主題となるのは、<労働力>と化した人間をめぐる管理、指揮、命令、制御、監視といった一連の問題である。
労働市場を通じて売買される労働可能な能力は定数ではなくあくまで変数であり、この変数は、労使間の権力関係や機械化による拘束、職場のストレスや私生活の状況など様々な要因によって変化する。市場で売買されるのはあくまで、労働可能態としてである。マルクスは労働と労働力を概念的に明確に区別することによって、資本の利潤の源泉となる剰余労働の存在を明らかにした。私も本書でこの観点を継承するが、マルクスが明らかにしたのは、搾取の量的な側面であって、搾取の全体ではない、というのが私の主張だ。<労働力>とカッコに括って表記する場合がある。これは、人間の労働能力そのものが可変であり、労働者による労働する意思に依存することを明示する変数としての労働力の性格を明示するための表現だ。労働者がどれだけの能力を発揮しようとするのかという問題は、労使関係のなかで重要な意味をもつ。たとえば、労働する能力を有しながら労働力の発揮をあえて抑制したり停止する(ストライキ)ことは労働者の重要な権利であり主体的な決断の側面である。<労働力>を変数であることを明示し、これをマルクスの定義する労働力の概念と区別して表現するのは、こうした労働者の抵抗の潜勢力を強調したいからでもある。
<労働力>が売買されるということを私たちは、会社に雇われて働くことであり、労働が契約によるルール化を受け入れ、このルールを遵守することは、労資双方約束だという建前を受け入れている。もちろん労働者は雇用主が狡猾にルールをかいくぐって酷使しようとしたり賃金をピンハネすることを警戒するし、雇用主もまた、労働者が従順に働くとは信じておらず、常時仕事ぶりを監視しないではいられないという不信感を抱くこともまれではない。一般商品の売買が前払いであるのに対して<労働力>だけは後払いだというところに、労資の力関係の不均衡と資本の不信感が端的に示されている。
雇用契約とか就業規則の明文化は、労働者の権利を守る上でも大切だとされているが、歴史を遡ると、こうした近代的な<労働力>売買の契約関係が定着するのには長い時間がかかっており、現代の世界全体の人口を視野に入れたとき、むしろ近代的な雇用契約の教科書的なモデルが実際に実現している場合の方が少ないだろう。植民地本国の更に少ない分野でしか、教科書的な労使関係は実現されてこなかった。だから、労働問題が国際的な人道・人権団体にとっての主要な課題でありつづけており、資本主義は建前ほど契約の平等と自由を重んじるような体制を自ずと実現できるようなシステムであるわけではない。
この点を踏まえて、工業化=機械化として出発した資本主義的な「経済発展」の経路をいまいちど<労働力>の観点から再構成しておく必要がある。機械化、工業化が始まった当時、労働者の日常がいかに機械のリズムに反し、従って資本家たちを苛立たせていたか。そして、機械の導入とは、この労働者の日常的なリズムの解体と服従の過程でもあったということを再度みていく。
1.1.2. 道具、機械、歴史認識
資本主義の中枢にあり産業革命と工業化が進展した地域では、19世紀に熟練の解体と機械への置き換えが急速に進展し、労働の様相が一変する。社会の人口の多くが農業などの伝統的な産業から引き離されて、都市の工場<労働力>へと短期間に転換できるのは、熟練労働の習得に必要な長年月の訓練が不要になり、短期で習得できる労働が支配的になってきたからだ。こうなると、かつての熟練労働者のように、容易に取り替えがきかない自分の熟練の技能を交渉の武器にして資本に譲歩を迫ることができなくなる。同時に、単純労働が支配的な労働市場は「流動化」しはじめ、資本は市場の需給動向に合せて<労働力>を排除したり入れ替えたり、追加で調達するなど、あたかも<労働力>が「モノ」ででもあるかのようにその数量を自由に調整可能な存在になるべきもの、という認識が資本を支配する。経済学も、労働者を賃金コストとみなして理論体系を構築するようになり、アダム・スミスやデイヴィッド・リカードの労働に関する学説を否定するようになる。労働者は、単純労働であればあるほど、取り替え可能な使い捨ての<労働力>としてのリスクに直面し、生存を維持するための雇用の維持が常に危機に晒されることになる。熟練労働者が主体となった労働運動から単純労働者による労働運動への転換は、労働をめぐる重要な質的切断を伴うものだった。
マルクスは『資本論』第一巻「機械と大工業」でかなりのページを割いて機械が資本主義に果す役割を論じている。1工業化=機械化に対するマルクスの評価はややトリッキーだ。ラダイトのような機械化への拒否を批判しつつ、機械化のもつ二面性に挟撃されながら、難問に強引な決着をつけようとしているところがある。
マルクスは、マニュファクチャから機械制大工業への展開のなかで、機械が膨大な数の熟練労働者の排除と単純労働化による低賃金化をまねくことを指摘する。資本主義的な労働市場に投げ込まれた無産労働者にとって、失業は貧困そのものであるが、同時に雇用されたとしても長時間の劣悪な労働と最低限の生活をかろうじて維持できる賃金しか保障されない人生にしか帰結しない。だから、とくに蒸気織機の利用に対して機械の大量破壊運動が起きるが、マルクスは、これが「[ヘンリー・アディントン・]シドマスや[ロバート・ステュアート・]カスルレーなどの反ジャコバン政府に最も反動的な強圧手段をとる口実を与えた」とその副作用の大きさをむしろ指摘して、「機械をその資本主義的充用から区別し、したがって攻撃の的を物質的生産手段そのものからその社会的利用形態に移すことを労働者がおぼえるまでには、時間と経験とが必要だったのである」2と述べている。機械の資本主義的利用が労働者の搾取と貧困を生み出しているのであって、機械そのもの生産手段としての機能を擁護した。
こうして、この単純労働化がもたらした労働の流動性は、かつての職人のように一生ひとつの仕事に縛られることなく、様々な産業分野を行き来できる労働者の新しいありかたを示すものであるとし、資本主義では実現しえない生産の社会化、つまり労働者が生産への主導権を取り戻すなかで、機械に体現される生産力を労働者の労働能力の全面的な開花として可能にするという楽観的な見通しが示唆される。この楽観論が後の正統派マルクス主義に継承され、資本主義が開発した技術の社会主義における横滑り的な転用を正当化する理屈として俗流化されて、20世紀の社会主義を標榜する体制が墓穴を掘ることになる。資本主義が開発した技術の設計思想は資本のイデオロギーの物質的な体現という側面をもつから、機械をその社会的利用から区別して擁護することはそもそも間違いだと私は思う。この間違いにマルクスが陥ったのは、後述するように、彼の商品論における使用価値批判の観点の希薄さが深く関連している。つまり、使用価値――生活手段であれ生産手段であれ――は、同時にイデオロギーの担い手でもあるという点への関心の欠如だ。工場の機械に関していえば、労働者を統制・制御しようとする意図がなければ、機械化は資本には受け入れられなかっただろう。
他方で、マルクスは機械制大工業に先だつマニュファクチュアに関して、非常に示唆的なことを指摘している。マニュファクチュアにおいて個々の労働者は全体の一部をなす部分労働者として適材適所で機械を操作する仕事をこなす。
彼は、この作業ではより多くの力を、別の作業ではより多くの熟練を、また第三の作業ではより多くの精神的注意力、等々を発揮しなければならないが、これらの属性は同じ個人が同じ程度にそなえているものではない。いろいろな作業が分離され、独立化され、分立化されてからは、労働者たちは彼らの比較的すぐれた属性にしたがって区分され、分類され、編成される。彼らの生来の特殊性が基礎となってその上に分業が接木されるとすれば、ひとたび導入されたマニュファクチュアは、生来ただ一面的な特殊機能にしか役だたないような労働力を発達させる。今では全体労働者がすべての生産的属性を同じ程度の巧妙さでそなえており、それらを同時に最も経済的に支出することになる。3
ここで「全体労働者」と呼ばれているのは、文字通りの意味での労働者ではなく、分業によって様々な作業工程を担う労働者組織が機械とともに構成する全体を「全体労働者」と呼んでいる。この全体に対して、実際の労働者は「部分労働者」として全体の秩序に従属する。「部分労働者の一面性が、そしてその不完全性さえもが、全体労働者の手足としては彼の完全性になる」わけだが、この全体労働者とは資本の組織そのものということになる。この全体労働者と部分労働者の構造は、事務・サービス労働が機械化される過程を理解する上で重要な観点でもある。
機械化が進んでいない時代の事務労働組織は、官僚制に典型的なように、人間の作業を法や規則によって規制し、労働者の能力を個人の適正によってある特定の作業に特化し、それらを相互に繋ぐことで組織全体=全体労働者としての機能を発揮させる。個々の労働者は全体に対する部分として器官化される。相互にどのように人々の作業を連結・統制するのかを規定するルールが必要になる。官僚的な事務組織全体を機制する人間によって理解可能なコードの体系が、法として整備される。この意味での法の機能がコンピュータ化された官僚・事務組織においては、コンピュータのコードとなる。19世紀の機械化の時代に、労働時間は労働者の生命を脅かすほどにまで延長されるようになる。啓蒙主義時代の「法の精神」で仮装して、資本は労働者を支配することになる。機械化が法にもたらした質的な転換を通じて、資本の生産過程において、機械(死んだ労働)が生きた労働を支配できたのは、資本が常に法の外にあり法を自らの搾取のメカニズムに従属させる権力を持つことができたからだ。
書類作成の過程にタイプライターが導入されると、この作業が単純労働化されて、書類のコンテンツ作成から切り離されて、純粋の文字入力作業となり、熟練の解体へと向う。文字を書く作業がこうして、直接的な文章作成に必要な知的な作業と、この作業の結果を印字して書類にするというアウトプットに切り分けられ、後者が機械化されるにつれて労働者は意味を剥奪された「タイピスト」という労働に特化される。ここで構築される書類の「意味」は資本によって制御される。労働者は資本の論理に沿って意味を文字として対象化する。ここでは、彼/彼女にとって意味のある労働とはならない。
後の議論を先取りしていえば、CTC(コンピューター・テクノロジー/コミュニケーション)が支配的な時代の独自の機械=コンピュータは、多数の部分労働者を結合した全体労働者の位置を占める。労働過程の錯綜した作業工程に必要な様々な作業、たとえば、熟練、大量のルーチン作業、高速のデータ処理、高度な解析作業などがそれぞれに特化したアプリケーションに振り向けられ、労働者は、彼/彼女のスキルに応じてコンピュータ・プログラムによる処理を補助できるように労働組織が区分、分類、編成される。システムエンジニア、プログラマといった技術職からデータ入力やモニターの監視などの比較的単純な作業、処理されたデータに基づくコンピュータによる意思決定に対して人間の組織として最終的な確認を行なうことなど、労働者は個別化されつつコンピュータのシステムに沿って組織全体に、つまり資本に結合される。労働者は、コンピュータ・システムという「全体労働者」の機能=器官に転化することによって組織の規則性が維持される。古典的な工業化では、労働者は機械が果すことのできない判断や思考に直接間接関わる部分を担うように、次第に肉体的な行為の部分を徐々に機械に譲ってきたが、事務やサービス労働もまた、そのなかから計算機によって処理可能な労働を切り離して機械に委ねるようになる。20世紀の事務・サービス労働で起きてきた機械化の過程は、製造業がマニュファクチュアのなかで機械が徐々に導入されるなかで起きてきた労働者の排除と機械による置き換えの過程と、その資本の意図と構造はほぼ相似形である。ただし、今度は、人間の精神的心理的な側面に機械が深く関与するようになったという意味で、人間にとってはより侵襲的な過程になっている。そして、この精神的心理的な過程がコミュニケーション過程でもあることから、この問題は、狭義の資本の生産過程や流通過程を越えて<労働力>再生産過程、つまり私生活領域に接合されることになる。
機械への批判を、ラダイトのような機械の拒否でもなく、またその社会的利用形態だけを資本主義のそれから切り離してしまえば無毒化できるわけでもないとすれば、どうすべきなのか。いかにして資本主義的な技術開発から質的に切断されたテクノロジーを獲得するか、という方向で問題を立て直す必要がある。テクノロジーにおけるオルタナティブが真剣に議論されるようになるのは、核技術や公害、環境破壊が深刻になる一方で、マスメディアが人々の心の支配に深刻な影響を及ぼすようになってきたことへの批判が自覚的に提起される20世紀半ばをまたなければならない。またコンピュータの大衆化が到来した20世紀末に、ふたたびラダイトの影がコンピュータに向けられたこともまた忘れてはならない。4
1.1.3. 資本の秘技
資本の投資動機が最大限利潤の追求であることを踏まえれば、資本主義における機械は、「労働日のうち労働者が自分自身のために必要とする部分を短縮して、彼が資本家に無償で与える別の部分を延長するべきもの」つまり「剰余価値を生産するための手段」であるという基本線は、現在に至るまで一貫している。しかし、機械の普及についての資本の大衆向けの正当化の主張は、人類の普遍的な進歩の体現としての機械とその発明が結果として、資本に利潤というご褒美を与えるのだというある種の神話を構築することによって、資本の存在理由を文明の進歩の証しとして正当化しようとする。こうした主張が万国博覧会のようなメガイベントを通じて人々のなかに資本主義の「未来世界」を印象づけることになる。5 機械を人類の歴史的な社会の存在様式から切り離して普遍化あるいは進歩の宿命とみなす考え方とマルクスの理解との間には、資本主義をその唯一の実現可能な制度とするか否かという点を除けば、共通した認識に立っているところがある。未来という時間をも資本主義に囲い込もうが、その否定の上に成立つ社会を構想しようが、自然科学の応用としての技術の体系を共通のものとしたとき、果して労働者の労働が解放された人間の行為としての地位となりうるのか、私はこの点については極めて懐疑的だ。従って、こうした抽象的自然科学的唯物論に対して、私は、機械とは明確にその設計思想も含めて歴史的な過程の産物であり、資本主義という固有の社会がもたらした特殊歴史的な技術の具体的なありかたであって、未来社会にまでその遺産を継承すべきかどうかは改めて検証すべき課題だという点をはっきりさせる必要があると思う。
機械が人類史のなかで長い歴史をもつ「道具」とどのように本質的に異なる意義をもつのかという問題は、機械が登場した資本主義という時代と、この時代に機械が人間労働の客観的な環境として資本によって導入されることによって生じた労働者の「労働」そのものの変容の問題でもある。機械の導入のなかでの労働の変容を通じて、一方で資本にとっては有機的構成の高度化を通じた相対的剰余価値の生産という特異な資本主義的な経済成長を実現する。労働そのものの大きな変容は、全体的労働者から部分的労働者へ、労働者のコミュニティのなかで「秘技」として伝承されてきた熟練が機械に飜訳可能な知識として資本が収奪するという事態を招く。『資本論』には次のような記述がある。
ひとたび経験的に適当な形態が得られれば労働用具もまた骨化することは、それがしばしば千年にもわたって世代から世代へと伝えられて行くことが示しているとおりである。この点で特徴的なのは、18世紀になってもいろいろな特殊な職業がmysteries(myste’res[秘技])と呼ばれて、その秘密の世界には、経験的職業的に精通したものでなければはいれなかったということである。人間にたいして彼ら自身の社会的生産過程をおおい隠し、いろいろな自然発生的に分化した生産部門を互いに他にたいして謎にし、またそれぞれの部門の精通者にたいしてさえも謎にしたヴェールは、大工業によって引き裂かれた。
では大工業はどのようにしてこのヴェールをひきちぎったのだろうか。マルクスはこの秘技が近代工業化のなかで、機械化によって自然科学による意識的で計画的なもとのとなったことを評価する。
大工業の原理、すなわち、それぞれの生産過程を、それ自体として、さしあたり人間の手のことは少しも顧慮しないで、その構成要素に分解するという原理は、技術学というまったく近代的な科学をつくりだした。社会的生産過程の種々雑多な外観上は無関連な骨化した諸姿態は、自然科学の意識的に計画的な、それぞれ所期の有用効果に応じて体系的に特殊化された応用に分解された。また、技術学は、使用される用具はどんなに多様でも人体の生産的行動はすべて必ずそれによって行われるという少数の大きな基本的な運動形態を発見した(中略)近代工業は、一つの生産過程の現在の形態をけっして最終的なものとは見ないし、またそのようなものとしては取り扱わない。それだからこそ、近代工業の技術的基礎は革命的なのであるが、以前のすべての生産様式の技術的基礎は本質的に保守的だったのである。6
秘技としてしか伝承されなかった社会的な生産に不可欠な技術が科学的な知見によって、また機械を発明することになる過程を通じて、秘技から解放され不断の発達あるいは進歩を可能にしたとみる。「自然科学の意識的に計画的な、それぞれ所期の有用効果に応じて体系的に特殊化された応用に分解された」というときの「意識的」の主体は、資本主義では、先の述べたように「全体労働者」としての資本によって、資本の利潤追及というその特性によって、意識的計画的体系的に応用される。同時に、複雑な生産的行動が基本的な運動形態に還元可能だという場合もまた、それは資本にとっての「基本的な運動形態」認識だという制約がある。
秘技の問題は、単なる労働の熟練技能の問題なのではなく、労働者が労働の現場を自らの意思で支配することを可能にする固有の労働のリズムの問題でもあり、同時に、雇用契約が労働とその報酬(賃金)をリンクさせることによって、より勤勉に資本家に対して従順に働くことでより高い報酬が得られるという近代的な労働のエートスの罠が有効性を必ずしももたなかった長い資本主義初期の時代の労働者の生活世界のありかたとも密接に関わっている。E.P.トムスンが述べているように7、この機械化以前からラダイトの頃の機械化初期に至る時代のなかで、労働者たちにとっては、賃金のための勤勉な労働よりも、昨日と同じ今日の生活が確保できればよく、余計に働くよりは酒を呑むことを選び、また、工場に出稼ぎにきていた労働者達は田舎の農地の収穫期になれば工場の労働を放棄して収穫の作業のために帰省してしまう。どのようにどれだけ働くかは自分達の生活のリズムのなかで自分たちが決めることであって、資本家が口出しすべきことではなかった。こうした労働現場の自立性が労働の秘技として伝承されてきた実際の内容ではないか、とも思う。8
ここで問題になるのが、技術と資本の本源的蓄積過程との関連である。本源的蓄積とは資本主義にとって必須の前提条件となる<労働力>と土地の商品化の過程を意味し、歴史的にはイギリスの囲い込み運動がその典型とみなされるが、この過程は現在に至るまで繰り返し引き起される恒常的な現象でもある。商品化される<労働力>をめぐる問題は、工業化のなかで、もっぱらみずからの<労働力>を商品として売る以外に生存の手段をもたない無産者の社会的大量の出現によって、労働市場が形成され、資本はこの<労働力>を調達することによって生産過程を編成する、という一連の過程が生み出されることになる。ここで、この過程を理論的に論じるばあいに念頭に置かれてきたのは、労働者の日常生活とその文化を捨象して工場の肉体<労働力>の担い手としての単純労働者の存在だった。労働者が単純労働者として登場する回路は、そもそも熟練をもたない労働者たち(そのなかには、「秘技」から排除されていた農村から流入した労働者や子ども、女性が含まれた)と、機械化によって衰退した熟練労働者の単純労働者化がある。上の引用でマルクスが言及しているのは後者との関連である。労働者が「秘技」としての技能を奪われる過程は、マルクスが指摘するような自然科学の機械への応用といった過程をとったとみるとしても、社会の生産関係のなかでみれば、資本は熟練の技能を自然科学による応用が可能な「知識」に変換すると同時に、この知識を資本の所有として独占しようとする過程、労働者の部分労働者化、資本の「全体労働者」化でもあり、実際には容易な過程ではなかった。むしろこの容易ならざる過程の結果として、手に負えない労働者の頑固な生活様式に対抗する有効な手段として繰り返し新たな機械が発明され導入された。この経緯は、マルクスもアンドリュー・ユアの『マニュファクチュアの哲学』(全集版『資本論』の飜訳では『工場の哲学』と訳されている)やチャールズ・バベジを参照しながら論じていた。そして、近代化によって「秘技」から解放された技術は、資本による機械化のなかで、今度は特許という近代的「秘技」によって資本によって隠され、生産の社会的性格が私的所有によって制約される典型的な資本の利潤構造のなかに取り込まれることになる。
ところで、機械のリズムによって伝統的な労働者の生活様式を解体できたのかというとそうでもなさそうだ。ユアは機械化に果したアークライトの業績を賞賛しながらも、「システムが完璧に組織され、また労働が極度に軽減されている現在でさえ、農村出身であれ職人出身であれ、思春期を過ぎた年齢の人びとを役に立つ工場労働者に変えることは、じつのところ、ほとんど不可能である」と述べている。つまり、労働者の日常生活が資本主義的な規則に従属するようになった経緯を機械による労働の規則的な行為への転換という方法で実現するにはあきらかな限界があったのだ。単純労働者は容易に取り替えがきくから、解雇が容易であることは事実としても、逆に単純労働者もまた、熟練工の秘技による排除を回避して資本を渡り歩き、よりよい条件(賃金ではなく自由なリズムでの生活)が可能な職場を探しあるくことも可能にした。ユアは機械だけでなく、また力による抑圧だけでもなく、「道徳律」の重要性を強調する。
「どの工場所有者にとっても、比類ない関心事は、機械装置の場合と同じくらい強固な原理にもとづいて道徳装置編成することにある。そうしなければ工場所有者は、すぐれた生産物に欠かせない、確かな手の動きや、注意深いまなざしや、素早い協力などを支配できないのだから」9
この道徳律を労働者階級のなかに浸透させる上で重要な役割を果したのが、ジョン・ウェスレーの創設したキリスト教のメソジストだった。ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理』で主に着目したのが中産階級の職業倫理とキリスト教との関係だったのに対して、メソジストは労働者階級に大きな影響をもった点にトムスンは着目した。トムスンは労働規律としてのメソジスムの効用は明確であって「多くの労働者がこの心理的な搾取に屈服した」10と述べ、その経緯を子細に論じてもいる。メソジストの教義そのものは極めて厳格であって、子どものしつけは今でいえば虐待とみなされてもおかしくないほど厳格さを要求しており、19世紀末の研究者ですらメソジストの道徳律を「恐しい宗教的テロリズムの体制」11と述べているほどだが、むしろこの教義が実際のコミュニティのなかでは様々に変形されたり緩められたりしつつも、新興の教会が、閉塞した労働者の精神的な拠り所となる経緯は、米国の近代化における「反知性主義」12の伝統ともどこか重なりあうところがあり、また、現代のトランプ政権下での福音派やイスラム国など、多様な形で存在する宗教的な意識と共通するところが多い。機械と道徳が一体となった「装置」として人口を制御するシステムへの要請という課題は、労働者の階級意識と階級闘争、あるいは労働をめぐる倫理と拒否をめぐる反資本主義運動内部に今に至るまで持ち越されてきた課題である。こうした課題が19世紀の機械の時代にも見出せるというところに、この問題がいかに資本主義の本質と密接に関わる課題であるのかを示してもいる。だから本書の関心はコンピュータという機械が要求する道徳装置の編成という課題を通じて、創造的なラダイトの可能性をどこに見出せるのか、ということでもある。
民衆が近代資本主義のなかで労働者として再定義されるなかで、機械と市場の合理主義によって、その意識が一方的に規定されるというよりも、この経済的土台が要請する意識を道徳律によって補完する場合に、理性ではなくある種の宗教的な信仰に依存しながら、近代社会における封建制や前近代社会とは異なるコミュニティの人格依存的な紐帯の再構築がなされることになる。この過程で、労働者の労働に関わる知識は宙吊りにされて資本の側に囲い込まれることになる。この知識の資本による占有が、資本主義における私的所有がもたらしたあまり注目されてこなかった側面だが、それが情報資本主義からコンピュータによる資本主義のなかで中心的な役割を担うようになる。
1.2. 身体性の搾取をめぐるコンテクスト
1.2.1. 知識、技術、身体性の搾取
労働者の知識、あるいはより一般的にいって民衆の知識が近代資本主義では資本の「知識」として囲い込まれて私有化されるという問題は、身体の<労働力>化にともなう重要な局面だ。労働者は肉体労働を資本の機械に従属させられるだけでなく、労働=生産過程に必要な知識を細分化され、意味を剥奪されて資本に独占され、その知識の共有を阻まれる。
資本の生産=流通の全過程を生産手段と<労働力>の結合による生産物の生産と流通という観点から、この過程において資本と労働者の間で知識の流れがどのように構成されているのかをみると、労働者は一貫してその知識を機械と資本家による監督のなかで抑制されるか、資本家が与える知識の流れに自らの意識を同期させることを強いられていることがわかる。この過程は、一般に生産手段の私的所有に伴う特許や知的財産権としての側面と同様の効果を労働者の側に及ぼす特殊資本主義的な知識の占有過程でもある。機械をめぐる技術に関わる私的所有に対して、<労働力>商品化によって労働者が引き渡すことになるのは、彼の知的能力の資本による抑圧や囲い込み、つまり道徳律の貫徹の過程、トムスンのいう「心理的搾取」であった。これはいずれも、本来は労働者に帰属すべきものが資本家の技術あるいは知識として現象するものだ。こうした技術には、生産過程に関わるものだけでなく、資本の流通過程に関わる技術や会計、労務管理、商品の販売といった一連の技術として、市場と資本の組織に固有のものとして、資本主義的な意識の形成を伴う特殊歴史的な発展を遂げる。資本の生産過程において労働者の身体に内属する心身の能力は、細分化⇒機械化を通じて資本に転移する。生産過程の機械化とは、労働者が排除されると同時に労働の主体に内属している一連の知が資本に収奪されることでもあった。
同様に、20世紀における人を対象とする労働過程(流通や管理過程)は、この過程が労働者に委ねられている限り、指揮命令を資本が担うとしても、人を対象とする労働過程を通じて労働者が獲得する知の総体を資本は自らのものにはできない。人を対象とする労働――商品の販売、教育、様々なサービス労働など――とは、コミュニケーション労働であって、この労働の過程を通じて、労働者は膨大な対象者のデータを自らの経験知として獲得する。資本はこの経験知に依存しなければ労働対象としての人間を把握することができない。情報処理能力が限定されていた時代には、いつどこで商品がどれだけ販売できたか、といったデータを得るのがせいぜいであり、どのようにして商品の販売を実現できたのか、なぜ当該の客はその商品を購買することを決断したのか、その客はそもそも何者なのかを最もよく知っているのは、実際にその客と対応した販売に従事した労働者であって、資本はこの労働者に依存せざるを得ない。資本は、この労働者への依存のなかで、販売に関わる行為をデータ化しようとしてきた。しかし、工場のように労働の細分化と単純労働化から機械化へ、という経路をとることには限界がある。なぜならば、顧客とのコミュニケーション過程を細分化することはできないからだ。これは、資本内部の管理労働であっても同様だ。人を対象とする労働を、その労働の主体である労働者から切り離して、コミュニケーションという一連の過程をひとつの連続した流れのなかで資本が全面的に支配することはできない。この限界を突破したのが、コンピュータによる情報通信システムだ。コミュニケーション過程を全体としてデータとして収集し、これを当該の労働者とは切り離して資本が解析して利用できるシステムが構築されるようになる。この目的は、一方で、消費者の動静をより直接的に把握することであり、もうひとつは、労働者に依存することなく資本がコミュニケーション過程を総体として支配できるようにすること、である。物質的生産過程とは全く異なるプロセスを経ながら、その目的は労働者の排除であり、資本による直接的な支配である。
人間のコミュニケーション過程をコンピュータ・コミュニケーションに置き換える過程は、たとえば、これまでの消費者がこれまで人間を相手に売買の交渉をしたり、住民が役所で職員に話したり、学生が教員の授業を受けるといった過程に換えて、消費者も住民も学生も人間ではなくコッピュータを相手にコミュニケーションするということを意味する。この過程が、外形上人間と人間のコミュニケーションと極めて近似するような過程になるにつれて、人間はコミュニケーションの相手のコンピュータを人間であるかのようにみなすようになる。単なるアルゴリズムがここでは人間であるかのようにみなされることになる。これは、マルクスが貨幣の物神的性格として論じた単なる貴金属に一般的等価物という社会的性格が付与されることによって普遍的な交換力がそもそもの貴金属それ自体の本性であるかのようにみなされる、とした過程と非常によく似ている。私はこれをAIフェティシズムと呼びたいと思うが、この過程によって、人間のコミュニケーションは深刻な変容を被る可能性がある。外形上人間と遜色のない「言語」を語るコンピュータは、人間の言語獲得とは全く異質で共通性のない機械学習過程を通じて「言語」を獲得している。この「言語」獲得の異質性が意識されずに人間によって人間であるかのようにして受容されることが数十年にわたって繰り返されるにつれて、コンピュータの対人「言語」が人間の言語獲得のプロセスにも影響を与えるようになrうだろう。そうなれば、そこで人間の側にどのような問題が生じるのかは、注視すべき重要な問題だ。市場経済が貨幣を「自然」なものとして受容するなかで数世代にわたって形成されてきた人間の欲望や資本主義的な家父長制的な家族制度のなかで形成されてきた欲望の変容という前例があることを忘れてはならない。今私たちが経験しているのは、かつての変容とは次元が異なり、より包括的なコミュニケーション領域における支配的制度への人間の包摂である。
生産過程であれ流通過程であれ、あるいは管理過程であれ、労働者が被る資本と自らの行為との関係を、私は意味の剥奪と呼んできた。剥奪された意味の空白を埋める代替的な意味が、19世紀であればメソジストに象徴的にあらわれた宗教的な信条であったように、何らかの意味によって埋めあわせされる必要がある。この支配的な埋め合わせと階級意識、反資本主義の意識との対抗関係こそが、イデオロギーの領域における重要な闘争課題になる。したがって、心理的搾取をレトリックとみなすべきではなく、こうした搾取は剰余労働の搾取とともに資本主義における搾取の重要な側面であって、この意味での搾取からの解放もまた、コミュニズムの重要な主題となるべきものだ。
この知識の私的所有、あるいは心理的搾取は、資本の直接的な支配の領域を超えて人々の日常生活領域にも深い影響を及ぼすようになる。消費生活の水準が「向上」すればするほどその傾向が顕著になる。20世紀の資本主義は、文化産業あるいはメディア産業の成長に伴う知の商品化、あるいはコミュニケーションの市場経済への統合によってこの生活世界への浸透が進展する時代となる。大衆文化としての映画、ラジオ、テレビといったメディアのコンテンツが知的財産として資本の所有に帰されてきたという20世紀の歴史があったからこそ、コンピュータ化の歴史とプロプライエタリなソフトウェアによる不透明でブラックボックス化するコミュニケーション制御の技術の生活過程への浸透が可能になった。歴史的にみれば重商主義のイギリスが最初に導入したといわれる技術をめぐる特許制度、1624年の「専売条例」にまで遡れる過程と<労働力>の意識を一定の道徳律によって制御するために宗教的な信条を動員する非合理な世界が、21世紀のコンピュータ化による資本主義が不器用な手法でまがりなりにも「統一」しようとあがくことになる。かつて機械が労働者の日常生活のリズムをも制御することができず、結局は道徳律を宗教的な非合理に委ねざるをえなかったように、コンピュータのコードやプログラムもまたそれ自身の内在的な合理性によっては人間の非合理な行為を制御することはできず、やはり宗教的な非合理に委ねざるをえない事態が顕著にみえる。13
私が関心を持つのは、この労働の変容は、労働の主体である労働者としての役割を担う人間の生存様式そのものを変容させる一連の過程でもあり、これがもたらす全体的な心身変容である。つまり、資本による形式的包摂の段階から、単純労働化、知識の資本による囲い込みを経て、資本による実質的包摂へと労働者役割を担う人間の生存様式を変容させる一連の過程がもたらす全体的な心身変容である。労働者が総体として、剰余労働に限定されずに労働の総体が「搾取」される過程へと巻き込まれていくことを見逃してはならないと思う。これを私は身体性の搾取と呼んだが14、この搾取過程は、いわゆる経済的貧困の問題に限定されないのであって、意味の剥奪と資本による意味の再構築を伴う総体としての人間そのものの資本主義的な再構成である。これがコンピュータ化によるデータ化する人間の前提になる。同時に、この前提がコンピュータ化による資本主義的な人間の進化をもたらすことにもなる。だから、剰余価値の搾取からの解放は、解放の戦略の必要条件であっても十分条件ではない。人間が「労働者」となることによって、再構成される人間の意味が、膨大なデータにもとづく可変的な客体として処理される現代の「私」は、搾取の実態を経験的な実感として捉ええたと主観的に感じられたとしても、その実感を超えたところで、実感されない広大な領域に拡がる「私」の意味が搾取に晒されており、これを取り戻す闘いは、社会的平等に基づく自由の領域の創造においてのみ可能なのであって、現代に固有の資本主義的生産様式とイデオロギー構成の全く新しい地平での闘争の配置を必要とするだろう。
19世紀から20世紀にかけて、資本と支配者たちは、プロレタリアートに社会変革の主体の位置を与えないように主体の変容をもたらす生産様式と生活様式の再構築を目指してきた。資本が導入するテクノロジーもまた、この視点を通じて評価されることが必要になる。
1.2.2. 経済的価値をめぐる資本主義のパラレルワールド
19世紀の機械制大工業への転換の時代を目撃したマルクスによる資本主義批判の理論的パラダイムの根本にある労働価値説は、労働を社会的富の根拠とし、資本の利潤の源泉を労働者の労働に見出し、社会の豊かさは資本が生み出すのではなく労働者が生みだすものだから、資本が存在しなくても社会は存続可能であることを指摘した。こうすることによって、資本主義の歴史的な限界を理論的に明確化し、19世紀の労働運動の正当性を根拠づける重要な役割を担った。『資本論』の刊行当時、工業化の最先端にあったイギリスの機械制大工業の実態を工場監督官報告書や議会の委員会議事録、児童労働に関する報告などの公的な文書を駆使して論じたことについては好意的な評価が示されたにもかかわらず、彼の理論の核心にある労働価値説については厳しい拒絶にあう。労働が価値の源泉であるというマルスクの主張が必然的に導き出す資本家への道徳的な批判が、理論的な問題以上に支配階級の感情的な拒否を生み出したとホブズボームは指摘している。この意味で、労働価値説は、理論的な批判に加えてイデオロギー的な「批判の砲火」を浴びることになる。15
20世紀初頭にかけて、資本主義は、マルクスの資本主義批判と労働運動、社会主義、コミュニズム、アナキズムの運動に直面して次のステップへと展開していく。ひとつには、資本主義の正当性、とりわけ資本が社会の豊かさを担う主体であり、市場経済がその不可欠な機構であることを証明しようとする一連の資本主義擁護の学説が登場する。いわゆる限界革命とよばれる経済学説の台頭である。労働価値説を否定し労働者の労働と社会の富を結びつける一切の論理を否定する理論体系が構築される。労働価値説への批判は、すでに『資本論』第一巻刊行後に登場し、エンゲルスは、自身がマルクスの草稿を編纂して公刊した二巻、三巻の序文では労働価値説批判への反論に多くのページを割いた。労働価値説への批判は、労働運動や社会主義者のなかからもあらわれることになる。この労働価値説をめぐる議論は、「転形論争」などと呼ばれて以後1世紀以上にわたって続き、現在に至るまで決着しないままだ。労働と自然に社会的な富の源泉を求める考え方を否定して資本の存在意義を肯定する価値理論が、後に登場するケインズ理論とあいまって、現在の主流の経済学を構成することになる。
主流の経済理論は、社会を数学的なモデルによって分析可能であるとみなし、マルクスが採用した弁証法的で記述的な論理構成をとらない。マルクスは、様々な具体的な経済実態に関する資料を駆使しつつも、理論の枠組の構築では実証主義を退けて、経験的な事実によっては論証しえない資本主義の搾取の構造を論じようと試みた。主流の経済学は、統計データを「事実」とみなしてこのデータを解析することによって、経済システムの動向を把握・予測可能とし、これを理論にフィードバックさせる方法が科学的な方法とみなされることになる。ここには、私が歴史の方向性を規定する弁証法的な過程として先に指摘した社会内部にある敵対的な闘争のファクターは、入り込む余地がない。
こうした支配的経済学がとる方法と理論の前提に置かれる資本主義は、コンピュータ・テクノロジーが支配的な社会にあって、コンピュータのプログラムが前提する理論的な方法と共通する。つまり、支配的な経済学は、社会を構成する矛盾の弁証法だけでなく経験や実感では把握しえない歴史的な構造を把握する方法をもたず、与件とされたシステムは、究極の否定としての資本主義そのものの否定という結論をあらかじめ排除し、いかなる結論も既存のシステムを維持することを前提にしたものになる。
1.2.3. 資本による意識制御の技術
19世紀が肉体的な熟練を単純化して資本の下への労働者の従属を可能にする基盤が形成されたとすると、20世紀は、この過程がいわゆる「精神労働」の世界で繰り返される時代だったとみることができる。「精神労働」の展開は二つの局面をもっていた。
ひとつは、単純労働化した工場労働者をめぐる問題である。労働行為は、工場での物質的生産に関わる肉体労働だが、いかなる肉体労働であれ、人間の労働である限り、「頭=脳」の問題を抜きにすることはできない。労働者が資本の管理・支配を受け入れるかどうかは、労働者の意思に関わる。前述したように、トムスンが論じた道徳律の形成にメソジストが果したような役割の構造から、資本はより積極的に、みずからの資本の運動過程に意識を制御する仕組みを組み込むようになる。意思の問題を労働の単純化と機械への従属という客観的な環境を通じて強制する手法に加えて、労働者の意識そのものを資本に従属する意識へと変えるための技法の開発が20世紀資本主義が取り組んだ最大の課題だった。というのも、グラムシが述べていたように、労働者の労働が単純化したとしても、労働者の頭もまた単純化するわけではなく、単調な繰り返しの労働をこなしながら労働者たちは、頭を使って、資本の支配への抵抗のための作戦を練ることが可能であり、労働者の意識を資本が直接支配することは容易なことではなったからだ。そしてまた、マルクスもまた労働時間の短縮をめぐる闘争において、資本が長時間労働を希求するのは、単に、絶対的剰余価値の生産を求めようとする意図だけではなく、労働者に自由な時間を与えることのリスクを自覚していたからであり、逆に労働運動にとっては「労働時間の短縮は、精神的教養にあてるべきより多くの時間を労働者階級にあたえるためにも、絶対に必要」であり「彼らの究極の解放を達成するための第一歩」16だと主張していた。その後の資本主義の展開をみればわかるように、労働時間の短縮によって生じる自由時間を資本は娯楽の時間として資本の消費過程に包摂した。非労働時間をめぐるこの階級闘争は同時にイデオロギーの再生産をめぐる闘争であり、意味をめぐる争奪でもあるのだが、労働運動がもっぱら労働時間の短縮を労働過程の過酷な労働の問題としてしか理解しなかったために、みすみす自由時間と私生活を資本の支配に譲り渡すことになった。
20世紀の資本主義では、産業心理学が発達し、フォードは移民労働者の日常生活をアメリカ型のライフスタイルや英語教育などによって、生活をまるごと資本主義の価値観によって包摂しようとした。こうした流れが、その後、大衆消費社会や「豊かな社会」としての資本主義モデルとイデオロギーの形成へと繋っていく。この過程は階級意識の解体をめぐる闘争の歴史でもあり、20世紀には当たり前になる普通選挙権によって労働者もまた有権者としての政治的な権利を獲得した代償として、階級ではなく国民としての国家への統合、すなわちナショナリズムの浸透を伴うために、労働者の国際主義が解体し、これが20世紀型のファシズムや社会主義を標榜する権威主義国家の誕生を支えてしまう。
21世紀のCTCとしての機械=コンピュータは、上述した20世紀資本主義による意識生産の限界を克服するとともに、現代のメソジスト的な様相の登場とともに新たな機能をまとうことになる。CTCが支配的となった社会は、コンピュータをモノの生産から人々の意識の生産へ、意識の生産から感情の生産へと展開していく流れのなかの最後の段階、つまり感情を含む人間の「脳」の活動を代替しようとする方向へと向かった。その一方で、コンピュータは、19世紀の機械制大工業のなかで機械が工場労働者の肉体労働を支配したように、人々の日常生活の言動を支配するための装置になるような方向をもって開発が重ねられてきた。その現在の帰結が人工知能の産業への応用から日常生活への応用へという広がりということになる。こうなると、技術をめぐる問題領域は、一方で機械をめぐる問題でありながら、他方で、コンピュータが関与するほとんどあらゆる産業分野を横断する構造転換だけでなく、コンピュータが媒介する人間のコミュニーション領域をも包含するようになる。CTCが人間のコミュニケーションと融合する局面、つまり機械による(象徴的)言語や表現の領域と人間のそれとの関わりといった切り口を介して、人間の文化的な営為をまきこみ、経済的土台は上部構造と不可分一体のものとなる技術的な前提を獲得することになる。これは技術決定論を意味しているのではなく、技術の展開ベクトルは、人間の言動を予測と操作を通じてコントロールしようとする資本主義社会が抱いている支配欲望の実現に近づこうとしてきたシステムの自己維持機能の結果だということだ。資本主義にとっての最後のフロンティアは、人間の言動の未来領域を資本の領域のなかに確実に囲い込み、予測可能で操作可能な存在へと変えることによって切り開かれる領域であり、「無意識」の領域が戦場になる。この課題の実現のために、資本主義はCTCに賭けた、といってもいい。
1.2.4. 法の支配からコードの支配へ
ルイス・マンフォードは次のように述べている。
人間の単なる動物状態からの離脱に伴なう不幸は多かったが、その報酬は大きかった。人間が幻想や計画、欲望や意匠、抽象や観念を日常経験の平凡なことと混合させる傾向は、今も見られるように、限りない創造力の重要な源であった。非合理と超合理を分ける明確な線はない。そして、この対立した能力を扱うことは、つねに人間の主な問題であった。技術と科学にたいする今日の解釈が皮相的であることの理由の一つは、人間文化のこの面が、人間存在の他の部分ばかりでなく超越的な願望と悪魔的な強制をも受け入れやすいこと―そして、今日ほどそれらを受け入れやすく、外を受けやすいことがなかったこと―が見落されていることである。17
支配者が人々の言動の将来を把握し支配したいと考えることは、今にはじまったことではない。支配者が予言や占いを好むように、彼等は未来永劫の支配者としての安泰をなによりも願望する。人類史あるいは文明史のなかで、近代も含めて、この領域の大半を占め、最も大きな影響力を発揮してきたのは、宗教だった。近代は宗教を二番手に退かせ、科学がこれにとってかわるが、宗教的非合理は、科学には不可能な人々の心理と意識に対して深い情動を、しかも非合理性を前提としたそれを刻み込むことができるために、相変わらず維持されるか、文化のなかに伝統などとして姿を変えて人々の非合理な日常意識を支えることによって、権力の正統性を支えつづけている。18
実はコンピュータが日常のコミュニケーションの生活必需品になる過程は、この不合理で非科学的な大衆の日常生活行動と不可分一体のものとして人間側が受け入れることなしにはありえなかったし、今でもそうだ。ほとんどの人々はコンピュータがどのようなメカニズムで作動しているのかを知らされないし、コンピュータを動かしているプログラムは、それを理解する知識を習得することが必須とはみなされないどころか、むしろこの「秘技」から人々を遠ざけようとすらされてきた。このことは、識字と成文法と統治権力が密接に関わっている近代国家の権力の性質を踏まえたとき、無視できない問題を提起していると思う。近代国家が形式上法の支配を掲げ、人々が立法機関として議会を設置し、法を執行する権力組織として官僚制が整備される前提にあるのは、主権者としての人民が法をめぐる書かれた言葉を理解できることを前提としている。統治と執行のための権力は書かれた言葉を媒介として、その正統性が「理解」される。この意味で法や規則の文言は人間の行動を機制するコードとして機能してきた。話し言葉が発話者の恣意に影響されるのに対して、成文法は恣意性を排除して誰もが同じ文言を共有することを通じて、権利と義務を確認する。この意味で、権力は書かれた言葉としての法や規則によって制約されることになるために、法律の条文は難解な文体を戦略的に採用して人々の解釈を阻害しようとする。そして、権力者は、書かれた言葉の解釈の主導権をとることによって、権力の執行そのものの裁量を幅広く獲得し、この裁量の正統性を法の解釈によって確保することが可能になる。この成文法の拘束を克服して法を超越する足掛かりを獲得する。識字率が高まれば高まるほど権力者が独占する書かれた文書の意味や解釈が、書かれた文書そのものよりも重要になる。
コンピュータが権力組織のなかで、その執行に占める割合が拡大している現状は、法や規則の文書人間が理解・解釈して執行するという伝統的な権力行使のプロセスを根底から覆す可能性をもつものだ。ローレンス・レッシグが法に対してコンピュータのコードが果たす役割に注目して問題提起してきたことが、日本ではほとんど関心をもたれていない。19立法府が法案を審議しても、執行権力に組み込まれたコンピュータのコードを審議する権限を与えられていないために、現代の国家は、事実上執行権力の圧倒的な優位と事実上の独裁といっていい体制が可能になっている。法の支配はコードの領域を十分には支配できていないのだ。
コードの読み書きの能力は現代の統治権力がいかなる力を発揮しうるものなのかと密接に関わっている。コミュニケーションを成り立たせている技術がどのような仕組みなのかわからないまま、企業や政府の宣伝を鵜呑みにして圧倒的に多くの人々はコンピュータを日常のツールとして受け入れてきた。この事態は、法の支配に依拠してかろうじて民主主義の体裁をとることで近代世界の理念的優位性の証としてきた基盤が大きく揺らぐことを意味している。最大の問題は、この揺らぎにほとんどのリベラル派も左派も気づいていないし、対抗戦略を模索することすらできていない、というところにある。
1.2.5. 近代の基本構造
もし人々が、合理的で科学的な精神を持ち、コンミュニケーションの権利や基本的人権の憲法の理念を日常生活で具体的に実現することに関心があるとすれば、コンピュータのような複雑で理解することが困難なものは容易には受け入れないはずだ。この意味でコンピュータの普及は、実は人々の不合理な日常生活や情動、言動の世界と表裏一体だともいえる。この問題は、21世紀のフェイクニュースやヘイトスピーチのような不合理な表現行為を考える上で重要なことなのだ。
そもそも近代社会の支配的なシステムをなす「資本主義」とは、マルクスの定義を踏まえていえば、資本の経済支配と国家による統治権力の独占という二つの権力からなる歴史的な社会ということになる。資本と呼ばれる経済組織20が、社会を構成する人口の必要とするモノを供給し、同時に統治機構=国家は、法的な強制力と人口が必要とし資本が直接供給しえない物やサービスの供給を担う。資本主義とは、資本による市場経済が社会の経済を支配するようになって、人々の生存の基盤を根底から転換させた社会でもある。とりわけ<労働力>と土地が市場で売買される商品になることによって、国家権力の基盤となる領土と人口が市場に接合されることになる。これが資本主義を歴史的にそれ以前の社会から区別する根拠をなすことになる。この意味で、国家もまた近代に固有の統治機構であり、文明と呼ばれる古代社会以降の様々な社会の統治機構との共通性は、近代国家がその歴史的正統性を纏うために持ち出してきたイデオロギー的な歴史観でしかない。
コンピュータによって接合された社会関係に規定された人間関係を生み出す直接的な歴史的前提が機械制大工業であり、この両者に共通する社会統治のシステムが市場と国家であったとすれば、この全体を規定している構造こそが近代と呼ばれてきた社会の基本構造であり、私たちは、こうした社会から未だ脱することもできず、またその次を見通すこともできていない。資本主義は歴史的社会として一貫性をもっており、工業化の社会にも、脱工業化=情報化=CTCが支配的となった社会にも共通した構造があり、更には、20世紀のいわゆる社会主義と呼ばれた体制と資本主義の体制の間にも、見見かけ上の対立はあるにしても、その背後に共通した「近代」という時間と空間の限定を定義することができるものが存在する。わたしは、この核心にあるものを国民的な<労働力>としての人間という特異な人間類型にあると考えている。
<労働力>としての人間の誕生は、マルクスが本源的蓄積と呼んだ数世代にわたる身体性の再構築過程の結果であり、この過程は今に至るまで継続している。人間による機械の操作が資本の生産過程に組み込まれることをマルクスは死んだ労働による生きた労働の支配と呼んだが、この機械化を資本が好んだ理由は主に二つある。ひとつは、時間の効率性である。資本の回転速度が利潤率に影響することから、資本はスピードアップに異状な関心をもち、機械化を好んだ。機械によって資本がスピードをコントロールできるようになり、人間動作の速度の限界は資本にとっての決定的な限界とはならなくなった。もうひとつは、結果あるいは予測の確定性だ。設計図通りに作動する機械は産出する結果をあらかじめ予測することを可能にし、これもまた予測が不確定な人間の労働(明日もまた今日と同じように働かせることができるかどうかは不確定だ)の不確定性を排除して機械を好むことになる。機械に具体化されたテクノロジーの基本的な開発の方向性は、この二つの要因、スピードと予測可能性によって規定されてきた。特に予測=計画という側面には、20世紀の「社会主義」も注目した。計画経済がマルスクのコミュニズムのイデオロギーを右翼的に転用したこのイデオロギーは、市場の不確実性を超克する可能性を秘めているものとある時期までみられていた。資本がその組織内部での計画性(予測可能性)を昂進させながらも、市場そのものを計画的に調整しつつなおかつ「市場の自由」と両立させる方法は、資本による独占というナショナルな経済の一部でのみ実現可能な方法がせいぜいであったのに対して、「社会主義」は、ナショナルな経済全体を国家の計画経済として調整することを法的にも政治的にも正当化しうる枠組をもつことで優位にあるとみなさた時代があった。資本主義は資本による結果・予測の確定性を導入するなかで、人間の不確実な要素、つまり、自由を制御する技術の開発へと向う。
「社会主義」の主流もまた合理性の勝利の社会的な体現、あるいは合理性を経済の物質的な基礎において実現することこそが人類の進歩の証だと誤解した「進歩主義者」という側面では資本主義と進歩の観念を共有してしまった。これが、グローバルな標準としてのテクノロジーをもたらし、その結果として、私たちには文字通りの意味でのオルタナティブを奪われた。しかも社会主義は経済システムにおける計画に込められた結果・予測の確定性を達成するためには、人間の自由の領域を必然の領域へと切り替える必要に迫られた。そうしなければ計画は完遂できないからだが、社会主義があるべき資本主義には不可能な自由、つまり社会的な平等を基盤とした自由の領域を創造するという重要な目標を最初から放棄してしまった。こうして一見すると資本主義は自由において20世紀型の社会主義なるモデルよりもより許容度が大きいために、人々は、この資本主義の自由、つまり市場の自由に拘束された自由を真の自由だとするイデオロギーを受け容れるようになった。サッチャーが言った意味でのオルタナティブの不可能は新自由主義の専売特許なのではなく、おしなべて、現にある社会システムの淵源をなす20世紀の支配的なイデオロギーのいずれにおいても体現されていたものだ。私たちが挑戦しなければならないのは、こうしたイデオロギーの殻を破ることにある。
歴史が弁証法的な展開を遂げる典型的な例が、機械化として始まった資本主義をめぐる20世紀の歴史のなかに見出すことができる。机上の空論でしかなかった国家経済計画の「社会主義」モデルを実現可能と過信した20世紀の国家社会主義(ナチズムのことではなく、20世紀に存在した社会主義を標榜する国民国家群のことだが)に対して、資本主義は、市場の無政府性というやっかいな問題をかかえ込んできた。資本にとって予測の不確実性は、資本の価値増殖の深刻な制約条件をなしている。競争が資本蓄積に果す効果が不確実な予測によって常に足をひっぱられる。だから競争によって優位に立ち、競争相手の資本を淘汰して独占を指向するわけだ。しかし、これだけで不確実性の問題は終りではない。
市場経済が他の経済システムと決定的に異なるのは、買い手、つまりモノの受け取り手にモノの移動の決定権がある、という点だ。しかも、この決定権が、理念的なモデルでいえば、「個人」に帰属する。つまり、貨幣所有者でもある買い手が自分の欲望(ニーズ)に忠実に、欲しいモノを市場で購入する。買うかどうかの決定権は貨幣所有者が独占する。この買い手と売り手の非対称性は、売り手もまた、販売が実現して買い手となるときには、貨幣所有者としての売買契約の独占的な決定権を握ることで相殺される。
1.3. 土台と上部構造―構造のメタレベル
1.3.1. マルクスに即して
マルクスが資本主義に対する批判的分析の方法として、法的諸関係や国家緒形態、さらには人間精神は「物質的な諸生活関係」に根ざしており、その解明は経済学の領域にあるとした上で、これを定式化した端的な文言を『資本論』の前に書かれた『経済学批判』の序言で書いた。これが土台と上部構造という社会全体の見取り図を描いたものとして解釈され、マルクス主義の社会観、あるいは唯物史観(史的唯物論)の定式と呼ばれて資本主義批判の基本的な視点として、俗流化されたり教条的な解釈がまかりとおってきたり、グラムシからアルチュセールまで資本主義批判の議論にとって欠かせない入口となってきた。以下、私の議論は、これまでのマルクス主義の掟からするとやや異例の論点を提起することになるかもしれない。結論から述べてしまうと、先にも述べたように、マルクス主義による資本主義批判への対抗の歴史だとみることができ、ポスト・マルクスの時代の資本主義は、土台―上部構造というマルスクの定式の矛盾の体制内止揚の歴史だと私は考えている。資本は、法やイデオロギーなど統治機構を資本の価値増殖過程に組み込み、経済的土台それ自体が上部構造の機能を担うという土台の上部構造化をもたらした。言うまでもなく、コンピュータのコードがここでは重要な役割を担うことになる。この土台と上部構造の融合によって、マルクス主義の唯物史観のパラダイムに基づく資本主義の構造的矛盾、つまり資本主義内部の反資本主義の潜勢力をもつ様々な闘争を回避しようとしてきた。これがポスト・マルクス、つまり20世紀資本主義の弁証法の過程だった。この歴史的経緯を踏まえて、この資本主義の対応を脱線させるためには、マルクスの定式に対する大胆なバージョンアップが必要だというのが私の主張だ。このなかで重要なことは、コミュニケーション行為の労働化と資本による包摂にはじまり、文化やイデオロギーの領域が資本の投資対象となって市場に包摂され、イデオロギーそれ自体が資本の価値増殖の直接的な領域へと再編されてきたこの1世紀に及ぶ過程をふまえることが必要である。
資本が唯物史観の定式を出し抜こうとして展開してきた資本主義延命の戦略は、商品の使用価値が生活過程で果すイデオロギー作用を徹底して活用することによって、<労働力>の意識領域を資本が占領するという戦略をとった。資本の本源的蓄積は、16世紀以降の地理的な空間の囲い込みに始まり、20世紀に至って公共空間を市場化(いわゆる規制緩和と民営化)することを通じて、日常生活意識という心理的な空間の囲い込みにまで至った。そして、今、この上部構造に残された最後の領域ともいえる法と政治による統治の領域と日常生活空間とを資本はコンピュータ・テクノロジーのコードによって加重決定できるところにまで到達している。
そもそものマルクスの『経済学批判』の文章にまずこだわってみよう。いわゆる唯物史観の定式とは以下の箇所をいう。
人間は、彼らの生活の社会的生産において、一定の、必然的な、彼らの意志から独立した諸関係に、すなわち、彼らの物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係にはいる。これらの生産諸関係の総体は、社会の経済的構造を形成する。これが実在的土台であり、その上に一つの法律的および政治的上部構造がそびえ立ち、そしてそれに一定の社会的諸意識形態が対応する。物質的生活の生産様式が、社会的、政治的および精神的生活過程一般を制約する。人間の意識が彼らの存在を規定するのではなく、彼らの社会的存在が彼らの意識を規定するのである。社会の物質的生産諸力は、その発展のある段階で、それらがそれまでその内部で運動してきた既存の生産諸関係と、あるいはそれの法律的表現にすぎないものである所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は、生産諸力の発展諸形態からその桎梏に一変する。そのときに社会革命の時期が始まる。21
ここで私が注目したいのは、マルクスがなぜもっばら物質的生活に着目したのか、このことをどのように理解すべきなのか、である。物質的生活の生産様式こそが当時でいえば資本主義的生産様式の中核をなしており、市場経済もまたもっぱら物の生産の連鎖からなるものだった。植民地における工業原料の生産や必ずしも資本家的とは言い難い家族制生産様式を含む農業などを周辺に配置しつつ、物の生産が主に社会の人口の大半の生活過程への資本の介入の回路だった。この物の商品としての回路を産業資本や商業資本が支配することを通じてしか、人口の<労働力>としての再生産過程に介入する術はなかったともいえる。資本家にとってこのマルクスの定式ほど恐しく不安に駆られる規定はないだろう。資本は<労働力>を必須とする以上、労働者がその意識をその存在によって規定されざるをえないのであれば、労働者が資本家の立場を内面化する、つまり資本主義的な意識をもつことによって労働者でありながらその存在の本質=搾取される身体性としての生を資本家的に肯定するなどということはありえようがない、ということになるからだ。以降、労働者に対する資本の戦略22は、資本家的な意識が労働者の存在を規定するという逆立ちした関係の構築へと向う。つまり、ポスト・マルクスの資本主義は、労働者性を基盤の置く資本主義批判への応答として階級意識を回避する社会意識の意図的な形成を市場経済のなかにも統治機構のなかにも、そしてイデオロギーのありかたにも組み込むことになる。この資本による挑戦は、その制度を与件としては解くことのできない難問がもたらす矛盾と摩擦が資本主義の常態となる。先に指摘した資本主義の支配的な経済学とマルクスのそれとの決定的なパラダイムの違いをなす労働価値説の是非をめぐる論争は、この意味においても、まさにイデオロギーを背景とした闘争でもあった。この矛盾と摩擦が組織的な闘争になる場合もあれば、いわゆる社会的逸脱や社会病理とみなされる場合もあれば、私的な悲劇として片付けられてしまう場合もあるのだが、心理的な空間や生活空間を資本が支配する社会にあって、いかなる私的な事柄も社会的な矛盾の表出――personal is political――として解釈されなければならない。
1.3.2. 資本主義の支配的構造
資本は市場を離れては存在しえないし、資本の存在理由は不断の価値増殖であるから、資本がこの本性を維持しつつ社会的、政治的および精神的生活過程全般を制約する最も直接的な方法は、これらを市場に統合することだろう。あるいは、法律的および政治的上部構造を経済的土台に組み込むことだ。
他方で、政治的な権力にとっては、目的は経済的な利潤ではなく、政治的価値、つまり権力の不断の増殖にある。政治的な権力は社会領域へ、そして市場へとその力の拡張を図ることが権力的価値の増殖となる。伝統的な手法は政治権力が独占する法の制定権力と徴税権力を用いて、行為者の行動を規制・統制する方法になる。この法と税を入口として市場と生活世界を政治権力に接合できるのは、人間が法の言語を理解し、対価なしに所得の一部を支払手段23として政府に対して貨幣を拠出することを強制されるだけでなく、これをよしとする心理が時には内面化されるからだが、そのためには言語の能力とともに社会規範や国家観念の資本主義的な正統性を教育を通じて訓育することが不可欠の条件になる。更に、政治権力の側からすると、市場を政治的権力の領域に統合すること、市場の政治化こそが権力にとっての究極の目標となる。先に述べたように、土台が上部構造を呑み込もうとするだけでなく、上部構造もまた土台を呑み込もうとする。市場経済の政治化と政治過程と生活過程の市場化という二重の展開という資本主義的なウロボロスは、マルクスが指摘した生産力と生産諸関係との矛盾の資本主義制度内的な止揚という不可能な試みでもある。
存在が意識を規定するというマルクスの定式は、存在がますます直接的に意識そのものの生産過程となり、物質的な束縛から解き放たれて非物質的な存在へと拡張されることによって、資本主義的な完全性を実現しようとする。唯物論の立場だから「物質」だなどということではないことをマルクスははっきりと自覚していた。
生産的であるのは、ただ、資本家のために剰余価値を生産する労働者、すなわち資本の自己増殖に役だつ労働者だけである。物質的生産の部面の外から一例をあげることが許されるならば、学校教師が生産的労働者であるのは、彼がただ子供の頭に労働を加えるだけではなく企業家を富ませるための労働に自分自身をこき使う場合である。この企業家が自分の資本をソーセージ工場に投じないで教育工場に投じたということは、少しもこの関係を変えるものではない。生産的労働者の概念は(中略)労働者に資本の直接的増殖手段の極印を押す一つの独自に社会的な、歴史的に成立した生産関係をも包括するのである。それゆえ、生産的労働者だということは、少しも幸運ではなく、むしろひどい不運なのである。24
資本が支配する生産領域の狭い土台が資本主義的な支配の中核をした19世紀の資本主義では、この狭い土台を通じて、一方で労働者の生活過程を、他方で国家の統治機構を基礎づけるという限界があった。だから資本が労働者の生活に影響を及ぼす回路もまた「物質的」な生活手段に限定されざるをえなかった。マルクスによる生産における物質性の強調は、資本主義が工業化、機械化として発展してきた19世紀資本主義の特徴を踏まえて資本主義への批判の核心を資本によって担われる物質性の領域に絞ったことを意味している。マルクスの「教育工場」への言及は、当時であれば、ある種のたとえ話の域を出ないとしか理解されなかったかもしれないが、むしろこの「教育工場」こそが現代の資本主義の剰余価値生産の主要な現場になっている。資本の価値増殖は、とりわけ俗流マルクス主義が物質的生産にこだわる狭い労働者主義の罠にはまっているなかで、「物質的生産の部面の外」へとその支配地を拡げてきた。マルクス以後の資本主義が非物質労働領域に<労働力>を動員して剰余価値を生産してきた歴史的経緯を重視しなければならない。ただしマルクスの上記の文章のなかで、生産的労働者を「労働者に資本の直接的増殖手段の極印を押す」ものと限定している箇所は、更に踏み込んで、生産的労働者の領域、つまり剰余価値を形成する労働の領域には、直接的増殖手段の他に――この「直接的」という概念を借りれば――「間接的増殖手段」が存在するのだ、ということをも視野に入れておく必要がある。間接的増殖の最も重要な領域が、生活過程のなかに組み込まれた労働、つまり家事労働領域である。資本との雇用関係の外にあって、なおかつ賃金労働者の<労働力>の支出を可能にする<労働力>再生産過程を支える役割を担う家事労働もまた、価値増殖の担い手であるという観点をも視野にいれておく必要がある。この領域は、労働者の日常生活の価値観のなかに家父長制を組み込む上で不可欠であって、この家族と人間関係は、後に権威主義的なパーソナリティの形成をめぐる主要な戦場となる。
したがって、私たちがマルクスの土台=上部構造論を現代資本主義の文脈のなかで評価するばあい、中心に据えるべき観点は、その物質性ではなく、資本が生活手段として供給する商品の意識に対する作用であり、この作用を可能にする狭義の意味での資本の生産関係に還元できない意識の再生産構造である。マルクスにとって資本が供給する商品が非物質的な属性をもつものであるということを念頭に置くことは容易なことではなかったはずだ。それは20世紀半ば以降になってやっと資本が包摂するようになった領域だからだ。そうだからこそ、この資本主義の展開に含意されている反マルクスの具体化を見逃すことができないのだ。
さて、非物質的労働の生産的労働としての組み込みのもうひとつの重要な領域がある。それが、いわゆる「資本家的労働」としてマルクスが剰余価値を生まないとした資本の流通過程の労働(流通費用に関わる領域や商業資本のもとでの労働など)がある。
20世紀の資本主義は、機械化を通じて肉体労働を資本の下への実質的包摂として服従させる19世紀の一連のメカニズムを歴史的前提として継承しつつ、精神労働の実質的包摂が主題になった時代だといえる。これは、資本の規模の拡大に伴って、資本家的労働としてマルクスが分類した管理や資本の流通過程における労働(販売労働がその典型だろう)を労働者に分担させることが必要になった。資本家的労働はマルクスの分類では不生産的労働として剰余価値を生まないとされた。これは資本家本人が「労働」を担う場合を想定しての判断だが、こうした資本家的な活動が労働者に担われることによって、剰余労働がこの領域で新たに形成されることになる、という観点まではマルクスの時代には想定しがたかった。資本が担う「活動」は、モノの社会的な分配であり、生産ではないとみなされたわけだが、社会の維持には、社会の構成員が必要とするモノの分配が不可欠であり、同時に生産と流通を通じた分業関係は、モノの生産と流通だけでなく、これを担う人間相互の関係に必然的に伴うコミュニケーション行為の存在があり、こうしたコミュニケーションもまた様々な労働者によって担われるようになることによって、コミュニエーション領域もまた生産的労働となり、剰余価値を形成するような構造変容を遂げる。必要労働は、労働者が賃金を介して購入する生活手段の価値を意味している。資本家的労働が労働者に担われることによって生産的労働へと転換し、剰余労働を生み出す労働になる。資本家的労働にかぎらず、人間のどのような行為を労働とみなして、生産的労働へと組込み、剰余労働をそこから抽出するのかという問題は、あらかじめ決められているわけではない。むしろ市場経済と資本の投資行動のなかで、この生産的労働と剰余労働の形成の範囲が伸縮性をもって対応することになる。たとえば、家事労働は家族内にあって資本の間接的な支配しか受けていない段階では、その利潤への接合は、直接的な市場経済の計算構造のなかで剰余労働の利潤への転化の論理では説明できないが、家事労働領域が市場経済に組込まれて資本によって供給される商品として登場するとき、直接的な剰余価値形成の構造の内部の組み込まれることになる。国家の官僚組織が住民管理をデータ処理を資本に外注するとき、住民管理の労働は直接的な剰余価値形成の労働に転化する。
しかし、上述した剰余労働の拡張という問題は、資本によって搾取される労働者の労働の一面でしかない。必要労働-剰余労働という抽象的人間労働の量的な搾取の構造だけが搾取なのではない。必要-剰余の労働時間全体を資本の指揮・監督のもとで遂行する労働者は、具体的有用労働という労働のもうひとつの側面の全体を自らの主体的な意志で資本に従属させる。労働者は、商品化された<労働力>の消費としての具体的有用労働においては、自らの意志で自らの内発的な動機に基いて、あるいは労働者相互の協働でのなかで資本の意志なしに、遂行することができない。行為の意味を労働者は奪われた状態に置かれる。これはある種の疎外ではあるが、自己にとってよそよそしいこととしての疎外だとは定義できない。私はこの事態を身体性の搾取と呼んできた。この観点からみたとき、資本の収益に象徴される資本によって構成される資本主義的な市場経済の使用価値構成そのものが、一方で具体的有用労働の行為の意味の資本による収奪であり、他方で、この具体的有用労働からなる商品の使用価値が生活過程の構成要素となることを通じて<労働力>の質的再生産を資本の秩序に組み入れる。ここで問題になるのは、利潤の量的な大きさに対応する労働者の抽象的人間労働の量といった量の関係ではなく、資本が生産する商品の使用価値をめぐる意味の生産がもたらす意味の搾取とでもいうべき事態である。
こうして問題の観点は、資本によって市場化された領域によって供給される商品が社会的政治的精神的過程を規定するするということになる。そしてこの点が、コミュニケーション労働の問題を考える上で重要な論点になる。
1.3.3. 意思の制御
人間の意志の問題は、集合的には社会的諸意識形態として現れ、これが階級意識となる場合もあれば、ナショナリズムや宗教的な信仰として表出したり、これらが複合することもある。いかなる「意志」を諸個人が抱こうとも、資本主義の一定の生産諸関係のなかに組込まれるが、同時に、そこからの逸脱の可能性も排除できない。人間の「意志」の多様性は、社会的存在という枠を超えることはできないにもかかわらず、社会それ自体に内在する矛盾や軋轢、つまり社会を構成する制度や機構ばかりでなく、社会を構成する人々がその担い手ともなる矛盾や軋轢が、この「枠」それ自体の裂け目を形成し、この「枠」を越える潜勢力の主体となる可能性を示している。しかし、こうした意味での主体が、わたしたちが希求するようなコミュニズムを必然的に指向するなどという都合のよい事態を想定することはできない。多くの場合、現代が抱える問題への答えは、近代以前や伝統を参照することで克服しようとする力が作用するために、結果として矛盾や軋轢の解決は先延ばしにされてしまう。
資本にとってもまた、意識の問題はやっかいだ。資本家は資本の人格的な表現主体であるとした場合、資本家にとってもまた、社会的諸関係は資本家の意思から相対的に自立したものとして存在する。この意識諸関係は、それ自体自明のものではないから、心理学などの社会諸科学が社会意識を分析する独自の専門領域を構築するようになる。資本にとって、労働者は<労働力>の単なる担い手であることを期待されるが、実際にはそうはいかない。人間は労働者やましてや<労働力>に還元できる存在ではないからだ。先にユアを引用した際にも述べたように、<労働力>それ自体は、資本主義的な生産諸関係のなかに組み込まれた社会諸関係の客体の一部をなすが、労働者あるいはその役割を担う人間は、自らの意思によって文字通りの意味でも契約上であっても自由にはなりえない対象であって、資本にとってもまた自らの意志によって自由にならない労働者の存在への戦略的な対処の必要を自覚させるものでもある。
人間の意思や意識を制御するという資本の願望が20世紀資本主義の主要な課題をなしてきた。そしてこれを国家の側から捉えたとき、そこにナショナリズムの問題が表出する。しかし、こうした意識を監視のテクノロジーによって直接捉えるまでには長い時間がかかった。監視技術は工場においては機械体系による労働の組織化によって実現することができたが、国家という枠組のなかでは、産業組織に該当するような機械体系は存在しない。これに代わるものが、人口を管理するために導入された様々な統計と技術による「全体機械」である。次に、現代のコンピュータを基軸とする監視社会の原型ともいえる時代を対象に、人類史のなかでも未曾有の悲劇を可能にしたテクノロジーをみておくことにする。
Footnotes:
マルクスの機械についての基本的な考え方については、1868年7月28日に総評議会会議で行った発言が端的かつ分かり易い。「資本家による機械の使用の結果についてのマルクスの演説の記録」 全集16巻所収。
『資本論』第一巻、大月書店版マルクス・エンゲルス全集23a、p.560。
『資本論』第一巻、全集23a p.458
Chris Carlsson, “Processed World: A Political History,” 2019, https://notesfrombelow.org/article/processed-world. Bryan Appleyard,”The New Luddites: Why Former Digital Prophets Are Turning Against Tech” https://newrepublic.com/article/119347/neo-luddisms-tech-skepticism
「この博覧会は、現代大工業が、いたるところで集中された力をもって、民族的境界をちりのぞき、生産や社会関係やそれぞれの民族の性格における地方的特殊性をますます消し去っていることの適切な証明である。博覧会は、現代のブルジョア的関係がすでにすべての方面から掘りくずされているまさにその時にあたって、現代工業の生産力の送料を小さな空間に圧縮して観覧に供することによって、同時に、この土台からゆらいでいる状態のただなかで新社会の建設のためにつくりだされた材料、また日ごとにつくりだされつつある材料を展示するのである。」マルクス=エンゲルス「論評」、『全集』第7巻。p.441。「資本家階級は、人類社会がかつてもった富のなかで最も巨大な富のただなかにありながら貧困の運命をになわされている労働者の製作品を、凝視し嘆賞するために、富者と権勢者を万国博覧会に正体している。労働の解放と、賃金制度の廃止と、性別、国籍にかかわりなくだれしもが、共同労働によってつくりだされた富を享有する権利をもつ社会をに樹立とにつとめているわれわれ社会主義者―そのわれわれが、7月14日、パリにおいて会合しようと約するのは、この労働者となのである」1889年、パリ万博開催にぶつけて国際社会主義労働者大会がパリで開催された際のエンゲルスによる「招集の知らせ」(『全集』21巻.p.555)
『資本論』第一巻a p.633-634。
「小農や、まだ囲い込まれていない村落の農業労働者、また都市部の職人や徒弟でさえ、労働の報酬を貨幣収入だけで計算していたのではない。彼らは、毎週毎週規律に従って働くという考え方に反抗したのである。」E.P.トムスン『イングランド労働者階級の形成』、市橋秀夫、芳賀健一訳、青弓社、p.425。
本書ではとりあげる余裕がないが、戦前から戦後にかけて、日本には固有の技術論論争の歴史があり、現代のコンピュータ・テクノロジーが支配的になった時代からかつての技術論論争を総括することは重要な課題だ。
トムスン、前掲書、p.430から引用。
トムスン、前掲書、p.446。
トムスン、前掲書、p.445。
リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』、田村哲夫訳、みすず書房参照。
こうした技術に関わる知識はそれ自体は物質的な存在ではないが、あきらかに経済的土台の一部をなすが、この知識自体の背景をなすのは単なる自然科学だけではなく、自然科学を支えた世界観にまで視野を拡げなければ近代科学の技術との接点も明らかにならないだろう。この意味で、ルイス・マンフォードが文化や技術の象徴的な側面への着目をマルクスの技術論と和解させる観点が必要になるかもしれない。ルイス・マンフォード『機械の神話』樋口清訳、河出書房新社、参照。
小倉利丸『搾取される身体性』、青弓社、参照。
「おそらく、批判の砲火が、これらのもの[労働価値説、利潤と利子の理論]に集中されたのは、『労働は、あらゆる価値の源泉である』という語句にふくまれている道徳的非難が、資本主義の衰退と崩壊との予言以上に、資本主義の確固とした信奉者に影響をあたえた」(ホブズボーム『イギリス労働史研究』、鈴木幹久、永井義雄訳、ミネルヴァ書房、p.219。
マルクス「労働時間の短縮についてのマルクスの演説の記録」、全集16巻、p.553
マンフォード、『機械の神話』、樋口清訳、河出書房新社、p.55。
だから、「暦」はいまだに宗教暦に依存しており、日常用語には多くの不合理な言い回しが残り、人々は事実よりも「信じうること」を受け入れる。
ローレンス・レッシグ『CODE』、山形浩生訳、翔泳社。後に『CODE2.0』が出版される。山形浩生訳、翔泳社。
資本は日常語では投資のための資金などを指すが、マルクスは「自己増殖する価値の運動体」と定義している。この定義からすると、資本は資金、<労働力>、様々な設備、労働者と経営者からなる人間集団組織などが利潤を目的として一体となって「運動」する組織体そのものということになる。
『経済学批判』、全集13巻、p.6。
本来なら資本と国家の労働者に対する戦略とすべきか、あるいは資本と国家に人口に対する戦略、のようにより一般的に論じなければならない問題だが、定式を踏まえた議論としてあえて「資本」に絞った。また、こうした限定や一般化は、ジェンダーやエスニシティといった無視することそれ自体が理論の死活に関わる観点をも無視した議論になっている。ジェンダーとエスニシティを明確に論点の中核に据えた理論構築がなされるとすると、私が本書で論じたことの大半は、そのままでは通用しなくなる。しかし、今の私の能力ではこのような再構成を全面的に試みることができない。
支払手段とは、富の一方的な移転としての貨幣の使用を指す。商品の購入のための貨幣の支出は「購買手段」であり、日常用語ではほぼ同義で用いられるが、マルクスの定義に従って、ここでは区別している。
マルクス 『資本論』第一巻、全集23b p.660。
Author: toshi
Created: 2026-01-10 土 13:39