不法占拠者たちの闘い——世紀末アンダーグラウンドが目覚めた時
パンクが産業化しはじめたロックへの拒否の欲望を表わしたものであるとすれば、グリール・マーカスが『リッブ・スティック・トレーシーズ』で論じたように、それは、芸術におけるダダの試み、都市に対するシチュアシオニストの実践など、二〇世紀アンダーグラウンドの文脈に位置づけることができる。しかし、また、七〇年代後半という時代の色彩を色濃くまとっていたことによって、パンクは世紀末アンダーグラウンドに直接連なる源流ともなりえたのだ。
七〇年代は、アメリカのベトナム戦争での敗北や石油危機と失業、第三世界からの大量の移民によって幕を開けた。六〇年代の先進国の「豊かさ」を支えてい世界的な枠組が崩れた時代だった。六〇年代末の学生運動が、知識人や学生による異議申し立てであったとすれば、七〇年代のパンクムーブメントは、知識人の顔をしかめさせる労働者階級の新しいカウンター・カルチャーだった。
「ギターが難しいなんていう奴の気がしれない。コードを押さえられれば、音は出るんだから」というシド・ヴィシャスの発言に象徴されるように、パンクの特徴はそのテクノロジーの「低さ」にある。誰もが簡単に覚えられるコードを利用して、単純なリズムとメロディーラインをフルスピードで演奏する。
この単純さと速度は、機械化された工場の単純労働を運命づけられた労働者達にもっとも親しみやすい退屈な「労働」や日常生活の相似形だということもできる。しかし、パンクが試みたこの「誰にでもできるロックンロール」のスタイルは、誰もが単調な労働の中でそれに抵抗できるとは限らないように、実は誰にでもでくるものではなかった。
パンクスが好んで取り上げるテーマの一つに「ボアダム(退屈)」がある。バズコックスにはそのものずばり『ボアダム』という曲があるし、クラッシュには『アイ・ム・ソー・ボアード・ウィズ・ジ・USA』、アドバーツにも『ボアード・ティーンエージャー』という曲がある。アメリカニズムとジャンク・フードに取り囲まれた退屈な日常への嫌悪だ。単純な肉体労働よりも熟練の必要な知的労働なるものに価値を置く社会のなかで、パンクは、この価値の上下関係を拒否して、「単純さ」「退屈さ」を手放すことなく、しかしこの単調さのなかに五線譜に還元できないノイズを徹底的にたたき込むことによって見事にそれをひっくり返してみせた。音楽の世界でエスタブリッシュメントになることを意図的に拒否するパンクの行為は、サウンドのサボタージュ(英語では「破壊行為」を意味する)といえる行為だ。このサウンドのサボタージュは、当時のイギリスの自動車工場の労働者たちがラインの機械に工具を噛ませてストップさせたり、新車の車内に放尿したりといったサボタージュをやっていたことと無関係ではない。自分たちが抱いている欲望をはっきりと自覚して、それを表出できるエネルギーは、すでにこうしたカヌウターカルチャーの中に根付いていたのだ。
パンクスたちはこのカウンターカルチャーの環境のなかからその音楽を生み出した。ジョニー・ロットンも、ジョー・ストラマーも、ストラングラーズのヒュー・コーンウェルも皆スクウォッター(空き家の不法占拠者)だったことは象徴的だ。彼らは、都市のノマドでもあったのだ。
ピストルズとは対照的なパンクバンド、クラスの場合、サウンドのサボタージュにしても都市のノマドというライフスタイルにしてももっと自覚的な戦略をもっていいた。彼らのアルバム『ペニス・エンヴィー』は発売直後ナショナル・チャートの上位につけたが、メジャー・レーベルのチャート買収ですぐにトップ100から姿を消された。EMIは系列のレコード店からクラス関係のグッズを排除した。しかし彼らは、反対にオルタナティブなメディアを生み出していった。自分たちのレーベルを設立し、イギリスで最初に計画的なスプレーによるストリート・グラフィティを展開した。日本でもお願染みの丸にAのアナーキストのロゴも彼らがひろめたものだ。また、映像、パンフレット、バンドのロゴと旗などとレコードを組み合わせるマルチメディア戦略を最初に展開したのもクラスだっら。機能停止状態だったCND(核廃絶キャンペーン)を復活させ、フォークランド戦争に反対し、フェミニズムのアルバムを出し、ロキシーで出演停止となり、不敬罪裁判を抱え、ギグでは右翼のナショナル・フロントの襲撃を受ける存在だった。彼らは、CBSは金儲けのためにクラッシュを売り出し、パンクはファッションになったと歌い、ピストルズ、パティ・スミスを批判し、「パンクは死んだ」と宣言してブームとしてのパンクを拒否した。彼らにとってパンクは、「アナーキー.アンド・ピース」の実践と闘いだったのだ。多分、パンクが影響力を発揮するためには、マスメディアに罠を仕掛けるピストルズとオルタナティブなメデイァの回路を都市空間に展開するクラス、という二つの極が必要だった。こうして、パンクは商業主義に完全には呑み込まれず、マスメディアと音楽産業が支配する情報の回路=パラマーケットにカウンターカルチャーの回路を組込むのに成功したといえる。
七〇年代後半は、パンクだけの時代ではなかった。ジャマイカからの移民たちを中心にブリティッシュ・レゲエが定着しはじめるのもこのころだ。「アイ・ショット・ザ・シェリフ」「バーニン・アンド・ルーティン」「ゲッタップ・スタンダップ」が歌われ、ボブ・マーリーの過酷なイギリスツアーが行なわれ、アスワド、マトゥンビ、UB40といったブリティッシュ・レゲエのバンドが結成され、キング・タビーたちのダブがイギリスに輸入されるのもパンクの時代とほぼ重なる。八一年のブリクストン大暴動に至る社会問題が蓄積されたのもこの時代だ。こうした背景があって、クラッシュの『ロンドン・コーリング』のレゲエ・サウンドや、エイドリアン・シャーウッドのダブもありえたのだ。
またピトルズが結成された七五年は、スロビング・グリッスル(TG)が結成されインダストリアル・ミュージックにとっても画期的な年だった。ピストルズの『アナーキー・イン・ザ・UK』が放送禁止になった翌年にはTGの『プロスティチュート』も発禁になる。さらにクラフトワークの『トランス・ヨーロッパ・イクスプレス』 が七七年に発表され、七八年にはキャバレー・ヴォルテールがデビューし、SPKがオーストラリアからイギリスに渡る。パンクの時代はまた、ノイズの創成期であり、七〇年代末には『ヴァーグ』のようなパンク、シチュアニスト、ノイズのメディアがロンドンに登場するようになる。
こうして、七〇年代後半は、現在のイギリスのクラブ・シーンを支えるすべて要素を生み出した時代でもあったわけだ。誰もが弾けるギターから、誰もが操作できるコンピュータに道具は変わったものの、コピーライトを無視するサンブリングの精神、政治的なメッセージとノイズとリズムの融合、マイナーレーベルの活動は、この七〇年代後半の都市のノマドたちによるサウンドのサボタージュの時代なくしては存在できなかったことだけは確かなことである。
パンクは、七〇年代の怒れる若者文化のノスタルジーでもなければ、サブカルチャーの「伝統文化」でもない。むしろ、パンクは現代のアンダーグラウンド・シーンの源流でありつづけ、またそのさまざまなスタイルの背後にある「集合的無意識」とでもいうべき部分を確実に形作っているのである。
出典:『スタジオヴォイス』●年●月