(書評)ギー・ドゥボール『スペクタクルの社会』
一時非常に多くの議論を呼び起こした消費社会論や記号論的な社会批評など、いわゆるポスト・モダンの社会理論がバブル経済の崩壊とともに潮が引くように後退してしまったように見える。こうした時代には、ボードリヤールよりもずっとラディカルなドウボールのような筋金入りの資本主義批判者による消費社会批判の方が似合っている。
ドウボールの『スペクタクルの社会』は一九六七年秋に最初にフランスで出版された。そして、六八年のパリ5月革命の最中に非常によく読まれ、ドゥボールもその主要なメンバーであったシチュアシオニスト・インターナショナルというこれまたかなりユニークな国際組織を代表する著作としても有名なものになった。日本でも「状況主義」という訳語で江口幹や海老坂武らが言及し、ルフェーブルの翻訳書のなかにも何度かその名前は登場していた。しかし、ドゥボールの著作が翻訳されたのは今回が初めてであるばかりでなく、シチュアシオニストの基本文献が翻訳されたのも本書が最初である。また、シチュアシオニストの運動が消滅した七○年代後半以降、様々な形でこの運動を継承する文化的な「事件」が起きてくる。その最も有名な例が、マルコム・マクラレンが仕掛けたセックス・ピストルズとパンク・ムーブメントだろう。それは、どのような意味で「継承」なのかについては議論の余地がおおいにあるとはいえ、こうした突拍子もない影響関係を生み出してしまうところにシチュアシオニストの思想のおもしろさがある。
本書が二五年を経てなお現在でも読む価値があるのは、マルクス主義と評議会社会主義の思想をかなり自由に解釈しているところにある。たとえば本書の冒頭は次のように始まる。
「近代的生産条件が支配的な社会では、生活全体が[傍点]スペクタタクル[/傍点]の膨大な蓄積として現れる。」これは、「資本主義的生産様式が支配的な社会の富は、[傍点]商品の膨大な蓄積[/傍点]として現れる。」という『資本論』冒頭の文章を念頭に置いたものだ。ここには、マルクスにはない二つの大きな変更点がある。一つは、資本主義的生産様式ではなく「近代的生産条件が支配的な社会」を問題にすることによって、批判の対象を資本主義にかぎらず、ロシア革命以後の社会主義社会にも置いているということだ。本書の第Ⅳ章至体と表象としてのプロレタリアート」は、マルクス主義の歴史的な経緯を踏まえて、ローザ・ルクセンブルクやパンネクークらの評議会社会主義をソ連モデルに対する代替モデルとする考え方が示される。そして、もうひとつが商品に換えて、本書のタイトルにもなっているスペクタクルが近代社会の基本的な要素の位置を占めているという理解である。
【 自動車の独裁 】
ドゥボールがこうした発想に至った背景にはルフェーブルの日常生活批判としてのユニークなマルクス主義があったし、評議会社会主義の思想は、カストリアデスらの「社会主義か野蛮か」のグループとのコミュニケイシヨンの中でドゥボールが獲得してきたものであろう。ボードリヤールの消費社会批判の仕事は、こうしたドゥボールのラフスケッチに導かれたものだとも言えるのだ。
本書の後半で展開されているスペクタクルの社会への時間の意識と都市計画についての批判、そして文化。芸術の近代的な自立への批判の部分は、ドゥボールがマルクス主義に深く影響される以前から問題意識として上っていた課題である。
たとえば、近代的な時間の観念についてのドゥボールの議論ひとつとってみても、そこにはマルクス主義が見落としてきた重要な歴史の観点が見出される。ドゥボールは、近代以前の農耕社会の「円環的」な閉じられた時間からの解放を実現したのが近代ブルジョワジーが持ち込んだ「労働の時間」だと指摘する。「資本主義の発展にともなって、不可逆的な時間は世界的に統一される。全世界がこの時間の発展の下に集められることで、普遍的歴史が一つの現実となるのである一という。これは「世界市場の時間であり「世界的スペクタクルの時間」だという。そしてこの視点から、抽象的人間労働の時間の尺度を批判する。だがこれだけならば、近代的な抽象的、機械的な時間の支配ということにすぎないが、ドゥボールがおもしろいのは、近代の歴史の観念は純粋に抽象的な時間に還元されたわけでもなければ、自らの出発点となったブルジョワ革命にその出発点を求めたのでもなく、最終的には西暦というキリスト教の暦の「鋳型に再び流し込まれ」たということに着目している点である。これは、日本であれば、元号と西暦という二重の時間の尺度の中で近代の「歴史」が刻まれてきたことの意味を批判的に捉え返す上でも示唆的である。
さて、肝心の「スペクタクルの社会」について本書では何を語っているのだろうか。上に述べた時間の問題に関わって言えば、スペクタクルの社会は、円環的な時間と進歩としての時間という前近代と近代の二つの大きな時間の観念に対して、擬似的な円環的時間を近代社会の中に招き入れるという。現実には技術進歩と新しい社会への余地がうみだされながらも、人びとの意識と行動はむしろ、現にある秩序の枠の内部での欲望の充足へと向かう。それは、メディアを通じてのイメージの消費という行為に集約されてゆくわけだが、ドウボールはこれをイメージだから現実ではない、というのではない。このイメージの部分も含めて現実を形成するという。だからこそ更に現実を具体的に変えてゆくという行為が封じ込められてしまう。擬似的な円環的時間とはこうしたイメージの消費によって充足させられ、先へと進めない私たちのいらだちを非常に巧みに表現している。これは、観光旅行のような地理的な移動でも同じことであって、それはスペクタクルとして準備された空間を消費するだけのことなのである。これらは、多くの原始的な社会が持っていたポトラッチ的な浪費と類似した近代社会の祝祭なのではなく、逆に現代は規祭なき時代なのだ。私たちは、束の間の「祝祭」によってつねに祭の後の虚しさを経験し、それがまた再び擬似的な祝祭へと私たちを駆り立ててゆく。
本書のなかに非常に短いが極めて刺激的な章ある。「国士の整備」と題されたこの章でドゥボールは先の時間についての議論と対をなす空間について議論を展開している。ここでの彼の議論を支える中心的な概念は「分離」である。この「分離」とは、たとえばパリのオスマンのような都市計画や労働者の効率的な管理施設である工場、「『巨大なアパート』であるヴァカンス村」から「家庭という独房」に至るまで、労働者階級の孤立と分断を生み出す空間の構造を意味している。そして、この分離として特徴づけられた空間のなかで「自動車の独裁」が成り立つことになる。自動車は「消費の至上命令に直接的に支配されていいる」という意味でスペクタクル的商品の典型であるばかりでなく、自動車道路の支配、都心の解体と分散化という形で都市の構造を決定する最も重要な要素をなす。こうして広大な駐車場を持つ郊外のスーパーマーケットをドゥボールは「消費の神殿」と命名した。このような議論の運びは、四半世紀経った今でも全く時代を感じさせない。
「旅」の概念と「漂流」の概念
だから彼にとってプロレタリア革命とは、たんなる生産現場での搾取関係の解体ではおさまらない「人間的地理による批判」を目指すものとなる。「自分たちの全体的な歴史が横領されていることにも応える風景と事件を構築せねばならない」というのだ。それを彼は、また次のようにものべている。
「絶えずかたちを変えるこのゲームの空間へゲームの規則を自由に選んで変化するこの空間のなかにこそ、場所の自律性を再発見することができる。この自律性によって、再び一つの土地にのみ縛られることなく旅の現実を、そしてそれ自体のうちに自らのあらゆる意味を持つ旅として理解された生の現実を、取り戻すことができるのである」
こうした「旅」の発想は、彼のかなり早い時期の構想を受け継いでいる。五○年代に彼は「変化に富んだ環境のなかを素早く通過する技術」「遊戯的=創造的行動を肯定することと分かちがたく結びついた」行動を「漂流」と呼んでいた。「旅」の概念は「漂流」の概念を受け継いでいることは明らかだ。
スペクタクル社会批判
都市についての論議にこうした彼の初期のころの考えが残っているのは、この領域がマルクス主義にとっては未開拓であったことと無関係ではないだろう。それは、しかし、決して彼の理論の不十分さを意味しない。ルフェブルのように「都市の権利」にいち早く注目した例があるとはいえ、都市や空間をプロレタリアートの解放の重要な課題として理解するマルクス主義の方法は必ずしも十分な展開を遂げてはいなかった。それは、都市が包含する消費領域、公共的な領域、あるいはメディア環境といった狭義の階級関係だけからは見えない諸領域についてのマルクス主義のアプローチの不徹底を意味した。ドゥボールが教条主義でない分、こうした領域を自由に論じることができた。それが本書の魅力であり、六○年代末の都市の反乱から七○年代のパブリックアートの運動に至るまで、ドゥボールの都市批判と結び付いたスペクタクル社会批判こそが最モ多くの刺激を人びとに与えつづけてきた理由といえる。
シチュアシオニストの運動は、フランス本国ではほとど継承されることはなかったようだ。しかし、本書が未だに読み継がれ、ガリマール書店がドゥボールの著作を出しはじめるなど、シチュアシオニストへの関心は決して無視できるものではない。また、かなり色合いは異なるようだが、アメリカ合衆国には現在もシチュアシオニストを名乗るグループが活動しており、先の湾岸戦争の際には声明も発表している。
言及する余地がなくなったが、訳者の解説は、シチュアシオニスト・インターナショナルの運動の歴史と基本的思想を理解する上での非常にすぐれた作業になっており、これだけで独立した価値のある仕事である。この訳者の解説のおかげで、ドゥボールが保守的なポストモダニストの資本主義に対する評価を暖昧なままにするアカデミックな消費社会論といっしよくたにされることはまずないはずであり、これは日本の読者にとって非常にありがたいことある。
(ギードゥボール『スペクタクルの社会』木下誠訳、平凡社版、1993年)
出典:図書新聞 1993年7月17日