グローバルガバナンスと「IT」をめぐる経済政治学批判のために
小倉利丸
■グローバリゼーションとIT
近年論じられ始めた資本のグローバリゼーションを歴史的に遡るとすれば、一
方でのソ連東欧の「社会主義」圏の崩壊と他方での世界銀行やIMFによるいわ
ゆる構造調整政策(SAP)による低開発諸国の急激で暴力的な市場経済化が開始
された時期に求めることができるだろう。そしていわゆる西側先進国でいえば、
レーガン、サッチャーによる新自由主義と国内の規制緩和、政府部門の縮小と
民営化による国内市場の人工的な拡大の時期が転換点だといえる。つまり、グ
ローバリゼーションの近年の動向の出発点は80年代にあるとみていいという
ことになるだろう。
このことは、次のことを意味している。すなはち、インターネットに代表され
る情報通信の現在の展開は、インターネットそれ自体の歴史は60年代にまで遡
れるにもかかわらず、その商用利用と基幹ネットワークとしての政策的な位置
づけという点からみたばあい、80年代以降のグローバリゼーションのなかでは、
遅れて展開されてきたものといえる。インターネットとグローバリゼーション
の歴史的な発生の前後関係という点だけからみれば、あきらかに資本のグロー
バリゼーションにインターネットが後追い的に展開してきたということである。
この問題を考える上で、資本にとってのコミュニケーションテクノロジーの理
論的な枠組みを押さえておく必要があるだろう。インターネットはよく知られ
るように、その出自からすれば、商用のコミュニケーション技術として開発さ
れたわけでもなければ、市場を目指して発展してきたものではなかった。むし
ろ政府部門や学術研究のネットワークとして商用利用を排除して展開してきた。
それが、ある時期からむしろインターネットの商用利用を可能にする流れが強
まり、インターネットが形成してきたサイバースペースがまさに市場によって
囲い込まれ市場のための空間へと変質してきた。このインターネットの変質の
意味がここでは見逃せない重要な意味を持つ。端的にいえば、コンピュータに
よるグローバルなコミュニケーション環境が、市場に従属し、市場に支配され
るようになったということ、わたしが従来から用いてきた概念でいえば、サイ
バースペースがパラマーケットとして市場に統合されるようになったというこ
とである。こうなって以降、資本のグローバリゼーションは、それまでの流れ
を一気に加速化できたのである。
このコミュニケーション領域のグローバル化に伴って、その秩序を国民国家と
市場経済の枠組みの中で再編しようというのが日本政府のいう「IT」革命であ
る。しかし、これはあきらかに、インターネットがその出発点に萌芽的に持ち、
また現在も根強くその傾向を持ちつづけているグローバルなコミュニケーショ
ンにおける市民的な権利要求を押さえ込む反革命にほかならない。
こうした状況をふまえて、本稿では、次の点について検討してみたい。第一に、
インターネットをめぐるガバナンスと呼ばれてきた問題とはどのようなことか。
第二に、このインターネットのガバナンスが資本主義におけるコミュニケーショ
ン過程のガバナンスのなかでどのような位置を占めるのか、第三に、情報とコ
ミュニケーションをめぐる市民的な権利と階級闘争とのかかわりとはどのよう
なことか。これらを通じて、今文字通りの危機にあるのは、大衆的な開放され
たコミュニケーションのシステムが、再び閉じられ、資本の市場となり国民国
家の新たな領土分割の対象となり、市民的な意味においても階級的ないみにお
いても自由が逼塞しはじめているということである。サイバースペースの闘争
は、自由な新たな空間への権利闘争の重要な課題となっていることを改めて論
じておきたい。
■サイバースペースとその物質的土台
インターネットは、現在では個人から政府や多国籍企業までが利用する通信環
の不可欠な環境になりつつある。他方で、個人や世界の地域的な格差によっ
て、インターネットを十分利用できない人たちや地域が多く存在する。また、
アクセス可能な場合であっても、その条件は様々であり、職場や学校で、通信
コストを気にせず自由に使える人もいれば、ダイヤルアップで従量制課金と通
信時間を気にしながらアクセスする人たちもいる。更に最近では、パソコンを
持たず、もっぱら携帯電話を端末としてメールのやりとりに利用する人たちが
増えている。
個々のエンドユーザーから見えるインターネットの環境は、自分の端末にイン
ストールされているアプリケーションを通じて、ウエッブやメールのデータを
やりとりする既知または未知のユーザーたちとの間で構成されるコミュニケー
ションの関係であろう。この環境は、物理的には自分の手元にある端末、電話
などの通信回線、回線の先につながっているであろうプロバイダーのモデム、
ルーター、サーバーといった機器そしてさらにその先にも縦横に通信回線が張
り巡らされているということによって成り立っているわけだが、こうした物理
的な通信のインフラを手近な電話回線の先に至るところまで自覚することはほ
とんどないといっていいだろう。
さらに、こうした物理的な通信インフラを用いて、多様なOSで動く端末のコン
ピュータ相互が通信を成り立たせられるために必要な通信プロトコルに関わる
多くの技術的な手続きや取り決めについてエンドユーザーが自覚することも多
くはないに違いない。
むしろ、エンドユーザーにとっては、インターネットが提供する環境は、遠隔
地の人々とリアルタイムで、しかも場合によっては不特定の人々ともコミュニ
ケーションを可能にするものという実感を伴う。バーチャルなコミュニティや
サイバースペースという概念には、単に地理的な空間を越えた新たな人間関係
の形成を意味するだけでなく、更に地理的現実的な空間のなかでの人間関係に
比べてより自由で、より拘束の少ない関係を実現できるものというニュアンス
が含まれてもいる。
インターネットがこうした相対的に自由なコミュニケーション関係を実現して
きたことは事実である。少なくとも、個人や経済的な力のない集団が、政府、
マスメディア、大企業と互角の情報発信能力を持ち得たのはこのインターネッ
トの普及によるまではあり得ないことだった。これは、インターネットが米国
政府と密接な関わりをもって誕生した通信ネットワークであったとはいえ、そ
の管理や運営、さらにはそのネットワークとしての拡がりに関して、米国政府
が全面的に管理する体制をとって展開してきたとはいえず、草の根のコンピュー
タ通信のネットワークやこうしたBBSを利用してきたメディアアクティビスト
たちの活動とも関わりながら、発展してきた側面があるからだ。
こうしたインタネットの成り立ちは、インターネットの自由なコミュニケーショ
ン環境を実現する重要な条件を作り出し、同時に、インターネットが従来型の
コミュニケーションの秩序を基準として見た場合、多くの逸脱やあるいは「無
法地帯」であるかのようにみなされる原因にもなった。
たとえば、サイバーリバタリアンとでもいうべき主張を展開したジョン・ペ
リー・バローによる「サイバースペース独立宣言」は、インターネットの自由
を個人としてのエンド・ユーザーによる情報発信の自由を基礎におく議論だっ
た。バローや多くのサイバーリバタリアンが想定する政府の規制から解放され
た自由なコミュニケーション空間は、いくつかの批判にさらされた。一つは、
インターネットそれ自体が物理的な通信インフラによって支えられている以上、
こうした通信インフラへの投資とその意思決定の問題をリバタリアンたちは軽
視しているのではないか、という批判である。確かに、インターネットをはじ
めとする通信インフラへの投資は、政府や企業による一定の政策的な判断によっ
て行われ、また逆に行われないということであから、コミュニケーションを成
り立たせるそもそもの物理的な環境自体が整わないとすれば、自由なコミュニ
ケーション環境も実現できないということになる。
しかし、他方で、こうしたインフラ投資が政府や企業の意思決定に左右される
からといって、インフラそのものがそれに依存する通信の内容を一方的に決定
するというわけではないだろう。政府が建設した道路は親政府的な車両や人し
か通行できないというわけではなく、反政府運動のデモにも利用できるが、し
かし、どの程度利用可能かという問題は、相対立する集団相互の力関係によっ
ても大きく左右されるだろう。言い換えれば、サイバーリバタリアンの主張す
るような政府なきオートノミーがもたらすであろう個人の自由という価値を、
通信インフラの物質的な基礎から一方的に否定する必要はないだろうというこ
とである。しかし、同時に、リバタリアンが想定するように、一端インターネッ
トにアクセスできる環境さえあれば、国家や企業を超えた自由なコミュニケー
ションが手にはいるというほどにインターネットが自由なコミュニケーション
を本質的に保障できるものだとは言えない。
■インターネットの統治[ガバナンス—ルビ]
戦後の資本主義は、国民国家の枠組みをベースとした領土分割と、国連、IMF、
世界銀行といった政治と経済の国際組織によって国家間の調整が図られてきた。
これらの組織では、当初から国民国家が当事者、権利行使の主体であって、冷
戦以後は、これらの組織のなかでもIMFや世界銀行、そしてガットを引き継い
だWTOが西側先進諸国の多国籍資本や銀行資本の利害を事実上体現して第三世
界の市場開放を強引に押し進める役割をはたしてきた。
グローバルな資本の投資活動とそれを支える国際組織に関して、グローバルガ
バナンスという表現によってその問題が指摘される場合、上記のような国際組
織が、利害当事者を排除し、もっぱら各国政府と多国籍企業の利害しか体現し
ない意思決定組織となっていることが、民主主義的な意思決定の基本的な原則
を満たしていないという批判と密接に関わっている。
インターネットの場合、国境に拘束されない地球規模の情報通信ネットワーク
であるだけでなく、その成り立ちはIMFや世界銀行のように、主要先進国がトッ
プダウンでその組織のあり方を決定してきたということではなく、むしろ国家
的な事業としてのコンピュータ通信ネットワークの構築と草の根の非政府組織
によるネットワーク構築の試みが相互に融合し合いながら成長してきた側面が
ある。国際的な通信網が旧来型の電話やテレックスや通信衛星を主流としてい
た時代には、インターネットの管理問題は国家的な課題ではなかったから、同
時に国際的な調整課題にもなりえなかった。したがって、インターネットにお
けるガバナンスの問題もまた、従来型の組織とは異なって、国民国家が意思決
定主体を独占するということにはならず、多様な意思決定主体の集合体という
様相を呈してきた。しかし、現実の国際的な権力構造が情報通信部門と金融や
開発投資部門とでは全く異なるというわけではない。いいかえれば、インター
ネットがグローバルな情報通信ネットワークの基幹の位置を占めるにつれて、
インターネットのガバナンスもまた現実の国際的な権力構造を反映して、国民
国家が意思決定の主体の位置を得ようとするであろうし、情報通信の市場での
主導権をねらって、多国籍資本もまたその影響力行使の戦略を練ることになる
だろう。こうして、インターネットは、国家や市場の影響力が相対的に少ない
状況の中で形成されながら、グローバル化のなかで逆に国家と資本による支配
へ、旧来型の国際組織の枠組と共通した統治構造への転換圧力が強まっている
領域だといえる。インターネットのガバナンスは、コミュニケーションの「統
治」に関わるので、露骨な規制や権力的な統制は表にはあらわれない。むしろ、
表現の自由を基本的な人権と認める先進国が行ってきた検閲と監視のシステム
が導入されている。つまり、コミュニケーションの統制は、その回路をコント
ロールすることと、資本主義の基本的な権利である財産権(すなはち、知的所
有権)をベースに、市場の仕組みを通じてコントロールするというやりかたで
ある。
たとえば、放送の場合、電波の割り当てを免許制にすることによって、発信者
を選別し、出版の場合は流通経路を資本がコントロールすることによって市場
の需給が選別機能を代替する。著作権や所有権は、所有者に意思決定権を与え
るわけであり、他者に伝えたくない情報は所有することによって廃棄してしま
うこともできるし、人為的に希少性を生み出して、市場価値を付与することで
収益をあげたり、情報の受け手を選別できる。これらは、「表現の自由」とい
う基本的な市民権を認めた国家が、みずから編み出してきた検閲と監視のシス
テムである。採用されているテクノロジーの違いによって、その現れ方や実際
の運用の手続きには違いがあるものの、インターネットのガバナンスも基本的
にこうした従来から行われてきたコミュニケーションのコントロール様式をふ
まえている。言い換えれば、インターネットは新たな情報通信の可能性を秘め
てはいるが、同時に、現に存在する国家と国際関係の権力機構と不可分である
以上、その統治の機構もまたこれら現実の権力関係を無視しては成り立たない
ということである。
■ICANNという統治組織
インターネットは中心的な管理組織のない文字通りのネットワークであるとい
うのは、インターネットを流通するコンテンツを国際的に規制する組織がない
ということであり、インターネットの事実上の標準技術がデファクトスタンダー
ドとしてRFCのような文書によって定められるといったことからみれば正しい
が、しかしドメインやIPアドレスの割り当てとその技術的な条件からみたばあ
い、インターネットは明確なヒエラルキー構造を持っている。これはドメイン
名管理がツリー構造をとり、ルートネームサーバが集中管理されざるをえない
という現状の技術に規定されている。逆にこの技術の部分の意思決定に関与で
きるということは、インターネット全体をドメイン名やIPアドレス管理を通じ
てコントロールできるということでもある。
だから、インターネットのガバナンス問題は、具体的には、ICANN(Internet
Corporation for Assigned Names and Numbers、米国カリフォルニア州に本部
を置く非営利の民間の会社組織)のようなインターネット上の資源を管理する
組織をめぐって論じられるのが一般的な論じ方である。【注1】ICANNはインター
ネット上のドメイン名を管理する組織と言われることが多いし、現状ではたし
かにドメイン名管理が主要な機能だが、その組織形態からみて将来的にはより
多くの権限がICANNに集中する可能性を持っている。ICANNの組織構成はかなり
複雑だ。最高意思決定機関の理事会はアドレス支援組織(ASO)、ドメイン名支
援組織(DNSO)、プロトコル支援組織(PSO)そして、一般のインターネットユー
ザーがらなる「一般会員」から選出される。そして政府機関は政府助言委員会
(GAC)を構成して理事会に助言を与えるという構成をとっており、ドメイン名
管理という枠にはおさまらないより包括的なインターネットの資源管理組織で
ある。【注2】インターネット上の情報は、このIPアドレスを手がかりに配送ルートが
コントロールされる。IPアドレスの割り当てがなければインターネットにはア
クセスできないし、ドメイン名についても、トップレベルドメインとして使用
可能なものは限られている。例えば、企業は.comや.bizといったドメインを利
用して企業であることを明示できるが、労働組合は.unionといったドメイン名
は使用できないし、エコロジストが.eco といったドメインを使用することも
できない。
たとえば、ドメイン名にもっとも深い関わりのあるICANNの支援組織、DNSOの
場合、ICANNの理事会に3名の理事を出す。そしてDNSO自体は、国別ドメイン
名管理組織、関連企業、学術団体などの非営利組織、大手プロバイダー、ドメ
イン名受付・登録機関、知的所有権関係の弁護士事務所といった構成母体から
なる。DNSOの意思決定機関である評議会(Names Councile)はこれらの構成母体
から選出された評議員で構成される。こうした構成のなかに、企業や知的所有
権に利害のある弁護士や業界団体とは別の利害をもつ人たちや組織が参加でき
る枠組はほとんど用意されていない。かろうじて2000年の夏から秋にかけて実
施された一般ユーザーを母体とする理事選挙による理事選出によって、理事会
の構成員の一部を直接インターネットのユーザーが選ぶ道ができたが、これも
アジア地区の選挙で日本政府がとった政府主導で企業ぐるみで行われた日本の
理事を当選させる露骨なトップダウン選挙に象徴されるように、個人としての
有権者ユーザーもまた国別の色分けのなかに囲い込まれかねない危うさを持っ
ている。
インターネットのガバナンスの問題は、コミュニケーションのコンテンツにか
かわるのではなく、インターネットへのアクセスと情報の配送経路の管理を市
場経済と国民国家の枠組のなかで調整しようとする方向に向かう傾向がある。
インターネットが各国の情報インフラの基幹をなすようになればなるほど各国
政府はインターネットへのコントロールを強めようとこころみるだろうし、企
業は、インターネットによるコミュニケーションの空間を市場の空間につくり
変えることによって、この各国政府の思惑を資本の利益と結び付けようとする
だろう。こうした資本主義的な空間にグローバルなコミュニケーションの空間
が転換するとき、市場経済それ自身がもつコンテンツ規制機能が一方で働くだ
ろうし(したがって、収益の上がらない所得の少ない階層や地域は相対的な排
除を被るだろう)、IPアドレスやドメイン名管理が、アクセスの権利や流通す
る情報に対する監視の技術として転用されるように変質する可能性を否定でき
ないだろう。実際に、IPアドレスやドメイン名は、企業や学校、あるいは政府
機関がフィルタリングやレーティングソフトを導入して、ユーザーからのアク
セス規制をかける際の手がかりを提供している。ICANNはIPアドレスやドメイ
ンのこうした検閲と監視の目的での使用についていっさい沈黙している。
現在急速進んでいる個人による専用線接続や固定IPアドレス、ドメイン名取得
という傾向は、従来のようにプロバイダー経由で動的にIPアドレスが割り当て
られる状況とはちがって、個人のインターネットアクセスを監視する側にとっ
ては都合のよい状況になっている。IPアドレスの割り当ての拒否が政府や民間
の管理組織によって法的な制裁の手段として用いられたり、次世代のIPv6のよ
うに潤沢なIPアドレス資源をベースに、国民一人一人に出生時に強制的にIPア
ドレスを割り当てて、コミュニケーションを管理するということも可能性とし
て十分ありうることだということも十分に視野に入れておく必要がある。イン
ターネットをはじめとするグローバルなコミュニケーションに今まで以上に多
くの人々がアクセスできるようになればなるほど、同時に、政府や企業にとっ
てはこの空間がより重要なコミュニケーションの環境となり、現在までにマス
メディアが果たしてきたような自らの権力の正統性の承認と深く関わるものに
なるだろうし、個人にとっても生活に不可欠な条件になるだろう。また逆に、
政府や企業にとっては好ましくないコミュニケーションも増えるだろうから、
こうしたコミュニケーションを規制するテクノロジーもまた開発が進むととも
に、アクセスができない状態が個人にとって打撃になればなるほど、アクセス
規制やアクセス権の剥奪は権力が新たにもちうる制裁の手段になるし、すでに
企業批判を目的としたサイトやドメインへの規制は現実のものになっている。
インターネットは、グローバルに国境を自由に越えられるコミュニケーション
として発達しながら、同時に、むしろこのグローバリゼーションに平行してナ
ショナルな利害が強化されるという「逆コース」を歩んでもいる。
■身体搾取とコミュニケーションの技術
すでに述べたように、インターネットがサイバースペースという新たな「空間」
を生成したとはいえ、この空間もまた現実の世界の権力構造と不可分であるす
れば、再度現実の世界におけるガバナンスの問題をふまえておく必要があるだ
ろう。言い換えれば、ポストモダンを含めて、ではコミュニケーションはどの
ように管理され、統治の対象となってきたのか、そしてそこではどのような社
会的な摩擦や抵抗が存在するのか、こうした資本主義の原理的な構造との関わ
りを再度検証の俎上にのせておく必要がある。
冷戦以後のグローバル化は資本の勝利ではなく、市場への欲望をみたし得ない
ほどに肥大化した資本が強引な「本源的蓄積」の結果である。資本は、自然と
人間を再生産できない宿命的な限界を持っている。国家は人口管理を通じてこ
の資本の限界を補完してきた。資本の国際的な貿易や投資は、国民国家による
地理的な世界の分割を前提としており、必要な労働力はこの資本の必要との関
わりの中で流動化する。移民や奴隷貿易のように人口が移動する場合もあれば、
逆に資本が労働力を求めて移動する場合もある。
こうした国際的な資本主義の体制は、資本のための市場を労働力、通貨、物・
サービスの国境を超えた流通を管理するシステムを通じて徐々に確立された。
コンピュータに媒介された情報コミュニケーションは、上記に加えて大衆的な
コミュニケーションの国境をこえる交通を可能にした。コンピュータによるコ
ミュニケーションは、政府や軍事組織がいち早く導入し、その後商用利用が加
速化したが、明らかに金、物、人の移動にたちおくれた。その理由は、コミュ
ニケーションの秩序が、国民国家の領土を前提としてマスメディアによるトッ
プダウンの情報散布様式と、一対一の電話のような通信システムに別けられて、
大衆的なコミュニケーションは後者に押し込めることで成り立ってきたからで
ある。いわゆる放送と通信を区別して管理してきたわけである。コミュニケー
ションの秩序(言い換えれば、コミュニケーションをめぐって構成された権力
関係、統治の構造)は、「国民」として大衆を組織し、代議制民主主義の枠組
に政治意識を収束させるための不可欠な条件として位置づけられてきたわけで
ある。
このようにグローバルな構造をもつ資本主義が国民国家の枠組みを必要とする
という事情は、かなり複雑だ。なぜ、市場の機構だけで「社会」を構成できな
いのか、という資本主義の原理問題と関わるからだ。資本は、国家を必要とす
る。同時にまた、国家を必要としない。これは、資本主義が市場経済を土台と
して、労働力(社会の人口)を不可欠の価値増殖資源として包摂しなければなら
ないという二律背反と関わっている。忘れられがちなことなのだが、資本主義
は封建制の制度の内部に局地的に形成された市場圏の自立的な発展によって形
成されたわけではない。こうした事例が見られないわけではないが、それは資
本主義形成の例外である。これは、現在の資本主義に巻き込まれている人口の
大半が、市場経済を外部からの非自生的な力に押されて巻き込まれてきたこと
からも明らかである。こうした事情は、マルクスが指摘しているように、商品
経済自体が共同体と共同体の間に発生するものであって、共同体(社会、ある
いは人口再生産の機構)の外部から共同体の内部に浸透して共同体を解体する
性格を本質的に持っているということと関わっている。こうした外部としての
市場経済には、異なる社会関係の間を媒介できる交通(交易)のプロトコルがそ
もそも備わっている。この限りで、資本主義は国家という権力を必ずしも要求
しない。しかし他方で、共同体の外部の交通様式である市場経済に立脚する資
本は、たとえ社会の労働生産過程を商品生産へと転化できても、人口の再生産
機構をもたない。これは資本が自立的な経済のシステムとして支配的となった
資本主義がその出発点から不可避的に抱え込んだ最大の難点だった。16世紀以
降拡大する世界貿易とその富の西ヨーロッパへの集中が、他方で奴隷貿易とい
う形で、外部から労働力を強制的に調達することになったのは、資本が人口の
自己再生産能力をもちえないからだ。
この人口再生産能力を本質的に欠いた、共同体の外部の交通から生まれた資本
が、労働の組織を包摂し、人口の再生産を消費手段の市場を通じての提供とい
う回り道を通して確保してきたのが、資本主義である。この資本主義は人口の
再生産(あるいは人口管理)の制度として国家を必要としたのである。いうまで
もなく、労働力として資本に包摂される過程は、同時に労働力としての身体性
をめぐって、生産手段をうばわれ、封建的な身分関係から自由となったプロレ
タリアートとの闘争というぬきさしならない対立を伴う。浮浪するプロレタリ
アート、怠惰なプロレタリアートたちが刑罰の対象とされ、資本のための労働
力としての身体が数世代を通じて社会的に形成されてきた。こうして近代の個
人は、同時に労働力の所有者として、契約の主体となり、労働における責任と
義務を負わされることになる。しかし資本は、この労働力を消費することはで
きても再生産することはできず、また世代的に再生産することもできない。労
働市場の相対的過剰人口を常に必要としながら、同時にこの過剰人口を扶養す
るシステムを資本の価値増殖運動は排除する。国家はこのような資本の難点を
補完する。この意味で国家がその構成員にたいしておよぼす権力は、資本主義
の経済の側面からすれば、労働力としての身体の再生産であり、資本と市場の
外部におけるその管理ということになる。労働する身体からの逸脱を規制し、
労働する身体としての欲望を調整し、労働する身体へと訓育し、労働する身体
から排除された人々を「見守る」のである。
資本はこうした体制のなかで、労働する身体を資本の運動に取り込むことを通
じて社会を支配し、価値増殖を実現してきた。マルクスはこの価値増殖に動員
される労働力の側面から、搾取をもっぱら剰余労働として論じたが、上記のよ
うな労働力をめぐる構成をふまえれば、搾取とはむしろ労働力となるように身
体を社会的に構成させられることを通じて、プロレタリアートの生きる時間を
資本の時間として簒奪するものであって、剰余労働の問題はそのごく一部に過
ぎないことがわかる。搾取されているのは、まさに労働力となることを強制さ
れる身体そのものなのであり、この身体が関係する時間と空間をプロレタリアー
トがみずからの自由な意思によってコントロールする手段を奪われていること
そのものなのである。【注3】
資本主義における情報コミュニケーション技術(ICT)は、こうした資本の基本
的な性格から導き出されるものである。多くの場合、情報化は社会発展の必然
的な経路とみなされて「なぜ情報化」なのか、という問いは無視されることが
多い。同時に、「なぜ資本主義は工業化として出発したのか」ということにつ
いても明確な説明が省かれ、単なる歴史的な事実としてのにとらえられること
が多い。しかし、工業化、脱工業化としての情報化という資本主義の展開の経
路は資本の必然性であり、同時に、プロレタリアートの闘争がもたらした結果
でもある。
■市場と情報
市場は、価格という量化のフィルターを通じて、情報を縮減し、異なるコミュ
ニケーション環境にある社会を媒介する。文化や価値規範の相違やずれは、こ
の価格という抽象的で買い手と売り手が共有する一般的な等価としての経済的
な「富」の観念を媒介することによって取り引きの障害とはならないように回
避される。しかし、逆にこの異質な社会を媒介する経済的に一般的な等価とし
ての貨幣(現代ではドルやユーロといった国際的な通用力をもつ国内通貨、域
内通貨がこれに該当するだろう)が富の象徴として諸社会の異質性を抑圧する
普遍的な価値として君臨することになる。すでに述べた共同体の外部に発生し
た商品経済が、逆に共同体の規範を解体し商品経済=市場経済の規範に従わせ
ることになるという過程は、同時にこのようなコミュニケーション問題を含ん
でいる。
しかし、こうした過程は、市場経済がすべて商品や貨幣を介して達成するもの
ではない。市場経済は、貨幣的な富に多くの関心が払われがちだが、実は人々
の生活にもっとも深いところで影響を与えることになるのはむしろ貨幣を介し
て消費される商品にある。もっと正確にいせば、「商品の意味」にある。この
意味の形成は、市場の価格や市場を流通する商品それ自体ではになえない。こ
こに、商品の意味の流通と生産をになうコミュニケーションの構造が必要にな
り、このコミュニケーションを成り立たせる物質的な土台としての情報通信シ
ステムが必要となる。
コミュニケーションは人間の基本的な振る舞いであり、身体と言語をもつ人間
という実在それ自体が普遍的に他者に対して(自己の内部にある他者や、動物
や自然などの非人間的な他者も含む)関わる行為である。したがって、この行
為は、市場経済やそれにともなう情報通信システムとの関わりは、市場経済の
側からだけでは捉えきれない拡がりを持つことになる。しかし、他面、コミュ
ニケーションが市場の構造に深く関わっていることも事実である。いかえれば、
コミュニケーションが市場に接合される構造があり、この構造は、市場の枠を
はみ出ると同時に、ハバーマスのいうような生活世界の枠からもはみ出してい
る。
右に述べたように、市場はそれ自体の固有のコミュニケーションシステムをもっ
ているわけではない。コミュニケーションは市場にとってはメタレベルのシス
テムである。言い換えれば、人々が言語や記号を駆使してコミュニケーション
をはかることは、市場の前提条件である。市場は、このコミュニケーションの
システムを利用して価格と商品の使用価値を伝達する回路を構築する。コミュ
ニケーションは他の物質的な財やサービスのように、すべてが商品化できるわ
けではなかったが、逆に広告という使用価値の意味形成と代議制が必要とする
世論形成のために、マスメディアがこのコミュニケーションの分野を市場に接
合する重要な役割を果たすようになる。しかし、このことは、情報の商品化を
伴ったというよりも、市場が必要とする情報を流通させる回路を資本と国家が
整備したといことである。このように資本主義の市場を支え、市場に付随する
が市場の商品のように価格と使用価値を付与されて提供されるわけではない情
報の回路が形成されたのがこの20世紀の資本主義の大きな特徴である。この
ような資本主義の市場にとって不可欠な、市場に随伴する制度を私はパラマー
ケットと呼ぶが、情報の回路はその典型をなすことになる。
パラマーケットとして制度化された情報の回路は、コミュニケーションのシス
テムとしていえば、個人相互の私的なコミュニケーションの自由を保障しなが
ら、不特定多数に対する情報発信の回路は、主としてマスメディアや政府に与
えられ、個人やその他の組織は一方的に情報を受け取る受動的な存在とされた。
こうしたコミュニケーションの環境は、国民国家の権力の制度とも関わりでい
えば、近代社会が民主主義の政体をとりながら、民主主義の理念ともいうべき、
討議を通じての意思決定は、このコミュニケーションの構造に制約されて、き
わめて限定的な形でしか実現されてこなかった。一方で議会という限定された
人々の間での討議によって、他方で、マスメディアが代弁する世論によって行
われてきたにすぎないという限定的な討議の空間が正統性を持ってきたのは、
二つの理由からである。一つは、技術的な条件から、右のような限定的な討議
の方法以外により有効は手段が見いだせないからであり、他方で、多くの人々
にとって政治的な意思決定に積極的に参加することよりももっと他にすべきこ
とや関心があり(あるいは場合によってはそうした非政治的な関心が市場によっ
て刺激されたとみたほうがいいかもしれない)、政治参加が投票行動のような
ごく限られたもので十分だと考えれれてきたからである。さらに、投票行動す
らとらない人々が無視できない数を占め、場合によっては過半数を占めるよう
になる。ハバーマスはこうした傾向を「市民的公共性の解体」(『公共性の構
造転換』細谷貞雄、山田正行訳、未来社、284ページ)と呼び、大衆消費社会と
広告、宣伝手法の普及現象と深く関わることを指摘したが、むしろ資本主義の
成り立ちからみて、このような市民的な公共性は解体する以前に、十分に形成
される条件を持っていなかったというべきかもしれないと同時に、市場を通じ
た権力作用は、抑圧ではなく、大衆に私的な生活における快楽を提供すること
を通じて権力の再生産を達成するというスペクタクル型の支配の結果でもある。
このように20世紀の資本主義は、コミュニケーションのシステムをパラマー
ケットとして市場に統合し、他方でこのコミュニケーションのシステムが国民
国家の「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)を支える装置とし、ま
た同時に、諸個人のコミュニケーションの条件をもっぱら受動的な情報の消費
者として、また情報発信の相互性の領域を私的な生活世界に閉じ込めることに
よって、政治過程の合意形成を投票と代議制によって代位できる制度として形
成することを前提として、その権力的な構成を維持、再生産してきた。こうし
たコミュニケーションの機能は、明らかに個人の意思、とりわけ政治的社会的
な意思の表明を押さえ込むものだといえた。この押さえ込みは、大衆の消費者
への転化による非政治的な存在へとつくりかえることと、政治的な意思表示の
直接性を無効化する試みとして行われてきた。この意味で、コミュニケーショ
ンのガバナンスは、資本主義の権力の正統性を支え、市場を消費者の私生活へ
と媒介する重要な問題なのである。
■公共性、フローの権力、市民的権利
インターネットを含めて、コミュニケーションのガバナンスを考える上で興味
深い観点といえるいくつかの議論を最後に取り上げておきたい。一つは、ハバー
マスの公共性(公共圏)論にかかわって論じられるコミュニケーションについて
の議論である。ハバーマスは国家と市場経済によるシステム合理性の世界とコ
ミュニケーション的な合理性に支えられた生活世界という二元論を前提として、
近代資本主義の官僚制批判、後期資本主義批判の手がかりを生活世界のコミュ
ニケーション的な合理性に基づく合意形成に求めようとした。
花田達朗は、『メディアと公共圏のポリティックス』(東京大学出版会)のなか
で、ハバーマスのコミュニケーション論の空間性の観点が欠落していると批判
している。サイバースペースは「関係のネットワークによるマトリックス」で
あり、コミュニケーション媒体の電子化によって脱物質化がすすみ「物質形態
の手段および対象への支配によって基礎づけられてきた所有および権力関係に
変化が生じ、また物質的条件との固定した対応関係から解放されたことになる」
(同上、110ページ)と指摘した。公共圏のコミュニケーションは、こうしたサ
イバースペースを前提とすれば、ハバーマスが想定するような相互行為には収
まりきらない拡がりをもつことになる。いいかえれば空間構造は、ハバーマス
がその理想的な発話状態として想定した関係からおおきく変容していることを
指摘した。
この花田の指摘は正しいとおもう。ハバーマスは権力と貨幣がシステムによる
生活世界の植民地化の媒体とする関係を指摘するが、こうした植民地化に先立
つ生活世界は、革命があろうが近代化があろうがそうしたマクロな社会変化か
ら相対的に自立した一貫性をもつ民衆の生活の根源のようなものが想定されて
いる。このようなモデルの場合、コミュニケーションのメディアはどのような
関わりをもつだろうか。特に、インターネットのような、生活世界における大
衆の双方向のコミュニケーションメディアもあると同時に、政府や資本のコミュ
ニケーションの手段でもあるようなコミュニケーションの技術は、どのように
位置づけられるのか。この点に関しては、ハバーマスの議論には大きな限界が
あることはたしかだ、
サイバースペースの新たな空間は、ユーザーインタフェースに関してはたしか
にある種の脱物質化を伴ってはいるが、しかし、同時にこの空間を支える環境、
インターネットのガバナンスの世界での用語法でいえば「名前空間」の管理が、
実際のコミュニケーション当事者の背後に隠されて機能するようになっている。
公共性はこの意味で、ひとつの見せかけの空間として構築されているともいえ
るのである。この点まで含めて公共性をとらえるとすると、公共性という場そ
のものをメタレベルで規定する必ずしも公共性の規範には適合しない関係を論
じなければならなくなるだろう。逆にこのコミュニケーションの空間を支える
インフラ部分のテクノロジーや政策の意思決定に公共的な討議の場が国境を越
えて開かれることができなければ、公共性は公共性としての実質を獲得できな
い。ルフェーブルを引きながら花田が論じる「可能態としての公共圏」の議論は
こうしたメタレベルの公共性を含みうるものであるとすれば、興味深い展開が
期待できるだろう。
マニュエル・カステルのいう「フローの権力」もある種の空間性をともなった
概念だといえる。カステルは情報経済の発展にともなって、国民国家の枠組に
よって与えられた権力の構成が本質的に変更を余儀なくされ、「領土的な拘束
を受けることのない権力」(『都市・情報・グローバル経済』大澤善信訳、青
木書店、277ページ)が登場しているという点に注目している。こうした新たな
権力の存在様式をカステルは「フローの権力」と呼ぶ。
「端的にいって、エリートはコスモポリタンであり、民衆は土着的[地方的]で
ある。民衆の生活と経験が個々の場所に根ざし、それぞれの文化に根ざし、そ
れぞれの歴史に根ざしているのに対し、権力と富の空間は世界中にくまなくい
きわたっている。社会組織化が歴史と無関係なフローにもとづき、いかなる種
別的な場所の論理にもとって代るようであればあるほど、それだけグローバル
な権力の論理は、歴史的に種別的な地方的/国民的社会の社会的・政治的統制
を逃れてでてしまうものである。」(前掲書 262ページ)
このカステルの端的な指摘は正しい。とすれば、エリートのコスモポリタンを
支える権力の有り様とはどのようなものか。国民国家の枠を越えてなおかつエ
リートの権力となるその根源にあるものは何なのか。権力は必ず制度を伴い、
権力のための表象をともなわなければならない。なぜならばそれなくして権力
は自らの存在を顕在化させられないからである。
カステルは、支配の空間的な意思表明がフローに空間でとる二つの主要な形態
があると指摘する。一つは、閉鎖的で人的なネットワークである。カステルは
「フローの空間は人格的なミクロのネットワークに投影されている、という仮
説」(前掲書、263ページ)を採用する。典型例が金融ネットワークであるとい
う。プライベートな会合での意思決定、さしずめ日本で言えば料亭政治という
部類に属するものだろう。カステルが指摘するのは、こうした伝統的な人的な
閉鎖的ネットワークが、「遠距離通信コンピュータをとおして市場動向への反
応を決定するという即時的意思決定過程のなかでも、依然としておこなわれて
いるのだということにきづくべきである」という。「つまり、フローの空間の
結節点はm居住空間や余暇のための空間を含むものであり、本社機能やその補
助的サービスの立地に即して、支配的機能を注意深く隔離された空間に集中さ
せる傾向をもっている」(前掲書 263ページ)
エリートの文化的種差性の第二の傾向は、どの文化にも帰属しないようなある
種のコスモポリタン的な閉鎖的でエリート主義的な文化である。それは、国際
ホテルや空港のVIP ラウンジ、ダイエット食、スーツなどのファッションから
秘書、接待の様式などに至るまで、文化の相違を越えて相互に理解し合える儀
礼の手続き(プロトコル)が存在するということである。こうした「文化的な一
貫性」を通じて、フローの空間は、国境横断的なネットワークとなる。
このエリートが支配する国境を越えたフローの空間を彼は次のように描き出す。
「フローの空間の出現は、場所に基礎をおく社会および文化と、それによる統
制をうけることなく社会を支配しつづける権力ならびに生産の機構との関節脱
臼[disarticulation]を意味している。地球規模で循環する資本の力、秘密裡
に移転される情報の力、すみずみまで貫徹されるなりふりかまわない市場の力、
国民が知らないうちに決定された政治的、軍事的権力の地球戦略の力、それに
市場化されパッケージ化され記録化されて人々の心の内外に直接差し向けられ
る文化的メッセージの力、これらに直面しては、結局、民主制さえもが無力と
なる」(前掲書 272ー3ページ)
フローの権力に対抗する戦略として、カステルは、国民国家の枠組における政
府権力にかえて、むしろローカルな政府の再構築を提起する。すなわち、市民
参加の促進と、地域を拠点としてグローバルなネットワークを構築することだ
という。そしてこの二つは新しい情報科学技術を基礎にして可能なことだとカ
ステルは指摘する。
「市民のデータ・バンク、双方向コミュニケーション・システム、コミュニティ
を基礎とするマルチ・メディア・センターは、草の根組織や地方政府の政治的
意志を基礎として市民参加を高める強力な道具である。地方自治体と世界とを
結びつけるオンライン・インフォーメーション・システムは、フローに基づく
機構を迎え撃つための重要な道具を提供するだろう。」(前掲書、273ページ)
このカステルの理解は、人々の存在の変化、とりわけ人々もまた、空間を移動
する存在であり、情報通信技術を駆使してこの権力のフローと対抗することが
可能であり、また、実際にそうした傾向を持っているということを軽視してい
る。移民労働者は定住する人々とは異なる存在である。こうした移動する人々、
とりわけ国境を越える多くの人々の存在が逆に権力をフロー化させることになっ
たともいえるのではないか。国民国家にかえてローカルな政府の権力を情報通
信テクノロジーを背景に再構築する可能性を示唆している点は、評価できるが、
それがグローバルなネットワークを展開する領土に被拘束的な権力に対抗する
唯一の戦略であるとはいいがたい。
これに対して、エチエンヌ・バリバールの『市民権の哲学』での議論は、他者
に開かれた市民権を主張することによって、ローカルな闘争を資本や国家の思
惑をこえたグローバルな市民権の思想へと媒介するヒントを与えてくれている。
市民的な権利、とりわけ、基本的な人権に属する権利は、闘争のなかで闘争を
通じてのみ獲得され、また維持される。バリバールは、1789年の『人間と市民
の諸権利の宣言』にいう自然権とは、自由、所有、安全そして圧政への抵抗権
であることをふまえて、この自然権としての基本権は「まず蜂起によって、次
に日常的な行使–それは結局のところ民主主義そのものなのだが–によって、_
市民自身が手にいれる権利である、またもちろん、この実践は、それぞれの
権利に個々別々み関係するわけではなく、それぞれの権利が全体として形づく
るシステムと関係する。…例えば、自由と所有はお互いに他方を必要とし、
同様に安全は圧政への抵抗を相関項とし_、抵抗は安全の条件であると同時に
限界でもある。それによって、状況と関連して新しい形式をとり続ける市民権
内部の弁証法に巻き込まれることになる」(前掲書、36-7ページ)
この市民的な権利は、市民による国家への権利、つまり「行政への権利、公権
力システムの設立への権利」を暗黙の内に含んでおり、自由はこの公権力や公
的な秩序の市民によるコントロールに服する限りにおいて保障されるという構
成をとる。バリバールは、市民権が制度化されることによって同時に、この市
民権が要求する「安全」が国家による安全保障へと逸脱するという。マルクス
が資本主義とその国家を一定の合理的なシステムとして論じようとしたのにた
いして、むしろバリバール「国家の構造とその階級機能の文節化が合理的でも
機能的でもまったくなく、つねに歴史的諸力の関係に依存しているということ
である」ということを強調する。闘争こそがむしろ近代国家が置かれた常態で
ある。
バリバールが主として念頭においているのはフランスやEUで進行しつつある移
民労働者への排斥の世論や政策にたいして、「国民」という枠組みでほしょう
される安全や権利への根底的な疑問だった。この疑問は、グローバルなコミュ
ニケーションの世界では文字通りそのままあてはまる問題である。国際化やグ
ローバリゼーションは、市民的な権利が国境で遮断されたり、国籍で差別され
たり市場によって排除される構造を如実に示し、その抑圧をはっきりと示すこ
とが多い。国境や市場経済の貨幣価値はむしろコミュニケーションの桎梏であ
り、国境と市場を異化する道筋が市民的な権利をめぐり闘争にはっきりと内在
していなければならないことを示している。
少なくとも、市民的権利が自然権の具体的な制度化としての国家を要求し、こ
の国家として制度化された権力の行使を正当化してしまえば、グローバルな市
民的な権利へと開かれることはありえない。言うまでもなく、市民的な権利は
抽象的な「市民」によってではなく、階級、ジェンダー、エスニシティといっ
た多様な社会的分節がもたらす差別と抑圧からの解放のための理念としてのみ、
その普遍性を主張できるから、市民的権利の問題はそれ自体が複雑であるが、
少なくとも、近代の市民的な権利が国民国家が与える「幸福」や」安全」とい
う城内平和によって保障されていてばそれで満たされるということは成り立ち
得なくなった、ということは共通の確認事項としてよいと思う
人間の基本的な権利をめぐる共同の規範や自由への要求がこうして国家という
保護者をむしろ必要としなくなり、市場のもたらす貨幣的な価値が逆に障害と
なるとき、インターネットのガバナンス、コミュニケーションのガバナンとい
う問題は、コミュニケーションの領域を一つの入り口として国民国家と資本の
権力の問題と対決せざるを得ないところにゆきつくことを一つの課題とせざる
を得なくなると思うのである。
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注1 例えば、『インターネット白書』(日本インターネット協会)や『通信白書』
(郵政省)などがインターネットのガバナンスという項目で扱うのは主として
ICANNや関連するインターネット組織である。
注2 インターネットの資源とよばれるものは、ドメイン名とIPアドレ
スである。IPアドレスはインターネットに接続されたコンピュータを識別する
ドット付オクテット表記(0から255までの数字をドットで区切って四つ並べた
もの)であり、ドメイン名はこれをアルファベット表記に置きかえたものであ
る。
注3 小倉利丸『搾取される身体性』、青弓社、参照