危惧すること:コロナウィルス問題と私たちの政治的な権利について

2月27日にいくつかのメーリングリストに「危惧すること」と題して投稿した文章を再掲しますが、もはや状況が追い越した感あるので、最初に補足の文章を載せ、その後ろに27日の文章を掲載します。27日の投稿にある米国のインフルの数字は日刊ゲンダイからとったものですが、CDCのデータではこれより少なく、死者は2万人、感染者は3400万人としており、25000人の根拠がわかっていないのに使ってしまってます。こういうのは好ましくない使い方で反省です。なお、米国の実態は調査されていないのでわからないし、そもそも検査キットが米国では足りないと米副大統領が語っているニュースをBBCで見ましたが、これは実態が正確に把握できていないということでもあります。ですから、日本と同じザル状態なので今後拡がるかも知れません。

インフルエンザもまともに押えられない米国CDCは日本のメディアがいうほど効果的な組織ではないと思います。5日の米国のDemocracy Nowの番組では、最大の問題は、米国の公的保険制度の不備にあること、貧困層が保護されないこと、貧困層ほどテレワークなどというシャレた仕事ができないサービス業についていることなどを指摘しています。

安倍が韓国と中国からの渡航を事実上禁止にしました。他方で、外国が日本人の渡航を制限すると逆ギレする。これは露骨なレイシズムであり自民族中心主義です。こうした事態を感染の問題ではなく、政治あるいは「地政学」(嫌いなことばだが)としてみる必要があるでしょう。こうした見方もメディアの報道では少ないし、そもそも私たちの間でも議論ができていないと思います。つまり、政治は政治の観点で感染症を観ているのであって、私たちの生存権の権利を保障しなければならないという義務に基づいて行動の選択をとっているわけではない、ということです。政治家や権力者の言葉は、権力の再生産にとって利益になるのかどうかという観点を踏まえて解釈する必要があると思います。

他方で、コロナがかなり経済に打撃になっているので、人々が騒ぐほど怖くはないということを強調する傾向もあります。たとえば、BBCは昨日の放送で、致死率は1パーセントでインフルエンザの10倍あるが、家で安静にしていれば多くの人は治るということを強調していました。 政治状況に応じて判断は変動し、専門家の言説が利用される、ということでしょう。

今にいたるまで、緊急事態を先取りして自治体ベースで進んでいる公共施設の閉館を表現の自由や民主主義の問題との関わりで論じる人が少ないと思います。人々が異論を唱えたり主張するために議論する空間が規制される現状を、人々の側が「仕方がない」で受け入れてしまう。緊急事態の立法化を目論む安倍は言語道断ですが、むしろこれを先取りしている自治体や自粛だけして代替策を模索することを断念しているように見える市民運動などの運動側にも問題があると思います。集会の場所が借りれないとすれば、これは憲法に保障された権利の制約だということを深刻に受けとめるべきですし、自粛は、この権利を自ら(仕方なく)放棄するという重い決断なのだということですから、代替案を工夫すべきだと思います。こうした草の根からの自粛状況にむしろ安倍政権への権力集中が支えられてしまっているということを冷静に分析することが必要でしょう。だから、感染のリスクがあっても集会はすべき、なのか。私は必ずしもそうは思いません。高齢者も多いので、決意と気合に依存するのも限界があるでしょうし、決意主義の弊害を経験してきた世代としては、こうした態度には躊躇も感じます。それぞれの判断が大切で判断の根拠を示すことも大切です。メディアや政権の判断を鵜呑みにしていないということを示す必要があります。そして、いかなる判断を下そうとも、代替案は用意して権利が縮小されない工夫は必要です。

企業はしたたかで、客が来なくて売り上げが減るなら損失をカバーするための代替策を探します。運動は金による損得ではないのでボーっとしてしまいがちですが、自由や権利の「損得」を冷静に判断して、代替策を工夫することがとても大事な時期に来ていると思います。いずれにせよ、コロナ問題を医者や「専門家」に任せるべきではないと思う。この問題についての政治の判断からメディアやマーケットの動向まで、状況は優れて政治的かつ資本主義的な損得に依存しているのだということを忘れないようにしたいと思います。

最近のできごとでいえば、80年代、90年代のHIV-AIDSをめぐるパニックは先進国がこうした感染という問題のなかで偏見や差別がどのように露呈するかを反省する上でとても参考になる時代であり、同時に、この偏見や差別と闘った貴重な運動の時代だと思います。

コンテイジョンという映画があることを富山の友達が教えてくれました。これは、かなりよくできた感染パニック映画。 開発されたウィルスワクチンを最初に誰が使うのかという微妙な問題と倫理との相克も描かれています。

もうひとつ、こうした事態のなかで想起されていいハズの国連用語があります。それは「人間の安全保障」です。このことばは外務省のホームページにもある公的な概念ですが、これに注目する言説もほとんどありません。人間の安全保障human securutyではなく民衆の安全保障people’s securityとすべきだという議論が沖縄の反基地運動のなかから提起され、国家の安全保障では民衆を守ることはできないということが議論されてきた経緯もあります。(小倉の文章)こうした議論もまた想起されるべきでしょう。

以上思いつきも含め補足でした。以下当初いくつかのメーリングリストに投稿したもの です。

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小倉です。煮えきらない投稿です。

コロナで緊急事態的な状況になっています。この新型コロナウィルスのリスクの客観的な評価がなかなかできません。そもそもクルーズ船が唯一の感染源とはいえないようなケースも発見されており、中国武漢が発祥の地だという推測も本当にそうなのか、確証が薄れているように思います。

中国政府にとって武漢での流行は、香港の反政府運動を押さえこむ上で格好の材料に使え、実際に香港の運動は大きく後退したし、トランプにしても中国経済を弱体化できる道具として新型コロナは事実を隠蔽するよりも事実を誇張する方が政治的な利得が大きいともえいます。 逆に日本政府は事実を把握しない、できる検査をしないことで統計データの暗数(あんすう、wikiとかに解説あり)を操作して実態を過少に評価してオリパラ開催に固執することの方に利益がある。トランプにしてもすでにインフルエンザで25000人も死者を出す大流行を隠蔽しつつコロナに注目が集まる方が都合がいいし、大集会を繰り返す大統領選挙では集会自粛は誰も言い出したくない。株価は下ってますが、テレワークのIT企業はかなりのビジネスチャンスと思っている。監視システムの拡大も避けられないでしょう。

状況は医学や疫学の問題だけでなく政治的な意向を反映しているので、客観的にどのように判断するのが正しい予防やリスク回避なのかさっぱりわかりません。こうなると不安だけが先行して自粛の同調圧力が強まり、運動もまた失速します。予防とリスク回避が何より大切という場合、過剰な萎縮ではないこと、政府やメディアの宣伝に同調しているのではないこと、政府のデマとは無関係の独自の判断だというための客観的な判断基準にもとづいていること、とはいえないようにも思います。逆に、こうしたことがあってもがんばって集会やデモをやるぞ!という決意先行は、威勢はいいけれど、リスク判断を決意によって代替できるわけではないから、理論的な説得力はない。 今回は新型コロナウィルスですが戦争状態の危機になると同種の状況が生まれるのかもしれません。

今後のことで危惧するのは、

(1)集会などが次々に中止になる。主催者判断の自粛だけでなく、公共施設が貸さない、という判断になる可能性もあります。国会の議員会館の院内集会の中止もありえないことではないでしょう。憲法に保障された集会の自由を奪われるわけです。

(2)国会は通常国会の会期中ですし自治体の議会も開かれていると思います。様々な法案の審議中ですが、無観客試合みたいな感じで一方的にヤバい法案が次々に通過する可能性がある。裁判所も傍聴制限を強化するかもしれない。裁判公開の原則が崩れます。とくに、非常事態の官邸への権力集中を容認するような法案とかが、コロナを口実に作られるかもしれず、たぶん野党も同調するでしょう。

(3)国会すら機能停止になるとすれば、あるいは国会審議の時間的な余裕がないという理由で執行機関の内閣に権力が集中し、行政が暴走する。例外状態を口実に超法規的なことをやりかねない。

娯楽関連のイベント中止は、確かにコロナの流行状態をみると仕方ないかなあと思いつつ、他方で、オリパラとの関連では、福島の放射能汚染の隠蔽の現実を踏まえると、実はもっと深刻に捉えるべきなのかとも思い、そうであるなら集会などの自粛もありなのかとも思います。いずれにせよ集会などの実施、中止の判断の政治的な性格をきちんと把握する必要があると思います。医学と疫学だけに委ねられない。確信をもって判断できませんが、こうした自粛の先に政治的な意思決定や民主主義を支える仕組みそのものがもっている権力を抑制しえない限界が露呈するように思います。

こういう事態で、天皇が何を言うのか、沈黙したままでいられるのか、ということも注目ですが、ぼくが注目したいのは天皇ではなくて、天皇の言動を受け止める「国民」の側の受け止め方の方です。これが天皇制を支える基盤だと思うのです。

ちなみにわたしの関連では29日に集会を開きます。これは予定通りの開催です。 監視社会に対抗する プライバシーの権利運動 ―韓国からの報告― http://www.jca.apc.org/jca-net/node/68

第9回:死刑廃止映画週間『フォンターナ広場』トーク

2月18日、死刑廃止映画週間に上映されたイタリア映画『フォンターナ広場』(日本語公式サイト)の上映後のトークイベントで話をしました。下記の動画の下にあるブログの文章はトークの記録ではありません。トークでは映画を観た方たち向けに話したのですが、ブログの読者は映画を観ているとは限らないので、話しきれなかったことなどを書くとともに、トークでは紹介できなかった音楽についても以下で紹介しました。

「フォンターナ広場」とは、1969年12月12日にミラノのフォンターナ広場に面したイタリア農業銀行で起きた爆弾テロ事件を指しています。16人の命を奪い、100人が負傷する大惨事になります。当初、この事件をアナキストたちの犯行だとして大量の活動家が検挙されます。この検挙者のなかに、後に取り調べ中に警察の建物から飛び降りて「自殺」するジュゼッペ・ピネリもいました。映画で描かれているように、この自殺は警察による組織的な殺害によることはほぼ間違いのないものです。この映画にはいわゆる死刑は登場しませんが、このピネリの「死」は、権力による非合法の処刑と解釈することができるという意味で、死刑を権力による殺人と定義する観点からすれば、これもまた一種の死刑に違いないと思います。死刑制度を考える上で、こうした法制度を超えるところで行使される権力による処刑の問題は死刑廃止運動においても視野にいれておくべき課題だと思います。

この「フォンタナ広場」の事件をアナキストの犯行としたことに対して、アナキスト(様々なグループがありますから複数形です)だけでなく議会外左翼のLitta Continuaなどは当初から政府が関与する陰謀とみて、フォンタナ広場は国家による虐殺だと主張します。「国家の虐殺」は抗議のデモで繰り返し叫ばれるスローガンになります。この映画でも描かていますが、次第にフォンタナの事件は、アナキストの犯行ではなく、国家権力を後ろ盾とした極右が関わる犯行であるとする間接的な証拠などが出てきます。しかし、アナキストを事件直前に広場まで運んだと証言したタクシーの運転手や捜査にあたっていた検察官などが次々に謎の死をとげます。そして今世紀まで続いた長い裁判は二転三転して、結局のところ事件の責任を問われる者もなく、真相はうやむやなままになります。関係者もアナキスト、警察、諜報機関や軍、政権の政治家、極右など複雑で、しかもスパイもいたりするので、人間関係の理解が難しいかもしれませんが、かなり忠実に事実の即しつつ権力犯罪としてのフォンタナ広場の背景を描いていると思います。

映画というメディアの限界として、出来事を描くことができても、それぞれの登場人物が抱いている思想的な背景を深く掘り下げるところまではいきません。上映後のトークで私は、なぜ爆弾テロのような暴力を極右や権力が使おうとしたのか、その背景についても話しをしました。事件は半世紀も前ですが、60年代末から70年代にかけて、爆弾テロ事件が多発するなかでフォンタナ広場の事件は、この時代を象徴するものとなりました。68年、69年という時代は、ヨーロッパでは新左翼の出発点をなす時代ですが、同時に、新左翼に対抗する極右が新たな装いをもって登場する時代でもありました。冷戦期の70年代に、戦後のイタリアの政治を二分してきた保守とイタリア共産党から構成される不安定な権力構造の外側に、アウトノミアと呼ばれる議会外左翼によるユニークな運動が拡がりをみせました。アントニオ・ネグリはこのアウトノミア運動の思想的な担い手の一人だったわけです。イタリアでは左翼、アナキズトの広範な運動を押え込むために、左翼を暴力的で危険な存在であると印象づけるための様々な陰謀が繰り替えされました。こうした陰謀に極右の暴力が利用されたのです。左翼やアナキストによる暴力も存在したので、全てが陰謀であるとはいえない状況にありました。こうして実際に多くの人々を犠牲にしながらテロの脅威によって社会の危機が演出されました。フォンタナ広場の事件は、その事件の勃発だけでなく、その後の捜査や司法の判断など一連の権力の動向全体を通じて、保守・反共政府の権力基盤を強化する非常事態の政治的な演出の象徴的な事件といえます。

私は、政治的な暴力には、人の命を奪う政治的な意思なしには行うことはできないと考えています。イタリアにおける政治的暴力は、20世紀初頭のファシズムにそのひとつの源流をみることができます。ドイツのナチズムがユダヤ人ホロコーストという国家犯罪によって厳しい拒絶に直面したのと比べて、イタリアのファイシズムは戦後もある種の寛容さをもって容認されてきたように思います。しかもムッソリーニのファシズムすら妥協の産物(とりわけローマカトリックとの妥協)だとみなして批判してきたユリウス・エヴォラのような神秘主義と伝統主義に基く思想を含めて、戦後も反共のイデオロギーとして延命したともいえる側面があります。思想的な背景は描ききれていないところは物足りないのですが、この映画はかなり事実を忠実に再現しようとしていると思います。この意味で必見と思います。(DVDでも発売されています)

トークでも言及しましたが、12月にはフォンタナ広場での権力による爆弾の虐殺とピネリ殺害の抗議行動が行なわれており、2019年12月の集会の模様。

ピネリの虐殺はBallata dell’anarchico Pinelli(La Ballata di Pinelli)という歌となって歌いつがれてきました。様々なのミュージシャンが歌ってきました。

Montelopo

Joe Fallisi

KZOUK,コルシカのロックバンドのライブ。18世紀のコルシカ革命(独立運動)のシンボル、ムーア人の旗が見える。

以下はMontelupoのバージョン。動画の下に歌詞があります。

La Ballata di Pinelli

Quella sera a Milano era caldo
Ma che caldo che caldo faceva
Brigadiere apra un po’ la finestra
una spinta e Pinelli va giù

“Commissario gliel’ho già detto
Le ripeto che sono innocente
Anarchia non vuol dire bombe
Ma uguaglianza nella libertà.”

“Poche storie confessa Pinelli
Il tuo amico Valpreda ha parlato
è l’autore di questo attentato
Ed complice certo sei tu”

“Impossibile” — grida Pinelli —
“Un compagno non può averlo fatto
e l’autore di questo attentato
fra i padroni bisogna cercare

“stai attento indiziato Pinelli”
questa stanza è già piena di fumo
se insisti apriam la finestra
Quattro piani son duri da far.”

C’è una bara e tremila compagni
stringevamo le nostre bandiere
quella sera l’abbiamo giurato
non finisce di certo cosi

e tu Guida e tu Calabresi
se un compagno è stato ammazzato
per coprire una strage di stato
la vendetta più dura sarà

quella sera a Milano era caldo
Ma che caldo che caldo faceva
brigadiere apra un pò la finestra
Una spinta e Pinelli vaggiù.

内田樹の天皇制擁護論批判――明仁の退位表明をめぐって――

目次

  • 1. はじめに
  • 2. 象徴的行為
    • 2.1. 象徴的行為の再定義?
    • 2.2. 代替わりの一連の儀礼と象徴としての機能は一体なのか
  • 3. 憲法の天皇条項と「霊的存在」
    • 3.1. 条文そのもの
    • 3.2. 「霊的」存在の肯定
  • 4. 「國軆」による国民統合と民主主義的な多様性のあいだの矛盾の弁証法的統一?
    • 4.1. 統合と民主主義
    • 4.2. 退位とシャーマン
  • 5. 合理的・科学的批判の限界への挑戦へ

1 はじめに

明仁が生前退位を公的に表明したときの発言については、様々な論者が見解を表明してきた。以下では内田樹の天皇制擁護論を取り上げて、私なりの意見を述べておく。内田の発言は、明仁が生前退位を表明した「おことば」についての独自の解釈を示しながら、かつては天皇制に懐疑的であった彼がなぜ天皇主義者に転向したのかを述べており、現代のリベラリストの天皇制擁護論の特徴を示している。彼の擁護論の特徴は、リベラルであることや安倍政権への否定的な評価に立ちながら、むしろそうであるが故に象徴天皇制を積極的に肯定するという観点を、論理を超越したある種の宗教性に依拠して論じている点にある。以下で引用している文章は「私が天皇主義者になったわけ」(『私の天皇論』、月刊日本2019年1月増刊号、2018年12月 所収)に掲載されたインタビューである。

2 象徴的行為

2.1 象徴的行為の再定義?

内田は、明仁が「象徴的行為」という言葉を用いたことに注目する。

象徴天皇にはそのために果すべき「象徴的行為」があるという新しい天皇制解釈に踏み込んだ。その象徴的行為とは「鎮魂」と「慰藉」です。

象徴的行為の中心をなすのが、鎮魂と慰藉だとし、憲法7条の国事行為「儀式を行うこと」を鎮魂と慰藉を行うこととして解釈する。

憲法第七条には、天皇の国事行為として、法律の公布、国会の招集、大臣や大使の認証、外国大使公使の接受などが列挙されており、最後に「儀式を行うこと」とあります。陛下はこの「儀式」が何であるかについての新しい解釈を示されたのです。それは宮中で行う宗教的な儀礼のことに限定されず、ひろく死者を悼み、苦しむ者のかたわらに寄り沿うことである、と。

ここで問題になるのは天皇にとっての「儀式」とは何なのか、「ひろく死者を悼み、苦しむ者のかたわらに寄り沿う」とはどのような意味をもち、それはどのような儀式的な行為を伴うものなのか、である。内田は7条の「儀式」を厳格に非宗教的な行事として解釈するのではなく、天皇という名称が本来もっている宗教性を内包するものだという「新しい解釈」を天皇が示したことを評価する。憲法でいう「儀式」=象徴的行為は従来、非宗教的な行事としての儀式であると解釈されきた。明仁が儀式に込めている象徴天皇としての内面の意思がどのようなものなのかは、この儀式を解釈する側に委ねられている。内田は、「儀式」に宗教性を読みとることを肯定した。内田は、あたかも明仁が「新しい天皇制解釈」を表明したかのように述べているが、実は、解釈の主体は内田にある。行為や言葉といったメッセージは、発信者と受信者双方がそれぞれにメッセージの意味を解釈しあうことの繰り返しを通じて、その行為の社会的な意味が形成される。天皇の国事行為としての「儀式」を宗教性のないものと解釈するのはメッセージの受け手の側であり、従来、憲法で定められた天皇の象徴としての行為は宗教性を持つべきではないとされ、だから実際の天皇の象徴行為も宗教性がないと解釈されてきたが、この解釈の枠組を否定し、天皇の象徴行為に宗教性を認め、これを積極的に意味ある行為として肯定した。この解釈の転換は、天皇の「おことば」が引き金になったとしても、この「おことば」を受信した側に、しかもリベラルな知識人の側に起きたということが重要なのである。意味を生成する場がある種の転換をみせたことを意味しており、天皇の象徴行為の宗教性が、たとえ憲法を逸脱しているとしても、肯定すべきとする主張が、解釈の通説になる兆候がある。同時に重要なことは、内田のような解釈は、天皇をめぐって、国事行為とこれには含まれない宗教儀礼という二分法がそもそも成り立たないことを指摘しているということだ。明仁は間接的にこのことを示唆し、内田は明示的にこの二分法を退けた。こうなると、そもそも象徴天皇制のもとで憲法20条が成り立つのかが疑問視されるということになる。

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

従来の通説では、憲法に定める象徴としての行為者としての天皇は、国の統治機関の一部だから宗教的活動はできない、だから、憲法7条の「儀式」も宗教儀式を含まないし含むことはできない、という解釈であろう。戦後、天皇の神道儀礼と国家との関係が繰り返し問題視されてきたのは、この憲法の縛りと天皇がそもそも天皇という命名の由来でもある神道と不可分な存在であることとの間に、憲法に内在する論理整合性をとることが必ずしも容易ではないという点にあった。神道儀礼が含意されるような儀式は、事実上これまでも天皇儀礼として排除されてはこなかったのだが、一見すると非宗教的とみなされる国事行為もまた、天皇に即せば、宗教的な意味を伴わないような行為はありえないことは自明である。「天皇」と命名された者の行為である以上、宗教性は払拭しえないからだ。政教分離を徹底させるのであれば、そもそも国家の象徴に「天皇」を位置づけること自体が矛盾なのだ。「天皇」という記号は、その意味内容が二重化されている。天皇からすれば、彼の象徴的行為は宗教的な行為と不可分だ。神道儀礼はこれが顕在的に示される場面だとすれば、正月や国体などの旅先での「おことば」から憲法に定められた国事行為は、宗教性を世俗的な装いの下に潜在させつつ維持されており、意味内容は受け手の側には世俗的なものとして解釈されているにすぎない。この意味の二重性は、従来であれば世俗的な意味内容が意味のヘゲモニーを握ってきたが、明仁の「おことば」はこのヘゲモニーを宗教性の側にシフトさせるものだった。このことを内田は敏感に読み取ったといえる。天皇を国家と国民統合の象徴としてしまえば天皇が出席する祝典、儀式はおしなべて宗教行為となり、国による宗教的活動となることが避けられない。つまり、憲法の象徴天皇の規定そのものが20条と矛盾する。護憲という立場は、この矛盾を、天皇の国事行為を非宗教的な行為であるハズだと「解釈」してやり過してきた。20条をとるか1条から8条をとるかは、二者択一である。だから「護憲」という立場は、現行憲法の象徴天皇制をめぐる内的な論理矛盾を糊塗してきたとはいえないだろうか。

このことは明仁の次の発言に露出している。

即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごしてきました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

2.2 代替わりの一連の儀礼と象徴としての機能は一体なのか

明仁から徳仁への代替わりの儀礼は、いわゆる国事行為であるのかそれとも皇室の宗教儀礼であるのかという議論に収斂させることのできない一体としての構造をもっている。そもそも憲法に定められた国家と「国民」統合の象徴は、「天皇」と呼称されることで宗教性と世襲性とが不可分な存在となる必然がありながら、他方で世俗的な統治機構を表向き標榜する国家の象徴でもあるという矛盾をもっている。この矛盾は、天皇の側からすると、神道祭祀と「日本」の伝統を継承し、その「祈り」の内実をシャーマンとして遂行する以外にない(そうでなければ自らの信仰を否定することになる)ものとして、この矛盾の辻褄を合わせる。他方で、世俗権力の体裁をとる統治機構の側は、逆に、天皇の神道信仰やシャーマンとしての鎮魂を隠蔽して世俗的で憲法に定められた国事行為の主体でしかない存在であるかのように装おうことを通じて、この矛盾の辻褄あわせをする。「国民」は、といえば、この二つの欺瞞の構造のなかで、自らの立ち位置を定める自由を持つにすぎない。

明仁は天皇なき日本は平和を保証できないということを、彼の祈りの現実的な効果として確信しているとすれば、内田は、こうした確信を「国民」の側から、下から支えるような心情を吐露することによって、平和構築の不可欠な存在としての天皇を確信する。いずれも、日本が天皇と「国民」が相互に依存しあいながら、この構図を再生産する以外の選択肢を否定する。

こうしてみると日本国憲法は、世俗的な装いをとりながら、国民が一体のものであって、この一体性が国民そのものによってではなく天皇によって表象される以外にないところで、その正統性のイデオロギー的な基盤を確保するという構造をもっていることがわかる。

3 憲法の天皇条項と「霊的存在」

3.1 条文そのもの

憲法の象徴天皇条項はかなり論理的に矛盾した構造をもっている。

  • 1条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」主権者の総意に基く国民統合を象徴する存在が「天皇」と呼ばれるのか、それとも、あらかじめ天皇と呼ばれた存在がおり、この存在をもって国民統合の象徴とし、国民の総意に基いたものとみなす、ということなのかで、天皇という存在の憲法上の規定が真逆になる。法の支配[1]が前提にあり、憲法を国家の統治規範とするのであれば、まず最初に、国民統合の象徴の意味する実質を国民が総意によって確認する手続があり、この手続きを経た存在が「象徴」となるはずだろう。しかし、この象徴が、まず最初に「天皇」という戦前の憲法由来の、更には神話に基く「日本」の伝統的な信仰と統治の主体を意味する内容と結びつけられる場合には、主権者の討議と総意の確認の手続きは、事実上排除されることになる。

日本国民の総意を確認する手続きを経て日本国民を統合する象徴となるものとは一体何なのか、という問題は、国家の正統性を支える重要な主題である。この場合、「日本国民統合」とは何のことなのか、なぜ「統合」という文言が必要なのかという問題は、「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて」という前後の文脈との関連でいえば、「日本国の象徴」というだけでは足りずに、「日本国民」をこれに加え、更に「統合」という文言をも加えていることからすれば、民主主義が前提とする国民内部の相互に相対立する思想信条などを超越した国民としての一体性を表現したものともいえる。このような一体性を承認することを憲法が要請しているということは、日本という国家が階級、ジェンダー、エスニシティ、世代から宗教や思想の多様性による分断と矛盾を内包している社会であるということを否定するものだ。あるいは、こうした分断や矛盾があるとしても、これを「国民」として天皇に象徴されるものとして「統合」することを憲法が要請している。こうした国家観は、それ自体が擬制であり欺瞞ですらある。

  • 2条 「第二条 皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。」

象徴が世襲であることは、「天皇」を伝統的な皇室として与件とする立場に立っており、国民の総意に基くとする1条の解釈からは導かれない。世襲であれば必ず総意が成り立つというのは論理的な構造をもっていない。2条は世襲であることを定めることによって事実上1条の「総意」の手続きもまた否定し、世襲がこれらにとってかわりうる手続きであることを宣言している。民主主義的な手続きを経て王政を選択するということはありうるが、こうした選択肢も「天皇」に関しては否定されている。「論理的ではない」とか「不合理な独断」といった批判は可能だが、有効ではない。「世襲」を正当化しているのは、憲法や法に内在する論理ではないために、論理的な批判をそもそも受けつけない。次元が異なるのだ。この論理や近代の法合理性とは異なる世界を「天皇」という概念そのものが内包している。

  • 4条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」

天皇は、国事行為しか行なえないことを明文化している。国事行為の内容は7条に具体的に定められている。天皇が国事行為のみしか行なうことができないとすれば、天皇は一切の神道宗教儀礼を行うこともできない。宗教儀礼を行うのであれば、そのときには天皇という名前を用いることはできないはずである。しかし、天皇という言葉の由来が神道にあり、しかも神道の教義抜きには天皇とは何者なのかも定義できないのだから、そもそも4条を徹底するとすれば、天皇を主語に置くこと自体に根本的な矛盾がある。

天皇は実際には、国事行為以外の行為も行う「人間」であり神道の祭祀としての「伝統」の担い手でもある。一般に、人間が何らかの職務を担うとき、職務を指し示す言葉によって、職務にある者としての限定を付し、同じ人間であっても職務にない(プライベートとか言われるが)場合は、その職務の名称を避ける。これは、職務とその役割内容とが一体のものとしてあり、この職務に人間が時間と場所を限定して関与するということを念頭に置いている。ところが天皇という職務とその存在全体の関係はこういうふうにはなっていない。天皇の存在理由は、神道の宗教的な定義から導かれており、それ自体が宗教的な意味を帯びている。こうした存在を与件として国家の象徴機能がその一部をなすものとして組み込まれているといった方がよいようなありかたをしている。

天皇が一方で宗教的な主体であり、他方で憲法の規範に従属する国民統合の象徴的主体であるという二重性は、本質的に矛盾する。この矛盾は、神を否定して、神の座に国家という世俗的でありながら超越的で普遍的な価値の体現者を僭称する事実上の「神」を据えることで折り合いをつけてきたわけだが、どのような近代国民国家も世俗性の背後に何らかの宗教性をまとうことを否定することができていない。国家の観念を支える世俗的で合理的な普遍性としての価値や規範は、常に何らかの宗教的な「神」によって自らの存在理由を補完しなければ自己維持することができてこなかった。これは合理的な判断や推論から逸脱する人間の情動や無意識の世界が未だに「神」から解放されていないことを示している。この問題が最も端的に示されるのが「文化」の領域であるにもかかわらず、20世紀の左翼革命は「文化」の革命に失敗したために、人間の「神」からの解放にも敗北した。

3.2 「霊的」存在の肯定

内田は鎮魂と慰藉を象徴天皇制の再定義の核心に据えたのが明仁だと述べたわけだが、「鎮魂」について更に立ち入って次のように述べている。

どのような共同体にもそれを基礎づける霊的な物語があります。近代国家も例外ではありません。どの国も、その国が存在することの必然性と歴史的意味を語る「物語」を必要としている。天皇は伝統的に「シャーマン」としての機能を担ってきた。その本質的機能は今も変わりません。「日本国民統合の象徴」という言葉が意味しているのはそのことです。

霊的な物語は国家にとって必須であるとし、この物語の担い手がシャーマンでもある天皇であって、国民統合の象徴とはこのことを意味しているのだという。たぶん天皇が「祈り」を捧げるという行為が象徴的な行為であり、この行為をもって国民統合が体現されているのだが、この祈りという行為が霊的な物語によって裏付けられるのであり、世俗的で無宗教の行為としての「祈り」ではない、というのが内田の解釈であろう。わたしは、内田とは逆に、だからこそこうした「祈り」を否定しなければならないと思うわけだが、明仁に限らず、天皇の「祈り」とはどのような内実をもつものなのか、がここでは最も重要なことになる。たぶん、これまで天皇の宮中祭祀などの明らかな宗教儀礼を別にすれば、国事行為としての儀礼であれ慰霊の旅であれ、彼の「祈り」が宗教性をもつものではないという解釈は、内田にいわせれば間違っているということになる。

内田は、鎮魂が問題になることから、ここでの「物語」の中心をなすのが死者への慰霊ということになる。死者の鎮魂慰霊が国家という枠組によって規定されるべきことから、国民統合としての鎮魂慰霊の「象徴的行為」の目的はあくまでも国民の「霊的統合」だという。どこの国でもこうした霊的統合の物語があり、日本には日本の霊的統合の物語があるのは当然だともいう。

恨みを抱えて死んだ同報の慰霊を十分に果さなければ「何か悪いこと」が置きるということは世界のどの国でも、人々は実感しています。死者の切迫とは「これでは死者が浮かばれない」という焦燥のことです。そして、この感覚が現に外交や内政に強い影響を及ぼしている。「成仏できない死者たち」が現実の政治過程に強い影響を及ぼしているという・では、実は古代も現代も変わらない。その意味では私たちは今もまだ「シャーマニズムの時代」と地続きなのです。

内田は、次のように解釈している。

天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること、これは古代から変りません。陛下はその伝統に則った上でさらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と苦しむ者の慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したのは天皇制史上初めてのことです。現代における天皇制の本義をこれほどはっきりと示した言葉はないと思います。

内田は、憲法が天皇の機能として規定する国民統合としての象徴を「祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願すること」に繋げ、これを古代からの一貫した天皇の役割であるとするのだが、ここには日本という国家が世俗的な国家であることの余地はほとんど残されないような印象すら与えかねない言いまわしである。古代には「国民」など存在しなかったという揶揄は別にしても、この内田の立ち位置は、天皇の側にあり、自らをもっぱら天皇の振舞いに同期させることにのみ関心を持っていることが端的に示されている。

民衆の側からすれば、天皇の鎮魂や慰藉などという振舞と自らの心情との同期の構造はこれまで次のように想定されてきたと思う。天皇が祈りのなかで描く世界を日本の多くの知識人やメディアは、天皇の眼差しを内面化して理解し、咀嚼して、これを人々に伝える役割を担う。こうして民衆の世界は天皇の世界によって上書きされ、民衆の記憶もまた消去され、天皇の伝統が民衆の伝統を乗っ取る。こうして「国民統合」という観念が実体を伴うかのようにして民衆にも受動的に、しかしまた自発的に受容されてしまう。しかし古代から現代まで継承されているらしいシャーマンとしての天皇による鎮魂と慰藉の「祈り」があるとしても、その内実は闇の中であり、うかがい知ることができない。このような仮説はそもそも荒唐無稽だとして否定することもできるが、荒唐無稽なことがある種の力を発揮するとき、それは「オカルト」と呼ばれて少なくない人々の情動を支配する。代替わりの儀式をめぐる知識人や報道の内容を振り返ると、私は天皇制というカルトがこの国の大半の人々の情動を支配していることを軽視できないと思う。

4 「國軆」による国民統合と民主主義的な多様性のあいだの矛盾の弁証法的統一?

4.1 統合と民主主義

「日本国民統合」という表現は、国民としての一体性を強く印象づける表現である。国民である以上「一体」であるべきであるとい前提がある。しかも、この一体性は、憲法の後の条文にある基本的人権における自由に関する権利と矛盾する。多様な価値観や思想、信条などを国民が有するとすれば、一体性は存在しえない。一体性あるいは統合と呼ばれるような画一的な国家のありかたがなくても統治機構としての機能を果すことができるように設計されているのが民主主義による統治機構なはずだ。

内田はこの統合と民主主義の間にある矛盾に着目して次にように述べている。

天皇制と立憲デモクラシーという「氷炭相容れざるもの」が拮抗しつつ共存している。でも、考えてみたら、日本列島では、卑弥呼の時代のメヒコ制から、摂関政治、征夷大将軍による幕府政治に至るまで、祭祀にかかわる天皇と軍事にかかわる世俗権力者という「二つの焦点」を持つ楕円形の統治システムが続いてきたわけです。この二つの原理が拮抗し、葛藤している間は、システムは比較的安定的で風通しのよい状態にあり、拮抗関係が崩れて、一方が他方を併呑すると、社会が硬直化し、息苦しくなり、ついにはシステムクラッシュに至る。(中略)

だから今は、昔みたいに「立憲デモクラシーと天皇制は原理的に両立しない」と言う人には、「両立しがたい二つの原理が併存している国の方が住みやすいのだ」と言いたい。(中略)

「國軆」というのは、この二つの中心の間で推力と斥力が働き合い、微妙なバランスを保つプロセスそのもののことだと私は理解しています。「國軆」というものを単一の政治原理のことでもないし、単一の政体のことでもない、一種の均衡状態、運動家庭として理解したい。祭祀的原理と軍事的・政治的原理が拮抗し合い、葛藤し合い、干渉し合い、決して単一の政治香料として教条化したり、制度として惰性化しないこと、それこそが日本の伝統的な「国柄」でしょう。

内田が解釈してみせた明仁の象徴天皇の基本的な性格を鎮魂と慰藉にあるとする見方は、かなりのところまで正しい解釈だと思う。明仁が言外に留保して明言しなかったシャーマンとしての役割に踏み込んだ見解を示す一方で、これを復古主義的で反民主主義的な方向に還元することなく、民主主義との矛盾を内包することを社会の安定にとって不可欠な国家への国民統合の構造であるとするある種の弁証法的な理解は、現にある近代国家日本を、政権や目前に実際に存在する諸々の深刻な諸問題を棚上げして、これらを超越して絶対的に肯定すべき観念として、その必要性を強調してみせた。日本はなにはともあれ肯定される以外に選択肢をもたない絶対的な存在となる。[2]

内田は、「國軆」という観念を持ち出してきて、古代から現代まで一貫する「日本」の歴史的な連続的一体性を肯定する。この肯定を「物語」に基くものであって、史実に基づく必要性を認めない。明仁が「伝統」という文言で言わんとしたこともほぼ同義とみていいだろう。内田は、鎮魂と慰藉という象徴天皇の本質が現実の日本の社会の安定や平和に実際に寄与するものとはみておらず、むしろある種の日本人としてのアイデンティティの拠り所といった意味合いで述べている。明仁はそうではない。この点で内田と明仁との間には本質的に、天皇の象徴的行為の在り方の理解が食い違っている。明仁は次のように述べている。

天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろうと思われます。また、天皇が未成年であったり、重病などによりその機能を果たし得なくなった場合には、天皇の行為を代行する摂政を置くことも考えられます。しかし、この場合も、天皇が十分にその立場に求められる務めを果たせぬまま、生涯の終わりに至るまで天皇であり続けることに変わりはありません。

天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。

4.2 退位とシャーマン

明仁は「天皇の高齢化に伴う対処の仕方が、国事行為や、その象徴としての行為を限りなく縮小していくことには、無理があろう」と述べて国事行為と象徴行為の縮小に反対し、また摂政を置く可能性に言及しつつ、これを否定した。その理由は上の二段落目の最初に端的に述べられている。「天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます」というのだ。この条はいったいどのように解釈すべきなのだろうか。つまり天皇が病などで危機にあることと社会の停滞や国民の暮しへの悪影響との間に関連があり、この関連は「これまでも見られた」というのだ。私には一体どのような関連があるのかにわかに理解できないが、明仁の観念のなかでは、天皇の象徴行為は、単なる「儀礼」ではなく、その行為が日本の発展や国民の生活に実際の効果をもたらしているという理解がある。これは驚くべき発言であって、社会の発展や平和は主権者である「国民」の主体的な行為などではなく、天皇の健康と相関するというわけだ。

シャーマンとしての実効性を確信して明仁は、その能力の衰えを恐れて代替わりを決意した。明仁にとっての健康問題というのは、国事行為ではなく(それなら摂政に委ねてもよいものだろう)、この国事行為と並んで天皇が果すべきシャーマンとしての役割と関わるものだ。

たぶん、こうしたシャーマンとしての祈りとむすびつけることは曲解であると思われるかもしれない。通説は、かつての裕仁の死去に至る騒動がもたらした影響をオリンピックなどのメガイベントを控えている現状とを重ね合わせての発言だという解釈だろう。しかし、果してそれだけだろうか。明仁は次のように述べている。

天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共に行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

日本全国を旅することを象徴的行為と位置づけているが、これは憲法に定められた国事行為になない。いわゆる慰霊の旅などと称されて海外も含めた「戦没者」を慰霊する旅は、国事行為ではない。とすれば、当然のこととして憲法に定められた象徴としての行為でもない。しかし、これを明仁は象徴的行為として、憲法の象徴天皇の機能を拡大して解釈した。この解釈の前提にあるのは、実際に裕仁の時代から行われてきた「旅」を象徴天皇のあたり前の行為として位置づけてきた事実の積み重ねである。

もしそうであるとすれば、「国民を思い、国民のために祈るという務め」として述べられている「祈る」とは何なのかもはっきりする。これは憲法が規定している世俗的でいかなる宗教性からも切り離された行事としての「祈り」のパフォーマンスではない。ローマ法王が世界中を旅して祈るときに、誰も彼が世俗的な祈りを捧げるとは思わないし、実際の祈りのありかたもローマ・カトリックの祈りであることが明瞭なものとして表現される。しかし天皇の「祈り」は、憲法の政教分離の建前のなかで、意味の二重性の構造をもつ。慰霊の旅などは「国事行為」として解釈改憲されるなかで、その祈りとしての表象は世俗的であたりさわりのない非宗教的な体裁をとるが、だからといって明仁の祈りが世俗的な祈りであるとみなすことは、そもそも「天皇」という象徴が負っている歴史的な経緯からみて無理な解釈なのだ。その文言がどうあれ、彼はその内面いおいて神道祭祀として、シャーマンとして祈る以外に祈りようがないはずであって、だからこそ天皇という象徴は二重の意味を担うことになる。

5 合理的・科学的批判の限界への挑戦へ

代替わり儀礼に限らず、天皇や皇室に関わる神道儀礼はほとんどの「国民」にとっては理解しえないばかりでなく、そもそも理解することそれ自体もまた求められていない。しかし、「国民」としての一体性を天皇によって表象されることを確認の手続きもなく「総意」としてあらかじめ与えられることに、ほとんどの「国民」は異議を唱えていない。

たぶん、合理主義的に統治機構を理解しようとする考え方からすると、天皇をめぐる宗教儀礼や信仰に関わる領域は、理解不能か科学的根拠のない神話的世界を、あたかも事実のように見做す荒唐無稽な欺瞞でしかないとして検討の俎上にも乗せないで却下されるか、歴史修正主義のレッテルを貼って歴史的事実や合理的な判断によってその不合理性を退けるというだけのことになる。こうした理解は、学術的でもあり、科学的でもある一方で、宗教的な信仰や神話の世界を肯定したり不合理な世界を受け入れる人間の心情や心理を軽視することになる。合理的で科学的な理解を獲得すれば天皇制の信仰に関わる不合理な世界は消滅するのだろうか。たぶんそんなことはないと思う。なぜなら、人間はその本質において非合理的な要素を抱えているからだ。

他方で、宗教的な信仰の世界、天皇の信仰の世界を内田のように慰霊と慰藉として掬いあげたり、明仁のように「伝統」として非合理的な世界の継承を肯定する場合、彼らは、現実の世界が抱えている深刻な問題を、この世界を構成している構造的な矛盾の問題――資本主義が抱える矛盾と言い換えてもよい――として理解することができていない。人々が抱える深刻な問題は、崇高な「国民」としての一体性の観念や連綿と続くと観念される「國軆」「伝統」によって解決可能であるに違いないという願望によって宙吊りにされてしまう。いやむしろ、現実が直面している諸問題への解決の鍵は「伝統」への回帰あるいは、伝統を想起することのなかにあるということが含意されてもいる。

世俗的な世界観と宗教的なそれとの対立は近代世界に共通してみられる。しかし一般に、大衆は宗教的な世界理解を妨げられることはなく、むしろ宗教的な信仰を支える教義に接近することを宗教者は積極的に試みる。世俗的で合理的な世界と宗教的で神話的な世界とは、可視化可能な対立を構成する。しかし、日本の場合は、戦前であれ戦後であれ、神道の教義は大衆化することはなく、国家神道として強制的に教育のなかに導入された場合であっても、それは信仰としては浅いものでしかなかった。普遍性を装うことに失敗したために、合理的な世界を説得することができず、「民族」の観念を超越した普遍性をついに獲得できずに世界宗教にはなりえなかった。

天皇制廃止を主張したマルスク主義者は、資本主義が階級社会として、社会内部に非和解的な対立の構造を持つことから、国家への国民の統合という観念は、階級意識に対する敵対イデオロギーだという理解を鮮明にもっていた時期があった。アナキストは、国家を権力支配の装置とみなして民衆に敵対するものと理解したから、天皇制は権力支配の制度であって、権力の廃棄=国家の廃棄=天皇制廃棄は民衆の権力からの自由にとって不可欠な条件だとみていた。いずれであれ、「国民」という一体化した社会集団は、資本主義(あるいは20世紀の社会主義)が国民国家としての自己の存在理由を正当化するために構築した社会意識でしかない。ここに憲法の限界もある。憲法は、現にある社会が抱える構造的な矛盾や敵対的な構造(階級、ジェンダー、エスニシティ、るいは自然と人間など)を積極的に肯定しない。むしろ国家の統治機構は、いかなる矛盾や対立があろうとも、それらが「国家」の統治機構を支える方向である種の合意が形成されうるし、形成されなればならないということを前提にしている。この意味で国家とその構成員である「国民」という観念は、近代世界が抱える諸々の対立と矛盾を抑え込む最終的な審級をなしている。多くの西欧諸国は、この最終的な国家の構成員のアイデンティティの収斂点に、人類の普遍的な価値を置くことによって、この収斂が普遍的に承認されざるをえないような体裁をとっている。日本は、その構成員の「国民」としてのアイデンティティを一義的に普遍的な価値には置いていない。恒久平和と国民主権、隷属からの自由といった普遍的な価値が象徴としての「天皇」とリンクさせられることによって、近代国家としての普遍と特殊を構成する特異な構造をもっている。

この特異な構造のなかで、憲法の枠組は、「日本」が抱える近代資本主義としての矛盾や問題をこの構造を解体する方向で模索する道を閉す制度として機能している。近代国家の秩序の枠組は否定しえない至上の価値を有するものであり、憲法前文が主張する普遍的な価値の実現の条件として象徴天皇制を置くことによって、普遍的価値の特殊「日本」的な表れに正統性を与えようとしてきた。繰り返すが、こうした近代国民国家の憲法の枠組は、社会的な矛盾の止揚を社会の構造を変えることによって矛盾そのものを廃棄するという弁証法の罠の外に出る選択肢を認めないのだ。[3]

近代日本は、近代国民国家としての「世界性」と「特異性」を表裏一体のものとしてきた。このいずれを欠いても近代国民国家としての一体性は維持できない。しかし、普遍的な構造と特異な構造という二重構造は常に矛盾を抱えこむことになる。その矛盾は、国家の歴史と神話(創生の神話か歴史の事実か)と、工業化が基盤とする科学と超越的な存在(検証可能性と神の存在)をめぐって、常に妥協の弁証法に苦しめられることになる。天皇制は、神話や非科学的な神観念を土台とした国民国家としての固有性に依存する。神話を科学や歴史的な史実を根拠に否定することは容易だが、人々が神話を明確に記憶から消しさることはなく、むしろ習俗として日常生活のなかに定着しているのは何故なのかを説明したことにはならない。神の存在は証明されたことはないが、多くの科学者たちは、この根拠のはっきりしない存在を信仰しているという事実があり、こうした近代的な個人はむしろ普通にどこにでもいる人々である。

近代天皇制への人々の不合理な肯定は、天皇制への合理的科学的な批判では覆せないということである。神話や神話に基く儀礼的な行為が体現する象徴作用を否定するとはどのようなことなのか、である。

天皇制を支える儀礼は、オカルトといっていい性質をもち、外部の人達にとって、この日本の儀礼は奇怪なbizarreな文化でしかないと思う。この世界を「日本人」というアイデンティティを直感的にもつ人々が共有している。天皇制は日本ではカルトとはみなされていない。そのことがむしろ問われるべき問題だろう。

注:

1

「法の支配」という表現は、法が支配するのであって、人が支配するのではない、というニュアンスをもっているが、「法」はそれ自体として社会の規範や秩序を物質化できるわけではない。「法」は書かれた文章から構成されるが、「法」が法を書いたのではない。書かれた文章である以上、誰かが書き、誰かが解釈し、誰かが「法」を実体化するような社会の構築物や人々の「理解」を生み出す。「法の支配」の背後にはこうした意味での「人間」がいるわけだが、この人間によって形成される社会は具体的な固有名詞をもった人間の集合であるという意味でいえば、具体的であるが、法は常に抽象的な概念によって文章化される。抽象的な法を具体的な個人に適用する過程を「法」それ自体が支配することはできない。現実に私たちが抑圧を経験するのは、「法の支配」のバックグラウンドで機能する力をもつ特定の人間(たち)の振舞いである。この意味で「法の支配」はそのままで民主主義を保証しない。

2

しかし私はむしろ、日本という観念の相対化なしに、民衆の自由はありえないと考えている。日本に限らず、国民国家が自らを普遍的あるいは歴史的に太古の昔にまでさかのぼりうるか、あるいは普遍的な価値によって基礎づけられるかして、歴史を超越する存在として正当化しようとする一般的な傾向を容認してしまえば、近代世界が陥った戦争と他者支配の歴史を肯定せざるをえなくなる。伝統主義をひっさげながら近代を超克しようとする発想を根底から否定して、将来社会の可能性の一切を伝統と近代からの明確な決別として描くことなしには、抑圧からの解放はありえない。

3

上であたかも合理性と非合理性が対立するかのような図式で述べたが、実際にはこの両者はさほど仲が悪いわけではない。この両者が馴れ合う場がある。それが学術を含む文化と呼ばれる領域だ。文学は神話と、哲学は宗教とそれぞれ踵を接しているだけでなく、政治や法学は国家という観念を前提にするし、経済学ですら「日本経済」というカテゴリーを無反省に用いる。

文化・伝統のレイシズム

1 生前退位「お言葉」のレイシズム

何度も議論され、批判もされてきた明仁の生前退位表明だが、あえてもういちど下記の文言をとりあげてみたい。

即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごしてきました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、更に日々新たになる日本と世界の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。

明仁が「国事行為を行うと共に」と述べていることに注目したい。彼は天皇に国事行為以外に天皇の重要な役割があることを明言した。そのあとに「日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索」と続ける。憲法では象徴天皇の国事行為は、内閣が責任をもって助言して行なわれる国事行為であるはずだ。しかし、明仁はそのようなものとして天皇の象徴的行為を考えていない。憲法の枠に縛られた国事行為の外にも、天皇が主体となる象徴的行為があることを明言した。これは、象徴としての天皇の行為は、憲法によって制約しえない領域を含み、憲法の外部にあって憲法を超越する、とも解釈できる言い回しだ。戦後民主主義を体現する天皇であるかのように解釈されてきたが、少なくとも、晩年の彼は天皇の象徴的行為の憲法超越性を自覚していたのではないか。ここでいう憲法を超越するといっても、それは、政治的な権力が法を超越するという意味ではなく文化や伝統に内在する象徴権力の超越性を含意させている。

「伝統の継承者」を天皇に与えられた役割だと述べているところは見逃せない。天皇が想定している聞き手はもっぱら日本国民であると同時に、その圧倒的多数を占める(構築されたものとしての)エスニック集団としての「日本人」である。「日本文化」に属さない「文化」や「伝統」は天皇にとって「守り続ける責任」を有さない。そして、「日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし」という皇室を主語とする表現は、日本文化総体を念頭に置きつつ、その中心に皇室の文化を据えた表現だ。ここには文化のヒエラルキーも含意されている。しかも、こうした伝統の継承者として「いきいきとして社会に内在」することを使命にするという。社会に内在した皇室は、当然のこととして、日本の文化や日本に固有の価値を伝統としつつ日本社会にこれを内在化させることを通じて「継承」を実現する主体になる。主権在民の理念はここにはない。ここに戦後憲法の本音が透けてみえる。

天皇が日本国民統合の象徴でありながら、同時に「伝統の継承者」でもあるということは、日本が天皇や皇室の伝統を共有する単一民族から構成されているという虚構を肯定した排除の言説、あるいは日本文化を最上位に置いて諸々の文化をその下位に位置づける差別の言説でもある。これを国民統合の象徴の役割としての天皇が担うということは、統治機構のあり方として、差別や排除が構造化されることを意味している。天皇が「伝統」を口にするということは、国民統合をいわゆる「日本文化」を共有する「民族」や社会集団に限定し、それ以外の社会集団の存在を排除するか差別するという構図を統治機構のなかに持ち込むことを意味している。「伝統の継承者」とは、異なる文化の排除の表明であって、レイシズムの言説なのだ。

この戦後の皇室の発言や振舞いに体現されている文化や伝統をめぐるレイシズムは、戦前戦後を通じて憲法が国民統合を、そもそも法によって規制することのできない特異な宗教的な主体である天皇の象徴機能を与えた結果である。この意味で問題の根源は、戦前であれ戦後であれ憲法そのものにある。

2 徳仁のばあい

現在の天皇、徳仁も皇太子時代に「伝統」や「文化」を次のように用いている。

京都府は、我が国の政治や文化の中心地として、千年を超える歴史を有し、海を越えて渡来する文化を取り入れながら、日本文化の基本を形成してきた「こころのふるさと」と言える地域です。また、長い歴史を通じて、常に時代の変化に対応し、今なお、伝統文化の中心であるとともに、新しい文化を創造し続けています。(中略) 京都では、「こころを整える~文化発心」という大変奥深いテーマを掲げて取り組んでこられました。日本文化と日本人の精神性を見直し、次の世代に継承するため、大切にしたい日本の「こころ」のメッセージを募集し発信するなど、多彩な取組が進められていると伺っています。(2011年国民文化祭、京都:宮内庁ウエッブより)

「海を越えて渡来する文化を取り入れながら」という文言は、文化的な多様性を肯定するかのようにみせながら、むしろ「日本文化」が様々な文化を同化させてきた優位的な位置にあることを評価している。上にあるように何度も「こころ」という言葉を使い「日本人の精神性」という表現すら用いている。皇室が「日本人の精神性」に言及したことはほとんどない。宮内庁のウエッブでみるかぎりこの一箇所だけだ。「物」を介した文化から人間の感性や心情に直接関わる文化領域へと踏み込んでいる。この言葉から戦前の「日本精神」を連想するのは過剰反応と思う一方で、かといって全く無関係と言いきれるかどうかは、この言葉が受け手によってどのように解釈されるのかによるだろう。今の日本には「日本精神」を許容する危うさがあるように思えてならない。

あるいは次のような徳仁の「伝統」という言葉の使い方にもレイシズムが隠されている。

現在の世界の水問題は、大変厳しい状況にあります。その解決は、世界の喫緊の課題であり、国際社会が一致し て、強固な連携を図りつつ、ことに当たることの重要さは今更言うまでもありません。しかし、その解決策は、その地方、その河川流域ごとに異なるはずです。その地域の先人達が、場合によっては数千年の歴史をかけて、営々として築きあげてきた流れにそって構築されるべきものでありましょう。それぞれの地域の歴史の流れと伝統が尊重されなければ、本当に地域に役立つものとはならないはずです。(第4回世界水フォ-ラム全体会合基調講演:宮内庁ウエッブより)

ここでは、ある地域に数千年の単位で生活してきた人々による「伝統」に注目している。言いかえれば、その地域に新たに居住するようになった人々を言外に伝統から逸脱する人々であり、 水問題の解決の主体になりえないかのような印象を人々に与えている。天皇や皇室が繰り返し口にする「お言葉」は、ほとんどの「日本人」にとって違和感のない、むしろ退屈ですらある「常識」の類いであることが多い。しかし、こうした日本の「伝統」や「文化」の言説がレイシズムを支える大衆意識の基層を構成してきた。

3 グローバル化する極右と天皇制

冷戦終結以降、世界規模で目立つ政治的な動きは、民衆の反グローバリゼーション運動が明確なオルタナティブを社会主義として掲げなくなるなかで、新自由主義グローバリゼーションを左翼とはある意味で真逆のベクトルで批判する極右の台頭である。明らかに左翼の衰退の隙をついて極右が政治的影響力を強めてきているのだ。

極右は、経済のグローバリゼーションを「マクドナルド化」にみられるような画一的な消費文化、格差、貧困、移民の流入によるコミュニティ固有の価値の破壊として批判し、テロリズムや法制度を通じた移民排斥を実現しようとする。人々は自分が生まれ育った場所で、その場所の文化や伝統を重んじながら暮すことが最も幸福なありかただとし、市場経済競争よりも、文化や伝統に依拠した民族的アイデンティティの再構築を通じたコミュニティの再建を主張する。近代科学技術を環境破壊の元凶とみなして伝統文化のなかに解決を探そうとする。リベラリズムと民主主義を敵視し、家父長制家族制や権威主義を肯定する。米国の福音主義がある一方で、ヨーロッパの極右の一部には近代世界に加担したキリスト教を否定し、キリスト以前へのヨーロッパの古層への回帰、ヨーロッパの原型を北欧やアラブ、インドなど非西欧文化や宗教に求める異教主義的な傾向もある。

「文化」が伝統主義や極右の政治運動と結びついて運動の駆動力として復興しつつあるとき、日本では、裕仁から明仁への代替わりが重なった。グローバルな極右の台頭のなかで、象徴天皇制が世界各地の資本主義延命の文化運動とシンクロしはじめていることに注目したい。天皇制の構造は、見掛けと違って日本に固有とはいえない側面がある。神話や伝統への回帰を武器にするレイシズムと闘う世界の運動と日本の反天皇制運動とが共通の課題を見出すことは難しくなくなっている。むしろ連帯の可能性が拡がっている。このことは、伝統主義と闘う左翼の運動にとって大きな希望だと思う。

出典:『反天皇制運動Alert』44号

神奈川:2月15日(土)14:00~16:30 市民監視の強化にどう向き合うか!

2月15日(土)14:00~16:30 市民監視の強化にどう向き合うか!

会場:日本キリスト教団蒔田教会礼拝堂(地下鉄蒔田駅徒歩3分)(アクセス)

参加費300円 講師:小倉利丸さん

共催:日本キリスト教団神奈川教区・秘密保護法反対特別委員会、非密保護法廃止へ!戸塚区実行委員会

【案内】「代替わり」に露出した「天皇神話」を撃つ! 2・11反「紀元節」行動

まずは、神話上の建国の日とされる2.11 反「紀元節」行動へぜひご参加下さい。

 

講 師 小倉利丸 さん(批評家)
[日 時] 2月11 日(火・休) 13:15 開場(13:30 開始)
[会 場] 文京シビックセンター区民会議室・4Fホール(地下鉄後楽園駅・春日駅)

*集会後デモやるよ!

主催 ●「代替わり」に露出した「天皇神話」を撃つ! 2.11 反「紀元節」行動

表現の不自由展はなぜ中止されたのか

以下の「メモ」は2019年12月28日に開催された人権と報道連絡会の集会で配布したものに若干の修正を加えた。なお、「表現の不自由展再開が抱えた問題」も参照していただきたい。このメモでは簡単にしか言及されていない事にも触れている。また以下で批判の対象にしているのは、あいちトリエンナーレ検討委員会「表現の不自由展・その後」に関する調査報告書(案)」(2019年12月18日)のなかの「全体的所見」である。報告書には各委員の個別の見解なども示されているが、これについては言及していない。この報告書については津田大介による反論が公開されている。また、表現の不自由展実行委員会による意見も検討委員会のサイトに掲載されている。

Table of Contents

  • 1. なぜ展示は中止せざるをえなかったのか
    • 1.1. 構造的な背景
    • 1.2. 電凸から中止に至る経緯のなかで誰がサボったのか
    • 1.3. 推測される中止の構図
  • 2. 反知性主義
    • 2.1. インターネットとSNS
    • 2.2. 作品の意図とは
    • 2.3. 展示中止による偏見の蔓延
    • 2.4. ネット発信禁止は間違った方針だった
    • 2.5. 無視されたネット署名と公開を求める諸々の運動
    • 2.6. 検討委員会の反知性主義
  • 3. 不自由展の展示そのものへの検討委員会による悪意ある批判
    • 3.1. 業務委託はトリエンナーレ側が強いた条件だった
    • 3.2. 作品選定の責任を逃れたかったトリエンナーレ
    • 3.3. 企画断念も提言する報告書
  • 4. 資料

1 なぜ展示は中止せざるをえなかったのか

1.1 構造的な背景

不自由展の中止は、直接にはファックスによる脅迫や電凸と呼ばれる電話による嫌がらせ、誹謗中傷に対応しきれなかったというところにあることは「事実」だが、これは事実の一つの側面でしかない。

そもそも、不自由展に対して、トリエンナーレ側は、キュレーターも事務局も肯定的ではなかったと私は理解している。不自由展の意義について彼らはほぼ次にように考えていたと思われる。

  • キュレーターたちは、不自由展の作品群がトリエンナーレという国際展にふさわしいアート作品の水準にあるとは考えてなかったと思う。だから、展示に対しては消極的であり、協力しない姿勢をみせていた。
  • 事務局は、そもそも政治的社会的な内容をもち、かつ他の公立美術館などで展示できなかった作品という、それだけでリスクの大きな作品をあえて展示する「意味」を理解していたとは思えない。
  • 個人の心情(信条)として、不自由展の作品群が提起している内容に多かれ少なかれ違和感や異論をもつ者たちがいたことは事実である。
  • 出展作家たちのなかにも、作品評価という観点で、アートとしての質に疑問を抱く人たちがいたと思われる。評価できない作品だから積極的に支持するモチベーションも持てない、というわけだ。
  • 警察の対応もまた消極的なものだった。既に春の段階で、右翼対策でトリエンナーレ事務局は警察と打ち合わせを行なっている。警察側は展示内容を示されて、内容に難色を示した。県との打ち合わせで警察側は「作品内容を見る限り、天皇への不敬や慰安婦問題など、保守系団体を刺激する作品数の割合が高くバランスを欠いているように感じる。趣旨を説明したとしても、偏りがあるとなかなか理解されないような気がする。新天皇即位というタイミングや最近の日韓関係から保守系団体は、過敏に反応する可能性が高い。」と展示内容に踏み込んだコメントをしてきた。「不敬」という文言は警察が言ったのか、打ち合わせのメモを作成した県職員の言葉かわからないが、いずれにせよ公務員から「不敬」という文言が出るような環境があるという事実は重い。警察としては、こうした展示が右翼の抗議を招いたとしても自業自得と考えたかもしれず、積極的な右翼対策をとる積りがなく、トリエンナーレ側あるいは不自由展側に対処の責任を負わせたがっているような印象がある。

1.2 電凸から中止に至る経緯のなかで誰がサボったのか

右翼の攻撃は当初から予想されていたが、適切な対処を怠ったのはトリエンナーレ事務局である。不自由展を不快に思っていた事務局は、トリエンナーレを成功させつつ、不自由展だけをピンポイントで中止に追いやることを黙認したように思う。この「黙認」は意識的な行為というよりも、心理的なありかたとして、中止になってもやむおえないような状況を全力で阻止する努力を回避したつまり不作為による効果を狙ったということである。

8月始めに、右翼の攻撃の際に、不自由展実行委員会は以下のような質問をした。

  • なぜ電話対応を未熟な若い職員に委ねるのか。経験のある職員に対応させるべきだ。(答:職員の増員はできない)
  • なぜ人員や機材に対して予算を増額しないのか。(答:予算はない)
  • 県知事がトップにあるイベントでなぜ人も金も出せないのか。(出せない理由についての説明はない)

明かに右翼の妨害に対して可能な対処をする積りがない回答しか返ってこなかった。この結果として、現場の職員を疲弊させ、この疲弊を口実に展示を中止にした。つまり展示中止を正当化しうるような状況を作り出すことが暗黙のうちに組織の無意識な動機として形成されたといえる。

トリエンナーレ側も津田大介芸術監督も、京都アニメーション事件を引き合いに、中止は、ガソリンを撒くというファックスの脅迫が最大の原因となったと述べている。しかし、この経緯も不自然だ。

  • ファックスの脅迫があってから警察へに被害届けが出されるまでかなりの時間がかかっている。82日にファクスによる脅迫があり、被害届は6日になってやっと出される。展示中止は3日だから、中止の後にアリバイのようにして被害届が出された。脅迫メールへの被害届けは、更に遅く、14日である。
  • なぜ被害届が直ちに出されなかったのか。津田は「警察が受けとらなかった」と証言しているが、これは間違いか虚偽の回答だろう。国家公安委員会規則「犯罪捜査規範」第61条で定められているように、被害届の受理は警察の義務だからだ。1
  • 津田は、私たちに、ファックスであるにもかかわらず発信場所の特定ができない、と警察が言っていると伝えてきた。警察はそもそも捜査する意思がなかったあらわれなのだが、津田は、これを逆手にとって、自分の会社のスタッフがファックスの発信元をつきとめたと自慢した。津田は警察が捜査を怠ったことを怒るべきだったのだ。

1.3 推測される中止の構図

中止を電凸や脅迫に還元することはできない。もっと多くのベクトルが作用していたと思われる。

  • 通常ありうる右翼による会場への暴力的な介入はなかった。若干の口頭での嫌がらせのような言動はあったが組織的ではなかった。明かにトリエンナーレの会場を混乱させる組織的な意図をもった攻撃も皆無だった。
  • 同様に、美術館の事務局や館長室などに押しかけるなどの行動も目立ったものはなかった。
  • 周囲で街宣車が動員されて騒然となることもなかった。街宣車は僅かな数が来ていたし、路上での拡声器によるアジテーションなどはあっても、極めて限られたものだった。

私の推測にすぎないが、反対派の行動はかなりの抑制とある種の「統制」がとれていて、電凸やネットの嫌がらせも、見た目は不特定多数の自発的な行動のように見えるが、こうした行動が統制のきかないレベルにまで拡大していない。この点でSNSの拡散効果は実は思ったほど大きなものではなかったと思う。勿論、「統制」といっても、特定の組織がその構成員に対して行なうようなネット以前の大衆社会におけるような意味でのそれではない。現代の「指導者なき運動」のなかで発揮される「統制」である。

上述したように、反対行動は、トリエンナーレ本体を潰すことは意図しておらず、不自由展だけを切り離して中止に追いこむというピンポイントの攻撃を仕掛けてきたように思う。このように不自由展を中止に追い込みたいが、トリエンナーレの失敗は望まない人たちとは誰なのか。「誰」かは特定はできないが、この問題の多様な利害関係者の構図から「誰」を推測することは可能かもしれない。展示中止から再開へと動く全体の力関係はこれらが相互に関わりあうなかでのことであって、これらのクターの基本的な性格が展示再開から現在に至るまで本質的に変化していないので、将来同じような検閲が起きる可能性は否定できない。

  • 愛知県庁の官僚たち。知事は任期が負われば退任である。定年まで県庁職員として仕事し出世も目指す職員の行動の動機は知事とは同じではない。彼らはトリエンナーレの成功を望む主要な構成要素だ。しかし、不自由展の成功を望むかどうかはなんともいえない。労働組合が一貫して沈黙したことの「意味」は大きい。
  • 県庁内の派閥。どのような組織にも主流派と反主流派がいる。愛知県庁のなかにも大村派と反大村派あるいは河村市長支持派がいてもおかしくない。
  • 政治家たち。議会の自民党や保守派の議員は不自由展には反対だがトリエンナーレの成功は望んでいるだろう。
  • スポンサー企業。同様に、不自由展には反対だがトリエンナーレを文化支援の看板として利用するメリットは考えているだろう。スポンサー企業への嫌がらせや脅迫もあったと聞くが、これに対して企業側がどのような態度をとったのか、あるいは不自由展に対してトリエンナーレ側にどのような態度をとったのか、私には情報がない。
  • 名古屋市の河村市長とその流れを組むであろう人々。河村市長は明確な歴史修正主義者であり、そのスタンドプレイとメディアへの露出は、ネトウヨなどを刺激するアクターでもあった。右翼や大阪維新なども含まれる。
  • 宮内庁。天皇が絡む事件には必ず大きな関心を寄せる。大浦の「遠近を抱えて」が1986年に富山県立近代美術館で非公開となった折にも宮内庁に富山県は職員を覇権して状況を説明している。
  • 中央政府。直接間接の影響を行使したと推測できる。とくに少女像については展示を阻止する意向を愛知県に伝えていても不思議ではない。
  • キュレーターチーム。 不自由展のような問題作品を抱え込む覚悟はないし、作品の芸術的評価も低い。彼らの多くは、津田芸術監督との関係がよくなかった。その原因はいくつかありそうだ。ひとつは、キュレーターチームが推薦したアーティストを津田が認めず、津田はキュレーターチームとは別に独自にアーティストの選定を行なったようだ。表現の不自由展もその一つ。
  • 芸術監督。 あまりに大村知事を信頼しすぎ、官僚制度がどのように検閲の構造を生み出すのかについての理解がなかった。結果として、知事に裏切られることになる。(経緯は「資料」参照)
  • 検討委員会。アートの権威を代弁する者達。表現の不自由展を素人の展示だと軽蔑し、実行委員会の排除を企てる。展示中止を憲法違反ではないとみなす憲法学者も含まれる。表現の自由よりもアートの権威と利権に固執したと捉えられても致し方ないだろう。
  • 本展出展作家たち。立場は様々。検閲という事態に直面しつつ、不自由展の意義を認める者、認めない者、様々。ただしごく例外を除いて、ボイコットによる抗議という行動や裁判による解決に、日本国内からの出展者たちは否定的だった。
  • 不自由展出展作家たち。検閲に反対であるという点では、一致していたと思うが、それぞれの思いで出品したので、実はその思いや不自由展実行委員会の判断への評価も一つではない。
  • 鑑賞の権利を訴える市民たち。
  • アーティストやアートに関わる関係者たち。
  • 既存のマスメディア
  • ネットのメディア

2 反知性主義

検討委員会の報告書では、「拡大するネット環境によって社会の二極化や分断の進行が露わになるとともに、いわゆる「反知性主義」の存在が可視化された」と述べ、こうした動向への対応が今後必要になるとして、以下のように述べている。

拡大するネット環境によって社会の二極化や分断の進行が露わになるとともに、いわ ゆる「反知性主義」の存在が可視化されたのではないか。
あいちトリエンナーレが発足した当時とは比べものにならないほどにインターネッ トとSNSが普及した。これによって、目的が明確な「展示」を一般の人々から隔離する ことが不可能となったと言えよう。即ち、来場者が写真を投稿することで作品が企画者 の意図とは切り離されて注目を集める結果を招いた(いうなれば「美術館の壁が崩壊」 する結果)。こうした個人の解釈によるSNS投稿は、さらに作品の意図とは無関係な、 美術に関心のない人々を巻き込み、彼ら個人の思想・心情を訴えるために利用され、い わゆる「炎上」を招くことにつながったと言えよう。振り返ってみると、このような事 態が国際芸術展を舞台に起きたのは、はからずも、日本社会の分断と格差が進行した結 果とも言え、その可視化につながったと言える。このような社会の変容に鑑み、展示の 企画内容や展示手法については今後とも留意すべきである。

報告書のいう「反知性主義」とは誰を指すのかはっきりしない。通説といっていいホーフスタッターの定義(彼は定義すること自体の有効性に疑義も唱えているが)では「知的な生き方およびそれを代表するとされる人々にたいする憤りと疑惑である。そしてそのような生き方の価値をつねに極小化しようとする傾向である」としている。2検討委員会は、不自由展を中止に追いやった電凸の攻撃などに加担した人たちを「反知性主義」が可視化されたものとみなしていることは、ホーフスタッターの定義にも合うし、文脈上間違いない。しかし、不自由展実行委員会も検証委員会からすると、反知性主義の側に分類されているのではないかという疑いを拭えない。「知性主義」の側に不自由展実行委員会や芸術監督の津田大介をも加えているのかどうかははっきりしないからだ。一連の経緯や私自身が検討委員会の座長から直接聞いた発言などからすると、検討委員会は不自由展実行委員会もまたある種の反知性主義の属するものとみなしていたと私は判断している。というのも、不自由展実行委員会に対して、再開にあたって不自由展実行委員会を露骨に排除することも選択肢の一つとして提案するという侮辱的な振舞いを平気で行なったりしているからだ。言い換えると、不自由展実行委員会は作品を展示する側に立つ資格のないアートの門外漢であって、アーティストとしての主体になる資格のない者達だという偏見は検証委員会側にはかなり明確にあったと思う。同時に、偏見を抱く人々に共通する特徴だが、ほとんど不自由展実行委員会のメンバーが何者であるのか、これまでどのような活動をしてきた者たちなのかを知りたいとも思わなかっただろうとも思う。実はこの偏見は、不自由展実行委員会が選定した作家や作品への偏見にまで拡張されていたかもしれないとも思う。彼らの作品への無理解は再開に至る準備過程で露呈する。

2.1 インターネットとSNS

反知性主義が可視化された原因をインターネットとSNSの普及にあるとしている報告書の理解には大いに疑問がある。報告書では、「目的が明確な「展示」を一般の人々から隔離することが不可能となった」と述べているところに彼らの立ち位置が示されている。「隔離」という非常に強い排除の言葉がここで述べられていることに私は強い違和感がある。しかも「一般の人々」という言葉もまたここで使われているから、前後の文脈からすれば、インターネットやSNSを使う「一般の人々」から展示を隔離する必要があることになるが、それではいったい何のための、誰のための展示だというのだろうか。知性主義に基くごく限られたアートの貴族階級にのみ開かれた「展示」ということだろうか。日本の美術館文化のなかで天皇や皇族が観覧する悪しき伝統があることを踏まえれば、こうした人たちのための隔離されたアートであることが理想的な美術館のモデルなのだろう。

2.2 作品の意図とは

報告書では「来場者が写真を投稿することで作品が企画者の意図とは切り離されて注目を集める結果を招いた」と述べている。企画者の意図とは切り離された注目が集る現象を「美術館の壁が崩壊」したとも表現している。しかし、こうした把握は事態の本質を誤解している。

たしかに悪意をもって写真をSNSなどに投稿する者たちがいた。こうしたいわゆるネトウヨなどと呼ばれる人たちもまた、企画者の意図を彼らなりに否定的に解釈している。たとえば少女像であれば、これが韓国における「従軍慰安婦」を象徴する「像」であって日本政府や日本人の戦争責任を不当に問うものであるといったある種の理解(私とは正反対の理解)が彼らにもある。その上で、攻撃者たちは、性奴隷と呼ばれるような強制労働はなかったといった歴史修正主義やナショナリズムの感情を抱き、これが感情的な憎悪の表現となって表出する。

戦後日本の現代アートはその出発点から、作品をその意図とは切り離して脱政治化して「美」の「術」として解釈する権威たちに支配されてきた。その典型が滝口修造によるシュールレアリズムやダダの紹介だろう。海外のアートが内在させている政治性や社会性を美術館は、その解釈の権威という壁によってフィルターにかけて、政治性や社会性を脱色させることで制度として維持されてきた。その結果として図書館のように政治的な資料を提供できない制度になった。これもまた作品の意図に反するものだが、権威による解釈となれば、これこそが作品の正しい解釈だということになる。こうして戦後のアートは脱政治化を正当化されてきた。だから不自由展で展示されるような検閲が横行し、その大半が政治的な作品になってしまったのだ。

美術館を支えてきたメディア環境は美術館の権威を維持・再生産する上で好都合なものだった。アートに関する発信者たちは、アートの権威をまとった者たちだけであり、鑑賞者たち一人一人は発信する力をそもそも持ちえなかった。また、アートの権威者やマスメディアは戦争責任や天皇制に関して向きあうべき諸問題を忌避してきただけでなく、むしろある面では積極的に歴史修正主義や天皇を賛美する言説を生み出すことに加担してきた側面がある。たとえば、敬語報道であり、美術館を訪問する皇室報道であり、皇室由来の「文化財」であり、「日本文化」という虚構の物語構築などなど。こうしたメディア環境を通じて大衆的な「歴史観」や天皇イメージが構築されてきた。インターネットやそのSNSが露出させたのは、伝統的なメディア環境が戦前戦後を通じて一貫して構築してきた自民族中心主義と、その裏返しとしての異民族に対する優越意識と異民族への嫌悪の感情である。もう一度書くが、美術館がこうした自民族中心主義に隠されたレイシズムにアートの権威をまといながら加担してきた歴史があるのではないか。検討委員会はこうした自らの身を切るようなアートへの自己批判がない。このことへの反省なしに、一方的にインターネットとそのSNSを敵視する姿勢を私は断固として容認できない。

私自身は1990年代のインターネットがまだ商用化される前からのインターネットユーザであり、90年代以降は関わりへの濃淡はありながらネットにおける表現の自由と反検閲運動に関わってきた。この関わりは現在も続いている。こうしたなかで、あたかもインターネットとSNSを目の敵にする検討委員会の姿勢のなかに、「一般の人々」が作品に対して自由な意見や感想を持つことそれ自体を否定する姿勢をみるし、むしろ一般の人々の口封じをしようとやっきになっているとしか思えない没落しつつある権威主義者の狼狽ぶりを見る思いだ。「素人は口出しするな」「企画意図をねじ曲げる理解するな」というだけでなく「正しい」作品の見方を教えられるのは自分達だけだという奢りがある。しかしこうした脅しはもはや通用しないだろう。

私は、ネット上に溢れたようにみえた不自由展への誹謗中傷といえるような言説も含めて、現在の日本の「一般の人々」が自分なりに「解釈」した作品の意味を端的に示しているものだと思う。ネトウヨの作品解釈を私は肯定しないが、だからといって、学校教師のように私の解釈が唯一「正しい」としてネトウヨの解釈に落第点をつけるような無意味な態度をとろうとは思わない。美術の権威者たちは、こうした作品解釈の妥当性を唯一自分達が握ることの必要性を感じており、こうした解釈の権威なくして彼らの権威もないからなのだが、このような態度は、後に述べるように、不自由展の作品をめぐっては見事に破綻してしまった。不自由展をめぐって問われているのは、まさに政治的であること、社会的であることをアートから排除してきた権威たちのアート理解そのものの妥当性なのだと思う。

誤解を恐れずにあえて言えば、検討委員会メンバーのなかには、歴史認識や天皇をめぐる表現については、ネトウヨの感情的な表現には同調しないとしても、不自由展実行委員会よりもむしろネトウヨがとったスタンスに近い価値観をもっている者がいると私は推測している。同じことは、愛知県の行政組織のなかにもいるし、トリエンナーレのキュレーターやアーティストのなかにもいるはずだ。天皇制を支持する世論は8割を越え、歴史認識における「慰安婦」や強制連行をはじめとする植民地支配や戦争犯罪を否定する価値観をもつ「日本人」が圧倒的多数を占めている現実からすれば不思議なことではない。ネトウヨの誹謗中傷は、こうした大衆的な心理が表出したのだということを検討委員会も認めているのだが、その根源にある差別や偏見に美術館や文化行政もまた加担してきた歴史については一切自覚なく、もっぱらインターネットとSNSを槍玉にあげたわけだ。

こうしたネットやSNSへの嫌悪は、報告書の次の箇所にも示されている。

今回の展示に対する抗議が起こり、その内容を検証するうちに明らかになってきた のは、「公共」「表現の自由」という言葉の意味と内容の解釈において社会共通の理解 が希薄である、あるいは、失われつつあるということであった。先述したSNSの普及に よって、今までは意見を述べる機会を持たなかった人たちが一斉に声を上げるように なった。また、匿名の電凸もその反映と言えよう。今後、安全に国際芸術展を企画・運 営していくためには、あいちトリエンナーレの枠組みを越え、改めて「表現の自由」の 定義、「公共」とは何かについて議論し、かつ啓蒙していく必要があろう。

ここでの「啓蒙」とは、そもそもネットで匿名で発信するような人々は無知蒙昧な輩であるという偏見があり、「公共」や「表現の自由」を美術館の権威は自らの解釈によって型に嵌めようとしている。そもそも公共とか表現の自由は、この国の美術館でどれほど真剣に議論されてきただろうか。あるいは美術館が文字通りの意味での「公共」や「表現の自由」の側にたって、検閲や規制に反対してきたことがどれほどあっただろうか。付言すれば私は「公共」という概念を肯定的に用いることはしないし、すべきだとも思わない。天皇制が廃止され、国民国家もまた消滅したあかつきには、民衆の相互扶助の空間として「公共」と呼びうる実体が登場するかもしれないが、現在の制度を前提とした「公共」は擬制でしかないからだ。表現の不自由展は、美術館自身が果たしえてこなかった表現の自由の現実を展示を通じて明らかにしようとするものだった。この展示の趣旨を報告書は意図的に無視しているだけでなく、こうした表現の不自由展が提起した問いは、検討委員会のメンバーがその権威ともなっている美術館のあり方への批判なのであって、このことを理解しようとはしていない。3

2.3 展示中止による偏見の蔓延

検討委員会は上に引用したように、「個人の解釈によるSNS投稿は、さらに作品の意図とは無関係な、 美術に関心のない人々を巻き込み、彼ら個人の思想・心情を訴えるために利用され、いわゆる「炎上」を招くことにつながった」という理解をしている。ネットをめぐる俗説をそのまま踏襲するのだが、「炎上」は作品の意図に反対あるいは嫌悪を感じた人々の行動であり、意図と無関係では決してない。むしろ作品の意図を「理解」するが故に「炎上」を選択している場合があることを深刻に受け止めるべきなのだ。この場合の意図とは、作品を観たとか、作品の解説を読んだとか、「専門家」のレクチャーを受けたとかといったこととは関わりがなく、キーワードとしての「慰安婦」「天皇」が日本国内のナショナリズムの心情からみて受け入れ難いものであることからきている。反応しているのは作品ではなく、そのタイトルであっり、伝聞での「内容」である。勿論こうした反応をする人々の一部は、実際に作品を見ることで理解を変えることはあるから、作品を見ることは大切であり、この「見る」機会のなかには、ネットを通じての作品の図像や解説も含まれる。もし展示中止になり、作品に直接触れることができない場合、こうした人々が考え方を変える機会を奪うことにもなる。

私はネット上の誹謗中傷や電凸を行なった人々のほとんどが実際に作品を見ていないと確信している。作品を見る必要も感じていないと思う。すでに、彼らのなかに構築されている「慰安婦」「天皇」といった記号の意味内容と作品の意味内容とが敵対的であることが確認できればいいのだ。史実としての「慰安婦」とされた人々の現実とか天皇が犯した犯罪の事実といった問題に、文字通りの意味での事実を知ろうとする意欲が結びつくことはない。偏見研究の古典的な著作、G.W.オルポート『偏見の心理』4で彼は「偏見とは、実際の経験より以前に、あるいは実際の経験に基かないで、ある人とか物事に対してもつ好きとか嫌いとかという感情である」と述べている。重要なことは、誹謗中傷が作品を実際に経験する前に発生するか、あるいは経験に基づかないで発生している、理性ではなく感情に由来する事柄だということだ。とすれば、解決に向かうかどうか不確定とはいえ、経験の機会を与えることは偏見を払拭する上で重要な条件になる。

偏見を実現するために、偏見に基づく行為にはいくつかの段階があるとオルポートは述べている。口頭だけの「ひぼう」、嫌いな集団のメンバーを避けるような行動をとること、更に能動的になると差別的な行動をとるようになる。オルポートは次のように述べている。

差別。ここでは、偏見をもった人は、一種の能動性のある好ましくない区別をしている。その人は、当の相手の集団メンバーすべてを、ある種の職業、住居、政治的権利、教育とかレクリエーションの機械、協会、病院、その他いくつかの社会的特権からしめ出そうとしている。隔離とは、制度化された形での差別であり、法律とか共通の慣習によって強制される。」

更に偏見がひどくなると、身体的な攻撃や集団虐殺のような悲惨に事態へと進展するわけだ。上記の引用には美術館が含まれていないのだが、言うまでもなく美術館も含まれてよい。偏見に基づいて美術館から排除しようとしたのがネトウヨたちの行動だ。これに対してトリエンナーレのキュレーターたちや主催者側実行委員会は、知事も含めて、様々なレベルで無視や消極的関与、あるいは「しめ出し」を試みようとしてきた。彼らもまた偏見を抱く者たちだったということだと思う。

わかりやすい例が大村知事の少女像に対する反応だ。彼は少女像がどのような作品であるのかを理解する前に、その排除を明確に意図して津田に指示している。憲法21条を踏まえた合理的な判断を下すとすれば、排除を示唆するといった行動はとれるはずがない。むしろ作品を撤去しようとする右翼らの行動を抑制するための努力をすべきだった。反応としてはわかりにくいが――というのもその言動が公表されていないからだが――トリエンナーレのキュレーターたちもまた不自由展の作品をアートの専門家の水準で知る以前に、否定的な見解を抱いたに違いない。「知る」ことが切実に必要だと判断されたなら、不自由展実行委員会に対してコンタクトをとる努力をしたはずだが、一切そうした行動はとらなかったからだ。

偏見のわかりやすい例が電凸やネトウヨの誹謗中傷であるとすると、検討委員会もトリエンナーレ主催者側も、多かれ少なかれ「偏見」に囚われていたと見ること必要だと思う。誹謗中傷はヘイトスピーチとして道義的にも、時には法的にも容認しえないもととなるが、そうではない場合、制度のルールや社会の多数が暗黙のうちに支持を与えるような価値観を隠れ蓑にした巧妙な排除の力の方が、実は表現の自由や検閲という問題では深刻な事態を引き起す。

2.4 ネット発信禁止は間違った方針だった

検討委員会だけでなく、津田も大村知事もネットでの発信を規制することを肯定してきた。私は反対だったし、不自由展実行委員会も反対だった。反対の理由は、みな同じだったとは思わない。少なくとも、私はネットの表現の自由の運動に関わってきた者として、自ら自主規制を容認することは、自分の運動を自己否定するに等しい態度ということになる。この点で、不自由展の当初からSNSへの写真投稿禁止という張り紙を認め、私の名前もそこに表示されたことをそのままにしてきたことは、自己批判すべきことだと思っている。とても悔しい思いではあったが、もしこれを認めなければ展示はできないという津田の踏み絵の前に屈せざるをえなかった。

これに対してChim↑PomSNS投稿を認める張り紙をし、これに触発されてSNS投稿OKとするアーティストたちが出てきた。私はこうした動きを不自由展実行委員会として黙認すべきだと述べたが、むしろ電凸の攻撃材料になるので、絶対認められないという意見が強く、結果としてこのアーティストたちの張り紙を撤去するということをやるハメになった。

津田はジャーナリストであるだけでなく、ネオローグというネット関連の会社も経営する。この意味で、たぶん、不自由展実行委員会よりもずっとネット事情には詳しいのだが、その彼が最初からネトウヨへの対抗を回避していたと思う。「自分はFacebook日本法人とも付き合いがあるから、いざとなればネトウヨの攻撃は止められる」といったことを彼は口にしていたが、私にはにわかに信じがたい発言だと感じた。インターネットやSNSでどのような対抗的なメッセージを構築するかという私たちの側による情報発信が、観覧者のSNS発信禁止というルールによって削がれたと思う。ネトウヨはこのような規制を無視して発信を続けたが、良識的でルールを守らねばと思った不自由展実行委員会や展覧会に賛同してくれた人たちの発信の意欲や運動の広がりを削いでしまった。不自由展実行委員会が情報の統制をしすぎているとも感じた。ネットにおける人々の言論表現の自由を私たち自身が(いかなる理由であれ)抑制しようとしたのだ、ということと、こうした抑制がいかに言論表現の自由に対する重要な影響をもつものなのかということについて不自由展実行委員会内部ではきちんと議論できていなかったと思う。ネトウヨ対策として仕方ない、ということが共有されてしまったのだが、私が、本来であれば果さなければならなかったのは、こうした分野での問題提起だったと思う。しかし、かなり厳しい状況のなかで、ネットやSNSによる情報発信の戦略を提案しきれなかったことは反省してもし足りない思いがある。

2.5 無視されたネット署名と公開を求める諸々の運動

報告書は次にように「国内外の芸術家と市民の広範な連帯が実現し、芸術祭の新たな局面が示された」と評価している。

今回の展示の中止をめぐって社会全体の分断や対立が浮き彫りにされた一方で、芸術 家と市民の間に柔軟な対話や協働の機会が広がっていったことにも注目すべきである。 たとえば参加作家によるReFreedomAichiの活動は、スペース運営、参加型企画、署名、 コールセンター開設等へと展開した。また、そうした芸術家たちと連帯する、一部市民 やトリエンナーレボランティアの存在も確認できた。これは2010年以来のあいちトリエ ンナーレの経験の蓄積の賜物とも言えよう。また、展示再開に至ったプロセスにおいて、 こうした芸術家と市民の支えが作用したとも推測できる。危機を介しての芸術祭の成熟 (広範な連帯)を得たことは、今回の果実とも言えよう。

ここには、ネット署名運動も愛知県内の市民運動も裁判の闘いも登場しない。

ネットやSNSがネトウヨに席巻されているかの脅迫観念が誤りであることはすぐにわかることになる。それは、ネットにおけるchange.orgで開始された再開を求める署名運動だ。この運動は、ネットが個人にいかに大きな情報発信の力を与えたかを端的に示した格好の例といえる。トリエンナーレとは関わりのない一人のアーテイストが止むに止まれぬ気持で、始めたたったひとりのアクションだった。それがあっという間に2万を越える署名を集めた。他方で、ネトウヨもまた署名運動を始めるが、集めた署名はこの数に遠く及ばないものだった。徐々にネットでの情報発信の雰囲気が誹謗中傷からむしろ再開を求める雰囲気へと変化しつつあるような実感が私にはあった。現在もネット検索で「慰安婦」のキーワードで検索してもネトウヨのサイトが上位を独占するような状況にはない。

こうした変化は、いくつかの主要マスメディアが展示中止に対して批判的な論評を出し、こうした傾向に「一般の人々」もまたその理解に変化をもたらしたのかもしれない。偏見でしかみてこなかった主題に対して、ネットは、多様な考え方や議論の素材になるデータを(嘘も含めて)提供するものなのだ。

報告書の関心は、トリエンナーレに出品した作家たちの行動にある一方で、それ以外のアーティストや市民の動きにはほとんど関心を示さない。あるいは、そうした人々の行動をあえて無視することであたかも展示再開が、もっぱらトリエンナーレに関わったアーティストとキュレータたちによる努力であるかのような物語が構築された。これは全くの虚偽ではないが、極めて偏った状況認識だと思う。

先に言及したようにchange.orgの署名運動への言及はないのだが、それだけでなく再開を求める愛知県民の会の活動への言及も一切ない。県民の会は展示中止以降連日美術館前でスタンディングの抗議を続けてきた愛知県内の様々な市民運動などのネットーワク組織だ。この県民の会の活動こそが地元で唯一、市民による抗議として可視化されたアクションだった。

なぜ報告書はなぜもっぱらReFreedom Aichiを取り上げたのか。推測の域を出ないが、たぶん、検討委員会やトリエンナーレ側のキュレーターや事務局との人間関係がここには影響しているように思う。評価のスタンスは公平とはいえず、中立客観的でもない。アートの鑑賞者の側にあって公開を求める運動を担った「一般の人々」への偏見がここでも検討委員会にあるからだと思う。ネトウヨとは対極な立場にあって最も粘り強い闘いを挑んできた県民の会もまた検討委員会にとっては啓蒙すべき蒙昧な人たち、「美術に関心のない人々」としかみていない。どうせ彼らはある種の政治的な動機で「運動」をしているだけの者たちだ、という偏見である。

報告書は、反知性主義がそもそもインターネット普及以前から大衆のなかには存在していることを前提しているのだが、この不可視の反知性主義を不可視なままにしておけず、つまり「臭いものに蓋」をしたままに――むしろ「パンドラの箱」と言う方が適切かもしれない――しておくことができなくなった、これがネットの時代なのだと述べている。従来の美術館ならばこんなことは起きなかった。なぜなら反知性主義の人々は、発信力がないか、そもそもアートなどに関心はない(ハズ)だからだ、というわけだろう。アートは知性主義者の占有物というスノッブな意見が公的な文書にあからさまに登場する時代錯誤には驚かざるをえない。

また、公開を実現したもうひとつの重要な動きとして、不自由展実行委員会が起こした名古屋地裁への展示再開の仮処分についても調査報告書は全く触れていない。裁判を通じて、再開せざるをえない状況を認識して愛知県は、それまで渋っていた予算などを手当することまでやった。こうした対応や再開へ向けての具体的な動きを確実なものとして愛知県やトリエンナーレが受け入れたのは、仮処分の申し立てという法的手段なしにはありえなかったと思う。5

仮処分といった法的手段を県側は非常に嫌がっていたと思う。津田大介は、仮処分申し立ての直前に、直接不自由展実行委員会に仮処分申し立てをしないように、弁護士同伴でなかば恫喝といっていいような迫り方をしたことがあった。仮処分申し立てなどの「裁判」を権利行使のための重要な手段だという理解よりも、むしろこうした手段を忌避したいという意思の方が津田には強かったと思う。しかし、再開に必要な権力関係を客観的にみたとき、裁判所による命令を獲得できるかどうかが重要な柱のひとつになることは間違いなかった。裁判所が再開の判断を下すことができるかどうかは、形式的な法律上の問題だけでなく、再開を求める世論や関係者の意欲が重要だから、アーティストや市民の運動は必須である。仮処分の申し立てに対する県側の態度は、裁判所の対応や不自由展実行委員会側の書面を見てのことだと思うが、たぶん、「勝てない」という判断をある時点から抱いたのだろうと思う。実が仮処分の申し立てに関する裁判の資料はまだ公開されていないから、どのように裁判を闘って和解を導いたのか、という大切なプロセスが検証に付されていない。運動の側の情報公開がまだ十分ではないので、今後きちんとした評価を得ることが必要だと思う。

裁判は最終的に和解ということで裁判所の判断を待たずに再開を前提にその条件を交渉することになった。その結果、様々な妥協を迫られてしまい、展覧会当初と同じ条件での再開は果せなかった。ある種の監視体制のなかでの展示再開であり、抽選という手法により、人数が制限され、身分証明などの確認もあり、監視社会反対運動をしてきた私としては、こうした再開に抗することができなかったことも大きな反省材料だ。人数制限については県民の会が大村知事に撤回を申し入れている。しかし人数制限は、裁判を通じた和解条項にもあり、不自由展実行委員会もまた容認した再開条件のひとつであったという意味でいえば、このような制限がもたらした自由な鑑賞への制約の責任は不自由展実行委員会も負わなければならないことだと思う。

こうした裁判の経緯がありながら、それを無視して報告書は、展示中止を次のように正当化した。

不自由展は不自由展実行委員会との協議を経て開催3日を経て中止された。なお、これ は脅迫や電凸等の差し迫った危険のもとの判断でありやむを得ないものであって、表現の 自由(憲法第21)の不当な制限には当たらない。

展示中止は、憲法に違反しないというのだ。もしそうなら、なぜ愛知県は再開で不自由展実行委員会と合意したのか。なぜ仮処分申し立てで最後まで展示中止の正当性を争わなかったのか。裁判所が原告側に有利な判断を下すことははっきりしていたと思うし、そのことは県も理解していたのだ。契約などの形式的な手続きも憲法上の権利についても不自由展実行委員会側に有利な材料しかなかった。にもかかわらず、検討委員会は、裁判所の決定が出されずに和解となったことをいいことに、「表現の 自由(憲法第21)の不当な制限には当たらない」と言い放ったのだ。たぶん、これが今後の日本の美術館による検閲のスタンダードになるだろう。

しかし先に述べたように、「は脅迫や電凸等の差し迫った危険」は文字通りの「危険」とは呼べないものであり、防ぐことができない「危険」があたかも現実であるかのように振る舞うこと、つまり、美術館、警察、行政による不作為は明かであって、こうした不作為を前提として検閲を正当化するテクニックが今後流行る危険性を十分に警戒しなければならない。

2.6 検討委員会の反知性主義

検討委員会は美術に関心のない一般の人々を「反知性主義」として軽蔑した。しかし、検討委員会やトリエンナーレの主催者たちは、美術あるいはメガイベントとしての(ビジネスチャンス)としての美術にしか関心がなく、ここには政治も社会への関心がない。この意味で検討委員会こそが反知性主義そのものだと思う。

そもそも検討委員会は、不自由展実行委員会を単に検閲に反対する芸術に無関心な活動家だと高を括っていたフシがある。というのも、展示再開に向けて、検討委員会座長は、不自由展実行委員会が退いて展示をトリエンナーレのキュレーターに任せることを提案してきたときに、私は「この人はアートの世界で起きている検閲の社会的な背景がそもそも理解できていないのだな」と思った。展示された多くの作品はいずれも一筋縄ではいかない社会的歴史的な背景を負っている。裁判の資料だけでも膨大である。更に、「慰安婦」であれ強制連行された徴用工であれ、これらを理解することを数日でこなして、来場者にレクチャーするなど不可能なことだ。裁判や検閲反対運動でアーティストたちとの人間関係を築くのにも相当の年月を要してきたケースもある。このことにキュレイータや検討委員会が気づいたのはあまりにも遅く、このこと事態が、そもそも不自由展の作品が抱えてきた歴史的背景を知らなかった証拠でもある。

検討委員会もまた、ネトウヨとは別の意味で反知性主義の典型である。制度やアカデミズムによって守られた権威を知性と誤解し、アートは全て理解しえているという自信の揺らぎが、実際に作品とその文脈を突き付けられたときに、雪崩のようにして彼らを襲ったのかもしれない。とうていレクチャーも啓蒙もできるはずがないことの自覚が余りにも遅くぎる。こうして再開後は、予定されていた来場者へのレクチャーはなく、必要な説明や準備は不自由展実行委員に委ねざるをえなくなった。

3 不自由展の展示そのものへの検討委員会による悪意ある批判

報告書では「不自由展の企画と展示の妥当性」という項目を立てて、展示そのものが多くの問題をもっていたと指摘している。報告書による不自由展への批判の大半は受け入れがたいものだ。事実認識が違うところもあり、本来ならばトリエンナーレ事務局が負うべき責任を津田大介や不自由展実行委員会に負わせているところもある。

以下は、この批判のうち、限られた論点だけを扱うことにする。

3.1 業務委託はトリエンナーレ側が強いた条件だった

あまり面白そうではない議論なのだが、「業務委託」という契約の罠の問題がある。これは検閲がひとつの制度として構造化される場合のある種の典型でもある大切な問題だ。

報告書は以下にように述べている。

「展示された作品の過半が実は2015年の「不自由展」に出されなかったものだった。 それにも関わらず芸術監督は不自由展実行委員会に「展覧会内展覧会」の形式で展覧会の開催を業務委託したが、他の方式を事前に検討しなかった。」

今回の不自由展は、過去に東京で開催された不自由展の出品作品だけではなく、それ以外の検閲された作品も展示するというコンセプトだった。この点は、津田とも共有されており、「それにも関わらず」という表現は間違っている。「展覧会内展覧会」について、「他の方式を事前に検討しなかった」という批判は完全に的外れである。業務委託方式は、不自由展も津田も本意ではなかった。本来ならトリエンナーレが各出品作家と直接契約すべきだということを何度も不自由展実行委員会は主張してきたが、この要望は退けられてきた。各出品作家とトリエンナーレが直接契約することを嫌ったのは、トリエンナーレの事務局かキュレイータか、あるいは知事サイドか、私にはわからないが、いずれにせよ、不自由展はこのような面倒かつ無責任な契約は望んではいなかったにもかかわらず、こうなったのは、主催者側が業務委託を望んだからだ。

報告書では以下のようにも書いている。

芸術監督は、例えば担当のキュレーターを指名し、作家と個別に交渉し、自ら展覧会を作り上げる等の正攻法をとりえた。しかし、キュレーター会議での承認が遅れ、また不自由展の実行委員会は想像以上に頑なであり、交渉に多大な時間を要し、不自由展実行委員会に妥協して、結果的に業務委託方式をとった。

検討委員会は、狡猾だと思う。「担当のキュレーターを指名し、作家と個別に交渉し、自ら展覧会を作り上げる等の正攻法」をとったら、そもそも不自由展は不可能になったことがわかっていてこう書いている。担当キュレーターが指名できなかったのは、キュレーターが不自由展を評価していなかったからだ。再開されるまで、キュレーターたちは顔すらみせたことがなかった。再開に向けた準備が始まる頃になって、掌を返したかのようにフレンドリーになった。私も表面上はニコニコせざるをえないが、非常に不快な思いだった。なぜ彼らはこんなに心変わりできるんだろうか?

なぜ、トリエンナーレ側は、直接契約を嫌がったのか。理由は簡単なことだ。作品選定の主体になりたくなかったからだ。しかし、表現の自由の「勲章」は欲しかったからだ。

3.2 作品選定の責任を逃れたかったトリエンナーレ

過去に検閲にあい、しかも「慰安婦」とか「天皇」といった主題の作品をトリエンナーレが主催者として招待したということになれば、これらの作品の価値観を肯定することになるとトリエンナーレ側は考えたに違いない。言い換えれば、公的機関が主催する文化イベントが体現する価値観は、公的機関の「思想信条」に合致するものであるべきだ、という大前提が疑われることなく存在している、ということなのだ。更に、内容はともあれ、トリエンナーレがこれらの作品を国際展の作品にふさわしい芸術的価値のある作品と評価したことになってしまう。一般に、政治的な作品の検閲で用いられる常套手段は、芸術的な価値による評価を理由にした排除だ。表現の内容には言及せずに、技法や表現方法などの評価に絞って作品の不適格を正当化する。実は背後に作品が意図する政治的な主題への嫌悪や偏見、あるいは自身の政治的スタンスとの違いなどがあると推測されるのだが、こうしたことは口外されない。今回も、展示作品について、それが「アート」として評価できないという声が、非公式にたびたび聞かれた。

他方で、トリエンナーレ側が作品選定に一切関与せず、不自由展実行委員会にこれを委ねれば、作品を選定した責任は実行委員会にあることになり、「慰安婦」「天皇」などで生じるかもしれない問題の「元凶」にならないですむ。事実はどうだったのか。実行委員会の会議の大半は六本木にある津田の会社で行なっていた。これは津田の仕事上の都合に合わせてそうしてきた。津田も実行委員も対等に選定で意見を言ってきた。出品候補の選択については、全員の合意がとれないものは外す、ということで作業を進めた。この「全員」のなかには津田も入る。たとえば、会田誠の作品は津田が推薦したが全員の合意が得られず、展示しないことになった。大浦の新作ビデオ作品(天皇の写真が燃やされているとかで注目された作品)については、小倉が新作であることから、難色を示したが、協議の上、展示することになった。Chim↑Pomとのコンタクトの担当は津田である。だから、作品選定の事実上の責任は津田にもあるハズだが、形式上は津田は作品選定には関与していない形になっている。津田は一貫して、自分が深く関与していることを隠したがっていたと思う。芸術総監督としては、それがいいともいえるが、逆に選定の責任を負うということなら、前に出るということがあってもいいと思う。彼は形式的には作品選定に関わらないが、実質的には影響力を行使できる立場は確保したいと思ったのだろう。

こうした形になった理由は、トリエンナーレの主催者が自らの意思で少女像や「遠近を抱えて」など諸々の検閲作品を招待したということになれば、ありうるトラブルの責任を被らなければならず、それを避けたい、という意図に基くとしか解釈できない。津田の曖昧な立場も彼個人が望んだのではなく、トリエンナーレ主催者の意思のあらわれなのだと思う。

(補足説明)一般に、展覧会でアーティストに出品依頼する場合、作品を指定して依頼することもあれば、作家に制作を依頼する場合もあるので、今回は後者に類する形をとったということだから、作品の内容がわからないまま作家に依頼することがあっても問題はない。

こうして、トリエンナーレは最初からとばっちりを受けたくないという後ろ向きの姿勢で、できるかぎり起きうるトラブルの責任を不自由展実行委員会と津田に負わせるつもりだったことは間違いないと思う。しかも、こうした姿勢は管理運営上、あるいは県の政治的な立場だとすると、キュレーターたちは「トリエンナーレに出品すべきアートとして評価できない」という芸術的な価値観によって、いわば不自由展に対して消極的姿勢であることを自己正当化していたのかもしれない。

3.3 企画断念も提言する報告書

検討委員会報告書では企画そのものをそもそも断念すべきとも示唆している。

不自由展の実行委員会は、写真撮影の禁止と少女像をパネル展示に代える等の提案を早くから拒絶。その段階から芸術監督は混乱を回避するため企画を断念、あるいはキュレーターチームの協力を得て他の方法での実施を検討すべきだった。

検討委員会は少女像の何がどう問題なのか、という肝心な論点には言及しない。これは敢えて踏み込まないということだが、それにもあかかわらず「混乱を回避するため企画を断念」という選択肢が示されている。

不自由展が少女像をパネル展示にすることを拒否したのはその通りだ。なぜなら、パネルにする理由が明確には示されたことがなかったからだ。津田は「パネル展示にできませんか。」と知事サイドの意向を何度か伝えてきたことがあるが、その理由を明確に語ったことはない。最初から少女像への誹謗中傷や「慰安婦」問題に対する歴史的な事実認識を否定したがる人々に同調する感覚がなければ、こうした曖昧な提案をするはずがない。事は単純なことだ。いわゆる「慰安婦はいなかった」とするような主張が間違っているなら、間違った立場に立つべきではない。「少女像」問題は、政府が率先して歴史修正主義と戦争責任の否定によって感情的なナショナリズムを煽る元凶となっているなかでの問題だ。だから検閲されてきたわけで、こうした流れに抗うことが企画趣旨だ。しかし検討委員会の報告書は一貫して、不自由展実行委員会のかたくなさを批判する。かたくななのではない。説得力のある提案や妥協案が出されたことが一度もない。しかも、いつも津田がメッセンジャーとなっており、少女像を展示すべきでないと考えている人物が自ら不自由展実行委員会と話し合う意思を見せたこともない。この件に関する一連の経緯は「資料」を参照してください。

4 資料

大村知事は河村市長との対比で、表現の自由の守護者の態度をとっているが、そうではない。以下、津田から不自由展実行委員へのメールの一部を掲載します。

Subject: [unfreedom-AT2019:00050] 23(火)18:30〜弊社にてお願いできますでしょうか
From: TSUDA Daisuke
Date: Sun, 21 Apr 2019 12:46:35 +0900
X-Mailer: Becky! ver. 2.74.02 [ja]

お世話になります。津田です。

皆様の予定を拝見して、一番ご都合が良さそうなのが
23
(火)18:30
でした。弊社までお越しいただければ幸いです。

岩崎さんには申し訳ないのですが、後ほどご報告させていただく(&正式な事務
局との折衝はGW明けになる)ということでご勘弁いただければ幸いです。

そして、小倉さんのご指摘、ご懸念もよくわかります。今回のトリエンナーレ、
ざっくりとしたガバナンス的、上に挙げていくプロセスとしては、

実行委員長(大村知事)

愛知県県民文化部長←ここまでが県庁

愛知芸術文化センター長

愛知県美術館長←ここまで施設担当

トリエンナーレ推進室長

芸術監督(津田)

というツリーになっています。こないだ県民文化部長がこの企画に対して懸念を
持っているということで、話に行ってきました。この方は2013のときの推進室長
でトリエンナーレに関わったことでアート好きになり、こちらがやろうとしてい
ることへの理解もある方です。先日話した限りでは、理解も大きいし、やること
の意義もわかっているが立場上、「はいそうですか」とすんなり言えない、とい
う苦しい感じがにじみ出ていましたね。ただ、「発表している以上、企画を今か
らやめるというのは現実的ではないので、美術館の現場とコミュニケーションを
取りながら慎重に進めてくれ」ということは言われました。僕は現場とコミュニ
ケーションを取りながら慎重に進め(る体をつくれ)れば、それ以上の干渉をこ
の人から受けることはないと思いました。

芸術文化センター長については、推進室長から聞いたオフレコの話ですが今回の
この企画、面白いと思ってくださってるようです。とはいえ、個人的には面白い
と思うけど、大変そうだし、オフィシャルにそれを言えるかというと微妙な立場
のようです。

割と現実的な問題、壁として立ちはだかりそうなのが愛知県美術館長です。
鷹野隆大さんのときに警察と戦った村田館長は現在異動しており、南さんという
方が館長になっています。この方がかなりコンサバな方で、政治的ではないほか
の作家の展示プランに安全性が疑問がある(ほとんど実際にはないのですが)と
施設使用を拒否したりして揉めています。彼はこの企画の中身をまだ知らないの
で彼が知ったときに介入してくる可能性は非常に高いと思っています。

企画そのものに上からOK出ていても、トリエンナーレは愛知県美術館をレンタル
するという立場なので、この館長が首を縦に振らないと場所を使えない可能性が
出てきます。そうなったらそうなったで別のギャラリーなど借りて、この経緯を
「表現の不自由展」としてやればいいな、とも思いますが、別の大変さは生じる
でしょうね……。

まとめると企画に好意的、あるいは理解があるのは
大村知事、県民文化部長、芸術文化センター長、トリエンナーレ推進室長
で、彼はやり方を工夫すれば説得可能と思います。一番の難関は愛知県美術館長
と理解していただければと思います。

Subject: [unfreedom-AT2019:00048] Re: 【重要】状況が変わりました&ミーティング日程伺い
From: Toshimaru Ogura
Date: Thu, 18 Apr 2019 01:08:43 +0900 (JST)
X-Mailer: Mew version 6.8 on Emacs 25.2

小倉です。おつかれさま。返事が遅くなりました。
日程ですが、2223日は大丈夫です。参加できます。26日は、午前中なら
OK
ということでしょうか?15時からならSkype?それとも全日skypeになる
のでしょうか。できれば津田さんが実際におられた方がよいと思いますが。

>
> あいちトリエンナーレ2019の出展企画としてやる以上、各作品、各作家に関する
>
責任は負わざるを得ず、形式的であっても、芸術監督である僕と、実行委員長で
>
ある大村知事の「承認」を経たものが展示されている、という形式は崩せない
>
ようです。

以下は、実務的なことは何も書いてないので、読み飛ばして構いません。

実行委員長の承認というのは、私にはちょっと解せません。もちろん、行
政サイドにたてば、そうしたいという意向になると思います。もしかして、
美術館や博物館のキュレーションとは何なのか、ということがわかってい
ないのかもしれません。お役人は美術館の展示を行政の行事としかみれな
い場合があるので。美術館とは何なのか、そこでの表現の自由を行政はど
のように考えるのか、といったことがほとんど官僚組織では議論できない
かもしれません。

たとえば、活字メディアで編集部が経営や会社のトップと編集会議ってや
るのかなあ、と思います。むしろ編集権の独立がジャーナリズでは大切で
はないかと。同様に、図書館でも、図書の選定に、公立であれば市長や知
事が介入するべきではないと思いますし、介入しないと思う。(今のご時
世だからわかりませんが)

あるいは大学でも、教員の教育や研究について、経営側のトップが介入す
ることは学問研究の自由への侵害になりうるから、そうならないようなと
りあえずの仕掛けをつくると思います。

こうしたシステムも崩れつつありますが、だからこそ表現の自由の危機に
なってもいると思います。

つまり、一般に管理運営に責任をもつ者たちの発想や利害関係と、表現の
現場との間にはそもそも緊張関係があるわけですが、そのことを承知した
上で、現場に任せることなしには、表現の自由はありえないと思います。
どんな人格者や人柄がよくても、社会的な役割の拘束から自由にはなかな
かなれないと思います。

美術館や博物館も、他の表現の媒体などと同様に、表現の施設ですが、な
ぜか、施設の管理者が、キュレーションに干渉することがあたりまえのよ
うになっていることに、これまでも危惧してきました。この悪しき伝統が
あるなかで津田さんはかなり大変な仕事をされていると思います。

美術館の使命は、作品を通して、鑑賞者たちが、それまであたりまえと思っ
ていた常識や価値観を問い直すきっかけを与えること、つまり、考えても
らうことだと思います。わたしたちは、「考える」ための素材を提供する
わけですから、この素材の提供と「考える」こととは不可分なことで、こ
こに美術館の使命とは無関係なバイアスが入るのであれば、そもそもの枠
組みが成り立ちません。行政は往々にして、「中立性」を口にしますが、
美術館の使命は、むしろ美とか芸術の中立性とか非政治性とか、社会と無
関係な普遍的な美とか、そういったありがちな常識に対して、そんな生や
さしいものではないよ、ということを問題提起する施設であるべきだ、と
いうことが随分議論されてきたのではないかと思います。

こうしたことは、レーガン政権時代の1980年代に米国でかなり議論された
ことだったと思います。ジェンダー、セクシュアリティ、エスニシティ、
階級といった課題をアートが正面から取り上げ、これを支える公的資金
(NEA
とか)が保守派の攻撃に晒されて、とんでもなく大変な時代のなかで、
アートの表現の幅を広げてきたのは、女性や非白人のマイノリティのアー
ティストたちだったのではと思います。レーガン政権の締め付けとたたか
うなかで、Heresiesのような刺激的なフェミニストのアーティストのメディ
アが登場したり、Deep Dish TV(90年代ですが)のようなオルタナティブTV
がでてきたことを考えると、闘うことのなかでアーティストたちもまた鍛
えられたのかもしれません。(私はそんな度胸があるかわかりませんが)

鑑賞者たちが様々な価値観をもって美術館に来るように、展示をする主体
としてのキュレイターは価値中立的でありうるはずがなく、一定の価値観
を前提に、問いかけることを、作品の展示というある種の編集作業で行な
うのだろうと思います。編集である以上、その自立性はとても大切だと思
うのです。この点を管理運営側にきちんと理解してもらうことが大切だと
思います。

長くなりすいません。こんなことを考えました。小倉

===============================
From: TSUDA Daisuke
Date: Fri, 14 Jun 2019 00:51:04 +0900
X-Mailer: Becky! ver. 2.74.02 [ja]

津田です。

先ほど岡本さんには電話で話したのですが館長、芸文センター長、県民文化部長
と「表現の不自由展・その後」の企画を通していった最後に大村県知事がいるわ
けですが、先日ついに知事にトリエンナーレ推進室から知事にレクをしたそうで
す。

結論から言うと大村知事は

・「表現の不自由展・その後」の企画趣旨は面白いと思っており、やる意義も
大きい企画と評価している

・他方で「慰安婦像」の作品については、右翼を刺激することは間違いなく、
街宣車がやってくるだろうと。街宣車が来ると、せっかくの祝祭的なイベントの
雰囲気が壊されてしまう懸念がある

・街宣車だけでなく、会場で暴れる右翼が出てきてお客さんにリスクが生じる
事態はなるべく避けたい

・表現の自由は大事な権利であるし、展覧会の意義もわかる。基本的に自分と
県はトリエンナーレについて「金は出すが口は出さない」というスタンス。
内容に介入したいわけではないが、一方でイベントの最終責任者としては、
安全を確保しなければならない

・慰安婦像が展示拒否されたことを問題提起するのは構わない。だが、無用な
トラブルを避けるためにも実物は置かずに資料展示だけにしてもらえるとありが
たい

・また、トラブルを避けるという意味では、写真撮影を自由にするのもやめて
もらえるとありがたい

ということでした。委員5人と僕が最初に話し合ったときに僕が示したスタンス
と非常に近いですね。一方僕はここまで来た以上、慰安婦像は実物を展示する
べきであると思っています。しかし、県としてもこのままGOするのは難しい
という状況です。実は来週20日の夜、大村知事から会食に誘われてまして、
おそらくそのときに、この話をすることになると思います。

ですので、委員の皆様には19日までに委員会としての統一見解を決めていただき、
僕に教えていただければ。

大村知事の話はあくまで「お願い」ベースなので、このまま強行突破しようと
思えばできると思います。しかし、その場合僕らが抱えるリスクもかなり甚大に
なるとも思いますし、嫌韓感情がかつてないほど高まっているいま、2015年以上
に、暴力や悪意にさらされる可能性は高まってると感じます。それを踏まえて、
委員会(と芸術監督である僕)が取り得る選択肢は下記の6つかなと思います。

����いま決めている方針でそのまま最後まで突っ走る

����2つの慰安婦像はそのまま会場に展示するが「表現の不自由展・その後」エリ
アの撮影を禁止する

����慰安婦像をミニチュアだけにする

����6/29の発表会をやめ、会期が始まるまで一切誰のどの作品が出展するのか内容
を発表することをやめる(ウェブサイトもつくらない)

����2つの慰安婦像の展示を資料展示にする

����「表現の不自由展・その後」を中止する

先に僕の考えを述べておくと、����がいいのではと思います。表現の不自由をテー
マにしているのに、なぜ写真を撮影できないのだ、それこそが検閲じゃないかと
いう批判も出てくるでしょうが、これについては、冷静に議論すべきセンシティ
ブな題材だからこそ、ネットの情報で表面だけを舐めるのではなく、「現物」を
見て議論してもらう必要があるため、撮影禁止にした、という「理由」を説明
できると思います。表現の自由と人命という難しい天秤にかけられた状態で、
リスクを減らすためにやむを得ない措置として行った、という言い方もできる
でしょう。

判治室長は「なにか知事に対して“おみやげ”がほしい」と言いました。
慰安婦像を展示することが委員会にとって譲れないラインなのだとしても、
何らかの「妥協」を示した方が建設的な方向に向かうと思います。

「おみやげ」として、展示エリアを「撮影禁止」とし、警備は十分強化するから
展示内容はそのまま行かせてほしい、という方向で皆さんの合意が取れれば、
それで大村知事と直接交渉しようと思います。こちらも妥協する姿勢を見せたの
だから、向こうにも妥協してもらう、ということですね。

19日まではまだ日にちがあります。直接全員会って議論というのは無理でしょう
から、MLでぜひ議論していただければ幸いです。

=================
Subject: [unfreedom-AT2019:00118] 知事説得できました
From: TSUDA Daisuke
Date: Fri, 21 Jun 2019 07:20:24 +0900
X-Mailer: Becky! ver. 2.74.02 [ja]

お世話になります。津田です。

昨日、18時から知事と会食が始まり当初は2時間の予定だったのですが、大幅に
時間が延び、23時過ぎまで話していました。

結論から言いますと、このままの企画で進めることにOKをもらえました。
「俺はトリエンナーレについては金は出すが口は出さない」ということを
10
回以上しゃべっていたので、大丈夫だろうと。企画趣旨と、写真を撮影OK
することの意味についてもご理解いただけたと思います。また、告知を前日に
変更したことも説得の材料になりました。

口を出したり、何かをやめさせるということはしないが、街宣車が来てイベント
(オープニング当初はコスプレサミットと重なっています)とバッティングする
こと、展示場所の混乱だけ懸念されていました。これについては随時対応を行い、
状況を報告するということを伝えました。

晴れて実行委員長のOKも出たので、展示を実現するという点では大きく前進した
と思います。契約書を変更してこちらの責任を限定する件も非公式ですが事務局
とは調整していて、大筋受けてもらえそうです。

保険内容が気になるのは理解できますが、ヤマトの保険で大きく問題になるよう
なことはないと思います。発送の業務もあるので、できれば週明けまで引っ張ら
ず今日決着を付けたいと思うのですがいかがでしょうか>岡本さん

==================
Subject: [unfreedom-AT2019:00139] 【緊急】県民文化局長から呼び出しを食らいました
From: TSUDA Daisuke
Date: Sat, 06 Jul 2019 15:48:59 +0900
X-Mailer: Becky! ver. 2.74.02 [ja]

津田です。

昨日午後、名古屋にいたところ急遽愛知県県民文化局長から呼び出しを食らいま
した。

長いミーティングだったので要点を言いますと、知事的には「少女像は街宣車を
呼び込むし、撮影自由だとどんなトラブルに発展するかわからないので何とかし
てほしい」という意向があり、それを文化局長的には解決しないといけない、
という意向を伝えられました(本件、直接の担当者でもある岡本さんには急ぎ
内容は共有してあります)。

こないだの会談で「金は出すが口は出さない」を10回以上聞き、かつこの話も
出た際に懸念事項は理解したので、十分留意して進めるという話をして、合意が
取れたと思っていたのですが、局長的には「あれは酒席のことだから」と。

ここにきてのちゃぶ台返しは困ったな、というのが正直なところなのですが、
会談そのものでは結論は出せず、以下のようなことを伝え、知事にも共有して
もらうことになりました。

「中止がやむを得ないのであれば、誰がどう言ったかを展示することになりま
す。検閲をしたという事実が提示されますが、それは知事もご了解いただける話
なのでしょうか」

「僕も立場上、それに対するステートメントを出すことになる」

「少女像がここ日本においては人々の感情を煽る、非常に厄介で政治的なモチーフ
だという認識は自分にもあるし、県をあげてのお祭りにトラブルを持ち込まれる
ことに対して管理者として懸念を持つ気持ちはわかるが、同時に表現の自由は人
権や民主主義にとって大変重要な概念でもある。間に立って調整するよう努める
が、僕と委員会にも譲れない一線はあるのでそこは理解してくれ」

知事と県側の要求としては細かくあるのですが、主に2つの点に集約されます

①少女像の展示はやめてくれ

②「表現の不自由展・その後」展示スペースの撮影を禁止にしてくれ

①については、委員会としてそれが飲めないことは僕も重々承知しています。展
覧会の根幹のコンセプトに関わることでしょうから。これが認められないのなら
ば、展覧会そのものは中止にして、スペースはがらんどうにして、展示中止になっ
た経緯を全部壁に書くということをするしかないでしょうね。

②については、少女像を展示した上で事務局の要望を汲むやり方として、前回の
ミーティングでフォトスポットを2カ所指定する、という落とし所を提案させて
いただきました。ただ、これについて昨日岡本さんとも話したのですが、県は
SNS
に投稿して炎上されることを恐れているので、「フォトスポット指定」では
なく、「展示空間の撮影は自由だが、SNS投稿は禁止」という妥協案が考えられ
るのではないか、と思いました。そもそも少女像は一緒に撮影することまで込み
での作品ですし、撮影までは個人の権利(私的複製)として奪うことはできない
が、それをSNSに投稿するのは作家の権利侵害(著作権侵害・送信可能化権)に
なるので禁止するというのは、法的にも整合性は取れると思います。もちろん、
実質的には炎上対策であり、ほかはOKなのにここだけなぜ、という指摘は入る
かもしれませんが、「現場に来て実物を見て、その上で議論してもらいたい」と
いう展覧会のコンセプトと、SNS投稿禁止はなじむのではないかと思います。

なので、これらを踏まえて、県や知事とどう交渉するのか、5人の間で方針を
示していただければ幸いです。

僕としては「像は展示して、撮影もOK、ただしSNS投稿は禁止する旨を(委員会
名義ではなく愛知県の)ステートメントして出す」(トラブルなく展示が行われ
るようなら、会期途中でのそのステートメント撤去も込みで考える)ということ
が現状のプランを実現しつつ、向こうにも譲歩の姿勢を示す最適解かな、と思っ
ています。

いずれにせよ、開幕まで時間がないため、決裂した場合の準備と、譲歩するライ
ンをどこに置くのかということは早く決めたいです。急かすようで申し訳ありま
せんが、この週末に方向性を示していただければ幸いです。

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Subject: [unfreedom-AT2019:00159] 【重要&緊急】知事から要望(宿題)が2つ来ました
From: TSUDA Daisuke
Date: Fri, 12 Jul 2019 03:02:05 +0900
X-Mailer: Becky! ver. 2.74.02 [ja]

お世話になります。津田です。

今日、トリエンナーレ推進室の判治室長と朝日主幹が知事レクに行き、表現の不
自由展・その後について話をしてきました。

大村知事としては、下記の2点について対応することを2人への「宿題」とした
そうです。

①SNS投稿禁止を大きく表示し、それを委員会との合意事項にする
知事としては、写真撮影OKは認める代わりにSNS投稿は禁止にし、表現の不自由
展・その後の入口にある「ごあいさつ」のパネルの横に「同じ大きさ」で、
SNS
投稿を禁止する旨のパネルを用意し、そのパネルにあいちトリエンナーレ実
行委員会と、僕、表現の不自由展実行委員会の三者を「連名」で表示することを
求めたそうです。知事としては、このSNS投稿のパネルに実行委員会や県の名前
だけが出ると、県が自らの事情で投稿を制限したように見えるため、それを嫌っ
た――三者が合意して、このSNS投稿方針を定めたように見せたいということな
のでしょう(実際に県だけがそれを求めているわけですが……)。判治さんと朝
日さんに、表現の不自由展実行委員会も連名することは強く求めたそうなので、
注意書きパネルからクレジットをなくす、という選択肢は採れなさそうです。

②投稿禁止の旨があっても写真をSNSに投稿するユーザーが出てきたときの対策
禁止の旨があってもSNSに上げるユーザーは出てくるので、それが出てきたとき
にすみやかに投稿の削除依頼を行える環境をつくってほしいとのことでした。
これは僕がツイッタージャパンやFacebookLINEなどに直接の知り合いがいるの
で、そこに話を通して事務局とつなぐ、という形をつくろうと思います。
これについては僕マターで何とかします。

僕としては、このことをポジティブに捉えています。この2つをクリアすれば
展示がGOできる、と思ったからです。委員会の皆さんは、SNS投稿を禁止する
パネルに連名で名前を連ねたくない(そもそもそれを希望していない)という
思いはあるでしょうが、少なくとも僕はディレクターとしてここに自分の名前が
載ることは問題ないと考えています。表現の自由を守りたいという思いも強くあ
りますが、同時にトラブルやけが人なくトリエンナーレを終えなければいけない
という責任を背負っているからです。このパネルをつくるのは、ほとんど県職員
や知事の顔を立てるという作業だと思いますが、これによって余計なトラブルを
回避できる可能性が高まるでしょうし、このことで本来行いたかった展示を行え
るのであれば、この方向性で進めたいと思っています。

添付ファイルは、あいさつパネルと横に置くパネルのイメージです。文面は、
中村さんが普段使っているものを多少アレンジして僕が適当につくりました。
デザインがあまりにもできてない(SNS投稿禁止ではなく、SNSへの写真投稿禁止
にしないといけません)といった部分もあるので、公式デザイナーにきちんと
デザインされたパネルを作ってもらおうと思ってます。

アライさんが当初少女像をどうするかの議論をしていたときに、「少女像をあえ
て置かないことで、不在を意識させるという展示が、美術ではできる」といった
趣旨のお話をされていたかと思いますが、このSNS投稿禁止も同様の問題提起が
できるのではないかと思います。あくまで写真のSNS投稿禁止であって、言及す
るツイートに関しては禁止していないというのもポイントかと思います。写真だ
けがツイートできない、ということで、この問題を巡る複雑さを来場者に体感し
てもらい、その問題提起をトークイベントで議論すればいいのではないかと思い
ます。ぶっちゃけ、この知事や県上層部とのやりとりは、会期終了近くにやるイ
ベントで全部暴露すればいいと思っています。

それを踏まえて委員会の皆さんにお伺いしたいのは下記2点です。

●SNS写真投稿禁止パネルにあいちトリエンナーレ実行委員会と僕と連名で
表現の不自由展実行委員会を連名で記載していいか(その場合、委員会だけにす
るか、5人の個人名も載せるか? 左のごあいさつパネルに個人名書かれてるから
委員会だけでいい気もします)

●上記パネルに委員会の名前を載せる場合の文面は添付のものでいいか?

実はあまり時間がありません。判治さん朝日さんは来週火曜日にパネル案を知事
に持っていかなければならないそうで今週末には結論を出していただきたいです。

表現の不自由展実行委員会が来場者に「表現の不自由」を強いることは受け入れ
がたいと思われる人もいるかもしれませんが、写真撮影は禁止していませんし、
写真を含まないツイートの発信(批評)は禁止していません。通常公立美術館で
は成立し得なくなっている慰安婦像や慰安婦の写真などの展示の実現という貴重
な機会と、委員会としての理念を天秤にかける形になってしまうことは申し訳な
いと思いますが、それでもなんとかここまでこぎつけたという思いもあります。
ぜひ前者を選んでいただき、物事を前に進めたいと思っています。

というか、これが無理ということになると、僕は上を説得するための材料がほぼ
なくなるなと……。

もちろん、煮え湯を飲んでいただいて、またあとでちゃぶ台返しがあるなんてこ
とも可能性としてはあるでしょうし、これで確実に大丈夫です!と言えないこと
が僕としても辛いのですが、もしここから先、ひどいことになったらすべてメディ
アで話す、という方向でやればいいんじゃないのかな、と。

OKの場合、デザイナーにパネルの発注(パネル上部のピクトグラム新たにつくっ
てもらうこと)もしなければならないため、できれば13日(土)くらいまでに結
論を出してもらえると大変ありがたいです。

Footnotes:

1

61条第1項 警察官は、犯罪による被害の届出をする者があつたときは、その届出に係る事件が管轄区域の事件であるかどうかを問わず、これを受理しなければならない。
2
前項の届出が口頭によるものであるときは、被害届(別記様式第六号)に記入を求め又は警察官が代書するものとする。この場合において、参考人供述調書を作成したときは、被害届の作成を省略することができる。

2

リチャード・ホーフスタッター『アメリカの反知性主義』田村哲夫訳、みすず書房。

3

インターネットやSNSがもたらした重要な意義は、誰もが情報発信の主体になれるということだ。メディアの特権は揺らぎ、政府の一方的な広報もまた相対化される。右翼がネットに対して強い影響力をもっているのは事実だが、これは左翼がネットにおける情報発信の戦略を効果的に展開できなかったからだ。その理由は、伝統的な左翼もまたネットのもつ個人の情報発信の力に対して、その意義を理解しそこねた結果だと思う。運動論や組織論を根底から再構築すべき問題だと理解できずにきたのだが、これは日本の場合、左翼反政府運動が世代交代に失敗したこととも関わる問題だろう。

4

原谷達夫、野村昭訳、培風館、1968

5

津田やアーティストたちも含めて「裁判沙汰」を嫌っていたと思う。津田は私に対して、裁判を取り下げるように圧力をかけてきたことがある。詳細は拙稿「表現の不自由展再開が抱えて問題」『季刊ピープルズプラン』86号参照。

Date: 2019/12/28

Author: 小倉利丸

Created: 2019-12-28 00:11

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表現の不自由展再開が抱えた問題

* はじめに

名古屋市で201981日から1014日まで開催されたあいちトリエンナーレ2019に出品された」表現の不自由展・その後」(以下、不自由展と呼ぶ)が開催三日にして展示中止とされ、約2ヶ月間の展示再開をめぐる攻防を経て、ようやく再開にこぎつけたのが108日だった。

展示中止をもたらした脅迫や抗議の電話などは「平和の少女像」(キム・ソギョン、キム・ウンソン作)と「遠近を抱えてPartII(大浦信行作)に集中した。政治家たちの発言も中止に影響した。菅官房長官は「補助金決定にあたっては、事実関係を確認、精査して適切に対応したい。」と述べ、河村たかし名古屋市長も「表現の自由は、憲法第21条に書いてあるが、絶対的に何をやってもいいという自由じゃありません。表現の自由は一定の制約がある」「市民の血税でこれをやるのはいかん。人に誤解を与える」などの批判を繰り返した。また、展示中止後には、あいちトリエンナーレに助成金を支出している文化庁が助成金を支出しないことを決定し、更に助成金支出のガイドラインの見直しまで行なわれ、この過程で文化庁の助成金審査などに携わってきた委員が複数名抗議の辞任をするに至った。

実際の展覧会は、開会からの三日間、展示会場に右翼などの抗議による混乱はなく、むしろ鑑賞希望者が殺到し、連日展示場の外は長蛇の列となった。脅迫などの行為はもっぱら電話やメールで、実際に来場した人達は賛否を問わず、冷静に鑑賞したのが実態であった。周辺の街宣車もほとんど見かけなかった。

展示中止後、展示再開を求める様々な運動が展開された。不自由展実行委員会は繰り返し抗議声明などを発表してきた。加えて、トリエンナーレに出品している海外作家12組が展示をボイコットした。トリエンナーレ出品作家88名も抗議声明を出し、独自の抗議の意思表示や討論の場の設定を試みるなど、抗議がトリエンナーレの展覧会に参加しているアーティスト全体に波及し、また日本国内からの出品者のなからもボイコットの意思表示をする者が登場するようになった。また、美術・芸術団体、メディア団体、弁護士会や人権団体なども相次いで抗議声明などを出し、地元の市民も「表現の不自由展 その後」の再開をもとめる愛知県民の会を結成し、集会やデモ、連日展覧会場前での抗議のスタンディングなどで再開要求の意思表示を続けた。トリエンナーレ側にとってこうした広範な抗議の拡がりは想定外の事態だったと思う。

不自由展実行委員会は、9月下旬に名古屋地方裁判所に展示再開を求める仮処分を申し立てる。裁判所で主催者の愛知県側と不自由展実行委員会側との協議が重ねられ、再開のための和解で合意し、108日から約2ヶ月ぶりに再開される。展示中止への抗議の拡がりなしには仮処分から和解へという道筋は実現しなかったと思うが、他方で、法的手段なしに再開ができたかといえば、それはほぼ不可能だったとも思う。行政が一旦決定した事柄を覆すに足りるだけの条件は、やはり法的な力による以外にないというのがこれまでの行政のあり方だからだ。

* 展示再開でも表現の自由は一歩後退してしまった

再開が決まったとはいえ、具体的な再開の条件の交渉は難航した。最終的に、トリエンナーレ側と不自由展実行委員会との間で再開の条件として8項目が約束された。入場を定員制で入れ替え制とし、入場者は抽選で決めること、荷物を預け、金属探知機を使うこと、入室前に、SNS投稿禁止の同意書へのサインと身分証明書を提示することなど、展覧会の再開の条件は極めて厳しいものになった。トリエンナーレ側との妥協なしには再開は難しいことは、現実の力関係から覚悟せざるをえないこととはいえ、妥協が結果として当初の目標であった原状での再開という条件から後退したものであったこと、結果として、表現の自由の基本的な理念を損なう再開となった点については、私も実行委員のひとりとして深く反省しなければならないと感じている。

また、再開の条件での合意によって、あたかも不自由展実行委員がこの合意に納得したと解釈されて報じられたり、再開を手放しで喜ぶような光景を目にすることにも私個人としては強い違和感があった。不自由展実行委員会としては、再開のための条件が表現の自由や原状での再開という原則から外れるものであるということを明確なメッセージとして出し、合意したものの納得をしたわけではないことを主張することは必須なのだが、妥協による合意と原則との間にある溝を埋めることは容易なことではない。現実が原則をなしくずしに後退させたりねじ曲げることが、検閲の過程では常に起きる。そして、不自由展実行委員も合意しているのだから、これは検閲ではない、という体裁が整えられ、検閲した側があたかも表現の自由を侵害していないかのように振る舞ったりすることにもなる。実際に、トリエンナーレの閉会日に、津田総監督は、全ての展示が再開されたことを喜び、あたかも表現の自由の勝利であるかのように振る舞った。

検閲とは、鑑賞者を鑑賞対象から切り離してアクセスできない環境を作ることだ。これまでも起きてきた検閲と自主規制や妥協の構図が今回もまた繰り返されたともいえる。高度な監視社会では、こうした切り離しとともに、誰が鑑賞したのかという個人情報もまた容易に把握されてしまう。私は、反監視やプライバシー問題に取り組んできた者として、こうした監視下での作品へのアクセスという環境を認めざるをえなかったことは、私自身の責任として深く反省しなればならないと思っている。では、自由な鑑賞を許してもなお、右翼の攻撃を回避できたのか。この問いへの答えはイエスでもありノーでもある。今回実際に実現した再開を求める多くの人々の闘いの経験を踏まえれば、再開を求める運動が、アーティストなど当事者と鑑賞を求める人々との間の大衆的な連携を構築できさえすれば、右翼側の抗議をはねのけることも不可能ではないという実感がむしろ私には強い。

展示中止から再開に至る経緯も含めて、手放しで再開を検閲に対する表現の自由の勝利とは言えない問題が残されたのだが、以下いくつか指摘しておきたい。

* 電凸は防げなかったのか?

展示中止の直接の原因は、電話による脅迫が多数寄せられたことにある、というのが大村愛知県知事や津田芸術総監督の見解だった。不自由展実行委員会は81日、2日深夜に津田総監督やトリエンナーレ事務局と電凸対策の会議をやってきた。抗議・脅迫などへの対策は数ヶ月前から検討されてきたにもかかわらず、ほとんど何も対策がとられていないことが判明する。小手先の対応に終始し、抜本的な対策を講じようとはしなかった。クレーム対応に長けた職員は配置されておらず、トリエンナーレの実行委員長でもある知事サイドも動いていない。不自由展側は、初日の動向をみて、人員、資金、設備に関してきちんとした対処をするように要求したが、いずれについては拒否された。現場の職員が疲弊するのを組織の上部は知りながら放置したのだ。こうして「表現の自由などと言いながら現場で精神的に追いつめられる自分たちの人権はどうしてくれる」といった怨嗟の声すら聞こえてくるようになる。不自由展実行委員から「電話線を抜け」「電話を切れ」という要求にも難色を示した。中止の原因となった放火脅迫についても、捜査機関に被害届けなどの手続きがなされたのは展覧会が中止された後、数日たってからのことである。津田は、警察が被害届を受理しなかったというが、これはありえない。国家公安委員会規則「犯罪捜査規範」第61条で定められているように、被害届の受理は警察の義務だからだ。被害届は展示中止が決まった後にようやく出されたのは「謎」というしかない。

ところがこの電凸問題は、9月頃になるとなぜか影をひそめてしまう。むしろ不自由展の展示のあり方への批判が強くなってくるという奇妙な現象が起きる。他方で、右翼が攻撃したり政府が反対するような展示作品そのものが、問題の原因を作ったかのような逆立ちした論調が散見されるような事態も起きたと思う。そもそもこうした展覧会を公立美術館で開催しようと企画すること自体が間違いだというのだ。こうした意見が後述する検証委員会でも示唆されるようになる。

* 大村知事は表現の自由の擁護者だったか

大村知事の折りに触れての発言は、名古屋市の河村市長による「少女像」や「遠近を抱えてPartII」へのあからさまな内容に踏み込んだ誹謗中傷ともいえる発言とは好対照をなし、表現の自由の擁護者として振る舞ったこともあり、大村への期待は高かった。津田もまた右翼の攻撃の被害者として同情も集めた。その大村が唯一展示を渋ったのが「少女像」だった。大村あるいは県の上層部やトリエンナーレ側は、4月段階から幾度となく、津田を介して不自由展実行委員会に対して、「少女像」そのものの展示を断念するように打診してきた。大村も津田も、展示自粛要請の理由を一切明らかにしたことはなかった。開会後の攻撃の主要なターゲットももっぱら「少女像」であり、安世鴻の元「慰安婦」のポートレート写真も白川昌生の朝鮮人強制連行の慰霊碑をモチーフとした作品も、ターゲットにはならなかった。

県知事サイドによるかねてからの「少女像」撤去の意向は、開会後に「少女像」をピンポイントに攻撃する電凸などの一連の行動をあたかも予測していたかのような態度だ。不自由展に展示された作品はかつて検閲された作品ばかりで、検閲の背景として、右翼などの攻撃に晒されたことがあったものが多くあるにもかかわらず、もっぱら「少女像」がターゲットになった。大浦の作品への攻撃は、ネットに投稿された動画をきっかけに二日目に急増する。

推測の域は出ないが、今当時を振り返ってみると、「少女像」攻撃の一連の流れは、この間の日本政府による海外の「少女像」撤去要請の態度と一脈相通じるところがあるように思えてならない。政府は、在外公館前に設置されることが「公館の威厳の侵害等に関わる問題」(参議院、質問趣意書への答弁、180回、提出者佐藤正久、答弁者野田佳彦)とする態度をとり、2017年には釜山の日本領事館前に「慰安婦像」が設置された対抗措置として、総領事の一時帰国や経済関連の協議の中断や延期など過剰ともいえる拒否反応を示した。保守派にとって「公」とは天皇が国民統合の象徴とされる国家を意味するから、「公立美術館」もまたこの意味での国家に帰属する文化施設であるべきだという考え方が根強い。政府が「少女像」の展示の事実を知った時期がいつかは不明だが、多くの場合、自治体が国の政策に関わると思われる事態に関して、中央政府の意向を敢えて無視することはありえない。今回の場合、天皇の肖像写真も絡むので宮内庁も無関係とはいえないと思う。愛知県が中央政府に忖度したのか、あるいは忖度以上の綿密な協議があったのか、あるいは非公式のルートで水面下で電凸を煽るような何らかの画策があったのか、事実を知りようがないが、私は、展示の計画段階から開会後の抗議・脅迫の動きまでの流れをみると、ある種の一貫性を感じざるをえない。だからこそ不自由展の少女像撤去が知事側の譲れない線だったのだろう。これに応じない場合は、トリエンナーレ全体に影響しない形で不自由展だけを潰すことを企図したのではないか。電凸がリーダーなきネトウヨの自然発生的な「運動」だったとはいちがいにはいえないかもれない。

メディアでもネットでも、大村知事や津田芸術監督は展覧会を中止せざるをえなかった被害者であり、表現の自由の守護者であるかのようにすら報じられもした。たしかに河村名古屋市長を批判して、右翼の攻撃にも晒されてきたわけだがら、表現の自由を守ることを公言してきた二人に守護者の側面がないとは言わないが、しかし、他方で、水面下で、非公式に、不自由展実行委員会に直接間接に接触する場合には、「少女像」撤去を要求する別の顔があったことも忘れるべきではないと思っている。

* 検証委員会による介入

愛知県は、展示中止後、一週間もたたない89日に「あいちトリエンナーレのあり方検証委員会」を設置する。この委員会はいわゆる外部の有識者から構成され、知事がオブザーバーで参加した。当初検証委員会は不自由展の展示に直接介入するものではないとされたが、実際の検証委員会の行動は、展示内容に踏み込んだもので事実上の主導権を握る存在になったように感じた。公式の文書などには出てこないが、検証委員会の山梨座長らは、数度にわたり、非公式に不自由展実行委員会との接触を求め、展示の方法などについて介入するようになった。こうした接触のなかで、山梨座長は、展示の稚拙さなども指摘しながら、不自由展の実行委員に対して、再開の条件として、不自由展実行委員会は退き、展示についての全てをトリエンナーレのキュレーターチームに委ねるという選択肢すら提示してきた。検証委員会は一貫して、不自由展実行委員会を独立した表現主体としては認めようとはしなかったのだ。

しかし、現実には、不自由展実行委員なしには、展示作品の作家たちとのコンタクト、作品をめぐる背景説明など鑑賞者に提供すべき基礎的な情報すらなしえなかったことは後に明かになる。検証委員会もトリエンナーレのキュレーターチームも短期間で膨大な検閲事件を理解し把握することなどできなかったからだ。検閲をめぐる経緯は、どの作品も一様ではなく、個々の作品に関する長い裁判の経緯や複雑な社会的背景を、検証委員会もキュレイータチームもかなりあなどっていたと思う。不自由展実行委員を、公共施設が展示を禁じたことに怒って検閲だと騒ぎ、検閲反対と叫んでいるだけのアートに無知な左翼くらいに思っていたに違いない。たぶん、こうした偏見は多かれ少なかれ、本展のアーティストやキュレーターチームにもみられるように感じていたが、個々の作品が背負ってきた非公開や拒否の歴史を知るにつけて、容易ならざる問題であるという自覚が生まれるなかで、偏見もまた払拭されるようになったと思う。

再開に際して、トリエンナーレ側は、検証委員会の示唆を踏まえて、鑑賞者に対する事前の「教育」をほどこそうということも企図していた。実際にはこの「教育」プログラムは実現しなかった。だからその具体的なプランはわからないのだが、賛否両論ある作品について、賛成の考え方、反対の考え方を両論併記するような形で提示することなども考えていたのかもしれない。「少女像」であれば、日本政府がしきりに持ち出すウィーン条約や日本政府の言い分を説明し、他方で、韓国政府の言い分も説明し、更には市民運動などの議論も紹介し、作家の制作意図を説明するすることで「中立」の立場を確保しようとするのが「教育」だというのであるとして、このようなことが短時間に実施できるはずはない。大浦の作品については更にやっかいだろう。本人は天皇を侮辱する意図はなかったと言うし、憲法や法令にはもはや不敬罪はなく、裁判の資料だけでも膨大になる。そもそも検閲された理由を客観的、中立の立場で「教育」的にレクチャすることなどできるのだろうか。作家はそれぞれの思想信条に基いて作品を制作するから、中立な作品などありえない。作品が政治性をもつことは個人が政治的な存在としての属性をもつ以上回避すべきでも否定すべきでもない。事前に作品についての「教育」ができると思い込んでいたこと自体が、アートと検閲の問題の奥深さを専門家たちが全く理解していなかったということに他ならない。結果として「教育」プログラムが実施されなかったことは不幸中の幸いといえた。

* 仮処分申し立て撤回の圧力

再開を求めての仮処分申し立てのギリギリの期限が近付いた9月中旬に、津田芸術総監督が不自由展実行委員と非公式に会いたいという申し出があった。この席に予告もなしに、津田の会社の顧問弁護士を同席させて、仮処分撤回の要請が強い口調で何度も語られた。同席した弁護士は、仮処分を申し立てれば確実に県はこの申し立てに対して和解などには応じず、結果として展示再開は不可能になる、仮処分申し立ては展示中止の継続にしか繋がらないということを再三強調し、仮処分申し立てが敗北に終ることは法律の専門家からみれば常識だといったことを述べて、不自由展実行委員会にかなり強い圧力をかけてきた。また、仮処分を申し立てるなら事前に申し立ての内容を教えるようにとも要求してきた。仮処分申し立てについては、一部のアーティストからも危惧を伝えられた。裁判の権利は憲法で保障された権利であるにも関わらず、「裁判沙汰」というネガティブな印象があるからか、あるいは津田サイドからのある種の印象操作があってのことか不明だが、法的措置をとることへの強い抵抗が、一部のアーティストにはあると感じたことがあった。

不自由展実行委員側はこの要求を拒否した。これは津田ひとりのスタンドプレイではないだろう。裁判所による再開の命令がでてしまうと、再開せざるをえないだけでなく、再開の条件についてもトリエンナーレ側がイニシアチブをとれなくなることを畏れたのかもしれない。

* 象徴天皇制と文化支配との闘いへ

不自由展の展示、中止決定、そして再開という過程のなかで、何度もトリエンナーレ側の裏切りを経験してきた。

今回の不自由展の展示中止に関して、特徴的にあらわれたことのひとつは、「少女像」の問題については、多くのマスメディアが写真や映像を映しながら報じたのに対して、「遠近を抱えてPartII」は、問題となった場面はまず報じられず、この作品のもとになった版画作品「遠近を抱えて」もまた、一部例外はあるが、ほとんどの図版の掲載すらなされなかった。ある大手メディアの記者は図版の掲載は「上から止められている」と漏らしたが、こうした自主規制が展示中止から再開後まで一貫していた。トリエンナーエレ側のメディア規制も異常といえた。会場での報道機関の取材が禁止され、ネットでの投稿や配信も厳しい規制が敷かれた。全体としていえば、再開展示するが、可能な限り作品や関連資料へのアクセスを規制して「見せない」ことを画策したと言っても過言ではないと思う。再開しつつ、いかに「見せないか」に最大の努力を払ったようにすら見える。

大浦の作品は、本人の作品のモチーフへの言及によれば、必ずしも天皇や天皇制批判を意図したものではない。このような作家の発言などを捉えて、多くのメディアの論調は、天皇制を批判することを意図した作品ではないにも関わらず検閲されたということを問題視するスタンスが支配的で、天皇や天皇制を批判する表現そのものの自由を保障すべきだという観点を前面に押し出した主張は目立つものとはいえなかった。

そもそも今回問題になった「従軍慰安婦」は90年代から知られるようになっているが、当時と比べて、現在の方がずっと自由な議論の余地は狭くなっている。天皇をめぐる表現も戦後様々なされており、常に検閲にさらされてきた。この流れを受けて、明かに言論表現の自由は、明仁天皇の時代に大きく後退しているのだ。

私は今回の問題に直面して、とりわけ戦後の象徴天皇制が、政治的な権力を奪われた反面、文化的イデオロギー的な作用を構築する装置としては、戦前戦中以上に巧妙なものとなってきたと感じている。美術や芸術の世界からスポーツや学術の世界まで広義の意味での文化に戦後象徴天皇制が果してきた役割は大きい。象徴天皇制の文化的な力は、ヘイトスピーチのような憎悪の表現と表裏一体をなしながら、むしろ人々があたりまえのように肯定し受容する「日本文化」に潜むレイシズムとは自覚されないレイシズムや排外主義的なナショナリズムを再生産してきた。経済の情報化、文化資本の巨大化のなかで、観光と国際的なメガイベント、学術研究のグーバルな競争が新たなイデオロギー装置の不可欠な一翼を担うようになり、象徴天皇制の非政治的な政治性がこうした現代の資本と国家の構造にますます不可欠な役割を担うようになっている。あいちトリエンナーレもこの枠組を出るものとはいえない。歴史認識や天皇をはじめとして、権力がアートの権威者たちとの密かな共謀のもとで構築してきた表現の自由から排除された領域を、再度自由の側に取り戻す闘いにアーティストや鑑賞者たちが真剣に向き合うことができるかどうかが問われている。

(おぐらとしまる 元表現の不自由展実行委員)

出典:季刊ピープルズプラン 86号