ブログ 2011-9-26 20:30
原発の国内新規建設が困難になりつつある中で、政府と原子力産業は、原発輸出に活路を見出そうとしている。野田首相も9月22日の国連でのスピーチで、 「日本は、原子力発電の安全性を世界最高水準に高めます」と述べ、安全性を高めての原発推進という立場を強調した。311以前、日本政府は世界最高水準の 安全性を宣伝し、チェルノブイリとは違うのだということを強調し、活断層があろうが、どのような地震・津波が来ようが、絶対安全と豪語してきたが、このような言葉は現実の原発がかかえざるをえない危険をひたすら隠蔽するだけのデマゴギーでしかなかったことが、やっと多くのメディアと政府の主張を信じてきた 人々にも自覚されはじめた。どの原発も数え切れないほどの事故がどこかの原発で毎月のように引き起こされてきたこと、福島の大事故はこうした些細な事故の 必然的な帰結だったのであって、想定外の地震や津波がその唯一の原因だということはできないのである。
あたかも事故のない原発が可能であるかのような、不可能な「夢」を売ることは、政治家として、とりわけ政権の最高責任者として、責任あるスピーチとはとうてい言えない。さらに、このスピーチでは「日本は、原子力利用を模索する国々の関心に応えます。数年来、エネルギー安全保障や地球温暖化防止のため、新興諸国を始め、世界の多くの国々が原子力の利用を真剣に模索し、我が国は原子力安全の向上を含めた支援をしてきました。今後とも、これらの国々の我が国の取組への高い関心に、しっかりと応え ていきます。」とも述べ、原発輸出への強い関心を示した。
しかし同時に、原発輸出への批判も高まっている。中国新聞は、25日の社説で 原発輸出は「安全性の確保という点から見ても見切り発車と言わざるを得ない。そもそも第三者機関「事故調査・検証委員会」による検証作業を終えなければ、 原発の安全対策は確立できないはずだ。」と述べているように、マスメディアも疑問を提起しはじめている。脱/反原発運動だけでなくアジアにおける日本の ODAや開発援助のありかたを批判してきたNGOなども共同で原発輸出を阻止する運動を展開しはじめている。(緊急国際署名「日本政府は原発輸出推進政策を即刻止め、世界の脱原発をリードしてください」)
環境破壊的な工場や廃棄物処理が国内できなければ、海外で、という発想は、原発に限らない。日本政府と日本の企業がこれまでとってきた基本的なスタンスである。環境規制が厳しい、労働コストや労働法制の規制が厳しいなど、先進国国内の規制を嫌って、規制の緩い第三世界に資本を移動させる。結果として、第三世界には、環境の汚染や低賃金の労働が蔓延することになる。日本が国外、特にアジアに公害を輸出している問題が指摘されて久しい。たとえば日弁連が「日本の公害輸出と環境破壊―東南アジアにおける企業進出とODA」のレポートを出したのは1991年である。こうした公害輸出の前科があるこの国が、自国の原発 のゴミを国外で処理しようとする野望を持っていないと考える方が非現実的であろう。
私が危惧するのは、原発そのものの輸出だけでなく、原発事故で拡散した汚染された瓦礫や廃棄物の輸出もありうるのではないか、ということである。福島原発事故で汚染された瓦礫について環境省は4月上旬に岩手、宮城、福島、茨城と沖縄を除く42都道府県を通じ、全国の市町村にがれき受け入れを打診したと報じられている。しかし、その後、現在に至るまで受け入 れはうまくいっていない。8月に環境省は「放射性セシウムの濃度が1キログラム当たり8千ベクレル以下は通常のごみ焼却灰と同様に埋め立て」とし、「1キ ログラム当たり8千ベクレル超―10万ベクレル以下の場合は、セメントで固めて遮水シートなどで外部に放射性物質が漏れないようにすれば埋め立てが可能」 と報じられた。( 西日本新聞9月25日)さらに、昨日(25日)になって、環境省は10万ベクレルを越える場合も同様のセメント処理で埋め立てる方針であると報じられている。(毎日9月26日)いったいどれだけの汚染瓦礫が存在するのか、確実な予想は難しいだろうが、それだけでなく、福島県内だけをとっても山林の汚染も深刻で栗やきのこ類の汚染が明らかになっている。近隣諸県やさらに日本列島全体が濃淡の差はあれ汚染を免れていない。
原発を輸出する論理は、国内で建設できないなら海外で、という資本の論理がはっきりとみてとれる。同様に、汚染された瓦礫もまた、国内での処理が不可能であ れば、海外へということがいわれ兼ねない。膨大な瓦礫や汚染土壌などを国外に移送するなど不可能な話だとは思うが、そうした発想は「ない」とはいえない。 事実、使用済み核燃料の最終処分場をモンゴルに建設する計画は具体化に進んでいる。日本、米国、モンゴル政府の間で、モンゴル産のウラン燃料を原発導入国 に輸出し、使用済み核燃料はモンゴルが引き取る「包括的燃料サービス(CFS)」構想の原案がすでに存在している。(共同通信7月18日)自国が出したゴミを他国に押し付けるこうした発想は、原発のゴミを出す国の「品格」に関わる発想だが、政府や保守派が好む「国の品格」といった言葉はこのような場合には使わないものらしい。
私は、利益だけ取り、リスクを取らないという態度は許されない、と原発の事故以降繰り返し主張してきた。汚染瓦礫の問題は、まさに福島第一原発の電力供給の 受益者(消費者、とりわけ大量のエネルギーを消費する経済界)がそのリスクを負うべき問題として処理されるべきだと思う。東電管内以外に汚染瓦礫を拡散さ せたり福島県内に溜め込むといったことは、受益者負担の原則に反する。電力消費の大きさに応じて、リスクも負ってもらうしかなく、そうとすれば、最大の瓦 礫の引き受け手は東京や首都圏以外にありえないのではないか。大都市は原発の利益だけを享受し、この原発のリスクを地方に押し付けたのだが、廃棄物や汚染 物質についても同様の態度を繰り返すことができるのだろうか。もちろん、第一に原発事故の責任は東電と政府が負うべきであるが、だからといって、日本中に 汚染を拡散させることがもっとも理にかなった処理とは思えない。首都圏がまず第一にこの汚染というリスクを引き受けなければならない。
もし、そうでないなら、汚染は受益者以外の人々に負わされてもよいということになり、さらに、日本国内で引き受け手がいないなら、国外に、という発想を否定 できないことになる。首都圏のような巨大な人口をもつ地域が汚染瓦礫などを引き受ければ、当然、この場所は住むに耐えない場所になるだろう。しかし、すで に福島第一の周辺は住むことができていないのだ。福島第一周辺は住めなくてもよく、原発の受益者である東京は住みつづけられる場所であるべきだ、というの はいったいどのような理由によるのだろうか?東京、あるいは首都圏は、別格なのだろうか?こうした特別視は、逆に地方への差別を内包させているのではない か。
言うまでもなく、上で述べたことは、福島第一だけでなく、他のすべての原発の廃棄物や使用済み燃料の処理についてもいえることであって、モンゴルや六ヶ所村に押し付けるべきではなく、それぞれの原発が供給する電力によって利益を享受している地域がそのリスクを引き受けるべきである。利益だけを取り、リスクを取らない、そのような特権的な構造がこの国の地理的な空間には存在しているから、ゴミ処理を日本中の自治体に押し付けるという発想 に疑問をもたず、「受益者負担」というネオリベラリストが大好きな手法をこうした場合にはおくびにも出さない。都市と地方、メガシティと農村、近代資本主 義が生み出した空間の差別と搾取の構造は、変わりなく存在しているということである。東京に原発を!というスローガンがあるように、東京をゴミ捨て場に! というスローガンもまた叫ばなければならない。(東京は大阪と読み替えてもいいし、僕が住む富山もまた、北陸電力の本社が立地する場所として、免罪されえない場所である)