通信の秘密はこれを侵してはならない! だから盗聴法は違憲である!

盗聴法の根本問題は、現行法を含めて、憲法21条が明記している「通信の秘密はこれを侵してはならない」という明文規定と明かに反しているという点にある。違憲の法律が立法府で制定され、警察など法執行機関が実際に盗聴捜査を実施してきたということでいえば、単に違憲の法が存在するだけでなく、違憲の権力行使が繰り返されてきた。

私たちが盗聴法に対してとる基本的な立場は、現行法も含めて盗聴法は違憲であり、いかなる盗聴捜査も認められない、ということだ。ここから一歩でも引き下がり、例外を認めるとか、特定の犯罪類型にのみ適用させてもよいのではないか、といった「条件闘争」は、もはや土俵を割って違法な領域を「合法化」しようとする権力の術中に嵌っているものであって、盗聴法に反対する市民運動がとるべき態度ではないだろうと思う。政治家にはこれとは別の利害得失や思惑があって、こうした「条件闘争」を受け入れるかもしれないが、こうした原則なきリアリストの政治を市民運動の文化に持ち込むべきではない。

だから、盗聴法改悪を含む刑訴法改正問題で、この難渋な法案の文言を頭痛を抑えて「解釈」する努力も必要だが、庶民の基本は、「通信の秘密はこれを侵してはならない」という憲法の規定を理由に、いかなる盗聴捜査の合法化も認められないから、盗聴法改悪には反対である!また、現行盗聴法も廃止すべきだ!ということを念仏のように繰り返すことでよい。

盗聴法の問題は、その技術や法文の難解さとは裏腹に原則は単純である。しかし、やっかいなのは、この単純明快な原則をなぜ立法府は真剣に受けとめず、法の専門家たちも、この原則を逸脱したところでしか議論を立てようとしないのか。立法府の政治家も法律の実務家であれ研究者であれ、この単純な原則にたちかえってほしいと思う。以下は、この原則からすれば付け足しのような議論であるが、しかし、現在の盗聴法とその改悪の議論の文脈をふまえて私の考えを述べておく。

法の制定に際して「立法事実」というわかりにくい言葉が使われることがある。新規の法律が必要だというばあい、その必要性を裏付けるような現実の何らかの問題があり、この問題解決のために法が効果をもつという理屈から、法の制定の必要性を主張する。現行盗聴法の場合、その制定時に、銃器や薬物などの凶悪犯罪について、盗聴捜査なしにはその摘発が極めて困難で、もし、盗聴捜査が認められれば、現実の問題もまた明かに改善される、といったことが繰りかえし主張された。さて盗聴法が制定されて以降、盗聴捜査の対象犯罪は目に見えて減少し、世の中は警察のいう「安全・安心」な社会に近づいたのだろうか?実は、この点についてそもそも警察や法務省が胸を張って自慢したとは聞いたことがない。むしろ、前回のブログに書いたように、いったいどのように盗聴捜査が行なわれ、効果を挙げたのか、全くといっていいほど公開されていない。多分、今後、盗聴法改悪をめぐる国会での議論がかなり熱気を帯びるようなことにでもなれば、盗聴捜査の効果を「立証」するかのようなデータなどを出して世論を説得するかもしれない。効果があがっていれば、一定程度の人権の制限もやむおえない、などと物分りのいい態度を一部の野党がとるかもしれない。

例えば、犯罪が頻発するような場合があるとして、国会の議論や政府の主張の基調は、警察などの捜査機関が十分にその役割を果そうと努力しているにもかかわらず、事態が一向に改善しない、ということを前提として議論を組み立てようとする。野党もまたこのような前提を疑問視することなく前提して議論しようとし、学会もまたこの前提にたって、法の評価を下そうとし、裁判所もまた、捜査機関が十分誠実に捜査の努力を尽していることを前提として、判断しようとする。しかし、捜査機関が適法の捜査を最大限の努力で行うという前提は果した合理的だといえるだろうか?

企業が最大限の利益を挙げるように組織を動かすように、捜査機関は何をその最大の「利益」として行動するのだろうか?貨幣的利益のように単純でわかりやすい指標は権力には見出しにくいのだが、捜査機関には二つの組織利益がある。一つは、犯罪取り締まりの成果を挙げることによって、組織の存在意義を人びとが支持する基本的な環境を形成するということである。しかし、かつて、イヴァン・イリイチは、医療産業について、病気が根絶されてしまえば医療産業自体もまたその存在を不要なものとしてしまうから、医療産業が自己を維持するには、病気は必須の前提条件となる。医療産業は、収益を最大化するように病気をコントロールすることがその利益に最もかなった行動だということになる。

同様に、警察もまた、その組織利益を最大化するように行動する。組織利益とは、組織としての力の最大化である。力の最大化は、法による捜査機関の規制を最小化し捜査機関の裁量権を最大化することにある。組織の実体としては、人的物的な条件を最大化すること、予算を最大化すること、要するに捜査機関は権力の拡大再生産に自己の利益を見出そうとする。犯罪の取締りは、この捜査機関の組織利益の従属変数でしかない。効率的で効果的な捜査によって成果をあげることは、必ずしも組織利益を最大化しない。むしろ、人とモノを削減する結果を招くかもしれない。そうならないように、新たな犯罪類型を創案しもする。交通事故が減少すれば、これまでは取り締まり対象ではなかった自転車の取り締まりを強化して「犯罪」化することによって、犯罪を「発明」し生産する。従来は違法ではなかったりグレーゾーンでしかなかった事柄を犯罪化すること、あるいは、取り締まりの能力を最大限に発揮せずにサボタージュして犯罪環境を維持することなどもありえるかもしれない。あるいは警備公安警察のように、監視対象の政治活動を過大に「危険視」して、異常なほどの人員を動員して集会やデモを規制し、微罪逮捕を繰り返すことによって、組織維持を図る。組織利益最大化の観点からすれば、「立法事実」は捜査機関の「主体」抜きには論じえないのだ。「立法事実」は客観的な事実ではなく、権力がその一端を担って構成される操作可能な現実である。「立法事実」の客観性を確保することは困難だが、最低限、必要なことは、立法府が、捜査機関が具体的にどのような捜査を行なっているのかを評価することだろう。

(2015年6月)