麻生邸「リアリティツアー」弾圧国賠意見書

2008年10月26日に開催された「リアリティーツアー――62億円ってどんなだよ。麻生首相へのお宅拝見」に対し、警視庁所属警察官ら(警視庁公安部、渋谷署警備課ほか)が過剰な規制を加え、原告らを東京都公安条例違反、公務執行妨害として現行犯逮捕(同年11月6日に釈放されるまで勾留)、自宅、事務所等に対して捜索差押を行った。この警察の弾圧に対して都の公安条例を違憲として国家賠償請求訴訟が提起された。以下は、この裁判のために書かれた一審の不当判決批判の「意見書」である。

参考:国賠ネット http://kokubai.net/archives/1551


意見書

小倉利丸

表現の自由を主要な研究テーマのひとつとしてきた立場から、本件被告の行為が憲法によって保証されるべき言論・表現の自由によって完全に保護されるべきものであることを述べ、1審判決の不当性を明かにする。

一審判決では、「集団行動による思想などの表現は、多数人の身体的行動を伴うものであって、多数人の集合体事態の力という潜在する一種の物理力によって支持されていることを特徴とし、時として、本来は平穏に法と秩序の下で行なわれるべき表現の自由の行使の範囲を逸脱し、地域の平穏を乱し暴力に発展する危険を内包しているものであるから、これに関するある程度の法的規制は必要ではないとはいえず」「憲法に違反するものではない」「濫用のおそれがあり得るからといって、本件条例が違憲であるということはできない。」

憲法にいう表現の自由は、集団行動による思想・信条の表現を禁じていないばかりかこれを権利として保障するものである。憲法21条では無条件に集会および結社の自由を保障するということが明記されている。集会や結社のような集団は、判決にいう「多数人の身体的行動を伴う」ことは言うまでもないことであり、また、人間が身体的な存在であることから当然のことととして、ある種の「物理力によって支持されている」ことも言うまでもないことである。憲法は、集団をなす人々が、その身体的な条件から不可避的に生じるであろう「物理的」な「力」の存在あるいは行使をおしなべて否定するものではなく、むしろそれが表現の自由として、最大限に保障されるべきものであると解すべきものである。集会は人間の身体的な存在が集合して一定の物理的な空間を占有することを前提として行使される表現行為であり、結社の存在を不不特定多数の人々が知りうるのもまた、一定の思想・信条の下に多数人が結集していることを物理的な空間において表明すること(プラカードや横断幕などを提示したり、ビラを配布するなどを通じて集団の一体性を明示的に示す行為など)があってのことである。また、本判決の上記集団についての定義は、一般論として述べられていることから、憲法28条において「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する」と明示的に集団行動の権利を保障している点をも否定する立場をとっており、判決それ自体が憲法に反するものといわざるをえない。

人間は幽霊でもなければ、身体を伴わず、口も利くこともできず、お互いに孤立してバラバラに存在する以外にないような存在ではなく、社会的な存在として、一定の社会集団に属するものである。社会集団は、多様であって、この多様性は社会の思想・信条の多様性を反映するものであるだけでなく、これが政治過程においては複数の政党や政治組織などの体裁をとった集団を成立させ、議会制民主主義の基盤を構成することになる。集団性とそこにおける言論・表現の自由は、このように、日本の統治機構の根幹をなすものである。人々が意思表示をするということは、人々が単に文字として書かれた文書によるだけではない。憲法が「言論」の自由ではなく「表現の自由」として明示しているように、人々の意思表示は、声、表情、身振り、服装、あるいは様々な表現物や表現を可能にする道具や装置をもって行なうものであって、これらの一切が表現に自由を保障するための前提条件をなす。平穏な場所で自己の意思表示を大きな声で行なうことは平穏な環境への侵害とみることもできるが、逆に、平穏な環境を絶対視して、一切の大きな声を出すことを禁じるとすれば、これは表現の自由を侵害することになるともいえる。言論・表現の自由を原則として保障する観点にたつとすれば、平穏な場所を維持することだけを理由に、表現行為を禁じることはできない、というべきなのである。

身体をもつ人間の物理的な力の存在は、憲法に保障された権利の行使の観点からみて最大限に保障されるべきものである。とりわけ、市民が現在の政権や支配的な政治に対して異論を表明する表明する場合は、その表現の自由を最大限に保障することは、憲法の根幹をなす 民主主義的な意思決定を保障する上でも最も尊重されるべきものである。ところが、判決では、逆に、「遠足」のような行為であればいざしらずそれが「麻生に対する批判や問題提起を目的としていることを公共の場所で表明」であればなおさら規制されるべきであるという立場に立っている。このような判決の立場は、政治的な表現の自由に対してはそれ以外の表現の自由よりもより幅広い自由が保障されるべきであるとする表現の自由の基本的な理念を否定しており到底受け入れることのできないものである。

この観点からすれば、集団的な表現が規制あるいは抑制されるのは、何人にとっても明かな生命や身体への深刻な危険が存在する場合であり、単に「地域の平穏を乱し暴力に発展する危険を内包している」といった程度の場合であれば、集団による表現を禁じることはできない。また、判決は「公共の利益保護」「公共の安寧と秩序」についても間違った解釈を与えている。「公共」には、多様な思想信条の自由が保障されることが含まれているにもかかわらず、逆に、現にある権力者を保護することがあたかも「公共の利益」「公共の安寧と秩序」であるかのように解釈している。これは、権力の利益、権力の安寧と秩序であって公共の利益、公共の安寧と秩序とは何ら関係のないものである。多様で時には見解を異にする諸集団が共存する社会が 民主主義社会の前提であり、これらの諸集団が相互に意思表示することが可能は環境を通じて時には権力の交代をも保障するのが公共概念の前提である。安寧や秩序とは、現状維持意味して用いられがちだが、これは憲法が保障する表現の自由と集会・結社の自由、そして 民主主義的な統治機構のありかたと矛盾するものであって、誤用というべきである。

以上に述べたように、一審判決は、その根本の考え方からして憲法の理念を誤解し、権力の利益に従属するものであって、とうてい容認できるものではない。

以上。

(2015年9月)