基本的人権としてのコミュニケーションの権利

基本的人権としてのコミュニケーションの権利
—インターネットの時代の人権—-

小倉利丸

1 はじめに

インターネットは、その技術的な仕様の面でいえば60年代からの長い歴史を持
ちながら、その一般への普及という面では、まだ10年にも満たない経験しか
持っておらず、全ての人々が自由に利用できる通信手段という点ではまだ開発
途上の仕組みであるといっていいだろう。他方で、本書のテーマである人権の
概念は、近代の歴史とほぼ同じだけの長い歴史を持っている。インターネット
が人々のコミュニケーションの道具として、しかも電話や郵便とならんで必需
品に近い存在になりつつある現状を前提として、このインターネットがどのよ
うな意味で人権と関わるのだろうか。インターネットもコミュニケーションで
ある以上、インターネットと人権の関わりは、コミュニケーションと人権の関
わりとして論じることができるはずである。人間にとって、コミュニケーショ
ンは、人間であるための不可欠な条件であるということからも明らかなように、
コミュニケーションは、基本的な人権を構成するものといえる。そこで、まず
この「コミュニケーションの権利」とはどのような社会的条件とかかわるのか
をみておくことにしたい。

人々が会話をしたり、手紙、電話、電子メールで連絡を取り合うとった行動は、
人々が利用できるコミュニケーションの技術、社会がこうしたコミュニケーショ
ンに対してどのような制度的な条件を提供し、どのような法的なルールを定め
ているのかに大きく依存している。したがって、人々が権利として手にいれる
ことのできるコミュニケーションは、社会制度や時代が異なれば異なる条件の
もとに置かれることになる。そこで、二つの分かりやすい例でこの点を確認し
てみよう。一つは、小規模のコミュニティで主として人々が直接接して会話を
することでコミュニケーションが行われるような社会の場合、人々のコミュニ
ケーションの権利を保障する社会的な条件はどのようなものになるかを考えて
みよう。もう一つは、現在の私たちのコミュニケーション環境により近い例で、
遠距離のコミュニケーションの権利を保障する社会的な条件とはどのようなも
のになるかを考えてみる。

2 小規模なコミュニティを例にコミュニケーションの権利を考える

人々がお互いに直接顔を合わせて会話をすることのできるような小さなコミュ
ニティを想定してみよう。人々が自由に交流し、会話を交し、意見を述べるこ
とのできる条件は、人々がこのコミュニティを自由に移動し、自分の会いたい
人に会い、自由に話しができる条件が必要だろう。こうした条件とはどのよう
なものだろうか。こうした自由は、このコミュニティがどのような空間設計を
もっているかと関わる。人々が自由に移動できるような道路や、コミュニティ
を構成する人たちが集まれるだけの余裕のある広場やホールがなければならな
いし、これらの空間を維持管理できるだけの経費も必要になるだろう。移動の
自由のためのコミュニティの設計が自動車中心なのか、歩行者中心なのか、さ
らには車椅子などの通行にも配慮しているかどうかで、人々のコミュニケーショ
ンの権利も大きく左右されることを忘れないようにしよう。

こうした移動の自由な環境が整うことによって、このコミュニティは、集会の
自由を得ることができ、この集会の自由にって、コミュニティを構成する人々
が、コミュニティを運営する上で必要な議題についてみんなで議論し、意思決
定することが可能になる。

しかし、たとえば議論に必要な会議場や広場の大きさは、コミュニティの人口
に比例して大きくなるとは限らない。100人のコミュニティは、100名を収容す
る会議場を建設することもできるし、10名しか入れない小さな会議室しか作ら
ないこともできる。どちらにするかは、このコミュニティがどのような意思決
定のルールを採用しているか、コミュニティの構成員相互のどのようなコミュ
ニケーションを期待しているかによって様々な選択肢が考えられる。全員で議
論することを尊重するコミュニティは100人が集まれる場所を確保しようとす
るだろう。しかし、10人以上の人が集まることを法律で禁じているコミュニティ
では、100人が集まる場所を提供することはないだろう。建物の設計は建築学
の理論通りのものでなければならないが、設計の方針は人々の意思決定に委ね
られるので、技術の問題ではなく政治的な課題となる。「技術の進歩」などと
言われると避けることのできない必然的なニュアンスを伴いがちだが、どのよ
うな技術を選択するのか、選択された技術を社会がどのようなルールで応用す
るのかは政策の問題であり、往々にしてこうした政治的な問題を覆い隠す方便
として「技術の進歩」といった言い回しが利用されることがある。だから、コ
ミュニケーションを支える技術と技術に関する政策は関わりを持ちながらも区
別されるべきである、ということである。

さらに、コミュニケーションが誰にも保障されるためには、異なる言語の間の
通訳や聴覚障碍者のための手話通訳などが提供されなければならないだろうし、
読み書きなどの識字も前提条件となる。これらをコミュニティが人々の基本的
な権利として保障するには、それなりの財政的な支出が不可欠だ。

もう一つ、上記の条件とは一見すると正反対の条件もまた整備されなければな
らない。これは、一言で言えば「内緒話」ができる権利である。一般にプライ
バシーの権利とよばれるのがこれにあたる、人々が、特定の人とだけ内密な会
話を交したいということは普通のことだ。普通、こうした場合、人々は、不特
定多数の人が入ることのできない場所で親密な会話を交すことになる。それは
家庭の中の個室であったり、会社の中の会議室であったり、内密な話をする相
手との関係や内容によって様々だが、いずれの場合も、コミュニケーションを
とりたいと考える相手とだけコミュニケーションができる環境とルールが準備
されていなければならない。たとえば、個人の室内に警察が犯罪捜査のために
自由に盗聴装置を仕掛けたり、監視カメラを密かに設置することを認めること
は、あきらかにプライバシーの侵害となるが、こうした行為は明確に法律で禁
じるか、厳格なルールを定めなければならないだろう。

このように小規模なコミュニティにおけるコミュニケーションの権利を保障す
条件は、私たちが生活する複雑で膨大な人口を擁するような社会においても何
らかの形で保障されることが必要な条件であることがわかると思う。

3 遠距離通信はどのような新しいコミュニケーションの権利を必要とするか

直接顔を合わせての会話の範囲を越えるような大きな社会集団や、異なる社会
集団の間のコミュニケーションでは、手紙や電話、インターネットなどの遠距
離の通信手段を使うことになる。

遠距離であったとしても、右にみたような小規模のコミュニティの場合同様、
コミュニケーションの権利が保障されるためには、人々が自由にコミュニケー
ションができると同時に、内緒話もできなければなならないだろう。しかし、
遠距離のコミュニケーションにおいてこれらの条件を満たすためには、広場や
道路、あるいは閉じられた私的な空間などが保障されるだけでは十分ではない。
手紙を送ることができるためには、郵便の制度が確立していなければならない。
郵便によって、正確に宛先に手紙が届くためには、正確な住所の制度が整備さ
れ、住所が重複しないような管理が前提になる。インターネットも同様である。
世界中の何千万という人々が皆異なるメールアドレスを持ち、自分のメールボッ
クスを管理しているコンピュータに間違いなく相手からメールが届くように、
ネットワーク上のコンピュータがデータの配送経路を中継できるような仕組み
を持っていなければならない。また、内緒話ができるためには、封筒の内容が
読まれないことが保障される必要があり、そのためには、封筒の封印の仕組み
や、第三者による無断開封に何らかのペナルティを課すようなルールが必要に
なるだろう。インターネットにおいても、プライバシーを守るためには、暗号
で通信ができる仕組みが整備されていなければならないだろう。

遠距離や大規模な社会のなかのコミュニケーションでは通信の技術が果たす役
割が圧倒的に重要になる。技術が確立していなければコミュニケーションその
ものが成り立たないからだ。しかし、すべてが技術で決まるわけではない。そ
の技術をどのような条件のもとで利用するかは、法律や規範などの社会的な約
束ごとで決まる。郵便を配達できる手段があるということと、実際に配達する
かどうかは別のことだ。定められた料金を支払わなければ、配達されないのは、
技術の問題ではなく、ルールの問題である。

IT社会などの議論では、先端的な情報通新技術などの目新しい動きに目を奪わ
れがちになるが、むしろ「社会」である以上、私たちが見落としてはならない
のは、こうした新しい技術がどのような社会的な条件のもとで開発され、私た
ちの基本的な人権をどのように保障することに貢献するのか、あるいは逆に問
題をもたらすのか、という点である。この点で、技術とルールを別々に理解す
るのではなく、社会的な規範や法を前提として技術開発が行われるのだという
点を忘れてはならないだろう。

4 コミュニケーションの権利はどのように規定されているか

「コミュニケーションの権利」や「コミュニケーションにおける人権」といっ
た概念は具体的な法律の条文にどのように定められているのだろうか。人々が
自分の考えや意見を表明したり、表明するのに必要な手段が保障されるべきで
あるという考え方は、思想・信条・信教の自由、表現の自由といった個人の自
由に関する基本的な人権として、すでに多くの国で憲法が保障し、また国際条
約でも繰り返し保障されるべき権利として明記されている。

日本国憲法では、第19条から21条でこれらの自由権について明記されてい
る。また、国連の世界人権宣言(1948年採択)では、第19条で次のように述
べられている。

「すべての者は、意見及び表現の自由についての権利を有する。この権利には、
干渉されることなく意見をもつ自由、並びにあらゆる方法によりかつ国境との
かかわりなく、情報及び考えを求め、受け及び伝える自由を含む」

国連の自由権規約やヨーロッパ人権条約などでも同様の表現の自由に関する条
項が定められている。【注 その他関連する法、条約については、『人権大百
科』参照。 この自由権は、無制限ではなく、ある条件のもとでは制限される
ことが許されている。この自由とその限度をどのように考えるべきか、という
点がコミュニケーションと人権を検討するうえでもっとも重要な課題になる。】

右の世界人権宣言にあるように、コミュニケーションの権利には、二つの異な
る権利が含まれている。一つは、「干渉されることなく意見を持つ自由」に関
わる権利であり、もうひとつは、「情報及び考えを求め、受け及び伝える自由」
である。さらに後者には、情報を受ける自由と伝える自由という二つの自由に
関する権利が含まれている。

特に情報化社会とよばれる時代において重要なのは、情報を求め、伝える自由
に関する権利が具体的にどのように保障されているか、である。これらの自由
は、コミュニケーションの環境、社会的な条件や制度など、コミュニケーショ
ンそのものを成り立たせる前提条件によって左右される。たとえば、電話で会
話するためには、電話のための通信設備が整備されていなければならない。ま
た、電話があったとしてもこれを利用するのにどれだけの費用がかかるのか、
また誰でも利用できるのかそれとも何らかの利用制限があるのかといった様々
な条件によって、誰にでも利用可能な情報通信の手段になるのか、特定の人に
しか使えない特権的な手段になるかが決まるだろう。つまり、人々の情報を受
け、発信する自由の権利を保障するために情報通信に関わる社会的な基盤が整
備されているかどうかが、まずコミュニケーションの権利の社会的な前提条件
となる。

もう一つは、右のようなコミュニケーションの条件を踏まえた上で、実際にな
されるコミュニケーションの内容に関わる権利問題である。たとえば、インター
ネットのホームページでどのような情報を発信することが許されているかとか、
どのような情報にアクセスすることが制限されているかといった情報の内容に
関する権利の問題である。情報を伝える自由が基本的な人権の一部を構成する
とすれば、原則として自由な情報発信は最大限保障されなければならないはず
だ。

情報通信の社会基盤に関わる問題と、これを前提とした上で、実際にコミュニ
ケーションの内容に関する権利を行使する際のは密接に関わるが、異なる問題
を含むので、別々に検討したうえで、関連する領域について検討することにし
よう。

5 平等なコミュニケーションの権利とは

コミュニケーションの環境や条件は時代や社会制度、あるいは社会の中の個々
人の占める位置や役割などによって大きくことなるだろう。憲法で表現の自由
が保障されているとしても、マスコミではたらく記者やニュースキャスターと
それ以外の人たちとでは明らかに表現できる手段の大きな差がある。では、コ
ミュニケーションの権利の具体的な内容とはどのようなことでなければならな
いのかだろうか。

コミュニケーションの権利を考えるためのヒントとして、私たちをとりまくコ
ミュニケーションがはたしてどの程度平等な権利を保障できているのかについ
て、私たちの社会の成り立ちとの関わりで歴史的にみてみよう。

19世紀にイギリスを世界の工場とする資本主義の世界体制が成立し、現在の
ような国民国家とよばれるような国家体制と市場経済を中心とした経済システ
ムが成立した。同時にコミュニケーションの手段も、郵便制度、電信、電話、
ラジオ、テレビと技術的にも多様でさらにリアルタイムでの遠距離通信を可能
にする技術と、不特定多数に大量の情報を提供する技術が開発され続けた。一
度も顔を合わせたことのない人々が、同じ「国民」意識をもつといったナショ
ナルなアイデンティティはマスメディアを介してしか成り立ち得なかったとい
える。

しかし、このようなコミュニケーションの発達のなかで、個人とマスメディア
のコミュニケーションの能力の格差は大きく広がった。新聞、ラジオ、テレビ
などを不特定多数の受け手に発信できる者と単にこれらの情報の受け手となる
以外に情報発信の手段を持ち得ない大多数の人々という明らかな情報発信にお
ける格差が20世紀の国民国家の前提に存在した。この点で、世界人権宣言にい
う情報を伝える自由は、権利として何人にも保障されるものとして実現された
ことはなかったのである。

このような情報発信の不平等という問題は、資金力のない者が放送局を設置し
たり新聞社を興したりできないのは当たり前ではないかと思われてしまうため
に、これがコミュニケーションの権利に関する深刻な問題となっていることは
見過ごされがちだ。しかし、マスメディアが情報発信を事実上独占する環境は
明らかにコミュニケーションの権利という観点から見た場合に、好ましいとは
言いがたい。

インターネットがコミュニケーションの権利に関わるのは、これが全ての人々
に平等な情報発信の機会を提供できる技術的な前提条件を備えているからであ
る。これは、インターネットへのアクセスに必要な環境(パソコン、電話回線、
アクセスIDなど)が整えば、個人も政府もその区別なくほぼ同じ情報発信の環
境を持てるからだ。しかもこのアクセス環境に必要な条件は日本の場合、平均
的な所得層でも十分容易に支出できる費用水準にあることが重要な意味をもっ
ている。

インターネットは明らかに、従来のマスメディアによる情報発信の独占を打ち
破る可能性を秘めており、人々の平等なコミュニケーションの権利を促進する
と考えることができる。この意味において、インターネットは、コミュニケー
ションの権利における必要な条件の一つと見なしてよいだろう。

6 個人の自由とその社会的な前提

コミュニケーションの権利の内容は、自由に物事を考え、自由に情報を受け、
また発信することにあるが、この「自由」という状況は、必ずしも自明なもの
ではない。コミュニケーションにおける自由とは何かという問いに答えるのは
容易ではない。その理由は、二つある。一つは、「自由」という概念が非常に
難しい概念だからだ。もしこの概念を人々が経験や主観によって「自由」と感
じているかどうかという点を基準にして理解されてしまえば、人によって「自
由」についての評価はまちまちになるだろう。動物園で生まれ育ったライオン
にとって動物園の檻は決して自由の妨げとは感じないかも知れないが、捕獲さ
れた野生のライオンにとって檻は、文字通り自由を束縛する苦痛な障害物以外
のなにものでもないだろう。人間もまた同じかもしれない。私たちが「自由」
と感じることをもって自由と定義することは必ずしも正しいとはいえない。も
う一つの問題は、客観的に自由についての定義が与えられるとした場合、この
定義による自由は、人々が主観的に自由であると感じられるような状態を保障
しなければならないはずだが、この二つの自由両立させることは可能だろうか。
野生のライオンも動物園育ちのライオンもともに自由だと感じる自由な条件と
いうものを想定することはほんとうに可能なのだろうか。

コミュニケーションの自由というのは、ある種の矛盾した言い回しになってい
る。なぜならば、コミュニケーションは常に自分以外の、自分の意思では自由
にならない誰かとの会話などで成り立つものだからだ。完全に他者を自分の
「自由」にすることが可能であるとした場合、ある一人の人の「自由」は権利
として保障されるかもしれないが、残りの人の自由は決して保障されないだろ
う。いやむしろ抑圧されるということになるといっていいかもしれない。これ
では社会がコミュニケーションの自由を認めていることにはならないだろう。
コミュニケーションは相手との関係のなかで初めて成り立つ以上、コミュニケー
ションの自由とは「個人」の自由ではありえないのだ。常にコミュニケーショ
ンの相手を含む関係のなかでのみ成り立たせなければならない自由なのである。
この点が、近代の個人主義が思想として論じてきた自由の考え方からみてコミュ
ニケーションの自由は若干の例外的な位置を占めるといっていいかもしれない。

さらに、もっと大切な問題がある。それは、コミュニケーションの自由に関わ
る権利問題は、ここで述べたような個人と個人との会話などに典型的に示され
る場面を想定するだけでは十分ではないという問題である。特にコミュニケー
ションにおける自由や権利を論じようとする場合、ありがちな批判は、自由を
論じる前に、情報を発信する者の責任を論じるべきであるとか、権利を論じる
のであれば同時に義務をも論じるべきだ、というものだ。これは一見するとバ
ランスのとれた見方のようにみえるが、実はそうではない。

基本的な人権に関わる人々の権利は、何よりも優先的に保障されなければなら
ない。だからこそ「基本的」とばれ「人権」と呼ばれることになる。まずなに
よりも基本的な人権としてのコミュニケーションの権利として人々に保障され
ている自由の権利とはどのようなものなのかが明らかにされ、この権利を保障
する制度的な条件が整備されることがまず優先されるべきなのである。そのう
えで、あくまで例外としてこの自由の権利が制限されのはどのような場合なの
かについて慎重な検討を行って、この権利の制限が拡大されないような細心の
注意をはらった上でのルールが定められるべきなのだ。

このような観点から見たとき、コミュニケーションの権利に関わる問題は、個
人が個人と会話したりするという場面で生じる個人間の問題だけを扱えば済む
ということにはならない。なによりも重要なことは、本章の一番最初にやや図
式的な例で示したように、コミュニケーションを成り立たせる社会環境がコミュ
ニケーションの権利を保障するに十分な実質を持っているかどうかという問題
があるのだ。人々が集まり、自由に議論したり意思表示できる広場がないとか
使えない、あるいは遠距離の人々と人に知られることなく親密な会話や手紙の
やりとりができないといったことでは、人々のコミュニケーションの権利が守
られているとはいえない。さらに、ある人たちにはコミュニケーションの権利
が保障され、別の人たちには保障されないといった格差や差別があれば、これ
もまたコミュニケーションの権利が保障された環境にあるとはいえないだろう。

広場の存在や遠距離通信のプライバシーが守られる通信などという条件は、個
人の努力で作り上げることはできず、社会がこれらを保障するために一定の負
担を負い、ルールを定めなければならない。また、人によって、あるいは所属
する社会集団(性別、学歴、勤務先、年齢、民族などさまざまな条件が考えら
れるが)によってコミュニケーションの権利に格差や差別がある場合、こうし
た差別を生み出す原因を個人に求めることはできないし、その解決を個人に委
ねることもできない。これらは、政府などのしかるべき統治の機関や社会全体
の経済、政治、文化などの制度的な要因を視野にいれなければその原因もその
解決も論じることはできない。

7 インターネットとコミュニケーションの権利

右に述べたように、人権の概念はインターネットのようなコンピュータによる
情報通信技術を前提としたものではないから、インターネットは従来の人権概
念では対応できない様々な問題をもたらすかもしれない。そこでインターネッ
トに即して今まで述べたことを考えてみることにしよう。

たとえば、次のような問題がインターネットの問題として論じられることが多い。

(1)インターネットによってはじめて個人が、不特定多数の人々に情報発信す
ることが可能になった。不特定多数への情報発信はこれまでもっぱらマス
メディアが担ってきた。ごく少数の職業的なジャーナリストが組織的な管
理のもとで情報を発信してきたわけだが、個人の情報発信はこうしたマス
メディア環境とはまったくことなる前提にたった情報環境を作り出す。た
とえば、ある人が友人となんらかの諍いを起こして、腹いせに友人を糾弾
するようなメッセージを匿名で掲示板に投稿した場合、この表現が友人側
にとっては不当な誹謗中傷と見なされることがあるかもしれない。

(2)インターネットによる通信は、国境を越えてグローバルに拡がるために、
国民国家の枠組を前提として成り立つ法律の枠組では対応できないかもし
れない。人権に関わる立法が国別に制定されても、インターネットはこの
立法によって十分にコントロールできないかもしれない。たとえば、ポル
ノの表現の規制は国によってかなりの差がある。比較的規制の緩やかな国
のポルノサイトは、より厳しい国からすれば違法な内容を含むと見なされ
るだろう。

この二つのような事例は、マスメディアを賑わすインターネットに関わる「犯
罪」や「事件」にたびたび登場する。こうした出来事に接するたびに、インター
ネットはあたかも無法地帯であるかのように感じられたり、もっと厳しい取り
締まりが人権を守るためにも必要であるかのように論じられたりもする。

たしかにインターネット上の言論には多くの問題が存在することは確かである。
問題解決のためのアプローチにひとつとして、こうした問題に着目し、問題を
最大もらさず解決する政策、立法、技術の導入などをを最優先させるという方
法があるだろう。しかし、私はこのようなアプローチには大きな欠点があると
考えている。

第一に、コミュニケーションがもたらす問題のなかには、道徳や倫理などに関
わる場合がある。不道徳だとか青少年にとって有害だなどと言われると萎縮し
てしまいがちだが、道徳や倫理に関わる場合ですら先入観をもつことなく冷静
に判断することが必要なケースが少なからずあり、抽象的に「道徳」や「倫理」
を持ち出しすことは好ましい結果を生まない。たとえば、戦前であれば、天皇
に対するささいな皮肉すら「不敬」とみなされたが、この「不敬」のニュアン
スは、日本人である以上口にすべきではない言動であるという道徳的な意味合
いを持っていた。政治的な自由を奪うことを肯定できる人は少ないが、不道徳
な言動を肯定できる人は多くはないだろう。こうした人々の言論に対する価値
判断を巧みに利用して、道徳的な規範を政治的な言論のなかに持ち込んで、政
治的な言論の自由を奪うことが有効な言論弾圧の手法となる。

第二に、個人間で引き起こされる誹謗中傷やプライバシーの侵害にあたるよう
な言論によって引き起こされるコミュニケーションの権利の侵害のなかには、
純粋に個人的な事情による問題ばかりでなく、たとえば人種的な偏見や性差別
の意識など、人々が暮す社会そのものがもたらす偏見や差別を背景として個人
同士のあいだで引き起こされるコミュニケーション上のトラブルが多く見受け
られる。こうした問題は、個人のコミュニケーションを抑制したり規制するこ
とで解決できるものではなく、むしろ社会的な制度そのものを変えることが必
要なのである。

ところが、往々にして、制度的な問題は全体像を理解することが困難であり、
多くの人々にとっては、それが当たり前と感じられて問題の所在に対する自覚
が生まれないことも多く放置されがちなのである。これに対して、個人間のト
ラブルは、経験や実感にてらして理解しやすく、しかもセンセーショナルにな
りやすく、コミュニケーションの権利に関する問題というとすぐさまこうした
個人間のトラブルの問題との関わりに注目が集まってしまう。しかし、個人間
のトラブルの多くも先に述べたように、社会的な背景抜きには理解できないし、
理解すべきでもないのだ。

第三に、問題解決のための手段(立法や技術的な解決策など)が、問題のないコ
ミュニケーションに支障ををきたすようなものであってはならない。実は手段
と目的は思うようには一致しないのが一般的だ。たとえば、未成年に有害な内
容を規制するために、未成年に限らずすべての人がこうした情報にアクセスで
きないようにするという手段をとるのも一つの方法かもしれない。あるいは、
インターネットには有害な情報が提供されているということを理由に、インター
ネットそのものを違法にすることも一つの方法であることは間違いない。しか
し、これは行き過ぎだと多くの人々は考えるに違いない。では、どの程度なら
行き過ぎにならないのだろうか。この問題を考える際に、問題となる対象を完
全にカバーする手段に着目するのと、問題ではないコミュニケーションを完全
に保護することを前提とした手段を講じることに着目するのとでは、実は異な
る結果を生む。私は、前者の方法は、後者に比べてコミュニケーションの権利
をより侵害しやすいと考えている。その理由は後に述べる。さらにやっかいな
問題は、いまここで述べた「未成年に有害な内容」という場合の「有害」につ
いての評価や判断基準が必ずしも明確ではないし、だれもが納得できる判断基
準があるわけでもないという問題がある。

第四に、個人間の問題と、個人と企業、個人と政府などの個人対組織の間の問
題やトラブルは区別して議論し、判断する必要がある。前者と後者とでは問題
を解決する方法が異なるばかりでなく、権利の領域も大きく異なる。私的な個
人に対しては許されないような批判や非難、あるいは嘲笑的な風刺も公的な地
位にある人物や政府、社会的な責任を負う企業などには許される。プライバシー
の権利で保護される領域も大きく異なり、公的な存在になればなるほどプライ
バシーも制限される。これは、自由な批判や情報の開示が自由なコミュニケー
ションの前提条件であり、また民主主義の基本だからである。

最後に、インターネットが国境を越えたグローバルなコミュニケーションを実
現していることから、上記の問題は、すべて国内の問題としてだけでなく、グ
ローバルな環境のなかで考えなければならないということである。このことは、
グローバルにコミュニケーションの権利が保障されなければならないというこ
とであって、コミュニケーションの人権問題は、必然的に国際的な人権の問題
であるということになる。そして、これは、言論、表現の自由にだけ関わるわ
けではない。さらに、情報を受け、また発信する自由を保障するグローバルな
コミュニケーションを支える技術や管理のルールに関わる。人々の実感や日常
的な経験の背後に横たわっており、容易に把握できないため見過ごされがちで
あるが、グローバルなコミュニケーション環境を誰がどのような手続きで決め
るのかという「インターネットのガバナンス」と呼ばれる問題は同時に人々の
コミュニケーションの権利と深く関わることを忘れてはならない。

したがって、コミュニケーションの領域では、人々の活動の自由を規制するよ
うな法的行政的な強制的措置は最小限である方がよいというのが私の考えだ。
その結果、問題をはらんだ言論が野放しになる危険性が残ることになる。こう
した言論は、強制的な措置ではなく、言論の世界の中で相互の討論を通じて是
正する努力に委ねるべきだろう。たとえば、差別の言論は、現実の世界の差別
の構造と無関係ではなく、現実の社会関係を変えることなしに言論の世界だけ
を変えることはできない。こうした現実を変える努力によって、問題となる言
論は長期的には衰え、社会的な影響力を失うことになるだろう。

私は、インターネットにおける人権の問題を考える際に、まずなによりも重要
なのは、私たちがインターネットを利用して保障されるべき積極的な権利とは
何かをはっきりさせることだと思う。「積極的」というのは、何らかの権利侵
害にたいする防衛的な権利や行使してはならない振る舞いについての規範では
なく、みずからが行使できる権利のことである。この行使できる権利のなかで
もっとも大きいのは、情報を発信する権利と情報を受け取る権利である。この
両者がそろうことによってはじめてコミュニケーションは完全なものとなる。

情報発信の権利はいうまでもなく表現の自由の権利であるが、これは、単に表
現をするという行為(たとえば、パソコンの前に座って、自分の考えを入力す
るという行為)を意味するわけではない。

新聞社はこうして作成された文章を多くの人に読んでもらえる回路を持ってい
る。政府もまた自らの主張を多くの人に知らせる回路を持っている。しかし、
大多数の市民は自分の考えを入力する自由はあってもそれを配布する手段を持
たないとすれば、これは情報発信の権利が保障されているとはいえない。情報
発信の権利の保障には、情報を伝達する回路へのアクセスが保障されることが
不可欠である。

情報を受け取る権利についても、単にマスメディアの情報を受け取ることなど
の受け身の権利にとどまらない内容を持つ。情報を受け取る権利のなかでもっ
とも重要なのは、情報公開の権利であり、このなかには政府や企業が持ってい
る私たち市民に関する情報を知り、コントロールできる権利が含まれる。イン
ターネットに限らず、コンピュータネットワークと電磁的な記録媒体が情報の
蓄積と流通の中心的な役割を演じている現在、いったん記録された「私につい
ての記録」は、ネットワークを介してさまざまなところで利用可能であり、ま
た複製されたデータは元のデータと区別をつけることが難しい。したがって、
「私についての記録」がどのように利用されているかを私自身がチェックでき
る仕組みは、個人のデータが政府や企業によって個人の思惑や意思に反して利
用されないために不可欠な条件となる。

このような情報を発信し、情報を受け取る権利は、民主主義的な意思決定の大前
提である。十分に必要な情報を受け取り、この情報を前提に人々が議論(情報
発信) し、意思決定を行うということが民主主義における討議の実質を支える
のである。たがって、コミュニケーションの権利は、同時に民主主義に基づく
政治システムを確かなものにするのであって、単に個人の自由に関わる権利に
とどまらない意義をもっていることを忘れてはならないだろう。

8 社会的な格差による「デジタル・デバイド」

インターネットは1990年代に急速に普及しはじめた。このインターネットの普
及は、民間の商業的な利用と各国政府のIT政策や国連や世界銀行などの国際機
関による開発戦略のなかで重要度の高い分野として位置づけられた結果ともい
える。インターネットが個人の情報発信に多大な効果をもたらし、マスメディ
アとの情報発信の格差を縮める要因となっていることから、インターネットの
普及のプロセスが同時にコミュニケーションの権利の実現や拡張に貢献してき
たことは事実である。

しかしこのようなインターネットの普及は大きな問題を生み出した。インター
ネットが国境によって遮られることのないグローバルな情報通信のネットワー
クである一方で、このインターネットにアクセスできる社会的な基盤が整備さ
れている国・地域とまったく整備されていない国・地域との間で、従来にはみ
られなかった深刻なコミュニケーションの格差が生じているという問題である。
従来のマスメディアの場合、アクセスできないことによる不利益は、情報を受
けとることでの不利益だったが、インターネットにアクセスできないというこ
とは、情報を受け取ることだけでなく発信することにおいても不利益をこうむ
ることを意味する。さらに、電話のように双方向のメディアの場合、電話を利
用できないことによる不利益は受信、発信双方に関わって大きなものがあるが、
インターネットはさらに電話以上に多様で、多数の相手とのコミュニケーショ
ンが可能な分だけより、アクセスできるかできないかの違いがもたらす不利益
はより一層大きなものにある。

インターネットへのアクセスは、人々のコミュニケーションの不可欠な条件に
なりつつある一方で、比較的容易に、場合によっては経済的な負担を負うこと
なくアクセスできる人たちとそうでない人たちとの間の格差は、その社会のな
かで人々が占めている社会的な地位と密接に関わっているということである。
先のNTIAの報告書でもデジタルデバイドは人種、ジェンダー、所得、学歴、年
齢、都市と農村、使用言語、南北間格差など様々な要因に根差すものであると
指摘している。つまり、米国であれば、黒人やヒスパニック系の人々の方が白
人にくらべてインターネットへのアクセスで不利であり、女性の方が男性より
の不利であり、学歴のない人たちの方が高学歴に人たちよりも不利である等々
の結果が出ている。こうした結論は、デジタル・デバイドと呼ばれる格差が、
実は現在の社会が持っている様々な差別や格差をそのまま反映しているという
ことを示している。

こうしたインターネットへのアクセスの格差は、「デジタル・デバイド」と呼
ばれて大きな問題になってきた。「デジタル・デバイド」という表現が最初に
使われたのは、1995年の米国の国家電気通信情報局(NTIA)の報告書のなかでの
ことだった。この報告書では、デジタル・デバイドとは「電話、パソコンなど
へのアクセスについて、社会諸集団間で格差が生じている状態」を指すと定義
された。【注 National Telecommunications and Information
Administration(NTIA),”Falling through the Net: A Survey of the
“Have-Nots’ in Rural and Urban America,” 1995, “Falling through the
Net: Defining the Digital Divide,” 1999, in Compine, Benjamin M., ed.,
The Digital Divide, Facing a Crisis or Creating a Myth?, MIT Press,
2001.】

インターネットが一部の研究者などの間で利用されていた初期の時代から、90
年代に入って誰もが利用可能な情報通信の手段へと転換し、さらに米国政府が
インターネットを「情報スーパーハイウェイ」と呼んで国の基幹的な情報通信
インフラに位置づけるなど、インターネットが市民の日常生活にとって不可欠
な手段へと大きく発展するにつれて、インターネットを利用できる人どそうで
ない人との間に、見過ごせない利益、不利益の格差が生まれた。

NTIAは1995年と99年の二回行われているが、この90年代後半の急速なインター
ネットの普及期に右に見たようなデジタル・デバイドは解消される兆候を示さ
なかった。インターネットは新たな情報通信の道具として、人々の社会的な能
力を高めることが期待されたにもかかわらず、むしろ現実には、現にある社会
の格差がそのままインターネットの利用環境にも波及し、その結果むしろイン
ターネットは、社会的な格差を固定化し助長するあらたな原因になる可能性を
持つことになってしまったのである。

デジタル・デバイドは、個人相互や国内の社会集団相互の格差にとどまらず、
グローバルなコミュニケーション環境にも同様の問題を引き起こしている。つ
まり、欧米や、日本などの一部のアジア諸国を除く世界の大半の国、地域では
インターネットの普及が大幅に遅れているという現状である。こうした普及の
遅れを生み出した原因は、インターネットが利用する電話回線の普及率が途上
国ではそもそも非常に低く、しかも、電力供給も安定していないなどコンピュー
タが稼働し、ネットワークが構築されるための前提となる社会的なインフラそ
のものが未整備であるということが非常に大きな障害になっている。

しかも、これらの社会的な情報通信のインフラが整備されたとしてもさらに次
のような条件を克服しなければならない。第一に、私たちが比較的「安価」だ
と考えているパソコンも、途上国の物価水準からすれば非常に高価であること。
第二に、パソコン本体ばかりでなく、電話を利用する通信である以上、電話料
金などのコストがかかること、第三に、ウィンドウズのようなコンピュータを
稼働させるための商用基本ソフト(OS) それ自体が非常に高価で、しかもライ
センスによる制限がある。これらは、いずれも経済的なコストが普及の大きな
障害になっている。言い換えれば、インターネットは商用利用によって大きく
普及したが、途上国のような経済的に弱い地域では市場経済の価格メカニズム
や商品としての所有権(著作権)が普及に大きな歯止めをかけているのである。

こうしたグローバルな情報通信の格差は、多国籍企業や国際機関に有利に働い
ている。世界中の労働コストの情報や環境規制情報を収集しながら、より賃金
の安い地域に工場を移転させ、世界中に分散した工場を情報通信のネットワー
クで繋ぐことによって、新しい国際分業体制を作り上げた。多国籍農業資本は
天候情報や農産物の市場動向をコンピュータを駆使して解析し、これらをもと
に途上国の農業をコントロールしようとする。他方で、農民や労働者にはこう
したグローバルなコミュニケーションの環境は保障されていないために、イン
ターネットをはじめとする情報通信のネットワークは、グローバルな資本主義
経済がもたらす経済的な格差を解消するのではなく、むしろこの格差を生み出
す社会的なインフラとして機能している側面の方が大きくなっている。

9 政府と情報流通のコントロール

市場は、所得の高い人ほど多くの商品を手にいれることができる仕組みになっ
ているから、所得の高い人に有利なシステムである。また、市場は、所得の格
差がある場合にはこの格差そのものを縮小する方向を取るとは限らない。商品
やサービスが市場の競争で低価格化し、普及を促す一方で、高額の商品やサー
ビスもまた高所得者向けに提供され、結果的には所得の格差が取得できる商品
やサービスの格差に反映される。基本的な人権にかかわるコミュニケーション
の分野がこうした市場経済の仕組みに巻き込まれたままであれば、当然のこと
として所得の大小がそのまま権利の大小に反映されてしまう。これでは平等な
権利を保障することができないのはいうまでもない。

いわゆる社会保障や福祉などの政府の機能は、この市場システムの所得格差を
修正する機能をもち、情報通信の分野でもこうした政府の機能を利用して、低
所得層などがより容易に情報通信のサービスを利用できるようにすることは可
能である。「ユニバーサル・サービス」などと呼ばれて、所得格差や地域間格
差を政府の公的資金によって埋める政策を各国政府とも採用している。

しかし、こうした政府の情報通信政策は、所得格差に伴うコミュニケーション
の権利の格差を是正する上で有効な場合がある一方で別の問題を引き起こす可
能性がある。それは、政府が法的政治的な権力を行使して原則として誰もが情
報を受け、また発信できる代りに、得られる情報を規制したり、発信できる情
報を監視したりすることが同時に促される可能性があるからである。たとえば、
米国がクリントン政権時代に立案した通信品位法は、インターネットを学校教
育に利用し、子供たちのインターネットへのアクセスを促す一方で、子供たち
にとって好ましくない情報を規制しようとする意図で制定された。この法律は
制定の過程で大論争を世界中に巻き起こし、連邦最高裁も合州国憲法修正第一
条の表現の自由条項に反するという判決を下した。この事例は、決して例外で
はない。現在急速にインターネット人口を増やしつつある中国もインターネッ
トカフェへの規制を強化し、ベトナムでもウエッブの開設を許可制にするなど
の規制を導入している。また、韓国でもウエッブの内容についての格付けを行
うことを法律で定めている。日本の場合も、学校や企業からのインターネット
のアクセスに際して「フィルタリング・ソフト」と呼ばれるソフトウェアを導
入して、利用者にアクセス指せたくないウエッブを表示させないなどの規制が
行われているケースが多くみられる。

子供が有害な情報に接するのを何らかの方法でコントロールするということは、
比較的容易に合意が得やすい。しかし、多くの場合、有害と言われている情報
を個別にきちんと検討して、確かに子供達のアクセスを制限することを決めざ
るを得ないというような手続きを踏むことは稀である。右に紹介した「フィル
タリング・ソフト」は、コンピュータのプログラムによって、特定の言葉など
が用いられている場合には一律にアクセスの制限をかけるために、まったく問
題とならないケースであってもアクセスできないという事例が多発してしまう。
しかも、有害であるかどうかの判断が別れるボーダーラインに属する内容の場
合、大人であっても判断が別れるケースが多く見られる。たとえば、エイズの
予防のための性教育についての具体的な事例をどのように判断するか、ゲイや
レズビアンといった性的マイノリティの権利と保守的な性道徳を主張する人た
ちや宗教的な理由で同性愛を否定する人たちの権利とどちらを優先させるべき
か、など個別の事例を考えただけでもコンピュータのプログラムで安易に白黒
決着つけるべきことではないことを理解しておかなければならない。情報の内
容に関して大多数の人が合意できるもの(肯定的であれ否定的であれ)について
は、あえてこれを権利として保護したりする必要はない。むしろ権利としての
保護が必要なのは、比較的票数の人々や社会的な立場が弱い位置にある人々の
言論である。こうした人々の言論は、政治的、文化的、民族的、宗教的などさ
まざまな場合がある。そして多くの場合、こうした少数者の主張は多数の人々
からすれば、単に少数であるだけでなく、いかがわしいもの、反社会的なもの、
あるいは不道徳、非常識であるとみなされたり青少年には悪影響をおよぼすと
思われたりする場合が多く見受けられる。たとえば、戦前の日本では共産主義
の思想が危険とみなされたし、2001年9月の同時多発テロ以後、イスラム諸国
の出身者やイスラム教徒を偏見の目でみる傾向が強まるなどの具体的歴史的な
事例を念頭においたときに、少数者の言論をコミュニケーションの権利として
守るということが決して容易ではないことが理解できると思う。

インターネットにおけるこうしたアクセス規制は、公的な機関が行えば、事実
上の検閲と変らないことになる。従来の定説では、公権力による事前審査を検
閲と呼ぶが、この狭い定義を採用したとしても、インターネット上の情報の流
れを規制する動きには検閲といってよい場合がすでに多く見いだせる。したがっ
て、デジタル・デバイドの解消のために政府が積極的な姿勢をとることが同時
に、人々のコミュニケーションの権利を侵害しないものであるように明確な歯
止めをかけることが基本的な人権の立場からみて忘れてはならない重要なこと
となるのである。

政府など公的機関との関係で重要なもう一つの問題は、情報公開と自己情報の
コントロールの権利である。情報公開制度は、公的機関の内部文書へのアクセ
スの権利を認める制度である。政府部内の会議録など意思決定のプロセスがわ
かるような文書が公開されることによって、行政の意思決定の手続きそのもの
を市民がチェックできることになる。情報公開の制度は、従来官僚が独占して
いた情報を市民も共有できることによって行政組織を監視する重要な意味を持
つ。

他方で、生年月日や住所、職業、収入、家族構成など私たち個人のデータは、
銀行、クレジットカード会社などから自治体や政府の各省庁に至るまで、様々
なところで様々に蓄積されている。しかもこれらのデータがネットワークでつ
ながり、自由に利用できるようになってしまうと、思わぬ形で個人のデータが
利用されかねない。従来のように、個人データが紙の書類で管理されていたの
と違って、ネットワーク化されてコンピュータを介して同時に様々な人たちが
利用可能な技術が開発されている現在では、だれがいつどのような目的で私の
個人データを利用したのかを把握することがますます困難になっている。

そこで、私に関するデータを政府や企業がどのように利用しているのかを知る
権利や、あるいは不必要な私についてデータを削除させる権利を認めるべきだ
という考え方が登場したきた。これを自己情報コントロールの権利と呼ぶ。こ
の権利は、プライバシーの権利に含まれる新たな規定であるが、この自己情報
コントロールはまだ新しい考え方であり、個人データを利用する政府等はまだ
この考え方を十分に受け入れるには至っていない。むしろ、インターネットの
普及で、個人が容易に世界中とコミュニケーションができるようになったため
に、むしろ政府によるコミュニケーションの監視が厳しくなっている。「エシュ
ロン」と呼ばれる国際的な軍事諜報ネットワークが通信の秘密を侵している可
能性を欧州議会が指摘したが、さらに2001年9月11日の米国での同時多発テロ
以降、各国政府ともに、個人のプライバシーや通信の自由を制限する政策や立
法、国際条約の締結などが進められており、プライバシー団体などから大きな
危惧の念が表明されている。特に以下で述べるように、こうした通信の監視や
規制は、グローバルな難民や移民の移動に伴う通信のプライバシーと自由を侵
害する可能性があり、人々の生命や生活の安全を脅かしかねないのである。

10 グローバリゼーションのなかのコミュニケーションの権利

最後に、インターネットがグローバルなコミュニケーションの道具であること
に伴う問題に触れておこう。インターネットは国境を越えたコミュニケーショ
ンとしては電話や手紙と比べて圧倒的に大きな影響力をもつことができた。そ
の最大の理由は、市内電話料金で、リアルタイムに世界中と通信できるという
そのコストの安さにあるといっていいだろう。料金を気にせずに国際電話を自
由にかけられる人はそう多くはいないのに比べて、インターネットは相手との
地理的な距離を気にせずにコミュニケーションできるという点で、急速に国境
を越えた通信を拡大させた。

こうして人々のコミュニケーションがますます国境を越え、ますます多くの人々
が国境にこだわらずに議論したり意見交換したりすることが可能な環境が整う
ことになった。しかし、インターネットの普及の現状では、様々な未解決な問
題を抱えている。

第一に、先にも述べたように、デジタルデバイドによって、インターネットの
普及は先進国に極端に偏っており、途上国やなかでも最貧国とよばれる諸国で
はほとんど普及していない。他方で、地域紛争や戦争は多くの場合、こうした
途上国やインターネットの普及の遅れた地域で発生している。生活や生命の危
険にさらされている人ほど、インターネットのような双方向の通信手段にアク
セスできないでいるのだ。たとえば、アフガニスタンではほとんどインターネッ
トは普及していないし、サハラ以南のアフリカも同様である。2002年の国連開
発計画の報告書においても、先進国のインターネットのホストコンピュータ数
は人口1000人当り120にのぼるが、上記の途上国地域ではほとんどゼロに等し
い数値しかでてこない。そもそも、電話回線が先進国で1000人中600回線余り
であるのに対して、南アジアでは33回線、サハラ以南のアフリカでは15回線し
か敷設されていない。

インターネットのような双方向のメディアは、こうした紛争地域や経済的に貧
困を強いられた地域から様々な形で国外、地域外へと移動する難民や移住民た
ちが相互に直接コミュニケーションをとったり、戦争地域の住民が自らの安全
のために地域外とのコンタクトを取る上で、長距離電話よりも安いコストでの
通信を実現できる唯一といっていい手段なのであるが、それが現状ではほとん
ど利用できない状況にある。だから、アフガンへの米国の軍事行動などの場合
も、インターネットはアフガン現地の人々の声を直接国外へ伝えることができ
なかった。同様のことは、パレスチナでもソマリアでも、また、フィリピンや
インドネシアの農村部でも、あるいはイラクや北朝鮮でも同様である。

一見するとこうした地域にインターネットを普及させることなどは無理なこと
のように思われるが、先進国が押し進めているワイヤレスによるインターネッ
トの通信やアマチュア無線を利用したインターネットの通信技術などがすでに
実用化できる状況にあり、有線の電話回線に頼らない普及は決して不可能では
ないのである。

グローバル化の中で、ますます地域紛争が激化し、戦争に巻き込まれる人々が
おびただしい数生み出されている現状を考えるとき、インターネットをこうし
た地域の人々の手の届くものにすることは人々の生活の安全や移民、難民とし
て世界中に散らばった同胞とのコミュニケーションの権利を保障するうえでも
必須の人権問題となっていることを忘れてはならないだろう。

第二の大きな問題は、、言語の壁である。多くの途上国では、識字率が低いた
めに、文字情報は必ずしも有効なコミュニケーション手段にはならない。さら
に、これに加えて、現在インターネットで利用されている言語の大半は英語で
あり、グローバルなコミュニケーションは、英語が事実上の共通語の位置を占
めている。英語を理解できる比較的高学歴の支配階層やエリートがインターネッ
トの情報発信を独占してしまうような環境ができあがっている。識字率を考え
ると、マルチメディアで音声や映像によるコミュニケーションは途上国でこそ
必要なコミュニケーション手段なのだが、逆にそのためには多大な投資と大規
模な回線容量が必要であり、途上国や最貧国では普及が遅れ、先進国では生活
の基本的な安全とは無関係な娯楽目的マルチメディアが普及するという不均衡
が目立っている。

コミュニケーション環境がグローバル化するのにつれて、英語でのコミュニケー
ションの比重も高まり、英語とインターネットを前提に人々のコミュニケーショ
ン環境ができあがって行く。こうして英語のできる人とできない人との間に新
たなデジタル・デバイドが生み出されることになる。

インターネットを通じて英語で議論できる人たちの主張は通りやすく、逆に英
語を話せない人たちは、自分達の考えを表明することも、また議論に参加する
ことすらできないという状況におかれることになる。このように英語ができる
かできないか、という言語の問題は、議論によって合意を形成したりルールを
定めるという民主主義の手続きの基本的な条件に関わる重大な権利問題になる
のである。とくに、グローバル化とよばれるようになった現代では、地域のロー
カルな問題がストレートにグローバルな経済や政治問題とつながりを持つこと
が多い。先進国や世界銀行のような国際機関が途上国に経済援助でダムを建設
するような場合、ダムの建設現場となる農村の人たちが、世界銀行のエリート
たちと英語で対等に問題を議論したりできる環境にはない。たとえインターネッ
トが使える環境がなんとか確保できても、自分達の主張を多くの人たちに伝達
する言語的な環境はそれだけでは確保できたとはいえない。

「英語帝国主義」とさえいわれるこうした言語の問題は、インターネットがま
すます普及し、多くの少数言語の人々がますますインターネットを利用するよ
うになればなるほど深刻な問題となる。これは全てのひとが英語を学べばよい
という問題ではないからだ。エスペラント語の創始者であるザメンホフが今世
紀始めに述べたように、特定の民族語や国民国家の公用語が国際的な公用語と
なることによって、コミュニケーションで有利となる国や民族と不利となる国
や民族との格差が重大な政治的な支配関係を生み出す恐れがあるからだ。

この点でグローバル化が論じられインターネットによるグローバルなコミュニ
ケーションの環境が整備される一方で、国民国家の枠組のなかではごく当たり
前に成り立っている民主主義を可能にしているコミュニケーションの条件がグ
ローバルな世界では未だに模索の途上にある。これは、グローバル化がますま
す進む中で、コミュニケーションの権利がグローバルな環境のなかで基礎づけ
られるかどうかに関わる大変重要な課題である。同時に、このグローバルなコ
ミュニケーションの権利の確立は、その民主主義の手続きの確立と密接に関わ
るだけでなく、デジタル・デバイドを生み出す根源にある様々な社会的な格差
そのものを打破することなくしては実現することもできない。この意味で、コ
ミュニケーションの権利の問題は、基本的な人権全般を実現するそのほかの諸
課題と密接にかかわる問題なのである。

================================
設問

1 国境を越えたグローバルなコミュニケーションの自由を保障するうえで、各
国政府の役割はどのような意義をもち、またどのような限界があるだろうか。
「グローバルな民主主義」を念頭に考えてみよう。
2 デジタルデバイドの問題は、階級、ジェンダー、エスニシティ、学歴、年齢
などの要因とどのように関わっているか考えてみよう。
3 コンピュータのソフトウェアが商品として販売され著作権が設定されている
ことが、開発途上国や経済的に貧困な階層のコンピュータ利用にとってどのよ
うな影響を与えているか考えてみよう。

キーワード
インターネット
プライバシーの権利
コミュニケーションの権利
デジタル・デバイド
グローバルな民主主義
自己情報コントロール権

参考文献
事典類
北川高嗣他編、『情報学事典』、弘文堂、2002年。
エドワード・ローソン編『人権百科事典』、宮崎繁樹監訳、明石書店、2002年。

会津泉『アジアのネット革命』、岩波書店、2001年。
アメリカ自由人権協会『プライバシーの権利』、青木宏治他監訳、教育史資料
出版会、1994年。
マイケル・ウォルツァー編『グローバルな市民社会に向かって』、石田淳他訳、
小倉利丸編『監視社会とプライバシー』、インパクト出版会、2001年。
小倉利丸編『エシュロン』、七つ森書館、2002年。
マニュエル・カステル『都市・情報・グローバル化』、大澤善信訳、青木書店、
1999年。
木村忠正『デジタルデバイドとは何か』、岩波書店、2001年。
国連開発計画『人間開発報告書』2001年版、2002年。
酒井隆史『自由論』、青土社、2001年。
サスキア・サッセン『グローバリゼーションの時代』、伊豫谷登士翁訳、平凡
社、1999年。
チャールズ・ジェニングズ、ローリー・フィーナ『あなたの情報は盗まれてい
る』、荒木ゆりか訳、翔泳社、2000年。
土屋大洋『情報とグローバル・ガバナンス』、慶応義塾大学出版会、2001年。
D・トレンド編『ラディカル・デモクラシー』、佐藤正志他訳、三嶺書房、
1998年。
水越伸『デジタル・メディア社会』、岩波書店、1999年。
日本経済評論社、2001年。
ローレンス・レッシグ『CODE』、山形浩生訳、翔泳社、2001年。

初出:人権情報 2002年

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