答えのない問いとしての「日本人」

私は、一九五一年に東京都の武蔵野市で生まれた。私の家のすぐ近所に、グリーン・パークと呼ばれる進駐軍のかなりおおきなアパート街があった。金網のフェンス越しに見える敷地には、芝生が敷き詰められていて、外車が走り、近くには進駐軍の消防署とアメリカン・スクールがあった。子供の頃、この消防署に消防車を見に行ったり、スクールバスが「ワンマンカー」で扉が自動開閉するのをみたりすることが一つの楽しみだったし、たまに立川基地や横田基地まで近所の中学生につれられて飛行機を見に行くのが、ぜいたくな遊びのひとつだった。

その一方で、ちょうど小学校の三、四年生ころだったろうか、『少年マガジン』や『少年サンデー』といった男の子向け週刊誌が創刊され、ちぱてつやの戦記ものマンガなどに夢中になっていた。そしてアジアを日本の戦争との関りで初めて意識したのは、テレビの活劇番組「快傑ハリマオ」を通してだったかもしれない。しかし、最初に接したマンガは、父親が残しておいた戦前の『少年倶楽部』などに載っていた「のらくろ」「冒険ダン吉」「タンクタンクロウ」「日の丸旗之介」などの戦争愛国漫画だった。ちなみに、小学生のころ暇潰しに家にある蓄音機でよく聴いていたレコードが、やはり戦前からあった「愛国行進曲」とアメリカ人の歌手が歌っている「ホワイトクリスマス」だった。「ホワイトクリスマス」は多分戦後になって親が買ったものだろうが、私にとっては、物心ついた時期に「愛国行進曲」と「共存」していたのだった。

小学校では、巡回演劇で「ビルマの竪琴」を見せられ、戦争の悲惨さを印象づけられもしたが、同時に海軍帰りだった担任の教師は海軍の自慢をするし、ゼロ戦の飛行機乗りだったという教師も戦闘機の自慢話はしても、殺す/殺されるという戦争の話は聞いたことがなかったし、もちろん戦争をした日本の責任など聞いたことはなかった。そして、戦争への反省はいつも空襲と結びついていて、それは「負けるような戦争をした」ことへの反省にはなっても、戦争そのものを反省したり、天皇への批判は聞いたことがなかった。

ミッチーブームの頃からテレビが普及しはじめる。アメリカから入ってくるテレビドラマは、アメリカのイメージを印象づける重要な働きをしたように思う。ホームドラマの「名犬ラッシー」「うちのパパは世界一」で家族の愛情の形を知り、「ララミー牧場」などの西部劇でインディアンがかっこいい悪者であることを知り、「コンバット」でドイツ軍が敵であることを知った。もちろん「白馬童子」や「丹下左膳」などの時代劇で侍のカッコヨサも知っていた。

たぶん、戦後の団塊の世代の多くの部分が経験してきた日常生活の風景というのは、こうした奇妙なものだったのではなかろうか。今、あらためて、自分の子供時代の経験を列挙してみると明らかにムチャクチャなのである。戦前・戦中の親の世代の価値観や家庭の中に残されていた戦前のさまざまな物を通して入り込む戦前的な価値観と戦後急速に普及し始めたアメリカの生活様式や文化が「共存」している。だが、こうした日常生活のあり様を”ムチャクチャ”と見なすこと自体に問題がある。ここには、暗黙のうちに”本来の日本的なモノ”と”外来的なモノ”という区別がありうるハズだという大前提がある。しかし、実は、戦後の「日本人」はこうした観念をどこかで保ちながら、実際はあの”ムチャクチャ”な日常生活の中でしっかり「日本人」としてのアイデンティティを形成してきたのである。そしてやはり、私は当り前のこととして「日本人」だという自己認識を持ってきた。これは、一体どういうことなのだろうか? こうした自己認識は、進駐軍の宿舎に敷き詰められている青々とした芝生や白い建物が自分とは金網で隔てられているというところから、ある種の自他の区別を実感したということなのかもしれない。もちろん、学校で歴史の時間に、「日本史」を習い、鎖国から開国へむかうなかでの日米間の「不平等条約」に憤慨したり(これは多分に教師が憤慨するせいもあるが)といった正規のイデオロギー装置から注入された部分もあるが、日本がアジアに対して行った侵略については憤慨はしなかった。それは、もちろん教え方の問題もあるのだろうが、それ以前に関心がなかったのである。それは、言い替えれば、アジアについてはどうでもよかったのだ、といえるかもしれない。このことは、私だけでなく、教える立場の教師にとってもそうだったに違いない。関心は、アメリカ合衆国や「先進国」にあったのである。「日本」のなかに見いだせる民族差別、とりわけアジア系の人々への差別は、こうした無視の意識を背景にしているように思う。姜尚中が戦争責任を正面から問おうとしない「日本人」を「歴史のアムネジア(健忘症)に陥っている」(1)と厳しく批判しているのは全く正しい。いや、健忘症ならまだ救いがあるが、わたしにはむしろそれ以上に、そもそも「記憶されていない」のではないかとさえ思える。だから、逆に「日本人」は無視できない存在となろうとし、西欧と対峙したり共存したりしようとしてきたのだともいえる。これは、西欧社会におけるアフリカ系、アジア系の人々への差別がまず第一に外見上の差異に注目するのと同じには扱えない。外見上の差異は無視できないから、逆に差異を差別に「合理化」する理屈がどうしても必要であったとはいえないだろうか。

「日本」が近代の国民国家の体裁をとって成り立ったものである以上、「日本人」もまた近代以降の観念である。この意味で、一九一七年以降に成立し、今では消滅した「ソ連人」や一九世紀半ば以降に成立したドイツ人、イタリア人、アメリカ人などと同じである。ただ、違いがあるとすれば、多くの国民国家は、「国民」意識と「民族」意識との違いに自覚的で、とりわけ、複数の民族を抱えていることに自覚的な国家ほど国民と民族は違うものになる。だから、そうした国家は異なる民族を「国民」として統合する支配の装置を備えているが、「日本」にはそれがない。「日本人」が「日本民族」を意味することを当然のこととしている。これが、当然で通ること自体を問題にしなければならないが、難しいのは、どう問題にするか、である。「日本民族」がいるということを前提として、そのほかに少数民族としての朝鮮人、中国人、アイヌ人、沖縄人などを配するという方法もある。「日本」も多民族国家であるということを自覚するということは絶対に必要なことであるが、そのことが同時に「日本民族」に実体を与えるような方向をとるのであれば、それは、むしろ「多数派民族」を自認する集団による少数派への支配の強化にしかならないだろう。

 「民族」を定義しようとするときに文化的・社会的な諸要因と遺伝学的・形質的な諸要因の様々な組み合せがまず議論になるのが常道のようだ。後者は人種概念につながるものだが、形質人類学や自然人類学などの専門家の議論でも「人種というものを厳密に区別することは、少なくとも今日では不可能に近い」(2)というのが共通の認識のようだ。だから民族の定義には様々な程度で文化的・社会的要因がポイントになる。

マルクス主義の通説によれば民族とは、言語、地域、経済、生活、文化を共有する共同体ということになるが、こうした通説そのものも、最近の議論の中で見直されてきている。例えば、尹健次は、こうしたマルクス主義の定義では「もはや説得力はなく、それはやはり、個別文化を共有し、それへの帰属意識を共有する人びとの集団である、と捉えるほうがまだ実際的であると思われる。」(3)と述べ、「民族」概念よりも「エトノス」概念の方が現代の民族問題をよく捉えられるのではないかと述べている。(4)

実際「エトノス」あるいは「エスニシティ」概念を導入することによって、現代の民族問題に新たな解明の光りをあてようという試みはかなり定着してきているといえる。そして、エスニシティ概念によって、国民国家の枠組が大きく揺るがされたことは事実のようである。とりわけフランス革命二百年を契機に活発に論じられたフランス革命の意義についても、従来のように単純に「自由・平等・博愛」の理念を再評価するというよりはむしろ国家的な統一が言語的・文化的な抑圧を伴うものであったということへの批判と反省が大きくクローズアップされてきた。たとえば、田中克彦は、近代国家のイデオロギーは「フランス革命のナシオン・イデオロギーであった」と指摘している。つまり、「フランスにはただ一つの言語しか存在しておらず(他の言語は言語ではないから)、ただ一つの国民しか存在し得ず、ここに、国家と国民が等号で結ばれるナシオンという政治概念が成立したのである。そこには民族という概念が入り込む余地はなかった」(5)というわけである。もちろん現実のフランスの領土とされた部分にはオック語圏の南フランス、ブルターニュ地方のブルトン語を持つケルト文化など複数の言語や文化が存在しており、フランス革命の当時では、三〇に及ぶ方言があり、人口二六〇〇万人のうち六〇〇万人はフランス語を知らず、きちんと喋れるのは三〇〇万人たらずであったという。(6)ネーションという用語そのものも近代革命に起源を持つすこぶる新しい概念であり(7)、言語的合理性(これは、言語そのものの合理性ではなく、中央政府の命令がきちんと官僚組織によって下部に誤解なく伝達できる言葉のもつ性質のこと)に支えられた普遍的な理念による抑圧というモダニズムの支配様式こそがフランス革命の意義であるということになる。

しかし、国民国家の枠組は、民族は国家を形成すべきものであるというもうひとつの理念を伴っており、それは、二〇世紀になって、民族解放闘争=植民地独立=国民国家形成という大きな流れを現実に生みだし、それが帝国主義の植民地支配に対して一定の成果をおさめたということは認めなければならないが、このことはしかし、一民族=一国家の理念としての国民国家の形成を意味しなかったし、資本主義世界システムとしての民族問題を解決するものでもなかった。(8)むしろ民族問題は、政治的国家との関係でより複雑になった。七〇年代になってエスニシティという新たな概念に注目が集まってきたのは、民族を国家形成の主体として捉えるのではなく、別の視座から民族の社会的政治的な権利主張と差別からの解放を求めようとする動きと無関係ではないように思う。

だから、エスニシティという新しい概念も、それが従来言われてきた「民族」という概念とどのように基本的に違うのかは、右に言った国民国家形成との関わりについての理解を別にすれば、定義的にははっきりしない。李光一は、エスニシティについての諸説を整理しながら、その定義については「アイデンティティ、文化、信念などに関する表出的問題を解決するために形成される」とする説から「政治的・経済的資源へのアクセスといった手段的問題を解決するために形成される」とする説まで大きな幅があると指摘している。(9)彼が紹介している諸説のなかで、私が注目した論点が二つある。一つは、エスニックな結びつきの自覚は、工業化や近代化にともなって発生した疎外状況に関わっており、「職業、法的権利、市民権といった”手段の認定”ではなく、より永続的な”共同体的帰属認定″を希求する」という説。もう一つは、A・G・フランクらの従属理論を下敷として、工業化は国内に不均等な発展をもたらし、「経済的に富む〈中核〉文化集団(ないし地域)と、経済的に立ち遅れたく周辺〉文化集団(ないし地域)が形成される」という内部植民地説である。この説では、経済的・文化的な格差の増大がエスニシティの存続や強化の要因であると捉えられることになる。つまり、支配的民族と被支配的民族を”民族″として同じ様に扱うことはできないのであって、支配的民族の民族的な文化や歴史は、”支配的″ということと不可分だということである。この視点は重要である。こうした考え方を季は整理分類しつつも、表出的役割と手段的役割は「相補的な関係」にあるのが現実のエスニシティのあり方であると指摘している。実際、尹がエトノスとして指摘している事態も「歴史的カテゴリーであるとともに、その内実も経済的・政治的諸関係あるいは彼我の力学関係によっていつでも変りうる流動的なもの」であり、「イズムや制度の産物ではなく、むしろ、逆に国家は民族(エトノス)の営みのうち、権力に都合のよい部分だけを取り上げることによって、「国民国家」を基礎づける「国民」を作り上げて詮越」という指摘をしており、両者のアプローチは対照的であるが、エスニシティの現状に対しては共通した理解になっているように思われる。

ところで、民族やエスニシティについての議論は、往々にして議論の対象を少数民族に限定することを当然のこととしている。それは、差別やエスニック・コンフリクトなどと呼ばれる現実のなかでは当然のことだが、逆に支配的民族なるものの「支配的」でかつ「民族」といいうる根拠については与件とされがちである。一番簡単な議論の方法は、少数民族にエスニック・アイデンティティがあるのだから、支配的(多数派)民族にも同様のエスニック・アイデンティティがあるはずであり、あって当然である、という議論である。形式論理としては、成り立つが、もしこれに、民族(エスニシティ)間の平等という条件を前提としても、多数派の「民族(エスニシティ)的アイデンティティ」は成り立つか? というもう一つの問いを重ねたとき、答えは簡単ではないと思うのである。なぜなら、「日本人」というアイデンティティは、この「民族」なるものがこの列島で、近代に持ち続けてきたその支配的な位置と、この支配的な位置を正当化する価値観と不可分なものとして形成され、またそうしたものとしてその歴史や神話が創作されてきたからだ。近代化の過程で発生した伝統的共同体とのあつれきや疎外された状態を支配的な「民族」としての神話や共同性に結びつけることで乗りきり、また、自らを経済的・文化的な〈中核〉に位置づけられるものとして、まさにその限りにおいて「民族」的アイデンティティを形成してきた。それが「日本人」の「実体」なのである。戦後の日常生活が”ムチャクチャ”な様にみえながら実ははっきりと「日本人」という支配的民族のアイデンティティを再生産しつづけられてきたのは、戦後的な豊かさ=アメリカニズムの様式を民族の神話に加えることによって果された(この点は本号[『インパクション』67号1990年所収]の座談会での尹健次の発言参照)。これは、アジアへの優位を含意するものでもあった。したがって、「日本人」としてのアイデンティティを前提として、なおかつ平等な民族間の関係を形成できると考えるのは甘いのではないか、と思うのである。(11)もし、このように、考えることができるとしたら、「日本民族」と天皇の名において遂行された侵略戦争や戦後の経済侵略を「日本人」として捉え返すということはどのようなことなのか。それは、すくなくとも、「支配的民族」という観念への批判と「日本人」のアイデンティティの擬制の暴露を伴わねばならないのではないか。もし、「日本人」という観念がこうした支配の要素を不可欠とする擬制であるならば、それは将来にわたって保障されるべき筋合いのものではないはずだ。

ベネディクト・アンダーソンが国民概念に関して「想像の共同体」と呼び、私も「日本人」はそうしたものでしかない、と何度か述べてきた。今井公雄や尹健次も新日文の座談会で「日本人」の虚構性と天皇性について指摘しているし、ハルトゥニァンも「日本がひとつの〈社会的想像体〉」であり、「国民的主体の占める位置を『想像の所産としての日本人』と呼ぶ」と言うところから大平政権以降活発になりつつある日本文化論を批判し(13)T・フジタニも明治初期の「日本人」としての国家意識形成と天皇との関わりを指摘する(14)など、少なくとも「日本人」というアイデンティティが支配的な民族としての位置と不可分であるという認識は様々に議論されてきている。それは、エッセイの冒頭で語った非常に個人的な風景とむすびついて、むしろごく自然な方向であるようにも思える。そしてまた、エスニシティそのものが可変的で文化的なものであるとするならば、「日本人」が「日本人」という同一性認識にとらわれずに別の形での文化的・価値的な差異化によって「日本人」とは別の生き方を作り出すことがあってもよいはずである。(15)それは、けっして「日本」と「日本人」の過去を忘却することではないし、過去や伝統を未来に投影し、未来を不変の「日本(人)」の未来とみなすことをやめるということにほかならない。


(1)姜尚中「歴史との戦いは終ったか——一五年戦争と『日本人の物語』」『世界』九二年三月号
(2) 尾本恵市「人種をめぐって」岡正雄・江上波夫・井上幸治編『民族とは何か』民族の世界史第一巻、山川出版社所収
(3)尹健次『「在日』を生きるとは——『不遇の意識』から発する普遍性」『思想』九二年一月号
(4) 逆に田中克彦のように現代のとりわけ旧ソ連圏での民族問題を念頭におきながら、「スターリン『マルクス主義と民族問題』(一九一三)は『歴史に残る業績』である」と考え、ロシア革命やレーニンのなかにある少数民族の消滅を進歩とみる考え方を批判する考え方もある。田中克彦、梁石日、尹健次、今井公雄、針生一郎、石堂清倫、『国家を超えて』御茶の水書房参照。
(5) 田中、前掲書。
(6)二宮宏之「ソシアビリテの歴史学と民族」(川田順造・福井勝義編『民族とは何か』岩波書店所収)参照。
(7) ネイション、スティトなどの概念の違いについては、福田歓一「擬制としての国民国家——民族問題の政治的文脈」(前掲、川田・福井編『民族とは何か』所収)参照。
(8)ここではくわしく扱えないが、世界システム論と民族問題の関わりについては、I・ウォーラステイン『史的システムとしての資本主義』、星野智「世界システムとナショナリズム
——世界システム論が提起しているもの」『情況』一九九二年一/二月号を参照のこと。
(9) 李光一「エスニシティと現代社会」『思想』一九八五年四月号。
(10) 尹、前掲論文。
(11) この点で、天皇制なき「日本人」を想定できるとする田中の主張には賛成できない(田中、前掲書参照)。また、花崎皋平は尹健次の問題提起をふまえて「日本人のゆえに負わなければならない、取りかえしのつかないこと、それをどう取りかえすか」というところに「日本人としての〈民族的自覚〉の原点が置かれるべきだ」(『世界』八六年一月号)と述べているが、それが将来にむけての「日本人」の形成を意味している点で私は賛成し難い。尹健次も『異質との共存』(岩波書店)をはじめとして日本人の民族的自覚の欠如の問題性を指摘しているが、この点でも私とは若干見解を異にする。
(12) 前掲『国境を超えて』御茶の水書房参照。
(13) H・D・ハルトゥニアン「ポスト・モダンの暗示」テッオ・ナジタ・前田愛・神島二郎編『日本の精神史——その再検討』岩波書店所収。
(14) T・フジタニ「近代国家における国家的イベントの誕生——一八八九〜一九一二の東京」『夜想』一四号、一九八五年。
(15)たとえば、浅見克彦は諾個人が自らの中にあるマイノリティ性を生き方の中心に据えることを提起し、それを「シャドー・マイノリティ」と呼んでいる。浅見「シャドー・マイノリティ——マイノリティ論の拡張」「差別とたたかう文化」第二期二号、差別と闘う文化会議、一九九一年。

出典:インパクション67号1990年