「いかなる政治性も排除せよ』アトピックサイト展──東京都、電通の検閲への対処を間違ったキュレーターの残した問題は重大だ

現実への介入を試みるラディカルな展覧会

「アトピック・サイト」「オン・キャンプ/オフ・ベース」展が[一九九六年]八月に東京都のビッサイトを会場に開催された。この展覧会の事実上の主催者である東京都と代理店の電通等は、展覧会の企画段階から繰り返し展覧会のコンセプトや個々の作品の内容にたちいったクレームを繰り返してきた。

アトピック・サイト展では、ピーター・フェンド、ムルヨノ、シュー・リー・チェン、スザンヌ・レーシーなど海外の作家たちが招待されたが、なかでも合衆国の中国系アメリカ人の女性アーティスト、シュー・リー・チェンは五月から沖縄に長期滞在して、米軍基地問題や強姦問題を主要なテーマとした作品を現地の人たちと制作し、このアーティスト・イン・レジデンスの成果を東京の会場に持ち込む企画を試みた。

このシュー・リーをはじめ当初沖縄で作品を制作することが予定されていた複数の海外の作家達に対して提示されたこの展覧会の企画趣旨「沖縄でのアーティスト・イン・レジデンスヘの招待」では、日本の植民地支配から沖縄戦、そして戦後の米国統治と米軍基地問題を概観した上で、「今回、太田沖縄県知事が米軍基地使用の契約継続を拒否したことは、沖縄の住民にとって長い〈植民地的〉な統治のなかで、失われかかっていた主体性の回復が出来るかもしれないという大きな期待があります」と述べ、キュレーターサイドからも沖縄の米軍基地に反対する基本的なスタンスが提示されていた。その上で、アーティストたちには、作品のモチーフとなる沖縄の場所(site)の例として、普天間基地、読谷村の「象のオリ」、かつて米軍司令部が置かれていた玉城村の三つを挙げて、「あなたが関わるとして、上記の三カ所のなかで興味あるサイトについてどのような提案ができるでしょうか。プランを出してください」と作品制作について提案を行っている。

シュー・リーは、こうした提案をふまえて、読谷村の通称象のオリと呼ばれる楚辺通信所を作品のテーマの中心に据えた。そして、少女強姦事件に限らず、戦後の沖縄米軍にかかわる犯罪、事件を一○○○件選び出し、これらの事件の起きた場所にモニュメントを設置するという作品を計画した。

ここで重要なのは、今回のアートとしての作品の提示は、単に現に沖縄で起きている政治的なトピックスを作品の素材として利用するということではなく、むしろ逆に、アートという方法を用いて、現実に解決を迫られている沖縄の問題に対して、より積極的に関わり、問題解決に寄与することを意図していたという点だ。これは、シュー・リーに限らずむしろキュレーター側が当初から意図した展覧会のモチーフに沿うものだった。

アトピック・サイト展の企画書のなかで、キュレーターのひとり岡崎乾二郎は、次のように展覧会の趣旨を述べていた。 

「選ばれたアーティストは、彼ら自身の活動の場所を構成する現実的な要素をこの展覧会に持ち込むことになる。(略)また、その活動を支える他のメンバー、アーティスト、科学者、技術者、哲学者、市民や教師などの協力者の活動(作品)も、もちろん同時に持ち込まれることになる」
「展示される作品が会期後現実の場所に戻され、実際に機能するということである。つまりここで提示されるのは、パッケージされ、その場限りで消費されてしまうような一過性の情報ではない。もうひとつは、情報によってのみ知ることができた遠隔地の特殊な状況や問題が会場に持ち込まれるため、顧客[観客]はその問題に直接関わり、問題を共有することになる。そして、課題解決の途上にあるプロジェクトの過程が触媒となり、自分の問題に存在する現実の問題とリアルに直面する契機を得ることになるであろう。すなわちこの展覧会は、単に情報を提供するだけの既成の美術展とも、いわゆるパブリック・アートとも決定的に違い、芸術という枠組みを跳びこえ、深く現実に関わっていくものである」
「この展覧会は、さまざまな場所が直面している緊急の課題ないし、その解決を試みるプロジェクトを運び込む。いいかえれば、その固有な場所が一時的にこの会場に移送され、この別の場所で、プロジェクトは、もともとあった固有な場所に戻され、まさに具体的な効力l場所を生成させる力 lを発揮することが期待されている」

ここには、従来の展覧会にはみられない幾つものラディカルな反展覧会とでもいうべき意欲がみなぎっている。展覧会の空間をその外部にある現実の空間とシームレスに結びつけ、現実がかかえる問題とこの問題に関わるアーティストの活動をそのまま会場に持ち込むということ、これによって、聖別された空間と信じられてきた展覧会という空間を解体する←}とが企図されているとみることができる。

さらに、この展覧会では招待された特権的なアーティストももはや存在しない。そこにあるのは、招待されたアーティストが作品を制作し続けた現場で、さまざまな協力者とともに作り上げるその活動そのものが「作品」とされ、従って、この作品の制作主体は、ある特定の固有名をもった招待作家ではなく、作品に関わった有名・無名の全ての人達だということである。こうして、選定される作家とその固有名による特権を解体しようと企図したものと言える。

そして最後に、この展覧会は、限定された時間の制約を突破することを試みている。展覧会はそれがいかにすばらしい企画であったとしても、永遠にその空間を維持することはできない。会期が終了すれば作品は撤去され、空間の意味は消し去られ次の企画のためにその場所をゆずることになる。しかし、この展覧会では、会期中に継続される展示と制作の行為が、会期後再びその本来の場所にもどされて、いわば生き続けることを企図されている。たとえば、沖縄にかんするアーティストへの提案文書でも、「次の点に留意してください」としてつぎのように書かれている。

 「通常の展覧会で行われるような個別に完結したアーチストの作品を展示するのではなく、実際に動いている活動(現実に対しても機能し効力を発揮するような)を展示することになります。したがって、会期中も会場において、発展、成長し、会期終了後は、現地に戻されて具体的な効力を発揮するような展示制作プランを考えてください」

こうした展覧会のコンセプトには岡崎なりのさまざまな問題意識があると思われるが、現実に対して区切られ聖別された空間を拒否する現代美術の流れは、決してめずらしいものではない。シチュァシオニストがアートを統合的な都市計画や心理地理学などの空間の変革と結びつけたことはよく知られているし、都市空間を利用するメディア・アーティストは八○年代の主として合衆国の現代美術の特徴となった。とはいえ今回のようにアートの側から積極的に、特定地域やコミュニティの現実に関与し、現実を変えようとすることを計画的に試みるという方法は、もっと最近になってからみられるようになったのでばないだろうか。多分岡崎のコンセプトに最も近いものを見出すとすれば、それはこの展覧会にも出品しているスザンヌ・レーシーが提起した「ニュー・ジャンル・パブリック・アート」だろう。彼女は八○年代の末頃から、コミュニティに住み込んで、そこの活動家の人達とコミユニティが抱える現実の問題をアーティストの手法を用いて解決することを試みていた。こうしたプロジェクトでは、よそ者のアーティストとコミュニティの人びとをつなぐ組織者とでもいうべき役割をコミュニティに定住しているキュレーターが担う。そして、アーティストが去った後も、キュレーターはこのプロジェクトで組織された「運動」を継続してゆく。アーティストはコミュニティを去るが、しかしまた別のコミュニティでの制作活動を通じて彼/彼女の今まで過ごしたコミュニティとの関わりが持ち込まれることになる。レーシーは、こうしたプロジェクトを準備するために入念な準備期間を設ける。しかも、場合によっては支配的なイデオロギーと対立する立場をとりながら、コミュニティのなかのアクティビストたちと運動としてのアート、アートとしての運動を展開できるような自由を確保し、しかもそのために利用できる資金を準備しなければならない。さまざまな問題があるとはいえ、合衆国では、NEA(全米芸術寄金)のようにマイノリティのアートへの支援のための財政的な支援がある。NEAもつねに政府や議会の検閲の脅威にさらされているが、アーティストたちの制度との闘い、検閲との闘いをつうじてなんとか維持されてきている。レーシーのニュー.ジャンル・パブリック・アートもこうした制度的枠組みがあって可能なことだともいえる。しかも、レーシーの場合、こうしたプロジェクトをコミュニティにおけるある種の教育的な効果と結びつけることでそのコミュニティ内部の正当性を得やすいようなコンセプトになっている。

アトピック・サイト展は、コンセプトこそこうしたニュー・ジャンル・パブリック・アートに近いが、しかしいかんせん日本にはそれを支える制度的な枠組みもなければ、検閲と闘うアーティストの運動も強力とはいえず、社会的政治的な主題をアートに持ち込むということにすら行政側にもアーティスト側にも合意ができていなかった。

崩壊したコンセプト

この展覧会がもしここに書いてあるコンセプト通りに実現されたとすれば、あるいはそのために最大限の努力がなされたとすれば、たぶん日本の現代美術の画期をなしたものとして大きな意義をもったであろうことは間違いない。しかし、残念ながら、それは実現できなかった。いや、正確に言えば、キュレーターたちの手によっては実現されなかった。 なぜ挫折したのかについての詳細は当事者が語り出さない限りわからない。しかし入手できているテキストから推測できることもいくつかある。岡崎の上記のコンセプトを、展覧会の少し前に出された「広報資料」と読み比べるとその挫折の帰結がよくわかる。広報資料では展覧会のコンセプトは次のように説明されている。

「選ばれたアーティストたちは、彼ら自身の活動の場を構成する現実的な要素をこの展覧会に持ち込むことが期待される。(略)その活動を支える科学者、技術者、哲学者、市民や教師などの協力者の輪もそのままここに、運び込まれることになる」 
「展示される作品は会期後、もともとの、それぞれ固有の場所に戻され、現実的な機能を果たすことが期待されている。つまり、ここに展示されるのは、パッケージされ、その場限りで消費されてしまうような一過性の情報ではない。こうやってアーティストたちによって、持ち込まれた具体的な課題に、観客たちは直接関わり、問題を共有することで、観客自身の目の前に存在する現実の課題に直面し、取り組むきっかけを与えられることにもなる」
「この展覧会が生み出す活動とその効果は、展覧会という通常の限定された場、時間を超えて、同時多発的に世界中さまざまな場所をむすびつけ、飛び火していくというわけである。それぞれの場所が持つ固有の課題、モチーフは、その特定の地域に固定されているわけではない。わたしたちは、それを共有することも、交換することもでき、そうすることで、わたしたちはそれぞれの場所がもつ可能性の活力を、網の目のように世界中に広げていくこともできるのである」

当初の企画では、招待作家以外の他のメンバーの活動を「作品」と位置づけて、それらをも持ち込むとされていたのが、広報資料では、他のメンバーのなかから、アーティストが削除され、活動(作品)の持ち込みも削除されて「協力者の輪」という非常に抽象的であいまいな表現に変更されている。この変更は、招待作家と他の人達の関係にも変更をもたらすことになる。当初の企画書では、コラボレーションといってよい関係が想定されていった。ところが、広報資料の段階では、招待作家とその協力者という主従関係に変更され、作品はあくまで招待作家のみに限定されることになる。作家の固有名がここで再び復活してしまうことになる。

さらに、企画書にあった「この展覧会は、単に情報を提供するだけの既成の美術展とも、いわゆるパブリック・アートとも決定的に違い、芸術という枠組みを跳びこえ、深く現実に関わっていくものである」というコンセプトが、広報資料段階では完全に削除されている。そして八月二五日に行われた記者会見で柏木博は、今回の展覧会が「パブリック・アート」展だと強調し、「芸術という枠組みを跳びこえ、深く現実に関わっていく」という基本的なコンセプトをみずから放棄してしまった。パブリック・アートを超えようとして、パブリック・アートにすらならなかった、というのが今回の展覧会の帰結である。

したがって、「この展覧会は、さまざまな場所が直面している緊急の課題ないし、その解決を試みるプロジェクトを運び込む」という明確なコンセプトが広報資料では消えているのも不思議ではない。企画書段階にあった現実の問題の解決へと向かおうとする意図が、広報資料では暖昧になり、せいぜいのところで問題意識の「共有」といった点に絞られてしまっている。

東京湾であれば水質汚染、ニューヨークであれば人種問題、サラエボであれば内戦、というように今回のアトピック・サイトの各作品のコンセプトはたしかに「緊急の課題」をとりあげてはいる。ここには、このコンセプトのある種の残滓が見いだせるのだが、残念ながらその作品の提示の方法や現実との関わり方という点では、当初の企画書ではなく広報資料の水準のものにしかなっていないといっていい。しかしながらそのなかで、作品を企画書段階のような形で実現させようと唯一試みた作品があった。それが沖縄の作品だったのだ。しかし、それも結局挫折させられたのだが、それは単に沖縄の企画が挫折したということではない。そもそもこの企画のコンセプトが変化してしまい、その変化にむしろ沖縄側が同調を強いられた結果だったのではないか。東京の会場に展示された沖縄の作品——それは、シューリーの作品と、途中から彼女と挟を分かつことになった他の沖縄現地のアーティストたちによる沖縄プロジェクトの作品の両方である——は、その外観だけみれば広報資料の線とさほど違わないようにみえる。しかし、五月から六月段階に沖縄現地が必死になって努力していたこと、そして、東京の会場でオープニング後もシュー・リーが孤軍奮闘してなんとか作品を固定されたものではない、「運動」として提示しようと努力してきたこと、沖縄プロジェクト側も度重なる検閲にたいして何とか原状回復への努力を試みてきたことを知るものにとっては、沖縄の作品だけが唯一当初の企画の意図を貫徹しようとしたものということができる。しかしそれが挫折したのはかれらアーティストの責任というよりもむしろ、最後まで干渉し続けた東京都や電通、そしてこうした主催者側の干渉を阻止できず当初の企画を徐々に修正しつつ、結果的にコンセプトの本質的な部分を放棄したキュレーター会議の責任なのだ。

検閲と自主規制のコンテクスト

東京都は、四月段階から再三企画の中止などを要求したり、いったん決定した予算をなかなか執行しないなどの嫌がらせをしてきた。とくに東京都は、沖縄のアーティスト・イン.レジデンスにおいて基地に反対するという趣旨が作品に表現されることを極端に嫌った。シュー・リーは、沖縄到着後、読谷村に住み込み、知花昌一が最初に「象のオリ」に入った際にも同行し、彼女の基地反対のスタンスははっきりしたものだった。そして、沖縄現地では、このプロジェクトの状況を伝えるために『エレファント通信』が出され、反基地運動とシュー・リーの関わりについては周知のところだった。

しかし、どうもキュレーターサイドは、こうした沖縄でのプロジェクトのコンセプトを正確に東京都には伝えていなかったようだ。あるいは、間にたっていた電通が意図的に東京都に伝えていなかったのかもしれない。シュー・リーに限らず、今回の展覧会の出品作家のなかには社会問題や政治的な問題をモチーフとして作品を制作する作家たちが多く招待されている。従って、作品のモチーフが社会性、政治性を帯びることは当然のことであるといえたのに、である。

この点について、チーフ・キュレーターの柏木博は、八月二五日に行われた記者会見などで、「展覧会はプロパガンダ・アートを目指したものではない。しかし、あらゆるアートは政治的であるという意味では、作品から政治性を排除することは考えていない」と語っていた。しかし、政治性を排除することはできないこと、あるいは沖縄での作品が基地に反対するというコンセプトで展開されることを東京都側にはっきりと提示していなかった。柏木は、「行政にたいしては[政治的な作品であるということで了解をとるのは]無理なことだ」と最初から断念しており、従って東京都にたいしては、作家に説明していたのと同様の企画意図をはっきりと提示しなおかつ了解を得ていたのか、疑問が残るのである。

すでに沖縄での活動が開始されているさなか、東京都とキュレーター会議との間で展覧会の基本的なコンセプトで行き違いがあることが発覚する。電通プロジェクト開発局長、清水勝男がキュレーター会議側のチーフである柏木博に宛てて出した五月三○日づけの書面には次のように書かれている。

 「一九九六年五月三○日ギャラリーキューレーター会議柏木博先生
 株式会社 電通プロジェクト開発局長 清水勝男
TOKYOシーサィドフェスタ%ギャラリー事業におきましては、いつもお世話様でございます。
 早速ではございますが、五月三○日一○:三○より東京都庁におきまして今沢本部長を始めとする都の方々と弊社の間で会議がございまして、都のギャラリー事業に対するご要望を伺ってまいりましたので、ご報告かたがたお願いをいくつか申し上げます。以下箇条書きにて列記いたします。
(1)都の方々がキュレーター会議に二回同席して、都—電通・博報堂—キュレーター会議の意志統一をもっと図らなければならないと感じたこと。
(2) その例として、特に沖縄におけるプロジェクトの問題が出され、沖縄県の後援許可文書について電通・博報堂及び都が熟知していなかった点のご指摘がありました。
(3) その点について我々は、キュレーター会議において三位一体で意志統一をし、コミュニケーションギャップのなきよう取り計らうとともに、議事録で再確認することを確約いたしました。
(4) それから各プロジェクトについていくつかの不安がだされました。ひとつには沖縄のプロジェクトが「いかなる政治性もはらんでいない」という点についての確認と、「アジア全体を捉えたプロジェクトである」という点についての確認でした。
(5) 都が主催する事業である以上全てのプロジェクトの「政治性の排除」は必然であるとのご指摘を受けました。そして「作品解説」「ガイドブック」に関して文言上における政治性も確実に排除してほしいとのご指示も受けました。さらに沖縄にテーマを絞り込んだ作品ではなくアジア全体を視野に入れたプロジェクトにしてほしいとのご指示も受けました。
(6) この点に関しては我々はキュレーター会議の総意としてその点はご心配ありませんと確約いたしました。
(略)
 そして我々が都に対して確約した内容をご勘案いただき、今後ともギャラリーの成功へ向けてご尽力いただけますよう重ねてお願い申し上げます。我々事務局一同もそのためにさらなる努力を重ねることを申し添えておきます。(略)」

この書面が出される数日前に、キュレーター会議は東京都に対して、沖縄プロジェクトの予算問題などのトラブルについて問いあわせており、この書面はそれに対する回答である。最後の方に、「我々が都に対して確約した内容をご勘案いただき」という文言があることから、電通と都との確約はあらかじめキュレーター会議の了承を得たものではなかったようだ。この点は、記者会見でも岡崎が電通側の独断専行であると釈明しているが、しかし、問題はキュレーターたちが、この清水の書面にある要求を撤回させられなかったというところにある。

第一に、沖縄プロジェクトと関係者たちが呼ぶ企画は、展覧会のプロラムには登場しない。入場者に配布されるリーフレットには「アジアのプロジェクト」とタイトルがつけられ、その解説文には、沖縄の基地問題について一言も言及がない。しかも、そこにはシュー・リーの名前しか見いだせず、シュー.リー以外の沖縄の作家たちの作品の解説は全くないのである(会期終了直前に、やっとゼロックスコピーによる簡単な解説が追加された)。つまり、オーディエンスにとっては「沖縄プロジェクト」は存在しないのであり、上記の第四点は東京都の意向通りに修正されてしまっているのだ。

第二に、この東京都側の意向を無視できなかったキュレーターサイドは、この清水の書面を沖縄に送り、主催者をなんとか説得する算段が必要があるとコンセプトの再検討を打診している。もし、東京都の言い分を押し返せていたのであれば、沖縄側にあえて混乱を持ち込むようなこうした書面を送る必要はなかったはずだ。

第三に、東京都と代理店は、この後も繰り返し作品の政治性の脱色に執着する。つまり、東京都と電通は、この書面の路線を事実上貫徹しようと最後まであきらめていないのだ。オープニングの前日、マスコミへの公開を目前にしたキュレーターと電通の会議で、電通側は沖縄現地の作家たちによる沖縄プロジェクトの作品について、次のように発言している。

 「今の我々の立場としては、あれは我々としては最終承認の作品ではないと言う見解になりますので、とりあえず今日のプレス・プレビューの段階では仮囲いをさせていただいて、調整中というコメントを出したいと思います」

これは、沖縄プロジェクトの作品では、オーディエンスが 基地問題についての図書や資料を自由に読むことができるよ うにテーブルと椅子を用意した部分を問題にしてのことだ。 電通は、「スクリーンだけに変更して、というのがわれわれ の結論」だと述べ、柏木も作品が混乱していると指摘して、「僕の昨日うけた印象ではもうちょっと整理して表現すべきだろう。ごちゃごちゃしたところを取り去って、言うべき所をきちっと言った方がいいだろうということで、僕は映像とか写真を見せるべきだと思ったんです。これは意見です。こうせよ、ということではありません。」と述べている。つまり、資料はいらない、というわけだ。ここで注意しておきたいのは、必ずしも東京都、電通側の言い分とチーフ・キュレーターの柏木の言い分は同じではないということだ。しかし、このオープニング直前になって、作品に「仮囲い」をさせようという東京都、電通側にとっては、言い分の違いなどどうでもよいのであって、結果として「仮囲い」ができれば それで目的は達成されるのである。だからキュレーター側は断固として仮囲いは不要だと主張すべきであった。ところがそうした断固たる主張はこの会議ではない。

電通側の作戦は、マスコミから沖縄の作品を隠すことにあったことは明らかだ。ところが、理由はどうあれ、結局キュレーター側は、仮囲いを「緊急避難」であるとか、もし東京都の意向にそむけば展覧会自体が中止になると畏れたのか、この要求をのんでしまう。私は、こうした妥協の背景にあるのはキュレーターたちもまた東京都とともに作品の「政治性」がァ‐トの伝統的なコンテクストから逸脱している——それを目指していたにも関わらず——ことを具体的な作品として見せつけられたとき、戸惑いを隠すことができなかったからなのではないかと思わざるをえない。

作品が未完成であるという場合でも、仮囲いなどするなどというのは異例のことだ。事実岡崎は「調整中のものを見せる場合もありますよね。制作中のものをみせる場合もありますよね。」と言うのだが、電通側は「最終作品となっていないのでそれは見せられません」「我々にも意志がありますから、それを四時以降に議論したい」と突っぱねてしまう。しかも、チーフ・キュレーターの柏木は、この会議で何度となくキュレーターの自分には「強制力はないです。強制力を持つのは東京都側だと思うんですね」と意志決定の権限がないことを強調し、東京都、電通側の意向が強制力のあるものだと認めてしまうのだ。

しかし、作家を選定し、展覧会のコンセプトを提示したのは東京都でも電通でもなくキュレーターであり、現場の作家にとってキュレーターの権限は極めて大きい。キュレーターがだめだといえば作家も従わざるを得ないが、単なるスポンサーや代理店が作品のコンセプトに関わってクレームをつける場合には簡単には同意はしない。シュー・リーも電通に対して「キュレーターの指示ならば従う」あるいは「キュレーター同席で議論するのでなければコンセプトに関わることを話したくない」と語っているのだ。

このシュー・リーの発言は、本人に対しても直接電通が行ってた干渉、クレームに対してシュー・リーが語った言葉である。シュー・リーはオープニング当日とその翌日にも電通側から執拘な作品の変更などを要求きれている。たとえば、八月二日には、シュー・リーの作品制作の協力者として作品に名前を挙げられていた高里鈴代の肩書きが「基地を許さない女たちの会」となっていることについて、電通の内藤は次のようにその一肩書きの削除を迫っている(女性とあるのは、シュー・リーの協力者側の人)。やや長くなるがそのやりとりは次のようなものだ。

内藤「高里さんの名前については、広報の資料でも協力者でのせてもらっているのですが、その資料では「アジアの女たちの会」という名前で、この名前ではない。あと沖縄のシンポジウムのときもこの名前だった。われわれのスペシャルサンクスを出すときは、組織名ではなくて、個人名で出したい。(略)これは基地、軍隊を許さない女たちの会ということになると、これは基地に反対だということですよね」
女性「そうです」
内藤「ということになると、毎回言っているように東京都は基地に賛成でも反対でもないんですよ。」
女性「あくまで協力者で、データを出しているだけであって…」
内藤「だから、個人の名前を出したいのです。(略)、基地に 賛成も反対も出さないで、個人的に作品に協力したということで出したい。」
シュー・リー「これは高里さんのグループで、グループとして協力してくれた」
内藤「それはもう、事実としてはあるんですがね、だから前々から言っているように(略)基地については賛成でもないし、反対でもないという常にニュートラルな立場だと言う
ことで、今回のプロジェクトにOKが出たんで、これだと反対だと。反対している人たちがたまたまアートのために協力しているのだけれども反対する会の人たちが後ろについているという誤解を生じるので、基本的にはその会の人たちの個人名にしたい。」
シュー・リー「実際に個人ではなく、グループの人たちに協力してもらって、読谷サイトでは子供たちも含めてグループとして協力してもらっている。実際協力してもらったのは会の人たちだ。高里さんは市議会議員で、彼女とは毎日議論して、この名前を取らなければならないと言うことであれば、彼女と話をしなければならない。彼女の理解なしには勝手にとることはできない。」
内藤「話としてはわかるんですが、今回のプロジェクトは、シュー・リーさんには理解していただいていると思うのですが、基地に反対するというアート作品ではないとキュレータ‐も含めて主催者も理解しているので——反対でも、賛成でもない、直接的な言い方をすればね。特に東京都が主催する場合にはニュートラルな立場にたたなければならないということで神経質になっている部分があるのだけれども、そのなかで、こういった名前がでると基地反対だと取られてしまうので、このグループがどうだということではなくて、出方の問題。高里さんのグループの名前がアジアの女たちの会であれば、それがいったいなにかわからないのでいいんですが、これだと基地反対ということがあきらかにアクションとしての政治的な部分が出るのでこの名前は出せない。東京都が基地に賛成だからだせないのではなく、賛成でも反対でもないから出せないのだ。」
シュー・リー「(略)手伝ってくれた人たちの名前については合意できない」
女性「資料を提供しているのは、個人ではなくて会なんですよね。」
内藤「それはそうなんですが、ここでのとられ方の問題なんですよ。いつもニュートラルな立場でいたい。勘違いされたくないということなんですよ。それも、東京都や主催者ではなくて、議員や支援の団体の人たちが勘違いする可能性があるから、そういった名前が出るとそれだけで言われちゃうので、そこのところを何とかしたい。」
シュー・リー「今日夜電話して高里ざんが了解すればよい。こっちはいいです。読谷サイトについては、グループサポートなので、とることはできない。非常に大事なところで会として協力してくれたので。」

このシュー・リーと電通のやりとりにこの展覧会が結果としてたどりついた無惨な姿が余すところなく示されている。いうまでもなく、代理店のいうニュートラルはニュートラルではなく現状維持を支持している言説である。沖縄の基地についてなにも語らないということは、あるいはそれにたいして明確に反対をいわないということは消極的な場合も含めて基地の存在を是認する立場を有利にすることは誰でも判ることだ。

最終的には、この電通側の要求は通らなかったのだが、しかし、それをもって検閲はなかったとはいえまい。むしろアーティストが拒否したから結果として検閲は実現しなかっただけである。私たちがはっきり確認すべきなのは、電通や東京都が自らの要求をひっこめたのは、それが誤りだと認めたからではない、ということだ。アーティストの意志が固いために仕方なく「妥協」したにすぎない.私たちはこのことを忘れてはならない。そして問題にすべきなのは、東京都や電通のこうした発想と干渉の行為を断固として認めるべきではなく、二度とこうした干渉はさせてはならないということ、彼らが行ったことはあきらかに誤った行為だということをはっきりと彼らに認めさせることなのである。

なにをなすべきか

戦後の日本の表現の現場で繰り返し行われてきた検閲の多くは、公権力が「発禁」などというハンコを押したり、教科書のように指導に従わなければ検定を通さないという明瞭な過程ではない。むしろ公権力と表現の主体や関係者、関係団体等との間のネゴシエーションやコミュニケーションの繰り返しのなかで、妥協と合意を形成することを通じて貫徹されるのだ。当事者が同意しているのだから検閲ではない、ということはできない。同意という外観をともなう事実上の強制だからだ。

今回の展覧会では確かに東京都や電通の要求の九割は認められなかったかもしれない。それならば、それでよいのだろうか。アーティストの荒井信一が私に語ったことだが、個々の作家からすれば、全体として九割が認められたなどというようなことは無意味なことであって、一つであれ検閲が通ってしまえば、この検閲を被った(合意を強いられた)アーティストにとってはそれが全てなのである。全体のために個々の作家の表現の妥協を強いることは、はたして妥当なことなのかどうか、答えはあえて言わなくても分かり切ったことであろう。

こうした隠しようのない検閲の露呈とそれへの批判に直面して、キュレーター会議(柏木博、岡崎乾二郎、建畠哲、四方幸子、高島直之、沖縄プロジェクトのキュレーターの翁長直樹の各氏)は、八月二五日に記者会見し、検閲があったことは認めたものの、東京都や電通の要求ははねのけ、展覧会は成功したと主張した。また、作品の変更があった場合も作家の合意を得ているので、検閲ではないとも主張した。しかし、作家は不本意な合意をなかば強制されたのであり、作家側に立って都や代理店の作家に対する直接の干渉を断固としてはねのけるべき立場にあるはずのキュレーターがそうした仕事を半ば放棄してしまったように見える。しかし、キュレーターたちはそのことに気付いていない。自分たちが検閲と闘いはしたものの、検閲に加担したとは考えていないようだ。しかし、上にみた経緯からも明らかなように、妥協をかさねたキュレーターたちの姿勢は、残念ながら決して擁護できるものではない。長期にわたる検閲に対して、彼らが作家たちや外部の人びとに事態の深刻さを正確に伝えて、支援を求めることもせず、うわさ話だけが拡がったことも東京都、電通側にとっては有利に働いた。とはいえ、またキュレーター会議は、今回の検閲に関して、会議の記録などすべての資料を整理して活字にすることを約束していることは唯一のすくいだといえる。 

公的機関の援助や代理店が絡んでいるのだから、そもそもこうした政治性、社会性のあるテーマの展覧会は無理だ、あるいは都市博注意に伴う業者補償事業であって、それにこうした破格の企画を持ち込むこと自体が見通しが甘いのだという見方もある。確かに現状はそうだ。しかし、キュレーターたちは、そうした現状を十分知悉した上で、それに挑戦使用としたはずである。この点で、今回の展覧会は明らかに失敗であるが、しかし、問題は終わったわけではない。都も代理店も今回の検閲に関してまったく反省していないし、誤りも認めていない。こうした態度を改めさせ、公的に文化支援が今回のような検閲を招かない体制をつくっていくことがキュレーター会議の人達にも、そしてオーディエンスであり、ともにアートの文化的な環境の形成者でもある私たちにも課された大きな宿題なのである。

ちなみにシュー・リーのプロジェクトは展覧会終了後も沖縄の女性たちによって継続されているという。

出典:『インパクション』99号、1996年