沖縄「アトミックサンシャイン」展検閲事件

沖縄県立博物館・美術館が主催する「アトミックサンシャインの中へin 沖縄-日本国平和憲法第九条下における戦後美術」(4月11日から5月17 日まで)に展示予定だった大浦信行の版画作品「遠近を抱えて」が、県立博物館・美術館の館長の一方的な判断によって、企画段階で展示中止にされるという事件が起きた。この事件は、いま現在の日本が未だに天皇にたいする特別な神聖視を免れていないという大変重要な問題を露呈させた。しかも、このことが、沖縄の公立美術館で起きた出来事であるという点は、市民的自由の権利としての検閲や表現の自由という問題が実は「表現」を超えた政治の権力や歴史の認識に触れる大きな問題に通じるものがあるということを示している。

(1)アトミックサンシャインin沖縄展とは

このアトミックサンシャイン展は、昨年、ニューヨークと東京で開催されてきた同名の展覧会の沖縄での開催にあたるもの。展覧会は沖縄県美主催だが、企画そのものは、外部のキュレータで昨年の二回の展覧会を企画した渡辺真也が提案したものだ。渡辺によれば、企画の趣旨は「戦後の国民・国家形成の根幹を担った平和憲法と、それに反応した日本の戦後美術を検証する試み」とされ、「九条を持つことで日本は直接交戦から回避することに成功したが、日本の実質的戦争協力は、第九条が保持される限り、ねじれた状況を生み出し続ける。この日本の特異な磁場から、多くのアーティストたちは取り組むべき新たな課題を発見し、彼らの芸術に表現してきた。日本の戦後やアイデンティティ問題などをテーマとした美術作品の中には、戦後の問題、アイデンティティ問題、また憲法第九条や世界平和をテーマとしたものが少なくない。」(Atomic Sunshineのオフィシャルホームページより)というものだ。したがって、今回の展覧会は、キュレータによって、複数の作家の作品群をひとつのまとまりのある全体として構成することを意図したものと解釈されるべきものであって、作品の選定は渡辺によるものであり、「遠近を抱えて」を企画に盛り込んだのにはそれなりの意図があってのことであろう。

この展覧会のニューヨーク展での図録によれば、出品作家は、以下の人々である。ヴァネッサ・アルベリー、アローラ・カルザディーラ、江沢考太、エリック・ヴァン・ホーヴ、松沢宥、森村泰昌、オノ・ヨーコ、下道基行、照屋勇賢、柳幸典である。沖縄展では、これらにさらに沖縄の作家たちが加わった。元々の展覧会でも照屋は沖縄出身のアーティストであるが、かれに加えて、新垣安雄、安次峰金正、比嘉豊光、石川真生、真喜志勉、仲里安広、山城知佳子、平良孝七の作品が出品された。そして、沖縄における展覧会に寄せて、渡辺は次のようにその特別な意義を述べている。

「沖縄を知らない私が、沖縄で一体何ができるのだろうか?第二次大戦中、地上戦により一般市民の多くが犠牲となった沖縄。戦争体験、さらに27年間の米軍支配を経験し、住民の多くが強く平和を希求するこの地、沖縄。この沖縄という場所に生まれたアーティストたちは、「戦後」と呼ばれる時代に、9条という理想、そして沖縄の帰属やアイデンティティというテーマのもとで、どんな表現を行ってきたのだろうか。(中略)私は、これらの戦後の美術作品とその表現を提示することが、9条と戦後美術というテーマを、沖縄県民、そして日本国民、さらに世界の人達と共有し、さらに再考する機会となり、来るべき未来を準備する契機となれば、と願う」(沖縄展の図録より、改行は省略した)渡辺は沖縄という場への自らの無知を率直に認めた上で、沖縄が固有に抱えてきた(もっと正確にいえば、ヤマトとの関係でいえば常に従属と被支配の関係を強いられてきた)歴史と経験が沖縄の作家たち固有の問題意識や表現をもたらしてきたことを自覚したうえで、展覧会の構成を提示していることがわかる。この展覧会は、その趣旨からして、単なる狭い意味での美術や芸術の展覧会にとどまるのではなく、「9条と戦後美術」という枠組みのなかで、美術表現における平和や「戦争放棄」という主題へのアプローチを捉え返し、未来に繋げることを提起するものだと解釈できる。

このような展覧会の企画趣旨にてらして、天皇を素材に用いた大浦の「遠近を抱えて」が展示されないことでも展覧会全体のコンセプトを保つことができたのだろうか。裕仁は、日本の戦争責任の中心人物でありながらその責任をとることなく戦後も天皇の地位にとどまった、戦後の象徴天皇制と憲法9条の平和主義にまとわりつく「ねじれた状況」を文字通り体現する存在として、今回の展覧会のテーマとして避けて通れない人物であることは間違いない。

さらに、裕仁については、沖縄の運命を決定づける少なくとも二つの大きな出来事に天関与していたことを忘れるわけにはいかない。ひとつは、沖縄戦の実行を積極的に押し進めたこと。裕仁は沖縄の人々が巻き込まれることを承知のうえで、地上戦による徹底抗戦を妄想した。しかも、多くの証言で明らかになっているように、沖縄の人々がもっとも恐れたのは、米軍ではなくむしろ「集団自決」を強要した天皇の軍隊、日本軍であった。もう一つの出来事は、敗戦後の日本の「独立」を維持する代償として、裕仁は沖縄を米軍に売り渡すことを積極的だったということだ。沖縄は、米軍統治下に置かれた結果、戦後憲法の制定過程にいっさい関わることができていない。憲法9条は、沖縄が米軍基地によって占領されたことと表裏の関係にあり、この構造の中心に敗戦直後の裕仁の判断が関わっていた。

(2)展示拒否の経緯

沖縄県美での検閲の経緯は複雑であり、その細部をここで論じる誌面的な余裕はない。むしろ、肝心な点は、この検閲が館長による判断によるトップダウンの指示に基づくもので、県美の学芸員など美術の専門家による慎重な検討は一切なされていないということである。牧野館長は、元沖縄県副知事であるが、美術の専門家ではない。門外漢の館長の判断が、企画担当のキュレータ、渡辺の意向を強引にねじ曲げた。

沖縄県美は年6回の企画展を行い、そのうち2回だけが県美が直接企画し、残る4回を指定管理者である文化の杜共同企業体が請け負う。今回の企画も文化の杜が請け負った企画である。キュレータの渡辺は、文化の杜との間で企画を詰めた後に、企画案を館長に示した。文化の杜から館長に企画書が提出された段階で、館長から大浦の作品の展示拒否の指示があった。館長は、大浦の作品を展示するなら企画そのものは通せない、企画をやりたいなら大浦の作品をはずすことが条件だ、という二者択一の選択を迫った。これに対して渡辺は、文化の杜の担当者を通じて館長の意向を聞く。本来ならこの段階でキュレータは、館長と直談判するなどを行うべきであろうが、なぜか渡辺は館長の意向を館長に会うこともなく呑んでしまう。もちろん、同意したわけではなく、作品非展示を無理矢理呑まされたというのが渡辺の個人的な思いであることは間違いないが、しかし、その思いに対応するだけの館長への抗議や交渉を行うことを彼は怠ってしまう。館長サイドからは、「遠近を抱えて」を展示しないかわりに大浦の別の作品(映画「日本心中911-1945」)への差し替えなら構わないということから、渡辺は大浦に作品差し替えを打診してしまう。逆に大浦からは、作品を裏返して展示してほしい、作品の差し替えは断る、という返事があったが、作品裏返し展示は文化の杜(美術館)から拒否され、結局この展覧会に大浦はいっさいの作品を出品しないことになった。右に述べたように、大浦の作品はこの展覧会で唯一天皇を扱った作品であって、9条と天皇制と沖縄の関わりを考えた場合、この作品の非展示を簡単に妥協して呑んでしまうような対応をしたキュレータの責任は免れないだろう。もし、キュレータがあらかじめ牧野館長から展示拒否の理由をはっきりと聞き出していたなら、それでもキュレータの渡辺は展示拒否を受け入れることができただろうか。

牧野館長は、今回の展示拒否(彼は展示の「謝絶」と表現している)について、展覧会が終了するまでは、「教育的配慮」「総合的判断」といった文言でごまかし続け、作者の大浦が直接館長に抗議を行った会期終了直後の5月18日の会見でもほぼ同様の理由しか述べられなかった。

(3)天皇の「敬愛」を押し付ける牧野館長

館長が、展示拒否の理由を具体的に述べ始めるのは、展覧会が終わってからのことである。大浦が館長に抗議した直後に開かれたマスコミとの懇談の席で館長は、「(天皇制への賛否がある中)バランスを欠いたものを公的機関が支援できない。外した作品には裸体や入れ墨もあり、県教育委員会の下にある公的機関としてふさわしくないと判断した」(『琉球新報』5月19日)と初めて拒否理由を具体的に語った。

その後館長は、6月に入って、より詳細に自らの展示拒否の措置を正当化するための長文のエッセイを『沖縄タイムス』に三回にわたって連載する。この原稿は「教育的配慮と自由裁量」というタイトルで、第一回目では、展示拒否に至る経緯の説明して、企画担当者も合意の上でのことだという点を主張し、第二回目で展示しない決定を美術館の「自由裁量」の範囲内であるとし、第三回目では、「遠近を抱えて」の天皇表現に踏み込んで、教育基本法にある天皇への「敬愛の念を深める」という趣旨に合わない作品であるという持論を展開している。

牧野館長のこの原稿は、作品展示拒否の事実関係について、読者に大きな誤解をもたらす内容を含むが、なかでも、連載の第三回目に言及されている天皇にかかわる表現と公立の文化施設との関連については、大変大きな問題がはらまれている。牧野館長の天皇に関する言い分を以下、やや長くなるが引用した上で、その問題点を指摘したい。

「当該作品については専門学芸員とともに検討し、さらには教育長の指導を仰ぎ、当美術館における展示は「ふさわしくない」と判断された。その理由は、当美術館の設立根拠「沖縄県立博物館・美術館の設置及び管理に関する条例」によって、「教育的配慮」が要請されているからである。 同条例は、作品や資料などの収集、保管、展示など、いかなる事業の実施にあたっても、最も重要な視点は「教育的配慮の下に」なされなければならないと規定している。自由な活動が可能な民間の施設とは異なる、重要な運営指針である。(中略) ところで、「教育的配慮」の基準は、「教育基本法」および「学習指導要領」の趣旨である。教育基本法第2条は、今日重要と考えられる事柄として「豊かな情操と道徳心を培う」、「公共の精神」、「伝統と文化の尊重」、「我が国と郷土を愛する」などの教育目標を掲げている。
ちなみに、「天皇」に関する教育は、「小学校学習指導要領」の「社会科」の部において、「日本国憲法に定める天皇の国事に関する行為など児童に理解しやすい具体的な事項を取り上げ、歴史に関する学習との関連も図りながら、天皇についての理解と敬愛の念を深める」よう指導するものとされている。「中学校学習指導要領」も、同様な趣旨を明記している。
もとより、天皇に対する受け止め方は各自の自由であり、多岐にわたるであろう。憲法26条は、「すべての国民は…その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う」と定めており、その「義務教育」は、上記の小・中学校学習指導要領に即して行われることが求められるのである。
以上のような視点に立脚して、当該作品は、教育委員会管轄下の当美術館における展示には「ふさわしくない」と判断されたのである。」

この牧野の理屈のように、教育基本法や学習指導要領を持ち出し、天皇への敬愛を文化施設に押し付けることが正当化されてしまえば、公立図書館や公共の集会施設における言論表現の自由は確実に戦前化するだろう。大学の学問や教育の自由も同様に危ういことになる。図書館や大学にみとめられる自由を美術館が持てないということはあってはならないことであるのは言をまたないであろう。言い換えれば、天皇の敬愛や学校教育を持ち出すことは、多様な価値観を前提とする社会の文化や知の有り様を真っ向から否定することにしかならないのだ。

(4)沖縄に対する「文化戦争」

問題はそれだけでないのだ。教育基本法や学習指導要領を援用して、天皇への「理解と敬愛」を理由に作品の展示を拒否する牧野館長のこの言い分は、実はこれが初めてではない。1999年、稲嶺県政時代に起きた新平和資料館における検閲事件でもほぼ同じ理屈が使われていたのだ。この平和資料館検閲問題に当時副知事だった牧野が検閲の当事者として深く関与していたことは、沖縄ではよく知られている。新平和資料館は、太田県政時代に基本計画と設計、契約が終わり、展示作業を残すのみになっていたが、稲嶺県政下での実際の展示作業で多くの展示改ざんが行われた。沖縄戦で、負傷兵たちに自決を強要する衛生兵が削除されたり、住民を威嚇する日本兵の銃が撤去され、「集団自決」の写真の差し替えなど日本の加害に関する多くの展示が削除や修正された。こうした検閲に当時の牧野副知事は中心的に関与した者の一人であった。

牧野副知事は当初の展示案について「国家に対する認識など基本的認識が全く異なる。資料館は永久に残る。展示作業そのものをストップしたらどうか。私は展示の概念が契約より優先だと思う」とのべ、資料館それ自体の設立の中止を示唆する発言すら行っている。そしてこの資料館の展示内容の検閲については「文部省検定の教科書記述などを基本に、展示を行う」(事務局資料)というものであり、当時すでに今回の沖縄近美の検閲と非常に類似した理由が検閲の正当化の論理として利用されていたのである。

牧野が県立博物館・美術館の館長として、アトミックサンシャイン展の企画内容をチェックする上で、判断基準に平和記念館の展示に関する基準を念頭に置いたのではないか。

しかも、牧野館長による検閲は、これにとどまらない。アトミックサンシャイン展に先立って今年2月に開催された「石川文洋写真展 戦争と人間」においても、牧野館長は一部の写真の展示を拒否した。『沖縄タイムス』はこの問題について次のように報じている「 同写真展は報道カメラマンの石川文洋さんが、ベトナム戦争を撮影した50枚を展示。そのうち、米兵がバラバラの遺体を手にしてたたずむ作品「飛び散った体」が展示されなかった。本来同作品が展示されるはずだったスペースに「館長の判断により非展示」とする内容の張り紙が張られている。

石川さんが非展示を知ったのは写真展初日。学芸員から「館長の意向で同作品は倫理上の観点から展示しないことになった」と電話連絡を受けたという。 石川さんは「公開した50枚は戦争の残酷さを表現している。戦争は人間の尊厳が破壊される行為であり、非展示になった作品もその一つ」と疑問視する。県には非展示の理由を文書にしてほしいと申し入れた。現在までに返答はない。

非展示となった作品を含む同写真展は、過去にも沖縄市役所ロビーや読谷村立の文化ホールなどで開催されたが、問題はなかった。」

新沖縄平和資料館の検閲から一環して起きていることは、沖縄の人々の戦争体験とその継承を通じて形成されてきた戦争の加害と被害の真実、戦争の悲惨さ、そして戦争責任と国家のあり方が、まさに日本の国家が「国民」に対して押し付けようとしているナショナリズムのイデオロギーと大きく乖離し、摩擦を起こし続けているということだ。中央政府は、右派に政権を握られた地方自治体を通じて、中央の価値観や文化を押し付ける。この押しつけに、中央の文化資本が一役買う。保守化した地方自治隊の文化施設はこの意味で、中央政府のイデオロギー装置になりかねず、地域の自立的な価値観を払拭して中央に統合するための橋頭堡としての役割を担わされる危険性をもっている。とりわけ沖縄のように中央政府やヤマトとは異なる歴史的な経験をもつ地域を中央に統合するための重要な役割を教育や文化施設が担わされるという問題は、植民地主義による文化支配の重大問題である。この意味で、現在の沖縄をめぐる文化状況は「文化戦争」であるという指摘が沖縄で聞かれるのもうなずけるのである。

今回の沖縄近美の問題は、「遠近を抱えて」の非展示問題に限定されない大きな構造的な問題をはらんでいる。文化支配と歴史の記憶や経験の改ざんを伴う沖縄をめぐるヤマトよる支配の問題と密接不可分なのである。今現在の沖縄は、米軍基地とともに自衛隊も進駐し、軍隊の次に本土資本が、そしてさらに本土の文化が沖縄を蹂躙する事態になっている。まさに、植民地の様相は、深まるばかりだ。このことの端的な現れが今回の沖縄近美の検閲であったのだ。

参考資料 本文で指示したもの以外に下記を参照しました。
『けーし風』25号 特集「検証・平和資料館問題」、1999年
石原昌家、大城将保、保坂廣志、松永勝利『争点・沖縄戦の記憶』、社会評論社、200
2年。
付記 沖縄県美の検閲問題への抗議行動が様々とりくまれている。抗議声明や署名運動が
複数とりくまれている他、7月の沖縄県議会には、検閲を批判し牧野館長の更迭を求める
などの陳情が出されている。また、7月18日には東京でシンポジウムが開催され、その
後20日から約2週間、東京、茅場町のギャラリーマキで抗議の展覧会とギャラリートー
クが開催され、「遠近を抱えて」も展示予定である。これらの運動についての詳細は、下
記のサイトをご参照ください。
Art Action 2009
http://sites.google.com/site/artaction2009/
大浦作品を鑑賞する市民の会
http://www.alt-movements.org/art_censorship/oura/atomicsunshine_censorship/Welcome.html

(『市民の意見30』、1999)