失われる匿名性

このところ「匿名」の評判がかんばしくない。インターネットの掲示板で匿名による誹謗中傷的な言動に注目が集まるにつれて、「匿名」はもっぱら人を攻撃するための卑怯な手段であるような印象が強まっている。

匿名に批判的な意見では、「匿名」での自由な振る舞いでは、自分勝手に陥りやすいと指摘する。何もやましいことがないのであれば、正々堂々と名前を名乗ればよいではないか、という主張が正論として受け入れられやすくもあるように思う。

匿名は、その効用よりも否定的な側面に注目が集まりやすいのには理由がある。犯罪は人に知られないように実行するものだから、匿名は犯罪の温床として批判の矢面にたちやすい。マスメディアは、平穏な日常よりも犯罪や事件に注目し、政府や警察も犯罪に対処しなければならない。犯罪捜査は犯人が「誰」なのか、つまり犯人の匿名性をはぎとって実名を追求する作業だから、匿名は犯罪とむすびつけて否定的に語られやすくなる。犯罪の動機や原因を追求するよりも、その手段としての匿名性をてっとりばやく対症療法的に悪者にしたてる傾向におちいりがちになる。

匿名での行動を制限すれば犯罪は起きにくいだろうということは容易に考えつく発想だ。だから、情報通信(IT)技術を駆使して、指紋、虹彩、顔の輪郭、さらにはDNAを利用して個人を特定する生体認識技術がもてはやされることになる。しかし、わたしは、こうした傾向を手放しで喜べない。

匿名は、私たちがふだん当たり前すぎてとくに気にとめることのない日常生活の自由を支える重要な役割をになっている。たとえば、買い物をする場合に、名前を名乗らずにお金を支払うだけで自分の欲しいものを手にいれられる。人に知られたくない買い物がしやすい環境が保証されている。選挙でも、立候補者は名前を売り込むが、投票する有権者は匿名だ。誰に投票したかを知られないことで思想信条の自由が守られる。HIV/エイズのための血液検査は、多くばあい、保健所などの公的機関では匿名でも受け付けている。

自由は昔から保証されていたわけではない。封建制社会では匿名は身分を特定できないから極力排除された。市場経済と民主主義がこの身分制を突き崩す役割をになったのは、匿名による人々の自由な行動を促したかだ。身分証明書を携帯しなければならない社会は再び「身分」に縛られた不自由な社会を生み出す。

匿名性を悪者として追い詰めると、人々が当たり前に持っている自由もまた追い詰められる。生体認識技術やデータベースの発達など情報通信技術の急速な発達は、匿名性をもろいものにする。インターネットの掲示板も、匿名の手紙を出したり、街頭で匿名でビラを配ったりよりもずっと匿名性の保護の程度は低い。

匿名はむしろ私たちが市民的な自由を享受するための基本条件である。匿名が問題視されやすい社会であるからこそ、むしろ匿名の効用や価値に目を向けてみる必要があると思う。

(北陸中日新聞、2003年)