「働くことの意味」二つの論争

フェミニズムの労働論は、経済学が前提としていた労働の考え方に多くの問題を提起した。しかし、フェミニズムのなかでも労働について対立する考え方がある。このエッセイでは「働らくことの意味」をめぐって、この論争を考えてみたい。

「働くことの意味」については大きく分けて二つの論争点がある。一つは、賃労働是非についての論争である。賃労働を肯定的に捉える場合には、賃労働を人間にとっての大切な行為とみて、そこから女性が排除されていることが問題になる。否定的に捉える場合には、「労働の拒否」という理念や闘い方が主張されることになる。もう一つの論争点は、家事などの無償の労働に「賃金」を要求することの是非についての論争である。私の立場は、「労働の拒否」と「家事労働に賃金」を要求すべきだというかなり少数派に属する考え方である。

「労働の拒否」というのは、文字通りとれば働かないことの主張である。現在私たちが賃金のためにしなければならない「仕事」の大半は無意味なものだと考えるわけだ。企業が儲かることや製品が売れることを「意味のあること」というのであれば、それは「意味」があるかもしれない。しかし、もしそれを「意味のあること」というのであれば、企業の中でトップに近づけば近づくほど仕事の意味は大きくなるということになる。兵器産業ならばヨリ多くの戦車やミサイルを売り、建設会社ならば知事や市長に賄賂を送ってでも受注し、化粧品メーカーならばヨリ多くの「美人」と皮膚障害を生み出すことが「意味」ある仕事ということになる。しかし、実際には、こうした経営のトップのワーカホリックは別として、自分の生活の実質とは無関係な「仕事」を大半の人々はしている。そして多くの人々は働くこととは「サボるコツ」を習得すること、うまく「手抜き」をすることと裏腹なものと考えているのではないだろうか。仕事を5分はやく切り上げる、トイレに少し長く時間を使う、会社のコピーや電話を私用に使うといったささいな「抵抗」は、「労働」について人々が直感的に感じとっている「無意味さ」への意志表示だと思うのだ。こうした観点から見た場合、「働きやすい職場」「仕事の能率が上がる職場」というのは、楽のできる職場のことである。「労働の拒否」とい考え方は、ストライキやサボタージュといった激しい労働運動のなかでは文字通りのものとして出現することもあるが、むしろ現在のような集団的な闘争が困難な時代には、会社に縛られた時間からどれだけ自由な時間を「盗み取るか」という個々人の実践として、また、競争しない、出世しない生き方とも関わっている。

もう一方の論争の論争、「家事労働に賃金を」という考え方に対しては、生活をますます商品化に巻き込むという批判がある。家族という商品化されていない人間関係の方が、雇用関係やモノの売買関係よりも「本質的」「人間的」とみなす常識はある。しかし、これは、近代社会が生み出した常識である。また、「消費」の単位としての核家族関係も資本主義という近代社会が生み出したものだ。商品経済と非商品経済の関係は、お互いに相手を必要とするもたれあいの構造になっている。フェミニズムはこうした市場と非市場の境界が決して「普遍的」なものではないことをはっきりさせた。家事や育児も「労働」であり、それを主として女性に配分する仕組みが家事・育児から男性を「解放」して労働力の主要な担い手とする分業制度と結びついており、こうした分業を廃棄する方法として家事・育児の平等な分担とそれを可能にする家族と賃労働の制度が主張されてきた。

しかし、この問題はもっとややこしい。そのややこしさの原因は、賃労働という枠を外したときに、「労働」とそうでない事柄との境が曖昧になることによる。妻とのセックスは夫にとっては楽しみかもしれないが、妻にとっては「おつとめ」、つまり労働かもしれない。子育ても、苦痛な場合は「育児労働」かもしれないが楽しい時は子どもとの「遊び」かもしれない。「ショッピング」という言葉にはレジャーのニュアンスと家事のニュアンスがかなり微妙にミックスしている。つまり、こうした「消費生活」の領域は、労働なのかどうかが見方、立場、妻と夫の関係、心理状態などで変わってしまう。このなかから、「家事労働」「育児労働」だけを純粋に抽出することはできない。

私は、「消費」活動もまた、それが日々の(あるいは世代的な)賃労働のシステムをささえる限りで、労働とみるべきだと考えている。レストランのコックさんは「労働」をしたことになるけれども、家庭での料理は「労働」にはならないという区別は、あくまでも市場経済が自分の都合で引いた境界線にすぎず、市場の領域が変化すれば「労働」と「非労働」の区別もコロコロ変る。事実、賃労働ですら、上司からみればサボっているようにみえても、本人は仕事のつもり、ということは普通にあることだ。雇用契約は「労働」の範囲を明確にするが、逆に家族の中では、「愛情」が労働をあいまいにする。「苦痛なのが労働」という心理的な区別も客観的な物差にならないのは言うまでもない。むしろ、家
で「家事」もせずテレビを見ていることと料理、選択をすることの間に、「労働」としての差はない、どちらも労働力を再生産する「労働」なのだと考えた方が問題の在処をはっきりさせる。

この考え方に対しては当然のこととして、批判がある。想定問答風に書いてみると…
「それでは、テレビばかり見ている男に都合のよい理屈ではないか」
「それなら、あなたもテレビを見たらいいと思うけど…」
「私もテレビを見たら、誰が子どもの面倒をみたり、食事を作るの?」
「さあ、」
「さあ、じゃ困るでしょ」
「だったら、テレビを見てる男と相談してどうするか決めたら」
この想定問答に対しても「結局は女が家事育児をおしつけられる」と批判されるかもしれないし、現実はそうだろう。しかし、私は、こうした原則的なところで合意ができず、押し付けがまかりとおるようなら、そんな男と一緒にいる必要はないと思うのだ。これが、女性にとって生き方の「価値規範」に関わることだとすれば、そこで妥協すべきではない。

「家事労働に賃金を」というのは、以上のような点をふまえて、賃労働だろうがそうでない行為だろうが、生活できるのに必要な所得を要求するということを意味している。これは、失業者たちが「働こうが働くまいが生活できる賃金を」と要求することとも共通している。つまり、失業者でも就業者でも、男性でも女性でも、「専業主婦」でも「賃労働者の女性」でも、障害者でも健常者でも生活に必要な所得に差があるはずがないということなのだ。もし、それを「労働」、しかも賃労働というただひとつの尺度で評価してしまうと、そこには差ができてしまう。「家事労働に賃金を」という主張は、そうした労働にもとづく評価をやめよう、ということでもあるのだ。同時に、夫(男)の所得に支えられて生活せざるをえない女性たちが、経済的に自立でき、また女性が結婚しない生き方を自由に選択できるような条件をつくることによって、共同生活上、おりあいがつかない男との生活にずっと簡単に「おさらば」できる環境をつくりだすことでもあるのだ。

同時に、「労働」という価値規範は、職業による差別とも結び付き、失業者や高齢者への差別にもつながっていることを見落としてはならない。育児ばかりでなく高齢者の介護も「辛い仕事」とみなすのは男たちに一般的にみられることだ。もともと「労働」という概念は、物を扱う人間の行為を指す概念だったが、対人関係やコミューーケイションにも用いられるようになってきた。それにつれて、労働の対象になる「人」は、「物」のように扱われ、「物」のように自由にならず、言うことをきかない「人」を厄介ものとみなすようになってきた。そうした「労働」の世界から、人間関係を解放して、人と人の関係を、抽象的な「労働」などという言葉で置き換えることのできない豊かなものにしてゆくことが必典だと思うのである。

出典:『fifty-fifty』22号、1993年11月