憲法とナショナリズム――近代国民国家が抱える構造への批判

1 はじめに――近代150年の断絶と継続

1.1 一貫性の構造

「明治150年」が端的に象徴している時間の観念は、近代を天皇の即位と死の循環によって表象する元号という「暦」の尺度のなかで規定しようとするイデオロギー的な時間の観念である。

日本の近代を明治元年に出発点を求めることが妥当かどうかという問題を脇に置くとして、直ちに日本の近代をのっぺらとした150年という時間のなかで、ある種の一貫性をもった統治機構として位置づけようとすることは、1945年を重要な分水嶺とする認識――これは戦後憲法の理念を肯定し、旧憲法を否定する歴史認識と不可分だろう――と明らかに衝突する。

たぶん政治学者や歴史学者であれば、戦前と戦後という重要な分水嶺を軽視した150年の連続性を端的に象徴する「明治150年」には強い違和感を感じるに違いない。私もまた、こうした違和感を共有するが、しかし、支配者がこの戦前と戦後の分水嶺をあたかも無視するかのようにして喧伝する「明治150年」を単なるイデオロギーの問題、つまり物質的な基礎を伴わない空論の類いだとして退けることも間違っていると思う。

現在の日本の状況を判断するときに、私たちが主観的に抱く現状への強い拒絶の感情を抱かざるをえない極右政権や支配層に対するルサンチマンに身を委ねることを今しばらく禁欲して、彼らのいう150年という時間の連続性の根拠を探してみることは無駄なこととは思わない。むしろ彼らが抱いている150年の連続性の根拠を私たちもまた、しかし、彼らとは明確に真逆な立場から見据えながら、その根拠をなす構造に土台から楔を打ち込むことができるなら、それはむしろ150年という一貫性の構造を根底から覆えしうる梃子の支点を見出すことにもなるはずだ。

1.2 150年に通底する共通の構造とは

150年を近代日本を象徴する時間の幅だとして、戦前、戦中、戦後を貫く近代日本の共通する構造は何か。憲法の枠組からすれば旧憲法と現行憲法という重要な切断面があるにしても、それだけが絶対ではない共通する構造とは何か。たとえば、すぐ次のような連続面を想起することができる。

  • 資本主義であること
  • 国民国家であること
  • 天皇は国家の象徴機能を担うこと
  • 国旗と国歌が日の丸と君が代であること
  • 習俗や慣習としての家父長制。民法は改正されたが家制度が慣習として維持された
  • 人口の多数が日本人としてのアイデンティティを持っていること
  • 刑罰の基本構造が変らないこと。現行刑法は1907年に制定されている

これらをみると、実は戦前と戦後の分水嶺をなす1945年あるいは戦後憲法の体制に比べて、150年のこの国の構造を支える一貫性の方がより根底的な部分を占めていることがわかる。国家や社会の大きな構造的な土台とイデオロギーの基本は、戦前も戦後も一貫したものを維持している。戦後憲法とある種の「民主化」がこの一貫性の構造を甘くみてしまったのではないか。より冷静に、近代の日本を振り返ったとき、資本主義としての構造が残り、「日本人」としてのアイデンティティが残った、というよりもむしろ、戦後も一貫してこれらが再生産されてきたという事実の重さに気付く必要があると思う。

この観点からすると、改憲は、150年間の近代日本の構造的な土台が現代資本主義の新たな構造(グローバル化と情報通信コミュニケーションを資本蓄積の基盤とする対テロ戦争という戦時体制)に適合するように統治機構を再構成するという問題なのであって、改憲に反対するということは当然の課題であるにしても、私たちが見据えるべきなのは、近代日本の土台それ自体が依然として強固に、戦前から一貫したものとして維持されたままであることに、どのように楔を打ち込めるか、なのである。これは「日本」をめぐる国家と資本への決別の方向性を見失わないために、直近の政治情勢だけではなく次の社会を構想する想像力を、近代総体を大胆に覆しうるものとして獲得できるかどうかにかかっている。

2 虚構としてのナショナリズム

憲法は国民国家の統治の枠組を規定する最高法規であるが、同時に、このことは国民国家という近代社会の統治機構を原則として肯定することを前提として成り立っている。憲法に明記されている国家権力の枠組――その権力の及ぶ範囲の確定――は、「国民」が主権者として国民国家の枠組を承認し、この枠組を前提とした権利と義務の担い手となる。言い換えれば、私たちが自己のアイデンティティを「国民」に置かないという選択肢をとることが憲法の枠組のなかでは不可能だ、ということである。1この憲法の限界を明確に自覚することが、左翼による資本主義と近代の呪縛――この国に即せば日本の近代と日本の資本主義――からの解放にとっての原則的な立場になるのだと思う。

2.1 支配者の150年という時間の幅を支える大衆意識

「明治150年」という時間の区切りは、露骨なナショナリズムの表現だが、同時に「近代」という時代の表現でもあるという意味でいえば、近代日本の一貫性がそこには暗黙のうちに強調され、その結果として、1945年を象徴的な分水嶺とする「戦後」と「戦後憲法」の意義を相対的に後退させて、明治以降の近代全体の時間軸のなかで二義的な位置に置こうとする露骨な権力者のイデオロギーを感じることができる。このことが、戦後憲法を戦前の帝国憲法との比較において相対的に優れた憲法であると評価する者達にとっては受け入れ難い観点であった。しかし問題は、この支配者のイデオロギーを支えているものは何なのか、である。「明治150年」という時間を前提とした国家イベントが成功しているとはいえないが、しかし、この時間を明確な虚構として否定する運動や主張は更に希薄なように思う。

「明治」という元号を出発点とする天皇の時間、支配者の時間への懐疑が公然とは議論されない雰囲気は、そもそも元号そのものの是非が争点にすらならず、むしろ元号を当然のこととして(どうでもいい習慣だとする立場も含めて)受容する感情と密接にむすびついている。近代日本を天皇の時間によって象徴させることは、政策的なレベルの問題ではなく、「昭和歌謡曲」とか「平成の歌姫」とか「大正ロマン」とか、諸々の大衆文化の表象を指し示すときに用いられてきた大衆文化の歴史の観念でもあり、こうした大衆文化が借用する元号+文化の一体性の方がむしろ大衆の心情の襞に取り去りがたい経験や記憶として蓄積される効果をもつ。

大衆文化から国家儀礼の時間まで、戦後は、戦前・戦中のある側面を明確に継承しつつ成り立ってきたもので、その切断の傷の深さは致命的ではなく、むしろ皮下脂肪あたりに到達する程度のものだ。この断絶と継承の錯綜した構造のなかに「戦後」が存在してきたのであり、その延長線上に現在という時代が存在する。2

2.2 戦争とナショナリズム

戦争はナショナリズムに収斂する人々の心情/信条を構成することなしにはなしえない。このナショナリズムに憲法はどのような関係をもつものだろうか。戦後憲法を念頭に置いてみた場合、いわゆる戦争放棄=平和国家の統治機構を肯定するナショナリズムであるならば、それは否定すべきものではなく「好ましいナショナリズム」である、という考え方がありうる。

しかし、こうした考え方が前提しているのは、そもそものナショナリズムを根拠づけるナショナルなものの実体を肯定しているということでもある。具体的にいえば、日本のナショナリズムとは「日本人」とか「日本国民」と呼ばれる集団に何らかの客観的あるいは合理的な根拠があるものとして肯定するということだ。しかし、果して「日本人」とか「日本国民」と呼ばれるものにどのような合理的な根拠があるというのだろうか?「あなたが日本人だとして、あなたを日本人とする根拠は何に基づくのですか?」もしこの問いを「民族」的な社会集団によって根拠づけようとしても、そもそもの民族なる概念に科学的客観的な根拠はない。他方で、「国籍」といった法制度によって根拠づけようとすると、国籍が前提としている「日本人」であることの根拠は、「日本」という国家の領土や戸籍といった制度に依存する決定であって、これらの統治機構の正統性がどこから生まれたものなのかを問わずにはいられないことになる。こうして私が日本人であるのは、私が日本人だからだ、というトートロジーから逃れられないことになる。「日本経済」、「日本文化」からDNAによる民族の判定まで、様々な「科学」や「学術」の研究は、「日本」という枠組を自明のこととしてその存在を疑いえないものであるに違いないという結論を置いた上で、この結論に合わせて理論を構築するという間違いを犯していることが多い。これは虚構だと言うことで退けられるような脆弱なものではない。神という虚構を真実とみなす宗教の教義や信仰の体系が実際に統治機構や権力の制度として社会を支配してきた長い文明の歴史をみればわかるように、虚構は科学や真理によって覆すことはできない。科学や合理主義は唯一の武器ではなく、多くの武器のなかの一つに過ぎない。3

2.3 「日本人」への帰属意識

たぶん最も現実に効果をもっている「日本人」としての自己意識は、日本人としての実感にあるのであって、科学とか学問とか法制度などとは異なる文脈のなかで構築されるものではないか。この日本人としての虚構の集団性に実体を与えているのは、国民国家の統治主体、つまり主権者という権力を正統化し、かつ権力の源泉をなす人口への帰属を前提として現実世界のなかに構築される制度や機関――役所、警察、軍隊、学校、都市計画、コンピュータのネットワークやデータベースなど――である。この実体は、権力が具体的な強制力をもって人々(ここには「日本人」であるかどうかではなく、領土の中にいるかどうかが問われるわけだが)の自由を制約できるような実体として作用する。

憲法は、この虚構の集団性を「法」によって正当化する特異な虚構の体系4である。どこの国の憲法であれ、国民国家の統治原則を規定した法として、主権のありかと主権が及ぶ人的空間的な範囲が規定される。憲法は抽象的な人民を主体にしたり「臣民」にしたりすることはできず、固有名詞をもった人々(戸籍であれ国籍であれ、明確な固有名詞による人口の集合がその本質をなす)に対する特定の国民国家の統治機構としてしか成り立たない。つまり、具体的な国家とそこに帰属する「日本人」とか「中国人」といった「人」を前提としている。普遍憲法は存在しないのである。だから最高法規を謳う憲法が国家の数だけ存在し、その結果として、相互の摩擦と対立、唯一至高の統治機構の座を争奪する無益な争いが起きる。この意味でいえば、憲法は近代の国家間の摩擦と戦争の根源をなす。

憲法が主権者とする「国民」は、同時に、個々の人々の日常生活や意識・感情のなかで、感性的かつ無条件に当然のこことして自らの「国民」としての帰属意識によって受け止められるという意味でいえば、法を越えた概念を内包している。日本人であることは問いの問題ではなく、問い以前の自明の前提として置かれる。この自明の前提は理論や科学の世界によって根拠づけられるものではないから、理論や科学によって批判したとしても、そのことによって人々が自らの実感としての日本人であることを否定できるわでもないし、このような実感に基づく民族排外主義を払拭できるわけでもない。

2.4 ナショナリズムの虚構性は「真実」や「正しさ」では排除できない

ナショナリズムとはこうした意味での「日本人」に根拠をもって表出されるある種のイデオロギーや信条のありかたである。もちろん「日本人」という観念に客観的な根拠となるものはないから、根拠のない虚構の観念が根拠になる。しかし、やっかいなのは、虚構――嘘と端的に言い直してもいい――だから間違いであり、否定すべきだ、という風にはならないことと、虚構であるから、それは「悪」であるとか、ナショナリズムの悪を根拠づけることになるといった「正しさ」による「虚構」への排斥という主張は、見当違いの批判だというこである。

なぜならば、どのような社会集団であれ、人間の集団から「虚構」や「嘘」を排除することができないからだ。(「現人神」が現実に暴力的な力を実現した近代日本の経験は、蒙昧な時代ではなく、むしろ近代科学を積極的に受容した時代だった)誤解を畏れずに言えば、虚構や嘘の構築が現行の支配構造――資本主義の政治、経済、文化など――を支えるものであるならば、それとは闘わなければならないが、その闘いにおいて私たちもまた虚構や嘘をある種の武器にして闘う以外にないのだ、ということである。虚構や嘘は人間の本質そのものであって、これから逃れることはできない。「私たちは正しい」とか「正義だ」とかいう言い回しは、それ自体が虚構や嘘である。間違わない人間はいないし、意図的に間違いを犯そうとする人間もいる。最も巧妙に構築されてきたのが合理的な虚構である。それが近代の合理主義と呼ばれてきたものであり、その最大の産物が法制度という「ことば」による規範と秩序の仕組だろう。法学も政治学も国家を前提とするが、国家を虚構とはみなさない。経済学は市場を前提とするが商品や貨幣を虚構とはみなさない。国家や市場を自明の前提として、学問の体系を構築するだけでなく、この砂上の楼閣を具体的物質的な構築物として現実化する力をもつ。

こうした観点を踏まえて、私たちは近代日本を構築してきた虚構としての天皇制に立ち向かうという課題を担うことになる。キリスト者や宗教者であれば、もうひとつの神が天皇制を代替するかもしれない。これは虚構によって虚構を撃つという立場だが、この虚構によって虚構を撃つという方法は無神論者であっても、いかなる社会主義者、共産主義者、アナキストであっても避けることはできない。なぜなら、私たちは「ことば」で支配的な虚構を否定する「物語」を語る以外にないからだ。

3 ナショナリズムなき憲法はない――憲法と天皇制

3.1 強制された「総意」

ナショナリズムなき憲法はありうるのだろうか?ナショナリズムを自民族中心主義と言い直して、支配的な民族の「主義」を意味するものととらえるのではなくて、「国民主義」として、複数の「民族」を包含するものとみなせば、憲法はこの意味での「国民主義」を前提しなければ成り立たないことは明らかだ。この「国民主義」が「民族主義」になるかどうかは、「国民」の定義と憲法の規定如何ということになる。

日本国憲法の場合、冒頭の天皇条項によって、天皇は国民の総意に基くとされている。この「総意」とは「全員一致」を意味する日本語だから、一切の少数の異論も許さず、全員が天皇の地位を承認するということを意味している。これは天皇を日本国の象徴とする意思をもたない者は「国民」とはみなさないという暗黙の関係を含意している。総意を確認する手続を欠いているから天皇の地位の正統性の根拠はないのだが、むしろ現実に起きている事態は、国民である以上、天皇を日本国の象徴とする「総意」のなかの一人であることが確認もされることなく半ば強制的に同意を要求されているということである。

私たちからすれば、総意など成り立っていない。なぜならば、私たちは、憲法がどのように定めようと、天皇を国家の象徴として認めないという意思をもっているからだ。(そもそも国家そのものも認めたくないかもしれない)しかし権力者たちにとってみれば、問題の立て方は逆転して、異論を持つことは総意によって成り立つ天皇の象徴としての地位に反するから、異論を差し挟むことは許されない、私たちの主観的な思想信条がどうあれ、私たちもまた強制的に「総意」の一部を成すべき存在である、ということになる。つまり「総意」の構成者として私たちは有無を言わさず、権力者によって「総意」に組み込まれてしまう。(ここでいう「私たち」とは、日本国籍をもっている者のことを敢えてこのように呼んでいる)ここに、例外的に天皇に対しては、その否定も含む私たちの自由な意思表示や思想信条を持ち、これを表明すること自体に対する抑圧としても作用するし、そのような強引な解釈を含意させることも不可能ではない。解釈とは権力による意味付与であるという側面からすれば、これは彼らにとって当然の振舞いであり、私たちのとっては、この解釈それ自体が、重要な闘いの場を構成することになる。

日本国憲法のナショナリズムは、このようにして天皇を象徴として正当化し、憲法が保障している思想信条の自由、信教の自由など一連の自由の権利と真っ向から対立する。しかし、それだけではない。天皇を日本国の象徴とする「総意」から排除される人々を作りだす。この排除とは天皇制に反対するといった思想信条の立場にもとづくものだけではなく、「おまえたちは『総意』の構成者とはみなさない」という権力者による選別が働くということだ。日本の場合、憲法が「国民」として、国民以外の人口と区別して規定する集団のイデオロギー的な根拠は、天皇を日本国の象徴とする「総意」の構成者であって、そうである限り、象徴としての天皇を否定する――天皇制を否定する――ことは原理的にありえない者たち、ということになっているといえる。

3.2 国民国家と戦争――国家に戦争を阻止する構造はあるのか――

近代国家は、一般論としていえば、主権者が「国民」である以上、「国民」は国家を防衛する義務の主体となる。こうして、国民を主体とする常備軍を持つことを近代国家は前提として成り立ってきた。この観点からすると、現行憲法が「戦争放棄」を明記したことは、この近代国民国家の暴力装置の一部を意識的に放棄するという大胆な選択をしたということになる。

しかし果してどれだけの人々が、意識的に国民国家としては異例のものとして戦争放棄があるのかを自覚しただろうか?戦争放棄は単なる戦争への反省とか悲惨な戦争を繰り返さないためといった情緒的な感情や経験に基づくだけでは、統治機構の実体に組み込むことはきないのであって、国民国家の統治機構全体の制度設計と同時に、他の諸国(それらは常備軍を持ち、時には徴兵制度も持って対外的な政治の手段の一つとして武力行使という選択肢を維持している)との関係のもちかたに固有の努力が必要になる。このことを戦後の政治や外交が――野党も含めて――どれほど真剣に捉えてきただろうか?現実に起きてきたことは、戦争放棄条項を持ちながら、外交は伝統的な国家間の外交戦略の教科書に従い、軍を除く統治機構を異例な国民国家として再構築することはできなかったのではないか?言い換えれば「平和」を構造化するための構想力を持とうという志向性に欠けていたのではないか。

3.3 暴力による解決の本質的な矛盾

暴力による問題の解決が抱えている本質的な矛盾は、「正しさ」を力の強弱に置き換えて処理しようとする不合理な選択を世界中の支配者たちが肯定しているところにある。力の強い者が正しいのであるなら、DVでは男や大人が正しく、被害者は「正しくない」から被害者になったのだ、ということになる。そして大抵は、暴力に訴えざるをえないやむにやまれない事情なるものを持ち出して、被害者にも「非」があるかのような印象が与えられる。どのような問題があったにせよ、その解決を暴力に委ねるという解決方法が、筋の違うものだという基本原則が忘れられてしまう。「1+1=3」は算数では間違いだが、腕力のある者がこれを「正しい」として殴って認めさせることで「1+1=3」が正解になる世界、それが暴力による解決を肯定する世界である。戦争の本質はこの理不尽な解決方法にあるが、最大の問題は、ほどんどの人々がこうした解決を肯定しているところにある。

戦争を放棄するということは、暴力によって相互の利害の対立や摩擦を解決するのではない解決のオルタナティブを模索するということだ。しかも先に述べたように、人間の本質は虚構と嘘と切り離せず、自らがついている嘘や虚構を「正しい」と信じて疑わない社会集団の集合的な観念に基づいて「国家」が構成されているのだから、正しさは問題を解決するための唯一の手法にはならない。

虚構の構造は「法」の世界では、書かれた条文との解釈の間に生まれる。憲法9条は、戦力の保持を禁止しているが、そもそも戦争や戦力の定義は与えられていない。その定義は憲法の外で、解釈として与えられる。誰が解釈の決定権あるいは実効性のある力を行使するのか。それは学者でないし、国会議員でもなく、そのときどきの政府に握られ、この解釈は「財政」という物質的な裏付けをもって具体的なモノ(兵力、武器、兵站物資などなど)として現実の世界のなかに組み込まれる。戦闘機や戦車は戦力ではなく「自衛力」であるという意味が付与される。憲法9条は現実の戦力を「自衛力」として意味づけるための格好の道具となっている。

これに対して、現実主義者は、憲法の文言を現実に合わせて解釈するか改正することを主張する。暴力を肯定する国民国家の枠組を受け入れるべきだというわけだ。これは、どのような言い訳をしようとも、あるいはどのような学問的な装いをとろうとも、国家が抱える対外的あるいは国内的な矛盾や摩擦を暴力で解決するという不合理な選択を肯定することを意味している。DVで腕力の強い者が正しいという発想と本質的に同じ発想が「国家」をめぐるややこしい議論のなかでは実感されないうちに同質の暴力が国家に対しては容認されているのである。

大抵の場合、暴力を正当化するのは敵とみなされた相手への感情的な憎悪や嫌悪などであり、冷静な判断ではないのだが、こうした感情を冷静な判断へと媒介して暴力を正当化する仕組が、外交政策とか国際政治学とかといった政策や学問の専門家が果す役割りということになる。一般に官僚や学者は自己の感情的なバイアスを科学的客観的な言説に置き換えて表現するプロフェッショナルだ。彼が依拠するのは、与件としての「国家」であり「国民」であり法や政策の体系だ。

3.4 解釈の権力と戦争放棄の厳格化のための改憲という選択肢

今必要なことは、こうした憲法の文言に限らず法解釈の権力が私たちにはなく、法の条文ではなくその解釈こそが権力なのだということを踏まえたとき、現行憲法には多くの恣意的な解釈を許す可能性があることを認めて、どのようにして「ことば」とその意味を権力の恣意的な利用に委ねないようにできるかを考えることだろう。9条の明らかな限界は自衛権を明記していないことであるとすれば、自衛権を含む戦力の保持は認めないという文言が必須だということになる。9条を足掛かりにより徹底した国家による戦争放棄への方向を確実なものにするには9条の条文では決定的に不十分な事態にあることを自覚することが必要になっている。(自衛隊と米軍の存在がなによりの証拠だ)5

たぶん、こうした戦争放棄の徹底化に対して、もし、それが実現したとしても、自衛権という文言の意味を骨抜きにした何らかの暴力の手段を国家は持ちたがるに違いない。そうなったときに、こうした擦り抜けをどのように回避するかという問題が生じる。この意味では、法は常に解釈の権力の問題を抱えるから、このジレンマを解決する道はないように思う。イタチごっこの世界でもある。そのとき、私たちは、そもそも憲法によって基礎づけられている国民国家という統治機構それ自体が暴力や抑圧から人々を解放できる枠組なのか、それ以外の「統治」のありかたはないのか?という方向での問いに直面するだろう。目先の政策や政治課題には収斂しない長期の解放の構想力を国家や資本に依存しない社会として描く力こそが左翼性の根本にあるはずであり、こうした理想や創造/想像力を失った左翼の「理論」は容易にファシズムの理論へと変質することは、過去のファシズムの歴史でも現代のネオナチや「オルトライト」などと呼ばれる集団のイデオロギーを見れば自明ともいえることだ。

4 日の丸・君が代とオリンピックをめぐるナショナリズムの攻勢

2020年の東京オリンピックに向けて、日の丸・君が代が日常的な風景のなかで繰り返し登場するようになるだろう。オリンピックに先立って行なわれる天皇代替わりの行事は象徴天皇制の継続の具体的な制度化の一環としての新元号の制定と即位儀礼によって、象徴天皇制の国家としての「日本」というこの国の近代国家としての枠組とイデオロギーが露出することになり、ここ数年を通じて、ナショナリズムを再構築する時間に入ることになる。そしてこうした時期が同時に改憲と重ねあわせられるように政治のタイムスケジュールが組まれている。

しかし、ナショナリズムの露出と強制が、多くの人々の実感のレベルでは、より不自由で権威主義的な国家の登場といった風にはならないだろう。多くの人々(自らを「日本国民」とみなすことに疑いをもつことのない人々)にとって、代替わりもオリンピックも改憲も、ナショナルなイベントという堅苦しさよりも、新しい時代への幕開けとか、優秀な日本人の活躍とか、より強い日本とかといった情緒的で曖昧な「日本人」の物語を演出するメガイベント以上のものとは感じられないかもしれない。ほとんどの人々にとってはどうでもいいことかちょっとした楽しみ、せいぜいで我慢できる程度の面倒な事であって一時が過ぎれば終るものにすぎないのかもしれない。そうであればあるほど、これら一連の出来事に対して、ことさら目くじらを立てて異論や抗議の声を挙げる者たち(私たち)は、多くの人たちからすれば、理解しえない者たち、異例な反対者、ときには過激派やテロリストとみなそされるかもしれない。

4.1 国家に収斂する「敵」と「味方」の感情的な敵意と歓喜

オリンピックでは、日の丸に限らず、各国の国旗は、選手や関係者の集団を象徴する記号である。この記号は他の同種の記号と併存しながら相互に「競争」のゲームの担い手となる。ゲームは敵対関係を背後に醸成しながら、それを戦争とか経済分野での競争とは異なる回路を通じて敵意の祝宴というスタイルをとり、その勝者のみが、国家を象徴する歌と旗を大衆に前に掲げることが許されるという儀式で締め括られる。

オリンピックに端的に示されている国別のスポーツ競技の本質的な問題は、国別という競技の枠組それ自体にある。戦争で人を殺しあうこととスポーツであれ文化・芸術であれ国別でその技量などを競うことも、根底にあるのは、ある種の敵意の再生産を通じた「国民」や「国家」に収斂するアイデンティティの至高性を証すというものだ。敵と味方という集団の区分を国家や国民を基礎に形成し維持する上でスポーツや文化・芸術の国際的な競技は重要なイデオロギー装置となる。(文化芸術の分野でオリンピックに匹敵するのはノーベル賞だろうか)競技に参加するごくごく例外的な能力をもった個人が「国民」としてのアイデンティティに回収され、国民がこの個人に自己同一化し、そしてその同一化の証しとして、国旗が掲げられ国歌が歌われる。国民は時には民族と同一視される。とくに日本では「日本人」とは日本国籍を持つものというニュアンスよりも民族的な集合名詞としての意味合いが強く、レイシズムを含意した概念としても受け取りうるものだ。

国家や国民が他と比べて優れていることを示そうとする意欲は、スポーツや芸術そのものに必然的な条件ではない。しかし、同時に、近代のスポーツも芸術も、「近代」という時代が持つ身体性や個人と集合的なアイデンティティのありかたと密接に関わってしか存在できないということも明らかである。この意味でいえばスポーツも芸術も学問も、これらに携わる人々が国家や国民としてのアイデンティティの構造から自由であることはできないし、逆に国家もまた一人一人の能力を「国民」の能力(優秀さ)とみなすことができるために、スポーツ、文化・芸術、学問などを支えようとする。

個人としての心身の技量や才能を「日本人」とか「日本」という集団性に還元し、彼や彼女は「日本人」を代表する者としてその栄誉が称えられる。国旗や国歌はこのことを可視化する装置である。敵を倒すことへの歓喜を国別の競技は繰り返し生み出し、これを戦争とは異なる平和の祭典とみなすが、大衆の心理のなかに醸成される敵と味方、歓喜と悲哀の感情の構造は全く同じものだ。大衆は、こうした国家や国民という観念に自らを同調させて感情的な一体化を繰り返し経験として刷り込まれ、その結果として、この経験的な感情を疑うことのできない「実体」あるものとして誤認し、国家や国民を実体あるものへと自ら押し上げ、そこに自らも帰属すると感じる主体になる。

スポーツ競技は身体を伴うだけに、そこには殺す/殺される、という身体が極限で経験する敵と味方の間の闘争関係が巧に代位あるいは隠喩として組み込まれている。スポーツの「争い」は実際の戦争のように人を殺すわけではない、その意味で、国家間の争いを戦争とは別のスタイルで実現できるという意味で「平和」な祭典なのだ、と肯定的にも言われる。しかし、これは肯定すべきことというよりも戦争を支える感情を再生産する仕掛けであることを理解すべきだろう。将来においてありうる敵との殺し合いの感情へと容易に転移できるような、国家と国民という集合的なアイデンティティを人的な被害なしに再生産できるという意味で、オリンピックのような国別のスポーツは、国家にとって意味のある(国家財政を投資する価値のある)イベントなのだ。

4.2 問題の本質はスポーツと戦争の相同性にある

このように、オリンピックのような国別のスポーツは、「殺す」「殺される」当事者になるかどうかではなく、敵意を醸成する感情の共同性が戦争の敵―味方を生み出す感情の共同性とおなじ性格をもっている。スポーツで対戦相手となる選手たちを「敵」とみなして日本の選手が勝利すること、敵をやっつけろという感情の昂りを醸成できるように、利害関係もなければ恨みをもつ根拠もない、事実上メディアの報道でしか知ることのできない相手を憎むことが可能だということがスポーツの歓喜の構造の背景にある。もし人々がスポーツに歓喜できないのであれば、スポーツはメディアの関心を呼ばず、大衆文化としても普及しなかったに違いない。「敵」の存在、しかも国別でそれが設定されているということ、そしてその敵を憎む合理的な理由などなにもないということ、この構図のなかで人々が歓喜するということ。その歓喜の締め括りに、勝者にのみ許される国家を象徴する旗と歌が披露されるという儀式は、すべての敵対的な歓喜の感情が最終的に勝者の国家の象徴に集約されて結末へと至る、不合理極まりない感情の構造を正当化する仕掛けをもっている。国際スポーツはこの意味で「平和」を装いながら戦争の感情を正当化するものでしかない。

おわりに

戦争放棄という重要な私たちにとっての課題は、武器や兵器を廃棄するだけでなく、戦争の心情を形成する国家や国民へと収斂するアイデンティティ形成の文化的なイデオロギー装置をいかにして打ち砕くか、という課題をも含むものでなければならない。オリンピックでいえば、日の丸君が代は、歴史の記憶のなかの戦争との繋がりだけでなく、スポーツそれ自体に組み込まれた敵意の醸成の装置になっているということが問題なのだ。6

そして、憲法をめぐる喫緊の状況のなかで、私たちが時間を費して真剣に議論すべきなのは、近代国家としての日本と資本主義としての日本、近代以降、新旧の別はあっても「憲法」に基づくナショナリズムを基本的な統治構造として持ち、資本主義としての搾取と侵略の構造を維持してきたこと、このような日本を文字通りの意味で総括して、私たちは、次の社会を「日本」とは呼びえない何ものかとして構想する創造/想像力としてどのように獲得するか、という徹底した「夢」を追求し続けることこそが今必要なのではないかと思う。

脚注:

1  近代の伝統的な労働運動や階級闘争が自らの立場として「プロレタリア国際主義」をとるとき、そこには明確に「国民」に収斂させられるアイデンティティへの拒否があった。しかし、戦争の時代は、この拒否を貫徹することの困難をもたらし、多くの左翼の運動は国民主義へと変質する。この変質を巧みに横取りして成り立ってきたのが「国家社会主義」のイデオロギーである。こうした構図はネオナチや極右が左翼の通俗的な解釈を横取りして反資本主義を標榜するなかにも継承されている。

2  現在は、もはや戦後ではなく、対テロ戦争という「戦争」を米国とともに担う国家になっているという意味でいえば、戦時である。戦争とは、宣戦布告し、戦場に戦闘部隊を派遣することをもって開戦とみなすことで生じる事態ではないというのが1945年以降の戦争の現実だ。武装した兵士と武器弾薬や戦闘機や戦車などの兵器だけが兵力・武力なのではない。武力行使は、その背後に広範囲にわたる兵站を必要とし、兵站の更に背後には、武力行使を持続的に可能にするような経済構造と政治的な意思決定、そしてなによりも「国民」の同意と同調をもたらす思想信条の環境が準備されていなければならない。これらが一体となり、また複数の同盟国がこれらの構造を分業として担うなかで、日本は、兵士による殺人を直接担っていないというに過ぎない。朝鮮戦争、ベトナム戦争の時代から現在まで、日本は常に戦争の後方支援と兵站を担うことによって、戦争に加担してきた。戦争責任の問題は、過去の侵略戦争、植民地支配の問題に限られるのではなく、今現在の戦争に関して問わているのだ。

3  近代日本が、天皇を現人神と定めたことの荒唐無稽さは笑い話で済ませられない。近代科学が近代国家を支える知識をなし、近代医学や生物学もまたその科学としての評価を妨げられることはなかった。しかし、科学者たちは、天皇が神であることを科学的に立証しようとしたことはなかった。天皇を現人神とするといった荒唐無稽は非科学的な言説を国家の理念と科学者たちの科学的な知識とが彼らのかなかで矛盾を自覚されることなく共存したのである。こうした共存は軽視すべきでない。客観的な科学は虚構としての国家の観念や宗教的な信条の有効な反論にはなりえないのである。むしろ、科学者ですら神を信じるということを通じて、神の虚構が「真実」の外観をまとうことになり、これが虚構を強化したというべきだろう。

4  虚構だというのは、憲法であれ法であれ、それらが「書かれたテキスト」でしかないからだ。文章として表記されたものは現実そのものではない。現実を指し示すための記号である。この記号に意味を与えるのが、解釈の権力である。私たちが憲法を解釈したり理解する自由があるとしても、その自由は権力作用を剥奪された解釈の自由でしかなく、それが実体的な効果をもつことができるためには、司法の判断に委ねることを強いられる。言論表現の自由は重要な権利だが、この権利には表現を実体化できる力はない。

5  これはなにも9条に限らない。たとえば、残酷な刑罰を禁じた36条(公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。 )は死刑を明記していないから死刑制度が存続しているとすれば、死刑を明記すべきだという改正は必要なことだ。(そもそも監獄が残虐な刑罰ではない、とみなす考え方自体が疑われるべきなのだが)

6  国別で身体の技芸を競う必然性はないだけでなく、いわゆるスポーツと呼ばれる競技そのものもまた、それが身体技芸として普遍的な価値をもつものではないということ、

(2018年2月25日 都教委の暴走をとめよう!都教委包囲・首都圏ネット集会の講演資料より)

 

貨幣と市場の政治学

1 はじめに――貨幣と資本主義批判

1.1 生存の構造と資本主義的市場経済

人間が社会集団を構成して持続的に世代的な再生産を維持し、一定の人口(増減はあってもいいが)を維持することができるために、「経済」と呼びならわされてきた仕組みが、どの時代、どの社会にあっても組み込まれていなければならなない。(これを「経済」と呼ぶ必要はかならずしもないが)

経済は、人々の生存を維持する上で必要なモノを生産、供給するためのものであるから、市場経済だけを意味する必要もないし、家族(親族)組織のように、近代社会では経験的に「経済」とは呼ばれない組織も、見方を変えれば生産や供給に関与しているれっきとした経済システムの一部を担うものだと理解する必要がある。いかなる組織、制度、集団もそのほとんどが何らかの意味で経済の機能を果しているのだ。同様に、社会は人々を統治するためにシステム(一般に政治と呼ばれるが)を組み込んでいるが、政治のシステムもまた、行政、立法、司法の諸組織だけを意味しているのではなく、一般に経済の組織とみなされている資本や労働の組織や制度もまた統治機構としての役割を担う。家族もまた親密な集団を組織化することが可能なようなルールや支配と被支配の関係を含むという意味で政治的な機能を果している。

1.2 利潤目的のメカニズムと生存のメカニズム

資本主義は、資本の利潤目的の活動を動力として社会の人口の生存を維持するシステムだ。利潤を目的とする組織は社会の人口の生存を結果として支えることができるということを証明するための理論が、近代の経済学という学問分野だ。しかし、その実態からすればむしろ、資本の利潤目的の活動を正当化するために、社会の人口を維持する生存のメカニズムとして最適な仕組みとして資本を中核に置く市場経済があるのだという本末転倒した理屈づけが経済学という学問を形成してきた。この本末転倒した理屈は、人間個々人の私的な利益や欲望を最大化することを自己目的とする行動が、結果として社会全体の生存を最適化するという風にも主張されてきた。個人が「自由」に自己の利益の最大化を図るという身勝手に見える行動が、逆に社会の「幸福」も最大化するはずだという理屈は、人々が市場経済的な私利私欲を正当化するための学問的な裏付けを与える役割も果してきた。

この利潤と私的な利益を社会の豊かさや繁栄をもたらすものとして正当化する主張は、実は、証明されたことは今まで一度もない。資本主義的な市場経済が資本に一定の利益をもたらし、資本蓄積を通じてここ数世紀の間に莫大な市場経済的な富を蓄積してきた背景には、資本主義的な市場経済のメカニズムがあるということは説明できる。しかし、このメカニズムが社会の人口の生存を維持することに成功してきたかどうか(失業者は市場経済のシステムの内部では生きられない)、社会を構成する人々の「豊かさ」を保障するシステムとして機能してきたかどうか(世界規模でみれば、19世紀からの2世紀で世界の貧富の格差は国別でみて70倍以上に拡大した)については、常に有力な反証によって異論を完璧に退けるまでにはなっていない。

資本による利潤目的の活動のメカニズムと人々の生存のメカニズムは相互に一体のものにはなっておらず、別々のメカニズムとして機能している。資本のメカニズムと生存のメカニズムの二つのメカニズムの間を人々は日常的に往来する。朝出勤して会社に行くのは、人が資本のメカニズムに入ることを意味している、という風にとりあえずイメージすることはできるが、これは必ずしも正しいとはいえない。人々の24時間は、会社の外にいようが家で睡眠している時間であろうが、こうした時間が人々の<労働力>を再生産する時間として機能しているという面からすれば、これもまた資本のメカニズムの内部にあるといえる。生存のメカニズムはむしろこうした日常の時間や経験として実感されるレベルではなく、その背後で、人々の実感や経験を越えたレベルで機能している。

1.3 資本に依存しない生存のメカニズムとは

資本の搾取からの解放というマルクス主義が掲げた課題は、それ自体としては間違ってはいないが、資本に依存しない生存のメカニズムとは何なのか、それはどのように変容するのかという問題については十分な関心をもってこなかったように思う。

端的な問いとしては、資本主義が供給してきた諸々の商品(財やサービス)が資本の廃棄によって労働者がこれらを供給するとすれば、財やサービスの具体的な構成は資本主義社会とは何ひとつ変らないことになる。資本の利潤として資本が懐に入れる剰余価値=利潤部分は、人々に配分されるから、分配は変るが、社会全体が受けとる財やサービスの構成は変わらない。しかし、たぶん、こうした単純な資本家の労働者への置き換えを社会主義だと主張することで満足できないことは明かだ。では何が問題なのか。

資本主義が資本の利潤目的で供給してきた商品には、様々な紛い物や社会にとって有害な物も含まれる。このことはマルクスも繰り返し指摘してきた。だから、資本のない社会では、利潤目的に従属して商品の使用価値が毀損されるような条件が排除されて、人々は自らの必要を満すためのモノを自ら生み出すことになるだろう。言わば、自分で食べるモノを作る人間が、健康に害のあるものや手抜きの不味い食事を作るよりは旨い食べ物を作りたいと思うように、社会全体が社会にとって好ましいものを社会の主体である人々が―資本に依存せずに、直接に―生み出す。これはいわば、生存のメカニズムを直接何にも媒介されないで実現する社会、ということを意味している。

1.4 生存のメカニズムの直接的な実現は不可能だ

こうした社会が実現できればそれに越したことはないが、実は社会とはそのようには実現できない、というところが重要なのだ。資本の廃棄は重要な課題であり、これは、人々が資本主義的な搾取から解放されるための必須の条件である。しかし、その結果が、生存を直接実現する社会を生み出すことがないのは、生存のメカニズムは、社会全体の構造を支えるものではあっても、この構造を人々が経験とか人生とかとして生きる世界それ自体にはなりえないのである。なぜなのか?

もし人がロビンソン・クルーソーのように自給自足の生活をしているのであれば、こうした生存のメカニズムを直接実現することはできる。ところが人が二人になるや、生存のメカニズムは二人の関係によって覆われることになる。関係という「覆い」によって生存の直接性は背後に退き、関係というある種の「虚構」のメカニズムが生成される。生存の条件の達成は、この二人が何らかの形で相互に相手に依存することを通じて実現されることになるから、関係という迂回路を通ることになる。

1.5 ことばと相互理解

人間は一人では生きられず集団を構成するが、その意味することは、この集団をなす人々の関係は広義の意味でのコミュニケーションによって構築されるということだ。コミュニケーションには様々な要素が含まれる。とりわけ「ことば」はその中心的な役割りを果す。ことばを通じて人々は、相互の感情や意思などを伝えあう。感じたことを「ことば」に置き換える。表情や仕草などもある種の「ことば」だ。人々は「ことば」(文字だけではなく発話も含む)通じて、「世界」に関する観念を構築し、この「世界」を人々は共有しあっているものとして相互に信認しあう様々な手続きを編み出す。「ことば」は、身振りであってもよく、様々な手段で自分の意思を外部に表明すること、声帯を使うか顔の筋肉を使うか、手を使うか、衣服の色やデザインを使うか、それは本質ではない。この意思を他者が「理解」すること、そしてこの両者の間に意思の疎通が可能であるという共通した了解が成り立つことがあればよい。

もちろん、こうした意思疎通の了解を証明することは容易ではなく、多くの場合、客観的あるいは科学的に両者の理解が完全に同じものであるという確認なしに、「そう思う」ということで成り立つものだ。誤解はコミュニケーションにおける重要で不可欠な要素であり、また、同時に嘘や虚偽をあたかも「真実」であるかのように表明することもまた「ことば」の重要な性質である。

1.6 真実の一部としての自覚された虚構あるいは嘘――世界を構成するものとして

文学や詩などの芸術と呼ばれる分野は、この「嘘」をむしろ崇高なものへと押し上げる領域であり、嘘や虚構がそれ自体として価値を持つ世界だ。現実にはありえない物語や表現がここでは生み出されて人々は感動する。人々は嘘や虚構に感動できるし、それを素晴しいものとして尊重することもできる。同時にこうした虚構の世界が人々の現実の世界に影響を及ぼすことにもなる。人々が世界に働きかけるときに、世界を見る見方や、世界に働きかけるときに人々は虚構の世界が与えた「世界」についての見え方に影響されることもしばしばだ。文学によって人生の進路を変えるとかということは、即席ラーメンを袋に書いてあるレシピ通りに作ること同様、世界と自分の関わり方に変化をもたらす力をもっている。たぶん、即席ラーメンよりもその影響力はおおきいだろうと思う。

文学であれ美術であれ、それらが生み出す虚構の世界は、人々の内面の世界のなかでは、一つの「真実」を構成している。その真実とは、こうした虚構の世界を経験したという事実であり、その経験によって、経験するまでは考えもしなかったような世界についての、あるいは自分自身の生き方やこれまでの経験への捉え返しそれ自体の修正やときには否定すら生み出すことになる。虚構は人の内面世界で、真実を構成する現実世界の経験の一部として埋め込まれる。よくよく考えれば、私たちの経験という現実の(虚構とか嘘とは言えない)体験のなかに、読書とか美術とか映画といった表現の世界もまた含まれており、後者が文字や絵の具の痕跡や光の強弱が織り成す物質の世界としてではなく「意味」を担うモノとして理解され受容される。このこと自体はまぎれもない事実であるが、それは虚構を経験するという事実だから、事実としての虚構を経験するということになる。人間の経験の大半はこうした虚構を事実として経験する世界から成り立っている。そうではない、事実を事実として経験する世界はほとんどない。つまり事実の直接性は人間にとってはこれを「経験」として捉えることが極めて困難なのだ。その困難の原因をなしているのが、人間が世界を理解するときに常に広義の意味での「ことば」を介する以外にないという特異な世界との関わり方にある。

1.7 真実を装う虚構あるいは嘘――世界を構成するものとしての宗教、学問、国家

文学とか芸術を引き合いに出したが、それだけではなく、人々の内面世界がより具体的に世界それ自体を変えうる力を集団的に構築する場合がある。その典型が宗教的な信仰と呼ばれる「嘘」あるいは「虚構」である。神と呼ばれる証明しようのない絶対的な存在をめぐる物語が宗教の重要な要素にあるとして、この神の物語を文学や絵画のように虚構の力として受容するのではなく、それ自体が虚構であることを否定して真実とか真理であるとして受容あるいは理解させようとする。これが虚構を前提としてその崇高さを標榜する文学や芸術とは決定的に異なるところだ。真実としての神を内面化した人間集団は、この真実に沿って世界を再構築しようとする。真実としての神が観念としてではなく現実としての世界のなかに物質化されるように振る舞う。こうして宗教上の様々な建築物や教義を教育する制度などからイコンや経典ということばで書かれたテキスト、芸術の力を借りて非言語的な表現によって真理を具体化しようとする。

虚構や嘘が現実世界に具体的物質的な実体を構築することは可能である。この可能性を支えているのは、単なる人間の妄想や創造ではなく、虚構を現実世界の中に組み込むために現実世界を構築している物的な構造に転換できる能力があるかどうかに依存する。神を信仰する人々が神殿を造営するときに必要なのは、神への信仰というモチベーションとともに、神殿を設計し、構造物として建設するための建築学や工学の技術・知識である。これらの技術や知識は神の存在には依存せず、むしろ構造計算だとか諸々の工学的な学問・知識に属するものだ。こうした工学的な知識が動員されることで虚構が具体的な現実の世界のなかに組み込まれる。こうして可視的で触ることもできる物質としての神殿が出来上がったとして、人々はこれを単なる工学的な条件を満した建築物として「理解」するのではなく、それを「神殿」として理解する。こうして神は物質化されることになる。宗教的な虚構は現実の世界と不可分一体のものとして存在している。虚構と現実という区別はこの意味では、この宗教的な信仰に帰依する人間集団を外部から観察するよそ者が便宜的に与えた、このよそ者にとっての嘘と現実の区別であるに過ぎない。

神殿は壊すことも焼き払うこともできるが、それによって神が滅ぶとみなすことも可能だが、むしろこうした現実世界にある物質的な構築物を廃棄することによって人々が内面世界に構築した虚構を退けることにはならない。虚構を廃棄する作業は、人々が経験として実感している内面世界を一旦リセットする作業が必要になる。この問題がかなりやっかいなのは、人々の内面的な世界と外部の世界とは言語上はあたかも区別可能なのように表現せざるをえない(これは私の表現能力の未熟さによるのだが)が、実は同じ構造の異なる側面なのである。この構造は社会そのもの、つまり現在であれば資本主義的な社会それ自体の構造である。

虚構を経験するための文学や芸術から虚構を真実(真理)とする宗教的な信仰から、狭義の意味での「経済」に立ち戻ってこの問題を考えてみよう。神殿と建築学の関係は、市場や資本と経済学の関係にもいえることだし、国家と政治学や法学にもいえることだ。いずれも真理が虚構を支え、虚構に物質的な実体を付与することに加担する。

2 商品――虚構の現実性と「ことば」というやっかいな難問

2.1 辞書の意味と商品の意味

「商品」という物的な現実体について上記の論点との関わりを考えてみよう。

広辞苑の初版では、自動車を「内燃機関を動力とする軌道をもたない四輪で移動する輸送機械」といった定義を与えている。この定義は理論的には間違っていないし、統計上も自動車は「輸送機械」として分類されているから、実用上もこの定義が意味をなさないわけではない。しかし、自動車が商品の使用価値として売買されるときにはこの定義はほとんど意味をなさない。買い手も売り手も自動車はこのようなモノとしてではなく、この定義では明示されていないそれ以外の要素によって自動車の使用価値を規定しようとする。それは広告に端的に示されるし、人々が自動車を「買いたい」と思うときの動機に即して考えれば容易にわかる事柄である。

自動車という使用価値は、市場経済に固有の意味をまとうことなしには商品にはならない。この固有の意味は、ある面では文学や芸術のような虚構を露出させた「物語」がもつ買い手(候補者)の想像力や欲望を喚起する機能を動員するし、また宗教的な信仰のように虚構を「真実」とするような機能―とりわけ自動車メーカーの企業としての神話―を動員するかもしれない。買い手は自分の欲望を実感として感じることを否定できないから、その欲望を肯定しがちだ。しかし欲望は商品の使用価値をめぐって売り手が構築する虚構を混じえた意味の刺激によって生成されたものであって、自然なもの、あるいは生存の構造に根拠をもつものではない。商品の意味は人々の実感によって経験として繰入れられる。

2.2 売り手と買い手ん相互行為と意味の生成

アダム・スミスは商品としての「ピン(まち針)」を、マルクスはリンネルとか上着とか小麦を例に交換を説明した。この説明は非常にプリミティブな市場では成り立つが、こうした一般名詞で商品を交換する世界は近代の市場経済のなかでは極めてマレだ。むしろこうしたモノの物質的な使用価値とは相対的に異なる意味を付与されたものとして市場に供給される。どちらの場合であれ、売り手と買い手の間で生じるのは、売り手は買い手の欲望を喚起する何らかの戦術を行使し、買い手はこの売り手の攻勢に対して買うかどうかの意思決定の決定権を握ることによってその攻勢に立ち向かいながら、欲望の構成を調整するということだ。この売り手と買い手の相互行為のなかで、市場は社会におけるモノの意味を生成し再生産する。ここには市場に固有の意味の世界、言い換えれば、市場経済に固有の虚構と現実との不可分一体の構造が形成されるとともに、この構造を前提とした相互関係がとりむすばれる。

この構造のなかでは、自動車が、たとえ生存に必須の使用価値を担っていたとしても、それはこの生存に根拠をもつ以上の「意味」なしには存在しえないし交換もされないということだ。近代的な市場経済が資本によって支配されているということは、このような構造を支える資本による虚構を含む意味の構造を指している。

2.3 資本主義の否定としての意味の否定――了解不可能な意味の世界をどのようにして創造するか

そうだとすれば、資本主義を否定して、その問題や矛盾を克服するということは、資本の意味の構造をその土台から覆すということでなければならなし。しかし、最大の困難は、こうした意味の世界は資本の側にしかなく、その買い手―大半が労働者階級に属するとされる大衆だが―の側にはない、ということではなく、買い手の欲望のなかに転移され大衆の日常生活を構成しているということである。

大衆は資本の虚構を自らの経験として主体的に意味を付与したり調整しながら生活のなかに取り入れるのである。自動車を買った買い手は、売り手の意味に束縛されずに自らの意味生成の主体として自分の自動車を再定義できるが、そうであったとしても、こうした再定義された自動車もまた資本主義的な生活のなかで、再び資本主義的な生活世界のなかに投げ戻されて人々の資本主義的な日常の一部を構成することになる。こうした大衆の主体的な意味生成の過程を資本は巧妙に横取りして、これを次に売る商品の意味づけのなかで利用する。

こうした資本に加担する構造から逸脱して、市場のモノを資本から切断して「使用」することは、資本主義の生活秩序や虚構の構造を覆す上で必須である。これは、一言でいえば、資本によっては理解しえないモノの使用を創案する想像力の問題である。つまり、資本主義が許容することのできない虚構の世界を構築することである。わけのわからない振舞いやスタイルは個人の孤独な営為というよりも、それ自体もまた集団的な営為として一定の広がりを獲得できたとき、そこには意味の世界の分節化が生まれる。文化のコードが分裂して、資本を遮断するのである。

商品の使用価値をめぐる虚構と現実世界を架橋する意味の世界は、マルクスが商品論で言及できなかった問題でもある。意味の世界が重要なのは、それが虚構であり「嘘」であり、しかも「ことば」はおしなべて虚構や嘘と不可分であり、要するに人間は嘘つきであることによってコミュニケーションを駆使できる存在だということを、現にある支配の構造への転覆の戦略としてどのように組込むかという問題である。革命にとって問題なのは「正しさ」ではなく虚構と嘘の想像力/創造力の問題である。革命家とは偉大な嘘つきである…!?

3 貨幣――一般的等価性と市場の政治学

3.1 一般的等価性は何に由来するのか

商品における意味生成は、売り手と買い手双方の相互行為を通じてモノの虚構を現実を構成する力とする。貨幣にも同様の意味をめぐる虚構のメカニズムがある。

マルクスは貨幣と呼ばれることになる一般的等価物としての商品の存在を、市場経済に参入する人々の「共同作業」だと述べている。つまり市場にいる人々が、歴史的にみれば「金」を貨幣とするという了解を形成することで、金は貨幣となる、ということだ。金という金属物質の有用性もまた社会のなかでの金の用途がどのようなものなのかに依存するから歴史的な性質をもつ(ともマルクスは述べている)が、高価な装飾品としての「意味」には、社会を構成する人々が虚構のなかで形成してきた神話や物語と関連づけられた意味の具体的な体現物などのように、物質性それ自体からは導くことのできない有用性がまとわりついている。王冠に用いられた金は王権を象徴する「モノ」となるが、王権そのものになるわけではない。また、王権という至高の権力を例えとして引き合いに出すためのもの(例えば、王権とは何の関りもない飲料に王冠のマークをほどこすのは単なる隠喩としての王冠の利用だが、それとは違う)でもない。

貨幣とされた「金」の一般的等価物としての性格は金という物質に由来するわけではなく、人々の共同意思に由来する。この共同意思とは金という物質に、他の商品にはない固有の意味、すなわち「どのような商品とも交換できる力をもつモノ」を与える。市場に参加する人々の信認によって「金」は貨幣になる。しかし難問は、どうして市場に参加する人々皆が例外なくある特定のモノに一般的等価性を付与し、貨幣として認めるのか、なぜ例外がないのか、という問題である。この難問をマルクスは価値形態論という『資本論』のなかでも最も難解だと言われる方法で解こうとした。しかし、マルスクの方法は、商品交換が一般的等価物を必要とすることを暗黙のうちに先取りして想定しているようにみえる。そうすることによってしか市場で唯一の一般的等価物を導くことができなかった。論理的な展開に現実による先取りが横入りしている。俗な言いまわしをすれば、一般的等価物は複数よりも一つの方が市場の交換にとって便利だということが経験的にも現実的などいう事実によりかからざるえをえなかった。

3.2 唯一の一般的等価物は市場ではなく分配から生まれる

一般的等価物としての性格を主張することはどの商品にも可能である。それを市場が受け入れるかどうかはまた別の話である。もしそうだとすれば、唯一の一般的等価物に収斂する過程は、市場それ自体からは生まれない。(この問題は、『資本論』第三巻の信用制度で中央銀行と発券の集中の議論にも共通する「難問」だ)

貨幣と呼ばれる商品が唯一のものとして、一般的等価性を独占する力は、市場の交換からは生まれない。こうした唯一の存在が生じるのは、交換ではなく分配の機構からだと思う。分配とは社会の統治機構が構成員に対してその生存を保障する必要と権力の正統性とを結びつける上で欠かすことのできないメカニズムだ。権力者が市場においてあらゆる商品との交換を保証するモノとして「金」を指定して、その一般的等価性の後見人になるときにのみ市場のなかに唯一性が生みだされる。市場はこうした意味での唯一性としての貨幣なしには機能しないということでいえば、市場は、その外部に一般的等価性を保証する力を持つ存在を必要とする、ということになる。この力は、その社会において唯一の力であること、つまり他に一般的等価性を主張するようなモノの登場を許さないような独占を維持できる力を持つことが必要であって、それは近代においては国家が担うことになる。この意味で貨幣とは、市場経済にとって必須の機能を担うだけでなく、それ自体が近代社会の権力の経済的な姿でもある。

3.3 労働の裏付けという問題

こうして市場は近代の統治機構に貨幣を媒介として接合されることになる。「金」のように労働に裏打ちされることによって、国家による信認を現実社会における労働という実体とリンクさせたわけだが、これは、市場経済が「共同体と共同体との間」の取り引きのメカニズムを担ってきたことから生じるもので、社会の分配に基づく交換に必須な一般的等価性のメカニズムだけでは説明できない。

複数の共同体(あるいは市場でもよいが)が相手を権力の正統性やその共同体に帰属することの是非についても相互に自己の正統性や帰属のみに依存して相手を「他者」とする場合、一般的等価性の信認は相手の権力に根拠を求めることはできない。だから、「労働」という実体によって支えられることになる。

3.4 分配と自由

他方で、分配が生成する一般的等価物の場合、分配の主体は、誰にどれだけの「貨幣」を分配すべきかのルールを策定しなければならないから、相手が何者なのかを知る必要がある。分配ではモノの関係が人と人との関係によって規制される。

しかし、このようにして分配された「貨幣」が、市場の交換のメカニズムのなかで機能するときにはこの「誰」という側面は不要になる。貨幣の一般的等価性が人が誰であるかを不問として、その一般的等価性のみが信認されることで全ての取り引きが完結する。こうして市場は匿名であっても相互に信認しあう関係を作り出した。相手が誰であるかを知らなくても、相互に信認しあう関係が市場経済では可能になった。その結果として、分配の主体はもはや市場を流通する「貨幣」が誰と誰との間で流通しているのか、どのような取り引きを媒介しているのかを把握できなくなった。

こうして市場で人々は貨幣という一般的等価物が保証する無限の貨幣欲望を引き受けるかわりに「自由」を手に入れることになる。国家は、こうした市場の自由に対して「法」という権力によってその規範を策定することを通じて間接的な制御を行うが、その際に「貨幣」が重要な手段を担うことになる。

3.5 貨幣の「ことば」と権力

貨幣に込められた意味には、市場の交換に必要な一般的等価物としての機能という側面だけでなく、この一般的等価性を保証する唯一の権力による「お墨付き」という意味が含まれる。このお墨付きを人々が感覚的に把握できるためには、「金」はで地金はなく、刻印が打たれる。そしてまた、一般的等価性には特別な貨幣としての名称が与えられる。ドルとか円とか元とか。先に「ことば」と意味について述べたように、社会の構成員が世界を理解するためには意味による世界の了解構造が必要だ。「ことば」はこの了解構造と深く関わる。自動車を単なる内燃機関による輸送機械であるだけでなく、フェラーリとかレクサスとかといったブランドやデザインの「意味」が商品の使用価値と不可分であるように、貨幣は単なる「金」ではないし、貨幣の名称もまた単に便宜的で名目的なものではなく、その名称や外形それ自体が貨幣の本質の一部をなす。

マルクスの資本主義批判の最も弱い部分はこうした使用価値の意味作用であり、この意味作用を構成している「ことば」が果してきた役割りを、抽象的な価値と労働の世界から機械的に分離して、社会主義、共産主義へと継承可能な普遍的な物質的生産の世界だと誤認したところにある。意味のないモノの世界はなく、意味を構成するモノの世界は意味と不可分な歴史的な産物であって、近代であれば使用価値とその意味もまた資本主義的な産物として、この特殊な意味とモノの世界を媒介しないと生存の構造を維持できないように仕組まれている。人々は、だから、資本主義を宿命として誤認し、この世界を与件として最適なシステムを模索するという徒労な作業(これを近代の学問というわけだが)に知的なエネルギーを費す。こうしたモノの意味は次の時代に肯定的に継承されるべきではないのであって、使用価値それ自体もまた廃棄の対象なのである。

3.6 強制的で移譲された信認の構造の限界

貨幣を支える国家による信認の構造は、市場の全ての人々の文字通りの意味での信認を必要とはしない。人々が何らかの手続で――民主主義であれ独裁であれ――国家に移譲した統治権力の一部に、市場の秩序に必要な規範も含まれるからだ。同時に、国家は市場の交換に対して「分配」の権力として、市場を補完するが、同時に、この分配の権力から派生する一般的等価性をもつ「貨幣」の意味世界を支配する。国家というこれまた実体のあいまいな虚構の構築物は経済的な実体として市場の秩序とその不可欠な前提としての一般的等価物のお墨付きを与えることで、その虚構を現実の世界によって根拠づける。国家は憲法や法制度から官僚機構、裁判所による命令、意思決定のための討議も含めて、すべてが「ことば」によって織り成された世界だ。

そもそも市場経済が存在する一つの理由は、物々交換が成り立つ上で必要な人々の需給をマッチングさせるのに必要な情報を処理することができないという人間の知識と情報処理能力の限界にあった。「上着が欲しいけれども、自分が持っているリンネル20ヤール(1ヤール=91センチ)と交換してくれる人がこの市場のどこかにいるだろうか?」というわけだ。貨幣はこうした難問を解決してくれる。しかし貨幣の一般的等価性を支える国家の信認と国家の信認を支える市場経済(国民経済として国家の「富」の源泉であり、分配の原資を供給する構造)という相互のもたれ合いは、資本が市場を支配し、国境を越えた市場の広がりなしには資本蓄積が維持できない規模になると、国家の領域と市場の領域との摩擦を生み出す。

人々が国境を越えて移動すると同時に、複数の国家をまたがる人々のコミュニティ(移民や難民が暮す「先進国」と出身国に暮す親族や友人たち、あるいはことばや宗教や文化といって非物質的な共同性)が国境と摩擦を引き起こす。この摩擦の背景には生存の構造がある。生存の構造と資本=市場が織り成す資本主義的な意味=使用価値と価値の世界との間に調整が不能なほどの齟齬が生じて亀裂が生まれる。つまり一般的等価性という貨幣の性質を支えてきた国家に対して、資本と市場の規模が肥大化した結果として、国家への信認が揺らいできたともいえる。

3.7 仮想通貨

仮想通貨は、この問題を解決するための市場の再構築という側面をもっている。一般的等価性を国家に依存しない仕組みである。それを人間の能力では不可能な情報処理の力を借りて実現することが可能になった。相互の信頼を国家ではなく、暗号技術という純粋に数学的な世界に委ねたのだ。客観的に誰もが否定しえない仕組によって相互の信認を行なうという仕組みだ。人を信じることではなく数学のアルゴリズムを信じるということになる。

ここで達成されるのは、市場経済が必要とする交換における最低限の条件である。つまり、貨幣に対して合意した価格で売り手から買い手にモノの所有権や処分権が移転し、買い手から売り手に貨幣が引き渡されるということだ。買い手にとって必要なのはモノであり、売り手が誰かということが必要なわけではないし、売り手にとっても貨幣が必要であり売り手の素性が必須の条件ではない。この人と人との関係がモノとモノとの関係に置換されることで、人はモノの背後に退き「匿名性」を獲得する。これが市場経済の自由であり、この自由が「ことば」の世界を通じて、一方では統治機構に、他方ではコミュニティのコミュニケーションに浸透した。仮想通貨はこうした意味での近代的な自由を再度市場経済の交換のメカニズムのなかで再生させようとする。現実の市場経済ではもはや不可能な市場の匿名性をサイバースペースで再度実現しようというわけだ。

こうした動きは、仮想通貨が依存する情報処理の世界が、国家の情報処理能力を高度化させて、「国民」と「よそ者」全体に対して、その管理をコンピュータの情報処理能力にあわせて高度化させていわゆる監視社会を構築してきたこと、市場では匿名の買い手が「誰」なのかを詮索する技術が高度化し、信用制度(クレジットカード社会)が現金取り引きの匿名の自由を抑圧して人々の「自由」を奪いはじめたこと、こうして市場の行動も市場外の行動も常に追跡可能で逃げ場がなくなる。国家がもつ分配の権力もまた、誰にどれだけ分配すればどのような権力作用が生じ権力の正統性を強化することに寄与するのかを詳細に計算できるようになる。(こうした「政治算術」の動機は近代の統計学ととも近代国家が本質的にもっている国民統治の欲望に根差している)仮想通貨を含む、サイバースペースのアンダーグラウンド経済は、こうした事態に対する近代的な「自由」の側からの反作用でもある。

3.8 自由と平等をともに実現する可能性

権力の情報処理技術が匿名性を奪う方向に進んだとすれば、その裏面で、同じ技術を匿名性の回復の方向で用いようとしたのが暗号技術だ。最大限必要な情報を網羅的に収集して解析する技術があるとすれば、それを回避できる技術を持つことによって、この網羅的な監視からの隠れ家を確保することで、この高度な監視技術から自分だけは逃れうるシェルターを権力者たちは欲しがる。国家も資本も網羅的に監視し情報を収集するが、自分だけはこの監視の対象にならず、人々にその正体を晒したくない、というわけだ。これはいたちごっこだが、この両面を国家と資本の権力は必要としてきた。これが情報処理技術を高度化させた。皮肉なことに、この網羅的監視は「技術」であり、コンピュータのプログラムに依存するから、一定の知識を持つものなら誰でも実現可能なものでもある。核兵器と違って、個人の手に届くところにある。机上のパソコンでも実現可能だ。仮想通貨は、この意味でいえば明らかに市場の匿名性を確保することを通じて、国家が貨幣を媒介に握ろうとしている市場への支配に対する防波堤を築く動機があるが、それはいわゆるネオリベラリズムの市場原理主義と一致するとは限らないし、投機の手段になるだけでもないし、闇の取り引き手段になるだけでもない、かもしれない。

仮想通貨が提起した問題は、自由と匿名性を再構築し、国家による一般的等価性への信認に代替できる中心を持たない分散的で国境を越えた信認のネットワークによって一般的等価性を構築できるか、という問題である。この問題に対して、更に、どのようにしたら、これに市場のメカニズムが平等に寄与し国家の後ろ盾を持たない生存の構造と調和するメカニズムへと転換できるか、という追加の問いを提起しなければならない。もしこれに市場経済が、たとえサイバースペースや情報処理技術を駆使しても満足な答えを出せないなら、市場経済を周縁に追放し(つまり近代国家をも追放することになるが)何か別の「回り道」を「ことば」の世界を駆使して編み出さなければならない。それなしに資本主義の次は見えないだろう。

(2018年2月20日ATTAC首都圏の連続学習会で配布した資料)

 

「新元号制定に反対する署名」 集めにご協力ください

仲間のみなさんへ★おねがい★「新元号制定に反対する署名」集めにご協力ください

2019 年 5 月 1 日の天皇代替わりにむけて、政府は新しい元号を 2018 年中に発表するとしています。

一昨年来、首都圏各地でさまざまなかたちで反天皇制の運動に取り組んできた私たちは、この新元号制定に反対する署名活動を皆さんによびかけます!

「昭和」の時代と比べれば、市民生活から元号は急速に姿を消しつつあります。インターネットでも元号不要論・不便論が公然と語られだしてきました。「最も生活に身近な天皇制」であるはずの元号と、民衆意識との乖離は着実に進んでいるのです。この天皇制の大きな弱点である元号制度を突くことを通じて、「終わりにしよう天皇制」の声を、共に、さらに広げていきましょう!

「8・8天皇メッセージ」から始まった「平成」代替わり反対闘争の重要な一環として、この署名運動に取り組んでいただけるようお願いします。目標は 5000 筆です。たくさんの仲間と共同できることを心待ちにしています。(2018/2/1)

1 署名を集めて、集約先 または 取り扱い団体 まで ご郵送 下さい
2 署名の取り扱い団体 (個人ももちろん可) になってください
新元号制定に反対する取組みをするチャンスは、そう何回もないと思います。運動の広がりを示
すために、ぜひ、皆さん自身が取り扱い団体・個人となって、署名集約のハブになってください。
3 街頭署名集めを計画してください
このテーマは街頭署名集めもしやすいテーマだと思います。ぜひ計画してください。一緒にやる仲間が見つからない方は、下記いずれかの連絡先までお気軽にご相談ください。
4 提出行動にご参加ください
署名の集まり具合や、新元号制定に向けた政府の動きなどを勘案して、内閣府に対して署名提出行動を行います。あらためて日程をお知らせしますので、ご参加ください。

署名用紙のダウンロード(PDF)

「元号はいらない署名運動」呼びかけ団体
■反天皇制運動連絡会
千代田区神田神保町 1-21-7-2A 淡路町事務所気付 hanten@ten-no.net
■「日の丸・君が代」の法制化と強制に反対する神奈川の会
横浜市神奈川区鶴屋町 2-24-2 かながわ県民センター9FレターケースNO.333
■靖国・天皇制問題情報センター 新宿区西早稲田 2-3-18-31 キリスト教事業所連帯合同労組気付
■天皇制いらないデモ実行委員会 立川市富士見町 2-12-10-504 立川テント村気付 tennoout@gmail.com