オリンピックナショナリズム天皇制批判文化

(再録)大衆動員に使われた聖火——官僚の描いた日本地図の中心

近代オリンピックと聖火

オリンピックをはじめとする国際的なスポーツ競技は、なぜ国別に勝敗を争い、勝者の属する国家の国旗を掲揚し、国歌を演奏するという勝利の儀礼を行うのだろうか。このあまりにも当り前になっているスポーツ競技の儀礼風景は、観衆に向けられたナショナル。アイデンティティ確認の儀礼であるといっても間違いではない。オリンピックをこうした視点で見ると、すぐれて観衆に向けて組み立てられた動員のイベントであるといえる。オリンピックの競技それ自体は、選抜されたスポーツ選手による国家間の競争として展開されるわけで、競技に参加しない多くの人びとは、観衆として受動的な立場におかれる。これに対して、オリンピック競技に付随するさまざまな行事の中では、観衆が主役の位置をしめる仕掛けが登場する。とりわけ、聖火をめぐる一連のイベントは、その規模と動員のあり方からみて、大衆動員のメインともいえるものだ。

聖火が近代オリンピックに登場するのは、ナチスによるベルリン大会が最初だ。ナチス参謀本部は、聖火リレーコースを軍事侵略のためのルート調査として利用した。しかし、戦後、一時期廃止論も出たとはいえ、聖火リレーがもったこうした政治的軍事的な意図は無視され、逆に平和のシンボルのようにみなされて継続されていくことになる。。たとえば、六二年当時の組織委員会事総長の田畑政治はオリンピック東京大会の組織委員会の会報で、聖火について次のように述べている。
「当時はヒトラー全盛期で、国威宣揚を主眼にして、ドイツの財的・科学的。芸術的すべてのものを投入したのがベルリン大会である。しかし実際運営したのはヒトラーでなくスポーツ哲学者のカール・ディームで、東京大会における私のような立場にあって、彼の考えが表現されたのである。彼の一番の功績は、はじめてオリンピアの火をベルリンの競技場まで、地上を走って運んだことである。」(田畑政治「大会の象徴」『東京オリンピック」六二年二月二五日号)

ここには、政治とスポーツの関係についての月並みであるけれども、だからこそ半ば了解済みの政治とスポーツの間の暗黙の協調関係が表明されている。政治にとっての国威発揚になることを田畑は認めつつ、「しかし」という接続詞で形式的にはこの政治的な文脈をスポーツの文脈と切ってみせる。しかし、これはレトリックでしかない。いうまでもなくスポーツ競技としての最善の条件を整えるということと国家的な関与、政治的な調整、大衆的な動員は不可分だからだ。そのことは、聖火にはっきりとみてとれる。聖火それ自体はオリンピックのスポーツ競技とは何の関係もない。関係ないものがあたかも重要な意味をもつかのように意義づけられ、開会式・閉会式の儀式の中心をにない、オリンピックのシンボルとなる、そうした一連の物語に政治的な仕掛が隠されている。

東京オリンピックにおける聖火のルート選び

東京オリンピックの聖火はどのように準備されたのだろうか。当初、国外ルートは、ナチス大会の聖火ルートを考案したとされるカール・ディームがシルクロード説を唱えたりしたが、国際情勢から見て不可能と判断された。しかし、ルートについては、できれば陸路という希望が強かったようで、一九六一年から半年かけて「朝日新聞」が六名の踏査隊を組織して聖火の陸路コースを調査するといったことも行われたが、陸路の場合、「複雑な中近東、アジアの政治情勢や砂漠を越え、ジャングルを突破しなければならない等、相当の困難を覚悟しなければならない」(前掲)という判断がかなり早い時期に出され、空路ルートが有力と見なされるようになった。

では空路での聖火ルートがすんなり決ったのかというとそうではない。六二年八月に聖火リレー特別委員会による大綱が組織委員会で決まる。この大綱によると、アテネから空路で一九カ国二三都市を回り、沖縄から本土へという案で予算総額一億三五〇〇万円を計上していた。そして、「使用飛行機は可能な限り国産機が望ましい」としてYS11が想定され、それが無理な場合には自術隊のP2Vを使用することが計画された。このことを含めて、聖火の国外ルートに対する自衛隊の協力が当初の計画ではかなり積極的にうたわれたりしていた。かってのナチスの聖火に込めた軍事的な意味を思い起こすとき、こうした自衛隊の利用は——組織委員会の意図はどうあれ——自衛隊固有の意味付けや、任務を導き寄せるものであるといえる。しかし、この大綱は、六二年一二月二七日に政府側からクレームがついて修正きれる。組織委員会会報に掲載されている会議録に次のように記載されている。

「聖火リレーの計画案を松沢事務次官、藤岡競技部長から説明があり、福永委員から、①経費がかかりすぎる、②リレーする国にイスラエル、北朝鮮が含まれていないが、もう少し国際情勢を考えるべきだ、と発言。徳安委員(総務長官)からも政府にも計画を相談してもらいたいと発言があり、再検討することになった」(前掲、六三年二月二五日号)

結局、国外コースは、縮小して一二カ国一二都市を回ることになり、輪送機も日航のダグラスDC6をチャーターする計画に変更された。イスラエル、朝鮮民主主義人民共和国はともに国際政治上どのような扱いをするかが問題になる国だ。自衛隊機の利用や国産旅客機の利用を計画するということもオリンピックがどのような意味で国家的な威信を表明する場になっているかを明確に示している。

他方、国内ルートについても六三年三月二八日の組織委で、原案に対してJOCから異論が出てすんなりとは決っていない。異論の具体的な内容は会報の記事を見る限り分からないが、最終決定は、国内四コースに分けてすべての都道府県をまわるということに落ち着いている。国内ルートは、各ルートの起点への輸送を別にすればすべて陸路だから、どのようなコースを走るかによって通過する市町村、通過しない市町村という差がでてくる。

道路、鉄道建設と似たような誘致合戦が繰り広げられたということは想像に難くない。また、国内リレーでは、一六歳から二〇歳の「日本人」によるとわざわざ「日本人」規定を入れている。こうした「日本人」規定は、国際スポーツが国籍や国家的な威信を背景としたナショナリズムを暗黙の前提としたイベントであるという性格を主催当事者が当然とみなしていた証拠といえる。聖火リレーは、そのルート上の各地の若者が受け継いでゆくという建前でいっても国籍条件はまったく根拠のないものだ。逆に、「日本人」にだけリレーの権限を与えることによって、この列島を「日本人」という単一民族によって一色に塗り込め、国家イベントから外国籍の人びとを排除することを当然とする政策的意図が見える。こうした一見些細に見える規定によって、「単一民族」の神話が繰り返しすり込まれ、地域社会のなかに生活する外国籍の人びととの間に制度的な排除、区別、差別が形成きれてゆくのであって、決して軽視できることではない。

聖火コース国土美化国民大行進

この聖火の国内コース決定をふまえて、オリンピック開催の前年に「聖火コース国土美化国民大行進」が聖火と同じコースを聖火そっくりのトーチをもってリレーするという文字通りの予行練習が行われている。これは、財団法人・新生活運動協会が中心となったもので、この大行進のスローガンは、「紙くずのない日本」「行列を守る日本人」「国民各層の市民性、公衆道徳を高める」といったもので、その記録集には「みんなが力をあわせればどんなすばらしいことができるか、という自信をもつことができた」といった自画自賛がみられる。こうした準備の中で、聖火をタイムスケジュール通りに運ぶ段取りが周到に準備され、また、「親子清掃活動」「母子花いっぱい運動」など動員のための組織が作られていくことになる。総参加者は六〇〇万人、各県でオリンピック前夜祭を行い、そのしめくくりとして三月二日に国立競技場で中央前夜祭を七万人を集めて行うという大々的なものだった。

この予行演習のとき、各地で神社が聖火の受け入れ拠点になっている点が一つの特徴だ(たとえば、鹿児島照国神社、宮崎神宮が聖火の宿泊などの場所を提供している)。そして、全国各コースを回った「聖火」は、東京の明治神宮で集火された。オリンピック本番では、聖火の起源がギリシャと関わるということからか、これほど神社は全面に出ていない。逆にこの予行演習では、「聖火」の意味は、神社のかがり火に近いイメージがあるのかもしないし、地方の草の根の組織の核をなす神社が重要な動員の役割を担ったという印象がある。

聖火リレーの本番は、どうだったのか。直接オリンピックの競技を見る機会のない地方にとって、聖火は唯一、オリンピックのイベントを直接身近に感じられる行事だった。その意味で、聖火の受け入れと動員、それをめぐる地方の盛り上がりをどのように組織するかが、オリンピックの全国的な盛り上がりの演出にとって重要な前提条件をなしたといえる。ここでは、地方の様子の一例として、私の住んでいる富山の場合について、地元新聞『北日本新聞』の記事を参考にしながらみておく。富山県への聖火は石川県から受け継がれ、小矢部市、高岡市、富山市、滑川市、黒部市、朝日町などを通過して新潟県へ抜けるコースをたどった。

石川県から聖火を受け入れた小矢部市では、県境に歓迎の横断幕を揚げ、中学校のブラスバンド、小中学生七〇〇人の動員、沿道の会社、商店、体協、婦人会など二万人が動員されている。「沿道の各民家、商店、会社とも国旗を掲げる」(六四年一〇月二日)という町ぐるみの祝賀体制が組まれた。こうした歓迎体制が聖火の通過ルートの自治体でとられるわけだが、また、富山市では、この聖火の到着に合わせて中学連合運動会が開催され、会場に二万人を集め、聖火台を設けて聖火の分火を行い、オリンピックの開会式のまねごとが行われた。

また、県庁前広場にも二万人を動員して到着の儀式を行い、夜は富山市公会堂に三〇〇〇人を集めて「聖火をむかえる県民の集い」を開催、翌日にも出発式なる儀式を行っている。聖火は一九五六人によってリレーされ、この二日間で四二万人の人出であったとマスコミは報じている。メディアの報道は、オリンピック本番顔負けの派手さで、「沿道をうめる日の丸」などの見出しや、市町村ごとの細かな祝賀行事、沿道の風景、そして聖火ランナーになった人たちのエピソードなど、文字通り聖火一色に埋め尽された。聖火は、こうして、戦後の天皇の全国行脚に次いで、それ以上に大衆的な日の丸や君が代に接する機会を作り出したといえる。【注1】

沖縄から皇居前へ

先にも述べたように、聖火はまず、沖縄に上陸した。沖縄への聖火の誘致は六二年に決定されており、まだアメリカ合衆国の統治下にあった沖縄を日本の最初の聖火到着地とみなすことによって、沖縄返還への世論形成に利用しようという意図がかなりはっきりと読み取れる。

聖火が沖縄に与えた影響は、大きいものがあったのではないかと考えられる。聖火の沖縄でのルートは、ひめゆりの塔など南部の戦跡地巡りを一つのポイントとして打ち出すというものだった。聖火は「平和の火、戦跡地を行く」(『沖縄タイムズ』六四年九月八日夕刊一面見出し)という表現に見られるように、「平和」のシンボルに読み換えられてゆく。このことは、「日の丸」や「君が代」にもっと端的にあらわれている。聖火受け入れは、沖縄教職員会なども積極的に歓迎して「その日[聖火の沖縄入り]は各家庭とも国旗を掲揚し、全島を”日の丸”一色で塗りつぶそうとしているが、全琉小、中、高校でも、聖火が通る沿道を”日の丸”でかざろうとその準備もおおわらわ」(同上、六四年九月四日)といった記事が写真入りで大きく掲載されている。そして、聖火到着の儀式が行われた奥武山競技場で君が代とともに日の丸が掲げられた。

新聞報道も「日本の玄関、那覇空港へついた」「感激の”君が代”吹奏で日の丸が掲揚されたが”君が代”を聞く観衆の中には感激の余り涙にむせぶ風景もあちこちでみられた」といった記事が続く。

ここには、沖縄が日本との関係で被った一切の犠牲、沖縄の独自の文化、そういったものは見事に消し去されている。「復帰後」の沖縄が「日の丸」「君が代」に対して率直な批判をなげかけてきたことを考えると、「日の丸」「君が代」へのこだわりを心の奥に押し隠さざるをえなかった人びとが数多くいたのではないか。こうして、沖縄におけるオリンピックの大衆動員は、聖火リレーとそれをめぐる無視すべきでないさまざまなこだわりや違和感を画一的なナショナリズムによって排除し、島ぐるみを演出し、複雑で深刻な心情を押し殺さざるをえない巧妙な舞台装置となった。この意味でも、東京オリンピツクをめぐる沖縄の大衆動員の問題はもっと掘り下げて検討すべき課題だろうと思う。【注2】

野毛の報告【注3】にもあったように、広島でも聖火は平和のシンボルとして演出さた。こうして一〇月九日に全国を四コースにわかれてリレーされた聖火は東京に到着する。この四つの聖火は、皇居前で集火式を行って、一つにまとめられる。沖縄を出発点と位置付け、皇居を集約点として演出されたこの聖火コースに政治的な意図を読み取ることは容易だろう。当日の午後六時から後楽園球場で前夜祭が行われたわだが、このことを念頭に置いたとき、集火式は後楽園球場でもよかったわけだ。それをわざわざ別に皇居前に設定したというところに、皇居前という場所に対する格別の「意味付け」が感じられる。

聖火のコースが、沖縄から皇居へという形で構成されたことには重要な意味がある。愛知文部大臣は、集火式で「この聖火はアジアにはじめてはいった歴史的な火であるとともに、沖縄の本土復帰の悲願が込められ」ていると挨拶しているように、この聖火リレーは、沖縄の「復帰運動」と巧妙に連動したものになっていた。しかし、こうした聖火のルートに込められた意味を政府も組織委員会も大衆にアピールすることには失敗したといえる。聖火が沖縄に到着したことや、沖縄現地での歓迎などの報道は、沖縄を除けばほとんど報道されなかったし、集火式の模様についても新聞の報道は地味なものだった。この意味で、聖火は、各地方での動員を媒介にして、ナショナルな一体感を形成したとはいえても、天皇や皇室——それらを象徴する皇居——を「日の丸」や「君が代」と結び付けて押しだし、国家儀礼と国家イベントの中心的な舞台回しとして穂極的に位置付けるというところには至っていない。

聖火の意味

こうしてみると、聖火は、オリンピックのなかで非常に重要な大衆動員の仕掛けとして機能したといる。しかも、聖火は、たんなる動員の道具であるだけでなく、オリンピックをめぐる「伝統」と「正統性」についてのフィクションを巧妙に生み出す格好の道具でもあった。聖火のリレーの起源は、ナチスのベルリン大会に湖れるにすぎないものだ。しかし、聖火の火を太陽から採る古代ギリシャの様式を模した儀式は、あたかもこの聖火の儀礼が古代ギリシャのオリンピックの伝統を近代に受け継いでいるかのごとき錯覚を人びとに与えてきた。こうした「伝統」による正統性の物語形成は、オリンピックが時代を超越した普遍的な価値をもつものであるという装いをもたせるのに格好の方法だ。現実には政治と不可分の国家的な行事であるオリンピックは、こうした普遍性の物語をまとうことによって、国家の意志を巧妙にカモフラージュし、アマチュア・スポーツの最高の祭典という価値をまとうことになる。

そしてまた、聖火は同時に国際的な環境の中の日本の位置に正統性を与える役割を担うものでもあった。かつてのアジア侵略、植民地支配を行った国ぐにや第二次大戦で敵国となった国ぐにを通過することを通して、聖火は国際的な関係を象徴する道具として機能しまた。国際ルートの決定に当って、朝鮮民主主義人民共和国やイスラエルについて議論になったり、アジア諸国のどの国を通過するかという選択で論議が起きたのも外交が絡むからだ。

そして、リレーという様式は、継続、継承、連続を具体的に表現するものとして聖火のコースそのものがひとつの糸のように結びつけられ、オリンピックという物語に統合きれる、そうした物語を形作りやすい形式だといえる。そして、この物語の中心に東京、なかんずく皇居が位置し、そしてまた国立競技場の聖火台が位置することによって大衆の意識をオリンピックという行事に集中させ、そこにおいて中心的な役割を担う「日本」との同一化を巧妙に演出した。このことが、少なくとも日本に住む多くの「日本国民」に「日本国民」という自覚を繰り返し喚起するための条件を作り出した。それは、上からの押し付けとしては意識されない形での、しかし国家によって巧妙に演出されたナショナリズムの喚起のためのイベントであったといえる。【注4】

また、ほとんどの競技がテレビメディァを媒体として「経験」されたのにたいして、聖火は直接触れることの可能なオリンピック経験の装置であったという点でも、大きな特徴を持っている。この意味で、大衆動員を組織する絶好の仕掛けであるといえた。この聖火の経験、それに対する地域メディアの過熱報道、それが、なかなか盛り上がらなかったオリンピックを最後になっておおきく盛り上げることになった。

しかしまた、こうした戦後の大衆動員の最後のイベントがこの東京オリンピックの聖火であった、ということもいえるのではないかと思う。東京オリンピック以後、様々な国家イベントが繰り返し行われてきたが、動員の形式は明らかに変化した。多くの人びとは、直接会場に足を運ぶという形で動員されることから、家庭の中に入り込んだマスメディアを媒介に動員されるようになった。東京オリンピックは、ちょうどマスメディア媒介型の動員と直接動員の転換点に入ちしたイベントだったといえる。【注5】


1 文部省は、高校生から社会人向けのパンフレット『オリンピック読本』(一九六三年)のなかで「オリンピックを迎える国民のあり方」として次のように「国旗」「国歌」尊重を掲げている。
「次にたいせつなことは、国旗や国歌を尊重することである。どこの国でも、ひとりひとりが、よく国旗の意義をを理解して、国旗をあげる場合でも正しくあげ、また国旗をむやみに作ってそまつな取り扱いをすることのないような慎重な態度で望まななければならない」。
ここでは、あえて「日の丸」「君が代」という表現はなく、国旗、国歌一般という形で表現されているが、大多数の人びとがオリンピックを通じて最も頻繁に接する機会を持った「日の丸」「君が代」であることを思えば、ここでの表現は実質的に「日の丸」「君が代」に対する「意義」「厳粛な態度」の強調といえる。
2 この聖火リレーの最中に、米兵による「日の丸」破損事件が起きた。こうした事件やある意味での「日の丸」フィーバーのなかで、当時布令で制限を加えられていた「日の丸」掲揚の自由を求める運動が沖縄教職員会によって「抵抗としての”日の丸”掲揚」運動として提起される。(同上、六四年九月二二日号)
3 野毛一起「リニューアルされた日の丸・天皇」、『きみはオリンピックを見たか』一九九八年 社会評論社所収。
4 総理府内閣総理大臣官房広報室は「オリンピック東京大会に関する世論訓査」を大会をはさんで前後三回(六二年一〇月、六四年三月、六四年一一月)実施している。このなかに、オリンピックは国や民族の力を示し合うものか、選手個人の技艇などを競うものか、という質問があり、前者と回答したものが鮪一回調査で四三・〇%だったのが大会が近づいた第二回調査では四八・九%に上昇している。また、大会後の第三回調査で日の丸に対する「感じ」がオリンピックで変ったかどうかをきいており、「変った」という回答が二〇%、「変らない」が七二%ある。また、日本人としての認識を新たにしたことがあるかどうかという闘問もあり、「ある」が三四%、「ない」が三五%で、「ある」の内容としては「日本の力を感じた」「愛国心を感じた」といった回答が寄せられている。これらの数字は、オリンピックという国家イベントがナショナリズムの形成にある程度の効果を持ったことを推測させるものだが、それ以上に興味深いのは、オリンピックの世論訓在にかこつけてこうしたナショナリズムや愛国心についての露骨な質問項目に、当時の政府のオリンピックについての一つの隠きれた本音があらわれている点であろう。
5 本文では、メディアそのものについて言及できなかったので、簡単な補足をしておく。マスメディアの機能と意義については日本放送協会放送世論調査所『東京オリンピック』が詳細なメディア研究と各種世論調査の分析を行っている。本書の結論部分で、「東京オリンピックは、マス・メディアの媒介によって、はじめて(ナショナル)な規模の反応をよびおこすことができた」として、三二会場の競技を一つのブラウン管に集約し、ビデオを利用して現実の時間を再編集することが可能となり、こうして構成されたオリンピックが「大部分の日本人が接触することのできた、唯一のオリンピック大会であった」ということ、「マス・メディアとくにテレビは、それ独自のオリンピック像‐‐大部分の人びとにとってはテレビ中継されたオリンピックだけが、彼らの認知と評価の対象であった‐‐を作りあげることによって、オリンピックをまさにナショナル・イベントに仕立てあげたのである。そして二四日の閉会式とともに、オリンピックがマス・メディアの素材ではなくなるのと同時に、人びと異常な興奪も急速に冷却した」と述べている。この分析は妥当なものだろう、こうしたメディアによる動員と現実の動員の関係をさらに検討しておくことが今後の課題として残されている。

出典:『きみはオリンピックを見たか』1998年 社会評論社、のちに『絶望のユートピア』(桂書房)収録

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